鑑賞レポート 966
彼がとても有名ですごいということは以"前から知っていたけど、彼の友人などのインタビューを聞いて改めてルイ・アームストロングの影響の大きさ(人間性、音楽界、人種差別などに対しての)を感じた。声を楽器代わりにする、つまりスキャットを彼が一番はじめにやったそうだ。曲の録音中に歌詞を落として、そのままメロディを歌い続けたのがきっかけ。その感覚の鋭さ、即興性には驚かされる。ルイの作品はいつも創意に満ち溢れていた。舞台でも口頭で軽く打ち合わせをするだけで、リハーサルをしなかった。
「ルイは生まれながらのショウマンだ」貧しい家に生まれ、父は蒸発、プランテーションの農場で家族の愛を焼き付けたという。決して人をうらやまない彼の母は皆から慕われていた。ルイは食べるために盗みもした。それほど貧しかったのに、彼の母は偉大だったと思う。人なつっこい性格で友人には困らなかった。あるときルイは路上で発砲。浮浪児更正施設で音楽の手ほどきを受けた。自分とはまったく違うバックグランドだなぁと思う。(あたりまえだけど)彼の歌い方や声についての印象は、とても愛嬌があり、幸せそうに歌うなぁと思った。見ているこっちが思わずほほ笑んでしまう。しゃべるように歌う、とても太く地についた声。しゃがれ声だが体のそこから声を出している。惹き込まれる魅力がある。彼のトランペットはまるで生きているようで、語りかけてくる感じだ。それから、彼は黒人として初めてラジオ番組をもち、ハリウッドに出演した。大麻所持で逮捕されたとき彼は、「人種差別の痛み止めだ」といったそうだ。
【パブロ・カザルス】
観終わった後ぐったりくるような重さ。人生が詰まっているから濃い1時間だった。画面に映らない部分が殆どで輝かしいとか格好いいとかじゃなくて痛くなるような震えるような。チェロを愛して愛されて音色が自分を幸せにする···か。老人になったとき、振り返るような人生じゃなくて一生を捧げているような。言葉にすると薄っぺらいし、本当にそうやって生きている人にとってはそんな一言でもなんか重くって。きっと。いつまで傍観者でいるんだ。音色が迫ってくる。
【エンゲルベルト・フンパーティング】
このエンゲルベルト・フンパーティングのライブ映像を見て、実際のヴォーカリストに対する断片的な知識を吸収することができた。具体的には以下のようなことを私は感じた。
シャウトのときの声がとても自然な感じであった。また、シャウトのとき、マイクを離すというテクニックも見れた。
声の質として、落ち着き(丸み)と厚みという印象を受けた。
ハードな曲を歌おうが、ムーディでスローテンポな曲を歌おうが声の強さ、大きさ、印象はほとんど変わらず確固とした自分の声というものの存在が感じられた。
やっぱり歌というものがつくり出す一体感(お客さんとの)は素晴らしいと改めて思った。
最も印象に残ったのが、ライブを通じてのヴォーカリストの体力の重要性である。ほとんど休憩なしで1時間以上もあの声量はすごいと思った。
ステージ実習の課題曲で「ラストワルツ」という曲があった。なるべく自分自身のフレージングにしようと練習していた。そんなとき、たまたまエンゲルベルト・フンパーディンクのライブ盤のCDが手に入った。「ラストワルツ」を聞いて「ハッ」とした。とても新鮮な音の取り方だった。正直いって私の貧弱な音声イメージでは、彼のアルバムバージョンのフレージングをほんのちょっと変えたぐらいでしかなく、これ以上どうやって変えられるのかと思っていた。それを軽く吹っ飛ばすようにフレーズを動かしていた。アルバムバージョンとまったく違っていた。曲調テンポはほとんどアルバムバージョンと同じだ。音を動かすということは、できる人にとって見れば自由で楽しいことなのだろう。私は、まだまだ音を動かすことに不自由である。
【ジョン・コルトレーンの世界】
ここまで一流の人というのはやはり精神的なものをどんどん追求していく人だ。音楽の魅力にとりつかれて夢中でうまくなろうとしていって技術もどんどん得ていくのだろうけど最後にはやはり「音楽は悟りの手段であって目的ではない」といっている。「何のために~」という質問をいつもしているけれどそういうことなんだろう。そのなかでモンド音楽という音楽が紹介されていたが、そこでは「同じリズムを繰り返すことで聞き手がある種の精神状態に入る」というのがいわれていたのが興味深かった。頭を外す体で心で感じるということ皮膚の感覚とかいわれるものと似ている。またコルトレーンは「いつもよりよくなろうとする。やってしまったことは次の日には用はなくなるというような人」「誰もがすぐれた何かをもっていると信じる。それを自分の耳で確かめる」「音によって真実が具現できるか」という言葉を人または他人によって残している。とにかくジャンルという狭い枠を越してより広いところを宇宙をみていた人だったようだ。
【モータウンアポロ劇場】
モータウンのアーティストはみんなよく体が動く。ダンスといったように洗練された動きの人ばかりではないが、音楽に合わせて体を動かして楽しむことがごく自然にあたりまえのようにできている。声についてもいろいろなタイプの人がいた。4人組のグループ(名前は忘れた)ので低担当らしき人がいたが、メチャクチャ深く低い響きを持つ声であった。日本のデュークエイセスやラッツ&スターの低音の人とは比べものにならない。深く豊かに共鳴する声であった。
スティービー・ワンダーのような声質の人も多かった。スティービーの声は今まで薄くて頭にばかり響かせている声という印象があったが、とんだ浅い聞き方であった。体から振り絞って声を出しているのがわかった。声質にだまされてはいけない。彼の歌のなかのフレージングを聞いてみれば薄い声でないことはわかるはずだ。私は、どちらかというと深く低いような響きの声に魅力を感じるが、結局その人の魂がうまく乗っていれば声質は問題にならない。声のことはさておき、最近オリジナルのフレージングについてよく考えている。後半に出演前半の)した白人の若いアーティストが「Over The Rainbow」を歌った。ジュディ・ガーランドと一つも同じような呼吸ではなかった。完全なオリジナルのフレージングだ。しかも感動的に歌い上げていた。同じ曲なのにこの違いは何だ。結局それは、彼のなかの豊かな音声イメージのなせる業だ。しかし、彼のような豊かな音声イメージを創り上げるには、どうしたらいいのだろう。
福島先生がよくおっしゃるように「音と出会う」経験を数多くしていくことに尽きるのだろうか。つまりは、一流の音楽をひたすら味わっていくことなのか。他には何があるだろう。確か、会報にも福島先生のレッスンのなかの言葉として載っていたことだが、スタンダードナンバーをいろいろなアーティストで聞き比べるというのも具体的で有効な聞き方だろう。私は最近これに凝っている。中には、オリジナルアーティストよりもつまらなくしてしまう人もいるが、たいていはアーティストの個性が出ていたり、ときにはオリジナルアーティストを超えるような素晴らしい仕上がりになっている。オリジナルのアーティストでさえ外国では、ライブのとき、CDとまったく同じフレージングもしないことが多いように思う。自由自在に音を動かしている。
[レイラ・ハサウェイ]
ジョー・サンプルBandで見た。空間にのびてゆく声はミルバがささやくときの空気のところや、季節の変わり目の空気の香りや肌触りのような。きらめいた金属や陶質の肌触りではけしてない。ふーっと吹かれているような。何の作為(つくりものの)もないレイラの人間性が一つひとつの歌詞の語尾まで柔らかく優しく、そして本当にいとおしく“音”という確かに存在する“存在”になって在る。少し冷たくなったり、鈍感になっている“心”を手にとって“音”という息でほうっと包んでくれている。何も押しつけず、何も押しつけがましくなく求めず、何もつきつけず。だけれどもその声は、音の空間は、超一流の確かに存在する作品になっている。同時に人の心が求めずにいられないほどのいとおしい存在になっている。技術や音楽としてはもっともっと私の耳の能力があればとてもすごいものである、ということだけは今でもわかる。深い深いもの。次元の高いもの。外側の「こんな感じの「もの」ということや「こういう技術のもの」というところをマネしようとしてもけして近づくことのできないもっと根本的な存在。自分の声を自分の音楽を自分のなかに戻してやって裸足で歩き始めないとその存在にはなりえなかったもの。自分が自分であること意外にはたどりつけないところ。CDの何倍もすばらしいライブだった。もしこれを聞けなかったとしたらまずかった(←よくわからないが、とにかく)なというものだった。腰や背中に感覚の芯に入り込んで今も毎日流れ続けている。、
[カルメン・マキ]
聞きに行きました。はじめデビューアルバムで寺山修治監修の~時には母のない子のようには内への入り方の深さにビックリして違和感を覚え、OZになってからの“閉ざされた街”は和製ロックにしてはなんて歌詞明瞭だと感心しましたがもう一つピンときませんでした。OZのデビューアルバムの“六月の詩”を聞いて初めて彼女の内面にとても興味を覚えました。現代が病んでるといわれて久しいですが、インターネットのホームページ、Eメールにしても浅い情報が多く、深さや実直さが嫌われ、ムリのある軽妙さが重んじられます。研究所もそうです。ここでしか求められない深さがある、浴びられないシャワーがある。真撃さがある。時代錯誤でいて、かつ新しいのです。皆気づかなくとも本当は本質的に求められているものです。話はそれましたが、RAGは天井の低さと手狭さが昭和40年代の映画みたいでワクワクしました。
マキさんはとっても“イケて"いました。春日博文さんのギターとクリオさんのピアノとのアコースティックだったのですが、今回拾いものがピアニストの“クリオ”さん。体で弾いている体化している、スタンダード(正攻法という意味で)だと思いました。日本でのつの基準と思いました。シンプルでゴキゲンな音楽を奏ってくれる。もとい、おそらくは40代の音楽や詞の世界が私のなかにも入ってたみたいで発見でした。どうしたらああ歌詞明瞭になるのか、激しさというより堅くて静かな彼女の世界。声を抜いたり転がしているときもベースがきちんとあるのでちゃちくならないと感じました。声の迫力もライブの方がだんぜん感じるものがあったし英語詞も体に身についていてとってつけたところがなくて、日本語→英語にうつるとき同じ言語なくらい自然でした。こんどバンドのライブも是非行ってみたいです。私はあんな迫力のあるおねーちゃんにはなれないけど憧れです。最近あまりカンドーしてなかったので久しぶりにカンドーしました。