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福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー 表現法 ここでの学び方について 10850字 982

レクチャー  982

 

【表現法 ここでの学び方について~学校で教わらなかった大事なこと】

 

 

〇アウトプットからインプットを考える

 

知識というのは使わないと意味がないのです。知識自体を暗記して、記憶して反復するということでは現実にうまく対処できず、なんら創造的作業がなされているとは言えません。

知識の創造的活用を考えるときに、知識そのものの持っている特徴から、二つの問題が浮かんできます。

 

ひとつは知識を獲得する環境づくりをどうするかということ、つまり知識のインプットの問題、もうひとつはそれをどう使うかという問題。これは知識をどのようにアウトプットするのかということです。

 

知識の入れ方としては、学校の場合はテキストを渡し、それを覚えていくという形を取ります。しかし、本当はテキストがないときに、どうやってテキストを探すかから始まって、どのように一日をカリキュラムするかということが現実の問題です。学校でやっていることは反復学習して、テストでそのまま書き移し、100点満点という正解に、どれだけ近づくかという作業です。記憶による暗記学習が中心になっています。

 

ここでやっていることは、学んだ人が何を学んだのかというよりも、どう学んだかということです。

それは具体的にはどのようなスケジュールを組み、どのような場で、どれだけの時間をかけたのかというプロセスを問うことです。

 

何事であれ、教育は後で何らかの意味を生じさせるためにやるのですから、大切なことは、勉強の環境を整え、その習慣を身につけることです。学校の場合、試験があるとその前にバァーツと詰め込んで終り、ということしか行われないから、本当の意味での習慣づくりには失敗しています。

学校に行って、授業時間に拘束されることが習慣になっているから、学校に行かなくなったら、知識も勉強の習慣も全部消えてしまうのです。

 

まして、社会人ともなると机を獲得することに始まり、勤務時間以外に許された自分の時間のなかで、どこに勉強する時間を見いだすのか、などいくつかの困難があります。そこで続けるには、ここで勉強の環境づくりと習慣づくりを身につけることが望まれるのです。

知識でも知窟でも、それを実際に活用して、何らかの成果を出さない限り意味がないととらえるとわかりやすくなります。勉強というのが単なる理論づけだったら何も生じませんし、現実に何の影響も与えることができません。

つまり、自分を変えることもまわりを変えることもできないのです。そしたらその最終目的から何を出すのか、そのために何をとれるのかを考えた方が早いでしょう。

 

社会に出た場合は、知識をたくさん覚えていたからといって何かできるということはありません。今の情報化社会だと、情報なんてどこからでも入るし、いくら入れて、もきりがありません。むしろ少ない情報でも、どうしたらそれを使えるのかということがより要になります。ある情報を得て、どのように活用するか、またどう自分の現実を変えていくか、ということが問題なのです。

 

学校の場合は習得したものをそのままの形で出すので、たくさん知っていればそのまま優位に立てます。でも、現実の社会だと、習得したことが何なのかというよりも、習得したものをどのような形で活用し、外に出していくのかが大切なことなのです。

 

仕事となると、はじめに目的ありきです。もしアウトプットするものが足りないときには、そのときに必要なものを必要なだけインプットすればよいのです。何をインプットするかは、何をアウトプットするかによって違ってきます。先にアウトプットがあるんです。アウトプットに足りないからインプットしていくのです。自分の頭に入っていなくとも、パソコンで調べたり、人に聞いたりしてやればよいのです。

 

公務員になったら必ず食えるとか、上場企業に入ったら一生安泰だ、という社会ではなくなって、社会の価値規準が変動してくると、外からの要求も絶えず変化することになります。いくらものごとを知ろうとしても追いっけません。その変化に合わせてアウトプットしたり、必要に応じてインプットしなければなりません。

 

その実際の経験を積みながら、自分の判断力を磨くことが大切です。ところが学校というのはだいたい逆で与えられたものをインプットばかりしています。これでは実際の社会では、どう対応していいのかわからなくなります。

外国の文化を日本が輸入していた時期だと、向こうのものをたくさん知っているということだけで有利になれた。昔の会社であれば、定年までいると、その会社のなかで昔何が起きて、社長がどう替わってとかみんながどう出世したかとか、そういう知曲が全部、力になりました。

 

今はそうではありません。実際にどういう仕事ができるかということが問われます。だから、どういう情報をアウトプットするかを考えて何をインプットするのかを決めたほうがいいということです。少ない情報から価値をだせなくては多い情報も使いこなせないからです。

 

 

〇モチベーションが大切

 

さて、それでは目的をどうするかという

自分が何かを始めるという覚悟を持つことです。

その上、こういうふうになりたいという夢と、それに駆りたてるモチベーションが重要です。

 

昔は単に出世すればいいとか、与えられた仕事のノルマを達成すればよかったわけです。

学習の目的や動機もそれに合った明確なものでした。ところが、段々とその先が見えなくなってきています。

ポスト(書き)や収入が上がるということとの関わりもなくなってきました。そうすると目的が不明確になってきます。従来通りの目的で引き続き学習することの意味がなくなってきたわけです。

 

そこで自分で目的を設定できなくてはいけなくなってきているのです。ですから目的の設定の仕方も難しいのですが、設定した目的に消して、ある意味では覚悟を決めて、それに取組むという姿勢、モチベーションがとても大切になってきています。

 

学校の先生の講義でも、教えることには二つの側面があります。

ひとつは、確かに内容とか知識を伝達することであり、もうひとつにはその先生の人間性とか、それをやっていることがものすごく好きだという情熱を感じさせることです。

どこの分野でも、あ.線レベル以上いく人いうのは、自分ひとりでモチベーションを保とうとしているのではなくて、本を読んでこんなふうに生きられたらおもしろいという刺激を得たり、身近な人の生きざまや考え方に啓発されて思いを強くして勉強しています。

つまり、勉強しようという意欲になるものとか、情報を得たり、それを生かそうとする根本を刺激する部分が必要です。

 

 

〇好きなテーマからやっていく

 

では、どうやったら情報を仕入れたり、どうやって勉強すればいいのでしょうか。とにかく一つでいいからテーマを決めることです。自分が好きなことでいい。切手でもシャーロック・ホームズでもハイヒールでもいい。そこで、それについて集められるだけ情報を集める。また、それに関するところに行ってみる。

 

そういうプロセスを通して、インターネットの使い方とか、新聞の読み方、雑誌の集め方、本屋からの情報収集の仕方、などがたくさん入ってきます。興味を感じる分野を限定して、その業界や分野との関わりを深く追究していくと、実はそれは全部人との関わりだからドンドン世界が広がっていくのです。

 

そういうふうに的を絞ったり深めることこそ、興味のある分野を広げて、それぞれ中途半端にするよりもずっとよいのです。さらにそのようにして得た情報網とか人脈とかが、結局仕事に生かせたりします。

好きなものからやっていくというのは苦痛にならないんですね。小さな頃からやってたことでもいい。気がついたらもう夜になっちゃったとか、ゴハンを食べるのも忘れて集中してしまったことが本当は一番勉強になると思うんです。学校では時間で切りますから、そういうことがなかなかできないんです。

 

 

〇ジャンルよりテーマでやる

 

情報を分類するのに、インプットのところでするかアウトプットでするか、というのはは情報を生かす上でとても異なってきます。ジャンルというのは最初の入り口、つまりインプットのところで分類します。国語、算数、理科、社会と分かれているのですから、学校というのはそういう形ですね。それは、そのジャンルがつくられる前までの経験とか知識体系によってますから、過去のやり方の踏襲です。

 

昔ははそういうことでよかったわけです。たとえば国際社会といったら、アメリカの情報と中国の情報という二つの情報だけでよかったのです。でも、時代が変わってくるとそのジャンルの区分自体がものの見方をゆがめます。社会の場合はそのほうが便利です。

 

でも、生き方や興味が変わってくると、ジャンル別の情報は手に負えなくなってきます。たとえば県別にレジャー情報を分けておく。これはジャンル別の分類です。でも、人間の行動範囲でいうと、関東のなかでも近いところと遠いところがあって、結局、遊びに行くとすると時間距離になってきますね。するとこの分類では不便です。

 

それよりも遊びに行く条件で分類したほうがいい。遠い近い、手軽に行けるところ、行けないところ、一泊のところ、日帰りで行けるところ、そういう自分を中心にアウトプットするときのテーマで分けていったほうがよいでしょう。たとえばこんどの日曜日にどこに行こうかと考えたとき、ジャンル別に情報が分かれているより、「日帰りでバーベキュー」というテーマだから、ここだという方が便利なわけです。

 

だからジャンルよりもテーマで分けるということです。

雑誌などの場合はテーマで編集されています。料理ということでいうと、ジャンルで分けると中華料理、フランス料理、イタリア料理ですが、テーマで分けると「五百円でできるおかず集」とかね。親切な本はアウトプットに近づけています。

 

 

〇他の人との感じ方の違いにこだわる

 

情報というのは、ある時期は量の勝負だ・から、かたっぱしから見て、かたっぱしから切り取って分類していきます。情報が少ないと、それが本当だと思ってしまいます。もし他のものを集めなければ、その情報だけで判断しなくてはいけなくなります。情報が山ほどあれば、少なくともその情報のなかで自分が必要なものはどれかを選ぶことができます。他にもより正しい情報があるのではないかという可能性を残しておく。使えない情報も出てくるから、情報ひとつぐらい聞いただけで、それが正しいとは思わなくなります。そうでない場合、情報の怖いところで、たとえばNHK朝日新聞しか見ない人は、それで世界観ができてしまう。ところがCNNを見ている人とか、ワシントンポストを読んでいる人は、必ずしも、世の中がそうでない可能性があることがわかるのです。

 

最初に量があって、そのなかから役に立たないものを捨てて、質の高い情報にしていきます。最初から質といってもどれが質の高いものかわからない。誰でも知っているものは情報ではありません。誰も知らないもので活用できないもの(たとえば二十二世紀にならないと役に立たないもの)も情報ではないのです。実は一見、誰でも知っているようだけども、出てこないもの、誰でも少しは知っているのだけれども、深くは知らない、そのことを知るとああそうかとわかるようなもの、そういったものが一番使える情報なんです。

 

イデアというのは異質の結合でひとつのものが生まれてくるんです。一つひとつの情報が、表向きまったく似ているように見えないのだけどもよく見ると結びついていて、こうなんだ、というものが見えてくるのです。だから、複数のもののなかから抽出されたエッセンスの結合だと思うんです。

 

私は新聞を切り取るときとか、映像をみるときに、自分がそれを書き留めようかなとか、使うか使わないかわからないとか、切り取るの面倒だけどどうしようかな、と迷ったものほど大切にするのです。迷っているということは、もしかすると何か奥深いことがあるかもしれない。今は迷っているけども、それは大切なことになるかもしれないと思う気持ちが心の底にあるから、ピンときているんです。だから、わからないものに関しては寝かせておくんです。いつか使えるかもしれないと。つまり、他の人とちょっと違うように感じたこと、他の人なら見向きもしなかったけど、私は何かを感じたということにこだわるのです。

 

メモも同じです。書き留めておいて、ピンとこなくなったら捨てる。何か気になるものはとっておく。個性というのは、他の人とちょっと違う感じ方をしたときに、どこまでこだわれるかから、生まれてきます。個性を伸ばすとは、その小さな差を拡げていくことにしかありません。他の人皆がそう思わないに自分はそう感じたから、“変だ"というと他の人に合わせるのを学校では正解としますが、本当はその“変”を突き詰めて行くところにしか自分の世界、自分の正解はないのです。

 

私が不思議に思うのは、画家や彫刻家なのに、なぜ作家のようにすぐれた言葉を使えるのかというこです。その人は作品をつくってみて、それがすぐれているかすぐれていないかを、何かと比べて自分で判断していきます。作品を評価するのに営業は基準となります。わかるということは分ける、よしあしがわかるということです。

ことばは、あいまいなものを分ける働きをします。よしあしを分ける作業を繰り返していると思うんです。どんどん作品のレベルが上がってくるのと言葉も鍛えられます。

 

日本画家の平山郁夫さんがなんであんなすごい文章が書けるのかというと、絵と葛藤するときに同時に心のなかで独自の言葉との葛藤も行なっているから、なまじの作家の書くものよりもすぐれた文章になるんです。だから一つの世界をつくり上げた人は、人生の過程で培われた言葉がその人のなかで生き生きと存在しているのです。

 

 

〇情報は幸福を持ってきてくれるもの

 

情報というのは人様に話してエラそうにするためのものではなく、自分の夢を実現したり、目標の達成にプラスになるものです。だから情報収集の作業そのものを楽しまなければおかしいはずなんですね。情報というのは自分に幸福を持ってきてくれるわけだから。たとえば一時間のなかでどれだけ自分が刺激が得られるかとか、いいものが手に入るかということで本や映画をみるとよいでしょう。

 

本を何十冊読んだとか、映画をたくさんみたということ自体には意味はありません。一時間に三つの得るところが欲しいと思い、その三つを得るために、接するのです。いい本だったら一ページで済んでしまうかもしれません。つまらない本だったらどんどん捨てて、二十冊読んで、やっと三つ得られるということになるかもしれません。何をするかより、そこから何がどう得られたかが、学ぶということです。そしてそれは得ただけでなくあくまで自分の次の行動にどう結びついたかで決まります。

 

たとえば歌でも「私は二〇〇曲のレパートリーを持ってます」といってもうまくない人ばかりです。それは一曲のある一部分に対してでも徹底的に深めるという質の勉強ができてないからです。レパートリーを増やすというのは時間さえかければできることです。その人がどんなに時間をかけたとしても、人が評価するのは全部聞くのではなく、たった一曲のどこかに心を動かされたかどうかです。

 

そこを勉強しない限り、それは知識の膨大なコレクターというだけで、何も身にはついていないと思うんです。つまり、他の人に働きかけられないそういうアウトプットの力を念頭においていないからです。大切なのは、伝える力です。そのために基準が必要です。この場合、深さ、燃より質が問われるのです。

 

 

〇「すべきこと」より「したいこと」を大切にする

 

「学校で教えない大事なこと」というのは、案外、部活動や友達とゴハン食べたりすることだと思うんです。学校というのは知識を教わるところのようで、集団の場に出ることに本当の意味があるのです。インターネットなどで教育ができるようになっても、そういう場に出てはじめて、自分が他の人たちのなかでどうあるか、自分は何でやっていけるのかを知ることができます。そこから自分のしたいこともわかる。これは学校は教えてくれませんが、先生や友人との交わりのなかにヒントがたくさんあります。

 

私には思考・行動の価値づけの基準というのがあります。それは「一生でしたいこと一十年五年でしたいこと今年したいこと一今月・今週したいこと一今日したいこと」の順です。日々の仕事に追われると先のことを考えられない。今日やるべきことはやらなければならないから考えるなどという必要はなくやるだけです。今日十本話しなければいけないのは、さっさとやるしかないすると頭使うことは、来年や、五年後はどうしようかということであるべきです。でないと、したいことではなく、すべきことで一日が終わり、一生そのまま終わってしまう。だから、ちょっとでも時間があったら、したいことを考えるようにするのです。

 

最近では個性とか差別意識、劣等感をうえつけないためなのか運動会で順位をつけないとか、成績もあいまいにしていて、それを知ることができないようになっているところがあります。“よしあし”の“あし”をなくすことで“よし”もみえなくしてしまうのです。困ったことです。そういうものが全部あいまいになると、迷うことさえできなくなります。勉強や運動ができる子はできたからエラいわけではなくて、ただそれが得意なんだということで分けておけばいいんです。そのほうが大切だと思います。

 

私の情報システムの基本構成は、手帳です。それは24時間肌身から離さないから自分の皮膚感覚で第二の頭脳と同じです。これだけでプライベートもオフィシャルの場も乗り越えられます。よいシステムとは誰でも簡単にいつからでも適応できるものでなくてはなりません。要は行動できるためのものであることです。

 

情報の処理といわれると、まず最初に吸収すること、つまり教えられたことや、黒板に書かれたことをノートに書き移し、何々しなさいと言われたら、それをメモに取ることから始まるように思われています。しかし、それはあくまでも向こうから与えられたもので、それを自分のものにするためには、考えることが必要となります。

 

たとえば「便所掃除しなさい」と言われたら「便所掃除というのはどうやればいいのか」とか、「何が必要なのか」と考えますね。それがわかったら次の段階として行動がきます。吸収、思考だけでは行動に移らず、現実を変えることはできません。行動すること、DOすることで初めて世の中が変わったり、自分の役に立ったりするのです。すると「便所」のことをいくら考えるより、「何時何分に何をもっていくのか」ということを決めるべきなのです。つまりこの場合アウトプットとは、スケジューリングとリンクします。

 

 

〇プライベートを充実させる

 

仕事中よりも週末やポーッとしているときのほうが「したいこと」が降りてきます。人から与えられた「すべきこと」ばかりで自分のしたいこと」のメモには書き込めないからです。アフター5や土日にスケジュールがないというのは、学校や会社本位の生き方なんです。仕事は人から入れられた予定がズラッとある。自分で入れた予定はあまりない。じゃあ、自分の人生はどこにあるのでしょう。

 

プライベートのほうを充実させたいとはよく聞きますが、そしたら仕事以上に予定が入ってなければおかしいはずですね。よサラリーマンの方に言うんです「自分の手帳を見てください」と。あなたがたは仕事がイヤだと言うけど、じゃあ、プライベートのところに自分で仕事以上に考えて予定を入れてますかと。仕事は黙っていても入る。これはお金を貰うために「すべきこと」ですから。「したいこと」を入れるプライベートは空欄だらけではありませんか。ということはブライベートのほうは軽視していることになってしまう。プライベートなしでは、自分の人生を大切にしているとはいえません。

 

情報を仕事の道具と考えるより、仕事もプライベートもなく、自分の人生をきちんと充実して過ごすために役立つものと考えたほうがよいです。仕事でもおもしろいことはあるし、ブライベートでもつまらないことはあります。

今日はこんなに仕事をしたとか、一年でこんなことをやったということは、すでに過去ですから私はこだわりません。

 

常に真っ白にして、次にいろんなものを入れられる余裕を取っておきたいのです。過去の情報にこだわりすぎると、それにとらわれてしまうからです。そのときは、それまでの情報は捨てる。あまり溜まってくると、本当にいい情報にアクセスできなくなってしまうのです。一番大切なものにビーンと直感が働かなくなるとよくありません。

 

 

〇捨てることが情報処理

 

メモして忘れると頭のなかがクリアになります。それが大切です。どうしようか迷っていることはメモにして後で考えます。それ以外は実行すればよいのです。そうすると、頭が空っぽになる。空っぽになると何か新しい発想が浮かんでくるんです。

 

メモを捨てること自体が情報処理なんです。捨て方には二通りあって、使わなかった場合と、使ってしまい用はないという場合ですね。どんどん捨てていくということは、逆にいうと、どんどん取り入れるようにするということです。自分が行動していったことは現実に形になったりまわりを変えるのですから、その時点で次々に捨てていけます。メモした数ではなく、それが行動に結びついた数でカウントすべきなんです。

 

くだらない、バカバカしいと思っても、どんな突破な発想でもペンでインクを出して紙の上に書くことです。そのことで初めて現実におちてくるんです。夢はメモできたら実現します。但し行動と時間が必要です。何回も何回も書いていたら、同じレベルの発想はしなくなってきます。ところが、たまにしか書かないと結局同じレベルで止まってしまうのです。だからつみ重ねるのです。

 

目に見える形にしないと、どんなに「私には作家の才能があります」といっても、活字で見せてもらわなければわかりません。「イラストが描けます」といっても見せてもらわないとわからないでしょう。それに価値を与えるのは他人なんです。だから、早目に形に近いものを見せたほうがよいのです。企画でも文字にして書き出してくださいということです。

 

 

〇表現することによって人を動かす

 

アウトプットというのは、書くことか話すことです。表現しないとその人がどんなにいいものを持っていても他の人にはわかりません。それだけ大切な表現ということが私たち日本人は学校であまり学ばなかったため、とても大変なことなんです。一分間、人前でしゃべることも、原稿用紙四〇○字一枚書くこともけっこう大変ですね。学校では作文やグループ発表などはやらせますけど、多くの人にとってはどちらかというとめんどうでいやな思いばかり残る経験だったのではないでしょうか。

 

まして、人前で自分の考えを話すことはおざなりです。ディベートもディスカッションも教えられていません。仲間うちで話すという形はあっても、第三者に対してあるいは不特定多数の人前で話すという話は教えないのです。

表現することとは人を動かすことです。企画書がいくら書けても通じなかったら、企画の仕事をしたということにはならない。どんなに立派な演説をしても人が働かなければ聞いてもらったとはいえません。第二には表現することを目的にすることによって自分が動かされるんです。

 

表現というのはとても身近なものです。この世にあるもののすべては誰かの表現したものです。食べ物一つとっても、たとえばカツ丼とか天丼というのは誰かが考案し、何百何千という種類の食べ物のなかから勝ち残ってきたものです。人々に受入れられないものは消えていきます。表現というとアーティストだとかいった特殊な分野のように思われがちですが、すべてのものが表現されたものなのです。そのなかには残っていくものもあれば、消えていくものもある。ものではなくてもことばも行動も自分で考えてやったことで人に働きかけたら表現ということになります。

 

 

自己啓発は「書く」ことから始める

 

情報誌ばっかり買い漁ってインターネットなどに振り回されると、憤報量ばかり増えてしまってそのうち大変なことになってしまいます。情報というのはもっと気楽なものなんです。よりよく生きようとしたり、もっと楽しい人生を送ろうとすると、人とうまく関わらなければいけない、そこに働くのが情報なんです。

 

そのために「書く」ことから始めるとよいのです。とくに日本人の場合、話すことから始めると抵抗があります。なかなか人前では話せません。それに対して書くことというのは、取り敢えず学校を通じて、作文や感想文のように何かは書いてきたし、サラリーマンでも日報やレポートを書くとか日常のなかでなんらかの形で入っています。これを増やすのはそれほど大変ではないでしょう。日記でもいいからペンからインクを出すことを習慣づけるのです。そうやって頭で考えることと手足で行動することとの抵抗をなくしていくほうが現実的でしょう。

 

学校で学ばなかった大切なこととは、自分自身のアウトプット能力を高めるための作業だと思えばいいんです。トレーニングも勉強していくことも、ともに自分がどこにいて、どういうふうに見えているのかという基準をつけてなくてはいけません。何事も文字で書いてあれば「直す」ことができますね。一日あけると客観視できるようになります。

 

よくコラムとか社説を読めといわれますが、最近はけっこう頭だけで書かれたものが多いようです。昔はこんなことを、こんなに心に伝える手法があるのか、と感心しましたけどね。今は新聞の社説よりはビジネスマン向けの週刊誌あるいはマンガのほうがよいと思います。自分がおもしろいと思うものを読んだほうがスッと頭に入る。頭ではなく心に入れないと行動できません。

 

「気づく」そして「直す」能力こそ大切なんです。ムダなこと、曖昧なことを書いているのかわかったら「直す」。それで人生が変わっていくのです。五行で書けば済むことに二ページも使っている。それでは人生もだらだらとなります。誰かに直してもらうのも一つの方法ですが、直し方、正し方を学んでみることです。

そのために基準をことばで学ぶのです。書く力をつけるためには量をこなすことです。三〇枚書いたことがあれば、三枚書くのは何とも思わな“くなります。ところがいつも三枚で苦しんでいると、五枚十校といわれただけで困ってしまうでしょう。それは実際の量というよりは相対的な感覚だと思うんです。