課題曲レッスン 973
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桜の花とリンゴの花
愛の別れ
イルモンド
アルディラ
パリの空の下で
愛は君のよう
ル・ネオン
素敵な恋人
黒い鷲
青色のジャバ
ある日恋の終わりに
兵隊が戦争に行くとき
ビナリオ
遠い街
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「桜の花とリンゴの花」
(「はじめてキスした日のおののき
(シ♭ミbソシ♭ラトラトラbソファド シbソフアミ♭)」)
自分の声がどう好きなのか、そのイメージについていろいろ考えましょう。
当時の人の鋭い感覚を参考に、自分の感覚を知っていくことです。
感覚が変わって体が変わるというのがヴォイストレーニングですが、プロの感覚からくんでみてください。
こういうフレーズの詞は抽象化して語ればよいのですが、ただそのイメージは深く持っていないとテンションが低くなります。低く弱く、ゆっくり出したときにもたなくなってしまいます。
決めるところをバンと出して、その余力で他のフレーズにつなげるというふうにしてください。
(「えださしかわす さくらとリンゴ 春の花たば 折りなす庭に
(ラトラトラトラトソソソ ファファファファミ♭ミ♭ミ♭ファファファファミ♭ミ♭ミ♭ レbレbレbレbドシド)」)
誰のどこの部分が音楽になっているのか、またことばとして聞こえてくるのか、またそれ以外のものはどこがダメでどうすれば直せるのかを見てください。
たいてい頭の方が動かしてしまい、体が動かないのです。体で決めていかないといけません。
意識したときに、うまく流れなくなってしまいます。
でも歌は、意識的にある瞬間に入らないといけないので、難しいのです。
どこまで期待に応えながら、期待を裏切って新しいことを起こしていくかということです。それが合っているかどうかは、こういうフレーズですぐにわかります。
どこか3つだけでも歌えたら、他は位置づけられてくると思います。
こういう曲の歌い手は、私がいう声の条件を満たしていますが、その声の通りに歌うのではなく、どこか変えています。声も体もいつできるかわからないのだから、そういうものが自分で出せたときにどう出すかということを考えるとともに、今できることをうまく取り入れていかないといけません。
どう歌をつくるかという、アウトプットに対しては、必要な分の声や声域があればよいのです。
その前提がないのにトレーニングは成り立たないし、集中力も出てきません。
(「今もまためぐり来る 思い出の春を さくらもりんごの木も花咲く
「シ♭ミ♭ソシbラbソラ♭ソファラ♭ー シ♭ドレドシbラbソシ♭ー シ♭ミ♭ソシ♭ラbソーファドー シbソファミ♭ー)」)
この手の歌に我々は慣れていません。しかし、スタンダードな曲です。動かないものを与えられたときに、どう動かせばよいか考えてください。
ここの場合は、まず一つの声をしっかり出させていますが、いろいろなやり方があります。
しかし、全部を浮かせていくと、弱くなってしまいます。
そのへんは、自分で作っていくようにしてください。何もなければ入れるしかないのです。
魅力的な歌にすることがヴォーカリストの力です。自分を出すというより、この世界を出すことです。スタンダードを歌うというのは、そういう意味で難しいです。
一つの曲でフレージングを徹底してやっておくと、他の曲で考える時間が少なくてすみます。
自分でできていると思うことが、一人よがりになっていることが多いので、こういう曲で確かめるとよいと思います。
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「愛の別れ」
(「ラビータ コンティネラ イルモンド ノンシフェルメラ」
(ファラbソ ラbラ♭ソソ ソシ♭ラ ファソシbララ)
最初の「ラ」は日本語の「ラ」でよいです。「ビータ」にアクセントがあるので、そこにはやくもってこないといけません。
「ラビータ」だけでやってみましょう。
「ビータ」で単に長く伸ばすのではなく、加速度をつけて踏み込んでいるのです。
全部強くやってもよくないです。。一気に踏み込み、突き放さないと盛り上がりません。
(「ラビータ」
ファラ♭ソ)
3人くらいはこの速度についているけど、あとは遅れています。
ハンドルの切り方が遅いのは、3つで捉えてしまっているからです。
「ター」と伸ばすのはよいのですが、それより前に落とし込んでおかなければならない。
均等に音をとるのではなく、音の速度を優先してください。
見本では呼吸が大きいので大きく見えるかもしれませんが、相当、抜いています。
もう一度、フレーズを回しましょう。
(「ラビータ コンティネラ イルモンド ノンシフェルメラ」)
フレーズになると、計算も働かなければいけません。
それぞれの人の段階があってよいと思いますが、ある程度、呼吸がわかる人は、間ということを考えてください。
つまってくると、歌としてもよくないのです。ですから本能的に回避します。
次のところをやってみましょう。もっと単純にして、つかむところはつかんでください。
(「ノンペンサラメ イルソレノンシ スペネラコンテ」
シ♭ーララソソ ソラシbシbラ ラソソ ラシb)
強いところで3つ押していて、その前後で曖昧なことばが引きずられるようについているととるとわかりやすいです。歌えることより、感じをつかむことが大切です。こういうのが、9つに聞こえていたらダメなのです。
そのまま歌のなかに出すと、もっとバラバラになってしまいます。
リズムのメリハリに関してはなるべく単純に捉えてください。
これでは「ノン ラ テ」というのを3つつなげて、一つで聞こえていながら、3つにも9つにも聞こえます。こういうのがメリハリです。そのためには、線がバラバラしていたらよくないです。。
いろいろな声がまじっていたら、つかめないし、体も使えません。
いつも「ハイ、ハイ、ハイ」といっているところで「ノン ラ メ」というのです。
そのときに呼吸を相当、動かさなければなりません。このくらいの長さなら3つくらいで捉えられるはずです。
捉えられないのはオリジナルな声の修練がしっかりとできていないのと、感覚の欠如という問題です。雑に捉えすぎています。
むこうの人は「イル」などという1音で最後までもっていってしまえるのです。
「コン」で入れても「ラー」で入れてもよいです。
呼吸と体の動きを感じてください。ことばだけでもよいです。
(「イル ソレノンシ スペネラ コンテー」)
条件を同じようにしていくと、自分がもたつくということがわかると思います。中途半端なのです。
強弱のアクセントというのは、ものすごく引きつけなくてはいけません。その速さを知らなければよくないです。。
そのあとにすぐ放す。それが歌のなかでは日本人はとても不得手です。
普段の生活に入っていないからかもしれません。手加減しないことです。
やり方を間違えれば壊れてしまうかもしれませんが、やってみないことには何が正しいのかもわかりません。課題におちてこないのです。
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「イルモンド」(ソシ♭ラ)
「イ モド」くらいで捉えてください。(ソシ♭ラで上下)
次は「イイイー」(ソシ♭ラ)でとってみてください。
(ソシ♭ラで上下)
「イーッ」とひろがってしまわず、「イー」と出せるところで出してください。
その前は「アンケセ マイピューサロフェリーチェ」
(ドシ♭シ♭ララ ラシ♭ドシ♭)というのがあります。
「アー」であまり伸ばしすぎないでください。
いったときに、ことばで聞こえて、メロディがついていればよいのです。
(「アーンケセ マイピュ サロフェリーチェ)
意識は先にいってもよいのですが、リズムと音をおいていかなければ始まりません。
いい加減すぎます。音色でもっていかなければいけないところが、バラバラになっています。
「アーン ピュ リーチェ」という感じに考えてください。
おいていくのができたら、そのおき方と、そのなかにどういう動きを作っていくかということです。
伝えることに意識がいっていないとよくないです。
もっと動いてくるはずです。今はのっかってしまっている感じです。
(「アーンケセ マイピュ サロフェリーチェ」)
つくり方としては、「リー」という難しい発音の部分をくずさないことです。
そうしたらその前に「サロ」をどうおくかということだけでしょう。
「ノンペンサラメ
シシ♭シbラ♭ラ)」を回してみましょう。
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「アルディラ」
(「アルディラー デラボルタ インフィニータ」
(ファソラ♭ ラ♭ラトラ♭ー ラ♭ラシ♭ー))
(「アルディラー デラボルタ インフィニータ アルディラー デラビーター」
(ファソラbー ラ♭ラbラ♭ー ラbラbラbー ラ♭ラ♭シ♭ ラ♭シ♭ドードー))
(「セ アディスト テネバイ」
(ミドドシシラ))
(「エキアティラィ イルソロモメント」
(ミシラシー ミ ミソソbファファ))
「ライ」のところを、つっぱなしてやるとよいのです。
「イルソロモメント」で入り込み、曲調に戻すようにしてください。
「ラィ」はどのように表現してもよいと思いますがその前後を同じ呼で歌うわけではないのです。
「エキャティ 」には幕開けの役割があるわけです。前半と後半の時間の感覚は明らかに違うわけです。
ブレスしないでもっていってもよいのですが、「イル ソロモメント」のところで、小さくするのではなくしっかりとおくことです。
「3つでわけて」などと頭で考えてやると、バラバラになってしまいます。
力の配分を5対5くらいにして、ダラダラやっていたのではよくないです。7対2くらいのものです。
正しくテンポを刻んでいても、どこかのところで盛り上げ(突き放し)、戻さなければいけません。それを感じれば感じるほど、スピードがなくなったり、何も考えないで歌ってしまっている人がいるようです。
体のある人は、それなりに使い分けをしています。
ひっぱらなければいけないというのは、絶対条件です。それからひっぱった分だけ、待たなければいけません。
展開を頭で考えてはよくないです。。体でやらなければいけません。
こういう人たちは、最初から最後まで目一杯、歌うことができるのですが、どうしてそういうことをしないのかを考えてみましょう。そういう勢いが消えないでやっています。
こういう音色を出すのは、アイデアです。
発声のなかに出てくるわけではないからです。皆さんの場合、こういう音色を聞くと、呼吸を小さくしてしまうのですが、そうではなく、意識や呼吸は大きくして、声だけ小さくしているのです。
皆さんがこのスピードとひっぱりでやると、だいたいの場合、リズムがはずれたり音を取りそこなったりします。それ以上を捉えようとする感覚と、声をしっかりとしなければいけません。
こういう人たちを近くで聞いていると、何をやっているのかよくわからなくとも、とても強く出しています。
だから、録音してみるとしっかりと聞こえてくるのです。思い切りなげているようでいても、メチャメチャにやっているわけではないのです。基本のカでおさめ、コントロールしているのです。
前に出していかないと表現になっていきません。
日本人にないところを勉強すると一番歌いやすくなると思います。
家でやるときは、「イイ」や「ララ」でやってみるとよいでしょう。
うまく出ない人は、レガートを使えばよいでしょう。実際にやるにはなるべく遠くに飛ばすようにしてください。自分の身をもって飛ばした方が、結果的にきれいに聞こえてくると思います。
(「レコゼゴナ シューテ ディ シューテコンメ
(ミーミミ シシ ラ ドドー ラシー)
1オクターブいい切れる声があるというのは、そういうことです。
イザベル・アジャーニは、「ロダーン」
といい切れて、君い切れるところに強弱がつけられるから表現が入ってくるのです。
自分でなるべく遠くに投げ出したり、拾ったりしてください。
1オクターブでそれをやることが基本の練習になります。
それだけでは音楽が宿ってこないから、まっすぐに出すことは重要です。
拾った分だけ、自分で構えて、捉えなければいけません。歌い手にはその両方の感覚が必要です。
打球のスピードはそのときそのときで違うので、自分で何回もやって、何が不自然ではなく、寸法にあっているかということを考えなければいけません。ぐーんと手元で伸びる球を投げることです。
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「カンツォーネ」
盛り上がってからは1オクターブないです。
拾えるところで拾ってみてください。
(「アラビ レピネ ティ ウナ アモーレ
(シ♭シシラ♭ラ♭ミラ♭ーラ♭ー)」)
日本語訳もありますが、最低限、原語のニュアンスをのこしてもっていきやすくしています。
ミルバの呼吸について、「クォーレー」の後に、どこで入るのかというのは、歌い手の体の寸法でやっています。
勝手に抜いて歌ってはいけないのです。
(「クォーレー アラビネ
(シb シ♭ーシ♭シ♭シラ♭ラミ)」)
「クォーレー」の後に呼吸をとっていますが、さきほどまでとはまったく、違う呼吸です。
これは後をもたせるためにかなり速く入っています。伸ばすだけが能ではないというのがわかります。
日本の歌い手には最後だけ目一杯伸ばして、あとは聞かせないようにする人もいます。歌い切ってしまう歌は、伸ばさない方がスッキリします。
(「クォーレー・アラビネ・ティ・ウナ・アモーレー
(シ♭シ♭ー シ♭シ♭シラbラbミラ♭ーラ♭ー)」)
基本的なことをやりました。普段のレッスンは、音楽性や応用力をつけるためにやっているものですなるべく早い時期に簡単なものでよいから、音を動かすということを知らなければいけません。音を聞くだけではいけません。動かそうと思ったら、聞かざるを得なくなります。
ことばやことばを1フレーズにメロディにしたくらいでおさえておくことです。こういう曲になると、簡単にはいきません。
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体の問題というのは、声量や声域の問題よりも、もっと別の面で現れてきます。呼吸に敏感になることです。
それから前に出さなければなりません。これは音楽、セリフに関して、表現が前に出ていなければ、そのなかにいくらあっても、しかたないのです。前に出るようにつくっていかなければいけないのです。
歌っていて、自分が気持ちよい歌い方と人に伝わる歌い方が一致する人までには、時間がかかります。
違う部分もあります。基本になったら、それはそれで、厳しくチェックしなければいけません。
イタリア語でやるのは、日本語を深めるのによい方法です。声楽家もイタリア語からやっています。
音のもっていき方を学んでください。
映画でも何でも構いません。自然と音楽性を帯びるように使われていることばだからです。
そこでどう動かすのかが大切です。こういう曲は、そんなにメロディや音楽性に頼っているわけではないのです。ヴォーカルがいろいろともっていっているわけです。
皆さんが同じことをやってみても、体を使うだけで終わっています。
ミルバは、真正面から歌っているので、何を歌ってもミルバのフレーズになっているのですから、まねをしてもできません。しかし、そういうセンスも勉強してみてください。
女性ヴォーカルばかりとりあげました。向こうの女性は、声も体が強いので、男性は同じ音域くらいで学べばよいと思います。
基本に戻れというのは、耳で聞いて、同じことができない以上、学ぶことがあるということです。できないときには、まだまだ聞こえてないものや、わかってないことがあるのです。
基本の条件を踏まえたコピーができたら卒業すればよい思います。
踏み込んだのち、自分の呼吸を知り、それを使い分けてください。こういう曲の呼吸を学んでください。
使い分けるというのは結果で、それは表現する意志についてくるものだと思います。
表現が単調になっていると、声も呼吸も単調になって、違った道にいきます。
自分の歌と、こういった曲とで生命感や迫力を比べてみればよいのです。結局は音の世界です。
自分の感覚さえ磨いていけば、知覚できる世界なのです。
すると楽器としての間題だけに、いきつくわけです。
そこまでは、トレーニングでクリアできるところです。
演奏時間を短くし、声域を少し下げれば音楽的になるのは難しいことではないはずです。
1フレーズ、2フレーズがつかめないから先のことができないのです。
初心に戻って、レガートやスタッカートをどう出すのかということを考えましょう。
いつも、10パターンくらいはすぐに考えつき、そのなかの一つを出せるくらいにしてください。
日本語は日本語でフレーズ練習の意味はあると思います。
昨日、美空ひばりさんの番組をみましたが、彼女の場合、息ではなくて、全部ことばに変換されていますから、まねて浮かせた声をとっていっても、基本の勉強にはならないでしょう。
でも、そこに流れる情感を含む音や、フレーズ、呼吸、表現や裏声、話し方、ステージなど、学ぶ要素は、たくさんあります。
初心者には音のなかに声を融合させて、どうおいていくかというのは、アマリア・ロドリゲスやメルセデス・ソーサなどの方が学びやすいと思います。
日本語でやると、それてしまいやすいからです。
体が腰から動くということを感じてみてください。日本語と外国語のポジションはまったく違います。
声として出すことは一つです。たった一つのことをやるためにいろんなことが入ってくるのです。出すときに一つでないと、何をいっているのかよくわからなくなってしまいます。
曲は、あたりまえのつくり方(盛り上がって終わる)ということで、それを1オクターブのなかで拾っていけばよいと思います。
音色とリズムで、単純に捉えてください。細かく捉えすぎて、全部均等に歌うよりは一曲一ヵ所でよいといっています。それを捉えられたとき、複雑なことをやっていることになります。
自信ができてきたら4フレーズくらい続けてやってください。
そのなかでまた、組み立てなければいけません。
自分で音を変え歌いやすくすればよいのです。自分が音として一番完成させられるようにメニューをつくってください。練習のときにそうやっておくと、後で調整のために使えます。
自分にあう曲やフレーズ、ことばをみつけておくとよいと思います。それをやっておくと、他の曲が歌いやすくなります。勝負できるところを見つけるとともに、自分の欠点がわかってきます。
他の人ができるのに、自分ができないことを知るのが一番、勉強になります。それはやはり、感覚から違うのです。その人がどういう感覚でとっているのかというのを読み込んでください。
たとえばしっかりと「い」という母音を捉えて表現している人がいます。その「い」というのは、どういう「い」なのかということを頭だけで考えないで、自分でくり返している中で考えてください。
それは、しっかりと「はい」と出しているときの「い」と違わないのです。
なのに、浅く出してしまうからできないのです。
声優についての特別講座をやります。Change of paceなどせりふのなかで行われていることと、歌のなかで行なわれていることは、音程を除けばかなり共通するのです。ことばをどう変化させられるかということを、日本語より深いところでやってみましょう。
日本語はあまりリズムのないことばです。日本語を音楽的に使えるようになりたい人は、ことばの読み込みを徹底して行なえばよいと思います。
演劇を見にいくとうまい人10人のなかに、声だけでも用する人が1人くらいいます。それは聞こえ方がまったくうのですぐわかります。そこを勉強するのが、ポップスの場合、基本です。
いろいろな音楽をやるとき、歌詞をよむとき、そのなかに音楽性が出てきたり、強調された表現が出てくるはずです。そういうものに敏感になってください。
なにも歌は歌のなかだけで勉強するわけではありません。
こういうフレーズは皆さんの場合30分くらいが限度で、1時間もやると、次の日に調子をくずしてしまいます。
ですから、まずは、ことばでしっかりといえる時間をとって、その上でメロディをつけたらどのくらいこなせるか、あるいは声が出る状態をよりよくつくっておくということが大切だと思います。
この次に参加する人は、詩を一猫ほど覚えてきてください。空でやっても、みながらやってでも、よいものが聞ければいいと思っています。ただ、練り込まないと出てこないでしょう。
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「パリの空の下で」
(「パリの空の下にひびく ンーン 歌は若い 息吹をのせ
(ドファソラシ♭ドシbラbソファミレb ドーシ♭ド ミフアソーラ♭シ♭ドシ♭ラ♭ソファー)」
発声上、ひびきでもっていってもよいのですが、「く」のところでポジションを確認することです。ここで「く」が浮いてしまうと、もっていけなくなります。上に当て抜いてしまうハミングはそんなに難しくないのですが、深いところでのどをあけてやるのは難しいと思います。
このフレーズのなかで一つか二つ練り込んでいって、次の動きを作ってください。当然ながら、「パリのそらの」と「パ」「そ」を強くする日本的なアクセントとは違ってきます。2音目、3音目でぐいっと伸びていくのです。3拍子にもアフタービートのような感覚が必要になります。強拍にくる音が伸びるようになっているので、比較的もっていきやすいと思います。
歌を重さの感覚で捉えて、最初にきちんと練り込んでおかないといけません。
そういうものと音色、感情が、きちんと曲の動きに反応するということが大切です。
(「パリの空は、セーヌ川の
(ソラbソファーファーファー ソラ♭ソファーファーファー)」
日本人は二つの音があると、高低アクセントで処理し、ハッキリと口を動かして発音します。そこで、入るのが遅れるわけです。向こうは、強弱アクセントで処理し、息でもっていくのです。
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「今、ぼくは」は、「今」にアクセントをおくのでなく、「く」にアクセントをおくのです。
この場合でも、「空は」を先に作っておいて、それに「パリの」をのせるだけなのです。
日本人の歌い方では、「空は」のところで間伸びしてしまうので、ひきつけられないのです。
それは、その人のセンスでもあるのですが、人によって規則性があります。
聞こえるものを、まず自分のなかで拡大して受けとめておく。そこに体を使っておくことです。
一曲になったら、その上で全体を考えて調整するのです。
(「ノートルダムのあたりでは ぶっそうだけど どうにかなる
(ドラファミミミ ドラファミ♭ミ♭ミ♭ ドラファレレレ シbシbソbレbレb)」
音程を理屈で考えると、「ノートル」「あたり」「ぶっそう」が同じで、「どうにかなる」が少し下がります。
感覚で考えると、「ノートルダム」は明るく、「あたでは」は少し暗くなるわけです。
この曲は、全体的にマイナー調でマイナーなイメージで終わるはずです。
そういうふうに感覚を修正していけばよいでしょう。
ー
「愛は君のよう」
ことばや曲で捉えるまえに、イメージで捉えてください。イメージを創らなければいけないときは、入ってくるイメージの奥の感覚のところまで取りにいくことです。一端入って、構成して、自分のスタンスを決めて表現することを感覚でやるのです。
カラオケで失ってしまうものを、きちんと取り出せばよいのです。
こなすのでなく、創るのです。そのためには、耳から得ているものを選び捨てなくてはいけません。
聞いていると、得ているものがないとか、充分に得ないまま捨てているだけなのです。
入門のときは、得られるようによく聞くことからだと思います。
次には、示していかなくてはいけない時期です。音楽やことば、音感、リズムの力のなかで何かを借りてやっていくかということはその人のスタンスによって違います。その人の得意なところ、不得意なところもあるし、曲によって、もっていき方もあります。
だから、いろいろなパターンの曲で基本を覚えていくようにしていくのです。
試みが出て失敗しているのならともかく、まったく試みになっていないものをやっておかしくしていると、のども痛め、歌の世界でも鈍感になっていきます。
少なくとも走っているリズムが聞こえてくる人は、2人です。
ところが音の展開になってくると、リズムと関係ないところでとってしまっています。
「歌うな」といつもいっているのは、歌に足元をとられるなということです。
前に示していかないといけません。
お互いのフレーズを聞いても、その先に思いがいかないでしょう。
まったく、展開していないからです。このストーリーを読み込んでいないし、音の世界も読み込んでいません。
出せないのは、読み込んでいないからで、それでは出ようがないのです。
音で読み込めなくても、ことばで読み込んでいけば、一つの世界が開けるはずです。
詩や本を読むというのは、そういうことです。
歌の世界をやっていく人が歌の歌詞を読んでみて、何も心に感じない、動かないというのはおかしい話です。そこから、歌が出てくるはずがありません。
イマジネーションの世界ですから、経験が不足しているということは関係ありません。スタンスがまったく見えないのです。歌うスタンスというのが見えた人は2、3人くらいいましたが、それも、ただ歌うだけではしかたありません。手さぐりでもよいから主体的に関わってください。
ー
こういう歌は、展開が多いので役者さんでも難しく、音とことばをいくら読み込んでも、情念が先に走っていないともっていけないものです。役者は舞台の上の相方に疑似的に恋をします。歌い手には相方はいませんが、舞台と同様、歌で同じように恋をしていないと歌えないと思います。
こういう世界があるということを一つ伝えて、終わるということを集約しないといけません。そのためには、最初から逃げてはいません。スローテンポの曲では、少し気を抜くと途中で動きが止まってしまいます。
ことばや音は止まってもよいのですが、心の部分でつながっていないと、サビのところでいきなり高くあげて入るというのも難しくなると歌います。
アダモは、次につないでいく一つの動きを作っているのです。バラードもことばをポンポンおいているようでいて、全部つながっています。情感を示し続けて、クライマックスまでもっていかなくてはいけないのです。
そのときにその感覚に入っていかないといけないのです。
ステージでそこに入るためには、練習のなかでそれ以上に大きくつくっておかないとダメになります。ステージでは流れの方が大切になってくるからです。
練習のなかでは1フレーズを出して、それが次につながるという実感をもって次にいかないといけません。胸のなかにおける、掛け合いも、当人が持たないかぎり客もそのことに興味を持たないのです。
読み込みの不足です。できていないところを表現したかのように勘違いしてしまうのです。“わかっていること”より、“できること”が先にいく世界では、式をたてて答えを出すという次元の低い世界ではありません。
答えが見えているのに、その式をたてるのが大変なのが、歌の世界です。
ひらめいたこと自体は見えていればよいのです。
皆は見えていないのに式ばかりたてようとしているのですから、どんなに論理を構築していっても、こういう世界は現れてきません。この世界そのものを、夢みたいに一瞬でつかみ、指し示すのです。
勉強の年数より、その人のイマジネーションの世界の大きさや深さが大切です。だから映画を見たり、詩を読んだり、ということも必要になるのです。まず、学ぶことのまえに学べるように、学びかたを学んで欲しいということです。すると表現としてそういうものに走っていくはずです。
これだけのことばがいろんな形で働いています。動いた中でのパターンを一つだけ選んで示すのです。こういう歌の難しさは、つなげるということです。すべての要素を借りないと止まってしまうでしょう。
もっとアップテンポにすれば、少しはごまかせるでしょう。
一流の役者なら語りまではできると思いますが、こなせないのは二番目のサビのところです。落とし込みなどに独特の音の感覚、フレージングの感覚が大切になってくるからです。そこにヴォーカリストのスタイルが出てきます。
今は前半がきちんと伝わるためにどうすればよいのかということからです。自分の声を録音して聞いてみるとよいでしょう。この世界の可能性を、自分がどんどん裏切っていくのがわかるはずです。フレーズごとにつまらなくなり、守ってもしかたないでしょう、攻めるしかありません。
どう攻めるかというのは、流れと、おくところを考えることからです。いろいろなものを投げかけているうちに感覚が少しでも変わったら、それがきっかけになります。
そのなかで100パターンくらいやったら、1、2パターンくらいは開かれる部分があって、そこから入っていきます。必ずしも心地よいものがよいとは限りません。しかし、心地よいものをたくさん聞くことで、自分の歌いたいものが見えてくる場合があります。
もっと大きく捉えてみてください。部分的に捉えるとこういう歌は引いていってしまいます。そういうときは、一流の歌い手ならどう歌うかということを考えることです。自分が聞いている音楽や好きな曲と、どこか接点がつかないかと探っていくともっとわかりやすくなります。それが一ヶ所でもあれば、その歌はレパートリーとなる可能性があります。ほとんどの歌はそれが一ヶ所もないのです。
自分にないものを勉強するというのもよい勉強です。歌というのは大きく分けると、そんなに何パターンもあるわけではないのです。すべては組み合わせですね。
大切なことは、声や歌など誰も聞いていない、残らない、要はこれをどう出すか、ということです。
出すよりも、入れる段階でほとんどよくないです。入れるところでイメージの構築、あるいは感覚のところで捉えることが大切です。
映画や物語のイメージでも、そのとき一番、入れられるものからもってきます。
当然、歌は舞台ですから、ステージの感覚にならなくてはいけません。
トレーニングは、ステージよりさらに大きく捉えなくてはいけません。たとえば、役者さんも演じるときはイメージを大きく持ち、稽古でも大きくやり、そして実際のステージになったら、無駄な動きを省いて細かな動きで見せていくわけです。
ここでいろいろな音楽を聞くのは、イメージなどを大きく変えるためです。その人の気持ちを動かし、高まらせることからやっています。いずれ一人でできるようになるためにです。あとはそれをキープできるかどうかです。そのためには、自分の力を総動員してやらなくてはいけません。
経験はないよりはあった方がよいですが、イマジネーションの方が大切です。
歌が他の世界と違うのは、これを全て音声に還元していかなくてはいけないというところです。
言語の流れをつかみたい人は、フランス語でやってください。韻をふんでいるのでその方が歌いやすいとおもいます。
(「トワ 君に会った(ラ♭ ソbミミ♭シラb)」)
音声を人に伝えるためには、よい聞き手にならないといけません。
フランス語で聞いたものを日本語で歌う方が、日本語で聞いたものを日本語で歌うよりは楽なはずです。
歌い手に左右されなくてすむからです。
もっと聞こえるはずです。自分でイメージしてその世界をつくっていかないとわからなくなります。
音やリズムに乗れていないのは音楽が走っていないからです。
アダモがこれだけゆっくりやってもつのは、そのなかにいろいろなものを詰め込んでいるからです。
基本でいえば展開する上でのべースからはずれたところでやるから、ダメになのです。
「白いバラを手に」といったことばを聞いたときに、手が動いたり、場面が思い浮かんでくるのはよいのですが、同時に音の進行のなかでそれを豊かにしておくことです。
そして日本語としておいていくときに、音をどう使っていくかが、次の練り込みの問題です。
まだ感覚のところにいきついていないのです。そのまえに音感やリズムや発音といった、壁の方に捉われています。こちらを正しくとる方が難しいのですから、この三つのことを素通りして、より奥に入ることです。イメージから感覚の世界のところに先にいかなくてはいけません。
皆のアテンダンスシートに「ことばではわかるのですが、できないのです」というのがありますが、こういう世界というのは先にできてしまうものです。ことばもできてからわかるのです。
だから、できていないということはわかっていないということです。
そこで格闘しない限り進みません。
その使い方では「できる」ということと「わかる」ということは違い、「わかった」から「できる」というのではないのです。どこかで見えていなくてはいけないのですが、皆がいっているような「わかる」「わからない」というようなことではないです。
瞬間的にサッと見えているところで取り出せないという方向でやらないと、息が身について、声が身について、そして歌が身につくというような隙にはならないはずです。
伝える努力をしなさいといつもいっています。その世界に入ることから、取り出すことをきちんとすることです。そうしたら音程やリズムやメロディが気にならないはずです。
こういうことができてしまっても間違うというのは、根本的な、感覚が間違っているからです。
舞台でやらないことを想定したらトレーニングもやらない方がよいということです。
こういう歌を恋愛の歌だと思って歌わなくてもよいのですが、そしたらそれに代わる世界に入り、伝えたいことをきちんと決めていくことです。
(「甘いかおりに君はつつまれて 恋をしらないまま
(ミ ミミミドラ シドシーシシシラ♭レbー レbレ♭ー レ♭レ♭ラレbミ♭ー)」)
難しく考えないでください。このレベルでは難しいのではなく、きちんと歌えてから難しい歌なのです。
今、要求しているのは、人間的な表現のレベルです。技術の問題ではないのです。
「トワ」は音楽がはじまる出だしの部分です。そこを頭において、次のフレーズをやってみましょう。
この音で心や体が音の流れる世界に入るのです。音に乗っているだけの感覚や体をおいておいて、「白いバラを手に」と一つで捉えておいてみましょう。その働きがないところにリズムやメロディをつけようとすると、絶対におかしくなるのです。動きのなかで捉えていってください。
(「白いバラを手に
「ラ♭ ソ♭ミミbシラb)」)
このなかで少なくとも4つの展開、方向づけがあるのです。
自分のなかでイメージがあって、そこから動きが出てきます。
(「白いバラを手にきみは
(ラ♭ ソbミミ bシラ♭ ソbソbソb)」)
今はいろいろな試みをしていくとよいと思います。選ぶもなにも、試みるということさえわかっていないうちは、わかるしかありません。まず動きをとり出し、それからどんどん無駄をなくしていくのです。イメージのなかで大きくつくって、実際は楽に歌う方がよいのですが、今の段階では、それ自体、大きくつくってかまいません。
音を聞くときの集中度が問われます。動きのなかで捉えていかなくてはならないので、まず自分が働くことです。
(「甘いかおりに
(ミ ミミドラ)」)
「甘い」ということを計算して出してみでも、甘くは聞こえません。ある程度、前に出すための張りは必要です。表現しようと思ったら体を使うし、息だって送らないとできません。
声量や音域ということではなく、思っていることをどう伝えるかということだけのことです。ただそれを確実にやるために、リラックスしたり、力でもっていったりすることが必要です。
自分が好きな歌を聞いたとき、自分の心や体がどう動いたのかということをトレーニングの場にとり出しましょう。そして拡大できるようにしてください。そこでの問題が一番大事なことです。そこをクリアーしたら、あとは時間の問題です。それがつかめないと、どんなに声が出て、いろいろなものがわかってきてもよくないです。。
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「ル・ネオン」
(「街かどをさまよって 夜もすがら探そう
〈ファファファミbー ソソソファー ファファファミ♭ー ソソソファー)」)
ことば、メロディ、リズムという壁をワープして欲しいです。まずイメージと、そのうしろにある感覚を読み込むのです。その人が歌をやろうとか、表現をやろうと思ったきっかけの曲などに、それは必ずあるものです。それをなんとかくつけてみます。
その感覚さえなければいろいろと聞いて、接点をなんとかつけるしかないのです。感覚というのは変わってきます。経験ではなく、イマジネーションの世界です。
「ことばではわかっているけど、できません」とか「体ができたら、何とかなるから待ってください」というのは考え方がおかしいのです。わかるまえにできてしまうものです。
誰も最初から、わかる人はいません。できていないうちにわかるわけがないでしょう。
作品の創造とはそういうものです。できるまでわかりません。わからないうちにできてから、理屈がつくのです。そのできたことを続けてやることが難しいのです。
一年に一回でよいから、「これだ」と思うような感覚をつかむことが大切だといっています。
それこそが一流の歌い手が常に出しているものに近いのです。
それを固定させるために技術や、声量が必要になってくるのです。
その前に読み込み判断できる感覚が必要です。
昔の歌で足りないのは、リズムや音感を超越する感覚です。それはもっと上下の動き天地の動きをつけていきます。バラバラにならないように働きます。
頭が動いているだけでは、「か わ ら な いー」となります。
そうではなく「かわらなーい」というふうにピークをつけなくてはいけません。
この部分は、日本語だとあまり張らない方が楽だと思います。
ただ、つないでいくのが難しいかもしれません。
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「素敵な恋人」
「ナポリターナ」やイタリアの南のカンツォーネに近い、クラウディオビルラあたりの、いわゆる体から声を響かせてテノールっぽく歌うポピュラーが多かったときに、
叙情派といわれ、ポピュラーを変えていったのが、ドメニコ・モドゥーニョです。
かなりの歌唱力がある人です。「ヴォラーレ」は世界のヒットチャートに入っています。
どこか1ヶ所をきちんと表現したところを出してください。
たとえば、ことばでモノトークを読み上げ、伝えられることになったら、判断できるようになったと思います。
そのことを歌でやるということです。
「すてきなこ~いびと~」とやっていても自分のなかでまわっているだけです。
前にどのように出していくかということをまず考えてください。
相手に聞いてもらってから始まっていく世界です。
声を整えているだけでは、そのまま、はいれません。
たとえば、ピアノで音程をつければ音程はとても正しくなりますが、彼らがこのように出しているというごとはありません。彼ら自身は、その音程をいれているけれども、とってはいません。メロディでのフレーズ処理です。
コピーしにくいと、自分の音感がないように思ってしまうかもしれませんが、それは慣れていないだけです。
慣れるようにしてください。まねる必要はありません。
やってみましょう。これで、半オクターブくらいあります。
この前のレクチャーで「自分の録音を聞いてください」という人がいて、
構いませんとはいったのですが、自分では聞いたことがないそうで、それには驚きました。
皆も笑うかもしれませんが、同じことをやっているかもしれないのですよ。
自分でやったことがなにかをきちんと読んでいかないといけません。
「先生、これどうですか」という前に、自分なりに自分の声がどういう感覚なのか捉えましょう。
どういうテンポで呼吸が出ているのかです。
どう表現すれば相手に伝わるのか。それを探っていくのです。
表現するときに開き直って、いくら間違っていてもよいから、前に出していくことです。
そうでないと自分のなかで、本当にあっている、あっていないかがわかりません。
よくないのは、正しく合わせようとしてしまうことです。
表現のパワーをひいてまとめては、対応できないと思います。
この調子で、1年後、8フレーズ、16フレーズと、
上のクラスは、1コマに1~2曲やっています。
それは、音でとるというか、感覚で対応していくしかありません。
ぱっと聞こえたものに、ぱっと対応できていくようにします。
楽器でもそうですが「自分は覚えてから歌うのだから」では、間に合いません。
そういう感覚を磨いていってください。
感覚の変化が上達の秘訣といいました。
自分が好きでないもの、自分が聞いていないもの、未知のものにあたることが重要です。☆
即座に反応する力をつけます。それが自分の本当の実力を知り、同時につける方法なのです。
ヴォイストレーニングでも私の弾く音にどう反応し、声を直しているのかを見るのです。
W検で、読譜力で差がついてしまうのも、慣れればよいことです。
できるだけ聞いてそれに反応できる力をみていこうと思います。
本当は、私が決めることではなく、自分でわかっていくべきことなのですが、ただ、基準があった方がわかりやすいでしょう。
半年前は、このくらいしかできなかったけれども、今は、このくらいできるといったほうが、自信もつくでしょう。そういうことで、メロディコピーも入れました。
簡単にいうと、聞いてみて、これをぱっといってみる。
歌い手の場合は、そんなことができなくともよいように思いますが、楽壁を見てメロディを弾聞いて歌の練習をしてからステージに立つのだから、そのくらいの反応しかできないのだったらステージもできません。
その場でいろいろな音が出てくるものに対して自分がどうセッションしていくかということを考えなければいけません。それができるには
1.正しく音がとれること
2.音楽を捉えられること
3.音楽をつくれること
が条件です。
今、考えてほしいことは、その状態をつくることです。
条件が整ってくるのは待ちます。ずっと待っていかなければいけませんし、
できてくればそれだけ有利になります。
ただ、状態に関しては、自分でつくらないと誰かが「歌え」「もっと大きな声を出せ」といわれて歌っているのではつまらないでしょう。
大きな声ではなく伝わる声で、前に出るということです。
もっと集中していなければいけません。
日本人に関して、集中力の持続と強さというのは、特に音声の表現に対してはとても弱いです。
プロでも克服できないくらいに差があります。それは、今からできるだけ磨いていってほしいです。
3時間くらい音に集中できるくらいは必要です。
普通、30分やれば精一杯でしょう。歌の場合は3分やればくたくたになります。
そのくらいにその世界のなかを感じてください。
その世界をつくっていくプロセスにおいては、遊びながら適当に音楽を楽しめられればよいのですが、追いつくためには、そうもいかないと思います。
プロの歌い手というのは、全部表現していて、音楽も全て体のなかにいれています。サビでもっと声を出さなければいけないからというので、出だしは構成上、おさえます。
今は、これで完結している音楽だと考えて、プロと同じような出だしをとるのではありません。
たとえば、小さな声で「すてきな」とやっても、小さな声でコントロールしていくことはもっと難しいことです。そこで表現することは、できません。大きめに読み込んでいってください。
特に、日本の歌手を読み込むときは大きくしましょう。彼らの心のなかではもっと大きくなっていますが、表面的にさほどでてこないのです。その表面をコピーしていくと、動きがもっと小さくなってしまいます。
彼らの心のなかに戻して、その歌い手が思っている以上に自分のなかに大きさをつくって出していくのです。☆
そうでないと、このくらいだと何も出ていきません。
この課題で半オクターブ、1フレーズまで動かしてみることに丸々2年かかってもよいのです。1年かかってこれができる人は10分の1もいません。
まず、何ができていて、何ができていないのかということを知らなければいけません。
プロの人のものを聞いてたら「あのくらいはできている」と自分で思ってしまうかもしれませんが、半オクターブに渡って完全に声をセーブし、キープできているでしょうか。
彼らは、一つに捉えて「タ~ダダダダダダダダ~」と、このなかで何の条件も変えていません。一つの同じ呼吸のなかで音の変化、音の高さに関わらず、いれています。そのフレーズを置き換えています。
「タ~タタタタ」ではなく「タータタータタタータータ~タータタータ〜」その分のイメージ通りにコントロールして、メリハリをつけているのです。
皆は、「すてきな恋人」というイメージはどこにもありません。
歌は別に言葉を表現していくのではなくメロディを表現していってもよいのですが、では、メロディを表現できているのでしょうか。若干、それに近いことをしていたのが1人いましたが、あとは、まったく感じていません。
考えるというと、間違いがありますから、イメージでやっていく。
結局、出した世界が、音のいろいろな条件をいれて、成り立っていかなければいけません。
「言葉を一つにすること」「音の高さで一つにすること」「メロディを処理すること」それなのに、メロディがバタバタ聞こえていると思います。ここまでで、7つくらいいろいろな変化をつけてしまった人もいました。
ひとつに捉えた上で、それが変化することはよいし、変化させなければいけないのですが、まず、きちんと一つに捉えなければいけません。それには、半オクターブが同じところで出せる条件が必要です。低くしたら、そんなに難しくないと思います。ただ、きちんと繋げているかというとバラバラになっています。同じところで、自分のなかで1回つかまっていかないといけないのです。
ここは少し難しいので次のところをやりましょう。
「あなたの」だけです。あなたがでてこなければだめです。
ことばそのものはでてこなくてよいのですが、そういう展開がでてこなければいけません。やりにくければ、その前からやってかまいません。
なるべく他の人をまねて「あ〜なたの」とならないように自分のなかできちんと「あなたの」と「タータタタ~」をおさえてください。皆は小さくしてしまうと体が使えませんから、もっと大きくてもかまいません。
大きくだしすぎるために「あなたの」と聞こえなくなってしまう場合もあるかもしれませんが、それでも、まず一つの動きのなかでその音をおくということが大切です。
その動きが切れてしまうと、どんなに声を小さく出しても、大きく出しても伝わらなくなります。ことばとメロディをミックスさせるというと、単純な話のようですが、もう少し違う意味です。
その流れのなかでことばにしたり、音にしたり、音の置きかたを変えていったり、いろいろなことをしていきます。
体というより、心の動きです。心の動きと自分の体の動き、息づかいです。その前に、当人が、感じていなければいけません。感じてしまうと体が動かなくなってしまうし、音が狂ったりリズムがうまくいかなくなったりしますが、音楽は結局、その戦いをやっていかなければいけません。
最初は、とてもわかりにくいでしょう。特に今のジャズやボサノバなどは、それを嫌って乾燥させて、ことばをつむんでいくような音楽もあります。そういうものは、こうやって歌わなくてかまいません。
ただ、表向けに聞こえてこなくても、どこか根っこの部分はあるのです。それに対し、三流の音だけ置いていて、表面だけとっている音楽には、それは入っていないはずです。
歌い手の場合も同じです。それを深く読み込んで、音楽の本質が何なのか。何でこの音から、この音にくるのか。理屈で考えてもしかたないのですが、感覚していくことです。
わからなかったら、いずれわかるだろうと思ってもよいのです。何回も繰り返していたら、案外早くわかる場合もあります。他の声に変えてみてもよいし、長さを変えてみてもよいのです。今まで自分にはいっている音楽に近いものが、心地よくはなってきます。
今まではいってた音楽が本当によかったのかというと、自分勝手なだけでしょう。ここに来る前のところにどれだけよいものがはいっているかということです。かなり不足していると思います。今と昔の一番違うことです。
残念なことながら、皆の世代は本当の意味で、あまり歌を聞いていません。
昔は、ここには、普通の人があまり来なかったからなおさらそうなのですが、今からでも、それだけのものを補っていくしかありません。
1年や2年で補えないというかもしれませんが、10年かかっても、真剣に聞かなければ大して聞けないのです。真剣に聞いたら補えます。
もっとやっている人がいますから、全部は無理かもしれませんが、それだけの条件を備えなければ、そういう表現、感覚はでてきません。
いつも考えてほしいことは、技術ややり方、方法があるのではなく、自分にはいっていないから出てこないということです。
先生を見て、先生の技術をとっても、歌になっていきません。おかしくなっていくばかりです。そこを間違えないでください。はいってないから出てこないものは、いれるしかありません。はいっているけれども、でてこないものは、出し方を覚えるしかありません。
出しかたを覚えるということは、トレーニングにあります。それは、決して技法ではなく、もっと体と一体に出てくるものです。
自分のなかで一宮表現して「やった」「きちんとおいた」「伝えた」「これで音楽がはじまる」が大切です。そんな実感も何もないところに歌がはじまるわけがないのです。
ピアノでもトランペットでも、最初にポンと押したときに「私の音はこれ」「私の音楽はこれ」といってからはじめるのです。そういう心構え、状態をきちんとつくってやることです。
それは歌のなかで、すぐにはできませんから、日頃のトレーニングのなかで、ここに来たときよりも、自分の練習のなかできちんとつかんでいかなければいけません。
ちょっとしたことですが、ものすごく差がついてきます。
逆に、そういうところがないところに何をオンしていっても意味ありません。
いろいろなレッスンに出るほど、効率化を考えてしまうかもしれませんが、合理的にやるにも感性がいります。自分が感じる時間を、人と接する時間よりたくさん取らない限り、何にもなりません。
柔道や空手でもいろいろなことを教わるでしょう。一つの技だけ覚えていても、それを使えないからです。しかも、一つ教わったら、それを100回、1000回練習しない限り、自分のものになりません。形だけとれたから次の技を教えてくださいでは、実践にでてもどれも一つも使えません。
本当に強い人というのは、たった一つの決め技でもよいですから、それを人の何十倍もやるのです。あたりまえのことなのですが、ややもすると頭のほうにいって、頭で考えるからろくなことにならないのです。
歌っていくことを頭で考えることは、真っ当なことではありません。体で感じてそれをだしていくという、もっと大きな動きのほうに委ねてやるようにしてください。その時間がすごく少ないような気がします。
あとは、毎月、最低一つの発表の場をめざしてください。ここだけを目標にするのでなく、自分でもいろいろと区切ってみてください。
トレーニングは終わってからやるのです。「これで終った」と思うのではなく、これから半年後くらいまで同じことをやります。そのときには、自然とできるようになってください。
1時間かけて何曲もCDを聞き込みます。本当のことをいえば、これが皆さんに一番必要なレッスンです。いえ、レッスンの前提です。それを1時間くらいやってみて、10分くらい声で出すこと。
まず、いれなければいけない。その状態をつくらなければいけません。
条件は聞いているだけではできませんが、感覚の条件は少しずつできてきます。
聞いていてすごいと思う体験をつみ、それがあたりまえだと思えてくる体や状態になると、まったく違います。
あたりまえだと思えたときにはできます。
最初は、何をやってもわからないと思いますが、できるところはあるはずです。
そこから接点をつけていって、できる分の量から質で問うていくようにしてください。
だいたい、テノールというのは高いところがでて、バリトンが普通で、バスが低いと思われています。結果としてはそうなのですが、本来は、音色の違いです。
これでもキーを下げて歌っているわけではありません。
オペラというのは、テノールが華の世界です。テノールが主人公で、一番かっこよい役と、一番よいところをとっています。後は、脇を固めるのです。
なかなか、すぐれた人材が出にくいのですが、クラシックをやる人は、人間の体としての究極の声のところ、テノールなら、いわゆるハイCをめざしてやっていきます。
日本人の場合は、そこに限界が出てくるのですが、20代でバリトンをやっていても、30代になるとテノールになる人もいます。
リリックのテノールは、柔らかく声を使うテノールです。3大テノールは、ドラマティックテノールです。ドラマティックに歌うような歌を歌います。
それには、相当の体力と集中力がいります。
バリトンやバスも聞いてみてください。
ポップスの体の使い方のヒントとしてはテノールよりわかりやすいです。
クラシックの歌い手は、さらに体を完全に使っていると思ってください。
ポップスは、そこまで体を使い切らないです。
いい加減な人は、そのために、リズムがとれなくなったり、音の変化についていけなくなってしまいます。
マルキアーレやガッパリア、相当に早いフレージングをとっていますね。
いろいろな疑問が出てくると思いますが、あまり頭で考えないほうがよいです。
「どういった方法がありますか」とか「何を覚えていったらよいですか」というのは、知識の世界です。
これは、体に置き換えていくしかありません。
私が、会報を出したり、本を出したりしているのは、とにかく、何かをやれといっても、人間は絶対に考えますので、それだったら、考えられるだけ考えた人の考えを知って、捨ててしまえということで読ませているのです。それにそってやれという話ではないのです。
それを捨てたときに体の世界にはいって、そこから湧きでてくるものが一致し、気づくことへのヒントになれば、意味があるでしょう。そこを間違えないでください。
基本的にトレーニングの世界とは、体でやらなければいけない世界です。頭の世界とは違います。会報に書かれているようなことが、100分の1、1000分の1になるくらいに何をやっているのかということです。
私たちも、こういう曲をたぶん何千回も聞いていると思います。
考えてみたら、1時間あれば20回は聞けます。365日聞いてみると、これで7000回聞くことになります。
普通の人には大変なことでしょうが、1万回といっても2年くらいで1万回聞けます。
そこまでやっていないから足らないのです。
感覚としてはいっていくものがあります。年に1回くらい、こういうことを繰り返しても、10年くらいすぐに過ぎてしまいます。その間にきちんと体のなかでつかまえなくてはいけないことです。
ことばというのはキーワードです。それが、できた人や自分のなかでわかっているうちに使えばよいのですが、何かいわれたことをそのまま受け売りしても何にもなりません。必ず、自分のなかで置き換えていかないといけません。体も同じです。どんなに人の体で覚えても、自分の体に置き換えないと何の意味もありません。
ことばも聞いたときにうなずいて「こうだ」といわれたら、それでできたような気になってしまいます。当然のことながら、それでは何もできていないのです。きちんとわけなければいけません。
歌の勉強というのは、一瞬に感覚と体を得るのです。
発声方法がどうだとか、口をどう動かすだとかいっていても、それは、そのためでなく、その一瞬を起こすためです。一瞬で得るということは、こういうことに対して、どこまで自分が真実であるかでみていきます。
世の中の人がどうとか、まわりの先生や研究生がどうこういうとか、そんなことはまったく関係ありません。
これに対して、どこまで忠実であるか、ということを自分のなかで感じなければいけません。
こういうことばを聞いていることにはよいのですが、実際は囚われているわけです。
あのなかに入りきれている世界のなかでどこまできちんとつかんで出せるかということです。
今、話していることばが10分だとして、この10分に対して、1万分おかなければいけないということです。
こういうところに来て、これまでと同じことをしても仕方がないのです。
材料は一つ、切り出しのところしか出しません。それがそれだけで終ってしまったら不毛です。
だから何もできないのは、あたりまえです。
何でもそうです。道場に行ってみて、そこで技をやるといっても、身につきません。帰ってからそのことを自分で身につけるまでに、相当なことをやるのです。
「何で仲間内で群れてはいけないか」といわれますが、群れた人のやることは、おしゃべりすることです。ことばを使ってやるのです。
自分のためにすべきことは、体を使ってやることです。
くだらないおしゃべりの間、もくもくと一人でやっている人がいるのです。
それでも同じように時間が、人生はすぎていきます。
自分のできている段階によって、目標の取り方は違います。
それでも、初心者も長くいる人もさして違いがあるわけではありません。違いがあるとしたら、どのように受けて、どのように表現してきたかということにおいてです。
前にやった人は、バラバラのイメージで音程だけの歌になってしまったかもしれません。歌から与えてしまうと、そうなるか、逆に力ずくで声を出していくようになってしまうようです。
何で音楽が聞こえてこないのかを考えてもらえばよいと思います。私もそう歌っていたときがあるので、よくわかります。自分の体だけの感覚ではなかなか音楽にならないのです。
もしなるとしたら、小さいころからよほどよい音楽を聞いていた人たちです。まわりでそういう人たちが実際に生きているという環境におかれなければ、自分だけでつくっていくと、そうなってしまうだろうなと思います。その辺が、音楽の難しいところです。
私も人をみるようになって、細かい部分もだんだんとよく見えるようになったと思います。
皆さんの場合は、グループレッスンで恵まれているので、そこで自分に不要なものを省いていけばよいと思います。
要は、一つになっていないものは、展開していきません。一つに、捉えていなければいけないのですが、それを捉えるまえに先に変化をつくってしまうともうウソです。応用がきかせられるベテランの人ほど引っかかりやすいのです。器用貧乏、素人変じてほとんどウソッパチになります。
なかには、それが音楽のなかでうまくカバーされてしまうものもあります。
しかし、これから学んでいく人は、シンプルに考えてください。
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「黒い鷲」
「いつか」に対して「わすれたけど」があって、「あるひ」の展開です。
「いつか」に対して「わすれたけど」にアクセントを置きたければ「た」とか「たけ」とか、いろいろな置き方があります。小さな声でやってしまうと、皆の場合は、体や呼吸の動きが全て止まってしまうでしょう。かなり大きめ大きめにつくっていったほうがよいです。
音楽が働かないところに、声を出していかないことです。まず、音楽が動かせる声にしていきます。
こういうもので一番学びたいところは、ためる時間をきちんととっていくことです。
「いつか」とやれば、きちんとはいれます。
大きな曲になると体と声たてが一致していないと、はいれません。日本人は、そこが苦手です。
この曲で難しいところは「いつかの」「いつか」が「い」「つ」「か」と3つとも外にでやすいところです。
「夕~」こういうところで音をつくっていきます。「タ~アア~」と3つに捉えることはありません。
「タ~♪~」です。そこのイメージを違えると、大きく違ってきてしまいます。
そこで自分のイメージをきちんと固めていくことです。だからといって、引いてはいけません。前には出さなければいけません。
声は、前に出したうえで、働きたいように動かしてやるのです。
声ができてないうちでも会話しなければ、いつ声ができるかなどわかりません。
声そのものの力は、最後までよくわかりません。
「タタタ~」に対して「タタタタタタ」を、どこかに体をいれないとフレーズが動いてこないし、膨らんできません。最初は特にそうなります。
次が聞きたくなるとか、上のほうに大きくなるとか、そういう感覚が必要です。
声の出る人は、声でもっていけますから、忘れてしまいがちです。
声は出たほうがよいのですが、その辺が動かせるように考えてみてください。
日本語ですから、一つずつわかれていきます。そこで音程が下がったり、ぶれていると、極端にそれが出ます。
上で浮いていたり、下で押したりしないことです。
これでも、かなり引っぱっているほうで、普通の人が歌ったら、バラバラになってしまいます。
その辺は、歌としてとても使いにくいことばです。
ただ、こういうもので勉強していくと、音楽の仕組みがよくわかります。
ーー
「青色のジャバ」
「セーラ ジャバ ブルー」青色のジャバということです。
「ウキウキと」と最初についています。
「ジャバおどろう リズムにのって めとめをうつしながら あおというジャバはすてきよ ジャバのなかのジャバだよ セーラ ジャバ ブルー」
ここからサビにはいります。
「ウルトラマリンのようきなジャバよ」と今では意味が通用しないことばですね。
1番と2番をわけて3番目はどちらでもかまいません。
日本語が一つの音についていますから、どこを蹴っているかはとてもわかりやすいでしょう。
自分で線を出していかないと、リズムが刻めなくなってきます。
3拍子がとれていません。
「だいすきよ」あるいは「きみのような」です。
できるところまでで構いません。
慣れていくことでしょう。
別にジャバのリズムになるのではなく、音の基本的な動きかたというのがあります。それを自分のなかでイメージを大きめにとってください。大きめにとったなかで、3拍子のワンツースリー、ワンツースリーにあてていきます。
これが均等にまわっていく中で、伸びたり、縮んだりすることはよいのですが、その動き自体が出てきてないところに、いくら一つひとつのことばをとっていっても音楽になりません。
線状の動きのなかでやってください。
向こうの音楽は、強弱で進んでいる。弱強で進んでいる。
どこか一つにアクセントをおく。どこに置けるかというと、こういう場はだいたい、呼吸で決まります。
たとえば「だいすき」の「き」に置いてみる。聞こえない程度におけばよいのです。
そうすると「よ」が前の音に吸収されていきます。
あるいは、次の音のシンコペーションして、一つ頭に出ているような形になって、3拍目のところから全部はいっていく。「だいすき」の「だ」が1拍目だからと「だ」にアクセントをおいても、音がとまってしまいます。
一番大きな動きのところをとっていくことです。
リズムパターンも同じです。表面的なリズムではなく、結局一つのリズムは決めています。
そのリズムをどうとるかです。
この歌は、簡単にいうと、先ほどのところまでは、「タ~タッ タ~タッ タ~」でとっていけばよいです。
今のところは「タタタ タ~タッ タタタ タ~タッ」ととって、「タ~」がきちんと出ていればよいのです。
日本語がついてしまうからややこしくなるのです。
拍の中心といっています。自分のなかでは大きく読み込んでおいて、その感覚を出していくのです。
そうでないとこの歌の感覚はでてきません。
特に練習のときは、大きめに読み込んでいって、大きめに出していって、大げさすぎるくらいでよいのです。
要は、歌が、動いているが働いていないのかが大切なので、歌のところにあけていくのではしかたありません。慣れていないので、少しずつ慣れてください。我々には、3拍子は、最後まで課題です。8分の3ですが、8分の3、8分の6に接したら、レパートリーに加えていくとよいと思います。
「ハイ」の課題が片付いているとは思えません。
やっているのは「ハイ」から「ハイ ララ」「ララ」とフレーズつなげることです。1つのフレーズ「ひとなつの」であれば「タラララ~」で「ひとなつの」を1音と捉えてどう出すかということです。
「タラララ~」と、これに対して、次の音をどうおくかというところの2つです。結同、それができたら、この4フレーズに対しさて、次の4フレーズをどうおくか。8フレーズできたら、8なり、16に対して、次の16フレーズをどうおくか。32フレーズに対して、32フレーズをどうおくのか。
歌1曲が、だいたい3つから4つくらいにわかれるくらいになります。
それぞれの役割があります。声の判断基準から、だんだん音楽の判断基準に変わるということです。つまっているような声でも、場合によって、表現の効果が上がるのだったらそれでよいの場合もあるのです。
集中してやっていかないといけません。オンしなくなるし、繰り返しができなくなってきます。だらしなくなります。
ことばから捉えていってもよいし、メロディやリズムから捉えていってもよいです。ただ、全てを多めに読み込んでいくことです。感じとしては、全て大きくもっていかないと歌が途中で止まってしまうときがあります。
自分の体の動きが止まったり、歌詞が止まったりして、そのときにベースの部分が動いていなければ、死んでしまいます。そのくらいで、死んでしまうのは最初から死んでいることにもなるのですが。
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「このひとときよ ひとなつのこいびとに おもいをのこして」おとしのところです。
「いつか このこいが おわるときがくる あいしあうのは このひとときよ ひとなつのこいびとに おもいをのこして もうふゆがくる わすれたいのに」です。
大きくわけて4つの構成があって、結局、一つ目というのは、2、3、4をどういうふうにやっていくのかによって変わります。空いてしまうのは「このひとときよ」からでサビでもっていってもよいのですが、そうしたときは、3番目のところを揺らすか、すこし抑えないと4番目のところでもっていきにくくはなります。
当然、ワンコーラスで思い切り歌う場合は別です。
そうでなければ「あいしあう」のところでは強はつけておくが「このひとときよ」で1回抑えておくかです。そうすると、次の3番目のところで大きめに出してもよくなるでしょうし、それに対して4番目の「もうふゆがくる」結局、どこをピークにもっていくかです。いろいろもっていけます。
単に、メロディからいけば「もうふゆがくる」にもっていけばよいのですが、歌詞の内容からいったら、そこでは遅すぎるでしょう。最初は導入の部分ですから、これはきちんと示していけばよいですし、音楽をのせていけばよいのです。
2番目の「あいしあう」は、「あう」の「あ」をどのくらいの音色にするか、どのくらいの音量にするかが1番のポイントになってきます。そこで完全に頂点をつくっておりるのかどうか、うまい歌い手だと、その辺をかすれさせたりするかもしれません。ピークにはしたほうがよいとは思います。
日本人の場合にはそういうところにはもってこないでしょう。「あいしあう」の「あ」や「あい」にもっていったり、あるいは、次ところで盛り上げた後に「ふゆがくる」とかでしょう。全体的に全てがピークになってしまうと、効果が薄れてしまいます。ワンコーラスだけでなく、この繰り返しです。
1番、2番、3番と歌詞によってかなり歌い替えができるものだと思います。何回も歌い込み、3番目の動かし方のオリジナリティで決めていきます。3番目の動かし方に、そこの人なりのものがでてきたときに、2番目は、それに対してどういう置きかたをするのか。
それを引き立たせるために、抑えるのか。同じだけのピークとして、パワーを2、3にもっていくのか。ただ、今の段階では、あまりそうやって考えなくても、とりあえず一つにまとめて、最後のところまで、1本のものをこうしているということを出してください。
集中力と同じで、なかなか通せないのです。誰でも歌っているのですが、一つのものを伝えるために、ワンコーラスを通すということは、なかなか大変なものです。何かがおかしくなって、何かがプツッと切れたり、何かダラッとなったりしていきます。そういう意味では、少しハイテンションで大きめに歌って練習していた方がよいでしょう。
練習のときは、ダラダラとなりがちなので特に注意しましょう。ステージになってしまったら、かなり抑えても、ピーンと保てるときは保てます。弱々しく出てしまうと、こういう歌の場合は、情けない歌になってしまいます。声では出さなくとも、かなり芯に強いものをしめていないともっていくことも難しいでしょう。
こういう歌を発表で聞いていたら、1番でもたなくなります。2番、3番は退屈極まりありません。本人だけの世界になりがちです。それは、前に提示していった方がよいと思います。
本当に短い歌ですが、このくらいのなかに、歌の全てのものがあります。
特にこの曲は音域がありますので、いろいろな声の技巧も含めて、ポップスの必要なものが全部はいっているという気がします。また、半年か、1年くらい経ったらやりましょう。
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「毛皮のマリー」
美輪明宏さんが歌うとまったく、違ってしまいます。
(「派手な馬車を乗り回して はぶりをきかせたミンクのマリー
(レレレレレレー ファ♯ラレド#ドド♯)」)
ここでは、音程、リズムや、歌詞、メロディを変えても構わないということです。
ステージ実習やライブ実習と同じです。自分を表現していくことです。課題を正しくこなそうという考え方は、頭からのけてください。自分に正しくつくりあげていくのです。それを安全にまわっても何も出てきません。
まわりをおどろかせるくらいの、自分の世界、存在感をアピールしていくことを、音声でやっていくことです。
この人はどう歌うのだろうという興味をもたせなくてはよくないです。。音感やリズム感は急にはよくなりませんから補うことが大切なことです。
でも、一番大切なのは、正しく歌うことではなくて、表現することです。
その人の音色、リズム、音感感覚が出てくるようにしていきます。
それを取り出さない限り、歌ったなぁ、という本人の満足だけで終わりです。
力がついてくるというのは、どんな課題を与えられてもきちんとこなせる、ということです。
まず、この場に慣れることです。思い切りやって失敗すればよいのです。そこにいたか、いなかったのか、わからないのが一番、困るのです。
プロのレベルは期待していませんが、方向を間違えないことです。たった一ケ所で皆を「えっ」と思わせてください。それさえできないのに、長々ときれいに歌ったってしかたないだろう、ということです。そこを間違えてしまうと、器の小さいまま器用なだけで終わってしまいます。早く本気になることです。
黒板を見ながらやらない方がよいです。全部暗記しろとはいいませんが、数フレーズくらいは頭に入っていなくてはいけません。音の世界で勝負するというのはそういうことです。
目が見えないのだと思ってください。目に助けられているから学べないのです。
選曲は半分が昔から使っているもの、半分は新しいものです。
皆さんに一つのことを伝えやすい曲というのがあるからです。
まず歌詞をできるだけ大きな声で読んでみましょう。
オリジナルの「毛皮のマリー」ではまったく、難しくは歌っていません。
いちいち考えていないからです。一つに捉えていて、体だけ使っていたら、それが動いていきます。
それをどんどんとシンプルにしていくことをトレーニングしていくのです。
複雑にするのは、愚かです。最終的な調整で充分です。
皆さんのなかでも音色が出て、しっかりとそれが動き始めている人がいます。
そういうところに、もっていくことです。それが出ないうちにどんなに動かしてみても、意味はありません。
(「夢中に させてた あのころ
(ソラシb ドソラシ♭ド ソラシ♭ド)」〉
何が出てくるのかわからないのですが、このくらいの課題なら何とかなるでしょう。今やって欲しいのは、このことばに線がついて、その上にアクセントがその人独自のものとして出てくることです。
頭で考えたり、口のなかでやったりすると限定されます。
歌という解放されたキャンバス場のなかで、どういうふうに声という絵の具で動きをとっていくか。そこではじめて、歌としての資格が得られるのです。これは頭の世界ではありません。
声を、握っていて、育てていくことをやらないと、これから先は、もっていけません。
歌いこなす方が楽ですが、創ることをやらないとよくないです。
こういう人たちは、ただ歌っているように見えても創っているのです。
創ってきたものをこの歌に応用しているのです。皆さんはここで、すぐに創らなくてはいけないから難しいのですが、それは、充分に必要なものを入れていないし、取り出せないからです。自分のものを音楽に入れていくことです。間違いがおきる歌などでは、最初からよくないです。
パワーがあれば、歌によっては、難しいということもおきてこないはずです。今は、やりにくい歌、今まで歌ったこともないような歌を浴びて、感覚を開いていってください。やりにくいという曲を100回くらい聞いてみたら、おもしろく思えてきたりするものです。
こういうものをたくさん入れておけば、よいということです。そのなかで、とてもおもしろいものが出てきます。それは、その人が生かせば、決して古いものではありません。人がやらない古びたものをいろいろやってみて、そのなかで何か感じられたら、それをものにした方がよいです。
そういう意味で、基本をしっかりと勉強すれば、古いも、新しいもないのです。私もシャンソンは、あまりおもしろくないと思いながらやっていますので、お互いにがんばりましょう。
おもしろくないとしたら、それは力のなさです。
(「かたにかけて よえばいつも 話し出すのよ 昔を
(ミミ♭レレーレ♭レb ミレレbミレレー レミファファーミミ ドレミレ)」
フレーズの姿だけを、なるべくとっていかないことです。芯の部分をとって、しっかりと出している中に、リズムや、音感を出して、あとはなるべく自由にしましょう。一回で聞いて、一回でやるというのは難しいかもしれませんが、何パターンかこういうものをやってきているのですから応用していくことです。
日本人の耳というのはフレーズの表の声になったところしか聞いていないので、選れてしまうのです。テンポやリズムがおかしいのではなく、常に前へ前へと創り出していないことが、問題なのです。
で考えてやると、邪魔してしまうことでそのなかの変化にしかならなくなります。部分的な変化にはなりますが、それで創り出したということにはなりません。
まず、全体を入れて、そのなかで自分のイメージをつくるために、一回突き放さなくてはいけないのです。突き放さないとそこに作品が生まれてくる余地がなくなります。
絶妙の間というものは、自分の伝えるイメージのところで、動いてできてくるものです。休符をたどるわけではありません。音をあけるわけでもありません。間も動きを創っていくのです。
(「誰でも皆 目を見張らせて 夢中にさせた あのころ
(ミミ♭レレ♭ードド ミbレ♭ドミ♭ーレレ♭ レ♭ミ♭ミソb レ♭ミ♭ミソ♭ レミ♭ミ♭ソ♭)」)
何を伝えたいのか、どこに行きたいのか、はっきりさせないと、盛り上がらなくなります。
(「けれど ひとりさびしい たそがれの涙
(ミソ♭ミ♭ シシミミミソ♭ミ♭ ラシbミ♭ファミレ♭ミ♭ー)」)
音程のとりにくいのはコードのなかでつくることです。おわりの音で合わせればよいでしょう。
(「けれど ひとりさびしい たそがれの涙 女の 幸せを まだ知らないマリーさ
(ミソbミ♭ シシミミミソ♭ミ♭ ラシ♭ミbファミbレbミ♭ー シシミソbミ♭ ラbラ♭シシシソbララbシー)」)
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「兵隊が戦争に行くとき」
(「えりには名残りの花、口には戦いの歌」)
そこに、いろいろなものがゆらいできて、いろいろな世界が、感じられる世界が出てくるのに、全部思い込みだけで感じもせずにやっているかのようです。
それではせっかく線が出てくるのに、点でやってしまっているのと同じです。
日常でそんなことばは使わないでしょう。日常が正しいとはいいませんが、少なくとも日常で一つのことを訴えるとき、その音声にかなわない表現というのは、歌にもなるはずがないし、芝居にもなりっこないのです。表現する以上、集約度が必要です。上っ面の表現になっています。
音をつけてみましょう。
(「えりには 名残りの 花
(ミミミシ ミミミシ ソー)」)
たった一つの強拍のためにいろいろな音やリズムを入れていくのです。そのあいだに、ことばがあるのです。とくに勉強してきた人がやっていることは、ただボールに球をあてているだけのことが多いのです。試合に勝つためにやっているのだから、三掘するか、ホームランというつもりで、前にきちんと飛ばさなくてはいけません。コツコツあてることを考えてもしかたないのは、バットにあてればよいという話ではないからです。それでは感覚や方向が違うということです。目的、方向がちがうのです。
ここで声や体を使うのは自分のフレーズを出すためです。いかに基本のことができていないかわかると思います。音楽を聞いたときにリズムを体に入れておく、呼吸をきちんと入れておくことです。
耳がまったくできていないと、出だしから遅れます。しかし、最初はそのことがわかりません。
読み込めていないし、読み込めていても、体で反応できていません。
一度にはできませんから、まず差があることを知ってください。
リズムは「ダンダンダー(ミシミシソー)」というくらいの感覚でやってみてください。
ことばでいって、押さえたところをそのままフレーズにするのです。高音なども、こういうベースの上に乗ってきます。そういう勉強を「ハイ」や「アオイ」でやってみましょう。
イブ・モンタンの歌い方をベースにして、そこに自分の歌い方をもってこないといけません。このベースを薄めているのではしかたありません。自分の体の入れ具合や、練り込み具合で、いろいろと動くわけですフレーズを聞きながら、何回もことばをいって、ことばをBGMにして、自分がメロディを走らせていきます。
ことばでさえどこかで突っぱねていかないとよくないです。。日本人の歌い方は、伸ばし過ぎ、インパクトを弱くしているのです。練り込みのところと放すところを、単調にしないで、もっと自由にすればよいのです。
素振りのときは、イメージは使っても、頭を使ってはよくないです。。お互いに聞いていたら、頭を使ったり、計算して歌っている部分では全部ダメということがわかってくると思います。体が働かなくなってしまうからです。感情移入する必要も、情景を思い浮かべる必要もないのですが、ただ伝えたいことや、メッセージをしっかりと取り出すのに、一度入れておくことです。
伝えようとしていないのだから伝わるはずがありません。すきだらけです。まず全力で振るしかないのです。全力で振っている中で、余計な力が抜けてきて、コツがわかってきて、一つのフォームになってきます。
フォームをきれいにまねようと思って、自分の半分から1/3くらいの力でやっています。そうしたら、プロと同じ音域で同じテンポ、同じ問合いのものは絶対にどこにもでてません。トレーニングの途中においては、なぜ、そこにすきができるのかを見つめることです。
ほとんどの場合、本人がそこに集中できていない、体が動いていない、メッセージが込められていない、取り出そうとしていないということからです。
それと、頭だけを使ってやろうとしまっています。アタマは使うべきですが、体がさぼるために使うからよくないのです。複雑なことをして、歌一曲をもっていけるわけがないのです。うまいとかへたではなくうまく歌おうとしているところで、すでに
大失敗なのです。そういうものを練習だと思わないでください。誰にでも、せっかくの才能があるのですが、小器用なまま終わってしまいます。
どれだけ全力でやらないと、線が出てこないかを知るにも、まず体を出し惜しまないことです。体で思い切り振ればよいということではないのですが、それが、基本の前段階です。それをやると、体ものども傷めることで、いけないということがわかります。それをのどではなく体の痛みで覚えていって、調整していきます。
トレーニングというのは真剣にやらないと危ないもので、100のうち99は、間違いを起こします。そこで一つだけしか正しくないのですが、それをいかに自分が本能的、反射的に感じ取って、修正していけるかということがその人の能力なのです。そのためには自分がそこで一つになっていないとよくないです。
皆さんは、集中していないで余裕があり過ぎです。
声と体との結びつきはバットにボールをあてることであり、次に大切なこととなります。
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「ビナリオ」
レッスンでは、この歌ではなく、この歌で勉強できることを学ぶのです。すべての先生のレッスンは材料にすぎないのです。これを正確に写せということではないのです。それを音楽にすればよいのです。
音楽を勉強していく難しさは、ゲームが見えないところです。スポーツなどと同じように、最低限、問われる力というのがあって、それがヴォーカルの場合は、トータルに見るのが難しいのです。日本ではシュートが誰よりもすごいというのでやれてしまうから、他に必要なことをまったく見なくなってしまいます。
本当はゲームである以上、トータルでの力をどう出していくかということです。自分のスタイルや、パターンがあって、そちらに持ち込めるなら、持ち込んで音楽にしてしまえばよいのです。しかし、それでは、自分が昨日まで、できていたことを単に課題を変えてできただけだから、勉強になりません。
それなら、自分の歌を歌っていたらよいのです。そういう人はこういう歌を与えられても、完全に自己流にもっていってしまうのです。ことばもメロディもリズムも自分の持つものしか出さないのなら、自分の歌を歌っているのと同じです。もちろんステージはそれでよいのです。
でも、勉強ということであれば、そこに何らかを気づき加えなくてはいけないのです。だからといって、ビルラが歌っている通りにコピーするというのは、難しくなります。
まず、呼吸が違う、発声も、キャパシティも違います。ビルラと同じ土俵で戦っても、イタリア人でも勝てないのですから、もっと無理です。これらは向こうの歌や言語で考えられています。
音程が狂ったからダメだとか、ビルラがやったように合わせなさいというのではないのです。音楽からはみ出したらダメだということです。自分でどう変えてもよいのです。ただ、自分が勝手に変え、自分が何をやっているかわからないがために音楽になっていないということでは、意味がないのです。
絶対にその音で音楽が進むはずのない音を出しても、そこに納得させられる理由があればよいのですが、それが単に、感覚の鈍さを露呈するだけのものであれば、そこは変えたり補っていかないといけないのです。
音程やリズムの練習が足りないということより、音の世界が読み込めていない、マップがつくれないこと、こういうものを投げ込まれたときに、自分がどう反応できるのか、これをどのキイ、どのテンポでやればよいのかが、わからないということでは、ダメだということなのです。
全体をパッとつかみ、音楽になる部分と捨てる部分を見つけ、テンポは、これでいくということを、体がわかっていかないといけないのです。そのことを毎回、勉強して、やって“いくことによって音感もリズムも直していくのです。
ビルラを聞いたところから、楽譜に置き換えるのではなく、ビルラの置き方から、作曲家がつくった旋律をなす線を捉えます。もともとは、こういう曲だったのではないかということを自分でおさえた上で、自分ならこのようにもっていく、という作業をやるのです。
シャンソンのように、歌ってみるまで、音域がとても広いというようなことがわからないことはないし、こういう歌い方からして、かなり広いというようなことはわかります。しかもフレーズは、リズムも音程も複雑ではないのです。それに対して反応できないというのは、結局、表向きで捉えているだけで、勉強ができていないということです。
音やリズムを変えても、どこまで自分の今までのものにひっぱり込むのか、程度がわかることがセンスです。解釈をして創造しなければならないのに、その解釈ができていないのです。一つひとつの音に意味があって、感覚に意味があるのです。
当時の人は、ここがよかったんだろうとか、歌い手はここをいいたかったのだろうということを踏まえておいて、その上で自分はどうするのかということを、短い時間で全集中をすることです。こういうものは、何時間もやればできるということではなく、できなければそこまでのことを勉強しなくてはいけないということです。
(「はげしい恋も 思いでものせて 汽車は行くよ
(ソソソソソソソb ファファファファミミミ ミ♭ミ♭レ♭シミ♭ーミbー)」)
クラスのなかでも、差があります。こういう歌は、慣れもあります。ここはいろいろなジャンルの曲を材料にしているので、どれも自分のなかで一つに捉えられるようにしていくことです。足りないものをいろいろ用意して補っているのですが、そのことで、守りの状態になっているとしたらよくありません。
レッスン数が増えていろいろなものがあるのですが、2年ごとにこういう曲をやるとよくわかるのです。皆さんができることには音楽が回っていない、というような気がします。何か歌わなければいけないときは、曲が24時間、回っているのです。ことばではなく、眼に見えるものではなく、音の世界で出していくわけです。それがあたりまえでなくなってきている、という気がします。
トレーニングのときに声を出し、家で音楽を聞く、そういうもののなかで、取り組めていないから、結局不自然さがいつまでたっても解消されないのでしょう。自然な状態に心と音楽が結びついていないのです。歌詞が一つひとつ違うように声や音色も違うのです。日本人は声のなかで表現できないのです。つまり顔を描けても、色を多彩に使えないのです。
トレーニングというのは、不自然なものだから、声を出すことに没頭していたらよいのです。ただ、その出口として、音楽や歌を志向しているか、すぐれているものの基本を踏んでいるか、あとで化けてくる可能性のあるものが、出口の部分にあるかということなのでしょう。そのあと、出てからどうなるかというのは、また別です。
入口というのは、感覚を変える、体を変えることです。自分を持っていなくてはいけない一方で自分にとらわれてもいけないということです。問題はそれを音の世界でやらなくてはいけないということです。
音の世界というのは、日本人としては、かなり意識的にやっていかないと間に合わないし、そこでつくるのは確かなわけです。声が聞こえればよいということではないのです。
シンコペーションも裏から入っていくのも、そこから入れていないのは、そういうリズムがその人に入っていないからです。リズムのトレーニングをやっただけでは、それは出てこないのです。
音の狂い方も、コード上ではなく出してはいけない音で終わっています。それはどう考えても進行上からそれているのです。それを声でできないといけません。すぐに反応できるようにしていかないとよくないです。
問題は正しいかどうかではなく、歌、音楽になるかどうかということです。それは基礎体力がないと、バタバタ走って終わってしまうので、その状態では声をあてるのも声を出すのもできないのです。トレーニングの時期として、声を取りにいこうとしたら、動きについていけない、ということはあります。
しかし、よく聞こえていないように、ごまかして歌っているのは一番よくないのです。そういう世界では、出たもの勝負という感じです。それは、家でやることで、1年目に徹底しておいて欲しいです。
時代が繊細さやていねいさを求めすぎ、パワーやインパクトを遠ざけているのでしょうか。昔の人は、レコードを擦り切れるまで聞いて、それで耳から覚えたのですその練習を経ないで、何かが出てくるということはないと思います。今日、うまくいかなかった人たちは、そこをしっかりと見つめないと何年たっても解決しません。苦手なまま放っておかないことです。苦手というのは、第一にそれだけやっていないということです。
これと似たような、オペラの曲はあるわけです。それを何回も聞いていたら、次にどういくかというのは、線で見えるのです。それぞれのスタイルもあるし、全てに対応しなさいとはいいませんが、少なくとも、このくらいのものは、口ずさんでとれないといけないのです。狭い音域で、難しくもないはずです。ことばに翻弄されないことです。音でしっかりと押さえているものを聞きましょう。
ビルラを聞くのではなくて、ビルラが歌っている感覚のところ、作曲家がつくった音の感覚のところを聞いて、勉強するのです。ビルラは、人によってやりやすい人とそうでない人がいると思います。ミルバほど、わかりやすくないのですが、基本的にしっかりとしており、高く評価されている人です。しかも、とても繊細に声に読み込んでいる部分があります。
線が出ている歌は強く、線が消えて点線になっている歌は弱いです。体のなかでしっかりともって、上で浮かせたり、ずらせないとよくないです。。慣れていない人は、音楽が流れてくるのに合わせて口ずさみましょう。
自分の予想とのくい違いや違和感から、音のルールを体や感覚に叩き込んでいくことです。なるべく多くのジャンルでやってみるとよいでしょう。日本語があまり得意ではない人は、カラオケで伴だけ聞いて、歌詞をおいてみるなどということをやってみるとよいと思います。
本来、それは練習ではなく、遊びのなかでやって育ってくるものです。トレーニングはあまり堅苦しく考えないで、楽しくやる部分がないといけないと思います。トレーニングをどこかで忘れるくらいの形で、自分の音やことばをもう一度、つくっていった方がよいのではないかと思います。
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「遠い街」
日本人は一般的に、1番を聞いて2番を聞いて、それに対して3番を聞くということをしていないです。楽器をやっている人や、アレンジャーはそう考えつくるでしょう。敬というのもそういう構成をとっている以上、理由があるわけです。
(「遠い街 遠い海 夢はるか ひとり旅
(ソーツソーソラー ラーララーラシー シーシシーシドー ドードレードソー)」)
新井英一さんの寸法でとっていくと、彼の場合、とてもポジションが深いし、ゆったりと歌っているので大変です。自分というより音楽を知らない人が何人もいて、持っていってはいけないという方向に展開しています。
昔の日本の歌は、メロディとことばのつけ方にこだわったものが多いです。これは「夢はるか」のところで逆転していますね。もっと「遠い街」のところでしめないといけないのです。
「ひとり」のところで盛り上げてもよいのですが、そこまで持っていける力がないといけません。そうでなければ、どこかで計算していないといけません。
(「迷い街
(ソーソーソラー)」)