レッスン感想 957
「音・息を動かすのは意志の力である」びっくりしたのは、淡谷のり子の歌である。息の上に声が乗っている。そんな感じだった。1音、1音、朗々と歌われるので、その言葉の意味が直接入ってくることはないのだが、とにかく息がものすごい量で、しかも1音1音にムラがないのでどうしても耳が吸い寄せられてしまう。“歌は息のコントロールである"と教えられてきたが、このことがほんの少しわかってきたように思う。
どの歌い手たちも、その吐いている息の量の多さは共通していた。いうなれば、息という水の流れに言葉という光が反射して、その風景そのものが歌という感じだ。水の流れは(息は)ガンジス川のように大きく深く悠々と流れたり、小川のようにせせらぎだったり、滝のようだったりする。そのように水が流れてこそ、光(言葉)があたったときの水面の輝きが生きてくるのだ。だから、言葉が息をさえぎってしまってはいけない。
先生は「「つめたい」と聞いて、聞いている人は言葉そのもので理解しているのではない。発せられた音声を感じて、その後に言葉が入ってくる」というようなことをおっしゃっていた。なるほど、どうだ。私も観客として、舞台や映画はもちろん歌で、その人がどうそのテーマを捉えるかというところで見たり聞いたりしているし、そこで心が動くのだ。とてもあたりまえのことだが、この重要なことを私は意識しすぎずにきてしまった。「言葉の練習帳」をおろそかにしてはいけない。
ヴォイストレーニングをすれば、声がよくなるのではなく、ヴォイストレーニングもジョギングや腕立て伏せと同じであくまで方法にすぎないということ、大事なのは声をよくしたいという意識だということがわかりました。本当によくしたいと思えばあとは本人の努力だし、それが方法につながるんだなと思いました。
心のどこかでこうすればいいのだというわかりやすい答えを求めてしまっている自分に気づいた。声というものは複雑なものなのにどうしてすぐ結果を求めてしまうのだろうと自分が情けなくなった。それを直し、コツコツと努力することが(人より多く)大事だと思った。それと、自分に胸の当たりになんか“まく”みたいなものがあると思いこんでいたが、そんなに気にすることではないかもしれないといわれ、少し安心した。
縦の線ばかりに意識がいって横の流れに対して鈍感。先が見えなくなってしまう。バランスが悪い。次につながる失敗というより同じことを繰り返しているように思う。どうも複雑な聞き方をしているポイントの音だけ押さえてつないでいけばいいのにメロディライン全てを追ってきている。
「モンマルトルのアパルトマンの窓辺にひらくリラの花よ。」音葉をいえばよいというものではない。イメージが体を感覚を変えてゆくと思う。呼吸の膨らみがあって言葉にも余裕を持っておくことができる。私の場合、甘えてはいても何の膨らみもなく、自分の体も息づいていないと感じる。それと<モンマルトルの><アパルトマンの><窓辺にひら<>を全て均等に置いてしまうようなフレーズは何の変化もない。どこをどうしたいということを意思として出すこと。
以前のように準備にとまどうということが少なくなってきたように思う。取り出すことが感覚でできるようになってきたのだろうか。準備の段階で考えることは同じ音でもどういう音を出すかということと方向性をしっかりとイメージするということ。音色に関してははっきりいってよくわからない中でやっている。自分の感じたままに出したらこういうものが出たと結果をみている。どんな言葉もかなり大きなイメージを持って発さないと音がつぶれてしまうように思う。自分が感覚している何倍もの感覚をもって出すこと。それは声量を大きくするということではなく、イメージの力によって大きく聞かせるということ。今までこのことがどういうことかよくわからなかったのだが最近は空間に拡がる自分の声、言葉がとても気になる。力をいれなくとも大きく聞こえるのだという実感がたまにある。いつの時もその感覚を出せればと思うがそううまくはいかないようだ。
<窓辺にひらく>といった後自分の息が波を返すようにもどってくるのを感じた。そして次のフレーズ<リラの花よ>に自然に入ってゆくことができた。とても自然なことだと思う。歌おうとするとこの感覚はどこかへいってしまい機械的になる。よせてはかえす呼吸というものを歌のなかでみていきたい。
僕はいつも絵を描いていた愛しい人よ、君をモデルに。他の人のフレーズを聞き感じたことは、とても忙しく聞こえる人と間延びしている2つのパターンがあるということ。忙しく聞こえる人というのは、口先で体で捉えていない。問延びしてしまう人はイメージが悪く、言葉を一つにとらえるということに意識がいっていないのだと思う。それと呼吸のスピードがないと、方向性を決めても一気にそこにいくことができない。
発声前には、リラックス<全身脱力)すること。
のどに違和感、意識を置かず、下へ→胸部共鳴
音声がかわらないこと。内側の筋肉を鍛える(事実の逆をとる方法)
吸うときはもちろん、吐くときも意識的に腰まわりを膨らます。
つまり体を使わなければ息ができないことを体で覚える。
2拍クレッシェンド、イメージは円錐形、その密度は正比例であること
間隔が密につまっているほど、フレーズの細かさにつながり、歌の細かさにつながる。
アクセント→のイメージは円錐形、アクセントでのスピード、体の内側を鍛える一つの方法を学び、「なるほど」と感心した。が、うまくできない。「腰まわりは広がっても(吐く時)、腹筋は盛り上がらないように」とおっしゃっていたが、どうにもこうにも腹筋には力が入り、盛り上がってしまう。クレッシェンド円錐形をとってみても私の場合、密度は反比例だ。音の頭もその後のボリュームも、息を使いきっているモノではない。アクセントにしてもただ今の息の量でできた気になっているだけ。息は深いモノだとさんざんいわれているのに。息吐き息吐き。
基本を続けてきたことで変わったと思うことがいくつかある。一つはワンフレーズの頭で体を入れられるようになってきたということ。まだ自分の呼吸とうまく合わず空振りすることもあるが少しずつ確実につかめるようになると思う。つかんでワンフレーズがいえるとメロディにのるのが精一杯の歌い方とはまったく違ってくる。
取り出すことに全神経を集中してやっていたが、それは今も変わらないけれどより感覚的なものになってきたように思う。聞いて反応して出すまでの時間が短くなってゆく、コピーでしかないということが多いが、それでも以前に比べたら進歩したと思う。感覚的に捉えられれば捉えられるほど、心が解放され意識を前に向けることができるようだ。
体と声と心が一つになって一仕事をするといった感じかもしれない。以前に比べたら体や声が自由になったものの何かまだ固まっている気がする。内にぐっと握ったものを押し出せず、苦しくなっていたりする。声はこんなに重いものなのかと思ったりする。プロの歌を聞いていると軽やかさを感じるがその感覚は今はわからない。
「愛のあまい名残に」体や息をのせていくということはできなかった。それが1音目のイメージを取り出せることで踏み込んでゆける感覚があった。君葉を浮かせずにいうとこういう状態になるのかということが少しずつみえてきたように思う。ただまだ全部を全力でいっているのでトレーニングではいいかもしれないが、歌のなかでこれをやってしまうと体はもたないし跳ね返りもなく遅れていくように思う。
その程度の踏み込み方、ねばり方でいいのかということは常に凝っていた方がいい。自分がどんなに全力でやっても外国人のフレーズの大きさには追いつかない。踏み込みの鋭さ、強さがフレーズを大きく聞かせるのだと思う。スピードがないとねばってしまい、べたついたフレーズになってしまう。音色に関してはイメージはあるにはあるがどんなものが出てくるかははっきりいってわからない。表現に集中した時に体の感覚が変わることで今まで聞いたことのないようなものが出てくる。
「窓に朝の光が」音が高くなるところを深く、深くイメージしていないととんでもない声が出てしまったりする。基本に忠実にという問題ではなく、自分の体や心が入らないような音が出てしまう。君葉をおけるようになるとフレーズの線が見えてくるように思う。自分のなかで余裕をもってみていけるので、以前のように音やメロディを追いかけてゆく感覚ではない。
窓に/朝の光がと全て切ってしまうようなフレーズをつくっていたと思うが、気持ちと体がのっていくことで、窓に/朝の光がとまとめることができる窓にの後でブレスをしても気持ちが続いていることで朝のに入るところでも感覚が変わらずにいられる。<朝の>でしっかりピークをつくることができれば<光が>はいうだけでおちつく。それかく朝の光が>でビークを作って次のフレーズくやさし<~>につなげていくこともできる。歌のなかでは細かい山はいくつもあるだろうが意識するがために大きなフレーズの流れが消えてしまうのはよくないと思う。常に口にしているフレーズの前後をイメージしておくこと。切り取られたものであってもつながっている。
「あなたの髪をためらいがちに」慎重になりすぎているフレーズというのはもったりとしていて聞いていられないように思う。全てをいおうとしても何も伝わらない。このことはどのフレーズにも感じる。コトバひとつ、ワンフレーズ捨てることを覚える必要があるのでは。感覚のなかでその方が伝わるんだという実感がないのでいつも同じようなやり方になってしまっているように思う。今の器でまとめたらどうなるかということを知ること。いい終えて呼吸のリズムが全て同じという気がした。だから伝えようとしても 体や息が動いてこない。まだどこか音にのせるような感覚でやっている。自分から発信していくという感覚を強くしていきたい。自分は呼吸でやりたいのかということは、1、2度やっただけではわからない。自分の感覚にあうものを探すこと。なんとなくこんな感じというものではないと思う。
「美しい人生よ 限りない喜びよ この胸のときめきを あなたに」体の感覚が同じならばどんな言葉でも同じようにはいり込んでいけるように思うがく美しい~>の〈う〉はとても若いにくかった。〈う〉〈つ〉〈く〉とウ行が続くからだろうか。体が素直に出れば出るほど支えが足らず力が抜けてしまうような感覚がある。のどや上半身でワンクッションおくといいやすいが何の手強えもない。腰まわりで支えるということを徹底していくことで上半身もよりリラックスしていけるのだと思う。
ワンフレーズずつ切れているように感じた。歌の大きさに力尽きてしまいいい切るだけで精一杯というのが見えてしまっていた。サビでは引いてしまってはだめだが、出せばいいというものでもないと思う。出してばかりの自分のフレーズに疑問を感じたりもするが、今は引くことまとめることを考えずに出し続けていこうと思う。フレーズを動かすにはいい切れた上に余裕があって初めてできることなのではないか。それにはまだ大きさが足らない。もっと短いフレーズのなかで、どう動かせるかということをみていきたい。
「ちぎれた愛の思い出さえも」言葉をいいきれるところからどう音楽につながってゆくか。今できる全力のことを何度も何度もやっていると以前なら100の力を出さないとできなかったことが50でできるようになる。結果としてそうなっていることに気づく。トレーニングの段階ではそれが歌にならなくとも全力で歌う(叫ぶといったらいいか)ことをとことんやった方がいい。
その先にフレーズが動いていく予感がする。音を追ってゆくような歌い方ではなく全てを一度自分の体に入れ込んで出すこと。イメージの持ち方で出てくるものはまったく違ってくると思う。
くちーぎれたー>と線においていくというよりイメージのなかでちぎれた〉を体に入れ、そのなかで動かす作業をすること。そのイメージ作りを間違えるとくおもいでさーえーもー〉と音に届かないとかのどがしまるということになってしまう。体が足りずできないというよりイメージの問題が大きいように思う。
体を使うプロセスを踏んでゆくことは難しい。今振り返ってみてそう感じる。体力的に大変ということより自分のめざすところを信じてつかみ続けていられないと他人の言葉に振り回され簡単に放してしまう。<歌が下手なんて嫌な言葉なのか。うまいとか下手って何だろう。人はうまい歌を求めているのだろうか。
確かに下手よりはうまい方がいいのかもしれない。聞いている人の心をかき立てない歌って歌にする必要があるのだろうか。歌はこうでなくてはいけないというものはないしそういう言い方はしたくない。けれどワンフレーズのなかにその人の強い想いみたいなものが入っているかいないかは誰だってわかると思う(わからないのか)。舞台にあがっていない私の言葉はどこにも届かないかもしれないが何か違う気がする。
4/4、3/4、2/4拍子のリズムトレーニング。1.2人でペアになり、縄跳びを用いて、体全体でリズムを取ること。2.足と手、右手と左手で一緒の動きを刻んでから、異なるパターンでリズムを取る。片手で、ベースのリズムパターンをきちんと刻み続けること。
楽器演奏者と表面的にリズムを合わせるだけでなく、もっと深い部分の音楽のうねりを感じ合う。そういうことのコツや定義があるのなら知りたいと思った。通常の“L”のレッスン内容に近づいてしまったのが残念だと思ったが、よく考えてみたら、それは実践のなかで自分なりに獲得していくものなんだとわかった。
ホームランの撃ち方、ジャストミートの仕方を問うたところで長島さんなら「ビュー」ときたら「バッ」といくだけです、とでも言うだろうか。
ピアノに限るが、そのヴォーカルによって(白鍵から始まるキー)と黒鍵から始まるキー)との愛称の違いがあるということに興味を感じた。
スティービー・ワンダーに関して、彼の弾くベースやドラムは歌っているので参考になるというような話があって、ちょっと思いあたることがあった。ドラマー「村上ポンタ」が彼の著書のなかで、彼はその歌の詩(ことば)を理解し、タッチやチューニングで音色を使い分ける。
ヴォーカルと一緒に“歌っているのだ”とあった。ピアニストはピアノで歌い、ドラマーはドラムで歌っている。楽器の自動演奏やリズムマシーンはやはりカタいし、乾いているし、無感情で、長い間聞きたいとは当然感じられない。
演奏者の生の呼吸が入ってないからなのか。ずいぶん前に、機械の演奏も故意にズレなどを加えて人間の演奏に近づいた、とか聞いたことはあったが、どうなんだか。あってもそれと人間がからむのは不可能か。言葉やカタチに頼るとラクだ。それをヒントにして、さらに発展させなきゃいけない。いや、しなくてもいい。
でも、創ることこそが楽しいじゃないか。いやしかしどうも他人の作った枠や仕切りを持ち込んで、自分の部屋を固めている。自分自身を追い込んでいる。同じ歌ばかり作ってしまう。最近、プロレスがすごくおもしろい。音楽もまた格闘技だ。あ、カクトウギ・セッションか。
先生が今日「日本人の声は弱くなっている」といっていたが、この間ニュースで海外の中学生と日本人の中学生の親睦合唱会の話があった。それを見て自分が思ったのは、日本の合唱団の声は、ただ高く響いているだけ。それに対して、海外の中学生は声もあり、素晴らしかった。海外の客もそう思ったらしく、拍手はしていたが顔はしかめていた。ニュースキャスターは感心したようだが。何でこんなに差があるのだろう。
全部聞かせようとしないこと。全部やろうとすると、そのほとんどを聞いている人に先に読まれてしまい、退屈させてしまう。それよりもポイントのところだけに力を入れる。あとは聞いている人がハーモニーを自分で感じてくれる。今日は、これを聞けてよかったです。今まで自分はこういう意味で聞く人を信頼しようとせず、何て押しつけがましい歌い方をしていたのかと思った。そしてこれがわからなかったら、すばらしい歌を聞いたとき、“すごい”と思っても何も自分に取り入れることができなかった。
楽器どうし、歌とバンド、それぞれ相手の音を聞いて感じているのと同じようにお客さんも感じている。それをわかって(認めて)こそ、相手に働きかけるものとなるのだろう。そして本当にすばらしい歌い手は、楽器の演奏のおいしいところもしっかりと知っていて、そこを立てることもするのだろうということに気が付いた。
自分がとんでもないことをしていたことにやっと気づいた。せっかく詩を選んで朗読、その前に暗記したが、そのとき大きなことを忘れていた。そのときを覚えたあと、私が最もよくする“考える”という作業をしていなかった。せかっくの発表の場なのに、覚えてそのままいっただけ、自分なりの解釈も何もせず、その詩を借私の発表ではなく、そのときの発表を私がしただけになってしまった。なぜ、それじゃあ、ただ読むに過ぎないということに気づかなかったのか自分に呆れる思いだ。
課題だから嫌々覚えたみたいだ。それじゃ結局やらされる気持ちということになるし、私が入会を決めたのはそんな思いではなかったはずだということに気づいた(思い出した)。2回目の新入ステージだというのに1回目の教訓がまったくないとはがらどうかしている。「青春」という詩に共感を受けながらも、なぜ、私の青春についての考えがなかったのだろうか、まったく。
私はここに入る前までは「できる人は自分一人でもできる。先生なんていらないんじゃないか」と思っていた。しかし、ここですぐ、よい先生につくこと、まわりにたくさんライバルがいることがどれほどプラスになることか知った。しかし、また最初は「結局一人でやっていかなくてはならないんだ」と思っている。それは前の自分の力に過信していた頃とはまた違った意味での“一人でやる”ということなのだが。
自分で先生のいった言葉に対し、「なぜ」先生はそういったのか、「なぜ」こういうトレーニングをやるのか、ハッキリさせていかなければならないと思う。先生も今日、違った見方をしていたが、私は歌は楽器と違って上達やレベルがハッキリわからない分、とても恐いものだと思った。先生は「これだけ技術がありますじゃ、歌はやっていけない」といっていたが、その通りだと思うし、逆にいえば技術がなくても楽器と違って、表現力、訴える力があれば通ってしまうということだ。発声は5%にすぎないといっていた。歌はとても深く、やはり恐いものだと思った。
先生が、勝田先生のレッスンの「重い、軽い」のジェスチャーをやっていたが、それはイメージがあるないの前にその場にどう関わっているかやっていることの先に何を見ているか、そんなことにつながっていってしまうように思う。考えの浅い人、深い人という言い方をするけれど境界線があるのか。わけられるのか。自分をみつめている人といっても自分の傷ついた世界に閉じこもり弱い自分をアピールする人がいるけど、そういう人は私の思う考えの深い人じゃない。誰も私のことをわかってくれないといっているようだ。
1本の木を見て世界の木々を想い、ひとりの子供を見て、世界の子供たちを想える。そんな瞳と心を持っている人はとても深いところで生きていると思う。私はたとえ歌が歌えなくても考えることをやめないだろう。
U2のボノが「言葉じゃない、どう生きるかなんだ」といっていたが、そういう厳しさを持って歌っている叫んでいる人がいる。どんなに国が貧しくとも(アイルランドがというわけじゃない)そういう人がいる国は決して失われない豊かさがあると思う。本当にいろんな覚悟が必要だと最近思う。今まであまりに必要じゃないものをため込んでいたようだ。何かを覚悟するときの身震いというのはいつも変わらない。
一番印象に残ったのが、AHだけで歌っているところだったのだが、そこだった。どこまでも伸びそうな声で、強弱も凄かった。声じゃなくてヴァイオリンか何かの音色みたいだった。高い音も低い音もよく響いていてすごいと思った。声を聞いているだけでも、曲のイメージ、風景が頭に浮かんでくる。聞かされてしまう。たぶんそれだけ彼女の表現力がすごいということなのだろう。
息の音、壁がすごいと思った。フレーズの最後、声がないところまで息がつながっているというの感じた。長いフレーズに入る前、ブレスの音が入っていた。それだけ長いフレーズを歌うのは必要なんだと思った。
アベールの曲で3曲あるうちの2曲目と3曲目の間がすごくあいていた。聞き手に何かやってくるなっていう期待を持たせるのに曲と曲の間は大事だと思った。とにかくいろんな意味で役にたった映像だった。
肉体の単純な動き。身体が気持ちいい動きを知る。唄を平坦に出さない。「強さ」はぶつけたり喉に引っかけたりして怒鳴ることではない。深く出すこと。4拍子はいつも手元に持っていること。持ち歩いていつでも取り出せるように。ダメなリズムを知る。理にかなったリズムの回転をわきまえる。楽をしないこと。かといって無理をしないこと。「なんとなくなってしまう」ことを取り除いていく。
自分のなかで「かっこわるい」と思うことをやらない。
クセを取り除く。1曲のなかに以下のようないろいろな部分を詰め込む。
グサッといくところ・均等に配置するところ流すところ
他にもいろいろなものを感じて、それを出力していく。出力できたらそれを突き詰めていく。
自分が「うまくやられちまう」パターンやタイミングを知り、それを取り出せるように。回転するリズム。三拍子を三角で数えたり四拍子を四角で数えてはいけないのだろう。車輪のように回転しながら進んでいくイメージで。自動車のタイヤのように均等に回るイメージではまずいと思うが。こう、なんていうか、「ぐるんっ、ぐるんっ」って感じ。余計わからない書き方になりました。(笑)とにかく、回転が前のめりになったところが強いところだ。そうなのだ。なんだか危ない人の日記みたい。
課題があって、ポンと出されて、それを使ってどれだけのものを出せるか。まずその前にどれだけ感じとれるか。大きなフレーズだったら一所懸命声を出すところでその一所懸命という“感じ”は(少なくとも)出る。高い音で声を張ったりとか。今回のようなものはやはり難しい。一所懸命とか必死とかそういう“感じ”を出すのではない。でも何かを起こさなくては、起こそうとしなければ意味がない。どうすれば空気を変えられるか。何かに働きかけられるか。
「セピアンジアモーレ」。意味はわからない。音から感じとる。わからないところはイマジネーションで補う。何となく、次に何かが来る予感を含ませる“感じ”だろうか。でも、うまく声で表せない。次に意味がわかる。「たとえ今は/だけどあなたは」言葉からくるイメージが増える。その分限定される面もある。手本は別にして日本語でいってみる。いくらかやりやすい。手本のフレーズからできるだけ感じとろうとするけど、もしそれがうまくできなくても、感じとれなくても、そういうときは別のもの、歌詞でも前奏でも、あるいは自分で作ったイメージでも、そういうものを手がかりにもっと何とかできないものか。自分の番が回ってくるのはほんの数回。そのための用意を。普段何ができるか。それを総動員できるようにする。
自分の声のMAPがない。今日の声は右端、昨日の声は左端というように変化することがなく、いつも同じ声が出ている。これは耳が悪いのであって、きちんと出ているわけではない。自分の声を聞き分ける力がないのだ。(もちろんカゼなどのときはきづくけど)出やすい、出しにくさにばかり気を取られてしまって自分の声を聞き分ける耳がまだまったく育っていないのには本当にどうしたらいいのか、と思う。
トレーナーが「他人の声を聞き分ける力より、自分の声を聞き分ける力の方がつき易い」といっていた。まず自分の声を聞けるようになること。そうしないと、どの方向へ自分を進めていったらいいかわからないからだ。
集中力の欠如。明を歌うことに、そんなに集中力がいるとは、今まで気付かなかった私がバカだった。歌を歌ってているとき」「うまくいった」「失敗した」「ここをこんな風に」「あっ姿勢がおかしいかも」などとたった1フレーズだけでも考えてしまっていた。3分間、こんなんでもつのか。そんな形ばかり考えずに(そういうことは無意識でできるように)歌にのみ集中できるようになりたい。今日は福島先生の体なども説明してくれて、とてもわかり易かった。
プロとアマの違いというのは、たとえば肩が毎日こっていないとか、口のまわりが柔らかいとか、既に体に血や肉となって身についているかいないかということだ。歌のうまいへたとかいうより、そういう管理が自分でできているかいないかだと思う。だから歌をやっている人は「歌をやっています」といわなくても1匹話しただけでもしくは話さなくても)「あ、この人は歌をやっているんだ」とわかってしまうんだと思う。バレエをやっている人が歩き方や座り方だけでわかるように、歌を歌っている人もわかるものだ。
最近感じることは考え方の大切さ。ここにいていろんな人と出会うが私は誰もが成長したい、大きくなりたいと願っているとは思わない。ヴォイストレーニングと歌と自分の未来を結びつけて考えている人は少ないように思う。何年後にどんなステージでどういう人の前でどんな歌を歌うか。ヴォイストレーニングこれは本当にしっかりと見つめていけばいろんな可能性が開かれていると思う。でもそれを活かすには考え方が何よりも大切で、創造力と行動力もいる。自分のいる環境サイズの考え方ではたぶん活かされずに終わってしまうのではないだろうか。大きく考えるということは簡単なようでいて本気で思うことは難しい。やはり自分を制限しているのは自分なんだなと思わざるを得ない。足元を固めながらも先のイメージを作っていくことが大切だ。少しずつしか形作られていかないけれど想いを込めてゆく。
「吹けばとぶような将棋の駒に」息と一致していないとどういうことになるかく吹けば≫という言葉さえまともにいえてなかった。一致させようとすることが不自然なからだの動きになり、息もれしてしまっていた。基本を結びつけること、イメージが悪いため1本の線上に乗っていない。呼吸の線上に乗っているものは加工しているように聞こえるし、音も一つの音だけが変に浮き上がってはみ出している感じがする。今までも1本の線上に乗せていくことは意識していたけれどイメージの持ち方が足りないと思う。他の人のフレーズを聞いて、その人の息の線の上に乗っているものはすっと聞いている側の心に入ってくる。何も考えなくてもただ聞くだけという状態でいられる。
「将棋の駒に」声のポジションが変わってしまわないように、1本の線上に乗せてゆくイメージを持つこと。力みすぎてまったく伝わらないところでいってたように思う。一つの音を独立して感じるのではなく、1本の線上のなかで感じて出すこと。もっと自然にやればいいものを考えすぎて複雑になってしまっていたように思う。<な>の後のわずかな間があることで<な>の音を感じる余韻があるし、次に何がくるか待つことができるように思う。他の人のフレーズを聞いていてただ単にくな将棋の~>とつなげただけのものはその人が作ったものという感じがしなかった。何も考えずにやっている気がしたが自分にもいえることなので音の扱いに対して注意を払っても払いすぎることはないことを心に止めておくこと。
美空ひばりさんのおき方は抜いているといっていたが抜くにしろ、離さないにしろ張り上げてしまうと次の<将棋の~>が生きてこないように思った。自分は無神経にくな~>と強くいっていたが何も考えていなく、音を意識していただけのように思う。そういうところに音に対する(扱い)繊細さが出るのかもしれない。繊細なコントロールがないと歌はとても雑に聞こえる。作ってゆくことを考えたらただ張り上げるだけの歌ではもうだめだと思う。体、息、心を一致することが前提としてもていねいにということはいつも考えていること。
「月も知ってる俺らの意気地」やっていて感じたことはできないと瞬間的に判断したところを私は聞いていない。聞いているけど心に留めていない。プロの歌はワンフレーズのなかでいろんな工夫がされていてその人の感覚そのものをコピーすることはできないけれど。どういうことが起きているかということをもっと深いところで読み込まなくてはと思う。<月も知ってる><も>から<し>へ<知ってる>のなかでどう音が動いているか。<意気地>もどう音を感覚しているか、そういうことができなくても読み込んでいくことが必要だと思う。
こんな心身璽たい日にフレージングはクイーンの「ウィー・アー・ザチャンピオン」まったくテンション追いつけず。ちくしょー、気持ち乗っていけない。身体が動かない。転んでもただ起きるな。わずかなヒントをつかむべく、必死に手探りした。高いキーで叫べば、それなりに気分は高揚する。しかしそれは身体のテンションが上がっただけなのかも。その気はなくても走れば心拍数は上がる。たとえば自分がギター持ってコレ歌ったらって考えたが、現時点ではそれはあるパターンにこの歌をはめ込むことになるようなのでやめた。
今日は幸い「熱い」出席者が何人かいて、パワーをもらうことができた(ジジイみたいなこと書いているな)。身体を使っているだけじゃよくないし、自分の型(クセ)に歌をはめ込んでもダメ。感情にこびるばかりじゃダメ。トレーナーのいわんとすることがわかる。自分のフレーズが自分の理想と違うことがわかる。違うことはわかる。
トレーナーの言葉から-
We are the champions my friends
And we'll keep on lighting till the end.
We are the champions we are the champions
No time for losers Cause we are the Champions of the world.
weの入り方、角度。championで粘ることでスピード感のメリハリを出す。どの言葉を伝えたいのか、音数が多く感じる。(すごく“アッ”と感じる言葉だった。音符がういている。線としてうねっていないということか。止まって見えるのが遅い。・感覚が回っていないところ、なんか失敗したと感じるフレーズはやばい。間違いなくやばい。
細かな無神経に発しないこと。フレーズ、張るところも手放さず責任持って。
(No time for losers)フレディの音色とか、すごく好きだと思ったフレーズ。とても気持ちいい。(cause)よく即座にここまで戻れるな、と感じた。前のフレーズと大きな左右のフックを振った直後にフッと2、3歩引いてもうジャブを放っているような鋭さ。この辺のフレーズを回したとき、人によってまるで救急車の“ピーポー”みたいに単調に聞こえることがあっておかしかった。僕こそがそれかもしれない。確認しよう。やっと心身ほぐれ暖まってきたところでレッスンが終わってしまった。変に力みすぎてうまく動けないこともある。自由であれ。常に「今すぐ歌える」コンディション保持。今こうして振り返れば「Wait」が、と感じられるが、それは今でも頭だし、まして繰り返しかけてもらっている間にそういうポイントがつかめない。では、一体何を聞いているのだろう。強いところ弱いところ何ていつまでも聞いていても仕方がない。何を聞こうとしているのか。イヤ、ボーっとしているのと同じじゃないか。
(Stop)Oh,yes wait minute mister Postman Wait Mister Postman,Oh year please,please Mister Postman oh year ここまで聞こえなくてはならないところStop,wait,wait,pleaseだけ絶対伝えなくてはならないことwait。他の人のを聞いていると伝えたいことがあるのに出ているものが弾んでしまっているのがよくわかる。大きな一つ、出なくジグザグした動きだ。自分だと思って聞いている。このジグザグをどう我慢するか、弾んでしまっては"Wait"は出ない。話しかけられない。それはたとえばテンションの持続なのだろうか。でも、Oh yearからはどうなる。Ohといいたくなっていないのにいっている。最後までまったく白々しい。Pleaseが実態なかったらガタガタなのに遅れてプリーズといっている。音楽として最初のPleaseが聞き取れていればまずせめた体がそう入るはず。でも、そういう体に自分はレッスンのなかなっていなかった.。ききとれないまま字面をいった。でもPleaseはよほどその気持ちで体がいかないと発音自体の難しさに負けてしまう。最初のPleaseの前にも相当な“だめ”が必要なんじゃないだろうか。しかし、これを一つにするのか。バラバラに自分のがなっているのも感じる。それがブチブチ切れて開いていて疲れる、というかついていけないのも自分で感じる。でも、じゃあどうしたら大きな一つに聞こえるのだろう。一つにしようという意識。息を流す。ブレスをしてもつながっていく意識。やってみる、一つにならない。ブツ切れ、Pleaseは斜めに切り込むような感じだ。
自分の出したフレーズがずれているのがわかる。型にのっかってしまうところがある。それでいいのと問うこと。もっと曲を自分に引っ張ってくること。外から見ててもダメ。音の世界というのはまだ見えてない。これを感じられるとずいぶんと楽になるのにと思う。集中するところが絞れる気がする。たとえばこれが音としてこれがシンプルなフレーズだとしたとき、これを〜こんなふうにいろいろと線を変えたいとかもっとスビード変えてみようとか.’こういう音(抑えるべき音の流れ】が見えていると、それを踏まえていろいろとアプローチもできると思うのだが(少なくとも今よりはずいぶん早く)今のところなんだかこんな風にガチガチに力で持っていったり、余計なものが、いっぱいくっついているように思うのだ。自分で出してストンと何も残らないときはきっと必要なことろだけに集中して他には特に力が入ってなく、出したときじゃないかという気がする。でもいろいろとアプローチはしても最終的には生理的にも自分に一番一致したものだけが自分のフレーズとして残る。何も複雑に考えることではない。ただ感じることができれば出せるのではないか、。
【プレBV座ライブ】
日常と違う空間。日常を離れ(しかし、結びつきながら)自分を振り返る。自分は何なのか。自分の存在、存在すること、存在の確かさ信頼。自分のやっていること、やるべきこと、なすべきこと。そんなことを自らに問いかける空間。それはとても素晴らしい時空間になっている。落ち着ける歌。歌にはこういう価値もある。
歌は何か落ち着ける雰囲気がある。彼女の人間的な深さが出ているのではないかと思った。普段の生活のなかで積み重ねた内面的なもの、人格的なもの、人間の深みは、確かに歌のなかに(歌に限らずとも)に出るのではないのだろうか。
歌はうまいということ以外ぼくには(他の人にはわかりません)何も伝わってこなかった。伝わってこないというのは、歌がうまいなこの人はということ以外ぼくの心が動かなかった。ぼく以外の観客はどうだったのだろうか。また、歌っている自身はどうなのだろうか。何もわかっちゃいないくせに(これは哲学的なことに限らず、日常のことでも、たとえばある女の人のことが好きとか)、わかった気になって歌ってもよく伝わってこない。わかった分だけ伝わってくる。本気でそう思ってそう感じて、そういってみるとき、相手のなかで何かが動く。どんな人でもはまる歌がある。
今日出演した3人の方に限らず、全ての人にいえるのではないのだろうか。馬鹿でない限り何か感じて生きているのだから、何かあるはず。しかし、他面そういうものばかりだと偏りが出てきてしまう。範囲が狭い。
結局聞いている人に届くものは、うまい下手ではなく、何が出てきたか、何が出てきているか、何を伝えたいか、何が伝わっているかということになってしまう。それだけが届く。そのために技術がある。
「銀河鉄道999」にびっくりした。すごくよかった。こんなにいい歌だったのかと思った。もう一度、今度は冷静に聞いて、どこがどうなっているのか確かめてみたい。