一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 6761字 967

レッスン感想 967

 

“読み込めている”“体”“感覚”の差をとても痛感した。確かにこれまでも声のことなど全てにおいてそれを感じていたんだが、どこかで“歌えている”という甘い基準を自分のなかで作ってしまっていた。今回、いい意味で落ち着いてレッスコンに取り組みと根本的なものが何一つとして変わっていないことに気づいた。ない日息を吐いていたので強くなっていたつもりでいたが、方向に誤りがあったようだ。1回1回の質よりもある程度の回数をやることに満足を得ていた。だから「質」を求めたトレーニングをめざすべきではないのか。たとえば、息吐きのトレーニングというのはもっともっと深いところでコントロールし体(横腹、背筋)を使うんじゃないのかと(自分が考える以上のところ)。今のままだといつも同じところでつまづき、同じ課題から永久に抜けられずにあっという間に5年、10年の時間を使ってしまうだろう。しかしながら、そういったことをわかっていながらも歌えてしまうために先を急ぎ、甘い基準をつくり自分を肯定してしまう。そう考えると“素直な気持ち”があるということは芸事を習得していく中で、不可欠なものであると思えた。自分の力をしっかりと認める素直さ、小細工を考えない基本の基本から取り組んでいく素直さ、年下の人、年上の人、先輩、後輩などどの人からも学ぼうとする素直さ。こういった謙虚な姿勢の上にこそ、トレーニングが成り立ち人の心を打つ作品が生まれてくるんだろう。「一所懸命」「素直」「一途」「一心」忘れてしまっていた。

 

Ancora Ancora Ancora 出だしで音の世界に入れるかどうか。

「Ancora」のなかにも幹となっているところ、絶対に離してはいけないところがある。

3回目の「Ancora」の音色の変化、そこで何が起こっているか聞きとる。

 

perche io da que lla sera 出だしのフレーズ(Ancora)よりも、入りやすい(感覚を体と気力でカバーしやすい)ところ。確実に自分が入れるところから入っていくことで感覚をつかんでいくこと。

 

honho fatto piu la more senza te「la more senza te」のフレーズの感覚で母音だけでいってみる。

「la re se te」母音をつなげて線にする感覚をつかむ。でしょう。

「senza te」だけやってみる。スピード感がない。声というより、集中力、気力、感覚の問題。結局、言葉がいい切れるか、ということ。「ハイ」というときのように「senza te」がいい切れない。「se」「za」「te」で入れていない。

 

言葉がグイグイグルーヴを生みながら流れていくようなフレーズでとてもこの曲は気持ちよかった。でも、自分がだしているフレーズは相変わらずこういううねりは出せていない。フレーズを大きく捉えることができずに細かく細かくとってしまう。小さくなればなるほど点がいっぱいできてしまい(フレーズ内に)そのなかでの動きの自由度がなくなる。これは音として体で読み込んでなく、言葉をいおうとしてそこの流れさえぶちぶちと切って出してしまっている状態でここをもう一歩深く体で聞けるようになればもっとおもしろく楽に動かしたり試したりできるのではないかなと思うのですが。

 

たとえば発声のチェックの場合、ハッとかラーラーラーなどと体と結びついているところで声を出すときとかは、あ、今のは違うとかチェックしやすくわかりやすいので、次はもっと長めにとかいろいろとやれることもあるのだが、それがパッとフレーズとかでやったときには体と離れてバラバラになってしまうので、まず元に戻す作業が必要になるのだ。だけど音として体に刻み込まれると自然と体の方がついてくると思う。構成がみえないのはいきあたりばったりになって先の先まで感じてないから、出す方がそれを感じていないと聞く方はもっと構成が見えない。もっと大きく捉えること。

 

「~motibi di Jazz/ウーナー」この箇所でも、はっきりここの展開が変わる前の一瞬の間のような部分。でももう次のフレーズが始まっている(意識のなかでは)というところは自分がそう出してみて、それがその通り一致して聞く方にも伝わるようにしなくてはいけない。まずこうやって出そうとやってみること、。

 

And like in the future you'll see Jay again my friend,ho。くやしくて涙が出る。

スピード・切れのよさ・思いっきり・バラードとは違う・しゃべる・音程つけない・押さない・力まない・勢いで・全部いう・体からいう、考えるな・感じようともするな・やれ・のれ・しゃべれ(6/23.H.WB01.覚前)

 

ああ、また甘ーくなっていた。ものまねくんになっていたとは。体を使いつつ、気持ちを入れる。その上にしか歌などな上い。覚悟。ムラのある精神を切り換えるくせ。胸を開いた状態。音と心は一体。音がダメなら心もダメ。心がダメなら音もダメ。あたりまえが真実か。ときどきやるとかやれるときもあるとかそのうちゃれるとか思っているところがある。そんなこの真実なワケないぞ。統一。

 

半オクターブに全ての課題があるということを改めて感じた。全てを強調するわけじゃない、どこにアクセントを入れるのか、どこで伝えるのかがポイントであり、その人の個性、センス、フレーズ回しのなかで、「要は出たものが聞き手に心地よく届いていればいい」「複雑にしない。シンプルに」というのがよく出てくる。体のこと、息のこと、声のこと、そういったところに8割近くの神経がいってしまっている自分は最も大切な伝えるという作業への意識が大きく欠けている。それらはその場でどうこうできることではない。今日、急に息が吐けるようになるわけではないし、声がよく出るようになるわけもない。だからその場でやらなきゃいけないことは何なのかということをよく考えて、与えられた課題に向かうこと。もっともっと汗をかくぐらいの集中が必要だ。

 

「アー」だけのフレーズ、殆ど手も足も出ない状態になってしまった。伸ばすんじゃない、大きく出せばいいってもんでもない。どうやっていいか本当にわからなかった。こういったシンプルな課題ほどそうなってしまいがちだ。小細工したら、すぐにばれてしまうのに見事にそれをしてしまった。見本のヴォーカリストをまねているだけ、上からなぞっているだけで、もう一つの課題も同じことがいえる。自分のなかに今回のフレーズに対して反応できる引き出しがないということを思い知らされた。口先だけの歌の世界で何かを出そう、伝えようとしているから人に届いていく歌が出てこない。心が動く、感覚が反応する状態を日々のトレーニングで完全につくり上げてこそ、レッスンの場、ステージの場いわゆる人前に立ったときにできる可能性が生まれるんだろう。場にきたときに、あれこれと考えたり、焦らないだけの自信をトレーニングのなかでたたき込むしかない。

 

ゴスペルと世俗的な音楽との違いをいくつか感じることができた。VTR中のインタビューで、世俗的な音楽が個人的な表現であるのに対してゴスペルはもっと大きなもの、内なる神に働きかけるといっていた。確かにゴスペルの方が世俗的なそれよりも、もっと人間の普遍的なものを表現しているかもしれない。気取りがまったくないし、歌っているときは体、感情ともに限界まで高めて使いきっているが、つまりそれは体、感情ともに神に捧げているという印象を受ける。体を使いきるということは、それだけで説得力を持つものだなあと思った。それはゴスベルが他の尾音楽よりも深く大きく体を使いきってことからもよくわかる。しかし、働きかける対策や純度が違うとしても、ゴスペルからはPopsやRockにも通ずるような、歌うということの芯の部分をみることができる。何より捧げるという精神がそれだと思う。歌っているときの体、心、時間をその相手のためにプレゼントするということと考えると、感情を伝えるにはこれ以上の証明はないのではないか。

 

芸術の基本は賛美なのではないかと思う。詳しく知らないが、ゴスペルが神を讃美するのに対して、世俗的な音楽はその対象が広がったり具体的になっているように感じる。中でも一番大きなものは人間に対する讃美ではないか。人間が喜び、怒り、哀しみ、笑い、美しく、また醜く、悩み、それでも生きて行かざるを得なかったり、また在るときは死にたくなったり、またあるときは生きる素晴らしさをかみしめたり、迷ったり、それを解決したり、愛したり、助けたり、助けられたり、逃げ出したり、踏みとどまったり、そんなものがそれぞれ美しく、全体として人間はもっと美しく、その魅力を讃えようとしているように感じる。もちろん人によって人生に対する感じ方は違うので、個人的な表現にはなるだろうが、表現欲の基本には何らかの美にふれたときにそれを讃えたい気持ちがあると思った。

 

Ancora Ancora Ancora Perché io quella sera Non ho fatte pini amore,senza te

まずAncora Ancora Ancora、この3つでどう盛り上がっていこうかとか、もう先生に指摘された通りに考えていた。AncoraではなくAncora。雪葉に慣れず詰まったところもあったが、はじめのうちは声がうまく捉えられず外れてたと思う。Senza teのところでのばしながら、それを確認しようとした。軽いてはいたがまわりからはどんな風に聞こえるんだろうと思った。声を発し、それを聞きながら動こうとしている。発してみるまでわからないからだ。一流の人もそれはあると思うが、どれくらいの瞬間で感じとり、次へ繰り出していけるかの差。

F1レーサーは当然走りながら前後左右に気を配りつギアチェンジしながらハンドル操作もし、残りのガソリンや対やの消耗のことまで考えているんだろう。考えたら止まってしまう。感じることだ。Ancoraとか感情込めようとして(というか雰囲気出そうとして引いてしまうクセがたまに出る。

 

「声の大きさ」ではなく「声の速さ」が大切、というコメントが心に触れた。くりかえし書く。seraではなくsera。ブリブリ、バッチンはこれだ。これのことだ。スキーやスケートの“エッジを効かせる”ということであり、ジャンプの踏み切り。ポイントを絞る。シンプルに。強迫をつないで線にする。シャープにいく。集中すると魂(意識)の速度は上がる。点が集まって線になるというが、その音の密度がぎゅっと高まる。ライブでカーッと集中した瞬間にだけ出会える声がある。それに近い声がレッスン最後のフレージングで出てきた。これだ。このテンションでレッスンに臨まなけりゃしょうがないのだ。

 

キーが合うかどうかが問題でもあるのだが。曲に合わせてリズムをとるとき、ベタ足ではなくつま先立てて、かかとでバネをつけてはずませてやるとそれが勝手にリズムキープする。それがまた動きを捉えつつ別の動きにも対応できる状態になることがあるのだが、ライブの瞬間に全身がそうなるような感覚になることがあって、そうなると強い。迷いがなくなる。在日外国人の日本語は思わぬ単語の組み合わせがあって、簡単(やさしい)だけれど重要な単語をストレートに使うから心に引っかかるところがある。単語のスキ間にイメージがわくから、たまに詩的であったりする。フレージングをシンプルに、強拍でつなぐというのも、つまり聞き手のなかにイメージを生じさせるということが大切。全部いわない、押しつけない。うまくいえない。

 

今日やったところは基本的な部分。オルネラ・ヴァノーニを使って学んだ。課題の曲以外に彼女が歌った他の歌を聞かせて下さったが、どの曲も彼女色になっていた。彼女は声量で押していくというタイプではなく、独特の表現によって世界をつくるタイプだと思う。フレーズ、構成、語るような表現などは彼女独特のもので、他の誰でもない。自分のフレーズを考えたとき、あそこまで変化させて、それでも自分のものといえるフレーズができるだろうか。だが、今回のレッスンではまず基本的な部分の差をわかるために彼女と同じようにとってみようと思った。Ancoreを3回繰り返す。1回目から2回目、そして3回目の深さ、この変化がまるで出せない。上体が固くなる。ノドの調子がよくない。

 

Ancore3つでもう間が持たなくなってしまう。次に入り方。perの「e」にスパッと、しかも深く入る。このなめらかで、深く、鋭い線が出せない。そこからioでさらに深くもぐる。体が固くて深くもぐれない。l'amoreでスパッと切れて、Senza teの「e」ヘスパッと入る。息と体、そして声の一致がないとできない気がする。体で「やってみよう」と動かしても声も息もバラバラなので声がついてきていない。迫力、そして体が戻る力がまったく違う。先生が「2倍、3倍やればおいつけるのではなくて、20倍、30倍もやらなければいけないほど差があることをわかってほしい。」というようなことをおっしゃっていたと思うが、きっと自分には見えていない部分でまだまだ差があるんだと思う。でも、本当に歌は1曲から全てが学べるんだと思った。あとは、それをどれだけ自分が学べるかだ。

 

今まで感じられなかったことで、見えた部分がありました。“胸のなかには”のところで先生に“こう歌っている”と示されたところで、本当に声に石が入っているのだということが感じられました。体でつかむのは、まだまだ時間がかかりそうですが、“とにかく耳で”感じられるようには···と思っていたのですが、このレッスンから後、"本当にうまい”といわれている人の歌はしっかりと歌詞が聞こえてくることがやっとわかってきました。

 

最近はやりの和製ロックなどは何をいっているのかわからなくて、メロディだけが聞こえてくるのですが、日本人でも上手な人は歌詞がしっかりととんでくるのだなと思いました。これが体と心がついているということなのか~とは、何とか感じられるようにはなりました。あとは自分の体で感じられるようになることがテーマですが、1.まず何が課題かを把握し2.体をつくる3.感覚・音の世界をよんでいくこれを忘れずに、日々トレーニングしたいと思います。

 

先生のレッスンは、それよりはライブのような感じで捉えています。「一つのレッスンで全てを出している」と仰っている意味が最近少しわかったような気がします。だからできるだけ先生の業(わざ)を盗めるように最大の集中をもって話を聞き、音を感じているつもりです。レッスンが終わると悲にリラックスしてしまうので頭がフラフラするほどです。それでもレッスンを生かせていないのではないかと思います。まだ自分の中身を出すことに恥じている、恐れている。たぶん、自分を出し切ることが最大のテーマになることでしょう。本気で取り組んでも、心のタガがはずれたと一瞬でも、それを感じられることはとても少ないです。「もしかしたらだれも聞いてくれないかもしれない」「思いきりやったら、きっとケガをするぞ」そんなマイナスの心がどこかにあるのです。それでもだれも聞いてくれないから、もっと伝わるように叫ぼうとする自分のスタイル(大きな意味での)があることも事実なのです。込めはやり「声のでない理由を自分のなかに作っている」のだと思います。

 

「Tu Sina cosa grande pe mmeすてきなこいびとあなたのひとみには」声の動きを捕まえる→イタリア語(原語)から音の動かし方に入る方が入りやすい←原曲をよく聞く。

 

“できない”ことより、自分の“感覚で見えてない”ことの方がヤバい。

後で動くように押さえているか。(=バットにのせて運ぶ感覚→飛距離を出す)「すて」この2音だけでもどう動かすか。どう動かしたらいいものかまったくイメージできない。

 

細かいフレーズをどうやって投げて流して動かしていくか(但しいったんつかんでおいてから)楽器(ギター)を弾いて表現する場合だったらどう演るかをイメージしてみるのも手。

今は好みでなく、自分の体の原理から出てくる正しさ、感覚を優先する。「一点で捉える」

まず自分で作らないで捉えているか。ガッチリつかんでいるか。

そこからでないと動かせない(自分からはみ出していなければ正解=自分のもの)

“デッサンの沢山のアウトライン”そのなかで“決めのライン”を見つける。