課題曲レッスン感想
「言葉を練り込む」すごくタメになったレッスンだった。自分の今まで、ひっかかってたことが、このレッスンで少し解決の糸口をみつけた気がスル。少しづつだけど、言葉を音に練り込んでゆくまでのプロセスが、つかめてきた。こういうふうにやっていけばいいんだって具体的な進め方がつかめた。「絶対にうそのないところで」自分の口調ってどんなだろう。どうしても、何をやっても、不自然に聞こえてしまうのはどうしてだ。いつも同じ繰り返し、「ちがう」「なにがちがう」。でも、トレーナーに、もっとその「ちがう」ところで戦わなきゃいけないんだってことを教わった。いつも、そのまんまで、また、今日もちがったって終わりにしてたけど、もっとてっていてきに戦うべきだったんだ。でも本当に、しんどくてつかれる、果てしない旅だ。戦いぬくことができるだろうか。でも今日は、その旅にでる、ほんの少しの光がみえた。光をみつけた。
フレーズコピーをこれだけたくさんの人の声を聞けたので、まずそれがいい勉強になった。音楽的感性、感覚を鋭くしていく、好き嫌いが出るのはそこに何らかの感性が働いている。自分の表現はまだその域まで達していない。力がないのになぜカがあるかを学ぶということであったけど、井上陽水にしても、吉田拓郎にしてもまず声を聞いて、すぐわかるという独特の世界があるということだと思った。そしてその世界に合う歌詞が伝わってくるから、聞いていてわかりやすい。日本語の処理の仕方が各々かしこく自分の世界を表現できている。
「セレーナ」は、何も考えていなかった。もちろん、100点満点ではないにしても、あのときの自分は、少なくとも今までの自分とは違っていた感じがした。あの感覚を忘れたくない。でも今日のレッスンで、あのときのテンションや集中力や気持ちをもってできたかというとまったくだめだった。何やら頭で考えていたし、思い出そうとすればするほど右脳ではなく左脳が働いてしまう感じとでもいおうか。
セレナ、思い出がいっぱいの町。光の町。“あしたからひとり”“あおいそらとうみ”Addio Addioちょっとクール、ちょっとハードちょっと渋いでも熱い。アモーレ。しめっぱい別れかもしれない。“ほほえみは消えてしまった”これを自分で握ろうとしたとたんに体が使えなくなってしまう。やっぱりすごいなあ。まわりはわかっている。本人が鈍いだけ。感知せよ。“歩き続けるどこまでも”違う。「どこまでも」にどれだけ込められるか私は。いいか。坊や約束してくれ。まぁ、自分のなかでは揺れた方だった。表現としては。1割くらい。でも体がつかない。今日はずっと福先生を観察していた。息はきど表現の感覚がとても参考になった。自分の寸法で歌うのは自分の寸法で生きなければ。
雪村いずみさんの、この歌、やはり心が動かされ、涙が出そうになった。“言葉が音声として伝わってくる”それは幻ではなく、聞く人の状態によって伝わり方は多少変わるとしでも、私が感動したのは、やはり偶然ではなく、ヴォーカリストの伝える能力だと思った。「雪村いずみさんの歌を聞いて、感じた自分の状態を、一度全部捨ててしまって、白紙にもどしてください」といわれた。これは、とても大事なことだ。聞いて、感動した部分があるとそこをひきづってしまい、それ自分がやるときに、自分のなかでだけ完結した感動をリピートして、自分の表現は河も打ち出せずに終ってしまう、という間違いはけっこう起こりやすい。言葉以外の要素(フレーズ、リズム、音質)などでも、私はいつも聞いている自分をひきづっているのではないか。
他の人のを聞くと、ほんとによくわかる。ただ棒読みなのも、形だけそれらしくしてしまうのも、同じことで、伝える状態にその人が入っているかどうかなのだ。自分は、どうなのか。イマジネーションを総動員しようとする自分と、集中をとぎれさせるような計算に逃げようとする自分がせめぎあっていて、やっぱりその状態に入りきれない、入りかけても、とちゅうで離れてしまう。
「ひとりさびしく」とか、「坊や、元気で大きくなるのよ」という言葉は、特に難しかった。ドラマで二流の役者が吐くセリフのような、それらしい形が頭の隅にチラつく問題なのは今、やれないことではなく、今やったことに対するチェックが甘く、それを修正できないということ。自分が、それをやる必要がある。だから人がよいといっても自分では納得できるまでは、しつこく追求しないと気がすまない、というぐらいでないと、直っていかないのだろう。自分自身のなかに厳しい基準を持って取り組むこと、その覚悟や忍耐力が必要なのだ。私の表現が甘いのはそこに原因があるということ。
「フレディ」「楽しいことなら何でも「やりたい」自分の言葉にならないというか、まわりが気になって(無意識に合せようとしてしまう)集中できない。集中すればやれるはず。集中しろ。「歌う」という意志だ。フレディって誰。どういう関係。楽しいことって何。こういう心境はとかいうとこは時間があれば考えることができるし、そこから世界を作っていけるけど、レッスンでまわされたときはそんな時間はない。音楽が流れた瞬間にその世界にその世界をつかまえて自分のものにしなければならない。もっと鋭くならなければ。「僕を忘れた頃に君を忘れられない~」こんな歌詞でこんな明るい音楽はできないと思った。自分のなかにそそういう音楽が入っていない。まわされたときに出せるものがすべてだ。私の実力だ。
「あの頃二人のアパートは」たったこれだをいい切ることができない。「あ」もいい切ることができない。歌詞なんか何だってかまわない。メロディも何でもいい。英語だろうが、日本語だろうが底にあるものは同じ。原点は同じ。意志、自分を息、声にこめて出しきる。フレーズをどうしようとか、音程とかリズムを頭で考えない。何度まわされても同じ、つまらない退屈。低いテンション。まわりをうかがっている。意志、意志、意志。これが私の実力。私は実力がない。だから努力をつければいい。歌う。「歌をやる」じゃない。歌う。
愛の讃歌「歌い回し」ではなく「音色」に何をこめられるか。ただのばした一音が表現になっているか。そこだけで勝負できるか。その詩、その言葉の奥底に流れる想いを自分はどう感じ、どう表現したいのか。詩やメロディーを説明するために歌うわけではない。ステージに立つわけではない・ふんいきマネじゃダメ。感情よりも深く、感覚する。その音を自分はどうしたいのか。どうにもならない日だった。今日が調子悪いとかでなくて、気持ちの切り替え。型にたよらずに、もっと形のない魂のまま音声にじませる。練習するモノかどうかはわかならいが、ともかく感覚を研ぎ澄ませることだ。日常のなかで。あきらめて、気持ちがしゃがみこんでしまった。
(~With You)は理屈抜きで、発声とかピッチだとかそういう次元ではなく、このひとの気持ちそのまんまの形で伝わってきて、もう何もいえない。フレージングしようとしても、このフレーズのマネをするのが精一杯。With Youの間に存在する空気。呼吸している空気。CDを割ったらこの人も死んでしまうんじゃないかと思うほどの生々しく体温のある空気。
ビギンのリズムは初めてだった。今まで聞いたいたとは思うが、これがビギンだということで意識したのは初めて。「星の降る夜の」を「夜の」でまとめる。
「サンタルチアよ」は「ルチア」でまとめていく。この、言葉が始めサラサラサラッと流れていってフレーズの終わりでしっかりゆっくりギュッと束ねられまとめられてゆくという感じがおもしろいと思った。
先生は「イルメラディ」の部分の「イ」を気をつけて、「イルメラディ」を箱のなかにすとんと入れる感じ(イメージ)で歌うといってくれたので、そうふうにしてみたけど思うようにいかなかった。先生がいってくれた「体が次に行きたいところ」がわかならかった。あと、「あまり意識しなくても体が勝手に、次に行きたいところへ行ってしまう。それを感じとれるように。」「伝われればなんでもいい。たとえばイルメラディの訳でなくても、お腹がすいたー。をイルメラディにこめて(感情をこめる)もいい。」と先生がいっていた。そういうことは考えたこともなかった。
ドラム、パーカッション、ギターの生み出す躍動的なリズムがすごかった。それに迫力のヴォーカルが乗っかったとき背筋がゾクゾクとしてきた。なぜあんなにすごいグルーブをつくり出せるのだろうか。なんであのハイテンションを持続できるのだろうか。演奏者達もそうなら観客達の熱狂ぶりもものすごかった。私も思わず体でリズムも取っていた。本当なら立って踊りたかったのだが、さすがに他に見ている人がいたのでやめておいた。
自分の課題の一つに「リズムを感じる」「リズムをつくり出す、動かす」というのはどういうことかという問題があるのだが、聞いている間はそのことをあまり意識していなかった。それでもその間に2、3回おど、あ、今リズムを感じているなという実感があった。この感覚を忘れないでいようと思う。ヴォーカルの人の顔を見ていて気がついたのは憤感のこもった歌と顔の表情が必ずしも一致していないということだ。ほとんど無表情に近い顔つきだ。思い出してみればピアフの表情もそうだった気がする。本当に声によって人を感動させようとするときの集中している状態がそういう表情にさせるのかもしれない。顔の表情やしぐさは歌を伝えるための補足的な物であって、声で伝えることを最優先しなければならないのだなとあらためて感じた。
ヴォイストレーニング、先生のレッスンで再三いわれ続けているこのレッスンの主旨、「体を使って表現する」いまだに実践できない自分に腹が立った。体を使えといわれているのになぜ使えないのだろう。言葉(の正確さ)よりも大切なことがあるのにどうしてそっちにばかり気がまわってしまうのだろうか。そういう余計なことではないが)表現に集中するするのに邪魔なものははじめの2、3回で完璧にするだけの頭の回転が必要だ。自分が表現していると思い込んでいるものを録音で聞いてみるとその思い込みの100分の1も伝わっていないことがわかった。だから今の100倍イメージを膨らませる必要がある。録音で聞く自分の声からは気迫が感じられない。すごくしらじらしく聞こえるか、逆に体は使っていて表情が見られない。「本当に伝え切ったという感覚があるか」とレッスンでよく問われるがそう感じたことはいままでに1回だけしかない。だから自分自身をほとんど声に投影できていないのだろう。でも自分自身って何だろう。自分の言葉とは何だろうか。
福島先生がレッスンのなかでいわれた「感情表現を大げさにしても、それを後で調整することはできる」ということが気になった。逆にいえば押さえ気味の感情表現から後で大きくしてゆくことはできないということだ。自分の体の器を大きく作ってゆくことに共通するのだろう。また先生が「歌らしく聞こえなくてもよい」といわれたが、それはおそらく言葉の表現をもっともっと深めろということだと思う。
メロディーリズムの言葉の表現をより効果的に発揮させるために用いる手段。正確でなければいけないのはもちろんだが(ある一定の範囲内において)それにとらわれ過ぎて表現が死んでしまっては意味がない。
レッスン中に思ったことは自分の最も声にしやすいキーの設定を絶対誤らないように注意することだ。人のフレーズをよく聞くのは大切だが、自分は自分でしっかりとそれを持っていなければならない。水辺にはほたる月は夜空にただひとりつまびくしらべの波間にときは流れゆく。一つ一つの言葉の完成度も大事だが全体の流れのなかでもメリハリをより強調させなければそれぞれが生かされない。先生の特別レッスンで習った「展開」とはそういうことだと思う。
気持ち立ち止まっている今日このごろ。美空ひばりという人がどうしてそこまで絶賛されるのか探ってみている。それに応えるように彼女の「王将」を題材に解説とフレージングが行われてすごくうれしかった。
大音量で聞いてみると彼女が本当に単語ひとつひとつを深く感覚してブレーズ描いているのがよく見えた。曲と詞の関係もすごくはまっている(吹けば飛ぶ)しっかりと吹いているし、本当に飛んでいるから笑っちゃう。単純なことだ。しかし私がやってみると、どうもうまく吹けないのだ。かろうじて飛ぶが、吹けない。(飛ぶような)吹き飛ぶ瞬間はスピードあるが、ふんわり空中を舞う間はゆったりと減速していく。そんなイメージ。まるで目に見えるようだ。(ような)のなかにある時間・空間は何だ。(ような将棋の)ようでやわらかだがしっかりと置いて[重み感じる](しょうぎの)にぐーんと大きく力をこめている。
先生に指摘されなければまったく聞き流してた、このポイント。実際マネてみるとすごく気持ちいい。「な」と「しょう」このポイントだけで、その人のこのフレーズに対する理解度がわかるというのは納得した。「流れちゃう人、ルールだからということで止まってみせる人、しっかり置いて踏みこめる人。「全身で考えろ」というのはこういうことだ。常につくる。でないと聞き手に読まれる。飽きられる。歌っている自分こそ飽きる。
島唄よ風に乗り、届けておくれ私の涙・フレーズの密度を濃く、濃縮させる。逃げない。薄まらせない。言葉だけで投かけてみる。だれに伝えたいの。島唄。あなた、何を伝えたいの。恋しい気持ち、悲しい気持ち、怒り、どの言葉を伝えたいの。島唄よ、届けておくれ、私の涙。どんなニュアンスで伝えたいの。激しく、やわらかく、あいまいに、せっぱつまって、目の前に相手がいて、何としても伝えたいから問いかける。何としても伝えたいから声を大にし歌いかける。振り向かせること。気持ちを伝えること。歌に逃げない。歌らしく歌ってみせてどうする。パターン(型)に逃げない。逃げたくないなぁ。逃げざるを得ないときもある。たくさんのバリエーションを知っておいた方がいい。とにかくそのヴォーカルからその曲をひっぺがす、奪い取る。オリジナルを塗りつぶしちゃえ。別の角度から見てみたら。同じ方向性で行ったら勝てっこない。というより、同じならカバーヴァージョンを出す意味がない。しかし動かしにくいメロディ。それらしくカタチだけ変えはたやすいが気持ちとの接点を探るとおのずとポイントが絞られてくるようで。
“フレディあなたと出会ったのは”このフレーズは、でだし部分であり、ひとつひとつの言葉を積み重ねるように大切に歌っていたさだまさしの声が印象的であった。だから私もまたこのフレーズは、どこに強弱をつけるのでもなく、(フ)レディ(あ)なたと、(出)あったのは、各一言ずつ、積み重ねるように歌いたかった。そのためには()の印の文字部分に全ての言葉を息として出すこと、つまり「フレ・ディ」ではなく、ひとつの息のなかに「フレディ」がいえること。その息の量も、そして、その3つが(フレディ、あなたと、出会ったのは)ばらばらではなく、ひとつのまとまりとして聞こえるよう、その息の量も多少の差はあれ、そろえていくことが必要だった。しかし私ができたのは“「あなたと」のワンフレーズをいう”それだけだった。それが精一杯だった。その「あなたは」さえも音楽として成立していたかな疑問だ。一息で「あなたは」をいうことだけで精一杯で、その言葉に乗っているリズムや音程、その後の音のつながりまで意識していたとはいいがたい。そして、私が、「フレディ」と「出会ったのは」がいえなかった、「フ」という音にひいてしまったことと、「出会ったのは」はフレーズが長いように思え、またひいてしまったから。「あなたは」なら、まだお腹におとし込んでいおうとすることができる。しかし、「フレ 」になってしまうと、もう口先になってしまうのだ。もっと「あ」以外の言葉で発声練習をしなければならない。このフレーズでは、以上のように“息”について意識をして歌ってみたが、私は本当にまだ何もできてないことがよくわかった。
何かを大切にしていたいけど。
井上陽水さん歌だったが、この歌の歌詞は、はっきり伝えたいと思った。この歌はスピードや雰囲気、メロディが先行するものではなく歌詞ありき、だと思った。だから、この歌詞はリズムを崩さず、言葉をはっきり伝えるべきだと思ったし、そこに歌い手の意志の強さが表れるのではないか思った。リズムに気をつけて歌ってみたが、5つのフレーズのなかでは、まだ私が何とか納得できるものだった。しかし、このリズムを守っていくには、高いテンションを保ち続けなければならない。あまりカンで歌っても重たくなるだけである種の軽やかさが必要に思う。そう考えると、私の声は固くて、生真面目すぎる声かもしれないと思った。それにリズムに乗って歌えている思っても、後で聞くと、まったくダメかも知れない。自分で録音にとってチェックしてみる必要がある。
“僕を忘れた頃に、君を忘れられない”。この曲ははじめて聞いたが歌い手の声と曲の雰囲気がよく合っている歌だと思った。(それは歌い手が自分の歌にできているということなのだろうが)想っている人のことが忘れられなくて、どうしようもなくて、溢れてきて、どんどん流れでてしまってという彼の感情がメロディに反映されていると思った。つまり溢れでてくるようなスピード感がとても大事で大切にしたいところだ。歌ってみると、スピード感を気にしすぎると、言葉が上っ面で流れてしまう。スピードのなかにもリズムがあって、グルーブがあってこそ、それで初めて強烈な印象として観客の心に残るのだと思う。スピード、リズム、声(感情)をそろえるには、ある程度の器も必要だと思うが、意識としては、その歌詞に対するイメージをしっかりもって流してしまわないことが大切なのではないだろうか。
“愛を失くして、何かを求めて~”これは、サビ部分であるが、このフレーズの前に“さみしがりやが、ギターをひいている”という前フレーズがある。前のフレーズでは、ギターを弾いている彼を遠くから見つめている。そしてこのサビに入って歌い手はギターを弾いている“彼”にぐんぐん近づいていく。その盛りあがりが必要だったし、イマジネーションが大切だった。でも私が歌ってみるとどうも陳腐だ。嘘くさい。歌詞が歌詞なだけにますます嘘くさい。このフレーズは、やはり説得力の持つ声の深みと、イマジネーションの膨らみ、それは地に足がついているような想像力が欲しい。空想ではなくて想像力。自分のバックボーンの薄さを感じる1フレーズだった。
“あの頃2人のアパートメントははだか電球まぶしくて”。この歌を聞いて「あ、絶対歌にしたくないなぁ」と思った。というのは「アパートはぁぁぁ~。まぶしくてええぇ~」とい自己陶酔がかった、歌にしたくない、と思ったのである。だから、私はほとんど音にのせなかったと思う。しかし、そうすると今度は声が前にでなくなってしまった。このようなフレーズは、声を大きく前にだして元気にうたうようなものではないと思うので、声の調節がとても難しい。このフレーズにある、“はだか球”はとてもまぶしいんだけど、何となく雰囲気は薄暗くて、でも2人のなかでは何かしらあたたかくて、という微妙な雰囲気はなかなかでない。これは、やはりぽんっと前にでる声ができてこそ調節できていくのではないだろうか。(勿論、その感性のもとに)。
今日は、自分の甘さを痛切に感じた。フレーズは「Yesterday」のみ。この短いフレーズというよりことばの練習によって自分の感覚している基準の甘さが浮き彫りとなった。別に今日のレッスンが特別だったわけではなく、いつものようにアドバイザーがみんなのフレーズを聞いてコメントして下さった。しかし今日は、いつもならあいまいにしてしまう問題(というより気づいていない)をはっきり自覚できた。フレーズを自分のベストの「ハイ」と同じ感覚でとり出す。たまに何かの拍子でたまたまそういう状態になることはあってもそれを維持できないことの方が多い。私の場合は、出たとこ勝負でそこにまったく基準を置いていなかった。そこに基準持っているのにイメージ通り体が動かないのではなく、何も気にしていなかった。たいがいはポジションが上がってしまい、胸よりも上の方で声が出てしまう。その状態を修正する基準があいまいすぎた。ときには無識することはあっても、何としても直していこうという気がなかった。ここにバシッとした基準を持って毎日のトレーニングをしていたらならとっくに解決してしていた問題のように思えた。何となくレッスンに出ているだけでは決して進歩は望めない、自らの意志で気づきを多くし深めていく意識が絶対必要。
振り返ってみれば、もっとやれたんじゃないかと反省してばかりとなってしまう。毎日毎日、自分の課題を明確に設定して確実にプロに近づいていくトレーニングをしていく。そのために、基準を高く細かく持ち続けること。研究者のごとく細かな小さな違いをとことん突き詰めていく。今日からまたゼロからの出発をする。
Aldila恋をすると、その人がこの世に生きている。存在してくれていてよかった、とただそれだけですべてのものが光りかがやいて見えるものだ。人生が喜びにつつまれ、それが永遠につづくような気になる。他の人と同じ一人の人間とは思えないほど深い広がりをもって自分のなかに感じられ、高貴で集約された存在として感じられる。実際には永くつづくものではないと自分は思うが、それをわかった上で、そのときは永くつづくと思わせるところにその魅力がある。とにかく、その人によって、美しく希望にみちたものに一変した人生観を出したい。
音程、聞き取る耳を持つ、個人的なテーマ・前回のアテンダンスに歌を難しく考えないようにしたいと書いたが、それはいきなり板を下ろす。ただし、上に書いたようなことは、「難しいこと」に含めてはいけないと思う。ここで入るとカッコイイ、というようなものはいろいろなものを聞いてまねて覚えていけばいいことだ。しかし、その入る場所に、どのように入るかということは、これは「難しい」ことのように思える。I've beenここまでに、曲の始まりを感じさせなければいけないし、“too long”ということも含めなければならないだろうし、ここでそのなんというか、「ぐおっ」という感じが出せなければlovin'you以降、どうやっても持ちこたえられそうもない気がする。その「ぐおっ」という感覚をどうすれば出せるか、どうすれば伝えられるか、というのは、ものすごく難しく。私には遺いもののように思えてならない。結局、難しい、というのはとっかかりさえつかめないときにいっていたわけだと気づく。要は、つきつめていってないだけなのだと。
別に順番をつけるつもりはないが、聞いて聞いて聞いて、そのとき一つでも気づいたら、やってみる、それしかないのでしょう。空間を埋める空間を埋めた人がいた、といわれてもまったくピンと来ないので、そこに気づけるまでは聞いて何か気づいたことを体に入れていき、その過程で気づいていけばいいと思う。ただしトレーナーが細い線、太い線といっていたのに気づいた。足りないのは息。太い息の線。オーティス・レディングとはケタ違いなのでしょう。イマイチ、きちんとつかめなかったが。ただし、オーティス・レディングが太っとい息を出していているのは見えた。そしてその長いこと、長いこと。タメ息が出てしまうくらいにものすごい息が見えた。ああ、歌ってこれなんだ、と思った。生きている歌だと思ったと書いてしまうと宗教っぽくてウサンクサイけど、本当に、そう感じた。カッコよかった。まだまだ抽象的だけど、大きな目標ができたような気がした。そして考えたって何もできないということに今更ながら、改めて気づかされた。Let Try Let DO Challenge。なんだかハイになっているようです。
感覚は“歌う”のではないと思う。言葉では何もいえない。お告げみたいな1つにする」ということ=“I”にする。和音も伝わると確信があれば伝わる。カンツォーネとか歌っている人は、J-POPが歌える。J-POPしか歌わない人は、それしか歌えないとあからさまにわかる。
最近、自由曲でもほぼ1オクターブの短シンプルな構成の曲を選択しているが、この曲も同じようなものだが、まず1オクターブはひろいというのを強く感じる。本当に厳しいチェックのなかで行うと1才クターブをそろえられるということはとても難しい。1オクターブはある意味、さらっとごまかして歌ってしまえば歌えてしまうから怖い。何となく物足りない感じがしてしまいがちになるから、チェックが甘くなり、もっとひろい音域のものを選択してしまう。しかし、実際は遠い。1オクターブの曲をトレーニングしていくと1オクターブの奥の深いことに気づく。1音のチェックがスタートだといわれてきたが、1オクターブ半の曲ばかりやってきたころはその本質がいまいちつかめていなかったが、今回のような-1オクターブの曲をトレーニングすることで、まず1オクターブの大きさを知り、そして半オクターブ、2度、3度といき、でやっと音が深いというところにきた。
1.「みかんの花が咲いている」「が」は鼻濁音。「み・か・ん・の・は・な」とならないようにきちんと「みかんの花」と聞こえるようにすること。2.「思い出の道丘の道」「道」と「丘」の間でブレスをせずに1息でこのフレーズを歌おうとしたので、終わりで息切れ状態になってしまった。聞き手がここでブレスがほしいというところで、特に音楽的に必要なときを除いては、同じタイミングでしたほうがいいといわれた。これと同じことをピアニストの方から聞いたことがある。ピアノでも同じで呼吸を入れるときにはきっちりいれないと聞いているほうが心地悪く(息苦しく)なるらしい。普通の状態の呼吸の回数や間隔は個人差(大人なら)はないはずだからある一定のリズム(周期)で行われているのでその動きと合えば聞き手は心地いいということになる。スポーツ武道などでも緊張しているときに相手と呼吸を合わせればタイミングをとりやすいと何かで読んだことがある。3.「黒い煙をはきながら」「は」が「あ」にならない様注意。1.の「み」もそうだけど「く」も出だしをグッと押したように出さないように注意。4.「お船はどこへ行くのだろう」これも2.と同じで「へ」と「行」の間できちんとブレスをとるようにすること。「う」は最低音。おちすぎて極端に音色が暗くならないようにする(2.の「ち」も同様)この短い歌のなかでも入ってふくらませて、締めるということをきちんと表現させないといけない。それが瞬時にやれるのがプロ。すぐに反応できないのがアマチュア。その差は大きい。
1時間で1曲を仕上げる。まったく初めての曲だったのでメロディの読み込みに終止してしまった(時間内に1曲を仕上げるのは今回が初めてではない)作品にするというにはほど遠いレベルで、メロディすら正確さが欠けていた。半分近くが対応できず、音楽はもちろん、ことば、リズム、音程とすべてにおいていいところがなかった。たまたまおぼえやすいフレーズのときはいいが、反対の場合は今回のように情けない状態となってしまう。これは感覚が偏っていて1つのパターンしかもっていなくて、それにはめられるときはメロディコピーにだけ意識をもたなくてもいから表現(作品)にするという方へ集中できるが、そこにはめられないときは音取りに8~9割がた神経を使うから何も出てこない。プロはその日に譜面を渡され、確実にお金の取れる作品にする。譜面と音源を元にイメージを描き、感覚のファイルから瞬時に合うものをもってきて(多分この時点ででき上がっているのだろう)、後は少しづつ調整をしていって仕上げていくのだろう。声、息のことは別として日本で何十年と一線で活躍されている人達は音に対する感覚が私の想像する以上の細かさ、柔軟さ、大きさがある。アマチュアは自分達の都合でできるがプロは常に時間がたっぷりはあるわけではなく、短い時間に勝負している。それなのに私などが1ヶ月かけたものを30分で軽く数段違いの作品にしてしまう。これは決して器用さじゃなく音に対する、ことばに対する体と心の反応があるということである。今回は耳のレベル、感覚のレベルがとても低いというのを思い知ったレッスンだった。
フレーズつくり/オリジナルフレーズをめざして1.その人間の内的な面をだしていく。その作品を自分のなかに入れたときに、その作品を生かすか、作品にのみ込まれるか。自分という人間の内的な面を出していく。2.他の人から感覚を学ぶ。グループレッスンの大きな意義。3.「ここは少しゆっくりやりたいな」というような、あとで応用がきる基本線を引いておく。4.カが働くように打つのであって、力で打つのではない。5.自分がどういう目的でレッスンをやっているのかがわかっていない。6.間も含めて表現、どう間を入れたいか。音の世界で何を込めて何が出てきているか。7.音符にはたくさんの情報が載っており、いろいろなことを教えてくれる。しかし、感覚が入っていない。8.定型バターンでは通用しない。自分のなかで決めつけたもの川で続いている。一番大きな違いは私のは通用しない。9.フレーズに感覚を入り込んでいく。フレーズごとで感覚をつないでいく。10.最終的には音を動かすということが目標。自分の内面にある感覚を問うていく。ただ定型パターンで−−と出してもつまらない。11.後々、修正がつくような感覚からだを作っておく。「後でからだのできたときにその感覚のままでいいんですか」。12.感性の差、音の世界の理解の差。→要する音(人間の場合は声)だけでどこまで表現できるかするか自分の感覚、ではなく。
表現する「アデュー忘れないで」ここの間の時間が何とも白々しい、ちょっと誰かいって、みたいな雰囲気。「アデュー」をまだまだ全力でいっていないということ、それもあって自分の呼吸を「忘れないで」までもたせられないということ。「出てゆく船を送るわたし」この曲の気持ちよさは絶対リズム。
「Tempo di Bolero」。ボレロっぽく。ボレロ=スペインの舞踏のひとつで、1780年頃有名な舞踏家セレソ(S. Cerezo)が創作したといわれている。音楽は3拍子でカスタネットの伴奏を伴う。(新音楽辞典・音友)カスタネット。自分の声だけでボレロのような気持ちよさを表現するなんて。ああ、想像しただけで気持ちよさそうだ。現実には「でてゆくふねをおくるわたし」になってしまったり、「でんてんゆんくんふんねんをんおんくんるんわんたんしん」になってしまったり。しかも基本は息だ。出だしが決まればあとはいただきだ。「悲しいつらい別れだけれども」今日一番ごまかしたところ。テンションが下がったし、ピアノの音につられてしまった。子供が歌っているみたいだった。言葉に戻り、コードを感じ、そのなかでメロディになること。何も考えなさすぎて歌い始めてしまった。もっとしっかりと5分でも10分でも、いいたくなるまで準備をしよう。落ち着いて考えてみたら、全部ピアノでさんざんやってきたこと。技術を上げるのと同時に、あとは、曲をもらってあなたはどうしたいの。あなたはどうしたいの。それだけのレッスンだった。リヒテル、ポリーニ、ヘブラーの音。ひばり、ピアフ、カレンの声。
なぜ曲はこんなに大きな広がりをもってきこえるのか。最初の入り方<k>の音ひとつで既に曲の大きさを感じる。自分が日本語でやると<あなたの~>の<あ>はべたついておかれるか。何の意志もなく中途半端に伸ばしているだけのようだ。この最初のフレーズは何度も出てくるが、それぞれのフレーズに入る前にきちんといいきって大きな呼吸で入る準備ができているように思う。私はまだこの感覚がわからない。どうしてもうたうことに意識がいき、先を急いでしまうからひとついい終わって次にどうだという間がまったくない。ワンフレーズを完結させるというのはきちんとピークをつくってこうおわりましたというものがないとしまらないのではないのではないだろうか。器がまったく違うと感じることが多い。どのフレーズをやっても<特に4、8フレーズ>私の場合1Mくらい先をみながらうたっているのに対し、見本は1曲を全て自分の目の前において組み立てているように感じる。集中力の問題もあるし、声の問題もあるかもしれないが、その曲の感じを決して壊さない1本の線が最後まで続いている。
一番大きな違いは私のフレーズはきれていうように聞こえ、見本はブレスがはいろうが関係なく、ひとつの曲にきこえる。あなたは私に笑顔でこたえる。イメージの大きさがないと、あなたは、私に、笑顔で、こたえる、と4つにきれてしまう。考えてみると(考えなくても)何かを伝えるときに単語を切ってしまうのは不自然なのに、その不自然なことをやっている。どこを強調していいたいかということ、構成をうたうときに考えていないのがわかる。そういうふうに歌をつくってきていない。4つの言葉をどうおくのか。自分にしっくりとくるフレーズではなく見本の呼吸をまねているだけのようだ。大きく出すことが伝えていることではないはずなのに、そうやることで音と音が隙間だらけになり、自分で思っている以上にあーなーたーは、になっているようだ。線を1本とおさないと、統一されたものとして出てこない。
今まで言葉をいうことばかりに意識がいっていたが、ポジションが言葉ごとに変わってしまうと全体の流れがみえてこなくなるようだ。1、2オクターブからだにある彼らは、そんなことを意識せずとも統一した線を出せるように思う。きいていると、ひとつの線上に音をおいていっているだけのように思うが感覚で、ただ動かしているのをきくしかないといった状態。先を読むということができない。それと、ひとつにとらえる感覚も自分の声におっていて、この程度というのにおさまってしまっている。出しているものが平坦になっていることに気づくこと、今できることをやらなければ感覚も鈍くなってゆくだけ。自分でこれでよしとしてしてしまったところから、おちてゆくように思う。これでいいということは決してないということ。感覚は出ているものでしか判断できないから、とにかくより伝えることを考えること。
全てなのだが言葉をひとつににぎることにこだわること。元曲の雰囲気に影響され、ながれてしまうことは、いつでもおこると思う。言葉をいう(表現する)ところからフレーズにしていくこと。言葉をたたみかけていくというのは、どういうことか。今日のフレーズ<あなたは〜答える>をやったときに完全に遅れていると思った。なぜ、そうなってしまうのか。多分感覚が先にいっていず、ひとつの言葉をいうところにしかイメージがないこと、ひとつににぎる感覚が欠けていることが原因ではないだろうか。フレーズにしていくこと。集中力がないと点を打ったように隙間だらけのうたになる。<歌といわない>流れていないものは音楽としてきこえない。コントロールも必要なくなる。
自分もオーケストラは好きだ。ピアノ。日本のものじゃないけど。じゃあ、郭英男(デイファング)みたいに、台湾ものにロックとか。なんとなくそうしたいなーと思っています。日本は、マスコミが親がわりという感じ。日本と外国の差がすこしみえた。すごくはてしない。エベレストみたい。こわいぐらい。この奥深さは、ものすごく安心を覚える。そのなかにいるから、みんなそれを知っているから。すぐ前にだせる。と思いました。1つにとらえる。「ミ・ソ・ド」ではなく。私、声、ピアノ、私。“私はできるんだ~”という思いは「伝わらない」。「伝える」という思いは「伝わる」。宇多田ヒカルは全部同じようにきこえてしまうのはなんでだろう。外国の曲はもっと別な色がなっているようにもきこえるけど。ダイアナKの「上をムーイて、アールコオゥオウホゥよ」は、いろんな色できこえるのにな。
ちょうどピアフの「枯葉」のときだ。インストではスーッと全体が体のなかに入ってくるような気がする。曲の流れとか、気とか、面白さとか。ところがところがところが、歌モノになると、なんだか自分と音源との間に薄い膜のようなものが張られてしまったかのように、いろんなことがさえぎられてしまって、耳に届いてこないような感じがする、要は歌ばかり、いや、声ばかりに気がとられてしまい、「なぜその声なのか、なぜその歌なのか」という根本であるバックの音が聞こえなくなっていたんだ。
Queenの曲をやったとき、フレディ・マーキュリーの弾くピアノの音色をよく聞いて、という話がちらっとあった。ちょうど前のレッスンだ。そのことを思い出した。あるいはかなり前のレッスンのこと。ずっといわれてきたことだったナ。「歌ってそんなに特別なモンじゃないんだぞ」と少しばかりの間、思うようにしてみよう。いろいろな人が枯葉を歌ってきたが、イヴ・モンタン以外(ピアフを含め)、不自然に聞こえたのはなぜでしょう。その歌の、あるいは自分の耳の何が原因か。
When a man〜別に英語の発音を聞いてんじゃない。きれいにできても、ただ嫌味なだけ。先生は音色をよく聞くようにといっていた。自分のなかでイメージする。切ない音色。心の叫び。だけど出てくる音にはまったく勢いがない。変な風に出てくることを無意識に恐れている。自分の歌を本物にするためには、どんなことでもやる覚悟ができていない。一時、恥をかいても。それが後で上達することにつながるんだったらまったく構わない。英語が声の表現を邪魔してしまうのなら「ラララ」でやるとよい。イメージしたら発声のこととかいろいろ考えすぎないで感じたまま来直に遠慮なく前へ出してみること。気持ちの問題だと思う。You make me feelアレサ・フランクリンでさえ、感覚的にギリギリのところで声を出しているのに、なぜ、こんな腑抜けた声になってしまうのか。自分の限界のところまで使い切れてない。もっと腰のあたりから声を発すること。前の人に向って声をぶつけるぐらいの勢いを持つこと。
「アヴェマリアー」たった2音で、いや1音でもフレーズは作れる。(レガードでなく、スタッカートの1音でもだ。)今日、この場で回った、ほとんどのフレーズはなんか腹に落ちないというのか、そのままうすっぺらく流れてしまうという感じ。腹に落ちたままでもダメで、腹で跳ね返って弾力をもって発散しないと動いていかない。
この2音「アヴェーマリアー」の動きで、どこまで音楽を感じ、音楽を創り出そうとしているかがよく見える。表面のカタチを追うのではなく、ちょっと深いところの動きに耳を澄ませる。
Doesダで体と息を入れて、アという母音が聞こえる感じ。ダすらしっかりといえない。ズはそれにくっつく感じ。ダで息を入れてズはおまけで、後ろに心がかかると、全部気をつけようとした時点で不自然になる。テンションも、伝えたいことも、イメージも曲のどこかに吹っ飛んでしまう。大きく大きくつくって、細かい練習もして、リズムも音程も落とさないで、息吐きと「ハイ」にもどして、自分の呼吸でやって、英語のイントネーションも徹底的にやる。そうしないと、自信がつかないから。それでステージにする。本番では開き直る。それで思い切りやる。思い切りやって、どうなるかはわからない。Wordふみきる。ここで体を入れるのはdoesもWordもloveも全部同じ。息、息。Rushここの勢いを聞き取れなかった。別に難しく考えないで、ふつうに聞いてればわかるのに。いやになるくらいに鈍い耳。何で聞こえないんだろうか。感覚が閉じてしまっているから。読む練習を毎日毎日せよ。つまりは、日本語で暮らしているので、英語の感覚に慣れていないだけのこと。ロの筋肉が鍛えられていない。あんまり気張らないこと。体でいう。引っこんでしまうのはだめだし、こもってしまうのもだめ。英語じゃない。息でいうこと。息に声をのせること。もう全部やらないと自信が持てないから、英語にもこだわる。
ボブ・マーリー。彼の詩が政治色の濃いものであることは伝え聞いていたが、どうもレゲエというと、暑くてのん気で単調で眠くなるという印象を持ってた。「ワンオブ・ボブ・マーリー」。1980年脳腫瘍に侵された彼が、命尽きる直前に残したメッセージ。約1時間のライブを収録してあった。想像以上の頭痛にあるらしい彼が、そんなそぶりを一切見せず渾身の力で叫ぶ。緊迫感を伴いつつ、しかし彼の音色は底抜けにユニークだ。一見雑に感じる演奏だが、ひとつひとつのフレーズに繊細な意識が届いているのがわかる。
「NO WOMAN NO CRY」は長い演奏だが、気が途切れてない。満ちている。その瞬間を噛み締めるように歌う。一番ショックだったのは、題名忘れたが(Soul train is come in away〜)とか歌っている曲で、詩の内容はまったく知らないがものすごく痛みが伝わってくる歌だった。ここまでメッセージがストレートだから、フレーズやアレンジをユニークにしようとこころがけたのかどうか知らないが、この相反するものが一緒になって互いを活かしている。私だったら、もう少し飲み下しやすいかたちに詩を丸めようと考えるが、彼はあえてそれをしなかったことで、より多くの人たちにメッセージを届けた。何より、彼自身の人間力がまわりの人たちを引きつけるところが大きいのだろうが。タイムリーなことに、渋谷でこのツアーのドキュメントフィルムが上映された。ステージの彼が、心底演奏を楽しんでいた。その瞬間のために生きているんだなと、思えた。
ホリー・コール「Calling you」1.全ての面で間の(意志の)抜けた声。2.アタックをビシッと出そうとすると、重心は高くなって声を手放してしまう。(腹がヘコむ出し方)声は拡散。3.オリジナリティ(など、余計なこと)を考えると声は上っ面になる。「フランス「語」1.3/8のリズム、グルーブ感を出せない。(アクマントの位置、音の切り方など注意はしたが)プラターズ「ONLY YOU」1.クギを差されただけで、ファルセットをやらないで引っ込めてしまった。普段唄うときよくやるくせに、小心者。やりゃあよかった。
ビートルズ「LET IT BE」1.リズムの流れ、音の間の形。表現手段をビビッて直前回避するってことはできないってことじゃないか。何をしたくてその音を発したのか。声、うまさ云々じゃない。出したいモノが自分のなかに入ってなければ、どんなに力んでも何も出てこない。
1.息はき 2.HA~(浅くならない) 3.発声 4.歌唱 きしむベッドの上で~
酔うテンションのないことが一番問題とおもったから、ことばがぶつ切りにならないようにとにかく入ろうと思った。いきあたりばったりで終わらせてしまっては何にもならない。
息のゆれ、声のゆれの注意を受け、長めのフレーズを連取してみるというアドバイスを頂いた。ファルセットが中途半端、トレーナーも(かな)という今いち確信のないというか、小首をかしげてたようなコメントのよう。ことばひとつ、芯ひとつ中途半端でアウトプットするまで詰まってない。フレーズ回しでは自分しか声出してないんだから視線集めるのはあたりまえだけど、そうでなくてことを起こしたことを肌にしみなければいけない。
本来、息の線など1ヶ月で見えなくてはどうしようもないのかもしれない。恐らくそうなんだろう。音楽の素養があって、うまれつきノドもしまってなくて、声のキレイな人には一体どこに必要性があるのか奇異に写ることだろう。一生声が体に入らないかもしれない恐さ。受け身の興味しかないのか。
どしろうとのきらめきもなければ、プロの説得力もない、入口でウロウロしているのは一番みっともない。
水面下の器づくり、1.全ての音を同じポジションでいえる。2.1オクターブ同じ音質を保つ。あくまで水面下の条件。正直に体が変わるまで待たなくてはいけないし、油断しないで精することもいるだろう。
が、それだけだったら必ずしも研究所に通わなくてもよい。そうでない必要性あるか。手間暇に自分はワクワクできるか、表現することにワクワクできるか。
全ての音を同じポジションで捉える、音質を揃えるということで村上進さんはわかりやすい。同じ言語でも壮大に聞こえるのは日本語の音楽的処理ということなのか。想像だけど日本語の訓練したのでなくてカンツォーネ歌いこなしていくうちにそうなったのだろうか。男の人の方がわかりやすい。村上進さんはイメージが湧きやすい。
新井英一さんの“オオカミ狩り”この人も水面下の条件が揃っている。この頃飢えていた“キレ”や“刃物”を持っている人。今時のフリーターでなくてボヘミアンの“キリリ”と厳しさを感じさせる。どんな曲調にも同化でい深い情感を持っている。アレッという路線にでてもださくならないのだ。個としてのりりしさは見習いたい。深さで負けてたんじゃいけない。カルメン・マキのライブでも感じたけど、しっかりと生きているって思わせる歌を歌うこと。
Ave Mariaはただひとつのよろこび。恵みを私たち親子のうえにAve Mariaこの子に幸せをあなたの導きで愛されること愛することのできる強い子にしてください。
すごく優しい歌。ところがすごくむずかしかった。そおーっと歌うだけじゃ声が届かないし、高音だからといって気張ったら台なしになるし。ファルセットを試してみたが、地声からファルセットへのつなぎ目がきれいに決まらない。言葉に関しては、たとえば単語のもつ弾力に任せていればフレーズの流れができてしまうような曲もあるが、この歌は力めないし、かといって力抜くとヘロヘロにな声いなる。
3声でコーラスを合せたが、どうも気持ちいい音にはならなかった。WOOと発声するといって力の具合、ポイントによってさまざまな音が出る。私は最後まで「コレだ」という音をみつけられなかった。アメリカのコーラス隊はものすごく整っていて美しくて、完ペキで怖いくらいだと感じることがある。でもあんまりきれいだと心に触れなかったりする。ボブ・マーリーのライブのコーラス隊は荒っぽくて、時折危ういと感じることもあるが、バッチリはまったときにはすごいパワーを発揮する。人間味がある。摩擦熱みたいなものを感じる。この摩擦熱こそが音楽の一番大切なもの、そうだ。そうか。ちょっと最近、メッセージとか考えることでがんじがらめになってた。もとい。あの、うますぎる人達のコーラスにあまり魅力を感じられない、というのは私の聴覚レベルが低いからなのか。あるいは好みなのかな。
「知ってほしい」のフレーズ処理がいいなと思う。日本語詞の、特にサビのあたりは朗々とメロディーなぞると何がいいたいのわからない。どうしても歌に自分をはめこうとする。ホースを通る水のようだ。くやしい苦しい。・美しく歌えても面白くもなんともない。(美しくも歌えないのだが。)・マニュアル通りはめこみました並べました。それは答案用紙であって、作品ではない。
歌の世界を豊かにする「フレディ あなたと出会ったのは」この一フレーズを歌うことがむずかしい。一人一人の声、表現を聞いてそう思いました。自分のイメージが足りないのか表現しきれない。
「楽しいことなら何でもやりたい」声が気持ちが楽しくなっていなかった。“何でもやりたい”という気持ちまでにもってゆけてなかった。
「ぼくを忘れた頃に、キミを忘れられない」
「くもりガラスの窓をたたいて。キミの時計を止めて見たい」
この曲は言葉でしゃべるような歌い方なので言葉とリズムの取り方が難しかった。
「愛をなくして何かを求めて」この気持ちになって歌おうと思っても、イメージ通りに行かずフレーズのもって行き方が思い通りに行かない。今は、いろいろなフレーズを歌って、またいろいろな人の声、表現を聞いて大へん参考になりました。
曲の流れ、勢いがあること。どうゆうふうにやろうということが見えること、イメージの拡大・音をもっと大切に扱う。音として出す。モノマネではない。目的意図があること。目的を明確に。鋭さがあること。踏みこみが足りない。
1.serena ioero serenaいってみて他の人が間のびしているのと同じように自分のフレーズも間のびしていた。言葉でいえば「serena」といえているものが音をつけるとse-re-naとぎれてしまう。
どんなときも弱音を吐くな。男らしくやるんだぞ。いいか坊や約束してくれ。言葉をフレーズにしていく。今まではいつも言葉がぶつぎれだったのが少しづつ先へすすめるようになってきたと思う。ただながればかりとると表現も何もなく表面的なうたい方になってしまう。前へ伸びていく感覚は外国語と同じで、少しでも今感覚していることよりもう少し先をつかむという気持ちでやっていきたい。
音と音のつなぎというのはもっと重要なものだと思うけれど、それはただ単にひとつの音をつなげているだけではないか。もっと音を自分のからだの奥底にしまいこんで感じてうたいたいがなかなかそうならない。感じて出すことを試し続けること。
雪村いずみさんの「約束」とピアフの歌を思い出した。ここまで感情をいれこんでもくずれない。ストレートに言葉がとんでくる、だけど言葉をいっているだけではこうはならないだろう。随分と長い歌詞だなと思ったものがあっという間におわってしまった。ひとつのストーリーとして完結していておわった後、1本の芝居をみたような気になった。この入りこみ方、集中力は自分におきかえて考えるとそう簡単にできないだろう。
<エヴィータ 飛躍に向って>おどろいちゃいけないよ。まだエヴィータの野心はいよいよこれからが腕の見せどころ。(2拍3連か、シンコペか、自分は一体どうするのか=意志)のぞみがかない今やエヴァはスターだよ。ラジオのアイドル。社交界にも顔を出す人気女優。エヴァはまた身構える。行くぞ次の踏み台は誰だ。はるか空をめざす。裏街のノラネコよかけあがれエヴィーター(この捉え方、聞き方、動かし方を忘れないこと)まず歌詞の聞き取りでこれだけ間違えた。前後の意味が通らなくて“変だな”と思っても耳をすませて聞いた結果がこれだ。
私もオリジナル曲をまったく違う歌詞で受取られることがあって(客ばかりかバンドのメンバーさえ)“少し考えりゃ解りそううなものなのに”といつも思っていたが、これだけしっかり唄える人が、しかも言葉を前面に出して唄っていても、完全に歌詞が伝わらないのだから、言葉をリズムやメロディーに乗せてきちんと送り届けるということは自分が思っているほどできていないんだろうなと思う。
<フレーズ>では自分の声を捉えていられない。どうしても拡散してしまい、そこい芯はない感じ。それにただデカい声を出しているだけのようで、仮に体が使えているとしても、それが出て来る声に対してすごく効率悪い使い方をしているみたいだ。フレーズの最後の音も、まだ流れて(流して)しまっている。“自分に今足りないもの”は何だ。仮にオーディションだったら、自分は何をどう出すか。ベースやドラムと同等のグルーブ同じリフが何度も出てくるということは何かが少しづつ変化していかなければ展開(前へ進んで)していかない一声を大きくするとか、唄い方を変えるとか、そういう問題ではないーじゃあ何をどうすりゃいいんだ。―精密な詰め(圧倒的に自分が優位なもの)=うまく演ろうとしてもいい結果は出ない・(素材を)どう面白く演るかこれが全ての基本なのかも今日はレッスンのスピードと集中力が違ったように思う。内容のこともあるだろうし、単特のなせるワザだろうか。普段のグレードという線引きも混ざるといい作用を起こすんだなと思った。いつもの何だかモヤモヤした自分との格闘の他に、わかりやすいちょっとした刺激がある。