【レクチャー】972
ー
基本レクチャー
学び方
とりくみ
ー
「基本レクチャー」
声で一つに捉えてから展開するという感覚は、日本人が勉強してもなかなかできない感覚です。しかし、海外で歌っている人なら、ほぼ普通にもっている条件です。
日本人は上っ面で聞いて、うまいとかへただとかいっているだけで、体を読み込むことができていないのです。
息や声が浅いからです。
ヴォイストレーニングというのは、体を読み込んでいかなくてはいけません。
それを自分の体に移し替えていくのですから、ある程度、息を吐いたり、同じような体にしていくというのが、一つのベースになります。
たとえば、素振りをやっていたら、何かこれは正しいというような感覚がでてきます。ひとりよがりではいけないので、プロのやり方をまねるというところから、入っていくことです。
しかし、よく外をみて、外から内を見ないといけません。
勉強していけばしていくほど、何度もわからなくなる深い世界です。
誰でもすべてのヴォーカリストの体が読み込めるわけではないのです。
日本人は同じような声色ですが、ヴォーカリストの一人ひとりの声には、色がついているといえます。
そこまで向こうの人は声を聞いて創っているのです。
フレージングでは、自分がイメージしたものを楽器としての体として声を取り出していけるようにしていきます。
音楽の世界というのはどこなのかを、これからいろいろな曲で聞きます。
向こうの人たちは息と声がつながっています。
体が強くなった分だけ、声量も、声も拡がるわけです。
日本人は息を捨ててしまっています。
だから、子供が「お母さん」と叫ぶときの表現に負けてしまうのです。
そこまでのことを歌でできない人が、なぜ歌えるのでしょう。
伝えたいものを伝えるから表現になるのです。
歌は、それをきちんとまとめあげたもので、そのときに高度の集中力が問われます。
よりよい楽器にしていけばいくほど、自分の精神力や集中が必要になってきます。
ジョルジアの音楽的な部分を、声でできる日本人は、稀です。
ほとんど、ことばをメロディのところで処理が終わっています。
(ジョルジア「Bridge over the troubled water(明日にかける橋)」
世界では、音楽的な処理の部分ができるようになると、10代でもすぐれたヴォーカリストが出てきます。
向こうの人たちは、1オクターブをポジションを変えずに出すことができます。
皆さんの場合、バラバラになってしまって、伝わらなくなります。
体のなかにすべて入れなくては正しく出てこないのです。
私のレッスンでは、フランスやイタリアの歌も使いますが、音声をしっかりと捉えて表現できればよいのです。
しっかりと音の世界を見ていくということを勉強し、音の世界がどこまで見えていくか、
そして、それをどこまで出せるかということです。
(タミア「You put a move on my heart」)
彼らは、体ができている上で、やさしく声を出しているのです。
時代的に音楽も変わってきて、声の強さをアピールするだけではなくなっているからです。
しかし、彼らの歌を支える条件は昔から変わっていません。
声があるところに声を巻き込んでいかなくてはいけないのに、
日本のヴォイストレーニングは、その音にあてていくことを目的としているのです。
低いところができないのに、高いところが出せるわけがありません。
声が出て、声域があればうまく歌えると思うのかもしれませんが、それではただの楽器です。
演奏しなければ、音楽は生じません。
こういうものは、自分で判断していくしかない世界です。
プロデューサーの耳も、残念ながら日本ではあてにならないことが多いです。
向こうの人たちの歌うスピードでは、日本人は啓語を扱えないのです。
皆さんがやろうとしたら遅れます。音に体がついていないからです。音に鋭く反応できないからです。
ここでやるときは、今までプロでやってきた人もいったん白紙に戻してください。
ここでは、昔のいろいろなジャンルの曲を使いますが、それを歌うのではなく、それを踏み台に、自分の感覚を変えていくことです。
甘い環境のなかにいては、できなくなっていきます。
自分の環境を守ることが大切です。
(「ギターよ静かに」)
ヴォイストレーニングをしている間に、感性が鈍くなっていく人も多いのです。
最初から歌が始まっているという歌は、単純です。
歌は歌おうとしていくのではないのです。
伝えようと思ったときに、敵が出て、声が出ているのです。
だから、それに対応できる体と心を、つくっていくしかないのです。
その扱い方をトレーニングで身につけしていくのです。
歌を教えられないというのは、その人がどう歌いたいかということをはっきり出さないといけないからです。
それにはフレージングが勉強になります。
(「ラ・ノヴィア」(村上進))
自分の体の条件ならどこまでできるかを試しましょう。
単に声だけが出ているような歌は、やる必要がないと思います。
彼の「アヴェ・マリア」の「ア」「リ」の声のポジションは、日本人の「ア」や「リ」では、ありません。
ポジションがとても深いので同じところでいえているのです。
切れ目がわからないでしょう。これが線なのです。
(「私は知っている(ラ・ノビア))
どこをどれくらいのばすかといったことは、教えられるのではなく、自分で決めていかなくてはならないのです。
役者の世界でも、プロにまじってやって、声で見劣りするくらいなら、最初から勝負になりません。
だから基本をやっていかないといけないのです。
しっかりと役者のトレーニングをやった人たちが、どうして音大を出た人たちより声が通るのかということを考えてください。役者というのは、表現に対ししっかりと実地のトレーニングをしているからです。
ことばをどう使うかということも学ぶ必要性があるのです。
ヴォーカルのように、バンドでごまかせない分、厳しいのです。
もちろん本当はヴォーカルもバンドでごまかされるべきものではないのです。
(仲代達也の語り)
全部、声を聞かせないで相当、息をまぜています
。最初は、体を使って全部、声にしていくところでトレーニングしていたのが、やがてこのように自由に動かせるようになってきます。息が入っていないもの、止まっているものは、表現として成立しません。
ここでは、2~3年目になってくると、音の感覚のなかで、音をつくっていくようなことを勉強します。
音の世界に入っていかないと、声が働かせないのです。こういうものを聞いて、そこで捉えられている音の感覚から息を聞くことです。
(仲代圭吾「私の孤独」)
日本人はこういうものを音の響きで覚えていくわけです。
ここでは、1フレーズを一つにして読むことを最初に勉強します。
自分のイメージをまとめ、自分のものにするため、音の世界というのは、それをどのようにおくかということです。体や息を使うということは、体をシンプルにしなくてはいけないのです。
歌がうまい人というのは、人の何十倍もやっているのです。
才能という前に、人の10〜100倍やっておくことです。
そのときに何をやるか、ということが問題です。
メニューを発見し、つくり出していくことです。それを通じてものごとをシンプルにしていくことです。
ここの基本的な考え方やここでやっていることは、シンプルがべストということです。
学ぶ姿勢と、学び方がよくわかっていないときには、プロと何が違うのか、考えてみればよいのです。
そして、その差を埋めるために自分をどう変えていくかが全てです。
それは決して、彼らの作品をまねるのではなく、姿勢を学ぶことです。
だから教わるのではなく盗むのであり、こなすのでなく、つくるのです。
技術よりも精神が問われるのは、まさにそのためです。
それでは、質問に答えながら話を進めていきたいと思います。
ここに来る人はそれぞれに目的も違いますし、年齢も多様です。
ただ、10代でアイドルをめざすような戦略はとらないということです。
自立したステージをもっていないと、表現などできません。
ことばに関しては、日本語はのどへの負担が大きいので、音楽的な日本語を扱えるところに体をもっていくしかありません。
声の基本を見るには、よい例です。
今の歌には音響加工が複雑に入っているのでわかりにくいのです。
ステージでも、コンピュータが制御しています。
曲は編集もされていないような時代ので、1テイクの曲から学びましょう。
ーー
【学び方】
新入ステージを見ていると、歌や声で表現をする理由というのを、まだ見つけていないようです。
自分の才能が向いているかどうかということは考えないでスタートすればよいのです。
しかし、トレーニングのプロセスにおいては、それを明らかにすることが前提です。
それが見えて、歌へのトレーニングが成り立つのです。
私の本やレッスンでいわれたことにきちんと入らないと、本当のトレーニングは成り立たないのです。
それには自分の基準をきちんと持つことです。
今どこにいて、次にどこにいくのか。最終的にどういうものをつくるのか。
でもほとんどの人が、その話を聞いたときに、もう終わったと思っている。
自分の身に、きちんと移しかえていないのです。
創始者というのは、大体、それほど間違っていないのです。
外国人にしても、シンプルに歌っています。
それを日本に持ち込んだ人も、そんなに間違っていなかったでしょう。それが日本のなかでは、歌はクラシックを弱めたポピュラーのようになってしまったのです。
クラシックの要素のうち、限定をはずしてより自由に表現を変化していくべきです。それをよい方向に向け、強めたのがポピュラーなのですが、そういうものを受け継いだ人たちが、日本の第一線にいて活動してきました。
残そうと思うこと自体が、おかしいのです。
そもそも正しく残すためには、創始者を上回るパワーが必要になります。
できるだけ、一人で考え、それ以上のものをつくる方向に意識を向けておいて欲しいです。
どういうふうに聞き、感覚していくのかということを、音の世界で捉えていくことです。
日本では、それが不足しています。
アティテュードの問題、音楽性のなさ、声や体のことに関心はあっても、歌うためには音楽性に裏づけされていないとよくないです。。根本的な心地よさを見つめた表現を出していくことです。
最近、入ってくる人たちは、アテンダンスを書く力が弱いです。まともに書けているのは、2割くらいです。
3年後にここにいて、きちんと歌えている人は、それをきちんと書いた人です。
それも基準となり表現になっていくのです。
歌や声を使う自分があって、歌い手の条件があるわけではありません。
自分のなかにある条件を、音楽や歌にもっていくのです。
音の世界をわからないうちは、声が出るようになっても歌えません。
声は長くしっかりやっていたら出るようになります。
ただ、音楽というのは入れておかないと間に合いません。
そのときに入れようといっても無理です。
音楽というのは、好きでもないものを何度も聞いていると嫌になってしまいます。
しかし、何かしら、心が動くこともあるかもしれません。
知識の世界なら、机の上でできるのですが、音楽は受けとめる主体の感覚によるところが大きいのです。
だから時間で条件が必要です。
研究所では皆があまり聞かない曲を取り上げています。
自分で音楽をつくりあげていこうとしている人は、いわれなくても自分で聞いています。
歌い手や表現者は、歌や音楽が好きでなくともよいと思いますが、素直に聞くということが必要です。
プロがアマチュアと違うのは、自分が何をやっているのかわかっていることです。
アマチュアの場合は、歌が好きとかいうことでやればよいのですが、プロは歌が練習の素材となるので、純粋に聞けなくなります。だから心が必要なのです。
そのことを私はずっとやっているわけです。
たくさんのものを聞けばよいのではなく、そこから何を得るのかの方が問題です。
いろいろな気づき方があるのです。
才能の差は、気づき方の差です。気づくまで続けるために、自分のことを知らないといけないのです。そして、一番よい学び方を自分で見つけなくてはいけません。アイデアが必要です。
自分の作品にきちんとしたものをつけるためには、アイデアを出し、取り込まないといけません。トレーニングも、練習方法も、アイデアであふれていないといけないのです。
そこで気づいたことで、感覚を変えていくしかありません。
自分でやってきたことを体系づけ論理づけていくと、先にどうすればよいのかがわかってきます。過去のことをいい加減にしてしまうと、先のトレーニングが組み立てられません。
J-POPもよいかもしれないですが、次の世代に残るものがあるかと考えたときに、難しいのです。それなら国が違っても、30年以上、聞き継がれているものにある力をきちんと勉強する方がよいのです。
本当に、一流といわれるものをきちんと見つめ続けることです。ここで使う曲をそのまま肯定しなさいということではありません。しかし素直にそこに入ってやることが大切です。
日本のポップスの世界が成り立たないのは、クラシックと違って、誰も批評しないからです。バンドに関していう人はいても、ヴォーカルへは、セールスのための紹介しかありません。
それも音の世界で評価されるべきなのです。
ただ自分がわからないものはわからないなりに認めてしまおうという度量も必要です。
すべてをわかろうとしても知識の世界ではない。新しく作っていく世界です。
「のどが弱い」というのは、弱いということを知ってトレーニングしていけばよいのです。のどか弱いからトレーニングをしようと思うわけです。それはとてもよいことです。
まず、無駄にしゃべり声や話し声を、あまり使わない方がよいです。
鼻歌を歌うのも、楽器を弾くことも、すべて声帯を疲労させます。
声楽の人でも、歌の練習をしてからピアノの練習をします。それだけ、のどは疲れやすいものです。
声を痛めないためには体を柔軟にしてよい状態でやらないと、痛めてしまいます。
初心者の段階では、しゃべることも声をロスすることになります。
トレーニング前のロビーでのおしゃべりなどは愚かなことです。
しゃべる前にも、柔軟にして息を流して、リラックスしてやるとよいと思います。
声量そのものより、聞いている人にどう感覚されるかが重要です。息の量や肺活そのものとはあまり関係ありません。メリハリのつけ方で変わってきます。皆の体は、まだ充分に使われていないし、もっと鍛えたら力はつくのです。腹筋も息吐きも、たくさんやっておく分、有利になります。
痛みというのは弱いところにきます。でも、あまり気にしない方がよい場合が多いです。
高音や低音では、大きく出さなくてはいけないということではないです。それから、共鳴させられないところに息を吐いていては、たくさん息を吐いたからといって、より振動するわけでもありません。
マイクを使うときは、息を吐きすぎるとマイクにうまく入らなくなります。
息をより深くして、深い声を見つけていくのが根本的な解決です。
気づいたときには、息を吐いたら声になっているというふうになります。
表面だけをとってもよくないです。。とるところを間違えないでください。聞こえるものしかとれない人のなかには、声がよく出ないからという人もいるかもしれません。
フレーズの中心に一本の線があることに気づいてください。体で聞くとわかってきます。
それが無理なら、息で聞く。それが無理なら、声をどう使っているかということで聞いていく。
同じポジションがとれないと、同じことをやろうとしてもすぐにのどがあがってしまいます。
でも、できるポジションはあるはずですから、どこか一ヶ所でよいから、楽器的に声を使えるところを見つけてください。
そうして、体でそれを操作する感覚というのはどういうことなのかをみてください。
イメージや感覚を間違わなければ、体はそれに伴ってきます。ただ、待てばよいのです。
声が出やすいようにつくっていくことです。
体の原理にそって、何らかの理屈がついているのだと思えばよいのです。
時代や客の求めに応じて変わってきている部分もあると思います。
歌やヴォイストレーニングのなかへ入って、ただ、浸ってしまうと、わからなくなってしまうので注意してください。基本をやるときにどこをやるかということです。響きの前に私は芯があるべきだと思うし、それをやらないと、あとでどうしようもなくなってしまうから、先にやります。
体をつくって、次にやるところは息や声の部分です。歌い方はその上に出てくるものです。
だからといって、音楽や歌を聞かないでいると、イメージがついてきません。
しかし、自分の声に対して5~10年後の明確なイメージをもつことは不可能でしょう。
そこで、いろいろな歌い手の声を参考にこれが好きだとか、こういうふうに歌いたいというふうに見当をつけていくしかないと思います。
トレーニングをするために、目的をもつことは必要です。
向こうの人は、シンプルに捉えて、遊んでいるように音の世界を作っています。
楽器で考えると、よくわかるのです。声の表面や音程だけをとっていかないことです。
入り方から体の感覚でできていくことです。
ーー
【「とりくみ」入①】
すぐれているところとそうでないところを見分けてください。この歌でパヴァロッティはあまりクラシック的な歌い方をしていません。集中力だけでなく、体の差(息や筋力)があります。
出だしのところからきちんと音を入れてフレーズをつくること、そのフレーズを作ってからがそれぞれに問われることです。
「ハイ」ということばがきちんといえること一つでも、その集約度がまったく違うのです。1フレーズ作って、そのなかでより完成度が高まっていくことと、それが少なくとも1分はもたないといけません。パヴァロッティと同じレベルで3秒、出せるか出せないのかからです。型を覚え、それをくり返すことにより、どういう条件が生じているか、何ができて何ができないのか、ということをわかることです。ただ闘うよりも、そこに型がきちんとあった方が戻れる分、進歩するのです。何もわからないという人は、とにかく体だけでも強くしていったら、こういうものがわかりやすくなると思います。
(パヴァロッティ「マンマ」と「カルーソ」)
クラシックのフレーズ感で、そこに声をかぶせています。張って出せるところは、出しています。カルーソは、完全に投げ出して歌っています。
ポップスでは、その要素が問われます。きちんと握ったあとにどのくらい放せるか、はずせるか、ということです。クラシックは遠くまで声をとばさないといけないので、語尾も母音までもっていって、響かせています。それに対し、カルーソはマイクを意識して歌っています。
(ミーナの「カルーソ」)
ミーナで参考にして欲しいのは、体の強さです。向こうの人たちは体が楽器であって、そこから出てくる音色がことばになっていったり、語りや歌になるという感覚でいるわけです。
日本では、音の世界の場というのがなかなか形成されないため、わからないのです。すぐれた芝居というのは、音声も歌も踊りも、同じところから出ています。声があとでわかれて表現をとったものですが、基本は一人の人間の体から出していくものです。その基本を学ぶことによって、原点に還れば、よいのです。人類の体のなかに共通なものを見いだし、そこからそれているものをとっていくことです。
お客さんの期待度にどこまで応えていくかということはその次です。目で見えるものは比較的わかりやすいので、日本ではダンスなどもうまくなってきました。
この間「王女メディア」を観たのですが、主題歌が流れてきても、音声がまとまっていないのです。語りでずっと進むのですが、そのなかでも音声がまとまってこないと、どんなに動きや踊りをつけても、作っていることがみえて、観客が入っていかないのです。まず役者が入っていかないといけません。そのために、誰かが音声のなかに空間を集約させていかないといけないのです。
音声をきちんと扱える人が役者には少なくなって、最近は観客に伝えるために、かすれさせた声を少し浮かせて出すという日本独特の発声法をとっています。
音声というのは、その場その場で変わってくるし、誰かの音声を受けて次を出していくところで呼吸が一つにならないとダメなのです。つまり、ハーモニーの感覚が必要です。
この曲のなかで、ミーナはコーラス的な歌い方をしています。
(「デボルベーネ サイ マタント ターント ベーネ サイ
(ミ♭ラ♭シシーシ♭ミミシシbレ♭シシ♭ーラ♭ミ♭)」)
この歌い手のところで歌おうとすると離しいのですが、単に楽譜として与えられたら、そんなに難しくないでしょう。歌詞も音のつけ方もシンプルです。
歌を歌のなかで歌おうとすると、いくらやってもきりがないのです。いろいろなことを考えて、つめ込んで、小細工しているようにしか見えなくなるからです。
歌というのは、自分の音声がきちんと出て、ことばに化けてみたり、強弱がついたり伸びたりしていくのです。自分のなかの感覚が変わらないと、こういう曲を与えられたとき「歌いあげなくてはいけない」と思ってしまうのです。その時点で、すでに違っているのです。
もっと自分のことを知ることです。自分のことを知っていたら、このフレーズを出したときに、きちんと合ったキィやテンポで出さないといけません。それがわかっていないというのは、音をバラバラに捉えているということです。
この一つのフレーズを、パッと自分のベストのところで入れなくてはいけません。ミーナなど、一流の歌い手は、一つに握り、それを出すということだけやっています。音楽が入っているので、フレーズになっていくのです。ことばが何であれ、音色として伝わるものを出していってください。
集約度や集中度を出せない人は、こういう場で少しでもできている人から学んでいってください。トレーニングの段階では、何も働いていないものを動かしていくわけですから、相当のパワーが必要です。今やったレベルのことが、より集約してこないといけません。その人の気が音声を通じて飛んでくるのを見られているのです。音の強さや大きさではなく、音のインパクトやスピードなのです。
三上寛さんに似た歌い方の新井英一さん。こういった歌い方には、作品の質はともかく文句はつけられないのです。オリジナルのフレーズがあるからです。自分の声の使い方をよく知って、自分の呼吸にきちんと合わせて歌っていて、音楽を自分の方に引き寄せています。しかし、一歩間違うとかなり危ないでしょう。ここまで深められた人でないと、この歌い方ではひとりよがりになってしまいます。
こういう場合の曲によってよしあしがハッキリと出てしまうのです。きちんと歌えている人が、必ず踏んでいるルールを見落とすと、学ぶ上で不利になると思います。
日本の場合、一曲の集約度がまだ足りないし、必要度も感覚で裏づけされていません。そういうものを取り込める体や感覚にするために、今買うすればよいかということについてはやはりよいものを聞き込むということくらいしかないのです。
ミルバやミーナのように、常にトップを維持している人たちが、必ず共通して持っているものは何なのかということを学んでください。歌のなかで歌っていると、その歌を覚えなくてはいけないとか、音に届かせようとか、どうでもよいことにこだわるようになってしまいます。2~3年はうまくならなくともよいから、器をきちんと広げておくことです。根本の部分にあるもの、それが何なのかを感じていってください。日本では、音声に関してきちんとみれる人があまりにもいません。それは、一番高いものに基準をおいて点数をつけていくしかないのです。
その人のなかに音楽が入っていて、それに対応できる体があるかどうかがすべてなのです。歌を勉強するときに、音程やリズムがとれないというような問題は、出てきてはいけないのです。それを必要として分散してやっているから、おかしなことになるのです。最初に、できるだけ広くみておくことです。そしたら、全てが統一されできます。
一つの点に対する集中力や、体の違いがなければ、人前に立っても何もできないでしょう。それを常に持てるということは、その人が自立していないといけません。
歌をうまくきれいに歌おうとするのは、まだ外から見ているのです。なかに入ってから取り出して歌えている人はとても少ない。そういう人は、苦労していないのです。苦労が出ているようでは、苦労が足りないのです。しゃべっているように歌えてしまっているからです。それは、自分のことをきちんと知っているのと共に、音楽というベースが生活になっているのです。表情や体の動きから見るとよいと思います。
自分の体を楽器にして、自分の心のなかにあることを取り出しているだけで、歌おうとか歌い上げようとか、外のものに対してアプローチしているわけではありません。音を生じさせて、どうつないでいくか、というのが音楽の世界です。そのなかにいろいろなルールがあるのです。
まずは自分の呼吸とセリフをもっていること、その上に声をおいていくことです。そこからフレーズの方向性が出てくるのです。日本の場合、そのときに形式美や構成というベースがないので、向こうの感覚で捉えた方が上達が楽だと思うのです。逆に、そういう感覚がないから、日本人は声に関しても苦労するし、フレーズをつくるときに体がきちんと動かなくなるのです。体のことを読み込んで、感覚で展開できている人は少ないと思います。
フレーズをやってみましょう。最初は「ハイ」です。
音の世界のことは考えないで、体から音色を出せばよいと考えてください。歌うときでも、日本人は感覚を外において、それに体を合わせようとしています。まず、自分の体を整えることです。歌を離しく歌ってはいけません。その代わり、その分絞り込みが必要になってきます。それを自分と合わせるのです。
(「ハイ」)
声を出すことで、体や感覚をつかまえる勉強をしましょう。歌ってみて、何か足りないというふうにフィードバックすることです。だから、より集中しなくてはいけません。体を開いて、一番よいものがとり出せるという状態が違うのです。声をやっていくことによって、それが直っていくようにします。
悪い方にいってしまったらよくないです。。体にイメージを教え込んで、体が一番バランスよく働いていたら声になる、ということを感じることです。それから「ハイ」を使うことによって、バランスを体に覚えさせていくことです。
(「ハイ ハイ ハイ」)
100点満点としたら、30点を3回くり返したというくらいです。そこで集中力ももっていないし、声のコントロールもできていません。3回に分けたために、力が分散してしまっています。基準は厳しくとっていかないとよくないです。。一つのことができていないから、間違ったことが生じるのだと思ってください。
(「ハイ テ」)
体で感覚を発していかないといけないのに、その音やことばをとろうということを優先してしまうと、そのなかでやって全体の動きは全部、止まってしまいます。これでは、歌に結びついてきません。歌は声やことばを伝えようとしているようにみえても、ことばや声を使って、その下にある想いや感じたことを伝えているのです。
音声の練習というのは、その下にあるみえない感覚を読み込んで、体をその状態にして、結果として、音が出ている、その結果として声になる。さらにその声が結果として、変化してことばやメロディ、リズムが生まれるのです。
「ハイ」を使ってやるのも、「ハイ」というのが目的ではなく、そこで出てくる自分の音色や感覚、音の世界が大切なのです。感覚としては、3つの「ハイ」も一つに捉えるのであり、「ハイ」を3つにつないでいるわけではないのです。動きのなかに、体や息を巻き込んでいきます。音の動きや音がどういうふうになっていくのか、そしてそれは息とともにいろいろな形態をとるということを知ってください。
一つの課題としで、一つの線でつながれたものがここに出ているのだと考えてみてください。音楽が入っていなくてはいけないというのが一番、難しいことだと思います。人の千倍くらい聞いていたら、何をやっても音楽になると思います。そういうものを学んでください。
(「ハイ テ」)
それがもっと変化して、集約されてこいなとよくないです。。音として止まっていたらよくないです。。声のなかに何かを感じて、そこに何を入れ込むかということをやっていかないといけません。声が大きく出ても、音楽で使うためには、より整えなくてはいけないのです。なかにあるものを読み込むことをやってください。
(「テボリョベーネサイ(ミ♭ラ♭シシーシ6ミ)」)
点で考えないことです。「テ」のところでいろいろな変化をみせられる可能性が出てこないといけません。自由を与えるために、型としておさえていかなくてはいけないのです。きちんと戻れるところをつくっていくことです。自分が思う通りに歌えばよいのですが、その想い方がずれているということに気づいて正さないとよくないです。
人のいうままに正していたら、そのうちわからなくなります。直観を磨いて自分の判断力をつけていくしかない世界です。そういったことを勉強してみてください。
今日のレッスンでやったようなことがくずれていたら、あとまで直りませんから注意してください。音楽を聞き分けていくと、そこには必ずルールのようなものがあるのです。学ぶときにはルールや形をあるだけ使っていった方が、気づきが多くなるし、自分のやりたいことがはっきりしてきます。
何もないところだと、うまくなったような、なっていないような感じのままで、作品がよくなりません。ステージサイドに早く立って、つくり手の側から見ていくことが、上達の秘訣です。