レッスン2
ーー
「チャチャチャはいかが」
「待ちましょう」
「Holidays」
「カーザビアンカ」
「夢みる想い」
「わかっているよ」
「赤とんぼ」
「恋の季節」ほか
「赤とんぼ」
「乾杯」
ーー
「チャチャチャはいかが」
「If we'll say bye-bye,so tell me cha-cha-cha comin' out till night,cha-cha-cha meetin' me till tonight cha-cha-cha kissin' me till tonight baby
(シ♭ララbシ♭ララbソbファミミbミ♭ミ♭レbレbファファミ♭ミb ミbミbミbレbレbファファミ♭ミ♭ ミbミ♭ミ♭レレファファミ♭ミ♭)」
全部を強調するとバラバラになってしまいます。リズムに乗ることは、フレーズとはまた違ってきます。
(「チャチャでキスだチャチャで お月さまもごきげんだ 365日あけても暮れてもチャチャbaby(同上)」)
チャチャチャのリズムで歌うことはあまりないと思いますが、リズムのことよりは日本語の処理と、英語の処理の違いを感じるこです。雪村いづみ流のやり方があって、ここまでとぼけて欲しくはないのですが、日本語に忠実に音の世界にもっていくというのはなかなか大変なことなのです。体も強いし、感覚は鋭いです。
特に最初の部分です。
あまり節回しを意識すると難しくなってくるのでくるので、自分なりのやり方でつかんでいってください。感覚のちょっとした変化やメロディのつけ方の変化のようなものを意識してください。どう変えれば感覚が変わるのかとかテンポや、コードのメジャーとマイナーの組み合わせなどを実験できる曲です。
日本語でやると、力が必要になってきますが、わかりやすいかもしれませんね。日本語でやると、へただと歌にならないところがありますから、そこでどう、おとしこむかです。メロディというよりコードのなかでの終始のつけ方です。
この当時は、日本人もいろいろな試みをしています。今のように決まりきったくせ声の循環のなかでやらないで、こんな音が出てきていいの、というような進行をするときがあります。そこでのはずし方イコール決め方を勉強できると思います。いろいろなパターンを入れておくと、皆さんもあとあと勉強になると思います。では終わりましょう。
自分のキイ、フレーズ、テンポすべてを自分で決めていかないといけません。「ハイ」一つにしても一番出せるキイはどれか、出せる体の使い方はどうなのか、きちんと前に出せたとき、自分のイメージしたことができているのかどうか。そこからチェックしましょう。
まずイメージをもてなくてはいけません。イメージ、感覚のところで多くの人が間違っています。
次に感覚やイメージがとれたときに、体がついていかないのです。そうしたら、体をどう使えばよいかとなると、まず、2割でも完全をめざしてみることです。それを全体に2割の完成度でとめてしまうから上達しないのです。そこで使えなければ待つしかないのです。
トレーニングというのは、基準をつけていけば、絶対に間違わないのですが、ほとんどの人が声の基準が甘いままやってしまうため、歌になったらもっと基準がわからなくなるのです。まずことばや声のところでシンプルがパワフルにわかりやすくしておいてください。
それから、他の人の声を聞いたときに、どれがよくて悪いのか、いろいろ感じると思いますが判断を正していくのです。今が一番大切な時期です。この期間に見えないものはなかなか手に入りません。
「ハイ」になったり、「ラララララ」になったりすると、いきなり違うことをやってしまう人が多いのです。確かに、日常の声が歌の声として使えるわけではないのですが、そうかといって、まったく違うものをつくろうとするのは大きなあやまりです。
非日常的な場で示さなければいけない声とはいったい何なのか、その人のなかにも、ある程度あるはずです。感情もあると思います。それをすぐに切りかえて出せるようにしてください。
最初は本当に感覚の問題です。それを読みこんでいくのに器用な人もいますし、時間がかかる人もいるのです。どこまで深くそれが見えてくるのかということです。音楽や声を聞くことが大切なことなのです。
「ハイ」から「ララ」になって、おかしくなる人は、日常のことばから入った方がよいですね。自分の体できちんとつかんでいながら、声が前にとんでいくということをやってください。それから、前の人との間をきちんととってください。
(「生きる」「生きるということ」(ことばで。))このなかでもいろいろな差があります。いろいろなことをやるのはよいのです。ただ家に帰って、いろいろやってみた成果をレッスンに出て問うことといつもいっています。一人でできることは一人でやりなさいということです。そうしたらキイの設定、テンポなどは本来、自分のなかでわかってくるはずです。自分だったらこうやる、と考える前にそれが出るような形にもっていことです。それだけやっておかないとすぐには、出ません。
ヴォイストレーニングをやっていて何となく声は出るようになっても、セリフをいわせてみたら、普通の人とまったく、変わらないということもあります。歌の方に少しずつ結びつけていきますが、雰囲気を出したり、情景がうかんだり、という感情移入でつくるのではなく、ことばが音声として、体と息を使った前に出てくる、ということを望んでいます。これだけでは歌にはなりませんが、まずそういう根本のところをしっかりやってください。
今は音声を体の力できちんととり出して欲しいのです。常に大げさに大きめに読み込んで表現してください。そうしないと、体ができていかないからです。それができできたら繊細な表現もできてきます。
ーー
「待ちましょう」
(「花びらの色あせ、ともしびも聞こえる」)
(「日は過ぎて悩みに心はしずむ」)
(「風の音わびしく、思い出のすべては再びかえらぬ」)
ここまではことばでしたが、この時点で、呼吸と体と声をつないでおくのです。本当は先にイメージから入ればよいのですが、どうしてもつくってしまうようです。
(「花びらの色あせ ともしびも聞こえる
(ミ♭ミ♭ミ♭ファファーファファミーbミ♭ミ♭ミ♭ソソーファファファミ♭ー)」>
なぜ読み込みからはじめるかというと、表現という感覚に対し体をつけることを学びたいからです。この感覚を正すというのは日本人の場合、とても難しいのです。特に歌った場合に、ことばのときにいえたものができなくなってしまうからです。それは一本調子でメリハリがつかなくなってしまうのです。
それを根本的に克服するには、ひびきと芯をより確実にとって、声を邪魔するものをなくすことです。そのためにヴォイストレーニングをやっているのです。誰が聞いても「花びら」とは聞こえなかったり、そのメロディのよさが聞こえなくなるというのはよくないことです。ダラダラして一本調子になってしまう。ひびきをとりにいく前に、きちんとそのことばをいえるところで歌うことです。
日本人は「ハッ」と吐いた息ががそのまま声にならないから、声をつくらないとできないのです。それを母音形成に、つまりノンアタックでやるのですが、向こうの人は子音で体からアタックするのです。そうしないとその瞬間にことばの生命力も失ってしまう。その基準をきびしくしていかないと、あとで自由になっていきません。
そこで一回、日本語の感覚を離れることです。発声というのは単純で、息が完全に声に変わるということです。これが声立てといいます。これをキープして終止できればよい。そのために、体がきちんと声にくっついていないといけないし、体でコントロールされた息を吐けないといけません。この感覚に一回入れこむことです。入れこむと浮いてきます。
私が「花びらの」というときは「 らの」というくらいの感覚ですね。構えで出します。どこが強いのかということをきちんと示せばよいのです。そこで動きを体のなかからつくることです。「 らの あせ」これで歌になるのですよ。
(「 らの あせ( ファファ ファミ♭ )」
「らの・あせ」というのではなく「はな、びらの、いろあせ」というフレーズが聞こえてくるようにしてください。
ー
「Holidays」
(「いつか再びすべてを捨てて飛びたつのあの空へ Holiday
(ファソララッファラドララシ♭ラソファソララシトラソファソファソラドラ ドラ レー)(夏木マリ)
難しい歌です。5つをどう歌いわけるがというところで技術が必要なのと、最終的に何を残すかということです。全部を歌うわけにもいきませんね。
演奏については、歌い手と関係なしに全部つくってしまっているのです。日本の歌い手の力がないため、この国では作曲家、次にアレンジャー、今は音楽プロデューサーが自分のイメージでパッケージして、歌い手の自由度を奪ってきました。
もちろん、その力なしに聞くことのできないヴォーカリストの力のなさが、問題なのです。たとえ、ポップスでも、オーケストラに張り合うくらいの声でやりたいものです。
(「はじめて会ったあのときのように
(ドドシトラ♭シ♭ラbシb ドファファファソーソラ♭ラ♭ー)」)
「Holidays」は広げないで集めていくような歌で、夏木マリさんのは解放していくような感じですね。同時にやると大変かもしれませんね。マイクをつけた方がやりやすい曲ですから、たまにはカラオケで練習してください。
ーー
「カーザビアンカ」
イタリアには、昔をなつかしむ歌もたくさんあります。この「カーザビアンカ」という歌もその一つです。オルネラ・ヴァノーニは全部おさえた上で、流して歌っていますので、そこをよく感じて歌ってください。おさえて歌おうとすると、とても難しい歌ですが、イタリア語が簡単なのでなんとかなるでしょう。
(「チェ マイ カサビアンカ ケー ヨノソロノイ マイビュー
(シ♭ドレ♭ファドレ♭シ♭ー シ♭ドレ♭ファラ♭シトラ♭ー)」)
次の部分は、間をもたせるのに日本語の方がいいかもしれません。
(「トゥティデヴィコメメー カナキルケユーザケー
(シトラ♭ファソ♭ラbシbソbー ソbファミ♭ファソ♭ラ♭ファー)」)
声がでているかより、感じがでているかということが大切です。この曲は勉強するのに難しいので、今までほとんどとり上げていないのですが、総合的な要素は全部、入っている曲です。
ことばや音を変化させるときはそこに理由がないといけないのです。感じをどう出すかというときに、音楽をこわしたらダだということです。
どう聞こえてくるかということをきちんと聞いていたら、反射的にそう出ます。歌一曲のなかで音程、リズム、フレーズの変化があること自体一つの感覚のなかで捉えられる器をもたなければ、そのなかでおきていることが理解できないと思います。
当時の曲は、よく考えられていて、伴奏のつけ方も古いのですが、絶対的な理由をもってそこにつけられています。その線をきちんと聞いていけば、絶対にやってはいけない変え方というのもわかるはずです。この音楽を理解した上で変えたいということでなければよくないのです。
ステージでは、自分の世界にもっていけばよいのですが、自分の世界でやろうとすると一人よがりになりがちです。なぜこういう課題曲をつかうかというと、やってはいけないことを学ぶためです。
歌い手は、一度、歌を固定してから間違えなければよいと思われていますが、今すぐできるように覚る力をつけることです。
音程を正しくとることより、音楽の理解度で差がついてくるのです。
それをきちんと認めて、何をしなくてはいけないかを考えていかないとよくないのです。音程の問題は、出てくること自体、おかしいのです。音程が合っていても、音の流れや気持ちをいう“感じ”が出ていないと何の意味もないのです。
(「忘れられないあの日の思い出、あの日キスしたそれだけの人
(シ♭ラbファbソbラbシbソー ソbファミファソラbファー ファミbレ♭ミ♭ファソ♭ミbードドミレ♭ミファー)」)
2、3回で完成するものではありませんが、歌に仕上げていくというのは、一つにしていくということです。できれば最初から一つでとっていった方がよいです。これは大人の歌ですが、一つに捉えると同時に感情を出すことです。
感情を出そうと思っても出ませんから、それは音のなかでやるしかないのです。音の世界でやっていたら、かなりゆっくりと聞こえるはずです。そういう感覚がないと、そこにつめこむということができないのです。
人間の感覚というのは相対的なものです。音楽にはそのなかでしか入れ込むことができません。このフレーズを動きのままに四つにわけて一つひとつ歌っても何も出てこないです。
トレーニングですから変な癖をつけたり、ひとりよがりな方向にいってもいけないのですが、自分で決めていかないと、作品にはならないし、練習にならないのです。素直に歌えばよいということではなく、音の世界に入ったときに、そこでプロの感覚をもって、判断していくことで変化をつけなくてはいけません。その辺の演出や、自分の動きを音の働きのつり合わせのようなことをしっかりとやっていくことです。
何かを伝えるためにそれが聞こえてくるかどうかに練習の目的をあてていかないと思い込みだけでやることになってしまいます。フレーズでは部分的な完成度は問うていますが、その一つひとつが完成したら、単にそれの集合体が歌になるというわけではありません。一つの箇所を切り取ってみたらそこが完成されているだけです。すべてのフレーズが一つのことを伝えるために動いているのです。
この手の曲は誰でも歌えるのです。だから難しいのです。こういう大人の歌はある程度、自分を知った上で、よりよく見せるための演技をしなくてはいけないのです。他のオルネラ・ヴァノーニの曲をきいてから、この曲を聞くと、流しているだけに思ってしまいがちですが、声を出せる人が、それだけ声をおさえているということは、一体何なんだろうと思うことです。どうしてここまで殺したのか、というのは、理由があるのです。これは流れの方が大切な歌です。最後に四フレーズまとめて終えましょう。
(「忘れられない 愛の思い出 あの日キスした それだけの人
(シトラ♭ファソbラbシbソbー ソ♭ファミ♭ファンbラbファーファミ♭レ♭ミリファンbミbドレ♭ファミ♭ファー)」)
日本ではスポーツをやっている人の多くもトレーナーについてしまうと、自分で考えずトレーナーがいう通りにやるだけなのです。トレーナーもいう通りにやれと教えるからです。そして、トレーナーになると自分が教わったとおり、何の疑問も抱かずに教えます。日本の声楽も似ています。
本人は考えていたつもりでも、もっとうまくなる人たちは自分で考えているのです。本当にうまい人は柔軟をやるときにも、準備運動をやるときにもその意味を一つひとつつかんで何のためにやるのか、すべて知ってやっていると思います。何となくやっているのとの差が中高生の頃にはわからないのですね。もっと弱いチームとやるときには、彼らの欠点が見えるのに、自分が中に入るとわからなくなるのです。
最初の時期はここのなかに入っていても、内容に入っていないようなところがあるから、ある意味できちんと学ぶスタンスをつくっていかないといけません。これを外から見ていてもしかたないのです。ここが何をめざしているというような価値観でなく、あなたがどうしたいのかということです。
それから今の段階においても世界で一流をいわれる人々のステージを見ることです。スポーツでも中高生の頃から、世界のプロリーグの決勝の映像を見まくっていると伸びるでしょう。そういうこと追求しないと、うわべだけで、ささいな問題ばかりたくさんでてきます。だから、きちんと入ることです。入れるか入れないかというのが最初の勝負だと思います。
今の自分や他人の実力や状況を判断するには、その上のレベルの判断基準がないとできません。今、皆にいっていることは二年間いわれ続けると思いますが、それはわかったつもりでいても、できていないからです。
音声で表現すること、それに対しての方法は一つしかないということです。アイドルやタレントさんたちのような形で自分を売り出さないヴォーカリストなら、音の世界で勝負するしかありません。ところがその音声をきちんと理解する耳をつくっていくということが、日本人にとって、大変なことなのです。
そこに自分たちで接点をつけないと意味がありません。それは一見、自分のやりたいこととは関係ないように思えるかもしれません。
しかし、もっと大きくなれるものとして基本があり、それに気づかず、自ら自分を限定しているうちは、すぐに限界がきます。まずここを通して、世界の音楽やアーティストたちの活動や思想などという内部にあるものを勉強していくことです。そして自ら、そういう世界をつくっていくことをしてください。それが音の世界に対するアプローチのし方です。音楽の世界、音の世界をやるのであれば、そういうところを勉強しないと、カラオケのレベルで終わってしまいます。
5年~10年で勝負していくスタンスは、最初にとることが大切です。最初のとりくみ方次第で差がでてきます。
そのときに、もし会報ですぐれた人と同じレベルのことが書けなければ、レッスンの「ハイ」という中で同じことができなければ、そこにたくさんの学ぶものがあるということです。
ポップスの世界でなぜ学べないかというと、自分は違う方向にいくからということに基本を固めずにそれていってしまうからです。自分をみないからです。
外国にはスタンダードがあって、スタンダードをどう表現するかでオーディションをしますから、それで第一の目標やレベルが決まります。
それは基本をやることにしかなりません。課題一つでその人の感性、感覚、音の世界の理解度、すべてがわかるのです。
日本はそういうことをしません。劇団がそれに似たことをやっているくらいですね。自分を商品と考えたとき、何が武器となるかを考え、それを磨いていくことです。
二年間で歌が少しばかりうまくなっても、それは大したことではありません。あとでそれ以上になれるだけのものを先につくっておくのです。
たとえば、それは一つの声を出したときに、そこに可能性が感じられるかどうかでわかります。
だから一流のプレーを見るしかないのです。それを見たら考え方が変わります。これまでにたくさん見てきた人もいると思いますが、音の世界で見ないとよくないのです。そのことから彼らとの差がわかってくるのです。
そして、同じだけの練習をしてはじめてどれだけの差があるかがわかるのです。景をこなさないうちは、本当のところはわからないのですが、なるだけ直感的に感覚を鋭くして理解していけばよいでしょう。感覚が入った瞬間、自分の体から、発言できればよいという世界です。音程やりズムを固めて、歌を歌うなど、というふうに複雑に考えていかないことです。勉強方法を複雑にしていくと、歌も複雑になっていくのです。難しい歌など、誰もききたくないのです。単純に捉えていってください。それを一つに捉えてやっていこうというときには自分の体のなかにすべて入っていないといけないのです。
スタイルややり方は、人の形を借りればはやく出していけるのかもしれないですが、何も創り出せず早く終わってしまいます。自分でわかろうとしないとよくないのです。違いに気ずくところからはじまるのです。それをきちんと見ることです。そういうことを勉強のとりくみ方としてやってみてください。
日本の音楽は私から見ると100あるパターンのなかの一つしかやっていません。それでは似ているものばかりになります。ここには20~40くらいはあります。そして、それぞれがもっとてんでばらばらになっていくのがよいのです。それがポップスの世界です。
質に向かうためには量をこなすか、一瞬の勘をよくすることです。いろいろなものを読みとる能力を鍛えていくことです。
息や「ハイ」の発声トレーニングは部分的なものです。その統合されたものが本来、歌なのですが、そこまでいかなくてもそのーフレーズなり、ある部分を聞いてみたときに伝わってくるものがあると歌の誕生ともいえるのです。
出だしの音などは「レ 」という音をイメージしておいて、そこで入れるポジションでなければいけません。
これがかすれているからよくないだとか、かすれさせないで、完全に声にしたらよいという問題ではないのです。それがその人にとって一番扱いやすいところにきていればよいのです。自分のなかにそういうイメージがないのに、いくら声を出してみてもよくないのです。
初心者は素振りをしろというと、素振りのことしか考えないでやるのです。一度止めて、イメージし、意図してそれに対して振ってみることです。そして次にどうするか。それを考えるために動きが止まるのなら、まだまったく、練習ができていません。動きのなかで体で考えることができ、次のものに対応できることが大切です。
最初は何十回以上摂ってもわからないのですが、慣れてきたり、状態がよくなってきたらやったことに対して次にフィードバックして修正できるようになります。それを自動的に無意識でやらないといけません。
頭で考えて頭で修正すると、よくわからなくなります。もっと大切な、呼吸や動きがこわれていると、いくら修正しても部分的な修正にすぎず、トータルな修正がかからないからです。
スポーツというのはまだ外側から修正してトレーニングできるのですが、声は、感覚やイメージですべてコントロールするわけです。内部の感覚がつかめるようになるためには時間がかかります。もう一つは気持ちの要素が入ってきます。
ヴォイストレーニングでは、どうしてもできない音にそろえてしまう傾向があるようです。「ハイ」の「イ」の方にそろえて本来「八」でできていたポジションより浅くなってしまうとか高い音でくせのついた方へ合わせてしまうので、もとからあるものを壊しかねません。イメージで直していくのと、体の力や記憶で直していくと両方あります。
フレーズを実際につくってみましょう。どこでもよいからアクセントをつけて、体を結びつけていってください。
(「ハイ 知らな(ソラシb)」)
読み込み方はどんどんと変わってきます。このことに時間をかけた方がよいでしょう。
たくさん聞くことです。でも、たくさん聞いたからといって感覚がすぐ変わるわけではありません。その人のペースと量がうまく合わないと変わりません。時間はかかってもよいのです。
学び方はいろいろあると思うので、自分で考えてください。
常に自分の声の状態を捉えることです。
ーー
「夢みる想い」
たった一つのレッスンで、たくさんのことを書くのは大変なことです。ただ私はそれ以外のことをやってきましたし、今でも、皆さん以上に発言して書いていると思います。
ヴォーカリストは音声の表現で問われるわけです。もちろん、質がよくなければしかたないのですが、そのまえに量を出していかないと質が出てこないともいえます。
その基準をつけていかなくてはならないでしょう。そのことに日夜、取り組んでいる人とそうでない人で、伸び方が違ってくるのです。たくさん書けるのは、たくさん気づくからです。
外で育つ人はここでも育つし、そうでない人も外よりも育ちやすくしているつもりです。なぜかというと、ここにはまだ、私の他に基準をもった人がたくさんいるからです。
一つひとつのものをどう生かすかということで考えると、量だけでなく、読む価値のあるものを、たくさん書けることも必要となるわけです。たくさん、体験すればよいとかレッスンに出ればよいということではなくて、そこから自分に生かせるものをどれだけ組み取るかということが大切です。
今回、ライブ実習に出ている人よりも一見、うまい人も1、2クラスのなかにいます。しかし、それでも舞台で勝ってしまうのは体全体に声が宿ってくるというプロセスを経ているからということと、その人が自分のオリジナルをみてきたという強さです。
それは自分になっているということです。自分には近づいていけば近づいていくほど、課題がはっきりしてきます。それをごまかしていくのは、早く通じても後々、意味のないことです。本当は他人の好みという基準は不要だからです。そのためにも自分を見なくてはなりません。そして、自分を見るためにも他人を見極めてください。
「あなたに あいされ あいするそのひを」
1オクターブをことばから入っていきましょう。体で読みこんでください。歌とトレーニングは別ですから、フレーズができてきて、音程やリズムがおのずとついてくると、できてきます。基礎がないとそれがくずれてくるので、それがくずれないように、叩き込んでおくことです。
ことばから入っていく勉強は歌につながっていかなければなりません。歌は表現につながらなくてはいけません。
自分のなかで伝わるという意味をとってコントロールしていくことです。
ことばの意味をそのまま、とるということではないのです。ことばの世界をもってこなければいけないとは思いますが、歌の場合、音におきかえていきます。この歌詞で歌ってもおかしくないところまで音におきかえていくのです。イタリア語で見ていきましょう。
最初の人は基準をつけていればよいです。1の人はそろそろ、自分の基準を満たす表現をつくっていかなくてはよくないのです。
今みたいなのは練習にもなっていないわけです。何も聞こえてこないからです。そこで基準をいい加減にしないでください。音程やリズムが間違っても直りますが、装現されていないと何があってもよくないのです。
最初の一年は、それを正しく認識しなければなりません。一番、困るのは仲間のなかで少しうまいとか声が出ているとかいうことでごまかされることです。お手本では、必ず踏まなければならない部分があるのですが、普通は、踏んではいけないところばかり踏んでしまい、どんどん自分の体が使えなくしてしまうのです。
ことばでいったときは何人かはできていたのに、歌になったら全部、死んでしまっています。そこに何かがおりてくるところをつくらなければ、人の心は動きません。退屈してしまうだけです。そのままマイクやバンドをつけると、ますますわからなくなってしまいます。
いかに何もできていなくて、何も出せていないかということを自分のなかでフィードバックしていかないと練習にはなりません。これは音程をとりにいく課題ではないのです。
すべてをヴォーカリストはある一定の条件を満たして歌っているのですが、そのことを説明する手段というのはありません。リズムや音程、発音以外のもっと大切なことは気づくしかありません。自分で動かさなければならないし、表現すること、音程とかリズム、発音以外のことではずしてはいけません。
音楽と声と自分の意図が動いていればいいのです。もう一度やってください。
表現が出てこない一番の原因は、息や体がしっかりと使えていないということです。それはCDを聞いたときに、歌い手の息づかいや体を読みこめないからです。
プロの人が強く出しているところでコピーしてしまうからいけないのです。本来であれば、その下の息を聞けなければいけません。強く出している息は音色にプラスさせるための息で、どちらかというとノイズの方です。必要不可欠ではない効果として使われているところです。
ここでまねてしまうと、口先の方で加工してしまいます。動かしていく上で、支えなければならないところがあります。そこで踏み込まないと、次のフレーズに移れないわけです。キープしたうえで浮かせるのは構いません。
完全にはずしているのは、アクセントのところです。そこは止まっていなくてはいけませんが、短く切らなければいけないということではないです。キープするのとひびきをつけていくのは違います。つまりダウンビートとアフタービートの違いでもあります。ビートというのは全体を通して流れていて、一つの動きになってきます。
「あなたに」と「あいされ」というフレーズですが「あなたに」に対して「あいさ「れ」というのは、上にあがっていく感覚ではなくて、もぐるわけです。もぐるのは、次のフレーズに移るためです。
このように動き(呼吸)の部分と、メロディのラインを自分のなかで瞬時につくって出していくということです。音楽にしなければいけないわけですから。
大切なことはコピーすることをここで勉強しながらも、自分の歌にしなければいけない部分があります。それをみることです。仲間の声を聞いて退屈に思ってしまうことは、そのまま歌になっていない部分です。それは声量やリズムや音感の問題ではないのです。そこで、どう動かしていくかということです。
息や体を巻き込んでいかない限り、何も動いていきません。
そのことと、音、リズムの感覚を大切にしていきます。
さらに、ことばで勉強して欲しいのは、たとえば「このむねの」ということばをきちんということはとても難しいわけです。厳密には一年も二年もかかることです。ですから、セリフのなかできちんとできるようにしていきましょう。そこから寸法をつめて動かしかたを変えていけばよいわけです。
感覚的に、体が使える方向になるべくもっていくことです。発声というより歌うときに声がついていかなくてはなりません。
それから耳でどう捉えるのかというのが、一番難しいと思います。
発声や音楽の勉強をただやっていくと、慣れるにつれ鈍感になってしまいますから、自分の神経や感覚を研ぎ澄ませておかないといけないです。そうではないと自分の声や体にごまかされてしまいます。
特別ライブ実習も、あまりうまいとは思わないと思いますが、それでも自分でやったときに、クリアできなかった問題を、そこにいる人たちはある意味でかなりのレベルでクリアしているのです。その差がどういうものなのかを、自分できちんと認識しないと生かせないものです。どこが違うのかを認厳し、それを埋めていく努力は、その後に必要です。少しでも、彼らの方が何かわからないけれど処理できてしまうことを認めて下さい。2年、3年で突き詰めてきたものが現れているのです。
このように常に基準をつけて見てください。きちんとした表現になっているプロの要素の部分がどこに現れているかをきちんと見ていくようにしてください。
ーー
「わかっているよ」
「わかっているよ いくら隠しても きみをだれより愛しているから」(「わかっているよ」)
トレーニングをやっていると、どうしても体を使うこと、息を使うことを視しがちです。しかし、声が前にでなくなってしまうのは、問題があります。やっているうちに体がなれてきて使えてしまうのが理想ですが、技術というのはもてばもつほど、体が強くなれば強いほど、それに伴う集中力とか喪現への意志、気力がいるわけです。
本当はこの関係は逆なのです。たとえば声が小さくて少ししかでないといったら、集中もするもしないも一つしかやり方がないからです。
だからそれを自分の意志でまとめてやっていかないと、前に出なくなってしまいます。
大きな武器であるほど、扱うのに責任がいるのです。
ここの悪いところの一部としては、皆さんが23年やっていて、そのへんの10代でライブをやっている人に勝てないと思われるのなら、そのほとんどは気迫の差なのです。レッスンをやっていくにつれて、鈍くなって「わ か っ て い る よ」みたいになるのならやらない方がよいでしょう。それだけの息とそれだけの体をつくるというのは、あくまでそれを前に問うてこそ意味があるのです。そうでないとおかしくなってきます。
鋭く前に投げてやらないと、お客さんも理解せず作品も空回りでおわってしまうでしょう。空回りは繰り返してもオンしません。体を鍛えるのであったら走っているか、息だけ吐いていた方がよいでしょう。音楽的な感性までだらだらさせてしまうのはよくありません。
歌に接するということは、発声一つからの真剣勝負ですから、その瞬間に絶対にすきがなくて、完全にコントロールする状態でやらないとなりません。特に中級、上級ではトレーニングがうまくのっていかなくなってきます。ただ声をだしていればよいわけではありません。「ドミソドソミド」と、声がでても、感覚が表現にでてきません。ことばに戻してみると一致するのに、歌になると迷いが出るのは消化不良ではなく、くせなのです。
ステージ実習なども7割方が何かしらもたもたしています。それは表現するときにやることではないと思います。声をだしたら、声はまわしてはいけないわけです。
よほど何か理由があって違うことをやろうとするとき以外は、イメージとしては声があろうがなかろうが「わかっているよ」というのなら、そこのところでその表現をださないといけません。そうしたら、リズムからも「わかっていーる」などとフレーズができるのはおかしいわけです。それは体が使えていないというよりも、それをひきだしてくるその意識の方が働いていないわけです。
だから、体ができて息ができて声ができたら歌ができるということではなくて、それだけ伝えたいものがあるところにトレーニングも、声もくっついてくるのです。たとえ息がかすれようが声が割れようが、意志による統一性により表現は前にでてくるわけです。統一されていないのは、表現でありません。☆
つまり後になって統一性がでないものというのは、私は最初から方向として間違っていると思います。それを問う場としてここにくるから練習の場でよいのですが、練習の場として自分でわかるためにはそのことを自分でフィードバックしないといけません。
プロがやった同じ高さのところで同じ長さのフレーズをやろうとしたら当然無理がきます。それは一フレーズめから無理がくるでしょう。そうしたら、自分で長さとかキーをもっともうまく設定しないとよくないです。一つできて、先に問うてこそ、歌も次に進めるし、そこを問うには先もみえていないといけません。
だから自分や自分の表現がわかっていないときに、それをつきつめることこそ、ここでやるべきことのはずです。一フレーズもわからないのに、歌がうまくなりたいと他のところへ習いにいったり、ライブやオーディションを受けたりして、その結果、認められないのはあたりまえでしょう。基本のないところに何をやっても混乱してしまうだけです。誰かにいわれるようにしか判断もできないのですから、伸びようがありません。だからこそ、ここで、判断力をつけなさい。
実際、人前に立ったときにどういうことをやれるのかという意識が必要です。それは入ったところで働くべき意識です。慣れていない人には、とても難しいのかもしれません。
入ったばかりの頃は、そのへんが違和感として働いていたはずです。ここでは、グループも人前でやるのと同じ刺激があるはずですから、それが自分のなかにクローズしてしまうのは、おかしいのです。トレーニングですから、内輪でよいのですが、だからこそ意識は、外に問うていなくてはいけないのです。
よく観客に一般の人を入れたら、刺激されるなどという人がいますが、同じ人間なのですから、内も外もありません。そんなことで左右されるレベルでは何も生まれません。ライブハウスでも一般の人といっても、結局、内輪の見知りか店の客でしょう。そもそも、仲間で群れているところに、表現も批判性も存在しません。その大半は、作品を聞くのでなく、人を見にきているのですから。
研究所内は同人誌でよいのです。習作の場ですから。しかし外に出たら、この日本ではさしさわりのないおべっかしかこない、誰も本音でいってくれないし見てくれないからです。
だからこそ、ここは厳しい場としてあらねばならないのです。認めるところは大いに認めても、それをしっかりと判断することです。世界やアートでつながっている意識をもてば厳しくなるのは、あたりまえで内輪だから応援してやればよいという人もいます。しかし応援とは、誰も見れないこと、ましてこれから伸びたい人に対してはいいたくないことをいってやることでしょう。
だから、ここを出た人は、好きにやっていけばよいのです。どう場や時間を生かすかはその人の才能です。そうではない人がアートとか表現を他人ごとのように語るから困るのです。そういう人は、自分の世界で自己満足で作品をつくっていればよいのです。それも最高の贅沢の一つでしょう。
人前では、やらない低いテンションで、練習のなかでもやらないことです。人前に出たときには神経の張り方が違ってきます。そういう状態でやらなければ練習になっているように当人が思っているだけで、練習になっていないというのは本当のところだと思います。その意識は常に入っているべきなのです。
この前も個人のときにも2、3人注意したのです。体が動いていれば声が出ていると思っていたからです。体の状態を整える・ために動かすのはよいけれど、実際のときにそうやることはないわけです。歌と向いあったときの状態というのは、その前までに終わっていないといけません。
あとはそれをやり終わったあとに考えます。肩に力が入っていたと反省するのはよいのですが、やるというときにそんなことを気にしていてもどうしようもないわけです。だから逆に悪いくせになってしまうのです。
今だにステージ実習とかライブ実習とか胸に手をあてたり、へんな動きでリズムをとったりしている。これもあるレベルのところまで許されるというものではありません。最初からそれをやること自体がトレーニングのためのトレーニングで終わってしまいがちの人なのです。前はまだ時間をみていたのですが、やはり自ら気づかない限り、他人がいっても直りません。
結局その人はトレーニングが好きなので、人前で歌うことは好きなのではないのだということになってしまうのです。伝えてはじめて、表現なのです。伝わるようにならないと本当はおかしいのです。
1、2年、歌が歌えなくなるとか、一時、へたになるということはわかるのです。速う声を使う、違う感覚で歌おうとする、そのことに体が特化されていないから無理なことだからです。うまく歌おうとしたら前の状態に戻ってしまうのです。
だから、トレーニングがしっかりとなされていたら、今度は少なくともどこか違うというところがでないといけません。歌はくずれ、体ばかり声ばかりで粗っぽいとしても、でも素人ではない、何かものになりそうだというところが、どこか1ヶ所ぐらいはないとおかしいでしょう。
それがまったくでていないというのは、これはだせないのではなくて当人がだそうと思っていないからです。ある意味では甘いのです。
トレーニングに対して甘いのです。トレーニングやっているからもう2年待ってくれというのなら、それは2年でも4年でも5年でも待ちます。しかしまってそれがものになるとしたら、そのなかの1ヶ所にでも片鱗がでていないとおかしいはずです。
そうでないとやればやるほど素人よりへたになっていくということです。そうしたらそれはトレーニングではなくて間違いということです。間違ったトレーニング、間違ったフォームで覚えていっているということになるから、それは早く正していくべきなのです。
こういうフレーズ一つに関しても、表現というのを考えてギリギリでやっていくことです。ギリギリでやった結果できないのはよいのです。一つになってやっても、もたなかったとか、音が狂ってしまったなどというのなら、1回やり終わったあとに課題がいくつも明らかにわかります。
しかし、多くの人はやってもどこが問題で、何ができていて何ができないのかを問わずに終わってしまいます、また次のトレーニングに入っても同じことで終わってしまうのです。
そうではないわけです。1回やってよくないところに気づいたら次のときに修正するようにしていくのがトレーニングです。
できたら1回ごとに修正できればよいのですが、そう、うまくはいきません。しかし少なくとも今日が終わったら、次のときに対して修正を加えることを知るために反省することです。やってもフィードバックしないと意味がないのです。
思い切りできるというのはここの一番のメリットです。トレーニングは実際のステージより思い切りやらないといけないはずです。失敗してもよいわけです。ステージというのは思い切りもやらないといけなくともはずせないところというのがありまです。思い切りやって、はずれないのが、プロの条件の一つでしょう。
だから、私は完成した作品を求めません。というより、その人がまとめてしまっている歌には、興味がもてません。それを世界のレベルで問えるなら別です。そうなっていく人は必ず器の大きさ、わけのわからないインパクトの強さを残してくれるものです。わかりすぎる作品にはその人の未来、先がないのです。なのに多くの人がそれをめざすのは、なぜでしょう。
ーー
「恋の季節」ほか
日本の歌をやります。日本の歌の練習では歌い手のよいところだけをとるようにしましょう。共通してベースになっているところ、音として展開しているところはとって、その人の雰囲気とか、せとかを省いてください。くせの声、くせのフレーズをオリジナルの声、オリジンのフレーズに置き換えるのです。ものまね大会にならないように注意しましょう。
自分のオリジナルの声にしてオリジナルのフレーズとしてだせばカラオケのようにはならないのです。だからといって音程をはずしたり、リズムをこわしてよいということではありません。自分の体に置き換えてください。簡単にいうと世界で評価されているヴォーカリストだったら、きっとこういうふうに歌うのだろうというふうにもっていってください。
「こいは わたしのこいは そらをそめて もえたよ しぬまで」
特に日本語の場合というのは声はでていても、最初の「こいは」の「こい」のところがしっかりととまらないと、あとでのどにひっかかります。
それから4つフレーズがあっても、4つの壁を同じように押しているのではよくないです。短い時間に構成するのは難しいのですが、少なくとも言葉をより生かすようにもっていかないとよくないです。4つを使い分けるまでとはいかなくとも、少なくともその1つ目のフレーズに対して2つ目は何して3つ目は何でと考えていくごとです。最後にフレーズは「しぬまで」に入るわけだから、最後がテンションが高くピークにもっていかないとよくないです。ほとんどの人は2フレーズ目ぐらいでそこからのぼりきれなくなってしまいます。
体の力も確かにいるのですが、そこは調整や計算も使ってやれるところまで出していくことです。本当でいうと2フレーズやり終わって体でもっていけなくても、そこでもう一度入れ替えて、新しい体で2フレーズできればもつのです。4フレーズをのっぺりとやるときつくなると思います。
ー
「ちぎれた あいの おもいでさえも」
「それでも たまに さみしくなったら」
「よびもどすことができるなら きみはなにをおしむだろう」
「このあいをささげる ローラ」
要は何が足らないかを比べてください。3分間も歌うのではなく、1フレーズの方が簡単なはずです。何で彼らのは作品になっているのかというのは、声量や声ではないでしょう。感覚の部分です。それを克服しないと声も出ないと思うのです。声のことや息のことを中心に、トレーニングの時期はトレーニングのことに専念するのはよいのです。
しかし、出口は表現なのですから、どこかで表現しないといけないというより、毎日、表現しないとトレーニングの課題というのは、明確になっていかないわけです。何が違うかというと、覇気や切れのよさ、そしてメリハリです。それは最初の1音1フレーズからです。声がでるとかでないではないのです。意識のもっていき方が並みの人にはできないからこういう人たちはプロとして、名前がでているのです。
皆さんは、声がないとか、体が弱いとか、息が吐けていない、だから歌えないと思っているでしょう。そんなことでいったら何年やっても同じです。
たった1フレーズでもここにくると難しくなってくるでしょう。難しさがわかるからアプローチできるのです。目的がはっきりしてくるほど、そんなに難しいことではなくなるのです。はっきりさせないまま余計に考え、余計なことをやろうとするから難しくなってしまうわけです。
バッターボックスに入って、打つのに迷うためにトレーニングをやっているわけではないわけです。毎日のトレーニングで成果をだすということは、やるときにばっとだせるということです。迷いを切って表現したところで正されるようにできなかったら何のためのトレーニングかということです。それならカラオケで毎日歌ってなれて、独りよがりに自信をつけていった方がよいわけです。人によってはある時期、自信がくずれたり、声がわからなくなるような時期もあるでしょう。しかしトータルでひっばっていかないといけません。
J-POPを課題として私のレッスンで取り上げないのは、彼らの才能が音や声にあるのではないからです。声そのものに関してはノウハウがあるわけではなく、世界に通用しているわけではないし、同じ日本人ならできるレベルのことでしかやっていないだからタレント性で通じている分が多いからです。
世界の歌と同じレベルのことをやっていながら、そういうフレーズを練習しながら、日本の10代の歌い手と同じことをやっても彼らよりできないとしたら、器用なだけでしょう。
だからそれは何か間違っていると思えばよいです。シンプルにできないのは、何か間違っているのです。そこが何であるかを勉強するのかということです。
演歌でも私は評価していないのではありません。うまいうまくないというのと、認める認めないのは別なのです。そういうこというと、皆さんも評価したくないわけです。
ただ、世界をみると、むこうの人たちの方が音で捉えているといえます。日本は日本でよいのですが、音を感覚のレベルで声を捉えていった方が力のつくのです。
たとえ器用さであれ、そういうことで確かに選ばれた人たちは、それなりにうまいことでもわかります。だからこそ、そうでない人はベースを勉強しないと追いつけません。カラオケで歌っている人は基本よりもその先から勉強しているわけです。心とか表現とか人に伝えるとはどういうことかが歌の原点でしょう。ただ、基本がすぼとぬけているのです。機械的にコンピュター的にやっていくなら声がでればでるほど歌はへたになっていき、伝わるものがなくなってきてしまいます。声が伝わるだけというなら方向の間違いです。
それは世代とも関係あると思うのです。当時の人たちは、心とか言葉や音での表現を徹底して学ばされています。声量できかせようということがありました。それに比べて皆さんの場合はそういう耳で歌を聞いできていないし、歌の役割も変わりました。
でもだしていけないことは、ばっと聞いてみたらわかるべきです。くせをつけるのであまり今の日本のものに合わせないことでしょう。テンポも早すぎます。リピートには耐えられません。
日本語を自分たちが音で表現できないのであれば、こういう外国のものを勉強してみるのも一つの手です。オリジナルな声、オリジナルのフレーズに置き換えて、自分で歌っていき、そのまままねしていたらだんだんと変になっていくと思います。
特にこういう個性やあくの強い人たちの歌は、ホントにしっかりとやらないと舞台というより、歌としてまとまらないと思います。皆さんの3分間はただの3分間になっているでしょう。こういう人たちは3分ではなく、最初の5秒で違う空間、違う世界をもってくるわけです。その差を少々くさくなってもよいから、徹底して追求していけばよいでしょう。
結局しまりがないわけです。こうやりたいというのはわかるのですが、本当にその人はそんなことやりたいのかと思ってしまいます。そうではなくて、その人が凝縮してぱっとだしたものをばっと聞きたいわけです。その人の日常の姿というよりその人のイメージする世界、歌の世界を見せてもらってはじめて、歌となるのです。歌でなく歌の向こうから聞こえるものを聞きたいのです。それを心がひっぱってくるのです。日頃、表現について考えてもいないし、つくってもいないし、歌に絞り込もうともしていない人からそんなものは聞こえてきません。
そこの勉強というのは本当はここのなかでやることではありません。ここは声で自分の出したいものをそれを使って表現する習作の場です。本当は同時にできていかないといけないと思うのです。
トレーニングをして鈍感にならないようにしてください。いろんなものを聞いて、一時一つひとつにこだわるのはしかたないでしょう。この人の声は胸がでているとか、息が使えているとか、声と息とが一致しているとか聞き分けることも大切です。しかし結局、そんなのはどうでもよいわけです。そんなことはよりすぐれようとするために、何か条件が欠けていると気づいたときに、それを支える一つのベースの条件があるから次にそれを重ねなさいということです。両方できていないのなら何にもないということがわかればよいわけです。
長くいるだけで、基本と自分のことを飛び越えて、表現したつもりになっている人は、今の力でさらに全力でやるしかないのです。思い切り自信もって絞った方がよいでしょう。そうではないための体をつくっていく日々が多くなりつつあるわけだから、それをうまく組み込んでいかないと難しいと思います。
いろいろとやってみてください。1年前、2年前、ここに入る前に思っていたのと、日本人の声の評価とか歌の評価も違ってきていると思います。
ただ、声を抜きにして通じる人は通じるところもあります。だからトレーニングできていないとか、声がでないから歌えないのではないということも覚えておいてください。そんなことをまったくやらないでも歌っている人は、いっぱいいます。そこで逃げになってしまうと思います。歌ったときに欠けていることを補うのがトレーニングです。
ーー
「赤とんぼ」
学び方に使えるようなものを紹介しながら、エッセンスだけでやっていきます。もう一度、体と呼吸を徹底にしてやることです。体のなかの呼吸を取り出し、リズムを取り出さないといけないということで原点に戻るということです。それから音そのものに関してのことです。音の感覚、感性に触れたいと思います。さらにリズムと感覚、音の感覚の次に音楽の感覚が大切です。CDで聞きましょう。ここまでが楽器の世界ですが、歌はことばがつきます。
体をほぐす意味も含めて歌から入ります。「赤とんぼ」の歌です。
一緒に歌うところから声を出していきます。いくつかのパターンで赤とんぼを入れていくので、歌いながら感じてください。
「赤とんぼ100%」というCDに赤とんぼのばかり入っています。[管弦楽団 ソプラノ フルート エレクトーン ヴォーカル 尺八 ヴォーカル ジャズ 合唱団 オーケストラ]
自分が好きなリズム、自分の好きな編曲をして短めにやってください。
ヴォーカリストの学び方というのは、声に音の学び方も含めて設定すべきです。
この特別講座というのは、それの一つの集約されている形で、そこから学びます。
学べる人は、これを何回も聞いていたら学べます。自分がどう歌いたいかということが基本とともに、本当にトレーニングが身についていたら、その人がどうやっても自分の表現になってくるのです。それを自分でやればよいわけです。そこにどこで気づくかです。
いろんな段階であっても、表現ということを考えることです。歌が最終的に表現である限り、それが、自分のなかに過剰にならないと外に出てこないのです。出てきたらそのなかでどうすればよいかというこっかりと考えればよいのです。
今日の講座は、最初に「赤とんぼ」を歌って、1時間半あとにもう1回歌ったときにどこまで変かるかなのです。変えられるかというよりは変わるかということです。その繰り返しを毎日365日しっかりとできる人は学べるわけです。
このことを何回も繰り返し学べるとしたら、アーティストたる資格があるということです。来ている人たちにそれだけの価値があるということです。
このなかの5、6人ピックアップした人のなかでずっとまわしていたら、彼らのなかでは学んだことを表現して、1時間で相当、変わってくると思います。しかし、全員では、音を入れているだけでは、時間が終わってしまいます。根本的には学び方というのは、そこの差を知り、それを埋め、その先に出るためにどうするかということです。
何をするためにそれを学ぶのかということをしっかりと打ち出さなければよくないです。日本人の場合は舞台がかなり特殊な場です。だから、一層、用心すべきです。
そのテンションで生きている人も、そこでの表現を常に考えている人も少ないのですから、好みなものをやるだけで終わりかねません。自分に似たものを、あるいは全力でやるとか、いうことで判断されがちです。仮にも、人前に出るということであれば、今のも紛れもなく一つの舞台だということです。
1チャンスあれば、そこまでのことの全てを使っての勝負です。そこまでにどこまで絞り込んでいて、どこまで作品を作っているかということが、1曲聞いた中でできあがってきているかどうかでみられるのです。
そのときだけでいくら仕上げようとしても、日頃それだけのものを入れていなければ出てこないのです。
やってみたときに何が足らないのかわかればよいのでしょう。まず呼吸が足らないのです。しかし、それさえ、なかなか考えられないのです。一番みえにくいところだからです。自分でこういう感覚でやろうとか、なまじ器用にやろうとしても、それではしっかりと伝わらないでしょう。他の人がやった中でどれが表現できたのか、どれが表現できそうだったのか、どれがそのなかで多様な表現をとれていて、あるいはシンプルに伝えられたかというのを、しっかりと自分で判断していくことが、第一段階目の勉強です。
そして、次に好き嫌いをつけていけばよいでしょう。それを繰り返してください。歌を聞いて何の文句もでてこなければその人のファンをやっていた方がよいわけです。
「赤とんぼ」を課題曲から下げたのはとても難しいからです。音域も広く、ことばの感覚、音の感覚、それから日本人的な感性や、ことばのおき方にも高度なものが必要です。
ただ、そのへんも組み合わせて、いろいろとレッスンに入れていこうと思っています。
自由に表現するためには、体と心とが自由になっている状態をここでつくり出さないといけません。それはトレーニングのなかで問い続けるしかないのです。
リラックスして気持ちよく歌っていると当人は思っていても、まわりの人たちが聞いていて気持ちがよいわけではありません。その人のなかで1回集約して命を入れたものを解放して出すのです。集約もせずにそのまま吐き出す人は多いのです。それをもう一つ高いテンションで計算して出すのが難しいので、そのためのトレーニングが必要です。本当に練習のなかに取り入れてやっいくことです。
ヴォイストレーニングの学び方は一言でいうと、声ということをしっかりとやるということです。そのために体、呼吸への意識的なコントロールが大切です。
次にそれをフレーズにするということです。「ハイ」から「ラーラー」にします。
たとえば、あるフレーズで問題ができてきたら、それは、そのフレーズの根本にある基本のフレーズや声ができていないのです。
基本のフレーズに問題があるのは、声ができていないということです。ある高さの音がうまく出ないのも音の問題ではなく、その音よりも3つくらい低いところの音の扱い方の問題です。発音ができないのも、その発音より、もっと簡単な発音が極まっていないからです。結局そこを煮詰めない限り応用のところでいくら解決しようとしても無理なのです。
そこに戻る努力をするか、しないかということです。戻るのはとてもめんどくさいものです。頭も神経も使わないといけないのです。大半の人は何となく量だけをやっていることで満足してしまいます。がんばるだけではよくないなのです。そこに何を入れて何を出していくか、どう与えるかまでやらないとよくないです。そこをとにかく煮詰めていくのです。
音楽の神もまた細部に宿るのです。そんな形に応用してでいろいろとやってみましょう。
ーー
「乾杯」
声は実際に大して出ていないのですが、何かがとんできますね。
(「しずむ夕日を いくつかぞえたろう
(シシラシレレー レレミファ♯ファ♯ファ♯ーファ♯ファ♯ファ♯ファ♯)」)
この次のフレーズは、難しいところです。
どう歌えといえないところなので、その人の個性で出すしかないのです。
(「乾杯 今 君は人生の
(ファ♯ソラーシラファ♯ミレ ソレソシレ)」)
こういうところは音楽が止まっているところなので動かし方を変えていかないといけません。長渕さんは「乾杯~」のところで少しやわらかくして、時間を止めています。
前後を歌っているときに決まってくる間で、「いま」というのが支点でしょう。「の」が乱れていますが、それなら、切ってしまった方がよいですね。
この次のフレーズも「人生の」と「大きな」という線があります。
どの山を一番、高くするのか、音量を大きくするということではなく、イメージのもち方です。
だから歌い方は何通りも出てきます。
「「乾杯 今 君は人生の 大きな大きな舞台に立ち
(ファ♯ソラーシラ ファ♯ミレソレソレ シレミファ♯ファ♯ファ♯ファ♯ソ ファ♯ミレミド♯ラ)」)
あまり、「舞台に立ち」の方に強めにもってくると難しくなってくるかもしれません。
「大きな大きな」をどうおくかの問題でしょうが、こういう歌になると小説のようなもので、徹底して自分で意味を入れていった方がよいです。
繰り返しが同じ歌詞であれば同じように歌わない、というのはルールです。
なぜ二回も繰り返すのか、その気持ちをくみ取って歌うことです。
ーーー