唄ありて 991
【新年あいさつ】
【年頭のあいさつ】
ーー
唄ありて
唄ありて喜びあり 唄ありて涙を流す
我が生けるのをただ唄にのみ知る
ただ、こうしか生きられなかった、これ以上もこれ以下もなかった、
そんな人生だったのです。
ひとすじの道生きて来て あかあかと いのちのはてに燃ゆる夕焼け
心の耳 (昭和62年秋 淡谷のり子)
心の音
心の声
心の歌
ーー
【新年あいさつ】
これから、明治神宮に参ります。ここは北参道に面していますので、一回は参っておくのもよいでしょう。
私は神様を信仰しているわけでもないし、していないわけでもないのですが、
私の人生経験からいうと、私の神様はいつも肝心なときに、はずすんですよね。
本人がいい加減だから、神もいい加減なのついたのでしょう。
おさい銭もけちっているのですから、あまり頼っていられないのです。
だから自分のなかに信心をおくしかない。
ただ、自分を信じるというのは難しいですよね。
神様を信じて信じて、それが自分を信じることになっていれば、それでよいのではないかと思います。
世の中には信じられなくなることも多いです。
でも、信じ続けることが一つのことからでいいのですが、大切ですよね。
私がこういうことをいうのは、神様を信じているからで、
神様はそんなせまい心ではない。仮にばちがあたったら、それが必要なことなので、
乗り超えていけばよいのです。
だから、おさい銭もあまりあげませんね。
ただ、おさい銭をたくさんあげて、惜しいことしたと思うでしょう。
その欲を切るというのが大切ですね。
そういう頭の切り替えが大切であるという気がします。
私の座右の銘に莫妄想というのがあります。
妄想するなということなのです。要するにくよくよ考えるなということです。
考えなければいけないことは、徹底的に考えろ、
考えてもしかたないことは考えるな。
最初に考えて何とかなるものか、ならないものかを考えるわけです。
そして、考えるべきことだけを徹底して考える。人の10倍くらい考える。
それで考えても仕方のないことは一切考えない。
その区別をつけるのは難しいものです。
トレーニングもやって身になるところだけ、精一やればよいのに、
伸びない人ほど伸びないところばかりやろうとがんばっているのです。
見極めが肝心です。
よく私を「一匹狼でがんばっている」というように思っている人がいますが、
私は一人でやっているつもりはないのです。
ただ、一人で本当にやれていれば、決して一人でなくなるのです。
そうして、はじめて一人でやらなくてはいけないところを、一人でやっていけるのです。
ここに集まる人だけで、何百人もいるわけです。
皆にいいたいのは、安易に群れるなということですね。
いくらいっても、やっていることが群れることと、群れるために集まる。
目的があって集まるのならよいのですが、そうならない。
ここも当初の目的があるはずですが、だんだん自分で違えてしまう人が多いのです。
そういうときは、外から見ていた方がよいと思います。
人との間でごまかされますし、自分自身をごまかしてしまいますから、いつ知れず落ちてしまいます。
一人になると、考えるのです。自分の次元を高めようと思うなら、
どこかの地点まで自分一人でしっかりとやれている人とやるしかないです。
二番目に群れていかないために、どうすればいいかというのは、人と違うことをすればよいと思います。
そのためにも、そこで一人で、徹底して考えることです。
私はレッスンにいくまで、1時間半ほどかかりましたが、
レッスンに行くまでと行ったあとと一人で考える時間が3時間あるわけです。
一緒に行く人もいないわけですから、声か歌のことしか考えません。
レッスン一つが、たかだか30分でもその前後を入れると4時間くらいになります。
一所懸命やっているようでも、どんどんと、ずれてきている人もいるような気がします。
だから、その辺を見直してください。
これは教えてもわからないことですが、ここ以外でも自分で気づく材料はたくさんあると思います。
神様が自分の声や歌に宿るかどうかという勝負だと思います。
ヴォーカリストというのは、結局一人で多くの人を相手にしなくてはいけないから、皆のなかで群れているわけにはいかないのです。それに対して、何か与えなければいけません。
一方的に伝える力をつけなければならないのです。
人間関係というのは、簡単な話で、人のためになっていればやれるわけです。
ただ最初のトレーニングの段階では何年かは、力を借りていると思うのです。
年配の人に対して、私が恩義を感じていたのも、
私が力をつける1時間と、上の人間のさく1時間はまったく価値が違うからです。
だから、接する人間に対しては、それなりの心構えをしていかなければならないでしょう。
最近は、あたりまえのことが、だんだんできなくなってきていると思います。
人を尊敬できない人が尊敬されることはないでしょう。
「ヴォーカリストになれるでしょうか、なれないでしょうか」
といった質問がありますが、相手を退屈させなければよいだけの話ですから、
それができなければ、何も出せていないということです。
声や発声や歌だけに頼りすぎたらよくないのです。
その先に人にどのように伝えていくかという部分がないと難しいと思います。
三番目に、深く考えることについてです。
やはり、考える時間をつくらなければよくないのです。
若い人も一人で静かに考える時間が最近、少なくなってきているようです。いろいろなものが与えられすぎて、人を鈍くしているような気がしてならないのです。沈黙こそが音を生み出すものです。
人前で歌うことをやめると、音楽と親しく楽しくできます。声もよく出ます。
しかし、それではまったく本当の力はつかないのです。
トレーニングしているときは、音楽について、考えることさえ嫌なことばかりという人もいます。
それはイマジネーションの不足なのです。深く考えて、それを体験して、刺激にしてください。
価値というのは、そういうからには誰にでもすぐ手に入るというものではないわけです。
ここでも、時間と手間をかけてやっていくから、その分、価値がついていくわけです。
学ぶことを、常に学べる人間だけがやっていけるのです。
やっていけるとは、どういうことかよく考えてみたらどうでしょう。
お金を払って自由にやれるところでさえ楽しめない人が、
お金をもらう仕事としてやっていけるはずがありません。
自分の表現をするとは、自我と格闘しなければできないし、苦しいことです。
体や心を開くということは、死にもの狂いです。そのときに出てくるものがほんものなのです。
気持ちがよいということよりも先に魂があるのです。
生きていくために必要なものとして役立つから、芸術もあり、
それを直感を働かせて感知できるセンサーが体に宿っているから磨くと伝わるわけです。
年齢は関係ありません。歩み続けると、そういうことがプロセスだどしても、そのプロセスでやるべき課題がきちんと見えているということは、成功以外の何ものでもないわけです。たどりつくところなんでありません。
どこかにたどりつけてしまう方が心配です。
才能があるから苦労するわけです。才能がなく、すぐに望むことができてしまったら、それで終わりなのですから、もうやめているでしょう。逆説的ですがそういうものです。
同じく、ここにきている人は、不器用な人ばかりですから、才能に恵まれています。
そういった意味では、聞く価値のある歌を出せるようになるでしょう。
ただ困るのは本人が一番気づいていない、それを外から助けるわけにもいかないことです。
本人が自分を全部、見ていくことが大切だと思います。
では、いったん解散します。それぞれ自由に参拝してください。
ーー
【年頭のあいさつ】
○一般の人への対応
今年の方針はいくつかありますが、新しく入ってくる人の受付体制を大きく変えていくつもりです。
だいぶ前から受け入れを一度ストップしようかと思ってはいました。
すぐやらなくなる人は、入れても伸びようがないからです。
私は、今は、専門学校はやめ、カルチャー教室のようなところの招聘はすべて断っています。
そのようなところでできるのだったら、研究所などつくりません。
ただ考えようによっては、いきなり研究所では敷居が高い人もいます。
それにはここに来る前にカルチャー教室で1~2年通ってから、ここに入ってきてもよいのでいかとも思います。
ただ、カルチャー教室に信頼できるトレーナーがいませんし、私も行く時間がありませんので、その分もここでの質を凝縮していこうと思っています。
カルチャー教室で、月に4回、マイペースでやっていこうとする人とここで2年、専門教育みたいに打ち込んで過ごす人を同じように扱うというのは、なかなかできません。
カルチャーセンターでも、トレーナーは第一線の人です。
しかし、本当の意味で、人は育たず、そこは教養や趣味の世界です。
しかし、現実には、それ以下の利用しかできていないことも少なくないでしょう。
○自由を大切にするリスク
ここも、少しずつ自由度を増やしてきました。
その自由度というのは、皆さんにとっても先生方にとっても、
ややもすると、自分のチェックができていかない場合
(それを覚えるのに2年かかっても私はよいとは思います)、
2年くらいで経験したということで終わりかねません。
いわば、そのへんの先生について2年やって、テキストのここまで終わりましたという確かさもなく、
ただ2年たってしまうことにもなりかねません。
ですから、このことで生きていこうとする人には、2年くらいは、そのことを知るための最初の投資といっています。
最近、入ってくる人は、2年で大きな成果を出したいといいつつ、歌が自分の人生の正面ではなく横にあるようなのです。だから、音声で表現していく世界がいつまでもみえてきません。
トレーニングをしにきたのに、そのために必要なレッスンやこういうイベントに出ないのでは伸びようもないでしょう。
○教えずに伝えていくことの大切さ
それはその人の価値観で、その人の人生ですので、考えを押しつけません。
それよりも、本人が当面、やりたいことをまずは遂げさせるべきかもしれません。
むやみに啓発したり刺激したりして、こういう世界の深みに引きずり込むことがよいこととは限りません。
ポップスの場合、本当に先生のいうことをきかなかったらよくないで、いう通りにやれば関連いがないとは、誰にもいえません。結局、その人が築いていくための材料を与え、どう組み立てていくかを任せて、その人が納得しながら、自分の世界を築いていくのを見守るしかありません。
歌は、教えてしまえば上達するのも早いです。皆さんの歌を聞いて、私やトレーナーがどういう基準で判断し、どう直したいかというのは、はっきりしています。
ただそこで、いじると、目先だけ考えて、もっともその人のよいものが出てこなくなります。
その人の力を限定しかねないのです。
どんなに用心しても自分のものを押しつけることになるからです。
○個性が核である
ポップスとは、基本的に差異です。他の人とどう違うか。どう違う感じ方をどういう作品にしていくか。
そこに他人のものを入れていけばいくほど自分のものをみなくなります。
その人が確立していれば、ぶつけていけば何か出てきます。
壊していけば、そこで起き上がってきます。
でもそれを模弊している段階では、ぶつけてしまうと自分で考えることをしなくなってしまいます。
医者の息子が医者になるようにはいきません。
ですから、どう考えていくのか、どう築いていくのかをやはりプロセスとしてたどっていくシミュレーションをとるという考えを大切にしているのです。
○声づくりと表現
そうはいっても、現実には人並みに音程もリズムもとれなくて、音楽もあまり聞いていなくてというのでは、歌の世界に入るのは無理です。
昔は実感として1年目に役と外国人の条件としてオリジナルの声、2年目にそこにオリジナルフレーズでヴォーカルの条件を知るための基本トレーニングをやっていました。
基本的なことの大切さを知るために、オリジナルフレーズをやって、基本をさらに固めていくのです。
声づくりを重点にしてやって、声は出るようになること、そして、表現というのはわかるようになり、自分のことはできるようになることがベースです。
○音楽としての感覚が必要
でも音程やリズム、グルーヴは音楽のルールです。
少なくともポップスのなかでは守るべきものなのに、いつまでも定まっていかないなら問題です。
感覚がよくなって、それが体として反応-してくるのなら直っていくのですが、ずっとそのマップが観えないとしたら、それは段取りを与えていくしかありません。
〇音と音程
たとえば1オクターブのなかの音のマップというのは、今のポピュラーでいうと平均律ですから、12音です。そのなかのスケールというのは「ドレミファソラシド」8音でできるわけです。
それに若干、一つか二つくらいシャープやフラットがついてたがだか9音くらい、このスケールのなかの歌がほとんどができているのです。
その9つの組み合わせでさえ(9つの組み合わせは無限にあるように思えますが)、一つの音に対して次の音というのは一つ、その二音の差しかないわけです。英語でインターバルというのが音程のことですが、これは差を表わします。それがとれないというのはそのマップ自体の感覚に基づいた使い方を一度、入れておく方が早いのです。
小さい頃からピアノをやったり歌ったりしてきた人は、そのマップが4、5才にはもうできているわけですから、随分と差があります。また、そうでない人を教えるには、必ずしも適切ではありません。
ここで教えられることと教えられないことがあって、そういうのは自ら、そのような苦労をしたことのあるカラオケの先生の方が適任なのです。
○日本のヴォーカルはタレント
たとえばタレントの素質だけでもやっていくことはできます。1曲のレッスンをわずか1~2ヵ月でこなし、それで歌えて、それでああいう舞台に立てる。ということは、彼らが偉いというよりも、そんなことでへただと思わないほど、まわりに誰も歌える人がいないということです。
他の分野から比べたら、日本のヴォーカルのレベルは、どん底の状態、外国輸入版でやっているに過ぎないのです。タレントよりへたで歌っているのが、ヴォーカリストなのです。
これを音楽の世界のこととしてやっていくために、ミュージシャンとしての基本教育が必要です。
○研究所のやり方
日本との大きな違いは、作詞・作曲も加え、ほとんど即興から入っていることです。ここでは、オリジナルのフレーズというところで作詞作曲を入れているつもりです。
ここのなかで、レパートリーづくりをするわけではないから、ここでは教えていません。
レッスンのなかでは声と歌の基準を扱っていますが、一つの歌を完全に歌うことを想定しても、その歌については教えていません。そこで得た基準を自分で生かし、歌につくっていく力をつけるようにしているからです。
向こうの場合は、自国の曲ですから、スタンダードナンバーを、いかに偉大な曲で詩がすぐれているかということを歴史的な察を含めて文化として扱っています。大学や専門学校で扱っている古典のように、ポップスもクラシックと同じ扱いです。ポピュラー史なども重視されています。
人間にとってその歌というのはどういう意味があったのか、政治にどう関わっていたのか、人権に対してどういう役割をしたのか、そこまで掘り下げられています。
日本では、こういうことは、ほとんど望めません。その時代、そこに生きてきていしたのではないからです。それがトレーナーやスタッフの質の違いともなっています。
日本でも表面上、知識だけの音楽史をやっているところはありますが、教養にもなっていない気がします。
ここでも歌謡史などをできなくはないのですが、それをしたときにどれだけの人がそこまでついてくるでしょうか。ここに長くいる人は、ここでのレッスンを通じて、そういうことをたくさん知っていくようになるのです。でも、ここに入ってきたばかりの人は興味をひかれないと思います。日本の政治や歴史にさえ関心のない人が、生きたこともないところのことを暗記して、どうなるでしょう。
レッスンでは、ベースのことを材料としておいて、基準というのを示して、それに対してその人がどういうふうに取り組むかをみていく、それはくずせないと考えています。
○感性と歌
ポピュラーの基本を学んでも、歌にはなりません。それは音楽というのは1オクターブ12音でできているわけではないからです。
12音どころか無限の音のつながりがあって、それをヴォーカリストの感性で、つむぎ出すことが必要です。
たとえば、ドからミをとって「かなしい」といったときに、正確にとったら「悲しい」と聞こえないので、4分の1くらい音程を下げ、半音狂わないところで、ギリギリの表現をします。
上の方でしたら半音狂っても、聞いている人にはわかりません。
その狂いは、理論上のもので、歌ではそれが正しいのです。
○自分の歌を歌う
音を中心にとっていくような勉強の仕方は不毛です。色音符を使ってピアノをマスターする方法の本が売れています。色音符は昔、音を聞くとその色が浮かんででくるのではないかと問題になりました。色の通り、指をおいていって弾けたら、主婦やサラリーマンならそれでよいのです。
自分の子供が弾いていて自分も何か弾きたかった。でも楽譜は、よめないし指は動かない。
私からいえば、そういうときは弾いているふりをして自動伴奏をかけてしまえば、その方がよほどよい。でも何か自分の指で何かできることがしたいのでしょう。音楽に触れているという気分で、老化防止ができます。
そんなものを演奏などと誰も考えてはいませんが、誰もが知っている曲ならもちます。
その人が弾く必要はないのに、一家にピアノが一台あり、それを子供が弾く、ましてや自分が弾くというのが夢の世代だったので、それはそれでよいのです。
しかし、歌の場合はそれではもったいない。ピアノの場合はピアニストには追いつくことはないでしょうが、歌はその人が生きていたらそのまま出てくるものです。
誰でも、自分の歌は歌えるのです。
ただそれをプロのレベルでするか、お客さんのレベルでするかというところが分かれ目です。
ここでも大半は、身内意識の馴れ合いでしか通じない場として、歌が癒しています。
本人がそうしか思っていないうちは、しかたありません。だから、レッスンの前提のものが大切なのです。
○音楽的基礎を固める
音楽基礎のレッスンを強化することで、少なくとも、ここを出たあと他のスクールへ行って音程やリズムができていなくて何をやってきたんだといわれるのは防げます。
「やさしいヴォーカル入門」の3巻テープやシンコーの達人のCDなどを使って、自分でもやった上でわからないところをチェックしてもらってください。狂いは感覚のベースで直したいのです。
指導を受けると、確かに早いでしょう。しかし、音に正しくあてていくことが完璧にできても、10年やって音大入学レベルです。ただの音大生では、ポピュラーなどまったく、歌えません。
10代なら形から入るというのもよいでしょう。20代になって、内容がおりてくるということもあるのでしょう。しかし、20代なら日々、実践です。
○世間にまみれ超越する
だいたい昔のオペラ歌手などというのは、ファッションデザイナーなどと同じで、音楽やるのは男の仕事ではないといわれ、放息子や生ぐさ坊主が向こうに行って、身についてきたわけでしょう。はちゃめちゃな生活を送って庶民と混じり合って、そういう中で得てきたわけです。
今みたいに世間の右も左も知らなくて、そのことだけやっているような人たちではなかったわけです。だんだん権威をもってしまうと、誰かに頼って資格習得したい人ばかりになり、おかしくなってきます。
特に日本人は、そうなりがちです。ここもその方向にいかないように気をつけようと思っています。
一般や高校生のコースを別にしようとも思いましたが、高校生でもいろいろな高校生がいますから、本気でやりたい人はそれを先にいる人とやれば、基準が早くわかります。
それは、高校生のバンドでやっていてもわかりません。
すぐれた人とやると、そこで基準というのを徹底的に叩き込まれます。逆立ちしたって1フレーズどころか一言「あ」といっても、まったくかなわないというところからスタートするから、迷うことがありません。迷う前にやるしかないからです。
○上達のための最低条件
サッカー選手になりたいといっても、50メートル走ってハアハアいっているなら、ボールのコントロールが完璧にできることはないし、できても無意味です。そういうときは迷うもなしに走るしかないというところから始めます。そこで、プロセスや操作をしっかりとみせていくということが大切です。
しかし、本当でいえば、アーティストの映像をしっかりみていればわかることだと思います。私は、ここさえ充分に活用できていないのに、どうして上達しようとしているのかと不思議に思います。
通信とか地方とか海外のことも、いろいろなコンタクトがあるのですが、「レクチャーに来てください」というのが今までのやり方でした。私の考えとしては、3回、戸を叩いてきたのを断っても、必要だと本人が思ってきたときに受け入れたいくらいです。
そういう芸道への入門の常識も通用しなくなって、一回、断られたら、あきらめてしまうようになってきているのが気になります。
○力をつける
人と差をつけるのは、とても単純です。他の人がやらないところまでやれば、何事も全部、開けていきます。自己アピールが、道を切り拓くといっても無駄な時期もあります。力がないときにいろいろな活動をしてもマイナスの評価を受けてしまうだけです。
じっくりと下の方でやって力をつけていればよいのに、なまじ出ていくと、そこでマイナスの評価がつくので、そこは時期と場所を選ばないといけません。
BV座をまだオープンできないというのも、一度ついた評価というのは、日本では二度と消えないからです。だから今、ここは実の方をつくっています。
形なんていうのは本当に簡単にできます。世の中に受けるような形をつくれば、それで公表できるし、もたせられるでしょう。興業に本気になれば食べていけるでしょう。
でも評価が最高でない限り、やる意味もないし、そのあとにつながらないでしょう。
レクチャーに初めてきた客の前で、私が失敗したら、そのあとにどんなに私がよくなっても、一度、聞いた人は「あいつはつまらない」「あいつのには行くべきではない」という考えができているので来ません。まわりにもそういいます。本もライブも同じです。
ブレBV座で、3~4人くらいでステージをやるという試みをしました。
内輪のライブで、人が入らなかったらしかたないと思いながらやってみました。
入門の人は、入ったばかりで、とりあえず見ようとします。そういう気持ちがどうして2、3年もたないのかと思います。それを10年もたせるだけで、相当なところにいくはずなのです。
○やっていける人、やれない人
忙しくなっても、出る場があるというのは、何かできるチャンスを与えられているのです。それをまだ無名な人が迷うというのは信じられません。プロになる人には、レッスンも仕事です。イベントも必修です。そこで経験が積めるし、経験を積んでいかない限り、もっと大きな場を与えられたときにリスクの大きな冒険になってしまいます。
まずは場数を踏むということです。世の中に出ていくとか人前に立つ仕事が必ずしも価値があるかどうかは別ですし、それを選ぶかはその人の好みです。
私は控え目に生きたいと願い、世の中にでしゃばるつもりもないし、カラオケでマイクをとりあって歌うのが好きではありません。
しかし、それは、自分たちの世界にいる人に比べてであって、普通の人からすると、すでにそういうことをたくさんやってきました。こんなことをやって人前で話していること自体が、でしゃばりすぎているということです。
○表現の厳しさ、歌の甘さ
そういうことは、なんでも、やってきました。
そういったところから得られたことを種にして、ただ若いときは、気迫で盛り上げるしかないでしょう。
まじめな話、そこに来るようなお偉いさんには、出しゃばってきたという「この若僧が」と、日本はそういう社会ですから、闘いの連続です。
ところが歌う場はオアシス、これはどう考えてもおかしいでしょう。この国の音楽や歌は、表現でなく近所づきあいです。
○手間をかける
皆にわざわざ来てもらわなくても、ネットで放送局にすれば、家で聞けます。
九州やロスなどにいる人には便利です。でも人間は五感で感じて動くものですから、その手間を惜しんでしまうと何もできなくなってしまう。そこが難しいところです。
今日あたりも一週間前に掲示したので何人くらいくるかと思いましたが、他の人と群れて相談した結果、来ないなら馬鹿だと思うのです。相談するから、来なくなるのです。一緒にさぼって安心なのです。一人になれば、正しく動けます。やる気のある人は一人で動くし、そうでない人はいつまでも他人としか動けません。
人が行かないところで価値がつくのに、人がやることだけやって、人がやるレベルでやっているのでは、ここを何も活かせないでしょう。それは、ここの本当のメリットを無駄にしています。皆が行かないのに、そこで行くからよいのであって、皆が行くといったら行くこともないわけです。
そういうことがまだわからないのかと思います。
せっかくの差異を、自分で消して、自分で個性も消していってしまうのです。
これまでの、気分や好き嫌いで動いても伸びないと思ったからここにきたのに、また同じことをくり返しているのです。ここは、何のために自分でカリキュラムを決められるようになっているのでしょう。
〇場に出ないと身につかない
きっとこんなことを話しているのだろうという予測がつくのでしょう。
私もいろんな場に足を運んでいます。
多くの人に会いたいとは思いませんが、舞台から直接、勉強しようとしています。
それは五感を通して入ってくるものです。
本を読んでもテレビで見ても、受け取るのは、目だけになり、自分の栄養にはなりません。
それで素人や知らない人に対して能書きをたれることができても、何年もやっていけません。
○新しいメディア
カルチャーセンターやケーブルテレビのことも2年くらい前に、もたないかといわれました。
こちらで考えていたのは、BV座を毎月、歌わせて中継してみたらどうだろうかということです。
しかし、視聴率をみたらたぶん一ヶ月で打ち切られるだろう。
スポンサーをつけるのもよいですが、当然、ビジュアル向けでつくっていくのと、音声だけでやっていくのとは違います。映像を通じてやっていくのであれば、他のビジュアル面の方が大きいからです。
私からいわせてみれば、日本の視聴者の耳がそこまで成熟してないというだけで、ここのメンバーが劣るわけではありません。
○可能性の改革
皆さんは、全員が全員、そうとはいえませんが、素直ですから、本当の意味でパワ-はあるのです。
だから本物といえるかどうかはともかく、本物の可能性としてはあるし、あとはそれを真実にしていけばよいわけです。
少なくともここでサッと歌わせるような歌に、飾りをつけたり表向きもつようにはしていないのは、ましなことです。
ただ、何の強味もわからないまま、ここを出たり自分でやりだすとさみしいから、まわりの意見に迎合してしまうのでしょう。
ヴォーカリストは力が弱いですから、もっと勝負できるところをみつめないで、安易に勝負できてその場しのぎのところへいってしまいます。それは、残念なことです。
○自分のチェック
私はいろんなところに呼ばれて、そそっと帰るのですが、何でいくのかというと、やはり一人よがりになってはいけないからです。ここはまだ私の城みたいなところがありますから、城主は城にいてはいけないのです。
自分勝手に動かせるから、甘えてしまうのですから、城をつくった人が城のなかで自分の力を確認しても、それは、力になりません。ですから城の外に出て、その力が発揮できるかをみます。それができて初めて、その城のなかで力がしっかりとついているということになります。
だから私がまだここにいるというのは、私がいるから皆が本物だということではなく、本能的に偽物のところからは逃げる私が、ここにいる理由があるということです。
飾りだけのところ、権威だけのところからは、逃げる私にとって、自分で城を構えているから、ここにいるというより、ここにいるということはここに何らかがあるのです。
それはたぶん、普通の人にもよくわかっているのに、自分の物差しでみないからみえなくなるのです。もっと自分で感じる通りに感じて、つまらないものはつまらないと思えばよいです。
ここが、自分がいるからすごいとか、自分のためにすごくなっているとは思いませんが、そういうすごいところに関わっているから、週に2回、ここに来るのです。私の予定のなかで週に2回予定をとるのは、かなりの優先度をおいているということです。それが今は、しぜんなのです。
ただ、嘘っぽいものや退屈も多くあり、週に7回ともとろうという気にならないのです。そこで無理をせず時間を待たねばよくないだと思っています。私の3分の1くらい、生きるバランスがここにあるというのは、大きなことです。
日本の他のどんな事務所や劇団に頼まれても週に2回も、そこに行く気になることは、たぶんないでしょう。
朝起きたときに行く気にならないなら、やめています。ここに来るのは、楽しいですか。ここが楽しいところとしてあるのでなく、自分が楽しく使うことです。自分で楽しくすることです。
皆のなかでも歌だけでは長く続いた、ここだけは長く続いたという人がいますが、私もそうです。他のものがすべてが嘘だったわけではないのですが、あまりに安易で表層的だったのです。だから、今は残りの5日と共に、私は、とても楽しく幸せです。
○ただ、いること
今のところここには、私はただいればよいのだと思っています。トレーナーにもプ口として教えるよりも、アーティストとして活動してくれることを求めているのです。その人が来なければ成り立たないということで、レッスンも歌も舞台や形は問いません、
日本で盛んになっている弱者の集うボランティアではなくて、その人が生きている、その人がいるだけで、ボランティアとなるような社会還元としてのものであるべきです。
その人の本分に加えて、ボランティアで、自分の本分探しのボランティアは本末転倒です。賀状に私の知人から「いるだけボランティアやってます」と書いてあって、すごいと思ったのですが、なるほど、確かに受け取るとこの人のこのはがきくらい元気になるなら、歌わなくてもよいのでしょう。“死んでもボランティア”をやっている人もいます。
ボランティアも形だけでやっていれば優越感も混じります。自分が逆の立場になったら何と思うかわからないようなことをする人も多いようです。。自分が救われたいからやるのでなく、少なくとも自分の力で自分を救い、さらに人を救った結果で救われるべきです。
人間はいろんな状態に置かれます。健康な人、普通に生きられる人のなかであたりまえと思われていることもそれ以下の条件の人にとっては、今の社会は暮らしやすいとは思えません。そういうところにパワーをいれるべき仕事というのは、たくさんあると思います。しかし、そうでない活動で、9割方の人間が9割の勢力を費やして生きて、死んでいくというのはもったいない気がします。もちろん、それもその人の価値観です。
○イマジネーション
私は自分は幸せだと思うし、お金がなくても自由に外国へ行けるし、いろんな時間もつくれます。そうなりたい人は、そうすればよいと思います。そうすることが難しいとか才能だとか思う人は、イマジネーションがないだけです。最初は、誰でも何一つなかったのです。それはそうしたいという思いと行動だけです。時間と空間を超えるのです。それができないうちでも、まずは、自分の歌のなかで時間と空間を超えていればよいのです。
ステージは虚構の世界です。そこのなかで作品をリアリティにしていくということを問うために、それを支えるべき実生活というのは当然、必要です。そのギャップで悩む人もいますが、あまりに無茶に大変なこととしてやっていたら、もたなくなります。普通の人よりパワーをつけて、大変なことが大変でないと考えられるようになれば、体や心が変わってきます。自分の意志の力でいろんなことができます。
○ライブとCD
BV座のスタートの準備をしたいと思います。この名前で、“座”ということでまとまって何かをやるということよりも、勝手にやってたらそれがモータウンのように、ここに一時いた、ここを足でけとばして出るプロセスでの実験というのでよいと思います。それだけでも充分な存在にしたいものです。
CDもつくっていこうと思っています。確かに個々のステージの完成度をみていたら、皆さんのベストを知っている私としては満足できるものは多くはありません。また、多くの人がCDをどんどん出しているからと、対抗する気はありません。
作品は、恐いとは思いますが、その人が、その時点で生きていたらそれでよいでしょう。第三者に伝える分にはビデオ、CD、テープなどのパッケージにした方が便利です。生が一番よいのですが、生は消えて、同じことは二度とできません。歌を聞かれては困る程度で扱っている人は、残さない方がよいでしょう。残す以上、それをどう聞かれようがしかたない、そのとき歌った作品は、やはりその人のそのときなのです。
10代で生のライブでのよくないCDを出しても、そのライブは、その年代をそう生きたということです。画家の習作と同じです。そこに何かが出る可能性を示せたらよいのではないかと思います。あとでそういうものができてくるなら、それは最初の作品のなかに示されているということです。ここでのCDは、会報と同じということです。
〇出版
シンコーミュージックの総合編でCD付きのテキストを3冊つくって、一般用に供します。それと今のレクチャーで話している話音楽之友社でまとめたら、あとは出版社と放送局は、自分のところでつくっていこうと思ってます。
会報と同じで、お金はかけません。
同じことを書いていても、私も読者もあきるからです。自費出版に切り替え、会報の特別編集のようにしてみます。HPにもここのレッスンでつくってきたものを、残していきます。
皆さん、本一冊書くのは大変だと思っていますが、ここの研究生が100メニューを書いて、それをくっつけたら一冊の本になります。鑑賞レポートなども、私だけでつくろうと思ったら1ヵ月はかかりますが、そういう人が一人で10枚ずつやれば、3日でできてしまいます。よいものができます。
ここの人が優秀ということよりも、日本ではそこまで勉強していない人ばかりというだけの情けない話です。私などのレベルで、通じてしまうくらい、誰も何も考えていないのです。いや、これも通じるというより、日本のなかでは理解されないくらいなのです。
ところが、こういう日本人が外国で認められたり外国で賞をとったら、同じように理解できなくとも、ほめたたえ、群がるのです。悲しいことに、日本で日本人に認められて世に出てきた人は、あまりいません。
興業をやりやすくするには、外国の関係者から認められるようにすることで、あまり意味もないのですが、向こうの人はしっかりと判断しています。ただ、他の国民に対して友好的で、日本人と親しくして損はないから、おべっかばかりでこれも困るのです。私は、成功より本質を、興行より研究を、人気より力をとりたいのですから、まったく浮わつきません。
○TV
年末、いくつか番組をみました。某ゴスペラーズが向こうに行った番組などは、向こうの人とのフレーズをこちらは合わせて張り合っているつもりでいても、向こうからはどのくらい力をもっているのかは、まわりがハイレベルなので、すべてわかっていることなのです。しかし、それは友好ですから、いわないわけです。
ところが日本の番組のプロデューサーは、そのへんはまったくわかっていない。向こうの方がすぐれているのはわかっても、そこにどれだけの差があるかはみえないのです。
まさに、歌というなかでのごまかしで成り立っているのです。つまり、友だちとしてのフレンドリーと表現をごっちゃにしているのです。日米アーティストといいつつ、いつも向こうのアーティストと日本から会いにいったファンの構図になるのです。これが逆転する日が望めるのでしょうか。
それはプロの一流の歌手が、ステージの客席で一緒に歌ったり、カラオケを歌っている人の隣で歌うのと、同じです。聞いたら瞬間的にわかるはずなのに、学生並みとプロレベルとの違いが日本人の業界の人にもわからないのです。外国人なら、プロでなくてもすぐわかります。そのことは、日本の視聴者には、どうでもよいことだからです。つまりツーショットの絵がとれたらよいからです。本当にお金にまかせていろんな企画はできるだけに、軽蔑されてしまいかねません。
私は、たくさんの番組をチェックして映像でみます。自分の仕事をしなければいけないので見るのは、大体、具合のよくないときです。眠れないときに、音楽だけでなく、政治や経済なども含めて世界はこう動いていると感じています。新聞も最近いつも、一か月くらいためて読みます。昔は人前で話をするために毎日みていましたが、ーヵ月まとめて読んだ方が時間がセーブできるからです。
○紅白歌合戦ほか
こういう仕事をしているのだから、「紅白」くらいはと思い、いつも見ます。
完全にビジュアル面担当の歌い手と天童さんのようにある程度、器用な歌い手に分化しました。北島三郎さんも、歌詞をおとしたことを、いわなければよいのに、正直な人です。そういうところが日本人をひきつけるのでしょう。
郷ひろみさんや西城秀樹さんも何で出たのかわかりません。西城秀樹さんは球場でやった先駆者で、ここでも扱っています。今の歌い手からみるとうまいものです。郷ひろみも本場でのトレーニングの成果が出て、声もよくなりました。ああいう本が売れたり離婚したりで、出るというのもなんですが、不幸をしょってでも、よい歌になれば、客としてはよいのです。
紅白はお祭りということでよいのでしょうが、ポケビとかブラビとかも出て、千秋さんで通じるどころか、うまく聞こえるということは、結局は、バラエティのレベルで、本職のプロもやっているといえるわけです。一昨年あたりも、声が聞こえてくるのは、北島三郎さんくらいしかいなかったのに、ますますその傾向が高まってきました。
つまり、芸能人の水泳大会のようなレベルで、歌が扱われているわけです。
それが世界的な傾向のように思われていますが、そうではありません。外国のヴォーカリストは音声だけで画面をみなくてももたせるだけの力を完全にキープしています。
日本の場合、テロップを出し、それでことばの伝達力までカバーしています。カラオケ好きの視聴者へのサービスに目くじらをたてるようなことではないのですが、テロップが出たから歌詞を間違えたことがわかってしまうでしょう。目をつぶってきけばよいものを、余計な気がします。それだけ歌が、視覚にこび、一般化されてきたのです。
ミルバのコンサートをみたら歌詞が全部、字幕で出ます。それに対してジルベール・ベコーやジュルジュ・ムスタキのコンサートは、日本でも歌詞は出ません。
その歌い手の客が一般化している場合、映画と同じで字幕をつけた方がていねいです。マイナーな客の場合は、そのことを勉強してきているから、字幕などいらないわけです。本来、それでよいと思います。
タレントというのは、よくよく本番に強いものです。とんねるずでもダウンタウンやウリナリでも紅白に出るレベルのタレントは、決して失敗しません。前日まで失敗して、リハでもきっと失敗して、絶対できるわけないのに、本番は、失敗しないのです。
少なくとも皆に名前を知られているレベルのタレントは、そこでの強さがあるから生き残ってきた人たちです。普通の人は、そこでそういう力は発揮できない。場慣れしていて、普通の人よりもプレッシャーに強いというのもあるでしょう。しかし、テンションの高さで運を自分の手に入れてきた人たちだからです。
つまり、10代のときから、そういうチャンスがあった人が全勝して残ってきているわけです。彼らの、本番の集中力とかそこでの感覚というのは、鋭いものです。なかでもTVのテンポの感覚というのは、舞台で一時間半やるのと違います。つまり、タレントは歌を聞かせているわけではないのです。そのテンションにさえ、客の甘いところで育った歌い手は負けているのです。だから、すべてよくないになってきたのです。
一昨年、会った、K1の佐竹雅昭さん、K1での勝負はどうでもよいのですが、芸能界の正月の体力競争みたいな番組があって、綱引きなどでも負けていたのです。その人がいつも日本代表というのも人材難を感じます。
バレーボールとかアメフトとかノンジャンルでの対決でしたが、サッカーの中山が人気頭ですから、彼ばかりをインタビューするような番組でした。テロップも、外国人は「バレーボールの貴公子」と表現するのですが、日本人になると「空とぶ日本男児」と、冗談でいっているのかまじめにつけているのか、わからないものでした。
昔は冗談とまじめが、はっきり区別されて、これパロディだ冗談だと安心して笑えました。最近はまじめにつけているのが、すごくおもしろくて、おもしろくしようと思っていることはつまらなくなってきています。これでテレビも限界になってくるという気がします。プロがいなくなってきたからです。
タレントさんの強さというのは、はったりから始まります。舞台もはったりが必要なのです。はったりも20年続けば、実力です。
本番しか人はみません。裏でどんなに実力があってもその裏というのが、知識とか研究とかであれば、それらを舞台に出るところまで深めないと何にもなりません。お客さんがお金を払って時間を過ごすのはそのときだけですから、もっともっと皆さんは、背伸びしてやることです。
○表現は制限下の産物
日本人は、基本以前の基本、本質を突き詰めていく研究というのが苦手なのだと思います。応用やまねは器用なのに、基礎究はやらないし、体系化しないで、今、売れるものに飛びつく。それは、自分の足元にポリシーがないからです。自分で自分を世の中の成り行きに沿って制限してしまうのです。
私もいじめてくれる人がいないので、ろんなところへ行って強烈なパンチを浴びるようにしています。そうでないと、痛みがわからないし、飢餓感、ハングリーなところから出てくるエネルギーや発想が眠ってしまいます。海外へ行くのも、私は拘束されることが大嫌いだからです。ヨーロッパに行くのにも飛行機に乗ると12時間くらい、座席に拘束されるわけです。私には牢獄です。
一般の人は会社などで8時間デスクに座っていることで慣れています。そういう人は、別の意味でものすごく強いわけです。馬鹿にしているわけではありません。私のように、わがままに生きていると何かを強制されたりすると、すぐに死んでしまうと思います。自由にできないということに、弱いからです。だから、たまに鍛えます。
座席が空いていても、左右に太っている兄弟が二人、座っていたとしても、そこでがまんします。そういうところで、動けない、トイレにもいけないという状況を課して、さらに牢獄にして鍛えます。
すると、仕事も進みます。制限しないと、時間も量も伝達手段も決まらず、アウトプットの時間になりません。制限されているから深まるのです。人生と同じです。夜中に人とのアポを入れると、その夜中の時間までに仕事が進みます。もちろん、会うのはそういう生活をしている相手に限りますが、リズムを組み立てます。
メディアも表現もすべて、世の中は、制限されることのなかでの戦いだからです。歌も映画も同じ、予算、時間、材料、シチュエーション、すべて大きくやりたいほど制限だらけになります。
そういうなかで、意識が目覚めていることです。そういうことを毎日していれば、そういうことがあたりまえになってきます。与えられた自由ほど使えないものはありません。一週間ポカーンとしていると、頭や体がなまり、弱ってしまいます。それは、入院しているようなものです。
私が普通のサラリーマン生活をしたら、いわれたことだけを仕事としてするでしょうか。きっと、できないでしょう。それは私にとってみたら、ベッドで一週間になっているのと同じくらい苦痛です。自分が自分を活かせていない状態は苦しいのです。同じ理由で、こういう道を選んでいる人もいると思います。なら、力をつけるしかないということです。自由は、時間と金と同じで、自ら勝ち得たものしか使えないのです。
○フランス滞在記
フランスの話は行く前に一回しているので、二回すると嫌みになるからするなというものですが、します。
バリや九州へ行った話は、興味本意で聞いてくれるのに、フランス話が嫌みになるというのは、それだけフランスが日本人のあこがれという感じがあるのでしょう。
○今年度の方向
今年も、12カ国くらい行こうと予定を立てています。月に一週間は海外へ行こうと思っています。
ただ、ここにいないと、ここの求心力がなくなってくるでしょう。それもよいことかと思うのです。
一回、壊れてしまえばよいと思っています。ただ、群れて、人の意見でこういう会に出るとか出ないとか決めたりする人ばかりになるのでは、ここも機能しません。皆も私も本当に自分を滅ぼしていくことになります。
これからどんな世の中になっていくのかはわかりませんが、価値のあることは、その人が考えること、そして行動したこと、とつくり出したものでしかないし、それを自ら放棄してしまうというのは、本当にいけないことです。これは別にアーティストとしてとか、人前に立って表現する人としてということではなくて、普通の人間というレベルでもおかしなことです。
これだけ自由な世の中になって何でもいえて、昔だったら少しでも何かを批判したら、警察がとんで出版が差し押さえられたり検閲が入ったりしたでしょう。それでも、皆、命をかけて守ってきたのです。自由だから、自由にしてよいのでなく、その自由を守り、死にもの狂いでよりよく創り出すことです。
それを自分で自主規制してしまう。マスコミばかりでなく、若いあなたがたがそうだから困るのです。ここまでいったら、られてしまうというのも、やられてみればどうなるかわかるわけです。
そこからでないと始まらないのがこういう世界でしょう。
昔の人はそれがわかっていたから、動いて試していった。そういうやり方が今通用しないのはわかるのですが、セールスだって断られてからがセールス、あるいは落語家も弟子をとるのに15、6回、来て、それでもよくないから始まる。
今でも世の中を動かしているのは皆そういう人です。とりあえず何回も行って、それで向こうの反応がようやくわかる。くらいは誰でも試みます。2回頼む人になると、極端に減ります。3回となるともういない。それを5回、10回、17回、20回とやっている人が、世の中にいくらでもいるのです。それが動かしていく人たちです。
その人がそのようにできるのは、自分の私利私欲のためでなくて、世の中に絶対これが必要だとか、絶対そうあるべきだという信念で動くからです。その人が偉い人というのでなく、その行動力が偉いのです。どんなことにも、へこたれない。そういう人たちが何事も動かし、そういう人たちが他の人たちの心を捉えていきます。ところが、そうではない人の群れにいると、あたりまえのことさえ大変になるのです。
だから歌がうまくなるというのも、自分がここまでやってみてうまくやれない、ということを、人間として存在を問われるというところまで問うていたら、それはうまくなるし、どんなことでも身につくのです。ただ、やるべきことをやる時間がかかるのです。それが早くできるかどうかは、問うべきことではありません。人生では、できたかどうかは、成したが、いや成そうとしたかどうかなのです。
歌がうまいということがプロの条件ではありません。プロというのは、人前に出て何かを働きかけていく仕事ですから、それは、そういうところに出ていくという条件が必要になります。やれない人は、一生やれないというのは、何かわからないものを突き詰めず、守っているつもりで動けないからです。
思うままやればよいのに、出て恐い目に合うわけでもないし、別に失敗してもどうでもよいのに、そんなことを恐れ傷つくほど、甘えているからです。
やっていく人ほど、そういうものを壊して生きています。そうなれないのは、自分で自分に枠組みをつくっていってしまうからです。実践してから考えればよいのに、何もない時点で何を恐れる必要があるのでしょう。
変な例ですが、北野たけしさんは映画で賞をとった次の日に、パンツを脱いで遊んでいました。それは自分でどこまで原点に戻れるかという確認と、自分は自分であることの宣言です。そうしない方がリスクが大きいので、それが偉いのではない。日本のマスコミというのは優等生でないと許しませんから、ああいうお笑いの人の場合はお笑いの扱いでアカデミーやノーベル賞でもとらない限り、評価されない。それは、日本ではどこの世界でも同じです。あなた方も同じで、いつも誰か他人の色眼鏡で見ることに慣れています。
賞でカバーしようと思えば、そういうやり方で、権威をつけていけばよい。誰かを巻き込んだり利用していくということは、同時に利用されることになり、リスクを違う意味で抱え動きにくくなってしまう。だから、偉くまつられると、いいたいことをいえなくなる。バックスポンサーに助けられていては何もいえなくなってしまいます。だから誰にも委ねないというのは一つの方法です。
日本では、売名は簡単です。向こうからいろいろ差し伸べてぎます。スケープゴートにするために、エサをつけて。「福島、一人でやっていの、大変だね。一緒にやりませんか」こちらもやるのはよいのですが、しかしその人が自分の派閥に入れたみたいに思われたら困ります。そこで何かをやってもらったら、それは、貸し借りになります。日本の社会はその貸し借りで成り立ってますから、そうやって関係をつくっていきます。そのかわり、そういう人の顔を立てて、そういう人たちが他の人から、ああいうのはやらないでくれといわれたときに、断れなくなってしまうでしょう。
そういう面で、人間として生きていく価値観と、そういう活動は分けられないのです。
私の皆に対する批判は、皆がやったこととや書いたことに対して批判しているのであって、皆の生き方とか生活とかポリシーとか信条とかに対しては、いうことはありません。それは皆がそれぞれ自分が思うように生きていればよい。ところが、批評くらいで、自分の存在が否定された、自分はここにいてはいけない人間など、すべて引き受けてしまう。歌をよくないといわれたから嫌われたというのは、逆に相当な思い上がりです。仕事上で注意されたことを仕事上で直せばよいだけの話で、まったく、関係ないのです。
外国人というのはその区分けができているから、議論しても徹底して叩き、それで手加減なしに一人勝ちできる。「オレが全て勝った、すごいだろう」「今回は、やられたよ」そのあとにニッコリと笑って握手して食事に行ってまったく、違う話をする。パーテでは政治とか宗教の話はしない。それはどちらの勝ち負けがはっきりするかわからないテーマだからです。信条は、議論できるようなものではない。
議論のなかではそのように主張していくわけです。所詮、仕事も舞台も、ゲームです。楽しめばよい。負けたら、いつか勝てばよい。勝つように励めばよいのです。
終わったゲームで、ごたごたいう。誰も見ていないのに、自分がやったということで見てもらい、認めてもらっているものと思う。手紙はすべて読んでもらえ、発言はすべて耳に入っていて、それで何かが充分に伝わり、すぐに報いられると思っている。家族と世間とは違うのに、その区別もできない子供が多くなりました。
日本人の場合は、全部、抱え込んでしまうので、とても個別な注意はしにくいのです。一言で傷ついてしまう。そういう場合は、一言だけで百個とか二百個とか傷つけられて生きてくればよいのです。私も死ぬ死ぬ死ぬといいますが、自分が死にたいとかそんな情けないことを人前で話したいのではなくて、死ぬという意識していなければ生きるということはわからないから、これは生きることをいっているのです。
歌も、終わったあとに何を残すかということを意識しなければ、どう始めればよいかが決まってきません。一つのなかですべて完結して、何かを残していくわけです。そのへんのことは日本にいると、とてもぼけてきます。だからといって、海外旅行にただ行ってみても見る眼がないと何もみえないでしょう。
まず自分の一番、嫌だなと思う人のばにいるのが一番よいのです。今そういう人が少なくなったから伸びられないのかもしれません。デは会社とかお客さんでもそういう人がいたのです。私も、そういう人になりたいとは思いませんが、そういう役割をやらなければいけないので窮屈です。
一人ひとりがやってくれればよいのですが、そういうことは、よほどその人がその先にあるビジョンとポリシーに支えられないともちません。不快に思い、それくらいで辞めてしまう。結局、その人のポリシーとか生き方の確立がなされていないためです。
結局どちらでもよいというところでやっていると、そんな表現しかできないし、できなくて嫌な思いをするところより、快適なところで過ごそうということになっていきます。それは他力本願のおかしな考えです。何回も述べていますが、歌やステージやトレーニングへの逃げです。仕事に行くのも、1割よいことがあるというので9割のめんどうなことをがまんします。
これだけ自由に生きていても、私もフランスなんかに行くのも嫌だし、飛行機のなかも嫌だし、隣に座る人も嫌だし、全部、嫌です。こうやって来るのも嫌だし、話すのも嫌だし、でもそこに1割の自分の真実を手離したときは自分は自分として存在しえない。人前に出ないというふうになったときには、では自分一人で生きて自分一人で死んでいくのかと。それだったら山奥へ行って、自給自足をしていればよいわけです。
私は面倒になったとき、どちらか迷ったときには、遠回り、嫌な方を選びます。出ようか出まいか、熱が出たり具合の悪いときでも迷えるときは出る、そうすれば迷わなくて済みます。まわりの人や救急車に迷惑をかけてはいけませんが、倒れたときには動かないのですから、そうすれば動かないままでいればいい。動物では、犬なんか悩まないでしょう、行こうか行くまいかなどとは考えず、行く。猫もそうです。そこまでおとしめるつもりはないですが、具合が悪くなったらそれしかないからじっとしている。人間は迷います。「こっちの顔も立てないといけないしな」など、そんなことが考えられる余裕があるのなら、行けばよいのです。
人に直接会うというのはとても大切なことです。あなたたちに欠けているのは、人の人から学ぶという姿勢です。やれる人とやれない人をみていけばよい。それは実力でも歌の力でもない。責任感とかもありますが、その前にそういう生き方があって、そのことを自分で引き受け確立していくことです。人にどう対していけばよいのか、その時間にどう対していけばよいのか、そういうことは本当は自分たちで学んで、ここを使ってもらうとよいと思います。そのへんが、全体的に甘くなってきて、居心地よくなってきているのでしょうが、大切なことが失われてしまってはいけないと思ってます。ただで手軽に入るというのは一番、よくないです。
こういうレクチャーにも、今日来なくとも、あとは肝心なことは会報でわかるから、誰かに聞けばわかるからといって来ない人もいる。しかし、あとで再現できるものは、一つもない。歌でも同じです。もう一回、よりよくやり直せるのはゲームだけですやられたらまた最初からやればいい。
でも人間が生きているところの瞬間というのは、二度とない。今日も、この声を聞けるというのは、今日しかない。この話だって二度とできない。それに価値があるかないかというのは、私の話の価値よりも、それで自分のなかに何を組み入れられるかということです。そんなことをやっているより、自分の歌の練習をやっていればよいと思えば、今、歌っているだろうし、それはそれで自由にしてよいのです。
ただ、迷ったり、何もすることもない、あるいはボケーッとテレビを見ているということであれば、そのときに人に会いに行くことです。何もここに来なさいということではありません。世の中、プロとしてやっている人は、皆、そのことにポリシーと責任をもってやっているわけですから、そういう人と会うと、何かが乗り移ってきます。それが大切です。しかし、パワーをもらいにいくのでなく、与えにいくのです。そうすると、挫折しなくなります。それであたりまえです。スキーの話と同じです。それが精神として入ってくるか、何となく触れただけで離してしまうかの違いです。
基本というのは面倒くさい、考えなくてはいけない、常にものすごい高いテンションで集中してやらなければならない。そのためのトレーニングなのです。自分一人でやっていたら、どこかが甘くなる。だからここに来るわけです。でも、ここで何かが乗り移ったら、自分一人でできるわけです。
でも本当は、そうなってからこそ、レッスンが必要なのです。できないところは、必要があればできるようになりますが、みえないところはできていかないからです。
それは、その人の顔を見に行くあるいはその人の存在に触れる、それが私の役割ではなくて、この場であって欲しいと思っています。
そういうことで使っている人は、ここへ来ると違う空気に触れられる。その空気というのは何千人、何万人の前でもやっていくために必要な空気です。それを呼吸していても、自分一人で出すのは難しいのです。
日常的にいつも、そうやって生きていけ人は、プロでも一流です。人間ですから、たるんだりテンションが甘くなります。それを避けるのに、他の人の前に出て、それをぶつけていく。
そのときに、「おまえたるんだな」とか「去年ほど勢いがないぞ」とか、「バイブレーションが低くなっているんじゃないの」といわれたら、たぶんそうなっているはずです。それは受け入れ、省みなくてはいけません。自分がどんなにやっていたつもりでも、伝わっていないなら、どこか感覚が鈍っているわけです。
舞台というのはそういう意味で、厳しいです。そういうステージで、とにかく自分に対しては感覚だけではなく客観的にみる目をもっていくことです。
ここまではよいけど、ここまでは譲れないというところを、いつもきちんともつということです。今、何がうけているからそれをやるとか、こうやったら成功するからこうやるではなくて、自分が自分であるための根本的なものは何なのかということです。それがあったら、まわりに左右されなくてすみます。迷わずにやれるから力がつきます。だから、私もこうして人前に問うのです。
ここで人がこなくなったら、私のやり方が悪いのか、時代遅れなのが、日本では通じないのか、これを人がおかしくなった、人に必要なくなったかと見るよりも、私は私であり、私が私であるところに与えられたらよいということならまわりの動向で悩まなくなります。取材きなくなった、本の依頼がなくなった。TVも断ればそうなります。だから自分が悪いのでなく、自分が自分なのかどうかで問うのです。それは、自分ではわからないから、他人ですぐれた人に問うのです。これを自分で問うたつもりで生きている人は、だいたい伸びず、自分のカラにこもって、“これが私”って思い込んで抜けられなくなるのです。
世の中と人間の心を知らないと、相手がどこまでのことを要求していて、どこまでのことが必要かがわからないものです。どこまでが聞いて退屈してしまうことなのかがわからないと、ステージはできません。
上のクラスの人のMCを聞けば、下のクラスの人のMCとまったく違います。百個以上、話すことがあって、そのうちのこの場に即した一つをもってくるのです。相手をみて、その場をみて選んでいる。毎日、そういう生き方をしていないと、今日、何話そうかと考え、いきなり一つだけをあげて、その一つで通用するわけがないでしょう。そのへんの差は、日常の、才能の差ではなくて心構えの差です。そうやっていたら長くやっていけます。MCは、自分の弁解や自慢のためにするのですか。
やめてしまう人は、もったいないと思いますが、問えなかった。問う必要がなかったのです。何かを続けていくために、それだけで充分だということはありません。だからといって、長くやれている人は何も出ていないわけではなく、そのへんで歌っている人よりは、よほどしっかりしたものが入っているのです。あなたというのもそういう人であって、こうやりたいのだという芽が出ているわけです。要は、それを伸ばそうと自ら手をかけるかどうかです。
ここの全員とはいえませんが、少なくともここに今日、来ている人にはある意味ではパワーがあると思います。それを認めているから私も来ているわけです。それを自分で見つめつづけることです。自分で見つめられなくなって、あっち行ったりこっち行ったり、そんなことで勉強できるのではありません。
いろんなところへ行くのはよいのですが、ただ行っていること自体が目的になってしまったり、行っているだけで勉強したような気になってしまうからよくないなのです。何でも基本というのは本当に一つのことだけを、どこまで深くできるか。その一つのことを、一つのところで深くできないから他のことをやってみるのであり、他のことをやればとうかなるのではありません。応用して基本を深めるのです。
ここでも月に一回、歌わせるのは、応用してみたときに応用ができないから、基本が足らない、それで基本をより深める。歌は応用ですから、歌えないということは基本ができていないということで、歌が歌えていないわけではありません。しかし、そうすると、その基準がない。あるいはそこのなかでもいろんなものが足りないから、それに気づかなければいけないのに、見ようとしないからわからないのです。そのために、自分のなかに入っているものを全部、出し切らないといけないのです。
いろんなものが入っているなかに使えるものもある。でも本人が一番、気づいていない。出し方がわからない。それは、文章を書いてみることでも、少しはわかるようになるでしょう。
私は、話す前後や書く前後では、いいたいことが違ってきます。話も歌もそうです。世の中にいる人に働きかけるものは、出たものなのです。自分のなかでそんなことは考えてなかったとか、これはいいすぎたとかいろんなことをいっても、出たものが作品です。出たものとは、出たがって変化していくのです。ポリシーを変えるわけにはいきませんが、才能というのは発揮された作品になってはじめて、価値が生じるわけです。どんなに心のなかにあって絵心はある、歌心があるといっても、作品になって出てこなければいけない。出てきたものが作品となるように、組み込んでいかなければいけません。
ここでは素直でなくては学べません。今の日本を覆う傾向として、変なプライドとか、まわりを気にしすぎるようなことは、自分があってそれを伸ばすためのまわりであるのに、そこを逆にさせてしまうから、よくないのです。プロデューサーやお客さんの反応は、気にしなくてよいのです。それでやれている人しかやっていけないのです。お客さんを気にしすぎてやっていては1~2年ももたずに消えてしまうのです。プロデューサーにしても、そういう人たちを世に出す人にしても、一番よくないのは、自分の武器をはっきりさせていないことです。
セールスマンが「私はいつも、よい商品を扱っています、これがヒットしますよ」とくる。「いいですよ。でもしばらく考えさせてくれ」と待つ。半年くらいたってきて、「今度はこれがいいんですよ、あれはもう古くなりました」また1年後にきて、「今だったらこれですよ」そんな人のことを信じられません。
「これは10年前のもので、もうあまり売れてませんが、絶対によいと思います、私は10年は使ってます」その方がよいに決まっているでしょう。日本の音楽業界がどちらかは、いうまでもありません。
向こうみたいに、おばあさんから受け継いだこの椅子が自慢、この服、うちのおじいさんが着てたんだ、そういうことをプライドとしている国と比べると、日本は、みせかけだけのチェンジをして、新商品としてクルクル目先を変えてはCMをしてそれで成り立たせている。年季が入っていて、その人が生きてきたものがしみ通っているものの方が、文化に決まっています。新しく形だけよくなって、来年すぐになくなってしまうよりも、よい。それの最たるものが今の音楽、ということです。それは誰も守らないからです。
根本的なことは、ここは変わらないと思います。私が守ります。来る人が変わる分、内容や形は変わるところではあります。しかし、そこで皆さんも根本的なものとは何なのかということを常に問うていることがそのまま作品の元ということです。ここでは、今、20人くらいの人が、実質のすべてだと思ってます。
1分間、聞いたらお客さんが退屈するのを、まず4フレーズでその人に興味をもたせ、その人のやることに共感させ、そしてこの人はいったいどう生きているのだろう、どう歌っているのだろう、他にどんな歌をもっているのだろう、今までどんな音楽を経験してきたのだろうということを、感じさせてください。意欲たっぷりに出せるところまで入っているものがなくては、通じません。だから4フレーズから8フレーズといっているわけです。
それがわからないのに、いくらいろんなところで出しまくってもよくないなのです。があってみえないものが、その人のなかになければ、人を引きつけられないです。これが私のすべてですと素っ裸になっても、ああ、そうですか、それで終わりです。
それは裸をみたことのない10代の子にはおもしろくても、そうでない人には何の価値も興味の対象にもならないでしょう。日本人をみたことない人の前で裸になって珍しがられても、作品の価値はまったくない。
皆の歌を1曲聞けるという機会があったとしても、自分をアピールするために、長い時間をやることではない、何曲もやることではない、今自分が生きていて、今問いたいこと、最小限、最大に伝えること、それで何分間かということです。
最大で最大というのは、経験していくと、大したことないです。10分の10というのは1、それだけです。それを、1秒でよいから、そこに10でも20でも無限と感じられるくらい入れる。無限大の可能性が歌なのです。
面談なども、「この人は、これで限界だ」と、つまり将来の可能性が感じられないと、次にまた会う気になりません。
「いろんな曲を歌います」という人がいますが、一フレーズだけやってくれたら、わかるのです。そこで感じられなかったら、今は興味はもてるものが表れていないということです。それを当人がわかっていないことが多いのです。レパートリーは何十曲もあっても、つくった曲数が何十曲あっても、本当にその人の問いたいことは結局、どこかの“部分”に表われるもので、そこで勝負できなければ何曲も聞いても伝わりません。
それはその人が、わかっていたら、どの曲もそのレベルに近くなるでしょう。それをわからないでやっているのだったら、マックスで一曲で終わり、あとは駄作を何曲も連ねているにすぎないのです。それをわかっているのが、プ口です。わかっていて、力が足りないのなら、こちらも持てるし、みれるのです。
現実の生活でも、そこのなかで目新しい感覚が一つでもあったら、こちらは1年でも2年でも、3年まってでもみていきます。ところがそれが何もなくて、歌えますというなら、誰だって歌える、歌える人はたくさんいるし、何十曲でも歌えます、だから何だっていうのでしょう。何曲歌えるかを競争するなんていう勝負は、どこにもないわけです。自分より正しい、もっと深い自分をみつめることです。何もないのに、そのことに気づかない、まず、何かなくてはいけないということに気づかない人は、トレーニングも不毛なのです。
もっともっと凝縮して、また来年の年始に、そのときの1フレーズに対して、どこまでできるか、そこが深まっていくように、自分のなかで完成させてください。多くの人が、どこかでそれを手放して、人間やその表現をしっかりと学ぼうとしないのは、とても残念なことです。
これを年頭のあいさつとします。それなりに自分の指針を決めてやってみてください。