レクチャー 992
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レクチャー1
レクチャー2
「歌い初め」
「オリエンテーション 基本」
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レクチャー
日本人のことばには、息が聞こえません。曲を大音量でかけるのは、彼らの息を聞くためです。体を使って声を出すとき、深い息が介在しています。そうではないと、歌が生きてこないのです。
そして、その息が統一、完全にコントロールできることが条件です。
ひびきだけでつくっても、表現にはならないのです。
だから、音が上下しても同じポジションでいえているかということをチェックして、トレーニングにとり入れています。
ポップスは声楽と違って、声そのものを聞かせるものではありません。そこで歌、音楽を聞かせるわけです。しかし、だからこそ、そこでは、オリジナルの声が問われます。
オリジナルの声とは、自分の体の原理に一番したがっている声です。
声楽が人間の身体の原理であるのに対し、ポップスは、自分の身体の原理です。☆
練習していくと、ベターな声は出ます。でも、それではまったく足りません。
ベストな声は、中途半端にやっても出てこないのです。徹底して磨き上げていきます。
トレーニングがつまらないようなら、やめてしまった方がましです。
トレーニングを感動しながらやれるようでないと、感動するレベルにはいかないということです。
声楽のように徹底した基本が大切です。
年輩の人は教えたがるから、よくないのです。
生きていて、自分の世界を次につくろうと思って、自分の生き方を背中でみせてやるくらいがよいのです。
各人が自分の世界をつくって歌えばよいのです。
次に音の高さ、音域の問題について話します。1オクターブ半のなかで声の音色や出し方を変えないことです。私が1オクターブ「ハイ」でとると、同じ高さの音のように聞こえます。これは、音色の太さが違うのです。
細かくつっぱらして出していくのと、太く柔らかくつくっていくのと、どちらが後で声量がつくかわかりますか。
外国人のヴォーカリストで、その条件からはずれているヴォーカリストは、さほどいないはずです。
だから基本になるのです。彼らはそこに体と息が入っています。
ロックやへビメタは、声楽ほどに深く体を使っています。クラシックは声をより遠くにとばさなくてはいけないので、ひびかせないといけないから、ひびきそのものを人間の体が楽器として最高のものを求めているのです。
そこで使う目的として価値観が違います。
ただ、途中までは同じです。人間の体という原理の部分では、分けられません。
基本というのは、応用できるもでいかないと意味がありません。
声の勉強しかしなかったら、声しか出てこないのです。
外国人とヴォイストレーニングをすると、体を使えば使うほど、そのぶん、声に変わっていきます。声に息が通っていると、1オクターブくらいは一つにまとめて深くとれるのです。
日本人は、まず体づくりから入らなければいけません。
というのは、ヴォカリスト以前に日常で表現する声としての条件が、できていないからです。☆
日本の中途半端に音楽に通じた客は、歌に、音の高さの基準、というより音程の基準くらいしかもっていません。
それも、はずれていなければよいというくらいです。
これはカメラのピントがあっていれば何が写っていようとよいというようなものです。
強弱や伸ばし方についての基準は、もっていません。だから、どうしても音程重視になっていくのです。
バンドのメンバーにも通じることです。
日本人の歌が、声だけひびかせた、退屈な歌になってしまうのは表現を考えないからです。
たとえば「つめたい」ということばに音をつけると、日本人のほとんどが、簡伸びした、フレーズをつくります。
日常において「つめたい」と感じたことを音にして「つめーたーいー(レーミーフアーミーファ)」とやって、表現力が弱くなるくらいなら、歌わない方がよいわけです。
しかし、日本人に、それだけの声がない声を支える体と息がないから、あいまいにやっているのです。日本の客が、そういうもので歌だと思っていますから、それに合わせてしまうせいか、のどだけを守る歌い方となります。
そういうやり方もあってもよいと思いますが、基本のトレーニングから表現の部分をはずしてしまうと伸びないと思うのです。人に働きかけなければ、意味がない。その基準を甘くしては、その結果、のどを痛めてしまう。
トレーニングしていたら、これが将来につながってくるという実感がなければ、嘘です。役者さんや落語家にも、それぞれに声のノウハウがあると思います。ただ、歌は求められる条件が過酷なのできちんと原理に応じてやっていかないと、のどをこわしてしまいます。実際、ここまでは役者さんの条件です。
歌は語り、語りは歌うようにとよくいいますが、最大メリハリとなるのは、問です。
自分の体にしっかりとはまっているから、何か伝わっていくのです。
ここから先は、応用に入ります。ヴォーカリストは、ここまでの条件を応用して、それにフレーズをつけなくてはいけないのです。
オリジナルのフレーズが問われます。他人がやったようにやるのであれば、歌う必要もないのです。その人の呼吸や、体の寸法に合ったフレーズを出していくのがヴォーカリストです。それを自由にコントロールできることがベースです。いくら上にひびかせてみても、体と一つになっていないとよくないということです。
表現ということは、難しく考えなくとも、子供が「おかあさん」と叫ぶ声は、表現になっているでしょう。
一番、表現の邪魔になるのは、日本語のひらがなやカタカナの感覚です。楽譜も点で書かれていまです。それから、キーボードもです。
ヴォーカルは、トランペットやサックスに近いのです。
一つの声、音をきちんと出し、それを問うていくことです。
大切なことは、自由にやれるようにすべての感覚やノウハウを体に叩き込んでおくことです。
感覚と体が変わらないことには、どうにもなりません。歌うためには、この条件が必要だし、歌えている人はこの条件をもっています。
ただ、皆が聞いている最近の日本の歌には、必ずしも、そういう条件が伴っていません。
世界に通じるヴォーカリストになりたいという人に、世界のレベルとはどういうことかを説明しておきます。
年齢とは関係ないです。
(ジョルジア「Bridge over the troubled water」)
声、歌、音楽の条件ということを話しています。音楽の条件というのは、楽器の音としても聞けるということです。サックスやトランペットの世界と同じです。そこから出てくる音色やリズム、音の感覚が、人を心地よくさせます。世界の歌は、音楽レベルで問われていることがほとんどです。
この曲の1番は、声のレベルだと思ってください。これはここでクリアできる条件です。息が聞けるようになっているでしょうか。ある程度、音楽性や音感は必要ですが、息がベースになっています。
その次に、歌に入ります。ここの半分くらいまでは、ここでできることです。
ヴォーカルは、運動神経や反射神経、集中力が人並み以上に必要とされます。どこがどう音楽になっているかを、はっきりわかるくらいでないと、できてこないのです。この辺になると、10年以上の勉強が必要になります。
これが、音楽、世界のレベルです。これ1曲で、7分です。まず問われることは、体力、集中力が基本です。でも、このレベルを考えていけば、そんなにヴォイストレーニングでは間違わないです。
一流のものから見て、大切なことは、そのなかに入ることです。このヴォーカリストのレベルでやりたければ、そのヴォーカリストの体のなかに入らないとよくないのです。
全部がわかっていない限り、同じことはできないのです。声はあくまで、材料に過ぎません。一流のものを勉強した方がよいのは、中途半端なものを勉強して、それと同じくらいになってもしかたないからです。
子供が「おかあさん」と叫ぶときには、どこかにメリハリをつけていうはずです。体から息を使って、強弱で、声を出します。きれいにひびいたかどうかは、考えないでしょう。
ただ、歌の場合は、それと同じテンションと声で3分間、ひきつけないといけないのです。
子供の表現に負けるくらいのインパクトしか出せなかったら、何もできてきません。
ヴォイストレーニングのなかで、そこまで白紙に戻さないと、嘘ばかりつくってしまいます。裸になるというのは、一番、難しいのですね。歌の舞台の上では、ただ裸になればよいというのではなく、それを音の世界にもっていかないといけないから、なおさらです。
勉強の仕方というのは大切です。
歌えている人は、どのように捉えているかということをみることです。
(「心遥かに」イヴァザニッキ
「つめたいことばきいても
(レミファミミレレドドシ♭シ♭)」のフレーズ)
ここに、音程が聞こえますか。聞こえないでしょう。ことばを一つに捉え音の感覚をイメージで出しているだけだからです。ということは、最初の出発点、方向、条件。歌の最終的な目的点が違うのです。ならば、それを正しくセットすることでしょう。
「つめたいことば」ということを伝えようとして、それを音の世界にして出していきます。音程やリズムをとろうとすることが、歌の練習のときに入ること自体、おかしいのです。
「どう歌うのですか」という質問もタブーです。本人がわからなかったら、勉強できていないということです。それを人前で歌うなど、とんでもないことです。
フレーズの感覚に一体となったとき、体のどこかが足りないと思ったら、体のトレーニングにもなるということです。
体を使うということはシンプルでないと使えないということです。統一されているということで、しっかりと歌っているときには、腰は使われていても、顔にひびかせるということに意識はいっていないはずです。ひびいてきたものをとってまとめます。
逆にいうと、イメージをきちんともって、それに体が追いつくまで待つしかないのです。それをへんにあややくせをつけることを覚えてしまうと、どんどん複雑になっていきます。そんなところに体が入ることはありません。だから、条件を整えながら、イメージを勉強していくことが大切です。
(村上進「ラノビア」)
歌い方は、日本人の前で歌うためにいろいろ工夫をしていますが、基本の力にしっかりと支えられています。それは自分の思いやフレージングに対応し、自由を獲得するためにやっておくものです。
本当に感動できるもの、わざとらしくないものだけをとると、ここでも、年間3千曲に3曲くらいしか、感動できなくなります。自分の歌をやっていくなら、それでよいのです。だから自分で作っていきます。
実際、外国人の発声から学べるようなところをいくつかあげてみたいと思います。
よく、「こんな絶唱型のヴォーカリストをめざしているのではない」という人がいますが、世界をまったく知らないからいえることで、これらはヴォリュームをあげているだけで、絶叫型ではありません。
世界ではそれができる人がやわらかく歌っているのであって、基本的ができるのです。声を音楽の条件に合わせているようにしていくのです。トレーニングはできるところまでつくっていくことが、大切です。
(タミアの「You put a move on my heart」)
クインシー・ジョーンズがプロデュースしたタミアというヴォーカリストです。
最初、小さくやわらかく出しています。しかし、後半のところでは、きちんと力を入れ表現しています。今の外国の音楽もほとんどこのようにつくられているといってよいです
この曲では、声を出していますが、他の曲ではそんなに出していません。
出せないのではありません。音楽の表現と声をたくさん使うことはまったく違うのです。
ただヴォイストレーニングに関しては、なるだけ可能性を大きく、声もマックスにつくっておくのです。
日本人は点をつないで音にしていくという考え方です。点にあててエコーでつないではしかたないのです。
へたな人でもカラオケで歌ったらうまく聞こえるというのと同じで、これでは、当人の実力はわからないのです。
ヴォーカルの場合、ギターやピアノと違ってキャラクターもありますから、実力は技術だけということはないのですが、基本の力の差は、はっきりしています。それこそ疎かにしてはいけない部分です。
彼らの出だしのところの息の感覚を聞いておいて欲しいと思います。声を聞かせることが歌ではないのです。もしそう思うなら、声楽家に習って、彼らと張り合うべきです。
大切なことは、自分の武器を知ることとそれを発揮することです。
実力派のヴォーカリストは、すべて基本の条件を満たしている人です。欧米だけでなく、アジアやアフリカでもそうです。「一流のなかで何か似ている」という部分が共通のルールなのです。音をエコーなどをあまりかけないで収録してあるのでわかりやすいでしょう。
エコーをかけてヴォーカルの線を全部消し、生命力をなくしてしまうのは、ここ近年の日本のプロデュースです。ことばのつかみ方、音のとり方、放し方を感覚に入れてみてください。
この感覚の違いがオリジナリティなのです
(「セレーナ」)
2~3年目になって、これと同じ表現力で1~2フレーズ出せるかどうかというくらいです。ポップスは、何をやってもよい世界にみえますが、みえないルールがあるのです。
そこで自分の型をつくることです。
ここの2年間は、ここに来て、いろいろな人の声を聞き、一流の歌を聞き、場を楽しむというくらいでも構いません。環境というのは、大切です。一流のものを聞けば2〜3流のものがいかに違うかわかります。
その悪いところを自分でどう変えたいか、というところに、自分の表現への意志が出てきます。
スタンダードの曲をいろいろなヴォーカリストで聞き比べてみるなど、いろいろなやり方をとってください。
(ニコラ・ディバリ「ギターよ静かに」)
こういう歌い方をしなさい、ということではなく、このテンションを破れなければ何もできないということです。
私が海外で学んだことは、最初の一声で人をひきつけ足を止めない限り、人は逃げてしまうということです。あとはそこにどれだけ、いさせるかということです。そして何を伝えたかです。
声ができている人にとってみたら、歌はしゃべっているのです。歌ってはいけないというのは、表面で操作してはいけないということです。イメージのなかに声がのっていけばよいのです。歌を教えるには、体も伝えるのに最低限、ただの一つも余計に動かないようにします。
ふしぜんなことを教わってはいけません、こういう歌を聞いていたら、声区のチェンジとか歌い方を変えること自体がおかしいということがわかると思います。全部一つで完全にコントロールしています。それ以外に、体を使って表現するということはできないからです。ずっといろいろものを聞いて、体に入れていくことです。感覚を変えるということは、そういうことです。
彼らは、声を出すことに苦労していません。日本のヴォイストレーナーが教えることは、声がないので歌のまとめ方や小手先の技術が中心です。教わる方によほどの条件がわっていない限り、そうなってもしかたないのでしょう。
1秒とも表現されないところが歌のなかにあってはいけないし、そういうテンションのなかでつくっていかないと、体も心も必要とされません。トレーニングをする意味もないわけです。
カンツォーネ歌手ではなくとも、その歌を耳で聞いて、出せることです。歌唱技術よりも、体を感じてみてください。どのくらい強く使えるのか、めざすところの基準が示されています。
こういう歌い方をしなさいということではありません。
歌える人は、声だけを出そうとすると、これくらいになるということです。
加工や音響のシステムが入っていない、生の声に近いもので聞くことです。
最初のフレーズから表現になっていますね。歌はこの連続なのです。どういうフレーズでもよいのです。ただそれが、発声と表現のところできちんとできていくようにイメージをもっておくことが大切です。カは、体の強さだけで、出せるものではありません。感覚を伴わせトレーニングでコントロールして出せるようにします。
歌える人というのが、3分のなかでどれだけ表情がめまぐるしく変化し、それが歌と一致しているのかということは、ヴィジュアルで見ればわかることなのです。
気持ちや体が一つになって出せるもので、働きが一体になっていないといけません。音色に対しての動きというものがあります。こういうふうに勉強したらよいという実践例の一つです。
(仲代圭吾「私の孤独」)
このなかから、雰囲気、個性、情感は、省いて勉強します。これらは、体の使い方を邪魔するからです。
基本をやるときに分けなくてはいけないのは、応用された部分です。☆
すると、ここのレッスンでも1時間の間に全曲を覚え反応できるようになってきます。
応用するとどうなるかということを、お話ししていきます。
ただ音程をとると「長い間ひとりで、ひとりっきりでいたから」(ド♯ド♯ド♯ド♯ド♯♯ド♯ド♯ミド♯レシシシシシシシレド♯ド♯)となりますが、これを「ターァ、ターァ(ド♯ーレ・シード♯)」くらいの感覚でとっていくのです。
1音1音とるという作業はいりません。
「ハイ」というのと同じところで、「長い間ひとりで」とことばでいってみるところから入ります。
役者のように、体を使うということです。
日本人は声が出ないうちに口先だけでつくるから、歌の大きさをカバーできず、クセというのになります。
トレーニングの段階では、そういうものを中心に勉強しないようにしてください。クセは取ることです。
音をつけてみて、何か足りないなら、一番よい状態をキープできるようにすることです。そし、待つことです。
キープさえできないのに、その上にいろいろなことをつけ加えてやるから、おかしくなるのです。
できるまで体の条件や強さなどを、鍛えるしかないのです。
そこを急ぐと、おかしくなってしまいます。
音楽も体もシンプルなものです。そのシンプルなもので、ぐっとつかんでさっと出さない限り、展開していかないということです。こういった一番、肝心なことを忘れて勉強すると、同じところをまわるだけで、年月だけたっていきます。
全身で表現するということも同じですね。
スポーツ選手並みの体力というより、集中力がいると思います。
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個々の問題に触れます。
○「発音が悪いのだが」
発音が悪いというのは、歌は発音でなくことばとして聞こえればよいということです。声が深くなってくると発音の練習というのは必要なくなってきます。だから、あまり気にしない方がよいと思います。
逆に発音から直そうとすると、つくりすぎてしまいます。口をはっきりとパクパクさせなくとも、ことばはいえるのです。
○「のどが弱いのだが」
のどは丈夫になってきます。何年もやっていると、のども太くなってきます。声帯が強いとか弱いとか、いろいろなこともいわれるものですが、たいてい、いっている人はあまり責任をもっていないです。のどがきちんと使えないということと、声帯が弱いということは、結びつかないのです。
やるだけのことをやってみて、体や息に限界がくるとわかるものです。感覚と体が変わっていかないと、この問題は何度もきます。逃げ方から覚えない方がよいでしょう。体と心が動かなくなります。
○「音程が弱い」
音程を直すのに一番よい方法は、多くのメロディを聞いて入れていくことです。
音程でもリズムでも感覚で、まずイメージとしてとれていて、それに体が反応できるという両方が必要になります。音程が難しいというのは、それだけ入っていないということです。
ロックをやっているからサンバやボサノバなどに対応できないという人がいますが、対応できなければ、ロックさえ歌えないということなのです。
むしろ、学ぶには、自分がやったことから一時、離れることに意義があるのです。☆
すると、自分の強いところ、弱いところがはっきりとわかってきます。
ロックしかやっていないと、それがロックのまねでしかなくロックであるという意味がわからないのですね。
そういうことでは、こういう場に学びに来ることには、大きな意義があると思います。
○「年齢がいっている」
年齢的な限界はないと思います。ただ、その人の気力、体力の限界というのは、ありそうです。
○「音域が狭い」
音域の問題に関しては、音域を広げるという目的をとること自体、危険だと思います。
そのために、どれだけ基本的なことが疎かにされているかということです。
○「どういうレッスンをするのか」
今日やったようなことをゆっくりとやります。2、3年たったら、かなり速いスピードでやります。
レッスンは、その人から何が出てくるかの可能性を見るところです。
それに対しトレーニングは、それに対応できるように、毎日、自分でやることです。
○「最低限、プロになるのに必要な時間は」
プロのサッカーの選手をめざす人が、そんな質問をしますか。
すごいことをやった人には、私は理由を聞くのです。どういうプロセスをとって、いつどういうことを考えたかということを聞くと、並大抵ではないです。
常に誰よりも、の気持ちでやっているから、否応なしに表現が説得力をもってくるのです。時間で決まるわけではありませんが、それでも相当の時間をやっています。
ここに来るまでに、相当やっている人が昔は当然でしたが、今はここからスタートできるようにもしています。
○「レッスンの曜日や日時に関して」
ここは自由にやっています。好きな時間に出て、好きなときに帰る、というのが一番よいと思っています。
最近、「カリキュラムを組んでください」とか、「どれに出ればよいかわかりません」という人が多くなってきました。そこで、ある程度、ガイドラインを定めました。
○「ひびかせ方、使い分け方」
これはノウハウで覚えてはいけないです。考えない方がよいです。
本当の声の出し方というのは、判断力のついた自分が、間違いないと思えるものです。
○「声量をつけるためには」
今まで習ったことが全て関係してきます、
ことばと声の関係も同じです。
○「ことばにしにくいことば」
あまり関係ありません。発音しにくいということで、音楽、声や表現力が弱まるというわけではありません。
○「体や心理的な問題に関して」
ここは、専門ではないです。しかし、それらを扱っているところにいくより、まずはトレーニングする人が自分で抱えなくてはいけない問題です。トレーニングする環境の問題も同じです。
皆、それぞれ苦労して考えています。
こういうものの対処法も含めて、自分の力をつけることだと思います。その大半は考え方からです。
○「クラスごとのレッスン内容に関して」
あまり変わりません。カテゴリーは違っていますが、すべて必要なことです。
レッスンがあって、単位をとっていったら、何か資格がとれるというようなエスカレーター式の考え方は、通用しません。何年いてもどうにもならない人もすばらしく伸びる人がいます。それは、その人の学ぶ力です。
つかめる人がつかんでいくのです。「全員に対して、少々の成果を平均的にあげるようなレッスンはしていません。皆に合わせてレベルを下げないように」と先生方にいっています。
お互いに媚びるのは、一番よくないです。
○「緊張すると、のどが乾いてくる」
それはやむを得ないです。ヴォイストレーニングというのは、100%の力でやっても、ステージでは5割や7割の力でしか出せないこともあるのです。でも、それでもステージで適用するというレベルまでいくために、自信をもつためにやるのです。ベストの状態でステージができることなど、それほどありません。
◯「発声と歌唱は別か」
考え方によります。声が一番出るときと、ステージが一番よいときとは、違います。
効果を出すためには、おかれた環境で最大限の努力をするしかないのです。
やったことは身についていきますし、やらないことは身についていきません。
○「他のスクールを併用してよいのか」
当人の問題です。両立させるのも当人の意志です。他のスクールに行っていようが、テレビに出ていようが、外でライブをやっていようが、ここではまったく関係ありません。ここで出された表現にのみ評価をしていきます。個人的な事情にはあまり踏み入りません。
○「のどの負担にならない発声法は」
負担になったら、好ましい発声法ではありません。
低音は胸、高音は頭でひびくようにやるのは、テノールなどででハイCまでひびかせることを急ぐときにです。その感覚は、歌ったことが伝わったときに、そうなるということです。
○「高音の発声を勉強するには」
その考え方はあまりよくないと思います。高音は自分の音楽のイメージがそこまで高まっていて、それがたまたま高い音になったに過ぎないのです。高音に問題があるのは、多くの場合、中・低音がまったくできていないからです。何らかの特殊な条件があって、すぐれていて、器用にこなせる人もいますが、その発声は全員にあてはめられないのですだから、それはトレーニングにならないのです。
どんな人がやっても、のびないのなら、トレーニングの意味がないのです。
トレーニングで習得することについては、その人の意欲や表現欲がない場合には、しかたがないのです。何かが足りない場合は、それが足りている人たちの歌を聞いてみればよいと思います。声で聞いてわからなくても、表情をみればわかります。客観的にわかるものです。
○「腹式呼吸が半年~1年で身につくのか」レベルを問わなければ、一日でも、いや30分もかからずとも、腹式呼吸は身につくのです。しかし、学び方で、レベルを知らないうちは、教ええられ、わかったつもりでもよくないのなのです。スポーツの一日教室と同じです。
どのレベルで問うているか、ということです。腹式呼吸だけを学んでもしかたないのです。
私は腹式呼吸で話しているわけではありません。話していたら、そうなるだけです。過度に表現するには、そういう体でないと耐えられないからです。
結局、必要性です。熱意が全てをクリアします。人と比べてもしかたありません。昨年の自分と比べよくなることです。
○「腰の病気について」
これは、医師に相談してください。足がなくとも、ヴォーカリストなら歌っています。自分の現在の状況を受け入れて、歌っていくのが歌です。それを、他のところの基準にゆだねないことです。
年間1000枚近いCDが出て、残る人はタレントやお笑いの人をのぞけば、何人もいません。CDを出してもそれだけでは意味がないのです。
ー
トレーニングと歌とを一緒に考えないことです。歌っているときには、呼吸のことなど何も考えていないから、腹式呼吸になっていないこともあるかもしれません。でも、そういうもので判断されるものではないのです。一つの目安にはなるとしても、ですが。
トレーニングには、できるだけ朝から声の出る状態をつくっておくことです。
プラスにするためにマイナスの要因をのぞいていくことも大切なのです。
しっかりと朝、そういう状態を整えておくと、それだけのどが疲れなくなります。
すると、トレーニングのときには、もっと改善されていきます。
24時間、その意識を流しておいて、リズムに反応したり音楽を聞いたりすることを日常とするのです。
ピアノは鍵盤で覚えるものではありません。弾くことで習得するのです。
そして、やったことをチェックするのです。
トレーニングやレッスンに出るのが大切なのは、一人では厳しくチェックできないからです。
その上で次にどこへ行くのかということをきちんとみていかなければいけないと思います。
トレーナーとは相性の問題もありますが、成長を待ってくれるところでやることです。
やたらと教えたがる先生は、あまりよくないです。
一般の人とプロ志向の人とでも違いますが、気づかせるような時間が大切だということです。
それを持てないし、がまんできないようでは伸びません。
鼻で歌ったり口ずさんだりして、トレーニングした気分になる人がいるのですが、
それが、ながら練習になるかどうかは、問題です。
自分オンリーのメソッドの発見も確立も必要です。
あたりまえのことを納得させるために、理屈が必要なこともあります。
トレーニングの理論などはいらないのです。ただやればよい。
でも、理論がないと、基本をやり続けられる人はほとんどいないし、深まりません。☆
だからあるのです。
今は、2年後も大半は残れるシステムになっているのですが、
そのうちしぼっていこうと思っています。
声楽では声をつくるのに、2年という甘いものではありません。10年はかかります。
身近な人間というのは材料だと思えばよいのです。
私が先生で、そのやっていることを学ぶなんて考えず、その材料に対して、自分がまだ学べることを発見できるのならよいことです。
ここでできるのは、トレーナーやヴォーカリストから学び、表現として出すこと、そして出したものに、他の人がどう反応するか、また他の人がどういう表現を出すかということを通じて、自分を知っていくことです。
私が評価しない作品でも、自分でよいと思ったら、そこにその人の感性があります。
それを大切にすることです。まだまだ足らないということです。
そしてまた、自分が人に何を与えられているか見るということです。
だから、願いを込めてここをアーティストの集まる場と呼んでいるのです。
私自身は皆にそれほど期待もせず、突き放してみています。
まず、自分がきちんと歩まなければいけないということを考えています。
ここを利用できる人は、すればよいと思います。
他にどこにも行くところがなくて、ここにきたのなら、その目的で利用してください。
私以上に利用してみてください。
何となく迷っているとか、行ったら何とかなる、という考え方ではよくないのです。
どこへ行っても覚悟を定めてやらなくてはよくないのです。
自分自身で何とかするという気になったときしか、人は何ともならないのです。
歌が好きで歌える人はいくらでもいます。
それを超えてやろうという人しか、その上に行けないのはあたりまえです。
曲と声のことは分けてやれるとよいのですが、実際は曲が刺激になって、声の必要性を感じるということが多いはずです。だから、いろいろな体制をとっています。
朝起きてすぐ発声練習をする必要はありません。
しかし、朝、体を起こしておくことは必要です。
毎日、舞台があると思って生きていたら、それほど間違えないと思います。
そうでないとやっていけません。
歌は、肉体労働のようなものであるということを忘れないことです。
私は、研究生並みの気力になったときには、この仕事をやめます。やっていけないからです。
バンドのヴォーカルに限らず、高音域を求めてくる人が多いのです。
バンドのメンバーも、ヴォーカリストのことを考えたら、そこばかりをみるのは捨てるべきです。
できないことをやるというのは、クセをつけてやるわけですから、そのことによって、きちんと出るところさえ出なくなります。
ヴォーカリストより劇団の人の方が、よほど声が大きく出るようになるのは、そのためです。
外国では、そんなことは起こりません。
エアロビクスのインストラクターが声をこわすなどというのは、日本だけでしょう。
日本人は、それだけ声をとるのに苦労するのです。日常レベルでの差です。
1音でさえできないものを、どうして1オクターブできるのか、
素直に考えてみれば、ここのトレーニングの必要性に行き当たってくるはずです。
日常レベルでの差をなくすのです。
正しい声というのは、客観的にあるわけではありません。
プリンスでもボーイ・ジョージ、デヴィット・ボウイも、クセがあります。
アーティストの理想的な発声と歌うときの声というのは、違うのです。
しかし、ある程度、声の出せる原理にそっているのは確かです。
日々、どういうことをやるかというと、何を表現したいのか、どう表現するのか。
そこを中心にやるしかないですね。
それが絵であったり、文章であったりする上で、声で歌なのです。
ここで育った人は皆、ことばをもっていて、文章も書けます。
他のところとは、レベルが違うはずです。
それは、2年間、しっかりと書き連ねているからです。
まだ体が反応できないうちから、イメージとして煮詰めておくのです。
つまり、自分をみて、自分を知るのです。
画家や彫刻家といった人たちが、どれだけのことばを発見して発明して、伝えてきているかみてください。
ことばというのは、基準なのです。
よくわからないものを、自分のなかでハッキリとイメージをつくっていく。そのときに、マップをつくっていきます。
そのなかで声も正していきます。
ことばがいらないレッスンというのは、理想的ですが、それを感じられない人には、上達は無理です。
ことばを自分のなかでイメージをひき出すためのキーワードとして、使っていくことです。
そのことと表現することを結びつけていきます。
歌ってみて何も差がつかないのなら、その奥に何も磨かれたものがないからです。
思想や芸術性、音楽性がないのです。
書くことによっても、それはある程度、磨かれます。
感じたまま歌ってみるだけで皆に認められたのなら、それは、器用か一時の天才なのです。
こういう人はたくさんいます。
努力してやっていくやり方をもたなくては、それで終わりです。
アーティストは方法論をもつものです。☆
こういう研究所のトレーニングもその参考例です。
こんなことが何になるのかということまで考えて、やらないよりやった方がよいということです。
全部やっていくのです。
会報に載せている文章より、すぐれたものが書けるようになったら、あなたの歌もよいものになっています。
ことばにするというのは、大変なことです。
音程がとれているかとか、リズムがとれているかというのも、考える前に、それだけのものを自分の体のなかに入れてみることです。表現や声が、人にきちんと伝わっているかどうか判断するのは、自分です。
歌をまとめようとしてトレーニングする人がいますが、歌はまとめてはいけないものです。
つっぱねて歌っていたら、自分の体の寸法に合わせて、まとまってきます。
それをより大きくとりたいから、呼吸も体も容量ももっておくということです。
だから、毎日息を吐いたりしてトレーニングするのです。
中音域のソーラあたりでひびきが変わってしまうことがわかっていたら、高音を頭声に切り替えないで、きちんと体からつけていくようにすればよいでしょう。
その上で、うまくいかないということは、もっと基本のレベルでできていないということです。
芸事を考えたらわかるでしょう。1年目にOKだったことが、2年目ではよくないのだといわれてしまうのです。ここでも同じです。それはレベルが深まっていくからです。
だからできないことが出てきたら、何が足りないか考えてみてください。
だいたいの場合、基本が足りない。体がさぼっている。あるいは意識、集中力が落ちているということです。
大きな声を出すための筋肉の使い方というのは、ありません。
タオルを口にあててのトレーニングのよしあしということですが、あまりビクビクしたり、体を縮こまらせて声を出すのは、よくないと思います。
それも、本人の意識ですが、できるだけ堂々と開き直ってやれるところでやるのが理想です。
基本的にヴォイストレーニングは息を吐いていたらよいのです。
ある時期、声が絶対、必要になる時期がきますが、体と息をきちんと結びつけたら、息と声は結びつきやすくなります。ほとんどの場合、体も息もないのに、声だけ出そうとするのが、大きな問題です。
緊張すると、のどがふさがったようになるというのは、話し方のスタイルを磨いていくことで、かなり改善されます。声が出ないために説得力がなくなるというのは、日本人の場合、あまりないことです。
むしろ、その人の威厳や自信、伝えようという強い意志が、欠けているからです。
ヴォーカリストには内に熱いものがあって、それを伝えたいときに、音程もリズムも歌も声も入ってくるものです。声だけひびいているなどというのでは空々しい歌となり伝わりません。
質問の回答を終わります。
ここのレッスンに関しては、あまり細かく考えないで、自分が使えるように使ってくださいというスタンスです。
不満ならやめればよいのです。
材料としての人がたくさんいるということも、ここの財産になっています。
自分の研究の刺激になると思います。
3ヵ月や半年で引き受けても、大して変わりようがないので、2年制をとっています。
2年間が最低ベースのトレーニング期間です。
どのレッスンがどういう内容かなどという質問もありますが、その人が選んでいくことができると思ってください。
たとえば、一人にアドバイスするのに、他に20人の生徒がいたら、その20人から学べることがたくさんあります。
1回か2回しか声が出せなかったとしても、その1回か2回で伝えようとしてやらなければいけないところからみるのです。こういう世界の骨組みを知ることが大切です。
他の人の体や声が読み込めていって、批評眼が音の世界でもてるようになったら、自分に対しても、客観的になれるということです。その力をつけていくのです。
だから私は、トレーナーにいわれないと気づかないというのは、トレーニングの手前だと思っています。
2年でマスターして卒業するというより、自分で判断できるようになるまでに2年かかるということです。
自分自身でやれないとよくないことです。
対処できない問題が出てきたら、先生や先輩たちが参考になることもあります。
クリエイティブな環境は、来ている人がクリエイティブにしないとしかたないのです。
だから、きた人にも、それを強く望んでいます。そうであればよいのです。
根本的な考え方として最終的に、10年に1人きちんと学べた人が出てくれたら、ここの役割は果たせてと思っています。
いろいろなスクールをみればよいと思います。見学もし、無料体験レッスンも受けてくればよいでしょう。
感動する意味のないことに、感動しないことです。
日本人の克服すべき問題というのは、ここのメンバーの問題でもあり、皆さん方の問題でもあるのです。
どうでもよいことに音響や照明がすごいから楽しくなってしまったり元気になれるのも悪くありません。
本物は、本物や一流のことをやっていこうとする人に働きかけるのです。だから残っていくのです。
私は、一般の客に理解されなくてもよいと思っています。しかし、客を育ててつくるために、主張するようにしています。よい客がいないと自分も育たないからです。
考え方は本にも書いてあります。
最初はことばで説明しますが、2~3年目になると、音色やフレーズの表現に入ります。
トランペットでいうと、耳や体というところです。それを実際、音楽のなかでやっていくのです。
トレーニングというものは、やらないと身につきません。
どこでもすごいことをやった人たちは、やはりすごいことを日常でやっています。
ここでできることは、天性のものを引き出す体、呼吸の部分のトレーニングです。
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【レクチャー2】
大切なことは、感覚を正していくことです。
たとえば、プロのヴォーカリストの内部の感覚を体で読み込めなければ、彼らと同じことはできません。
最近の日本のヴォーカリストは、口先で加工して発音しています。
彼らは、早く高音までとどかせるためにそういう声でやっているのです。
そういう人たちに対して勝負するには、時間をかけて、プロの体、プロの声で表現することでしかありません。
歌がうまくなったから、プロデュースをして欲しい、といってくる人がいますが、歌がうまくなって、人が集まらないのは、なぜかを考えないのでしょうか。
今は昔より、よい声、よい歌というだけで集まる人は少なくなりました。
それでも聞きたいと思わせないのでは、その歌は所詮、歌として成り立っていないのです。
体から声をだすということは、一つにならないとできません。
「ハイ」と連続していってみて、のどにかかってはいけません。
それができたから歌えるというわけではありませんが、一流レベルでやっている人たちは、それができるのです。
それが一つの基準です。
舞台は失敗が許されない場です。
そういうところで声がコントロールできていないなどという言い訳は許されないのです。
外国の言語というのは体でアタックしています。母音はひびかせる音だから、ノンアタックです。
日本語はすべてに母音がついています。
私は音楽的日本語でしゃべっているので、のどにかかることはありません。
この声でプライベートな会話をも外国の友人とします。パブリックなレクチャーでも同じしゃべり方です。
日本では、パブリックスピーキング、つまり対話がないのです。
歌というのはパブリックなものですが、日本ではどうもそうではなかったのです。
つまり元々、祝言など身内のなかでやるのだから、パワーはそれほど必要なかったのです。
そのため、他の人々、つまり、世界に出ていけません。
日本語は音高の変化を聞き分けないとわからないのです。
高低の感覚が入っていても強弱アクセントのように入っていないものは出てこないです。
それは入れていかないといけないのです。
日本語は体を使わなくても発音できてしまいます。でも一つに表現するには体を使わないといけません。腰を使って体だけで呼吸をコントロールした結果、声になっていくのです。それがことばになったり、音・楽にのったりして、歌という形をとっているのです。
ヴォイストレーニングとしてきちんとやり、最終的に長く身につくには、考え方が大切だと思います。
二、三カ月で調整するのと、二年で基本を教えようとするのではまったくやり方が違ってきます。
日本人が感覚を変えなくてはいけないところがポイントといえます。
一つに捉えないとフレーズが動いていかないからです。
日本語は切れ切れに発音する言語です。装現の練り込み、シンコペーションや、声を自由につかんで放すためには、体一つに捉えて助かさないといけません。
ヴォイストレーニングというのは、そのために声を扱いやすくしていくのです。
人間の体には、人間が最も使いやすい原理があります。それが。体の合理的な使いかたでできてくればよいのです。しかし、日本の場合、この音が出ないといけないと急ぎます。それは音楽本位ではない考え方です。
音の高さについて話します。
1~2年目は役者と同じくらいの体になるというのが体です。
あるいは外国人と同じ条件を体につけなさいといっています。
私の声は日本人には低く聞こえるはずですが、太く出しているのです。音色が違うのです。
太くした声は細くも出せます。音量があれば、小さく出すこともできるし、音域があれば狭い音域でも歌えます。それが器を拡げるということです。
単一の発声法があるのでなく、あとで器が大きくなれるように感覚と体とを鍛えるのです。その人の気がこめられていて、体が入って、心が入っているものは伝わるものです。
ただ、声が磨かれていないとよく伝わりません。そのときに感覚が問われてきます。
トレーニングが間違っているという以前に、感覚が鈍いことが大半です。
ヴォーカリストがトレーニングをやるのに難しいのはそこです。一人でやっていると、将来的な声がわからないのはもちろん、今の声も自信が持てないからです。
それは声がよいとか、悪いという問題ではありません。声を完全にコントロールできるかできないかです。プロは百回歌ってみても同じように歌えます。それだけコントロール力をもっているのです。音の高さに関わらず声の音色を同じにするということです。
だから、私は、声区のチェンジという考え方はしていません。呼吸だけでコントロールし、その上で上にひびくときはひびかせればよい、という考え方です。
メロデイ処理ということについて説明します。「つめたい」ということばにメロデイをつけると、日本人は「つーめーたーい(レーミーファーミ)」と低高低と捉えます。
しかし、ことばで「つめたい」といったときに伝わったものが、メロディをつけることで、伝わらなくなっているというのはおかしなことですね。
日本人というのはその辺に甘いのでヴォーカリストが育たないのです。外国人はどうやるかというと「つめたい」というときに、どこにも強アクセントがなかったら彼らはアクセントをつけます。
うしろから2番目ぐらいにつけることが多いです。「たーい」でなく、そして「たい」と一つに捉えます。これは感覚で入っていないとできないことです。つまり、taiにtumeをそえるということです。
ここまでやりながら、ヴォーカリストをめざす人はオリジナルのフレーズを身につけていくことが大切です。呼吸で声をコントロールすることをフレージングとよびます。自由それは自在に声を操る技術です。
一年でコントロールできる声が半オクターブできれば早い方です。
「つめたい」ではじまるイヴァザニッキの曲は、出だしの一つのフレーズに半オクターブが使われています。
歌は応用がききますから、半オクターブ、オリジナルの声でとれれば1オクターブ~1オクターブ半の曲が歌えます。一流の人とともに、自分が課題、学べる人を見本にとってください。
いろいろなジャンルの曲を聞かせていますが、それだけ多様なものに対応できる力を入れていって欲しいからです。ロックをやるからといってロックばかりきいていたら、ロックさえやれなくなるでしょう。
(村上進「ラ・ノヴィア」)
歌い方としてはともかく、フレーズの勉強にはよい見本です。呼吸と一致しているかどうかを見てください。口先だけでやっているところは、わざと日本語に合わせたからです。そのかわり、そのあとで深く体で一つに捉えてとりかえしています。
こういう感覚でのバランスが普通の歌い手には必要です。日本語処理のために、です。
音の世界で音楽になっていて、そこにことばがつくというふうに考えてください。
このなかでことばは点にはなってはいないのです。
(ジョルジア「Bridge over the troubled water」)
ジョルジアが23才のときのものです。皆のよく知っている曲です。
一番は、息と声の条件、二番は歌の条件、三番が音楽として聞いてみてください。
最初の二つは日本人でもなんとかなります。
この歌を聞いて、息がきこえるようになった、と思ったら、少し感覚が変わっているのです。
それにつれて、自分の体も変わってきています。
大切なのはイメージです。音を体でどう捉えるかです。
きちんと息を吐いていますね。
向こうの人の多くは、息をもっていながら、最近、演奏のときはそういうものを見せないというのが多く、学びづらいのです。日本人は、逆に、最近、やたらと無駄な息を感情移入したように使いすぎです。
3番目の音楽の部分があれば世界に出ていけます。
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「歌い初め」
昔から研究所だけでがんばっても、それだけでは差はつかないのだということをいっています。
しかし、がんばった結果は一曲に出ます。一曲、しっかりと歌えれば、ここにきたかいがあるのです。
本当に皆に力があれば一曲のためにここにくるということは、歌い手としてあたりまえのことです。
ところが、未消化で終わって、新年早々、スタートが鈍ることが多いのです。
マイクの使い方の練習をやってからにしましょう。
外国に行って日本でどんな音楽が流行っているのか聞かれるのですが、結局、彼らを納得させる歌に、彼女の歌くらいしかないということをよく考えなければいけないのです。
今の日本のものを聞かせてもまったく反応が弱いのです。
しかし、ひばりさんの「悲しい酒」とか「柔」は世界に通じるのです。
そこの域に達していれば、外国人が理解できるのです。
(言語の問題は抜きにして)彼らが感じるというのは、その国のオリジナルティや歌い回しなどのなかにすぐれた要素があるということです。自国の感覚とは別のところですぐれたものを感じる価値があるから、国を超えるのです。
そのオリジナリティは残念ながら、今の日本の音楽にはなくなってきているのです。
評価というのはとても難しいです。
お正月に、昔の都はるみさんの曲を聞いていたのですが、デビュー当時は、声のハリが今とまったく違います。
昭和30年前後に活躍した人たちが出たときの勢いは、最近、見直しています。
私が食べず嫌いしていたのは、もの心がついたあとに聞いていたナツメロのイメージが強かったせいでしょう。淡谷のりこ全集なども楽しく聞いています。
日本人の場合、向こうと違って、体力もないのですが、名声が一度確立してしまうと、名前だけで何となくごまかされてしまうのでしょう。それにおごってなのか、歌い手は30代くらいでガタがきてしまいます。10代20代のデビュー前後はよいのです。うまくとも、うまくなくても、その後伸びればよいのです。
日本ではデビューしてから伸びる人は少ないし、50代、60代になたら、かなりひどくなるのです。これは客が甘いからです。向こうは、まったく同じ力をキープしているか、よりよくなる場合が大半です。だから日本のものでも当時のものならば、教材としては充分に使えるような気がします。
それでは円になって発声をしましょう。
音楽が先に行ってしまって、自分がおきざりにされないようにすることです。
ことばでいうと、「めをとじて、なにもみえず」です。
あたりまえだというなかで、自分自身でそのことばの意を組んでいかなければなりません。
もう一つは流れです。それをどう動かすのかをくみあげていくのです。
リズムが入っているときぃよいのですが、アカペラでやるときは声が使えないと先が読まれてしまいます。
キィは好きに変えてください。
次は「あーくだけちる」で「せめて、ひそやかに」まで練習しておきましょう。
ここで、流れが決まります。大きめにつくってください。1オクターブと3度くらいあります。上の方で詰まらないように自分なりにキィを考えてください。
マイクを使います。あまり近づけすぎないように、少し動いて、立ち位置を確認してみてください。
マイクに歌ったらキーンとなるだけです。歌を歌っていて、聞こえにくい分マイクを使うべきです。
口から放すと固い音質になりますが、反面あまり、マイクの影響を受けなくなります。
距離の取り方に注意しまょう。エコーをほとんどかけないと、近づけてもやわらかくならないでしょう。声のチェックにもよいので、慣れてください。
モニターで返ってくる以上に、客の方に声がいっているので注意しましょう。
ほとんどの人の場合、自分の声が聞こえないと声を大きくしてしまいます。
大きく歌うのはよいのですが、コントロールすることです。
日頃、心がけていることと違った方向に行ってはいけません。
もう一度フレーズを回します。
ここでは海外レベルで通用する声をつくるのが目的でした。今の日本の風潮がどうであれ私の考えは変わらないのです。日本の場合、プロデュースをやることと基本をやることが両立しにくいのは、考え方が180度違うからです。プロデュースをやるとこの間の特別ライブ実習のような選者の仕方になります。
日本人のヴォーカルは声がないから、ない声をどう見せるかという技術が発達していることをうまいと思うわけです。それを教えれば格好はそれなりにつきます。
しかし、それでタレントの人たちより、必ずしも上にいけるかというと無理でしょう。そんなレベルのものを歌といったら、それだけでやっていく人には先はありません。
見落としていけないのは、音感、リズム感がよいということでさえ、音楽にひたって、体で捉えて出せているかということで正しければよいのではないのです。それは、コールユーブンゲンでは判断できません。
日本人が、日本人の壁を破るためには、一回もぐらなければできないわけです。
うまくなろうとしてうまく歌っていこうとすることが、日本人にとって歌がうまく歌えなくなっていく最大の原因なのです。そのシステムのなかに巻き込まれて、うまく歌える人が少なくなってきたし、まわりもそれを増長させ続けています。それは歌に限らず、今の日本の悪いところです。
日本で、いかに第一線にいる人と力のある人が一致しないかということを考えて見てください。それはやはり、それだけの人材の層がないということと、力がある人もトレーニングに専心してしまうがために時代を見たり、街を呼吸していないということです。今の音楽を、今らしく出していくという、ポピュラーに欠かせないことに目がいかないからです。
音楽界に作曲や楽器ですぐれている人はたくさんいますが、ヴォーカルに関して人材がいないのは、ヴォーカルの基準を判定できる人がいないからです。
力の差というのは、誰が聞いてもはっきりとしているのに、そういうものに触れれば触れるほど、近づくほど逆にごまかされてわからなくなってくるのです。
上達するにはこれを断ち切るしかないです。ここのなかでも、多くの人はごまかされています。
客を育てることは大変です。歌を理解するには、ものすごく勉強しなければならないからです。日本の客というのは、ここに年くらいで何の音かもわからないほど鈍っているわけです。
しかし、やる方は耳の世界に入っていていかないとしかたないです。それにはよい作品に触れていって、そこで磨いていくしかないです。
ここで使う歌にも、よいものと悪いものを混ぜるようになりました。いろいろな材料があった方がよいと思うからです。よいものを聞いて悪いものを判断するのも勉強になります。
要するに快感なのか、不快なのかということです。それが細かく自覚できていて初めてトレーニングになるわけです。インパクトがあるのが第一ですが、次にその密度が問われます。
歌でもアマチュアが一所懸命やるのは、けなげで楽しくとも、どこかでプロのまねを表向きでするようになると、うさんくさくなってしまいます。そういうことをトレーニングと勘違いして一所懸命にやっている場合が多いものです。
人に対して、何を与えられるのかを考えてください。自分がまず満足することが前提です。歌や音の世界でどのようにもってくるかということは、かなり煮詰めなければなりません。煮詰めるということ自体、わかるようなわからないような感じもしますが、ここでは正攻法でやっていく部分だけは、はずさないでいこうと思っています。それは将来につなげていけるようにするということです。
最初、うまく歌えていた人が伸びなくなるのは、悪いものを見て、よいものを見ないからです。悪いものでよいと思うからです。
自分の弱点をきちんと見極めて、きちんと正しくやり遂げることがわかり、実践できるようになることが本当の意味で、ここでの卒業だと思っています。
しぜんに歌ってみて、人が感動すればよいと思います。退屈させるのが一番よくないのですが、最初はそれもよくわからないと思います。
力がついた同士で刺激しあっていく段階に、どこかのレベルから入っていくべきです。一つのことをきちんとやっていたら、そういう人たちとは分野が違ってきても話がわかります。人は相手のレベルに合わせて話をします。レベルを破っていける人間というのは、モノトークや歌のなか一つでもわかるものです。
伝わる度合と歌のうまさは必ずしも比例しないのです。最初、歌だけがうまかった人というのはあまり伸びてきません。自分というのは一つしかないし、その自分というものを取り出せるのが歌なのです。迷う必要はないのに、自ら、自分を取り出すより他人のすぐれたものをまねるようにそれていってしまうのでしょう。
だからまねしないことが正攻法です。といっても、最初は、まねもしたことがないのなら、まねをしてみるのも一つの学び方です。
人間が何によって魅きつけられるのかということ、この要素はとても大切です。これは、単に相を気持ちよくさせるとかそういうことではありません。そうではないもの、もっと大きなものを与えられるかということです。
最終的にはその人間にの存在というのが、大きなものです。それが出でいるのなら退屈するわけがありません。
オリジナルの体に戻るには、オリジナル・の体にしなければなりません。オリジナルの体に戻すにはかなり時間を要します。それからオリジナルの表現が必要です。ですからこの二つを獲得しなさいということです。これは正攻法でしか得られないものです。
どういうノウハウをもつのかということよりも、本当に表現すべきことが何であるか、どういう形態で出すかということを知っていくことが大切です。それがオリジナルな声とオリジナルな表現に結びついていきます。
中途半端というのはよくないし、ウソくさいもの、退屈もよくありません。
ただ、日本の場合はそれさえ啓発しなければならないようです。まわりがほっとけないような人になればよいわけでしょう。周囲にこびる必要はないのですが、それでも自分のポリシーをきちんと伝えるという努力をする必要があります。
歌い手というのは、客がいれば仕事ができるのです。しかし、客を他人に集めてもらうという発想からそもそもおかしいのです。メディアにぼけてはよくないのです。
昔のサクセスストーリーはまったく違っていました。自分でゼロからやるから力がつくのです。
今は、気をつけなくてはなりません。時代にこびる必要はないですが、自分の方に時代を引き寄せていことです。
文化と経済を切り放してはいけません。ものを売るということも結局、文化を売っているということです。端的にいうと経済に関係なく人が動くということはないのです。
ここも昔は録音を手渡しでやっていましたが、今はセルフで渡るようになっています。
その分、受け取る方がそこにどれだけ人間を感じられるかということです。
皆の方がどんどん鋭くなり、取ってつける力をつけてください。
とれるものは全部、貪欲にとっていくつもりでのぞんでください。
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オリエンテーション【新入①「基本講座」】
全てを安易に与えるとわからなくなるので、一つずつ意味をもたせていきます。オリジナルの部分でプロデュースと基本の勉強を一緒にできませんから、外に出て活躍してほしいというのは第一ですが、日本というより世界の単位で活躍して欲しいものです。
徹底して自分を堀りさげていく人というのはどこの国でもいて、いつまでたってもマイナーです。しかし、堀りさげるからその人自身にどんどん近づけるから、それは何事にも代えがたい一つの価値です。そういうタイプの人間は、今の日本ではここでないとやれないと思います。
学び方としては、私のいっていることに対しては、あたりまえに捉え、それ以上のことをやっているくらいでないとよくないのです。ライブなどで力を使って、ここのことがおろそかになるようだとどうしようもないでしょう。
私は九割は外の活動に精をだしていますが、だからといってここの活動をおろそかにしているつもりはありません。会報にも一番書いているでしょう。
アテンダンスも2、3行くらいしか書かないような人間は大抵、早々と辞めていくわです。
ここをやめて他でやるといいながら、結局この世界をやめることになってしまうのが大半です。
今ここでやれないことが他でやれることはないからです。
そんなことでさえ続けるとなると多くの人は、2年ともちません。
歌というのは、基準が難しいので、上が難しいのです。自分のなかに基準を有している人しか、うまくならないことになります。正解のある世界ではないので、何年かかってもできていく人はできるし、できない人はできないのです。皆のまえではとてもうまくやれている人でも、ピークを超してしまい、それ以上に学べてない人、伸びていない人もたくさんいます。
レベルが高くなるほど学ぶことは真摯にやらないと、できなくなるのです。でも、他の人のレベルが低いと、やれている気で慢心してしまい、そこで進歩をしなくなるのです。
やれる人を見ると、相当のことを考えているし、聞いているし判断基準をつけるために基本を繰り返しているのです。
歌は自分では一番わからないからです。歌を歌っているばかりでは、どんどん流されていきます。
学び方というのはいつも述べていますがそれを実行できる人が少ないのだと思います。
日本人というのは楽してできるとかっこいいと思うようになってきたから、よくないのなのではないでしょうか。演技や歌は少なくともそういう世界ではないのです。
できていない人たちも1年~2年目までは声も出ないし歌も歌えないのに書くことだけは書いています。その差は3年、5年たって、あとで出てくるわけです。どうして、投資を回収しないのか、回収するように投資しないのかと思います。伸びた人には必ず理由があります。
こここが他のスクールと大きく違うのは、トレーナーや先輩が残した財産をできるだけ他の人にも伝えようとしているところだと思います。会報などありませんね。
声のことや歌のことだけで書くのは大変です。
私は歌を聞いてそれにコメントしたり、基準を示したり、いろいろなことをしていますが、最初はうまくできなかったのです。最初はわからないのだけど、続けていると明確にわかってくるようになります。自分のことばで表現できるようになるのです。
入門と①では、体のこと声のことをしっかりとやって欲しいです。
音程やリズムも大切です。これらももっと、厳しくやってください。
それから、本来、ここでやることではないのですが、慣れるということです。
最初から音声の表現の場に耐えられる人が、日本にはほとんどいないわけです。
ここでは、皆になじみのない古いものや外国のものをあえて出しています。
一人では学びにくいものを学ばせます。
学びにくいものから学ぶことができれば簡単なものから学ぶことができるのです。☆
聞いたつもりでいても、本当の意味で聞いていない場合が多いですから、そこに気づくことからです。
こういう世界で本当にやっていこうと思ったら、本気になって聞くことです。自分が舞台に立ったらどうするかというところで、音の世界での駆け引きをしていかなければならないのです。
いつも自分がやって、そこで何を出せるかということで問えるわけです。
だんだんと音の世界に入っていきます。そこでは音で駆け引きをしていけばよいわけです。すると、それを決めるのに自分のなかで出せるものを知り、組み立て方にポリシーとかオリジナリティがなければなりません。
それは好きなようにやればよいということではなくて、個としての表現や音として気持ちがよいとか元気がでるとか何か思い出させる、気づかせるなどというルールの上で成り立つことです。
いろいろなことができるわけですが、その人間ができるベクトルというのは一つしかなくて、それを越えてしまうとよくないのになってしまうことも多いようです。ギリギリの線というのがあります。料理や絵で考える方がわかりやすいと思います。
最初の1年目は自分の体や声のことを知ること、それから音の世界のことを知ることでしょう。それがポップスですから、一流ばかり聞いて見て、それをまねできてもしかたないのです。
オリジナルの声というものをきちんとつくっていくこと、それをオリジナルのフレーズとして出していくことが大切です。それには正解が一つではないのでわかりにくいのです。自分が自分でないように出してしまうと、失敗してしまいます。
皆、声が身につけば歌が歌えると思っているようですが、声が身につけば身につけば身につくほど、歌は難しくなってきます。いろいろな可能性ができればできるほど、それをどう使うかということで、一般の人にはみえないレベルで苦労をします。
そういう意味でいうと、2年、3年とたつうちに、どんどん厳しくなっていくのがこういう世界です。厳しくなれない人は別に理由もいらないわけです。
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Q.ベターの声とは何か
A.「ハイ」と体からしっかりといえると、ベターな感じというのは体でわかることです。それをよりよくベストにしていかなければなりません。心をいれるためです。
ベターなものがつかめなければ、それを出すことに専念しなければならないのです。
邪魔している要素があればそれを取り除いていかなければならないのです。
それをきちんとわけていかなければよくないです。
勢いよくやればよいというものではありません。あくまで、そのことが次の段階に結びつくためのベースにならなければなりません。
感覚とそれを支えられる体だけの世界です。その部分は音楽的にというより、まずはスポーツのフォームづくりに近いのです。要はその感覚に対して体が働くように結びつけていくのです。
だから、より息を使えるようにしたり体を柔軟にしていったりして、そういう状態を出せるようにしていきます。
ベターな声はベターな状態から生まれ、それはベストな状態を導いていきます。自分のベストの声を出すために必要なのです。それでもうまくいかないときはあります。
歌はよほどわからないうちは、外側からみえない世界でコントロールされるようなものなので感覚で判断していくいしかないです。それも声の基準というものをどれだけ身につけていけるかということになります。
Q.練習していてのどにかかる。体に力を入れても声が空回りしてしまう。
A.絶対量の問題というのがあります。それは半年くらいで解決するものではないのです。
そこで正しい感覚を自分で、つかんでいくということが大切です。
実力は人によって、どの時期に伸びるかというのはさまざまです。しかし、判断の基準をできるだけ正しく身につけていかないとよくないのです。体というのは、あとからついてきます。だから正しくやればやるほど、最初は時間がかかる場合が多いのです。
スポーツでも本当に正しく基本が半年で完全に身につくということはあり得ません。
間違ったことを全部はずしていくことだけでも、半年から1年はかかります。
間違ったことをはずさないと、今まで歌えていた歌も歌えなくなります。
日本人の場合、一番正しいところまで深まらず、ときにできてもなかなか定着しないわけです。それが正しくなると感覚の欠如が問題です。正しいものはつくるのではなく、もともとあるわけで、それがきちんと出せるようにしなければならないのです。そのために体を使うということや、音を捉えるということを全身で学んでいくことが必要と思います。
トレーニングですから、やった分しか出てこないわけですが、やった分量だけ、すぐにその成果が出るわけではないです。少々間違っていても人の10倍やっている人がいずれ気づき、生き残れる世界です。しかしその10倍をやるのが難しいのです。量もある程度、正しくこなしていくことが大切だからです。
プロは、動きがまったく違います。柔らかいでしょう。表現しようと思わないと、手も顔も動いてこないでしょう。表現についてはその人が煮詰めていないと出てこないからです。
Q.今の段階で出ない音域も、練習のとき出した方がよいのですか。
A.二通りの考え方があります。
最初は無理でも目一杯、音域をとってやることです。
次にトレーニングではしっかりと出るところでしができないので、できるところを中心にやります。
グループの場合は全体の平均のなかでやっていますから、人によってはムリしてのどをしめたり、そのあとに負担がかかるようであればやらない方がいいのでしょう。
たとえば息だけ流すとか、1オクターブさげるとか、要は正しいところで繰り返すということです。
のどをしめると、ライブやカラオケと変わらなくなるので気をつけてください。
声が出せるところが音城なのではないです。
どの音が自分は出ないと早々に決めないことです。その音を意識するのは必要ですが、体が変わったら、その音に対する感覚も変わります。うまく声を使えないうちから、最初から限定しないことです。知らないうちに出ていくようになるのがよいのです。
Q.声の芯を入れるということはどういうことですか。
A.深い声のポジショニングということになります。
日本人にとって一番ないものが胸部のポジションです。
本当に、歌えている人は、それをきちんとつかんでひびきにもっていくのです。
ここのレッスンでは声の芯やポジションは感覚を変える中でメインのことです。
自分の出しやすい声で「ハイ」と出してください。
それをのどで大きく出すのではなく、体を使って出すと考えてください。
要は完全に高度に声をコントロールできなければならないわけです。そのために体できちんと支えることです。
予め息を流しておくとか、体を柔軟にしておくことが大切です。体を曲げてやってみてください。体が使えているかどうかを意識してください。
「ハイ」というのを同じところで替えているかということでチェックします。
のどを開くというのは、のどによけいな力を加えないということです。どこかにカが入ると、それはオリジナルな声ではなくなります。
首をあげないでください。のどぼとけをさげるようにというのはそれは舌の奥の舌根を下げ、よけいな操作をしないということです。息だけでやると誰にでも体がついてくるのです。もう一度やって見ましょう。
Q.自由曲はどういう基準で選べばよいのですか。
A.最初は慣れるために自信のあるものを出してください。
せっかくの機会だから、自分の好きなものからでかまわないです。
選曲が合っているとか合っていないとかは最初はあまりいいません。
次には歌いやすいものより自分が勉強になるものを取りあげていくことです。
基準がわかってきたら、それに合わせる必要がでてきます。歌い慣れているものをやるよりは、この場に対して、きちんと表現できるところを中心に練習してください。
Q.発声はいつ完成するのか。
A.構えができて、しぜんに声を出せるようになることです。その意識がなくなるまでやることはたくさんあります。
スポーツや武道と同じで、感覚的に、緑り返して覚えなくてはならないものですから、慎重にやりすぎるとかえって難しくなるのです。
いろいろなタイプの人もいるでしょう。声楽の感覚でつけていくのはポップスでは少し違うかもしれませんが一つの方法です。結果的に自分の感覚を信じられるようになってください。他のひとのアドバイスも参考にしましょう。「ハイ・ライ」で回してください。お互いに他の人の声も聞いてください。
発声と歌では区別しなければなりませんが、発声のときのイメージを歌のなかにも取り出せないうちは、自分の体にもってこれません。
ここでやっていることというのは、即興的な対応能力を磨くことです。歌に反映しないのならトレーニングではないと思っています。自分のなかであいまいにしないことです。声を出すのがが気持ちがよいというのも、一つの条件ですが、肝心なことは表現能力です。「ハイ・ライ」という発声のなかに歌が出てくる余地がなくてはなりません。歌になったときにそれが乱れないようにしなければならないのです。
「ハイ」をひびきだけにもっていく人は体を使う意識がまだありません。無理に顔や口にひびかせようとします。
しばらく体がきちんと読み込めていることを大切にしましょう。
ただ、上から押さないように、胸におしつけないようにしてください。芯をとることの邪魔をします。
体とそれを支える息ができていないいうちは、直しようもないのです。
だから、のどを使わないで、息を徹底して吐くようなトレーニングで体の感覚を覚えることです。