レッスン1 993
ーー
レッスン①
レッスン②
とりくみ「私の孤独」ほか「ばら色の桜と白いりんごの花」
「私の孤独」
森のくまさん
「幸せが一杯」
「枯葉」
「恋は鳩のように」
「暗い日曜日」
「リリーマルレーン」
「恋する瞳」
「クアンドクアンドクアンド」
「イルモンド」
ーー
レッスン①
順番を待っている間も、それを維持し備えなくてはいけません。少なくともレッスンの時間のなかで状態をよくしていかないといけないのです。条件をつけていくには時間がかかりますし、レッスンの時間のなかだけでは間に合いません。しかしもっと足りないのはテンションと表現したものの確認です。集中し、自分の声をきちんと知っていかないと、伸びません。
(「ハイ」)
声を強くするにも、息を早く吐いてきちんとそれを受けて、声たてをしないといけません。吐ける力と、感覚的に捉える力が必要になります。今の段階ではお腹のトレーニングは発声とは別にやった方がよいでしょう。
目をきょろきょろして声を出さないことです。絶対に集中できません。目は力です。前に出すようにしてください。
先生にいろいろといわれても、今すぐには隠せないものです。指摘されたことが起きているということを自分で知っていればよいのです。その足りないことを補うのに何をすればよいのかということを覚えていってください。
一時的にトレーニングと歌を分けて考えた方がよいです。一緒にやれてしまう人は、もう全部できている人しかいないからです。ひびきとしては前に出ているのですが、横も広がっているので、もっと深いところで捉えてください。声を出すときは息をきちんとコントロールして、入ってくるまで待ってください。姿勢は、胸の位置を少し上げて、あごをひいてください。
今までひびかせて歌ってきた人ほど、体を使うことを集約させて可能性を広げてください。
強い体で支え、強い息を声に反映させることをやっていきます。それができないうちは、体は体で鍛えることです。息吐きをしていると、体は、のどと関係なく鍛えられてきます。声帯は直接えようがないので、体と息で調整するのです。
息を吐くことと、体を柔軟にすることで状態をよくすることを心がけてください。いつも一番、声が出る状態に保っておきたいのです。だから、運動や柔軟が大切なのです。トレーニング中は無駄なおしゃべりは厳禁です。
体をまげて息を吐くと胸の横や後ろの筋肉がしぜんに動いてきます。
お腹の前は使ってはいけないのではなく、すでに使われているので、他の部分を鍛えることがねらいです。頭を下げすぎると頭に血がのぼるのであまりよくないのです。背筋を伸ばし、床に平行して、あごをひいてください。足を少し開くとよいでしょう。これはのどに負担がかからないので、よいトレーニングだと思います。
トレーニングをやってつっぱると、足がつったり、体が動かなくなります。痛いのを我慢してやらないでください。のどを使わないで息を出すことが大切です。呼吸にもそれぞれの人のリズムがありますから、速く吐きすぎないでください。
体が起きてきたと思ったら、無理なく声にしてください。息を吐いたら声になっているという感覚が理想です。そのときも、ハッキリと声にしてください。胸のまんなかに口があって、そこから声が出ているというイメージです。
(「ハイ」)
だんだん自分のフォームが、感覚的にわかってくると思います。上達するにつれて、自分で判断しなければならなくなります。わからなかったら他人のをよく聞いてみることです。よいものは働きかけてきます。目ではなく、音のなかで捉えていきます。音での感情表現を磨いていくことが大切です。時間はかかりますが、そこからやらないと、正しいトレーニングにはなりません。芸事は自分で気づいていくしかないのです。
(「ハイ・アオイ」)
「イ」に関しては、「イ」であまりつくったりひびかせない方がよいです。「ハ」と同じポジションでやってください。「い」より「ハ」の方をきちんといえるし、「アオイ」になったときにつまずくのはなぜかを考えてみてください。ことばが変わったからなのか、それとも二回続けるからなのかそこでチェックしてください。
トレーニングでは、できることをより確実にしていってください。
「ハイ」も「ライ」も同じです。自分が分けてしまっていると片方ができて、もう一方ができないということが起こるのです。もちろんそこが課題だから、それでよいのです。どこでいい加減になっているのか、自分で知らなくてはいけなのです。だからメニューを細分化してチェックすることが大切になります。
先に進めないときは、その一歩、手前に問題があるのです。ドの音が確実に出るようになったら、となりのレの音も巻き込んでいけるはずです。
1~2カ月めは、セリフのトレーニングを徹底してやりましょう。教材の朗読をしてください。正しく読むことよりそこに現を込めて読むことです。
半年かかってもよいから、自分の体の芯からの音を一つでもよいから捉えてくださ広い。それをきちんにとしないままでは、何年もやっても、正されません。基本に忠実にならないと、二年たっても伸びません。「つめたい」と一言さえいえないのです。
体を使おう、息を出そうとしているときには、それらのことはまだ、声に反映しないです。よいものが出るのは、その状態になりきっているときでしょう。意識しないけど、そう体が動いた、という経験を得て動いていくことが大切です。意図すると、部分的にしか動かなくなります。
次はメロディ処理という勉強をしてみましょう。
ー
レッスン②
自分のやりたい音楽や聞いてきた音楽とまったく違うものを教材に勉強していくのは、容易ではないのですが、学び方として極めて有効です。実際にはいろいろなやり方があります。
好きな学び方で、うまくなるのであれば、今のJ-popsを使いますが、この方がずっと難しいのです。
音楽スクールでは、好きな曲を実際に歌わせてアドバイスします。
しかし、そんなことを5年、10年やっても、今のタレントさんレベルにいくくらいが精一杯です。器用なお笑い芸人たちには及ばないでしょう。
そういうことがわかっています。彼らもそうやっているのですから。
そこでもっと根本的なやり方をとっています。それはもっとも根本的なことである内部の感覚に働きかけて変えていくのです。
たとえば、言語の違いは、英語を学んでいればだいたいわかってくると思います。もっと早く知りたければもう一つ別の言語を学ぶとよいでしょう。
歌では、語学力そのものは問うていません。音声面で、語調やリズムに敏感になって下さい。
音のなかの動きをきちんと感知して、自分の体で反応できるようにしていくことです。
歌というのは、ことばにメロディをつけ、奏でていくもののように、日本の場合は思われています。
ですから、音程やメロディを正しく、ことばの発音をはっきりさせることが中心になっています。そしてリズムが正しく打てるようにというのが三要素です。
それで素人の人がカラオケで褒められるくらいになるのはよいかもしれませんが、そんな外側からくっつけたようなリズムや発音で通用するのには限度があります。それでよければ、アナウンサーなどでも皆、歌がプロレベルにうまいことになります。それはまったく違いますね。
表向きの部分も必要ですが、もっと大切なことがあるのです。それは感じることです。
ことばがなくても、体が楽器として、「タ~タタタタタタッタ~」といっていても、そこに音楽が聞こえてくることがベースです。歌は、そこの上にことばがのるだけです。
これだけ、多くの歌詞を使うことは、最近では珍しいです。
皆さんのレッスンでは、たぶん年に1回あるか、2回あるかでしょう。
皆のレベルでは、1行か、2行で終ります。
今日も全部やるつもりはありませんが、全体的に見てみようということです。
最近、トレーナーもカンツォーネを使っていますので、シャンソンなど、ことばのフレーズのところで処理するようなレッスンを加えています。
ここでいっていることは、1か月目にやることは皆、1か月ですんたと思うのですが、1か月目のことがわかるのに1年、2か月目のことが2年くらいかかるのです。
ステージ実習も3か月目になると、課題曲がはいってきますが、本当に曲にはいれるというのは、3年以降くらいです。10年くらいのキャリアのないうちは、そう考えてもよいのです。
しかし、気づくために先行させていくことが必要なのです。そこで先の方のことも同時にやっています。
最初は、ことばの問題です。2番目は、音の高さによって声の音色が変わらないこと。3番目にメロディ処理です。
ここまでは、2番目までは、役者、外国人、3番目では、外国人ヴォーカリストの音声条件といいました。☆
ことばのフレーズの処理の基本です。
体を楽器として、音の部分、体を音声としてのことばとして取り出すのは、音楽の部分とは少し違います。音楽になってくると、そこに演奏がはいってきますからフレーズです。
体の楽器つくりをきちんとやっていくことが大切です。ここでは呼吸法や声を出すだけのレッスンもあります。
でも、ステージ実習を見ていると声を出しているだけで、大切なことを忘れています。
ヴォイストレーニングも発声も、声を繊細に完全にコントロールできるためにやっているのです。
大きな声を出すためにやっているわけではありません。
音楽という感覚的なものに繊細に対応できるようにやるのです。
ピアノを正しく弾けても、ピアニストとはまったく違います。ピアノでさえそうです。一つ一つの音をつなぐのに、何種類もタッチがあって、それが一つのフレーズになると、その人の曲調とかオリジナリティが出てきます。
作詞家や作曲家もそういう感性を持っています。楽器の演奏者は、持っていないとなんともなりません。ヴォーカルも、です。
声楽のレッスンは、楽器のレベルである程度、整っていないとできません。
日本人の場合は、そこをいい加減にしたままトレーニングを受けますから、演奏のレッスンをいくらやっていても身につきません。
ある時期サックス奏者と一緒に勉強をやっていた時期がありました。サックスで吹いた通りに声を動かしてみるという高度なレッスンです。ここで2、3年勉強したくらいではついていけないでしょう。
「すごくうまい。どうしたらあんなふうになれるのだろう。一生あのようにはなれない」と思わせる人が世の中にはいます。そういう人達に対応できるようなレベルが、音楽的に声を扱うということです。
しかし、外国で歌を歌うレベルでいうと、これが最低限のラインです。
後は、調律、コントロールがあります。外国語の歌詞の意味は、自分で調べてください。
聞いて、この曲はすぐれている。曲としてすぐれている。あるいは、歌い手としてすぐれている。素人でないということが、わかる何かがあるということなのです。その要素を学ぶことが目的です。☆
皆がイタリア語で歌うわけでありませんが、ここでは、英語以外にもイタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語など、他の国の言語を使います。あくまで音として、自分の体が反応できるようになるためです。
ヴォイストレーニングで一番重要なことは、聞こえた音を自分の感覚が柔軟に取り入れ、それに対して、柔軟に声が出せることです。
日本でいうと、一番近いところでやっているのは、ものまねです。ばっと聞いて、自分なりに声調をぱっとつかみます。
しかし、歌い手はそれを自分の持ち味にもっていきます。
芸人のものまねは、相手と自分の顔や口の形を知っていないとできません。
ヴォーカルは、何より自分を知らなくてはなりません。☆
器用さというのは、ヴォーカルにはあったほうがよいでしょう。
上のクラスのメンバーを見ると、2通りいます。
どういう歌でも、それなりに歌いこなせる人と、特定の歌に対して、強い人です。
それは、素質、個性の発揮の仕方になるでしょう。
ステージなら、何かを話しているだけでも、もってしまうほど、個性のある人が強いと思います。
作詞や作曲、楽器を勉強したいという人もいますが、全部、歌のなかでできることです。
たとえば、これをどう解釈していくか、どういうふうに歌い手がつくっていくか。そんなことを聞き方からやっていけばよいと思います。
耳に関しては、海外のアーティスト、彼らが聞いてきたもの、案外と、まねしているだけのものを
彼らの10倍か20倍、聞いていると、ここで10年分、勉強できるくらいのものは充分にあると思ってます。
ーー
とりくみ「私の孤独」ほか「ばら色の桜と白いりんごの花」
音色や、感情を自分で出したいと心にイメージしないのに、フレーズができるはずがありません。
想いの方が強ければ、多少、声がかすれたりしても歌というのはもつものです。むしろ、ひずんだ音などに客の心に働きかけるものがあります。
聞き手に「こんな歌い方もあったのか」と思わせるのが世界の歌い手です。
そこで格闘していかないといけません。
音域や音量のことはなく、自分の出したいものをきちんと考えること、それが出るようにする、というこの二つを整えることです。そのなかでどう感情を出すかということです。
トレーニングは一つひとつの要素を別々にやりますが、それを統合する努力をしなくてはいけません。
何も感じないで歌わないことです。
歌うときは考えない。入れてきたものを出すだけです。
一曲のなかでここだけは、というところをつくることです。
こういうもので音の世界ができていくということを捉えてください。
するととても単純に一つのものに凝縮してきます。
バンドでもそれぞれの楽器が一つにまとまってきた音に、ヴォーカリストがのっていくという構成になっていないと失敗なのです。
歌にかかわらず、表現とは現実的に立体的に迫ってこないといけません。
それから生命感があふれているかどうかです。つまり、リアルであることでリアリティ☆が問われます。
こういう曲は、皆さんの感覚からは難しいと思いますが、基本を問うのにはよいと思います。
きちんと向き合って、逃げ道をつくらないことです。歌の総合的な要素をまとめて問えます。
メロディとことばの世界に入ります。
ー
「私の孤独」
曲をよく聞いて、きちんと作品に乗れている部分はどこなのかをきちんと見なくてはいけません。そして自分の感覚とつき合わせてみることです。自分が同じ曲を歌おうとしたときに合うところ、合わないところを知ることです。
自由曲の選択が甘いというのも、自分の呼吸や声を知らない、使い方としても自分がどこを武器にできるかわからない、客が何を自分に評価し、評価しないかがわからないからです。そこで、おかしな選曲になるのです。
自分が好きだからとか、長く歌っているから選曲するというのは、アマチュアの選曲です。
ポップスの場合は自分の個性や、表現すべきことがありますから、それに合わないものをいくら合わせてみても難しいのです。
ただもっと上のレベルで自分のスタイルをもっていれば、何を歌っても、その人のものになるはずです。練習のときには自分の個性が出やすく、きちんとした作品になるものを選んでくることです。
課題曲はこちらから押しつけたものをどうこなしてくるかということを見ています。ことばや音の感覚がどのくらい処理できているかというところを見ます。こういう歌を何回も聞いている中で、そういうことをきちんと判断できるようになっていきます。
聞いて判断し、書いてチェックするということを繰り返していくうちに、自分のなかに何らかの基準ができてくるのです。そしてライブで歌ってみて、どこがよくてどこが悪かったかを確認します。そこからが練習なのです。
音を正しくとることや、音量より優先しなくてはならないことは伝えることをです。伸びない人というのは、絶対にそういうことをやってはいけないということを一所懸命やるのです。働きかけてくる、否応なしに入ってくるものとは何かということがないと、人のいる場は動きません。
(「ハイ ながい」)
きちんと体に入れてそのままに出していくことです。体と心を一つに使うことです。
タイミングをはかって、体を用意して、その一瞬に対して働くようにしていくことです。
今は体を無理につけていくのですから、ふしぜんになっても、ある程度はしかたありません。でも意識を集中しないで散漫にやっていると、絶対に伸びていきません。よけいなものが働いて、体の一番深いものが取り出せなくなってきます。
そのことがしぜんにできるまでコントロールできるようになることと、体が使えるようになることです。大きな声や、高い声を出すことより、コントロールすることが重要です。完全にできれば余計なものはつきませんから、その人なりの高さと、大きさまで出せるようになります。歌はそれで充分なのです。
コントロールして音楽を出すわけですから、音楽が入っていないといけません。なるだけ日本語から離していってください。
「ハイ・な・が・い・あ・い・だ」ではなく「ハ な あ 」くらいで捉えるのです。この音にきっかけを与え、それで体をつかむのです。日常のなかでもそののようなことをやりませんね。これは、音楽的にメロディ処理しやすくするための地ならしのようなものです。
(「ハイ ながい あいだ」)
ほとんど、ことばが流れてしまいます。人間の聴覚というのは、拍として、流れている中でどこかにアクセントをつけていくのです。ここからビートが生まれます。それは日本語のなかにもあるのです。
どこかに強アクセントをおくとフレーズも、英会話でもうまくいきます。
やっているのは役者と同じ練習です。体に感覚を制御されてはいけません。感覚で体を制御するのです。感覚としてはかなり速いです。
(「(ハイ)長いあいだ一人で一人っきりで」)
集中力がたった、2、3秒ももっていませんね。体ももっていない。心ももっていません。
こんなものは関係なく歌えると思っているかもしれませんが、歌はこういうことで人の心をつかんでいくことの繰り返しです。歌になると、音域がついたりしてもっと大変になってくるわけです。
声をコントロールをするということは何かが狂ったとき正すことです。気持ちや集中力が入らなくなったとか、体がはずれたというときに、もとに戻せる力のことです。
歌もそこでの空気の問題で、それを働かしていかなくてはいけません。まずスタートラインに立ってください。
次はフレーズに入りますが、これはセンスの問題が大きいです。センスがない人はたくさんの音楽を聞くしかないですね。フレーズの上に変化してことばが乗っていると考えればよいと思います。それが音の世界です。点で取って続けるようなことを絶対しないことです。最初の音で止まってしまいます。
(「ハイ ハイ ハイ(ミ ソ ファ)」)
表現というのは拡散したらよくないのなのです。「ハイ」の「イ」で音が広がってしまってはよくないのということです。空間、時間が凝縮しなくなってしまいます。自分のなかでひっぱれなくなってしまうのです。
上条恒彦さんの歌い方は、1オクターブ同じポジションをもって、メロディ処理をしています。すべていい切っていて、次につなげてはいないのです。同じかたまりが一つの単語単位でできている。こういう歌の場合は、それでもよいのですが、かなりきついですね。体を休める間が少なくなるからです。
フレージングというのは、それをごまかすというのではなく、ひびかせたり放したりして効果を重ねていくことです。すべて歌いこんでいかないということです。
音程の問題もあるのですが、とりあえず、ことばの処理において一つに捉えて動かしていく、ということを大切にしてください。そこまでいっていないですね。
上条さんは役者的な歌い方をしています。これは体で捉えるトレーニングや役者の基本練習にはよいと思います。
すると次に変えたいと思うところが出てくるはずです。
それを声で表現してください。自分の体に相談するのです。
イメージとして扱っていく部分と、声として扱っていく部分と二通りあると思います。レッスンで扱っていきたいのは、いろいろな人の曲を聞いてタッチやアイディアを借りてみることです。これはよい方法です。
(「長いあいだ(ことば)」
)(「長いあいだ<ミミミミミー)」)
(「オーソレミオ」)
「ラーラーラー(ドードードー)」
このことを歌に結びつけていってください。今はいろいろな問題が出てあたりまえです。だから、よいのです。ただし大切なこどは、人にまかせるのではなく、自分の体で感じることです。
そして自分のなかでフレーズを絞りこんでいくのです。自分が何を表現したいのかに基づいてやっていくことです。そのためにも、トレーナーのレッスンを有効に使っていってください。
ー
「私の孤独」
パッと瞬間的に声を出せる状態にしておかなくてはいけません。私は朝、起きたら、そういう状態になっていますが、皆の場合は、柔軟をして、息吐きをして、3、4時間かけて整えていくことでしょう。それが一番の基本です。朝は声が出にくいので出さなくてもよいです。午前中にも声を出せるようになって、プロのレベルといえます。
「ハイ」といっていた中で、先に声にまわってしまうところがありました。それはあとで応用をして歌になっていく場合ないわけではありませんが、今はあまり必要ないでしょう。
今一番捉えて欲しいことは、深いポジションで声をとり、余計なものをはずしていくことです。呼吸の流れ、一致させた声をとっていくことです。外国語というのは息のなかでことばが回っていますから、深いポジションでとりやすいのです。
次にやることは、胸の中心に口があると思って体のバランスからの力で出すことです。声帯に力を入れ、のどや胸をおし下げるのとは違います。それをやると舌があがってきて、いろいろな問題がおきてきます。これらは感覚として捉えるのであり、物理的に共鳴するので頭のあたりまでもひびいているのです。
胸を少し上げて、動きやすいようにしておくことです。モデルさんのように少し背を高くして体の支えを感じながらやってください。それはいま感じられなくてもこの先できるようになると思います。呼吸を整えると、声がまわり出すので、やってみてください。
(フレーズ「ハイ」)
体を動かして固くならないようにしてください。息をなるだけ流し感覚的に胸声をきちんととることがのベースの部分です。そうするとだんだんと声のきっかけができてきます。とにかくのどにあまりひびかないように、ナチュラルな声を出してください。特に女性は、一般的に息の吐く力が弱く、声にするときに間違ってしまうようです。声に肉をつけていくことです。
体を床と平行にはるように直角にまげて、声を出すのもよいと思います。
日本人は首をまっすぐとひけないのです。まげてみたら、あごが落ちて後頭部が上がりますをまげて、息を吐いてください。このとき背筋をまっすぐ伸ばすことです。
あとは息をコントロールするのですが、肺からではなく、お腹から出しましょう。話術のように口もあけないでやってください。
最初は思っている通りにいかないと思います。しかし、大切なことは声がでればよいというより、声に対して、体が使えるように意識して、むしろ体と感覚を鍛えることなのです。
声が出ることだけを優先すると、余計なものがついてきます。のど声やくせ声になります。その感覚はそれに対する体がないから、とりにくいのです。でも百回に一回くらいは正しいものが出るようになります。それはどういう感覚でどういう状態のときにでるのか、そういうことを自分のなかできちんと自覚してください、その百回のうち一回を百回とり出せるようになれば、かなりよくなります。
では体をまっすぐにしてください。動きのなかで声を出すことが大切です。考えすぎないことです。考えると声が引っ込みます。少し応用してみましょう。
(「長いあいだ (ことば)」)
こういうことばも、自分の呼吸と合わせてとっていくことです。次に音をつけてみます。これもことばを出すときとまったく同じ感覚で出すようにしてください。すべて、感覚の問題です。今までつくりすぎてきた部分をくずして一つに捉え直すことです。「ハイ」も「長い間」も一つで捉えるのです。それによって、自分の器を大きくしていくのです。
発声は、声から自由になるためにやっていくのです。音の問題に入る間に「ハイ」から入るとよいと思います。
日本語の場合、「長い間」が「な・が・い・あ・い・だー」と均等にわかれてきます。どこかに強アクセントをおくことです。ただし、それも体で捉えないとおかしくなってしまいます。まずはどこか伝わればよいという感じでやってみてください。伝えると伝わるは違います。
フレーズを自分でつくるときは、音を感じることでしょう。ことばでもよいのですが音の方がはやいです。今は、自分がとれる音を、強く大きく太くしていくことです。
(「ハイ ハイ ハイ(ドミ♭レb)」)
「ハイ ハイ ハイ」ではなく「ターアーア」くらいにとると結びついてきます。
(「ハイ ハイ ハイ(ドミ♭レb)」)
「一つの「ハイ」を基準にして、どの音でもキープできないといけません。私がやっているのを見て簡単そうに思えるかもしれませんが、やってみるとできないはずです。自分のはわからなくとも、他の人と比べていくにつれ、わかってくるものです。
(「ハイ 長いあいだ(ことばで)」)
息をきちんといれて、肉声を出してください。口先でつくらないことです。息と呼吸から離したらよくないのです。一フレーズくらいは何とかなっても、続けていくうちにお・かしくなってしまうのです。だから基本が大切になってくるのです。
今まで使わなかった深い声を使っていくのは、その方が、あとで伸びてくるからです。自分が伝えたいと思うことをよりよく伝えるためにもその方が有利なのです。いろいろなレッスンに出て、正しい感覚を入れていくとともに、自分の声をとり出していっしてください。自分の声を録音にとって何ができて、何ができないのかということを明確にしていってください。
体はいくらあっても充分ということはありません。そのときはやることがわからなくなったら体力や集中力をつけてください。体が教えてくれます。自分の肉声を発見していくことです。
レッスンの最初から声が出るように体を動かすなどしておいてください。レッスンはステージと同じです。どうすれば自分は一番よいポジションにもっていけるのかということも覚えていってください。
自分のイメージが計算違いになってしまでも私の方では何もいいません。自分男で気づいて、修正をかけていくしかないからです。そのために体のことをわかっていないといけません。はっきりしているのは、体の力がついたらそのことができる、というようにみえるトレーニングが一番、確実なトレーニングになるということです。そこで格闘していればイメージがそんなに問違うことはないです。
わからなければ、鏡と録音を先生としなさい。
フレーズでは「長い間ひとりで、ひとりっきりでいたから」というのを一つに捉えていないのです。役者の勉強でもあるのでずが、何を伝えたいか本人が考えてもいな「いのです。思っていないのに伝わるわけがありません。だから一つにならないのです。思いにもってくるから一つになるのです。
最初は、ことばのフレーズをつで捉えるのがやっとでしょう。それができればオリジナルのフレーズの勉強にどんどん移っていくことです。そんなところで止まっていたら、力をもて余してしまいます。
心の世界が音、リズムに世界に現われてこないといけません。単純にしっかりしたを出していくのです。それ以上のことをやらないというよりも、それ以上のことをやらないところでやれるように力を使わないといけません。
ー
「私の孤独」
私はクラシックくずれの歌い方は好きではないので、悪い癖がつかないように途中で止めるのですが、特に高音は皆、日本独特の“ヨーロッパ風”の発声法のような歌声です。それは笛も同じです。同じというのは、おかしいし、気持ちよくないのです。
(「けれどいつの間にか私の
(ファファファファファファラソソー ソファソー)」)
自分の歌を録音したとき、いかに計算はずれをして、自己陶酔だけで終わっているのか、計算に対して、体がついていかないところの不調和が出ているのかを見極めてください。
感情をおし出したからといって伝わるわけではないのです。音の伝え方ですから、その音をきちんと前に提示しているところにどう転がすかです。どこを歌にするかということを考えなくてはいけません。見えるところと、見えないところを捉えていかなくてはいけませんが、もっと単純にしてみてください。
この歌い手のまねをしてもよくないです。むしろ語尾が伸びてしまうのをひきしめるくらいに考えてください。フレーズをいくつかに分けて考えるよりも、そのなかで何が起こっているのが、どう変化をつけているのかを感じてみてください。発声でなく気持ちをくむのです。
次の「よりそう友がいた」になってくると、音程差がほとんどないので同じポジションで出せます。男性は特に楽だと思います。このフレーズのおき方によって次の「もうひとりじゃない」をどうおくかが決ってきます。
彼はプロですから最小にして最大の効果を残すようにしていますね。次につながるときは、つながっての終止を捉えないといけないです。その辺があいまいです。まず一つで捉え、三つに配分することです。そのことでまた一つに捉えなおす。三つに歌えばよいということではないのです。
(「孤独と二人だから
(ミ♭ミミ♭ー ドドド ドシシー)」)
何回も自分でやって、音の差が生まれてくるのを確認してください。一つの音をおいていったら次の音が決まってくるものです。
ヴォイストレーニングでは「孤独と二人だから」というふうに一つひとつそろえていけばよいのですが、それが音のつながりになると、まったく感覚が遮ってくるのです。そういう感覚的なものがベースです。音の表面を捉えてしまうとよくないのですね。特にこういろおさえた部分では注意が必要です。
入門1の人は声が扱えるようになったら、感覚をより動かさなくてはならなくなります。声が扱えないから、感覚のためにはきちんといろいろなものを聞いておいてください。やはり体からしっかり声をだして、体の条件を整えることを優先して欲しいと思います。そのことができている人やバランスを考えている人は、より高いところに声の技術を使うために神経を使い、勘をよくしていかないと間違っていきます。
そのまま他人からほめられるようになると、自分のなかで、正されなくなってしまいます。
だから、本当はそこからしっかりした場でのトレニングが必要なのです。ヴォイストレニングをして、発声こうだと思い込みどんどん鈍くして変な歌にしてしまう人はたくさんいるのです。大切なのは、応用できる柔軟性を声の能力に持たせる(☆)ことなのです。
ーー
(「大きい太陽の光さして、心はあたたかな愛に満ちた
(ラ♭ーラ♭ー ソbソbファソbラ♭ミミミーシー ラーシーラーラ♭ラbラ♭ソbソbファソラ♭ミミミミー)」)
テーマの部分なので、好きに歌ってください。こういうところは、あまり自分の感情を移入したり、フレーズを変えたりはできません。少し自分の顔をおさえることですね。
テーマというのは、その人の世界というよりは、もっと大きくひらかれた感覚にならないといけないので、共通の感覚でとったところから、あまり変えないことです。
どこで合わせるのかをハッキリ示しておいて、繰り返してもあきないような歌い方をしなくてはいけないから、結局スタンダードな歌い方をするしかありません。基本的には楽譜に戻して歌うことです。他の部分はことばで勝負したりして動かせますが、この部分は楽器のパートの部分をやるという感じでやらないと難しいですね。
(「時は流れ今では何ものこらない 恋はなかず うつろな私の部屋に
(ソファ♯ソシドレレミ♭ーレド レミ♭ーレドソラbラbソソファ♯ソ シドレ レミbレドー ドレードシー ラシドー)」)
こういうところは時間の経過ですから、前と同じようにがんばって歌うとよくありません。聞き手というのは歌い手が思っているほど聞いていません。特にことばの意味など、ほとんど聞いていません。歌い手は何かを伝えなくてはいけないのだから、やはり一回ごとに何かを変え伝えなくてはいけません。雰囲気や流れも変えることです。そういうことで、フレージングを利用するのです。
エンディングというのはとても大切です。どこでまいて、どこでおちつけて、加速つけて減速すればよいのかです。何かを伝えようとしたときの終わり方を考えてください。自分が考えているのと、人が聞いているのではずい分とずれることが多いのです。
こういう自由度の大きいものでは徹底してやらなくてはよくないのです。それ一つで歌が決まってしまいます。
出だしとエンディングの練習は徹底しておいてください。途中で歌が乗れなかったとしても、最後でひきしめれば何とか減点を防げます。パターンに乗っかってやると、形式通りで手を抜いたようになります。そうでなく、体や心を使って終わるやり方は自分にとってどうなのかを考えてみてください。
クラシックなどは、そのとき出た声に対して判断していますね。そういうことに対応できるようにしてください。正直に歌うのはよいけど、正直すぎて歌うと、へたに聞こえてしまいます。だから歌い手はアピールできるところは強く、できないところに関しては技術でカバーしていきます。
少しでも間違いを防ぐというのではなく、全体としての流れを完成させていくことで、先の動きをつくる方が、部分部分の完成より問われるのです。トレーニングでは、逆に部分部分のことをやっておくとよいでしょう。
この程度の歌を何回も練習してみるのがよいかもしれません。部分的な役割がハッキリしているからです。
歌も向こうから輸入した当時は、ひびきも声も芯もきちんとあったようです。だいたい美しい日本語を残そうなどということがおかしいのです。それさえも創りださないといけないのです。前に偉大な人がいたからその人のやったことを、何とかそのまま伝えようというように、創造性のないことを考えるから、やわらかいグタグタした歌い方になるのです。他にも創ることが好きな人がいるから、それはそれでよいのですが、たぶん残らないと思います。必要のないものは残らないですからね。
外国人並のポジションをそなえている人に限って、歌い方にはクラシックからきたクセが残ってしまいます。声楽ということを完全に忘れてはじめてポップスを歌うとうまく歌えるのです。クラシックで基本を学んだ優秀な人は昔からたくさんいるのですが、どうしても声に頼ってしまいます。
ーー
「ばら色の桜と白いりんごの花」
(「さくらは桃色に リンゴは真っ白に
(ファシ♭レファミ♭ミbレドミb ファソラソファミ♭レファ)」)
こういう日本語は、原語に忠実に処理されています。そこから雰囲気だけとるから、どんどんあとの歌い手がおかしくなっていくのです。何をとるべきかをきちんと考えないといけません。当時の人を聞いたら、日本人からも、かなりの勉強ができると思います。
(「枝さしかわすさくらとりんご 春のはなたばおりなす庭に 夏すぎゆけば枝もたわわに 実るは愛のこよみよ 今もまためぐりくる
(シ♭シ♭シ♭シ♭ラララー ソソソソファファファー ソソソソファファファ ミ♭ミbミ♭ミ♭レドレ シbシbシbシbラララ ソソソソファファファファファファファミ♭ミ♭ミb ミbレドシb ファシbレファミ♭ミ♭レドミ♭)」)
これはスタッカートでやればよいということではありません。前の音楽の流れを、どう変えてここをつなげるか考えてください。速さに翻弄されないようにしてください。
ゆっくりとやって、それから少しずつスピードをつけるというのがよいでしょう。
(「おさない娘ひとり バラ色のほほにはじめてキスした日のおののき
(ファシbレファ ミ♭ミ♭レドミ♭ー ファソラソファミ♭レファー ファシ♭レファミbレドソー ファレドシ♭ー)」)
最初にアティテュードということです。その上で音楽性があればよい、ということです。アティテュードというのは、まずはイメージからです。何を与えるとしても、自分がそこでつくりかえない以上、何も生じないということをきちんと踏まえることです。それでその人の態度が決まるということです。
どう歌いたいのか、目的は何かということをあいまいにしてはいけません。自分のスタイルやジャンルを知ることです。それはこういう課題を与えたときに、あるかないかがハッキリしてきます。
トレーニングが成り立つのは、あるにも関わらず、それが取り出せないときの葛藤からです。それがないときにはそれをつくることがトレーニングになってきます。人に伝えようという心が動いていかないときに声を出してみても、体をつけてみても何も生じません。だから音程や、リズムのミスが目立ってしまうといえるのです。音楽性はその次の問題です。
この曲を何回も聞いていて、そのなかでアティテュードが形成されないというのはおかしいことですね。アファーメーションができていません。そして自分の表現もつくらない、というのなら、レッスンにならないです。
学ぶ場においては、自分が無理にでもおもしろくしていかなくてはいけません。おもしろくするのが、その人の力でしょう。この歌を媒介にして表現していくということです。舞台に立ったときに、このようなフレーズを歌うでしょうか。そこからトレーニングも正されていくのです。
先生に姿勢や口を開けることなどをいわれる前に、もっと自分を知ることで自分で直せるはずです。そういうことに、鋭くなりなさい。そういう場では意図的に創ろうという意識を強く働かせなくてはいけません。
だから音楽を聞き、自分が出したものに対し、音楽をつけなくてはいけないのです。あるいはさらに音楽が聞こえてくるようにしなくてはいけません。そういうもので速さやテンポをとるのであって、足で踏んでリズムをとるのではないのです。リズムが足を動かすのです。☆
自分ができるだけのことをまずつめていくことです。本人のなかのがないのと、表現が出てくる気配もありません。
練習を重ねるにつれて、課題を与えられたらすぐに、自分のスタイルで出せるようになるべきなのですが、それはそこまでに音楽が体に入っているからなのです。
そういう力がつかないと、実力がついたとはいえません。
そういう間違いはここではおきてはいけないのです。常々、自分で修正していってください。
アティテュードの不足は、①の人はともかく、②の人たちが、彼らより内に入っているようにみえるとしたら、これはトレーニングの病気にかかっているのでしょう。
トレーニングが主で歌が従ではないのです。
トレーニングはフォローのためのものです。その副作用だけが強く働くのは困ります。
ステップアップのためにやるのです。もっとセリフを読み、音の進行を感覚することです。音の世界で見えない人はことばだけでもよいですから、一つでもしっかりと表現しなさい。
歌たるところがどこなのかを、曲をかけている間に感じてください。
感じなければ自分で増幅させて、こっちにわかるようにして、返してください。
ステージ実習も同じです。見本を下回る歌をつくってもしかたないのです。
それをもっとよくするという試みを常にやってください。
ーー
「森のくまさん」[オーケストラ8ビートサンバ]
「私の孤独」ほかムスタキ)
シャンソンを使うのも、わからない言語音の世界のなかで捉えて、その音のなかで捉えたものをぱっととり、それをもう一度自分の言語に直すというトレーニングができるからです。言語の前に心に伝わる音であるところで捉えるのです。
音の世界のやりとりなら、フランス語がわからないとしても、語の音の感覚、リズム、呼吸は、とれます。そこからこういう作品だと察し、歌詞やメロディがあるのをおもしろいと思い、自分ならどうするかと考え、そして音の世界から日本語をのせるプロセスを踏むことです。
レッスンで自分の作品を発表するのと同時に、他の人たちの違う表現を聞いてみてください。意味までくみ取ってそれを表現してもらえると一番よいのです。
「ヒロシマ」から入りましょう。何でこういう歌なのでしょうか。それをこの歌を聞いてわからない人に、あなたが説明しないといけません。曲のメロディはついていてもあなたが説明しないといけないということです。それも表現しないといけないわけです。
音の先というのはBGMも包み込んだ役者の世界、声優の世界です。自分で構築する前に、他人のやることやそれまでの流れが全部邪魔してしまう場合もありますが、だからこそ新しい世界を作らないといけないのです。共同制作としても最後にしっかりと決まるようにするのです。
「私の自由」
音の入り方をよく聞いてください。単に読んでいくのではなくて、少しでも音を組み入れてください。歌い手は曲ごとに頭の切り替えをしないといけないのです。
感じが歌ごとに違っています。次の歌になるとまたまったく違います。それでも同じ人の作っているものなら、曲にしろ詞にしろ一貫性というのがあるでしょう。それを作風といいます。そこで早く感じとり組み入れることです。
次のはポルトガルの革命のときの歌です。自分のなかで集約して、その世界に入ってそれを取り出してつきはなしてみるところまでやっていくことです。バンドなどでも、歌うだけでなく表現として取り出して提出するところまでのことをやらないとよくないなのです。まわりの力が強いと助けを借りられますが、それでは伸びません。まわりに頼らず自分で完全につくる気でやらないとよくないです。
「ポルトガル~」
こういうところは、実際に銃弾のにおいなどを感覚的に受けないとわからないでしょう。ニュースでみたことも本当にイマジネーションをふくらませ、その世界を自分にもってこれるかです。本当は経験するのが一番よいのですが、体験がなくてもイメージでもってきます。
要はそういう歌の意味があり、こういう歌がつくられたところから、大切なことはそれを材料に自分がもう一度再現して出すということです。ポルトガルも赤いカーネーションも自分に関係なくとも、それに自分の何かを象徴させて置き換えることはできるわけです。
物語など長く伝承されるものというのは置き換えられるから生き永らえているのです。ことばも音も象徴です。赤いカーネーションが咲いた、だから私と何の関係があるのだといったら詞にも、音楽にもなりません。
それにどういう構成をつけていくと音楽になるのかを考えましょう。訳詞ですから必ずしも的確かどうかは別ですが、変に曲に合わせて詞を変えるのよりはよいと思います。
音楽の流れる中で音楽のいいたいことをことばにしていくのが、もっともよい勉強です。そのことばが日本語であるなら、その日本語のなかの息づかいとかニュアンスとか間のとり方とかいろんなものがあって、それこそが徹底的に勉強しないといけない要素です。
日本語というのを音楽にするには、演歌、ポップス、唱歌などさまざまなノウハウもあります。しかし、そこをしっかりと考えないといけないのです。日本語はまだしっかりとした表現の形をもっていないのです。むこうのやり方で試みられてきたものの、絶対的に強い音声表現としての核が他の国ほどないわけです。
大体どこの地域でも共通して、こういうのはスペインだとか、これはフランスだと示すのもがあります。それは言語でなくとも、そこでの生活からそのまま取り出された音楽を聞けばわかります。
フランスは国立劇場の俳優が国のことばを音声から正しく決めています。そこでことばが変われば国のことばが変わります。日本の場合はそういう基準がないのです。
NHKのアナウンサーが標準という人もいますが、とんでもない話です。日本人皆がああいう話し方になったら文化も終わりです。そこが歌に日本語を使っていく、あるいは歌自体をことばというのを使ってやっていくときに大きな問題になるところです。ことばに対して体、呼吸、いろんなことがついてきます。
そこでとどまっているとそこで終わってしまうので、日本語の世界に入っていきます。
菅原洋一さんは日本にアルゼンチン・タンゴをもってきた人です。おもしろいもので日本というのはいろんなところから文化を寛容に受け入れます。中国やアメリカそして世界中から、文化が混入し混在します。そのなかで日本人が選んできたリズム、メロディそれから音の感覚が残ってきたのです。楽器でも中国からいろんな楽器が入っている中で、最後まで日本人が好んだ楽器と早々に忘れられた楽器があります。そういうのは日本人の感性を知るための大きなヒントでしょう。
ジョルジュ・ムスタキ「私の孤独」
今日取り上げている曲は歌い手がすぐれているから簡単に歌えているだけで、実際、音域もあり、メリハリのつけ方も難しいものです。本当に音の感覚を持ち自分で構成を立てなくては歌になりません。
構成を立てたのに失敗した人はよいのです。直していけばよいからです。構成のたて方のところで失敗している人もいるし、その前に構成も考えないでできてしまうと思っている人もいます。これは、いちいち頭で組み立てる必要はないのです。ただ、これが歌えているか、歌えていないか。逆に歌ってしまっていて失敗しているか。それがしっかりと押さえられているか。そういうことをしっかりと知らないとよくないです。
だからうまく歌えているのはしっかりと押さえられているということです。押さえる前に出さないといけないことがあって、歌を突き放さないといけないというのはそういうことです。外には出さないといけない。出さないといけないが、その前にしっかりと握っていないといけません。外に出したものを完全に自分のなかではコントロールしていて、しっかりと落ちつかせるところに落ちつかせることです。それがなければいきあたりばったりです。これでは作品にならないです。それもわかるために何回も繰り返すことが大切です。
次に美輪明宏さんです。役者としても一流の人ですから、歌う曲の形態とか歌の使い方はその人の世界になっている分、学ぶには注意が必要です。BGMにことばをのせてやっているようでも、音のなかにことばを寸分違わず歌以上にしっかりと正確にまとめているわけです。だから100回やってみても100回ともテンポと間のおき方が同じです。入り方はスローなテンポ感に、それだけのセリフをしっかりと合わせていかないといけないのです。そこまでの世界をつくりだし、引っ張ってこないと今はお客さんは見ないということです。
日本人ということでの問題は、単によいものを楽しくやっていたら入り込んでいる気になるということでしょう。ブラックの人がやったり本当にノーテンキなイタリア人がやっている分には日本人は評価を高くしますが、日本人がそれをそのままやっても受け入れられるのは難しいものです。この国は結局、文化も外圧でしか動かないのでしょう。だからいろいろを考えてみればよいと思います。学び方はいろいろありますが、自分にあった学び方を間違わないようにすることです。
だからカラオケの学び方や、タレントさんの学び方が別にあるなどに考えるより、そんなものはないと思うべんです。それから他の人の芸やすぐれた先生の独特のやり方もあったのだろうと思っても、そんなこともないわけです。ないというのが正しいのです。
やはり自分が学んでいるようにしか学べないわけです。そうしたら、限界がきますから、そこから他を見てどこまでつきつめるかということです。
こういうものは中途半端で完成されなかったら、単に酔っ払いが叫んでいるだけに近い世界といえます。それをつきつめ、完成度を高くしない限り、人というのは理解してくれないわけです。それも日本の場合、偏った人たちの評価を待たなくてはいけません。
ただどうであれ、表現ということは考えないといけません。何をどうするかということ。そうしたらだらだら歌うとか退屈するような歌い方やトレーニングは絶対に入ってこないはずです。それは学ぶ環境をどう整えるかということだと思います。
「森のくまさん」から学んだことだけで、やっていける人はとても少ないと思うのです。シャンソンというのは一つの物語になっていますから、3ヶ所ぐらい転機のところをしっかりとつかめば、それなりにその人がその世界をもっていたら伝わります。あとは、それを壊さず歌詞をつけかえて自分流に歌うことです。
学び方ということでいうでまとめておくと、これはきりがないものです。私だってこの世界の1%もわかっているとは思いませんが、ただ、ある意味で考え続け、つくり続けてきました。アートの世界ですから、与えることで学んでいくというのは一番よいやり方だと思うのです。与えるというのは出してみるわけです。出してみて通用しなければ続けていけなくなりますから単純な話です。一般の人に伝えるにはわかりやすくしても、それが続くためには深い奥がなくては無理です。
1年目、2年目というのはまだそんなにすぐれている人がいるわけではない割に、しっかりと表現らしきものが構築されていくから、それはとてもおもしろく思っています。他のタレントさんのライブに行くよりはここのステージ実習をみている方が、私にとって価値があります。だから私と共有する価値をもつ人間にとっては価値のあるものです。それは未熟であってもごまかしではないからです。
ただ、私の場合はまだ長くみれるのは、ここで育つ先をみているからで、他の人の場合は舞台には当然完璧さを問います。
美輪さんの演技も中途半端だったら目もあてられなくなるでしょう。マヘリア・ジャクソンでも牛の声とかといわれていました。そうすると、中途半端にやるのでなく、徹底して入り込んで、どこかで完成されるところまでつきつめないとしかたありません。
それをやれなくしてしまうのは、誰でもなく自分です。これはまわりがしているのではなく、自分で自信がなくなってできなくなってしまうのです。そこでの問いの繰り返しだと思うのです。だからこそ、一つのところに長くいて学ぶ場が必要なのです。
簡単なことでいうと自分の価値を上げていくということと、それからそれをまわりに対して説得し続けること。この2つしかないわけです。
必要のないものは身につきません。自分で必要をしっかりと感じるということ。それをずっとやっていたら必要を通り越して不可欠になってきます。そして自分でそのことが体と一致してはじめて、まわりの人にとっても必要不可欠に求めたいものなっていくわけです。
いろんな無駄とか苦労を逆ににして欲しいと思います。これから大きな世界に行こうと思う人ほど、ここというのは、苦労するのに使えるはずです。
別にここのレベルがあるのではなく、まだ世に認められていないからこそ新たな世界をつくるチャンスがあるのです。少しでも世界の一流のものの息吹を伝えようというようなことで、やっています。ここは唯一本当に世界に窓を開けています。世界中の超一流のアーティストが招かれているのです。
ということで、私も謙虚であり続けることになり、私が全部できるなどとは思っていません。
皆さんの学ぶ態度みたいなものが、今が仮に10なら10のことはできるようになるでしょう。しかし、それが30になったときになぜか30のことができるようにならなくなってくるのです。あたりまえの話なのですが、30のときには30以上のパワーがあってこそ、30の完成度は必要になるわけです。100になれば100以上のパワーがいるわけです。
この講座も昨日徹夜して用意してきているわけです。それはなぜかというと、それをやめたときにはもう自分がその世界をCLOSEするしかないという覚悟があるからです。CLOSEするなら最初からやらなければよいわけです。あなた方のために用意するのではありません。全て自分のためで、それゆえ、何かを与えられるのです。
そこにしがみついている以上それだけのことをやらないといけません。それを毎回毎回しっかりとできるかということはわかりません。わからないから問い続けるのです。場なり自分のレベルが高くなったら高くなったなりに、それ以上のことをそこでやり続けることを望むかどうかです。そうなるとそのことを楽しむしかないです
。
どこかで全部、習得して楽になりましょう。それは理想です。どこにいっても楽々歌えるという人たちはいないはずです。場が高くなれば高くなるほど、お客さんが多くなるほど厳しくなります。いつも新手のローティーンを相手にしていては、日本のヴォーカルが伸びるわけがないのです。
今なら皆さんは風邪ひいたら練習を休んでそれですみますが、三大テノールなんて呼ばれるようになってしまったらそんなことですまないでしょう。
プロセスのところをやっているのです。要はやっている人は、才能があり、天才であり、また、いかに一流であろうと一流であればこそ無欲にやっているだけなのです。すごくやっているというだけなのです。他の人が1時間でよいという用意を8時間も集中してやっているというだけなのです。
今、それ以上のものは絶対手に入らないというところでやることです。そして、やれているということは誰よりもそれだけのことをやったのだという結果です。
ステージ実習があるといったら、ステージ実習を目的にそれだけのことを他の人の10倍やってあたりまえです。1つのレッスンがあるといったら、その用意をあらゆる可能性からみてやってくるのがあたりまえです。資料も配られて終わるのではなく、ここからスタートなわけです。それが学び方です。だからやれている人、やれていない人の差をみることです。誰のためでもなく自分のためにやる、その意味をしっかりとつかむことです。
ーー
「幸せがいっぱい」
発声のところで習うと、最初のQuandoがきちんと出せることです。ピアノでいうと、たった一音をきちんと出すことです。ヴォイストレーニングや発声のベースです。
「はい」や「らい」で、そのまま歌おうとしていますが、そのまま歌になるわけではありません。
全力でやっていれば、そのまま試合に通じるのではないことと同じです。状況判断やもっとも適切な使い方が必要です。
たとえば、バットを思いきり振れというのは、いらないところの力を抜いたり、そこでフォームを知っていくためにある時期、思いきり振ってもよいというだけです。思いきり振ることがそのまま試合に通用することではありません。
人間の体は、100出して、100は働きません。100出せる人が50くらいを確実にコントロールして、100とか200とか働かせるのです。そういう使い方をしていかなければいけません。そのままでは、このことが何年たってもできません。
発声を除くと、ここには、音楽の必要な要楽が全部はいっているのです。
この歌を歌うほとんどの人が、最初の部分をアルベニ~イビ~ニ~クワァンドォトゥと点でとります。日本人は必ずそうなるのです。音が高くなれば、違うところを書かせてみたり、いつも等時で併行に進んでいきます。
実際、聞いてみるのと、やるのはまったく違うでしょう。
それが必要な感覚が入っていないということです。
アルベニのべで踏み込みがあります。インビニ~は、前の踏み込んだ跳ね返ったところでとっていく。クワァンドとトゥは、特徴があります。そういうものは、小さな音量で聞くと、楽々ときれいに歌っているようにみえるが、そうではありません。
要は、1オクターブ、ポジションがあって、声の練り込みもできること、ボリューム感があって、体もできていることが必要です。
呼吸だけでコントロールしている人の条件というのは、すぐにはわかりません。
でも、上達していく人は、条件をつくっていくことに、時間をかけます。
条件というのは、息をハーッと深く吐いて、その息でアルベリーと吐けなくてはなりません。
軽くアルベリーというだけで息が全部なくなってしまうのなら、同じ表現はできません。
それは、音楽がどうこうというまえに、楽器としてそれだけのものがないからです。
毎日やっていけば、体ですからやっていくだけ、力がついていきます。3年、5年くらいまでは力がつきますが、10年、20年とやれば、人の倍々になるかと習ったら、その辺でその人の限度になってきます。
筋肉が強くなっていくことも、有限です。
ただ、そういうものを鍛えていない人は、鍛えていけば、それだけ有利になるということです。
そこの部分は全部やっておいてください。
ここでは1か月目から、舞台に立つのですが、そのときには、この状態を整えるしかありません。
楽器である体にその条件がまだないのですから、ベターなところであっても、ベストにはなりません。
ただ、そのなかで一番出せる、ベターな状態をつくることに専念するのは、とても大切なことです。そこから自分と自分の出し方を知ることができます。
④のクラスと③のクラスのメンバーの違い、クラスの大きな違いは、音感やリズム感の動き方、つまり音を表現につくる力です。①クラスから③クラスの人は、④クラスの人をうまいと思っているでしょう。けれども、①クラスから③クラスの違いは100点くらいの違いですが、④クラスのなかでは、その100点から2000点くらいの違いがあります。こちらのなかでの方がよほど差があるわけです。
表現をするには、結局、自分をきちんと知っているということが大切です。自分の表現、自分の体、自分の呼吸を知っていなければいけないことと、もう一つは、音楽を知って、音楽が体になじんでいるということです。
これが、そのときにきちんと取り出せることです。
その音楽からはみ出るところは、すぐにカットします。カットするにも判断力や基準がいるのです。
合宿なども、短期で準備して、最悪の状況のときに何を出すかというトレーニングでしょう。
本来、表現できないことは、表現しないことです。要は、自分がへただと思われるところは、やるべきではないのです。逆にトレーニングでは、それが最重要事項です。
たった1分か、2分の一つの歌のなかで、表現としていくのであれば、自分をアピールできるところは精一杯出すべきです。もし、逆のアピールになるのなら、お客さんは離れていってしまいます。それはやらない方がよいでしょう。それなのにやってしまうのは、わかっていないからです。
自分のなかに音楽が入っているか、入っていないかということ、自分の出しているものが、どのように相手に伝わっているのかを、わかっていくことが大切です。楽器の演奏よりは、本当に勘のよい人や、敏感な人は、ステージングに関しては、おしゃべ(MC)一つでわかるものです。自分でやって何が出たかは、少なくとも20年生きていたら、20年間のものが入っています。ところが、日本の場合は音声表現を学ぶといった環境に置かれません。
同じクワンドということばでも、クワァ~ンド、クゥワァンドなど、意味を違うように含めて、音声の感じで相手に伝えるすべを知っています。聞き取りも鋭いです。
日本人の場合はそうではありません。怒っているというくらいはわかりますが、顔の表情をつけ、目で見るもので受け取ります。
彼らは違います。電話でも、同じハロー一つにもいろいろな意味が込められています。
皮肉を込めることもあるのに、日本人の場合は、そういわれたら単純に喜んでいます。
そういうところを見ていってください。要は、このなかで同じテンポで進んでいます。多くの人が弱いのは、タイム感、テンポ感です。ピアニストはテンポをとってくれますが、アカペラになったら、自分で取らなければいけません。ピアニストもメトロノームに合わせているわけではありません。自分のなかにタイム感があるから、リズムを正しく刻めているから、ずらすこともできるのです。
そういうものは、入れておかなければいけません。これを狂わせないから、スピード感、切り込み方など、その辺を自由にできのです。基本は自由になるためにやるべきことです。基本で固めていったら、歌は固まってしまいます。
日本語との違いも勉強してください。日本語でこれをきちんと読むとクワアンドとなって、5つになります。今そういう使い方はしませんが、昔の人達は、これに5つの音を当てはめていきました。この5つのなかで、どんな音をつけてもよいのですが、外国人の捉え方だと、クワァンドで一つです。クワアンドと歌っていますが、日本語のようにク・ウ・ワン・ドとは、まったく違って、クワァンドと一つに捉えているものを広げているだけです。このつかみ方はまったく違います。
皆さんの歌を聞いても、一つひとつが点になってしまっているのです。点をつないでいくようにならないために、ことばのフレーズで学ぶべきです。
彼らは、クワンドセイクウィーで一つです。その上で一つのなかで、3つくらいの拍の置き方があります。
逆に彼らの方が、ことばの数や音の数は大きいのに一つに捉えて、強拍のなかから、一回一つにしてからばらまいていくから、自由度が大きいのです。
皆さんも英語の歌の方が歌いやすいといいますが、日本語の歌だと、ことばで止まってしまいます。それは、しかたがありません。とっているポジションが浅く呼吸で動かせないからです。これは深めでとらないとできません。口先でとっていくから難しいのです。
全部まとめていうと、たとえば、「マアルベリ」でも楽譜からリズムを頭で叩いたり、音だけとるレッスンもあります。それはそれでできない人はやらなければいけません。
しかし、歌というのは「マアルベリ」と歌って、ここを聞かせるわけではありません。むしろ、これの上に何がのっているのか、これでいっていないところのここに何が落ちてくるかということなのです。
表現は全部そうです。形の方でとっていかないことです。それでは、ほとんど練習の意味がありません。
学校ではそういうことばかり教えています。だいたい日本人は、正確にやることが好きですから、間違えてミスになることを恐れます。間違えたらミスだなく、表現が出なくなったところが間違いです。ミスタッチなど歌にはないのです。
こういうところも口先で「マ アルベリー」というのと、下でもっていて、「マ アルベリー」とやるのとは、出てくる表現の密度がまったく違います。それだけ、体にきちんといれていて、呼吸でコントロールしている場合は、音程も狂わないし、リズムも音楽のもっと大きなリズムに合わせられます。
イメージの線があって、イメージの線にきちんと合ったところでやってください。
このイメージの線はいろいろあります。これを、そのまま「マ アルベリ」とリヴァーブをかけて録音をしてしまうとわからなくなるのです。
今の日本のヴォーカルは、それで何となく歌えてしまっているために気づきません。
向こうの人とはまったく表現力のパワーが違います。
見なくてはいけないところ、勉強しなくてはいけないところは、そこなのです。
表現、声の表情が見えないといけません。
ポピュラーのヴォーカルは、おもしろいものです。
声楽では、こうやって出していかなければいけないというところを、質量と方向性をもって示します。
圧力やスピードを感じさせて、落とし込んだら、声の線がなくても、もちます。
たとえばここで「ディ ダ」といってイメージさせたら、無限に大きく聞こえてしまうのです。
パバロッティと同じステージでは、声量で勝てるわけがないでしょう。
でも、ポピュラーのアーティストが、ひけをとらないのはなぜでしょう。
この見えないところを、なるべく動かしていってください。無限の可能性が出てきます。
歌うところの捉え方を聞いてみてください。その辺、とてもうまいです。
黒板には書きようがないのですが、歌にはこのようなところで、こういう動き方があるのです。
歌い手というのは、けじめのつくところに、きちんと何らかの形で落とし込んでいくのです。
そこからそれていたり、方向違いでは、歌としてできてきません。
何か起こしていかなければいけません。
踏み込んだ分だけ離れられるし、そこでインパクトをいれたら、その分、休めます。その辺は他の表現活動と変わりありません。
間のとり方などは、向こうの言語の動きと一致するのです。言語自体が、音楽的言語と同じで、強拍で動いてきます。強くいったら、次にその分休まないと、体が回復しません。
それが音楽の場合は、テンポが定まっていって、ヴォーカルが感覚を動かすにつれ、少し不規則になって、表現の自由さがなくなっていく部分はあります。
曲をつくる人はそれも感じてつくっています。
全部を同じ感覚で覚えていくことが、本当は基本です。
それができないときに、バラして、個別に勉強していくというやり方をとります。
取り上げられている曲の方が、勉強しやすいというよりも、最初は、わけがわからなくても、そのうち聞こえるようになってきやすいということです。☆
たとえば、④のレッスンは、これを一つのレッスンで全部やっています。
最初に1行、次に3行全部やるのです。
音程やリズムをとろうというのではなく、聞いている間に自分のなかの今までのパターンのなかで、融合していって出てくるわけです。
楽譜を学んでいるという意識はなくなります。
ことばもいいにくいところは、勝手に変わります。
この歌をレパートリーとして歌うわけではありません。そこを間違えてはいけません。
レッスンと歌とは違います。ギターを始めるときには、「荒城の月」で始めてもよいでしょう。それをいつかステージで弾くわけではありません。その歌でコード進行や基本的なことを学びます。
初心者が取っつきやすいなら、そこから勉強していくのです。それをレパートリーにするとかしないとかいうことや曲の好き嫌いはまったく関係ないことです。
楽器の使い方を勉強するのに、好きでかっこよいギターリストのものをやりたいといっても、そこから入れるわけありません。歌の場合は、そこからも入れるので、学びにくいともいえます。
声、歌、音楽と、できているできていないが、あいまいなまま、歌えてしまいますから、もっとも勉強しにくいのです。
レッスンでは、進行の仕方が違っても、最後まで共通することを伝えているつもりです。要は歌えていればよいのです。自分と比べたときに、これは絶対にかなわないという人を見本に勉強したほうが、わかりやすいと思います。
そこのギャップがわかれば、詰めていけます。
その差がわからない、もしかしたら、自分の方がよいのではないかというのをコピーでやっていると、余計におかしくなってしまいます。
向こうのものをコピーして表面でしかとっていないものをさらにコピーするのは、うすまるだけです。
当然、よくないでしょう。
ピアニストの弾いている指をまねて弾くようなものです。
体全体をきちんといれていかないといけないということです。
目的をきちんと見据えていないのも問題です。
あなたが今、いったことで歌が始まるのです。バンドがついていて、オーケストラがついていても、トレーニングが、自分が歌うこととかけ離れてフィット感がない。あるいは、そういう状態に自分を置けないのでは、何も生まれません。
レッスンでも、人に伝えるということでは、歌と同じです。間のとり方も、こういうふうに話すことも、手のつけ方も、少なくとも表現の効果をマイナスにすることはやりません。
それを常に意識しないとトレーニングが空回りしていきます。相手に伝わりません。
相手に伝わらなかったら、体も必要ないし、感覚も必要ありません。何のためにやるのかということです。
前に出るようにいっているのは、ここでいくら恥をかいてもよいから、自分のあるだけのものをさらさないと、目標に対してどれだけ隔たっているのかもわからないからです。
役者は、裸になったり、踊らされたり、おかしなシチュエーションに置いて、意図的に自分をさらすことを課していきます。歌の場合は、それをあまり強制的にしていくものではないから、気づきにくいのです。
劇団というのは、主宰者がイメージできるものを、映画と同じで役者ができればよいわけです。
ところが、歌の場合は主宰者が自分です。自分が自分をさないといけませんから、そこに他人があまり強制的に応援団のようにやらせていたら、それをやっていたらよいと思ってしまうようになってきます。そして音楽は宿らなくなってきます。
できるだけ、自分の心の自発性で表現して欲しいものです。
「まだ最初だから、そのことはよい」と思っていては、2年経っても解決しないものです。
声ができても、音感ができても、楽譜読めても、歌はよくない、その辺の役者や芸人が来て歌った方がよほどうまいということになってしまいます。
いつもそういう状態に、自分をおくということを常に考えてみてください。
ーー
「枯葉」
「あれは」だけでやりましょう。とかく皆さんは、自分の声をあまり知りません。他の人の声も、このように生で聞く経験は、毎日しているはずなのですが、意識をしてきていないでしょう。まして、内部の感覚など読み込んでいません。ですから、それは、ここの1年目で一番経験して欲しいことです。
自分の声はわからなくとも、トレーナーやあるいは、まわりの人の声を真剣に聞いていると同じ空間でどのように声が飛んでいるのかが見えてきます。
色と同じです。「虹が7色ある」といわれたら、7色あるとわからない人も、数えられるから7つにでも増えます。
本当は何色かわかりません。その人の見方によっては、同じ色でもいろいろあります。音の世界も同じです。
聞こえたものを同じように歌っているのではよくないです。
敏感な人が見たら、まったく違うように歌っているのに、それが読み込めない以上、自分の体でそれが出せるということはできません。
読み込めても、出すことは大変なのです。まして読み込めないものが出てくるわけありません。
表現を歌でするというのは、難しいから、それをおいて、音声のなかで、まず捉えていくということです。
「あれは」をやってみてください。
そこでの基本トレーニングはシンプルなことの繰り返しかもしれません。しかし役者でもセリフを与えられたら、舞台まで毎日そのセリフばかりやるのです。
彼らが、それでつくった体を持って、ここに来ても、歌にはまったく足らないのです。
歌を歌うには、もっともっと必要なのです。
90分もたなくても、3分間のなかでも、より強く、より感覚的に働く体が必要なのです。
それは、自分のなかで練習していくしかありません。ここだけでは、間に合いません。
歌1曲では勝負できないとか何曲も聞いてもらわなければわからないという人がいますが、そんなことはありません。「あれは」といったときに、そのなかにほぼ全部、凝縮されています。
歌でもたった1分のなかに、人の一生のことが、あるいは、世界の100年のことが全部はいっています。
そのなかで、いろいろなことが起きています。自分が感じない限り、そういう表情も、表現も声質もつくれません。
同じように「あれは」のなかにも、「あれはとおいおもいで」以上のことがはいっています。
その状況を思い浮かんでとか、その気になってとかいうことは、ここでは、あまりいいたくありません。
ただ、そこに何かを詰め込まないと、何かを起さないと相手には伝わりません。
もう一度いきましょう。「あれは、とおいおもいで」です。
あなたが、その力を全部出し切っても足りませんから、こうして勉強しているわけです。
全部出し切るとは、どういうことでしょうか。
たとえば、「あれは、とおいおもいで」でも、いくらでも音声表現のパターンはあるわけです。
皆さんがイマジネーションを広げれば、10パターンでも100パターンでもあります。
「あなた」でも、いろいろな「あなた」があります。それを音色のなかで自分でつくらなければいけないのです。
声という音色自体のシンセサイザーでつくるのです。
まず、それを自分の体で知ることと、イメージしたことをことばのなかでもいれることです。
上のクラスのステージも見て参考にすればよいと思います。
プロレベルの人は歌を聞かなくてもMCだけ聞いても、まったく違うでしょう。MCでも声がきちんとでていて、内容もお客をしらけさせることはいいません。無駄なこともいいません。
それは日頃からそういう勉強をきちんとしているからです。
MCの勉強をしているわけではなくとも、ステージという場に立ったときに使えるもの、日頃、自分のなかにそれだけのものをいれているのです。
いろいろな「あれは」がありますが、「あれはとおいおもいで」です。
それを限定をかけながら可能性を広げるものとして、そこにラシドラシドラドラシの音がついています。
音が外れるなどの問題は、音楽の基本の勉強のときに身につけておく。
ここでは、「あれは」にラシドをのせたときに、より伝わるようにすることです。
「あれは」といった方が伝わるのですが、外国人にはわかりません。相手が感情移入しやすいような何かをつけて、動かしてやるのです。そのために一つにしないと働けないということです。それには声が必要で、その前に感覚が必要です。足りないものをわかっていくことです。
「あれは」といってから、音をつけてみてください。
ここで歌える人は、基礎が1オクターブある人です。いまは、短3度のなかでやっています。
ラシドと考えたら、「あーれーはー」となってしまいます。
「タ〜」と考えて、「あれは」です。
なるべくシンプルにやっていかないと、体が使えません。「はい」から「あれは」とはいってもよいし、「あれは」といってからはいってもよいです。なるべく歌わないことです。
「ラシド」の3つの音のなかでもいろいろなことが起きてきています。自分でそこは響かせたくないと思っても「タタタ~」となってしまったり、自分の意図と反する場合があります。本当は体にきちんと声が宿っていたら、そこで体の方が自然に使えているほうが正しいのです。
計算していくと違ってしまうことが多いのです。すると空回りしてしまいます。
体の中心の感覚、あるいは、そこに後で表現力がのっていくようにしましょう。
今は少々使いづらいかもしれませんが、それを続けていくことで、深くなっていくのです。
可能性や発展性があるのかになってくると、音楽のセンスの問題です。よい曲をたくさん聞いておくと、どちらがより自分にとってよいのかを、今の善し悪しではなく、わかってくるでしょう。その辺が練習の難しいところです。
よりよいものを出そうとしたら、それだけのテンションの高さと集中して声のコントロールが即座にできることが必要です。力を込めて息を吐ければよいという問題ではありません。それは、どこかで直していかないといけません。
勘違いしやすいことは、体を動かそうとしてマラソンや息吐きをやるトレーニングと歌を同じだ思っていることです。それは違います。
腕立てや腹筋やジョギングと、実際の試合で打つときは、そういう要素は入ってきますが、まったく別です。
なるべくつくらないでください。それが音楽として体をなしてくればよいのです。
ヴォーカルをやりたい人の最終的な目的は、自分の音、声をいかに聞かせるかということであるはずですが、大体は自分の声自体に関心がいかないまま、歌える方、歌いやすい方にいってしまうのです。☆
声をきちんとつかんで、その変化を自分で楽しめるようになれば、それは歌になっているようにしたいです。
要はどのレベルでやるかということです。
日本語の考え方でいうと、「あれは」のどこにアクセントをおくか。
「は」にアクセントを置いていることはありませんが、音が高く上がりますから握っていなくてはいけません。フレーズとことばが矛盾していくところは、自分に力がないと統合できなくなってしまいます。☆
今、「ハイ」とか、「ライ」とか、いろいろな基礎トレーニングをやっているのは、なんのためでしょうか。
「あれは」というのに、「あ」がとれなければいけません。普通は、喉でしかとれません。
そのうち、深くとれるようになったら、「はい、あれは」で同じになるのです。
結局、そういう体になっていくと、1オクターブが同じところでとれるわけです。
その上で、ひびいてきたひびきをまとめて使うのは構いません。戻れればよいのです。
今やって欲しいことは、そういうところです。
本当に、その繰り返しです。歌を、そういう耳で聞いていくということです。
もう一度やってみましょう。「あれは」だけでも、「あれはとおいおもいで」だけでもよいです。出したという感覚でやってください。
日本語は難しいでしょう。自分で、そういいたくないと思っていても、離れていってしまいます。
それをきちんと一つに捉えられるようにしていくには、強拍アクセントの言語にしていくことです。
日本語は、高低アクセントです。それを強アクセントの感覚にしていきます。
プロとして話している人は、メリハリと間をうまく使います。どこかにメリハリをつけて、どこかで、その跳ね返りを利用して休めています。体で動かしていく、立体的に動かしていく。
そうしないと表現は動いてきません。これが、つながってレガートになったものが、歌です。
「あなた」が少し弱くなって、「だ」が強くなって「け」がまた弱くなって「が」がまた強くなっていることはわかると思います。こういうアフタービートの感覚は日本語にはありません。
「だ」で強くなって「け」で、その分、引き上げて、つまってシンコペーションになっています。
「が」のところは、そんなに長く引き伸ばす必要はありません。
要は、一つの「あ~」のなかに「あ~~~」と次のところにいきます。
「あーなーたー」ではなく、リズムはタンタンタンと打っていますが、実際は「あ~な」の間に切れ目があってはいけません。それで一つのフレーズです。感覚が違うのです。
先ほどの「ハイ」と同じですが、レガートなので、少し難しいです。「はい」と踏み込んで、そのまま次のフレーズにいかないといけません。体で支えなければいけないし、そこに空気を送らなければいけません。この辺は声楽と同じです。今は、それができなくてよいですから、聞けるようにしていってください。
後半には、音楽としての節回し、あるいはその人の節回し、あるいは、より聞かせるためのいろいろな工夫があります。ここは変化です。
ここに関して歌っているのは、発声とまったく同じところで、とても基本的なことです。そういう意味での踏み込みが必要です。高く音を上げるのも、長く伸ばすのも、全部同じです。
声楽のなかでは、これだけを覚えていてください。クレッシェンドさせることとデクレッシェンドさせること。声楽家は、それを全て響きのつなぎでやります。
ポッブスがややこしいのは、それを共鳴として保っていなくてもよいこと、感覚として息になったとしても間違いではないからです。マイクがあり、声量もカバーできます。
声楽はマイクを使いませんから、遠くまで響かせなくてはいけません。日本人の場合は、上だけひびかせる声楽家が多いのですが、体で入れ込んで動かさないとよくないです。
わからない人は、世界で有名な声楽家やヴォーカリストを聞いてみてください。
そのうえで、その辺の声楽家、合唱団のコンサートを聞きにいけば、その差がわかるでしょう。
体の感覚のなかで、そういうことを宿していってください。
今、皆さんに欲しいのは、声を深く捉えることと、強弱の感覚で音を動かすということです。
これは、1年目のどのレッスンでも共通していると思います。
そういう耳で音楽を何回も、何回も聞いてみてください。いろいろなものが勉強できるはずです。
フレーズはイメージでとったようにしか出てきません。イメージの方が間違っているとうまくできません。もう一つは、イメージに対して体(声や呼吸)がついてこない場合で、これは待たなくてはいけません。結局、歌というのは、音への意識の現れです。商城や音量が出せないからといってできたりできなかったりするものではないということです。
体が心と一致して働いていればよいのです。もちろん自分のなかに音楽が入っていないとよくないのです。そしてそれをどう動かすのかです。これらの、自分の内部の動きをきちんと読み込んでいくことです。
ーー
「恋は鳩のように」
(「恋は
(ラミレミー)」)
音が高くなるときに、音をとりにいってはいけません。そこに意図や体の動きが入っていないからです。たいてい「い」のところでひっかかっています。「い」で入れば「は」はいわなくてもよいくらいです。
次のフレーズにいきます。「苦しめないで」といいたいときに、こういうフレーズが与えられたと思ってそのまま捉えてください。あとから盛り上げるために声量をおとし、テンションで支えています。しかし、コピーするときには、だからこそ最大にイメージを大きくしてやらないと練習にならないです。
フレーズの調整は頭のなかでするのではなく音声のなかでやってください。音の意識でとばしてください。
(「苦しめないで
(ミミミレミレミー)』)
感情移入すればよいということではありません。基本の練習をするときには、それを最大限に効率のよいところでやってください。きちんと体に入れてしっかり出していくことです。口先でやると先に伸びていかなくなります。そういう歌い方もありますが、今は単純に声がとれていたら、無理に感情を入れてなくても思いで歌になっていくということを知って欲しいのです。全身を楽器にして音色を出していってください。テンションをきちんと形成することが前提です。
いくら声があっても、一般の人たち以上にリズムや音感がないと、歌にはなりません。慣れの要素もありますが、楽譜が読めることよりも、音楽的にイメージで直せるようにしていくのがよいのです。
トレーニングをしていると視野が狭くなりがちなので、よい演奏をたくさん聞いてください。歌にまだ慣れていないし、音楽のベースが入っていないようです。全体が見ることができていないと思います。このように音を使うと、自分や観客に対して、どのように働きかけるのかということを勉強して欲しいのです。
音大生やバンドをやっている人から見たら、びっくりするくらい、腕力や音程などのレベルが低いです。でも、彼らの多くは長くやっただけで、何もつくり出せないのですから、そういうことの必要性をまったく知らないのですから、誰でも長くやれば追い越せます。
今のポップスの歌い手は、よい声の人がいなくなりましたが、音は一応合っていますね。リズムというのは、慣れていくにつれ入ってきますが、音感というものは、勉強していかないと、ネックになってしまいます。(というより、日本ではリズムには大甘ですから、自分が何を出したいのかをきちんと聞くことが大切です。
こういう練習は家でやることです。直すためには、はずれたということがわからないとよくないのですね。どこがはずれたか、ではなく、出したら聞くことを繰り返し正すことです。声のなかから音感も出てくるとは思いますが、それは本人の自覚の上に成り立つものです。音そのものの存在がわかりにくければ、テキストなどで、どの部分を間違えたか、ということで入っていくのも、一つの意識づけになります。
しかし、イメージが先行していないということは、一番よくないことです。あるコード展開のなかで使われる音というのは決まってきます。音楽を聞いているときにベース音をきちんと聞いていると、そんなに間逢えません。繰り返し同じことができないということはよくないですね。最近、少し気になっていることです。
ーー
「暗い日曜日」
(「胸にあかい花を抱いて
(ミミミソソソシシシミミミー)」)
とっているはずの音ではずれているのは、音の線をとっていく、ということがよくわかっていないからです。たとえば、「に」から「あ」というふうに、全部前の音が次の音をのみこんでいるから、次の音のきっかけは、前の音にあります。一つのフレーズがそのまえの息で決まるのと同じです。また三連符が並んでいるからといって、その通りに歌ってもよくないのです。動かさなくてはいけません。ダミアを聞いてみたら、どこがすきまかわからないくらいです。
せめて「うでにあかい」くらいのところでは一つのフレーズをつくっていくことです。シャンソンは、それが特に自由にできる音楽です。その流れのなかから、最後の「て」の音をどうとるか、も決まってきます。ベースを固めた上でちがう線が出てくるのです。
ことばとしていえるところ、音として体が使えるところにもっていかないと、どんどん離れてしまい、インパクトもなくなってきます。ルバートは難しいですね。自由にやる、ということです。
自分で音を動かすということをやってください。楽譜で定められていることを踏まえて、動かしていき、結果として、楽譜と同じようになればよいのです。やればよいというのではなく、音を線として捉え、次の音にきちんと詰んでいくのです。
合宿などに行けばできることが、なぜ二年もやって確実にできるようにならないのでしょう。五年前には、こういう練習態度だったら、やめさせて、走らせていました。舞台のときでも同じです。いつかできるようになるものではないのです。自分で自分をおもしろくしないで、どうして人がおもしろくなるのでしょう。それは、あなた方の全力での表現ですか。
歌詞を読めていないし、歌も聞けていません。ここではできないことに関しては、二年の時間をとっています。でも二年たって、出せないのは、毎日がそうだからです。ここにいることが居心地がよくなって終わってしまってはよくないのですよ。
歌詞をセリフとして読むなかで歌が出るくらいの集中力をもたなければ、歌というものは出てきません。回したことばに音をつけてみても、ごまかしになってしまうだけです。音程やメロディをとりにいくのではなく、音声として体から表現できればよいのです。せめて、そのような可能性が感じられるというところまでもっていかなくてはいけません。
歌詞を読むときは、それを特別な時間にしなくてはいけません。それはあなた方が特別な意識をもっていないとできないことです。しぜんにやって通じるのなら、もう歌えています。
普通のテンションではこういう歌に太刀打ちできないから、テンションや格などをすぐれた人から借りてくるわけです。その空気をあなた方は利用しなくてはいけないのに、薄めて日常のテンションにおとし、何とも思っていないのなら、やらない方がよいのです。命をふきこまない限り何も生まれないし、生きていけません。練習のときは、それを意図的にでもやらないとしかたないのです。
ー
「暗い日曜日」
イメージが間違っているために歌にならない場合は、イメージを直さないとよくないのです。音を正すのは、このレッスンでは感覚で、個人的には、一つひとつチェックして直してください。
ことばと音をどのように変化させて歌にしていくかを考えてください。これだけの簡単な構成のものが、どこで歌になっているのかということを考えてください。メロディのイメージとことばのイメージを感じたら、ことばでなく、メロディのなかで音を動かしながら、どのように表現していくかということです。構成がしっかりしているので、歌い手がくずして、もどすということが必要になると思います。三連符ですが、かなりゆったりととって、かなり壊していますね。
シャンソンというのは、つかんで放すということを器用にではなく、きちんとやっています。
だから、短く、単純な歌でも成り立つのだと思います。
リズムの感覚の違いが目立ちます。
彼らは、「うでにあかい」で「ター ター」ととり、しかも「うでにあかい花を (ターターター)」と三つめまでひらかないで「抱いて(ター)」でいきなり切りかえています。すべてを同じようにもっていっても、1オクターブもあると、しぜんと音の変化をしてくるものです。
一本の線を、この三連符のなかでわけないことです。
そのためには、日本語の、感覚でやらないほうがよいでしょう。
「ラララ ドドド ミミミ」ではなく、「ラードーミー」と捉えるのです。それが「ラドーミー」とか、「ラードミー」というふうに完全にくずれてしまわないように動かし方の先にイメージしてやってこないといけません。
自分でどこにテンションのピークをもってくるか決めて、ことばでいっているように、この音がついていればよいのです。ただそれだけキープしないといけませんね。
(「もういないあんただもの
(ミレドミレドミ レドシシー)」)
合宿などで入れたはずの感情表現が、なぜここで生きないのかということ、そういう場におかれた感覚を瞬時に、実感できないし、歌になるともっと飛んでしまうからです。感性やイマジネーションの不足というとそれまでですが、素質や才能というより、そのことをきちんと踏んでいけば出せるものだと思うのです。そういうものを自分できちんとひき受けるということを知っていたら、どうして歌や表現で他人事のように口先で歌ってしまえるものでしょうか。
音も、動きもことばも、まったく身体の感覚に結びついていません。こういう人たちはサラッと歌っているように見えて、人に伝える部分をきちんともっています。そして全部、解放してやることです。
聞くときのイマジネーションの不足と、自分がつくるものへのイマジネーションの不足という一番大切なものが抜けているから問題なのです。
音楽への慣れや技術のこともありますが、ことばで一つに捉えるということくらいは、一年くらいでできていないといけません。1オクターブにわたってできなくても、3~4度くらいの範囲ならできるでしょう。
いつまで人ごとのように歌っているのですか。
日本人でも、体で捉えたら、3度から半オクターブは出せると思います。合宿でできるくらいのことは、ここでの毎回のレッスンでできなくなってはいけないのです。しかも合宿というのは、プロのレベルのことをやっているわけではありません。感覚のなかでの音の捉え方とか、開かれた感覚のなかで自分で音をつくっていくという動きを生かさなければよくないのですね。
常に他の人の十倍くらい感じて出していくこととしか、感性に対していうことはありません。ヴォーカリストは音のなかでそれを出していかなくてはいけないのです。
高音が出ないとか音量がでないという問題が、歌の力を直接、左右するとは思わないでください。それらは心と体を一つに使ってみてそれからまだ足りないと思ったときに身につけていくものです。
最初は単純に捉えていって欲しいものです。たった一つの音を捉えられる人とそうでない人との間には、相当の差があります。体と心で一つに捉えて出したものが、最終的に音楽のレベルにおちついていたら歌と呼ばれると捉えてもよいです。
トレーニングに正しいやり方はありません。あなたの感覚や、体が正しくならなければいけないのです。
ーー
「リリーマルレーン」
必要ないものは身につかないし、必要のない人は来ても身につきません。身につけたければ必要を常に強く感じることです。それから入っていないものは出てきません。
練習というのは、何かをとり出そうとする意識の上に成立し、その志が歌になっていくわけです。これが見えないと何をしてもよくないのです。体全身や心で捉えないものが、体や心の必要性をそこに伴って出てくるわけがないでしょう。
好きな曲もそうではない曲も、自分との接点を見つけて、引き受けていかないとよくないのです。歌ったあとに課題が明らかにならなくてはいけないと、いつもいっています。歌って気持ちよかったというだけでは何にもならないのです。それが通じていなければカラオケにいくのと同じです。
課題を明らかにする方法は単純で、心と体を一つに使えばよいのです。それが本当にできたら、敬など簡単に、もつのです。一つで捉えるということに神経を使えばわかってきます。どんな歌でも片手間で歌えるような歌はありません。
(「ガラス窓に灯ともり
(ソソソラシラララミ♭レー)」)
自分が何をやったのかをフィードバックしていってください。ことばもメロディもきちんと処理できた人は、ほとんどいないのです。
「お前の赤い」というフレーズで「赤い」のどこかにアクセントをおいてやってみてください。ただし、リズムや、音をとろうとすると歌になりません。それだけ一つにとれていないからです。ことばで読むときに一つで捉えないとよくないのです。
(「お前の赤い(ことば)
お前の赤い
(ソソソ ラシ♭ソ)」)
他人のを聞いて参考にしてください。すると徐々に自分の間違いも正していけるようになるのです。
ことばは、二年間くらい、しっかりとやっていくとできるようになります。ところが歌でごまかさずにやろうとすると、最初は音の感覚もリズムも伴わせられません。練習というのは単純なことで、対象と一つになれるかということです。
歌というのはその繰り返しです。何ができて何ができないのかどうかということも、常に問うていかないと練習にはなりません、そのためにはきちんと表現している人の歌をきちんと聞いていかないといけません。
これらの歌い手がバックの演奏とどのように合わせたり、ずらしているのかを聞いてください。バックの楽器がヴォーカリストにどう絡んでいるかということからみるのも大切です。ヴォーカリストが一人で全てをまとめているわけではないでしょう。
見えないところで、音楽もセリフもつながっているのです。そこに一定のルールがあるのです。音楽というのはある程度、それを自分で決めていけるし、かなりの方向づけもできます。発見と創造の繰り返し、いわばセッションです。
自分の体や心を一つにして出したものはそんなに間違ってはいないはずです。ただ、音楽性の高さに対して近づくには、なるだけ、すぐれた音楽を染み込ませていかないといけません。
オリジナルが出てくる歌い手と、そうでない歌い手というものをきちんと区別して聞いてみるとよいと思います。
空ひばりというのは正に、計算外、予算外のことをしますね。彼女のフレーズをまねてみても、まねにしかならないでしょう。そういうところで勝負が決まっていくのです。そういうことが深い世界で生まれているのを知ることです。
日本人の歌い手はそこまでのことを音の世界でしませんから、どうしても作詞や作曲、バンドのアレンジ、淡奏力に負うことになります。向こうの歌手は音での創造性のところで歌い手のレベルは決められていくのです。もちろん、そうではない人もいるし、総合的にすぐれている人もいます。しかしそういうものを聞きとってイメージングできないところに、どんなに音感やリズムの練習をしてみても表現は出てきません。複雑なことは考えなくてよいのです。まず体を使って一つでいってみることです。
一年目なら、最大限で最大のものを出すことをやってください。二年から三年になると、最小で最大のものを出せるようにコントロールしていかないといけません。勝負に無用な無駄をはぶくのです。
歌というのは声量ではなく、どのくらいの大きさのイメージをもって、どこにたどりつかせようとしているかということです。どう終わらせ、おとしこんでいるのかということを体で計算して勝負できているかということです。
とりあえず小さな部分でよいから、そこを大きく読みとれるように耳と体と心を育てててください。自分の好きな曲でよいから、どうすれば自分のものが出てくるかということを考えることです。そこからがレッスンです。発声のトレーニングなどは、そのレッスンになるまでの部分での足固めです。そこからは、大変ですが楽しい世界でもあります。
ーー
「恋する瞳」
「何も言わないで」(伊藤ゆかり)
皆のなかにもいろいろな声の使い方をする人がいます。感じて欲しいのは、それぞれの声のなかにある空気のゆれの動きです。パイプオルガンをイメージしてください。
「何も」といっている中で音が動いてくるでしょう。次の「いわないで」がついてくると、意味が限定されてきます。歌詞がわかって、さらに限定がかかります。表現としては強く出していかなくてはいけないのですが、今は体で動きをつくるということをやってみてください。
体の使い方と発声法を同時にやっているのですが、息で、「何も」と深くいうと、三回くらいで疲れます。それがフレーズの一番、基本のところにあります。それをそのまま出しても声にはなりませんから、ある程度ゆるめるのです。すると、いろいろな部分がひびいてきます。ここから、どの音色を選ぶかが個性です。
しかし、皆の場合は、その前にもっと声を練ることです。体を起こして、ことばでフォームをつくって、歌に入っていくのです。
メロディ処理というのは、メロディで歌うのではなく、メロディをことばのなかに処理してしまうことです。最初からきれいなひびきの方向にもっていこうとする方が、実は難しいのです。本当はことばから入った方が早いのです。自分の体がきちんと使れているところにメロディを処理して表現していくのがスタートです。
向こうのヴォーカリストは、中間音でものすごいヴォリュームをつけられます。そういう練習は発声のなかではなかなかできないので、ことばから入っていった方がよいと思います。
(「何もいわないで(ことば&ミソソーミソソミレ)」)
「「も」とか「い」とか、いいにくいことばを省いてみるとやりやすいでしょう。
「何 ないで 」くらいで捉えてください。
音を三度くらいの間でよいので、一つに扱えるようにしてください。
「 にも」と捉える方が、「何もー」と捉えるより、ポジションが狂わないです。
(「にも(ことば) 何も(ミソソー)」)
低音になると、音の差は感じなくなります。下の方でできることを上の方でできないのは、体の力がないからです。その差をなくしていくことです。その感覚をなくすことです。
胸を下げようとしたり、押しつけようとすると、すべてがのどにきます。それが練のプロセスになることもありますが、のどを痛めるような練習をしてはいけません。何も考えないでやってはいけません。
どんな声を出してもその後ろを音楽が走っていないといけないのです。それがイメージの世界だと思ってください。イメージの豊かさが表現を支えるのです。そして、その人自身の音の感覚のなかで進めていかなくてはいけないのです。
このヴォーカリストはバラバラに歌っているように見えて、一つの呼吸のなかにきちんと乗せています。
(「甘いこの(ファ♯ソラ ミソ)」)
息で動かした声でやらないとすべてまってしまいます。歌い手の表現を支えるものは何かを考えてください。まず体で支えられないといけません。そして、心をそこに入れるということです。人によって、それができるまでにはいろいろな試みをします。ただ、それらを一つひとつ自分で正しく判断していかないといけないのです。
だいぶ慣れてきたと思いますが、歌い手の息から、体や呼吸を読みとっていってください。なるだけ感じることです。感じないものは出てきません。ことばとメロディのバランスをそれぞれの曲において、自分なりにやっていってください。曲をかえます。
ー
「クアンド・クアンド・クアンド」
最初の部分はかなりためています。サンバのリズムですね。
(「ディ ミ クアンド トゥ ベライ(ドミ♭シムラ♭ミ♭ドレ♭)」)
ーー
「イルモンド」
「イルモンド」は2オクターブくらいの歌ですが、半オクターブのなかでやってみましょう。音色のなかでベースをきちんと握ってやってください。この歌い手は4度のなかで歌い方を変えて、変化をつけています。速くなっているように聞こえますが、そうではなく、テンションで音色が違って聞こえるのです。
感覚も正さなくてはいけないのですが、体が起きていないし、集中力が足りないままでは何もできません。体の柔軟性、呼吸、テンションなども集中しなければ保てないことです。