一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート 24269字 936

鑑賞レポート 936

 

 

 

エディット・ピアフ

 

「薄っぺらくならない生き方って」その気持ちで歌うから、ああいう歌になるのじゃないだろうか。1mmの緊張も解かず訴えかけてくる。100%の張りつめた状。こっちは緊張はしない。つかまるだけ、気持ちよく。しかしすごい人だ。何が、どこがだろう。その思いの強さ、深さだろうか。上っ面じゃない、なぞらない、体の奥底から出てくるものが、それだけまずある。薄っぺらく生きているってことか、自分が。踏ん張り、けっぱり、踏みとどまる。踏ん張りの固まりのピアフ。愛することだけを買いたか、人を歌を。最後まで。力。人間にはこういう力がわっているのか。彼女はサイボーグじゃない、生身の人間だ。愛する力。人間はこんなに愛せるものか。なぜ、彼女にとってそれが生きること。

 

「ミロール」間。そこに相手が見える。彼女の目に見えているから。最後にパッと切る。ピアフは歌わない。相手は音符をなぞっている。ピアフは語るのに音がついているだけ。無駄な意味のないのばし方出てこない。この男性は歌うときでなくしゃべっているときの方が、こちらに来る。語りかけてくる。メロディがついて歌になってしまって、流れてこちらにこないしゃべる言葉全て歌。薄っぺらじゃない。男の人薄っぺら。ピアフ深いところから。

 

アコーディオン弾き」底にアコーディオンがある。音楽は音の高低じゃない、じゃあ何。根を張った声、根を盛りつつ伸びてゆく声。生きた人。生きて歌って生きて歌って歌い続けた人。

「水に流して」声の大きさでなく、太くからみついてくる声、説得力の力、歌のうまさがとんでくるのでなく、彼女の思いがとんでくる。どうしてこの男の人の話はこっちにこないのだろう。顔を見せなくても、体の動きと手の動きで充分な表現。声は全て体のそこから出ている。体がああ動いている、あの声を出すにはああ動くわけだ。腹まわり全部ふくらんでいる。やっぱりすごい体。ふくらむからじゃない。支えられるから。手が見せてくれる、世界を、絵を。この人の話は起伏があってワンパターンで選んでいかない。だから、こちらに入ってくる。ピアフの衣装。身につけていた人がいない。でも声を残してくれた、か。語りかけてくれる。ものすごい熱さで。Awester la mugique|この一節だけでピアフ。一節でその人たりうる。

 

 

 

 

【レオ・フェレ】

 

人生に輝きを与えるのはその人自身によるのだろうが、レオ・フェレは確かに輝いていたと思う。自らの才能に目を向け、その才能を開花させる努力をし、そして信念でもって活動し続ける。輝きはそこから生まれると思う。ぼくが彼の素晴らしいと思う点は、その天賦の才能を民衆のなかで発揮したという点だ。天才のなかにはその突出した才能を、自らの興味の追求に使うものもいる。その生き方はそれでいいと思う。ぼくは、しかし、才能はその時代のなか、その時代に生きる人々のなかで発揮させる生き方の方が好きだ。

 

<レオ・フェレ>

子供の頃に気づいた。他の子にはない独自の病気がある。それは音楽。その頃想像のなかで指揮ができた。まさに天才。神が与えたもう才能。→オレの使命は。オレの子供の頃からの病気は。

・目障りのいい声ではない。しかし、彼が歌う歌、彼の表現には最もあっている。そして、それが彼の思い通りのコントロールされている。

・彼にとって過去は手段で、常に明日を見つめている。

・作曲を先にやり、後に詩(詞)の方も書くようになった。)

・若い頃、年相当の張りのある若々しい声、勢い流れが早いイメージ、歌っぽい。老いてきて、語っているようだ。決して張り上げて歌わない。張り上げるところにShoutがあるのではない。ポイントはコントロールにあるようだ。

・レオは天才だった。多くは年を重ねるごとに技術を身に付けていく。しかし、彼には既に全部備わっていた。

・一部のナイトクラブでは彼は受けなかった。「シャンパンを飲む店」ではダメ、彼には高級すぎた。彼は庶民に溶け込む歌を歌っていた。

・デビュー当時から自分の世界を持っていた。

・詞(詩)が素晴らしかった。素晴らしいインスピレーションことばの使い方、選び方。

・彼は何にでも興味を持っていた。社会体制を批判するときは彼は必死です。→詩に反映、強い主張を感じる。

・罵倒しかないと思う。芸術家としてできることは。私は扇動家だと思う。望みながら機会のない人を挑発する。人を知的に扇動することが私の仕事です。

・こんどの新しい歌はインスピレーションで作ったのではありません。1958年5月のことを残しておきたかった。革命があった1978年に作ったことに意味があるのです。

・彼は日常を歌う。美しくないものを歌い、美しいものは全て歌う。

2曲、3曲、4曲と聞くうちに遠くへ、人生の遠旅をした感じになるよ。素晴らしい人生。

アナーキーな時代にアナーキーを歌った。

・強烈に前面に押し出された彼自身

・詩のなかに自分の言語で埋め込ませて回りのアーティストに彼を天才と言わしめる。

・正に言葉で歌で演じている。

・音楽があるから何も信じないわけではない。無信仰ではいられない。

・完全な静寂のなかにいて(レコードの)両面を聞きました。驚くではありませんか。

彼が私に語りかけてくるではありませんか。彼は私にとって友達のようだった。日常的なところではなく遠いところへ運んでくれる。→表現力とはこういうものを習うのだろう。静かで激しい表現。

・張り上げるときもあるが、それだけではない。感情・流れから自然と張り上げられる。

・人間には2種類あります。服従しない素晴らしい人とそうでない人と。

彼はどちらの人間なのか。自分は。何に対する服従か。

 

 

 

【DIVAS LIVE】

 

本当にすばらしい共演だった。ポップス、ダンスミュージック、カントリー、ブラックといろいろなジャンルで活躍している超一流の歌姫たちの共演だったが、そのなかでもやはり飛び抜けていると感じたのはマライア・キャリーだった。私が今までに聞いたことがあったのは、マライア・キャリーセリーヌ・ディオンくらいだったが、私はここの両者の間に今回、格段の差を感じた。セリーヌ・ディオンもいうまでもなく超一流である。曲のなかで感情をドラマティックに織りまぜながら、一曲を通してアート作品に仕上げている。ただ、マライヤキャリーを見てみると何かもう声そのものがアート、さながら立体彫刻のごとく頭にうかぶ。曲を歌い上げるというよりむしろ曲を通して彼女の声がその場でつくり上げていく世界を味わうというか、味わうということすらおこがましい連れ去られてしまうといった感じだ。スタイルの差もあると思うが、そう感じた。

 

 

【ビリー・ホリディ】

 

あの子は歌がうまくて、歌を歌いたくて歌を選んだのではない。それじゃなに。やはり歌を歌わなくては生きていけない、そうゆう生活、精神状態であったということ。確かに歌は好きだったろう。みんな好きだ。それだけでは歌を選ぶ理由にはならない。叫ぶ理由があるということ、このどうしようもない思いに突き動かされて出てきたものは、たとえ声がうまく出ていようがいまいが、音が外れていようが伝わっていくと思う。いま自分に最も欠けているものだ。奇妙な果実、聞いたことがあるし、歌詞も読んで知っているつもりだった。でも映像とともに聞くと違った。寒気がした。ものすごい歌詞だ。それを想像させる声だ。不気味で、聞きたくないという感じもうけた。嫌いだが、心は動かされる。それは彼女の歌が真実だからだろう。

 

 

 

ザ・ビートルズ

 

「夢の中の世界」全てのキャストが、主人公でひとりひとりの表情、そのなかから始まる音、音楽。すごくかっこよかった。色、背景、言葉、問合い。いろいろなものの、全てが「これがビートルズなのだな」と感じる。ポールが、草原をよためきながら、走っているようなシーンがなんともいえない。その前後と、そのときにある背景と重ねて、音楽とも一体となって流れていた。キャストひとりひとりの声が魅力的だった。どなっている声も、微妙な笑いをとるような話し方も、笑い声も、とても演技のなかではなく本当にそこにいるようだった。ジョンの歌う声、間合い、クセ、全てがとても魅力的で改め感激した。よく、自分が寝てみる夢で、すごく楽しい夢を見て、人にそれを伝えたくても、微妙な部分が伝わらず、楽しい夢を伝えきれないことがある。この映像のなかにはそんなとても微妙なところが、とてもクローズアップされた大きな部分をよりひきたてていた。夢より、夢のなかにいる感じだった。人々の動き方、手や足、指や声、とても細部までしみついた何かがあった。こんな世界をつくり出していたのがビートルズだったのだとわかったことのように思っていたがハッとした感じでした。

 

 

 

【ジャズの歴史】

 

音楽って本当は、生み出すものなのだと昔のものを見ると思う。私が思ってきたものは、誰かをまねたものを見てそれをさらに自分がまねるというもの。本気でそう思っていた。ようやくそれじゃダメだときづき。体が欲しているのだな。欲するには条件があって、そこが先生のいうスタートライン。欲したくなる体作りが必要。私は自分なりにはスタートラインの“ス”ぐらいはいけていないけど見ることはできたかな。でも見ることは簡単か。実行、体験。ジャズなんてぜんぜん興味なかったけど本物はジャンル越えするのかしら。私にはまだよくわからないが。すごい人って軽やかで観ている人が簡単そうって思う。スケートを観てもそうだもんなぁ。厳しさに絶えられるだろうか。絶えて向上していけるだろうか。だけどそれが真実そして根性(byマッチ)。厳しいと感じられるところまでいかなくては。

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビン

 

ボサノバには軽いイメージしか持っていなかったが、ステージにはピンとしたいとが張り詰めているようで、それだけで迫力があった。ピアニストの指が力強く動いているのに静かで優しい音を奏でている。どんな小さい音もタッチがしっかりしていた。ガルコスタの謡だ時に打たれた。ストレートにハートが伝わってくる。ジョビンは演奏しているというより、何かを語っているようにみえた。ジョンヘンドリックスは、声は楽器だということを思い出させる。楽器をひくのと同じ感覚で歌っている。メロディにしばられない自由さが気持ち。歌い手は声の良し悪しなんかに表現をまかせない。自由に音色を使い分けて、それを支える確かな技術で語っている。それにしても声より先に気持ちが飛んでくるあたりが素晴らしい。ステージそのものが一つの生き様に見える。お互いを讃え合う光景にはとても感動した。

 

 

 

[アストル・ピアソラ

 

そのパワー、集中力、精神力、見入ってしまった。今20代の自分だが、あれほどエネルギッシュに動けるだろうか。あれほどの情熱があるだろうか。ステージをもたせる体力、集中力、どれもぜんぜん足りないと感じた。五人がそれぞれのパトを演奏していたが、五人のなかに一つの流れ、一つの音楽があった。ソロで自由に働いても、残りの四人もそれを感じ、またそれぞれの動きをとる。不協和音のごとく、無秩序のなかに、無秩序でありながらも一つの空間のなかで納まっていた。それがまた気持ちよかった。そして当然だが、奏者皆が自分の手もとなど意識せず、表現することだけに集中していた。体に覚え込ませる、体が勝手に動く、そこへくるまでの練習量。あたりまえのことだ。そんなあたりまえを今の自分はこなしていない。量も質も。何年か先にいや何十年先にでも、観客が総立ちとなり、思わず拍手してしまうようなステージがやりたい。そのためにも今、やるべきことやれよ脇野孝志と気合いを入れてくれたピアソラ他4名でした。

 

 

 

マドレデウス

 

CDを聞いたことはあったが、ステージがこれほど素晴らしいとは思わなかった。テレーザの自分たちの音楽への誇りや詩を一つひとつ大切に歌う姿勢に感銘をうけた。彼女の声は天使のような声から、ファドに通じる低く深い声まで、その瞬間に合っている。また、他のメンバー達の自分の国の音楽に対する慈しみや、誇り、宮葉の大切さなどは感心する。メンバーのひとりがいっていたが自分の音楽が世界の人に知ってもらうにつれて自分たちの音楽は身近なことから、世界に共通するようなメッセージを伝えていかなければならないという言葉にも感心した。時があってそれに伴奏がついたものがファドであるとテレーザはいっていたが、詩を伝えることと彼ら独自の音楽が本当に調和して彼らの音楽になっているところに人々は感動するのだと思う。またポルトガルのギターは心をじわじわと揺さぶる音色だと思う。

 

 

 

ジョルジュ・ブラッサンス

 

「独り言で終えずになぜ人に伝えるのだろう」権威には本能的に反発したくなる、反発しようと思ってするわけでなく。両親に愛されて幸せな少年時代を送った。一人遊びが淋しくて14、15歳で恋を知る。中学生だ。人を求める、か自分を。父とは話さなくてもわかりあえた。すごい。そういう人間がいるのか。父親のことも自分にはわかった、ということ。親をわかりはじめたのなんて、考え始めたのなんて亡くなる前にお互いにぶつかり合ったときだし、いつか必ず来るその日に向かってカウントダウンし始めたときからではなかったか。何事もないときに親をわかろうとか、わかるとかいうベクトル自分は持っていなかった。彼はまさに父親と「そういう出会い」だったのだろうか。壁を超えてほんの少しの言葉で語り合った。父を大好きだった。干渉しなかった。人は誰しも“自分しかない”と父は考えていた、か。人生の始まりに入との関係の基本、そして理想の形を学んだ人。歌を歌うのは自分の叫びを人々に伝えるため。自分のいいたいことじゃない。叫び、だ。叫ばずにおれないのだろう。動かずにおれない、いわずにおれない、聞かずにおれない。頭じゃなくて突き動かしてくるもの。シャルル・トレネの歌が好きだった。どういうところをだろう。替え歌作って楽しんでいた。子供の頃からシャンソン漬け。子供の頃からシャンソン漬け、私に漬かった、といえる音楽はあるだろうか。でも私もこたつの台の上にのってふり付けて歌った記憶があるなぁ、小学校3年か、何の歌だったろう。でもいい歌がたくさんあった気がする。どこかに可愛いげがあるのだ。人とゆったり向き合う余裕のような。不思議だ。当時今より人と人が日常的にもう少し何かを築けていたのだろうか。歌とはこういうものか。どうしたって今が出るのだろうか。でも自ずとではない。自分の歌にどういうときに今が出るのだろう。

目標にしていたのはフレッド・アステアアメリカの音楽、シャルル・トレネ。ここに一貫性歌と共にずっと生きてきた。人々が教えてくれた世界は合わなかった。自分の世界を作っていった。ギター弾きながら“これは曲の感じを変えるのにいい”。自分の内なる世界を求めていた。図書館では本ばかり読んでいた。歌と女が生きがい。こういうのもいいな。22歳で人生の過酷を理解していた。

人が個性を失うこと考える自由を失うこと、これが一番こわい。考える自由、自由たりうるためには最低限の知識がいる。私は自由とはいえない、無知だから。自由はあるものでなく手に入れるもの。ベッドになる柔らかい薬、それだけがあれば充分だった、充分に豊かな貧乏生活、ジプシーのような暮らしだった。歌と共に自分の内なる声に耳を傾ける生活。人々に歌の内容が伝わることが彼にとって大事なこと。そういう人だったのか。彼自身はやっていけるだろうと思って歌い続けた。もちろん彼の歌を攻撃する人も出てくる。でもたとえ問題が処理できないものでも歌のなかで間接的に表現できる。歌のなかで個人的に反論する。彼にとっての歌、生きること。どうしてそうなりえたか、自分で歌詞を書いたから。自分で書いたものでなくても選曲から始まって実際に歌う中でこれだけのことをやるのだろうか。でも彼に限らず歌う人間はこういうことやっている。伝わらないときも含めて。ただ楽しいものとして歌う歌、生きることとつながった歌、どちらがいい、悪いでなく、いろんな力を持ちうる、そういう歌。娼婦たちがいう「生きる力を与えてくれる」と。彼の歌には優しさ、寛大さがある、か。寛大さのある歌ってどういうものだろう。人間は矛盾の生き物だ、と。でも深刻にならない。人をうんざりさせてはいけない、深刻になってはいけない、歌なのだから。伝えることで人をうんざりさせてはいけない、伝えることで深刻になってはいけない。何かとても簡素だ。余計なものがあまりない。彼の欲しいものだけ。欲しいものだけを欲して結果こうなった。人に熱いベクトルを持ちながら。なぜ自分の叫びを一人自分の叫びとせず人に伝えるのだろう、人間は。人恋しいから。細胞か。人をもめるとは自分を求めるからか。自分を知りたいからなのか、どこまでも。知らない自分に出くわしたとき、驚きがある、喜びがある、まさに未知との遭遇。なぜそんなに知りたいのだろう。

 

 

 

【黄金のロック伝説】

 

「こうやってみようか、ああやってみようか」2つの惑星。赤と青。青は地球5、6人の人が横向きでみんな上を見上げて映っている遠ざかっていく青、イメージ。こんなイメージない。絵をみる映画をみる。自分の好きなもの、はまったものがイメージをふやしてくれる。<DEEP PURPLE>「HELLEN」ハーモニーのとき基本に戻る感じ、この人達の音に。でもそれだけでも和音になること考えて音を作っているのじゃないだろうか。大げさなハモるところでない、普通のところでもごく自然な、不自然でなく流れの突出しないで流れにのった音(和音)になっている。ハモるゾーでなく、やっぱり基本か。<BLACK SABBATH>「Black Sabbath」有刺鉄線、赤と紫に染まる家、木立の風景、影絵の向こうで歌う。曲がリズムが違うから違う音に聞こえるのかわからない。ああいうハイハットの入り方するだろうか。<FREE>「Mr. BIG」今までの人たちとはっきり違いを感じる。ギターとドラムがはっきりと支える感じだろうか。そこを見せている。ギターソロ、ベースソロはっきり音の動きを見せる。4人いる感じがする。バラバラではなく。はっきり4人が見える。<HUMBLE PIE>特徴あるリードヴォーカル。どういう風にだろう。この人達の基本は何だろう。誰かが流れを作っている。ヴォーカルメインでひっぱってってはいない。ヴォーカルでもまるでハモじゃないのにその基本にハモって動いているみたい。控えめなドラムのリズムだろうか。ヴォーカルそんな前に出ていない。<MOUNTAIN>「Don't Look Around」音の動き細かい、みんな忙しそうだ。<VANILLA FADGE>ずーっと音が重なって、どっかでそれぞれのどれかが動く。メロディアスに動かない、ぶっきらぼうな音の動き。ハーモニーもハモる、というより重なるという感じ。グループの音の違い、ドラムにはっきり出ないか。<IRON BUTERFLY>ユニゾン多い、はっきりユニゾンと知らせる。2本のギター特色。<BLUE JAMES GANG>小節の終わりをはじくようなドラム。はじきながら前に進む。主役はドラム。音量でなくおかずでなく何だろメインにせさせているのは。流れ出ていくリズム。ジミ・ヘンドリクス:歯でひいていなかったか。THE WHOTHE BYRDS、THE BEACHBOYS、DEEP PURPLE、CHUCK BELLY、THE BEE GEES、CICAGO、KING CRIMSON、ALICE、ZAGそう、みんな一音目で、長々と聞かなくても、ああ、この人たちの音だとわかる。エリック・クラプトンのジャーン一回でクラプトンの音だ、とわかるように。私がアーッと一回発したら、ああ篠宮の声だ、とわかるということか。でもそれは選んで自分で決めるのか。基本の基本は歌うことは声を出すことは楽しい、ということ。自分の音楽って求めて得るものか。出っ放しのそれでなく。あなたがそうやるなら私はこうやってみる。こういう作業の先に自分の音楽が顔を出すのか。

 

 

【マイルス】

 

私は今までお客さん気分でマイルスが大好きだった。どのアルバム聞いてもまったく違うし、何よりあの柔らかい音が大好きだ。この映像を見て、アーティストの卵として、あの音楽に対するアティテュードを取り入れなければと強く思った。常に変化していたのは知っていたけれど、それを支えるものを見ていなかった。ディジーかハンコックかどっちか忘れたけれど、それを「本能」と呼んでいた。その本能とは何か。あのハゲタカのような目(と頭)。今にも喰らいついてきそうに感じる。あの目があんなに鋭いのは、音楽に喰らいつき続けた証だ。常に新しいものを求め続ける精神力、執着心が、その苦痛を耐えた忍耐があの目を作った。街の人の目を見ても、目が大きいからってあんな輝いている人はいない。私もあんな目になりたい。あの音色。たまたまそうなったと思っていたが、長年の研究が積み重なってああなった。彼のオリジナル、自己への執着はあの音から始まった。いろんな人の音のなかに自分を映して砂金を一粒一粒ためて、さらにそこにない音の輝きを宇宙の闇を手探りで求めたのだろう。無からは何も生まれない。人間の特権は宇宙というガラクタのなかから価値あるものを見出し、それを組み立てて自然では生めない自然を作れることだ。彼はそれを知っていて、実践したのだ。大切なのは作品に価値があることじゃなくて、アーティストが価値を見出したものを表現し、その作品に触れた人がそれに価値を見出すことだ。価値があるないじゃない。価値があると実感すること。この微妙なニュアンスがとてつもなく大事だと思う。あと彼がいったこと。「常套句を覚えれば、オリジナリティ、思ったフレーズができあがってくる」いろんな人が使う理由を考えた。たぶんみんなが共感する要素か、普遍的なものがあるからだと思う。それを知らなくては奇抜なことをやっても価値を見出せるものがみえづらいのだ。音の世界は砂金なんて本当に少ないのだろう。彼でさえそういうのだから、私はなおさらやらなくてはならない。彼が天才であるのは、アンテナが発達しまくっていたからだ。その証拠に彼の作品のなかには駄作もあるが、そんなの関係ないぐらい数の名作がある。2年間まったく吹けなくなったのも、発達しすぎたゆえにそのアンテナがGOサインを出さなくなった証拠だ。音楽は生物であり、新鮮でなくてはならない。しかし科学の発達により彼の新鮮な音楽をパックできたことに心から感謝している。私が神様だったら永遠の命を彼に授けただろう。そうすればいつまでも斬新な音楽を届けてくれたに違いない。本当に彼の死は残念である。だが、そう本気思わせる彼の生の爪跡にこそいくら金を積んでも作れない価値を見出せるものがある。"これこそ実存だ。本能とは何か。そうしたいと願う心だ。そして本当にやりのけることだ。

 

 

アイルトン・セナ/アラン・プロスト

 

本番での自分への勝負は練習で決まる。プロストは「成功してしまった。とても心配性。試合の前はビビッてしまう。」正直な人。走る前の調整。全てを完璧にしなければならない。ものすごい緊張。レースをするより疲れる。ギアをそれぞれの個所でどうするかタイヤはどうするか。歌も同じか。最初からトップで走るわけにはいかない。通所は徐々に加速してピークが来て減速。自分がこうしたい、というイメージを持つ。聞いてみる。遠い。近づける、か。決勝レースより危険な状態で走る。ポールポジションを決める戦い。「勝つためには長い展望を持った計画が不可欠」マシンがクラッシュすると何が起こるかわからない。歌もそうだろうか。あんまり短いのはやはり中心にグッと入り込んでいける力がないと難しいだろう。長すぎるほど展望持ったことないからわからない。でも普通でいけば準備できる。「決勝での勝ち負けは練習で決まる。」「攻めたてなくても早く走れる2人。「マシンを知るためにハードに走らなければならない。細かく見ていく。」体を声を知るために中途半端な声を出していては駄目。体、声よくわからない、細かくみていけない。そういうことか。「ホンダ」がF1から得られるもの、それはホンダの文化を学ぶことだ、という。プロストにとってホンダはパートナー。立場の違う人間の挑戦。思考が違うから、つきあい方を学ぶ。話しかけてみた、があまり答えが返ってこない、威圧されているみたいに感じる。メカニックと親しくなるのは難しい。1つの目標をめざす友達であり仲間80人くらい。全てと仲よくなるのは難しい。でも相互理解必要。マネージャーのロン:チームのため、勝利のためいつも努力している。時には喧嘩もするけれど。ロンとは友達。マネージャー以上の存在。公私を区別する人。遊ぶときは遊ぶ。自分よりチームのことを優先させている。共通の目的意識がある。(プロストの言葉)F1はビジネス。150万$の経済的波及効果をもたらす。約3億円。レースのないときはひたすら眠る(セナ)。プロストはレース前1~2時間しか眠れない。自身精神面に不安が残る、と認識している。でも思さえ集中していれば大丈夫。そういうものか、わからない。「メンタルトレーニング」他の場面でも役に立つ(セナ曰く)。メンタルトレーニングとイメージトレーニングはどう違う。「また勝ちに行くよ」か。「生活とレース、別々に考えられない。ただ前だけを見て挑戦していく。まだべストじゃないだからベストに向けて走る」喧嘩して友達になっていく、そういう経験あるだろうか。あまりない。なぜだろう。テンポが違うだけのことか。ケンカには両者のその場でのやりとりになるテンボが必要なんじゃないだろうか。でも、それだけだろうか。ケンカして失うよりもケンカしないで維持する方をとるのだろうか。何を維持するのか。波が立たないこと。育てないのだろうか。何かあるとすぐ閉じてやしないだろうか。再び向かっていっているだろうか。ケンカは会話。相手の思うことを聞き自分の思うことを伝える。どうしてここだけカッコつきになるのだろう。何かがここにある気がしてならない。別に血をたぎらすわけでも激するわけでもない。ただ疑問があれば聞く自分の思うことがあれば伝えるだけなのに。大事な人との間いったいどうしたいのだろう。愛が根っこにないと伝わらないだろう。愛があれば伝わるだろうか。そうはいかないだろう。でも小さくなるな、という声が聞こえる。許せる大きさを持ちたい。愛し続ける力を持ちたい。

 

 

【地球音楽紀行 南アフリカ

 

「遠い記憶をよびさましてくれる音」「~地方の男の尾炉痔」足に鈴の音のようになるものがついている数人、手をつないで輪になって踊る。着ているものは違っても行動は同じ。ヤギにのって働く少年、6歳くらいだろうか。確固とした顔をしている。すがすがしい表情。私よりずっといい顔している。生きることのどこかに迷いがない。それが絶対いいというのではなく、否応もなく肯定から始まっているような。自然体。「サンバ・ジ・ホーダ」輪になって踊る、まんなかに一人出る、出るのは男だったり女だったり。踊り方いろいろ。ダンサーのように腰のよく動く普通のオバサン。このタイプの遊び、昔やったような気がする。人が集まれば舞台ができるか。天女のような姿を描いた絵。どこかで見たことあるような。家のなかだ、ウェディングドレスみたいの着て頭下げる。でも、少しイッちゃっているみたい。目つぶっているドレスの人。花束と串刺し銀皿、美しい円すい型の鈴、座っている人眠っているのだろうか。「格闘技カポエイラ」上半身裸。こんな流れるような格闘技、ショー、儀式、歌と演奏だけ聞いたってこの動きはわからない。スピードアップするとハードだ。リオデジャネイロ。「サンバ学校」おばあさんも踊る、体育館、大太鼓に3本線、派手。なんか肉の塊が踊るみたい、イヤ肉弾。「カルロス・ジョビンの三月の雨」今まで見た風景、音がそこに見える。彼の歌のなかに全てが入っている。じゃあ私のなかには日本の風景、音が入っているのか、感じたことはない。まだ出てきたことがないのか、見過ごしたのか。日本の風景、音ってなんだ、チリ。「チコの祭り」マプチュ族。でかいショール。目隠しするように頭にかぶる。日蓮宗の太鼓のもうチョットでかい感じか。木揺らして葉っぱ揺らして音出している。暑く乾燥しているのか。シンプルな笛。ゴッソリまとまって歩きながら唱える。やっぱり日蓮宗のドンツクに似ている。「~の祭り」どっかで見たことある。菊の花だ。菊はチリにもあるのか。金のモールでできているようなまんなかの高い帽子。キリストを抱いたマリアの像。交通整理のおまわりさんのような音頭の取り方。でも踊りは沖縄のあの飛び跳ねる踊りのような。簡単な笛を鳴らして踊る子供ならしていない子もいる、適当。そうかあの音は、問いたことある、パッド・メセニー・グループの「Forward Marchの音だ。細胞だろうか。コロンビア。「イカ族の~と太鼓」続く丘。目がキツイ。何か食べてだ、何だろう。こそぎ落としてそこに着いたものをなめるような。どんな味だろう。イカ族は何を食べるのだろう。どんな味付けだろう。「ガイタ楽団」の演奏、ほうきの柄のように細長い笛。「子供達のダンス競争」コンテストみたいなものか。つま先の使い方面白い。ペルー「板太鼓「の演奏」おもしろい、こういうものがあるのか。日常、まわりにあるもの、ただいてみたら音がした、なかなか楽しい音だった、そういう自然発生的な感じ。“音もとてもおもしろい。素朴な木訥としたいい男のような。アマゾン地方。「割4目太鼓の演奏」いい音だけど、あれはものすごく力がいりそう。筋肉がたたいているようだ。しかし、いい音だ。地中の音のようであり大親分みたい。「祝いの踊り」さっき口に含んだ緑の粉を少しずつ吐きながら踊る。口のまわり、まるで抹茶の粉に口つっこんだみたい。しかし何なのだろう。液体ではなく粉。それは何の粉。それをなおかつ少しずつ吐きながら、そしてなおかつこれはお祝いを表す踊り。解せない。が、人間はこういう行動もするのか、という意味でとてもおもしろい。そうか、状態としては大盛りの粉のなかからお団子を捜すゲームのときの口のまわりか。この踊りは楽しい、演奏する方も。ちっちゃい子もやっている。これはまねできる。そんなに技術がなくてもすぐその場で傘さしてできるもの。そしてその年齢に幅を持てるもの。自分の記憶にはない。年上の姉ちゃん兄ちゃんと遊んだ記憶、そうゴム飛びを歌いながらリズムにのせてやったか。音楽と一緒に大きく体を動かす、といえばこれくらいか。テンポがあって楽しいのだが。アンデス地方。「儀式の歌アラウイ」華だらけの帽子の娘さん、スイスの笛の子分のような“ホルン”。その辺のおじさんが吹いている。普通の人に見える。「サンチャゴ祭」動物の印づけの歌。不思議なビリビリ音のする太鼓。曲げた針金をあてああいう音になるのだろうか。ベネズエラ「男性の儀礼的弁舌」おもしろい。どういうおもしろさか絡むでもなく各々しゃべる2人の男。象徴しているのだろうか。でも独り言じゃないのだ、2人とも。でも、どう見ても話がかみ合っているようには見えない。でも構わず続ける2人。わざわざ1つの演目になっているのか。なぜ。「パナレ族の笛」のような笛。隣の少年の顔。何を見ているのだろう。笛を吹く大人のどこを見ているのだろう。そして短い笛、しかし短い。お面つけて衣装つけて、杖持って。ボリビア。音がまったく変わる、広さがあり風があり、詩があり、音が止まらない。よけいなもののない風景。フォレクローレ「なぜ」本当に演奏する人の髪の毛が風になびいている。後ろ適当に子供達が踊る、ただ通る。とてもおもしろい、まずないだろう。逆に意図しなければならないだろう。通ったから通してそしてそのまま撮った。この程度のことならば。音だけが音楽になるわけじゃないのだ。画面を通すものはそこにある全て音。「私の小さなお星様」キーが高い、性別は、一人しか歌っていないようだけれど。しかし白地に美しい飾りの帽子だ。「コンドルは飛んで行く」向こうに見えるのは湖。ドラマチックに展開する三場面、すばらしい。何かがそこにある、彼等の何かが。「もういない」2本の笛重なり合い、一番の聞かせどころか、美しい。アルゼンチン「ラ・クンパルシータ」穏やか。これがタンゴ、これもタンゴ、社交ダンスを見るよう。超ミニスリット入り、いけてる、羨ましい。何だろう、どこかで見たもの聞いた音、ミラノの子供達のお祭りにチリの子供達が手にしていたのと似たものがあり。チリの大人がたたく音が日蓮宗の太鼓の音に似ていたり。音を聞いてザラつく感じがない。どこかなつかしいような、拒否したくなる音や生理的に受け付けない音がない。それはなぜ。南アフリカに生きる人々が生活のなかから今に残している音、全ての音を残したのでなく、やはりこういう音を残した。遠い記憶か。やはりつながっているのだろうか。たった今の私と。だとしたら、なんか細胞がひっくり返りそうだ。すごい。やっぱり私は私が「私」と思っているような私じゃないのじゃないだろうか。三角形でも台形でも何でもいいけれど今の自分が認識できているよく呼ぶ「自分」なんてけし粒のようでそれ以外に大きな拡がりを持っているのじゃないだろうか。自分がしなびていくのじゃなくて膨らんでいく感じがする。一人の人間のなかに既にあるものってすごいのじゃないだろうか、みんな知らないし、気づかないだけで。でも、宇宙ができる前の記憶、宇宙ができてからの記憶、生き物が生まれてからの記憶、人間が生まれてからの記憶、膨大な記憶。そしてそれは暗記する力があってよかったネ、という話でなく「力」。なぜ「力」と思うか。確かに自分の使い方次第なのはもちろんなのだけれども、わけもなく確信する「生きていく力」なのだと。生きている人間が残してくれたのだから。一人の人間のなかにあるもの、はかりしれない。私のなかにあるもの、はかりしれない。まだまったく会ってないのじゃないだろうか。やっとそこに気づいたか、と細胞が笑っているような気がする。不思議な私の細胞。いったいどうなっているのだろう。おもしろい。私のなかに宇宙があったか。

 

 

[B.B.キング]

 

グレイテスト・ヒッツを聞いた。今年74歳になる彼の体にはブルースがしみついている。年齢で決まるわけではないが、彼はブルースを愛し続けて生きてきた。誰よりも強く想って。それは否定しようのない事実だ。彼がいったコメントのなかでとてもよい気分になったことがあった。それは「子供の頃、麦畑で仕事の手伝いを毎日していた。季節ごとに吹く風が違うけど、どれも気持ちよくて自然の雄大さを感じながら育った。まわりから見れば黒人の子供で麦畑の手伝いをしているのは貧しいと感じたかもしれないが、私自身そんなことは一度も感じなかった。むしろ、楽しい想い出だ。そして、この頃の体験があって売れなかった時代も笑っていられたし、今も目をつぶるとあの光景が浮かんでくる。とても幸せな気分になれる。」素晴らしい人生に感動せずにはいられなかった。心の底には温かいものがこみ上げてきて、こんな人生を送れたら魅力的だろうなと感じた。しかし、彼にも当然のことながら、人生の苦しみは大いにあったと想う。全てをしっかりと受け止めて生きてきたのだろう。その全てが音となって多くの人にパワーを強さをそして優しさを与えたに違いない。私もその一人である。偉大なるブルースの神よ。これからも魅力的な音を我々に与えて下さい。一つでも何かをあなたから感じて成長し続ける自分でいたいです。

 

[Celine Dion]

 

とてもよかったです。あんな細い体にあれほどのパワー軽やかに踊りもやったりして、ステージパフォーマンスも、超一流でした。本当になんでもできてしまうのだなという感じです。日本語の歌も歌えますといって歌いだしたのは、ほとんどアカペラの状態で、でもすごいリズムのキープ力というか、はずむような曲の感じがすごくよくわかりました。どんな曲でもやっぱりていねいに歌うと思いました。 

 

 

 

【発音ブラッシュアップ】

 

「母の口元まねる赤子のまなざしで」菅浪政雄氏。よく通る声、だけれども口先で話しているように感じる。口先で話しているのにこもる声、やはり両方成り立つ。第一声息抜けている。支えが解けているか、息と声のタイミングがズレて、息の方が先に出てしまっているか。でも濁音でつまる。語尾が息抜けていた。支えが解けてしまっている。口の動きをよくみてまねることが大事。<子音の発音>Lymn Halth女史はいつも笑った顔。男性はおこった顔。(kg)K舌の奥つかない。(Q)舌かんで抜くのが遅い。(h)眼鏡に息をふきかけるときの感じ。(r)口のどこにも舌先つけない、心もとない。Lymn Halth女史口元は笑っているけれど目が笑っていない、こわい。横目で隣の男性を見ているときと笑顔の正面に向いた顔まったく違う。とにかく口をまねる。このアップの口元はすごくわかりやすくていい。<母音の発音>舌の位置で区別する。調音点このあたりで音を出す、というところ。口をまねするとき、口の筋肉をよく動かす、耳で慣れる。ということは体の筋肉をよく動かす。耳で慣れる、ということ。ということはよく動かせるようによくほぐしておくこと。口をまねる体をまねる。しかし、この映像はもう出ていない。口元アップの映像はいずこに。母の口元まねる赤子のまなざし。学習はまね。

 

 

【第3舞台 鴻上尚史

 

おもしろいとは何か。おもしろい役者、おもしろい芝居、おもしろいとは。表面的に馬鹿笑いできる面白さもあるけれど彼が求めているものとは質が違うように思う。おもしろい芝居をつくるのは脚本家であり演出家であると思うがやはり中心は役者なのではないだろうか。舞台は異質な空間かもしれないがそこで演じる役者は今を生きている人があって、その生き様みたいなものが疲れるように思う。人とはまったく違った体験があるに越したことはないがそれよりも誰もが日々感じ、通りすぎているようなことを取り出せることの方が役者の感性につながっている気がする。感性ということをいったけれどこれは人間ひとりひとり皆違う。どんな人も日々何か感じて生きているわけだが役者になるなら感じる深さとともにそれを拡大して取り出せることが求められるように思う。日常の高度、言葉を自分のものとしてつかんでいなければ自分とはまったく違う生き方をしている人に対しての想像力が働かないように思う。今までこんなふうに感じたことはなかったのだが舞台の上では閉じていることが罪のよう。自分自身にしても他の人々にしても何かを守っている。他人には絶対に入り込んで欲しくない部分を隠し持っている。当然そこを脅かされそうになれば余針、~に閉じこもる。それが役者として生きるならば彼のいうように自分が一番隠したいと思うところをさらけ出す必要がある。嫌なものだとも思う。でも強烈に魅かれてしまう世界。圧迫感みたいなものがあって役者になるような人は舞台がなければ生きていけないように思う。日常では生ききれないもどかしさ、日常の自分は病状態と感じるのは私だけだろうか。解放したいけれど解放できないという壁を何度も乗り越えてゆく楽しさがあるからこそ舞台の上というのは魅力があるのだろう。リアリティという言葉を彼は何度も使っていたけれど、リアリティって何だろうか。その言葉を突きめたら実際に自分の目で見たものしか信じられないと思う。映画にしろ文章にしろ真実といわれたって結局誰かの視点なり価値観みたいなものが入り込んでいるわけで見たものをそのまま受け取るのは危険だと思う。かといってこれこれこういうことを意図してつくりました、私も見ていてそう思いました、よかったよかった、と終わってしまうものでもないような気がする。つくり手にはもちろんテーマはあるだろうがテーマそのものを理解してもらうというより、ひとつの言葉、表情、音から何かを感じ問いを持てればいいように思う。私の考える表現というのは私はこう思うけれどあなたは、という問いかけであって、問いに対しての答えはいらない。現実を現実として伝えるのは意外に簡単のように思う。だけど限界を感じる。誰もが現実をつきつけられたら何かしら心が動くだろう。でも、それが高度に結びつくとは限らない。鴻上さんは役者の体を使って表現するといっていたが、役者もまた常に問題意識を持自分の体を通して問いを発しているように思う。演出家の意図していることを忠実に再現しているようでいて違うように思う。決してストレートに出てくるものではなくひとりの役者体のなかで渦巻いたものが形となって現れてくるのではないだろうか。作られたもの、いっていることが真実というより今、目の前で何かを発している、動いている人間がいるということの方が真実のように思う。第三舞台の役者の目は生きている人のもの。何かを真剣に続けている人は分野は違えど通じるものがある。ここで書くには話がずれていってしまいそうだが私はこの「真剣さ」というのは本当に大切なことと思っている。好きなことをやっているといいながら真剣な目をしていない人って信じられない。生きながら死んでいくみたいたぶん千年ぐらい生きられると思っているのだろうな。私にはそういう人たちの感覚がよくわからない。何はともあれ真剣に生きるということは自分の人生を大切にすることにつながっているように思う。彼らがなぜ同じ仲間と10年以上も芝居を続けることができるか、芝居に対する情熱はもちろんのこと、それぞれが常に生まれ変わっているからだと思う。誰もが人間は老化してゆくと思っているだろうが私はそうは思わない。心が生き生きしている人は老けても瑞々しい。彼らを見ていると学とか創るということはどこまでも素直な心で接していかなければ深まっていかない気がする。言葉にしても人にしても新しく触れていく意識がなければ続けていくことはできないのじゃないだろうか。ひとつところで深めてゆくのは何か日常という世界から隔離されてしまう感じがするが、そうではないと思う。自分を深く見つめれば見つめるほどまわりが見えてくるし、それだけで終わりたくなければ社会との関わり方も考えるだろう。彼はたとえ芝居をやめたとしても生き方は変わらないように思う。熱狂から闘う時代へと移項していくどいうようなことを鴻上さんはいっていたが熱さを伝えることはできても人を動かすのは難しいと思う。日々自分に対して問いをもって生きている人より、その他大勢の人が多い中で、何かを発信し続けるには根気がいるだろう。結果を求めるのではなく常に今あるものを全力で出し続けていくしかないように思う。今の時代、一緒に熱くなろうというやり方は共倒れになってしまうような気がする。かといって真正面から闘うやり方がいいとも思えない。日本だからそう思うのかわからないが、あまりにストレートすぎるものに対し、人はひいていくか無関心を装うように思う。今まではそれほどと思っていなかったが発信する、与える側というのは受ける側の何10倍(何100倍)ものエネルギーを持っていないと伝えられないのだということにきづく。だから安易に手を組むのではなく闘いを挑むぐらいの意識が必要なのだと思う。一流というのはそういう状態を20年も30年も続けていける人たち。いつの日か鴻上さんと出会い「おもしろい奴」といわれるよう、自分を磨き続けていこうと思う。

 

 

鴻上尚史

 

こういうと失礼で申し訳ないのだが、この映像を見てまず印象に残ったものは、鴻上尚史の顔だ。いや顔だけでなく顔つきも含んだ顔だ。特に目と鼻。目だけ見ると、笑っているように見える。いつも心のなかにおもしろいことや楽しいことを考えているような目。鼻はマンガで描いたのではないかというような感じである。「バカボン」のなかでこういうキャラクターが出ていたような気がする。真剣にやっていてもどこかユーモラスな雰囲気を醸し出している。これは天性のものなのか、それとも後天的に自ら身に付けていったものなのだろうか。何だかどうでもいいようなことなのかもしれないが、一番印象に残った。成功しているからか、そうではないからか、顔つきがスッキリしていて生き生きとしている。やることをやっている人はどこか顔つきがそうでない人と違うように見える。ぼくもこんなすっきりとした幸せそうな顔つきでいたいものだ。映像のなかでは印象に残っている言葉や事柄もあった。演劇では食っていけないのですか、という質問に対して、1本気でこのメディアで食っていく窓酸があるか 2プロ意識を持っているかという2つがポイントであると答えていた。おもしろい。自分はこの鴻上尚史のいう2つのことが心のなかにしっかりとあるだろうか。自分は本気で歌で食っていくのだという気持ちがあるか。自分にはプロ意があるか。本気とは何なのだろうか。本気を具体的な行動にするとどうなるのだろう。ただ純粋に精神的なもので、心も持ちようをいうのか。プロ意識とは、観る者、聞く者に何かで与え続けることができる人をプロというのか。「もの書く人間にとって他人事ってないんじゃないんですか」という内田春菊の葉も印象に残った。彼らにとっては全てが興味の対象となる。鴻上尚史は、「セリフに使わせてもらうよ。そのかわりにあなたの心の奥底まで入り込んでその苦しみや辛さ、哀しさを共有しますよ。その奥底の苦しみ、悲しみをぼくにも理解させて下さい。」といっている。考えてみれば、随分身勝手な話にも聞こえるが、しかしその分厳しいものもあると予想できる。なぜなら自分以外の人の苦しみや悲しみなどの奥底にあるものにまで触れなくてはいけないのだから。ぼくが同じことをやったら、今のままでは、その人の苦しみや悲しみに同調してしまって暗い人間になってしまうかもしれない。鴻上尚史は暗くなっていない。ということは彼らの苦しみ、悲しみを理解しながらもそれぞれに同調はしていないということなのだろうと思う。ただ頭で考えただけで書かれた苦しみや悲しみを表現したセリフなどで、あれほどの人気が出るぐらいの多くの人に支持されるとは考えにくい。他人の心の奥底を深く理解し、しかし、その世界に同調して自ら暗い人間になることなく(もし、同国するなら喜びや笑い等の方がずっと幸せだ)、それを冷静に表現するということはアーティストにとって大切なことだと思う。(一昔前のアーティストのなかには他人と一緒になって苦しんだり悲しんだりして、自分まで暗い人間になり自殺までしてしまう者もいたが、現代はそんな時代ではない。)表現者とは何と厳しさを強いられているのかと思う。他人の心の奥底を含む世界のあらゆる事象を深く理解し、かつそのマイナス面に引きずられることなく生き、その事象を理解しながらも入り浸ることをせず、少し距離をおいて冷静な目でそれを表現し、第三者に伝える。大変な作業だ。しかし、その分やりがいのある仕事なのだと自らに言い聞かせよう。あと、演劇というものに対して、自分なりに深く理解し、理論を持っている姿が印象的だった。

・自分にとって演劇は祝祭空間。お祝い。→演劇の始まり、豊作の喜び豊作物の実りに対する喜び、それによって気になろうとすること。

・小劇場、客席に近い。それで利用する。「遊んでしまえ」、体を使って遊んでしまえ。ストーリーで遊んでしまえ。情報量で遊んでしまえ。ギャグで遊んでしまえ。

・演劇、役者同士→横のコミュニケーション:物語性、役者と客→縦のコミュニケーション:演劇性

・熱狂する意志を持ちたいというのが、元々の第三舞台の原点。熱狂したいとも違うし、熱狂する意志で何かするというのとも違う。→彼自身の変化により、この原点も変化してきている。

・キーワード:「遊び続ける」(変化)→「戦うときが来たぞ」

・深層はある。客には意識させない。深層を意識しながら表層を走る。

・劇場でわざわざ暗い現実を観に来なくでもいいのにという時代がまた来ると思いますよ。写実的な芝居でも劇場から出てくるお客の顔が暗々としていない感じ。

早稲田大学大隈講堂庭特設テントから始まった。

・楽しそうに見える稽古場 ホントか→やはり厳しさ、はりつめた空間があった。怒鳴ることもある。

・役者→技術的な面もあるけど、率先して(正しく)傷つくから演技しているだけでお金がもらえる。→普通の人ならあまり見えたくない面を見せる。泣くとか、叫ぶとか。

・上に立つものの孤独。「抑圧者」にならないための努力、お客の信頼に対して応えるために「抑圧者」になることもある。→2時間狭い中で動かない(動かせない)、お金で払う、離せないその信頼に応える。

・できないならできないでそこまでかと思うようにしてきた。でも楽しかったなといえたらいいのだ。

⇒いろいろ難しいことを語っていたけど本当に昔から(始めから)そういうことを考えていたのか。結果が出始めてからいろいろ分析してきたのか。強くさいと思える部分もあるか。それにしても理論はしっかりしている。

 

 

 

平田オリザ

 

1.ニュートラルな身体を獲得する

人前で自然に振る舞うことは思っている以上に難しい。肩の力を抜いて、前のめりにならないといわれていた女性がいたが伝えようと意識した途端に身体は反応してしまうらしい。みていていかにも演技しているという感じで不自然だが私がやっても同じようになってしまう気がする。彼が「意識して演技する前に中核を知っておくこと」といっていたが、これは知り尽くすことはできないにしても、みなくてはいけないことと思う。リラックスするなんていうと日常の状態でいればいいのかと勘違いする人もいるかもしれないがまったく違う。舞台の上の役者の精神状態、身体の感覚は日常のそれとはまったく違うけれど自然にみえる。芝居に限らず歌にもいえることだが力が入った途端に動きも言葉も不自然になり流れなくなってしまう。生き生きとしたものが消えてしまう。みていて思ったのだが声を出そうとか表現しようとか意識すること自体おかしいのかもしれない。患は体に入っているし声だって自然に出るものだ。必要なのは目の前にいる人に集中していることだと思う。ニュートラルな身体になれないのは意識が分散してしまうからではないか。ここでは技術には触れていないけれど表現の核は自分の心と身体から始まるのだということ、それをつかんでこそ技術も生きてくるのだということに気づかされた。ひとりひとりのくせには意味があるというようなことをいっていた。女性が無意識に何度も髪をかき上げるくせは過去に誰かに褒められたからなんていっていたがそういう見方っておもしろい。この人は人間についてどこまでも深く知ろうとしている。人の心に動き欠けるものをつくるわけだから当然なのかもしれないが私にはそこまでの観察眼はない。日常では他人のくせってそれほど気にならないけれど舞台となると話が違う。見ている人を不快にさせるような仕草、くせは直していかなければならないと思う。本人が無意識にやっているくせというものはとても気になるし、頻繁に行われることでその人の表現に集中できなくなる。くせを個性にしていくというようなことをいっていたがそれはその人のよさにつなげていくということだろうか。くせを個性にしていくというより人間が磨かれていってあばたもえくぼではないけれど、くせもよさにみえてくる、その人と一体化してくるということだと思う。自分の無意酸のくせを知ることで心深くに根づいている考え方とか決めつけているものが見えてくる気がする。くせといわなくても一人の人間の仕草とか言葉にはその人の意識が何かしら表れているはず。

2.意識を分散させる

俳優の技術とは、といきなり聞かれたらとまどってしまうと思う。一見、心と身体を解放させ入り込めれば何かできそうだと思いがちだがやはり普通に生活しているだけでは取り出せないものがあると思う。俳優のなかでどんなことが起こっているかなんてことは観客にはまったく関係ないことで表に表れたものをどう見るかだけだろう。自分の内でまわっているものを外に出すには相当のエネルギーと集中力がいる。そのテンションの高さは見ている側にはわからないが観客が多ければ多いほど必要になってくると思う。舞台の上にいる人の集中力が切れてしまうとそれが観客にも伝わってしまう、感じてしまうといった方がいいかもしれない。日常のあらゆる断片を再現してみるとわかるが伝えるということは本当に大変なことで自分の思惑通りには決していかない。出来事だけを伝える動きなら、なんとかなってもそこに感情の動きが入ってくるとそうはいかない。勝手にやって勝手に感じてくれるというわけにはいかないし、かといってあけっぴろげに感情表現をすればいいというものでもないように思う。人間に共通の感覚かはっきりとはいえないけれど人は、何もないところに何かを感じるような気がする。声の抑揚や音色、表情、仕草にも感じるものはあるけれどそれ以上に間というものに何かを感じるように思う。見ている人がそれぞれのイメージをふくらませられる時間なのかもしれない。連続した中でどんな間をつくり出せるかが俳優には必要とされるし、その間というものはつくり出そうとしてできるものでもないと思う。ここでのテーマは意識を分散させるということだが彼の演劇観、やりたいことがあらわれていると思う。意識を集中するという人は多くいるけれど分散させることでより日常に近づけようとする人は少ない。(他にいるのか知らない)彼はどこまでも日常の断片を取り出すことにこだわっているのだろうか。確かに日常の生活のなかでは目の前のことに全神経を集中していることは少ない。意識していなくてもいろいろなことに気がいっている。彼の芝居はつくりあげたものというより、つくられていくものという感じがする。他の誰とも違うやり方、考え方そういうこともありなのかと思わされるものがある。ありきたりのようでいて他にないから新しく感じる。

3.存在を意識する、不在を意識する

日常でありがちなことが再現されていて興味深かった。第三者が参加することで、出ていくことで空気が変わる。微妙な変化は全て間に表れてくる。間が生かされるかどうかは、その前がどういう状況だったかということが大いに関係してくるように思う。強調したいところのために他を組み立てていくことが必要で全てをどうにかしようと考えると間は生きてこないようだ。舞台に立つと間というものは時に不安になるけれど効果的に使えればよりメリハリのあるものになると思う。一人の男性が「もっともっと間をあけていい」といわれていたが、すぐ始めたくなってしまう気持ちがわかる。間をとるということは患っている以上に長く感じるもので、その感覚は観客と演じる側では違うと思う。これでもかというくらい長くとっても違和感はない。かえってはやく始められてしまうと物足りなく感じる。そう考えると観客というのはイメージする時間も必要としているということだろうか。同じ与えられでも主張しているところとは違って間には自由さがある。この間の効果は自分自身体験してみないとわからないことが多い。

4.同時多発会話

普通の芝居なら何をいっているのかわかるし一点に集中することができるがこの試みはまったく違うもの。ここでも日常ではいろいろなところに意識を分散させているということにこだわっている。素直に乾燥をいうと人間でおもしろいと思った。日常で見過ごしているようなことがたくさんあるのじゃないかとハッとさせられた。何というか隠し絵を探すようにひとりひとりの動きを観察してしまう。いろんな人が入り交じることで時間の流れを感じる。誰もが自分の日常と結びつけてみることができる親近感みたいなものがそこにある。同時に何人もの人が会話をしているという組立て方は何か一つを凝縮して伝えることとは違うけれど光っているものを垣間みることができる。どちらがいい、悪いという問題ではなく彼の試みは何度みても新しい発見ができるようなおもしろさがある。

6.7.創作、発表

創作の面白さってなんだろうか。私の考える面白さは意外性があるということ。あたりまえのことをあたりまえにやっても面白さは感じられない。ひねくれて何かを創るというのではないけれど、そんなこともありなのかとか予測していなかったことをされるとかそういうところにおもしろさがあると思う。それと変化というのも大切と思う。ベースがあるから変化を感じられるわけだけどここでいえば一つの空間に人が流れるように出入りすることで変化が起こる。絶えず変化しているのかもしれない。全てが流れているように見えるけれど空気が変わるようなところは止まっている。どうなるのか予測できないからついていくしかない。どこかがとまっていたと思うともう別のところは流れているから最後までつかめずにいってしまう。イメージが統一された「時に初めて芝居が立体的になるというようなことをいっていたがイメージがあるとないでは伝わり方が違う。自分が受け手になったときに舞台上の人のイ|メージが直接伝わってくるわけではないけれど、何かしら膨らんだものが届いてくる。それを自分でやるとなるとそう簡単にはいかない。こういう気持ちでこの言葉をいえば伝わるなんていうほど甘くない。

自分自身イメージが伝わるとはどういうことかわからない状態にあるけれど実感としてつかみたいと思っている。イメージがあっても伝わらないのはそのイメージが具体的ではなかったり、集中力がないため言葉を発した途端に消えてしまうからなのかもしれない。それと自分と結びつけていないことはいくらこんな感じと出しても説得性に欠けるように思う。見終わって感じたことは、なぜ自分を見続けることは難しいのだろうということ。たぶん私たちはこの社会のなかで社会向けの身体、顔をつくりすぎてしまったのかもしれない。自分でいつづけるということは誰もが必要としていることではないだろうけど舞台に立つのならベースになることだと思う。自分でいることにこだわる人は舞台も日常も変わらないかもしれないな。自分でいるには日常のささいな出来事にいちいち反応して自分はどう思うかどう行動するか決めなくちゃならない。それはとてもしんどいことだと思う。流すことは簡単でそれが習慣になってしまい瞬間的に反応できなくなる。以前の自分を振り返ると何であのとき怒らなかったのだろう、何であのときこういわなかったのだろうということが多かった。それがどうしてかはわからなかったけれどとにかくそういう状態が嫌だった。今思うに自分をつかんでいないと一瞬のことには反応できないのだと思う。問題意識がないと他人の言動や社会の問題に対して、自分はこう思っているということがいえない。これは能力とか才能ではなく自分を見続けることを重ねているかどうかだろう。しんどいながらも自分でいるということは心から安らげるものだと思う。