ステージ実習コメント 994
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【ステージ実習①】
【ステージ実習③】
【ステージ実習④】
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【ステージ実習①】
何かをやっていける人というのは、一番中心の部分、本質が常にみえてなくてはいけません。それが一番大きいことです。体と声のことより、感覚の問題です。
そこで、ここでは、本質的な問題を自分で考えられるようにしています。
声や体ができたからといって歌えるわけではないのです。ここのなかでも、考え方の違いがあると思いますが、要は自分です。ここで自分の力のすべてを伝えきれたという人は、年に一人くらいでしょう。
あとは、伝えた気になる人が初心者レベルで何人かいます。
それは、まったく自分と他人との関わりがみえていないのです。
“本物”というのは、その間にしかないのに、人間は愚かにも人や作品にそれを求めたがるのです。
大切なのは、本質をきちんと見ることと、ものの考え方です。これができていたら価値というものがわかります。
好きでも嫌いでも、やっている人だけがやっていける世界です。その違いをどこかでわかればよいと思います。
価値というのはすべての人たちに通じさせようとするものでもないのです。
10代くらいの人で、私が話していることがわからないとしたら、それは体験として入っていないからです。でもわからないことがあるということがわかればよいでしょう。少しの差にみえることがいかに大きな差なのかは、その世界や作品への異敬、尊敬なしには、わからないのです。
年輩になるにつれ、まわりから要請される役割というものがでてきます。うまくやることと、力をつかうことと、伝えることというのはまったく違います。
そのときそのときの本質をとって、みつめていかなければなりません。
今は歌えなくても、来年はもう少し歌えるかもしれない。そのことに対して、努力するのです。
形から入ると、こういうことが難しくなります。歌や舞台というものは、一つの形です。
その形のなかでの不自由を経験しないと何が価値なのかどうかわからないのです。
だからここが、不自由なのは構わないのです。
ここでは、受けよう、目立とうとしなくてもよいのです。バツの悪い思いをしながらも自分の思いを捨てないで表現していけばよいのです。
どこかから借りてきた表現というのは、つまらないものです。
上のクラスになるとそれは、許されないものになってくるでしょう。
ここにあわせて表現してくれとはいっていません。ここを超えたところで表現してもらいたいのです。ここの客のことも考えなくてよいでしょう。
ただ、すぐれているものとすぐれていないものがあり、見かけだけのものと人のなかで受け継がれているものがあります。それを見抜くのに必要なシチュエーションです。
すぐれたものなら、ここを動かすはずです。いや、すぐれたものだけが動く場として、ここはありたいのです。
その差を知って、まずは、ここで通用することをめざして欲しいです。
自分は何か、などと漠然と考えてみてもしかたないのです。
自分は何ができるかなのです。
そのために土俵をフェアなところにもつというのが大切なことです。
そして自らをもって、ここの基準を正していくことです。
オリジナルの力をみるのに一番簡単なのは、同じものをやるということです。
そこで、違うことがどのようにできるかということです。
課題曲などのオーソドックスなものは、個々に応用がきくので本来なら心を打つものができるはずです。しかし、だいたいは逆です。どんどん自分がみえなくなって、カタチだけの歌を歌ってしまいます。
アーティストというのは、新しいものをつくることで、古いものを壊すのです。
自分の主張があったら、まわりのものは許せなくなるわけです。
自分の世界があったら、まわりと協調できるはずがないでしょう。
これは日本人の体質に反するので、そう思えない人はそれでよいですが、批判性(自分で自分をみる目)が失われては何も成立しません。
ここで受ける舞台と自分がやりたいことが一致する必要はないのです。
外でもこれはいえるでしょう。
日本の客は内輪ですから、そこで通じても時空の枠を超えられないのです。
同じ場所で育ち、同じ考えをもっていれば、歌わなくとも共感を呼ぶのはあたりまえです。
それはプロの技能とは別のことです。
誰にでも伝わるものというのは単純だと思います。
オリジナルの形が煮詰まっていたら、そこに土俵はできてくるのです。
舞台というのは訴えるところで、すぐに消えてしまうものですが、そこで消えないものをみつめることです。
そこで誰かが残したいと思うものがでたかどうかということです。
客がわからないところまで、がんばらなければいけないのです。
勉強すると、一時、頭でっかちになってしまい、うまく演奏できなくなることもあります。
しかし、勉強するのはもっと伝えるためです。
ヴォイストレーニングは、人の心を動かすために、声をきちんと外に取りだそうとすることがねらいです。
そこでコミュニケーションなどから考えていると、自分のための歌でなくなってきます。
ステージをなめて終わったということになりかねません。
私が見ているのは、歌い手の思いであって、技能などのカタチではありません。
思いがあっても、表出できないというのは、たまって出るのを待てばいいのです。
声楽家というのは、まだ形のなかで判断できる世界にいます。
しかし、熱い情熱や強い思いのないものは伝わりません。
ポップスというのは、いろいろな歌い方があり、それが個性です。
そこでは嫌いだけれど認めなければいけないというのが、たくさん出てきます。それが芸のもつすごさなのです。
ここでは群れるな、といっていますが、どうせなら一流の人と群れて欲しいからです。アートの世界では平等などありません。スポーツのヒーローや横綱も自分と同じレベルに引き下げてしまったら、一生、自分の決めた枠から出られません。その生き方や、生活の真実ということと、出されたものというのはまったく違います。
ステージに対して私が望んでいるのは、フェアということ、同じ土俵に立ち、そのなかで違いを出すことです。
今、自分の世界がなくても、こういった世界に対する興味があって、それに対して5年や10年たったら世界ができていくんだろうと思わせるカがある人はいずれそうなっていきます。
声を鍛えることが目的でも、本質的なところの感覚が狂ってしまっては、伸びません。
アテンダンスシートなどでも、それが頭のなかの論理の展開で終わってしまっていると、ステージにまで頭を出します。それはステージの形からつけていくようなもので、最初に学ぶべきものではないのです。
劇場の非常性を格とまでにするためには、よいものを引きおろさないことです。
そこに生かさなければならないのは、自分です。
人間味などを加えて、働きかけ、理解されようとするまえに、自分の体や、本当の感覚をしっかりと呼び起こすことです。そこからはなれてしまっては退屈なものしか出てきません。
声楽家のように、ある意味で人間の本質をみている人には、ポップスは退屈なものであるかもしれません。それは何万に一つ、残されたものと、同時代に海千山千で出てくるものを比べるからです。
しかし、私たちは今も生きているのです。
残されたものを新たに生かしているものと、後に残されるために生まれているものは、どちらがよいとはいえません。両方が大切なのに、世の中にはどちらでもないものばかりです。
真実は、事実とは違います。虚構のなかのリアリティを出すことと、その人そのものが素直に出ることの魅力とは違います。カラオケはその人の人柄が出ます。しかし、それだけの世界です。人前にさらされたとき、そこでどれだけ魅せられるかというのが芸の世界です。それで自分のことを知っていなければ借りものになってしまいます。
なりきって、そして、その感覚をとり出すことです。他の人間にはなれないし、なる必要もないのです。技術というのは内面が磨かれているか、本質が見えている人についてきます。
「ブレスヴォイストレーニングとは何ですか」という問いには、あたりまえのことを捉えた人がやっていることがトレーニングになっているということです。
自分の価値は何かということを考えていないと、抜け出せなくなってしまうのが、ポップスの難しいところかもしれません。先を生きることです。
そのときそのときのことを考える人は、通用するものだけを見ていけばよいと思います。自分で学んでいくときには、それも踏まえておかないといけません。
特別ライブ実習のなかでも、これは残さなければいけないと思わせるものがあります。
これは、単に不快にさせないものとは別のものです。
客が欲しているアーティストというのは、皆さんが望むアーティスト像と違うかもしれません。
それは日本でおかしくなっているのと同じように、ここでもおかしくなっていることは踏まえていないといけません。それは、その人が出した作品で判断するしかないのです。
ことばというのはレトリックです。一番、間違っているのはそれが正論、正義になっている場合です。そのことに気づかない人は一生気づかないでしょう。それぞれ発言している人は正しいと思っている。でも、その前に本質を考えなければいけないわけです。
文章が書ける人というのは、前提なしに出発してしまっている。
自分のいいたいことが伝わるんだということで勝負している。
書いても読んでもらわなくては伝わりません。
だからといって、中のことを疑うことがなくなるのでは、こまります。
ここや自分に歌があることから、疑ってみることです。
それらを全部、無条件に擁護した上で、歌うからわからなくなってしまうのです。
あげくのはて、ここと勝負するというような勘違いをやり出すのでしょう。
これではよくないのです。
どこまで白紙に戻せるかということが、とても難しいことです。
頭でっかちな人が増えています。
善意などもその一つでしょう。これは、なかなか拒めません。
本質のところで自分が悪いとは思わないから困るのです。
自分が正しいと思うことなら、ここでは歌でやりなさい。音声で装現しなさいといっています。
表現というのはいろいろな種類がありますが、受け手にもいろいろな世界や価値観があります。
そのときに自分の前提から疑わないかぎり、進歩しません。
ここでは、受け手は、私も含めて、歌の途中で逃げられません。
日本の舞台も同じです。
形だけが成り立つ前提で行われています。これがいかに甘いことであり、それにあぐらをかいているのかというのがわからないから鈍るのです。
出るのはあたりまえです。
そこで何をするかなのに、出ないとか、出ることを迷ったりしている。頭の使い方が悪いのです。
表現の場を与えてられていて、表現することはよいけれども、聞いてもらう場では、前提からしてフェアではないということをよく考えてください。
そこでお金を払ってまでも聞きたい何かをアーティストが出すことで、解決するから、この前提はしぜんと消滅します。
つまり、練習場が、あなたの力でライブとなるのです。歌の生まれる瞬間です。
原点のところの本質を見れるか見れないかということが一番大切なことです。
それがきちんと感覚を宿していくことの条件になります。
頭でっかちになると、それができなくなります。
ここですごいことができる可能性に対し自らを見開いていかないと、ここに2年間いても変わらないでしょう。
学ぶのであれば、その原点にあるものを学んでいかなければなりません。
ここで本当に完成していたら、どこでも外で問えばよいのです。
フェアにやる、ということは、ある意味、マイクやカラオケをもってこないということです。
何のためかというと、それをやってしまうと、その人が学べないからです。
歌に入るときには、このようなプロセスや考え方をとってみてください。
自分自身のペースで、フィードバックして勉強してみてください。
次のことができないのは、前のことができていないからなのです。
でも、ずっとそこにいても仕方ないから、少し先のことをやります。
大きく試みて、しっかりと大きく失敗していくことだと思います。
そのことに負けていくようではよくないです。
勝つためにしっかりと負けておくのです。
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【ステージ実習③】
コメントというよりも、ここで私は唯一の観客として聞いて感じたことを話しているぐらいに思ってください。
ここでやることが理解されていたら、それぞれがやってくることに関しては、コメントや評価はしにくくなってきます。ある程度自由な枠のなかで考えてよいと思います。
多分あのことをいっているのだろう、このことをいっているのだろうと、そういう形で受けとめなくてもよいです。大体のことは多くの人にあてはまります。どうしても、そこからはみだしてしまう人は、個別にいわないといけないので、個別コメントをはさむこともあります。
全体的に気づいたことを順にいっています。
課題曲については、音程の問題から、叩き直してください。ほとんどの人が原曲と変えていたのですが、その試みでプラスになった人はいません。
原曲どおり歌わなくてもよいのですが、変えるには絶対的な理由があって、少なくとも聞いている人が変えたとわかるときに、違和感や不信感で悪くならないように、というのが最低限のことでしょう。
変えるのは、自分が歌いたいように変えるわけですから、その人のセンス、音楽性、考え方、すべてが出ます。そこでうまく変えたと思える人はいません。音程的にはそういう音の取り方もあるだろうと見えるのが若干、しかし、それに技術がともなっていなかったり、感情が入ってなかったりして裏目に出ています。
それからことばの読み込みの足らなさ、これはどこでもいっていますが、何となく課題でこなしているだけのことですね。そこで、つくれていないのです。もう少し、ひとことを伝えることにこだわれないのかということです。
選曲も本人とまったくあわないような歌を歌っている人もいますので、それをことばで感じるようにというのも難しいのかもしれないのですが、そのギャップを埋める力をつける必要があります。
今回の課題曲は、下のクラスが「知床旅情」で上が「誰もいない海」です。
「誰もいない海」の方が、どうみても簡単で、「知床旅「情」の方がフレーズが大きいでしょう。
つまり、「知床旅情」でできているフレーズ感の上にシンプルな曲のなかで何がでてくるのかというのを期待しているのです。
「誰もいない海」を入門科に与えてしまうと、みんなそのままで歌ってしまうだけです。何にもでてこないというのはみえているので、やりません。
そうしたら、与えた「誰もいない海」というのは、単に「誰もいない海」を歌ってしまってよいわけはないのです。音域がさほどなく、音自体の移り変わりもあまりない歌の場合は、その人の歌い方、技術がはっきりとしてきます。
「いまは」のところから「だれも」まで、ことばとフレーズだけでも、流れています。かなりの時間がそこにあるのではないでしょうか。そのまま歌うのでは、鈍すぎます。
この歌は流れがわかりやすい歌です。皆さんにも捉えられるでしょう。ところがその流れから自分の感覚でしっかりとだし、作っている人はほとんどいません。
たとえば「約束をしたから」をどういってそのあとにどういうふうにつなげていくのか。
声の重ね方、息の重ね方、構成といろんなものがありますが、頭の計算で声で歌のよさの邪魔をしているような感じがします。
課題ですから、いろんなこなし方があってもよいと思うのですが、もう少し何とかなるはずです。全てに似かよった傾向がでてきているのは、よくないということです。
トレーニングというのをやっていると、曲の捉え方にある傾向ができてきます。
それがくずせなくなると意味がないので、それで1回つきはなすために上っぱりの歌い方をとめているのです。
中が充実してきても、その枠自体が大きくなっていない装現活動というのは、意味がないと思うのです。
皆さんの場合は似ているというところもなく、バラバラです。それぞれの人があっち向いたり、こっち向いたり、それは、私はの嫌いなことではないのです。ただ、ちまちましすぎているようなところが気になります。八方すべてに集中しているのでなく、キョロキョロしている感じです。
もう少し大きくはみだして、あっち側にでも、こっち側にでも自分にいるべきところにいて、どっしりと歌いあげて欲しいのです。そうするとそれなりに動きはばらばらであっても、こちらが感じることがあると思います。
感じてくれればよいのであって、動きはどちらの方向にいっていてもよいのです。ある意味では個性的なのでしょうが、ただそれが芸や歌や作品になって、人に伝わるのかというところになると、無駄な動きに近いのです。深みやひきつける力がない。どうもあまりに無駄な動きが多いのです。
具体的にいうと歌のなかでの息というのは、下のクラスの人たちよりも、よく聞こえます。深い息も使っているというのもいえるのですが、その深い息を使っていながら、何でそんなに歌の流れが出てこなくて肝心なところで吐けないのかというと、体の方ではなく、志が負けているのです。
たとえば一般の人に息を吐くトレーニングしていくと長さとしては30秒や40秒吐けるようになります。ところが本当に体から深い息をコントロールして吐いていくと、いったんそんなに長くは吐けなくなります。
楽器の人より吐けなくなります。深い息を「あー」と10秒ぐらいでも、体を使います。その状態をつくれると次に体の力がついてくるわけです。
イメージと必要性が体力に支えられそこで押し切って1つの歌につなげられる力がない。息を深くし体がそこにバランスを失っているがために、何か歌としてだしたとき、あるいはことばとしてだしたときに、ちまちまというのか、私だからまだ理解できているのですが、一般の人がみたらまったく理解できない形になっていると思うのです。
それは本人の試みがはずれているのです。体は読み込まないし、息の流れも聞きません。表面にでているものしか判断してもらえません。
ここでは表面に出てこないプロセスも許されます。が、許されるのはそれが大きな深さになっていくプロセスだということで許されるのです。
見ていると息をこういうふうに吐いてここで終わりなのだという感じです。プロセスではなくそこで完成させていくような方向になっているのです。中心を深めていくための周辺の部分の強化トレーニングになっていないのです。
表現や歌が消え、何となく人間力を感じないということが、最近の傾向です。
とても不満です。このクラスに関してはパステルカラーみたいな感じで、もう少し原色とかあるいは濃さでもよどみでもよいのですが、強さが欲しいのです。それぞれが考えてそれぞれの世界はつくっているようでも、やはり上っ面のきれいごとで終わっている感じがするのです。
もしかすると自分のライブとかでやるときには、色はでているのかもしれませんが、どうもそのよいところが取り出されないで、まわりのカラーの彩度、薄さというか明るさとか、そのへんに合わさってしまっている、巻き込まれているのです。
うまいかへたかわからないというのはありがたいことなのです。それは私に問いを投げかけているわけですから。それこそが人を引き込む要素です。
たとえば本当にうまいかへたかわからないというのは、なまじ上手な人よりもよほど人をひきこむわけです。トレーニングの段階としてはそれでよいことなのです。
しかし1人どうしても理解できない人をのぞいたら大体理解しやすすぎるところも気になります。もっと理解できないとか、評価できないという形で表現されるものであってもよいと思うのです。
いろいろな表現はありますが、なるべく私も思いこみをなくして、感じるかどうかというだけを単純にみようとしています。ただ他の人がみるよりは長くたくさんの人のここでできたこと、それからどうなっていくのかというのをみているからややこしいコメントをするのです。
器が小さくても小さいなりにそれに一体感をもってギリギリで伝えていたら相当なものが伝わるのです。その方向性と位置がびたっとしていないというのが、ちまちましている感じになるのでしょうか。その人の色も心臓の音もみんながレッスンをやっているときの方がみえています。ステージでそれを裏切るのはよくありません。
音楽の形とか、枠組みはいろいろと変えても構わないのです。音を変えるとか、編曲をするということではなく、同じ与えられた課題のなかでやることです。
それから安定性を求めるよりもギリギリのところで冒険してください。安定して、「こういう歌か」と思わせず、なるだけ理解されないままでも最後までひきつけてください。そのためにはいろんな工夫よりも、生理的なところでもっと解放しないといけないと思います。全部を歌い尽くせばよい、歌いこなせばよいと考えるよりも、冒険を試みて、何を伝えるかというのをもっと絞り込んでください。
60分、目一杯歌えるプロでも、何で一曲3分間ほどの歌でしか歌わないのかというと、やはり集中させて一番よいところだけをだすのは3分間ぐらいで精一杯だからです。最小で最大の効果を出すためです。そのなかでも1分間の1コーラス本当に4フレーズ10秒の間でやるわけですから、100メートル走と同じです。しかし、そのなかでもペースや配分はあるのです。
歌のなかで最低限失ってはいけないところを先に決めておいて、そこだけはきちんと勝負していくようにしてください。全部、相対的にならされてしまうと色としてはうすくなります。日本人の感覚で丸くおさめていこうとしますが、キレが必要です。判断としては鋭さ、キレ、インパクトを失わないで欲しいものです。これがだせるためにトレーニングをやっているのです。やわらかくしていくなら口先でやっていればよいのです。しかし、表現も引っ込んでいきます。それで何が残りますか。
音の問題でいうと心地よい方にずらすのではなくて、不快な方にずらしているのでは最悪です。元の曲は曲としてしっかりとできているので、それを活かすことです。
つめとキレとか歯切れみたいなものは、歌に流れをつくっていくほど、気をつけないと失いがちです。
すると歌に流されて足元をすくわれていくようになっていきます。
声が流れていく、息が流れていくというのも同じです。ややもすると流されてしまって何も伝えなくなるのです。
常に考えて欲しいのはピークのところです。フレーズのピークでも、感情のピークでもよいから、そこに向けてつめていくことです。そこにどうやってつめて盛り上げていくのかということと、それが終わったあとにどういう形でおさめるかというのが歌の構成です。
そのへんがトレーニングの方向とそれていませんか。
まったくわけて考えても構わないのですが、トレーニングはトレーニングとして、歌のなかでどこかで一致していくようにしていくべきでしょう。
実際のライブの感覚のなかでは、練習と変わってくるとは思います。しかし、練習のときから退屈なことはしないようにしましょう。
ここに立ったときに、ここの空気に飲まれてしまったとか、空気をうちやぶれなかった、動かされて終わってしまったとかいうのは、慣れない舞台ではしかたのないことです。ましてやここでは最初歯、1人で全てやることです。歌い手の場合は、誰も動かしてくれないから、自分で流れをつくってその上に乗らないといけません。乗りそこねたときは誰も流れをつくらないので失敗しがちなのですが、それでは困ります。
何となく練習のなかでも、そこまで集中力が煮詰まっていないような感じがするのです。伝わらないなら短くする。ここで長くやればよいのではなく、しっかりとそのなかで外に対して伝わるのか、人に対してどこが伝わるのかを問うことです。
こういうトレーニングの目的は、器をより大きくすることです。
あとでより大きな器のなかでやりたいことをやっていけるようにしていくことです。
普通に歌うのなら誰でも歌えるわけですから。
トレーニング中でを中途半端な状態で表現したときに欠けている要素がでてきます。それをここでは補いたいのです。そうでないといつも4フレーズやっているだけのただのトレーニングでしょう。それを50フレーズぐらいにやってそれで歌だということで終わってしまいます。
その4フレーズが10個あるとしたら、その10個を単に並べるだけでは歌にはならないのです。そこに何かを補うのです。そのうちのどれかの4フレーズを完全にしておいて、後のフレーズそのための補助にしていくことです。全部をいおうとしたら全部伝わらなくなるのです。こういう歌の場合は、特にそうです。
こういう場では、時間や空間を変えないといけないし、とめないといけないのです。とめられる人は中には一人二人いるのですが、まだ、それまでに流れている空気に流されているような感じがします。まったく違う空気を自分の体のなかから出すくらいの感覚で、ちょうどよいのです。
歌も曲としての構成に負けているような感じがします。部分的にここは伝わるようにやってきたというのは、何となくわかったのですが、トータルで1曲になるとどこが伝わったのかというのは難しいです。
自由曲に関してはあいかわらずです。
率直にいうと、他の人の歌のままという感じです。確かに他人の歌なのですが、それを自分の歌としてもってきていないのです。
自分でつくった歌を歌っている人も、自分の歌以外の何でもないはずですが、誰かのをまねてきたかのように、自分のではないように感じるのです。
歌の時点では処理できていることも、表現というレベルに入るとものたりないし、流されているような感じがします。一所懸命やっている人もいたし、それはわかるのですが、そこからでてくるプラスアルファの音楽的な部分がなければ人形が歌っているみたいになります。自分をだすところ、自分がでてしまうところが必要なのです。
役者とか声優はなりきってしまえばよいでしょう。刑事なら刑事そのものになればよいのです。ただしっかりとした役者で長持ちしている人は、自分を消して演じてみてもその人のものがでてくるわけです。
一番違うところはそこです。それがその人ならではの魅力です。
ヴォーカリストの場合、その人のものがでてこないと、何の意味もなくなってしまうのです。
BV座と比べるわけでもないけれど、熱とか息吹とかが足りません。
もっと命とかハートとか、どういうことばでいえばよいのかわからないのですが、それをここにもちこんで一気に勢いをつけることです。
ここに立ってみんながシーンと聞いているところで、しかもアカペラでやるのは難しいのですが、
観客にそまっている気がするのです。バンドもいないし、誰もあおってくれない。なら、自分で熱いものを煮えたぎっているものをださないとライブにならないのに、それがありますか。
気をつけて欲しいのは、まわりに同調しないで欲しいということです。いつものトレーニングも、この場においても、全体としてのタッチで、どう感じたかということを私はいいますが、基本的にはいつも1対1です。
自分の歌だけ1フレーズでやっていることを3分間でやってもらったらよいということです。
今までの雰囲気がどうであろうが、このあとで歌う人がどうなろうが、まず自分だけ目立てばよいし、表現しきればよいのです。
だから自分の呼吸でやってください。人の呼吸を破らないと自分を出せないでしょう。その1つの原因は、歌曲に関しては徹底して読み込んでいない、あるいは歌い込んでいないということでしょう。
自由曲に関しては解釈や創造もしていないままのコピーです。
共通して、体力も含め、粘りに欠けているのです。粘りというのは、ある意味では責任感を貫くことです。勢いよく出すのも、わっと引きつけるのにはよいのですが、それをその曲の終わりまで貫かないと責任やサービス精神がないということです。粘りがないのです。
全部の曲をそういう処理をすればよいということではないのですが、そこでの余裕が欲しいものです。
日本の歌での感覚はどうしても頭打ちでやっていきますから、頭をしっかりいって、全部投げ捨てていくみたいな感じになります。フレーズの粘りというのはそもそもあまりないのですが、リズム、音感、音色とかいろんなものが入っているのですから、一つひとつしっかりと責任をもってつないでいくと表現力もつくはずです。
技術や体力の問題というよりも意志の問題です。伸ばした方がよいというと、今度はだらだらと伸びるようになってしまうので困るのです。聞いている人がこれでもう聞いてくれるというような感じの見切りや甘さ、つまり、あきらめが感じられます。
だから曲が終わった後に終わったという感じがもてないでしょう。それでは聴き応えがありません。
普通は曲のまん中のピークのところで集約して気持ちが入って、それからクールダウンしていくわけです。そういうところで、その人の気力配分みたいなものが全体的にみえないことは、共通しています。
特に気になるのがフレーズの語尾です。何か尻切れとんぼみたいになっています。マイクがあればごまかせるでしょうが、アカペラの場合はそこも問われます。だらだら伸ばせということではないです。伸ばしているともっと退屈になります。そこで気を入れて表現力として高めるようにしてください。
トレーニングをそのまま出している人がいるのですが、そこだけでまとめて歌ってしまうと歌にならないでしょう。思い切り声を出して思い切り体を使っても、それだけではよくないです。歌うということであれば、歌の部分を含めた歌を出さないとよくないです。
大きな枠で歌ってみて欠点が目立ったというようなことはプロセスとしては許されるのですが、必ず歌の部分、伝えないといけないようなこと、歌の心のこと、ことばの処理のことにもっていくことです。
それを全部忘れてしまってよいということではありません。そのなかに表現とか視線とかいろんな要素も含まれてきます。そういったものでカバーもできるのです。
たとえば表情だけでも相当カバーできるのです。演出の問題ではなくて、相手に伝えるということでの接点をしっかりと当人がとっていたら、おのずとそのように行動するはずなのです。
何の歌を読んだのか、どういう内容を伝えたかというのがわからないのです。それを伝えるために何かがあるのでしょう。その接点の部分をはずしてはいけないはずです。それをお客さんがつなぐのではありません。皆さんがつながないとお客さんはってこれないです。
知名度でもあればともかく、知名度のない人がいきなり人前で歌ったときには、歌の力で働きかけていかないといけません。そうしてはじめてお客さんの方からつないでくれます。そこの感覚には敏感になってください。
練習と本番は違うのです。練習とはまったく違う声がでて、まったく違うことがおきることもあるでしょう。そうしたらそのときの感覚に応じて、何がよいのかを選びとります。そのためにいつものトレーニングがあるのです。
練習でやっていることが正しいのではなくて、そのときそのときにつないでいるということを強く意識していくことです。どちらにするかという判断が反射的に働くようにトレーニングしているのです。
その前につないでいく心、あるいは伝えていく意志がなければ、やはりうまくは動かないと思うのです。そのことだけを必死に考えていけば、いろんなことで対応できると思うのです。
最終的に表現ですから伝えることにもっていきます。伝えるようにできたら、もっと相手が動かせるようにしていく。もっと動かすためにどうすればよいかと、そういうところから歌詞とか音とかにとりくむべきでしょう。
課題曲のところで勝負できない人も、課題曲で次に興味をつながせるための最低限の努力はやってください。課題曲を聞いてみたら、自由曲はもう聞きたくなくなるなら課題曲は、ない方がよいわけです。ただ課題曲はいろんな意味でとても勉強になります。自由曲より、課題が見えやすい、第一、比較ができます。
それから一番簡単にして難しいことば、たとえば「いまは」と「ゆきすぎても」など、それぞれの人がどういうタッチとか感情で表現しているかというのをお互いに勉強しあえる場にしてください。
今日はあまり生きたことばがなかったような気がします。
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【ステージ実習④】
ステージ実習、ライブ実習は、大切なので、はずせないと思っていますが、グレードをはずした形でのイベントなどにも動き出してみようとは思っています。
声を深くして、重くしないと体が使えなくなっていきます。それを取ろうとすれば体に無理がかかりますから、動きが止まります。そこで、感覚のフレーズの大きさが伴ったところに、いろいろな音色が出てくるのです。そうではない人には音色がありません。
芸そのものを出す人と、それを伝える人(プロデューサー)の問題というのは、今後の大きな問題です。日本もプロデュース型で動いています。ステージが発展していくとそうなるのです。
そのときに核になるものと、伝えたいものを持たないと、伝わるものと必ずしも一致していかないわけです。それは一人のアーティストのなかでもいろいろと起こることです。
ここが音声で表現する場だということがなかなか成り立ちません。
わかっていても、やっているとこうも矛盾が出てくるということは、身についていないのです。
息や体というのは正確なものです。そこに戻っていくと、自分のオリジナルなものにたどりつきます。好き嫌いとか感情や情感に頼らないのは、不安定なものだからです。新しいものを出すことではなく、根本にあるものを掘り出すことです。それが新しいものなのです。
そのことに入っていけばいくほど、伝える力が強くなっていかなければ出なくなるのです。伝えるときはそのことだけを考え、他のことを考えなければよいと思います。
二つを一致させるためには、音色の力のところまでいかないといけないということです。
中途半端にやると、どちらかに偏って、ウソになってしまうのです。タレントやアイドルのヴォーカルの売りものは、ルックスです。声や歌は時間をカウントしているだけです。
一流の歌い手というのは、それが見えないような奥行きがあり、深さがあるのです。本物というのは、それを聞いた人がそれを残したいと思うでしょう。私はここで、何かを生み出す空間を正しく提供しようと努めているだけです。
新入懇のときの緊張感をもっと高めて生み出せるような空間になるとよいと思います。そこで気分で動けることがリラックスです。
合宿も同じです。三日間の一般の人にとっては極限の、プロには前提の時空間、それを邪魔するものは認めた上でおのずと自浄されていかなければいけないと思います。
表現は歌や音でやってください。その代わりにと、花やジュースをくれるような人は、本質的なことをわかっていないのです。そういう考え方がここよりも自分を成長させられないのです。悪意は何もないだけに、困ったことだと思います。そういう人は自分勝手な手紙をたくさんくれるのです。
自分を見つめ直すためにアテンダンスなどを書くようにいっているのに出すことに満足してしまうのです。書く力がある分、書く方に逃げることになっているようです。そういう人は音の世界に入れないまま、入り口のところでうろうろしているということです。
ブレスヴォイストレーニングなどというものは、あってないものであるのに、どんどん勝手に思い込んで形を決めてしまい、それに足もとをとられている人もいるようです。
何も生み出せる場にならない、誰もそのように教えていないし、それでよいともいっていないのに、かたくなに自分がこうだと思って、トレーニングにならないことをやって、それで効果の出ないのは、あたりまえです。それをトレーニング法や場のせいにするというのは、おかしなことです。
それなら一人でやればよいのに、ここに来ても正さないのは、どうしてでしょう。
いくら気づかそうとしても気づいてくれないのです。
そういう人は「どうしてそうではないと注意してくれないのか」というのですが、何も出てこないのを否定したら、きっかけさえなくなります。
日本人の好きなやり方は、師の通りにやるということです。しかし、その継承法はポップスでは、やるべきでないのです。「これがそうだ」というのが出るまで待つしかないのです。
だから、よく見てよく聞くようにというのです。
他の国で人が育つのは、普通の人でも真剣に音の世界に入って暮らしているからです。日本のライブの客はそういうところを感じていないので、MCやバンド構成、ビジュアルなどで見せなければもたなくなるのでしょう。
しかし、それも歌い手のスタンスと責任です。
自分を見つめ直して、音楽の世界にもっていくとき、フレーズというのは音楽の世界のことですから、声がなくてもできます。楽器や声の感じのイメージでも出せます。オリジナルの声と、オリジナルのフレーズのどちらが大事かとなるとオリジナルのフレーズです。
歌は音楽を宿していなくてはなりません。ここにくる人は他人の音の世界の移し替えだけでやっている人が多くて、その結果、器用なことが歌がうまいといわれてしまうのです。しかし、自分に戻っていないから、ウソが出てくるわけです。
型をとったあとに、クエスチョンがつくのです。自分にフィットしたものをつくること、つくると10のうち9はウソになります。それを全て捨てていかなければできないのです。
勉強すればするほど、借りもののフレーズが多くなってきます。オールディーズやジャズを聞いても、それをなんとなく形で落とし込んで、まねてはいけないところをとってしまうのがよくないのです。レパートリーが何曲あっても同じです。強烈な自我を主張しないと、作品はつくりもの、まがいものになります。
ヴォイストレーニングというのは、何かをつくっていくのではなく、嘘を全部、はいでいくことです。それの繰り返しです。その声を使い、ヴォーカリストは歌で創造します。
型が好きな人(日本人などはそうですが)は多いです。しかし、音自体は人種、ジャンル、時空を越えるものです。歌も同じです。だとしたら、そこで耳を磨いていくしかありません。
ヴォーカルというのは、個々に主張があるわけだから、他のヴォーカルと肩が組めることはあり得ないと思います。日本は基準が甘いので、そういうことが簡単にできてしまいます。その基準というのは、音楽やの本質でなく、その形や内輪のなかでの評判ということになります。
そのため、そこにいると正しく批判できないわけです。輪の外に出られないし、出ると今度は無視されます。そのため内輪で理解されるような表現をつくっていかなければならないという手間がいるのです。
だから、ベテランになればなるほど、学べなくなり、プロになったら自ら死んでしまうのです。周囲でも、そしてここでも、そういうことをつきはなしてが行なってしまう特別なとき以外は、学べる場にならなくなってしまうのです。
大衆に通用しなくてもよいのかというと、私はある意味では通用しなくてもよいという考えをもっています。ウソと本当ということでいうと、本当に見えているアーティストというのは、今では売るものと自分の作品を分けているような気がします。それが一致するのは幸せな人です。
日本にもつくった作物は自分では食わぬという困ったお百姓さんが増えてきました。まず、自分の作品を誰よりも愛すること、それだけのものをつくりあげることに情熱を傾けなさい。
個人的には好きであろうが、嫌いであろうが、その表現をそれぞれが煮詰めて、生を通じてそれを出していき、その本質が伝わればそれでよいと思っています。中にこもってしまうよりは外に出していく力を持つことが大切だと思います。
新しいものをまねるのがアーティストなのではありません。古いものを壊せる、皆が守りたがるものをもっとよいものがあると打ち立てられるからアーティストなのです。今、アーティストが出ないのはあたりまえのことで、30年前にできたものや、他の国のものや他人のものに、ただ安易にのっかろうとしているだけだからです。薄めたスープより濃い味噌汁を味わいなさい。そして、創りなさい。
人は小説や歌や映画をつくりますが、それらは現実でも事実でもありません。しかし、受け手がそれで感動したら、その心の動きは事実であり現実なのです。歌や芸は、その人が出したものに何かが宿っていればよいのです。それは相手との関係のなかで決まってきます。そういう形で本質を見ていかないと、どんどんらされて学べなくなっていくわけです。
歌もトレーニングもこうだなどと決めつけないことです。問われることが何かということを土俵にのせて勝負しなければどうしようもありません。一つひとつ自分でみつけた自分をひろいあげていくということは、果てしもなく遠回りな作業ですが、それをやらないと、いつまでもにせもののままです。いや、うすっぺらいままです。自分の足元を見つめて体や心で聞くということをしなければなりません。
まず、自分の心の動きという事実、現実からスタートすることです。そのとき、古いものも新しく生まれる契機が与えられます。歌は古いものも新しいものもそのままでは死んでいます。そこに息吹きをいれるのが、ヴォーカリストです。
安易に心地よいものを出そうとして、ポップスでも価値観は変わってきました。それは動き出してくるのを待つしかないものなのです。
歌をもたせるための安全策はいくつもありますが、それをとるようになると、表現性を失ってしまうと思います。
本質を見るということと、学び方がわかるということは、なかなか難しいと思います。日本の場合、思い切ってはみ出そうという試みがポップスでは行なわれませんが、そういうことを出していくことが将来性につながっていきます。それは真実こそ、形をとらなくてはわからないものだからです。音程やリズムをとりにいくというのは低次元のことです。歌を安易に歌うということも同じです。
皆さんも自分の本当の課題というのをわかっていくことが肝心だと思います。こういうと「音程やリズムができないから、そこをゆっくりとやっている」、「初心者なのだから」などといわれます。
人間を出す仕事に初心者などいるものですか。14、15才でトップになる人もでる世界です。甘えてはいけません。
魔女のホウキのように勢いが自分を振り飛ばし、おちそうなるから基本を身につけ、しがみつかなくてはコントロールできないのです。勢いなくしては何一つ成就しないのです。その勢いを忘れてはいませんか。