【京都集中セミナー 】
ステージ実習はマイクを使わずに歌います。
東京では一ヵ月に1回、入ってから2年間で24回ステージを踏みます。ステージの経験は、とても大切です。
しかし、レッスンも1回1回、毎回レッスンがステージです。
仕事であれば1回失敗したら、来年からはおよびがかかりません。それだけに集中していくことですが、うまくいかないときは、今までの経験でカヴァーしていきます。
それを月に1回やるということは、大変なことのようでも、プロなら毎日がそうなのです。
そういった意味では、意欲を出す場、形にする場として、ここがあればよいと思います。
最初は、東京でも数人の出場者でした。
関西で途中で辞めてしまったのは、参加人数ではなく、
臨む態度がよくなかったからです。
本人が本気で必要ないとしないものは、いらないと思います。
私たちは、長い目で見る立場にいます。プロデューサーでもなければ、審査員でもありません。
ただ、そういう私に対してまで、そう思わせてしまうということは、その必要がないということなのです。
アピールする動きがでてこなければ助けようもありません。
ここも世間も業界も同じです。
今日のようなステージが毎日続いたら、皆さんは毎日来ますか。
ステージがよいとか、悪いとかではなくて、結局、人の思いを汲んでしか、どんな場も働いてきません。
それを、誰かが助けてやるのでは、助けた人の負担になります。
助けられた人も長期でみるとだめになっていくだけです。
1月から再開していくと思いますが、今の調子では、すぐ終るのではないか、
皆が参加しなくなるのではないかと思います。
東京も浸透させるのにも、かかりましたから、
関西もすぐにとはいいませんが、ここも随分と経ちました。
何か与えてくれるのではないか、という感じで自分達でつくっていくという心意気があまり感じられません。
やりたいという要望が多いのですが、要望を受けたら出続けるかということです。
私たちも、その場に対する責任があります。やらないのなら無理にやりません。
それだけの準備をきちんとして、3分間のなかに一ヵ月やったものを見せにきたいというところで場が動かなければ、場がくさってしまいます。
くさっている場を持っていると、レッスンまでだめになってしまいます。
そういうところをきちんと踏まえて提営してくれているのかということなのです。
そうでなければ、カラオケにでも行って仲問同士で歌っていたほうがよいと思います。
ここは今は、プロになりたい人だけではなく、歌や声に興味のある人が声を高めてくれたら、ありがたいということで、幅広く機会を提供しています。
ただ、これにも条件があります。
いぜんは、2年を経て出ていった人が、また入りたいといっても、よほどの目的がはっきりしていない限り、入れませんでした。
最初は、その人がわからないから入れるのです。人はいつも試されているのです。
こういうことでも、そういうことで生きていきたければ勝負です。
やる気のない人を長<おくのは、まわりのためにも、その人自身のためんもよくありません。
最初に会ったときから勝負でしょう。
ここでは、必ずレクチャーをして、いらしてもらうようになっていますが、あれは、私を見せる勝負であると共に、その話を聞いて、どう思って、どう考えて入ってきたかというところで聞いている人の勝負でもあります。それをきちんとふまえ、踏み越えていかないと、いつも同じことの繰り返しで終ってしまいます。
歌というものは、世界中、どこの国にいっても、しっかりと歌えたら、誰もが聞いて、お金も拍手もくれます。
そうでなければ誰も聞いてくれません。そんな他人の暇つぶしに付き合っていられないし、一人で歌っていればよいというようになるからです。
今日は、皆がお金を出して歌っていますから、私たちも逃げないでコメントをきちんと返しています。
しかし、この道でやっていこうとするのなら、こちらがお金を出したくなるように歌わなければいけません。
時間というものは、お金よりもずっと大切です。お金は、後からでも取り返せます。時間は、今は今しかありません。
今日という日も、明朝、死んでしまう人にとっては、最後の日なのです。いつまでも生きていると考えるのは、大きな間違いです。この生命感が気薄になっていくのは、皆の責任ではなく、時代の風潮でしょう。自分の命、心、体をしっかりととり戻すことです。
一つのステージできちんと出していかないといけないということです。
前半のステージに関しては、こんなところで甘やかしてもしかたないので、本音でいうと、試みがあった人がほんの少し、音楽的なところで時間や空間を動かそうという人が少し、いたくらいで、退屈でした。
その試みも、まったく成功していないのです。
厳しいと思うかもしれませんが、普通の舞台では、何千円も客は払うのです。
明日、あなたは、これらの歌を聞くためにお金を持ってきますか。
無理でしょう。それが結果です。そのことに、きちんと気づいていくことです。
素人がある瞬間プロを超すようなことを見せることがあります。
その人がプロになろうとしたら、それを常時出せるようにしなくてはいけないのです。
しかし人間の心というものは、いろいろな要素があります。その人が一所懸命やっているのが第一歩の踏み出す条件です。
今日、ここに入ったばかりでも場をつくる。普通の人達にテンションや場というものはわからないから、その仕掛けはしますが、それ以上のことは、手伝えません。後は、自分でやるしかないのです。
一所懸命さは、必要です。これはプロでも同じです。これが見られるのはよいのではなく、あたりまえで、前提です。これが見られないものを評価することはありません。せめてそのくらいは出さないと何も伝わりません。一所懸命やるということ、あるいは、熱くやるということが、技術を通し音楽に返さないと歌になりません。
いろいろなことを勉強していると音楽が自分の体にはいっている。それに対応できるような楽器をつくっていくことがトレーニングです。発声も、音程やリズムなども同じです。
一般の人は、そこを勘違いしないでください。どこにも、歌えたら歌だと思い、それで歌っていけると思っている人がいます。塗り絵は、絵にならないのです。誰かが描いた線を塗りわけているだけだからです。音楽は線を描き動かさないといけません。緑の通りに走ってもしかたがありません。
歌 は、時間や空間を一瞬にして変えます。
少なくとも、今日前半は歌った人のことばや音の捉え方では、歌は出てきません。
与えられたものにすがりついているだけです。
時間がなかったという言い訳はないのです。2時間もあれば1曲マスターするのがあたりまえです。あたりまえということは、それまでそれだけの勉強をしていたら、歌1曲で自分がどこで勝負できるのかを見つけて出せるところまではもっていけることです。ヴォーカルはそういう商売ですから、それが最低限でも必要なことなのです。
それができたから、すごいというのでなく、それは、あたりまえで、そこから何が出てくるかを問われる世界なのです。そこから出てくるものがすごいといわれるためにやるのでしょう。
これから始める人たちに対しては、この後を問うていかなければいけません。なぜそれができないのかが学ぶべき全てのことです。まだ始めたばかりだから2年経てば黙っていても身につくと思う人が多いのですが、こればかりは、自分で、徹底してやらない限り、身につきません。
外国のヴォーカリストは、歌を始める前に声が入っていますから、ほとんど日本でいうプロレベルのリズム感、フレーズ感、言語の感覚、間の使い方、人に対してどう語りかけたらよいのかはわかっています。そこから始めるのと、まったくないところから始めるのでは随分違います。少なくともお絵書き教室でプロになれるとは思わないのです。
一所懸命やったけれど、ここをこう出したかったのに、伝わらなかった、声が足りなかった、呼吸がもたなかった、音程が外れてしまったとか、そういうところで課出た題をきちんと受け止めていくことです。
プロになれば、1曲3分が30分間になるわけではありません。同じ3分です。同じ3分のなかで、より高く集中をして、より多くのものをそこに出していくのです。それには、条件を整えていくことが必要です。それを楽しんで、シンプルにやるしかありません。無駄なことをしたくないなどと考えると歌は歌えなくなります。それだけのものを日常にいれていかないといけません。
この3日間で、何かが入ったと思う人は、その3日間以上のものを1日でいれるような毎日を積んでいくことです。それしか方法はありません。合宿や集中講座をやると、そのときに何か得られたみたいに思う人は多いようです。
それは場を感じられたということでよいと思いますが、継続による精神的な成長が必要です。
しかし、それが続く人は本当に少ないのです。3年間いても、それを年に1回得られただけでは、3日のキャリアです。練習をきちんとやっているかどうかということです。
テンションがそんなに下がっていなかったのは、評価してもよいと思います。歌に対して、もっと熱くなることと、それを支える技術があり、それを音楽的にきちんと処理できていること、この相矛盾する要素を一つで捉えて、出していかなければいけないのです。とても難しいことです。
何年やっていても難しいのですから、1年もやっていない人にしてみたら、話もわからないかもしれません。
自分を出そうとしたら音楽にならない。音楽を出そうとしたら自分が出てこない。自分もないし、音楽はないでは、困ります。そこで人のものを持ってきて、こんなものですと紹介するのは、速くやめましょうということです。ほとんどの人は、それが歌うことだと思っています。
誰かが歌っていて、それが売れている。その売れている人に話を聞いても「まったく助かしていないのに、こんなに動いてよいのだろうか」と思っています。照明や音響やプロデューサーが動かしているのはわかります。そういう世界にいればそれなりに自分たちに厳しいです。
残っていく人は、頭も働けば勘もよい人たちです。
それが、今の売れている人たちの最大の矛盾でしょう。もっと満足して歌っている人も、たくさんいます。それは、どういう方向でも、あなたが選ぶ道です。洗脳されたがる客の前には、暴君しか出ません。
ステージで大切なことは、やはり、その人がなぜそこにいるのかということがわかることです。板についていることです。誰かが好きで、そこにいるというのでは、よくありません。
この歌い手が好きで好きでたまらなくて歌うのだというなら、その歌い手を呼んでくるか、その歌い手のステージを見にいきます。その人になりたい人はいらないということになります。
歌が好きだということが表に出ていると、少しは聞けます。こんなに好きなんだから、やらせておいてあげようと思います。素人だと危険でも、それゆえ許されるプロなのに、それさえが出ない人よりは、ましです。少なくとも一度くらいは好感を持って、見られます。
そうでなければ、自分自身が好きということでもよいです。しかし、これも難しいかもしれません。もっというのだったら、さらに皆が好きだというアピールです。これは、もっと難しいでしょう。
皆が好きだ、皆に会いにきたと本心からいえる人は、プロのヴォーカルでも少ないでしょう。
そういうことも、自分の心の声として聞いてみてください。少なくとも、音とことばを使って愛を伝えていく仕事です。人に何かを与える仕事なのですから。
私は、ある面ではあまり歌も好きではありませんし、自分も皆も好きではありません。ここも、嫌いですが、ただ、歌のなかに何らかの真理があったり、歌っている人のなかに何らかの才能が、キラメク一瞬のために、続けています。その時間、ほかの全てのことが吹っとんで全てが好き、幸せといえます。
リアリティに接するだけが、自分にとって心地よいことなのです。
ですから、そういう世界に生きようとしています。別に歌でなくても、落語でも、漫才でもよいのです。でも、この一瞬を得るには、それだけの準備が自分自身に必要です。
「私は、才能がないですか」とよく聞かれるのです。誰にも取り柄はあるのです。今日でも、ほぼ全員にその人のよいところはみられます。ただ、本人が気付かないうちはよくありません。まわりの人が取り出してやろうとしても、本人が気付かない程度のものでしかないと、助けることはできません。
人前に出てくるまで高めて磨かないと、意味を持たないからです。
才能とか表現で生きていくということは、その人のなかでの好き嫌いとはまた、違うからです。それはそれなりにきつい世界です。同時に、そういう人生にする権利もこちらにない。そういうことができたらよいと思っている人は多くても、そういうことができるということは、それを選ぶわけですから、それ以外のものを捨てていくわけです。その選択をここでは、問うています。
全部を取れる人はいません。同じ時間に、一人の人は一つの場所にしかいることができません。私の場合で習うと、京都にいたら東京は留守になっています。これが、仕事といえば仕事なのかもしれませんが、一つの仕事をとるとやりたい仕事もおろそかになります。やりたい仕事をやるともっとやりたいことがあとまわしになります。
そういうことで、皆もこの3日間ここで過ごしたということは、他のもの全部、犠牲にしているのです。サッカーの試合の応援に行きたかったのに、行かないで自分の練習をしていた。そしたら、そこにいつづけるには結局、そうしている自分の方がおもしろくなるしかないのです。
最初は、プロの人のものを応援したり、プロのステージを見に行ったほうがおもしろいに決まっています。お金を払ってプロの売る価値を買うからです。
その逆をするには、自分の価値を高めなければなりません。
一流といわれる人が世の中にたくさんいますので、そういうものを見にいき、接することで何らかの精神が乗り移っていくようになります。本物の人がいる、一流の人がいると考えるよりも、そこにそういう時空があると考えたほうがよいと思います。
ステージ、歌の舞台はまさにそういう時間と空間なのです。だから、誰もがあこがれるのです。
ここのなかでも、その場と時間は保ちたいものです。私にとっては、いつも新鮮で、居心地がよい、そういうところにくる人間が、そういうふうに変わっていくことが楽しいことです。それは見ていておもしろいと思いますし、そのおもしろさは、歌を超えています。歌がうまいとか、へたとか、そんなことではありません。
今日くらいでやれたと思った人は、充分に反省してください。一所懸命やっているつもりでも、結果がすべてです。たとえば話は誰でもできます。しかしお客を前にして語ったとしたら、伝わっていないなら、話にならないでしょう。
伝わったものが、歌をとっても、音楽をとっても、ほとんど、だめになっている。逆にいうと、それを支える心や技術を身につけなければいけません。音楽を身につけて、その一所懸命さが出るようにして欲しいのです。
なまじ、こなせた気になってしまう人が一番困るのです。たとえ、このなかではうまいとしても、それで伝わらないということが、どういうことかということを考えてださい。
伝える仕事では、うまくても仕方ないのです。うまくて伝わらないのは、基本的なことが疎かだからです。
そのままでは却って伸びないしやっていけないことになるのです。すごくなければいけないのです。相手に何らかを働きかけ、語りかけ心に残していかなければいけません。
「私の料理はこんなにおいしいの、でも私のものなの」などといわれても、「知るか」ということです。お客さんにとっても、我々にとっても、出されたものが全てです。そうでなければ好きにしていればよいということになってしまいます。そういう歌を人前で歌ってはいけないということです。
それは、嘘だからです。自分が塗り固めた、あるいは、誰かが必死でつくって塗り固めてきたものをそのまま写真を撮って、私の家といっているくらい横暴なことです。
歌のなかにも、音楽のなかにも、その人がまったく入ってないからです。
表現ということすら考えていません。だから、人に伝わりません。
でも、今の音楽のシーンのなかでは、とてもよく見られることです。そういう生き方でよい人は、それはそれでよいのですが、私自身は関わるつもりはありません。
タレントやアイドルもテレビ局も、原則、お断りです。接したい人、出たいものがないなら、私には時間の無駄です。世の中にはもっと必死に生きて、強い思いで、もっと歌を愛している人がたくさんいます。
ここが今あるのは、ここを私よりも愛している人が今も昔もいたからです。それに恥じないように私は何とかやっているというのが実状です。そういう思いで動かされてきたから、無理がないのです。だから、深まっていきます。
装飾を取り、マイクもライトを取ってみる。歌もどこかから受け継いできたようなくせを全部取ってみたら、自分は何も持っていないことがわかります。
へたといえる自分の作品さえないことがわかります。でも、それがわかったところから、原点に戻って出発できるということです。
声でも、いろいろな声で誰でも歌っています。誰でも歌える。音楽も、ピアノもちょっと習って勉強したら1曲くらいは弾けるようになるでしょう。そんなことがやりたいのでしょうか。
もちろん、そんなことがやりたい人もいるのです。仕事をやっていて、今までピアノにも触ったことがなかったから1曲でも自分で弾けるようになれたらうれしいという人もそれはそれでよいと思います。仕事を一所懸命やって、音楽は趣味で楽しんでいけばよいでしょう。
私も水泳やスキーを楽しみます。しかし、それは気晴らしで、人生の中心にはありません。何よりも優先すべきことではないから、水泳やスキーを選びとって生きている人とは比べません。
音楽、歌を選んでいくのであれば、それも人に与える仕事です。
歌は歌わなくても、働いている人たちは、仕事のなかで皆歌っているのです。それ以上のことを歌えなければしかたがないのです。
小細工は全て取らなければいけません。自分の心が動いていないものに対して、人の心が動くことはありません。それだけのものを練り込んでも、ここでやってみたら、自分の心が固まってしまい、思った通りにできなかったら、梅がって、それができるところまでやってください。
まず、絶対量が足らないということです。次にやったことを、きちんと評価していかなければいけないということです。よいところを、見ていきたいと思います。しかし、伝わらないものに対しては、伝わらないという結果をきちんと出していかないといけません。そうしないと、これから上達していく人たちに対しては、失礼になると思っています。
私が、拍手をするのは、年に数千曲くらい聞いていて、10曲くらいです。残りのものでも拍手してもよいものはありますが、本当に心が動かなければ、手が動きません。それが、私の基準です。
お客さんが、拍手したくてしているのではなく、早く終らせたいし、次に移らせ、一応やってきたことに敬意をということで進行上、拍手しているのです。私だけは、そういうことをしないので、すいませんと最初に断わっています。
拍手を強いるなら、お金を渡すことです。サクラが仕事をします。あなた方の多くのステージもほとんど友人の親愛の拍手でしょう。スキーや水泳よりも歌は拍手がとりやすいから安易に使われるのです。
音楽、歌ときちんと出会っていくということをここのなかでも、外でもやってください。
私は、人の顔でなく、歌や音楽での出会いでを通し、声や音で出会い、覚えたく思っています。ここに単に来ているだけの人だったら、街で通りかかってすれ違っている人と変わらないと思っています。その人間がここであるとき、何かをやった。そういう歴史を自ら築いてください。
その歌のなかで何かが伝わってきたとかいうことを通して、その人を理解したいと思っています。音声で初めて会うように見ています。
一つ一つの出会いを大切にとというのは、ここのなかでは音声で表現していく舞台であるということ。その人が、嘘っぱちでも、いい加減な奴でも何でもよいから、そこで出たものが、何か私の心を打つものであれば、大きな出会いです。そうでない限り、本当の意味で出会っていません。顔は知った、名前は知ったということは、なくとも充分だと思っています。
ここで、何年かに何曲かでもそんな出会いができるというのは、うれしい誤算です。
日本でそういう場は、ありません。ところが、他の国に行って歌を聞くと、何日かに1日何人かに1人はそういう出会いをもたらしてくれるのです。考えるまでもなく、あたりまえの話です。歌い手は、その出会いをもたらすガイドとして生きているのです。日本だけがどうもおかしいような気がします。
一般の人、今日初めてきた人もいますので、1つの基準を、レクチャーで話し、体験レッスンをします。そしたら、ここでいっている意味がわかると思います。音楽には、いろいろな形があって、バンドが助けてくれたり、ピアニストが助けてくれる。登場しただけで、盛り上がるなど、お客さんが助けてくれることもあります。ここは、それが一切ない厳しい場です。そういうところできちんと音楽を出していくことです。
日本の昨今のアーティストの歌の基準は、とても甘く、自分達が立ったら拍手がくるところから始まると思っているようですが、普通の場合は、自分が相当与えない限り、向こうから反応が来るということはありません。こういうところに立って、ほとんどの人は、なぜここに座っていなければいけないのか、
この人とこれから付き合わなければいけないのかという顔をしています。
敵意を持っている場合もあるでしょう。
しかし、お客は感動に出会いたいと来ているわけですから、心強い味方です。たまにお国柄によっては、違う国から人がきたという興味だけで座っている人がいるかもしれませんが、それでは、歌にも音楽にも出会っていません。音楽はヴォーカルがリードするしかありません。お客さんの方にリドされては、ヴォーカルの立場がありません。そういうなかでやっていきましょう。
(小休止)
お疲れさまでした。コメントで、今回の課題を確認したいと思います。
同じ3日間、あるいは2日間、あるいは1日。練習の差は、でたとしても、ただ、これらの曲に関しては、音楽をやっている人だったら、その場で歌えない方がおかしいほど有名な曲です。
初めて挑戦したという人と、すでに知っていて、日頃歌っているという人もいますので、この3日間の成果とは一概にはいいませんが、知っていたかどうかというのも、実力です。
しかし、どうでもよいのです。この課題のなかで自分がどれだけ創り出せたかということです。
課題が歌えてもしかたがありません。歌というのは、同じことばがわかる人だけがいるのだったら、ことばで話せばよいし、歌である以上、音楽である以上、ことばのわからない外国人が聞いても伝らなければいけません。となると、音色とリズムが大切です。
まとめてフレーズといっていますが、その音色とリズムがついたもの、ラップでも何でも、そこに自分の音色が出ているか、自分のリズムでもっていくことができているのか。こういう見方で見ています。
後半、ばたばたといってしまったような感じがします。一所懸命、声を出しても、軽くいなしてみてもよいし、ライヴになってきたら、もう少し軽い形でやればよいのでしょう。しかし、こういう練習の場では、その一瞬、そのわずか一秒のなかに、表現を自分のなかで、客席の方にぶつけたという感触をつかんでいくという経験をつんで欲しいのです。自分で動かさないと、所詮、動かないということです。だからといってあれこれ変えるのではなく、本人が好きなようにやってもよいのです。
見ておいて欲しいことは、ここがライヴになる場合もあれば、カラオケになる場合も、単に知らない人が歌っている退屈な場になることもあるということです。それは全て一人の歌い手しだいだということです。
私たちがどうこうできるものではありません。セッティングで、テンションまでは高められますが、歌う人でこうも変わるのです。
同じ2分くらいのなかでもいろいろなことが起こるのです。こうも変わるのだと思った人でも、歌としては、必ずしもよいものが出たというのではありません。
音楽も歌も、1曲のなかでの可能性はもっともっとすごいのです。このなかでもこのくらい変わる。ましてや世界では、というように捉えてください。
それと共に、わずか3日間のなかでも、ここの生活のなかでも、やはり、あいつが出てくるのを見たいなと思う人と、このくらいの程度で歌うんだろうとわかってしまう人と、出てくるでしょう。
きちんとしたことを毎日、やっていたら、まわりの期特度は高まってくるのです。
待ち望まれるようになってくるのです。
「あいつが出てきたら、、」、「あいつの聞いてみたいな」、「この曲をあいつはどうやって歌うのだろう」、期待を与えること、まず、それが第一歩です。
自分が変わるとまわりも変わるのです。まわりが変わって自分が変わったといえます。
何年間やったかということは、そんなに大したことではありません。お客さんの心をわかれとはいいませんが、何回そういう思いを人に起こしたかということをきちんと重ねていかなければいけません。あなたのここでの業績に伝説のステージがどれだけ築かれたかです。それがキャリアです。
レイ・チャールズ、音色とフレーズ、リズムで動かしていますが、それなりにパターンがあります。音楽の天才といわれる人ですから、どう学べとこちらからいえるものでもありませんが、よく聞いてみてください。体から音楽があふれ出ています。
外国人のように日本語を聞いたときに、音楽になっているか、なっていないか。ことばで伝える歌もありますが、まず、それを音としてしっかりと聞いて、自分の音色、リズムで置き換えてマスターしてみることです。
歌というのは、基本的に音の世界でそこまで、やった上に歌詞が伝わる。ことばがついているからプラスアルファです。ことばは、プラスアルファです。もちろん、日本の歌は、ことばでもっていく割合が随分と多いようです。そうすると、世界には伝えられない。というより、体の原理とあまり関係なくなってしまいます。つまり一流になれないのです。
ことばでていねいに、しっかりとおさえ、相手に伝えようと歌っていたら、相手に伝わるという気になってしまいますが、それは、一つの前提条件であってそんなもので伝わるほど、甘いものではありません。
インパクト、パワーは必要です。練習のなかで、何であの人あそこまでやるのというくらいのインパクトとパワーは失わないで欲しい。自分の舞台になったら、オシャレにやろうが、こじんまりとやろうが、それは、その人の勝手です。しかし、まず、インパクトとパワーを出そうとして、たとえ荒っぽくなっても体と心とを一つにすることです。ハイテンションが、次に繊細さを求めることでしょう。☆
歌3分間がそのまま3分の時間では、よくありません。それが、ものすごく凝縮されたり、ものすごく短く感じたりする。そういう時空の揺さぶりのなかで表現がとんでくることの繰り返しであるべきでしょう。ばたばたとおわるのも、すっきりとおわるのもあまりよくありません。荒っぽく雑に出すと、声がやられ、不格好になるなど、いろいろ不都合なことが起きます。それを純粋に無駄なく使えるように絞り込んでいくのが発声技術です。無駄は、より伝えるべきものを伝えるために排除されていくのです。
訳のわからないまま、いくら思いきり体からやってみようとしても、歌も声もうまくいかないことはわかるでしょう。しかし、ある時期、そのまま突っ走ってみるのもよいでしょう。そこで小賢く急ぐがために、もっと小さな声で、マイク使って、エコーかけて、バンド入れてみたらもつのではないかと思ってしまうから、カラオケになっていくのです。カラオケがうまい人はたくさんいますが、聞いていて退屈でしょう。それは、自分の表現をつくる努力を放棄してしまうからです。急ぐことと大きなことをなすこととどちらが大切ですか。
最初に難しいのは、スピード感です。歌というものは、どこかでにぎっていなければいけません。そうでないと入れません。話していることばも、ぺらぺらと話していたら、伝わりません。それなりに何かを握っている。時間がないなかでも、鋭くたくさんいい、そのなかでも間は取っているわけです。メリハリもつけています。そのことを歌のなかでは、もっと大きくやっていかなければいけません。すると、歌でも話でもフレーズが出てきます。
間を考えるより、スピードを体につける、すると、つめるところ、緊張感があるところが続くので、反動がきます。それを呼吸で支えるとしぜんになっていくのです。
最初は完成させようと考えなくてもよいのです。歌ですから、どこかでピークを迎えて、落ちていく、その流れを感じましょう。ピークのまま終るのも、最初からビークのままで出していくのも、よいでしょう。歌には天地のつくりがあります。
それが見えないということは、平地がつづくのですから、飽きてきます。ずっと「だー」と一本調子でいくのなら、ことばの棒よみと同じです。
内容で勝負するのなら、90分くらい話さないといけません。落語でも時間はかかります。
すべて歌で勝負することで凝縮するのです。歌は、天地の差を瞬間に凝縮するのです。
すると、どこかで上っていっているとか、たどり着いたとか、降りるとか、そういう形になります。同じ次元のところで展開してはいけません。
発声でも、声に対して、響きとか、抜くとか、ふぁ~んと伸ばすとかがあるでしょう。立体的な高さが必要です。これが、難しいのです。
日本人の場合、ニューミュージックやJ-POPの場合は、高く細い一本の道だけにずっといます。シャウトするものは、浅く平面のガラ声のところだけにずっといます。どちらがよいとか、悪いとかいうことではなく、その人のスタイルですが、歌の場合は、両方を走ったり歩いたり、飛んだりはねたりします。そこには山や海、皆から嵐、何でもありなのです。
後半重くなるというのは、損なことです。日本の歌がだいたいそうなりがちで、最後にワーと伸ばして、そのなかに何かを伝え忘れたものをまとめて伝えるというしつこさでやっていきます。
日本人が、そう歌うのは、くせなのです。
欧米のように基本的にリズムと音色で勝負するような言語から歌を処理するのであれば、前半で重くしておくことです。前半で絞り込んでおいて、後半は、浮かす。あるいは、投げつけて、はねかえらせていくという進行なのです。
10あれば、最初の5のところで10の勝負をしておいて、後は、ことばがどうなっていようが、聞こえまいが、少々が狂おうが、そんなところは耳に止まらないようにしておきます。つまり正確より狂をつくりだしていくような進行でやっておくことです。そうでないと、次々に展開していけなくなります。
日本の場合は、逆で、演歌でもポップスでも後ろの方をかなりビブラートをかけてくします。これをやってしまうと、後ろの方をさいごまできちんと聞かれてしまうので、そこで息が足らなかったり、響きがちょっと途絶えたりすると、失敗したという感じでとられてしまいます。そこで全部を完成させなくてはいけなくなってしまいます。
すると、歌が難しくなってしまいます。ですから、日本の演歌も難しく、最後まで気が抜けません。一糸乱れぬ美意識を問います。技術が問われます。
歌はもっとシンプルに楽なものです。そう歌いたければ、いれるところに音をバーンと入れておくのです。後は、ぼそぼそぼそしても、また、いれるところでバーンとい放ってつながる、よび戻すくらいで捉えてみたほうがよいでしょう。
上達とは、ものごとがシンプルになっていくのです。シンプルの上に飾りがついてくることです。飾りつけを複雑にやって、シンプルな体や息の線を崩してはなりません。前フレーズ勝負にして、一端覚えてみて、被習してみるとよいと思います。
イメージがだいぶ広がったと思います。歌は、歌っている声や、ことばを伝えるのではなく、音声が醸し出すところのイメージや感覚を伝えるのです。それにしか歌い手の印象も残りません。当然、自分の声を通じて、雰囲気や、余韻も残りますが、それだけだったら、そのまおわってしまいます。音声を表情ゆたかに表現するところで、体の振りや顔の表情からも強いインパクトが表れ、印象となります。つまり、それが存在感です。
ポップスの場合は、歌わなくてもスピードで声量が大きく聞こえるので、そんなに強く出さなくてもよいのです。ピアノの強さも打鍵のスピードによります。
私もそんなに強く声を出していませんが、ことばの端々にリズムをいれ、メリハリをつけるだけで、強く聞こえているでしょう。イメージをどのくらいもつかです。もっともっと大きくもってよいと思います。
後は、少し楽しみにしておきたいと思います。あまり、ごちゃごちゃいってもしかたないでしょう。
ここでいえることは、ヴォーカルでもアートの一つ自分でつくっていかなければいけないものですから、自分のスタンスをもつことです。そしてそれのできる自分をきちんと信じてください。
他人を信じるのは簡単なのですが自分を信じるためには、自分が相当やらなければよくありません。誰よりもやったと思ったときに、信じられるようになります。そこで出てきたものは、まわりが認めなくてもオリジナルなものであると、まず自分で認めてください。それで、わからなかったら私のところに来てください。
私が評価しない、何もいわないのは、よいということではないのですが、保留するということは、よいことです。そもそも歌は、他人に判断されるものではないし、つべこべいわれるものではないからです。「どういえばよいのかな、やっぱりいえない。いうのは」といわせればそれでよいのです。
本当は、だからといってよいというわけではありません。いおうと思えば、いえるのですが、「変だけどすごい」といわれることが一番よいわけです。
ここで抱えているメンバーは、今日は、トレーナー一人しかいませんので、歌わせても変だで終ってしまいます。もう一人、トレーナーが来ていたら、2人、変なのがいると、何となく、この変と変は違うから、ただの変ではない、いろいろな変があるのなと、少しわかってくるからです。変のない自分に気づいてください。
集団でやるつもりはないのですが、一人でやっても客にものの見方が生じないと伝わりません。「あれはあういう人だ」で終わってしまうのです。
そこで座ということも考えました。☆
だからといって、皆でやりましょうということではありません。スポー今と同じです。一人ひとりが自分の役割をきちんとはたせばよいのです。変なのばかり、すごいレベルで10人も出てくれば、威力になるのです。ここは、そうありたいのです。ここの威力ではありません。そう:いう人達が自分の分野をここで問えばそうなります。
人間の基本的な原理に基づいたところの一番、輝かしい声を、その時代それぞれに求めていくオペラは、まさに声の芸術です。テノールだったら、テノールの役割があり、条件が外側からも決まってきます。
しかし、ポップスの場合は、そんなものはありません。誰が決めたわけでもありません。
私の考え方を、すぐ理解したつもりの人は、それだけのものでしかないのです。時代と共に、2年、3年後には、いなくなってしまうでしょう。そういう人と一緒にやってもつまらないでしょう。
私の理解されないところと続けていって欲しいのです。そこまで変になってくれたら私がもっと変な人をたくさん見つけて自分だけが変ではないと、自信を持っていえるような場をつくります。
変ということこそが、個性・才能ということです。
あたりまえのことを、あたりまえに歌って、あたりまえの表現活動がというのなら、それはどこにも出ていけないということです。それは、誰にでもできることだからです。3年かけて誰かがやったことは、また3年でだれでもできるようになります。
ただ、その変というのも、自分の思い込みだけだったり、自分が考えてたからオリジナルかといったら、そんなことではありません。ただの一人よがりです。だから問う場が必要なのです。
体にも性格にも素直に原理に基づいていること、自分の感性にもきちんと基づいていることが大切です。感性や直感、自分の思い込みが歪んでいたら、歪みます。だから、一人でやると伸びないのです。それを正すためには、より本物のものや一流のものからたくさんの勉強をしなければいけません。
もっともっと音楽の勉強をすること、基本的な勉強をすることです。その前に、熱い思いを持って一所懸命やることことです。こうやって人に語ったら伝わることを、音楽の世界や歌の世界でより広範に伝えるのです。
そのためにマイクがあります。そのために、照明がついて、バンドがついてということです。逆にしてはいけません。全部が揃っていれば、私は歌えます。という人はいらないのです。スタイルやルックスがよかったり、売れっ子の人がやればよいのです。
自分の武器が何なのか。今日見ていても、誰にでもその人の個性は見えます。それを歌や音楽に、はめることでごまかさないで欲しいのです。歌や音楽を使いきって問うことです。
だらだらと接するなら、一時、歌をやめたほうがよいと思います。その方が、自分のことがわかります。私はその人間が、その人間であることで生きていくべきだと思うからです。
一番ごまかされてしまうことは、誰かうまい人に合わせて、それに似ていくことが上達だと思ってしまうことです。上達とはそれから、離れていくことなのです。☆
だから一人で闘う孤独の作業なのです。似ていくのは、初歩の勉強です。いろいろと勉強するために、一時、すっぽりと入ることはよいのです。いろいろな一流の人のものを聞いて、入ってください。どっぷりと漬かってください。
しかし、それは出るためです。いずれ出てこなければいけません。出たところから、スタートなのです。入っていくことが上遠だと思っている人が多いのです。
そこまでのことは、自分で勉強してください。そうしたら、自分が求めるところまで、技術も歌も後でついてきます。時間をかけていけばよいのです。
いいたいことは、たった一つ、こういう狭い場で、自分が立ったらライブハウスにしてしまうだけの力をつけることです。そして、一つひとつのことを大切に扱って欲しいのです。絶対にやったことを無駄にしないようにしていきましょう。
自分の曲の歌のなかの歌詞一つひとつを誰よりも大切にしていくことです。そういう練習をしていくと、今よりへたになるということはないはずです。声が出なくても音がとれなくても、歌は何かわるようになってきます。
そちらが大切なのです。
3日間で終るわけではありませんから、こういう場での体験を実際の練習のなかで、生かしてください。また、半年後、一年後にこういう機会があったときに、今日と同じ様な思いをしないように、もう少しレベルの高いところで勝負できるようにしてください。
他の人と比べる必要はありません。うまい人というのは、それだけたくさんやっていただけです。そこを認めて尊敬しましょう。それ以上やればよいということです。好き嫌いで表面的にものごとを判断し、嫌な弱点を補わずしてうまくなれるはずがありません。
自分にとって問えるというところで評価することです。自分をきちんと認めて、自分ができたことは、何だったのか、できなかったところは、何だったのかを知り、それを年月をかけて、きちんと埋めていけば、そのうち、今、すごいな、あんな風に歌いたい、と思っている人のようになれます。それはまったく違う形をとります。
だからおもしろいのです。やていけばいずれ超せます。ほとんどの人は、やらないうちに諦めてしまうのです。
ピアニストをつけて、ライヴの形でやると、このメンバーでもそれによってひきたつ人はでてくるでしょうが、同じ様なものだと思ってください。同じところに、世界のヴォーカリストもいるのです。要はイマジネーションです。
自分に力が付けば、否応なしにまわりの人も手伝ってくれます。ピアニストもバンドも、条件もよくなっていくものです。
そういうものが求められないのは、所詮、自分がそれまでの力しかないと思ってよいと思います。
力は、あって困るものではありません。それは歌だけの力ではありません。
もっと歌を動かす力なのです。☆
それをくんでどんどんよくなってください。