一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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先生の“決定版ヴォイストレーニング”を拝読し、私が出席できたのは、仕事と音楽活動のあい間の限られた時間でしたが、歌と真正面から向かい合う具体的画期的な方法論、そして自分が正しく歌っていくための勇気、ここで本当にたくさんのものをいただきました。

自分は、自作の曲をライブハウスなどで歌い始めて10年ちょっとなのですが、福島先生の本は他のどれとも違う、画期的で的を得ているとても素晴らしいものでした。

そして、研究所では、不器用ながらも自分なりの確かなものを一つ、つかむことができたと思ってます。はじめは2年間というつもりだったのですが、レッスンでの新たな発見、おどろきがあります。むしろ、このままもっと深いところまで行くべきであり、研究所を続けていれば、それは私にとってすばらしいことに間違いありません。

研究所では、自分の視点(私が興味をもっている視野)のなかでやれることは、かなりのところやってみたつもりではありますが、自分の視点を変え、視野を広げる余裕がもてませんでした。これは自分の責任なのが心残りです

(たとえば、勝田先生の講座、受ける時間がつくれなかった)。VCジムは時間的にも自分にとっても行きやすかったこともあり、行けるときは日課のように行きました。また、Voice Culture Clubも毎号、楽しみに読ませていただきました。目からウロコが落ちることが何度もあり、またとても勇気づけられました。VCジムは全部、通してやると相当ハードですが、とてもパワーがつきます。ジムだけでも継続させていただけたら、本当にありがたいのですが。私はもともと学校(というより集合体)がとても苦手だったこともあり、先生とも仲間ともあまり親密なお話をする機会も今までもてなかったですが、それでもここで、たくさんのものを得ました。

 

 

歌手に必要なのは自分自身に厳しくなければならないこと。歌のこと、生活のことでどれだけ厳しくできるかそうでなければ自分のために音して下さる方々の言葉の真もわからないし、今の自分の歌に満足しがちになる。それではそれ以上の向上は望めません。私たちの世界では死ぬまで完成はないかもしれません」自分で自分を厳しくしていくことほど大変なことはないように思う。でもこれはっきりしていることはないのではないのではないのではないだろうが。うまくいかないのは自分のせいなのだから文句もいえない。どんな人も限られた時間のなかでさまざまな工夫をして取り組んでいることと思うけれど最近思うことは応用していけなければ学べているとはいえないんじゃないかということ。同じ失敗を何度も繰り返したり、同じような感じ方をしていきずまったりするときは見方や工夫を変えるのがいいと思う。大抵は自分のおもいこみや好き嫌いの感情が邪魔していたりするのだから。それと素直になるということもどういうことか考える。みるからに素直そうで人のいうことをよくきく人がいるけれどそれだけではだめなのではないかと思ったりする。

最初は全てを受けてみることが大切だろうが、やはりどんなことに対しても自分で考え直す作業が必要だ。感情抜きにしてその人のいっていることをストレートにうけとってみる。自分を自覚する上でもきくことが必要。離もが同じ言葉をきいているにもかかわらず感じ方、受け方はまったく違ってくる。それが大きな差をうむとしたら言葉の裏にあるものを聞く耳をもたなくてはいかんなあと思う。

 

 

ひばりさんとピアフの声を“からす”にたとえてしまったが、そういえば二人とも朝日でなくて夕焼けだ。お祭りマンボも軽快で明るいようでもかなりブラック、オールマンリバーやサマータイムに通じるものがある。時代というのもあるし、人間の存在自体がどこか哀しさ、哀れを含んでいるものなのかもしれない。ひばりさんの生きた時代は歌謡曲も映画も全盛時代で、娯楽も芸もまだ正直でシンプルでいられた。

今は多様化して大人から子供までってあまりないし、宇多田ヒカルだって好きかと聞かれれば嫌いでないけど、ベンチャービジネスが大当たりしたみたいな、マスコミのお遊びみたいなのある。にいちゃん、ネェちゃん、みんな血で共感してはナイデショ。彼女に限っては潰されないような気はするけど、いわゆる日本の芸能界もひと昔まえのように鎮座してはいないだろうし、四角い箱の外から想像するのみで知る由もないけど、誰とはいわないけど、世間に発信できたがために、音楽というか、芸というか、芸術というか、芸術のこころというか、人間性みたいなのが本人に宿ってたのに、何が大切か知ってたのに、切り裂かれてしまった、知らぬ間に離してしまったカナシイ人もけっこういる。見失って、また苦労して自分を取り戻した人もいるはじめっから宿ってないがために、すいすいと活ポッ動できちゃう水のあった人もいる、と出てこれたために自分のなかに必要性を確認できない人もいる。

 

世間は初めに露出したときのイメージで肩書きをつける、その人だと思い込む。役者が歌を歌っていると一生いわれるその程度のギャップなら御の字だけど、本当は裁判官なのに被告と呼ばれたまま生涯終えるひとだっているかもしれない。雑誌とかの活字も参考程度に吸い取って行かないと、作為的なのアリアリなのがクサイ、ほんとにこれが現代なんだって鵜呑みにしたら身がもたないので自分とはいったん距離を置いて(ふーん、そうなの)って聞くことにしているそれ特にそれがホントにこの世の現実だったとしても、無責任だけどあまり自分と関係ない、気にしない。

けれど年上の人を見ていると、生きていると周囲や人生などに生かされていることへの感謝とかは生まれてくるみたいだ、たぶん、愛みたいな、乾いてなくて、湿気を含んだ横つながりの感情が。ロックによくあるような叫びとか、孤独とか、反骨精神のガラじゃないしな。

家でフツーにCDを聞くときでも感覚を鋭くして聞けるときと、まったくダメですうーと眼前を流れていってしまうときがある。鋭く聞けるコンディションづくり、HOW。耳のためにも体の感覚を呼び起こしておく。

 

その昔“ブッシュマン”という映画があって原始生活を送る“ニカウさん”(役者でなくホンモノを採用していたが何とも味のある笑顔だった)が、“コーラの空き瓶”という魔物を見つけて、一族のため、たたりのない様に遠くへ捨てに行くという(あどべんちゃーすとーりー)だった。そうか、ニカウさん。自分のなか深く、純粋の代名詞、“こども”に帰れる感覚、赤ちゃんの無邪気な笑い声のような、この世を初めて発見したかのような面白さ、母親の姿を初めて認めたときのような喜びをトレーニングに抱いて毎日を送れるかどうか。/コンポで、オートリピート機能を使えば、同じ曲を繰り返し演奏してくれる。でも、今自分はこれをもう一回開きたいんだっていう確認作業がいるんだってばと思う。

福島先生がよくそんなこといってたよなって気がした。

陶器、からすーでも美空ひばりさんの声は少々赤い。無理から喩えるなら焼け野原、夕焼け畑だ。もっと幼さの残る、うわの空、両性具有の白い声。大阪人の嗅覚でヘレン・メリルはシナモンパウダー。お茶の水博士の研究室で声の調合はやっているか。/ほんとうに大事なことは日記にも書いていない自分。年齢、経験不足、体力、どれも痛くてビリビリビリただ取り払わねばならない知識もへったくれもなかったので、極めて直感的に振り下ろせて、日本の音楽教育受けなかったメリット(天才はどちらからアプローチしても関係ないだろけど)もおぼろに感じる、ただ今から音楽云々するにはやっぱり、沼に足をとられかねているので早いこと中身埋めなきゃ超ヤバイ。10才若返ったくらいじゃ足りない。

 

 

元「紫」のギタリスト、ひが正さんの話から。~みんなそれぞれ根元があるんだよ。そこから音を吸収して消化して自分のものとしてはきだす。その根元の大きさ、吸収する量、消化の具合、それを吐きだしたとき、解放された音がその人の音楽となってでてくる。同じ音楽強いてても同じ音がでないのはそのせいだよね。でも、根元が同じだと自然と近いものはでてくる。/欲は大切。そうじゃないとこの音はでないよ。たとえばジェフベック好き。完璧に吸収する。吸収するんだけジェフベックの本質みたいなものは、すべて表現はできない。自分はあの本質とまったく同じではないから。(中略)音は言葉さ。話して何回も話すと言葉はそのように話せるけど、根元が違うと色までは同じにならない。まるっきりちがうもの。俺はジミヘンだけコピーしてもあれにはならない。根がちがう。確かに私にとってジミヘンの世界というのは、やっぱり自分のなかの一つの扉だから、ここを開ければジミヘンの世界。オレだけじゃない。だれでももっている。

沖縄にもいろんなギタリストがでてきて成長している、いい感性持っているのも。でも肝心なそういったものがまだまだ。(その肝心なことを身につけるには)まず耳。区別できるかどうか。この音と音の違い。できないのに。(その耳を縫うためには)広げることじゃない。/(耳がそういう区別をできるようになったのは)28才ぐらいだった。薬をやめる半年前かなもう聞こえかたがね、かわった。ある意味。ある意味だよ、いままできいていた音がまったくちがう音になっていた。(中略)聞き方が変わると上っ面がかっこ悪い連中もなんでもきけるようになったんだ。なぜかというと彼らは何が根底にあるか、なにをしているか、とか彼らにとってヒーローは誰かとかいうところまで聞こえてくるようにねったから。その音がでてくる理由、バックボーンまで聞こえるようになったんだね。するとどんな音でも強くなることができるようになった。言葉にするのは難しいんだけどそーゆー感じ。28歳のその白以来、耳がいいというか、広いというか。1つの音から限りない深いところにある音まで聞き分けられるようになったんだ。オレの後ろにジミヘンがずっといる。この正体がなんだったのかも見えた。見えたんだ。正体というか根本の音がわかった。/(完成され、円熟にはいっているようにみえる、といわれて)とんでもない。たとえ築き上げたからといってもそれにあぐらをかくつもりはない。また自分で壊して1から。そういう世界。

 

 

ハーレムにいった。デ・ラ・ソウルとYou the rock見た。You the rockがすごいとおどろいてたら、デ・ラはもっとよくて日本と米の力の差をおもいだした。MCもDJもリラックスしてまったく無理してない、でも日本のHIPHOPの取り入れ方のダサさを強く感じた。ジャンルなんてどうでもいいが、各人のSoulが入ってないと。今バンドはハードや狂った感じとか、笑いの感じが強く、せんさいさやシャンソンのようなテーマも出せるようにしたい。

 

Derasoul(R2Per)のShowを見てきた。3、4時間続けざまのRymeにあぜん。すごいPowerだった。

 

 

自分と研究所・福島先生とは、私がここで学ぶことがこれからやっていくお笑い芸人の活動に大きなバックグラウンドになるということをまず話した。私のお笑いの考えとはひねくれていて、養成所に行ったり、プロダクションに若いうちから入ったりするよりは、自分のこれだと思ったものをしっかりとおして、それをお笑いにつなげていこうという考えだ。「それはおかしいよ」と思ったらその時点で私は幸せである。

研究所は他(日本)では得られないものがたくさん入っている。それを自分が知っていることは今後かなりの強みになる。他の若手の芸人さんは知らない。お笑いは遊ぶのも勉強だといって遊んでいる。そういうものじゃないだろう。芸というものはもっとストイックなものだと思う。遊んでいるような芸は所詮、調和の取れたものにしかなれない。よくなってもその程度で歴史を変えられない。どうせやるなら異常をめざしたい。新しい何かをこの時代に吹きこんでいきたい。しっかりとした何かを私が身につけたときは、奥ゆきのある、個性的なものが身についているだろう。「お笑いは機転のきいた発想があればいいのだ」と思うかもしれないが、厚みのある大人の本物の芸をするにはもっと上の考えがある。まあこんなことを書いたら笑えないのだけど、笑わすときは自分のやりたいことをステージの上で冷めて踊るだけだ。先生に昔の芸人さんの話をいろいろしていただいたので興味が沸いた。もっと勉強していかなければ駄目だ。

 

海を見に行った。海をじっと見ていると、妙な気持ちになる。なんといえばよいのかわからない。決して心安らぐとか、落ち着くなんてものではない。むしろ逆だ。どことなく恐ろしい。畏ろしいというのか。でも行きたくなる夏とそして冬。この季節になると(むろん他の季節でも行きたくはなるが、特にという意味)行かなくては気がすまない。好きなんだろうなァ。なんだか、歌と似ている。音楽と似ている。現時点での私の、現時点での。

 

声明等、日本の音表現に触れる。声を出す快感、音をすり合わせる快感がある。宗教で経をとなえる(多数で)のと軍歌で志気を高めるのは何か似ているかもと思ったことがあった。「だんだんよくなる法のたいこ」というわざがあるが、やはり引き出されるもの、引き出し合うしかってあると思う。

 

超能力はあり得ると思う。野生のものたちはみな持っているものなんじゃないかな。舞台やスポーツですごい人達は「現実」や「考え得る範囲」を突きぬけた世界を感覚を体験させてくれる人たちだ。普通ではないのだ。でもまた異常ではないのだ。お経は「ひゅ」の集合体。

キリストもブッダも福島先生も伝えたいひとつのかたまりがあってそれをあらゆる角度から視点を変えてイメージさせようとしている。人間根本にあるものに大差はないが、経験や環境で心の窓口はちがう。だからすんなりダイレクトには伝わらない。だからこれだけの歌が生まれてきた。うんざりするほどたくさんの恋愛の歌があり、それでもなお新しいその手の歌が生れてそれに心動かされるのはおもしろい。

だれだったか忘れたが、「その作品」にそのつくり手のまなざしがある。すべての(作られた)ものにはまなざしがある」というようなことをいっていた。あることがらをどういう視点から、だれに向けて伝えるかで方法はまったく変わる。

 

ダウンタウンの笑いは初めのころは暴力的で面白いとは思わなかったが、最近になってわかると思えるようになった。松本人志の視点はすごく面白い。だれも気がつかないような角度からぐるりっとよじもぼってくるので、まるで飛行機にのっけられて一回転されたような感覚がある。目覚めている時と同じようにそんなことばかり考えているんだろうか。感じているんだろう。ふつうの人はまあいいかと通り過ぎることにしつこく喰い下がる「しゅうねん」があるのだ。ずいぶん話が暴走してしまったが、ときやメロディーに対する自分の考えや好みがこり固まってしまっているが、もっと自分が働いて新しい視点を探ってみたらいいんだ。

 

 

NBAの選手のマイケル・ジョーダンのプレイを見たり、選手の試合をみたり、風景などいえば、アメリカのグランドキャニオンを見たときや、オーストラリアのエアーズロックを見たとき、もっと身近なものでいえば、私が入院したときに父と母が毎日、見舞いに来てくれたことなど、その全ての感動に共通するモノがあった。

それは自分がある程度、予想できるモノだが、それをより破った、それをより予想はできるモノだ。そういうモノに人は感動するような気がする。それを私は歌で出していきたい。そのためにはどうするのか。それは、一生懸命やったり、枠をぶち破るのはあたりまえで、そこにそれ以上のモノをのせていかなければならない。そうするためにはやはり本人の努力しか方法はない。そして一流のモノにはそういったモノが含まれている。それを聞いて出さなければいけない。予想はできるが、それをはるかに越えるモノをめざして音楽を楽しんでいこうと思う。

 

 

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おすすめ

 

 

こんにゃく座「セロ弾きのゴーシュ

とても楽しみにしていたのに、何だかミュージカルなのかオペラなのかよくわからない、つまらないものだった。沢山賞をもらっている舞台らしいが、その理由も納得いかなかった。演出はセロを形どった大きな装置。6人という少人数、個性的な来客とよかったと思うが、宮沢賢二の本をそのまま歌にしてしまうより、その筋だけかりてきて、もっと他の訴えたいこと、主題をハただッキリさせた方がよかったと思う。ゴーシュのところに毎晩客が入れかわり立ちかわり来て、結局一体何がいいたかったのかわからなかった。出演者も、声楽家の集まりらしい。(この舞台は“オペラ”といっていたので)が、4年以上勉強したとは思えないほどうまくなかった。ゴーシュは主人公なのだから長めのソロを入れて、オペラのあの迫力ある感動を与えてほしかった。でもソロを歌えるほど力があるとは残念ながら思えなかった。大きな声になるとかなり乱暴になってしまっていたし、あまりいい声ではなかったように思える。女性達も、オペラというよりNHKの歌のおねえさんのような声で残念だった。本当はよい舞台だったかもしれない。ただ私の好みに合わなかったか、私が理解できなかったのか、どちらかかもしれない。今度は他のオペラをたくさん観て、もう一度考えてみようと思う。

 

ランド・フォオリーニ

歌をきいてすごくよい歌声だ。素直に声が出ているから、この人の味が見える。声を出すのが気持ちよさそう。曲に乗っていて、変な力みもない。自然に歌が聞こえるように、曲をしっかりとつかんで、歌い込んでいるのであろうが。歌としてもメリハリというか、生き生きした感じは、歌っていあるときのテンションがあるからだと学んだ。強調しようとすると力んでしまうが、そうではなく、リズムが体に入っていて、詩をきちんと理解して歌っているときのテンションがあることで自然にメリハリがつくのかもしれない。フレーズが短いときは出せるのに、長くなると出せなくなるのは、そのテンションをキープできていないからだということ。テンションは自信でもあると先生がいわれていた。何となくわかる気がした。不安なところがあったままや、中途半端な気持ちでは、歌にはならないと思う。歌うときは、乗れている状態。何かふっきれた状態。人に聞かせる(イヤ、聞いてくれという)状態に準備するということがとっても大切なのだと思う。

 

ヴィジランテ

日本のHMバンドのCDを買ってみた。まったくその気はなかったのだが、CD屋の店頭に「日本人離れという言葉をはるかに超えた驚異のヴォーカル」と書いてあったのでつい買ってしまった。確かにこれまで聞いた日本のMR/HM系のVo.とは比較できない技量で、声は出るし、英語やフレーズの感覚は欧米のそれに近いものがある。でも決定的に違うのは何かやっぱりすごく表面的な感じ方がした。いいところもあるのだが、全体としてみると、動かし方もちまちましているし、スケールが小さい。必要性の感じられないハイトーン、そしてその高いキーのところは、高すぎて動かしきれてないので、サビに入るとどんどんうすくなっていく。私がHR/HMに求める若々しさというものがあまり感じられなくて、形だけという印象を受けてしまった。それでも技術的には自分の延長線上に見ると「おお」という部分もあって日本のメタルヴォーカルも進歩していきそうです。でも、そういえば影山ヒロノブさんはとてもうまいと思います。

 

ラシェラ・スサーナ

ギター文化会館でグコンサートがあり、見に行った。「28年前、アルゼンチンで管原洋一さんにスカウトされた。」と語っていた。

「ヴォーカルトレーニング」(BV研究所監修)に紹介されています]が、確かに素晴らしい歌唱力であった。私は知人に頼みリハから見させてもらった。さだまさしさんの「無縁坂」を弾き語りしていた。

実に美しい歌声とフレーズ感で、更にホールの音響のよさも加わり、最初に聞いたその一曲で虜になってしまった。声に底知れないボリュームがあるのに、セーブ(コントロール)しているところも見えて、勉強になった。コンサートでは、メジャーな曲の「黒いオルフェ」、「コンドルは飛んで行く」等を歌っていた。そして、ラストに、日本語で「恋人よ」の熱唱を聞くことできた。この曲はよほど歌に自信がなければ歌えない曲である。アンコールの拍手の嵐が鳴り止まなかった。

 

TRIPPER

インディーズのバンドのライブを見た。3人のバンドだけど3人ということを感じさせない存在感だった。歌や声の出し方というのは、おいておいでも“見せる”“楽しませる”ことにおいてのPOWERが、とにかくすごい。ライブハウスで4バンドぐらいで出る場合、自分たちを見にきたわけではないお客さんを、魅せるというのは、大変なことで、しらふの人に向ってよっぱらいが騒いでいるというような結果になってしまうことが多い。だから、そこで、いかにそういうお客さんを“とりこ”にするかということが、そのバンドの実力でもあると思う。逃げてしまえば、逃げることだってできる。それを“働きかけない”ということだ。でも彼らは、ライブ中ずっと働きかけてくる。そして、めちゃめちゃに楽しそうだ。3人が3人。とにかく、どれだけこっちが(見ている側)ポーカーフェイスをきめようったって、無理なバンドなんだなあと思う。私は、そんなつもりは別にないけど、そういう人を引きずりこんでしまう。実際、彼らを観にきたお客さんは、そういなかった。会場の半分以下の人達だったと思う。でも、最後には、ほとんど、魅了されていたのではないかと思う。これからが本当に楽しみのバンドであり、CDバンドではなく(CDはイマイチ)ライブバンドであると思う。そして、私にとって会えてよかったバンドでもある。作品にする、見せる、働きかける、そういう意味で、理屈抜きで、私にとって、体や目や、耳から学べる、そう、今の私にとって足りない部分なんだと思う。

 

のど自慢

日系人のペルー移住百周年でベルーでのど自慢大会(NHK)をやっていた。いろいろな思いがそこには込められていて、お年寄が「ふるさと」を歌ったり、コーラス女性合唱団が「みかんの花咲く丘」など歌ったのを見て、その人のそのものの歴史がそこにはこめられていて、その人達をみているだけで胸のつまる思いがして、とても感動した。歌とはやはりこういうものだ。こういう気持ちで歌うものだと、改めて感じた。それが早く音で伝えられるようにほんの一フレーズでも一音でも伝えられるようになりたい。