投稿 938
音信☆
最初にここの存在を知ったときというのは、現実の自分というものをあまりに知らなく、自分は世界で一番歌がうまいという思い込みが心のどこかにあったように思います。それでいて、実際には自信というもののかけらもなくいつも焦ってばかりいる毎日でした。それで自分はこの先いつかビッグになるので普通の仕事は肌に合わないなどといって、仕事もどれも長続きしないでいました。そのなかでヴォイストレーニングもそこそこにしかやっていないのに、そこに存在するだけでずっとずっと歌に逃げていました。誠に恥ずかしい話です。それからもう去年の話になりますが、ショークラブで歌う機会にめぐまれ、カーペンターズなどを歌っていました。いろいろな人に“がんばりや"といわれながらもなんとなくしっくりとこないようななんというかそんな気持ちにおそわれようやく、自分のなかに歌いたい叫びたい伝えたい気もちがうすっべらくそれでは歌えないと思いました。
だからプロとして歌を仕事にはできないとしても、アポロシアターのアマチュアナイトに出場したい。その気持ちは消え去りませんでした。だからお金をためてニューヨークに行こうと思い、なんとか今の仕事は続けています。そのなかでも人について学ぶことは私にはたくさんあります。それでこれは(この仕事は)今の私が通らなくてはならない道なのだなと思っています。少し話がそれましたが、そのアポロシアター・アマチュアナイトのためにまたヴォイストレーニングをはじめようと思いました。そして自分でもヴォイストレーニングをやるのだからという言い訳をして現実の自分や状況を受けいれることからまた逃げようとしていた気がします。いつか、どんな風にか自分に合った形で自分を表現する心からの歌がうたえれば、という気持ちは去り得ません。いつの日かそうなれるよう人の気持ちを知り、人の痛みを知って自分を大切に人を大切にして生きていけたらと思っています。福島先生にお会いできたこと、教えていただいたこと一生忘れません。本当に本当にお世話になり、ヴォイストレーニングの発想そのものをお教え下さったこともうれしいかぎりでした。本当にありがとうございました。
初めまして。私はNew Yorkで歌の勉強をしています。昔から歌手になりたいという思いがずっと私の心の奥底にあり、日本ではジャズヴォーカルのレッスンを受けていました。しかしヴォイストレーニングをまったく行わずにそういうジャズヴォーカルのレッスンを受けても歌が歌えるようになるはずはありません。約2年そのレッスンを受けましたが、もう一度一からやり直したい、自分の可能性を試したいと思い、約3年前にNew Yorkへ来て、アメリカ人のヴォイストレーナーにつきました。そのアメリカ人の先生のトレーニングは100%納得できるものではなく、いつも心のなかに不安と焦りがあり、レッスンも休みがちになり、歌をやりたいという意欲まで失くなりかけていました。それでレッスンをしばらくの間休むことにしました。半年くらい歌から遠ざかっていて、そろそろまた歌をやりたいという意欲が沸きかけてきた頃、フラリと入ったNew Yorkの日本書店で、「ヴォイストレーニングここがポイント!」という一冊の本に出会いました。それを読んで私は生き返った気がしたのです。今まで自分が漠然と思っていたことがはっきりと書かれていて、正に眼からウロコが落ちるようでした。読んでいてそうそうと深く納得したり、そういうことなのかと深く感動しました。そして歌をやりたいという情熱が燃え上がってきました。その本はいつも手離さず何度も何度も読み返しました。そして特に感銘を受けた部分に線を引きました。線を引き出すと一冊の文章の80%以上、ほとんど全てに線を引かざるを得なくなりました。線を引いただけでは満足できず、特に頭に入れておきたいと思う文章を全てノートに書き移しました。それからすぐにレッスンを再開しました。同じレッスンを受けても自分の意識が変わったからか、前とは違って感じました。しかしそのアメリカ人の先生のトレーニングにはあまり納得はできずに、挫折しそうになったこともありましたが、いつも「ヴォイストレーニングここがポイント!」を読んでがんばっていました。そしてまたフラリと入った本屋で、2冊目「決定版ヴォイストレーニング」を見つけ、すぐに買いました。
ちょうど同じ頃New Yorkで活躍するジャズヴォーカリストに出会い、その人もヴォイストレーニングのレッスンをしているといいます。話を聞いてみると福島さんの本に書かれてあるのとまったく同じ考え方を持つ先生でした。そういうわけでその先生に、今年の8月からレッスンを受け始めたのです。そこから私の歌の世界はどんどん広がりました。彼女のレッスンは、できることとできないことを明らかにしてくれるし、こういうトレーニングをすればこういうところが伸びるということを具体的に教えて下さるので、今自分がやっていることに自信と確信が持てて体がすごく鍛えられているという実感も感じられるし、充実感があるのです。そして彼女がレギュラーで歌っているところで月に2回ほどたった1~2曲ずつですが私に歌う場を与えてくれるのです。そういうわけで自分の夢が夢でなくなってきたことに大変な喜びと、将来に対する意欲が沸いてきています。道が開けてきました。「ヴォイストレーニングここがポイント!」と「決定版ヴォイストレーニング」は気がつく度に読み返しています。そうすると、以前意味がよく理解できなかった部分が、自分が体験した後ではよく理解できるようになっていたりします。そして忘れかけていたことをもう一度思い出させられハッとすることもあります。この2冊の本は私が歌を歌っていく上で神様のような存在です。(2冊目も線で埋まってしまいました。)ここまでひとつのことを深く知り、追求し、発表される福島さんのことを心から尊敬します。読むたびに感動し、発見し、深く考えさせる2冊の本に出会えて本当によかったと思います。
私にとって歌うことは生きて行くことです。歌を勉強することは人生を勉強することです。歌は人生を教えてくれます。福島さんの書かれた2冊の本は私に生き方、考え方までも教えてくれます。
本当に奥深いです。本に書いてあったように、基本を確実に習得して、本物のヴォーカリストになりたいと思っています。今は人のステージで歌わせてもらっていますが、いつの日か自分のステージをNew Yorkか日本で、またはその両方で持てるようになりたいと思っています。私の人生を煽るきっかけとなった2冊の本に深い敬意を表します。そしてその本を書かれた福島さんを人間的に心から尊敬し、感謝しています。本当に本当にありがとうございます。どうしてもこのことがいいたくてペンをとりました。今後もより一層のご活躍を期待しています。そしていつの日か福島さんにお会いしたいと秘かに願っています。
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人のためとか、何かをよくしようとか、お金を稼ごうとか、何でもいいが、そのもの本質がその価値をもつものか、常に直視しないといけない。MCなんて本当はいいたくない。刻一刻と死に向かっていると感じる自分にできることは何だ。
自分よりちょっとだけ早く入った男の子達がだんだん上手になって、1年半のピークとやらも少し見れたりして2年かけても体に声が宿るのかあやしい身としては、女子の方が時間かかるとはいえ、いろいろ思ったり、研究所きてブルー入ってたんじゃ洒落ならんなー。“必要性”のある人・ない人ありますよね、わかりません。でも見てて、なんだ、声や歌ってこんなものだったんだ、なんか異次元の大そうなものにとらえててアホちゃうって今回の集中講座の収穫だったかもわかりません。
歌の勉強に来ているって他は今のところ自分に接点のあるものというのも思い当たりません。世界が違うかもしれないしー。歌とか表現を欲してないといけないんでしょうけど、ここまでいきたい、そうでなきゃイやっていうのに、今まで歌う声で話す女の人を2人みたことがあるけど、初めて福島先生がノリキのロビーで何かしゃべったとき、あんな風になりたいというか、しゃべる声が変わって欲しい、変わるとこまで行きたい。そこまで行かないとやったことにならない気がする。誰も何も云ってないのに1人でお終いだと思って、ずっと泣いていたけど、仕事とかもちょっとひいてみれば私できただろうに大そうにばかみたい。欲しいものと、どうでもいいものとお金の使い方や欲しいもののコントロールもメリハリがつかなければ格好悪い。
歌おうとか、しゃべろうとか気のふれたことを真顔でいえるのはここだけだし、1年も5年も10年も20年もあっという間だけれど、これでギリギリ、失くしたらお終いって気分も大いにある。平和だったり、幸せだったり、さみしかったりいろいろするけど、ドタンバのところでほかせないような、こわい、なんだろうこの気持ち。物事を冷めて大局的に受けとれるのがその人の器になるのかもしれないけど、ふだん日常話を交わしているような人とかはきっと、いろいろ、ぶちぶち切れているに違いないし、可愛らしい人にはわからないだろうけど、福島先生って優しいんだなって思う。で、理屈でなしにみんな何かを肌に感じているのかもしれない。
ジタバタしつつ私は“外の人”(音楽の)なんだろうかっていう自問はいつもある。でもよいステージなら誰でも応援しようって思いは同じと思う。研究所とか学校っていうのはふつういつ迄も残るのかなって思ったら、いろんな人の心を残し乍らいつの日か露と消えたりいっぱいしているみたいだ。イメージの世界だけに、とかも緑とかもあるだろうし間違えないのは齢をとるだろうことだけで、だからこそゴールのイメージがいるけど、そんなこといいながら最期だったりする、わからない。
前回の会報の「影響を受けたヴォーカリスト5人と[代表曲]ワンコメント」がなかなか興味深い。
思わず私もみんなと同じように「影響を受けたヴォーカリスト5人と[代表曲]ワンコメント」挙げてみた。
フレディ・マーキュリー(クイーン)[伝説のチャンピオン] “師” /ピーター・ウルフ(J.ガイルズ・バンド)[ハウス・パーティ]“男”/アンソニー・キーディス(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)[アンダーザブリッジ]“赤”/スティーヴィー・ワンダー[美の鳥]“神”/山下達郎[ヘロン]“匠”。
そして更に(上記の私の5人も含めて)全部を集計してみたら果たしてどのようなランキングになるのか(果たして誰が最も影響を与えたのか)も調べてみたくなる。というわけで、結果は以下の通り。
研究生が影響を受けたヴォーカリストTOP48
2)ボール・マッカートニー(ビートルズ) 9ポイント
2)フレディ・マーキュリー(クイーン) 9ポイント
4)セリーヌ・ディオン 8ポイント
5)スティーヴィー・ワンダー 8ポイント
5)エディット・ピアフ 7ポイント
5)ジャニス・ジョプリン 7ポイント
8)サラ・ヴォーン 7ポイント
8)ベット・ミドラー 5ポイント
8)ミルバ 5ポイント
11)加藤登紀子 4ポイント
11)尾崎豊 4ポイント
11)クラウディオ・ビルラ 4ポイント
14)美空ひばり/ボブ・ディラン/オーティス・レディング/アレサ・フランクリン/エンゲルベルト・フンバーディンク/井上陽水/忌野清志郎(R.Cサクセション)/カレン・カーペンター(カーペンターズ)/ビリー・ジョエル/デヴィッド・カヴァーデイル(ホワイトスネイク)/スティーヴン・タイラー(エアロスミス)/矢野顕子/ホイットニー・ヒューストン/稲葉浩志(B'z)/マライア・キャリー 各3ポイント
29)ビリー・ホリデイ/エルヴィス・プレスリー/グラシェラ・スサーナ/マーヴィン・ゲイ/ダニー・ハサウェイ/エリック・クラブトン/ジョニ・ミッチェル/ブルース・スプリングスティーン/ジョニーロットン=ジョン・ライドン(セックス・ピストルズ)/リッキー・リー・ジョーンズ/吉田美奈子/松山千春/マイケル・ジャクソン/長渕剛/飛鳥涼(チャゲ&アスカ)/ジョン・ボン・ジョヴイ/NOKKO(レベッカ)/吉田美和(ドリームス・カム・トゥルー)/ホリー・コール/カート・コベイン(ニルヴァーナ) 各2ポイント
結果を見ての感想、やはりビートルズの影響って大きいんだなあと改めて思ってしまった。そしてジョンとポールとでは1ポイント差でジョンに軍配が(ちなみに私もジョン派です)。ジョンは一番人気の「イマジン」以外に「ヘルプ」や「カム・トゥゲザー」といった必殺ロックンロール・シャウト・ナンバーの支持も得ている一方で、ポールは「イエスタデイ」と「レット・イット・ビー」という2大スタンダード・ナンバー(3大となると「ヘイ・ジュード」が入ると思うけれども「ヘイ・ジュード」はなぜかあげられてなかった)に人気が集中しているというのが興味深かった(もちろんポールにだって「ヘルタースケルター」や「ジェット」といった必殺ロック・シャウト・ナンバーはあるけれどもこれもなぜかあげられてなかった)。そして偉大なるジョンとポールに続いてどころかポールと並んだのがフレディ“私の心の師”マーキュリー。意外だったのが女性ヴォーカリストの一位に輝いたセリーヌ・ディオン。ホイットニーやマライアという同時代の歌姫のみならずピアフやジャニスという伝説の女王たちをも抑えての堂々一位。恐るべし「タイタニック」の歌姫(笑)セリーヌが今後も一位をキープできるのか(主婦業に専念→引退という話もあるけれども)これはものすごく興味深い。まあ基本的にはTOP10人は選ばれるべくして選ばれたという感じかな。
日本人女性歌手の一位は断トツで美空ひばりさんかと思ったら加藤登紀子さん。確かに「百万本のバラ」はいい曲だと思う。やったね、お登紀さん(笑)。そして日本人男性歌手の一位は尾崎豊さん。あれ、“豊”じゃなくて“紀世彦”じゃないのとも思ったけれども(笑)まあ納得は納得かなというわけで、なかなか興味深かった。
意外だったのが、ミック・ジャガー、ボブ・マーリィ、ボノ(U2)あるいはフランク・シナトラあたりがランク外だったこと。ミック・ジャガーとボブ・マーリィはかろうじて1ポイントあったもののボノやシナトラが0ポイントとはエルヴィス・プレスリーにしても2ポイントとは。
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5月号に「ヒット作りの六ヶ条」なるものが密かに記載されていた。ヒットすりゃあいいってものでもないけれども、ま、ヒットしないよりかは、ね。
【ヒット作りの六ヵ条】一、大衆のライフスタイルの変化に敏感にそして半歩リードを(映画/角川書店社長=角川歴彦) 二、リアリティのあるものを作れ(テレビ/日本テレビプロデューサー=土屋敏男) 三、アマチュアの(フレッシュな)部分をプロの技術で見せろ(出版/漫画家=小林よしのり) 四、「作品」は「商品」と割り切って売るプロ意識を持て(音楽/アンリミテッドレコード社長=井ノ口弘彦) 五、好きなことをやり続けろ。誰かが見ていてくれる(演劇/ザ・コンボイ主宰=今村ねずみ) 六、自分の才能に自信を持て時の人/タレント=KONISHIKI)
織田幹雄さん
亡くなりました。織田幹雄といえば、1928年のアムステルダム五輪で日本人史上初の金メダリストとなり、走り幅跳びと三段跳びで数々の世界記録、日本記録を打ち立てて、戦前の陸上界で大活躍され、戦後は指導者として、またスポーツ界の重鎮として大きな功績を挙げられた方です。その織田さんと生前親交があったという方のお話が載っていました。織田さんが語られていたという言葉。「簡単なんです。少し変えればいいんです。その少しの工夫をしないで、才能のせいにしてあきらめてしまう人が多いんです」('98年12月20日付、朝日新聞)。珠玉のような言葉です。織田さん、どうか安らかに。
外国人と話しをしていると、彼らの声は、自然と息が使えている。自分は話しているときすごく弱々しい声しか出ていない。何度か普段から息をつかって、話せるように試してみたが、意識しないとすぐ戻ってしまう。普段から使えるようになりたい。(
歌とは、一つで捉えた意識の集合体。
君にYesを言うよ
どんなに君が汚れてしまっていても
君にYesを言うよ
どんなに君が嘘をついても
君にYesを言うよ
どれだけ君が落ちぶれてしまっても
君にYesを言うよ
どれだけ君が人を傷つけ続けていても
この世の中は仕方のないことばかり
何で生きてるんだろうって
夕闇にまぎれて、ついためいきついてしまうんだ
誰かによく思われたがっている自分に疲れて
スゴイ奴って思われたがってる自分に気付けないで
ありのままの自分に“Yes”って
なかなか言えないんだよネ
だからサ
君にYesを言うよ
たとえ君がどうしようもない失敗をしても
君にYesを言うよ
たとえ君が犯罪者であっても
君にYesを言うよ
たとえ全てに人が君を否定しても
君にYesを言うよ
社会のルール乗り損なってしまっても
いつでも、どこからでも、君の気持ち次第
やり直しはできるんじゃない
そんなにあんまり自分を責めたりしないで
どんな時でも君なりに生きているのだから
自分で自分を否定してしまうのは悲しすぎる
だからサ
君にYesを言い続けるんだ
君にYes、君にYes
そのままの君でYes(塚本)
高いテンションで、冷静に、熱く、静かに。
わかるまで聞くことわかるまでやること。
歌より前に、自分は生きているのか。(4/7.渡辺(貞))
「偽の自分に別れを」この前、祖父の部屋にこういう句が壁に掛かっていたのを見た。“人は努めている限り、迷うに決まったものである。”そうだ。自分が自分になろうとしているところに苦難はあらわれ、自分が自分であろうと維持するところに困難ははばかる。自分になろうとするのをやめたとき、自分であろうとするのをやめたとき、静かな闇が訪れる。さて、現実対立か、現実逃避か。正しい物事なんてこの世に存在しない。決めるのは自分自身の信念によってのみである。
計算し尽くされた演技
人の心を動かしても、自分の心は動かない驚きも感動もない世界
現実に対する感覚が完全に麻痺していた
音楽は孤独を紛らわすためのドラッグ
深くまで入っていこうとして何度も引き返す静けさが怖い
この世界でリアリティーは死の感覚だけ
でもそのなかへ入っていくしかもう道は残されていなかった
静けさは思いもよらず優しかった
体の力を抜いて少しずつ正気を取り戻すことができた
手を握るとその人は強く握り返してくれた
しばらくの間言葉もなく見つめ合っていた
その人は逝ってしまったけど、少しも悲しくはなかった
ある人が心を開こうとしていた
長い間受け継がれてきた孤独がいやされると、
優しい空気が流れ出し、
多くの人の心をとかしていった
つかえがとれたようだった
そんなものがまだ残っていたことが意外だった
全てを許しいやしたつもりだった。
支えてくれた人たちの言葉が、気持ちが
心よりもっと深いところにゆっくり落ちていった
感じ始めた、静かに、強烈に
その感覚に身をまかせていると空気が広がっていくようだった
愛が生まれ1つの悲しい物語は終わったこれから始まる新しい世界
多くの人が深く結びつきますように
高校生だったある生物の時間、「鍛冶屋の利き腕は太い。でもこれは遺伝ではないね。」と先生がいいました。せむしのような背中の、とったおもしろい先生でした。が、特に尊敬していたとか、影響を受けたとかそういうことはありません。ただその言葉は覚えているのです、なぜか。“音楽に自分の残り時間を捧げようよう決め手何年か経った今、あらゆる世界のプロとしてやっている人たちを、見たり、知ったりする度、メンタルな面と共に、後天的な肉体の変化にものすごく魅力を感じます。たとえばスポーツ選手の部分的に異様に発達した筋肉。たとえば町の豆腐の両手の分厚そうな皮。目的のために整つきが変わってしまっている。でもそこにその人の魂が、何だかドクドク脈打っているようで。曲を作って唄おうということは割と自然に始めたことゆえ、随分長いこと、私は自分の声を粗末にしてきました。そろそろ潮時です。声のプロ。いや、自分自身のプロフェッショナルとしてこの声を本物へと変えていきたい。そう、鍛冶屋の利き腕のようにぶっとく、力強く。
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おすすめ
JBやオーティスレディングなどの黒人のヴォーカリスト。ヴォーカリストとしての彼らのテンションの高さ、リズム感、体から溢れているパワーがすごい。彼らが足踏みするだけで空間が動きそう。テンションの研究をするのに多く学べそうです。特にバラード系の曲のテンションは興味深いものがあります。
バーンというヘビメタ専門雑誌
セバスチャン・バックが「次のレコードでは(声が)もっとよくなるよ」とコメントしている。彼のような、世界トップクラスのシンガーでもよりよいものへと前進しようと努力している。彼のような人物に敬意をもって自分も前進していきたい。
「いいねぇ素敵だね男優編」淀川長治。
淀川氏がチャップリンからトム・ハンクスまで37名の男優を紹介しているのだが、どの俳優も皆長い時間をかけ自分をつくってきたのだというのが見える。アカデミー賞の授賞式でジャック・ニコルソンが「10年前いわれたものだ。俳優には絶対むかないからやめろと」なんていっていたっけ。何かをつくり出す、生み出す人間の情熱ははかり知れない。私たちもその情熱を受け継いでいるわけでこのときが地球の歴史の1ページいや1行に満たなくても何かを記していけたらと思う。
朝日新聞夕刊
芸のうまいというも、下手というも、ほんのわずかの差である。その差は決して技巧の差ではない。その人の人柄からくる無技巧の差である。(名優、大河内伝次郎)素直で謙虚で笑顔の人に幸運の女神が舞い降りる。(阪神、野村監督)
「エレイン」
深く考え込まされた。敢えて最低の言い方をするならば“モノマネ師”だっだがあの迫力、説得力はどうだ。その表現は決して笑いには結びつかない。思うに、音や動作それ自体を似せることを“モノマネ”と呼ぶならば彼女がやろうとしているのはその人間の真実の姿をそこに再現することだ。それがすなわち、“演じる”ということだろうか。だから、ピアフのところを聞けばわかるが歌自体はピアフのそれとは別のものだ。まねようと思ってまねできるものでもないのだろう。ピアフの歌を再現するには、ピアフの体が絶対必要不可欠だから。だがそこで無理をするのでなく、足りない部分は彼女のイマジネーションが補う。つまり、あの歌はピアフのオンガクでもなく、エレインのオンガクでもなく、「エレインのイマジネーションがつくり上げたピアフ」のオンガクだ。何たることか。“演じる”とはかくも大胆不敵な試みか~そう、唯一歌のなかにエレイン自身を感じたのはキャッツの主題曲「メモリー」をマイク片手にシャウトしているときか。「こんなことをやりたいとは思わないな」と思って観ていた。だが、彼女の演じる人間を3人、4人と観ていくうちに、彼女の新信念が人生が伝わってきたように感じた。あれはやはり彼女なのだ。エレインのなかのエヴア・ペロン。エレインのなかのエディット・ピアフ。※晴らしい肉体芸術だと思う。歌に関してはよくもまああんなに違うことができるもんだなぁと思う。本当に器用な人だと思う。それでそこに真実をみせられるのだから恐れ入る。自分は、たった一人“分”をだせばそれでよいのに。それから、ピアフの歌のすごさを改めて思い知らされた。いかに体を使って深いところでぶつけるようにして歌っているかを違う体でわかりやすく解説してもらったような気がする。
吉田拓郎さん
「Cup Star」のコマーシャルでエレキのベースを手に弾き語りをしていた。彼の昔のアルバムはフォークギター一本で、素朴な味わいに満ちており、そのなかに同じようなメロディの曲があったこともあり、懐かしさを覚えた。ファッションも60年代を意識したもので、ビジュアル的にもキマッテいた。しかし最近「Love Love」等で3枚目に徹している姿を見慣れてしまったせいか、少しオチャラケて見えてしまった。10年前くらいまでは歌番組にゲスト出演で1曲歌うだけで、その番組を食ってしまうほどの迫力と威厳が漂っていたのに。新しいイメージ作りをしているのだろうが、昔を知る1ファンとしては複雑である。
Liveを見に武道館へ入ったが、アルバムで聞いたノリとはかなりギャップがあってつまらなかった。ヒドかったのは「声が限界」と連発し、ずーっと水を飲んでばっかりだったこと。オイオイ武道館だよ、君はプロだよねー、と思わず「4,500円返してくれー」いや、ホントにびっくりしました。スガシカオはただの若ゾーでした。情けない。アルバムをつくるのが得意なアーティストと、Liveで本領を発揮する人(←日本では許される)。でも本物のアーティストはどちらもすごいはず。
「KEEP THE FAITH」を久しぶりに聞いてみた。このアルバムはこれまでの私が聞いた中でBest5に入る名盤だが、特にDry Countryでの歌唱は素晴らしい。彼(ジョン)のセリフで「僕はVOCALISTとしてトップになれなくてもかまわない。だけど"あいつの歌には本当の生の感情がこもっている”といわれなくなったらミュージシャンとしては終わりだ。」というのを昔、雑誌で読んだことがある。今、改めてこの曲を聞いてそれを思い出した。曲の出来もさることながら、一言ひとことに込められている極めて密度の濃い感情を感じる。ああ純粋になりたい。いらないものを全部そぎ落として浄化したい。(4/4.H.2.佐野)
聞き手が考えるより早くこれでもかといろんなアイデアを重ね合わせてくる。シャンソンやオペラも自分たちの形で背負うかして、浪曲やものまねと同居している。風刺を笑いに変え、音楽として楽しませるという芸。それもハイセンスでいやみがない。表現の自由。自由な表現力。この時代にここまでやっていた人たちがいた。出会うべくして出会ったと思う。私は彼等の試みをさらに音のなかに溶け込ませていきたい。(4/10.渡辺)
モータウンの60~70年代に活躍していたコーラスグループ「THE ORIGINALS」のベスト盤
「VERY BEST OF THE ORIGINALS」がリリースされていました。ハスキーで太くてシャウトした感じのヴォーカルがボクはとても気に入っています。曲もメロウでよいです。フレーズをコピーするのにもわかりやすいかも。Marvin GayeやStevie Wonderがプロデュースしている曲が収録されているので、そんなところもお勧めです。
CDショップ
代々木のエキの側に中古CDショップがあるのを知っていますか。「CHICK」のベストとかも売っていたので探せば安価の掘り出し物が見つかるかも。でも、品数はいまいちです。本業は中古レコード屋でした。1Hくらいのレースンの空き時間の暇つぶしにはなると思いますよ。場所を知りたい方はお気軽に声をかけて下さい。
「シーラという子」
トリイ・L・ヘイデン著(早川書房)~招待されたある少女の話~
全ての人に読んで欲しい。魂はどう扱われるべきか、愛とは何か。何度も胸のどこかが破ける感覚がし、リアルな虐待の部分では部屋の隅へ放り投げるといった行動なしではよむことができなかった。(「平気で嘘をつく人たち」もそう)恐ろしかった。私自身、抑留状態になった経験もあり、そのときの生きていることへの絶望感が甦る。鋭利物体がすごいスピードで私をズタズタにするのだ。人間から生まれたものなのに、人間が放置しているものが。人類全体の問題だ。誰もしないなら私が踏みとどまってそこで踏んばってやる。“けれど私は一人じゃない。いつか皆、私の仲間になってくれるもの。”ジョン・レノンの言葉を借りたらそうなりますね。恵まれなかった人が恵まれた人からも恵まれないなんて絶対おかしい!!P.290<シーらの父親に対する文>―かつて、痛みからも苦しみからも決して救われることのなかった小さな少年がいて、それが今、一人の男性になっているのだった。ああ、そういう人に気配りをしてあげるだけの充分な人間がいたら、無条件に愛してあげるだけの人がいたら一私は悲しい思いでそう思わずに入られなかった。(トリイ・L・ヘイデン)
(東京ドーム)ライブ観た。ヒューマン・ネイチャー(青年4人ヴォーカルグループ)本国ではアイドル的位置づけなのか、よく知らないがアカペラでもしっかり決められる技術を備えていた。印象に残ったのはカバ一曲のみで、うまいのだが特出したカラーがない。曲も悪くないが、残らない。ダンスなのかハーモニーなのか、絶対的な売り物を一つ作らなきゃ。それでもワールドツアーにつれてってもらえたのだから大したものだ。さて、御本人登場。まんなかに備え付けられたステージ。そのせいか私が観た他のライブ(Rストーンズ、プリンス)と比べてあの広い空間を小さく感じさせた。音響にも細心の注意が払われていて、彼女の音量は曲によって多少変えられ、全部の楽器の音がクリアに届いた気がする。ごまかしがない。他の人がどうかあまり知らないがこの人のライブのクオリティの高さはあらためてすごい。いまここで行われていることが、まるでVTRを観ているような、夢か現実かわからないような世界。何も心配せず身をゆだねられる安心感。それを知ってわざと現実に戻そうとしているのか、アレと思うようなところで1拍多くはさんだりするところが2ヶ所くらいあった。私の聞き違いじゃないと思う。多分。意外と人なつっこい人で、それがMCにあらわれていた。観客にライトを向けて、ぐるりと6万人をなめるようなシーンがあった。歌の力で彼女一点に集中して自分がこんな大勢のなかの一人だと気づき、なんか感慨があった。彼女のCD解説にもあったが、彼女の歌に対する、観客に対する感謝の気持ちがすごく伝わってきた。ミラーボールの下で「サタデーナイトフィーバー」ばりのダンスをしたり、他人の歌もたくさん歌った。そこまで降りてきてくれなくてもいいのに、と思うくらい客を楽しませること、そして自分の歌を聞かせることに全力をつくす。「パワー・オブ・ラブ」完璧すぎてあきれるほどだったし、バーブラ・ストライザントとのデュエット曲は泣けた。ふと気づくと、ステージに背を向けている警備員がみな一斉に眼をこすっていた。泣かしたのか。6万人が息をのむ瞬間を幾度か感じた。6万人の沈黙。たまらない感覚だろうな。
「ハラをなくした日本人」
(著:高岡英夫恵雅堂出版)ところどころ胡散臭いところがあるが(たとえば「7オクターブの音域を持つ者が歌唱指導」する写真とか、「力の殺し方を力士に教えている」として、力士と組み合う著者の写真があったりする)、それも「自分の理論の絶対性をより強固なものにしていこうとしているのだろうな~」と納得させられるほど、随所に現代人が何を失ったがが、ディレクトシステム、身体意識という言葉をキーワードに、パイオニア的本質的なものの見方で書いであると思う。印象的な部分を抜粋。
(1)「腰でボールを打つ」という言い回しを常時使用していると、うまく打てたときには、まさに運動する体のなかを、“下半身”から発生した「涙」という名のエネルギーの固まりが、体幹を通って、胸から肩、肩から腕を通ってバットの芯へと移動していくのが感じられるようになるのである。このときの「膜」のように、目標とするパフォーマンスをいつでも実現できるようにするために、運動主体の認識に直接働きかける作用を持つものをディレクターと呼び、ディレクターによって構成される「認麟―制御体系」をディレクトシステムと呼んでいる。人間がある水準以上のレベルで身体運動を行うためには、すぐれたディレクターによって構成される高度なディレクトシステムを見出し、目的とする運動をすべてそのディレクトシステムによって押さえ切れるよう日頃からトレーニングすることが必要である。ディレクトシステムトレーニングを行うと身体意識が活性化されるため、単にその運動に習熟するだけでなく、知覚・意操作能力や独創性までもが開発される、筆者は東洋の古来からのディレクトシステムに丹田、西洋のそれにセンター(正中線)を挙げている。映画などで主人公が“自由に音楽にノル”というような設定のシーン(パーマネント・バケーションという映画で主人公がレコードをかけて踊るシーンや、ビートルズのA Hard Day's NightでJohn Lennonがダンサーに混じって踊っているシーン等)で西洋人のそれは、明らかに正中線を基点とした異質な感じであると私も以前から思っていた。そういえばBreath Voiceでいう胸のなかからの声、というのは、新しいディレクトシステムの概念なのかな。福島先生が武道を薦めておられるのは、おそらくディレクトシステムの存在に迫るよい手段だからではないかな。
(2)「感動」の「動」は「身体運動」の「動」であって、身体で感じ、身体で喜び、身体で怒り、身体で泣き笑うことができない者には、「感動」そのものが存在し得ないのです。今のロックコンサートなどは、マニュアル化された「感度の疑似体験」に過ぎません。ロックはそもそも身体意識の高い人々によって想像された文化だったのですが、今のロックは、その大半がもはや身体意識を失った若者に感度のマネゴトをでっち上げる、超強力な大衆操作装置に成り下がってしまったのではないでしょうか。
(3)武術・武道も、能・歌舞伎・文楽・邦楽・茶道・華道も、そして礼法も、一切の武芸技芸が「気が通い」「身に染みる」身体意識を「身を持って知る」認識力を根底とし、「肚を括り」「気の入った」生き様のなかから鍛えぬかれた「足腰」に支えられたところの「心気息一致」の「筋金入りの技」によってのみ、創造され、伝承され、発展させられてきたことは、紛れもない事実なのです。
(4)(日本人をカニ族、西洋人をエビ族とわけ)今スキーの板、バイクスケボー・サーフボードに乗っているとして、ごくわずかにたとえばたった1ミリとか百分の1ミリとかのみ乗り物が動いたときに、その動きともいえないようなわずかな動き)を止めようとするのが安定、反対にその動きに乗ってさらに動こうとするのが安流ということなのです。カニ族の特徴は、丹田を有し安定で、エビ族の特徴は、センターを有し安流であることです。この話は何やらリズムの授業(円運動のイメージなど)を思い出させる。
(5)カニ族の利点もエビ族の利点も有さない人番が日本に急増しています。こうした運動核を、私はカニ族と呼んでいるのです。まあ厳しい言い方かもしれませんが、社会や民族の頽廃化を象徴する“カビ”のような存在であるという意味も込めて、そう名付けたのです。
(6)電車のなかで、座席にふんぞり返り、立ち客に構わずに足を投げ出して平然とする人々が、増えている。バスのなかで他人の足を踏み、道筋ですれ違う通行人にカバンをぶつけて平然とする人々が増えている。こうした現象を、もし“マナーの低下”としてのみ片付けるとしたら、それは重大な過ちを犯すことになるのであろう。なぜなら、こうした現象においてはマナー以前の“身体意識の低下”に、ことの本質的意味がかくされているからである。自分の長い脚がどういう角度でどの方向に投げ出されれば、他の乗客の脚や身体とどういう空間的関係を取り結び、その結果人々がどういう余分な物理的・生理的運動を要求され、どういう余計な心理的負担を被らなければならないかということ、一連の因果関係それ自体が、彼らには“感じられなくなっている”のである。この“鈍さ”人間という動物種としての、といってよいほどのこの“純感さ”こそを、かつて私たち日本人は、幾百機千年も歴史を積み重ね、克服してきたのではなかったか。
“フリーダムアコースティックコンサート”ときに爆音でエレクトリックギターをかき鳴らし、ときに手作りサンドイッチを切ろうとして大切な指まで切ってしまう。全てが絵になる男ニール。このライブは声とアコースティックギターそしてハーモニカを用いて勝負している彼らだが、よくある日本人のこの手のプレイスタイルのミュージシャンの内向きな表現や、客に求める情緒的な迎合といったものは一切ない。ここは常に変化を恐れることなく歩いてきて、立ち止まることなくまたどこかへ歩いていってしまうだろう彼の両足が踏み鳴らすビート(鼓)が力強い音で鳴り響いている。感動的なまでにすごい。
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【苦労を楽しむ】サインを頼まれると「努力」と書き添えます。弟の猛も同じです。現役で走っていた当時のライバル、瀬古利彦、伊藤国光氏らに比べ、自分たちに肉体的素質がないことは自覚していました。勝つためには練習するしかありません。だから努力なのです。ただし、努力というのはやってあたりまえ。努力の成果を出すには自信が必要です。自信ができて競技に「勝ちたい」という欲が生まれると、気迫が出てくる。「相を突き放すぞ」という気迫こそが、勝負を制するのです。気迫といっても表れ方は選手によって違う。バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した森下広一は、絶対負けたくないという気持ちを全面に出す選手でした。対照的なのが、同じレースで転倒しながら8位に入った谷口浩美。普通は大会の結果によって表情や態度が変わるものですが、彼はまったく変わらない。常に自分を心の内に保つという意味で、精神的に強い選手でした。気迫を生み、強くなるためにめざしているのが、「苦労することを楽しめるチーム」づくり。スランプで重い体を引きずって走るのは確かに辛い。でも、そんな中でも、苦しいけれどよい走りができているな、と感じる瞬間が選手には必ずあるものです。「あ、体が動いて「いる」と感じると選手は喜びでいっぱいになる。苦しみを楽しむコツをつかんだ選手は、練習をすればするほど強くなるのです。たとえば、森下は1万メートルを10本走る練習をすると、5~6本目の一番苦しいときに飛ばしてきた。なぜそうするのかと尋ねたら、「鞍習の段階から他の選手を抑え込んでおけば、いざ本番で森下にはかなわない」と思わせることができる」という。彼など苦労を楽しんで強くなった選手の典型でしょう。
「野村監督知将の思考」(江本孟紀著))
【プロフェッショナルとは】当り前のことを当り前にやるのが、その道のプロプロとは、限界を超えた世界芸は道に通じる実力をつけるための進歩、上進歩は疑問符の積み重ねである自己否定の境地から自己改善に入り、自己修正の積み重ねを繰り返す上速のタイプ・人間の身体は機能的、構造的に発展するようにできている・成長、発展には意思と能力が大きく働く進歩の大敵間違ったことに気がつかない・自己限定人間になってしまう
【限界験】限界を超えた世界がプロの世界本当のプロの戦いは限界から始まる限界を感じたところをどう刺激するか・あと一歩の努力をするかしないかで人生が決まる
【人生への提言】1)人生に近道なし(四苦八苦するのは人間の宿命)2)人生に失望なし(何もかも失われても、未来だけは残っている)3)人生に待ったなし(チャンスをつかめ、チャンスを生かせ)映「のど自慢」ノベライズマガジン「「のど自慢」な人びと」を思わず購入、興味深い記事の数ある中でも特に「ガイジンが見たのど自慢」という記事は興味深いので、最後に書き留めておきたい(マズイ、興味深い記事を書き留めるという“悪い癖”がまたまた顔を出しはじめてきた(長々と書き留めてしまうのでできるだけ止めようと思っていたのに)なあ(笑))。同じ外国人のいうことでも微妙な相違があって(但し、アメリカ人もイタリア人も基本的に芸および芸能人を観る目は厳しい、という点では共通していると思う(日本人はどちらかというと甘いでしょう)けれども)、ね。※アメリカ人=デーブ・スペクター氏が見たのど自慢「NHKのど自慢」はよく見ていますよ。チャンネル変えながらですけど。日本人は基本的にアマチュアを見るのが好きですね。シロウト文化なのですよ。会芸なんかも好きですよね。忍耐力があって、やさしくて、心が広いっていうのかなあ。お笑いの世界でもそうですけど、シロウトとクロウトの境が微妙ですね。シロウトがテレビなどへ出ることが多くなると、いつの間にかプロになっているという。へたっぴなところや、白紙の状態からつくられていくプロセスを見るのが好き。そういう点で「のど自慢」を受け入れる土壌がありますね。欧米では、見る側にプロしか見たくないというところがある。目立たない、マイナーなところで芸を磨いてもらって、その後プロになったところを見たいのです。下積みはいいのです。アメリカにも、「スターサーチ」という「のど自慢」に似た番組がありますけど、出る人みんな真剣だから楽しくないのですよ。妙に深刻になっちゃって。「のど自慢」は憎めない番組です。※イタリア人=パンツェッタ・ジローラモ氏が見たのど自慢イタリアにも同じような番組があるのですよ。「NHKのど自慢」と同じくらい古い長寿番組で、戦後すぐくらいに始まったのじゃないかな。ずーっと同じ司会者で、かなり年とっていますけど、もう国民的有名人ですね。その人が出場者をからかうのですが、それが面白くて、皆つい観ちゃうのです。平日のランチタイムにやっているから、お昼に帰宅したときに家族で観る人気番組です。賞金も出るのですよ。商品券だったと思うけど、たしか百万くらい。十年前に来日して、テレビで「NHKのど自慢」を観たとき、とても懐かしかったです。みどころは、普通のおじいちゃんやおじさんの持っているオカシさですね。日本のテレビって、どの番組を観ても同じ芸能人ばっかり出てくるじゃないですか。のど自慢みたいに一般の人が出る番組がもっとあればいいのに、と思います。イタリアのテレビでは、芸能人より一般人のほうが芸達者で面白い。イタリア人はもともと人前で歌うのが大好きですからね。
ブライアン・セッツァー・オーケストラ「ダーティー・ブギ」
いま全米にブームを巻き起こしているネオスウィング/スウィング・ロックを代表する1枚(って皆さん御存じですよね(笑))とかいうのを抜きにしても、キャブ・キャロウェイやルイ・ジョーダンルイ・プリマといったスウィングの大御所たちやあるいはエルヴィス・プレスリー(特にロカビリー時代のエルヴィス)にハマッている私のような人(笑)には強力にお勧めしたいゴキゲンな1枚だ。
藤井妙法氏
僧侶兼(アンドリュカーネギー氏や松下幸之助氏や本田宗一郎氏などといった人生の成功者たちの物の見方・考え方・生き方に共通する「成功の法則」についての)講演も行なっているという方で「成功の法則」も思わず聞き入ってしまった。藤井氏いわく、成功者たちはみな「高い目標」を持っていたという。それと「使命感」。そして「存在価値」→“私は○○するために生きています”というのが明確かどうか。自己の存在価値を明確に持っている人間はどんな困難をも克服し得ると。たとえばダイエーの中内会長は第2次大戦中の地獄のような戦場で“俺は何が何でも日本に帰って、すき焼きを腹いっぱい食ってやるぞ」という夢でかろうじて生き延びることができたという。このときの夢(ないしは欲望)を原動力に中内会長はダイエーを牽引し続けてきたわけである。しかしながら中内氏(現在は会長を辞任)は「まわりをイエスマンばかりにした」という「失敗の法則」の典型的な例でもあるという(同じワンマンの独裁者でも松下幸之助氏は当然、運営する人間を側に置き続けた)。いずれにせよ“私は○○するために生きています”を明確にだ。それとやっぱり「プラス思考」。たとえばエジソンは白熱電灯の発明に10000回もかけたというけれども、エジソンはこれを9999回、気をつけることに失敗したのではなく気がつかないことに成功した”と捉えていたという。エジソンのように“失敗”を“きづき”や“学び”と捉える“人生に失敗なし”というブラス思考があれば失敗なんてむしろ大歓迎だ。さてここで「宝物/大切にしているもの」を2分以内に10個書き上げてみてみよ、といわれる。う~ん、私なりに1)歌2)音楽3)夢4)ハート5)自由6)家族7)友8)お金、あと何があるかな、他にもいろいろあり過ぎてと、「はい、2分終了。すぐれたリーダー(経営者)ならば当然“お客よう”と“従業員”を書き忘れるなど論外ですよ」。あ、見事に書き忘れている(笑)。今からでも遅くない9)お客様そして10)従業員(ヴォーカリスト的に言い換えれば"ファン"と“スタッフ”こそ、いうまでもない、宝物だ)。そして最後はこれしかない。あきらめないこと。常に“時は命なり”で生きること。“過去”や“未来”の「もし」は不要だし、考え過ぎてもいけない。お金がなくてもあきらめない。人がなくてもあきらめない。常に“現在”を生き、そして前を見る。成功する瞬間まで、否、“死ぬ瞬間まであきらめないでがんばれるか”。たとえば御存じあの天童よしみ氏は、今でこそ大ブレイクを果たしたけれども17年間まったく売れなかったのである。当然ドサまわりも経験したし、歌っている途中にもかかわらずお客がみんな帰って行ってしまったこともあったという(文字通りお金も人もないに等しい状態と思う)。それでもあきらめずに“このままで終わってたまるか”っていう気持ちがあったからこそ今の天童さんがあるのだろう。天童さんで17年、私たちだって17年あるいは死ぬ瞬間まであきらめないでがんばってもいいと思う。「あきらめないこと」=「忍耐」=「一生の間に来るか来ないかのチャンスに向かってベストを尽くし実力を蓄えること」。ギリシャ神話のチャンスの神ようは足が速くて前髪しかないという。その前髪をつかめるかどうか。つかめるまでひたすらあきらめないでがんばるしかない」みたいなことをメモッたりしながらも聞き入ってしまった。懇親会はいつも通り(ちょっと飲み過ぎた)。帰宅後ピアノ30分。それにしても講演会はいい話だった。10年かかろうが、17年かかろうがあるいは70年かかろうが、本当に死ぬ瞬間まであきらめないぞ。【「7つの成功法則」】1)高い目標2)使命感3)存在価値="私は○○するために生きていまず”を明確に4)プラス思考5)お客様と従業員あるいはファンとスタッフを大切にする6)あきらめない”“死ぬ瞬間まであきらめない”記録中では触れられなかった7)視野の広さ/柔軟性
私は“太陽”のようなアーティスト/ヴォーカリストになるために生きていますと、存在価値も明確でしょう。