レッスン感想 947
大切なのはどこをどう音にするのか
音楽でのせていく、つくっていく
イメージで大きく使う、フレーズを大きくつくる
声を体に宿してみて、それを単に発する。なるべく歌わないように工夫する
アモール モナムール マイラーブそれぞれの音の前後音(ごとば)で組み込んでいく、織り込んでいく。
線を描いても、その線全部をとるのではなく、より効果的に伝えるために、なるべく歌わないようにする。決めた音のところだけを歌うぐらいのつもりでこの音のみをイメージする。最小限で最大限の効果、単純にするということ、複雑にしても体がついていけないということもある。
.音を決めたら、その音にその音のイミがあるということでなければならない。その音のイミを問う。そこにはそこにいくだけのイミがある。
心で動くところで体で動かす。のどで動かさない。
アモール いきなり入るのではなくて、一つの回転のなかで入りはじめる。
線で出す、線を訂正していく。
自分の出そうとする声がイメージできない→できないときはどうすればいいのか、やり始めたところで考えることができるか、修正できるか。
自分のなかで音が回転していない気がする。純粋に、素直にやっていないで、変に不自然につくろうとしていて、それが自分の体と息に合っていないから、とても不愉快な感じがする。
納得してやっていない3.踏み込みの音だけを感じるぐらいの気持ちでやる。
いのちのいずみあふれるアモールモナムールMyLove
しっかりと唄いだし、まとめ方をいい加滅にしない。常に伏線を張っておく。パラ行の音を上に逃すのは演歌やクラシックの常套手段。ただし、藤山一郎さんは次のフレーズを唄い直すために、逃がしたままにせず旋律に「置き直して」唄っている。伏線を張ること。フレーズの途中にイベントを仕込んでおく。というより、イベントが起こるように仕向けていく。次に展開していく力を、前のフレーズに仕込んでおくことが必要なのだ。とつぜん盛り上げようったって、そうはいかない。
「どこまで時雨れ行く秋ぞ」とぶちかますためには、「~つまびけば」の替えが不可欠、ということ。「影を慕いて」は歌詞もメロディもとても好きな歌で、カラオケなどでもよく唄っていました。今回課題になったのはうれしかったのですが、これほど外してしまうとは思いませんでした。自分に合わせて移調しようとしたとたんにスケールを見失ってしまうことがよくあります。耳が悪いのやら勘が悪いのやら。よく知っているつもりの唄がくちゃくちゃになると本当に情けない気持ちになります。
「That Lucky Old Sun」 ルイ・アームス トロング/レイ・チャールズ
名曲はシンブルである。私にさえよくわかる詩。4コママンガのようで、どこか笑いとばしてて。Workの意味は、現在私が感じるものよりずっと厳しいものだろう。その時代の、黒人のものだから。〔Up in the mornin'〕本当に目覚めた瞬間のようなもんやりした柔らかさがある気がした。
〔Out on the job〕 通勤時間。たったこれだけの短さでいえるのはうらやましい。日本語だったらせいぜい 「仕事へ」「でかける」「はたらく」ひとことしかいえない。
〔Work like the devil〕右ストレート。Workの発音、ルイのものが独特でかわいい。不慣れなせいもあるが、ここを言葉でつまずくともったいない。
〔for my pay〕ルイが何か切りかえてすごくやさしくフレーズ作ってた。
〔But that Lucky Old Sun〕But thatいいにくい。ここが左フック。何か光らせたい。Sunルイらしい、いかにも彼らしいユーモアのこもったフレーズ。楽しくなる
〔heaven all day〕ここ、ほんとに何か入れ換えているし、allで立体感つくっている。レイ・チャールズバージョンを聞いたら、もう彼以外に考えられないようなフレーズ。目を閉じて味わってしまうフレーズ。同じ曲なのに、まったく違うそれぞれの命を持っている。オリジナル。オリジナリティ。
レイ・チャールズのfor my payのフレーズ最高。こ の二人の横に私の「That Lucky Old Sun」 並べられるか。堂々と、胸張れるものを出せるか。
Up in the mornin'
Out on the job
Work like the devil for my pay
But that Lucky Old Sun has nothing to be
but roll around heaven all day.
音を細かく分析できる人は分解能力の高い耳(感覚)を持っているのだろうと思います。望遠鏡の性能は倍率では測れないそうです。主眼(対物レンズ)の直径(筒の太さ)が大きい方が、より細かいところまで観測することができます。入ってくる情報が多いから、同じ倍率でもよりよく見える。倍率を上げれば上げるほ見え方の差は大きくなるでしょう。おなじ4分音符でも、それを4分割するところまで捉えられる人と8分割するところまで捉えられる人では情報量に倍の差があるし、操作できる情報の密度も変わってくるでしょう。64分割できる人や128分割できる人ならどうなのでしょう。コンピュータの音楽ソフトは、もっと端的に(視覚的にも)これらの操作を行うことができるようです。するどい耳を持った人は、感覚に目盛りを付けて捉えるようなことができるのだろうと想像されますが、自分は相変わらず「このへんでドンとはいって」くらいの感じでしか捉えられません。
「声に息を吹き込む感じ」“あ~え~い~”といったとき、「堅い感じがする」といわれた。もう何度も同じことを先生方からいわれ、自分でも「今、力が入っている」と気づく。だけど、しっかり声を出そうとすればするほど、空回りして、上に力が入ってしまう。先生に「下はきつくなるけど、上は(のど)ゆったりとしたイメージで」という色葉に助けられた気がしました。「声に息を吹き込む感じで、上はゆったりと」とイメージしてやってみると、何となく先が見えました。イメージとか、見方を変えてみることで学べることがあるものだなと思いました。「あおい、とおい、ラララー」というフレーズ。「“とおい”の“と”の部分が少し浮き気味」といわれました。自分でも“と”の部分は何かぬいている感じ。自分でも「トシちゃんみたい」とか思ってしまいました。だけど、「“と”の部分」というように、部分、部分ではなく、一つのかたまりで「とおい」なんだなあ、ここに息を送り込む。「とおいー」というより“ドン”という感じ。
「四角張る」よく「声を張り上げる」と大きい声をだすときのことを習うけど、ここでいう「張る」はテンションを「張る」のと同じではないまでもいくらか近いものがあるのではないだろうか、と思った。
ピッチをまず意識しているときの声は高いピッチにならないと「強」っていない。一方でVの方で「伝えよう」「届かせよう」としてだすときは「張」っている。テンションも声も。で、ピッチをまったく気にしないでやりやすいところでやっているから、張ってやりやすいピッチということは高いところでたぶんやっているのだろう。ということはまずテンションを張って低いピッチを出るようにするとよいのかも。今はテンションを張ることと声を張り上げることが似ているようだけど、テンションを張っても声を張り上げる感じにならないようにした方がよいのかも。
ピアノを聞いて高いなと思ってすぐに声で出ないビッチ、高い“ド”や“レ”のあたりは、大きめに声を張ったときがそのピッチのあたりと考えることができる。「ひびく場所でそのピッチを覚えられる」ということは、そういう感じで、自分にとってのドやレはどれくらい出しやすい(しい)音程で、体の内側のどのあたりに響いて、どういうふうに感じところ、というように覚えていくように徐々にしていくのだろうか。それから今はまず音を聞いたときに正確にその音の高さ、ピアノでも人の声でも正確にイメージできるように、イメージした高さで声を出せるようにまずしなければと思う。どちらかにちょっと問題がある。聞いてイメージする段階か、イメージして声にする段階か。たぶん後者の方かな。
小さな店で生音で弾き語りしているのを観て、本当に聞きたい人と伝えたい人の密度が濃く、やたらに大きな会場でやるよりも、唄の原点がああいうところにあって、一音もらすことなく伝えたり聞いたりするには必要な場なんだろうなと思いました。そしてそれを、その小さなスペースを埋め尽くすことができて、それが拡がっていくという必然性があっての大きな会場なのだということを考えさせられます。あの緊張感、唄い終わったときには胸一杯に息を吸い込んでいて、何ともいえない溜息が出て、思わず手をたたきたくなる、全部任せてもよいと思わされる気持ちのよさ、ヴォーカリストというのは、ああいう人のことをいうんだよと、目を覚まされたような感じです。力むこともなく、普通にしゃべるように、静かに唄いだしているじゃないかと、何も肩に力を入れることはない、唄うということはこんなにも自然なことなんだなと、今自分にピッタリの内容でした。見て、本当によかったと思います。
これは間違いかもしれませんが、いつも一緒にステージ実習などに出席している人たちと一緒に見られて、空気もとてもよかったと思いました。全員気持ちがひとつになっていて、余計な空気が少しもなく、本当に有意義な時間だったと思います。
今日歌ったら(あんただれ。君、なにしているの)などと思いました。
今日、歌についてすべてを考え直しました。
「黒いワシ」日本語だと流れをまとめて出しているように聞こえるが、バルバラの歌は投げ出したものが流れていくような感じがした。よく聞くと、不自然なほど声が響いたり引いたり、何がよいのか分からなくなってしまった。ただ、べったり歌わず、言葉が飛んできて、歌というより会話をやりとりしているような感覚にとらわれることがあった。伝わるってこういうこともそうなのかな。
歌が心から離れてしまったときはセリフに戻ってみよう。
頭で考えない。固まらないこと。
「安易にできちゃうものは、そこで固まっちゃいます」
まとめないように。セリフの先の先まで握れ。音をていねいに。
音楽、歌の世界の勝負になったとき、部分毎のフレーズでは通用しているところが、通用しなくなる。音楽、歌として成立していない。
歌と前に放り投げたらダメで、心のなか、体のなかできちんとキャッチし、それで出していく。そういう技量を身につけていく。
歌い上げると早くまとまってくるが、それをやってしまうと部分が死んでしまう。皆さんの場合は練習でやっていることが正しくて、ステージでやることが正しくない。
テンションの問題。技量の問題じゃない。1音に対するしつこさ。見知らぬ歌にすぐ対応できないのは、音楽の基本ができていないから。音楽には構造がある。それを知っている人は次が予測できる。予測できて、動かすことができる。プロのすごいところと対比して、自分はどうするかということを考えていく。
ティアーズ・オブ・ストーン(ザ・チーフタース)
地から湧き上がるような声。腹から出ているというより、大地から湧き上がっているものが足の裏から入り、体を通って声となって口から出ているイメージ。とても魅力的な声。声に重さ(み)がある。
ムスタキ:ポジションが動かないからか、声が1点から動かなく聞こえる。その1点で大きくなったり小さくしているように聞こえる。力強い、迫力がある。体と息が無ければそういうふうにはできない。
大塚博堂:その1点が大きくではないが揺れているように聞こえる。特に上に響かせる(抜けさせる)ときに揺れる感じがする。まんなかでバシッと当たっていない感じ。ムスタキに比べると楽しているなという印象がする。
息の量で調節する、リズムをつくる。息で前に出ていく。声を前に出す。息の量の調節(コントロール)はイメージを確定させることによって行う。
息を厚くするときの感覚・体の感覚が、まだよく把握できていない。何となくこうだろうという当てずっぽうでやっている。
また息を厚くするときに、体の余計なところに力が入り、硬直してしまう。バシッと振れていない(フルスイングできていない)感じ。心地よくない。
踏み込んでしっかりとヒットしていない。できていても、そのヒットした音をしばらく感覚し続けていないで、意識もポジションも離してしまっている。
入りの鋭さに欠ける。ムスタキは突然はっきりした音になっている。準備が違う。
息で持っていきたいが、息に出し方(吐き方)があるようだ。
創造性とは、自分自身のなかにものごとの判断基準、行動基準をしっかりと創りあげること
能力を発揮させるための原則 集中 限定 継続 選択
伝えるということ=放り出されたモノが何を起こすか(責任を持つ)
イメージ 想定―相手、対象、不特定多数(=publicな場=仲間がいりゃ敵もいる)
心と体の一致、客より高いテンション。テンションを下げると(力を抜くと)どこかに力が入ってしまう→伝えようという意志、高めたテンション、それを放り出そうとする体勢の重要性
「音声」で何を起こすか→自分で何が出てくるのか判らないようじゃまずダメ
表現を限定してしまわない(=デッサンとしての表現)応用できる基本でなくてはならない(=ニュートラル)
共感できる感覚を投げ出さないと何も伝わらない。客が聞きたいのは“伝えたいこと”
楽譜の置き換えに終始してしまわないこと(注意)
頭から心に落としてからの表現
表現 アティテュード―1回こっきりの爆発(のSTAND BY)
歌詞のないところ(いってないところ)こそを唄う=“間”のかたち
表現の場において、必要のないところでは出さない→全部を表現しようとするのでなく、肝心なところでパンチを決める(=出すところで出し切る)
「音声」がどのように働きかけているのかを感じる
イメージを最後の瞬間まで握って簡単には離さない
どこまで言葉に委ねて、どこまでメロディに委ねるか。どこでどうそれを融合させるか(5/5.F.1.竹花)
あくびの状態(=のどが開く)
《体の状態》息と声の流れは同じ。ただ口が変化するだけ。息の流れを必ず感じながら。
はぁ~ あ~m~ あ~お~ あ~う~etc
「胸が鳴る」このPOINT(胸が鳴る)をkeep 音だけを上下させる
ばBA ベ BE び BI ぼ BO ぶ BU
Bと同時に体 息の流れ 楽に=意識と腹をきちんとつける
“気づく”“驚く”“不満”“考える”“たずねる”
あ、え、い、おうで再現
バシッと声が出ている(声がそこに眠っている)そのときにその状態に気づく。
「わたし」Wa Ta Shi ローマ字化した後、記号化して母音の出方、使われ方をしっかりと聞き取る。
【関西特別レッスン】三日間オンリーで過ごせて楽しかった。この三月に一度の贅沢なときを大切に。そんなに詰め込みではなかったのに、わずか三日間のなかに盛り沢山の課題が溜まった。あまりたくさんあって自分の頭と体
イーってばらばらになりそうなので整理する、また選んでいく。最近Kyotoでも大音量でフレーズを聞くようになって、伴奏とヴォーカルの線が見えるようにはっきり別れて聞こえるのが不思議。ただ音を流しているだけでは聞き込めていることにならない。表皮しか捉えてなかった、浅いまま進もうとしていたのを“待った”をかけられた感じ。そのときは分かった気になってもこうして数時間経つと半分以上抜け落ちてたりするので、レッスンを受け続けないといけないけれども、同時に毎回すぐさま出していかなくてはいけない。
ふだん京都で①のクラスに出ていてたまに合同で受けてみると違いを感じて刺激というか勉強になる。はじめの頃はどこがどう違うのかも分からなかった。声のヴォリュームや音楽に素早く反応するという単純な差を埋めていくのはもちろんだけど、②の人は、自分のイメージを〈そのイメージすらないときはどうしようもないが)何とか表現してみせようという、直前のめというか、踏ん張りがある。最後のS3のとき、スタジオに入ったときから、誰にというのではないが、なぜか気持ちが負けてしまっているのを感じ、今の自分では、②のクラスに出ても浮き足立ってしまうだけだろうと思った。帰り、今の自分にいちばん足りないのは切迫感、今は内に波を起こさなくてはいけないときなのを感じた。基本ができていないのは恥ずかしい。はらを決める。ただ、自分の必要とするところまでしかいけない、もし自身に対して無理しているのだったらどうしようもない恐さ、でも深い私が信じているホントの自分が存在するのなら体現してやらなくてはならない、浅知恵ではわからない、潔くときに委ねてみる。
花、ノリ、鬼、目的貫徹の意欲
自己紹介、テクニックとしての形があること
10人ほどで二日に渡り、小刻みに話が引き出される。ちらっと感心したり、キラッとするものを感じたり、何かしらを共有しているという気持ちが流れた。自己紹介や日常でも自分の話は嫌いで気付かれないように避けて通っているけど、これをストイックにまる一日続けたら、何かむける、芯が出てくるかも。オソロシイ。
20数人の声を何度もまわせたのが勉強になった。間違いの90%は、はじめのイメージのところで生ずる。イメージのないところに漠然と出さない。自分の声や体や表現を知る、MAXをつかんでおく。
まずポジションをつかんだ上で、言葉を投げきる。ハイとの相互性、密度を上げていく。
最近知って、これは使えるなと思ったものも含めて。“ハッハッハッハッハッそれを続けて吐ききることと体を使うこととを知るトレーニング”“スーと息だけで直立姿勢で伸ばしてゆく自然さをめざすトレーニング”“上に関連してスァスァスァーっとスに抜けて自然な発声ができるかどうかを見るトレーニング”“ハッ1つの息吐きで全て吐ききれる状態まで持ってゆくことをめざすトレーニング。何度も続ける”“今度は上をルイッと息から声にしてポジションがまったく変わらないよう意識するトレーニング”“ィイィと素早く吐ききって、(声)そのなかでボリューム(+アルファとして高低差も”を帰るトレーニング。これは最も難しくて私のなかでさっぱりである以上、これを統べては毎日やっていないが、核となる息吐きは必ずやっている。
フレーズ練習まで手が回らないのが現状。1でヘトヘトになってしまう。今後、曲をためて(ステージ実習は勿論のこと)プロと自分とはどこが違うのかを見てゆく。音楽に関しては、プロの歌手がどこでブレスをとったり吐ききったりしているのか等に注意しつつ、大々的にリズムを注意している。腰で動くようにしようとするがうまくいかない。
【特別実習】特に重く響いたのは1歌詞のないところこそを唄う2イメージを最後の瞬間まで握って簡単には離さないということ。特2についてはそれこそ体力と気力のハイレベルな闘いという感じで創造しただけでも息が切れて苦しくなってくる。恐党(センス)をどんなに自信を持って信じていても体がついてこなかったらないのと一緒だし、“自分のカラー”なんて考えて“自分の殻”にならないように気をつけないといけない。
音信
福島先生の特別セミナーに出るのは、これが最初で最後になってしまいました。本や会報で読んだことが、レッスンでは更に、よく分かりました。数えるほどしか、レッスンに出れませんでしたが、数えられる数だけでも、素晴らしい指導を受けられたことを幸運に思います。
ー
【プレBV座VOL.10ライブ】感想
この人のフレーズはいつ聞いても何か確かな肌触りを感じさせてくれる。「聞けてよかった」と思わせてくれる人だ。音楽を楽しんでるのが伝わってくる。アレンジの試みもおもしろい。ピアノはやはりぎたーよりも自由だと思う。表現の幅が広い。彼女もピアノに力を奪われることがあるのだろうか。歌に専念したときにはパワーがより伝わってきた。パフィーの「MOTHER」があんなにいい曲だったとは気が付かなかった。胸のなかですごく広がって、後まで残った。「春夏秋冬」のアレンジ、好みではないが、ラストのたたみかけはおもしろいと思った。最後の歌(朗読のような)はすごく心地よくて、ひさしぶりにいい日本語を聞いた気がした。同時に、それをつむぎ出す難しさを思った。香りがあった。好む曲に、私のそれも近いものを感じる。彼女の“歌”がそうさせているのかもしれないけど。
この人の「さらば恋人」はすごく好き。歌に対するストイックな姿勢が伝わってくる。だけど、もっと自由であっていいんじゃないかと思う。MCのキャラクターと反して、彼の声やフレーズには存在感が薄いと感じる。選曲や好みもあるかも。内向的な淡々とした曲調・スタイル。ガンとシャウトしても私の胸には入ってこなかった。客が迎えに行かなきゃいけないと思った。たとえば、どわーっとつかみかかってくる歌がある。そっと包んでくれる歌がある。逆にそこにふと在って、こちらから近付いて行きたい歌があり、触れがたい気高さに、少し離れて見守る歌もある。彼の歌は“におい”が少ない。きれいに盛られた「刺身」のよう。
あくまで今日の選曲と演奏に対しての感想だが。私は中華料理「すぶた」や「チゲ鍋」のような歌うたいたい。ギターの使い方わかっている人なんだなと思う。的確だし、ムダな力を感じない。今日の感想は、たとえば組み合わせが違ったら別の受け止め方をしたかもしれない。2人で歌った「ひ「さんな戦争」いいハーモニーとは感じなかった。声の潤いばかりが際立ったように思う。逆にもう少し客と距離をとってもいいと思う。客に回り込みすぎて無駄なMCがライブのリズムを出させるところある。
一曲目素晴らしい。「さすが」と思わずニンマリ。ところが日本語の曲になった途端、一気に薄っぺたくなった。声に奥行きがなくなってしまった。そしてその後、全ての曲がこの調子。唯一沖縄の歌が不安定ながらおもしろいものが見えた。それにしても、その違いはこんなにも明白なのに、本人は気が付かないのだろうか。
自分としては大切なことに気付かせてもらった、“奥行きを確保すること”。歌は立体だということと同じ意味だが、ようやく腑に落ちた気がする。つまり2点だ。上のポイントと下のポイントと、どんなに強く出そうが弱く出そうが、高く出そうが低く出そうが、腹の舌の一点と頭上の一点とをしっかり確保しなければならない。日本語の曲における加藤さんは舌のポイントが上にせり上がってくっついちゃっている。こうなった時点で声の持つ音楽性の大半が失われてしまう。
【プレBV座vol.11】コメント
お疲れ様でした。今日、VTRみました。遅くなりましたが感想を(約束していたので)。
うまかったというわけでないけど、どの曲も早回しできなかったのは、―不思議。
きっと私が君らをこの瞬間、熱愛している―
からであって(ほかのお客さんもそうであればよいのにね―)
というステージ―
大好きだよ、それが一番。
うまくとも、そうでなくても。うまさを超えたら、それが一番。
【プレBV座Vol.12】MC
音楽を聞いたとき、体全体に感動が起こる瞬間がある。それは、歌詞の内容を自分のなかにある感情と同化させて、次第に感動していくというのとは、また別の感覚だ。一瞬にして体のなかを電気が走り、鳥肌が立つ。音符が何であるかは関係ない。当然、インストゥルメンタル聞いたときにも起こる。コンサートに行ったとき、1曲でもよいからその「鳥肌感」を体験できれば満足だ。その満足感は元気の素になる。私も元気の素を生み出したい。そのために、やるべき課題はたくさんあるけれど、まず毎日をおもしろがって生きて、できる限りのことは実際に体験し、感じることが大切だと思っている。
皆さんこんばんは。PreBV座への出演は、毎回、本当に楽しませてもらっています。また、いつも来ている皆さんには、本当に感謝しています。以前ならば、感謝の心など、何か恥ずかしくて口には出せなかったと思いますが、私がこの場で歌えるのも、多くの人の協力があるからで、ステージに立つたびにその思いはどんどん強くなっていきます。
今回、私はすべて1960年代の曲を歌います。Preへの出演が2回連続になるので、じゃあ、60年代、70年代でいこうと、わりと単純に決めただけなのですけど。でも、私の目標の一つとして、ソウルミュージックを歌っていくということがあるので、その目標を確実に実行するという思いもあります。Preのステージは、何かそういうことをよい意味でさせられる力をもっています。
大事なものが崩れるとき、埃のなかに自分の間抜け面を何度も見ました。でも、冷ややかな状況のなかで黙って輝き続ける、涙が出るほど美しい存在が本当にあることを知っています。
私は、自分が瀕死のバッタみたいな気がすることがあります。神経回路も2本くらいしかなくて、本能と気温だけで行動しているみたいに感じます。本当にそうなりきれると幸せだと思うのですが、そこは半端に人間ですので、ぐちゃぐちゃになってしまいます。そんな中でのライブです。昔は外国人がライブの最後にオーディエンスに向って「I Love You」と叫ぶのを見ても真に受けませんでしたが、今はその気持ちがよくわかります。きれいな衣裳と天上の歌声の代わりに、別のものでお目にかかりましょう。みなさん、どうもありがとう。
947