一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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投稿  948

 

自分のなかでしっかり裏付けされたものでないと積み上げていかれない。すぐ崩れる。

 

「唄を上手に歌おうたって駄目。それより、自然に、こっちの心を相手に伝えたいという気持ちが第一よね。鳥だって上手に啼こうと思っているわけじゃないし、虫だって上手に鳴こうと考えているわけじゃないんだから」淡谷のりこさんの言葉。心を伝える―今の課題です。

 

こうやって音楽の流れを全体でみてみると、音楽が単に出てきたのではなく、時代背景、人々の気持ちの集まり、土地の力などが深く関係していて、ただ歌が好きとかいうことでなく表現とか、気持ちとかそういうものが形として出てきたのがいろんな音楽だったという感じを受ける。私が前から大好きだったバンドがたくさん出ていて、夢中でドキドキして見ていた。やっぱり、心が大事だなと感じる。印象に残ったのは、パティ・スミスと、ジョニー・ロットンアメリカでの最後のライブでの目。そしてレゲエとの結びつき。昔、ボブ・マーリーを聞いてダメだったのでレゲエはしっかりとそれ以降聞かなかったのが、もう一度しっかりと聞きたいと思った。理屈ではないものの感じがした。繰り返すリズムに体が揺れる感覚。音楽に身をまかせること。頭が働きすぎてはダメだと思う。

 

現在の若者は姿勢が悪いといわれている。その姿勢の悪さが声が悪いのに影響している。この先生はそれを正すために「焼き鳥の串」をさすようといった。とてもイメージ的にはわかりやすいと感じた。また、膝を曲げるのと立の姿勢を繰り返して歌わせることにより腹を使うということを意識させたり、普通は発声では「あ」と使うのに、舌が上がらないために「り」を使ったりとすごい考えて指導している。子供の目にはユニークな指導法に見える。とても感心したし、自分もそれを生かしてみようと思った。この先生が大人の合唱団を指導したらどうなるか見てみたい気がする。

 

 

創造性なんて何とかなるのか。スピードを変えてみよう。リラックスしていつでも始めればいい。成功はすぐそこ。私が私だったらどうする。でもそれって変。どうして。私が私でないなんてないのだから。深呼吸しよう。問題を解決しようとするとき一点に集中するエネルギーを目的行動を再考したり、視点を変えたりに向けてみる。距離を持たせるのか。リラックスしている。呼吸が穏やかだ。そして、カードを一枚ひいてみる。一度ひいたらその通りやってみる。追い込んでいく。違う視点が見てくる。一つの音だけ使え。際限なく質感・雰囲気を変えられる。文章としては二つの文わかるが二つつながるとわからない。歌でどういうことだ。くり返し強調しよう。何を。好きなものが見つかれば他のもの捨てればいい。結局決め手は好き嫌い。感覚。体。頭じゃない。おもしろい。

「ささいな方向へ」聞いたような音でも心配はない。新しいことはできる。そうか。そうなんだな。大きな混乱ならそれを小さな部分にしていくのか。無視されがちな部分を見るのは戦法の一つ。重要なのはアイデアそ肩のものじゃない。実行すること。本当そう。それが歌のなかででもか。そのためには過去にとらわれてちゃダメ、か。何いうとんねん、というこのワンちゃんの顔。一番わかる。ONE WORD何だろう。混沌のなかでもう一度読んでみよう。いつでも混沌か。何度でも。ようわからん、というのはおもしろい。また会える。ONE、一音、一言ひとつ、一滴点。:1.最もすぐれたこと。また、その全体。2.もっぱら。ただ一つ。

 

 

 

おすすめ

 

川崎徹

「ゲリラ的な表現をやる人はいっぱいいますが私がそれをつまらないとか、大したことがないと思うことが多いのは、その人がそれを2度とできないからです。広告をつくるというのはプロの仕事ですから、要求されれば2度でも3度でもそれに近いことができなければしようがない。1回しかできないことはプロの仕事とは認められない。つまりプロは全てのことに対して確信犯でなければならないということです。

コピーライターであれば30文字のコピーを書いたらその30文字全部に意識が届いてなきゃいけない。ダンスを踊る人が、ツメの先から髪の先まで神経が届いている。あれは大変な訓練の結果、そういうことができるようになるわけです。コピーライターも同じで「が」にするのか「は」にするのか、それ「たまたまそうなってしまった」のではなくて、「そうしよう」と思って書いた、つまり確信犯じゃなきゃいけないし、そうでなければ2度は書けない。確信犯であるために、オーソドキシーはぜひ押さえておいていただきたいと思います。」

 

ザ・チーフタンズ「tears of stone」

ヴォーカリストの声は何ともいえない心地よさや魅力を感じた。自分もあんなイメージの声を出してみたい。ムスタキの声にしてもそうだが、本気でその声を出そうとしない限り、ただ何となくというのでは出ないように感じる。その本気が体と息を必要としているのかもしれない。

 

トニー=ベネット

声は素晴らしいと思った。11月のライブを見て喜び勇んでCDを買いに行って聞いてぶっ飛んだ。あれほど、シャウトもしていない冒頭の部分から激情を表現できる声。熱い声。もっともらしいことを書いてしまうがCDなのに聞いているこちらも体がポッカポッカしてくるような、そういう声。

Old Devil Manという曲のロングトーンで、この人の底なしの息の量に驚くしかなかった。

 

「ロックヴォーカル基本講座」

詳細に書いてあるのでどういった意味なのか推測ができるところがよい。たとえば胸(アンプ)をトランペットに捉える、など。しかし実際胸でとれずすぐに離れてしまうため、長続きしない推測の感覚で終わっている。

 

ダスティ=スプリングフィールド

この胸のときめきを”声が揃っていてぜんぜんポジションが変わらない例とはこのことかといった感じ。深すぎる。あたまで深く踏み込む場合私などはキープできないためあとがよわよわになってしまうので、あのまま動かすパワーに脱帽。

 

ブライアン=アダムス

たぶん一生変わらないと思う。それは感覚が自分で磨かれてきたなと思えるときに更なるすごさを発見できそうだと今、想像していて思うから。彼のライブでは、新曲でまったく知らなかった曲なのに涙が止まらなかった。別に私は涙もろいたちでもないのになぜだろう。声そのものが本当に泣いていた。ように思う。どうしてそういう声なんだろう。そういえばあの曲はミディアムラテンポの軽快な曲だった。バラードでもないのにバラード以上に心に響いたのはどういうわけなんだ

ろ。

 

マイルス・デイビス

音色の問題、何て切なく、力強いんだろうと思いました。一つの楽器でよくあんな表現ができるものだ。ギターとかでもそうだけど、一流の世界っていうのは、1音1音のピッキングの仕方、また左手のビヴラートの仕方、その一つひとつが、一つの表現をつくり上げていく。それはもう、完全に自分の世界だけのもので、世界で唯一それしかないものだから、すごいことなんだと思う。それが人を感動させているものだろう。すごいテンションだ、もちろん技術も必要だろうけど、何回も何回も同じようなことをやってきた中で作られた芸術なんだなあと思いました。

 

つげ義春の「紅い花」

このマンガ本に糸井重里のエッセイがこう載っている。自分を「いっぱしのなにか」だと思っている若者や、仲間うちではダントツの才能を誇っている誰かがつげ義春一発でバタバタ倒れていくようすが目に見えるようである。倒れてほしいのだ。バタバタと倒れて、そして起きあがってくる姿を昔の若者である私は見たいのである。まさにつげ義春のマンガを読んだ後はずんと気持ちが重くなり、無力感や悲愴感しか残らない感じなのだが、現実はこういうものだよということを突きつけられるものである。幸福感や夢や希望といったことばは程遠い。でもそういう現実のなかを自分はどう生きるかが問題なんだという気がした、。

 

モネ 

たとえば水蓮。生涯にわたって水を描く。不可解だから。水面だけを見つ止めている。最も実体をつかめない。でも実は水をみているようでそこに映し出されたものを見ている。視野のなかにないものを見ている。詩を書いている気がする、か。映し出される空の雲。年を経るごとに起源に戻っていった、というモネ。ピカソもそうでなかったか。しかし詩を描こうと思って描くのだろうか。そうじゃないんじゃないだろうか。自然とそうなってしまう。絵に対する感想に対して、「その見方とても好き」か。彼女の好き嫌いだ。描かれていないものを見る、か。歌にあてはめてみる。その言葉からのメロディから立ちのぼってくるもの。映像を結んでしまうもの。歌から絵が見える。でも見える絵はきっとみんな違う。見させてくれる歌がある。歌われていないものが見える歌か。何も書かれていない白いキャンバスを見るときは、その白を意識することはないのに、枠ができたとたんに意識する。

歌われていない「間」が歌っている。歌われている言葉の向こうにヴァーンという世界があるということ。話ではどうだろ。結局話し手の何を最終的に人は感じとるのだろ。でもじゃあ歌詞はどういう役割になるんだ。映像を結ぶための材。素材が私のなかでとってつけたものでなく、自分の絵が描けたとき、自分の体になったとき初めて外に向けて像を描きうる、か。自ずとしみ出すまでか。白いキャンバスにこぼしたとき、描こう、と思ったときでなくだ。こぼしたとき衝撃が走る。歌だと、こう歌おう、じゃなくて思わず意識じゃなく体がそういうときか。

 

フクのり子さん

アメリカのしたいことは専門家だからわかるのをぶち破りたいことだと思う。音楽というのは直感的に感じてもらえる。でも美術は何かを見てとろうとしてきた。でも、そこにあるだけを感じとる。それ。」デュシャンの便器(京都国立近代美術館)一番アートにならないもの。逆さにして泉。ふき出てくる、か。トイレの体験と美術館の体験同じ。そうか。男性の場合はそうかもしれない、推測だけれども女性のトイレは共有しない。アートを愛することはゲームすること、か。そして、じゃあ遊んでみましょう。ふだん思いつきもしないことを考えさせてくれる。考えたことを人生に取り込んでごらんなさいか興味をひく形・色・全てアート。そんな気がする。私が興味をひかれるもの、何だろう。どうしてと思うもの、思わせてくれるものそして何かを考えさせてくれるもの。雲であったり海であったり虫であったり人間だったり。

 

鉄の固まり 豊田市美術館)

違う角度から考えることを促す。神が創ったもの、聖なる創造物といったパワーを感じる、か鉄を見て鉄を感じない。さっきと同じだ。水を書いて水を感じないどう対話していくか、か。提示してくれるから対話ができる。握ったままでいると離さないと投げないと相手は会話のしようがないか。今の私の歌。この鉄の固まりは見てみたい。見てみないとわからない。「楽しい」という感じ。ビジュアルインフオメーションがいい作品には必ずこの“楽しい”がある。ひとつ見つかると次は出てくる。そういうものか。でも、そうかもしれない。前を離れられなくなる。ああでもないこうでもないと会話したくなるし、会話できる。何かを感じる。それはとてもパーソナルなもの。何も間違っていない。「作者の意味を超えていろんな意味が発展していくのがアート。」じゃあ、そうか、“作品”でだ。つくり出されたもので、だ。人が創ったもの、自然が作ったもの、神が作ったもの。神秘的な美しさのパワーがある。そうだろうか。神秘的。ひきつけてやまない力がある。法律や宗教と違う、か。確かに何かが違う。でも宗教はどこか重ならないだろうか。本質においていくところ。宗教にひきつけてやまない力あるだろうか、もっと静かだか。もっとしみわたっていくもの。楽しもうと思えば思うほど意味深いもの、か。ピカソの顔の描いてあるデカい洗面器はまず存在自体でおもしろい。動き出しそうだし、あそこに水を入れて顔を入れてみると等と想像するだけでおもしろくなる。不思議。楽しい。遊んでるんじゃないだろうか。遊べている。たとえばそういうこと。でもいろんなのがあるだろう。