レッスン感想 977
今まで自分がやっていたステージング、もちろん歌う、表現するということなのだが、今日はそれ以前のこと(ステージ上のマナー、ステージに立つときのテンション、お客とのコミュニケーションについて学ぶところがたくさんありました。今まで、あまりこういったことを考えずに「ステージに立つ=歌う」とこのように考えて、つまり自分のことばかり考えて、ステージ上のマナー、お客とのコミュニケーション、こういったことをあまり考えていませんでした。
人前で歌うということは、やはりそれなりのマナーやコミュニケーションがある。こんな単純なことに今まで気づきませんでした。今日、トレーナーがいわれたことは、ステージングではあたりまえのことで、もちろんメインイベントは歌を歌うことなんだけど、それまでの準備、空間を自分の世界にするには、ことのことは、大変、自分にとっても有利なことで、お客の顔をじっと見ていると、いくぶん自分のステージングに近づけると思いました。
今日やった天の声地の声というのは、ちょっと不思議な世界だった。あれだけの人数で一斉に声を出すと、音と音がぶつかりあって、ひびきあっていろんな音が聞こえてきた。皆でテンションを上げていって、山をつくって一人でその頂点にのって、そのテンションをひきつぐ、一人になったとき元のテンションに戻ってはダメ。意味がない。このテンションですぐに声を出せるようにならないといけない。これは意識の問題で、発声とか体とか以前の問題。
先生方のライブに感動しました。涙が出ました。テレビで歌っている日本人アーティストが今ひとつもの足りなく思えました。
マヘリアを“抱きしめてください"に続く名言第2弾。“ひとつにまとめていく作業の幸せ。他の人たちより、ずっと幸せなはずです。”1.フレーズ感をもたせる。図に書いてみる 2.アクセント 3.SPEED、私のカンが鈍っているのか、話はもうひとつわからなくて、ひたすら耳で追っかけた。これからもそう。高梨先生は音を立体的に聞く才能に長けている。でも、おもしろかった。Stand by me体、めいっぱい動くことでいいことがいっぱい待っている。
CRUISIN'は歌っているうちに、どんどん楽しくなっていって、「リズムに乗ろう」とか「ここは、こんなふうにしよう」とか、何も考えずただひたすら「楽しくやろうよ」という気持ちでいた。そして、今までなかなか直せなかった、あごを上に上げてしまう歌い方と首をぐらぐらさせてしまうくせは、随分と改善されたと思う。腰からリズムが沸いてくるのだから、首をぐらぐらさせてしまったら、バランスをとることができない。いつもVTRをチェックして、気になっていても直せなかったのだが、それは表面的に直そうとしていたからできなかったのだ。自分の体の感覚で、そうなっていては不しぜんだから、そうならない感覚をつかむまでやってみれば、できることなのだ。この曲を一番にもってきたことで、自分自身のテンションがかなり上がったと思う。ただ、この曲のフレーズの最後の音の処理をしっかり止めていないところが多いのが気になった。自分ではリズムに乗っていて、気持ちいいのだが、息を吐きっぱなしの部分が続くと、聞いていて感じのいいものではない。
前回のプレBV座のときの自分と比べて変わったところは、頭で考えすぎなくなったこと。たとえば、ある部分を際立たせるために、ある部分を抑えるとか、構成を考えるとか、もちろん必要なことだと思う。けれど、それを頭で考えなくても、曲と、自分の呼吸が教えてくれる、導いてくれる。今までグループレッスンでも何度もいわれていて、わかっているつもりだったけれど、心から実感できるようになったのは、最近のことだ。それから、ことばを捉える感覚を変えたので、以前より前に飛んでいくようになったと思う。このような曲では、もっともっと大きく表現したいのだが、気持ちがからまわり、という感じ。バラードの曲でも、気持ちに表現がついていけない。ステージで自由に表現できるために。より深い呼吸、深いポジションを意識してトレーニング。
このレッスンでは、いつも先生の感覚をつかむことを考えている。私と先生(外国人の人など)とは歌の聞き方、感覚、中に入っているものが違うはずだからその見えないものを知りたいと思う。たとえば、基本的なこと、日本人は大きくなるところ、高くなるところを点であてるだけなど、そうじゃないんだと知識ではわかっていても私のなかには定型的な日本人の音の感覚が入っている、気をぬくと忘れて、歌などで点でとったりしてしまう(出すときはもちろん、聞いているときでさえ)そういうのをいちいちチェックして、無意識にできるようにクセをつけていく。(大きくとることターターターとか)日本人はもちろん外国の人にも通用するのが音楽のはずなのに、そうならないのはもったいない。音楽のことをもっと考える。シンプルとメリハリ、心の動き。
先生に「口の奥のほうで無理につくるな(流れを邪魔するな)、口の前のほうでしぜんに音にする」と個人的に注意された(今回は3人だったので個別に注意があった)。それが自分が今まで意識していたこと胸の中心から声が出るようにということ)と、完全に矛盾することに思えて、消化不良、気持ち悪いまま過ごしていた。しかし、ある日突然、その矛盾がいっきに解消された。下腹部(のみ)に意識をおいて、普段より何も意識しないことを意識する感じで声を出すと、前よりしぜんに声が出る。今までの声は、舌で押しつけていたところがあったと思う。
福島先生の文章のなかで「コクとキレのある声」ということばをよく目にするが、声を出す側の感覚からいえば、「何も足さない、何も引かない」(ウィスキーのCM中のことばだったか〉ことが大切なのではないかと思った。
入り方を鋭くしたり、音を伸ばしたりすると強調される。シンプルにできるようになるほど、勉強することが増えてくる。スタンダードな曲ほど、歌い手は自由に歌える。心を使うことができる。へんに伸ばして間のびするよりも切ること。向こうの歌い手は絶対にこびない。体のなかで4つ合わせて1つくらいの大きな働きがあるのか。音をつかんだまま動かすこと。音を離すな。力がなくても勝負しなければならないとき、自分はどうするか。とにかくほど遠いんだ。近づきたい。イメージなしには体現できないし、どまんなかをやるためには、その周辺をやらなければならない。音のなかで想像作業をしていく。細かく使い分けていく。もっと自由に、やわらかく、単純に。条件がわかったら単純に単純に絞り込んでゆく。できない中で今、自分はどこまでできるのかを知り、強化すること。まず一つ、今やった自分から出て、これはどこのプロにも負けないという基準をもつ。何が何でも。イメージの間違いはするな。イメージすれば必ず、それが出てくるはず。入っているもんしか出てこないし、出てこないなら出す努力をどこかでしなきゃ。表現に関してはできるところでどこまで動かせるか。できるところを高めていかないといけない。
下についたらバウンドする、回転、踏み込みその反動でもう一つはねかえってくる感じか。イメージはできても、音として出すのは難しい。音、メロディ、リズムに対するイメージが出ることを優先する、音の世界。声量がなくてもイメージがあれば声盤があるように聞かせられる。楽器とのアンサンブルを考える。カで押していってしまったり、感情を込めればできると思ってしまいがちだがそれは間違い。フレーズをつなぐ意識が大事。自分のなかでの完結ではなく、声の先が相手にどう届いているか、聞き取れないといけない。
声を出したときに、イメージからかれ離れていないか厳しくチェックする。“永遠に歌え、愛を讃える歌”(村上進)音を止める、動き出す。輪郭がハッキリしている。「あ」の部分で止めている。フレーズを聞いたときにその歌い手がどこに気持ちを込めていて、感情が高まっていて、止めるのも、動かすのも伸ばすのも理由があってやっていることを瞬時に感じられなくてはいけないのだ。そう考えてみると自分の聞き方はやはりまだ、歌い手自身を聞いているというよりは、BGMとして聞き流してしまっている部分が多いように思える。
また、曲のイメージとしては、つかめているつもりでも、いざ声にして出してみると、自分のなかの高まりとかが出ていっていない気がする。思い切りやってはみるけれど、それで伝わったことにはならない。今日のレッスンでやりたいことはわかるが、声として出ていかないという感じの人がいた。自分のも他の人にはそう聞こえているのではないか。レッスンの場では、他の人の声とやろうとしていることがどう結びついているかをもっと聞いていこうと思う。
「男と女」なんか気恥ずかしい、照れちゃう歌だと感じたが、繰り返しているうちにすごく楽しく、おもしろくなってきた。メロディが動かしやすい曲。「リズムで遊べるようになるといいですね。ああ、こういうことかな。「きこえるバダバダダバダバダこえよ(うたよ)ダバダバダ~こころのときめきよダバダバダ胸のこどう愛のうた(ふたりだけがわかるおと)ひとつの恋の物語がはじまるおとことおんなのひめやかな胸に」なんだか素直に、ことばがどう伝わるかということを考えてた。「ひとつ(ひとつにとりたい)の(横でなく、うねらせよう)恋の(恋のこいのこのエッジがあると流れず、きわだつのでは)ものがた(ッ)(伸ばさず、蹴って跳ぶ場合、ステップの踏み込みと着地に注意)りがはじま(ぁ)る(はじまるは文字どおり始まるイメージにしたら山なりになった)おとこ(「おとこ」をそれとなく、ちぎってうかべたい)とをイメージ「おとこ」と「おんな」あうんというか陰陽というか、すごくしぜんにのっている)おんなのひめやかな(半音ずつ降りてゆくところ。一音一音正確に当てられず、とにかく形にするには、こうする他はなかった)むねに」バックで自分が楽器をもって演奏に加わったらどんなフレーズを入れていくかを想定してみる、ということばが心に残った。老えたことなかったが、本当にリズムが変化しておもしろい曲。演奏したらきっと楽しいだろうな。実際にことばを交わすことはほとんどなかったけど、今年は先生とすごくたくさんの会話をした気がする。みんながそう感じているんだろうけど。〈自分へのメッセージ>もっともっとおもしろくなる。
先生が何らかの課題に気づかせるべく「カンツォーネ」。ミルバの歌を先に知っていたせいもあるかもしれないが、後者の歌はどうも気持ちよくない。“生が「特によいヴォーカリストではない」といったが、具体的によし悪しはわからない。この曲について、ミルバとは違う感じ方、捉え方をしているのはわかる。だが、何というのか、人間の感情を動かす大切なポイントを見逃しているような気がする。本人は気持ちいいんだろう。「おお、私らしいフレージングだ」と思っているかもしれない。ミルバはきっと、その瞬間に何をすべきかを(歌を自分を)わかっている人なんだろう。
私はよく「おお、私らしいフレージングだ」と思ってやっている自分はおもしろがっているが、他人はどんなふうに受け止めているだろう。レッスンのなかでフレーズを回すと、個人的な判断のなかで「いいな」「やだな」と感じとる。「こうすべき」とまでは考えつかないが、少なくとも「それは違うんじゃないの」とは感じられる。最近、思うのは「けっこう、みんな同じふうに感じているんだな」ということ。生理的感覚。
好印象を与えるブランドイメージやそのデザイン。話題の店の商品や内装、ムードとか人気メニューを食べると「この味のこんな感じが人々に受けるんだな」とか、レンタル度ベスト10のエロビデオのパッケージを見てみると「なるほどな(笑)」と感じたりとか、格闘技の試合のどんな瞬間に興するかとか、ちょっとした失敗やハブニングで笑えるシチュエーションや周囲のリアクションとか。そういった瞬間の感情を他人に伝えるのってすごく難しい。でも、それを伝えられる人間でありたい。そのために歌っているんだろう。
チャップリンが伝えたかったのは「笑い」だけではない。黒澤明の「どですかでん」を観た。一見、バラバラの風景が貼りつけられているようでいて、それは小さくて大きなひとつのかたまりを表現していた。しかも、その場面ごとに人間の感情を訴える大切なポイントを確実にヒットしている。人間を魅きつけるもの。痛快に裏切れるアイディアとそれを支える力が欲しい。〈自分へのメッセージ〉人間を魅きつける歌。
声のコントロール。1ハーハーハーハフレーズの出だし(入り際)と切り際をよりシャープに。毎回バラつかず、究極のベストをめざす。探ってみた。いろいろ。でもこういう作業に本当に集中できる時間というのは、とても短いことだとわかる。2ア(ア)ア(ア)ア(半ずらし交互にゆらす。カクカクせず、なめらかに)半音上がる部分は自分のポジションをずらして音に当てにいくのでなく、さらに息を前に出す感覚。フィーリングはわかる気がするが、まったくできない。3ハッハッハッハッハッ息をしっかり吐く。全部、吐ききる。吐き抜くイメージ。ぜんぜん、まったくできなかった。ちょっとおじけづいた。本当にできねえや。
正直なところ、よくネタがつきないなと思う。過去、まったく同じレッスンは存在しないんだもの。とてつもない数の曲を聞き、それもとことん深く感じて、それを体現すべく繰り返し繰り返し、紙やすりで磨くようにしてやっと浮き彫りにして確信してきたポイントであろうと思う(こうして書くのはラクだな、)。
こうして毎回打ちのめされる。自分の程度を思い知る。目が覚める。
私はしょっちゅう、うぬぼれる。調子にのる。クリエイトするにはそれが必要だとも思う。ライブでは自分を絶対的に信じる。でもトレーニングでは自分を絶対的に疑わなきゃ。もっともっと疑わなきゃいけない。トレーニングで自分を中途半端に信じていると、ライブで裏切られるんだ。とことん。98年、はじめ私は細かく部分ばかり見過ぎてがんじがらめになった。一度、全部放り出した。軽くなった。自分が思うことを自分がおもしろいと思うことをやってみた。予想以上にいい反応があった。視界から少しずつ広がっていった。全体が見えるようになってきた。全体を捉えてから部分を見てみたら、その理由がわかるようになった。その大切さが感じられるようになってきた。だからこれからも、この場へ心に冷水をぶっかけられに来なけりゃいけない。ちょっと、ここを辞める勇気はない。
呼吸を整え、姿勢を整え、息を声に変えていく。エイ。アイ。確実に、深く、強く発せられるように。へんに力んだり、のどにかかったりした。私がどんなにきばっても、せいぜい先生の1/3くらいのパワー。差を痛感した。これを毎日続けて、声が荒れなければ、正しいポジションということになる。その気合い、声のポジションで歌う。歌うためのトレーニングだもの。
フレージング1.Ciao Ciao bannbind曲の出だし。とぎれとぎれのようだが、実際うねりつながっているのだ。2.ma(ンマッ〉piovepiove(ビオベッ ビオーベッ)I sul nostro amorエンディング。リズムをスパッと断って、歌い上げ。また元のリズムに戻る。すごコシのあるねばり。なんか聞き覚えがあるなと思ったらコレ、もしかしてドメニコの歌かも。
「グルーブを生むトレーニング」聖者の行進(ルイアームストロング)で学ぶ。死んでいる音楽⇔命を宿した音楽
「2、4拍を強く感じとってみる。」強調して歌ってみる。あるいは身体をたたきながら歌ってみるといい。
「スタッカートで歌ってみる。それでいて、メロディの流れが見えるように。ああ、なるほど福島先生の講議にあった[あなただけー]と同義のことか。
「ゆっくり歌ってみる。」それでいてリズム感を手放さぬように。実際に体験して、その意味がすごくわかった。気を集中しないと真横にでれぇ~っと流れ、ひきずってしまう。そうさせまいと気持ちが身体が真剣に考える。オリジナルのフレーズはこういうところから生まれるんだろうなと思った。感謝。
ずっと前、福島先生のコメントに「速い曲をゆっくり歌ってみるといいかも」とあったが、こういうことだったんだな。ゆっくり歌っても弾力失わぬように。(年末にセリーヌ・ディオンがタイタニックの歌、歌っているTVで観たとき、ゆったりした一行、一行のなかにすごくたくさんのものがつめこまれているんだなと感じた。ゆったりした歌だから見えやすかったのかも。映像もあったし。)
.「一音で歌ってみる。」あの、ジャズシンガーなどがノッてきたときにやるやつ。すごくリズムが浮き彫りになる。口先だとまったく動かない。サッチモはとても参考になった。/心から、全身で楽しまなきゃ、グルーブは生まれないもんだ。プロは一定の時空間のなかで、自由に動きまわれる。タテの動き。高梨さんの図からそのイメージがなんとなく伝わってきた。「喰らう」楽譜上の音符より早めにフレーズをはじめること。感覚的には知ってたが、直前に休符が入っていることや、ぐんと投げる感じまで、読みとれてなかった。改めてサッチモを聞くと、まるで外野からバックホームするくらい遠くからぶん投げてて、笑っちゃう。すごく、おもしろかったし、ありがたかった。
発声するときには、上半身に余計な力を入れずに、胸をはり、少し上を向き、ヘその下あたりから声を取り出す感じで、のどを開けて、前に声を飛ばす感じで出す。声を内にためるのではなくて、外に捨てること。「ヤッホー」を発声することにおいて「ヤッ」でつかんでいなくてはいけない。そのつかんだ「ヤッ」と同じように「ホー」も出す。のどにかけず、体から出す。「ハイハイハイ」においては、無理に発声するのではなくしぜんに。「ヤッホー」を発声するとき、力み過ぎてとてものどにきてしまった。こんなにのどにきたのは久しぶりくらいきた。上半身に余計な力が入り過ぎた。「ホー」を無理に伸ばそうとして、のどが完全に開いていないのに大声でしてしまったので、か細い、汚い声になってしまった。一番の敗因は、大声を出そうとして力んだことだ思う。徐々に声を大きくすればよいのに、最初から出そうとしすぎた。首筋に力が入っていることを指摘していただいたが、かなり自分でも力が入っていることがわかった。無意識にだと、少しは大声が出るのに意識してしまうと、まるでだめだった。とくに高音部分でいおうとすると、のどにかかりっぱなしだった。とにかくのどを開け、そののどを開けるためにへその下あたりに集中して全身から出すつもりで、声を前に飛ばすようにしようと思う。トレーナーの「ヤッホー」を聞いたときに、自分の「ヤッホー」との差に気が遠くなってしまった。このままでは絶対にだめだと痛感させられた。
体の動きに気をとられる部分もあったが、ひざを曲げて、沈んでいく動きを声を深く太くしていくときの具体的なイメージとして捉えられるのでわかりやすかった。「よぉーおいーしょ」の「おい」の部分が沈んでから浮き上がる部分の滑らかな分岐点として、しっかり捉えられた気がした。息を吸うときにのどを開く。何かのどの部分にさわやかな空間が生まれるような気持ちのよい感覚。そのまま発声にもっていく。いろいろ体を動かしながら声を出すのは、実際、その動きが発声に影響を与えるというよりは、イメージが強く喚起されるということだろう。しゃべりやシャウトの感覚でフレーズにもっていく。他の人のフレーズを聞いてみて、この人たちはこんなに歌えただろうかと驚いた。歌うとなるとメロディに乗って流れてしまいやすい。このときは、大きく上や下に動きながら前に進んでいっている感じだった。表情は見えていた。
基本的に8ビートの回転が体のなかで回っているようにする。そのなかで表と裏が感じられるように。表と裏というのも楽譜で表されるような直線ではなく曲線である。腰を中心にしてなわとびのように体を回す。なかなかうまく回らなかったが、徐々にスムーズになっていくのは感じられた。これをつきつめていくと「腰を回す」感覚から「腰が回る」感覚になっていくのだろう。滑らかな動きを強くイメージすること。リズムが回るようになってきたら、次にアフタビートを感じる。2、4拍目を強く感じる。リズムを回しながら、2、4拍目に手拍子を打ってみる。自分でやってみて、まったく表面的に手拍子をあてるだけという感じにはならなかったが、もっと無意識にもっとしぜんに、もっと力強くできるはずだと思った。実際、声を出して、2、4拍目を強くするというのをやってみたが、思ったよりうまくいかなかった。思ったより強く出せない。もっと強く感じることが必要。
曲の感じというものを捉える。何でもカ任せに出したり、一本調子に押したりしない。女性が歌っていて、しかも何かホワッとした部分だったので、自分とかけ離れている感じで、難しかったが、それでも自分なりに感じるものを出す必要がある。自分をゴリ押しせずに曲に素直に出会って感じる。構成が変わる部分で歌い方がやはり変わる必要がある。無意識に感じてしぜんに変わっていれば理想だが、なかなかそれはできないので意識的に固くなっているところを崩していく。他の人のフレーズを聞いていると「変えようとしているな、けど本人が思ったよりは変わってないだろうな。」と思った。そして、これは他の人が自分のフレーズを聞いたときの感想でもあるだろう。大げさに思い切ってやる必要がある。曲を感じて、感じたままに出す。深く感じて大きく出す。そうしたところで、音楽的な部分でつまったりして、うまくというわけではないだろう。だが、外せないところだ。音だけでそこに感情が見えなくなってしまう。曲を思い込みで捉えず、何もないところに入れてく。そこで反応するものを出す。
トレーナーの先生は瞬時に状態を捉えて、再現するのがすごい。自分の声を聞くのはいいが、意識が歌にいってなかったらナンセンス。同じ60分でも、うっかりしたら流れてしまう。会報に載っているような皆はあれだけのことを同じ時間、こと細かに察知、感じている。同じだけの耳や感性があって且つことばを与えることができて、やっと同じ土俵に立てる。でも、まったくわからないし書くこともない、うーん。確実に胸に息が入らないようにする。手を当ててなくても、緊張してても。
ブレストレーニングを中心に行なったが、今さらではあるが、姿勢の大切さということを学んだ。しっかりと背筋を伸ばし、胸を高く張り、肩の力を抜いて、手をだらりと下げ、しぜんに立つ(実は、このしぜんが難しく、数分ともたない)ということ。腹式呼吸そしてそれを声に変えていく過程ではこの状態を確実にマスターすることが不可欠といえる。2年かかって、やっとその大切さに気づけた。で、実際のブレスでは、横隔膜を境にして、その下側だけが動くという状態を保つこと。吐きながらも胸は高く張った形を決してくずさず(どちらかというと、さらに高く胸を広げていく感覚)吐き切る。そして、しぜんに息が入り込むようにする(このとき、胸に入らないようにする。特に最後のほうで姿勢がくずれたり、気が緩みがちになるので注意)。これまで胸が何度かおこなうと苦しくなっていたのは、姿勢が正しくなかったからであると思えた。
実際に歌を歌うときに直立不動にはならないが、まず、正しくできる状態を徹底的に体にたたき込んでいくことが不可欠で、くずすのはそのあとでおこなうことだと思う。結局、身につけていく過程で、とばしてやっていくと、必ず、そこへ戻らなければいけないようになっているようだ。今回も含めて、姿勢というものを軽視して中途半端にやってきたから、今、壁にきっちりとぶつかっている。土台のないところにものは立たないということである。しかしながら、何が正しくて何が間違っているのかは、やり続けていくことでしか、気づけない。人のことばではなく、身をもってわかることが何よりも大切である。確かなものとなっていくはず。
口の奥(奥歯の上側)をしっかり開けていき、頬をもち上げ、笑顔の状態を保っていく。ただし、ただ単に上にあてていくのではなく、しっかりとお腹から息を流していくことが大切。腰まわりから息を流す→そのときに奥歯の上側を開けていく口先だけでない、縦の深いひびきが得られる→ということは、のどが疲れない(注意:口の形だけで、音色を作らないこと)/スタッカートの「ハッ」は声に出て、息が強すぎて「ハァッ」という感じになってしまい、息がもれてから声が出てしまっている。だから「ハイ」も同様の結果が起こりやすい。「ハ」としっかりいい切り、声に変えていくこと。以前と比べると、いくつかの前にひびいた形で出せている声があった。あとはこの確率を根気よく、1%ずつでいいから、上げていくこと。
弘田三枝子さんの歌は「人形の家」しか記憶になくて「わたしは~あなたに~」という鼻にかかった歌い方をする人、という印象しかもっていなかったのですが、すごくパンチの利いた歌を歌う人なんですねえ。昔の歌い手さんは、やっぱりうまいんですね。弘田さんのような入り方をまねしてみたのですが、無残に玉砕してしまいました。「こんな気持ちがどんなにさみしいものか」のところが一番、難しかった。なかなか、自分にしっくりくるフレーズがみつけられなくて、そうなるとバラバラになってしまう。自分で歌っているときに、次のフレーズを冷静に考えて待ってしまっているような時間ができてしまうことがある。そういうときは、嘘になっているときだ。やはり、入る部分をバシッと決めていないからそうなってしまったようだ。そのあとの「誰かあの人~欲しいの」は曲に乗せていけばしぜんに進んでいける。この、弘田さんのテンションに負けじと、なかば投げやりになっているような失恋の歌を歌ってみたが、弘田さんに負けてしまった。まだまだ、イメージ不足だ。
しばらく本から離れてまた戻ってみると、違うフレーズにインスピレーションが働いたりとか、ニュアンスが伝わってきたりする。同じことを理解するのにも切り口を変えてみるといい、西から攻めるときもあれば、東から拝む。何度も読んでいるつもりで言葉のはしばしを覚えていても、ぜんぜんシンプルに要約できてなかったりとか、課題をやる意味がいまだにわからなかったりする。
トレーナーは、なんでそんなに深く、緻密にいい表わすことができるんだろうと思った。計算したり、加減したりのことまで読み取ることはできないけど。いままでよそで接したことのない質の誠実さだ。キワモノだなあ、せっかくたぐりよせたのに放したら損失のようにも感じた。なんでいつもいつも浄化していられないのだろうか。行ったときだけ洗われるようじゃ、やっぱり必要がない。
60年代から70年代にかけて、音楽の甲子園といわれたYAMAHAのポプコンの特集。おしなべて皆、声の伸びが気持ちいい。私がこの年代についていけるというのを別にしても(たぶん)、素直な人生への考察がある、叫びがある。いつの時代にも共通であるはずのものだ。万国共通なものだ。宇多田ヒカルのように音で感じているなと思える人もいるけど、ある一定以上の年代の人の多くが感じ、発している、仮面舞踏会のような、今の若者文化、もっとセンチになっていい、ごまかしていることに、やがて気づくetc.ストレートに伝わってくるなぁというのを感じた。
ふっと心を捉えたのは大友裕子の「傷心」だった。去年の今ごろよく聞いたジャニス・ジョプリンを思い出した、本人もそれらの音が入っていたに違いない。ことばに息を流そうとするのでなく、思いがあれば息が流れるのが本来じゃないかと思った。虚をつかれたというか、涙腺をつかれてしまった。この熱唱の主は、今どこでどうしているのだろう。/若いときのお酒は高揚、未来とカン違い。少したてば、無為の年月の悔恨、軽蔑、よどみ、いろいろ。年々、殻がとれていって悲しくなるのは当然のこと。だからそれらを浄化・結晶させた形での歌なり、何なり、無意識に求めているもの。
先生のいう生活に根ざしたというのがどういうことなのかは、よくわからないけど/ほんの10年、20年前の普通の若者でもシンプルにここまではやっていたんだ。今だから感じれるのかなと思った。ただ自分が墓場にいるのなら、すでに肉体はないわけだから、何を思うが、何を発言しようがすべてむだだ。
福島先生は、10くらいのパターンがあればいいのだとおっしゃった。B1の人たちのフレーズは、長く聞いてきたから予測はつくのだけれども無駄はない。その人のオリジナルパターンであることに違いはない。今日、オリジナルということであるということと、その人なりの無難ということは紙一重と聞こえた。ここが自分なのだ、これが自分の売りだということをどこにおくかというバランスは微妙だ。安全策として使うのも、失敗しないように使うのも、効果として使うのも全体のなかでバランスが悪く聞こえれば“慣れ”“守り"に聞こえてしまう。だから逆にそれを勝負に使うということは、歌い手自身としては両刃の刃を使うような、実は危険性の高い、覚悟の必要なことなのだ。どんなバランスの乱れで、そこがマイナスに作用してしまうかわからない。特に同じ客の前でずっとやってくれば、よけいにそうだろう。ステージの初めからずっといいテンションでやってきても、不測の事態に見舞われたとき、最も使いやすい武器として、風避けに使うようにとっさに使ってしまったとき、客のなかでとたんに風景が変わってしまうことだってよくある。(客でしかその場にはいないですが)取り出せたら取り出せたで、大変だ。/さて、自分のレベルとなると、オリジナルどころか自然な流れや、ちょっとベーシックなこうした課題のとき、自分のなかでまず描くMAPが、やりやすいやり方なのか、やりたいやり方なのかさえ、あとから判断がつかない。そのときはとにかく体に入れてみて、「だってこう思うんだもの」というやり方でやっているつもりになっているのだが、あとから自分でやってみてTAPEでここも除く、ここも除く、とやっていくと最後にはもう何がなんだかわからなくなる。音楽ファンではあるのだけれど、自分が惹かれたり感じるものというのがあって、それのエッセンスでもまねになってしまうということで、聞いたことがあると感じたら全部除いてみると引き出しにとりあえずなにもなくなってしまう。出しやすいやり方、自分の体が正直に反応するやり方、正しく出ている(いくら歌ってものどが疲れないような目安)ようなときでも、自分でも、誰のだかはわからないものでも、まねなんだろうと感じる。どんなに自然でも、「自分の呼吸ではない」そう思わざるをえない。何も出てこないから曲と、自分と、音楽の三角形になってしまって、そのまんなかに行けない。ずっとそんなところで同じことを繰り返し続けている。取り去る方向で歌のことは続けているのだが、タマネギやらっきちょのように、その作業の果てに自分のなかのオリジナルの核が埋まっているように今は感じられない。なにもないようにしか思えない闇から、何かを形にする。音楽はそういう世界だから悪い意味で苦には思わないが、渋滞が酷い。一方、抜け道という意味でなく、なんか根本が間違っているんじゃないということは、言い訳にはならないように常にどこかで検証している必要がある。それで迷ってしまうようでは元も子もないけれど。、
普通であること、聞きやすいこと。めちゃくちゃに単純で、「なんでそんなに素朴に、切りっぱなしみたいに歌うんだろう」「音符に忠実に歌うんだろう(音程とかリズムとかでなく)」と一流の歌い手には思わされる。音程だって取りにいっているようにしか聞こえない。(とっているんだよ。しっかりと。あたりまえだ)数カ月まえのN先生のレッスンで、「もっと普通に。普通の人が元の曲を聞いたとき、ぱっと聞いたとき、“ああ、ここがいいなあ”と思ったところは素直にそのまま出せばいい。なんかしようとか、よけいなことをしない。」といわれた。まねだろうが、なんだろうが、ここが好きなんだよ、ここが気持ちいいんだよと聞こえたとおり、するっとみんなが出したとき「さっきよりはよくなった。聞きやすい」といわれた。それは、ここにはいってから一番はっとしたことだった。それからは、練習のときはとにかく、据え置きでなく、右手にマイクロカセットを握りしめっぱなしで練習。出す、聞く、修正に自分の感覚を差し挟まない。感覚で「今のはまったく問題外。だから聞く必要もない。よくない。」と判断して聞き直しをしなかったようなときでも、とにかく聞く。除く。ひたすら除く。いろんなことを除く。いやだとか、聞きづらいと思うものは除く。丸刈りのヨークシャテリアみたいになっちゃってもとにかく除く。聞きやすくはなってゆく。前よりはナンボかまし。にはなるんだがだから何なんだ、というものにしかならない。いやだと思われないのはいいんだろうけど、だから何。これにボリュームや音色をつけていくということなのだろう。中山さんの無駄のない歌のフォームが呪のように耳の奥を横切る。ここに、感情的にテンションをつけてしまえば、この道はいつかきた道。もっと自律できるテンションと体の力との柔軟なバランス。互いに自由にしあい、エネルギーを送り込みあえるバランス。私のやじろべえの支点はどこにある。、