一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

鑑賞レポート 18699字 996

鑑賞レポート 996

 

 

【決定版これがオペラだ】

 

いろいろなオペラのハイライトシーンが出てきて、しかも内容が字幕で出ていた。私が観てみたいと思っていたのは「蝶々夫人」と「トゥーランドット」。二つとも東洋が部隊なのでその演出法、衣飾、舞台装置などにも興味がある。西洋のみた東洋。いったいどのように描くのか。よく西洋人の描く東洋人に対する偏見として「マダムバタがいわれている。(「Mバタフラフライ」「イ」という「蝶々夫人」を批判した舞台、映画がある。)

私としては、日本人の女性はまだまだか弱く可憐ではかないもののような気がするので偏見とまでいえないのでは、と思う。

オペラ、クラシックの発声はオーケストラに溶け込み、とても心地よい。前まではその声が気持ち悪いと思っていたが、その迫力、響きに最近ではすっかり気に入ってしまっている。コーラスの迫力もすごい。

アイーダ」のコーラス、バレエシーンはすばらしかった。特に私がすごいと思ったのは「トゥーランドット」のあの有名な曲を(コーヒーのCMでも使われました。)パバロッティがうたっていたことだ。迫力、大きな声、いやみんな遠く何といったらいいかわからないものがものすごく心をうった。歌という怪物が迫ってくるようだ。パバロッテフィは大したことないというようなことがいわれているようだが、私はやはりすごい人だと思う。

歌がうたえることが100%だとしたら彼は150%ぐらいの力を生み出している。いや200%くらいかもしれない。あの力は一体何なのだろう。数学や科学のように目でみえるものだったらいいのに。

あと、同じく「トゥーランドット」のラストシーンも感動した。思わず見入ってしまった。群衆を沢山使った迫力と悲劇を思わせる終幕。もっともっとみたいと思った。紹介されたオペラは全部観てみたい、少しづつ観に行こうと思う。

 

 

 

サラ・ヴォーン

 

多く楽器奏者から高い評価を受けている。これは当然彼女の音楽が評価されているということになる。声がすごいだけでは何にもならなくて、その使い方が評価される部分ということになる。まるで楽器のように声を使っているというのは、もし楽器であったらそれでやっていける音楽性と、それを実現できる声の技術が両方ともすばらしいという言葉なのだ。サッチモのように吹けないと歌えない。

ビリー・ホリディもそうだった。と映像のなかではいわれていた。マイルス・デイビスもシナトラのように歌いたい。吹きたい。といっていたけれど、そういうことだろう。みんなそういう中でやっているんだ。

それは厳しくもなんともなくて、あたりまえの世界だ。声もリズムもタイムも全て絶対にはずしてはいけない。音楽からそれたり、はまらないのはダメだ。それでもこういう人たちの最低のレベルにはほど遠く、そこの上で勝負がくりひろげられている。音楽をやるのは自由だ。歌を歌うのも自由だ。でもあるレベル以上でやるには何でもよいわけではなくて、ある種の制約とか、外せないポイントがある。

 

ジャズは、私にとって縁遠いものであり、どうしても大好きにはなれないジャンルの1つだ。なぜ好きになれないのか、心が動かないのかわからない。サラ・ヴォーンもとてもうまい人だとは思ったが、心が動かされるほどの感動はなかった。

しかし、驚いたことはたくさんあった。マイクを使っていても使っていないかのような声量。実際マイクをすごく離して歌っていたのにしっかり声が届いていたのには驚いた。汗の量もはんぱじゃなかった。

「体をきちんと使っていれば今のだけでもそうとう汗をかくほずです」とトレーナーはよくいうが、こういうことなんだとわかった。

サラ・ヴォーンは仲間の話を聞いていると、大変魅力的な人だったんだとわかる。悪い人に悪い仲間が集まるのと反対で、魅力的な人には魅力的な仲間が自然と集まってくる。そんな彼女にファンもついてくる。つらいことがあっても彼女なら笑いとばしてしまう(歌いとばす)のだろう。

仲間の1人がなぜそんな風に歌えるのかといたら「毎日、楽しくおかしく暮らしているからよ」といったそうだ。酒を飲むなど、歌手として好ましくないことをしていてもあんな風に歌っていられるのは、きっとそういうへンな神経質になることこそ、彼女らしくないことであり、つねに彼女らしい生活を送っていたからだろう。

「彼女が歌うと、床が動いた」といった人がいたし、その音域の広さを褒める人もいたが、やはり日本と違う褒め方として、「低い声が出た」ということだろう。日本では低い声を出しても褒められない。(高い声なら褒められるけど)太い声の出る女性が魅力的だと日に日に思うようになったのは、実は私もレッスンを受けるようになってからで、高い声を出そう出そうとしていた。それに高い声が出ることこそ、うまい人なんだと思っていたなんて、今ではとても嫌な気分だ。サラもまた太い声で、ひょろひょろしていないからガッチリした感じがすばらしいと思った。

 

 

 

【村上進/エンゲルベルト・フンパーディンク

 

フンパーディング、お客さんをリラックスさせ、楽しんでもらうという意図がすごく感じられるステージ。登場の瞬間から、会場の空気を支配している貫禄のステージ。いつも自然に動き、話し、歌っている。カんでいると感じさせるところ、変だなと感じさせるところは、表情、動作をとっても一つもない。異国の地の大きなステージ上であたかも自宅のホームパーティーにでも招待しもてなしてくれているという感じでとてもよかった。声の安定感、底力を見た。中、低音域がまずしっかり出ている上に、上の方の伸びよい。声(息)の流れが自然で、特にブレスがほとんど面にだしていないことに気づいた。まるで息をしていない様な表情、動きだった。ほとんどが鼻から吸っているのだろうか。それとも口で瞬間に深く入れているのだろうか。ブレスの回数もすごく少ないと思った。何といっても、何曲歌っても「声や呼吸が乱れないところがすごかった。感動した。歌というものはこうありたい。

声がしっかり届く。声に存在感がある。なぜか。声のなかに言葉、感情、メロディ、リズムが詰まっているからね。フレーズの息の流れが滑らかで」取ってもていねい。きちんと動かししっかりと作っている。フレーズの始めと終わりがとってもていねいだと感じた。曲のピークのもって行き方がはっきり出ていて、でも自然で聞きごたえがある。ピーク後もしっかりと落としているなというのも感じた。フレーズごとの強弱がすごくあり曲に動きと奥行きの広がりも出ていた。

村上進、出したい世界が曲ごとにはっきりあり、すごいことだと思った。それがストレートに伝わる。つくることをとてもやってきているからこうできるのであろう。歌への入り方がとても深く一曲をしっかり握っていするとはこうことをいうのだろうか。

フンパーディンクとの共通点。ブレスなど見せないところ。無駄な動きがないところ(村上進はほとんど動かない)。感情の深さ・出し方にこれぐらいでいいだろうというのは一つもない。徹底して出せるだけ出すという感じがした。2曲半(3曲目エンディングで途中だった)しかなかったが、これだけでもすごく伝わるものが込められていた。聞いて満足感を味わえた。そしてもっと聞きたいと思った。こう感じさせることがプロなのだと思った。

 

 

 

美空ひばり

 

岸田今日子さんのMCが美空ひばりさんの雰囲気を平面的なイメージから立体的なイメージへと変化させていっていた。一音一音に強い思いが込められていて美空ひばりさんを代弁していた。そしてこれだけのMCに答えて美空ひばりさんが日本の歌を歌っていった。「歌は我が命、歌をずっと歌える人生は素晴らしい」ということを歌の前に習った。今までの歌への愛情と歌いつづけることの大変さが一言で伝わってきた。ひばりさんの歌はまとまっている中に大きな激しいうねりのようなものを感じた。たとえるなら“日本海の波”まさに日本の引きを感じた。このステージを見ただけでこの人の活動を見守っていきたいと思ってしまった。世代を超えたアーティスト。日本の母親、舞台での存在感、歌い手の人生、etc.。ステージにたくさんの命が生れていた。何かをつくり出せる強さ、素晴らしいステージだった。

 

 

アストル・ピアソラ

 

ものすごい芸を見させてもらった。楽器のうまさが素人の私が見てもあきらかにレベルの違いがわかった。指と楽器が触れ、あう度に何かが起きる。それがさまざまな表情をつくりだしていた。喜び、悲しみ、怒りが音を通じて心に軽いてきた。演奏者一人一人が自由に演奏しているように見えるのに、バンドとしてのまとまりがしっかりとできていてよく表現されていた。「どれだけの努力をしたのだろう」と単純に思えた。演奏だけのライブは初めて見たが十分心に受け入れることができた。見たあと、もっとしっかりとした言葉で外に(文章)書きだしていけるようにならなければいけないと思った。私も受け止めた物(インプット)を表現(アウトプット)できるようにしていかないと。

 

 

CAROLE KING

 

以前「ディーバ」を観たときアレサ・フランクリンマライア・キャリーの存在感が強すぎて彼女の影は薄かった。でも今思えば何で比較していたのかというと声とがステージばえするとかということだった気がする。彼女は決して派手な感情表現をするような人ではないように思う。だけど心の奥にずーんとしみこんできて一緒にうたわずにはいられなくなる。アレサ・フランクリンやマライアとは一緒になってうたおうとは思わないし、多分ついていけないだろう。(チェチェンチェーンぐらいならうたえそうだけど何か違う気がする)何10年も活動していて、どうしてこんなに新鮮なんだろう。

日本の演歌歌手と比べていいかわからないけど人生苦節何10年というなんてついてやしない。私はやっぱりステージに立つ人は苦労が顔に出てはいけないと思っている。どんなに苦労してもそれが輝きとして出ている方がいいと思う。

 

彼女をみていると色あせない裏には相当の自分に対する厳しさがあるような気がする。努力というか、それが習慣になっているのだろう。彼女はシンガーソングライターだけど彼女のつくったものは彼女のものという気がしない。作ったときの彼女の想いと今は当然違うだろうし、聞いている人の想いもそれぞれ違う。ひとつの曲が時代や国を超えて多くの人にうたわれるというのは考えてみればすごいことだ。素朴な疑問。なぜそういう歌とそうじゃない歌があるのだろう。同じ時代、共に生きた人々は歌をきいた途端にうたわずにはいられなくなったり、涙したりするだろうが、時代も違う。国も違う、言葉もわからない、それなのにうたい出したくなるのはなぜ。たぶんそれは誰もが本能的に人間は皆同じと感じているからじゃないだろうか。音にこめられているその人のからだや心が伝わってくるのだと思う。文化が違っても人間の喜怒哀楽の感情に大差はないのだろう。言葉が浅いとか深いなんて目に見えないけれどやはりあると思う。ひとりの人間が生きてきて重ねてきた想いがひとつの言葉にしみこんでいく気がする。彼女は多分生きている想いをすべて注ぎ込んでいる。そういう音を自分も出したいが今は感じることで精一杯だ、いつも思うがなぜ質が厚いのか。

 

彼女をとりまく仲間達は皆主役の額をしている。何かをつくりだすためには個の力があればある程度プラスに働いていくと思う。当然ぶつかりあいはあるだろうがよりよいものをという信念があればマイナスには働かないはず。メンバーのなかで強烈に魅かれたのがテディというピアニスト。ピアニストなんて限定する必要もない気がする。うたっても、ハープを吹いても彼から出てくるものは変わらないのだから。私は本物を頭でしか理解してなかったように思う。彼の演奏を聞けば本物とはなんであれこれいっていることが恥ずかしくなる。差があるとかそんなものではなく足元にも及ばない違いがあるくだけ。人間のからだがこんなにも生き生きと働いているのを見たら同じからだをもちながら自分の死んだようなからだ何だろうって思ってしまう。感情表現についても考えさせられる。

日本人の感覚からいったらこの表現、イメージの大きさは理解しがたいものがあると思う。聞いている分にはよくても実際自分が発する側にまわると気が狂ったようにやってもその大きさに達しない。彼らにとってはあたりまえのことが感覚やからだでわからない限りその大きさもわからないと思う。同じステージに立ったらはじきとばされるぐらいの気が渦巻いているのではないだろうか。

とにかく全てが客席からみているのとステージ上ではまったく違うということを感じさせられた。ステージ全体の構成にしてもかなり計算されているここと思う。どこまでももりあげ総立ちにさせた後にしんみりとしたバラードで泣かせ、最後はこれでもかといわんばかりのテンションの高さでこれから始まるのがと思うくらいの勢いだった。彼女は'47年生まれで、これだけの体力、カ、エネルギーは日本の10代の若者でも多分かなわない。年とって消耗していくのではなくエネルギーが増していく。それは日々の積み重ねでしかないように思う。年を取れば肉体的な考えはもちろんあるだろうが、それは固定でしかないように思う。きっと使い切っている細胞の数がまったく違う気がする。全てにおいて圧倒されっ放しのステージだった。

 

 

 

ポール・マッカートニー

 

マッカトニー、謙虚だけれど大胆なアーティストとしてのこだわりを感じられた。相手を認めしっかりとした一つのことに向って思い切りよく挑戦をする姿がよかった。まず音楽が好きでそれを語るときの彼の姿が自然でおもしろかった。「レコーディングスタジオに行ったら工事中だった」という話で彼が大工のまねをするのだが、日本の感覚では、くぎを打つとき「トントントン」だが、彼がやると「トオットオットオッ」という感じだ。なぜかわからないがそのことがおもしろくてから離れない。

「一年歌わなければ声が悪くなる。二年歌わなければ使い物にならなくなる」この言葉は一生私の心に残り続ける言葉だと思った。

 

 

 

ジャニス・ジョプリン

 

実物のジャニス・ジョップリンを見たのははじめてだが、一見、あの歌い方からは想像のつかないぐらいおとなしそうな人であることに驚いた。彼女の歌を私なりの言葉でいえば、怒りと悲しみの表現だけを純化してとり出したといった感じだ。美しい声もいらなければ音城声を見せつける必要もない。そんなものが無くても十分過ぎるくらいの感動を与えてくれる歌を彼女は持っている。変ないい方だが、彼女の歌は加工された商品ではない原始的な美しさがあると思う。独特のしゃがれた声もかっこいいが特に力強いファルセットと地声のハイトーンでの表現がすごかった。インタビューでは、あまり恵まれないハイスクール時代を送っていたことを語っていたが、そういう経験を味わっているからこそ、あれだけの歌を歌えるのだろう。「自分に正しく、いつも本物でいる努力をする」といっていたが、彼女の歌の根源はここにある。

 

私はクリスチャンではないが、ゴスペルが私を引きつけるのは、確かである。ゴスペルという音楽に限らず、その影響は測りしれない。ブルースの歌い手、ベッシー・スミスは聴衆を歩かせることも自在にできたそうだが、それは教会の牧師の説教と同じことらしい。そしてそのような歌い手のなかに聴衆をひきつけ、動かす要素がのこり、それが新しい時代のうたい手にも引き継がれている。そういえば高校の英語の時間でキング牧師のスピーチを録音できいたときにもものすごいパワーと魅力を感じた。(

 

 

 

プラシド・ドミンゴ

 

カルメンの二重唱がすばらしかった。演技を上まわるような熱唱、歌がこんなにも演じてしまうものなのか、というような驚きがあった。ドミンゴアメリカの歌をうたっていたが、長くのばすところで息の勢いも声の質も均一になっているのに感動し、巻もどしてみて私も息だけまねしてみたがまったく歯が立たなかった。私の場合息が続かないのと、声を出してのばしてみると声が勢いが統一されていないのだ。ドミンゴは余裕と緊張感がうまく調和していて、聞いていてまったく無理がない。あたりまえのように、ごく自然にのびのびと歌っていた。

女性のゲストも高い声になっても決して「ギャー」と叫ぶようでもなく、聞いていて心地よいのだ。私が高音を歌うとノドがしまり、「ギャー」とニワトリが首をしめられたかのような感じになってしまう。ゆったりとしたところにもビーンと何かひびくものがある。そういうシンがあるからこそ聞いていて心地よい、よい声が出るのだろう。私の声は緊張しっぱなしで余裕、ゆったりとした流れがない。それは歌っていても苦しいし、聞いている方はもっと苦しいだろう。力を抜くことを学んでいきたい。

 

 

 

マリア・カラス

 

何といったらいいのだろう。言葉がみつからない。一時間がこんなに早いなんて。あっという間だった。これほどひきこまれたのはひさしぶりだ。マリア・カラスはもちろん、テノールジュゼッペ・ディ・ステファノ(急いで書いたので間違っているかもしれない)もすばらしく、声量はもちろんのこと、表現力、声のひびき、すべてがすごい。うまい、でなくすごい。ときにひきこまれ、ドキドキし、涙が出そうになったのは、二人の二重奏だ。

二重奏は全部で3回あったが、1回目はカラスがジュゼッペをふり、(このシーンは「カルメン」なので知っていた)2回目はカラスが「捨てないで」と歌い、3回目は再びカラスがふる。このまったく違う役がら、シチュエーションに、二人はしっかり見事にはまり。顔まで違って見えたのには、驚きというより、一体これは何なんだと思った。演技、メイクも変えていない、衣装もそのまま、歌の表現力、オーバーアクションはしていない。立ち位置もたいして変わらない。小道具もない。演劇のようであり、しかしそれにしては遠回りしすぎている気もする。

それなのに、見事に演じきっていたのは、歌がもう歌でなくなっているところまできているのではないだろうか。歌う、ウタウということではなく、心のなかをさらけ出す。歌という声は利用されているにすぎない。心のなかのものが頭のてっぺんから足の先までその役へと二人を変えてしまっているのだ。その心のなかのものとは、私達よりもきっと巨大で感情のうねりにあばれ回っているものなのだろう。そこに差が生じるのだ。きっと。これはもう本当に芸術だと思うが、もう魔法に近いんじゃないかと思う。最近、オペラに興味をもちはじめた。もとからミュージカル好きなので似ているところもあるのだが、やはりオペラはミュージカルにはない、はてしない可能性がありそうだ。どんどん観に行こうと思う。

 

 

 

[美輪明宏]

 

彼(彼女)の唄を私はきちんと聞いたとこがなかった。昨年までバンドを一緒にやっていた友人(ギタリスト)が数年前「この間美輪明宏の歌を聞いたら泣けてきちゃったよ」といっていたのを覚えているが、あのナチュラトレモロがかった話し声の人がそんなにすごい歌を唄うのかと思ったものだ。歌が生きているし、言葉が押しつけがましく感じない。持っていき方(動かし方)もさすがだと思ったが、意志はあって意図は感じない唄声だった。

 

【銀巴里物語】

美輪明宏さんという人に増々興味を持ってきた。「シャンソンを歌って生きてきました」という彼(彼女)の言葉には重みも深みもある。シャンソンを聞かせる「銀巴里」という店。そして「庶民のための歌、どん底に住む者の叫び、それがシャンソンの心」ということを理念とする銀巴里の経営者。笑輪さんにとって、銀巴里は必要な場所だった。し、銀巴里にとっても美輪さんという人が必要だったのだろう。他の多くの歌手が“スター”になり銀巴里を去っていく中で、美輪さんは、どんなに社会が認めたスターになろうとも、そこで歌い続けた。「小さな銀巴里で、多くの人と人生の悩みや苦しみや喜びをわかち合うのは、何ものにもかえがたいものがあった」と語る。

どんなにお金のない貧乏の時代でも“すずめの涙”ほどのギャラの銀巴里のステジに立った。挫して路頭をさまよっているとき、彼を知る人から声をかけられた。土方の工事をしているその男性の汗を見て、子供の頃の記憶がよみがえった。貧しくとも子供のために懸命に働く友達の母の汗を思い出した。その姿がまぶしかった。

そして「ヨイトマケの歌」が生まれた。銀巴里で初めてこの歌を歌ったとき、聞いている人は笑った。でも、曲が終わる頃にはみんな泣いていたという。「シャンソンは人間の悩みや苦しみや喜びを歌ったもの。元々庶民の歌だった。だからもう一度庶民に戻す」。美輪さんはとても徳の高い人だと思う自らの内面にあるものをいつも民衆と共有しているように見える。悟りの深い僧侶は市井で民衆と暮らすという。自らの悟りを追求するためまわりとの交流を断つことはしない。共に喜び、共に苦しみ、共に笑い、共に悲しむ。とても素晴らしい生き方だ。憧れる。ぼくもそんな生き方をしてみたい。表現する内容、分野を問わずそんな生き方をしている人間が好きだ。毎日そんなふうに暮らしてみたい。

 

 

 

モータウン25周年】

 

ジャクソン5がかなり心に残った。マイケルジャクソンは子供の頃から張りのある、透き通る声だった。声だけではなく、動きの一つ一つに大物を感じさせるセンスのような物を感じた。子供がステージであれだけのことを出せているのが不思議に思えて歯痒かった。ジャクソン5はマイケルだけではなく5人のバランスがとてもいやらしく、歌のムードと5人のチームワークがぴったりだった。マイケルのMCは時間が止まったように思えた。「もっとしゃべってくれ、もっと思いを伝えてくれ」と、彼に自分の時間を預けてしまう。ソロのときの彼特有の動きとダンスは、スキがない。“間”があれば動きまくっていた。「フゥー」とか「ポー」とかいう彼のシャウトとでもいうのかもしれないけど、このシャウトみたいなものを聞けたのはよかった。

遠い日本の国の志村けんという、コメディアンのものとはまったく違った(あたりまえか)本物を感じられた。志村けんさんがまねをしたくなるのもわかる。特長的でいて、感情が出ていた。そして最後のあいさつが妙に心に残った。しっかり気持ちをこめて、あいさつしていたのが伝わった。本物は、何もかも本物だ。「指の音、タンバリン、低音ベース、心臓の音、アメリカの音、フィーリング。ようするに、よくわからん」といっていた、モータウンサウンドに完全に時間を忘れさせてもらった。言葉では表せない、公式がないけど、あるような、不変的な一生変わることのない、本物を感じられた。くやしいけど、また見てみたい。観客にそういう気持ちを与えられるようにならないといけない。本物のアーティストと本物の客がいる、素晴らしい環境づくりをしていきたい。

 

 

マシータの口には言葉が出なかった。息をつく隙がないというのは、まさに彼のMCだと思った。機械的である。よくマシンガントークというけれど「ダダダダダ」という日本語的響きじゃなく、「ダゥダゥダゥダゥ」みたいに、深い声が感じられた。人間じゃなくて楽器に思えました。自分のなかに早口の基準を得られたので、自分の今後の目標になった。アダム・アント。仮面ライダーみたいな格好をしていて、セクシーに動くのでコミカルに感じられたけど、よく見てみると、体でしっかりリズムを取っていて(あたりまえか)つまずいたような動きのとき、も、ピッタリと合って歌と次の動作に入っていた。とにかく自分を見せていた間が開くと動きまくっていた。短い時間で自分を見せるということはここまでするものなのだなぁと思った。

 

マイケル・ジャクソン。黒い帽子を被ったとたんに、ジャクソン5の雰囲気を一気に消した。そしてソロのステージを完全に作ってしまった。彼のダンスもグループのときとは違った独特の動きに変わっていて、一人で完璧にステージを持たせられる物になっていた。一つ一つの動作をとにかくしっかりと見せてくれるので表現として強く伝わってくる。歌と踊り両方とも個性的でいて超一流なのだから、こんな薬晴らしいステージはない。本物のステージを見れたことはかなりショックでかなり大きかった。そしてMC、彼の声が聞こえるだけで時間がとまってしまう。「手をつないで」「両手を上げて」といわれるだけで、そうしてしまう。あの魔力というか、不思議な力は何なのだろうか。最後に一番感動したのが、曲が終わった後に、マイケルが深々と一礼をしたところだ。これは何ともいえなかった。「お礼をいいたいのはこっちの方だ。お前は、まだ歌っていればいいのだよ」と思った。やはり基本は自分を見てくれた人への感謝の気持ちだ。超一流の人がやっていることを自分はまったく気にしていなかった。普通に考えたら、そんなことをしても歌は変わってこないと思うけど、自分は変わってくると思う。気持ちを大事に伝えていきたい。

 

 

 

【マドンナ】

 

好き嫌いは別にして、この人は本当にすごいと常々思う。前に録画だけして見ていなかったマドンナのエビータを見た。そして合宿の資料をもらって、さらにまるでエビータの野心そのもののマドンナの野心というか、情熱を知り、この人こそアーティストなのかもしれないと圧倒された。

このツアーでのマドンナの声そのものは、かなり疲れていたのだろうと思う。でも、腹からの声なので、関係ない。多分のどを守るために、さらに腹から出さないといけなかったんだろう、と思わせるような太くてしっかりとした声だった。この人を見ていると強いと思う。でも、ここまで来るまでものすごい努力と根性でやってきたからこそ、今の彼女があるのだろう。

「マドンナの真実」とか読んでないので、私の予想に過ぎないが。でも、もともとはアイドル的存在だったどうろうから、あの時代、いろいろな人が出ては消え、出ては消えていた中で、残るだけでも、すごいことだと思う。

私は、どんなにはやったり、もてはやされたりしている人でも、全てとはいえないが、たいてい本物しか残らないと思っている。そういう意味でも、この人は、ある意味、本物だと思う。でも、パフォーマンス、ステージの組み立て方。構成、そういう意味の方が強い。だから、私のなかでは、シンガーというよりアーティストなのだ。それから息で勤かすということが、わかりやすかった。また。あれだけ動いて歌に影響しない、息が上がらないのは、本当にあの鍛えられた体からもよくわかるが、あのステージを持続できるだけの体力を、普段からつけているのだと思った。私は余分な肉が沢山ついているので、まず、それを落としたくなった。彼女の体の線とかを見てたら、ジョギングしに行きたくなった。

 

【エヴィータ

最近“歌”を聞くときに一番注目してしまう点がブレスポイントだ。それは自分自身一番ダメだなあと思うことで、声が平面的なのはもちろん、息に乗っかっていないからで、それは今まで唄う中でブレスポイントを意識というより考えて唄うということをまったくといってよいほどしてこなかったためである。それによって歌の流れがつくられるということを知らなかったからだ。

マドンナの唄を聞いてもまず耳に入ったのは彼女が息を吸う瞬間だった。そして感じたのは声(歌)の生命力、生きモノとしての歌。唄声ということだ。ブレスポイントとは文字通り歌に似た“息を吹きこむ”本当に重要な場所であり、行為だと思う。四季のノムラエイコの場合は“唄う”というよりもコトバを第一に表現している印象を受けた。これは日本語(ベタな言語)のメロディーに乗り切れないやりにくさみたいなものもあると思う。

MILVAはより音楽的だけど流れのなかでも“間”が表現されている。変動しているからこそ逆に“間”のインパクトや意味が大きいんだと思う。

 

 

 

ジョルジュ・ブラッサンス

 

1.詞(詩)の内容が時代を反映していると思う。それゆえその波に乗り、支持する人々がいたのだろう。現代には時代遅れの内容と感じるが、彼が生きていた時代には必要なことだったのだと思う。もし、今の時代で、彼がまた歌手をやっていたとしたら、どんなことを歌ったのだろうか。とても興味がある。2.話すように歌う。話かけるように歌う。声もそれほど太く感じられないし、いい声だなとも思わない、しかし、しっかりとした表現になっている。何かを伝えようということと、声の太さやよさは、あまり関係ないのかもしれない。もしかしてまったく関係ないのかもしれない。ただ、一所懸命何かを伝えようとすれば、声は必然的に大きく高くなるような気がする。(もちろん、れに反する場合もあると思うが、傾向として)彼にとって、また彼の歌を聞きたい人にとって、最も適した声なのだろう。

ある人が、思いを歌にして表現しようとするとき、その人が持っている本来の声が、その人にとって最も適した声なのだろうと思う。3.彼の歌は詞の内容で表現になる。詞の内容で伝わる物がある。そして、それを前面に出そうとする歌い方。4.彼はいつも自分の内なる世界を求めていた。5.大きな声を張り上げるだけなのは表現ではない。適切な表現、声の使い方。6.悲しい内でもさらりと歌っている。悲しい内容は、いかにも悲しそうに歌っていても逆効果なのか。7.彼の人生そのものを歌った。淡い、しかし力強い表現。豊かな貧乏生活。歌をつくり、皆と歌った。必要なだけしか稼がなかった。歌にする現実があった。歌と富とは結びつかなかった。それどころか否定した。同の奥にいいたいことを秘めている。彼にとっては、歌の内容が伝わることが重要だった。8.シャンソンの世界に新しい風を吹き込み、それまでの常識をぶっ飛ばした。9.彼は雰囲気があって、言葉には表すことができない美しさがあった。10.彼は意見の一致なんて信じていません。11.「人に教えるという気はありません。私は哲学者じゃない。人を感動させる歌をつくる詩人でしかない。人々に幸福感を感じて12.息もらえること、それが願いです」は確かに必要。でもそれは適当(表現するのに適当)であることが大切。いっぱい出せばいいってもんじゃない。13.「皆な同様、彼は人生において心を痛め、憂うつにもなった。歌からそれがわかる」14.「どうすれば人を救えるのか、私はわからない」。禁止事項の嫌いな人。15.彼は人々から、世の中から必要とされていた。

 

 

 

高橋竹山

 

津軽三味線の奏者で、音楽をこれほどまでに、下積みをしていたとは思いもよらなかった。その頃のつらさは本人でないとわからないといっていたけど、夜寝る場所もない食べるものもない冬の寒い中でしゃみせんを弾いていたら、しゃみせんがおかしくなってきたので、尺八を吹くことにして、下手でも吹いてくうちに音が出るようになったといっていたが、大当に何もない状態たから自分のやることが一つにしぼられる。目も見えないわけだからかなり自分が追い込まれる。今の世の中情報があふれ過ぎていて自分の目で見極めていくのは難しい。彼のような状態にならないと真の芸が身につかないのか。そんなことを考えている内はまだ自分に甘いのである。

私は生涯芸人をめざしているのだけれど彼の行き方をスタンスは見習うものがあった。正に生涯芸人、一生をかけたこだわり、格好よかった。まわりから見ればおかしい。その異常なおかしさが自由、奔放な人を引きつける弾き方ができるようになるのだろう。そしてあのしゃべり方、なまり方が自然過ぎるほどに自然であった。天然な人物だと思う。そして一つのことにここまでストイックに取り組んでいる。それが彼にとってはあたり前である。今後の自分の芸に対する姿勢、自分の生き方を見つめるよい機会でした。

 

 

シャルル・アズナブール

 

真実の歌だと思った。声できかせるタイプではない。でも本当にドラマチックと感じるのはその他の部分がフルに働いているからだ。音色もいろいろと使い分けているし、動かし方なんて本当に極端だ。ためてためてから一気にたたみかけたり、一つの言葉だけをバンと前に出したり(大きいということではない)いろいろな要素が働いている。そしてもちろんそれは表現のなかの必然性のなかでそうなっている。

「Yesterday」と一言発した瞬間に前の曲は全て消え、一つの新しい世界がパッと一気に広がる。その言葉にのせる情感ののせ方といったら本当に信じられないくらい真実を感じる。その「Yesterday」の一言を聞いてきっと会場のお客さんみんながそれぞれ自分のYesterdayに包まれたのではないか。本当に感動的だった。普遍性を感じた。きっと人間としての芯の部分を見つめて生きてきたのだろう。それを本当に素直にのせてくる。すみずみまで気が行き届いていてとてもていねいで、ふと冷めてしまうところがない。完全に演じ切っている自分を。完璧なるエンターティナーであり、創造者だった。声も表現も根本的に素直でなければいけない。自分に対して、人間に対して、人生に対して。

 

 

【黄金のロック伝説 ハードロック革命】

 

なんという、テンションの高さ。子供の頃からロックは好きだったので、よく聞いたし、コンサートにもよく行きましたが、ただの“ノリノリ”という部分でしか聞いてきてなかったように思います。テンションの高さと表現の幅広さに、ひたすら驚きの連続で、ロックがスポーツか、もしくは格闘技にひってきするものとしか思えませんでした。特に“Mountain”など。中でもドラマーの演奏など。“これが音楽なのか”と思ってしまうほど、体力勝負の演奏で体力のない私としては、とてもうらやましいし、あこがれます。

紹介に“個性への固執”ということが書かれてありましたが、ブラック・サバスのこの曲の様な、こんなにも間を置い曲は最近聞いたことがないな、と思いました。ブラック・サバスのヴォーカルですが(全体にもいえることですけれども)すごい集中力というより“すっごい一途なんだな~”と感じました。何か怒りとか、悲しみとか、哀愁とか、きっとそういった感情が、どんどんどんどんあふれてて、叫びたい気持ち以外には何もない、そういう状態なんだろうな~あと。

 

 

[アマリア・ロドリゲス]

 

「暗いはしけ」(アマリア・ロドリゲス:村上進)音色のヴァリエイションの差。村上さんの声のパワー・集中力・メリハリは確かにすごいが、アマリアと並べてしまうと音色やフレーズのヴァリエイションの差、表現の奥行きの違いが歴然とわかる。村上さんのフレーズは一曲聞いたらだいたいの想像がついてしまう気がする。アマリアさんのフレーズ表現には幅があり、奥行きがある。村上氏も体力的な奥行きは存分にあるが、技術的な幅がせまいんじゃないか。表現としての幅。だから表現の自由度がぜんぜん違う。リズムの捉え方もアマリアさんのが精密。やはりヴァリエーションが多いんだろうか。全体を感じて一言でいうなら、村上さんは「そこへ」向かって働いていてアマリアさんは「そこから」広がって遊んでいるという感じ。音のなかで動かすとか、動いているというのはこういうことに、ヒントがあるんだろうか。伴奏もアマリアさんの方がちょっとルーズな中にたっぷりと何か染み込んでいて。汁をめいっぱい吸った「がんもどき」のようである。フレージング・「ひとつ」「私たち」がとても発しにくかった。身体を筒にしようとしたが、何かじゃまするものがあった。なんだか美しそうに歌ってしまうのが、どうにもいやだった。後半の詩を歌うのにはすごく抵抗ある。

 

 

ジーザス・クライストスーパースター】

 

ユダ役の人、語っているだけなのに、あの声量、「さあ、歌うぞ」みたいな日本のミュージカル的なわざとらしさがない。登場人物一人一人の個性が。すごく強い。マリアにしても、使徒にしても、ローマ帝国の王様にしても。その分、キリストの存在感が薄かった気がする。ただキリストさんは、歌に関しては際立っていた。ユダの力強いヴォーカルやマリアの悲しげなヴォーカルとはまた違う、穏やかさと激しさの内面を持ち合わせたヴォーカルだった。不思議だったのは地声は普通なのに、たまに女性なみの高音域でシャウトしたりする。どこから声を出しているのだろうか。なにもパバロッティみたいに、がっしりした体格でなくても、体のコントロール次第でどんな声も出すことができることを知った。逆にあれだけの細い体だからこそ、声を出すことに一切無駄な働きが許されない訳で、正攻法の発声に集中できるのかもしれない。私自身、体ががっしりしてないので、すごく参考になった。話は変わるが見ていて信仰の影響力の恐ろしさを感じた。かつて、ヨーロッパで起きた宗教戦争や十字軍の選征。たった一人の人間にこれだけの出来事を引き起こさせる力だあることを知った。また声のことに話が戻るが、キリストさんの歌は、ささやくような声のなかに、いくつもの表情がかくれていて、声量や技術ではたちうちできないものを感じた。低音部のバラードに、ロックのすごいシャウト。絶対正しい(きれいな)声の使い方ではないが、聞き苦しくなかった。やっぱり歌のなかで必要とされている声なんだと思う。演技ではユダが一番よかった。信じる人達と裏切る人達。人間のよい部分、悪い部分を嫌というほどみせつけられて、考えさせられるものがあった。

 

 

イヴ・モンタン

 

「いつも、真剣に生きています」。冒頭から、こんな発言をした彼の一世から、真面目で本当に歌が好きなのだなぁと思った。彼のアーティストとしての一つのステージを行うときのあまりにも素直な見せる精神は、勉強になった。一旦決まった歌のときの体の表現などは、絶対に変えなかったというところにもストレートな見せる気持ちを感じたし、有名になってからでも、緊張して上がってしまうとというところにも、どんなステージでも真剣に考えて、お客さんを大事にしているというのが伝わってきた。「リズム感があったわけでもないし、才能があったわけでもない。ただ彼は妥協しなかっただけだ」このセリフにはエネルギーをいただいた。彼みたいな、素直で真面目な人は素晴らしいと思った。自分をどれだけ信じられるかだ。自分に甘えない、妥協しない、そして彼が最後にいった「私は私、ただそれだけだ」この一君に感動しました。

 

 

 

【久保田一竹】

 

「お客さんに、作品とじかに会話してもらいたい。自分はあまり多くは語りたくない。布が語ってくれればいい」。この何ともいいがたい芸人魂は私の心と共感した。結果がすべてなのである。芸人とは、作品が自分を代弁してしゃべるようなものなので、人生はその作品づくりに使ってしまうのがあたりまえなのである。そして地味な作業をコツコツやっていく。シビアな世界だからよい作品を出したものが勝ちだ。こんな勝ち逃げできる世界を、大好きという人もいれば、何だか悲しいと思う人もいると思うけど、それはしかたない勝負の世界だから、私は勝つために、今コツコツと努力しているけど、久保田さんの60歳デビューのスタンスには気が遠くなる思いをした。いったい何を考えて生きてきたのだ、と思うけど、答えは一つ、作品のことを考えて生きてきたに違いない。作品づくりの段階出の説明で「30回のね塗りができるのは、30回の水元(水洗い)があるからだ」この言葉をサラッといったのだけど、何ともいえない物が心に響いた。この言葉と同じように、自分に美しい色が出るために、自分も何度も水元を繰り返している。やはり、どの世界も基本が大事だ。久保田さんの富士の山と、その樹海を表した作品は、布の世界に引きずり込まれた。深い深い樹海だ。ここなら誰にも見つからず自殺できる、と思ってしまった。「省略された中にある無限の表情」という言葉を使っていたが、まさに一目見ただけで無限の表情があった「百聞は一見にしかず」ということわざを思い出した。染め物業をやってくわけじゃないけど、今日これを見たことは大きかった。世の中には、私の知らないところで、何十年後の作品をつくるために命を賭けている芸人がいる。今日のR初は改めて、自分の芸に対する心構えを問われたので、滝にでも打たれた気分だった。やはり芸というものは、硬派でストイックなものなのだ。

 

 

福島泰樹

 

伝えたいことが失くなったとき、歌うのを止めればいい。「〜っちまった」と「乳房」が今も脳裏焼きついている。伝えたいことはやっていく内に見つかることもあるよな。多分。テンションが上がっていくのと同じように。どこに力を入れるかって考える。考えるとおかしなところへ行って回りくどくなって、ある日力が抜けて声が体の底に落ちてとても安らかな気持ちになる。何が正しいのかわからない。自分で出すことなのか。自分を捨てて、身をゆだねるのか。また考えてそこに曲が集中しておかしくなる。ただ、言葉を思いをのせてゆらゆらと強く伝える。とっても嬉しいけど。人それぞれだと。見栄を捨てて、言葉をていねいに伝えて、クセをつけないこと。、

 

 

イサム・ノグチ

 

東福寺の日本庭園に以前フランスのある有名なシェフが訪れたとき、彼は「全てが完全だ。ここには無駄がない」と語ったのを記憶している。芸術である高いレベルの人は空間、時代を越えて「本物」を高い感性で識別できるのであろう。また、その「本物」が古から我が母国に存在することには感動を禁じずにはいられない。ノグチが「芸術家はある意味では独裁者である。またそうあらねばならない」と語っている。もし「独裁者」になるという行為が許されるとするならば、それは「人のため」にエネルギーを与えることであると思う。ノグチは自分の空間芸術を人々の生活の一部(種)にすることに尽力し、成功した点で「独裁者」足り得ると思う。いろいろな作品が出てきたが、私は四国にある「イサム家」が一番好きだ。全てが浄化される様な気がする。最後にイサムが「自然が一番の彫刻です」といったのは至言だと思う。

 

 

 

【日本庭園鑑賞術】

 

「空間に秘められた、石の心を得く喜び」と冒頭でいわれたこの一醤を聞いて、石の世界に入ってしまった。日本庭園の歴史の移り変わり、純粋な日本の魂の生き残りに感じた。平安期の前は「神様を祭る石の集まり」これが日本庭園の起源であるが、実際は岩倉、神といわれた石を集めて紐で結んだだけの物だった。それが平安時代、貴族の住む寝殿づくりに合う物として、船を浮かべられる大きな池がある庭園へと進化していった。その後、末法思想が広まり、寝殿をお寺に寄進する浄土庭園へと変わっていった。これは浄土思想が国に広まったからである。その後、中国から禅が伝わり、庭という物は精神的な目に見えない物という修行の教え、人間の根本を学ぶ、という物になり、枯山水(水、池がなく石だけの集まり)のように、地味な庭園へと変わっていった。その後、アドルーフロース(近代建築の第一人者)の考えに基づく、質感ボリュームを出しまた現代の枯山水、現代の日本庭園へと進化を遂げた。このような庭園の移り変わり、時代背景のある進化、何かと似ていると思った。

 

ブルースの実をロックに取り入れ、それをさらに強力な演奏、実験的なギターなどを組み合わせた、ヘビィメタルへと。起源はブルースだけど時代に合わせて、時代に反して変わって行った20世紀のハードロックに似ていた。それとクラフトワークの音源を起源とした20世紀のテクノポップにも同じ匂いが感じられた。時代を映した、人間の欲求を表した、生き証人だと思う。

 

日本庭園、向こうの、という言葉を使わせてもらうが、向こうのさまざまなポップス。繁るはずのないと思った物が、こんなにも綺麗に笑っていた。石と音楽がイコールで結ばれると、誰が思ったろうか。結ばれているのです。一流は皆、一緒なのです。特に庭園づくりで目を引いたのは「石心」という精神であり、石の鉄則でもある心。この話を聞いたとき「深い、深すぎる」と見えない底を眺めた。石には気勢(ムーブメント)があり、まず、これを石から読み取る。そして、その石の力強さ、石の厳しさから、石の組み合わせ、線と点、ヴォリューム感、一つの石からそこまで考える。そしてその「石心」に基づいた、魂の石が集まり、一つの庭になる。何といいますか、この苦労。このこだわりこそヴォーカリスト、アーティストとつながる。この「石心」を説いてくれた、紺野敏明さんが「石心」を考えて庭園を作っている姿は、まさにアーティストだった。大型クレーンを使った舞台裏ではあったけど、完成された作品は、その苦労をまったく感じさせない、美しい日本庭園として時代を語っていた。私には一つの国に見えた。これだけの段階を見てしまうと、もう只の底ではない空間が語りかける。庭その後に線があり、その上に空、襞があり、それ等を全部組み合わせて見て、日本庭園なのだ。「場を読み、素材と対話し、自分の哲学を作品という物に表す。自分の哲学を通すので抽象的になるが、それが自然である」。日本庭園の結論はこうであったのだけれど、この言葉だけを聞くと、全てのアーティストに通じている。

残念なことに、日本のポップスは、アーティストの進化が止まり“石”に負けている。私がそう感じるのは歌に気持ち、想い、魂が入っていない。日本庭園のような確立された個性が生れてこない。これは常々感じていることだが、今の自分には、日本のお客さんさえ満足させる力量すらない。しかし、日本男児として生れたからには、日本のポップス、日本人の歌の向上を頭に入れておかなくてはならない。人の心に伝わる声を一日一日大切に考えていきたい。そしてアーティストとして確実に進化していきたい。自分という最高の空間を解く喜びと共に。

 

 

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