一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 23101字 974

ステージ実習コメント 974

 

【ステージ実習④】

 

イベントなどでも動き出してみようとは思っています。ステージ実習、ライブ実習は、やはり大切なので、はずせないと思っていますが、何かグレードをはずした形でやろうと思っています。

声を深くして、重くしないと体が使えなくなっていきます。それを取ろうとすれば体に無理がかかりますから、動きが止まります。そこで感覚のフレーズの大きさが伴ったところにいろいろな音色が出てくるのです。そうではない人は音色がありません。

 

芸そのものを出す人と、それを伝える人(プロデューサー)の問題というのは今後の大きな問題です。日本もプロデュース型で動いています。ステージが発展していくとそうなるのです。核になるものと、伝えたいものが必ずしも一致していかないわけです。一人のアーティストのなかでもいろいろ起こることです。

ここが音声で表現する場だということがなかなか成り立ちません。わかっていても、やっていると矛盾が出てくるということです。息や体というのは正確なものです。そこに戻っていくと、自分のオリジナルなものにたどりつきます。

 

新しいものを出すことではなく、根本にあるものを掘り出すことです。そのことに入っていけばいくほど、伝える力が必ず強くなっていかなければ出なくなるのです。伝えるときはそのことだけ考え、他のことを考えなければよいと思います。二つを一致させるためには、音色の力のところまでいかないといけないということです。中途半端にやると、どちらかに偏って、ウソになってしまうのです。タレントやアイドルのヴォーカルの売りものは、ルックスで、声や歌は時間をカウントしているだけです。

 

 

一流の歌い手というのは、それが見えないように奥行きがあり、深さがあるのです。本物というのは、それを聞いた人がそれを残したいと思うでしょう。私はここで、何かを生み出す空間を正しく提供しているだけです。

新入態のときの緊張感を、もっと生み出せるような空間になるとよいと思います。合宿も同じです。そして、それを邪魔するものは排除していかなければいけないと思います。

 

表現は歌や音でやってください。花やジュースをくれるような人は、本質的なことをわかっていないのです。そういう考え方がここよりも自分を成長させられないのです。悪意は何もないだけに、困ったことだと思います。そういう人は自分勝手な手紙をたくさんくれるのです。自分を見つめ直すためにアテンダンスなどを書くようにいっているのに、出すことに満足してしまう。書く力がある分、書く方に逃げることになっているようです。そういう人は音の世界に入れなかっただけで、門のところでうろうろしているままということです。

 

それからブレスヴォイストレーニングというものの形は、あってないものであるのに、どんどん勝手に思い込んで形を決めてしまうことがあるようです。何も生み出せる場にならない、誰もそのように教えていないし、それでよいともいっていないのに、かたくなに自分がこうだと思って、まったくトレーニングにならないことをやって、それで効果の出ないのをトレーニング法のせいにするというのは、おかしなことです。それなら一人でやればよいのに、ここに来て、正さないのは、どうしてでしょう。

 

 

いくら気づかそうとしても気づいてくれないのです。そういう人はどうして「そうではない」と注意しないのかというのですが、何も出てこないのを否定したら、きっかけさえなくなります。日本人の好きな師の通りにやるという継承法はポップスでは、やるべきでないのです。「そうだ」というのが出るまで待つしかないのです。だから、よく見てよく聞くようにいうのです。

 

他の国で人が育つというのは、普通の人でも真剣に音の世界に入っているからです。日本のライブの客はそういうところを感じていないので、MCやバンド構成、ビジュアルなどで見せなければならないのでしょう。

自分を見つめ直して、音楽の世界にもっていくとき、フレーズというのは音楽の世界のことですから、声がなくてもできます。楽器や声の感じでも出せます。

オリジナルの声と、オリジナルのフレーズのどちらが大事かとなるとオリジナルのフレーズです。歌は音楽を宿していなくてはなりません。その結果、歌がうまいといわれ、ここにくる人は他人の音の世界の移し替えだけでやっている人が多くて、自分に戻っていないから、ウソが出てくるわけです。

 

型をとったあとに、クエスチョンがつくのです。自分にフィットしたものをつくる、つくると10のうち9はウソになります。それを捨てなければできないのです。勉強すればするほど、借りもののフレーズが多くなってきます。シャンソンやジャズをきいている、それをなんとなく形で落とし込んで、まねてはいけないところをとってしまうのがよくないのです。レパートリーが何曲あっても同じです。

ヴォイストレーニングというのは、何かをつくっていくのではなく、嘘を全部、はいでいくことです。それの繰り返しです。

 

 

型が好きな人(日本人などはそうですが)は多いです。しかし、音自体は人種、ジャンル、時空を越えるものです。歌も同じです。だとしたら、そこで耳を磨いていけばよい。ヴォーカルというのは、個々に主張があるわけだから、他のヴォーカルと肩が組めることはあり得ないと思います。

日本は基準が甘いので、そういうことが簡単にできてしまいます。その基準というのは、内輪のなかでの評判ということになります。そのため、そこにいると批判できないわけです。輪の外に出られない。そのため内輪で理解されるような表現をつくっていかなければならないのです。

 

だから、ベテランになればなるほど、学べなくなり、プロになったら死んでしまう。周囲でも、そしてここでも、そういうことが行なわれてしまう特別なとき以外、学べる場にならなくなってしまう。大衆に通用しなくてもいいのかというと、私はある意味では通用しなくてもいいという考えをもっています。

ウソと本当ということでいうと、本当に見えているアーティストというのは、今では売るものと自分の作品を分けているような気がします。それが一致するのは幸せな人です。つくった作物は自分では食わぬという困ったお百姓さんです。

 

個人的には好きであろうが、嫌いであろうが、その表現をそれぞれが煮詰めて、一生を通じてそれを出していけばそれでよいと思っています。中にこもってしまうよりは外に出してくれた方がよいと思います。

新しいものをまねるのがアーティストなのではなく、古いものを壊せるからアーティストなのです。今、アーティストが出ないのはあたりまえのことで、30年前にできたものや、向こうのものや他人のものにただのっかろうとしているだけだからです。

 

 

人は小説や歌や映画をつくりますが、それらは現実でも事実でもない。ないけれど、受け手がそれを受けて感動したら、その心の動きは事実であり現実なのです。歌や芸は、その人が出したものに何かが宿っていればよいのです。そういう形で本質を見ていかないと、どんどん学べなくなっていくわけです。

 

歌はこうだなどと決めつけないことです。問われることが何かということを土俵にのせて勝負しなければどうしようもありません。自分をひろいあげるということは遠回りな作業ですが、それをやらないと、にせもののままです。自分の足元を見つめて体や心で聞くということをしなければなりません。

 

まず、自分の心の動きという事実、現実からスタートすることです。そのとき、古いものも新しく生まれる契機が与えられます。歌は古いものも新しいものもそのままでは死んでいます。そこに息吹きをいれるのが、ヴォーカリストです。

 

 

安易に心地よいものを出そうとすると、ポップスでは価値観は変わってきます。それは動き出してくるのを待つしかないのです。安全策はありますが、全部、安全策をとるようになると、表現性を失ってしまうと思います。本質を見るということと、学び方がわかるということは、なかなか難しいと思います。

 

日本の場合、思い切ってはみ出そうという試みがポップスでは行なわれませんが、そういうことを出していくことが将来性につながっていきます。それはわからないものだからです。

はずしてよいわけではないですが、音程やリズムをとりにいくというのは低次元のことです。歌を安易に歌うということも同じです。皆さんも自分の課題というのをわかっていくことが肝心だと思います。

 

 

 

【ステージ実習 新①②③ 】

 

本来、私がここに立たないで成り立つ活動であって欲しいと思います。新入懇、1ではそういうことはあまり期待できませんし、方向づけもしていかないといけないので、いつも同じようなことを話しています。今回はそんなに悪くなかったと思います。それぞれの個性というかこんな人が来ているんだというものが伝われば、最低限クリアです。

個性というのは自分でこうだと認めでいるだけでよいといえば、それのない人間などいないわけですから、それをどのように音声で演出するかということが最大の課題です。

 

皆、個性があって次にどう演ずるかということを考えるのですが、どう演ずるかがあって、それに使える個性と、使えない個性があるのです。自分というのもいろいろなものが含まれていますから、こういうステージの場合も求められる役割に演じたところでみればよいし、それ以上、読み込む必要もないのです。

コメントするのはいつも同じ基準を決め、あえて皆さんのなかにおりていくということはしないようにしています。

人間のあたりまえのことがわかっていたら、あたりまえではない問題というのは出てこないのですが、あまりにわからないからそういうことを問題として捉えられなくなってしまい、その結果、いろいろと違っていってしまうわけです。

 

皆のなかで、どれが印象に残ったのかという問題だと思います。もう一回映像を見てここでどういう試みをしようとしたのかを見てください。そしてそれをどのようにフィードバックし、そのことから何を築きあげていくのかというのが、勉強です。そのことをやらないと伸びません。ヴォイストレーニングも同じです。

今日の笛のことばを聞いていると、こそばゆくなってくるのですが、しっかりとした指導者も、見本も、自分の外にはないのです。自分でそのことをフィードバックする力があるかないかということです。

本当のことというのは、唯一自分が正しくできるということです。それはとても厳しいことなのですが、そのためにここを使って欲しいのです。ここでは学び方についてはできる限りいって、そして、待っています。しかし誰よりもそれを求め待つのはあなた自身であるはずでしょう。

 

 

今までことばを表現としてあまり使ってこなかったから、いざ発表ということになれば大変です。普段のしゃべりとは違います。みんなのことばは、どこかで聞いた人のことばばかりで、まっとうなものばかりなのです。中に何人かは語れていた人たちがいました。それでよいし、それ以上背伸びをする必要はないのです。かっこいいことや、その他いろいろなことを多く取り入れると、原点に戻れなくなり表現力を弱めてしまいます。

当然、アマチュアレベルのことをプロでやろうとしたら、アマチュアの悪いところを全部消していかないといけないので何もなくなってしまうのですが、でも原点のところを消して何かやれるかといったら、やれないわけです。

 

テレビ局や、マスコミでも原点だけを大切にする人は、使いにくいということになっています。しかし、プロの技能や考えや基準がないのに、まわりに全部ゆだねてやってしまうと、身内のなかでは受けても、それで終わります。それよりは自分のままでいった方がよいと思います。そうでないと、ことばを使ってごまかすようなことになってしまいます。だから印象に残らないのです。たてまえ、言い訳、前提は必要ありません。

要は人前に立つなら、人と違うことをしようくらいに思えばよいのです。違うことというのが最初は見つからないわけです。だから自分の体験に根ざしたことをするしかないわけです。そこでは理屈や他の人のことばをいくらしゃべってみてもよくないです。。

一回目は、ライトのなかに立つということから、何が出せるかということです。

 

内容は、どうでもよくても伝わる力がポイントです。悟りとか、自分を磨くとか、人様のためにどうこうしたいなどと捉えない方がよいです。要は歌や声がよくなればよいのでしょう。だから自分を悟るというのは、声に出るのです。外国のアーティストは自分を悟っているから朽ちないのですが、日本の場合、音楽に身をゆだねていってしまっているところがあって、自分を裏切って音楽への逃げになりかねないところがあります。

自分を悟るということは、悟れる自分を作っていくことです。外国にいくと、自分はこういうことをやっている、といわないと向こうは理解してくれないでしょう。それは顔つきや格好よりも口から何が発せられるかということで始まるわけです。ほとんどの日本人は、名刺を出すくらいで、社名と年齢くらいしかいえません。

 

 

私は普通の人に認められなくてもよいから、プロが認めるものを求めます。そういうもののキャリアだけがその人の一番の自信になっていくのです。こういう世界は、人前に出れることから考えたらよいのです。そのときに自分は何ができるのか。それを身につければよいのです。そうしたら、あまりごたごたとしないでしょう。

 

活字を読まないよりは読んだ方がよいのですが、救いとか悟りとか、ボランティアという方にいって、現実からそれていくのは感心しません。

本来、現実と書物はまったく違うのに、そういうものを読んでそのまま受けてしまうわけです。読んだら捨てないといけません。ここも徹底的に疑ってそれで全部使い捨てたあと、何が残るかを考えなくてはいけないのです。だから私は自分の本でレッスンをしないし、ここをどう考えてもらってもよいと思います。

 

しかし、何もできないのなら少し参考にしたらよいのではないかと思うのです。自分は自分で他人にはなれない。そのことからスタートしないといけないのです。そういうことは一つひとつ具体的にしていった方がよいと思います。もっと大きな世界観や宇宙観は自分のなかをきちんと見つめていったら、否応なしに出てくるのです。活字のなかから入っていくと、行動ができなくなってしまいます。そして自分次第で何とかなったものを捨ててしまうということになるのです。

 

 

外のもので左右されるものではないのに、そういうもので左右されるのであれば、それはとても浅いものなのです。勉強した知だけで動いていると、現実の問題は解決しないし、本で解決できるのであればとっくに解決されているはずです。本人が考えないから解決しないわけです。本人が作っていかないからダメなのです。

強くなるということは弱くなるということです。それは問題が違ってくるだけです。大人のなると小学生の問題で悩まなくなるでしょう。でもなぜか20才くらいをすぎてから、小学生みたいになってしまうのです。でも老いていくと、小学生、子供になっていくわけです。その辺をあまり、ことばだけで、右左、黒白とつけていかない方がよいと思います。

 

クリスマスのライブも、これだけの人数がいてあの程度しかできないのかと思ったライブでした。メンバーで基準が示せないので、レーザーディスクや映像を見せているのです。その基準を知ってください。その人のなかに評価眼がないうちは、それから勉強していくしかないのです。許されるのと、やっていくのに充分な次元とはまったく違います。

 

関西で何も残せないのに東京に来たらもっとダメになるでしょう。日本と海外でも同じです。研究所以外でも同じです。おかれたところでまわりに力を認めさせられない人はどこにいってもやれないのです。やれたとしても、そういう気になっているだ

です。

しかし、今の東京ほど文化が根づかないところはありません。スポンサーでもつけて、TVになったものが有名になるというくらいで何も考えていないのです。ただ、刺激が外から入りやすいので、本気でやっている人にとっては少しは恵まれているかもしれません。

 

 

芸事の世界では、どのレベルで生きているというのが問題です。本物などを他に探しても仕方がないし、ごまかしも、いつまでも通用するものではありません。

にせものを求めて来る人の方が多いのですから、しかたないのです。本物のことだけをやると、ここはつぶれてしまうでしょう。こうしてしゃべっていることは、本音でいっているのです。探すものではなく、自分のなかにみつけるものです。

ここにいたら本物を求めている人ばかりとつきあえると思ったら間違いです。それではここを出たら、というのも間違いです。あなたの力がない限りよい友人くらいにはなれても活動を通じて切磋琢磨している関係にはなれないでしょう。

 

外も内もないのです。外にいようが、内にいようがきちんとしている人はしているのです。ここにいることに価値があるのではなくそれを自分で価値づけられるか、ということです。まわりがにせものであるというのは、自分がにせものだからそうであるだけのことです。自分が自分でなく、まわりに求めているのが、その証拠です。

だから、類は友をよび、なぐさめ合い、そこに自分の心を許してしまうわけです。そのようなことで満足できるのなら、そのレベルで生きていけばよいし、まわりのお友だちも同じです。そうなりたくなければ自分が切っていくしかないでしょう。でも、自分で何一つ示せないし創れない人が切るというのもおかしなことです。

 

ここでも本物の歌が出てくることがあります。それがここでの最高のゼイタクであり、ここの唯一の存在理由でもあります。それを二度か三度、出してくれたら、世界でも通用すると思います。

世界ではそれを毎回、毎曲出せる人がプ口です。売れないプロもいるし、売れている人がすぐれているというわけでもないのです。名も知られていないすごい人たちがゴロゴロといます。このレベルのことを日本人のプロがまったくできていません。

 

 

人と対立したくらいでやめるという世界ではないし、自分にデメリットを感じて負けてしまうというのは結局、大きな志がないからです。昔の人はどんな苦労があっても、その先のことが見えていたのでどんなことも耐えられたのです。逆にいえば、逃げ場がなかったのです。生き様、覚悟が夢を実現させるには必要です。そして、人生でそれだけのものがそこに凝縮されてきたから、それを放せないのです。

 

安易に手に入れたものは安易に離れますね。自分の大切な時間を10年もそのことに使っていたら、放せません。そうしたら否応なしにそうではない人より上達します。努力とか、一所懸命だとかいっている間はアマチュアです。

本当にやれた人たちは、いや、見ようとしたのでおもしろいとか、楽しいとかしかいわなかったような気がします。パワーと集中力がまったく違うのでしょう。

 

あなた方は、まっとうであれば昔より恵まれているはずです。アテンダンスなどに泣きごとを書き、いろいろなものを研究所に求めるのですが、もっとお金のない人、恵まれていない人もたくさんいるわけです。口に出せてしまうくらいの苦労では、どうしようもない安易な慰めを求めているだけで、だからこそあなたの価値は出てこないということです。

 

 

オリジナルが違うことばにおちて、人の心を打てばまだよいのですが、ことばで軽くしないことです。音声でその存在感を浮かせてしまうことは、するべきではないでしょう。他の演技学校などで通用したことも、ここでは通用しません。その人がどういう可能性をもって、音声で人をひきつけていくかということを見ています。舞台慣れなどは、一年くらいで大きく変わります。もっと大切なものを学んでいって欲しいのです。こういうことを勉強しようと思ったら、それくらいのことしか身につきません。

 

それ以上のものが得たければアマチュアのいい加減さというのは、除いていかないといけないのです。大体、まわりの人や、自分がよいと思っていたくらいのことなど、吹っとんでしまうはずです。だから何もなくなってしまうのです。そのとき、なくなっていないもの、見えないものが本物です。研究所の理論も、それが逃げ道になってしまうとよくありません。要は10~15秒で相手の心にどう入りこめるかということです。そして、結局、それを1時間続けて、もつかということです。

 

そのとき、理論は無力です。実際にその人のなかに宿っているものが、相手にわかるようになっていないといけません。だいたい人をみればわかります。

 

 

VTRを見たら、いろいろなタイプの人がいるのでよい勉強になると思います。私の評価と、皆の評価はまだまったく違うと思います。小手先ものはよくないです。。結局パワーしかないのです。そのパワーのなかに音を練り込むのです。

 

大切なことは根本をおさえることです。鬼になり、ステージになれるかということです。

練習というのはそれをやるための場です。それをよりよく伝えるために技術がついてきます。ヴォイストレーニングもそのなかにあります。

 

「実践を教えてくれ」とか、「精神論を聞きたいのではない」といわれても、どうやってものを見るかすぐれている作品とは一体何なのか、それに対して自分は何ができているのかということを問うと、日本では全ての人がわかっているどころかわかろうともしないのです。そういうことを考える必要があることを伝えるので精一杯です。そのことを見ないうちに発声練習をしても、歌を何曲覚えてみても、意味はないのです。

 

 

仲間内で歌うのならそれもよいかもしれませんが、それ以上のものを5年も10年もかけて作ろうというのであれば別です。自分を知るために、世界を知らないとしかたないのです。他人も知らないとできません。自分だけ見て、自分だけがんばっていて、一人でやりますといってみて、できるなら誰でもやっています。

 

だからこういう場に出ることはとても大切です。そこで好きなようにやってみたことが自分で楽しめて客も楽しめる、そういうことがどういうことなのかということを考えてみてください。映像を見て、一人でしっかり考えてください。

 

人間ににせものなんていません。本物、にせものというのは世の中にはありませんが、当人がきちんと見ていないといけないのです。問われるのは表現としての音声です。

親しい友だちもアドバイスもくれるでしょうが、この世界では、自分で決めて自分でやっていかなくてはいけません。誰も助けてくれません。それだけ本人がわかって、厳しく出していかなければいけません。

 

 

 

<ステージ実習①>

 

自分がやる意図を毎回もって、それに対してどこまできたかということをきちんと受け取ってください。ここはいろいろな使い方がありますし、練習の一環でもあります。いろいろな要素が問われます。これも一つのレッスンとして、それに対しどういう目的で臨んで何を得ようとしているかについて、自分で決めていくことです。いろいろな冒険をしてください。こちらはあまり絞り込まないで、長い眼で見ていこうと思っています。

 

課題曲はどちらも難しいのですが、プラシド・ドミンゴのような発声で日本人で歌える人はあまりいません。響かせていったり、フレーズ、声をきかせていく歌い手は日本に多いのですが、外国のポピュラーでは、あのような歌い方が一般的です。特にヨーロッパ、イギリス、フランス、ドイツなどは深いのです。そんなに偏ったものではありません。

 

イタリアなどでは南にはナポリターナのように響きでやわらかく歌うものが多く、そういうイメージですが、それに対し、北は暗いトーンです。そちらがそのあとアメリカに入ってポップスの基調になっています。そういうことでいうと、ポップスはアメリカが広める前にイタリアやフランスにもベースがあるのです。ここでとりあげるものはベースの部分の声のつくりがわかりやすいからです。

 

 

「木曽は山の中」

難しい曲です。両方とも何年後か、自分の声や感覚、音楽観ができてくるに従って、ふくらんでいく歌だと思います。両方ともその人の持ち味を出しやすい曲だからです。

 

自分のものを出すしかない曲であった割には、課題曲として未消化のまま終わったという気がします。歌を自分のものにするということは、うまいとかへたとかいうより、どういうことなのかということを考えてください。声よりフレーズということなのでそのなかの独自性というものがないと、勝負の土俵に上がりにくいのです。

歌っていくわけにもいかない。メロデイだけでもいけない。

 

自由曲も聞いても最後まで、のっぺりと声だけ出して終わっていたという感が否めないようです。ことば、特に詩の間については、急ぎすぎです。舞台ができないうちに始めて、作らないうちに終わって、引っ込んでしまうという感じになっています。一つは語るときの準備としての間が必要です。自分の心を整えるための間です。

 

 

語り方そのもののフレーズは、ことばのフレーズです。次につくった詩を作曲家の型をとってどう伝えるかということになります。歌の場合は、ほとんどの場合、自由な中にも型というのがあって、前にきたら、ステージの型を示して、それから入っていかないと、聞いている方ではことばだけ聞こえても、その人が何を伝え残したいのかが見えないのです。空間の支配から時間の支配に入ることです。

 

人前に立っての3秒は、歌い手にとっては長い時間です。でも聞いている人にとったらたいしたことはありません。そういう感覚に慣れていくことです。日常のなかでは作っていても、舞台になるととんでしまうのでしょう。人の視線や興味に対して慣れて、引き受けていくしかないのです。でも、それが欲しいからやるのでしょう。

 

礼をする、きちんと構え、語る、終わる。これは、歌においても区切りのために必要な儀礼です。気をつけるとよいと思います。少し慣れた人のステージでは、必ずそうなっています。ここでいろいろと気を遣ってもらう必要はないのです。自分の表現が出しやすいように、呼吸を整えることです。呼吸の上にしかこういうフレーズはのってきません。でないとバタバタと、終わってしまいます。

 

 

今はあまり細かいことはいいたくない時期です。1のときは、思い切っていろいろやってみてください。アマチュアの部分がなくなったときに、プロとしての部分が何も出てこないということはないのですが、そういうときには、またいいます。アマチュアを抜けたくないのが、一番困るのです。

ここでいうアマチュアとは自分の好き嫌いだけでやるとか他人の好き嫌いだけでやることです。プロとはその間をつなぐのです。メニューを自分で作っていくことです。

 

発声法やヴォイストレーニングというのは確かに、先生方が基準として教えるためにもっていますが、単純にいうと自分が歌ったり声を出したり、ことばに発したときに、どこに気持ちが入っていて、どこは声が出やすかったか。そのことの一番よいものだけを集めていけば、そうなるのです。

 

ただ、数は聞く人にもっと強く働くように創造する必要があります。

それが最初はわからないから、作っていくしかないのです。この歌を最初に歌うと、他の曲もやりやすいとか、このことばに自分の身が入るようだとかそういう感覚からです。そこから離れたものではよくないです。。だから100メニューをそのまま移しかえても、しかたないのです。

 

 

自分のレッスンで2~3カ月のなかでよかった部分をきちんととり出していくのです。それで自分のメニューをきちんと作っていきます。それは、次の年には使えないかもしれません。でもそれはずっと書きこんで続けていけばよいのです。メニューの成長が、歌の上達です。それには客観的な基準が必要だから学のです。

最初与えているのは材料であり、無難につくったもので、人のノウハウなのですから、自分のために書き変えていく必要があります。

 

自由曲は、自分の音楽的世界が出やすいものを選ぶとよいでしょう。聞いている分にはよいけど、自分がやるととんでもないことになってしまう曲もあります。でもそのことも知っていくとよいでしょう。

いつも甘いのは、自由曲の選択です。とんでもない曲をもってきています。それを選んでくること自体、自分のことを知っていない、さらん、まったくセンスのないように選んで作ってくるのです。

原曲と違いが出せないなら選ばないことです。また、自分に合わない曲、合わせられなかった曲、創れなかった曲は捨てておくことです。

課題曲は全員がやってきますから、他の人とどう違うようにやるかということが問われます。ただ歌うだけなら誰にでもできるのです。だから応用力が問われるわけです。

 

そして自由曲の方が基本の力が問われるのです。歌のなかから、自由曲を選ぶのもどう違うようにやるかということでは同じです。ところが自由曲の方が自分をごまかしてしまいがちです。好きな上に曲もよいからです。そこが難しいのです。つまり、曲そのものの展覧会をやるわけではないのです。曲の力と歌の力を分けることです。まして他人の歌なら尚さらでしょう。

 

 

ところが日本では、そういうコンテストが多いのです。珍しいもの、知らないもの、変わったものを並べたり、曲のよさや内容のよさでもたせてしまうのでは、ここで問うべき実力ではありません。

そのように両方、勉強してくることです。自由曲だけというのはよくないです。。基準がわからないうちに好きな曲だけ歌っていては、わからなくなってくるだけです。同じ曲で他の人はどう感覚していて、それをどのように声にしようとしたのかということを知ってこそ、すぐれている人からたくさん学ぶことができます。

自分のものにすることがどういうことなのかを知ることです。

 

歌は、あるレベルを過ぎるとトレーニングもステージもアマチュアのように楽しいということはあり得ないと思います。プロとしてやっていくほど、基準も厳しくなります。でも生きているものがステージに出せるということでいろいろなものが入っていくという楽しみ方ができるでしょう。

 

ここでは創造的なレッスンを心掛けていますが、きっかけを与えられて、気づくというのもおもしろいのも、皆に主体性があってのことなのです。あくまでレッスンはそれを引き出すきっかけにしかすぎません。日本では、引き出すことができていないのですが、1割くらいのきっかけをつかんで、あとの9割は自分で作って出すことです。

それを自らつくり出して、引き出されたというようにしないといけないのに、自分で線を引いてしまうのです。自分で決めつけていってはいけません。

 

 

先生のことばを一方的にとっていってしまうのは怠慢です。こういう世界では、自分の体の感覚を正しく信じられるようになるために学ぶのです。芸事において本物といわれるものを出すことに対して、自分で勉強して、自分で決めていくことです。

人が決めたものを気にする必要はないのです。国が決めようが法律が決めようが、そうでないことをやるから、新しいものが出てくるのです。全て一人の人が決めていくものです。

 

ただ、そのためには前にそれを決めた人たちよりも、勉強しなくてはいけません。その上で、時代をきちんと捉えていなくてはなりません。新しく生まれてきた人の方が、そのことにおいて正しいのです。ただ、年月はすぐれたものを淘汰しますから、50年、残った10作品が今年1年の50万の作品のうちの10よりも、よいこともあるのです。

 

時代が変わっていくのを、そのまま現すポップスからいうと、常に正解は違うのです。そのために、歴史を勉強したり過去のものを学んでいくのです。そのなかで残っているものはいったい何なのか、自分たちでつくりあげていくものはいったい何なのかということです。

たった一曲に全ての集中力や、気力をかける時期が必要です。

 

 

声を出さなくても、倒れるくらい、フラフラになるくらいのトレーニングは、人を楽しませるものではなく、自分のなかで実感をきちんとつかむためのものです。そのこと自体に意味があるのではないのですが、それだけ集中して、そのときの意験や感覚のなかで大切なことを自分の身に覚えさせることが最初の段階です。そのことがうまくできないなら、大事にそんなものを持っているといけません。本などを片っぱしから全部読むのもよいでしょう。本に読まれるということになり、学校に動かされるということになります。

 

表現というのはいろいろな勉強の仕方がありますが、自分が実際に使うツールは声帯や体であって、そこに表現というのが声で出せない以上、歌の世界ではよくないです。。思った通り自分でやって、ノートをつけていくようなことも大切だと思います。

 

その人のなかに入っていればよいのです。めんどくさがらないことです。努力というのはあたりまえのことをあたりまえにするためにきちんと時間をとって、きちんと今日やったことはどういうことなのかを復習するのです。基本を学ぶための勉強の基本は、こういうことです。簡単なことですが、難しいことです。

音楽のようにそこに出ていたら何となく満足できてしまうとしなくなってしまうのですが、そうすると、来年も5年後もないということです。

 

 

ある程度、刺激のある人がいないと私自身もレッスンをやる意味はなくなります。本当の価値は何なのかということを考えてみてください。歌をやりたいといってここに入ってきても、必ずしもそうでないでしょうだから、歌を自分のものとして選び直さなくてはなりません。他のものができないから、歌だと考えることではないと思います。

ここは厳しいかもしれませんが、ここで見たいステージは世界に通じるステージですから、そこを一致させておけばよいのです。日本のアーティストはすぐれたところもありますが、デビューしてから勉強しないし、客がそうでなくても許してしまいます。もう一つは、それをきちんと観ることのできる人が少ないのです。日本人は作品ではなく、人に会いにきているのです。これでは歌が余興になるのはあたりまえです。

 

向こうでは、まわりがヴォーカリストをしっかりと判断し客もうぬぼれた独走などは許しません。それなりに皆、プロとしてやっています。日本の社会だからしかたないと皆いいますが、それだからダメなのです。

その結果、日本できちんとやっている人も自分のやりたいことと、売れるものをつくることは分けてやっています。その二重構造がアートにまで日本の社会にあるわけです。表現するということは命をかけてやっていくことです。命より大切なものだと思います。永遠に残るものです。

 

今日のポイントは間です。語るフレーズ、歌うフレーズ、まず型を一つ覚えればよいと思います。毎回、違う型を作っては、それを破っていくのです。ずっと流れているのではBGMにすぎません。

それから、面倒くさがらずにやることです。やらないから勉強にならないのです。ここで2年間やることを一生かかってやっていくとよいでしょう。1カ月目にやることで5~10年かける世界です。それをやめたときに終わっていくしかありません。そんなに甘い世界ではないのです。

 

 

 

<ステージ実習②>

 

今年から、課題曲を選択できるようにしました。ポプコンの曲は難しいので、よい意味でいろいろと影響を受けてください。

今の新入、①はいろいろな人が幅広いところから入ってきて、案外とおもしろいです。人間ということでみています。歌の力のことはまだいってもしかたないのですが、人間のおもしろさはベースになります。

 

②のステージは、レッスンとこの場をどう関連づけるかということのデッサンができていないような気がします。まず太い線を一本通さなくてはいけなくて、それだけでは足りないから、いろいろなものが派生してついてくるくらいにしないといけないのに、複雑すぎて、その線が見えない。描いていないのです。

シンプルにするためにトレーニングをしているわけです。複雑にしていくと、問題がかぶさってくるというより、出口が見えなくなります。

 

よいところはようやく、裸になっていてはずかしくない芸を見せようと覚悟してきたというところです。でも裸のままでそこにあるという感じです。それを進歩したと見るべきなのか、少しは動けよと見るべきなのか。少なくとも、そのままでは作品にはなりません。

そういう時期だと思うと、見ることのできる人もいるので一概にはいえないのですが、黙って少しの間、立ってみる顔はできてきています。そのときできている以上のことを歌のなかで展開していかないといけません。その展開というのが、どうも小刻みすぎて、意図が見えてこないのです。

つまり、声の表情がキリッとしていないのです。だからもっと声で示さなくてはいけないし、声をおいていかなくてはいけません。声を感じないようにして歌えといっていますが、前に出し示すものは声しかないから、声で全部、示していかないといけません。

 

 

音楽に少し慣れてきた人には、何かびているようないやらしさを感じます。計算が計算のまま出ている。闘わないで安らぎを求めているようなもので、それは人に訴えかけるものではありません。その人の音色やリズムを感じさせる歌になっていません。

とりあえず裸なのはよいですが、脱いだだけではショウになりません。ショウ的な要素をとっていくのはよいのですが、2くらいになると、どう展開していくかの部分でそろそろ音楽に近づいていくアプローチが見たいものです。

 

日本のヴォーカリストがやっている程度の努力が歌の方へ見られません。トレーニングはトレーニングでプロの意識をもって、歌に対しないといけません。歌がどうこうというより、プロだと思わせるものが出ていません。だから5秒くらいでもたなくなってしまうのです。曲にふりまわされています。自分の意志や意図がないのです。

私が皆と同じ実力なら、5倍は練習してくるでしょうね。そうだわせてしまうことからおかしいのです。しっかりとやってくれば、歌詞を忘れても伝わるものがあるのです。

 

声を出せばよいというものでもないのです。全体的にこのくらいという程度でやってきたとしか思えないのです。一つのところに何も考えていないし、そこで何も感じていないのです。もっといえば自分の歌を録音で一回でも聞いたのでしょうか。回でも聞いてたら、そういうことをしないようなことをしているのはなぜでしょう。人を感じさせるというのは、それだけ感じてくる力がどこかにあるということです。それは全員にないとおかしいのです。一番大切なことが消えています。

 

この歌と、音、フレーズとどのくらいたわむれて過ごしたのか、というのがわからないのです。皆のは裸でも、キビキビした表情がないのです。イメージをもって音をひっぱる方向にいかないとよくないです。。一つひとつをきちんと感じていかないと練習なりません。耳に聞こえたのは4フレーズくらいで、あとは声を殺すような使い方になっていたようです。

 

一番まずいのは、最初の5~10秒で期待させなくなってしまうということです。それでは一曲でも最後までもちません。声のなかに感情や考えたことが溶け込んでいなくて、何か別のところにあるのです。それはもう少し声のなかに溶け込ませておかないと、出てこないのです。それを拒絶した歌い方というのもあるでしょうが、今日の曲では難しいでしょう。

 

感情や感性を自分で決めつけて指し示しているのは、いやらしいし、媚びにしかならないのです。映像でもみてみればよいと思いますが、それは技術でも何でもないのです。妥協ととりつくろいです。

本当はもっと形がピタッと定まっていないといけないはずです。定まらないと動かないのです。だから歌は難しいのです。感情も感性も、ことばをとるかリズムをとるかメロデイをとるかを練りつつ全て取り組んで、総合的に音楽の形をとるしかないわけです。そうではないところで勝負しようとしている気がします。一回、声に集約して出していかないといけません。

 

 

竹刀を振り回していたら、どこかに当たるというのではありません。なるべく振り回さないようにして、一本とるためだけ働かすのです。決めワザがないといえるのかもしれません。なくとも決めてこないといけません。計算がかくれるようにしなくてはいけないということです。

 

うまくやろうと思っている人は守りに入っていますから、これを一回、破らないといけません。まとまってくると、動き出さなくなってきます。歌に慣れた人の悪いところは最初から、どうおくかということだけでやっているのです。それは小さな枠のなかでやっているにすぎません。完全に満ちたあとはみ出ていって、破れたあとにおかれるべきところにおかれるのです。

 

長い質問がきたので答えておきます。まとめると「声にこだわってもしかたないということがわかってきた」ということらしいのです。それなら、歌にこだわってもしかたないのではないでしょうか。そして「インターネットなどで共同ワークをして作っていけばいいではないか」ということになっているのです。

 

 

「人は成長するものではなく、変化するものにすぎない。」という考え方というのはデジタル的なものです。人間の息吹である歌はアナログ的なもので、ピークを迎え終わっていくのです。

 

「貴族の趣味であったポップスが大衆の趣味までおちてきて」というところまではよいのですが、「そのなかからすべての芸術家が出る」というのはおかしな話です。全員ができることに関しては、より才能が問われるということです。より人間であることが問われるからより厳しくなるわけです。

 

「デジタルが人間に可能性を与えている」というのは、今まで才能があってもそういう時間がなかったとか、出せる場がなかったという人たちだけに有利なのであって、万人に有利になるわけではありません。むしろより実力の求められる社会になってくるわけです。

日本の社会でも、現実として起こっていますね。デジタルは、人間の能力を拡張するツールです。だからといって、誰でもアーティストになれるわけではわけではないでしょう。その人の内面の深いものがないといけない。全員がやれるというものは、たくさんあります。だから戻るしかないのです。

 

 

声も歌も型です。そのなかにはめ込んで、破っていかなければ、それは表現という世界のなかでは成り立ちません。

そういう意味では、デジタ化されても、甘い世界にはならないし、カがない人は安心してもだめでしょう。昔よりもっと勉強しなければいけない時代になっているというだけのことです。これは芸術家も同じです。本当にわかっている人は同じことをするのです。

新しい動きのほうが正しいし、それが時代ということです。しかしどこで闘うかというのは、どこでも大変です。でもどこにいても、当人の意識の問題で環境や状況で左右されるものではありません。

 

自分のなかで基準をつけてやっていってください。それが甘くなるとよくないですね。

歌い手は10割できないとしかたないのですが、こういう場では3割くらいでも、しっかりと勝てばよいのです。負けてもよいでしょう。そのときのイメージをきちんと入れていくことで見えてきます。そんな形で勉強してください。

その辺でプロといわれている人たちにも、20曲くらいのレパートリーはあるので、敬える歌えないは別にしてみて、心づもりとして、そのくらいはもっておくべきでしょう、

 

歌でやっていくのであ、常に準備をしてください。厳しくなればなるほど、歌える曲数は減ってきます。メニューも見直してください。日本人として、やるべきことはおいていますが、もっとよいメニューにたくさんしていきましょう。それをレッスンで拾い上げて作ってください。勉強の仕方が、雑なような気がします。その日にきても、すぐできなくなるので、そのときなぜできたのか、できなかったのかを考えていくことです。まず、自分の歌を観的に聞くことができるようになることが大切です。

 

 

 

<ステージ実習③>

 

全体的に少し似た印象を受けましたが、課題曲も自由曲も難しいので、自分のねらいに対してどうだったかということを判断してください。それを問うてください。手を胸にあてるのは、その人のスタイルであれば悪いとはいいませんが、それが表現を限定しているといけません。そうするには理由がないといけないのです。その理由が感じられないと、ステージに立つ資格がありません。そのことが表現の邪魔をしているということです。

レーニングのためにトレーニングをしているわけではないので、その辺は自分で直してください。歌というのは型をふまえた上で自由に出てきたものしか表現になりません。型をそのまま歌ってもしかたないのです。動作も同じです。

 

声を気にしていても歌うときはポジションが働いてあたりまえです。歌からいうと、ポジションが動かないのはおかしいのです。そうでなければ上昇感や、ノリが出てくることはありません。要はステージの覚悟ができておらず、トレーニングの守りで見せているわけです。一回、体から放れないとダメなのです。

 

それと同じことが構成のなかに出てしまい、ベタッとしている感じです。歌うときに声をとりにいったり声のことを考えるのはやめた方がよいです。いつもいっているように、慣性の法則というか、音楽の心地よさではないものが見えるのです。その人の思い込みのなかの型が見えてしまうと、そこから展開していかないのです。それは感覚の問題です。3分間のなかで一回は、ピークを作って終わらなくてはいけないのに、煮つまるところがないのです。構成というのは決めるところを決めていかないといけません。

 

 

曲を変えるのはよいですが、変えた方がおかしくなるのは理由がついていないからです。曲というのは、展開するために理由がついているのです。それを変えるとしたら、感覚上での理由をつけていかないといけない。そこではじめて脱得性を持つのです。

そのときに音楽がわかっているかわかっていないかが当然問われます。その人のなかのリズムや音楽を出すとき、ぶつかってくる要素を自分なりにスムーズに動かしたいというようなときには、変えてもよいわけです。

 

そうではないのに作ろうとしたら、一からつくるのと同じです。そこで原曲をしのぐというのは難しいことです。

歌詞を変えるくらいなら許されても、ピークというのをどこにつくるかということに対する流れを無視したら壊れます。そこから落ち込んでいく部分については、見るべきところをつくらないとバラバラになりかねません。音量や高音がどうこうという問題ではなく、やはり心の掛け具合が出てしまいます。

 

うまく歌っている人は、意識のおき方を変えています。心をこめてスキがないところとそれを忘れてのるところ、それがピタッと決まらないと、だらしない歌になってしまいます。全部を決めようと思うから、かえって決まらないのです。定点というか、ポイントが一曲のなかに何ヶ所かあるのです。それがないから厳しいのです。

 

 

声を純化させなければいけない部分もありますが、のど声では限度があります。シメと解放のところは、直線的に押していくというのは、うまくいかないのです。音に気の循環のようなものと感じてやっていかないとよくないです。

他人の型のなかで歌うことの一番のマイナスは、減点法になってしまうところです。音楽家のコンクールのように100というのを予知してやっていくと、そこからマイナスにしかなりません。

ポップスの場合は100分の100、つまり予期できる100点では0点と同じです。それを壊すやり方で創っていった方がよいでしょう。減点法でいくと失敗だけになってしまいます。

 

ポップスの場合は、型などは見えなくなる方がよいのです。そのなかで一つきちんとしたところが示されていればそれでよいのです。動きから型に入ってしまうのは、すごくもったいないことです。逆です。い歌には理想的な型が疲れるのです。

声だけで聞かせていく人はそれでもよいのですが、感覚やそれ以外の歌の表現で聞かせていく人は、型というのを歌のなかで破らないといけません。芯はある程度、変化しながらやっていかないと、心と感覚を入れにくいと思います。その辺のゆらぎやゆるやかさを心地よく本人が感じられることが大切です。

 

作曲者でも、作詞家でも、破るところを必ずつくります。歌い手の気持ちもそうでないといけないでしょう。それが一つのメリハリで起承転結の「転」にあたるところになるのです。歌では特にそういうことを考えて欲しいものです。それが見えた方が聞く方はわかりやすいと思います。その辺は自分のなかで映像を見て勉強してください。

 

 

ーー

 

<ステージ実習③>

 

いつもできそうになる時期が続くと、いきなりガタガタとくずれてしまいます。層はいつも薄いのですが、まだそれだけのカがないのだと思います。

ステージの問題は、集中力からです。声や技術のことより、やはり守りに入っているような気がします。それは歌のうまいへた以前に、問題外です。音声でやっている場合は、音が飛んでこないといけません。

ぼそぼそ口ごもっていたらどんなによい内容も伝わりません。単に飛んでいるだけではだめで、やはり、ある種の目的をもって、しっかりと相手に飛び込まないといけません。歌い手が、その意志を強く持たないといけません。その上で放していくのです。

 

どうしてもいつも自分のなかで回っているような感じです。何が作品になるのかということをもっと考えないと困ります。おそらく当人が未消化のまま来ているからで、それでは無理です。レッスンも成り立ちません。それを提示してはじめて、こちらも受け止められるわけです。

自分のなかでやってきたものを自分で好きにやっていればいいや、というのは自主トレと同じです。聞く人に働きかけないといけません。先行きも示していかないといけません。音楽の先にあるものへもっていくという意味です。

 

思想を出せというような、複雑なことはいいたくないのですが、あまりにも何もありません。音以外の何もありません。音さえ、扱いがいい加減です。だからその音に音色づくり、感情移入もできないのです。一人ひとりの歌い手が技術や声のよさ、詩のよさなどでやっていますが、その底に絶対なくてはならないのが、人への働きかけ、語りかけです。舞台にいる人が、すべてのものを一点にしっかりと提示してくれないことには、そこで聞いている人が、その一点を見れません。凝縮させるために、発声も必要なのです。何もないということを提示しているというのは意味がないのです。

 

 

皆さんの人生のなかでもいろいろなことが起きて、それ故いろいろといいたいことがあるのではないでしょうか。それを実体験としてそのまま出すのではなく、ことばにするのです。さらに自分の歌詞や音の世界にイマジネーションが働いて、象徴化される。イメージがつかんできたものを与えることが練習のプロセスのなかにどれだけ入っていたかということです。入っていたけれども、ここで出せなかったというのは、しかたありません。でも練習のときに入れていなければ、単に声だけチェックして、回してあげてきたなら、伝わらないのはあたりまえです。音に象徴させ、具体的イメージを抽象化し、それによって普遍性を得るのです。

 

ここのステージやトレーニングがおもしろくないとしたら、その先に何もないからで、本人のおもしろみのなさは、かばい切れません。歌もステージもおもしろくないものはよくない、どんなにシリアスなものでもおもしろくないとしかたありません。人の心をそこでとらえるにはすごいか、おもしろいかのどちらかです。すごいものは、おもしろいのです。

声でしっかりと歌うことは前提ですが、それがくずれたとしても何かが出てくればよいのですが、何かが出てくる気配がありません。それが一番の問題です。

 

それが基本のなかの基本で、それゆえ集中力や、運動神経が問われるところです。人間が集中したものは、見るものを集中させそれゆえおもしろくなるのです。歌い手はそれを提示して、音楽に対し自動修正をかけてくるのです。そういう感覚がひらかれ、扱っていなければ、出だしから。最後まで何も起こせず、それゆえ失敗して終わってしまいます。つまり、スタンスがよくないのです。

 

 

個人個人の立場や伸び方があるので、あまりいいたくないのですが、ただ、見た人に何かを残すことは不可欠です。何かが残せないというのは、始まっていないというより、逆に終わってしまっていることになりかねません。声、音、歌にとらわれて、もっと大切なものが、まったく、出ていません。そちらの方が大切なのです。

 

勝田先生のレッスンでも、いわれていると思いますが、当人が集中して、オーラを出さない限り、歌など始まりません。ここでやっていることは、そうでない場にいってもそれをすぐに変えられる力をつけることです。状況打開力なしに何もできません。それは、声よりも歌よりも大切なことなのです。

そこの部分でのパワー不足、すきだらけ、弱さというものがそのまま出ているような気がしました。声や歌のことをやっていながら、そのことに気をとられていることが悪いのです。それは、自分で正すべきトレーニングなのです。

そのトレーニングさえ、集中した空間でされているものでないと通用しません。作品が成り立っていないということは、そこのプロセスのなかでのだらしなさがそのまま出ているということになってしまうのです。

 

これは人前に立つときの一番のベースです。自分をさらしていく世界なので、それを切り替えられない、まわりの空気を変えられないまま、最後までいってしまうというのは、本当に気をつけないといけません。自分を見せに来ているのですから、あたりまえの時間の感覚をただ声に変えているというのは、何の意味もありません。かなり集約された時間に、集約された空間として創り出していかなければいけないのです。

 

 

その感覚は、当然、歌い手がもっているべきであり、最悪でもスポットライトがあたった瞬間に切り替わるべきものです。声のトレーニング以前の本質的なものだと思います。自分をそこにもっていき、自分のスタンスを提示することです。音楽的知識や、器用さ、声がないから歌えないということではなく、それを一回消して、3分間の表情を見てみるといいです。それが誠をもっていないから、ダメなのです。

一方、あまりに舞台というものに対して、正直すぎるのも問題です。ありのままの自分で通用するなら、その人は相当なプロです。そこで自分のテンションを上げて、最高のものを出そうということでなければ、通用するわけではありません。

 

ステージというのは一番、楽しい場所なのに、一番よい顔ができないのは、なぜかということです。お客さんもそれを期待しています。自分をよりアピールする武器がそこに入るはずなのに、トレーニング中といって、なぜマイナスになってしまうのでしょうか。考えているところ、見ていることが違うという気がします。

一所懸命やることも必要ですが、それは演じることに対して無関心でよいのではありません。その演じ方というのが、まったく、わかっていないような感じがします。普通の人が普通に出てきて、舞台になるということはないのです。だからここも条件を若千、つくって与えています。でも、本人がそこまでならないと、しかたないのです。編集していないフィルムを見せてもらったという感じです。いかに使えるものだけを集めて、構成してみせるか確かにメッセージを伝えられるかということです。

 

技術、歌の問題ではないと思います。それを私ほど、長く見ている人はいないと思うので、そんなことで、今さらカチンときたり、ダメだったとは思いません。でも、その核になるものが、欠けているときは、何をやっても意味がないのです。一所懸命やっているのもわかるからダメというのではなく、見ているところと、人前でやるという部分を変えていかないと、よくならないということです。まわりの勢いに乗せられたり、逆に勢いのなさに沈んでしまったり、いろいろなことがありますが、まずは自分の責任として引き受けてやっていくことです。

2の方は、ピアノ伴奏がついたのですが、いつも通り半分はどうしようもなかったですが、3、4人そこに一ヶ月のすべてをかけてやったという人がいたので救われた感じでした。プロセスはプロセスですが、やはり、いくつかの焦点はあてておいた方がよいと思います。