レッスン感想 937
低いところから外に向かって声を出す。→おへその下から出す。かなり体を使うということを前提に。口のなかから内臓が見えるくらい思いきり。最初は声を出し切ることを心がけて。毎日毎日10分くらいやあーとやる。地面から声を出すように。やあーが四方八方、特に拡がる。声が一番抜けやすいところがある。口を大きく開けて地面から声が出るのだけど、その方に45度に向かって進んでいく感じ。そしてさっき1番到達した声、体を覚えておく。体は押さえ込まない。少し上めに。声は体にもぐらない。自分の方にはかえってこない。常に外に出てって、前に拡がっていくように。1番体を解放した状態で。姿勢はとても大切。くずれてもすぐ直すこと。勢いよりも声の深さで。
目の前に的があって常に声をそこに突き刺す感じ。口の中身のバンザイする感じ。気合いを入れる。→そこでは体を使わざるを得ない。歌わなくていい音づけない響かせない。ちかんにあったときどういって叫ぶ。→自分は、まだのどにひっかっている。自分の体には声は戻らない。常に出ていくように。肩をガクンって落とした振動で声が出ていく。声を前に前に吐きつける。ムリにいわない。とにかくのどからは出さない。体が忘れないうちに何度も何度もやること。ハイッというのと同じところであーえーいーおーうー(活舌もよく口大きくはっきりと)→私はまだガラガラくる。押さえつけない余力な力抜く。もっともっと簡単 に簡単に。
ギリギリのところでやることでその上に動きを出せる可能性。スピード、呼吸、深さ、動き、テンション、集中、リズムの内包。声の処理。構成。勝負をするところ。勝負をつけてしまうところ。勝負のために捨てるところ。充分に息がまわり踏み込めると響きを動かす空間が上手にできる。がちがちに張ってしまうよりも、踏み込み、水がそのラインに沿って大量にザブーンと当たり、その反動で立ち上がるような感じ。その力をうまく利用できないと自分で全部べったり出力してやらなくてはならなくなる。チェでひとつめの小さな補助踏み込みをつくり、さらにそれによって生じたループを足がかりにターンゴで踏み込む。タァーンゴのTaのTからaに移る少し手前くらいでずわーってもぐり込むように思いきり踏み込みきれないともうそこで先敗決定。しかも“Tango”のaとnの間でまた急速に腹の内側をこすり上げるようにドライブしてこないとgoでもう一度踏み込めずチェを確実にとばしにいけない。リュージュとか三段跳びとか。歌の感覚のところでなんとか集中しながらも、余分なことなど一つも考えていられない。こんな恐ろしいことを走り回りこぶしを振り上げミルバはやってのけている。(見目の前で。)「チェ」といったとき、火吹きの芸人のようにツバの霧が吹き上がった。自分はこうして体でやってみると、どうしてあの勢いで、あの方向にあの拡散の角度で吹き上がったのかをフラッシュバックで納得してしまった。(前から5列目でななめ左だったため、横から見えた)ライトに浮かび上がったそれは不思議にとそのときは思えた)上に向かって放物形状をとっていた。ものすごいいきおいで口元で(CH)息が炸裂した。激しい歌詞そのままにTangoに足を踏み鳴らしながら、そのTangoのリズムの一つひとつの踏み込みに体内をグラインドさせていく。すごいパワーとスピードで。一曲のなかに何百回と大技の踏み込みが刻まれている。Che Tango Cheのワンフレーズさえも形すらマネることができない。、
英語の歌はメリハリがないと聞いていられないと感じた。今までは少しぐらい間延びしていても不快と思わなかったから出すのもこの程度いいだろうという曖昧さがあったように思う。体はトレーニングした分だけ変わっていくと思うが感覚はそうはいかない気がする。常にプロとの違いを意識してなければ鋭くなっていかないと思う。つかんだ上で声を飛ばしていくとパワーがまったく違うことにきづく。どんなにつき離してもつかんでいるので安心していられる。ただ自分で行き着く先のイメージがないと消化不良でフレーズが終わってしまうということがある。方向を決めたらどう落とし込むかということもイメージのなかで捉えたい。繰り返し意識することで感覚を鋭くしていくこと。
「We tried to talk it over. But the words got in the way」プロの歌はなぜスピードを感じるか。今まで一つ言葉(単語)のスピードは意識していたがフレーズ全体のスピード感は考えていなかったように思う。ステージ実習の課題曲「つた」を録音して聞いたときどう歌っても自分のものは忙しそうに聞こえ、それがなぜかよくわからないでいた。今日このフレーズをやってその謎が解けた。スピードのあるところとないころのメリハリがなかったからだと思う。強いところにしろ、スピードのあるところにしろ、より強調することで他のところに余裕(遊び)が生まれるのだと思う。まだ思っていることと出しているものが一致せずぎこちないが、より大きく作っていけば削られてまとまってくるのではないだろうか。思い切りよくいくことが大切。<But the words>のフレーズは他のフレーズより捉えているのがわかりやすいと思った。深いところ「ハイ」のなかに<But the words>が入っている。口でうまく加工してそれらしく聞かせるようになってしまう。自分では明確に音を出しているつもりなのに曖昧だといわれ自分のなかでこんなの大げさにやるのと思うくらいにやってちょうどよくなる。不快というわけではないけれど違和感はある。ステージの上は日常とまったく違うということ、イメージ、表現の大きさがまったく違う。その感覚を自分のなかに染み込ませていくこと。器を大きくしていくと共に、イメージの大きさ、コントロール力が必要になってくる。
「Are we really happy here with this lonely game me play」以前ならば唐突に始めてもそれほど不快と思わなかったのが、このリズムを流してからでないとどうにも歌えなかった。こんなこというのはかなり低いレベルなのかもしれないが私にとってはひとつの変化。それともうひとつ。以前なら言葉をきちっといわなければ気がすまない(そうとしかできなかったともいえる)ということが多かったのにこのフレーズでは逆のことが起こった。言葉はどうでもいいから流れを止めたくないという方向に自分の感覚が動いた。 Are~からwithへの入りが遅れてしまう原因はhereで粘りすぎだからと思う。それと<with this>をいおうとするのではなく<lonely>にむかってひと息でいくイメージを持った方が捉えやすいと後になって思った。hereを捉えたポジションを離さずそのままwith~に流れてゆければ言葉に詰まることはないと思う。それをwithは息を吸う感じで、捉えるとより入りやすい気がする。(with thisがアップビートなのだろうか)呼吸を大きくとってフレーズを捉えないと発音ばかりが気になり小さくまとまってしまう部分をチェックするとともに大きな波をイメージしてつくること。今までは単語ごとにされてしまうような歌い方をしていたが少しずつつなげることができるようになってきた。どこまで先をみることができるかイメージのなかでフレーズのラインを作っていくこと。<happy><here>の発音は難しかった。変に加工して「ヘッビィ」なんていってみたが何かしっくりとこない。発音として考えるよりいろんな音の楽しさとして感覚のなかに取り入れていきたい。<game we>のつなぎもイメージのなかでつながれていないとgame, weといい直すしかないように思う。今までは息がつながっていれば何とかなると思うようなことが多かったのだがそれよりもイメージ、イメージが必要。
୮Searching but not finding. Understanding anywhere」アクセントをつけないとまったく味気なく平坦なフレーズになる。改めて日本語がいかにのっぺりとしているかがわかる。このフレーズはリズムに言葉をはめやすかった。ただ自分の呼吸でできなかったため、ここに、というところの踏み込みがあまくどこをどうしたいのかということが出せなかった。フレーズをまわしているときに「自分の呼吸でやってください」といわれ考えてみるとテンポというものをほとんど気にしてないのではないかと思った。Searching findingなど強いところに巻き込まれていく音があるが私の場合この単語に限らず巻き込むというより無視してしまっている。自分のイメージのなかから除外してしまっているのでこういう捉え方は外にどう聞こえるのだろうとふと疑問に思った。習わなくとも存在するものを無視してしまったら違う単語になってしまうのではないか。自分の呼吸とテンポの関係はとても大切なことなのだと今になってきづく。見本と同じテンポでやると息が続かず、全て薄まってしまうがもっとはやいテンポでやってみたところフレーズの波にのっていけたように思った。このことは数多く試していかないとちょっとわからない。
今日のレッスンの確認/応用をするため福島先生が図ったのではないかというタイミングで真夜中のCS放送で今、ジョイスが歌っている。ボサノヴァやロコといった深いところでとった豊かな声を押しつけたり、たたきつけたりしないリズムのなかで使っている音楽を最近よく聞いている。ジョイスもたぶんここに来る前だったら“ブラジルの鼻歌”のようにとらえたままだったと思う。自分ができずとも声とはどう発せられ、その声はどういうものをバックボーンに持っていないと出ないかということを考えてきてみる。ボサノバのような投げ出されたり、“ほうっ”という息のままかと思えるようなシンプルな(ように聞こえる)状況のままに、作品になるというのが、超ウルトラDであることがわかってくる。大きく張ったり、伸ばしたりするのは保ちやすい。ある程度のことができればその方が楽だ。何となくテンションも高そうだし、声も大きく出ていると何だかメリハリをつけたような気になる。だがそんなことは音楽じゃない。(そうだよな。)大きい声が偉いのは体育会の練習と大声大会だけだ。ギターを正確に美しい音色とグルーヴでつまびきながらジョイスが呼吸のままに(コントロール完全にしているが)歌う。時折、要所要所でぐっと体をより入れて、音色を磨く。ぽんと放たれた音色の美しく、力強いこと。リズムのうねりのなかをムリなく無駄なく、泳ぐことの全てを天性で心得た魚のように縫っていく。泳いでいるのはその曲の世界の海。一曲一曲が違う海。そこは決して曖昧にはならない。その海はゆったりとそこにある。が、泳いでいると同時にその海を一つひとつ違う色や光で創り出しているのもジョイス自身、歌い手自身なのだ。たっぷりとしたベースの力がほしい。体と声のことに戻っていく。自由になるために。、
ナ行マ行を発音してみて鼻に抜ける感覚をつかむことはノドがつまり響きが前に出ていかない感じを解消する一つの方法。体を使っていてもノドが閉まっていればノドを痛めてしまう原因になってしまうし、ノドが開いていても体が使えていなければ深い声は出せない。両方が微妙なバランスをとる、ぶつかることのない状態をめざそう。鼻に抜ける感じというのがいまいちつかめない。声が前に出ている、とか奥まってしまっているということはかなりはっきり判断できるようになった。もっと細かいところに神経をいきとどかせて歌えるようにしよう 鼻だけでスタッカートはできる(きついが)のだが、声にするとバラバラになる。
声を出す準備をしっかりとやる。“ためる”ということ、タイミングを計る。自分の息の流れを感じて息を捕まえる感じ。体と息のタイミングをとって握る感じ。息の抵抗感がそこにあるか。背中をきちんと意識して、体・息の深さは自分で決めることだから息をしっかり自分で出そうとすること。上半身と下半身をわけて考える発声をすると、すごく体的、のど的には抜けていてよいのだけど、支えがしっかりしていないからか、声はどうも軽く聞こえるようだ。自分の息を感じる、もっと体に息を感じるというカンの鋭さのようなものが足りていない。あとは今までやってきたことを忠実にやるということ。なんて甘い発声をしているのだろう、と思う。本当の本当に声を出しているといえる瞬間はたった一言のために何秒もためて、息を感じて出している声で、同じ発声でもこれだけ違うのかと、これを普通に同じ発声でもこんだけ違うのかと、これを普通にしないといけないなと思うけど、まずは体力からでしょう。
先生の声は他のことをしていても聞かされてしまうような感じで耳にすんなり入ってくる。
音を “おく”ときの気持ちって、どんなものだろう、と思う。気持ちをどんどん高めていって、音になって、その音からまた高まってきて、ぎりぎりの極限の状態で、力の限りに投げるのでもなく、たたきつけるでもなく、“おく”なんて。音の世界に全身で入り込んでいながら、ある部分では冷静に、おちついて、音を気持ちをコントロールというかコーディネイトというか、そういうのを考えている。そういえばある友達がいっていた。「自分だけが気持ちよくなるだけじゃダメ」だって。ぎりぎりのときでも、さらに集中力を音に向けて、感覚をとぎすませて、ていねいに、正確に。なんか、ねらったところに超豪速球を寸分の狂いもなく何回でも投げられる野球のピッチャーみたいなそこにたどり着くにはまだまだ速いと思うけど、フレーズをつくるのにそういうことも意識しとこうと思う。
ルールをあまり考えたことがなかったような気がするけど、いわれてみれば、そうだ。あるのだ。人が気持ちいいとか、ググッとくる、とか「いい」と感じるときのルール、法則。レイ・チャールズのフレーズを聞いて「おお」とくる。自分でやるとなんかおこっているようにきこえる。その違い。歌、音楽、世の中の全てのことにそのルールがあるのだと思う。それをもっとつめていきたいし、大切にしたいと思う。
「1オクターブをきちんと使える」という意味はなんとなく感じられるようになりました。以前のように無理に力を入れなくても、声の張り、深み (厚み) が出てきた気がする。いや、力を入れていたならそれは間違いだったのだ。以前は深く太い声を出そうとしてのどの奥の方で発した(にせオペラ声)、背中や腹に無理に力を入れていた。そういう意味では、一流の人たちは私の想像していた以上に楽な感覚で発しているんだと思う。最も別のところに数倍力を注いでいるのだ。集中力、聴描力、発想力。2のフレーズについて、後にオリジナルを聞いたらちょっと気づいた点があった。(あーな・たー)と棒にしないようにとは、たとえばそういうことだったわけか。「一番、二番、三番と集中力が欠けていく」という説明についてはあまり理解できなかった。「うまく身体で表現はしきれていないが、いいイメージを描いている」といわれた部分はなるほど何となく感じとれた。一年前の私が隣に立っていて私の声に耳を澄ましていたから、できる限り最高のフレーズを見せたいと思った。
ヤーヤーヤー
格闘技の掛け声のように。伸ばすとどうしてものどにかかる。口を開いて。瞬間的に発せられるが濃い気がする。へその下まではいかない。弱い。細い。ヤホッホー。ハイハイハイふりかぶって背中のあたりの息を前に投げつけるにはどうすべきかとイメージした。バネ、反動をつけるべく無理に身体を動かしてみた。即、先生から注意が飛んできた。確かに身体のなかの流れみたいなものが不自然だった。もっと楽に。
アエイオウ ヤーヤーヤーでつかんだ感覚を歌に持ち込む。口を開いてしっかり発音。ここで使えなければ意味がない。
フレージング:Dio cometlamo。「声を中心でつかんでいない」わかる気がする。何かが溶け合い、噛み合い連動しないと気持ちだけが先に行っても自分が歌うのを待ってしまう。こらえ、体よく整えようと保つ。この瞬間はとてもいやな気分だ。
基本→1.プロの体実現量(何回でもOK) 2.プロの感覚→「トレーニング」 →感覚 で捉え→感覚を鋭くする感覚を先に入れてしまう)(自分の体から音を入れる)| 一流理解できないものを知れば、それをできない自分をも知ることができる。正しいか否かよりも、すぐれたモノがその人間から出ていれば、それがその人間にとっての正解。
今日の「ハイ」 まわしに今の自分の実力 がハッキリ出てしまった。自分としては “自然” にやろうとしたのだが、それが “雑”で“味気ない” 「ハイ」となってしまった。
先生のいわれた “アティテュード”の“伝えようとする気持ち” が欠落していた。それと、自分に自然にやろうとするとたかだか「ハイ」で照れが出てしまった。逆に自分を創ってそれを“自分” として演じた方がリラックスしてできそうな気がするが、自然と演出とのバランスの取り方(=自分のセンス)についても考えてしまった。“発声の基本の基本からじっくりやっていこう”と考えていた自分にとって、今日の「ハイ」は表現者としての基本とアティテュードの重要性も痛感した。福島先生がおっしゃられた“全てを一体に捉える”意味でも、今日のような先生以外の人の方に顔を向けて声を発することは自分の力のバロメーターにもなるし、テキストを読むだけでは学べない貴重な授業だと思いました。
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「プレBV座 VOL.9」
まず、とても楽しかった。3人が3人とも、それぞれであれたような。一人ひとりが私のなかに残った。そして、発声が聞こえてこないで歌が聞こえてきた。すごいことだと思う。あるレベルまでの力3人共持っている。
少し印象の違う女に振り回される余裕というか、呼吸を合わせて遊ぶような感じというか歌のなかで相手の女性と歌い手とのやりとりが映像で浮かび上がりその姿勢がとても新鮮だった。(いい悪いの話でなく) 俗っぽい歌を香りが立ちのぼる歌に仕上げた腕力に感心しました。そしてあの曲で素敵でした。一番と二番の間で客席をニラムような瞬間がありました。たぶん無意識だろうし、そんなつもりはない、と思います。が、そういう印象を受けました。一番の歌のなかで酔わせてもらっていたものがいっぺんでさめてしまいます。我ながらステージは聞いてないな、見ているのだな、という感想です。今回は3人共にそういうことを感じました。最後の曲、特別授業で歌ったときの方がよかったように思います。はまった曲の難しさというか、何ヶ所かに酔って自分のなかに入ってしまう瞬間を感じたのです。ほとんどがこちらにきているだけに逆にそこが目立って感じてしまいました。どういう状態のときに本人の方に戻ってしまうのだろう。あの眼の鋭さは使い分けると悩殺する武器にもなる。
曲順がうまいと思いました。一番最初にアカペラ、そして太鼓。一曲目でつかまれました。MCはよく練れていて、無理がなく自然で神近さんらしさが出ていて何度かあったアクシデントもむしろ結果的に場を盛り上げる材料にしてしまい実力の大きさを感じました。一番と二番の間、間奏のとき、目が泳いだり、口がなにか動いたり、やはりそれまで歌の世界で酔わせてもらっていたものがいっぺんに “えっ、さっきまでのは何だった"というところに引き戻されてしまいました。本人のなかではまっているのだと思います。でも、今日思ったことの一つは聞き手は歌ってないところを (聞いて) 見ているんじゃないか、ということです。歌詞ももちろん聞いているし、もちろんメロディだってもちろん聞いているのだけれどもそうじゃないところを見て感じているような気がしました。本人の背景を知らずのうちに見ているのだろうか。本人のなかで音楽が回っているものをどう聞き手に伝えるか、というよりあそこで閉じられた、と感じたのです。一番歌っているとき、心を開いて見せてくれたのが間奏のところでバタッと閉じられたような。曲がつながっているのだけれどもステージとしてみたときにつながっていない。一番最初の曲と一番最後の曲が印象に残りました。それはうまいとかそういうことでなく、神近さんの「いいたい」という何かがとんできた曲です。そういうときの神近さんはとても素敵でした。
まだ姿は見えていない出てくるゾーというところからおもしろかった。ワクワクさせてくれた。パワーをもらえた。楽しかった。やっぱりパワーの前にはひれ伏すしかないのだろうか。視界から消えるまでテンション維持していてくれてとてもうれしかった。スポットライトからはずれて下がっていくその数歩に “ああやれやれ”が見えてしまうと、 “ああ聞いちゃ、歌ってもらっちゃいけないのかなあ” という気がしてくる。舞台に立つ人間にとってひょっとしてまずテンション、そして歌なら歌なのではないかと思えるくらいテンションが全てを決めていくものなのだろうか。歌のなかの一番と二番の間、それが3人のなか で唯ひとり歌が回っているのがこちらに伝わってきた。自分のなかに入っている、でも入り込んでこちらにこないのではない。目をつぶろうが天を仰ごうが日常に 戻らないでいてくれている、歌のなかに入れてくれている、だから一曲が途切れずに流れていく。曲の途中で伴奏の方を強く存在させる場面がいくつかありましたが、いい印象を持ちませんでした。たとえばそれが曲の途中のピアノソロみたいなところでみんなにも讃えるのがなぜなのかはっきりわかるものだともちろん客席も自然に拍手とかそれなりの行動に自然に動いていくと思います。 でも、曲の途中で、なおかつなぜだかわからない形でそういう動作をされても“なぜ、何" という思いが聞いている最中におきて途切れてしまう。でもそれが同じよくわからないものでも客に向かってふられるのなら、自分の方を向いてくれた というだけでお客さんの半分は具体的に喜ぶのではないかと思います。お客とはあくまで自分との関係だけを望んで聞いているのではないだろうか。むしろ自分だけに熱く歌ってくれているのだといかに思ってもらえるか、そしてそれに反することをしないか。ギターの伴奏で歌った曲を聞いて。うまさって関係ないんだナ。うまくないことも関係ないんだナ。大事なことは歌いたいという思いだけ。ギターをまったく弾けない自分がいうのは何だけれどもギター特別すごいうまいという感じではないけれどNo Problem。彼の体と声と全てが一致しているから何の問題もない。最後の曲の“ウォーウォー” という言葉じゃないところにしびれました。もっとあの“ウォーウォー” 聞きたかった。聞き手というのはこういうものか。今日のステージのなかでMCの内容も含めどこか奥の方に柔らかみみたいなものが見え来るのを感じました。前に比べて奥行きが出て素敵でした。とても。パワーとかいま見せてもらえた柔らかみ有り難うございました。
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フレーズの輪郭を取るようにいわれた。ベターっとならないようにと思ってイメージしたが、メリハリのないダラっとしたものしか出ない。もっともっと大きく捉えて、曲あんなくらいに自分のなかのイメージを表してみる。フレーズを動かすというのは、大きく動かそうとしないと まったく出ない。音声のフレーズ、広い波を感じとる。ドとミという音があったらそのドとミの間にある音を感じること。音程と点でとらない。ハで体を最大に使うにはその前の準備が必要で、準備も中途半端な気がした。そしてときどきハイが間延びしてしまう。息もだんだん浅いところからになっていく。フレーズのときも、いつも体を使い放しにしなければという気持ちがある。体の使い方、息の出るイメージのしかたが甘いのか、最近いっときのように結びつきにくくなってきた。結びつかなくても、イメージとしっかり持ってやらなければどんどん離れてしまいそう な気がする。
バンドのときはピアノだけで歌うことも、ごまかしがきなかいほど難しいと思ったが、研究所にきてアカペラ勝負のトレーニングをしてから、レッスンでピアノが入ると、歌が楽に感じた。アカペラ、 声のみの勝負は、レベルアップにかなりつながると思った。
1. 姿勢、左右、上下にゆれすぎ無駄な動きが多い。自分によって気持ちよさそうに動いているだけ。自己満足の動き、視点定めること。かといって固まらない。 2.言葉、音によって口先になりやすいものがある。特にタ行。日常の話し方、奥歯の方で話すような意識を持つ。 3.取り出すことへの集中力、欠けている。言葉の練り込みが足らないため、全て遅れている。できないのではなく入っていないだけ。 4.イメージのない歌はすぐわかる。声量の大きさは見せかけ。自分の気持ちの抑揚と一致していない。表面的な歌い 方。 5.構成が見られない。どう始まり、ピークがあり、終わるのか明確なイメージが必要。 6.自分の呼吸がわかるまで歌い込んでいない。とんでもないところで切ったり、ブレスをしたりしている。 7. 全てにがんばらないこと、どこを伝えるのか絞った歌い方、試みること。今までの歌い方、声の出し方にこだわらないもっといろいろな出し方があるはず。出てくるモノもちがうはず。 8. テンションの高さ、そんなものとおもわれてしまう歌。 9.選曲好きな歌と自分のよさを出せる歌は違うように思うが、わからないでいる。決めつけずにいろいろな歌にチャレンジする。
「You are the sunshine of my life. That's why I'll always be around」以前はフレーズとフレーズの間で集中力もリズムも途切れがちだったが、つながるようになってきた。強く出すところに他を巻き込んでゆくには中途半端にやっていてはわからない。大げさとも思うくらいの感覚でやってちょうどいい。踏み込んだときにぐっと前に押す感覚があるとスピード感が出てくると思う。今まではかなり簡単に離れてしまっていたように思う。というよりワンパターンなやり方にはまっていたといえる。深いところでフレーズのかたまりをとらえられると、急がなくともそのスピードにのっていける。ただ切り込み方などはまだまだ甘いように思う。<be>がとても強く聞こえるがフレーズとしてつながっていないところでそれだけを強調すると浮いてしまう気がする。beの前の<always>の」のなかにawaysを巻き込んでゆくには強さとスピードがないと無理のように思う。<always>に限ったことではなく、いきなり強く出して後は尻すぼみといった形になることが多い。10か0しかないといったような捉え方になっている。
「I feel like this is the beginning」beginning分解の仕方、リズムのは目方、これは考えてどうこうするというものではなく、体のなかにはいっているもので自分にはよくわからない。表面的にコピーすることは何の意味もないように思う。わからないことだらけだが、このリズムに関しては謎だらけ。自分が気持ちよく感じていないものは聞いている人が気持ちよく感じるわけがない。感覚を伝えるとはよくいうけれど、どんなささいなことでもこう出したい、伝えたいというものを出すこと、そしてそれを積み重ねていくこと。そうすることで感覚が少しでも鋭くなっていくのではないかと思っている。<l feel like>出だしで勢いよく入っていった後に<this is the>とおいていくのはかなり大変なことだと思った。見本は余裕のなかでやっているが、自分の場合は苦しそうに何とかいっている感じがする。プロは大きく一つに捉えた中で自由に伸ばしたり、踏み込んだり切ったりと試せるが私の場合は一つずつ追いかけていくしかできない。
「I'd find myself drowing my own tears」回目まわしたとき、何かしっくりせず変な感じだった。二回目やったときにその原因がわかった。I'dの<d>が自分のイメージになかったため、流れが途切れていた。実際この<d>ははっきりと音として出てはいけないけれどいうといわないではフレーズの感じが違う。そう思うのは自分だけだろうか。<d>があった方が<find>に入りやすい。母音のところで押していく感覚が大切。このとき自分の意識も一緒に前へいくこと。声だけ先走るのではなく気持ち、息、体を一つにして前へ投げ出していく。そこのところがまだかなりバラバラでうまくいかない。一致できるまでやっていくこと。継続して同じことを意識し続けること。最初はうまくいかなくても自分次第で深まっていく。出すことよりまず聞くこと、思い込みを取り払って聞くこと。
一年ぐらい前の会報に、「福島(研究所)は銃である」という文章がっていたが、その意味がひしひしと感じられる。自分のなかのいろいろな根が映し出されている。今考えると、恥ずかしくて身をくねらせたくなるようなことがたくさんある(提出したアテンダンスのなかの文章には、取り下げたいようなことを書いたこともあるし、アンケートが2回あったと思うが、どちらも提出期限を守らなかった、またそのなかで自分の性格のところに「詰めが甘い性格だと思います」などとよくもま~書けたものだと思う)。自分は、のどにかかった声、浅い声みたいなのだけは、聞くのも出すのも絶対にだと入所のときから考えていたが、アンケートなどのことをいい加減にしてしまうことも、声のことも深部ではつながった同質のことなのだと最近考えるようになり、これから決して繰り返すまいと思っている。
今とても毎日が充実している。体のなかから泉がわきあがっているかのようだ。バイト先の人間関係を除けば、大抵のことはクリアできる。前向きという言葉、使われ過ぎて、安易になったためあまり使わないようにしてきたが、今の自分は“前を向こうよ”という意味の“前向き”ではなく、結果として“前向き”“前を見ている”という状態とでもいおうか、それが自分で感じられる。誰からも強制されず、"~せねば”的なそれとは、まったく違う。もっと自然で、どんどんエネルギーとなってわいてくる。少し前の私は、ストレスやバイオリズムの関係で、食べ過ぎてしまったり、倦怠感におそわれたりしていた。原因の一つとして、歌に対する欲望が満たされていないことが大きいことも充分わかっていた。わかっているのに、何をしたいいかわからず、ただひたすら、1曲を何時間も歌ってみたり、曲作りをしてみたり、でも、どこかで"こんなんじゃない、こんなんじゃだめだ"と思っていた。そういう自分のなかのいろんなことが渦巻いてぶつかりあって、精神状態も不安定だったと思う。でも、それが解消された。もちろん、全てではないが、まだ自分で解決していくことは山のようにあるし、考えなければならないこともたくさんある。でも今、自分が自分のためにやれることがやっとわかった。ここにきて、一つひとつ氷が溶けていく。だからか、粕神状態も安定し、体重も少しずつ減ってきた。不思議なものだ。ダイエットなど何もしていないのに。体は正直だ。直でくる。毎日眼を洗い、手を洗いうがいをする。それだけで、生まれたてのような新鮮さが甦る。すごい。すごい。今まで、特にここ5年ぐらい、生きるのって辛いとよく思った。たいして、死ぬような思いもしていないのに。でも今は、生きるのが楽しい。明日の自分、明後日の自分、1ヶ月後の自分、そして2年後の自分がどう変わるか、そう考えると今が楽しい。ここにこられたことが、本当に今の自分にはなによりもうれしいしありがたい。天国にいる大好きなおばあちゃんの導きかもしれない。やっとここだと確信できるところを見つけられた。
たくさん吸収してやる。先のことなんてだれもわからないが、先の自分を作れるのは今の自分しかいないのは確かだ。他の誰でもない。だから1分1秒先の自分のために何かをしていたい。ごはん食べるのだって同じ、先の自分に栄養を与えているように。生きるってそういうことなのかもしれない。漠然と今そう思った。それからもう一つ変わったことは、TVの見方が変わった。音楽の聞き方ももちろんだが、あえてTVに限定していうと、今まで、別に自分の視界に入ってこなかったことやものや人が気になるようになった。
最初は、先生の話によく出てくるプロ野球選手から始まった。“プロ”ということを考えながら彼らを見るようになった。誰かというのは相変わらずよく知らないが、そのとき映っている人の話や顔を見る。そこから始まりアナウンサーや司会者、お笑い芸人まで、“プロ”という観点でみると、今まで見えなかったことが見えてくる。現時点の自分に甘んじている人、今でも努力している人、プロ意隣の薄い人、濃い人、生き方の薄い人、濃い人。もちろんブラウン管の向こうの真実は知らないので、憶測にすぎないけど。とにかく、自分のなかでの全ての変化を上げたらキリがない。おもしろいぐらい。常に新しく、常に食欲で、でも自然だから、人の視線なんて気にならないし、(100%といったらウソになるけど)
レッスンを受けている自分も変わっている。1ヶ月目は、私は私と思っている反面、まわりの様子をうかがっていた。でも、2ヶ月目行って自分が自分でないように変化していた。それは結果そうしただけで、フリとかじゃなく、気持ちのよさ悪さの問題で、ただ、気持ちのいい方を選んで1時間過ごしたにすぎない。それらの全ての“気持ちいい”は、1ヶ月目に受けたレッスンで、得たものだ。だから、2ヶ月、3ヶ月と受ければ受けただけ、“気持ちいい”が増えるのではないかと思うと、ワクワクしてくる。あとは、体づくり、これはあせったってしょうがないようなので、じっくりやるしかない。よく、試験前に問題集とか買ったりして、ものだけ揃えて、勉強した気になって何もしないという話を聞いたことがあるが、それにならないようにしないといけない。先生の本を並べて、トレーニングした気になってしまったり、アテンダンスシートなど書いて提出したら、もう、そのときのレッスンの全てを習得したような気分になったり、そういう、自分のなかの“勘違い”だけは気をつけようと思う。自分のなかにも自分という厳しい先生を作ってふり返り、見る目の力をおこたらないようにしないと、“勘違い”がエスカレートレて自信(本当はうぬぼれ)満々の勘違い”になったら最悪だ。そこまでいくと自分でも気づきにくくなるからだ。とにかく、いろいろ書きなぐったけど、今の自分の状態とそんな自分の気持ちを忘れ.たくない、そして誰かに話したい。ただそれだけです。ひとつの変化です。そして、感謝の気持ち。表現できる場が与えられたこと、(本当は、それを自分で得られるようにならなくちゃいけないのだけどうまくいえないけど、大声で叫びたい感じなのです。
日本語のロックンロールは特にBackとのからみで縦に切っていくようにゆるみなく刻まれる感覚が強い。がRockがかっこいいのはすき間だ。ツェッペリンにしろKISSでさえ、今のどんな新しいRockでもテクノでさえ、すき間がかっこよさとか味とかどしゃっとこちらのなかに飛び込んでくるのは、空気の入った音だ。日本の音楽を一瞬で判別できるのは音全体とリズムが酸欠気味だからだ。なんでこんなに音つめ込んでみんなで音出してないといけないのかなと思う。そのことに、昔のアーティストは海外のモノを丸々コピーしていたせいかもしれないけど)気づいていた。特にVocalは。だけどBackやレコードのプロデューサーはそうなってなかったので妙な音楽になってしまった。今、少しずつ楽器の人間がそのあたりのところに気づいてきている。特にギタリストが。が、今後は逆にVocalが酷い。最初のイントロのギターのリブのきざみと空気の入り具合で「おって」と思っても歌が入ればだいなし。昔とは逆の妙な音楽。Vocalが精進しないといけない時代だ。Vocalが手抜きな時代。うまい系(ミーシャ系)Vocalが2匹目のどじよう作戦で次々出てきているが、表面のところの技術なのでへろへろ数と意味は同じ歌になってしまっている。土俵にのっていない音なのだ。UAとかの方まだがつんとくる。BandのRockにだけ限定すればVocalががんばればいいところまできているのもあるが、Vocalが精進するブームになった頃には“うちはVocalがいいから"ってBackがまたすき間があるのと適当なのを間違えるような流れになってしまうか、びちびちにつめ込むか。日本のRockはずっとそんな繰り返しできたから。近藤房之介のようにごっつい人は外の人たちとやってしまう。でも本当は個々の人間が個々に、そうやって動いてゆく本来の世界の考え方にしてしまった方がよいのだ。きっとその方が自分のなかにある日本というオリジナルの武器が逆に素直に出てくる。RockやPopsのなかではということで確かめるため房之介さんのLiveを見にいく。、
左手の指の強さのバラつきをなくすために「ふるさと」
小指を強く強調して弾くのと親指をその指の強さのままに弾くのを両方やってみて、その後、バランスのとれた音になるよう意識して弾いてみる。いいものとよくないもの両方デフォルメしてちょうどいいところを体で見つけていくのか。こういう方法があるのか。
これで練習しても難しい。コントロールというのは簡単ではない。左手だけでもうどうやってもできるくらいのところまでやっておかないと右手が入ったとたんにメロディーに気を取られて左手のコントロールゼロに戻ってしまう。
一小節に何時間もかけて練習する
流して弾いてしまうとたとえば「うさぎおいし」のその「う」の音がまったく「うさぎおいし」のその音になっていないのに気づかないままで過ぎてしまう。でもフト立ち止まればうさぎを追ってもいないし、忘れがたくなんてまったく思えた音になっていないことがわかる。とてもよくわかる。これを歌に当てはめるのだな、そして一曲全部は無理。ワンフレーズに音で「ああ忘れがたいのだナ」と表現できているかどうかを見ていくのか。
トレーニングのメニューの組み方
やり出す前から“うわー大変だ、できるかしらん”と足踏みしていないで、とにかく始めよう。そのなかからしか、たぶんその失態の繰り返しのなかからしか自分にやりよい方法なんぞはみつからない。そしてこれは自分以外誰にも見つけられない。
物事はできないと思って始めるのでなく、“必ずできる”と確信して始めること結果はまったく違ってくる。土田先生にはいつも“必ずできる”というエネルギーをもらっているような気がします。
「素のままで歌って、そこからなにが出てくるかのまま歌って何が得られるか」フレーズ回しのときに思ったことですが、つなぎの部分の歌詞(ポイントでない歌詞)をフレーズ回しのときにはどう表現すべきか考えました。全体の構成を考えてフレーズを表現するのならば、つなぎの部分はやっぱり素のまま(手を加えないで、感情とか入れないで)つなぎに徹する方がよい。というよりは、つなぎの部分をフレーズ回ししたときには、難しいけれど、「次のフレーズへのつながり」を表現するのがよいのかもしれない。サビの部分とかでは、人それぞれ「これ」という部分があるのだろうけど、つなぎの部分でのフレーズはその「これ」につながるように表現しなければという考えになりました。曲を練り込むとき、最初はやはり来のまま歌います。そこで出てくるものは、第一に「盛り上げるポイント」次に「つなぎの部分」というものが出てくると思います。
今まで「ハッ」っと息の流れのなかに言葉をおいていくということは書いてはいたが、体ではわかっていなかった。つかんでいないところで「あーなーたー」と表面的にやっても凝縮されず浮いていくだけ。1音目をつかむことを技術的なことだけに片寄ってやっていると限界がくるように思う。「ハイ」の位置を確認し、準備して狙いを定めヒットさせる。それが確実にできれば音をつかめるようになるのかもしれないが、きっと遅れると思う。伝えようなんて意識もなく既に体が動いている。その状態、感覚を取り出すことが大切のように思う。トレーニングをやると表現のときに伝えることに集中するより状態を調えることに意識がいきがちになる。それを自分でわかっていればまだいいのだが、なかなか気づかずやっていることが多い。
あなただけが 1音目をどれだけ凝縮させることができるか。集中力、テンションの高さ体の準備、心と息を一致させる。どうしても感情が先走り1音目を押さえることができない。つかんだと思ったらそこで息をつめてしまい、前へ出ていかない。このことは続けていけば解決できるのかと疑問に思ってしまう。つかむことと前に出していくことが一瞬でとらえられない。意識を前にもっていってもつかめていないと上体もあがり声もうわずっていく。「ハイ」でとった「あ」をキープしたままその線上に「なーた」をのせていくには支えが必要だし、それだけの息を吐けなければだめだろう。これは自分の癖かもしれないが踏み込んだときに気持ちが入るのと同時に体も縮こまってしまう。もっと下半身に意識をおいて突き放していった方がいいように思う。突き放せるだけ突き放してみてどうなるのかということもみてみたい。
出だしで全て決まってゆくということはよくいうけれど最初の1音が凝縮されているかゆるんでいるかは聞けばすぐわかる。以前は気にならなかったことも、少しずつ意識が高くなってきたように思う。1音目を聞いたときにその聞こうと思うか聞きたくなくなるかが決まる。そこで力尽きるとしても全神経を集中するトレーニングをしていくこと。凝縮された裔というものがどういうものか出せなくても聞けるようになってきたと思う。プロは音と音の間にも何かをつかめている。だからこそフレーズが立体的になるのだと思う。
自分が出しているものはつながっているようには聞こえない。つなげる意識、体力の足りなど。ポジションが深くなればなるほど、強い体が必要になってくる。つなげていくには確実に深いポジションをつかみ、はなさず息をながしていく。基本トレーニングのなかで繰り返しやっていくこと。特につかむことを意識する。つかんだ上で吐ききっていく。体は使えるようになってきたが、無駄が多いように思う。凝縮することその感覚と音を体と耳でわかること。
たっぷり体に息を入れて、音に感じたまま動かしてゆく。音の高さの設定も間違えるとすぐ行き止まる。繰り返して聞くうちに、君葉のイントネーションなどに込めて、ミーナもぎりぎりのところで保っているところがあることに気づく。英語やイタリア語(口がまわれば仏語も)は歌詞がついている場合できることならその呼吸も取り入れてしまう方がその歌の音楽の本質の部分に素直に近づきやすいと思った。(いいやすいということ以上に)イコール音の呼吸になっており、メロディやリズムやコード感をそのまま体に正直に乗せていけるからだ。ラーやアーという手法もあるが、まだまだ完全なラーやアーを発声できないでいる状況では、耳から入ってきたものをそのまま出してゆくことの方がシンプルなラインにできると思えた。言葉がこなれなくて落ちてしまうのは、言葉=呼吸音に捉えていないからだ。
こと洋楽(というか、日本のPOPSが特殊だと思うのですが)世界共通のベースのPOPSにおいては、日本語の歌詞と英仏伊やポルトガル/ブラジル、他の外国語の歌詞というのはまったく別物と最近は捉えている。呼吸を活かしてゆくヴォーカルの場合、呼吸の使い方と発声される音声は密接だ。昔、JAZZのスキャットなどはなんであんなわけのわかんない音/ことばを使うのか子供心に不思議に思っていたが、体から呼吸を駆使してあの高度な技を繰り出してゆくには必然だったのだ。よく使われる「D(a.i.u.e.o)」「sh(a.u)」「B(a.i.u.e.o)」などは一音だけでもいいトレーニングになるくらい意味のある技術(というか出してゆくための高性能なToolだ。同じポジションで、確実に当てたい音(インプロなので感覚通りリアルタイムに)音をとらえ流れ下り発してゆく。そして何より表現したいスピードや音色を瞬時に出すためにはプロゴルファーがクラブを選ぶように、名人が道具を選ぶように、ほとんど本能のとなりのところでそれをセレクトしている。そんな感覚の入っている民族達の呼吸に秘密/動きの秘密を学ばない手はない。、
基本は自由になるためにやる。先生の声を聞くと、外人がしゃべっている感じがする。「Quando」といっても、一つで捉えていて、体のなかにあるものが出てきた感じがする。声に強さがある、それは芯から発しているから。柔軟に声が出せるようにするために、基礎を身につける。自分では前より一つで捉えてきていると思っていたが、線でとっていしまっているし、音を意識してしまう。「あれはとおいおもいで」「あれは」をいったとき、「あれは」しか考えていなかった。「あれは」といってもあとのことがきちんととらえていることが大切だと思った。先生の授業を受けていると、基本が一番だなと思う。今まで、さんざん音でとらえてきていたので、それを一つにすることは、そうとう意識してこうしようと思わないと直らないのだと思った。
「声を出す」ということは聞いてくれる耳があってのことだ。その耳に対して、バウンドもしないようなたたきつけるような音を発するということは、これじゃただの暴力だ。自己満足ではない声を出すこと。声が大きければいいのではなく息を吐ききるという前提で最も届くと信じることができる声づくりが必要なのではないだろうか。
他の人の歌を聞いているといろいろなことがみえてくる。(それぐらい自分の声や歌もわかるといいのだが)トレーニングも歌も全て自分のこととしてやっていかないと人の言葉に左右され結局ほとんど変わらなかったということで終わってしまう。私の場合基本(トレーニング)を歌全てに出して失敗するということが多いが、逆の人もいるのだということを知った。歌を整えることから抜け出せなくなり基本の意味がわからなくなってしまう。いろんなタイプがいるがやはりどう歌いたいかなのだと思う。一人の人が先生にいわれたとおり声を出し、歌ったら、「こんなに強く歌ったら何か変」といっていた。彼女がそういうのがよくわかった。自分の慣れた感覚以上に強く、大きくやろうとすればどうしても違和感はある。でもそこを何度も乗り越えようとしないと結局ヴォイストレーニングも生かされないし、歌も大きくはなっていかない。今までそういうことには気づいていなかったが、今日他の人の反応を知ることで自分を壊していくことの大切さをあらためて感じた。
体で曲を聞き取ること。耳だけで聞いているだけではだめ、できるだけ一流の映像を観る、体で感じ、体で読み込むことが大事。練習だけでなく、ステージで出せる勉強をしていく。プロが歌っているものでも、どこが悪いかを見極める高度な耳を身につけ、自分とプロの違いを埋めていく。自分の武器を持つ。基本に甘くならないこと。プロ以上の練習をしなければ差が開くばかりだ。プロはプロのトレーニングメニューを持っているので、自分自身も厳しいトレーニングメニューを持つこと。何に対しても取り組みは甘くしない。自分が評価できる土俵に乗っていくこと。早く評価されないところに行くこと。今まで持ってきた環境を変えていかなければ上達しない。曲を聞くのでも歌うのでも次はどうなるという予想がついていかねばならない。
たった一つでもやろうとして、できなければ、できない理由を真剣に考える。曲を聞いてまずヴォーカリストの体の力を感じる。できなくてあたりまえ、一回でも二回でも90点以上を出そうとすること。曲を聞いたとき、その歌手がどのような表情で、どのような動きで歌っているかを想像し、自分もそのようにやってみる。それはまねではなくて、先ずそこから始めること。すぐ切り替える力を持つこと、その曲なりそのフレーズなりの世界に入る。その状態をどうつくるかを常に考える。フレーズを聞くときは、スピード感、展開感を観る、相手が先を聞いてみたいと思わせるフレーズを歌うこと。20歳を過ぎると心から入らなければ遅い。ヴォーカルを聞くだけではなく、演奏を聞くこと。人が聞くのは出たものの良し悪しなので、その一瞬に集中して、自分自身も納得できるよいものを出さなければならない。
腹をへこませて固くなりすぎると、胸から息が出てしまう。胸に息を満たんに入れた状態にしておく。そうするとこれ以上胸には入らないから腹だけでできる。胸の息は補助タンクだと思うこと。胸の力を入れてしまうと、腹が自由に動かない。昼は固定するのではなくて、リラックスした状態をつくるということ。息の流れに声がのるとそれは響きになる。響きは声にある芯のこと。声の当たる場所を統一すると響きが出てくる。響きを自然にうつすことによって統一感が出る。鼻をとおすこと。鼻声にするのではない。鼻濁音は言葉の最初を抜くのではなく、途中に出てくる「が」などを少し抜く。鼻を通すトレーニングとして、口を閉じて鼻から出すハミングをすればよい。そのとき唇が震えたりすると、口のなかで響かせているということになるので、あくまで鼻を通してする。鼻を通すことによって喉の負担をやわらげる。仰向けの状態と立った状態での違いがだいぶなくなってきたが、やはりまだ立った状態だと甘くなる気がするし、無理に腹をへこまそうとしてしまいがちだ。それと息吐きと発声の体の状態が完全には同じにならないので、発声においては息がまだそれほどまじっていないということになる。言葉によって響いているなと思うとまったく響かずに不快な声だと思う声があるので、声の当たる場所が統一されていないと思う。鼻を通すということにおいては、自分の発声においてはまったくできていないと思う。今まで意識もしたことがなかったので、今後そのことを試してみて、できるようにしていきたいと思う。
苦手なイタリア語ですが、イヴァ・ザニッキの歌を聞いていると、バサッ、バサッと切っているのに動いている。カタカナ的な言葉なのに柔らかい。このサウンド感覚はなんなのだ。そして、このリズムのつかみにくいスローな4/4自分でリズムを生むことができない。そのリズムを意識してしまうと、ものすごいカタカナになってしまうので、始めはこのカタカナ的なものをまとまりにするため、そのまとまりを先に練習した。
(Non somai perche tidico sempresi という感じで、聞いたまま、まとめてみる)そこで、なんでこのようにまとめたものが音楽的になるか、というと、もちろん、音符には沿っているが、決して音符を考えているわけではなく、その歌の気持ち、感情でもっていっているから、まとまったものに聞こえる。詞の内容は、ぜんぜんわからないのですが、日本語詞を参考して聞いてみると、Non somaiのところは打ちひしがれた感情が聞こえる。表情が見える。すべてのフレーズに。それぞれの表情が。その感覚をなんとか出したかった。やり方として、ノンソマイ(打ちひしがれた感じ)、ペルケティディコセン(もう何も残ってない、悲しいなんてことも通り越して力つきた感じ)、プレシィ(その意識の完結)みたいに、イヴァ・ザニッキの表現を元に、歌の感覚をつかもうとしいてみた。
なので、自分で創るよりは、今回、まねをしてみることが同じ感覚になること)目的だった。そのなかでおもしろかったのが、per le tue strane folieのところ。ここで、イヴァ・ザニッキはフェイクというのでしょうか、カッコイイことをしていますが、まず、自分がやってみると、忠実に音符を降りてしまう。聞いた感じで細かく出そうとしてしまう。ここでさらにカタカナ的になってしまう。これが悔しくて、(こういう箇所があと1ヶ所ありますが)この音符的なものを、これもまとまりにするのにどうするか。やはり、よく聞いてみれば、これも感情でしか歌ってない。気持ちが音符になっている(いや、気持ちだけか)。なので上のフレーズでいえば、歌の内容と合っているかはわからないが、“力がつきたあとの、もう何もいらないわ、フッ疲れたわ”的な気持ちで、このフレーズに挑む。すると、この気持ちに音符をおくと、音符で拾えるわけがない。この脱力感、無力な気持ちなのだから、声にならないような、そんな感覚になり、おもしろい歌い方を発見した。
このときは、声とか言葉とか体とか、そんなものは忘れて、うまくいえないが、よく、泣いているときって、お腹が異常に揺れていますよね。あの感覚で歌っている、おもしろい状態になった。と、このような作業のあと、問題のリズム感を出すという課題が残り、とにかく、リズムを刻もう、リズムをとって、そこから外れないようにしようと、なんとか体を動かして(なるべく腰に集中して)取ろうとはするのですが、きづくと、途中で止まっていたり、そこで「あっ、いけない、いけない」と、また取り始めたり。リズムがまったく止まってしまうところがある。リズムなしで歌っている。すごく怖いことだと思った。結局、歌いながらどのリズムで刻もうか試したが、やはり、大きく取ることしかできなかった。大きく取ることはよいことかもしれないが、基本的な取り方、たとえば細かく頭のなかでカルマさせながら取るクセが私はまったくついてないので、結局溺れてくる。
本番で、途中でリズムをなくしてしまって、復帰させたりしたところがある。自由曲の方がまだシャッフルで、自分としては取りやすかった。(取りやすいものから入ろうとしたからだが。)自由曲は、ただそれだけで選んだ。私には自然に入るリズムで、歌もおもしろいし、ただやってみて“自然にリズムが入ってくる音楽”と、それを出せるか(メリハリ)は、やはり、かなり違うなと思った。入っているから出せるだろうと甘い考えが浮き彫りになった。
しかし、私の性格上、この自分の思い込みをどんどん壊していくのが課題だろう。自由曲も課題曲と同じように感覚(どんな気持ちでそのフレーズを出すか)を細かに考えてやってみた。(そうじゃないと、私はぜんぜんメリハリというものがどうやって生まれるのかがわからないのです。)それをやっても、まだわからない。淡々としている。なんのグルーヴもない。どこかメリハリらしきものを出そうと、少し声を張り上げてみるという小細工に逃げてしまう。けれど本当はそうじゃない。この辺は本当にわからない。なので、先生のいわれるように、もっともっと聞いて、入れるしかないのですね。そして、自分の声(個性)は一体何なのかをもう一度考え直す。私のケチな思い込みで、もしかしてとんだ間違いをしている可能性があるように思えてきた。
どんな歌を(何を)歌いたいかというのは、ジャンルとか誰々の歌というものではなくて、それはある。けれど、曲調の選び方が何か違う。自分の声(印象)に対して、何か勘違いをしているような気がしてならない今日この頃。たとえば、自分のカラーというものは昔の方がわかっていた。そして、それを歌うことができないから勉強を始めて、そこに戻るハズが、戻ってなくて、自分で自分を夢の世界に持っていこうとしている。歌を勉強する前の方がよかったなんてぜんぜん思わない。今の方が楽しい。今が自分らしいけれど、感覚的に何もわかってなかったときの感性の方が、自分なのかなと思う。そのときの感性と、現在の感性を合流させることができない。できないというより、勉強を始める前のときの歌に対する偏った自意識を思い出すのがイヤなのだ。けれど、フタを開けてみれば、意識は変わってきても、自分の生まれ持った声、今現在、そして、これからも変わらないであろう自分の声の色はなんら変化をしていない。要は、自分をもっと知ること。
先生の本日のコメントですごくドキッとしてしまった。ビクッというか。初めて自分の感性というものを意識を始めた頃(若い頃)と自分の持っている声と、年齢と共に変化する気持ちと、それらを一致させる歌に出会い、つくり、その出会うもの、つくるものがこれから、一体、どんなものなのかを探るのが、今後の私のワクワクする作業でもあります。結果、ステージ実習を終えて、今回テーマとした課題がどうだったか。まず恥ずかしいが、メリハリが出たか躍動感を出せたか、とかというのは、わかりません。人にどう聞こえたか、前に出られたか、1ヶ所でもハッと思わせるものが出せたか、これは、そういうものを出そうという試みはしたが。それを実際感じることができるときは、きっと自分のテンションがそれだけ高まって、そのなかでもどっしりとした余裕がある、そんなときに自分で判断できるのだろうと何となく今日は思いました。そして、“ステージ実習"と考えるのではなく、“自分のライブ、座っている人はお客様”という意識を持つこと。
よい響きというのは似ていると思った。エレキではVやZ形などいろいろがるが、生ギター、バイオリンなど生の響きの楽器の形は何百年と歴史を崩さない。日本人の声(歌)はスピーカーでいうと、ツインターだけの壊れた音に近いと思う。
何がどうできないかわかるようにする。声を出すとき、何ができないか体の変化を知る。フレーズ、体を読み込む、どこで体を使うのか何がやりにくくて何が邪魔をしているのか音に対するテンション、その世界にすぐ入れる集中力、まわりや音程を気にしない。邪魔するものがたくさんある。フレーズのとき100%出し切れない。自分ではまわりとか気にしてないつもりでも、どっかですごく気にしているたとえば10人いて自分が8番とか9番とかだと、前にやった人たちに合わせてしまっている。こういう“殻”をやぶっていかないとだめだと思った。
いきなり泣き出した彼女を見て、トレーナーはどう対処するのだろうと思った。「歌いなさい」その通りだと思った。シンプルで明解な答え。私も、あのとき、どうして楽しいことをやっているのに。この人は、泣いてわめいているのだろうと思った。もちろんできない自分に落ち込んだりはするけど、それだからうまくなるわけじゃなくてとにかくやらなければ変わらないのだ。泣いているヒマがあるなら、もっとやることは沢山ある。私から見れば(トレーナーもいっていましたが)甘えで、一種の自己顕示欲。そして、自分のなかにもあるそういう甘えとかも考えるいい機会にもなった気がした。結局は自分との戦いだから、人に同情を求めたりするのは、筋違いだと思った。普段聞いているビートのきいた曲とかでもそれをアカペラで歌ってみるといかにその間が難しいかわかった。聞いている側にも、リズムが聞こえてくるぐらいでないと、意味がない。作品にはならない。
QUEENの曲は特にフレディー・マーキュリーの独特の歌い回しや活舌のよさは、とてもマネできないが、リズムを取り入れ感じ表現することは、できるようになりたい。ジプシーキングスのジョビジョバの拍もむつかしく、自分が思っていたアクセント(リズムの)は逆だったのがショックだった。タンバリンのチャカチャカチャカチャカのチャカここにアクセントなのだとわかった。あと、Swingのリズムを自分で体で表してみると「8時だよ全員集合」のババンババンバンバンのリズムになってしまった。いろいろな曲が出てきて楽しかった。やっぱり音楽は楽しい。体で感じ、体で表現する。家で、いろいろな曲を体で表現することを一日一曲でもいいからやってみると、自分の頭はおかしいなあと思うぐらいでもそれを、レッスンのときとか同じようにできるかというと、やっぱりまだどこかでまわりの目が気になっているので、家で一人でやっているようにはできない。これを克服したい。
(メニュー27)・これはたとえばドミソのように音の動きがあるものでもあてはまるわけだ。息の配分、意識を低く低くだけでなく、この積み重ねていくイメージでやってみよう。ポンポンポンブチッブチップチッでなくアーツのなかに音の動きがたまたまある感じ。苦しい」でもポジションはずれない。でも動きはもたつく。ここがトレーニングしどころ。楽しいところ。
(メニュー28)・これをやっていくと流れに乗せて声を飛ばせるように自動的になるのか。楽しみ、離す、というより吹っ切る感じか。これをやろうとするとバッターボックスに入ったときのように“振るゾー”“遠くに飛ばすゾー”と意識することによって体のどこかに力が入ってしまう。自然な姿勢、リラックスした体。どうなってもいいやーと思って、グニャグニャだーと思って出してトントンだ。ちょうどいいところみつかるかもしれない。
(メニュー29)・la mia solitudive sei tu。歌っていてポジション乱れてきてあたりまえ。だから、いつでも戻すよう意識する。アラ終わっちゃったワでなく、ここで止めようと決めてそこまで息流して自分の意志で決まる。
(メニュー30)・そうか積み重ねていく感じだ。そうか、しっかりと捉えて振り切る。メニューのつながりはわかった。体の力ない。死にそうになる。欲しいものが手に入らない。息を吐く。
“悲しい”をいってみる。まわりは反応しない。表現になっていない。この場は1回切りで今しかないという意識も極めて薄い。何しにきているのか。人前でたったこれだけの人間のなかで裸になれないのなら、大舞台なんてとんでもない話だ。だったらこの場を動かせるアーティストになることがまず先決だ。どれだけテンションを高めイマジネーションを高め自分のなかにあるものを出せるか1回1回の真剣勝負で力をつけていかなくてはいけない。出し切る、出し尽くす、これ以上出ないとえるほどやらなくては力などつかない。何度でも書いて、いい聞かせる。しつこいぐらいにやっていきたい。厳しい状況のなかに飛び込むだけの覚悟と勇気が体にしみついていない。さらけ出し、恥をかいて大きくなっていくしかないのだ。前へ前へ出さなくてはいけない。“悲しい”は感情と音声の一致が必要。“悲しい〜ことがー”と後々続いていく感じを相手に感じさせなくてはダメ。“悲しい”だけ聞こえ感じるならば音楽としてつながっていない。流れ、線を出すこと大切。
福島先生がそこにいるだけで、とてつもなく大きな存在感を感じ、声を発するとさらに圧倒される。体のなかでエネルギーが爆発し、それが外へ出て一つひとつの世葉が真実として揺るぎないもので、いつも自信をなくしてしまう。自信も何もあったものではないのだが、あの“超低音特大スピーカー”から出る声は同じ人間の声とは思えない。比べること自体間違いだろう。20年以上も日々勝負している人に、自分に甘い私と違ってあたりまえだ。どこがどう違うのか。日勝負しているか。感情や思い入れを大切に毎日自分に問うことをしているか。自分の最大の強みをわかり引き出そうとしているか。毎日トレーニングの場をステージと思い、出しつくしているか。できていない。そんな程度しかない。
今のままならいつかこの場を去らなくてはならない状況になるだろう。「そうはなりたくない」この場に頼っているのではなくこの状況に負けたくないから、勝ち残っていきたいから、もっと自分を追い込みがけっぷちで毎日が勝負だ。1歩後退すれば奈落の底へ落ち2度と這い上がれない。そんなところで勝負しなければ本物の表現なんて出ない。人前で何をして、何かを与えて生活が成り立つのは許された者だけだ。もっとくやしさや苦しみや屈辱を味わえばいいのだ。そうして何か一つでも負けないものを育てていきたい。自分のなかにしっかりと。
歌を歌うとは「伝える」こと。伝えたいものがあるか。あったらそのイメージが伝わったか、どうか。伝わるまで。一音一音、一フレーズそのことを100回、200回やってもでるものじゃない。じゃあ一体何回やれば。出るまで。その作業。出ようが出まいがその作業。こういう作業やったことない。やってみましょう。トレーナーは楽しい、という。なおさらやってみよう。しかし、レッスンがとても楽しい。そして、とても大事なこといってもらえていると感じる。そしてくたくたに疲れた。上に書いたことって何度も書いたし、読んだし。でも、こういうことだったのだ。しかし、本当に音の接し方が乱暴。いわれるとわかる。課題曲を聞くときにどういうふうにその一音を扱っているか、どうおいているかを聞いてみようと思って聞いてみる。入り方は。つながり方は。どうしてもこういう音こういう音出したいこういう音じゃないと嫌だ。そういうこだわり。世の中ひっくり返ってもこの音こう出す流すと流れる。・表現のための発声。意識して結びつけよう。歌は発声じゃない。
最初の発声しかしよくひっくり返る。よほどかみつくように出さないと私はすぐ裏声の方にいく。支えはもちろんしっかりとそして深くとるのはいつも。そして音に動きのあるときは積み重ねていくイメージで。
トレーニングにおいて最も難しいことは続けることである。そのことをつきつめていくには相当な時間が必要だ。到達点が大事なのではなく、そのプロセスが大事だ。声はきちんと出し切らなくてはいけない。その方が悪い点もよい点もわかりやすく、支障が少ない。雑に歌うのではなくて、きちんと唄うことを心がける。歌全体を組み立てそつのないように歌う。テキストの声で歌うのではなくて、自分の声で唄い伝えなくては何もならない。発声を気にしている歌には何の魅力もない。テキストはあくまで基本であって、それをあらかじめ体に入っているのがあたりまえだ。それをそのままステージに出すのではない。自分で考え、唄い、そのなかで解決していく。発声において、銃を見て、喉を開けることを意識していた。喉にはこなかったが、どうも薄っぺらい声になっていた。展開のみに集中して、体が使えてないことに気づいた。体がぜんぜん疲労していなかったので、ほとんど使えていなかったのだろう。気づいてからは意識して、体を使い、喉を開けたので少しはヴォリュームのある声になった。
自分の場合、喉開けと体を使うことをばらばらに考えがちなので気をつける。体を使えば使うほど自然と喉も開くようにならなくてはいけないと思った。しかも喉開けだけに集中しすぎると口に余計な力が入って、口が不自然な形になってしまうので気をつける。フレーズにおいて、集中力が今一つなかった、まったく迫力に欠けてしまった。2回目は1回目よりはましだが、力んだ声になってしまった。高音を無理矢理喉で押してしまった。喉が開き切れていないし、体を使えていない。サビはまずキーが失敗した。自分の考えていたキーとは違ってしまったので集中力に欠けてしまった。力んだ声になった。自分でもいい声ではないと思った。発声においても何においても課題が山積みなので一つひとつ確実にクリアしていきたい。
聞くということがどんなに大切なことか。耳をふさいでいるわけではないのに聞いていない音がある。音を扱うという意識の低さを感じる。他の人のフレーズを聞きあらためて1番目の大切さを知る。どれだけその人が神経を配って大切にはじめるか準備と集中力が全てあらわれる。その入り方でその人の歌がどんなふうに終わるのかもみえてくる。他の人への判断は自分にもいえること。ていねいに扱うからといって、それが弱々しく音として出てこないものでは伝わっていかない。自分の感覚できる深いところから出したい音を出す。それにはイメージの世界がひろがっていなくてはならないし、そのことによって体も変わってくるはず。
Memories light the corners of my mind「メモリー」ではないといわれているにも関わらず、それに近いことをやっていように思う。それだけ自分の出す音に対しての意識が曖昧だということに気づく。こう出したいと思ってもそう出せるものではないのに、こんな感じと思って出しているものなど出てくるはずがないだろう。外国語の複数形の音このフレーズに関してはMemories、cornersの<s>の音がこれほどしっかりと出されていることに意誰がいっていなかった。それとMemories<m>の音は日本語にはない音だが、この音を出すときのどをしめてしまうとつながっていかないので息はながし続けておくこと。Memoriesのsからlightにいくとき押してゆく感覚がないとズ・ライタ・コーナーとカタカナ英語になって格好悪い。つなげてゆく感じをより密にしていくことに神経を配ること。このフレーズをやって一番感じたことは何てスピードがないのだろうということ。実際これを歌うとき、自分サイズのテンポにしなくてはまったく薄まってしまう。スピード感のない歌は聞いていて退屈してしまう。これだけのスローテンポで彼女はなぜもたせられるのか。緩急の差がはっきりしているからだと思う。速いところがどれだけ自分と差があるのかを知ることは必要だと思う。全てを速くすればスピード感が出るものではない。速かろうが遅かろうが同じような呼吸の流れで進んでゆくものは聞き手は慣れてしまう。変化が必要。それと英語には強調されるところにまきこまれる音というものがあるが、私はそれを完全に省略してしまうことがある。今までそういうやり方をしていて、何か違うと感じた。音としては他に巻き込まれてはいるけれど自分のなかではきちっとまわっていなければならないと思う。言葉をいった感覚のまま音へつなげるということはいつも意識していることだが、何が一番変化してしまうかというと表面的になでて前に出ていかないということだと思う。ワンフレーズ甘い切る感覚を大切にすること。言葉でいったものを薄めずに前に出すにはどのくらいのテンポでやればいいかこのことを第一に考えたい。今まで全といっていいほど、テンポに対して鈍感だったと思う。1音目をつかめていないということ、自分の呼吸がわかっていなかったということが原因のように思う。だから自分の呼吸を知るようなトレーニングも積み型ねられていなかったように思う。自分の呼吸とデンポ、このことを課題としていきたい。
Misty water color memories今までの私は自分の意思で歌おうとしていたし、言葉をいおうともしていたけれど音を出そうとはしていなかった。音を扱うとかその音を大切に思うということはやはり音を感じていなければできないことだと思う。表面的に感じたふりをしても出てくる音はたぶん嘘っぽいはず。まったくとはいわなくてもやはり感じられていなかった。感じたからといって出せるわけではないと思うけれど感じていないものは出てこない。つなげること、ながれてうたうことは簡単だがそこでどう止めるかどこに自分を込めて出すかということが必要なのだと思う。何気なく歌ってしまうと<color>の<co>の音なんてさっと流れてしまう。音を感じていないこと、意思がないことによって全て流れさってしまうような歌を歌ってきたのかもしれない。できなくてもこう出したいという意思があれば変わっていくと思う。言葉でいえている感覚をそのままキープできているかみてみるとできていない。間のびしているし、同じところでいっていない。どこかつくったようなところでいっている。私がよく犯す間違いは拡大して表現が薄まってしまうということ。大きく出すことが表現の大きさだと勘違いすることが多い。そうではなくもっと凝縮すること、自分のサイズというのもよくわかっていないが、表現するものをもっと密にしたい。ただそのことで自分の内にこもってしまってはよくない。
of the way we were memories of the way we wereひと呼吸に入っていないと全てを甘おうとして遅れてしまう。体のなかに入っているといおうとしなくても呼吸にのってまわっていってくれる。こういう感覚があっても出ているものはかなり遅れていると思う。of the way/we wereが団子状態でなめらかなつながりがない。英語の曲を歌うと言葉を一つに捉えるのはいいが、何かとても格好悪いフレーズになってしまう。一本の線の上に乗っているのではなく切れているからだと思う。今度それをつなげようとするともたない。たぶんof the wayとwe wereがまったく同じような形のフレーズになっているからではないだろうか。変化がないといったらいいのか。同じような繰り返しを気持ちよく感じるときもあるけれど、そこに変化がないと聞いている方は先を予測できるし退屈するだろう。プロがどう音をおいているか、動かしているかということは今まで見ていたようでわかっていなかったことが多い。同じ曲を何人ものヴォーカルが歌っているのを聞き、それぞれのセンスみたいなものを見ていきたい。
音楽は点ではなく線であるということ。これまでのレッスンでも度々いわれてきた。音楽、歌を聞いてどんな線をイメージしたか、自分はどういう線を描きたいか。自分の描きたい線にするにはどうしたらよいか、何が必要か。先生がボードに書いた線=リズム+音色。音色、楽器の奏でる音色。歌い手の声の音色。音と音の間にある音色。その全てから感じられる全体に流れている音色。リズム、体の枠にいろいろなリズを入れておかなければいけない。体に入っていないものは出てこない。リズムと音色からできあがる自分のイメージする線を描く。
聞くときのヒントとして、体の感覚と呼吸だと先生はいった。耳に心地よいかではなく、体に入ってくるかどうかだと、体に入るってどういうことだろう。歌に合わせて体を動かしたとき、自分の体の動きと歌い手の感覚が合ったと感じたら、それが体に入っているのか。音楽と体が結びつくこと。歌い手はそのとき、どう動かしているか、聞く。なぜ彼はここで、こんな風に入ったか、こういう声を出したか、こんなにものばしたか。"気づく"ことが大切。今日のレッスンは楽しかった。音に合わせて感じるままに声を出したり、体を動かしたり、とても楽しかった。
次にどんな展開になるか予想して声を出す。合っていると思うところと、あれと思うところが出てくる。好き嫌いではなくいろいろな音楽を体に入れておかなければ。出している声も体の動きもその人だけのもの。感じているものが声として動きとして疲れている。冷静に自分の動きを見ると、似たような動きしかしていない私は、結局それだけのものしか体に入っていないのだ。楽しいと感じたことを楽しそうに出せなかったり、激しいと感じているのに、まるでそう見えないのは表現することをめざす者にとっては大きな大きなマイナス。いろいろなものを取り入れて、それを感情豊かに出せるようになりたい。歌で。
リズムというのは入っている、いないもあるだろうが出そうとしない限り出てくるものではないと思う。体にしみ込んでいる人はそれが自然とできるのだろうが今の私は主体的に出そうとしないと平面的なフレーズにしかならない。グルーヴ感があるといわれた人のフレーズは音と音とのつながりに他の人とは違うものがあってそれはその人のなかでまわっている感覚のあらわれだと思う。そのつないでいく感覚ってとても必要なことで今の私のフレーズというのはかなり直線的なもののように思う。これは体、声の問題というより自分のなかに入っている音楽、感覚の問題だろう。音と音のつながりがなめらかであるほど音楽的になると思う。今の私の体では表面的に音をつなげていくことはできない。声や体がイメージしていることに対応していかないがそれでもイメージを明確にしてそこに結びつけるようにやっていきたい。それとりズムは表面的にとるものではなく、体の内部の深いところで感覚している(楽しんでいる)ものが出てくるものだと思う。
プロの感覚はわからないけれどひたりきっているのではないだろうか。以前と比べ何かができるようになったとか変わったというわけではなくのだが、少しずつ意識が変化してきたように思う。規則正しく繰り返されるものを心地よく感じたりそうかと思うとそこからほんの少しはずれたものにハッとさせられたり以前なら何も感じなかったようなことに何かを感じる。音楽とは、なんていわれても何とも答えようがないけれどほんの少しの変化がとても大きいことのように思う。音の世界のこともこれまたよくわからないが、いろんなことがされているように“思う。今まで自分が聞いていたこと、感じていたことは本当に装のことで、もっともっと深いものがあるのじゃないだろうか。いつもこういうことを書いていると深まっていかないと思ったりもするが、やはり今いるところからみることしかできないように思う。
重くなっている、ねばってしまっているといわれた人がいたが、これは自分にも当てはまることのように思う。音にぶら下がっているといういわれ方をされたこともある。そうなってしまう原因は。音やリズムは入っていないため、先を見ることができない。外にどう出ているのかということに意識がいっていない。伝える、前に出すということより、内側の感覚で止まってしまっている。入り方、鋭さがない。音が体で切れない。テンポが速いとこういうことは起こりにくいように思う。スローテンポの曲のときはそのテンポより早目、早目の感覚でとらえていないと全て遅れていってしまうように思う。聞いている人に先を読まれないためにも常に先へ意識がいっていなくてはと思う。
フレーズとして捉えること。リズムパターンを理解すること。リズムパターンを早く捉えることで歌いやすくなる。今までもいってきたことなのだがやはり見ていなかったように思う。決していい加減につくられているものではなくパターンがあってその組み合わせでできているもの、今まであまり目を向けようとしてこなかったパターン構成というものを今一度聞いて確認してみる。どうつくられているか。
音が入っていないことを知る。その音だけを入れるトレーニングをするのではなく、フレーズのなかに巻き込んで入れていくこと。入っていないことを自覚すること。量が足りない。声に関して。声のことを考えながら音程、リズムをやるのは大変だと思っていたが何とか一致するようになってきた。いつでも自分がそこで何かを表現する意識を持っていないとWのレッスンはここだけのもので終わってしまうようにも思う。最近感じることは声というのは心を入れないとただの音に過ぎないのだということ。トレーニングで体や声が変わったことでより気持ちを入れていかないと伝わっていかない。声がなかったときに比べプラスもマイナスもより拡大されてしまうように思う。これは気をつけなくてはいけないこと。
気持ちがあまり空回りせずに、わりと身体と連動できたので、身体を通して感覚的に見えるものがあった。横たわり、曲に合わせて息吐き。(ヴォーラーレーオーオー♪【ジプシーキングスもやっている曲])よく知っている曲だったので比較的思うようにできた。身体中がしびれて、後10分くらい続いた。(こうならないときはトレーニングになってなかったのだ)・息から声へ。身体の働き、作用を知る。ハスキーな感じに息が混じるときは、息が胸から出ている。・効率よく声にする。本番・ステージでいらぬ気配りをさせないためのトレーニング。必要な筋肉は鍛えておく。(スムーズに動くようにメンテナンスしておく)のどあけて、口あけて。筒にする。口のなかで音をつくらぬように、息をじゃまするものを取りはらう意識。発声。「現在」を超えたいから全力でいこう。一音目から切り際まで責任と気力を保って。
なんだか自分の声を制限する何かが少なくてうまく気力が身体に伝わった。それゆえに、それを上回る集中力で方向をしぼる必要性が強く感じとれた。そういうことを思うと、切り際等甘くなってきて、(最初から甘くて、それに気づく)ワンフレーズも“完璧”にはできてないことがよくわかる。みえる。この状態になかなかたどりつけないのが問題だ。自分ひとり「歌う練習」していると少しずつこの状態から離れていってしまう。身体の芯からずれていく感覚。これが問題だ。
簡単な言葉、簡単なメロディほど難しいものだと思う。そこにはごまかし(歌い方とかの問題でなく)がぜんぜん効かないから自分の薄っぺらさを感じて気色悪い。歌っていて、自分にすごくだらだらしたものを感じていた。まるで10秒か30秒くらいに思える。(もちろん悪い意味)そんな感じ。前よりずっと冷静だけど、そのかわりテンションもぐっと落ちている。本当は冷静でテンションも高くっていう状態でなければいけないのに。どうしてもどちらかに片よるので、何とかしたい。声や歌の技術よりもまず大事なのはそこだと最近は本当に感じてしまう。もちろん歌や声の技術を放り出すつもりはまったくないけれど、そんなものを感じさせる歌を自分は歌いたくないと独断で確信するようになった。誤解を生みそうな言葉だけれども、もう自分のなかでの位置づけの“ヴォーカリスト"なんかにはまったく憧れない。そんなことよりも自分でありたいと(言葉にするとかっちょいいがまったくかっこいい話ではない)思う。そう思うとますます難しくて大変で要努力なのだった。ばらばらにどっかいくのも、だらだらするのも、いろいろな原因がたくさんあるけれども一言でいえば、自分の思いを伝えるパワーに欠けている(人間が浅い)。自分にとってはこれだけのような気がしてきて、24時間音楽にみはられている感じだー。それってひょっとしたら神様。
トレーナーの声に刃が見えた。そして刃の先が光っていた。驚いた。その瞬間に目を見開いた。「エイ・アイ」発声を一人ずつ見て(聞いて)もらって、コメントを頂くというとてもありがたい授業だった。その際に、先生が「剣道で剣を下ろすときみたいな気持ちで“エイッ”というのです。」ありがたい授業だった。本当に目の前に腕のたつサムライが使うような刃が頭上から胸元まで一気に振り下ろされる場面が見え、その刃の先はキラリと光っていた。「エイ」の一世で、こんなにクリアな映像が見えたのは生まれて初めてだ。トレーナーのエイ、や他に出してくださる声は1つややか2伸びがある3ひとつのポイントに向かって鋭くついている4前に出ている。それに比べて私の声は、1ざらざらしている2かたい3口のまわり、胸、なのか、のどあたりでちらばってしまっている。4後ろへこもっている。こうなっている理由は、おなかの下あたりから声が出ていない。胸式呼吸をしてしまっている(これはまずい。自分は腹式と思っていたのだ)。上半身に力が入っているのか。息を吸った場所で声出すこと。
「いつも胸を開き、姿にしておく」ことを学んだ。寝て、腹式呼吸を行ったレッスンから、自然の摂理に従ってやっていることの感覚が少しだけわかった。何に対しても機械的に考えてしまう自分に気づいた。姿勢もそうだったように、呼吸の方も正しく自然に行うようにしていく。あせっているから、全て機械的に捉えてしまっていた。だからいつまでたっても、うまくいかない。時間がかかっても、一つひとつ正確に身につけていく。大事なことを学んだ。ありがとうございました。(最後の息をはききるときの息は、歌に使えないからこのときの呼吸はそこまでやらない)
今まで腹式呼吸が自然にできなかったわけがわかった。確かに寝てやるときはまだリラックスしていて自然な呼吸ができるのに、立ってやると、体のあっちこっちに力を入れてやっていた。常に楽にして胸を開いて行い、寝ているときと立っているときの呼吸を同じようにできるようにする。下のどを固定し、上あごをあげる。(のどを開く連取をする。どうやったらあくのかなどチェックをする。)(「声とことばのレッスン」)
本からのレッスンで、先生の声、まわりの人の声を聞き、そして自分の声をきき、いろんなレッスンに出て、正しい声とはこういうものというのは、何となくわかるのですが、自分の声に関しては、まったくといっていいほど正確なイメージができていない。イメージを正確にしていく。寝た姿勢で歌に合わせて息吐きをするレッスンで、まわりの人の声を聞き、自分との違いに気づく。毎回だけど。この差について、自分で少しでもつきつめていかなければいけない。今まで自分で行っていたトレーニングのやり方の間違いに気づくことができました。とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
音声の勉強にこだわってみようと思う。まずは欧米人アクターのセリフまわしに注意して聞いてみる。深夜番組で昔の映画を流しているので、録画することにした。また、ビデオ屋に行ってもいろいろと揃っている。トム・ハンクスやロビン・ウィリアムスは一流のアクターなので、声だけでなく表現もとても勉強になる。最近はニコラス・ケイジがとても気になる。過去の作品から現在のものまで見たが、さまざまな表情を持っている。ちょっとドジで真面目な役も、ヒール役も、正義感溢れるヒーローも全て彼のよさが出ていて、見ていて引きつけられるいい役者だ。声がしっかり出ていて、会話から歌に入るシーンもあったが、無理なく自然な感じがした。
「私は歌手である前に女優なのです」歌うことが先にあるのではなく、その役である主人公の心、精神を表現することが常に重要であるから、歌を独立して考えていないのだ。エビータがバルコニーへ出て、大衆に向かって「泣かないでアルゼンチーナ」を歌うときの心の高揚はどんなものであるか。その歌のなかには国を立ち上げようとする心それは自分一人ではできない、皆で力を合わせるのだという強いメッセージ、それとエビータの私的な気持ち、私は貧しさを知っている。その苦しみを今もなお背負っている人々がいる。“国をなんとかよくし、人々を救いたい”というメッセージもあるだろう。歌とは、その内容を伝えるものではなく、その歌を通してメッセージを与えるという役割のものである。その強いメッセージを伝えるためには、人間の声の強さ、鍛え上げられた声でなければ伝わらないものなのだ。それを十分にわかっているこの人は、驚くほどずっと胸に声を置いたまま全身で表現する。だから聞く人も、その力に引き寄せられる。よく、スポーツで握り拳をして見入ってしまうのと同じ。力を出さないと、人の前に立つ、人に聞かせる意味はないのだ。こういう力強い声、歌を聞くと、いつも精神が問われてくるのだなと思う。
声は恐ろしいほど人間的で、その人の存在を示す。歌を通して人間性を見られてしまう。何も伝えることができなければ生きていけないことと同じくらい、責任が重い。人に伝えることができなかったという責任というより、何も残すことができない自分のみっともない生き方の方に腹が立つ。歌を選ぶとき、歌うとき、いつもいつもつきまとうのが何を伝えたいか、表現したいかということです。たとえば悲恋の歌ならばその悲痛な心を表現するのか。けれど、それで一体何になる、といったような具合です。けれど、今日のエレインの歌を聞いて、内容ではない、精神と力。内容は歌う人間が精進してその歌の精神を音声にどこまで近づけることができるかーいわばその歌のもつ色をどこまで出せるかというところに勉強すべきで、聞く人は内容(悲痛にわざわざ形式されたもの)を聞いているのではなく、その声での表現一色に期待している部分がほとんどなのだ。でなくちゃ、外国の言葉のわからない歌に心惹かれる理由が他にはない。
紅白で和田アキ子さんの歌に私は涙を流した。けれど、部分部分しか歌詞は聞いていない。感動的な“この歌を伝えたい、どこかにいるあなたへ”というサビでの本気の力強さ。精神力。これが伝わってきたからこそ受け取ってしまった。
フレージングのイメージがまったく描けず、自分に腹立つ。やたら興奮して空回り。冷静に集中しよう。自分にないものを素直に吸収していこう。どうしてもオリジナルの歌い手の感覚引きずられてしまう。切り放せない。歌いながらそのなかで見つけようとして、少しずつ遅れていった。全体を捉えず、細かい部分にとらわれていく。動かない。動かしている人がいた。うねっている人、そうでない人。できている人はきちんと自分の出した提案にしっかり結論出している。息と感覚の線がつながっている。フレーズの最後までしっかり責任もっている。最後のフレーズは私のテンションが上がりきっていて、とんでもなく高い音を出した。でものどを痛めなかった。フレーズはよくはなかったが、こういう声も不可能ではないのだと思った。
別の日のレッスンのこと。タンゴ・イタリアーノミルバと岸洋子の違い。リズム感。タテの深み。
1マリエきのう夢をみた
光さしこむもやの中に
はだしでかみを乱した君が
むらさき色の森へかけていった
2あなたの眼をことばもなくみつめるだけ
さだめといういたずらに
引き裂かれそうなこの愛
3よるをわすれてよるにむかって~
(ダンスはうまく踊れない)
音程が正確であることは必要だが、しかし一番大切なのは歌い手の感情・感覚・音色。ステージ上では「観客を口説くのだ」という言葉が胸に残った。
瞳のささやき:クリスタル・ゲイル
Say it isn't true
And don't it make my brown eyes Blue~]
Tell me no seacrets,tell me some lies~
今日先生がおっしゃっていた中で最も印象深かったのが、私は今回その曲をこのように聞きました”とか、“(自分が、とかこういう風だからこうなったのだと思う”といった感想を、自分の感覚を変えていくことによって、密度の濃い、というよりもがらりと違ったものにしていくことこそが進歩であるということ。
これまで書いてきたアテンダンスのなかに、ほんの少しではあるが“あの曲に関して私はこう思った”といった一節もあったのだろうが、どうもなんだか雰囲気をただ単になぞっているだけのような、浮ついたものしか書けていない。そんなのだれだってわかるぞ的なものを書いているから(感覚面で)、誰だって底辺の簡単に見破られることのできる浅い歌しか歌えないのだ。
それはたった今ハイどう思いましたかとつきつけられて書く(そもそもつきつけられていること自体間違いで、どんどんイメージが浮かんできて自分から書いて本当だとは思うが)場合においてが既にそう。どうせ大したことは書けないな、という不安がまず先に立ってしまう。(前にもこんなこと書いた気がする)何にも変わっていない証拠である。
“黒い鷲”。邦楽(洋楽だが日本人歌唱という意味で)の私が聞いてきた中で一番新しい部類。聞いたことのない曲調。こんな迫力のある曲をこれからもっと知っていきたい。岸洋子さんは女性なのにとても中低音部の音色が説得力の豊かな響きを持っていると思った。私にとってさえ低いと感じ音域を余裕で響かせている。体の支えがなくちゃ出ない声だということはもちろんだが、こういった音色にして物語ろうとしっかり狙ってその通りになっているだろうことがすごい。こちらがばっと聞いて“ああ、やさしいなあ”とか"ダイナミックだなあ”と山と思うということはその印象に近いイメージを本人が殊更強烈に感じて出そうとしているから。とこんなあたりまえのことにも改めてはっとさせられる思いだし、自分はまったくできていないのだから決してこれはあたりまえの話ではないのだ。
ギタリストの村沼佳織さんは“どういう音色を出せば人を感動させることができるか、楽譜に隠された精神を読み取ろう、汲み取ろうとすることで考え、そして演奏する”とおっしゃっていた。それが“演奏家”としての務めだそうである。ハイレベルだと思った。小さなときからギターに従事している人はいろんな“ド"や"レ”を、意識していなくとも自分で勝手に出していたり、教わっているときに聞いたり、で知っている。(私はそれすら知らない)今後はそれを“狙ったとおりに出そうというのだからハンパではない。もう一線で活躍しているのに、現在の自分のやり方での限界を見据えて(一流で売れていることは思いを音世界で表現できているということそれでも何か足りないと彼女が感じていたのはそれが“自在”なものでないから、思うままの作品ではないからなのだろうか)いや、一線だからこそ新たな境地を開拓しようと冒険し続けるのだろう。
そういった行動はもはや常人の手の届かない距離にあると感じて私はその有り様をテレビで見ていて、彼女の表情に見入ってしまった。“アーティストは、存在そのものがアーティスト然としていて創造的だから素晴らしい”という文をどっかで見た。彼女は自らの次ぎなる道を創造していく。いろんな“ド”や“レ”をしることができれば。
ペギー葉山のフレージング。「ドレミの歌」ものすごい集中力であることが感じとれた。おもしろい。楽しい。「ド」は「ド」ーナツの「ド」全部「ド」違う「ド」。感覚の違う「ド」だ。音色の使い分け。子供が言葉を覚えるための歌でもあるし、1音1音しっかりと置いている。流さずに。そのために少しもたっとしたところあるが、そこもいい感じになっている。小さなその歌が私の心を支えた。歌と共に空へ消えた悲しみ、「ささえた」のたを落とした方がメロディがいいと思うが、次のサビへ導入するために音をキープしていて、ちょっとあいまいなところが印象に残った。オリジナルの外国語だと違和感ないのだろう。
私は身体ひきずっている感じ。言葉言い切れていない。なめらかさない。船出に歌ったよさき節を~(南国土佐をあとにして)上から舞い降りてきたメロディをよさこいで受け止める。音の問答。キー合わずに面肩が、こいで踏ん張ってみた。民謡的なニュアンスこめて。土佐の拘置のはりまや橋で某三かんざし買うをみた、よさき節を取り入れている。おもしろいうまい。はじめて聞き、はじめて発したフレーズだったが、それらしいかたちは描けたと思う。私のなかにこういう音楽が入っていたのか、不思議。
体を使うということは、体の力を抜くこと。私はちょっと勘違いしていたようだ。上半身の力だけ抜けばいいと思っていた。そういえば、リラックスというのはもちろん精神面でもそうだけど、体全体のこというのだと思う。いわれてみればマリア・カラスが歌っている姿も、体のどこかに力が入っているようには見えなかった。考えすぎているということ。確かにフレーズのとき、いろいろ考えていた気がした。考えて歌うということは自分のなかに閉じこもった状態で歌っているということになる。ということは、見る側、聞く側を無視していることになる、そうか、だから、かわらないのか。
入り込むだけではだめで、伝えなくては意味がない。100回やって99回すてる、もっとひとつのことを粘って粘ってやりつくさないとだめだと思った。こうやって書いてそれに満足しているだけでもだめだ。自分で自分に本当にやったかと問うて、やったといえるぐらいやらないと本当に全てに意味がなくなる。そういうことなのだと思った。そして、表現する表現して相手に伝える、働きかけるとはなんて果てしなく、難しいことなのだろう。一流の人の歌を聞いて歌ばかりマネしたってそういう表現することに対する、Power、エネルギーテンション、集中力、そういうところを見たり聞いたり感じたりしなくちゃ本当に何も意味がない。今日のレッスンですごくそう思いました。
Astのなかで、私が全身全霊を使って相手に伝える1回1回それをやるために、やるために何が足りないのかを考える必要があるのだとも思いました。それから、このアテンダンスに書いていること。いつも同じようなことをいわれて、同じようなことを書いているような気がする。そんな、ムダなことして何になるのかと思う。返るは自分だ。何か“こと”が起きたとき、その人の本当の力が試される。肉声をとりだす。→音になる。ここのプロセス、イマジネーションの世界。
私は、最初ムスタキの私の孤独を聞いたとき、自分のなかでイメージしてみた。森のなかに老人と女の子が小舟に乗ってお話ししている。天気は晴れているような曇っているような、そして、森の音、湖の音以外は何も聞こえない静かなこと路。そんなイメージだった。ムスタキと死って、そういえば昔、母が録音を聞いていたなあと思った。家に返って聞いてみたら、母の知人がムスタキが好きで、その人を理解しようと聞いてみようということだった。「でも暗いから」というのを聞いて確かにこの詩じゃねーと思った。でもそのとき母に「詩の内容とか知っているの」と聞いたら知らないという。じゃあどうして母は暗いと思ったのだろう。曲自体はそんなにマイナー調とかではないし、どんより重たいリズムでもないのに。そう思ったとき、これがムスタキの表現力であって、それが母に伝わっているのかと思った。母は特別、耳の肥えている人でもない。ごく普通の人。ただ、昔からシャンソン(金子由加里←まちがっていたらごめんなさい)とか越路吹雪とか好きなだけで、音楽がどうのとかはいわない。とにかくこのことは本当に何というか、びっくりした。でも、こういうことが大事で、“感情に流されない”ということも含め、全てに置いて、この授業の先生の話につながっていると思った。
ポイントを絞り、方向性をつけて一本の流れをつくる。最小で最大の効果ねらう。
アモール モナムール マイラヴ こよいもわたしと·命の泉あふれる アモール モナムール マイラヴ
「ア」から「モ」が「アモール」から「モナムール」が生まれる感じ・(解る気がする)
フレージングとき、しっかりと強いリズムをとらえること。リズム見失ってフレーズ手離すことが多い。ダメだと感じても最後まで続けるようにしよう。建て直しを図るのも大切なことだ。
アモールモナムール~までは割と思う線が絵がけたが、「マイラヴ」の置き方が難しいと思った。「あふれる」本当にあふれる感じ出そうと思ったが、このリズムだとどうももてあましてしまう。イメージと身体でしっかり支えきれず、リズム失った。
最後の「マイラヴ」は一番難しい。同じこと繰り返したくないし、いい余韻のこしたい。
今日は「どうイメージし、どこが一致して、どこがズレたか」が明確に見えたのでよかった。ここしばらくその手応えがなくて苦しかった。
岸さんのバージョンはうまいし美しいけど何か面白味に欠けると感じた。外人の(歌い上げる)バージョンは「ここまでやるか」ってとこで面白い。「愛してる」というフレーズはわずかなニュアンスで大きく意味あいを返るから面白いし、難しい。
ラブミーテンダー(E.プレスリー)を歌い、チェック&クリニック。ひとりずつ診てもらえてすごく感謝。ただ、やっぱり病院みたいに緊張してしまった。
私の診断 英語の発音。LOVE(ヴ)等。根本から学び直さないとダメだろ。よく聞くことだ。上っ面でなく身体の動きとかも感じとれるといい。わかるまで聞くこと。
アゴ下げる。ずっとギターかかえて地べたに座って歌ってクセつけたのだと思う。首のばしている方が感情がストレートに音になる気がして直さずきたが再チェック。私、歌うとき鼻の穴広がるのです。アゴ上がっていると確かにステージで目立つんですコレ。再チェック。
舌を引っ込めないように。変に動かさないこと。英語だと特にそうしてしまうのかも。再確認。言葉によっては意識的に舌を動かすこともある。それが自分の歌の個性と思うところもあり、“クセ”か“味”か、歌って聞いて確認。いぜん先生に舌根が発声を妨げているといわれたことがあった。今も高音になると舌で加工してしまうクセがあるので注意。
口をしっかり開くと同時に首から腹まで、気道を開くイメージ。力を加えてはいかん。アゴまわりもやわらかく。
※苦手な英語より歌い慣れた自分の歌診てもらえばよかった。負けおしみですけどね。
ラーブ ミー テン ダー 最初は極力シンプルにとらえて身体に感覚に)入れる。声はポーンと飛ばすイメージ。止めたり押したりしない。子音小さく、母音線をつないでいく。イメージ。高い音は軽くて小さいイメージ低い音は重くて大きいイメージ。
研究所では特に全音に芯をもってシャウトできるべくトレーニングしていると思うけど、確かにそこ意識すると然フレーズ重くて動かなくなる。トレーニングとステージ(歌)は別のものだということ。あくまで歌は感情・感覚が最優先で、それに合わせて発声を使い分ける技術とセンスが必要。
イメージを描くこと。そしてそのイメージに音声音色が違和感なく近づくこと。
今ある感情の元源になるものはもっと外にたくさんあり、それを私は触っていないということ。今ある内面のものを出す感情表現はまだまだ無理だということ。内にあるもの、外にだせるものと、釣り合いが保たれてしまうということ。もっと内のものを溜め込まないと、外に出るものなんて、全体の割合からいえば、“ちょろ”でいいと思った。何で色気のない私。それとわからない毒を吐きたい。詞と戦い中。自分自身は今はもう出尽くした。でも絶対に私を空間に浮遊させたい。
ジェイン・バーキンを最近かけるけど、このバカバカラブラブエロエロチック、空気をつくられてしまう。こんなマネはとてもしやすいところだが、ただのバカバカラブラブエロエロチックに終わるだけの今の世の中、日本。私。フランス語の刺激に負けず空間を埋め尽くしたい。それとなく。でもみんながその空気を吸い込む。確かにいろんなものがあふれ構造されて、だから本物という顔してだましているけど、違うの、まったく面白くなくて、つまらない。みんな無口になるのもいいかもしれない。神様にいつかたどり着けるのですね、と祈りながら。
「正しいことを繰り返しやって身体に覚えさせる。中途半端なことをやっているとそれを覚えてしまう。」といっていた。今の自分はまさにその状態にいる。声のことを気にするあまり臆病になってしまい、思い切りがまるで悪い。歌っていてつまらない。
ロックだ。速い歌は得意ではないので、何かヒントが見つかることを期待した。この歌のキーは高くて出ないかなと思っていたが、出してみたら出た。精神的なもの、テンションの差はかなり大きい。トレーナーのピアノから感じとれたことだが、“メロディ”よりも“リズム”で歌う感覚を実感することができた。すんごく気持ちいい瞬間があった。福島先生が別の表現でいっていたが、私もフレージングの際に、そぉーっと触れてからグイッと押すようにするところがあったけど、ロックは特にズガンと撃ってサッと引く、もしくはふわりと泳いだり(浮かべたり)するところに面白さがあるというようなことを歌のなかで感じた。(ロックに限らない。場面による使い分けが大事)鋭く引かないと遅れていく。今日、単語やフレーズによって音のつけ方について気づいたところ1)~bed last night~:ベッドは1音なのだけど、この8分音符の一瞬のなかにクイッとすべらせて表現をつけるだけの空間が存在するのだと感じた。2)~you are boy~たまだま大福のようなまあるく、少し重い感じでいてみた。直前の(You don't know how~)でハネたフレーズをうまくうけとめていて、おもしろいフレーズだなど感じた。3)ma mar mind:この感触はおもしろい。気持ちいい。思い切りよくいかないとこのフレーズ感出ない。
適当にまとめたり、ごまかしてはいけないと先生はいった。今日とり上げた人も本気で歌ったらもっとうまいはずといった。日本人は本質を突き詰めるのが嫌いなのだと。耳の感覚から入れて、体に落とす。まず、耳から入れられるものが少なかった。聞けていないのだ。声の質や、抑揚、フレーズの楽器の音色、できるだけいろんなことろから感じようとしてみたが入ってこない。声の強弱だけ。それでも感覚を総動員して、声を出すが、体がないため、もっとひどいことになっていった。自分のフレーズは感情のない口先だけのものだった。何度やっても同じで感じていないから出せないのだと思った。ごまかしたりする以前の問題だ。
自分が何ができていないかがわかればやることは見えてくる。気づくことができないのなら耳から感覚できないのなら、できるように良質の歌を浴びるほど聞いてそのなかから一つでも二つでも自分で気づいていけるようにならなければできるところまででよいといわれたのに、やめた方がよいとおもうところまで歌ってしまったのが2回あった。なぜ歌ってしまったのか。そこまで歌いたいという気持ちと、何とか成るかもしれないというような気持ちが混じっていたと思う。もっと冷静になろう。何か一つでもわかるものがあるとき、感じられたとき、それを出したくて、やることがはっきり見えている(できるか否かは別として)わかるものがないとき、感じていることが曖昧なとき、それを探すだけで時間があっという間に過ぎてしまう。
絶対に何となくやらないようにすること。そして権威レッテル思いこみを外して音楽を聞けるようになりたい。先生方、見本の歌い手は確かに正しいけれど、その日のメンバーのなかにも正しい瞬間を出している人もいる。それはどん欲に吸収していきたい。そして自分も常に出せるようにしたい。一番出せるようにしたい。見本の人にひきずられて合わせたり、とりにいってしまうような部分は、やっぱりになるし、聞いている人も気持ちよくないと思う。自分でつかんで、握って、動かして、進んでいくということだ。その戦いから逃げていたら何の意味があるのだろうか。自分の悪いところをいつまでも気づかないふりをしていたらダメだ。同じレベルにいつまでもいるのは、逃げや守りだ。
決めつけから解放されないと音楽にはならない。こんな歌だと聞き流したり、こんな感じだと歌い流したり、こんな感情を出せたからよしみたいなところでやってしまってはいけない。いくらその歌の雰囲気や感情を自分が感じていてもそれを聞いている人に伝えるには明確な違いがある。早く歌を歌う側に立たないとダメだ。
感覚の話を聞いてハッとしたことは、まんなかの線を自分であまり意識していないと思ったことです。だからいつも最後まで到達しなかったり、振り回されたりしているのかと思いました。フレーズの終わりまでどう終わらせるのかというところまで意志をもってやれるようにする。そう考えると、全部を引きづって最後まで統一できるわけがないので、その間に捨てるということも必要になるといことだと思いました。といっても他の線も明確に意識してできているわけではありませんが、特にまんなかの線を意識できていないということです。こぎれいにという意味ではなく、やっぱり洗練されてスッキリしていないと、と思いました。
古賀メロディ・フレージング「影をしたいて」どうにも焦点定まらず。すごく重たい。実際に音程は上がっていくのだが、・常に下に下に引っ張る力があって、それに耐えながらのっしのっしと前進するイメージを持ってしまった。確かに後で考えるとすごく単純な構成だと思うが、なんかとても複雑に捉ええてしまって、部分ばかりみつめて先を見失った。そっけなく真っ直ぐに歌ったら、何もなく過ぎ去ってしまう。
福島先生が「ワンフレーズのなかで2つ、3つと何かを起こす」のだと説いていた。
起こす、というより起きる。どうしようもなく起きてしまうところを感じとっていく。「感じる」より「考えて」しまった。技術で、もったいぶってすぐにもイケるのにわざとじらしているような、いやな先入観をそのままなぞろうとしたから余計いやな感じ。もっと根本まで洗い出して、自分に気持ちいい感覚に置き換える必要があるのだろうが、まったくできなかった。一回、一回、フレーズごとに入れ直している(置き直している)という意味はわかった。
まぼろしの 影をしたいて 雨に日に 月にやるせめ わが思い
つつめば出ゆる 身の口に 身はこがれつつ しのびなく
私は歌は息をおなかから“押し出す"イメージで歌うモノだとばかり思っていて、「ヤッホー」のような軽い叫びではなく「ギャッ」に近いくらいの勢いで出すものとばかり信じていた。そんな自分が情けない。Rの授業やCDを聞いていて気づかなかったのか。私は図(A)のように息にぎゅうぎゅうに声をのせて押しまくっていた。本当にうまい人は(B)のように息の流れにスラリと乗れていて、ゆとりあがるのだ。(C)もいけない。声と息が一致していない。でも私の場合(C)暗いの気持ちで歌う方が今はいいかもしれない。(あくまでも今は)それで(B)にまとめていく感じがいいと思う。イメージって本当に恐ろしい。歌は本当にイメージしたとおりに声に表れてしまうのだと思った。イメージを変える、もっとRをみて声を感じとる。ハミングの練習で押さないように、毎日こころがけていきたい。
横になって息はき。声出しても状態変わらぬように。注意。私は発声時ブレスでつい肩が上がっているらしい。(胸に入っている)・横になっていると、とりあえず脱力してなるがままにすれば声は出るが、ヘロヘロとたよりないもので、キーンと真っ直ぐに保つのはやはり筋肉によるコントロールなのだよなと実感した。・「アー」で発声したが、より外へ発しようとするとのどにかかりそうになるので、それを防ぐべく身体で支えようとした。のどにかかりそうというより声が細かく、散らばりやすくなるイメージがあるので、気持ちを集中して一つのたばにまとめようとするような作業。
CDに合わせての息吐き。
1.きよしこの夜(マハリア・ジャクソン):ブレスの早さがすごい。“吸っている”感じがない。森進一もそうだったか。息が太く長く安定している。フェイクもまったく違和感ない。呼吸の感覚についていけない。想像外。
2.スティービー・ワンダー:“これでもかフェイク”しつこいけど本当すごい。この人の声聞いたときに、「あ、毎日歌いこんでいる声だよな」と思った。声の音色って、作ろうとして口のまわりで加工しようとするものでは(本来は)ないのだろうなと思う。ステージやレコーディングでそう意識するのはまだその程度なのかも。この歌の前半の声は無意識のなかにふと出した声のなかに味というか感触みたいなものが染み出ているような気がした。この人の身体は超人的だと思う。
最後のローングシャウト。・発声「キ」「ケ」:キは特に息がうまくのらないときがある。フレーズの詞によって使い分け。隣の人が自分と似た声だと、その人の声色に似せて便乗して、自分が出せている気分になることがあるらしい。一度、思い当たるところあり。
ウォーミングアップも大切。自分はどれくらい発声しておいたら本番にベストなのか。10分ほどでやめておくべきか、少しずつずーっと発しておくべきかなど状態を知る。・笑いすぎるとたんがからみやすくなる。本当。
フレーズ間の空白にも、生命が宿っているのか。1フレーズ山下達郎:Someday Someday SomedayひとりじゃなくなりSomeday Someday Somedayなにかがみつかる。繰り返すSomedayは全て同じではなく、音楽的な感覚、人間の生理的なセンスによってビミョーにズレているから機械的、無機質に感じない。“自分のフレーズとか一切考えず、葉直に感じることだけ思った。山下達郎の歌を歌おうと考えたこともなかったし、方向性も私とはまったく違うと思っていたが、フレージングしてみると部分的にすごく近いものを感じる瞬間がある。彼のフレーズ感が私に刷りこまれたのか、単にキーが近いのか。久しぶりに自分としては「あ、いいかも」というフレーズが出せた。自分のフレーズのなかに見えた気がした。
Someday、Someで思い切りよく踏み込むとDayが自由になる。動きながら、どっちにいこうか選べる自由があったと思う。フレーズ間の空白が生きているか死んでるか。全体を把握していて、更にフレーズの入口、しめぎわがそれに沿っていて、充分に責任持っている、というか意志が通っているのが伝わってくる。逆にいえばワンフレーズ聞いて曲全体のイメージが伝わってくるような歌は空白も生きているとわかる。いや、うまくいえない。2フレーズキャロル・キング:Way over younder~、ウェイオーyounder~、ウェイ オーバー ヤーン ダーと聞こえちゃダメ。彼女は(歌い出しだし)軽めに歌っているけど、自分はドカンとフレージングしちゃった方がそこに気づくのが早いような気がした。しかし、何度もやったのにその感覚に近づけなかった。声が消え入る瞬間まで、いや音がなくなった時間にもしっかりと意志をおく(入れる)こと。歌・音楽の本題だと思った。この感覚を産み出すためにこそ、さらに声や感性を準備しておかなけりゃいけないのだ。
歌っている途中で崩れてこない(乱れてこない)体力をつける。→汗をかくような強化トレーニング、筋肉を使う。
日常生活において声に対する感受性を磨いておく+それを判断する自分の基準。
太い息を吐くには体をリラックスさせておかないと出ない。
すぐに反射できること「ハイ」きちん
とバッと出せること・音に対する反射速度の速さ、反応の早さ。声を出しているときの感覚←全てのことにすばやく反応できる感覚。
「ハイ」トレ→息を優先させる意識を持ってやる。
“自然な「ハイ」→当てられて返事をする「ハイ」ではない。
いつも思うイメージの大切さ. この点でもじゃあどんな「ハイ」なのか。それを想像し、創造しなくてはならない。
この姿勢だと浅い息しか出せない(もちろん声も出ない)。脇腹を突き出すようなやり方でも息の出所はすごく泣く、発声と共に腹をヘコませるやり方と比べ、思うように「吸え」ないので「吐きっぱなしのようになってしまう。(ヘコませるときのように「ハッ」「ハッ」「ハッ」と砲弾を撃てない)
3少し前までは↑のような「吐く」ときに腹をヘコませるのか、それとも脇腹を拡げるようにするのかどっちが正しい体の使い方なのだろうか、とわからなくなったりもしたが、どっちが正しいとかじゃなくて両方やってみればいいのじゃないかと思うようになってきた。「正しい声」と「正しくない声」だけじゃない。ギターにだってクリーントーンとディストーションギターがってどっちもOKだし、どっちも大好きだ。喫は自分の100点の声を知った(身につけた)上で、50点の声とも使い分けるようなそんな風にやっていければ。何でもアリだ。後はトライするかしないかの問題。 声が出てくると息と離れていってしまう。いつも、どうやればいいのかいまいちわからなかった(基準)が、これはトレーニングのテーマとしてわかりやすい。変にまとめようとする上っ面の声の出てこようとする頭を押さえつけられるかもしれない。
Almost heaven West Virginia blue Ridge Mountain.She nan do ah River.
Almost、heavenの<e>の音をしっかりと出す。<v>の音も。<n>でひっこまない。West,estをいえた上にwをつけるイメージ。Virginiaの<V>Bではない。Blue、中途半端に出さない。口をとがらせて前へ押し出す感じ。Ridgeのはねないこと<i>の音を出す。
Almostの<t>の音を出した勢いでheavenにいくといいやすかった。<t>の音<h>の音は出せても<v>の音では息がひっこんでしまい、その結果heavenの<n>にお音は外に出ず体のなかに入り込んでしまっていた。それだけの息が前に出ない。自分が思っているいおうと前に前に押していかないとのみこんでしまって音が出てこないようだ。他の人のフレーズを聞き前へ進んでいく感じがしないのはなぜかと考えると息のスピードがないことが大きな原因だと思う。感覚の問題もあるだろうが、後少し前へいけばというところも息のスピードがないからそこまで押している時間がなくなってしまう。
それではスピードのなかで時間を感じることはできないように思う。それと深さがないため口先で全ていおうとすると言葉をまわすだけでエネルギーを使ってしまう。背中の舌の方で(腰か)全て捉え動かす感覚があるととても楽になると思う。自分でやってみて気づいたことはいっているところをみているということ、その結果フレーズ一つひとつをみるとスピード感があるようでも、全体でみると何か流れていない感じがする。こういう意識の持ち方では聞いている人とほとんど変わらない。自分の意識はもっと先へいっていることが大切。先Wをみていることでフレーズ全体のスピード感がつくように思う。
Life is old there older than the trees.Younger than the mountains growin like a breeze.
二重音しっかりと出す。mountain<au>Life<ai>、like<al>、growin<ou>LIFEの<f>の音=v舌くちびるかんで音を出す。<f>から<I>にいく感覚。treeの<t>の音、体重をかけて<ree>を出す。複数形の音、trees、mountains、breeze(複数ではない)他の人のフレーズを聞き何人家の人が同じようにやっていたのだが、younger、than、the、mountainが1、2、1、2、のリズムになっていて、それはかなり格好悪いことではないかと感じた。前へ押していく感覚がないと母音で時間を感じるにはいたらないと思う。いっているところの先を感じていること、大きなフレーズをイメージすることで吸収も大きくなる。うねりを自分でつくり出すような感覚で飛び込んでいくこと。つかんだものを押してゆくという単純なことが繰り返しできるようにしたい。自分は今どうなっているかというと先をみようとすると細部がかなり雑になり、一つひとつしていたことが抜け落ちてしまう。それとはぎゃknl細部ばかりを気にすると、勢い、スピードに欠けフレーズも小さくなってしまう。この問題はいつになってもつきまとってくると思うが、少しでも質をよくしていくには部分的な問題を解決した上で、思い切りよくやっていくしかないだろう。
音程にしてもリズムにしても全て自分の体に入った上で意思をもって出さないと伝わらないということが今になってわかる。音楽というのは気持ち悪いくらいはっきりしているもののような気がする。<プロの場合>以前はそういうふうには感じなかったが、一流のものを聞いている中で少しずつ体や感覚に浸透してきたものがあるようだ。他の人のフレーズをも聞いているとプロとの差がというより大きな、大きな違いがみえる。何一つ明確ではなく形になっていない。秩序がどこにもない。たぶん芸になるもののベースには何かしらの秩序が存在するのかもしれない。今まで何となく気になっていたことが何だかものすごく気持ちいいと感じるものに変化しつつある。よくわからないけれど感覚は変わっていくものらしい。
.Up in the mornin,out of the job.Work like the devil for my pay.
前に出る、出ない(フレーズが)ということはよくいわれるが、他の人のフレーズを聞きまんなかで捉えていないものはどんなに大声出してもそれていってしまうように聞こえた。自分の意思をいれるにしても真芯でとらえないととんでいかない。そういうことがかなりはっきりしてきたように思う。他の人のフレーズを聞き、自分も同じようになっていると思ったことは直線的だということ。なぜそういうふうになるかというと音と音の間の感じ方が浅いからではないか。トレーニングのある段階では言葉をしっかりといおうとするため、音の流れが止まってしまうということがあるけれどつなげていく感覚、意思は磨いていかなければと思う。雑に聞こえる数というのはその音と音の間が隙間だらけなのではないか。プロの歌は言葉を捉えた上で、きちんと流れている。上面をなでているだけのものではないし、かといって止まっているだけのものでもない。今できていると思っているレベルは大したことがないと思う。言葉をしっかりということにしたってかなり中途半端だ。踏み込んで止まってしまうのはよくないが、今は踏み込んだものを方向性をもってどう前へ進ませるか考えてみたい。
But that lucky old Sun has nothing to do
But thatをおいていく感覚は私のなかにはない。表面的になぞるだけで感覚がないと何も出てこないことを感じる。いつでも出発はよく聞くこと、感じることだと思う何かがわかったつもりになってきていると何もみえなくなってしまう。新しいきづきがあってもそこにとどまらないこと。より聞こうとすること。自分の感覚や体が変わらないところで歌っているものは平面的で思っている以上にサイズの小さいフレーズと思う。ほんの少し視点を変え、意識を遠くにおくことによってフレーズの膨らみが違ってくる。こういうことは今までもあったがはっきりと自覚していなかった気がする。体の感覚が変わる、イメージや意酸で変わるというこのことを今はみていきたい。
but roll around heaven all day.
このフレーズの<heaben all day>あたりを聞いていると何かがまわっているのを感じる。その回転しているところに気持ちよく言葉がはまっているように思う。自分でやってみたのは恥ずかしいほどこうやっていますというのが丸見えと思うが、今はそうとしかできない。決して直線の上にこの辺でいいだろうと置いているものではなく、はり回転している中でここだというの・があると思う。回転している上をスピードをつけたり、止まったりと変化しながら前へ流れていっているように思う。こういう感じ方をもっと鋭くしていきたい。音と音の間で何を感じているかそこで感じるか感じないかは大きな差だと思う。大きく捉えた中での動きをみるとともに、出すときの集中力が必要になってくる。ルイ・アームストロングとレイ・チャールズの歌を聞き、なぜこんなにも自由なのかと、それに比べ自分のフレーズはがんじがらめで苦しそう。拍はこうだ、リズムはこうだ、声はこうだ、といろんなことに縛られている。声量の大きさが歌の大きさに結びつくわけではないということが少しずつ体を通して見えてきたように思う。自分のイメージが音や空間を広げてくるレッスンのなかで自分の感覚や体がどう変わるかそのことに気づくことが全てで、そこで得たことは自分にとってかけがえのないもの。
natalaは上の歯のウラの根元に舌の先を当てて発音する。フレーズは英語の言葉の持つ滑らかな線を意識し、声を前に出す。言葉をはっきりと細かい言葉で口がまわらないでぎくしゃくしないように、次の音がつながっているところをよく聞く。口のなかを広げて、今までの間違った発音の感覚で自分なりに変に作らないこと。歌を聞いて音をそのまま受け止める本当に忠実に聞き取る体制を作っておく。そしてコピーして間違った方向で歌っていないかチェックする。洋楽は息を使って歌っている。そして私たちも息を吐くことから今トレーニングしている。今日のレッスンで、n.t.l.th.f.v.の発音をやってみると実に舌や唇を動かさなくてはならないことに気づく。
英語には日本語にない子音がたくさんあるわけですけれども、私たちにとってこれらの子音は苦手だし、よく聞き取れない。子供の頃に英語のまねで“ペラペラ"とかいっていたのはそういうことだったのでしょうね。こういう子音は確かに聞きづらい、不明瞭な音だし、やはり日本人の私には思います。で、この言葉(子音立ち)を明瞭に発するのは息をたくさん使って発して音にしなくてはいけないのではないかと。この息をたくさん使うということが「息を吐くことからトレーニングしている歌を歌うこと」となっていると思うのです。
歌を歌うために息を吐くというよりも英語を(伊語でも仏語でも中国語でも日本語以外なら)発するためにはたくさんの息が必要だし、その言葉で伝えようとして歌っているわけだから息が必要になってくるわけではないかとそこで息を吐くことには充分になれている彼らは息を充分に使って声をコントロールして美しい歌声(魂)を伝えているのだと勝手に解釈しています。それに、息というのは、息をしなければ人は死んでしまいますよね。自分の意志で心臓やや脳の動きは止められないけど息だけは止められます。その呼吸で吸ったり吐いたりして声を出して、普通ではない息や呼吸のリズムまでして息を伸ばして苦しくなるまで息を吐いて歌ったりする。また、その息の吐いたり吸ったりする音が聞こえたりするのは、歌の味わいだったりするのかと思いました。
発音の件に戻ると、息をたくさん使って唇や舌をたくさん動かして発語するものなので、実際今まで私が感覚していたよりも“もっと大きく口のなかを開けて発声している”ようにWhere is the loveと聞こえました。ペラペラ~と口のなかで曖昧に発音するのではなく逆に口のなかを開けて前に言葉を出すように発音しなくてはいけないのですね。そうしないと、本当に不明な音になってしまいますと英語人たちも思っていると思います。
・弱点:顔、舌、唇等のストレッチが必要。is the love等のところでぎくしゃくします。歯を閉じてその歯のウラに舌をつけて発するisのs。歯で舌を噛んで発するtheそしてLOVEのLと短い時間でこんなに舌を動かさなくてはいけないのですから、日本語しかしゃべれない私にはまだまだ修行が必要です。
【ステージ実習・ライブ実習】
一流をみると、結局表立って聞こえてくるのは、その歌の想いなのだけれど、バラバラにしてみてみると、技術もやっぱり一流。音とリズムをはずすことなど0%。わざとらしくするための発声も0%。本当どこへ出しても恥ずかしくない技術を持っている。でもそれは絶対表立って出てこない。それはなぜかというと、技術をみせるという歌い手は一人もいないからだ。声楽でさえやはり表現しているのだ。だから考えることはどのようにしてその歌の想いを支えるかということだ。もう一つはオリジナリティということについてもんもんと考えています。真正直に自分の言いたいこと、それを代弁してくれるであろう歌を選んできたつもりでしたが、それではいつまでもオリジナルに到達しないと思います。何を捨て何を残すのかということも含めて、自分を消すということが一つの方法であるのだと思います。そのためにステージ実習を利用していかないといけないのに勘違いしていました。これを感じたのは2回目です。以前は結局定着しなかったので今度こそステージ実習を有効に利用できるようにしたい。
出だし少しあせった。前半の言葉のキレが悪かった。リズムの刻み方が甘い。「けれどもう」の後ためて「おしまい」のところで全て終わった感じを出したかったが、いまいち踏み込みが足りなかった。「話すことなど何もない」の後の「Wow Wow」のキレが悪かった「かけてこないで」のところは声はかすれだけどしっくりきた感じがした。後半リズムがもたついたかもしれない。歌い出しリズムに乗れた。体の動きと言葉がフィットした。全体的に気持ちよく歌えた。伝えたかった感覚はある程度伝わったような気がした。サビの音程乱れた。「あまった手売りのデモテープ」のところはしっくりきた。「いつか俺たちも〜」のところは入りすぎ。歌い切ったという感覚は少し感じられた。スタミナ不足。アクセントと体の動きでビート感は出せたような気がした。曲の構成をもっと練るべき。声でのメリハリ、イメージをもっと真剣に考える。リズムの回転、キレをいろんな音楽を聞いて感じて体に入れる。押す、引く踏み込む、離す。呼吸の回転をフレーズに活かす。
もっとより客観的な部分で自分の歌を聞いて感じる部分を増やしたい。歌う理由、表現したいものをシンプルに整理したい。歌っていて何を歌っているかはっきりさせたい。まだまだ曲の流れと気持ちの流れが一致しない。そうすると、外への働きかけにはなってこない。もっと自分のなかでの消化やいろんな表現の挑戦がたりないとつくづく感じました。
フレーズとかは、原曲をまねているだけなので、自分でも「ここがオリジナルだ」というところがない。「いい曲だね」といわれて終わることはいやだが、ぼくがごちゃごちゃやると、全部自己満足になって聞き手に新鮮さを与えられない。「ここをこうしよう」というのがまったく浮かんでこない。歌が本番で化けるためには、本番で歌っているときに感じたインスピレーションにすぐ反応して、音に表す反射神経が必要。反応できるように発表までに体と音を一致させておかないといけない。
「花」は音域が広いけど、低音は語りに近い感じでまとめ、高音はうまく扱っていた。人生継続というか、味わいが出ていたと思います。
いつもは声のパワーや音楽性が前面に出てくるけど、日本語の歌で「これは本心からの叫びだな」と思えるフレーズ、言葉がいくつかありました。
課題曲のサビ、二ヶ所ほどピッチが狂っていて心地よくなかった。狂ってはいけない場所もあるのです。それ意外は、曲調も明るいし、表情も生き生きしていて、ラストにふさわしいと思います。ここ一年で、何か内面の変化を感じます。