一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン 40636 字   953

レッスン   953

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【ことば音声表現】

【学び方】

 【基本フレーズレッスン①②】

純正律

【基本と歌 アルジェンティーナ】

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【ことばと音声表現】

 

仲代達矢さんは、奥さんの日記を参考にして育てている。

(仲代)「本質的なものを考える癖をつけておいてください。哲学とは何か、生きるとは何か、我々俳優というのは何か、人をつなぎさせるということは何か、そういうことを若いうちから考えて欲しい。」

(映像)「2年生が演じるハムレットです。奥の深い古典に生徒が取り組むとき、仲代さんは、作品の完成度より、熱意を重視します。」

(仲代)「動きやのりがみられません。へたなのはいいから、やる以上はのってやりましょう。」

(映像)仲代さんや作品をどこまでよみ込んでいるかが、内面の深さにつながると強調します。

(仲代)「書いてあるものを読んでもしかたない。その奥にあるものを探るのです。それは役者の仕事です。どうしてこういうセリフがでてくるのかを追求しなさい。文学と我々がやっている芝居の違いはここにあるのです。」

(映像)この日の稽古は2年生のマクベスで始まりました。難しい訳に取り組めば取り組むほど、基本となる呼吸やセリフの言い回しが要になると仲代さんは指導します。朝の9時からはじまった稽古は昼すぎまで続きました。

 

仲代さんの見本と、生徒との違いがわかるでしょうか。根本的に違うことが舞台に出ると応用されもっと大きな差となって出てくるわけです。元の感覚の違いです。そこで何を捉えているかということです。メリハリがついた形くらいでは、何ともならない。そのことばをもって何を伝えるかという、絞り込みの違いです。

 

歌の場合も、同じです。役者の世界というのは、見本を出して、その通りにやらせることができるから、劇団の色になります。でも呼吸とは何かといったベースでのことでは共通する点が多いです。

仲代さんは練習でありながら生徒が客としてみているという、ワークショップの形をとっています。

演劇などでは、よくみられることです。練習のなかでは皆さんが同じ立場にいるという考えは、昔から同じです。本当に価値を判断していくのであればこういうやり方がよいでしょう。

 

 

「アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ雪と氷の山頂にひからびた1頭のヒョウの骨があるといいます。そのヒョウが、なぜそんなところまでのぼったのか誰にもわかりません。たぶん、そのヒョウは彼にしかわからない匂いを追ってそこまで登ったのでしょう。」(ヘミングウェイ)

「350年の歴史にうもれた染物、辻が花」

「ロダーン(ロダンの愛人カミーユの叫び声)」イザベル・アジャーニ

 

哀しいものをストーリーとして、読み聞かせるよりも、たったひとことのセリフに近いもののなかで、何がどう動いているかが決め手です。ことばのなかにとらわれないことです。一人でも動きを感じることはできますが、第三者の前でやってみると、空間が違いますから感じ方も違います。

そういうものを味わう時間をとりたいというのが、こういったワークショップのねらいです。

 

これに安易に伴奏がつくと、それに声をのせていけばよいということになってしまい、自分がいなくてもよくなるのです。わずかのフレーズのなかにその人が出したいものを、刻んでいくことです。

正解も不正解もありませんが、なるべく大きめにつくってください。

 

 

何のために発声練習をやっているかを考えてください。練習してきた人さえ、舞台に立つと引いてしまう場合があるのです。舞台に出たら最後まで自分を出しつづけなければ出る意味もないです。

最低レベルというのはあります。

 

最初は声がでない、人前であがる、やりたいことが半分もできないというのはあるでしょう。

ここではみてくれる人がいる場ですので、それを大いに利用してください。

 

はじめてください。自分のなかで完結した表現にしてください。

 

 

(発表)

お疲れさまでした。いつも音楽を聞かせたり、映像をみせてレッスンをはじめるのは、テンションを高め、場をつくるためです。

ここで2年勉強したら、よい客にはなれるのです。

よい客をつくるというのは大切なことで、よい客の前でやらないとうまくなりません。

よいお客さんから、ヴォーカリストになる人も出ます。そうなって欲しいと思っています。

 

そこで見えたものというのは、見えたところまでは、何年もかけたらいけると思います。見えないものの方が多い世界ですが、そこに入っていく最低限の条件を忘れないことです。

それは、集中力や意識の鋭さです。それをもっていれば内容というのは、徐々に入っていきます。

 

自分のなかにいろいろ入っていて、それを取り出せないだけという状態で、本来はトレーニングするべきなのです。そこに意識がいかないままトレーニングのためのトレーニング、声を出すことだけが目的になってしまったりしがちです。舞台というのは、床があればよいのです。

 

 

その他に、伴奏や共演者など、いろいろつけてもいいですが、結局、皆でやっても一人でやっても、変わりはありません。表現者がいるかどうかです。一つやってみたところで、もっとしゃべりたくなったのか、帰りたくなったのか、しゃべるだけじゃつまらなくて歌いたくなったのか、そういう心の動きを大切にすることです。その延長上にしか歌はのっていきません。

 

合宿のテーマは「育てること」ですが、誰よりもいやなことも知って、育てるから、離せなくなるものです。

それに対して、どれくらい責任を感じるかということです。

自分を自分として生きるための責任です。誰よりも自分を可愛がらなければいけない。

これを中途半端にやるのなら、何もできていきません。自分のなかの深い自分のことです。

 

今日の題材のようなものを、ただいうのではなく、自分におきかえて、自分で組みかえて、出していくことです。自分の世界を豊かにすることに、時間をさくことです。

よい場にいくと啓発されますが、悪い場にいても、自分が啓発するくらいの力がなければ、どこに行ったって動けません。

 

 

人を振り向かせるところから、スタートしなければなりません。そういうことなしに、暖かく迎えてくれる場というのは、そこ自体に明日はありません。皆さんは、ある程度はわかっているわけです。こういう場の意味もわかって、観ているのだと思います。その分、裸でみられている、裸で、何も頼るものがないから自分に頼る。そして、武器をつくり出す力をつけていかなければならない。それが人間でしょう。

 

私は、小学校2年くらいのとき、体育館で長い話を聞いていたときに、まわりがうるさかったので、へそまがりだから一人だけピンと背筋を伸ばしてすわっていたのです。15分もすると体が痛くなったのですが、ずっと続けていると30分くらいたって「あ、超えたな」と思うことができました。その後はずっと続けていられました。

誰かが見てくれている気もした。あのときは何とも思わなかったのですが、後でこういうことなのかと気づいたことがありました。苦行だけでもやってみるものですね。

そのことで後で皆の前で先生にほめられたのですが、そのときも無心でいられたのです。

そういうことは別にして、そのことが自信になっていくと思うのです。

 

今日やったことは、歌い手であってもここに出てきたら、それが一つの作品にしなければいけない。それを自分でどうつくるかです。

アメリカ国歌というのは、いろいろなヴォーカリストが歌っています。日本の国歌はどうでしょうか。美空ひばりさんや佐藤しのぶさんも、歌っていたようです。清志郎さんも歌うかもしれませんが、それから先、思いつかないです。

君が代を歌って世界に聞かせられるヴォーカリストが何人いるか。君が代というのは、かっこうよくもないし、歌としても難しいのでしょうが、日本人というのは、こういうものも歌えない。

 

 

ブラックやゴスペルをやりたいという人もいますが、それは、日本人なりにやっていけばよいと思っています。

向こうの人々がもっているものを勉強するのは、自分がもっているものを出すためでしょう。

違った意味での価値というのは、出てきません。

 

その辺を、上っ張りだけをとっていくと、それは自分の心や体から離れたものなので、使っているうちに狂ってしまい、真実なものにならないのです。プロセスで、基本をやったところで応用にどう結びつけるかということが大切です。

応用の舞台での感覚をしっかりと入れておくことです。まんなかのことがやれているかどうかは、末端で出てきたことでしか判断できません。そこで、末端で直してはいけないのです。

基本と応用ということです。柔道の試合で、基本通り技がきまることはまれですが、くずれて決める練習はしない。きりがないからです。.しかし、基本の感覚が働いていたらよい。応用されるのです。

 

 

歌や、セリフなどは、作品です。そこで通じなかったり、おかしかったということは、そこの形では直せない。一流になればなるほど、他の一流はまねられないのです。ものまねはできますが、まねてもしかたないわけです。

何もないところというより、何かあるわけですが、それをまず使い切ること。それから、足りないもの(ここを皆さん見たがらないのですが)があることに気づくことです。

できている人というのは、そこで自分を出しています。同時にそれを出している限り、自分以上にはなれないという制限というのもあります。

 

ジャズやゴスペルは、自分を一度、放棄したところから自分に戻っていくような大きさがあります。これは、ポップスのある意味での限界です。

できる人ほど、後で伸びない。器用にできればできるほど、根本的な問題や自分に気づかなくなってしまう。

 

できない人は、時間がかかる。プロセスを経ることに対して、クローズになってしまうのです。声のことをやっているのに、人前に出たくないとか、できたらゆっくりしたいとか。そこは、どこかの時点で変えてくることです。

 

自分のやっていることがおもしろくなければならない。しかし、おもしろい自分をみつけてそれを生かそうとしないと、いつまでたってもおもしろさはないです。

ファミコンをやっている人よりも、つくる人の方が、苦しいけれどもおもしろいです。

そういうふうに、力をつけ、与えることで早く変わっていけることが、自分をかわいがることのです。誰かをバラの花としてかわいがるのではなくて、自分をバラの花として育てなければいけません。

 

 

レーニングというのは、そればかりみていると、どんどんそのなかに入ってしまって出られなくなってしまうのです。ここのような一つの舞台、これはもう“外”です。

ここにいるのも、人間は人間ですから、研究生とかOBだとか、どこかで歌っているとか、そういうことでラベルを貼らないことです。

 

一人であろうが、数がいようが、自分という人間に対するのは同じことです。そういう場は、どこにでもあるわけです。こういう場を利用する延長上に、自分のことをわかっていて、自分のことをコーディネイトして出していくというプロセスを踏まなければなりません。

 

クラスというのを組みかえて、破った形で、出るものが出ればよいと思います。どこでやっても、心が動くというプロセスを経なければいけないのです。それなしに、いくら外側から固めてもダメです。毎回の場で問われていることです。

 

 

来るまでが勝負です。やること、それから帰り道も勝負です。そのことに時間をかけるしかないのです。

そして、一人でやるしかありません。

それはすべての道のことに通じると思います。

 

無名塾の仲代さんや、イザベル・アジャーニと同じでなくてもよいが、あれと張り合うためにどうすればいいのでしょうか。自分が主役として生きていたら、手の動き一つ、髪の毛のスタイル一つ、靴下の色一つなど、すべてに敏感になるはずです。

 

自分はトレーニングしているからというのは、逃げになってしまいます。

五感で受け止めるということはそういうことです。

それを、はみだした人しか出ていけない。

他の人に「なんであいつはあんなところにあんなに時間をかけているんだ」とあきれられるほど、それを続けられる人なのです。やってきた人たちをみていればわかります。

 

 

最終的には、誰がその人を支えるかです。支えたいと思わせるくらいのものを出さなければいけません。才能や天性だけで人は動かされるわけではありません。だから急がなくてもよいから、今日は今日で結果を出していくことが大切です。その日そこの日の課題をみつけていくことです。

 

今の皆さんの状態でセリフのトレーニングをしても、ことばだけがあたふたとなりかねない。自分が選んだ作品は、自分が何かしらその作品に打たれたところがあるのだから、一ヶ所でもいいからしっかりと伝わるように復習することです。全部を何回も読みなさいといっているわけではありません。

 

無名塾では、たった一つのセリフを午前中かけてやるわけです。そこで、お客さんに訴えられなければ、耳に入らなければいけないのです。そこには伝える意志とともに、仲代さんのようなしつこいほどの探究心、盛り上げと終止の仕方が感覚として入っていないとダメです。いくら口調をまねてもだめです。線をたどるだけではいけないのです。線のなかに何が入っているかが大切です。

 

 

歌も同じです。しかし、歌は、いろいろな可能性で勝負することができるから、そこでごまかされてしまいます。他の要素で勝負してもよいのですが、体を使う楽器である以上、声の質、音色の基準をしっかりとさせておかなければいかません。ここで2年間学ぶ中で、その基準をつけていくことです。

 

人の声をきいて、判断できなければなりません。一流の人の最盛期の頃の迫力とか、テンションを見て欲しいです。枠をはみだしているのですが、人間の恐ろしいところで、それをまとめてしまえるのです。

まとめようとして、まとめるな、まとまってくるまでやらなければいけない、といっていますが、しぜんとまとまってくるわけです。

 

パワー、意志、エネルギーを出して表現しないと、まとまってこないです。小さなトチリが気になるような舞台をやっていたら、そもそもダメなのです。覚えてくるかどうか以前の問題だと思います。歌と朗読、セリフを同じ次元で使うというのはそういうことです。

歌の世界でやっていく人は歌のコーディネイトや、メディアのなどをいろんな目で捉えなければなりません、時代も変わっていきます。

 

 

ここでやっていることは、そういうことでは変わらないものです。基本ですから、それをどう応用するかということを決めてしまったら、「日本の◯◯年の」という限定がついてしまいます。でも限定をつけないと舞台ができないのです。同時にはなかなかできない。だから、ワークショップという形をとっています。レッスンは、ワークショップなのです。役者のように体を動かしたりしていく中で気づいていきましょう。

 

皆さんが望むことに関して意見を出してください。

ここで、平均的なレッスンをやって、皆さんも平均的なものを求めていくと、なあなあになっていきます。

人は変わらないので場を変えて刺激を与えようとはしますが、皆が変わらないと難しいです。

他の人がこれほどやらなかっただけの時間をかけることにより準備ができるのです。

 

「プロのトレーニングができなければ、何もできない」

いろいろな人がいるので長い目でみているつもりです。しかし、長くやればよいというわけではないです。その時期、その時期の課題をやっていって、その上でここを使いこなしてください。

慣れていくのはダメです。おもしろくないと思うなら、用心することです。

何もできないのにおもしろくないのは自分の責任です。

 

 

表現力のアップにつながるものとして、よい番組映画をみて、勉強してください。無名塾のような声の使い方も、ポピュラーではしぜんに動いてくるはずです。ただ、リズム、音感といった別の要素は捕ってやらなければいけません。

声や歌と結びついたもので、人前に出したら、世界で通用するというものをめざしていけばよいと思います。それを考えることは、メディアやお客を考えることと一致します。

 

外でやるということではなく、外も内もなくて、内で自分の意識はきちんともって、外に放り出していくことです。ここへトレーニングしにくるというのではなくて、トレーニングの場にそれを放り出しにくれば、一番よいと思います。一人でもできるようになるかもしれませんが、皆がいる中にぶつけて、反応をみてみる。そこで、誰も反応しなければ、そんなものでは、何も起こり得ないとわかればよいのです。人の感覚というのは、正直なものです。

 

この手の舞台はやろうと思います。音の世界をつけてもよいと思います。自分の感情のプロセスを取り出す、あるいはもっと感情のなかに入って、そのなかでどのような音声が出てくるか、そしてその音声を自分はどのように出したいか、出した音声を、どのように変えていきたいか、そのプロセスをきちんとみつめながらやっていくことが、トレーニングです。実際の舞台では、そういうものをみつめなくてもやれるようでなくてはいけない。現場ではそういう時間はないです。

 

 

役者みたいに、一回、場に入ってみることも一つの方法かもしれません。ここからふるさときゃらばんに出た子が、舞台では使い古されてしまうと。大声を出せば熱が伝わるということで応援団のようになってしまって、それでお客さんも一所懸命やっていることに心動かされる。

しかし、個人としては、消費されてしまいます。そういうことに左右されないだけの基本がついてからやればよいというのが、理想ですが運営側の問題として、そこまで待てないのです。

 

演出家やプロデューサーがつくと、まったく違った発声の仕方をさせられてしまうようです。勝負できるところと、人前に出せるところを分けて使いこなせる強さがあればよいのでしょうが、それをまねてもしかたないわけで、それに代わるものをつくって欲しいと思います。

 

日本の唱歌なども歌ってみると、好きになるくらいやるうちに、それが自分のパターンになって入っていくようです。心や体は正直で、舞台をやっていても、そんなに間違わない。でも、先走ることを要請され合わせることで自分を見失うことがあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

【学び方】

 

特別レクチャーというのは、何か不足しているものを補うために、そのとき、そのとき感じたことをやっています。一般の人も入れているのは、一般の人たちにもわかることばで話そうと思うからです。

今までと違うのは、台本があることと、マイクを使っていることです。皆さんからのアンケート.を含め、話していこうと思います。いつも私の話を聞いている人は、総まとめ的に聞いてみてください。今日はじめての方にもなるべくわかるように話します。

 

最近、疑問に思っていること、必要と思っていることは、今まで、皆さんの頭に入っていることについてです。この分野以外の専門家の方も、自分の専門分野についてではなく、生き方や学び方について書かれる方が多くなりました。

今までは、レクチャーでも、体験レッスンのような形式をとっていたのですが、今では考え方を、最初に入れておいた方がよいと思います。話を実際にものにしていくことには相当、時間がかかります。

 

ここで人間の本質的なものをつかんで、その側のものをあぶり出していくような歌や、芸術的なことをやる人間の作業が表側しか見えなくなってきています。たくさんのものがまわりにあると、あるもののなかから、どう選ぶかということで満足してしまうのです。そして、それが自分の選択だと思ってしまいます。そうではなくて、その外から一つのことをつくり、選び続けることで、その人間が選ぶということがいえるのです。

 

 

先月にも、3人ライブをやりました。実際、3人がどう歌おうが、どうでもよいのです。それに対して、参加している人は勉強しに来ているのです。問題はマイクを一人ひとりに持たせたときです。

こういうアンケートを書かせてもそうなのですが、皆さんに求めていること、つまり常に自分を問うということが場と結びつかない。それは一人ひとりの責任です。

 

そのあと、全員で声を出しました。そうする必要があったからです。日頃ここでいっていることは、マイクが回らなくても、一瞬自分のなかで考えていること、出さなければいけないことを出すことです。

 

これは、いつものレッスンで行なわれていることです。3人に6曲ずつ歌わせたので、皆にも1フレーズずつ回してみたのです。しかし、お客さんと変わらないのです。そういうのをチャンスととらえる人はいません。

そのときに発することばは体や心で考えるものです。

頭で考えるものではありません。いつもステージに立っている人の身になり、いつもそういう批評眼をもち、そのどきどうするかということを考えてやりなさいといっています。

 

 

しかし、自分しか見えていません。自分しか見えていないとやはりできないのです。求められた役割も意味も理解せず、期待に応えられないのです。お客さん気分になっているのが、①や入門科の人たちで、これはもうしかたないと思っています。でも、②〜④も、そういう場が成り立ったかどうかは疑問です。

 

自分のものに生かすために、ここを使っているわけです。いつもそういう勘違いがあるような気がします。何かやってくれ、とか音楽の話をしてくれ、というのですが、マイクを渡してやれば、というとできないのです。

では、皆さんで声を出しましょうというとがんばります。皆で声を出すというのは安心できるのしょう。常に一人で切り込まないで、もたれ合っているような気がします。新しい人、これから入ってくる人にとっては、特に難しいかもしれません。

 

精神的なことや、能書きはどうでもよいから、声のことを教えてくださいというのですが、ここに長くいた人ならわかると思いますが、声のトレーニングの仕方などどうでもよいのです。自分で考えればよいのです。自分で考えてどうにもならないことを、こういう場でやらなくてはなりません。ここでしかできないこととは、一体何なのか、そのことに対してこういう場で学んでいって欲しいのです。

 

 

皆のトレーニングのメニューを集めてみたのですが、一般のレクチャーで集めたものとあまり変わりません。サーッと見たのですが、わずか3分くらいでサーッと見られてしまいます。目にとまらないのです。

紙に書かなければいけないということではないのですが、最初に学び方として教えていることは、ありったけ出してみろということです。出したものを、紙でも声でも歌でもよいから出して、それをしっかりと見て、それから自分がどうしなくてはいけないかを反省し、メニューを繰り上げなくてはいけないのです。出した人でも、これをはじめて作ったつもりのようなら、出せなかった人は聞くまでもないようです。

 

3人ライブの出演者も私も深く反省しました。参加者がどれだけ反省したか、ということです。他人の作品に対してではなく、それに対して自分がどうなのか、という置き換えをしっかりとしていかなくてはいけません。精神的なことに点をおいて話していますが、表現活動というのは精神が形をとるものだと思っていますから、声をやって、歌を歌って、何かが出てくることはありえません。

 

ただ、声や歌のことがとても深まっていったときに、精神的なものと結びやすくなります。テクニックというものは、それだけ、精神的なものをえぐり出そうとする必要性がなければ、身につける必要もないのです。技術だけ身について、おかしくなっている人もいます。そういう人がヴォーカリストのなかにいてもよいとは思います。

まず個人レッスンがあって、それを深めるようなことをやっていく、それは、他人から見たら技術のようにみえるかもしれませんが、自分をまっすぐに出していくだけです。

 

 

個人が個人の役割をしっかりと果たしていたら、一つのチームとしての方向性が出てぎます。しかし、それは個の力ではなく、全体の雰囲気や気分でやられてしまうから、よくないのです。自分のプレイをしっかりとやり、それが全体のなかにあったときにチームをヴォリュームアップさせていかないと、全体のレベルがどんどんと下がっていきます。

 

これからもライブをやっていきますが、マイクを渡すということは、何を期待しているのか。期待に応えるということではなく、そこまでの感覚を働かせた上で発言することを、日頃続けているかということです。いつもいろいろなものを出させますが、だんだん書かなくなっている人が多いです。書かないイコール溶けないのです。量ではなく、内容的です。それは装に現れるものです。

 

学んでいくほど、学んだことしか見えなくなっていくのなら学ばない方がよいのです。ある一時期、表向きはそうなってもよいのですが、学ぶということは学んでないことが見えるようになるためにすることです。そこに見えないものが働きかけることステージも成り立ちますし、歌の存在感や個性も出てきます。

 

 

ここでは、いろいろな癖をとっていくので、そういうものによりかかってきた大半の人は歌えなくなりますが、スッキリと、素直になります。その線上にいろいろなものが身についていく場合は、歌がへたでも私たちは安心して聞いていられるのです。ただ、時間がかかるということだけです。

 

それなのに、またどこかの時点で頭で考えて、よごしていくのです。なぜ自分のなかで判断できないかというと、基準がないということや、ことばのなかで考えてしまったり、計算のなかでやっていくのに、感性が追いついていないのだと思います。難しい世界だとは思いますが、やれているときにはあまりそういうことを感じません。そういう時間で何回もつかんでいくとよいと思います。

 

最初に、自分がどこにいるのかしっかりと見ることです。それから次にどこにいくかということを見なくてはいけません。この間にギャップがある。いろいろなプロの人の歌を参考に判断していくのはよいのですが、自分の基準を設定しなくてはいけないです。こういう人たちがいて、それに代わる新しい世界とは何なのか。最初から全部見えているということはありません。でも基準というものは必要です。あのなかで何がプロなのか、何が足りない部分なのか。変わらないもの、変わるもの、すぐれているものとそうでないものを見分けていくのです。

 

 

ここは、自分の研究成果を問うというような場だと思ってください。こういうところでより深いことをやっておいて、ステージを自由にやるというふうにしなくてはいけません。ここにきたときだけ勉強するのではなく、皆さんの内側の世界の方が大切であり広いのです。

 

好きなことを好きなようにやっていくということでは、成り立たなくなるのです。ポップスは、好きなことを好きなようにやるものです。でもそれなら、自分が満足するように歌っていればよいです。それ以上のことをやるのには、人を巻き込んでいく必要があり、人に与えられてはじめて、仕事になってきます。

これは、好きであるというのが根本にあっても、出し方は違ってくるのです。しっかりと価値を与えなくてはならなくなってきます。この価値を出すやり方を基準としてとるのです。

 

どういう基準ですぐれているかどうかは、またいろいろな見方があります。ここに通っている人は教材や本や、ここに来ている人間を材料としてとっていきます。この材料から、自分のメニューをくみます。ここは、ノウハウやメニューを押しつけるということはしていません。これ自体、自分でつくらせています。これをどうつくれるかというのは大切なのです。

 

 

たとえばトレーニングで一つのメニューをつくるのには、まずレッスンに出て、そこで何かやってみて、できたかできないかわからない、でもまわりをみてみればわかってきます。他人と比較する必要はありません。上達するときに他人を使えばよいのですが、できないからダメということはないのです。できないから、トレーニングするのです。

 

ヴォイストレーニングのなかでは、自分の体と感覚の状態を正すことです。体よりも感覚の方が難しいですが、それを正していくことです。個人レッスンでも私があれこれいうのではなくて、自分がその条件と状態をもっていて、与えれれるきっかけに対して、どう反応できるのかということです。

 

やったときに迷いがあってはいけません。そのときまでに迷いはとっておくことです。応用としての獣やフレーズができなかったら、どんどん基本に戻ればよいのです。最最初は量をやるしかありません。

というのは、レベル差をつけないでも上げていくことができるのです。

 

 

質に転換されるときは、気づきが起きるときです。質になかなか変わらないのなら、量をやればよいのです。ただ、量だけに固定され、それ以外のものが見えなくなることを恐れなくてはいけないのです。細な心、鋭い感覚なしによ広いトレーニング成り立たないのは、こういう理由です。

 

ヴォーカルというのは、音と、自分の声の世界に出会うことをしっかりと繰り返して、ステージングというところまで高めなくてはいけません。ヴォーカルが一つの曲を歌うということは、この曲を自分で解釈し、創造し、ことばもメロディも、自分のものをそこに入れる、あるいは、何か本質的なものをとって、自分でコーディネートして、曲が自分のねらい通りに伝わるように、メニューを組み立てなくてはいけないのです。

レーニングのなかで、発想がどんどんと起きるということでないといけないと思います。それであってこそ、歌のなかだって、起きてくるはずです。歌は発明の連続です。

 

外国の一流、二流の違いは、実際、音の世界のなかでどれだけ発明や発見をしてきたかということです。ベースやドラムなどの勉強をしていたら、音のなかでの新たな試みはわかるでしょう。どの歌い手でも創造するということを、トレーニングのなかで勉強しておかないと、歌のなかでもできません。

 

 

歌をステージで歌ってみて、何か足りないなと思ったら、基本を固めないとダメです。柔軟したり体力づくりをやるのは、体が自分のイメージを出せる、しぜんな状態にするためです。そのように反応できる体でないといけないのです。でも、歌のなかになると、柔軟でやったことが働かない、となると基本のところがダメなのです。

 

歌というのは、本来、自由になるためにやるのです。だから、それまでに心と体を解放しておかなくてはいけない。どこかで昇華することをトレーニングのなかでこなしていったほうがよいのです。無意識に、しぜんに行なわれるようになるのが、理想の状態です。

 

しかし、しぜんなままで歌うと、ステージで問われるほどに本当のものが出てこないという場合に、一つひとつのものをふしぜんに強化してしぜんにしていくのがトレーニングです。強化すると、一時、ふしぜんになってしまうのです。息を思いきり吐いて、歌えるわけはないのです。その息が完全に声になるところまでねばって、関連づけていかなくてはいけないのです。

 

 

オリジナルの声、体を一番しぜんな、よい状態で使ったときのベターな声をもっとパワーアップさせることです。本当はこの上にフレーズをのせていくのです。ここから音色や、リズムを選んでいきます。リズムを選ぶというのが日本人の場合、とても難しいのです。もともとたくさんのリズムが入っていない。

 

ヴォイストレーニングはイメジや表現を先につくって、自分のもっているツールをどう選んで出すかということを問うものです。これはピアノでいうと弾き方であったり音色の置き方です。自分のもっているすべての財産を、どういう組み合わせと力配分で使っていったら一番効果的に伝わるかということです。当然ねらいをもっていないといけないのです。

 

レーニングも同じです。わからなくなったら、わからないなりに、また設定しなくてはいけないのです。音楽や歌は同時進行形であることが多いです。ヴォイストレーニングではじめての人に聞かれるのは、声域や音量です。これは自分が必要な分だけとるのであって、これを目的にしてはいけないのです。

これを合理的に使うことによってどれだけのものが出てくるのか。また、つくったもののなかにも限定が出てきます。しかし、つくったものからどう使うか考えることの方が大切です。

 

 

イメージや感覚が大切だというのは、その人がもっているものより、出たもの、それが相手に受けとられたかで判断される世界だから、ということです。何ホン出せるかということのために練習しているような人がいますが、何の意味もないです。むしろ自分がそのなかでどれだけ段差をつけたり、イメージによって1から100まで柔軟にを出せるかということを用意すべきなのです。

 

他のプロのヴォーカルを目標にする人もいますが、まったく同じになるということはありません。一流の人の例をいろいろと聞いて、自分の線を出していくことが大切です。それは、うちのスタジオのような小さなところでやった場合には伝わりやすい分、わかりやすいのです。あるレベルの判断基準をもっている人にはわかります。

 

自分のなかの容量がわかっていることが大切です。そのなかで瞬時にメニューを組むことです。その歌によって声が出やすかったり、ある歌によっては、声は出なくても感情は入れやすかったりします。歌自体も、材料として与えられてくるのです。

 

 

その材料に対してメニューをつくっていきます。現在とそれに対する未来があり、それを直感的に見る目が必要なのです。しかし、原点に戻さないで、他のところでつくっていく人がいるのですが、それはよくありません。ピラミッドのように、広く深く基礎を工事し、あとからのっかってくる部分をつくっていかなければならないのです。積みあげていて行き詰ったら、また底辺に戻って広げていく。この結びつきでトレーニングができている人は少ないですね。

 

ある時期、声だけ考えるようになってしまったり、体のことや声のことをやる人もいます。それは、それでよいのですが、あとで、それを統合するのに時間がかかるのです。逆に何年いても底辺が広がっていかない人たちの方が問題です。自分でその必要性を感じていないのです。中途半端に身につけようとしても難しいものです。

 

正しい原理のところまでしっかりともっていき、その力を受け入れられる状態になったときに力はうまく働いてきます。人間がもっているしぜんな力がそういう状態におかれたとき出てくるものを、それだけ邪魔をしているのです。それを解放させるのが、本来ステージなのですが、あるレベル以上で使えない声は、逆にそれを限定してしまいます。

 

 

思い込みを一人勝手でいくら歌っても通用しません。基本というのは、戻れるところのことです。形や型というのは、自由になるためにかためておくことです。戻るところがないと、遠くに出られないのです。思い切った冒険も空まわりになります。この自由度を高めていけばよいのです。

 

レーニングは、ことばで伝えると誤解を生む場合が多いのです。受け手にイマジネーションがないとダメです。自分で気づいて直していくという方向にいかないといけません。ここでは人間の体に戻していますが、心も自分にしぜんな方向に戻していくことです。それをつくればつくるほど、練習すればするほど、厳しくやっていかないといけない。全身で捉えることで、いろいろなことができるようになります。

 

そうでないのに、いろいろやると、本当に大きな間違いをするようになってきます。それが一番こわいので、身近に評価してくれる人をもち、自分自身で素直にきくことです。その人の癖を個性として誤解されてしまう場合が音楽には多いです。どうつくってもその人の世界なのですが、もっと大きくつくれるはずなのに、そんなところでも止まっていいのか、ということです。

 

 

オリジナルのフレーズというのはデッサンです。本質をつかんで出した上で、どう展開するか、自分のなかに入れたものがどういう形をとって出るのかを、しっかりと見極めることです。それと同時に、まわりにそれがどのように働きかけているか、空間や時間をどのように支配するか、一流のヴォーカリストはそういうことを全部やっているわけです。歌詞を読んでいるわけではないのです。

 

デッサンでせっかく見えたものを消すような歌は、歌わないことです。プロになるとほとんどの人がやれなくなってしまうのは、音楽業界に動かされ、本質的なものが声に出てこなくなるのです。業界や日本人そのものが、成熟しないと仕方がないのでしょう。

 

しっかりと考え、書き出していくことも一つの方法です。音声だけの世界でよいところだけを出していくということが日本人には難しいものです。たとえばいきなりアドリブをやれといわれてもできないでしょう。だから感じるという作用をより強めるために、ことばを使うのです。ことばは限定がかかります。それは型のようなものです。だから、そこから自由になる努力はしなくてはいけません。しかし、そこで把握するということは大切です。漠然としたままやっていくと、変わってこないのです。

 

 

歌が毎月毎月よくなっていけばそれでよいのですが、大変に難しいことです。よくなるというのは、その人が自分のことをわかっているということです。しかし、どの世界でもよくなった人とか、すごいことをやった人というのは、ものすごい量を考え、書いているのです。そういうことを習慣づけ、自分のつくりたいものを明らかにしていくことです。

それから、自分の感覚や心を使えるようになることは体の鍛錬より難しいのです。これは素直になるしかありません。弱いところも認めていくことです。

 

表現とは、その上により強いものが出てくるのです。弱く表現するためには強くなくてはいけないといいますが、強く表現するためにも繊細に、いろいろなものを感じる力というものがないとダメです。

自分のよい心の状態を取り出すためのきっかけをもっておくようにしたらよいです。最終的にこういうものが正されるのは、自分の命によってです。それと何かしら結びつけておかないと正されません。自分で正そうとしても、限界があります。だから正す場が必要なのです。自分がその場でやっていることは、自分ではなかなか見えない。それは自分の命の働きかけや、この世界のなかで決まっていくのです。

 

このように捉えていくと、練習というのは、ミスのフィードバックだということがわかるでしょう。やればよい、数を重ねればよいというのではない。そこでミスを発覚し、自分にフィードバックして、直していくということをやらなくてはいけない。その基準は、表現に至らないものは、全部ミスです。

 

 

自分の表現が音楽となって相乗効果が出てこないといけない。声が出ないとか、音が狂ったとか、そんな単純なところで起きることではないのです。結局、表現ということでは、個人がしっかりとねらって出そうとしたことと、その場に働きかける力の両方によって決まります。歌というのは、声やことばと同じように誰でも出せる。だから歌の目的とは、誰でも歌える歌を、誰にも歌えなくしていくことです。自分でなければ歌えない歌い方にしていく。節回しや、音符のつけかえも歌い方の一つですが、本質的なものに支えられていないとダメです。そこをつきつめていくのが歌の練習です。

 

歌は幼児期の楽器の練習の仕方と違って、基本が「表現」というところからきます。いろいろなものがその人が出していく世界に加味されます。それを当人が捉えられていればよいのです。私たちも基準は示せるのですが、一年目はこれをやれというように教えられないのはそういうことです。

型というのは得られることと、失うことのプラスマイナスをどうとっていくか、失われるものを、最小限にして最大に得るために必要なのです。自由奔放に歌えばよいとやってみても、全部失われてしまうときがあります。型以上のものが出ていないと、型を利用しているだけになります。

 

型の変じた形に集まる人が増えてくると、自分たちのなかだけでライブをやって楽しむという人が多くなります。ゴスペルライブとか合唱団、多くは主催者の個性しか伝えられない、つまり、まわりが自分を殺し洗脳され、それを気分よく感じているのです。とても日本人らしいサラリーマンらしいでしょう。どんどんその集団の色がついていくのです。本来、各人がバラバラの色でないといけないし、バラバラだから、つながってもおもしろいものができるのです。その辺は、ここ自体も気をつけてきたことです。

 

 

型にも表と裏があります。外側はフォムです。それをまねしてもだめで、中の感覚が正しく働いた結果外に出てくるのが形です。ヴォイストレーニングも気をつけないといけません。表面的に姿勢などを教えるわけにはいかないのです。3、4年ここでやっている人たちの表情や動作は、シンプルだけど、しっかりと歌の世界と一致してきます。バタバタしません。

 

姿勢などを注意して教えるのはよいのですが、それで動きがとれなくなります。条件が備わっていないときに、一つひとつ注意したってダメなのです。そのときにどれを優先するかというのはありますが、基本的に正しいことがしっかりと中で働いていたら、その人間がその感覚と、それに対応できる体をもっていたらそうなります。フォームというのは内的にできていくもので、形をとってやっていくというのはウソになります。そこに立つだけで自分の歌を表現できるキャンバスとしての時間と空間がでてくるか、それが姿勢です。

 

レーニングの無数の気づき、一つひとつのことにしっかりと出会っていくことです。一つのことをしっかりと捉えて、出し続けることです。それは、日頃のレッスンのなかでも行なわれているし、ステージ実習やライブ実習の1~2曲のなかではもっとアピールできるものです。

 

 

自分の体がしぜんになるのは、まず素直な心になっていることです。素直な状態で、歌を受け入れてしっかりと返していったら、届きます。性格はひねていても靴はそうしてはいけない。それが一番ベースのところです。

作品というのは、どんどんうまくなるものではありません。作品には自分の内面や資質が、現実通りに現れるものです。

 

初心者のレッスンをやっていると、歌う声と、体を使って出す声がまったく違う。それはそれでよいのです。自分でわかっていて、結びつけることを急がず、そのプロセスをとっていけばよいのです。ただ、どう変えたいのかをはっきりと思わない限り、変わりません。基準があれば変わっていくのです。

 

ただ、まわりのレベルに基準をとると、それに近づけようとしてしまうのはよくないです。一時、人の形をかりるのはよいのですが、その相手の内部の感覚を読みとることです。これはトレーナーの仕事と同じです。自分のトレーナーになって、他人の体を読み込むことができるようにならないといけません。音の世界でおきていることを表面的に解釈しても同じレベルのものは絶対出てきません。

 

 

合宿で問うたようなことを積み重ねている毎日のなかで、あるとき、何かできてしまうことがある。それが大切です。そのときが感覚を知るチャンスなのです。スポーツでも、力を入れなくても、力がもっと働いているという肉体が異次元の状態になることがあります。基準をそこにしっかりとつけて求めていたら、これだとわかるのですが、ヴォイストレーニングの世界で難しいのは、それが見えていないからです。

 

体や感覚が変わったものを受け入れていかなくてはいけないのです。あるとき、上にフッとひびいた。でも、ここでは、胸にひびかせようとしてやっているから、このひびきはよくないと思ってしまう。一所懸命やる人や、最初に教えられてしまうばかりではそうなるのです。

 

スポーツなどビジュアルの世界ならわかりやすいのですが、音の世界では、そういう勘違いは起こりやすいです。いい作品をその表面ではなく、内部の感覚で判断できることです。それによって、自分にも修正ができるようになってくるでしょう。

 

 

ここでトップレベルになる基準は、うまくなくてよいから、一年に1回でいいから、ビクッとさせるようなものを出すことだけです。こういう世界は、可能性で見ます。平均点を毎回とる人よりも、毎回10点でという、あるとき90点を出せた人をとるのです。70点80点までは、やればできるから意味もないのです。

 

10回に1回でも100回に1回でもよいから、90点という完成度を出せた人が1回に1回それを出せるようになればそれでよいのです。全教科が強くなくとも、音楽がよければよいし、数字で12のジャンルで60点より一つのジャンルで90点なら、その方がよい。そういうところでやればよいからです。

 

ここの声に対する考え方も中途半端に整えて、どこも使えるなら50~60点の声で2~3オクターブあってもダメです。1音でよいから、まわりを納得させるものが出れば3~5年たったあとの可能性が見えるのです。

可能性のあるような使い方というのは、人間の原理から反するものではありません。片手間や口先でやっていたら、そいういうものは伝わりません。それをしっかりと煮つめることを、基本や型のなかでやっていくと、あるとき、体の状態や感覚がしっかりとしていたとき、ふと歌えてしまうというのです。最初はうまくはならなくても、底辺が広まり深まると上がってきます。

 

 

同じ条件のなかで、他の人と比べてみるのは一つの手です。そこで、うまく学んでいくことです。そこからは、手間ひまをかけないと仕方ありません。そういう接点を見て、トレーニングを重ねていかないと、単に発声練習だけやってレパートリーだけ増やしているというのでは、力はつきません。それをやるためにはプロセスが必要です。

 

一人で静かな時間に、自分の歌や、声や考え方やトレーニングメニューと、会話するのです。プロの体づくりは時間がかかります。そこから声にするのには大変です。さらに歌にするとき、伝えたいことを音に変換していく。それはトレーニングのなかでやらないとダメです。自分で毎日、基準づけをしていくことです。独自の世界をつくるのが、ヴォーカリストです。独自の歌い方や、音の感覚、リズムが出てくるのですから、トレーニングを人まかせにするのはよくありません。

 

発声技術というのは最終的に感覚を自由にして出して、それが音声になるためにあるのです。それを学んだがために、学んだことしか出てこないというのは、よいことではありません。感覚と音色の部分がしっかりと結びつけられたらそれでよいのです。

歌い手の技術で聞かせる部分はありますが、それはメインにはならないです。他のところがしっかりしていたら、そこがより効果的に働きかけるのです。

 

 

自分のスタンダードをつくっていってください。体をゆすっていたら、自分の歌が出ててくるということです。自分にとってのスタンダード(スタイル)とは何なのかということを考えることです。なるだけいろいろなものに挑戦すればよいのです。最終的には、曲に左右されるものではないと思います。

 

まわりにどうこういわれることも気にしない方がよいです。音楽をやっていない人に聞いた方が、正しく感想を述べてくれることもあります。

 

ここでシャンソンなどを扱うと好きな人は少ないので、自分の好みなどに左右されないのでわかりやすいです。そのなかで心をひかれるところとか、自分の味を出せるところがあったら、その歌を離れたときにも、自分の一つのスタンダードになっていくでしょう。

 

 

歌というのは歌うときは歌う、ステージだったら、伝えるというようにある程度、決めていった方がよいと思います。歌もステージは一つひとつ効果をあげていかなくてはいけない。一つひとつの効果をくみあげ積み重ねていくのです。ねらいをもっていなくてはいけない。

 

それは一つのフレーズごとに完結することとは、違ってきます。これはトータルのなかで考えなくてはいけない。だから、うまい歌い手ほど音をかなりしぼって歌ってみます。最近そういうつくり方をしているヴォーカリストが多くなっています。聞き手の方が声を聞きたいという時代でもなくなってきているのでしょう。

 

それは日本人にはよいことですが、音楽の条件がなくて効果を頼ろうとしているので、条件をもっている外国人のやるレベルとはまったく違うのです。違ってもよいのですが、それを知っておくことです。

ステージはお客さんのことは意識しておかなくてはいけない。本当は、私やアドバイザーや先生がお客さんとなって逆転しなくてはいけません。

 

 

ここに入ると、2つのギャップがあると思います。一つは表現をしていくための生活のつくり方です。ただ、コンサートや、美術館にたくさん行けばよいということではありません。自分のなかの本質や、伝えたいと思うことを明らかにしていくということです。もっと大切なのは、なぜ歌を選ぶのかということです。この2つを少しずつはっきりさせていかないといけません。

 

音のなかのプロセスを理解することにおいて、精神が音をとるとか、デッサンしているうちに音の本筋として、それを捉えられるようになるとか、そういうことのプロセスが必要なのです。音楽のなかでも歌い手というのは、特にそういうことがわかりにくいのです。画家と同じで、人まねではなく、自分のタッチを持たなくてはいけないということで、そう考えれば違ってきます。

 

どちらかというと、技術よりも、その世界の方をあらわにして欲しい。その世界が他の人と似通っていたらつまらないです。音においても共通のプロットや選び方を新しい人は壊してきますし、媒体メディアもいろいろ変わってきている。音楽や歌になるとその辺が最近おかしくなっている。教本や、コールユーブンゲンなどからいきなり歌にしようとする。もっと歌の方にあるべきものがないのです。

 

 

 

 

 

Q.最初は、他の人に手本を求めた方がよいのですか。この人の声はすばらしい、という人の声には、なかなか出会わないのですが。バンドの求める声でよいのでしょうか。

 

A.いろいろなヴォーカルを見られるようになりましたが、全身で感じることをくり返すというのは、大切です。

バンドのなかに入ると、ここでやっているような声をめざせなくなることがあります。バンドのねらいもあるし、ヴォーカリストもトータルのなかのバランスをとるからです。

しかし、そういう世界観がかたまっていない、ほとんどの場合、初心者やこれから勉強しようという人たちに、そういう声は勧められないのです。

限定してしまうことが多いのと、同じような声になったところで、他の売りものがないから、その先がない。

 

自分の色というのは、難しいのです。お客さんとのことやバンドとしての一つの世界観にもよる。白想にもよる。奥にある何かが働きかけるものがいったい何なのかということを考えることもなくなりつつある、ヴォーカルとしてやりたいという理由は何なのか。そのスタイルがそれぞれ違うのでわかりにくいのです。

 

ここのように考えて学ぼうとしたときには、まず、型にはまってみて、自分の体を固定してから解放させ、その上でどれをつけていってもいいといっているのです。そこで問われるものではないのです。

年に何回か、まったく違う曲を与えたりすると、その人がやりたい発声がうまくはまっていることはあります。今、タレント的なヴォーカルのなかでやれている人たちはそれに近いかもしれません。

 

自分の体の使い方をしっかりと感覚の鋭さで把握している人たちはヴォイストレーニングや発声練習のなかで考えなくも正されてくると思います。でも、日本のなかではけっこう難しいです。

日本の政治家やエアロビクスのインストラクターの声はたいていつぶれてしまいます。それはそれを支え切って、一日1~2時間も支えるパワーがないのとともに、それだけのトレーニングが日常的に積まれていないからです。

それから、言語のハンディがある。ここではそれを1回忘れて、基本を入れていくことです。

 

 

Q.昔はフレディーマーキュリーなどが声に関してすごいと思っていたのですが、先生の本に書いてあるような正しくない発声をしていることが多いです。だから、自分以外の人で理想とする声がみつからないのです。

 

A.それはそれで一つの判断としてよいと思うのです。

それに対して自分が何を出していくかというときに、声だけで考える人もいればトータルでバンドのなかでの一つの役割と考える人がいてもいいでしょう。ケースバイケースです。

ここでは制限があって、バンドなどをつけて派手にはやりません。

アカペラというのは、個人としての歌の完成度というのがわかりやすいです。

 

いろいろなものを見ていくのはよいのですが、結局、何をどう歌い上げたいのかということを考えることが大切です。ここでは、皆さんが嫌がるような歌も押しつけていますが、自分の好きな歌ばかり歌うより、その方がよい場合もあるのです。いろいろな出し方があることをらべるためにもよいです。

 

オリジナルのフレーズの練習をしていくのが基本だと思います。スタンダードナンバーでもよいから、そのことを何回もくり返したときに、伝わるものとそうでないものを断していく。これは作曲家であれ、ピアニストであれ、皆やっていることです。いろいろな声を聞いてみるのはよいです。

 

 

パッと聞いてみて、「すごい」と思えるような声に触れていくことです。音色とフレーズというのは、文体のように大切なものです。今は今なりに出していくべきです。私は働きかけるか、そうでないかというところで聞いています。前にとんでくるか、生命感、立体感、可能性をもっているかということを本能的な部分で聞いていく。こっちに伝わったときには当人はよくわかっています。

 

発声でも、本当に正しいものが出たときには、人にいわれなくても、当人がわかるはずです。それはとても感覚的なもので、基準もしっかりとありながら、表現に一致する。声だけにとらわれていくと、うまくいかなくなってしまう。

スポーツの歴史をみても、人間がおもしろいと思えるものが残ってくる。歌も同じことがいえます。それは、自分が答えを決めていくことです。

 

一人のなかにいろいろな可能性がある中で、あまり早くから作品、声、歌のために限定されないことです。体の機能ももっと強くなるし、音の感覚やリズムだって鋭くなるのです。人間は鍛えれば鍛えるほど、鋭くなってきます。それが身につくところまで一回つめこんでいくのです。

 

 

よい音と、よい画像を見て、歴史を刻んできた人たちを心に刻んでいくのが役割だと思っています。体でいっぱいであびて、その瞬間、乗り移って、声をパッと出してみて「できた」という覚え方が一番よいと思います。そのようにワップすることが、大切だと思います。ワープして固定し、解放する。そして一つ上にのり、それをまた繰り返すのです。

 

最近の日本のレコーディングというのは、高音だけでなく、ベース音まで加工しています。

ヴォーカルの音色やフレーズを殺すような作り方をしています。

そこを音の世界のなかで合わせていないのです。リバーブの多用でカラオケ歌唱のように仕上がっています。

サウンドプロデュースに関する判断は、ある時期まで深かったのです。

最近のリバイバルものは、おかしくなっています。

歌というものは、バンドの演奏とアレンジによって何倍にも引き立つし、ダメにもなります。

 

ミキシングしている人がふしぜんに加工しすぎるのです。

一見、聞きやすくなるが音の世界で何も伝えない分、楽に聞けるが、心にせまらない、声をぼかしている。

今のヴォーカルというのは、アレンジャーのいう通りに任せますから、発言権は、あまりないのでしょう。

ヴォーカルは、音の加工にまで知識があるわけではありませんから、プロデューサーの責任でしょうか。

そういう人たちが、音楽業界の第一線にいるということは、困ったことですね。

 

 

 

 

純正律

 

(純正律のオルガン曲)

この後が純正律平均律の比較です。(ド:ミソとドファラの純正律を交互に)

次は、巻上さんのホーミーです。

 

特別レッスンでは、オリジナルフレーズについて、やっています。しかし、入っていないものは出てこない。入れるしかないのです。

本日の映像の評価も、今までに入っている音楽や、耳によってかなりいろいろでしょう。材料として映像も与えました。半分は音を聞く、そして、音をつくるということです。

 

「音の後進国日本」という本があります。CDがついていたので、かけてみました。

地の声を特別レッスンでやっていました。

体が動き出すところから呼吸、そして呼吸から声になるところ、声をフレーズにして自由に展開していく。

そういうときに全体が共鳴していくということが歌い手に欠けていると、米山文明氏の本にありました。

この映像を見せただけでは、単に感動されて終わってしまいかねないと思ったのです。

 

 

特別レッスンは、実験の場です。

私のレッスンでない新しいものを試してみたり、私たちが知らないことを気づいていくことのためのものです。

中島みゆきさんもユーミンさんも、歌が歌いたかったわけではなく、表現しようと思ったら、歌を使うことになったようです。当時から、残っている人は20組くらいしかいないわけですが、ほとんど作詞作曲の力です。

私が声や歌としてあまり着目しなかった人ばかりで、ある意味、皮肉です。

 

玉置さんの本を呼んでいたら、「絶対音感」というヒット本に関して批判しています。

絶対音感そのものの存在を否定しているのです。あの本にとっての前提をくずしているのです。

私も絶対音感がありますが、1ヘルツレベルでの絶対音感は不要、いや、ありえない立場です。

それから、ユーミンの番組についても批判しています。超音波は、耳に聞こえるわけないというのは、事実です。

 

こういう分野は、どこの立場でどれだけ勉強するかということです。しかし、私たちは、学者ではありません。表現のために必要なら使うだけです。あくまで知っている範囲のものを本能的に読み込んで、自分の体にきいてみて、合ているか、間違っているかということを判断します。その方が学術的にも正しい場合もあります。

 

 

実験の映像がありましたが、α波やθ波などということの科学技術に翻弄されるより、自分の直感を信じた方がよいと思うのです。人様に説明するときに文章にしたり、科学データを裏付けにした方が強い。その方が信頼されるので、私には必要なのです。皆さんには、どこからどこまでのことを伝えればよいのかというのは、なかなか難しいことです。

 

文章というのは、その人がどういうことをやってきて、どういう方向に行こうとしているのか、何が習得できているかできていないか、わかります。全体を見なくても、ことばひとつでわかってしまうこともあるのです。

 

毎年、自分の世界というものをしっかりとつくっていく。

自分の世界がもてないような自称アーティストが、日本には多い。

モンゴルやアメリカがよいと、いっているけど、日本にも昔はどこの地方にも、芸能芸術は、あったのです。それを拾いあげていないだけです。

今や沖縄くらいでしょうか。沖縄の音階を安易に借りたりしてつくるのもよいでしょう。

 

 

ホーミーも正しいものというのが何かというのは、本場で本物を見ると、わかってきます。

そういう感性を大切にしながら、やってみてください。

日本という枠にとらわれることはないのです。外国へ行くと、その考えはふっとびます。

日本人が外国のものをやったって、通用しないということが徹底してわかります。

 

村上龍さんが「インドネシア、フランス、イタリア、チェコという国を見ていくと、日本のようにカントリー・フォークを歌い続けて50年という歌手がたくさんいる国はない。」と書いています。日本では、それだけ多様な需要があります。しかし、それが、本当のものだと思ってしまうからよくないのです。

 

「ノースキャロライナのスーパーのレコード売り場は100%カントリーやウエスタンである。ヒップホップなど、黒人音楽のCDは一枚もない。カントリー・ウエスタンが、ある階級と人種のための固有の歴史をもつ音楽で、ジャズ、ロック、クラシックのように一般化抽象化されていないからだ。それが日本にそんなにたくさんいるのは、どういうことなのか。プア・ホワイトの歌を日本人が50年もやり続けることが気になる。」

それは「未来的な理念がないアーティストたち」への批判として結ばれています。

 

好きでやっていてもよいけれど、それだけでは先へ出ていけないということです。

理念というのは、アーティストたちにとって、大切なもので、それをもっている作家も少なくなったが、まして音楽の分野では稀有です。

クラシックには、しばしば、その挑戦の部分がありません。あまり聞いてない人にとっては、「かっこいい」と思うかもしれませんが。

 

 

錦織さんのカヴァーも、クイーンを聞いてきた人は、「なんで、こんなに違うのか」と思うでしょう。

錦織さんも、米良さんもそうですが、芸人根性があって、こういう危ない人が音大から出てきた、というのはよいことです。NHKの番組をうのみにしないでください。バンドネオンに関しても本当のものを聞いてから、評価することです。

 

日本人のなかで、そういう意味で創造してきたことと、純正律(ホーミー、ブルガリア音楽など)(他に平均律ピタゴラス音階音律という種類)を学んでみましょう。

純正律はピアノという楽器ができて、なくなってしまいましたが、平均律でない共鳴の心地よさを味わってみましょう。

 

(美空ひばりのファルセットから、スーザン・オズボーン)

 

何をもってつくっていくかということです。映像に偏りがあるから、メジャーなものを入れてくれ、という意見がありましたが、何をもってメジャーというかということです。

舞台のやり方がわかったからといって、形を見てもそういう舞台をつくっていくという力は、でてこないのです。やる方法も違うのです。

 

それから、ここでの考え方としてですが、自分の手に入るものは、ここで用意する必要はないと思います。

ここでなぜ、日本の古い歌とか、国やスポーツの歴史などという映像をすすめるのかというと、皆は、高いから買わないからです。借りてみることも難しいからです。

マイケル・ジャクソンやその他のメジャーなものばかりここに入れていくと、それが理想の音楽であるかのように勘違いする人がいるのです。

 

ロックの方が、今はリズムがあるので、ボケ防止やヒーリングのために使われているそうです。

昔は、ロックなんか聞かせた植物は枯れてしまう、頭がよくなるには、クラシックを問かせなくてはいけないといっていました。

しかし、人間というのはリズムです。根本は全人類共通でしょう。

そこにすぐれたヴォーカリストも日本にいることでしょう。

 

 

世界で、この100年間の間に一流として認められた人の歌を聞き比べてみたら、違うものが聞こえてくるでしょう。ポップスやロックにおいては、それだけ耳のこえている人たちが、そのなかで認めた人たちが、他の国でも、受け止められていくのです。

 

私が東ヨーロッパを廻っていたときは、マイケル・ジャクソンやディープ・パープルが解禁になった頃でした。皆、有名だから、のるのではなくて、音そのものにのるのです。ラテンの血を感じました。どの国も似た音でなく、独自の音を出しているバンドが評価されるのです。

 

ダメなバンドはこういうもののまねなのです。その国の音というものを出すバンドはすごく認めます。日本人のなかにそういう評価が働いているかというと難しいです。

 

 

マイルス・デイヴィスは、自分で買ってみてください。

(マイルス・デイヴィスのアルバムから)。

 

アンドレア・ボチェッリ、1994年にサンレモで優勝した歌手、オペラ集などを出しています。

「星は光りぬ」テノールの声です。

次が大ヒット曲ですね。「ミゼレーレ」

 

 

参考に

「東京ブルース」

「雨」

長崎は今日も雨だった

 

 

今度やってみようかと思うのですが、高橋竹山さんの三味線演奏をバックに歌ってみたときに、どういう声が出てくるか。トレーニングでやって出るものでもないのですが。

マイケル・ジャクソンにしても、最新のできたものを見るより、ジャクソンファイブの頃のを全部見たらわかりやすいのです。なぜ彼がリードをとったのかがわかります。他の4人もうまいのですが、マイケルには声そのものがもつ、伝える力がありました。

 

ある方向を決めたら半年くらいやってみて、そういうことを繰り返し、2~3年やってきたら、1~2ヶ月でそれをひっくりかえして、さらの気持ちにしてやってみる。どうなっていようが、思いが出ていればよいのです。

伝わる声を出していこうとしたら、そのうち体が動かなくなってきたり、根本的なものがくずれてくるから、また基本的なことをしなくてはいけない。トレーニングのなかで、音楽や歌が消えていったりするのは一番、恐いことです。

 

ようやく私も15~20年の音楽的な歩みをみられるようになってきました。

最初にどこにいて、そのときに何を見ているのかということが大切です。

 

 

自分の10~20年先をどう読むかということができません。

そんなところを読むより、足元を見るしかないのです。古い時代を勉強するのはよいことです。

それが起きたところまで戻ることです。

 

最初の時点で何がうごめいていたかということを見なくてはいけません。

そこで一番、学べます。どこを見て、自分の何を見ていくかということで決めているのです。

それが見えていると、うまいへたではなく、安心してこちらも見ていられます。

 

それをレッスンのなかで発見するのは難しいかもしれませんが、結局、他の人にないものをもっていかないといけません。そこで出たものを形づけていかないといけないのです。

すべてのものをそういうふうに捉えてもらえばよいと思います。

次回は体を動かすことをメインにしようと思っています。

 

 

 

 

 

 

【フレーズレッスン①②】

 

(「カルーソ」パバロッティ)

 

今、ステージ実習、ライブ実習を終えて、皆さんの評を見ています。いろいろな見方があると感じています。よかったところもどこなのかをしっかりと見ていくことです。

伸びた人というのは、徹底的な自己批判をしています。

その人の基準が高ければ高いほど、自分に対しては批判的にならざるを得ません。

そして正しく見極めていきます。

 

何を伸ばさなくてはいけないのか、何かよいところはあったのではないかという部分を見つけないとしかたないのです。よくないで終わってしまったら、いつまでたってもそのままです。そのなかで100分の1でも1000分の1でも、ものになっていくところを見つけるということをしなくてはいけません。

ところが、この判断ができないのです。

 

多くは今、通用しそうなところでなく、将来何とかなりそうなところを見られないからです。それは映像をみて、他の人よりもけっこうルックスがよいと思うのと同じです。

それがだめなのは、上には上がいるのに、時間で伸びるものではないからです。

それまでにやったことと、そのときに出したこと、それが、終わってからどうするか、特に入ったばかりの人には、大切なのです。トレーニングでは、舞台に出るまでにどれだけのことを練り込めたかということです。

 

 

日本人の声というのは、マイナスのところからスタートしてゼロにしていく必要があります。癖をとっていくのです。これは、プラスにするために不可欠です。

オリジナルな声での声立てということです。

皆さんが思っているより、高くないところです。男性でいうと、ドからミくらいです。これを、きちんとバランスとコツをつかまえて出すことです。

 

型から入ったらよいというのも、そういうことです。型というのは、それを知るためにやるのであって、それを覚えるためにやるのではないのです。同じことをやることで、何ができているのか、できていないのか、ということがわかります。それから、そこで止めてみることで、動きというものがわかるのです。

 

これに必要なのが、集中力や気力です。声より声がでてくる構えの方が大切です。まだ1~2秒も、もたないレベルでやっています。1分間集中力がもっているステージを観るのは年に10回くらいです。うまいへたより、それが伝わらないことにはよくありません。集中することがいかに難しいかということです。それは、スポーツをやった経験がある人なら、いかに難しいことだとわかると思います。

 

 

声たての部分でオリジナルな声ができていたら、フレーズはできてきます。それで、オリジナルのフレーズをつくっていくのです。

これをつくるのに必要なものが感覚です。これが高い基準であれば、その人は時間をかけて上達していきます。感覚というものが自分の評価眼になってきます。これが、できないと自己本意になって、まわりの人からも学べず、自分も大してできていないのに、井の中の蛙になりかねないのです。独りよがりでは学べません。どんな相手からも学べるのが能力です。

 

ある意味では絶対的なものがあるのです。それがわからなければ、スポーツ選手並みの体力や、持久力をつけていくのも一つの手です。体や息の力を強くするということは、ある程度、声とは離して考えますが、あとで伸びていく要因になります。これも、一つの器を作っていくということで、とても大切なことです。

 

空手などでも、型をやります。型といっても、人間がつくったものです。すぐれた人が自分を正すのに必要としたものです。技術というのも型において、確実に取り出せるもの、その域にならなくては出せないものをそう名付けたのです。

技術に加えて、体力をつけたり柔軟をやったりして、体の条件を整えていくのです。この三つのことは、必ず関連してきます。自分がすぐれているところをよりすぐれさせていくと、ともに補っていくことです。とりあえず、そこまでやらないことには才能どころか、自分が何なのかということもわかりません。

 

 

 

今日は基本的なことをやりましょう。

 

(「ハイ ハイ ハイ」で高低)

お互いを見ながら声を出してみてください。そこで起きることについて、よく見てください。自分のことはなかなかわからないものです。ヴォイストレーニングも同じです。

鏡を見るというのは一つの方法です。自分を見ていても、見慣れてくるとわからなくなるのです。歌も同じです。

 

姿勢など、何かおかしいという人が何人かいます。息を吐くことと、声を出すこと、体力をつけることなどを一緒にやってしまっているからです。わからなければ歌ったり、セリフをいってみます。

 

グループレッスンで行うことは、合唱のとき以外は他人に合わせず、自分に役立てるようにやってください。

声や口の形がまわりの人と合うなどというのは、おかしいのです。

何もイメージしていないし、意識していないのです。自分をはっきりともっていたら絶対に合わないはずです。

体も呼吸も力もまわりの人とは違います。大切なのは、自分の一番よいものをそこでとり出すことです。

 

 

(「ハイ ハイ ハイ」)

このリズムの動きに対して、余計な動きがつきすぎているのです。

私は声を出すのに口を開けることをきっかけとして考えてはいけないと思います。開いているのはよいのですが、声とは関係のないところで、いくら口をパクパクさせても、障害をつくるだけのことです。

あごが前に出たり、上半身が固くなったりするのも同じです。

 

本当は、何も起きないところで声になっていればよいのです。それなのに、口をはっきり開けろという注意をするのは、声がこもっていて前に伝わっていないからです。そうして、口をはっきり開けるように指導する人が多いのです。口を開けようが開けまいが、声が飛んでいて、前に伝わらなくてはなりません。

その人が、本当に前に伝えようとしていたらしぜんと口は開くし、声が飛んできます。そこに意識がいっていないことが問題なのです。

 

人によって、かなり違います。それを外側で捉えないことです。そのなかで起こっている感覚について、いっている場合が多いのです。口を開けるときも、大きく口を開けるのではなく、口のなかを声の出やすい状態にするということです。歌でも声でも、大切なのは、その状態をつくることですが、それをあまり意図的にやると、拘束されてしまいます。

 

 

(「ハイ ライ」で高低)

ほとんど7割の人があごというより、首が前に出ています。クラシックも同じですが、体の使い方から、のどに負担をかけないためには、日本人にとっては胸の位置がかなり前上に出ます。そこまで上げると、背骨の両脇あたりに、支える力が働くはずです。しかし、直立してピンと張ってしまうと、腰まわりが自由でなくなります。ちょうどよいところに中心が感じられるような体の意識を得ることです。胸を上げると、首がまっすぐになりますから、あごがひけるのです。日本人はしっかりとひけないから、高い音になると、あごが出てきたり、顔のまわりで操作しようとします。なるだけ、首がないように意識しなさいといっています。背骨のところで捉えて、それが胸のまんなかに集まるくらいでやってみてください。

 

(「ハイ アオイ」)

「ハ イ ア オ イ」と捉えないで「ハイアオイ」です。「イ」は難しいです。

「イ」であごが動いてしまっています。あごをひっこめて舌を下げることです。「ア」でいえているところでやることです。それでも浅いのです。「ア」も深めましょう。

母音は五音あると考えないで、「ハイ」と「アオイ」で2つ、まったく同じ感覚で捉えてください。

拍一つの城の流れのなかにそれが入るという感じです。(r.英語の等時性)

今、声を芯からつくることと、声立てということをやっています。

 

多くの人は、口をパクパクさせて早口にとばを覚えるのです。日本語というのは、ことばを強く出さないのですが、弱くも出さなくて、すべてを均等にとりながら一つひとつをはっきりと区切っていっていくのです。

英語などは強い感覚で伝えているだけで、弱いことばをはっきりさせません。その分、子音の区別をしっかりとしています。強アクセントをしっかりとつけたら、あとはいい加減です。

日本人はいい加減さがなく、一音ずつ英語もしっかりと発音して声のメリハリになりません。

今は声になる方を重視していってください。

 

 

(「ハイ アオイ」「ハイ ララ」)

会話で使う声はともかく、トレーニングに関しては全部、なるだけ同じように、同じところでコントロールしていきます。ことばや音の高さによって変えようとしないことです。

私が弾いているスピードはプロに要求される最低限のスピードですが、皆さんにとっては、速いでしょう。

3回に1回くらい合わせられたらよいと思います。きついようなら、3回に1回、休みながらやってください。

そうでないと、体も戻っていかないと思います。間をどんなに開けてもかまいません、完全に集中できた状態、いろいろなものが見えている状態を体で感知していくことです。

 

昨日、蜷川さんの「王女メディア」を見てきました。1ヶ所しかしまらなかった。何日もやっているので、そういう日もあるのでしょうが、一瞬一瞬にしまっていかないと、舞台というのはもちません。まわりの動きや音声の部分で語らないと、語りものになってくると厳しいです。

ことばを伝える力はあるのですが、歌のレベルで音声としてとり出そうとすると、難しいです。ただ、そうでない役者もいます。昨日も一人いました。声がずば抜けています。でも、動きがへたなので有名な方なのですが。

 

今の日本の役者は声をつぶさないようにか、のど声をさけ、口裏(上あごの下)で、ころがす技術を習得してしまっているので、あまり参考になりません。しわがれたままか、上の方で浮かせた声でふわりと伝えている。体の動きやことばのスピードを重視するため、声がついていかないで、おろそかになっているのは、J-POPと同じです。

芝居というのは、音声だけの世界ではありません。当然、私たちの世界でも同じことがいえます。その音声を集約して一番よいところだけとったのが歌ですから、それだけに集中力をものすごく使います。こういう練習のなかで塗っていくしかないのです。勉強で集中できるのと、人前で集中できるのはまったく、違ってきます。

 

 

(「ハイ ララ」)

どんな音に飛んでもそれが同じだと捉えられる感覚をもつと器が大きくなります。自分のフォームがそれについていかなくなったら、ポジションを変えるというような逃げの意識が働かなくなるのです。

だから一時、うまくいかなくなります。

それではじめて、音というのを全部均等に扱えます。息や体を使っていたらその音がとれてしまったというような、しぜんな習得が本当は望ましいと思います。

 

意識して行うトレーニングでは、どこかで力をしっかりと入れては抜いて、働くべきときに働くようにしていきます。武道と同じです。私も伸び悩んだときにいろいろとやってみたのですが、いろいろ教えられます。そのときにできないことというのは、あとで通用するようになると、次のレベルのヒントになります。

 

 

(「ガーゲーゴー」)

レーニングというのは同じ時間に同じメニューをやるのが、理想です。

自分の体の変化というものが読みやすくなります。

それと比較トレーニングです。

「ハイ」に対して、「ガーゲーゴー」が同じように処理できていないということがわかります。

レガートですから、その分離しいのです。

 

そのときに技術が足りないと思っても、多くはそうではありません。

気力や集中力、体力が足りないのです。技術を覚えるために発声練習を習得しても仕方ないのです。

感覚を磨いて、意図的に操れるようになったのが、結果として技術なのです。

息をより強くするとか体を強くするとか、集中するということの方が大切です。

 

一つの音をキープできないというのは、それだけ意欲や気力をもっていないのです。気を放してしまうと、そのあと、全部とれなくなります。遊んでいてもそれがとれるようになったというのが、習得できたという状態です。

今は、集中してそれをしっかりととれるようにすることです。

より集中しようとすることで、より力が入ったり、バランスが崩れたり、声をとりそこなったりします。

すると、当然崩れてきます。

できないことができるように思ってしまったり、できることのところで、できなくなってくると、何をやっているのかよくわからなくなります。それでスランプになって、おかしくなってしまうのです。

 

 

体と気持ちの支えというのがー番ベースです。それから間を充分に入れた方がよいと思います。多くの人は、テンポが速すぎて声に神経がいっていません。持ち時間一杯つかみつづけるというのは、プ口のトレーニングです。

皆さんの場合はつかめなかったり、集中力がのらないといった理由で、うまくできていません。その辺を走ってきた方がよいかもしれません。中途半端なトレーニングならやらない方がよいです。

 

そういう意味でも切り替えというのは、難しく、大切な問題です。

目をつぶったら集中できるともいいますが、どちらかというと、カッとひらいてやった方がよいのです。

眼をひらいて集中する方が前向きです。

集中というのは、リラックスと同じことで、一点集中ということではないのです。

 

舞台に立っていて、みかんが飛んできて、よけられないようではダメなのです。

リラックスしていて、八方すべて何が起きているかもわかっているというくらいの集中力が必要です。

そうでないと、音の世界は見えてきません。一所懸命やるほど、見えなくなってしまいます。

 

 

「ハイ ライ ハイ」でやりますが、「タン タン タン」くらいで捉えればよいです。

そういう体のリズムだけを合わせればよいです。

 

(「ハイ ライ ハイ」)

低音は無理に声にしないで、窓に戻り体に戻ればよいのです。

自分の気力や体の力を戻すとき以外は、無理をしなくてよいです。

 

(「ゲーゲーゲーゲーゲー ガーガーガーガーガー」(ドレミレド))

クラシックの発声は、これの3~4倍の長さでやっています。

ポップスだからといって体の条件は変わるものではありません。

強いほど有利です。音声の原理から捉えていったら同じことです。

 

 

問題は「ハイ」ととったあとレガートでつなげるところですが、たいてい、「ラー」のところでひらいてしまう。「ハイ」で使ったところの深いポジションをキープしなくてはいけません。

キープするときに、フレーズができてきます。

 

声でも、「ハイ」といっているときは、共鳴しています。そこで、ぶつけているわけではありません。

レガートも「ハイ」という点が集まった線です。

感覚のなかではなるだけ、同じように捉えてください。

 

伸ばしていると、たいてい乱れてきます。

日本語の意識でやってしまうので、のどの状態を変えてしまうのです。

日本人のもつ不利な意識をとっていくことです。

数をこなしてある程度、意識の働きが弱まったときにやると、スポーツと同じように、うまくいくことがあります。

 

 

言語も音楽も反射的に覚えていくわけだから、なるだけ反射の感覚を利用していった方がよいのです。頭ではなく皮膚感覚で捉えるのです。スタッカートからレガートというより、点が複数で線になるというより、線の始まりがその点だということくらいのものです。点で展開できないものが、点が丸でなく、方向性がつきベクトルとなることでもう少し自由になるんだと考えればよいのです。

 

まったく違うことをしてはいけません。全て同じ働きです。

体からいうと、それをつかまえ、展開させ、きちんとしめ、放す、というだけの話です。

その辺が音程~リズムトレーニングと教え方は逆になってきますが、ヴォイストレーニングからは、そう考えてもらえればよいです。

 

本当はリズムトレーニングもこの延長上なのです。「ハイ」でオクターブ扱えのであれば、それをそのままレガードにしたり展開していくというふうに考えればよいと思います。

キイが上がること、伸ばすこと、強くすることのためには、より力と集中力が必要になります。そのぶん負荷がかかります。より小さく強くしていくこともそうです。

普通にやるより大変なのです。それを大変と思える体や、感覚ではまだできなくて、そのように鍛えておいて、そのことを入れていくしかないのです。

しかし、普通も雑にやってこなせているから、できたつもりになっているだけなのです。

基本の段階では、とにかくあまり変えないでください。

応用(歌)になると、いろいろ変えていかなくてはいけないからこそ、つかんでおくのです。

 

 

(「ハイ ラーラー(ド レーミー)」「ハイ ラーラー(ミ レードー)」

速いので大変でしょうが、ミーナなどは、これの3倍くらいの感覚で入っています。今すぐできなくてもよいのですが、タラタラやっていても何にもならないのです。トレーニングをやっていると、悪くなっていく場合も多いのです。それも引き受けていくしかないのですが、思い込みによる場合が多いのです。

注意することは、慣れや感覚、その人の集中力です。は、何事も自分が邪魔しなければできるのです。

 

それから鈍くなると新しいことが起きても、いままでのトレーニングと違うからといって戻ってしまう。それは逆です。次元をあげていけば感覚も変わります。

最初、体をこれだけ使わないと声は出ないはずだと思っても、体が成長して、楽な感覚でよりよくできるように移ろうとしているのに、自分の固定観念が押さえつけてしまいます。

だから、トレーニングは厳しく、前の年より絶対にやっていかなくては伸びないということです。身近な目標がそれ以上伸びる可能性を制限するから、第三者が必要なのです。

 

イヤートレーニングが必然的になるのです。過去の基準に左右されないということは難しいことです。より鋭く感覚を働かせていかなくてはいけません。トレーニングは悪い方向にいくと、自分をつぶします。伸び切ったところから、どうやっていくかを勉強するために、今が一番、大切なのです。

少しでも多くのものに気づいて、自分なりに解釈してください。厳しい基準をもつということは大切です。なければ、そういうものをもっている人から借りて理解していきましょう。

 

 

オリジナルな声と、フレーズの違いというのは、よくいろいろな例をとって話しています。歌になったら解釈は皆にそれぞれ任せています。本当ならオリジナルな声の結びつきの上に音楽的な世界があって、歌が位置づけられるとよいと思います。ただ、何を問うているのかが歌い手によって違います。メッセージを問うている人もいれば、曲を問うている人もいる。声のよさを問う人もいれば、ことばの美しさを問う人もいる。どれをとっても、表現ができていれば許されるのです。でも、もっと絶対的なものは何かと考えると、世界との差はまだ埋まらないでしょう。

 

(「がーげーごー」)

一つのフレーズの完成を問うていきます。時間と空間に対して声を働かせていくというのはとても難しいことです。ヴォーカルも役者も、難しいと思います。

語りのもので、日本の劇団のように声をつぶしたところでつくって、口で声を練り込んで、体をつけていって、上にふわっと浮かせるということだけで伝えるというのは、大変だと思います。

 

音がころんでしまうと、悲惨になってしまうのです。逆にいうと、ヴォーカルよりも大変かもしれないと思いました。一幕もので休憩もないので、どうやって流れを戻すのか。

戻せるチャンスが何回もあったのですが、結局、戻し切れなかった。まったく違うレベルでの難しさがあるのです。

ヴォーカルの場合は、自分一人が立ち直ればなんとかなります。

 

 

「王女メディア」の頭で、歌を歌っていたのが三上寛さんで、新井栄一さんと共通するところがあって、独特で、自分の呼吸でやっているからもってしまうのですが、音楽として捉えてみると、やや弱いところがあります。

オリジナルのフレーズがあればよいのですが。歌うときに必ず入っていなくてはいけないものが消えています。

韓国の歌はもっとフレーズがひびくので、それとも違うのです。

とはいえ、自分の呼吸でつかまえてそれを前に出して、ゆだねているから文句はつけようがないのですが。

 

(新井英一の曲)

美輪明宏、平野愛子、浅川マキも、芝居になるのですが、歌にならない部分があるのです。

踏み込みがあって、放しているという形ではありません。

ヨイトマケのうた」などでわかるように、完全にずらしているのです。

 

歌という意味でのリズムや音の感覚は入っていないけど、オリジナルな呼吸で、ことばをたたみ込んでいくことで、一貫させていきます。その人のいろいろなスタイルがあり、ここではあまり使えないです。

日本人は、ある部分を取るがために、他のところを見なくしてしまうという例が多いです。

音楽というのは音の世界で感じたものを集約して、そこに与えていかなくてはいけないのに、ヴォーカルだけが走っています。向こうの人たちは、バンドのなかでヴォーカルの音を使っています。

竹山の三味線など、しっかりとしたものを入れれば、もっと違ってきたのではないかと思うのです。

「ミゼレーレ」を仕上げておきましょう。

 

 

 

 

 

【基本と歌 アルジェンティーナ】

 

体というのはすぐには変わりません。1~2年、3~5年、10年とだんだんに変わっていきます。しかし変わることが目的ではありません。急がず楽しく、できていくことを待つのが大切です。

 

フレーズをやってみましょう。自分がのりやすいのをやってください。

素直に出しましょう。のどにひっかかるのは計算のしすぎです。

歌としてはまとめているのだけど、体が動いていないから声がのっていないのです。

 

基本のこととして音楽を入れ、それをしっかりと声に出さないといけません。

声をしっかりと出すことと、表現をしっかりと出すことが一致していません。片方だけでは、歌にならないのです。トレーニングというのは、この2つを結びつけるためにやるのです。

 

 

ですから、体の原理の延長上に、声が聞こえてこないといけません。心の上に表現.がなされていなくてはいけません。それから、音楽的なリズムや感覚をどう動かしていったらよいかということを考えてください。

 

入っているものしか出てこないのですから、この両方の接点をつけていかないといけません。そうでないと、いろんな歌い方ができて、自分でも決まらなくなります。定まるべきところに定まることです。

 

まず、前にしっかりと出すことです。トレーニングだけしていると、自分のなかだけで回ってしまって、外に出てこなくなりがちです。間違いとはいいませんが、うまく解放されていかないのです。

前に出そうと思うと、今度は支えの部分ができてない。ことばから歌に入るときに、ギリギリのところで捉えないとできません。最初の地点と方向がおかしいと伸びません。素直でないと通用しないです。

 

 

(「泣かないで

(ラドレードドー)」)

前に出すということは、パワー、テンションを前に向けることです。要は声で歌わないこと、歌のなかに意識を入れ、それをしっかりと出してやることです。

肝心なところをつかんだら、それを出していくために、そこにはまっていてはいけません。

そうしないと、音楽の線をたどるだけになってしまいます。

線は作らないといけないし、体から出てくる線はもっていないといけないのです。伝えるところをもっと突き放したところで出すことです。自分の声にはりついたところで出していると、いろいろとおかしなことが起きてきます。

 

今の段階でやって欲しいことは、まず体から声を出し、それと違うことをフレーズでやらないことです。最終的に違ってくる場合はあります。それは修正をかけます。

いつも歌うときに、まとめてはいけないというのも、その線が出たところでしっかりと解放されたものというのは、意識や体の限界と間によって、まとまってくるものだからです。☆

動きを作ったその先に伝えるものがあるのです。

見えない部分に、感覚というものを働かせないといけません。

 

もちろんそれが、声を伴わないで出てきても困るのです。

ヴォイストレーニングの一番基本的なことでいうと、「な」から「か」で変わらないことです。

違うことをやってしまうと、その間に音が出てきません。そのあとがもちません。それてしまうのです。

そして、そこで使えないまとめ方を覚えてしまう。だから、同じポジションでしっかりと出すことです。「ラ」でやってみてください。

 

 

(「ラララララー

(ラドレードドー)」)

歌のトレーニングというのは、たとえると、ボールがきているところに当てるか、自分のもっとよいフォームで思い切り振り回しているかどちらかです。球をよく見ないと、そのことが一つになりません。気をつけなくてはいけないのは、歌のイメージでもなく、体から出てきている呼吸のかかった声以外のところで、動きを自分で計算してつけないことです。それはまったく伝わってこないです。

 

伝えるということは、心が集中できていて、体も一つになっていることが大切です。ポイントというのがあるのです。それに対して、体が動くように、しっかりと振っていかないといけません。

日本の場合、それを安易にビブラートでカバーしてしまうのですが、その癖をつけないほうがよいです。抜いて、逃げてしまうのは、技術でも何でもありません。その人の呼吸に合っていないから処理しきれないです。

 

その人が不快であって、お客さんに伝わらないのならまだよいのですが、その人が快感で、お客さんに伝わらないのが一番よくないのです。その人の快感というところの感覚がおかしいからです。

本質的には自分の問題として片づけたら、あとはダイレクトに人に伝わるようにしておくべきです。人に伝えるだけの技術は操作にすぎませんから、持つべきではありません。

 

 

ことばでいえるところで、しっかりと発声することと、バランスをとることが大切です。歌うときに、形をつくってしまっているところでおかしいと思わないと、直らないのです。

海外へ行ったら、わかると思うのですが、歌っている以外の見えないところの感覚を伝えていることの方が大切です。

 

私がしゃべっているのも、自分がうしろからそれを見ていて、動かしているのです。その距離をどれくらいとれるかが、自分をコントロールするためにもつべきことです。一時、余分なものがつくのは仕方ありません。

そこでパッと必要なものだけが取り出せるのであれば、自分でやっていればよいわけです。

ただ、安易にその余分なものをふやす方向にいかないで欲しいのです。まんなかのところ、体を使わなくて、しかもひびくところをとることです。

 

それまでのトレーニングのプロセスとしては、思い切り体を使います。そこから体を抜いていけばよいのです。その中心を使わないで、そのまわりのところを使っていくことが練習だと思っていることが多いから、間違うのです。必要なものだけをとり出すには不必要なものを入れてはいけないのです。不必要なものをカットしてくのが、質を高めるトレーニングです。

 

 

つくっていくと、バラバラになってしまいます。1フレーズでバラバラになるのなら、一曲で一つになるはずがありません。一番ベースに戻ることで、力で出すのではないということです。

力でしか出せない人は、最初は、力で出せばよいと思います。

しかし、ベースの部分が捉えられないのに、力で周辺につくっていってもダメです。

 

クラシックの人もおかしい人が多いです。

ここのトレーナーは、しっかりとしているから、お願いしているのです。

 

一番中心のところをつかまえたら、まったく力を入れなくても上にも、下にもひびきます。

そこを握っていくことがベースです。教え方やプロセスは、違っても、目的、ねらいは、同じなのです。

 

 

(「アルジェンティー

(ドレミレ)」)

口の開け方なども注意しましょう。前に飛んでこないと注意します。

できるようになるとあまり関係ないです。声がこもってしまうのがよくありません。

 

(「ノンピアンジュラビュアルゼンティ・ナ

(シーシシシードレミレ)」)

フレーズとして、同じポジションで、音を保ってください。そのなかで声が出ていて、それをどう使っていくかです。短くしたり、長くしたり、ことばを変えたり、高くとったり、低くとったり自由にしてみてください。

ただ、半~1オクターブに関しては、あまり動かさない方がよいでしょう。

 

海外の人たちは、皆さんが思っている以上に、ことばをはずしているようにしてギリギリで歌になっているのです。それは表面的に、まねしてもダメです。芯があるから、浮かしても、しっかりと聞かせることができるのです。

のどをはずした声のなかにフレーズが入っています。

 

 

(「ラーラララララララー

(シーシシシードレミレー)」)

どまんなかにきていないのですが、その周辺にはあるようです。それをより絞り込んでいくことを勉強しなくていけません。それをやると当然、音域が狭くなり、音もとりにくくなります。しかし今、大切なことは、体と思いと、その部分が一致することです。それが胸声の部分に関することです。

 

下のところで絞り込むと、上の方にもしっかりと響いてくるのです。それを押し込めたり、力でやるとできません。声をとりにいくのに力がいると思っても、それはあとでついてきます。力がつかないと、このあたりを動かせないので、基本に戻ることです。

 

一番、深い息で、のどにひっかからない点を選ぶことです。すべて、息で支えているのであって、口のまわりでやっているのではありません。ヴイストレーニングが邪魔するものをとっていくといわれるのは、そういうことです。そして支えるものをつくっていくのです。

 

 

(「ラララーラー

(ドレミーレー)」)

フレーズをつけられるのなら、つけてみてください。ニューミュージックの歌い方のように抜かないでください。外国は、子音で切って発音するので、抜いたら言えなくなるのです。そこが日本語と感覚的に違うところです。

 

(「ラララーラー

(ドレミーレー)」)

いつもやっていることは、同じですが、線でしっかりととるということです。それは、「ラ ラ ラ ラー」という間隔をもたないということです。私がやると、、音楽的に聞こえるのは、つながっているからで、皆さんは、切れ切れにとっています。たかだか3度のなかでそんなに広がってしまったらどうにもならないのです。

 

 

彼らは1オクターブをその感覚でやります。そのため、音色が多彩に出てくるのです。

あなた方の音色のなかには、余分なものが多すぎます。それはノイズです。それをなくしていく、というよりは、より中心のところでとっていくことです。

 

広がっていったら、どんなに体があっても使いようがないのです。クラシックは1点にまとめてきれいな音色を出します。ポップスはそこまでしなくてもよいのですが、体でキープして、音をとる点は広げないことです。押しては解放できません。自分の原理に合ってくると楽になります。

声そのものを握っていく。皆さんの場合、一回、握ることもプロセスとしてやっておくとよいと思います。体でがんばれるところを増やし、のどでがんばるところをなくしていくことです。

 

音の捉え方としては、同じ一つのフレーズのなかにその音がはまっているくらいの考えでやってください。声が出ているのを変化させるのであって、変化しているものにあてて声をつくるのではありません。

言語の状態において、日本語と向こうのことばはかなり違います。

 

 

歌になったときにかまえて、一つひとつの音をとろうとすることをなくしていってください。そういう練習をやってみてください。フレーズをもっていても、声を聞いてみたらイメージ通りにいっていないのです。しっかりと一つにまとまって、動きが出てくることが大切で、それは体で呼吸でコントロールするしかないのです。音声や口のなかでコントロールするわけではないのです。

 

息を速く吐けば、速いフレーズができるし、ゆっくり吐けば、やわらかくなります。すべて、密接につながっているのです。ドレミの3音のなかでそのことを研究していけばよいと思います。あまりたくさんのことをやらなくてもよいのです。

まず、どこでも完成したフレーズをつくっていくことです。フォームを邪魔する要素がいろいろ入ってきますが、外側のものではなく、内側の感覚がくずれないようにしてください。

そのために自分で何らかのきっかけを得ていってください。

 

柔軟性や集中力が要求されます。歌うときに眼がキョロキョロしていたらダメです。ピタッと止まることです。体のなかでは動いているのです。しっかりと振り切って、振り切ったというところから戻すことです。

 

 

振ればあたるということではありません。しっかりとできていること、できていないことを区別としてみてください。外見でみえるものではないのでわかりにくいのですが、フレーズをやって、録音してそれを聞いてみて、自分の感覚と実際出ているものがどう違うか、そういうフィードバックをやってください。

内部の感覚が研ぎ澄まされてきたらわかるようになります。

 

ちまちま歌っていると、大曲を歌えません。歌うと、大変になってしまうからです。

歌は全部一つにして伝えないといけません。3つのフレーズをやって、3つに歌っていたら、どうしようもなくなります。全部を一つで捉えて、1つで展開させることです。

 

何でもよいので、そういうものを例に、「ハイ」や「ララ」から「ドレミレド」くらいのフレーズを勉強してみてください。クラシックなどを聞くのもよい勉強になると思います。

マイクなしで、外にひびかせるために、ポピュラーからみると必要以上につくってしまうところがあるのは知っておくとよいでしょう。