レクチャー【一般公開セミナー】962
目次
○レクチャーの目的
○自分の立場と目的を絞り込む
○学び方こそが秘訣
○聞きとる力をチェックする
○トレーニングを伸ばす考え方
〇日本のアーティストの評価
○タレントタイプと区別する
○シンガーソングライターとバンド
○キャンパスヴォーカルで終わるな
○プロとは何か
○研究所の目的
○最初の2年は体験レッスン
○高音主義の弊容
○日本人の感覚を切る
○自分の声の自覚
○伝達する声と表現する声
○音声での表現を問う
○ヴォーカリストのもつ音声の世界
〇声の基準
○プロとアマチュア
○歌は教えない
○声とフレーズ
◯ヴォーカリストの条件
○真の実力
○声の型
○音楽的日本語
○日本のヴォーカリストの声のなさ
○トレーニングの効果
○業界の問題
○舞台
○オリジナルの声
○型と表現
○再現力
○違いが出せること
○できたことが形をとる.
○体を楽器として整える
○感覚を変える
○言語感覚に学ぶ
○体で読み込む
○息を読み込む
○ポピュラーの発声を学ぶ
○日本と欧米の違い
○音しか見えない日本人
○反応力が問われる
○統一する
○読み込む
○音域と音色
○体の原理
○メロディ処理、高低を強弱でおきかえる
○プロの共通要素
○スタンダードに学ぶ
○第三者に学ぶ
○正しいということ
○インパクトとパワー
○声の勉強
○トレーニングの方法論
○歌のイメージ
○変わるものは体と感覚一流に共通するもの
○あたりまえに学んでいく
○続けること
○客の評価をあてにしない
○誰よりもやること
○基本と基準
○メニューをつくる
○ノウハウは自分でつくる
ーー
○レクチャーの目的
東京と京都とあわせて月に4回ほど、大体3時間ぐらいのレクチャーをやっています。
いつもいろいろな方がきます。
一般の人で声をよくしたい人、役者とか声優とかもくるので、歌のことばかり触れるわけではありません。
声の考え方とか学び方から入って、声や体のトレーニングのことを述べていきたいと思います。
○自分の立場と目的を絞り込む
個別にいろいろな要望があったり、いろいろな学校に行かれていたりして、ヴォイストレーニングの目的や用途も広いので、うまくお答えできるように、最初に質問用紙を書いていだだきます。
どういう声を一体よい声だと思い、どうなりたいのかがわからないと、答えようがないので、できるだけ具体的な要望をいただいています。
ヴォイストレーニングには、一般的な答えはあまり意味がありません。
基本的には、個別に近い形で対応していくものだからです。
まず、自分の情報を整理していただくことです。
自分でやってきたことで、疑問に思うことがあれば、書きだしてください。
具体的に述べていただくと具体的に対処しやすいからです。
質問内容というのが、みなさんがこられた理由だと思いますので、最優先でお答えしたいと思います。
ただ、一人ひとりに順に答えていくと、時間が足りなくなってしまうので、
話のなかでまとめて答え、触れなかったものは、最後に別にお答えします。
次にこちらの材料を提供します。曲をを聴いた感想を書いてください。
ヴォーカリストになりたいという人にもいろいろな人がいます。
このあと私が話をしていくときに、あまりに狭い分野で特殊なものしか聞いていない人にとっては、
意味がわかりにくいと思うので、そのための材料でもあります。
歌というのも、あまり聞いていないと、一体私が何をいっているのかがわからないかもしれません。
それでは困るからです。
さまざまな分野から、なじみのないヴォーカリストも含め、レッスンでも関わるヴォーカリストです。
それを聞いて2~3行で書いてください。
曲や詞のよしあしとかではなく、声、あるいは歌について、どう評価するのかを知りたいです。
それは、自分のことを知るためにも、とても大切なことです。
○学び方こそが秘訣
ノウハウを知りたいとくる人が多いのですが、大切なのは、ノウハウより、学び方を学ぶことです。
研究所に入る人には、まず私の話を聞いてもらいます。
話のポイントは、ここでやっていることが何か、ここでできることが何なのかということです。
それと自分がやりたいこととの接点をきちんと見極めてください。
今、400名ぐらいの大所帯です。
地方から月に1回来る人もいます。その人が本気で学ぶつもりなら回数そのものは関係ないといえます。
ただ、何をどう学ぶのかということがわかるところまでにも相当時間がかかるのです。
そこでたくさんレッスンをとれるような体制にしています。
話のなかに研究所のことがでてきますが、それは、ここを語ることで、学び方について伝えていると思ってください。ここは私が自由にアレンジし、考え方もカリキュラムも、全部、私が組んでいます。
ヴォイストレーニングのなかでは、基本は変わらないのですが、いらっしゃる人たちの要望や条件が変わってくると、やることも変わってきます。
それでも共通して必要なこと、国や時代で左右されないことが基本です。
ここでは、それを中心に学びます。
○聞きとる力のチェック
それでは、6曲を1コーラスずつ、かけます。
曲が終わったら集めますので、最後の6曲目までにまとめてください。
イヴァザニッキ/クラウディオ・ビルラ/尾崎紀世彦/マヘリア・ジャクソン/村上進/ジョルジア
日本の場合、基本のトレーニングとプロデュース、両方はいっぺんにはできないのです。
というのはプロデュースでは、日本のあまり耳がよくないお客には、こうした方が受けるというのがみえますから、どうしてもそっちの方向に流されます。
これは基本から、大きくそれることです。本当はおかしな話で、お客さんにより伝えようとしたら、基本を徹底してやってはじめてできることのはずなのに、歌のステージでは、そうではないのです。
だから日本のヴォーカリストについては、歌とステージと2通りに分けて、私は評価しています。
そのまわりにいる人たちは、ここの立場では、あまり評価していません。
とはいえ、ともかく、人が、がんばってやっていることは、よいことです。
○トレーニングを伸ばす考え方
ここで、人や作品を評価するのは、価値観に捉われず、自由にしています。
しかし、ヴォイストレーニングをやりに、研究所にきている人には、
どのように考えた方が、自分の声が伸びるかという観点ではっきりした基準をおいています。
○日本のアーティストの評価
たとえば日本のアーティストに関して、私はいろいろなことをいいますが、それはあくまで声の基本技術とか、あるいは、それをまねたときに基本を学ぶために参考になるかどうかという観点からです。
ステージをやっている人は、偉いのです。たとえ、どんな曲でもどんな歌い方でも。
音程やリズムが乱れて歌っていても、売れて、それを聞いて安らぐという人がいるなら、それはそれでよいわけです。本物の歌も本物の声も、それだけでは存在しません。
本人と聞く人との関係において、本物となるかどうかだからです。
ただ、間違ってはいけないのは、○○さんみたいになりたいといって、その人が10代のときに、そのルックスと歌でそういう世界をつくったのを、10代のときに同じことが同じようにできていなければ、追いかけるのは難しいということです。
20代からめざしても、10代で同じようなルックスでもっと声がでる人は、いくらでもでてくるわけです。
しかも、プロダクションの力というなら、先行投資を考えても、若くなくては難しいのは当然です。
そういう不利な条件で勝負をするというのは、可能性の高いことではありません。
トレーニングは可能性を高めるためにやるのですから、そこを間違えてはなりません。
私は、売れている人がよいとは思いませんが、何かに貢献していると思っています。
だから、売れずに、何もない人よりよほどましだと思っています。
ただ、研究所では、そういう判断基準は、入れていません。
ここでは毎年、あらゆるものを材料にしてレッスンにとり入れています。
そういうものから直接学べるようになると早いからです。
で、何をどう学ぶか、です。
だから学び方が大切なのです。
○タレントタイプと区別する
最初に断っておきたいのは、タレント性でやれる人やぱっとでてやっていける人は、それでやっていけばよいのです。行き詰まったり、その先が心配なら、いらしてください。
ここにくる人たちというのは、必ずしもそうではありません。ルックスがよく、そのへんを歩いていたら声をかけられ、それでデビューできる人ようなら、それはそれでよいのです。
本人もまわりもよいのですから。それでよくないと思う人は別です。
また多くの人は、そうではないという自分の現状の認識から、スタートすべきです。
学校でモテるレベルくらいでは、やっていけるはずがないでしょう。
今の日本のヴォーカリストの支えられているところはタレント性です。
このタレント性とは、ビジュアルな場で即興的な役割を果たすテレビでの才能です。
10代でも大人を楽しませることができたり、おもしろく話せる能力です。
それで、まわりには対等にわたっているように思わせられる、
そのことは、普通の人には、なかなか、できないことです。
たとえば日本人なら、30歳になっても、人前で話して5分くらいしかもたないでしょう。
ところがタレントは商品になるレベルにあがってきます。
ただし、それは音楽や歌の才能ということではありません。
○シンガーソングライターとバンド
シンガーソングライターとは作詞・作曲演奏も含めた才能です。
自分が詞をつけて自分がつくった曲を、どう歌うかはその人の勝手ですから、
これもその人がそれでよければよいわけです。
さらにバンドの形態というのもあります。ステージは、ビジュアル的な面に関してもみせていくわけです。
客が踊りにくるダンスミュージックとビジュアル系バンドも、
今の日本では、音声での表現力というには、少し売りが違います。
○キャンパスヴォーカルで終わるな
日本の場合、欠けているものがたくさんあります。
それを補いつつ、プロをめざして、勉強するには一人でやるしかありません。
ヴォーカルには、音楽スクールを私はすすめません。
たとえばスクールのめざすのは今風のマイクをつけバンドいれて、やっと成り立つヴォーカルです。
今述べたような他の要素に負うところが大きいのです。タレント性がなくてはできません。
そういうのは私はキャンパスヴォーカルといっているのです。
キャンパスのなかで一番通じるヴォーカリストというのは、誰かに似ている、
あるいは何かと何かとをくっつけたようなヴォーカリストです。
これでは普通の人はプロになれないのです。うまいように聞こえるのは、みんながすでに知っているようなものをやっていて理解しやすいからです。
○プロとは何か
プロというのはどこかがプロだったらよいわけです。
たとえば曲がプロでも、あるいはビジュアル的な面だけが、プロでもやっていけます。
しかし、そこでは誰よりも強いものを持っていなくてはなりません。
○研究所の目的
研究所では、今のところオーディションなしで受け入れています。
こういう話を聞いた上で本人の覚悟とやる気だけで入れています。
ここでできることできないことをはっきりといっています。
プロダクションの紹介も、CDを出したり、ライブハウスに出たら、それでプロだという考え方もしていません。
すでにCDを出したり、ライブをやっている人もいるし、それは、結果の一つにすぎないからです。
あとはまったくの素人です。
学校にいっても、他の人と同じぐらい努力したくらいでは絶対にでられないと、そこまで崖っぷちに立っているはずの人です。
歌は音声での世界や表現力を核に他の要素が加わるのです。
だから一番困るのは、その自覚がなくタレントみたいなつもりで、ここにきて器用に何か歌ったら、何となくできてしまうと思っている人です。これでは伸びないのです。
他の人と比べるのでなくて、結局、伸び率が決め手ということです。それがキープ、あるいはあがってくれば、いつかやっていけるようになります。
だから、プロで入ってきた人も入ってきたときと同じレベルで出ていくのなら、ここの意味がないのです。
最初は一般レベル以下でも一般の人並みに近づくところまで2年で伸びたら、その先にどんどんと伸びていけるわけです。その方が大切です。
○最初の2年は体験レッスン
2年制というのも過保護な制度です。やめたいときがあっても、2年制だからやめられないと思って続く人もいたからです。ここは2回目に受け入れるときは、面談があります。
1回目は大体は誰でもできるだけ受け入れてきましたが、それはその人が新しい環境で変わる可能性があるからです。やめた人がもう一回入りたいというときは、理由なしに受け入れません。
というのは人の絆とか、ここにくれば仲間がいるからと戻りたくなる人が多いからです。
そんなことで入ってこられたら、大切な“場”が壊れます。
ここは、学べる人が学べる可能性のある人の場です。
○高音主義の弊害
日本人の場合、特に高い声で話した方が聞きやすいような感覚があるようです。
低い声は聞きづらいということで高い声になれている環境で育っているからです。
第三者へは、対して話する対話=説得する表現ではなく、会って話する会話=楽しむ伝言のような関係で接するからです。
説得するのではなく聞きやすくするために以前は、営業マンのトレーニングでは「ソ」のキィで話しなさいなどといわれたのです。それらを私は、日本人の「声の敬語」といっています。
たとえば偉い人には、声も高くなるでしょう。家のなかで話すときも電話に出るときも違いますね。
音声での表現力を自制しているわけです。
これは日本的な文化のなかにあり、音声の表現力を邪魔している根本的な要因の一つの現れです。
歌の高音志向は、カラオケ競争とCM、ドラマ主題歌で勝つために業界の仕掛けで、さらに顕著になりました。
○日本人の感覚を切る
レッスンでカンツォーネを多く使うのは、イタリア語からの感覚を学び、のどを開いて、ひびく声が出せるようになるためです。
イタリア語なら、カタカナのように覚えらえますから、そこですぐにリズムとか強弱アクセントの移行みたいなことをやれます。
イタリア人並みの声になるだけで、日本でいうと3年ぐらいのトレーニングぐらいに相当するでしょう。
現地に行けば私みたいな声は珍しくありません。日本人と比べるとすごい声で一般の人が普通に話しているのです。これは別に欧米だけではなく、アジアでも、一つの音声文化として成立しているのです。
音声は日常的にも表現のために使われるものだからです。
1ヶ国だけ落ちているのが日本でしょう。他にあまり見当たらないのです。
音声でしっかりと伝えることは、異民族などで構成された国家で、たくさんの言語が入っているところではしっかりとしています。
そこでの環境と習慣を意識的にのることが、ここでいうと1年目の目標です。
1年目は役者さん、外国人並みに声を扱えることをめざしてください。これが基本の部分です。
○自分の声の自覚
日本人であって日本語を使っていることで、デメリットになるところをとることから始めます。
外国人は自分の声を録音して聞いても、自分の声を不快に思わないのです。
それは、よい声であるということも確かですが、何よりも、自分の声の働きかけの力を知っているからです。
声の基準というのは体のメカニズムにうまく合っていないと、生理的にいやだと感じるものです。
まして、歌なら尚さらでしょう。使っている声に敏感にならなくて、どうして、声の表現ができるでしょう。
○伝達する声と表現する声
一流でベテランと認められた役者さんは、アナウンサーより表現できます。アナウンサーの声は伝達の声です。伝達とは、伝えてする、内容を正確に伝えるということです。
その目的は、多くの人にわかるように伝えることです。
それに対して、ここでいう表現というのは、誰かに対して強く働きかけることです。
そこで何かを起こし生じさせます。表現には好感をもたせることもあれば、嫌われてもしかたないというリスクが伴います。極端にいうと多くの人にわからなくてもよいのです。
「この人のステージはいやだ」とか、「この人の歌い方は嫌いだ」というのは、表現されているからそう思うわけで、アナウンサーの語りでは、どちらにもならないわけです。
人柄や顔は別として、声においてはということです。
○音声での表現を問う
表現というのはことを起こし、人を動かすわけですから、伝えるパワーも違います。正しく伝えるのとは違います。ここでやっていることは音声での表現です。声優、役者中心にいろいろな人がいます。声の研究をすることをも含め、音声で表現する舞台ということでくくっています。
研究所では、モノトークも詞の朗読もすぐれていたらそれで作品として認めます。
歌は厳しく歌われても音楽レベルで通用しなくては歌とはしません。
歌を「いかにも歌らしい歌」にならないようにやっています。
研究所の価値観は、個としてすぐれた装現の舞台に置いています。
それをどう使ってもよいのです。
自分のバンドのために使っても、日常生活でもセールスに使っても、それはその人の自由です。ここで、一生失われないものを得てください。
○ヴォーカリストのもつ音声の世界
歌の世界というのを今の世の中で思われているように、ビジュアルでとらえるまえに、音の世界でとらえることです。視覚の世界でなく、真っ暗になったときに何が聞こえてくるかが音の核心です。
その人の顔とか振りがなくても歌が流れてきたら、表現できていること、好きとか嫌いとかに関わらず、とにかく音声だけで勝負できることです。
そのなかで3分間で2オクターブに渡って声を使わないといけないのがヴォーカリストです。
音声表現のなかでもその技術が一番高く、凝縮されています。
そこには集中力とか体力的なことも、欠かせません。
〇声の基準
本に書いてあることは全部読んでおいてください。
肝心な中身に入っていきます。他の学校の、ヴォイストレーニングというのと、私が区別しているのは、音声の表現力において判断するということです。
他の学校は歌も「ドレミファソラシド」と正しくとれていたら、「それでよし」とします。ところがこの「ドレミファ」が表現として通用していなかったら、そもそも意味がないでしょう。
歌は1曲で比べなくとも基本の力は出だしだけでわかります。その出だしが声量などよりも、印象として表現がなければ、いくら3オクターブあっても、何曲、歌ってもだめだということです。
音声の表現は、日本では役者の方が上ですから、当初は、そのレベルをめざします。日本の今の役者は、声が弱くなっています。1年目ぐらいに声の基本をつかみます。そして、2年目にヴォーカリストの条件に近づけるようにします。だからといって役者用のメニューとか、1年目のメニューと分かれているのではありません。
多くのヴォーカリストが一番伸びないというのは、結局見本を中途半端にとるからです。そのため、音声の基準がわからないのです。伸びる人というのは、それだけ音楽を入れている人です。それが時代とともに少なくなり、レベルがおちてきているのです。やり方もおりてきているのです。
たとえばトレーニングもやらないで、きちんと歌を歌えないヴォーカリストのCDをまねして、自分が勉強をしているつもりでいる人も少なくありません。それよりうまくなってもやっていけないのです。
その人々は、支えられているものが、まったく違いますから。
○プロとアマチュア
最初は大体、特定のヴォーカリストの歌を聞いて、ああなりたいという目標から始めるわけです。しかし、一流をめざして、その条件づくりをやっていけるかどうかです。
そうやったときに必ず他人と違ってきます。違ってくるというのは、歌いたいものも世界も時代も違うし、その人と自分の筋肉とか骨とか声帯も違うからです。
だから他の人を追いかけていくと、いくらやっても本物がいるのだから、にせものはいらないわけです。似れば似るほど自分の表現から遠ざかっていきます。
○歌は教えない
歌ってみせて、それをみんなにまねさせるということはやっていません。髪は歌を教えていないのです。
歌そのものを教えるのはとても危険なことで、多くの人は教える人のよいところをとるより、悪いところをとる場合の方が多いのです。すぐにまねできるところは、プロの条件にないところなので、本当はやってはいけないことが多いからです。
声帯も、考えも気質も違う人が、それを一時、学ぶのはともかく、その影響下におかれては、抜け出せなくなる方が多いのです。これを超えたところに表現をつくっていかないといけないのです。
つまり、歌でなく、声の基準を学ぶのが最初のポイントです。
〇声とフレーズ
自分の体にあって自分の呼吸にあったところの声をつくって、その声をきちんと展開していかないといけません。日本のヴォーカリストの一番弱いところは、声そのものを基本のところにきちんとおろしていないことです。
有名な歌劇団のようなところでさえ、私からみると、作るのを急いでいるのです。
芯のない声をお客さんのところにどうみせるかという、そのフレーズのつけ方とか、上げ方というのをノウハウにしています。確かにこれも壁の技術です。ただ、ややもするとカラオケの技術のようになってしまいます。
応用を先にやってしまうからです。
そこできちんと声が宿っている人はすごくなるのです。
そうでない人がどんなにやっても、やるほど同じようなワンパターンの歌い方になります。
形がくさくなってくるのです。それは、そのくささが売りもののところでしか通じません。そこは気をつけないといけないところです。
○ヴォーカリストの条件
ヴォーカリストの条件というのは、まずオリジナルな声があるということです。これは歌でなくても、役者などと共通する強で応用力の効く声です。歌の出だしでも「ハイ」一つでもその人だとわかる声をもっていることです。それはまず声が独特でオリジナルに聞こえるものです。顔と同じで誰とも似ていないところに価値があり、魅力的な声です。それは、その人の体にきちんと入った声だからです。
本当のことでいうと、歌というのは本当はオリジナルな声を元にしないといけないのですが、そうでないところでもオリジナルなフレーズになれば許されているわけです。いわば節回しがオリジナルということで、一つの世界になるのです。フレーズとは一つの息のなかにでてくる世界のことです。
しかし、これが楽譜を音に写しかえているだけならしかたないのです。楽譜レベルにも正しく歌えない人も多いのですが、どういうふうにその人が音を動かしていくかということに結びついてくるようにトレーニングしていくのです。
声を動かしたときに自分の体から、感覚がはなれていたら、それを取り戻すことです。そこに音楽がおりてくるようにしておくのが、ヴォーカリストの条件です。
歌えるのはあたりまえで、歌ったときに音楽の神様がおりてくるか、おりてこないかが大切です。自分のなかで完全に自分を消化して創造しないと、歌はおりてこないからです。
ピアニストでも楽譜を弾けるのとプロとは違うでしょう。正しく弾けるのとそこで演奏を奏でられるというのは、まったく違うわけです。仮にいくら正確に弾いても、曲のよさで聞いでくれることはあっても、誰も感動してくれないでしょう。それはピアニストではないのです。
○真の実力
ヴォーカリストも本来は、音声で勝負をしないといけないはずなのですが、そこで勝負しているヴォーカリストというのは、日本の場合は少ないから、余計にわかりにくくなります。海外の場合でも一昔前の方がわかりやすいようです。
ただ、ヴォーカリストというのは、時代とともにあるものです。何もわからないでも、何かを歌ってヒットしたら、それはそれで一つの実績であり、やり方だと思います。しかし、ここでめざしているのは、時空を超えた真の実力ということです。
○声の型
まず、基本をきちんとやりましょう。そのためにたとえば一つの型を基準にします。型で問う方ができているかどうかがわかりやすいし、深まりやすいからです。
というのはたとえば、「ハイ」「ララ」です。「ハ」を使っているのは、日本人としでは、いろいろな音のなかで比較的のどが開きやすいからです。「ガ」「ヤ」「ダ」など、違う音でやる場合もあります。「ナ」や「マ」は抜けやすくて難しいようです。「イ」「ゥ」も難しい。
だから大体「ハ」から入ります。「ハッ」ででもよいのですが、今度は「ッ」でのどをつめてしまうのなら「ハイ」にして、「イ」の深い発音を感覚的に覚えていくようにします。
○音楽的日本語
今、私が話しているところは、普通の日本人が話しているところとは違います。腰まわりで声をコントロールしています。スポーツや力仕事など、人が普通以上のことをやろうとしたら、何でも腰に中心がきます。役者は舞台での声づくりからやります。新入りでは、遠くには聞こえないわけです。トレーニングの途中でもいったことは、きちんと聞こえないといけないわけです。
音大から出てポップスに入った人の歌い方の多くは声をきれいに響かせ、引いて回していく歌い方です。どうも嘘くさくてあまり聞きたくないものです。クラシックの発声から抜け出すには苦労します。表現は声ではなく息だということで、声を捨てるのが大変なのです。
何が違うのかというと、やはり体からの息で声にする使い方が違うわけです。外国人は体をハードに使って、話しているところからストレートに入ってくるわけです。
普通の日本語に対し、私は舞台に対応する日本語を音楽的日本語といっています。音楽的日本語というのは、むこうの人や役者が使っている深い息で深い声として発した日本語です。
これはどんなに小さくしても、一番後ろの方まできちんと聞こえるのです。きちんと聞こえるかわりに、この小さな声をコントロールするために、体を使います。歌い手はもっと小さな声も使うわけです。
体と声を息で結びついているということです。
○日本のヴォーカリストの声のなさ
日本人の発声でも、役者はトレーニングで変わってきます。5年やった人が初めて入った人に負けるということはありません。ところがヴォーカリストの場合というのは、10年やった人でも、歌もあまり歌ったことのない人に、声だけでは負けてしまうこともあるのです。これはおかしなことです。
トレーニングをやっていれば、声が出るようになって、コントロールがピタッと定まり、そこをみてプロだとか、練習の効果が出たというふうになるわけです。そうすると日本のヴォーカリストは、5年も110年もかかって、声さえ俳優並みになりません。俳優が歌った方がよほど、声がきちんと通るのです。それではトレーニングになっていないといわれても仕方がないでしょう。
○トレーニングの効果
トレーニングというのは、自分の目的、次にいくところというのがあって、自分が今どこにいるかというのをきちんと知って、この二つのギャップを埋めていくためにやるのです。そのためにメニューとなる材料があるわけです。
やっても伸びないなら、トレーニングとはいいません。水泳もバスケットも、何をやってもやったら下手になることはありません。ところがヴォーカリストの場合は、2年たっても変わらないどころが、かえって下手になっている人や、声が出なくなったり、のどが荒れている人がいるわけです。それはトレーニングをしたのではなくて、見当はずれのことをやっているととらえた方がよいのです。
○業界の問題
音楽スクールや特に声優スクール、役者の養成所などからくる人ほど、私は苦労します。いわゆる業界の話し方とか、声の出し方というのが独特のくせがついているのです。今の声優も歌い手も、それに近いものがあります。テレビの女性レポーターとか、キャスターの話し方も共通しています。視聴者からはかわいくてよいのでしょうが、体から声がついていないのです。つまり、説得力、信頼力というのがありません。
日本人というのは大体、表現力のある声を嫌うわけです。たとえば女性が太い声で話すと、何かいばっているとか、偉そうだとかいわれます。そこで、なかなか体からだせないのです。というのも、日本では音声で表現してはいけない国だったからです。
〇舞台
ここに立って何かをやろうというときに、何かをやることが問われるのではなくて、まず何かをやれる状態になることが、問われるのです。
外国人は平気です。たとえば外国では「誰か出てきて下さい」といったら、「私がやる」ということですぐに進められます。日本では、やってみなくてもわかりますが、名のり出ないです。そういうところも含めて、人前での表現に向いていないのです。結局ヴォーカリストというのは、人前で声を使って演じるものなのに、です。
○オリジナルの声
オリジナルな声を使おうと思ったら、日本人にはかなりの体力、気力がいります。これは体から「ハイ」とか「ララ」とか、シャウトできる声です。これで1オクターブでも歌えるのなら、もう最初から、この声で歌っているでしょう。歌えていないから違う声をつくっていくわけです。多くの人は声がないからフレーズの表面的なつけ方から計算し、まねていきます。
テレビに出ている新入りの漫才師みたいなものです。「はいみなさんこんにちは」と、高い声でテンションも上がります。声で何もできていなくとも、ステージはこれで通ってしまうわけです。ところがベテランの人はゆっくりと話して、それで同じだけのテンションで、練り込んだ芸をだせるわけです。
飾りとか、形の部分は大切なのですが、基本のトレーニングでやることは、もっと根本のところです。見せかけや話題が先にきてしまっては、よくありません。これでは伸びないというような応用からスタートしてはいけません。
基本をつければつけるほど、歌がある時期へたになります。歌は応用だからです。そこから理解していくことです。
ステージ、舞台は試合です。試合というのは基本から乱れるわけです。ステージや歌は必ず乱れます。そうなっても抑えられるために基本があるのです。
歌というのは、目的がお客さんを満足させるとか、コミュニケーションをとるとか、自分の表現を外に出して伝えるにあります。のど声になって、発声からいうとベストなことができないことも少なくありません。発声トレーニングとか、歌のトレーニングでは、ベストも出せるわけですが、ステージは決まっています。その日その場にいって、調子悪くてもやらないといけないからです。
〇型と表現
そのときに型がきちんとできているということは、練習10回やってみて、その10回のことがきちんとできるということです。その力を基本のなかでは身につけていくことです。「ハイ」とか「ララ」がいつも正しくできるということです。1年半くらいでは、「ハイライララ」とか「あおいとおいラララ」の3つがプロのレベルでそろっている人は、何人もいないのです。
だから、何年もいる人が、ここにくるのは、基本の形をやるわけです。空手とか柔道と同じです。
○再現力
トレーニングで確実に再現できるようにやるのです。「ハイハイハイハイ」と100回いってみると、1年か2年くらいの人なら、10回のなかで狂います。トレーニングでは100回やっても狂わないようにしていきます。そんなことをやって何になるといわれるかもしれませんが、それができなかったら音声など扱えません。一流の歌い手がここにでて歌いだしたときに確実にできることが、技術なのです。
ここのトレーニングをやっていない歌い手でも一流レベルの人なら、このことを100回やってくださいといったら、1回もはずさないと思います。もしそれをはずすくらいなら、高いところのコントロールとか、フレージングというのはできないはずです。寝不足であろうが、風邪をひいていようが、すぐにコントロールできなければなりません。そういうものが技術だと思えば、その基本をきちんと固めていくことをやっていけばよいのです。
○違いが出せること
私の本をみて自分で勉強する人は、「ハイ」、次は「ハイアオイ」と、読んで、少しやって終わってしまうのです。それで「1ヶ月分、終わりました」と。そんなものではありません。
表現の世界だから人前に出てやったときに、聞く人に違いがわからないといけません。少なくとも何かを働きかけることができなければ、それが身についたことにはならないのです。
基本は形から勉強します。形というのは1、2年で歌っている人と、長くプロでやってきた人、タレントの養成所でやってきた人と比べてみたらわかります。音声の力では研究所の人の方がすぐれています。
○できたことが形をとる
映像に映し出して、音声を消してみてもわかるのです。その人が本当に自分のオリジナルの声で、オリジナルのフレーズでやっていたら、その動きが絵になっています。
だから、一流の歌い手になりたいという人も、ここに出たとき、自分のテンションとかモチベートとかをしっかりとキープできるかでわかります。3分間にすごい集中力が必要で、それが条件的に整っていなければ、同じことができないということです。
顔の表情一つでも、身ぶりや動作も同じです。外側から振りつけて振りの練習をしてきてもどうしようもないわけです。
音声を読み込んでいくほど、自然と体にでてきます。私が話していても、何か伝えたいと思ったら、こういうふうに手が働くわけです。それは習ってやっていることではありません。
やるべきことは、声そのものをよくすることです。そしてその声をどういうふうにフレーズにしていくかの2つです。それがやるべきことであり、ここでやっていることです。
○体を楽器として整える
大体、1時間のステージをやるにも、立っている集中力が問われます。6時間とか8時間分の体力が必要です。そのくらい立ち続けられるぐらいの力がないと難しいでしょう。
年配の人は何歳であろうが、年齢制限はありません。
ただ、体で身につけていく、トレーニングで身につけていくということは、トレーニングを正しくやった分だけ身についていくということですから、やらなければ何年たっても身につかないわけです。
トレーニングはトレーニングをやらないと身につきません。やれば身につくということです。それを有利にしようとしたら、10代の体に戻すということが大切です。
体が楽器です。その楽器というのをきちんと磨き保つということと、それをきちんと使うということを勉強していくわけです。年配の人に関わらず、今では20歳すぎたら体力増進を勧めています。体がガチガチで、声だけが朗々と出てくることなどはあり得ないです。
○感覚を変える
発声練習で過に1回1時間ぐらい声をだして、何とかなるわけがないでしょう。24時間、その酸が流れていて、少しでも時間をみては息を吐いて、体を変えていかないと、何もできません。後でものになる人はそういうことを地道にやっているわけです。
それでも大多数の人は音大で4年間やっている人に及びません。しかし彼らが、発声から、読譜、音程やリズムの勉強をしても、ポピュラーを歌わせたら大したことありません。それでも、あれ以上のことをやらなければ、あれだけのこともできないのです。
そういう面ではここに入ると、自由な分、厳しいでしょう。ここは通ってこなくなっても呼び出したりしません。食いついてきてください。アテンダンスシートを本気で書いている人は、1ヶ月に本1冊分ぐらい書いているでしょう。そこが一番基本的なところだと思います。ヴォーカリストの世界です。書かなくてもできればよいのですができないならまず書くことから始めましょう。
今、一般の人も多くなってきていますから、音大流の音程やリズムのトレーニングも、確かにわかりやすいということで加えています。しかし、基本的には耳がよければよいということです。音程やリズム感が悪いのは、それだけのものが入っていないということです。
入っていないものは出ません。楽譜で正しく手でリズムを打つくらいでは、歌にはつながってこないのです。しかし、それもできない人は、それからやるということです。最終的に耳で得たものを、体で出すというだけの世界です。何かを聞いて感じ、声で出す。そのときに余計なもの、声を妨げる日本的な感覚も一時捨てることです。これが大変です。
○言語感覚に学ぶ
たとえば役者さん並みの声になりたいというときに、日本語で日本で生活してきたこと自体が、悪いヴォイストレーニングをやってきたわけです。それならばそこまでで使ってきた感覚を、そこまで使ってきただけの数以上に正しい感覚でとれば、しぜんに変わってくるのです。
たとえばイタリアで生活するだけで声は変わります。日本で私ぐらいの早さで、これだけたくさん話す人というのは、珍しいのですが、むこうは日常です。そこの生活圏でやっていこうとしたら、そのぐらい話さないといけなくなります。
小さな声でもごもごいっていたら、まったく聞いてくれません。聞いてもらえなくなったときには敵視されています。主張しないかぎり受け入れてもらえません。そういう社会ですから、あらゆる人も否応なしに表現をするようになっていくわけです。音声で表現して、ものごとを進める環境で感覚から勉強するのがよいのです。
イタリア語からやると、よいでしょう。日本語の場合は最初の語句の出だしから高くやわらかいです。出だしでも日本だと「わたし」と、この「わ」のところで、欧米の感覚でいうと遅れて出ているのです。むこうは、「ファ」というと、この「ァ」のところであわせます。そうしたら「Wa」というのは、前打ちしているわけです。
子音と母音中心のことばという違いもあります。環境や風土から感覚的に違いもあります。むこうの言語というのは、第2、3音節にアクセントがきたり、言語のなかでアクセントで品や意味をつけかえているわけです。言語のなかでリズムのつけかえ、つまりシンコペーションのようなことが起きています。
そうしたら音のなかで鋭くならざるを得ません。音声文化中心で、小さいときから何回もお母さんから耳もとで聞かされ、声でいわされて直されながら覚えていくわけです。
日本でそういう勉強が入ってくるのは、中学校では英語の勉強をしたときからでしょう。そこまで耳の世界が閉ざされているわけです。
むこうは言語生活のなかで、しぜんと音を動かすという感覚が入ってくるわけです。ポピュラーというのは、音がことばの上にのっています。だからこれは大きく関係するのです。
○体で読み込む
単純にいうとヴォーカリストというのは、耳から聞いたものを自分が出したいように動かして出せばよいのです。そのときに体と声、それからイメージの条件を整える必要があります。また、心を開くのに条件があるわけです。
いろいろなものを開きましょう。特に50年代、60年代の、音響が悪かったときのヴォーカリストを聞くとよいでしょう。というのは、基本的な技術をきちんともっている上に、聞いていてわかりやすいからです。体が読み込みやすいのです。
大きくかけて聞くと、その人の息まで聞こえます。
家でBGMとしてしか聞いていないと聞こえません。
本当にこれまでどのくらい音声とまともに向き合ってきたのかを問うてください。その聞こえないところを読み込んでいくことが大切なのです。
○息を読み込む
日本人には一番聞こえないところが息です。日本語が子音中心のことばではないからです。この息を聞いているのが、むこうの人たちのポピュラーと思えばよいでしょう。だから歌のなかで声が出ていなかったり、かすれていたりしても、そこで息がきちんとフレーズとして保たれていたら、その歌は生きているわけです。息と声とのミックスが声の音色となります。
○日本と欧米の違い
声楽というのは息が聞こえません。遠くの人に響きで聞かせるわけですから、息を完全に響きに変換し、ビブラートをかけて聞かせます。小さな声でもひびかせます。日本のポップスは、この声楽の影響下にあります。息を全部を声に出しているのが、声楽の世界とか日本の唱歌の歌い方です。響き中心にメロディにことばをのせて歌うのです。
しかし、ポップスの場合というのは、息のフレーズができていたら、声というのは、さほど必要ありません。それがイメージとしてつながっていたら構わないわけです。この感覚としてのフレーズの大きさが聞き手の方にイマジネーションを生み大きな歌になるわけです。それだけ大きな呼吸が必要なのです。こういう基本トレーニングをやっているときは、なおさらです。
○音しか見えない日本人
むこうの感覚でないとわからないというところは、息の他にもいろいろあります。たとえば外国人が「YES」というと、みなさんが聞いたら「イエス」と、日本語でしか理解できないわけです。なまじ勉強している人などは、楽譜を渡したら楽譜どおりにしか声を出せないわけです。
だから、聞いていて退屈です。歌は楽譜を歌うのではなく、結局それをどう歌うかということが大切なのです。
「チ ル ド レ ン」とか、「イ エ ス」とかいうのは日本語で、そのままでは声にも、歌にもならないということです。
その人のなかに音声を取り出し動かすという感覚が入っていない限り、歌は出せないということです。
そういう感覚がないことが、上達を妨げています。
だから一流のものを何回も何回も聞いて、体にたたき込んでいくことです。
○ポピュラーの発声を学ぶ
英語を使うのもよしあしがあります。今の日本人は英会話を勉強して、表向きの発音だけは正しくなっているのですが、発声からは習得できていません。息の強さをとらず、発音だけをとっていることが多いからです。
英語というのは、息を吐くことばです。
その息が吐けてないまま、発音だけまねてしまうから、日本語以上に声が浮いてしまうのです。
そんなことなら、歌唱にも、フランス語のように意味がわからぬまま聞こえてくるものを使う方が、耳も声もトレーニングになるわけです。
ナポリターナやカンツォーネをよく使っていますが、そこで体で声をとらえていくという感覚を覚えていくことです。
〇反応力が問われる
ヴォイストレーニングも歌の世界も単純です。何かが聞こえてきたら、自分の心でとらえて感じます。それを自分の音で置き換えて出していくということです。(中心で声の芯を捉えます)
反射神経とか運動神経とかも大切です。
武道でもやって、ここにきた方がよいでしょう。武道は一瞬油断したらやられます。
でも同じです。そういう感覚がないから、たらたらと歌うようになってしまうのです。
体に結びつかないと後で伸びないのです。
○統一する
ヴォイストレーニングで共通しているのは、声で統一することです。
まず、ことばをそろえていきます。
「ハイ」と、体から声がでたら、「ハイ、あまい」と全部、同じところでとっていくのです。それで一つです。
「ハ イ あ ま い」と発音の練習をするのではありません。
声をとらえて、そこから発することばに音楽的なことばとしてのメリハリをつけていきます。
やりにくければ、どこかに強アクセントをつけてください。
日本のアクセントは、高低アクセントです。そのため日本人は反射的に高い、低いというのをとらえるようになっています。それが歌をストレートに歌うときに邪魔もします。
「ハイララ」も「ハイ ラーラー」と、深めたままのところで数になるわけです。
こういう音声感覚というのは、日本語のなかではもちにくいのです。
極端にいうと、私が使う「ハイ」の「イ」とかプロが使っている「イ」というのは、日本語のなかにはない深いところにあります。
音楽的日本語とは、母音を深いところで処理しています。深いところを使っていると浅くも使えるのです。
外国語にも、いろいろな母音がありますが、歌い手が使うのは一番深いところです。
深い息で体からコントロールできるところです。その上でひびいているのです。
そこを間違えるから、浮いたひびきだけをとってしまうのです。
ほとんど、ひびきの方だけをとって、表面的な動かし方ばかりして伝わらなくなります。
これは、ものまねの声です。本質がみえないため、体を読み込んで使えないのです。
○読み込む
勉強するのに一番難しいのは、体での読み込みです。
野球をみれば、打っているのも三振をしたのもわかります。
しかし、どのように三振したのかというなら、経験者にしかわかりません。
「今のは右ひじが落ちていた」というようなのがわかるのは、目で見るのではないのです。
相手と同じ感覚に自分の体をぱっと置き換えて、自分の体の動きの感覚でつかむわけです。
しかし、自分だけでチェックするのは、難しいから、コーチがつくのです。
プロのプレイヤーでも、わかっているのに同じようなミスをしてしまうものです。
歌でも、よいとか悪いとかという以前に、それを自分の体に読み込んでみることです。
ここはあの歌い手は5秒できるのに、自分だったら23秒しかもたないとか、そういうことを同じ密度においてクリアにしていくことができたならば、上達できます。
そこに具体的課題というのは必ずでてくるわけです。
するとメニューもできます。
常に新たな課題の出てくるようなトレーニングができてこそ一人前です。
これが学び方です。
〇音域と音色
音の高さからみると、音色や音域の問題はとてもわかりやすくなります。
日本人の多くは、やわらかくて薄く浅い音を使っています。
だから、10人ぐらいの日本人のゴスペルのクワイヤーに対し、
1人、むこうからきた女性が声をだすと、15人の声がとんでしまうようなことが起きるのです。
ジャズやゴスペルなどで体を解放するのはよいのですが、声がついていないと雰囲気ばかりのうつしかえになってしまいます。音が合っていればで歌えていると、日本人は勘違いしているのです。
音の高さによらず、音色をそろえるというのは、基本です。
たとえば日本人というのは、A(ラ)は「ラ」の音にあてて、その音の出し方を決めてしまうわけです。
自分の「ラ」の音はこう出すと決められ、そこから上は裏声などといわれるのです。
話している声も低いところで歌う声もまったく鍛えられてもないし、体も使えていないのに、そこをOKとします。
なぜその声でメロディをとれたらよいと決めてしまうのかということです。
それは自分の可能性を著しくなくすことです。
自分では、そのようにしてしまうから、自己流のトレーニングでは伸びないのです。
もっと体を使えるようにトレーニングをしたら、そういう声を使えたら、多くの問題は、根本的に解決するのです。
それだけの準備をするのが、真のヴォイストレーニングです。
それをやらないまま、先に音からとってしまうので、解決しなくなるのです。
合唱団をやっている人たちなど、きれいに歌おうとしている人に代表される日本人には、その傾向が強くあります。
表現を忘れてはいけません。
外国人とトレーニングをやるとわかるのですが、彼らは息が深いのです。
私の声も日本人には、低いと聞こえるのですが、音色が違うのです。
体で支えられているから、音色が豊かで、太く低く聞こえるわけです。
日本人にもようやくこういう声がよいということがわかってきました。
洋画をみると、こういう声が一般的によい声だとすぐにわかるのですが、そうではない人にとっては、太い声は慣れていないわけです。
それでも、男性の声はまだわかりやすいようです。
女性は、外国人の女優の声を聞いてみてください。好き嫌いという好みの問題ではありません。
体から声がでるのが、基本の発声なのです。
体の原理に応じた声にしていくことで、感情表現がしぜんにできる声になるのです。
○体の原理
一昔前、声楽家をみて、太っていないと声がよくないなどといわれました。
しかし、エディット・ピアフも美空ひばりも150センチそこそこの女性です。
通常、男性の方が女性の1.5倍も、肺活量がありますが、よいヴォーカリストには女性も多いわけですから、そんな問題ではありません。要は使い方なのです。
求められるのは、体の発声の原理に応じた使い方ということです。
空手を考えてみてください。私が板を割ろうとしても割れないで手を痛めるだけです。
しかし、空手家は、何枚も続けて割ることができます。
一瞬にして体の力を集約させて最大に働かせることができるわけです。
ヴォイストレーニングも同じです。
声ということに関して一瞬に集約して使える体にします。
最初から歌に必要な要素をいれるとややこしくなるから、とりあえず声ということから始めるのです。
アマチュアがプロにあわせて歌うと、細くなってカン高くなり、音色がキープできないでしょう。
音色がキープできないから声区をチェンジしたり、声を裏返して、くせを覚えてしまうのです。
体を使えるまえにそんなことを覚えでしまうから、体がもっと使えなくなってしまうわけです。
ほとんどの人は体を使えるまで待てないのです。
半オクターブでよいから徹底して声をそろえることからやりましょう。
半オクターブそろったら1オクターブ半、使えるといっています。
歌の方では、声はいくらでも動かせます。
だからこそ、発声の方で厳しくみることです。
○メロディ処理、高低を強弱でおきかえる
次はメロディ処理です。
メロディは「イエス」とストリートに歌えばよいのを、「イエス」とメロディをつけることで、間延びして歌わされて伝わらなくなる。それでは、歌っても仕方がないということです。
メロディを正しく歌うだけの歌では、退屈してしまうのです。
イヴァザ・ニッキのNON SO MAIで、つめたいとうたうところのフレーズです。
「つめたい」ということばを一つにとらえられるとしても、次に「レミファミ」とつけたときに、ほとんどの日本人は、「つーめーたーいー」と歌わされてしまうわけです。
日本語には等時性があり、どこかをのばすと同じようにのびるわけです。
「つめたい」の4つがで「レミファミ」とついているわけです。
ことばで「つめたい」と表現したのを、歌になったときに、「つーめーたーいー」とすると、表現が消えてしまう人が大半です。
音は「つめたい」となりますが、いかにも歌っているようになってしまうからです。
心も入っていないし、体も使えてない歌となって、「つーめーたーいーこーと一ばー」では伝わらなくなります。
役者であればいい切り、間をあけて伝えるでしょう。「つーめーたーいー」と伸ばしているから退屈してしまうのです。「つめたいことば」だけでよいのです。
体が使え、そこに息があったらしっかりと働きかけます。
その意識と「つーめーたーいー」ととる意識は、発声が違うまえに、感覚が違うのです。
日本語で「つめたいことばきいても」となっているところでは、音色としての音を取り出しその展開で伝えるものを最大にしているのです。
のどをあけて、体から出すという感覚にならない限り、そのトレーニングのところで、「ラララララ」とか、「アエイオウ」といっても、結果的には何にもならないのです。
日本人の場合は耳が鍛えられていないし、体を使って声を出した体験がないので、きれいに歌うほど、ストレートな表現ではなくなってしまいます。
逆です。ストレートに歌うと、きれいに聞こえるのが理想です。
歌というのは、最初にインパクトがないといけません。ただ、日本でやっているとそのあたりまえの前提がぶれてきます。外国と日本とどちらががよいのかということではなく、トレーニングで上達するのなら、そう考えた方がよいということです。
もう一つは、日本のお客さんというのは、音声の表現に慣れていません。歌については、詞の内容にひかれます。音楽性はわかっても、その構成や展開などにはあまり、入っていけないようです。
オペラ歌手がここにきて歌っても難しいでしょう。
食事しながら仲間内で歌うように育ってきたのが、日本の歌なのです。
フランスでは、地下鉄にバイオリニストやアコーディオン弾きが乗っています。
そういうことに慣れていないのは、文化の違いです。
日本では、劇場でロングランをやるにも、演歌歌手も立ちまわりなどを加えた芝居仕立てという見せを使って伝えます。日本人はビジュアル本位です。
これは「つめたい」と説明するところまでしないと伝わらないのです。
日本の文化や風土はおいて、研究所では、その前の基本のマスターを中心にしているのです。
美空ひばりさんがジャズなどで、相当、声を鋭い感覚でとっていたのですが、晩年演歌になっていって、日本風に特化しました。それはそれでよいのです。歌い手はお客さんなしには、考えられません。
ただ、そのことが先にきてしまうと、どうしても、その前の部分の、体から思いっきり使えるところが得られないから、声がよく出なくなるのです。なので、ここでは、表面的なことを取り除いて考えています。
さらに複雑なこととして、日本語の問題があります。「つめたい」とフレーズでいうには、「た」と「い」の間に「たい」、分け目があってはいけないのです。フレーズが動くには、一つにとらえないといけないのです。
正しいことは、とてもシンプルです。本物もシンプルです。
全てを一つにとらえない限り、体も動きません。
体を使うのに、ここでひびかせて、この音はここでとって、などと複雑にこなしていたら、体を入れてはやれないわけです。一つにとらえて一つに出します。
ただ、それをみせるときには、形をとって伝わるようにすることもあります。
一つにするには、ことばの要素で「た」と「い」が違うと、だめです。
音の高さで「ファ」と「ミ」で発声が違っていてもつながりません。
次にオリジナルのフレージングです。
「つめたい」というのが「つーめたい」「つめーたい」「つめたーい」と、ここに自分で自由にオリジナルにフレーズをつけ、その歌い手が表したい世界を出します。基本フレーズは、そこまでです。
そこまでのことが1曲のなかでできたときに、神様が宿ってくるか、宿ってこないかが作品の価値です。
トレーニングで誰もができるところまでしっかりと行なっておくことです。
そうすると、その上にプラスαが出てくるのです。
○プロの共通要素
特殊な教え方ではありません。一流といわれるヴォーカリスト、ジャズ、ゴスペル、カンツォーネ、シャンソンを問わず、全部に共通している要素です。
「つーめーたーいーこーとーばー」というのが、歌だと思っている人は、歌がメロディとか音程を伝えるのではないということを知ってください。それでは「レミファミミレレ」という楽譜を音に置き換えているだけです。
プロの歌い手は、この歌を楽譜でみて、「つーめーたーいーこーとーばー」とは考えていないはずです。
「つめたいことば」ということを伝えたいということのなかに、メロディもリズムも入っていて、出てくるのです。その感覚が入っていないと、出ないのです。
だからヴォイストレーニングも、こういうことからみるとシンプルです。
しっかりと声をとるということがまず一つで、次にオリジナルのフレーズにすることです。
声を正すためには、楽器がきちんと調律されてできていないといけません。常によい状態に戻せないといけないのです。息が浅くなるようではいけません。
それから出した音をどうつなげるかがフレーズです。
すると「ドレ」だけでも1時間、練習できるはずです。
そこに何が宿るかということです。
歌い手というのは、結局、音声が何かを伝える、その部分にこだわることから入るのです。
音楽というのは、フレーズの繰り返しです。一つの音をどう出し、どうつなげるか。ここでの完成度を高めない限り、1曲にならないのです。
部分ごとの完成度100パーセントにしていきます。
そうなっても、全体で100パーセントにはなりません。
だからこそ、むしろ、部分での完成度は全体を超えることです。
そこで息を含め、いろいろな要素を入れ、これというものを出していきます。
○スタンダードに学ぶ
日本人が日本人として日本語で感覚しているために聞き取れない部分が多いのです。
それを一時、外国人の感覚で学んでいきます。
たとえば外国人が日本語でやってみたら、どうなっているのだというところからわかっていくのです。
いろいろなヴォーカリストを比べてみればよいでしょう。オールディーズやシャンソン、カンツォーネとの世界にあるスタンダードを使いましょう。そこで一流の歌い手をみたら、勉強しやすいわけです。声の出し方を研究しましょう。
ロックというのは、オリジナルで、自分でつくったものを歌っています。だから、うまいのか下手なのかわからないというのでは上達しません。ここでやっていることの中心は基準を知り、それを満たすことです。
ここは、グループレッスンをメインにしています。グループで行っているのは、参加者も材料を出しているという考えからです。
歌を教えられるとは思っていません。トレーナーが体で叩き込んで得てきたことを何回も自分なりに繰り返していくことです。それがもっともわかりやすいと思います。
たとえば、プロの歌手も役者の人もいろいろな人がいて、いろいろな声の出し方をします。
「つめたい」というのにも、いろいろな声のいろいろな表現の仕方があります。
そこで基準を知るために聞き直す、そして、書き出すという作業をさせています。
書くということは、判断と評価ができるということです。ことばは、基準となるからです。
天才的な人はそんなことをやらなくてもよいのでしょうが、書き出して、そのことを明確にしていくことです。
昨年の基準より高い基準を次の年には、つくる。その繰り返しをどこまでできるかということです。
それをトレーナーにも出すことが、もっともよいレッスンでのコミュニケーションとなります。
聞いた曲に対して、本当に学べている人は、その1曲での声だけに関して、たくさん書けると思います。ことばにすることで自分が理解でき、判断基準ができていくわけです。
自分のことはわからなくとも、他人のことに対してわかるということは、いずれ自分に、はね返ってくるわけです。
特に日本人は、音を捉えての判断できないから、こうして、ことばを使って学ぶ方がよいのです。
○第三者に学ぶ
レッスンのなかで一人ずつ「つめたい」といっても、最初は自分が何を出したかわからないものです。
映像でみてみてもよいか悪いかもよくわからないわけです。
ところが他の人のどこかがよかったとか自分の心に伝わってきたとかは、わかるでしょう。
厳しいお客の心で聞くことです。そこが何らか、他人に対して働きかける声であることがわかります。
他の人は何も感じなくとも自分は感じたというのは、それはオリジナルなものかもしれません。
そういうふうなところから、自分が出したときに、他の人がどう感じているかを知っていきます。
レッスンでもどこでもライブの場であるということです。
ここで3分間、歌う代わりに、順番に1フレーズ、表現できればよい、ということでやると実践的です。
結果として音程やリズムが、とれなくてはいけないということです。
3分間あったとしても、そのうちの10秒でも、人を退屈させてはいけません。
そうであれば人前に立つべきではないと思います。
それだけの感覚、体の条件を備えるのに、実践的に少しずつでも完成度を問うた方が早いわけです。
○正しいということ
「トレーニングで力がついても、デビューできなかったらどうするのですか」という質問があります。
歌い手が歌がうまくて、まわりの人がその人の歌を聞きたがらないというのは、どういうことでしょう。
歌って、他の人たちが感動もしないし、また聞きたいとも思わない。友達を連れてきたいとも思わない。
としたら、その人の表現力がそれだけのものでしかないか、時代からずれているかでしょう。
それでは何も身についたことにならないわけです。
歌でもたなかったら、MCでも何でもよいから、とにかく人を楽しませ満足させるステージを考えることです。
お客を元気にするのが、ステージです。
CDやライブに出るということは本来は、人に認められた結果として、あるべきもので、そのことでの価値はありません。チャンスがあれば利用すればよいことです。
とりあえず、ここでさえ感動させられなかったら、外で通用しないのはあたりまえでしょう。
もちろん、日本の客はやさしいので通用したと思わされるのです。
だからこそ、ここで本当の客の基準を厳しいものと知ることです。
ものの考えとか見方というのもわかってくると、正直に素直になれます。
歌い方は違っても、声というのは、正直なものです。
発声は正しいか、そうでないかですが、間違いは、ありません。
最初は、体が使えませんから、判断も素人レベルでのよしあしで、どうにもならないことなのです。
ともかく、まずは、やれるところまでやるしかありません。
間違いが生じるのは、できる力がついて、できる人がやれないときです。
もっとしぜんにすぐれたことができるのに、やらないなら間違いです。
そのときは厳しく指摘します。
そこまでは、そういう状態もつくれません。
息を吐くとか、体を使うとか、そういうところからやっていくだけです。
よい状態を条件にまであげるのが難しいのです。☆
発声することが、トレーニングになるまでやることが重要です。
その感覚を得て体ができていたら、それがわかるので、自分の声や音で迷うということはありません。
そうなれば、しぜんであれば正しいのです。
○インパクトとパワー
ステージでの歌になると、お客さんとの関わりがでてきますから違ってきます。
シミュレーションとして、グループのなかで自分で自分を評価する力をつけていくことです。
そのためにいろいろなステージをみてください。
デビューするまでは、みんな勢いがあるのですが、デビューしてから変わってしまうのは、
メジャーでわかりやすく歌い、たくさんCDを売る必要がでるためです。
マイナーでは、インパクト強く歌い、CDを出せるように、のし上がるために歌うのです。
求められるものが違います。
こういうトレーニングの時期というのは、インパクト、パワーの方が大切です。
きれいにうまく歌うということよりも、相手に自分の存在感、
つまり、何を残すかということが問われるのです。
○声の勉強
オリジナルフレーズを勉強するのに、声が必要です。
フレディ・マーキュリーとかジャニス・ジョプリンとか、プロのヴォーカリストを聞いて、ああなりたいとイメージが全部入っていても、体や感覚がないと、まねるほど、のどをこわすでしょう。
声のことをやるなかで、イメージをつかんでおかなくてはならないのです。
体を使って歌っている人たちがどういう人たちなのかを知り、そこで出てくる声は、どう違ってくるのかを感覚に入れていきましょう。
歌が好きだという人も、たまたま、そういう歌をたくさん聞いてきただけで、世界中のものを聞いてきたわけではないでしょう。
多くの曲と接するのなかで、自分のやりたいことをみつけていけばよいのではないかと思います。
そのことにどのくらい対応できるかというのが、その人の力です。
どんな歌からでも学べます。
その歌をレパートリとして歌うのではなく、そのことから学んだことを自分の歌に取り入れてください。
最近は、ヒットするのも、ほとんどヴォーカリストというよりはタレントさんのものです。
声だけ聞いたり、ここでマイクを外して歌ってもらったら、アマチュアのうまい人と大してと変わらないから、困るのです。
カラオケの方がうまいという人たちがプロの主流なってしまうと、逆に、プロになるのは難しいからです。
生まれつきのタレント性に負うようになるからです。
日本 高低 メロディ ひびき
声―ことば 美しさ 聞きやすさ
品 古さ なじみ(なつかしい)
欧米 強弱 音色 シャウト
息―体 聞きごたえ パワー
インパクト 新しさ おもしろさ
○トレーニングの方法論
共通の要素を踏んで何が違うのかがわかればよいと思います。そこがわかれば日本人の体も変わります。
若い人がここで使うような曲を聞いたときに伴奏やアレンジが古いと思うでしょう。
しかし、今のヴォーカリスト、マライア・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、セリーヌ・ディオンなども、同じベースはもっているわけです。その基本のうえに歌っているのです。
基本のトレーニングというのは、空間を超えて、時代を超えて、共通に世界の人が理解したものを中心にすべきです。それは人間の遺伝子に働きかけているわけです。
ですから、昔のものから、その部分を勉強すればよいわけです。
それに対し、自分が何の歌をどう歌うのかというのは、別の話です。
ギターでは、「荒城の月」から入って、レッスンしてもよいのです。
それを人前で弾くことはないでしょう。好き嫌いも問われないのです。
○歌のイメージ
ここでやっていることは本当に一つです。オリジナルの声をきちんととりだして、それを体で展開することです。
そのうえで、その人に音楽が宿っていたら音楽が出てきます。
ただ、ほとんどの人に音楽が宿っていないから、歌を大音響で聞き、自分の録音も聞くようにいうのです。
サビだけでもくり返し聞き比べてください。すると、自分の細胞とか感覚が変わっていきます。
そうなってはじめて、歌になっていく声のイメージが入ってきます。
日頃、ぼそぼそと話し、音声もまともに聞かない生活をしていて、ヴォイストレーニングだけ大きな声が出せるというのは奇跡です。
まず、そうならない方がおかしいくらい、耳できちんととらえていくことです。
今のヴォーカリストというのは、音をエコーでつないで、フレーズを構成して出しているわけです。
だからマイクを外して、アカペラで歌うと表現レベルにならないのです。
歌は線でとらないといけません。「冷たい」でも「つ」から「め」にいくところのふくらましなどが大切です。こういう感覚というのは、日本人にはありません。
たとえば1・2・3・4があったら、2と4がアフタービトで、基本的に1でふみこんで2ではねかえって、4でもっとはねあがる。この部分のねばり、密度、フレーズ感というのが入っていないのです。
そういうものが宿っていないと、それを出そうという意識さえ芽ばえないのです。
しか-し、こういうのを聞き続けていたら、少しずつ体でわかってくるはずです。
要は「つ」から「め」にどういくか、そういうところがフレーズなのです。
その音に色をつけるから、心に伝わる音色となります。これの繰り返しです。
練り込むというのは「つーめたい」でどういうふうにフレーズを作るかということです。
こういう“どう動いているのか”を読んでいくのが、音楽の勉強です。
ただ、体や感覚が同じでないと読めないから、基本をやっていくのです。
理屈もそのために必要です。
ヴォーカリストも基本的には、体が楽器ですから、トランペットと同じように、音の世界で一つのものをつくり出します。ことばではなく、「タララララー」でも同じです。
ということは体を楽器にしないといけないのとともに、楽器的に使うということを覚えていかないといけません。
その上にことばがあるということです。
役者は、口ずさむ歌にでも演出して保てます。
あれは役者だからできるわけです。
トレーニングでは、そのような歌い方をする人というのは、育たないでしょう。
○変わるものは体と感覚
体を変えるということと、その体を使えるようにするということは、トレーニングによってのみできることです。
今のヴォーカリストみたいなキャラクターをもって、ああいうセンスをもってやれているというのは、プロダクションがそういうふうに育てるというのなら別ですが、そうではない限りやらない方が無難でしょう。
トレーニングは唯一、確実に変わる体に根ざすべきです。
私の友人でプロとして作詞とか作曲している人がいます。
シンガーソングライターをたくさん育てるのは無理だといっています。100人いても1人もなれないでしょう。
だからこそ、確実に変わる体の条件に負って、高度に感覚を高めるのです。
パソコンを使いたいというのもよいでしょう。それもギターと同じでツールとなります。
しかし、感覚と体なしに歌は数えません。
誰もがピアニストになれないのは、弾けてもプロと同じだけピアノの曲を聞いてきていないし、それだけピアノの曲で感動したこともないからです。そんな人がピアノを弾いてみて感動させられるわけがないのです。
それは、あたりまえのことなのに、ところがヴォーカリストのなかでは、なぜか、それができると思ってしまう人がいるのです。
できているようにみえる人は違う力で支えられているだけです。
その人に入っているものしか出てきません。いや、でできても通じません。
もし入っていなければ、それを入れるというプロセスを最大限、優先してとることが必要です。
○一流に共通するもの
トレーニングで大切なことは、声の先に何があるかを自分でみて、そこに本能的に修正を加えられるような能力です。そこから声の本当の必要性もわかるのです。
それはやはり入っていないとどうにもなりません。
そうでないと、トレーニングをしても本質からそれてきます。
カラオケやのど自慢の人のように歌いたいと思ったら、ああいうふうになってしまいます。
人は自分の思ったようになっていくのです。これをよい方に向けることが大切です。
結論からいうと、方法は、一流と比較してやっていくことしかありません。
一流と思わせる人というのは、体が人間の構造の原理にそって働いています。
そうではない限り、それ以上のことは出せません。一流になるのに必要なことを入れていくことです。
20年30年、受け継がれている歌い手というのは、そこに必ず共通の何かあるわけです。時代に合ってヒットしたということをのぞいても、すぐれたものがあります。そこに、感覚や技術もあります。
向こうでは、層が厚いのでコーラスやっている人たちの方が、声量とか歌の技術があることも少なくありません。歌っている人はヒット曲をとばさなくては、認められないわけです。それをステイタスといいます。ステージは、ステイタスで保つのです。
○あたりまえに学んでいく
学ぶことは、声のベースの部分です。
每日こういうなかで生活していて、声を出していたら、そんなに間違わないのは感覚で正されるからです。日本人があたりまえと考えていることが、しぜんと破られ超えられていきます。
そうではないのがあたりまえだと思えるようになったら、体がそう動きます。
そのイメージを自ら与えたり、作ったりすることが大切です。それにも本当は何年もかかります。2年間でそういうイメージが宿ってきたら早い方です。
最近、ここも6年制ということをいっています。2年で問うべきことを3回繰り返すようなものです。
それも人によって差があります。頑固に、自分の磨かれていない感覚と体、くせや自己流を守ると変われません。早くできたように思っても、そこで終わりです。
前年より正しく、より確実にできていく方向をとることです。
トレーニングはやれば上達するようにセットしないといけません。
声をこわしたとか、余計にへたになったというのでは、トレーニングになっていないのです。
その唯一、貴任もてるところ、保証できるというのが、体です。
体というのは鍛えれば変わるという単純な原理が、その理由です。
体は使えば使うほど強くなるし、いろいろな可能性が高くなってくるということです。
ほとんど多くの人が、歌に当てはめて歌っているだけで、そういうこともやっていません。
息も普通の人と同じぐらいで、話し声さえ同じところでやっています。
日本人のイメージする歌が、そういうものですから、そこで思ってもみないすごいのが出てくるはずがありません。だから表現力から踏んでいこうということです。必要性を強く与え使わなければ変わらないのです。
プロのヴォーカリストは、マイクをつけなくてもすごい歌に聞こえるわけです。
そうしたら普通の人ではないと考えた方がよいわけです。
しっかりと伸びた人は、伸びただけの理由があります。理由がなくて伸びた人はいないのです。
まずは、相当な量をやっていることです。それから自分に対して厳しくフィードバックして質を高めていることです。これは武道とかスポーツではあたりまえのことだと思います。
ところが、ヴォーカルの分野になると多くの人にとっては基準があいまいです。
自分がいけるところまでいけばよいのですが、すぐに伸び悩みます。そのまま大した目標を持たずにやっています。
試合があったら、油断していたら負けたとかタイムが伸びなかったという結果で出ます。
歌うことは、自分が厳しくしないかぎり、結果というのが出ません。反省やフィードバックができません。
そういう部分で本当に2年、3年で甘くなってしまうのです。それをここでは断ち切るのです。
○続けること
ここに入ってくるときには、みんな厳しい顔でやる気に満ちて入ってきます。本当に一所懸命やるつもりだったはずです。しかし、たかだか、それが2~3年も続かない。
そういう人のほとんどは、自分でやらないで、まわりのせいにします。
自分でやらないとどこにいっても伸びることはありません。
レッスンにきちんと出ないで上達するはずがありません。
今の日本人の歌が好きというのはそんなものなのだと思います。
歌の心でなく理屈、ノウハウ、肩書き、何にもならないキャリアやその世界に入ったような気分が好きなのです。
歌が本当に好きで、生活の全てになっている人というのは、必ず伸びていくでしょう。
だから最低2年間みるとしています。
こちらからは選べないのです。その人にその理由がないとそうならないのですが、
それが宿ったり発するのに、この場という環境を与えて試しているわけです。
伸びた人というのは、私がこのように話すのと同じだけのことを自分のことばで話せます。
それだけの理由もない人に、まともな作品ができるとは思いません。
ヴォーカリストの分野というのは、歌に出ればよいので、わかりやすいです。
声も同じです。声1つで、1つのフレーズでわかるのです。
出だしのところで、その先を聞こうが聞くまいがすぐにわかってしまう。だから、とても厳しい分野です。
○客の評価をあてにしない
日本のお客さんはとても寛容だと思います。
曲を知っているからといって拍手をくれたり、なじみだからと見にきて喜んでくれます。
だからヴォーカリストが伸びないのです。
もちろん客のせいにしてはなりません。
よいヴォーカリストになるには、まず、よいお客になることです。
歌い手はよい客がいてこそ、伸びるのです。
よい客の耳を持たずに、歌がうまくなることはありません。
すると日本の歌も大きく変わっていくと思います。
聞くときの基準や目的があいまいなのです。
自分の人生、時間を費やすのだから、もっと貪欲になるべきです。
お金を払った客が本当のところ、感動もしていないのに、相手の一所懸命さに拍手したり、共感したりしているわけです。そこで質を問わないのです。
本当に感動して立ち上がって抱きしめたいと思わなければ、何もしなければよいわけです。
客は、その見返りが作品の質として与えられないなら怒るべきでしょう。ブーイングも必要です。
アーティストを支えるのは、友情ではなく才能への支援でなくてはいけません。
ここが厳しいのは、あたりまえのことをあたりまえに貫いているからです。
その理由がなくなったときにはやめるつもりです。
ですから、その理由が、ここには残っていると思ってください。
○誰よりもやること
私は10年に1人ぐらいにヴォーカリスドが出ればよいと思っていますが、1年に1作品ぐらいそれなりのものが出ます。一番やった人、1パーセントくらいが本当に残っていくのは、どこの世界も同じだと思うのです。
研究用入ったらそれで伸びると思っている人がいたら、それは大きな間違いです。
伸びる環境と場が与えられただけです。
それを自分で習慣にくみ込まないとやっただけの体験にしかなりません。
学ぶための材料や人、いろいろな学び方の方法論、さらに学べる環境をおいています。
それを実際にやっている人たちから、直接得られることが、大きなメリットでしょう。
ありったけ利用していけばよいのです。
私は一般向けの講演はあまりやりませんでした。
カルチャーセンターとか地方などでも、楽して歌をうまくなろうという願望ばかりだからです。
それに賭ける心構え、姿勢がなくては、何にも出てきません。
ここでも、少しでも慢心、油断すると、そうなりがちです。気をつけてください。
○基本と基準
いくつかの材料をもとに体験レッスンをやっていきます。わからなくなったら、イメージで補ってください。
まず、日本人にないところは、声のポジションです。そこからやっていきます。
毎日やらないといけないような練習、やった方がよいことは、たくさんあります。
第一には意識です。いつもステージに立っていると思い、そのステージに立てる体をキープすることです。
そして、出した材料に対して即興で対応しながら、判断基準をつくっていくことが、基本のトレーニングです。
いつまでも先生にいわれないとわからないようでは、だめです。
「この歌をどう歌えばよいのですか」などというのは番外です。
それを自分でつくっていくのがヴォーカリストです。それがわからないときには、待つことです。
声が正しいのかとか自分はこの歌をどう歌えばよいのかがわからないときには、基本を勉強するということです。
基本を勉強したらわかるようになってきます。そのために基準をつけていきます。
○メニューをつくる
他の人を大いに利用しましょう。他の人がうまくてもへたでもどうでもよいわけです。その人がやっているのをみると、少しずつ音や声の世界の目安がついてきます。やがて自分の声はわかるようになってきます。
メニューは自分で全部つくりましょう。
トレーナーが出すメニューを自分で一番使いやすいようにアレンジします。
メニューは半年、1年後と違ってきます。
きちんと勉強している人は、自分にとって最適のメニューを常にもっています。
今日はこういう体の状態だから、何から始めて何をやれば一番、自分が歌う状態、声が出しやすくベストになるのか、わかるようになりましょう。
○ノウハウは、自分でつくる
よく「ノウハウを教えてください」と、いわれます。
本に書いてあることをそのまま、やるということのために、こういうところにきたいと思う人が多いようですが、そうではありません。
一人でやれることは一人でやればよいのです。
メニューは叩き台でしかありません。どれをどの顔に使ってもよいし、使わなくてもよいのです。
要は求められているレベルのことができればよいのです。
できるようになるためには自分でメニューをつくることです。
トレーナーが24時間一緒にいるわけではないので、自分自身が判断していくようにするのです。
こういう考えですから、ここは月に1回のレッスンの指導も成り立っています。
その力を自分でつけていくために習うというふうに考えてください。
あとは自分で思い切ってやるということです。