ステージコメント
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【自己紹介ライブ/「課題練習 夏季合宿】
【新入ステージ】
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【自己紹介ライブ/「課題練習 夏季合宿】
発表会やメインで使うのは、この場所です。練習の場所としては、2つ見えているホールのどちらか一つを使うと思います。使わせていただくので、普通の人が使うよりもきれいに使って返したいと思います。ここは、夜9時以降は音を出さないことになっています。まわりから苦情がくるので、気をつけてください。
今日は、自己紹介ライブを行ないます。50名の前で歌える機会なので、がんばってください。詩の朗読でもよいです。アカペラなので、好きに使ってください。
去年はポプコンの曲をやりました。今年は知っている歌、皆のなかにすでに入っている歌をどう歌うかということをやってみようと思います。日本の歌です。去年と同じく、同時にスタートします。
これは、プロセスが班の中外でもわかるし、自分と同じ曲をやる人が3日間でその曲をどのように仕上げていくかということも学べると思うからです。
もう一つは、音の世界を耳で聞いて、そこにのせてフィードバックすることです。自分がどんな声を出しているのか、またその声がまわりにどのような効果を及ぼしているのか、どうすればより効果的に使えるのか、知っていくことです。
それから、ここではめったにやらないのですが、合唱をとり入れます。
今まで気がつかなかったことを見つめ直す機会になればよいと思います。
それでは斑長を中心に、班ごとのミーティングをして、発表の場を決めておいてください。
ライブ1コメント
お疲れさまでした。本当にこれが精一杯なのかは疑問です。次の日に死んでしまうかもしれないというときに、今日、歌った歌が自分の最後の歌になってよいのでしょうか。今日の3日間でできないことは、365日のなかでもできないと考えてください。時問をかければよいということではなく、密度なのです。
ステージでは、一瞬か二瞬、ハッとしたくらいで、あとは何も起きなかった。ステージというのが、いつか来るからと思ってトレーニングしないでください。一つひとつのステージをこなしながら、人に認めさせていくことです。
この3日間を本当に大切に使って欲しいと思います。うまくいくということは、どうでもよいのです。皆さん一人ひとりが、もとをとる気持ちでやってください。大事なことは、自分に接近することです。
欠けているものは、時間と空間の密度でしょう。その瞬間を生きることができなければ、将来もないのです。
バネや反射神経がなかったと思います。運動神経のようなものは、ある意味で必要です。
それから、入っているものしかとり出せないということがあります。すでにもっているもので、まだまだ生かせるものがあるということです。
合唱にソロの課題も与えます。今から自由時間をとるので、練習をしてみてください。まず、ことばを読み込んでいくことが大切です。皆さんが子供の頃に聞いた曲を選んでいます。その音とイマジネーションということを課題にしています。音からどういうイメージをもっていくか、それから与えられたイマジネーションをどのように音にもっていくかということです。
ステージでも、イマジネーションの不足というものを感じました。その人の世界観がみえないのです。それから、正しい音をはずしてはいけません。意図的にはずすのは場合によっては許されますが、音には音のルールがあるのです。それを妨げることをしてはいけません。
水泳でよくたとえていますが、全部腕でかこうと思うとすぐに疲れて進まないのです。プロの選手は、フィニッシュの前に集中して力を使いますが、そのほかは、力を抜いています。全てに力が入ると、沈んでしまいます。
1番目の目的は、日本のことばを使って、音とイマジネーションの部分を勉強したいということ、2番目はハーモニーです。グループの声を、歌のなかでも、ふまえておこうと思います。3番目は好感度ということです。見た目のかわいさや格好よさではなく、もっと奥にある、その人の魅力のことです。それはヴォーカリストに限らず、必要です。
いつもいっていることは、伝えることは自分のなかにもっとあるのだから、それを自分で見なさい、そして出しなさいということです。
歌声喫茶時代のアルバムの説明文を読んでみましょう。
「一杯のコーヒーで歌集片手にロシア民謡や世界の民謡を飽きることなく歌い続けたあの頃、
歌好きの若者のエネルギッシュな熱気であふれていた歌声喫茶も、わずかになった。」
残っているというのが奇跡的ですが、
「1945年1月15日、人々はさまざまな状態でさまざまな思いで、この日を迎えたのであった。」
戦後の民主化と、このような歌が関係しているのです。
「1946年8月に結成された、全日本産業労働組合会議は、163万人を組織する、我が国最初のナショナル・トラストとなった。そこから民主運動の流れが起こり、町から村へ、工場へ、輪がつくられた。1947年のことです。NHKはこの頃、ラジオ放送を通じて、これからの歌や“幸せの歌”などの歌唱指導をした。
1948年には、中央合唱団が結成され、日本の歌声運動は発展した中央合唱団は、全国に歌声運動の常任活動家を派遣して、労働運動と結びついて、“皆唄歌い”の運動を広めていった。
我らが仲間は、当時の青年たちの愛唱歌だった。
ちょうどその頃、映画シベリア物語が上映され、、“バイカル湖のほとり”となって、ロシア民謡が普及していった。1949年、ソビエトからの引揚者が“ガンシャ楽団”として演奏活動をはじめた。特に、上半身はだかでの運動はその力強さで、見る者を圧倒した。」
こういう動きで、ロシア民謡ブームです。
それからソーラン節なども、日本の美や力強さとして広まっていったようです。
「1949年のロンドン会議では、日本の民主的音楽運動のもう一つの軸である謡労音が発展した。これは、数十万人を擁する運動に発展した。歌声喫茶の起源については、さまざまな説があって定かではない。1950年頃、新宿にあったロシア料理の店「ともし灯」でロシア料理にちなんでロシア民謡をかけていたところ、お客さんたちがそれに合わせて口ずさみはじめ、いつしか大きな声で唱和するに至った。店主がそれに目をつけはじめた。アコーディオニストを罹ってステージをつくった。それがあたって、押すな押すなの大盛況となった。こういうところから、演奏活動が始まった。」
あとは、滅びていく歴史について書いてあります。
歌声喫茶というのは、店主が司会をして、客が順に歌ったり合唱したりするものです。
そういう部分もヒントに、合喝の課題を進めていきたいと思います。
合唱らしい合唱もそのうちやりたいのですが、そっちの方に絞り込みました。
本当は、音で対話をして欲しいのですが、せめて音とことばでイメージを組み立てていって欲しいと思います。
もう一つは、きちんとハモれるように音をつかんでいくことです。
音をつかむのは放したときにつかむのであり、ずっとつかんでいたらよくありません。
自由に放せるようにつかんでおくのです。
少し休憩をとりましょう。飲みものは自由ですが、館内をあまり汚さないようにしてください。
では、3時に集合してください。
(課題の合唱曲)
キィは変えても構いません。まず、感覚を学んでみてください。
レッスンで扱った歌も多いので、節も覚えているでしょう。
歌詞は、当時のものとずいぶん変わっているのです。
(「若者たち」)
ハモれる人はハモってみてください。
まず、男性だけでやってみましょうか。
二番を女性でやってみましょう。
次は、1、2、3班に分かれて歌ってみてください。
いつも、大勢で合わせると成り立っているようでも、少人数でやってみるとメチャメチャになってしまいます。
いろいろなコーラスのつけ方がありますが、他の人の邪魔になるようにはつけないでください。
極端につぶす人がいたら、皆の手で横によけてください。
次の歌へいきましょう。
(「花嫁」)
知らない人が多いようですね。感情移入がしにくいですか。
1番を1班、2番を2班で、もう一度、歌ってみましょう。
(「夜明けの歌 サントワマミー(邦版)」)
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【新入ステージ】
初めてなのでいろいろ大変だと思います。
第一に、ここでどういう役割を演じればよいのかがなかなかわからないからです。
照明スポットをつけていますが、普段のレッスン場と変わらないので「教室」という感じから抜け出せないかもしれません。しかし自分一人で切り替えて演じられることこそ、才能と実力なのです。
我々も同じで、リード役のトレーナーの役割、お客としての役割と分けています。
読んでいる内容そのものに踏み込むつもりはありません。
しかし今の時点で「声が体から出ているか」「そこで呼吸をとるのはおかしい」「入り方のテンションを上げるべき」などということを評価してみても仕方がないので、気づいたことを述べていきますから参考にしてください。
内容はどうでもいいといいましたが、できるだけ具体的にすべきでしょう。
時間が限られているからと、具体的な名を上げずに、抽象化して一般的にぼかしてお客を共感させようとするのは、難しいでしょう。「すごいアーティスト」に「影響を受けた」という形でくくられても何ら心に入ってこない。
他の人が認めていなかったり嫌いだったりする人ほど、それを具体的に登場させることで、リアリティとして伝わってくるのです。
時間がもっとあればいえるけど3分ではそこまでいえないと思ってしまうのかもしれませんが、3分だからこそいえるのです。そこで場面設定ができるのです。
3分間は、一つの芝居、表現に充分すぎる時間です。
芸というものは、結局どこかを具体的に徹底して取り出すことによって、あるいは、ありもしないこともそこまで細かく述べることによって、具現化させることになります。
当人の個人的経験でもフィクションでも、要は音声で伝えることは、すでに仮構であり、現実ではありません。
それがどれだけリアリティを持つかということなのです。
いくら本当の話でも「そんなことありっこない」と思われたらどうしょうもないでしょう。
今後は実際に具体的にあげてみてください。そうしたら、「すごいとか影響を受けた」などという言葉ではもたなくなることがわかるはずです。
そのアーティストについて、そう思わない人もいるし、違う見方をする人もいるわけです。でも個人的経験なのですから、誰がどう思おうとそれでよい。それを伝えられないのが問題なのです。
小学生が感動したものが大人にとっておもしろくなくても、その子が小学生で音楽をあまり知らないから価値がないとはいえません。ただ感動したということを納得させられるようにどう伝えるかということが問われているということです。
課題としては、具体的にいうから難しくなります。「影響を受けた」というなら、多くの人が同じ体験をしています。しかし、そのアーティスト名を聞いたら、他の人のきっかけは違うものになるでしょう。
1人のヴォーカリストに全員がその影響を受けるということは有り得ない.そうであれば自分とは違うと思われてしまいます。しかし、そこからそれを説き伏せ、納得させられるかどうかが勝負です。
自分が何を感じたのか、なぜそう思ったのかというところに持ち込まないと、一般の人が一般的なことを述べているだけで終わります。それでは舞台にならないのです。
1回目をモノトークにしているのには、意味があります。
ここでこのように行ったことに、メロディをつけたり詞を切り詰めて歌っていくのです。
ここで何もいえない、いうこともない、何も感じない人が、何を表現するんだろうということです。その方が難しいです。
人の歌を歌うのはあくまで材料として使うのであって、歌い手は自分のイメージでその言葉を作り音にしていくわけです。
今日は割とがんばってくれた人が多かったので私もいいやすいのですが、ことばの処理より難しいのが音の処理です。作曲、アレンジの感覚、センスです。
作曲家としてでなくヴォーカリストとして音に出会ってどう音を作り上げていくかということです。
みなさんの話を聞いていると、みなさんのはみなさんなりに、ここに4~5年いるメンバーはメンバーなりに、刺激されます。原点においては、こうしてことばで伝えることも音で伝えることも変わりありません。
抽象化するレベルが違うだけです。
それが音とか音楽となると、とても難しいのです。
2回目は朗読、3回目から歌になるのですが、そういう段階を踏んで行く方が、伝える力があればよりわかる、伝わるのに必要なことが理解できるということです。
台詞だけの勉強を1年半くらいしていくと、かなりリアリディが出せるようになってきます
。2~3年いる人に、台詞劇をやらせると、かなりよいものが出ることがあります。
声も迫力が出てきます。
でも音楽にすると伝わらなくなってしまうことがほとんどです。
それはメロディ音程とかリズムに逃げてしまうからです。
ストレートにそれだけを相手に対して投げられていたものが、前に出なくなってしまうのです。
そこで表現の実感きちんとつかんでほしいために、モノトークの勉強をおいています。
表現すべての原点です。
みなさんとは、音楽や音声としてのことばのなかでわかりたいと思います。
その人が音をどう感覚し捉えているかです。
MCでも、それぞれのスタンスやここの捉え方、トレーニングの仕方、場に出てみて変わったようなところはわかりました。
1回目で難しいのはバランス感覚だと思います。どこまではずしていいのか、どこまで極論に持ち込んでいいのかは、体験しないとわからないからです。
こういう場では極端なことをやりながら、バランスをとるということが、とても大切なことになってくるでしょう。バランスがとれていないと、表現はもっていけないからです。
歌と同じで、自分の思い込みだけでもっていくと間違ってしまいます。
新聞や週刊誌を読み、時事問題の勉強をすることも必要でしょう。
ネタひとつ振るにも、その日、朝刊を読んで考えたというだけでは通用しません。
それ以上に知っている人も、そこまでのいきさつもあります。
それを思い込みでもっていくと、底の浅さがわかってしまう。
知識として最低限、時流など、おさえておかなければいけないことはあります。
内容よりも結果的にはその人がどこに立っているかをこちらが納得できればいいのです。
自分で自分の足元や立場を固めることです。
前に立った人が王様という世界です。
そこまでに蓄積ができていなかったり練り込んでいなかったりすると、舞台で負けてしまうのです。
それが特に日本人の弱いところです。
私はここで年間3000曲くらい聞きますが、最後まで3分間高いテンションをきっちり維持できているのは2~3曲くらいです。
みなさんも自分の舞台を考えてみてください。
自分の思ったことはやったのかもしれませんが、高いテンションで、ボクサーだったら1回も殴られなかったくらいのステージだったかというと、できていないでしょう。
ということは、できたとかできないという以前に自分で負けてしまっているのです。
自分で加減してしまう。これではしかたないのです。
そこで勝たないとだめだし、勝てば何をいっても通用してしまうのです。その辺が舞台のおもしろいところです。
そういう面では、ここの舞台を、ある面では信用し、ある面では厳しく見ていってもらえばいいと思います。
疑うことは学ぶことの一番の原則です。
どこかで信頼をおいてやらないと、疑って全部否定したら何も学べなくなります。
ただ、救われるのを待つのではなくて自分で自分を救っていくしかありません。
その点では徹底的に疑い、行動することです。ここの材料についても教え方についても人間についても疑ってほしい。それで「あいつは白ではなくて黒だ」とわかったとしても、そんなことでどうこうなることではないのです。
歌い手や役者が、その実、犯罪者であったとしても、だからなんだという世界なのです。やっていることは、ここで音声でリアリティを出すということ、そこに価値があればよいのです。
みなさんも、善行して天国へ行けるようになってほしいとは思いません、いい歌を歌ってくれた方がよい。それがヴォーカリストの行です。そのへんをごちゃごちゃにして考えてしまうと混乱したり、迷ったりし始めます。自分が力をつけて、力をつけたことでまわりが幸せになるというところまでがんばるしかないことです。中途半端にやってできないのは、その辺の覚悟がないからです。覚悟がないと人前には立てません。
プロセスをきちんと踏んでいってください。一度白紙にすることからです。白紙から1、2、3と積んでいって、「ハイ」しかできない、ドしか出ないところをレ、ミ、ファ、とんでいけたら、それは50にも60にもしていけます。でも今の自分の才能で50でどんなに曲をやっていても、それを60にするのにどうしていいかわからないでしょう。
器用な人ほどそうなります。プロセスというのは常に伸びていくことが大切なのです。可能性ということを考えたら、白紙から1にして2にして10、30にしてきた人の方が絶対に強いのです。人より少し器用で50か60でやっているものは、それよりもっと若く器用な人が出てきたらかなわなくなっていきます。
本質的なことはプロセスのなかで捕まえていくしかないと思います。自分を晒してみて、どれくらい説得力があるか。どれくらい存在感があるか。その二つさえあれば、歌を聞かなくてもその人はやっていけるものです。本人がそれでいいと思うかどうかは別ですし、それはその人の本質とか内面とは少し違います。
あくまでも舞台で出てきたもののリアリティです。嘘でも仮装でも仮面でもいいということです。そこで作り上げた自分、見せた自分、役割にぴったり合った期待に応えている自分であればいいのです。カラオケのテレビなら、真面目にやっていてもしょうがないでしょう、タレントさんとふざけて視聴者を喜ばせるのも役割です。
その役割をやりたければやればいいし、やりたくなければ降りればよい。出たから偉いわけではない。
そういう場でくそ真面目にやっていたら、ばかだということです。
偉い先生には、そういう人が多いのです。
その場ではタレントの勝負する土俵で、素材として扱われるだけなのです。しかし、同じステージでというなら、タレントさんとタレント性でやるしかないわけです。
先入観というのも難しい問題です。先入観がなければなにも見えない。人間は簡単に先入観をはずせないのですから、それは開き直るしかないでしょう。
私が今日話していることも、ひとつの価値観ですが、正しいとか間違いとかではありません。
知識はある条件下でなければ正しいものではありません。
あなたが得た知識という歌を正しく歌うということは、ある時期ある時代のなかのある人たちや歌謡〇〇協会のなかでは正しいことです。
それが、時代とか人々によって変わらないということは、すでにおかしいわけです。ここで行われていることも、正しいかどうかでなく、ある意味で共通の価値観、共通の基準をおいているのです。
それを認めたくないという人にとっては、たとえば踊りのうまい方がおもしろいとか音声なんてつまらないとか思うでしょう。
それはそれでいいことです。恋愛でも同じでしょう。外からはいろんな見方ができます。合わないカップルとか、相手はひどい奴だとか見えても本人たちにとってそれが真実であればかまわないでしょう。
舞台の場合はそれが、舞台の上の人と観客との間の真実だということです。
ここにはバラエティに富んだ人が入ってきますから、私が見ていても判断は難しいです。
その人達に自分の演じ方、出し方をこうした方がいいというのと、本人がこうした方が気持ちいいとかこうありたいというところで求める真実というのは違ってきます。
人のためにやっているわけではないから、自分のよいように作っていくのですが、そのことが人様のためになっていなければそれは自分にとってもよくないことです。妥協ではなく、掘り下げていくのです。すると違うものが見えてきます。
舞台が難しいのは、虚構のなかのリアリティですから現実ではないことです。
映画でも、絶対ありえない事件を起こして見せるのは、それだけテンションを高めて、一生かかって見せるようなことを1時間に凝縮しなければならないからです。
だから見ている人はそれを自分に置き換えることができるのです。
絶対ありえないような設定が、それを見ることによってリアリティで出てしまうのは、観客が自分に置き換えているからです。
この教室がスポットひとつで舞台になるかならないかというのは、虚構のなかのリアリティ性が得られるのか、です。その問題は常に突きつけられるものです。
たとえば、Yuがきたときも、虚構で悪口を考えていたのに、そこにリアリティの強いお母さんがいらっしゃると、洒落にならなくなります。
実在の母親にとっては私がいうYuの悪口というのは「そんなにここで迷惑をかけているのか」ということになってしまいます。まあ迷惑かけているんですが(笑)それはみなさんにはいっても、あの場ではいえなくなるわけです。そういう瞬間がいろいろ交錯することもあるわけですね。
プレBV座も、出演者は同時代を生きていて、みなさんの仲間であるわけです。
ゆえに、そのまま、あがると舞台にならない。
私は仲間内で成り立つだけの舞台が大嫌いです。
あの人はがんばっているから応援してあげよう、あの人がやることは信用できるとなるからです。
それは身びいきです。
すごいやつがそこにきたら、まったく知らない人にも、すごいものはすごいわけです。そういう目は持っておかなければいけない。研究所はそういうものが交錯する場ですから、私もトレーナーも混乱しかねません。そういうものを見ながらヒントにしてください。
要は自分が同じ場に立ったときどうするかということです。それが一番いい勉強でそうでなければトレはないかと思います。
ーニングなど1人でできるはずです。結局は深さ、レベルの問題になってきますから、うるさい客が1人でもいた方がいいのです。柔軟性が必要です。
私は自分が書いた本を見て、嘘くさいと思います。だからまた違う本を書くのですが、それも嘘くさい。だから書き続ける、それしかないのです。それは活字の限界です。
かといって、具体的にレッスンのなかでそれ以上のことができているかというとそれも難しい。言葉の力も強いと感じます。
こうして言葉でいわなければ伝わらないこともあるからです。でも言葉で伝わったと思っても実は伝わっていないこともある。そうなってくると、最終的に人間はわからないものだし理解不能なもの、そこにどうこだわって、自分との結び付きをつけていくかだと思います。
かつて、船上研修とか無人島研修というのがありました。逃げ場のないところで社員教育するのです。劇場やホールも同じでしょう。逃げる自由はありますが、今日の新入と同じで途中でもういいやと思っても逃げられない。そのなかで見せられるものです。
しかし、それを逆転しなければいけない。こいつが見たいといって人が寄ってこなければいけないわけです。ここは普段の教室と変わりないところです。ライトが当たればここはステージになります。そこで現実を突き抜けることをしなければならない。服を変えたくらいではごまかせないです。
トレーニングをやっているのとかわらないじゃないかという目で見られます。だからここで笑いひとつとるのも大変です。笑われなくても受けなくてもいいのですが、その人がきちんと自分のものを出し切った、という実感を積んで行くことが大切です。そこで妥協しないでほしいのです。
まわりのメンバーに合わせて、これくらいでいいやということをしてしまうと負けです。それは私たちも同じです。
ここの舞台でもいろいろ「やらなければよかった」と後悔することもあります。ライブはとっさにいろいろなことが起きて、判断しなければならないのです。
ここでその人の基準の高さ、可能性を見ているのです。作品がいいとか悪いとかを見ているのではありません。うまいとか下手よりも、その人のキャパのなかで何%できるのかというところです。100を超える瞬間はなかなかありません。
スポーツをやっている人はわかるでしょう。もっとできたのではないというのは一番悪い後悔の仕方です。
テンションのレベルを最高にし、その人のなかにハイレベルな基準を持ってもらうしかないのです。
どうしてもまわりのテンションまで、上げてくれる人より下げてくれる人の方が多いのです。歌において、です。
まわりにつられてしまうというのは、所詮それだけのものなのです。
そこは自分のなかで決別して、他の出演者は客だというくらいの感じで臨んでください。
なりきってほしい。のです。
私はそういうところで妥協するつもりはないです。ここでも何年かに1回ですけれども、世界に通じるいいステージというものを見てきています。教室であろうがなかろうが、スポットだろうが蛍光灯だろうが、場を変えるやつは変える、動かすということを体験してきているのです。
みなさんは、それを念頭に置いて芸をしてほしい、歌ってほしいと思います。
基準は、出続けていたら高くなります。
上のクラスでは私のいうことも、もっとずっときびしくなります。
歌えるのなんか、あたりまえで、感動が起きなければ意味はないということです。
歌える歌えないというのも、何を基準に判断するかによりますが、歌に聞こえる歌など大した歌ではありませんから。わかりやすい歌も同じです。だから難しいのです。
結局自分のやりたいことをやればいいということになります。
1分とか3分とか限られた時間のなかで、ここで瞬間的にすべてを出すためには、何をどう準備するのか、どう振舞えばいいのかを考えてください。
自分の実感で、できたことをとらえていくことです。
他の学校にはない、ここにある基準、ある意味でいうと「感動しない限りなにも認めない」というようなもの、ある意味では、とても正統的な基準です。それを早く宿して欲しいと思います。
音声面で、ここが求めているようなことをやっていくためには、声がプロになっていかなければなりません。ライブなどをやってきている人のなかには、声の使い方のプロ、歌の作り方のプロはいますが、基本の体とか呼吸とか声そのもののところでのプロというのはなかなかいません。
すごい人というのは線1本ですごいのです。そこから勝負してほしいと思います。
最新の絵の具を使ったり色を付けたりスプレーをかけたりしてそれっぽくすることはできるでしょう。それをやってしまうと本人が一番わからなくなってしまうのです。線1本ならすぐわかります。
私がどんなに線を引いても大して何も出てきませんが、一流の画家は1本の線で天使や神様、仏を現すことができるのです。それは人間の力であり人間を超えた力でもあります。そういうところをめざしてください。
みなさんには役者の素質はあると思います。それを音の世界にもっていくのがとても難しいです。
音の世界の形はとれますが、そのなかに実を入れていくということがたいへんです。
日頃のレッスンはそれだけを目的にやっているようなものです。
できたことはできたことでいいと思います。できなかったことをつめていく作業をしてください。
できたことを、さらに1分で息も吐けないほどのテンションのなかで作り上げなければ、すぐに崩れてしまいます。自分で自分をあきらめないでください。
日本人が3分間、自分で自分をあきらめずにきっちりステージというのはとても難しいことです。
プロでもほとんどできないです。落語家で相当にうまい人がもたせることはあります。
私はこうして話していても、どこでテンションを切っているとか、どこで負けているとかわかります。
わかればまだよいのですが、早くそういう部分を感じられるようになってください。
当面、ここで音声表現を出せる日を一番の楽しみに過ごしてもらえればいいと思っています。
最初はいやなものでしょうけど、それを好きにしていくしかありません。
出てよかったと思うためには、そこに出るまでに苦心してカを尽くすことです。
簡単にできてしまうことなど、すぐに終わってしまいつまらないでしょう。
自分のために手間ひまかけてください。
たとえ、できそこないであっても、カをいれたものだから可愛いと思えるような作品にしていくことです。
自分が愛情をかけていないものを人様が認めるわけがありません。
おもしろいことをしてくれればいいです。
台詞とか動きとかMCでおもしろくすることはできるのですが、歌でとなるととても大変です。
1曲の半分くらいはできても、5曲やっておもしろいと思わせることを考えると選曲からなにまで悩むでしょう。
それができるのがヴォーカリストなのです。
厳しい世界ですが、がんばってください。