レッスン 1023
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基本フレーズ
音イメージとりくみ
フレーズ
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レッスン 基本フレーズ
一体感になるための体の条件は、いつもリラックスしていなければいけません。しかし、リラックスしてもだらっとしているとできません。「ハイ」といろいろなところに力がはいってしまうからです。集中しなければいけません。
ヴォイストレーニングというのは、一つのイメージづくりです。たとえば、胸のところに「ハイ」とまとめてみるとか、響かせてみるとかイメージするのです。主に3ヶ所くらいでよいと思います。それ以外のところが響くのは、だめなのではなくて、基本のトレーニングにおいては、複雑に響かせてしまうと調整ができないということです。要は、再現ができないものは使えません。
「10回やってみて」といったときに、10回とも狂ってしまいます。多くの人が犯す間違いは、そこだけ部分的になってしまうということです。
バッターでいうと、ここでこう振れば当たりそうだとしても、当てることが目的ではありません。やはり、前に飛ばすこと、楽に遠くに飛ばすことが目的です。楽にやるためには力を抜かなければいけません。
力を抜いて楽にできるためには、何らかの力が働く原理を利用しなければいけません。それをきちんと自分で意図してできてくるのがフォームです。私たちもこうやって話していて、切り換えてもフォームができていなかったら「ハイ」「ラアイ」となります。
皆に見本を見せる時に、意図的にいうのだったら、きちんと準備をして、気持ちも落ち「ハイ」とやります。歌っている人や、それを何年もやっている人達は体に入っていますので、表向きには見えないかもしれません。気持ちの切り替えだけで、体が切り替えられるからです。ただ、皆さんの場合は、気持ちだけでは切り替わらないから、胸の位置を上げてみて、顎を引いて、一番その原理が働きやすいことから、覚えるのです。
このことと歌うことは最初、反します。スポーツと同じで、基本をやるときにそれは応用とまったく違うように思うかもしれません。しかし、結びつくまでやることです。集中力もテンションも普通の状態よりは余計に使います。体も常に余計に使います。余計に使っていると、それが当り前になり、さらにトレーニングしていけばもっと余計に使います。
しかし実際取り出す時には、それをなるべく切り捨てて、それだけを取り出せればよいのです。そこはトレーニングとは違います。部分的に意識します。
トレーニングは部分的に意識をしますから、それは中心ではないということを、どこかで知っていかなければいけません。単に歌うのやうまく声を出すのだったら小さく「ハイ」「ライ」とやっていた方がよい場合もあります。特にのどを壊している場合はそうです。
テンション、集中力を持たなければいけないかというと、特に音の世界は、こういう時間のなかで読み込んでいく世界です。スピードが必要です。スピードがあった方が、早いものもゆっくりに考えられます。ゆっくりなものは、間をもたさなければいけませんが、それでもスピードがあった方がよいのです。スポーツと同じです。ボクシングでも10分の1見えるよりも、100分の1が見えたほうがよい。F1でもそうでしょう。視野の広さ、あるいは、感覚による時間下の広さがあります。
ほとんどの人がいろいろなものをコピーしていますが、特に日本語でやったら絶望的になるほど間違ってしまうのです。キーも声もとるのですが、スピードをとらないからです。スピードというのは、「ハイ」だったら、「ハアイ」はゆっくりになっています。楽譜に書いてある「ハアイ」は、「ハイ」とそんなに変わらないのです。でも、感覚的にはまったく違います。もう一度やってみましょう。早口でやってしまうと、口先だけで「ハイッ」となってしまいますので、注意してください。
「ハイ」と早くやることに呼吸がついていかなければいけません。呼吸がついていかなければしかたありませんから、今は「ハァイ」でもよいです。呼吸が合わないと、今度はのどが閉まってしまいます。「ハ」「イ」と、2つに考えないことです。「ハイ」です。自然な原理の働きのなかで、声を感じてやっていかなければいけません。
女性は、もう少しキーを下げた方がよいでしょう。今のところでも悪くはありません。のどにもきませんが、そこで出すと、その声量でギリギリですし、それ以上の高さになると抜けてきてしまいます。同じ音でもっと体がつけられるのだったら、それが一番よいトレーニングです。声をつかみ、動かすことを学んでください。体がついたら、高い方がやりやすい場合もあります。男性の場合は、特に下の方でのどの下に引っかかってきます。それは、思い切って上げてしまった方がよいかもしれません。
イメージの持ち方はいろいろあるのですが、音域を伸ばしていくときや、高いところをというのは、「ハイ」「ハイ」「ハイ」「ハイ」「ハイ」の方です。ことばや、声そのものを固めていく時には、「ハイ」「ハイ」「ハイ」だけで共鳴があります。 研究所では、ことばでそのまま音楽にもっていけるところが1オクターブくらいあった方がよいということです。1オクターブできた後は、響かせていく2オクターブできます。
そこで発声を分けている人もいれば、体で全部もっていく人もいます。これは好き嫌いの問題です。自分の思う音楽から決まってきます。ただ、やっていきたいところは、後でいろいろなものがのってくるために、イメージです。まず、「ラララ」「ハイ」「ハイ」「ハイ」と響かすこと、そしてその前に、こちらもこれだけ響くのだということを知ることでです。
邪魔をしなければ体に伝わってきます。私もこのように声を出したら、イスがビリビリとしてきます。これは、自分のところが響いているというよりも、より合理的に使われるように、他のところで邪魔しない体になっているから、骨を伝わってくるのです。皆もだんだんと変わってくると思います。
まず、そこをやってみましょう。キーは、男性はそのままか、もう少しメリハリのつくところにして、女性は逆に下げてみてください。「ハイ」でどうぞ。
家でやるときは、鏡を見てください。体が部分的に動かないことです。
動いても自分でわかっていたらよいのです。今はしかたがない必要悪ですが、後で取っていかなければいけない要素です。それをどんどんやっていったらよいということではありません。細かいことにとらわれすぎると本筋のことができなくなりますので、ある面ではあまり細かい注意は最初はしません。
その人から将来、どのような声が出てくるかは、その人もわかりませんし、こちらもわかりません。しばらくは、体の状態をよりよくしたり、腹筋を鍛えたりして、3か月、6か月くらい見ていくしかありません。あまり細かく「もっとあごを引きなさい」とかいっても、ガチガチに固まってしまうでしょう。
わからなくなったら、歌で表現してみることです。あるいは、ことばで表現してみるとわかるようになります。「ハイ」や「ララ」自体が狂っていくことも多いでしょう。それは、いくら経っても残っていく課題です。
確かに声だけのことに専念していけばよいのですが、声だけしかやらないと逆に、素振りだけやっていったらうまくなるというようなものです。一体それは何にどう使うためなのか、その位置づけがわからなくなります。
皆のレッスンでも長いフレーズを入れたり、歌を使ったりするのはそのためです。
声ができていないのに歌えるわけがないといわれるかもしれませんが、人間ができていれば歌の一つくらいに歌えるのです。歌に対してアプローチして、まったく足らないという感覚から、声のレッスンをしないといけません。声だけやっていて、声がわかってくるということにはなりません。最終的に声がどうであれ、歌が歌えればよいわけです。声だけに執着するより、実際、音楽を進めなければいけないと思います。
ヴォーカルに大切なのは、オリジナルなフレーズ、声そのものより、どういうふうに歌をイメージして、感覚をつかんで、自分はどう出したいのかを決めていくことです。それをより確実に実現するために、自分の体なり声があるのです。
ことばにしてみましょう。「ハイ」「ライ」だけでよいです。歌には少しずつ入っていきます。勉強して欲しいことは、自分の音声を読んで、自分でその感覚を動かしていく体験を積んでみることです。
メロディがつかないところではいろいろな言い方があります。一番伝わるのはどういうことなのかを自分でイメージして、実際どう出ているのか。できれば、カセットテープを聞いて知り、慣れていくしかありません。
自分の声を聞いて、嫌だと思っていた時期があっても、それしか出ないところでは変な小細工はしなくてよいのです。
うまくいくときと、うまくいかないときが最初はあると思います。特に、トレーニングをしていたり息を吐いてたりしていると、そのためにのどが疲れてうまくいかない時と、そういうものがうまくまわって、大きな声や高い声がぱっと出せてしまうときがあると思います。今の能力のなかでも一つの状態ができたらそうなるのです。一番よい状態を取り出せれば、かなりの問題は解決できます。
ところが、音楽は急ぎます。声域として1、2オクターブつくらなければいけないとか、いろいろな解釈をし、音程リズムもとらなければいけなくなります。すると一つに動きません。ことばくらいのところでは、まだ自分の日常のなかほどにも通じていないのです。役者と同じで、映画を見て、イザベラ・アジャーニのまねを今のあなた方がやると、声を潰すと思います。
1年くらい経ったらそれがいえるように、「ヤッホー」でも何でもよいから、そのためにどう歩んでいけばよいのかということです。音感もリズム感も本当に大切ですから、そういうものも平行して入れて欲しいものです。
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道すじとしては、歌に必要なことがトータルに入るようにと考えてきましたが、ハイレベルといっても思っている通りにはいかないので、いろいろな形でダウンさせていくつもりです。
しかしあまり皆さんに合わせていくと平均レベルのところに落ちてしまうので、やや高めで設定しているわけです。
今日は、人数が多いので相互に時間のことを考えてください。すぐ対応できない場合は、パスしてください。そこで考えたり、音程をとったり、難しいことばは、とばします。とても簡単なことば、あるいはことばをなるべく使わないで進めようと思っています。
それから、音程、リズム、ことばがとれなくて、間違える分には構わないです。時間を止めないことに気をつけてください。一人ずつあてるときはパッパッと5秒くらいでやっていきますが、そこで10秒、20秒と、取らないようにしてください。こういうものは、10人くらいでやるべき課題かもしれません。
今日に限っては、特に2年でやって欲しいといっている課題からははずれています。
今日のことを元に、そのままトレーニングをすると、のどをこわしたり、おかしなことになる方が多いと思います。だから、何かわからないけれど2年か3年たったら、その辺のことを少しできることになるとイメージしておいてもらえればよいです。いつか、この意味がわかるだろうというレッスンです。
あまり自信がない人とか、まったくついていけないと思う人、あるいは勘違いしてやっているような人は、音源や他の人の声をしっかりと聞いて理解する方に神経を使った方が有効だと思います。
これだけの人数でやると、それだけいろいろなパターンが出てきます。
そういう意味で皆さんのワークショップとするためです。
メインのところでいうと、音色について理解することです。
普段のレッスンのなかでは、音色をつくるよりも基本的な声でやっていくべきです。
ポピュラーの発声に関しては、オーソドックスなものは、ブルースとかジャズとかです。
あとフレージングでは、オールディズとかカンツォーネをもとに扱うとよいでしょう。
歌唱テクニックとか、トレーニング法に関しても、技術からやってしまうとカラオケみたいになってしまうので、本筋を捉えたことをやれるまで、感覚を主に学びたいものです。
そんなに長いフレーズでなく、短いフレーズでやっていきます。そこで何となくでも、あの人は半分くらいできているとか、1/8くらいできているとかを判断します。
それに対して自分はどうだったのかということを知るためです。
こういうレッスンをいつもやれないのは、音程とリズムをとって、ことばを正しく読むということで、1時間すぐに終わってしまうためです。今日はそれを一切、度外視するという形でやってみてください。
では、簡単な発声練習からやります。声を出してやってみてください。
これで「アアー」、一つつけます「アアア」
これをなるべく響きの延長線で重ねていきます。
次にこの3つをアアアで2音目にアクセントを置いてください。
それで3音目で響きがとれます。
あまり考え込まないで参加ください。
「アーアアーア」(ドシシラ)クレシェンドをかけているところで、次の音を巻き込みます。
実際は下がるわけです。下がるけれども音量としてはクレシェンドをかけるから、「アア アアー」というようになります。要はこの線を出していくことです。
この辺になると一つずつやらないとしょうがないので、フレーズはもう少し長くとっても構わないです。
たとえば、「calling you」の冒頭のように、です。
それでは、順番決めをします。移動しても構いません。
バラバラになっているようですが、こちら側からやりましょう。
慣れている人にこちらに来てもらった方がよいです。
上のクラスの人はこの辺に、初めての人は黒板が見えるようにこちら側に来てください。
左側からやっていきます。
階名でいくと(ドシド)上げてもいいし、下げても構いません。それだけです。
では、順番でパスをしても構いません。
途中で終わる場合は、次の人にわかりませんから、途中で終わったり、ひっかかった場合は終わりといってください。
とりあえずリハーサルのつもりです。発声練習がわりにやってみてください。
「アーアーア」1音目を聞くとなんかこのペースでいけると思いますが、そのままでは変化しません。
「アーアーア アーアーア」と4音目でクレシェンドして5音目でやわらかくすると、ドシソ ラーです。
ピアノで低いところをつけていると思って、そのまま取ってください。
「アーアア アーアーア」これを一致させて、ここまで完全にコントロールするということです。
「アーアーア アーアーア」 とてもオーソドックスな発声のところです。
その人の音域によって、下になったり、高くなったり、響きの方にいったり、シャウトする方向にいったり、いろいろな方向性が見えます。少し絞り込んでいきます。
一つの絞り方としては、まず基本条件として最初の「アー」というところ、ここは、しっかりといえなければいけません。高いところなら高いところで響きでもよいし、胸声中心でもよいから、声を捉えてからそれを動かしていくことです。動かしているうちに動いてきます。そうして動いてきたらあとは息を吐いていくと、そのなかで自由な声の動きになってきます。
響きの前に先に少し深く入る方にいきたいので、半オクターブから2~3度くらい下げます。それを「ア」のところを胸声にします。胸声にというと誤解が出てきそうですけれども、「アーア」という方です。そこは初めての人とかあまりわからない人は無理をしなくてもよいでしょう。
皆さんがやっているところの半分近くは、「アーア」と両方で取れています。そこから「アーア」の側に抜くのではなくて、むしろ集めて響かせます。
鼻先側に逃がさないで、「アーア」と頭の上、額に集まるのです。
のどで聞こえてしまう人は、あまりやらない方がよいと思います。ある程度、体で出せている人はわかると思います。
「ア~」というところではないです。極端にすると「アーア↓」のところです。
これをどう使うかというのは歌の話ではないのです。
今は先にこちらをやります。
それから今度歌に行く方向でやります。高いところが出る人はなるべく高いところでやった方がおもしろいと思います。3度から半オクターブ、もし難しければ低いところでやれば、体側の方に落ちてきます。
こういうふうにヴォーカルは、「アー」でなく、「アー」とこちら側にもっていきます。
ここのところで、グッと体で止めます。のどで止めてしまうと、このあとのレッでもつぶれてしまうので、無理をしないでください。
「アアア」と3つでよいです。止まっているようで、流れています。
これを一時、止めてしまうのです。止めていくというのは、「アーア アア」というところです。
一番深い息を吐いてみてください。
やってみましょう。2音目の「ア」までは同じでもよいです。3音目にいくときに、先ほどまでこういうふうにやっていたのを、これをこういう形でこう閉じるだけで、2音目までもっていきます。急ぐ必要はないし、こんなふうに閉じる必要もないのです。
一回は回転させていった方が楽です。それをふまえておいて、初めは1番目、2番目、3番目の音があって、1番目がこの音、2番目がこの音、3番目はこの音という形で捉えるのではなく、これを一本の線にしてしまって、音が変わるところと違うところで変化させていくということです。
皆さんは、こう取って、3つに分けてしまっていますから、1音目から2音目でこう開いて3音目でこう閉じるということより、1、2、3を一本のフレーズにして、音が変わったところで音色を変える、あるいは音色を変えてからその音色のまま次に行くというような形でなるべく線をつなげていく方向にします。
音の階段を出さないようにする方向でやるのです。
聞いている人には、音色の方が先にきますから、そうするとこの階段というのはもっとくずれやすくなるわけです。今の逆の方です。ファルセットとか響きに抜かすというよりは声自体に少し音色をつけるように考えてください。バランスの違いを調整するだけです。
今は、先ほどみたいに、胸側にまったく入れないで、むしろ感覚としては、人によって感覚は違いますが、芯だけは握っていながら、声の方をこう開いたという形です。
「アー」とこちら側の方です。それを少し息で加減します。先ほどみたいに音色がつきますが、これも2音くらいにしましょう。
3音でやれる人は3音でやってみてもください。キンキンする声の場合は、それを下でしっかりと、保っておくことです。「アーア」とやってしまうと、響きだけになって、変なソプラノみたいになってしまいます。だから、芯をもったままキープします。
もう少し上の段階にいくと、「ハッハッハッハッハッ」みたいな発声練習をよくソプラノとかテノールの方がやっています。それが目的にしているところです。「ハアハアハア」は、のどでひびくところです。そこでは音楽にはつながりません。先ほどの「アー」というところに響きをつけていくのです。
「アーア」それを全部、本当は胸側でいっても、響きだけは頭側に、体の方がしぜんとコントロールしていく、あるいはその枠でやっていくということです。
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日本人は、108しか音の数がなくて、彼等は2500もあります。母音だけでも20から30もあります。スピードもまったく違います。子音でやっていくということは、キーボードの上のTやKが、我々は、母音をつけて広げないと認識できませんが、彼等の場合は、それだけで認識して発せられます。そういうものは、慣れていくしかありません。
曲を聞くときには、体で聞かないとあまり意味がありません。ステージを見て、自分が跳ねていても、自分がステージに上がったときに一緒に跳ねることができるのかです。体を動かしながらどうできるのでしょうか。ここでもいろいろなステージを見ていると思いますが、歌を聞かなくても、その人を見ていて、その人の体がどう動いているのかを見ていれば、その人が表現できているのかがわかります。その人がその心になって、そういう体にならない限り、そういう音色が出てくるわけありません。
そういうものをどこで勉強しているのでしょうか。
単純にいうと、音を読み込んでいけばよいのです。できるだけ映像を見て、CDを聞くとよいでしょう。
2年以上残っている人も多くなりました。優れているというよりも、自分の課題を2年で終れず、次の課題を見つけるためよりも学び方がようやく学べてきたからでしょう。ちょっと心配しているのは、音楽をどこで勉強するかということです。ここだけではまったく足らないと思いますが、ここだけでも随分なことはできると思います。体で読み込むという感覚の欠如の方が問題です。
レクチャーを聞くと、皆、レクチャーの内容は終ってしまったと思うのでしょうか。1カ月目のモノトークをやると、そのことも終った。朗読をやったら、朗読は終ったと思ってしまうのでしょうか。
では2年も経って、そのことをやってきたというなら、一つのモノトークをやってみたときに、どれだけのことを見せられるのでしょうか。それで他の人とまったく違うと思わせて始めて、終ったということでしょう。ほとんどの人が、何も終っていないのです。単に過ぎていっただけです。
伝えられることというのには年月がいります。限度があります。どんなにジャズやシャンソンを聞いても、体は受けつけないでしょう。受けつけなくとも誰かが、降ろしてくれたら、それをきっかけにしていくことができるのです。
どんな歌い方をしていても、プロはプロ、アマチュアはアマチュアです。そこの差が見えればよいというだけのことです。それが見えたら、少なくとも見えたところまでは、やれば行けます。見えたところまでは行きつつ、後は見えない世界がありますので、見る努力をします。
F1のレーサーやボクサーのなかでも見えている人と、見えていない人がいるのでしょう。そうなってくると、今までの20年や30年にどんなものが入ってたのかということになります。皆さんのなかにも、いろいろなものが入っています。しかし、舞台のなかでそれがでてこないなら、どこかで補い、出す勉強をしていかないといけません。
なぜ、流行りの曲を使わないで、こういう曲を使っているのかというと、わかりやすいからです。わかりやすいというよりも、逆にいうと教えやすいからかもしれません。本当の差が見えやすいということです。
音楽を聞いて、そのなかで何が起きているのかを知ることです。今やって欲しいことは、ベーズの部分があって、それを超えて表現している人の表現を見るというよりも、その人のベースのところを見ていくことです。ベースの部分をやったときに、自分とその人の差がどう違うのかをきちんと見ていかなければいけません。
多くは、発声の問題ではありません。ステージのスタンスの問題、日常のなかで何が入っているのか。今まで生きてきた中で、音楽的なことも含めて、どこまで応用できるかが問われるのです。最終的には演奏の力になってきます。ピアノでいえば、初見でスラスラと弾けるようになったときから、ようやく勝負が始まります。
だからといって、楽器ばかりつくって終ってよいわけでないし、調律ばかりして終ってもよいわけがありません。そこでできるだけステージに近いことからやっていけばよいのです。スクールのなかには、最初にCDをつくらせ、そこからレッスンに落としていくところもあります。本当はその方がよいかもしれません。しかし、CDはかなり加工できるので、自分の力を捉えるには不向きです。
ここも3カ月目くらいから、ステージで歌える歌として歌わせていますが、その評価がどういう評価なのか。なぜ、たかだか5年10年より生きてきた人、やっている人達に評価されてしまうのか。その評価が自分でわからなければ、結局上達はできません。
私は一流といわれるものを外国に行って見てきました。どう評価するかというものをきちんと自分で判断して見る力を常に磨いています。たとえば、そこで主役をとして歌を歌えている人はどう違うのかということを見ています。
体の条件は皆持っているから、そういう見方は、皆でもやっていくとできてきます。好きか嫌いかはわかりませんが、ピアノの発表会に行って、順番をつけてみると、わかってきます。アマチュアのなかでうまいということではなく、プロで全部がすごいという中でどこが悪いのか。それに対して、厳しい基準をもたなければいけません。
④のクラスには、総合評価表を出してもらいました。半分の人はまだピンボケ状態です。あとの半分近くは、しっかりとした価値観ができてきています。 特に、強いところ、弱いところが皆それぞれにありますから、自分の音楽に対して強いところでより強くなればよいのです。全ての音楽を全て一流に歌うことは無理です。だから、どう勝負するのか、結果的にそこに落ち着きます。
会報にレクチャーのことをいつもおこしていますが、そのことの意味をつかんでください。文字で読んだだけではしかたがないわけです。それは本当はどういうことなのかを、あなた方が解釈して、自分で意味をつくって気づきはじめて、他の人とは違うあなた方のものが出てくるのです。
たとえば、全てのものをまねるなといっても、優れているものからは徹底して勉強しなければいけませんし、まねなければいけないでしょう。まねなければいけないから、まねるなといっているのです。それはまねることが目的にならないためです。そういうことを言葉の上でとっていったら、音も聞かないで、自分で歌っていればよいということになってしまいます。どんな人が来ても侵されない、自分の武器を持つ。自分のなかに何が入っているのかを知らなければいけません。
やりたいものに対して足らないものを入れていかないといけません。基本というものは、本当に面倒くさいものなのです。なぜ、皆うまくならないかというと、その面倒くささのところで、自ずと取り組みが甘くなってしまうからです。一つのものを表現する。ここにいるならそれが将来に繋がっていくように詰めていくことです。それを怠ったときにここもつぶれてしまいます。自分の場もつぶれて、信用もつぶれます。そこへの執着力については、それなりに厳しいものがあります。
まして出ていく人達はもっと厳しくないといけません。ここで大丈夫と自他共に認められる、多くのもの強いものを残していくことです。
一番今困っていることは、昔は上の人達の方がゆっくりしていました。技術がありますからそれでカバーできます。この間も④は、13人くらい歌って、3人くらいしかまともではなかったので、私も注意しました。カバーするには早すぎるからです。わかっている人は確実に他の人よりも歌ってきています。
ところが、入門や①のクラスの人が1カ月のステージに対して、歌っていなくてどうするのでしょう。正しく覚えたからというくらいで出てきているのなら、日々この差はついていくばかりです。
アマチュアはプロ以上に練習していない限り、絶対プロに追いつきません。プロはそれをやってきた人達です。過去の財産があります。わずかな時間で、少し聞くだけで、より深く聞き、それをどう動かすかを知っています。それだけでやっていけるわけではありません。少しずつ貯えられています。アマチュアがアマチュアのまわりに合わせていたら何の意味もありません。
普通の人が1本作品を見たといっているのに対し、「私は10本見た」というくらいでは、すごいことではなく、当り前です。そのレベルでやらないという執念があってこそ、生き残っていくのでしょう。
全員に対してではありませんが、その辺が感じられません。個人で見て、出ている人は出ています。出ている中で、何を吸収するか。吸収できないうちは吸収するために、そして出せないうちは出すために、たくさん出ればよいのです。
接点をつけていくことです。ここで毎日こうやって顔を合わせていても、それは出会いではありません。あなた方の作品に対して、私たちの心が働いて、始めて音で出会える。音声で表現して、舞台で出会って始めて興味を持つのです。そこまでというのは、街からあなた達若者を切り取ってここに置いただけです。こういうことをやっているのも、そこであなた方が何をつくるかで、つくるところから考えていかないといけません。
プロの演奏ができる人は、必ず、プロのトレーニングメニューを自分で持っています。ここもメニューを全部出させています。
取り組みに関しては、この程度でよいという考えは抜いてください。全部見せられないのは残念ですが、どのくらいここで取り組んだか、そういうことで、私たちが驚くくらいでないと、それだけの作品もここでたかだか30人の客にすごいといわれることもできません。やることは無限の世界です。限度がありません。それを経て、評価眼がついてくると思います。
入ったばかりの人がいきなり評価されるということはありません。ここで何年もやっている人の評価や声を参考にしてください。評価する土俵から早く評価されないようにすることです。舞台を見ていても、評価できてしまう舞台というのはよくないです。自分が評価で動いたと思ったら、よくありません。気を抜いているわけではありませんが、ちゃんとしているときには、お客さんとなってしまうでしょう。そこにいる人を客とする力が必要です。
皆さんの場合は、特に読み込みを早くできるようになって欲しいです。最初から、なるべくレベルの高いものを聞いてください。それが心地よくなってきたら、自然と読み込めていきます。
自分の好きな音楽もここに来るときにめざしていたヴォーカリストもあるでしょうが、それは、ここのことをマスターしてからやれば違ってきます。とにかく感覚を変えるということをやって欲しいのです。感覚が変わらない限り、気づかない限り伸びていきません。今のままです。
感覚を変える一番よい方法は、たとえば非日常的なところに身を置くことです。映画でもその疑似体験になるし、崖っぷちに立っても、旅をしてみてもそうでしょう。音楽も同じです。自分が慣れ親しんできたものでやって、歌ってみてうまくいかないのであれば、そこで変化を起さない限り、上達しません。
そのまま他人の歌をまねしていくと、どんどん制限がかかってきます。ある意味では、くせでやれてしまうようになってしまうかもしれませんが、それを恐れなくてはなりません。それは上達ではなく、それが可能性の制限です。
プロの体として変えていくためには時間がかかります。感覚として変えていくのはもっと時間がかかる場合が多いです。感覚は入っていないとなかなか変わりません。
こういう音楽に対しても予想がついていかないといけません。変わっているというだけではなく、「最初にこう来たから、次はこういくはずだ。最後は、こう落ちるはずが違った。何で違ったのか。自分がおかしいのか。でもこの人は、なぜこうつくったのか」というようなことを、最初は理屈でもよいから読み込むのです。その辺にパワーを全開にしてください。体のパワーも心配していますが、頭や集中力のパワーも足りません。
理解するために、いろいろなものを書いてください。レポートでも、会報一つ分くらい書くのです。書いたからどうということではないのですが、書かない人よりも少しは勉強になっているでしょう。最初はその少しがとても大切なのです。しかし、問題は質です。そのことに対して、やっていく姿勢を自分でもっていくことです。
素直な心で聞くということと共に、それを自分でたった1つでも、2つでもやってみたときにできない。それは何なのか。それさえ詰めればよい世界でしょう。簡単に考えると、このくらいの歌だったら、自分でできると思って、自分で録音をとってみたら、まったく違う。思ったことは何で、できたことは何かそこを詰めていくことです。
そんな簡単にできたら、ありがたいことです。しかしなるべく簡単にしようということでやっています。しかし、思ったことの程度が低ければ、どうにもならないでしょう。
最初に感じて欲しいことは、体の力です。大声出せばよいということではないのですが、音楽にのせる前に体が動いていることです。
このように聞いて1曲全部を勉強するよりも、1曲はもたないのだから、1曲のうちの1フレーズでよい。その1フレーズをやってみたときに、自分はどうなっているのか。自分がわからない。他の人のものを聞いて、自分ができていなかったら、処理できている人とどこが違うのかをみるのです。
なるべく人数の多いところで比べるほうがよいのです。先生一人だったら、先生のフレーズ、先生の呼吸に必ず影響されます。それは初心者にはかなり大きなリスクと思ってください。ここにはいろいろな先生がいます。それも大きな利点です。私がこうやって教えてくださいといっているわけではありませんので、それぞれの体に学び方を伝えるように自由にやっています。教えるのでなくて伝えることからくむようにしてください。
やってみましょう。英会話と同じで、いくら聞いていてもやらないとしかたありません。できないことがあたりまえで、できてしまう方がおかしいです。できてしまったら、それですごいのです。ここでやっていることができたらすごいのですから、できないことがあたりまえです。できないことはあたりまえでよいのです。それをできるのがあたりまえにするから、すごいのです。
2年間で瞬間的でも、こうなるものという感覚をつかんでください。そうしたら、すぐに④のクラスにいけます。④のクラスは決してうまいというのではなく、2年間くらいのなかで1回そういうことを出せた人達なのです。瞬間的に乗り移っていて、出てしまった。ですから、そんなにいつもがうまいわけではありません。でも、1回でも出たということは、それが出る可能性が高いということです。
こういう芸事は、自分でまとめようと考えて、50点、60点くらいでコンスタントにとっていっても、80点以下は0と同じだという話です。90点が3年間の内、1回でも出れば次の年には、それが10回出るかもしれません。その次の年には、より確実にしていける。そういう人達の方が可能性があるわけです。恐れずに思いきりやってみてください。とれるようにとってみてください。
4つくらいいっている内の、どれか一つでもよいです。長く伸ばしているところでもよいです。本当という意味です。エヴェーロ「True」真実ということです。
できなくてよいのです。そのときに何が足らないのか。何ができていないのか考える。たとえば、音程がやリズムがめちゃめちゃならそれを強化します。アドリブや即興のように、すぐにはいれるようにしていきます。ジャズのようにすぐに自分で組み替えて歌うなんてできないというのは、入っていないからです。音楽はそういうものです。
たとえば、楽器を弾いているだけ人は楽譜をもらって、そのまま音におきえます。しかしプロは初見で自分でどう変えるか考えています。ここのピアニストも希望者のなかから4人くらい、それも2年間くらい猶予をつけて何とか採ったところです。もう2年か3年でポピュラーを一所懸命やってくれたら何とかなるような人は、そのくらいしかいません。まったく感覚が入っていないからで、その感覚までは入れられません。
技術的にはできて、少しでもその感覚があるという人を選んで、後はこちらが待つしかありません。20代の前半くらいだったら、ピアニストの場合はそんな感じです。ピアノの方がより厳しいです。
ヴォーカルは、できていなくても、キャラクターでもってしまえばよいからです。案外勢いだけでもってしまいます。バンドがよければ、助けられます。そこにリズムがはいっていないとか、音程がはいっていないというのは、そのくらいにしか対応できないということです。
簡単なことでいうと、プロがここに一人いたら、何をやるかと想像してみたらよいのです。一緒にレッスンをやると2、3回聞くと、もうできているでしょう。それは、その人のなかで音楽や声のマップがあるのと共に、自分がどこにもっていったらそのことがみせられるかということがわかるからです。
このヴォーカルは読み込める。感覚で入る、あるいは、体で読み込んでいるというのは結局、その人間がつかんでいるであろう世界があるからです。そこでそれに連なる音や体の動かし方をするわけです。それに対し、こちらがようやくアドバイスできます。少なくてもそれがひとりよがりだけの世界であってはいけません。
今の皆さんのものは、声を聞かなくても、遠くから見ているだけでも、練習しているだけです。練習と本番は、違うようで似ています。特にここの場合は明かです。練習で出たもの以上に本番で出るというのは、感覚的なものです。
耳で捉えた通りでよいのです。一応、白板に言語で書いてありますが、できるだけ読まないことです。全部でなくてよいです。どこか自分ができそうなところを見つけてやってみてください。
自分を知っているということは、自分ができるところはぱっとわかるということです。歌は自分ができるところだけを見せればよいのです。舞台でも、自分ができないことを見せる必要はありません。へたなところを見せる必要はないでしょう。困ります。自分のよいところだけを出して、最高の1分にまとめればよいのです。
10くらい自分のジャンルがあれば、だいたいどんな歌も対応できます。パターンもいくつかあるとなおよいです。
こういう歌も「シーセイトゥー アルディーラー シーセイトゥーー ペルメー」と全部歌えばよいのではありません。長くやっている方が歌えている気がしているのは、歌い手だけです。聞き手にとってみたら、一番よいところだけ見せてもらうのが、印象に残るのです。そういうふうに考えてください。
皆が、今までやってきた世界は、初心者のピアノ演奏のようなものです。本人の大変さが場を息づまらせています。どのように、音を生き返らせていくか。命をどうやって吹き込んでいくのかを問うことです。そこでこの歌い手は何をつくったか。自分は何をつくるのか。
発声や声ということよりも、表現なり音楽として何が足らないのかと考えてください。1フレーズで足らないものが、1曲歌ったら補われるというものではありません。もっとだらだらなって、いい加減になります。テンションや集中力が大切です。自分の練習する前に、3時間ウォーミングアップをしてあたりまえでしょう。ステージと同じつもりで練習しない限り、ステージの練習はできません。
これは、レッスンでは、先生だけがテンションを高くして皆を置き去りにしてしまうのでなく、その逆でなくてはなりません。そこで出すときの切り替えは、皆の場合は慣れていないだけにいつも時間がかかります。しかし、レッスンに出ていればそういう状態は何回かつかめるでしょう。黙っていてもプロの人は、そこで5秒、0秒で切り替えられるでしょう。
少なくとも15分から30分くらい与えたら、それなりのやり方でやれます。皆さんもそういうものをわからなければ上達していきません。そこを自分で歩ませていかなければいけません。
それは歌のなかでは1フレーズかもしれません。あなた方にとってもたった1つの瞬間です。その瞬間のときに気持ちがはいらない、心がはいらない。体や心がこわばって、はいらないのでは、表現が飛んでくるわけがありません。
練習も、自主練習をやるときは、1時間くらいやっていると汗ばみ、体が温まり、声が出やすくなった状態で歌うことができます。ステージはそこまで待ってくれません。初心者でしたら、1番目か2番目に歌わなければいけません。でも、そこで見せなければいけません。その状態をどうつくるかを知ることです。
映像でもよく見ておいて欲しいところは、歌っているところではなく、歌うために彼等プロは何をしているのかというところです。楽屋裏で皆、ヨガをしたり、瞑想をしたり、柔軟をしたりしていました。彼等がそうなのだから、あなた方はそれ以上のことをしなければなりません。彼等はそれで何十曲も歌えるのですが、あなた方の1曲や1フレーズでも、そういう状態でないとできません。そういうのを知るためにすぐれた人と共に場に立つことが必要なのです。
自分のノウハウを持っているということは、たとえば声が出にくい日だったら、どうやれば出るようになるのかを知っていることです。最初は人に聞くこともしかたないかもしれませんが、自分がプロになったつもりになれば盗めます。こういうときには、もう少し早く起き、ご飯を食べて、間はこういうふうに少し休んでおいて、このくらい前になったら準備運動を始めたらうまくいくというくらいに、自分のことを知っていなければいけません。
皆、それぞれ違うはずです。低血圧の人もいれば、朝起きるのがつらい人もいれば、夜中に練習しない方がよい人もいるでしょう。そういうことを知っていかない限り、それ以上のものは出てきません。
もう少しキーを落としたものでやりましょう。
音は、ドドレミミレミファ。「アデソシー アデソケー トゥバイ ロンターノ」です。プロのように流してしまわないことです。プロの場合は、基本を踏まえた上で、次の動きをつくるために、流れとして出ているのです。
日本のプロくらいの感覚で読めても、それ以上には上達しないでしょう。
その他のいろいろな要素、何でプロがやったら、それが歌になるのかを知ることです。私のレッスンも、同じことしかやっていません。音を置いていくだけ、あるいはドドレミミレミファをつないでいくだけでは、歌に限らず、表現にさえなりません。「アデソシー アデソケー」といっているだけで、前に出てきません。これは、難しいというよりもわかっていないからです。より優れた人を見たらすぐわかるでしょう。
テンポをゆっくりでやるということは、それだけいろいろなものが入っていないともちません。単にアデソーと皆には聞こえるのを、私たちが聞くと「アデソ」とそれだけ強くはいっています。その「アデソ」が体で支えられているのです。実際出てくるときには、そこで音声にはしませんが、そういうところにスピード感や展開感を読み込んでいかないといけません。
今の皆さんには難しいと思いますが、まず、やたら伸ばすような歌い方はやめた方がよいです。それをやっていると、自分が声を出しているから歌った気分になって、聞き手に何も聞こえなくなってしまいます。「アデソ」のアのところで終ってしまいます。
もう一つくらいやって終りましょう。「イオデ」も「ヨ」と聞こえるのなら、イタリア語を勉強しているわけではありませんから、「ヨ」といってもよいのです。正確にやりすぎて口がまわらなくなるのも口だけがまわるのもだめでしょう。感覚的に捉え、感覚的に歌になっていればよいのです。
要は、相手が先を聞いてみたいと思わせることを取り出せばよいのです。たとえば子供がピアノを習っていて、10代のうちならバイエルなど、形から入り、曲が弾けるようになってから、成長とともに心がはいるというのもよいでしょう。しかし20代になっていたら、心からはいらないと遅いのです。心からはいるということは、心と体が一つになって、とにかく何かを表現した。一体感があったとか、動き出したとか、動かしたとか、そういうことを全身で空間のなかで捉えつつやることです。役者の世界と同じです。
もしわからなかったら、そう考えてください。役者のトレーニングでは、演技と音声でやります。スポーツでもキャッチボール一つでも、今のは一つになって腰がはいったかどうかわかるでしょう。わからなければ、全身を使うものをやりに行けばよいのです。
そういうものが、音声のなかでも同じようにまわっていなければいけません。2年間で要求していることは、音声を自分の心と体で一体になって、わずか一瞬でもよいから、これで自分が出したという実感を得ることです。たとえば自分が今出したものでも、ここの部分は使えるなというものさえ、まだ全員にはありませんが、0.1秒くらいはある人もいるのです。それを音楽的に処理できるために、今度は聞き方の勉強になります。
私は、今流した曲は何回も何回も聞いていますから骨まで入っていますが、そうでない曲でも、たとえばドラム、ベーズギター、ヴォーカルの4人編成くらいだったら、ぱっと聞いたときに、だいたい全部入っています。入っているものと違うところでは若干ずらして感じています。 皆もドラムの勉強をしたら、ドラムが聞こえるようになります。意図的にドラムを聞こうとしなくとも、そのように聞こえます。
歌い手の表面しか見なくて、それをまねてしまうのは愚かなことです。音楽はその前から打っています。だからレッスンでもその前後を聞かせています。そこに全部ヒントがあるのです。伴奏がこう盛り上げていたら、自分の体と気持ちがそうなっていないと、そこで声を出してみただけではできません。発声の問題よりも、演奏や音楽に関して一致できるものを優先しましょう。
ヴォイストレーニングは、本当に耳と体がよければ、ポピュラーの世界では発声もヴォイストレーニングもいらないでしょう。理屈も本もいりません。ただ、日本人にとっては、耳でぱっと聞いたものをとり込んだ声で、ぱっと演奏にすることは、ものすごく難しいものです。それは日常で経験してきてないからです。
皆のなかでも、役者として一流だったら、今日やっているレベルのことばの問題というのは、たぶんほぼ解決できるでしょう。ただ、歌は次に音楽的にどう展開するかということがあります、ほとんどの人はそこまでのこと、役者として、外国人としての感覚で声や言葉を動かす自体の時点で、かなりネックがあります。
全身で声を使って伝えることを、子供の頃よりも忘れているでしょう。練習のところで取り出さなければ、本番では出てこないということです。本番だけ出てくることはありえません。自分で体も心もほぐしてやっていくことです。1秒でも、0.5秒でも何かを深く感じて、それと共に音楽の勉強をしてください。
これは、こう予想がつくとか、こういけば気持ちよいとか、これはどうも気に食わないとかいうものは、一流のもので勉強していけばよいです。いろいろな歌い方があって、いろいろなパターンがあります。いろいろな声の使い方のできる人が、どうしてその時代こういうやり方をとったのかというのを知ることです。
そこに少なくとも我々よりは深いレベルで判断された正解のようなものがあるのです。感性の鋭い人がそう決めたのですから学べるものはあるはずです。それを歌えということではなく、それを参考にして、自分でやってみて、優れていればよいのです。自分の方が優れていると思うことは、それはそれで構いませんが、自分のものを客観的に聞く耳をどこかで持たなければいけません。
それは同時にやっていかなければいけないものです。体の感覚は本当に大切です。絵や小説は一回突き放して並べて比べられますが、声ばかりは自分の感覚のなかでも、感覚が少し右にいったら、声も右にいくという、不安定なもの、ボクシングのような世界です。それが全部鈍っているのに、歌だけ輝いて、声が伴っていません。
一所懸命声を出していると、声が朗々と出てくることはあるかもしれません。しかし、音楽が動き出してくるというのは違います。それがわからなければ、一流のトランペットやサックスを吹いている人の表情をじーっとみてください。すごい表情になります。
ヴォーカルの場合は、あんな顔をする必要はありませんが、カレーラスを見ていると、すごい顔になります。ポップスの場合は、なるべく自然な方がよいと思いますが、だからといって演奏のためにそうなっていくことは、まったくおかしなことではありません。いくら動きが派手になっていてもよいのです。
パティラベルのように、あんな派手なことをしていて、あれがステージでは普通なのです。でも声がついていなかったり、その人の動きがついていなかったりしたら、おかしなものです。自分でその動きはつくっていかなければいけません。大変な分、それが一番おもしろいことです。
今、皆に練習して欲しいことは、セリフでそういうことをすることです。
できたら、今日いったようなことをやることです。今日やったことは、音楽にするところまでです。構成の仕方や、展開の仕方とか、また違う意味の難しさはでてきますが、これができたら、つなげばよいだけです。
自分でやってみて、「ここよいな。ここだめだな」と自分で思ったこと、感覚したことを録音にとって、実際に聞いてみてチェックします。よいと思ったけどだめなんだとか、自分ではだめだと思ったけれども、これは認められそうだなと判断します。
なかなか難しいのですが、他人が聞くのは、出たものです。自分のよしあしよりも、出たもののよしあしです。それが自分勝手ではいけません。自分でフィードバックしていくことです。
いろいろなトレーナーがいろいろな材料を与えていると思いますので、今日やったことでも、4つのフレーズのなかで考えてみましょう。3つはまったくだめだったけれども、1つに関しては声が出やすかったというのだったら、それを徹底してやればよいのです。そのことばではうまくいかないなら、自分で書き換えてみることです。
それだけ自分で自由度を持ってください。いろいろなトレーナーがいるなかで、あのトレーナーのあのやり方が今の自分には合っているというのだったら、そこで徹底してやってみればよいのです。そうすると他のこともわかってきます。私は、ここに不要なレッスンは置いていません。意味がわからなかったら、直接聞いてください。
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レッスン【音イメージとりくみ】
ここをこうやればもっと可能性がある、ここはこの音色のところをやれば、少なくとも10個から100個くらいの可能性がでてくる、という具合にトレーニングするのです。日本の場合は、1つの形に決まっているかのようで、ヴォーカルがいろいろな可能性があってやろうとしていたことが、こんなものになってしまう、という場合がほとんどです。
伴奏の入れ方から声の生かし方も単純です。大体、最初に形ありきです。ヴォーカル自体が何も考えていなくて、単に歌えばよいと思っている場合も多いからです。それでは点と点がぶつかっているのです。
音楽のなかで、ドラムやベースなども一つの音色として、いろいろなものが動いています。当然のことながら、声も動いていなくてはいけません。その動きと動きのなかで1つの世界をつくっていくのが、音楽である歌の世界です。それをやろうとしたときも基本的な条件がなければ、その感覚と共に体が動きません。
その感覚がなければ、いくらやっても無理なのです。その感覚というものは、自分がやったときに、伝えたと思う感覚、あるいは、何かをしっかりとまとめて、聞いている人に提示できたというところで正しいということです。
話しも同じでしょう。正しくもれなく話し終わっただけで満足できるのは最初のうちで、そのうち伝わらなかったと感じたら、つまらなく思うようになるのです。それも感じられないと、わからないのです。
それは、人間の本質的な部分で、伝える表現というものを伝えるのです。伝えて人の心を動かすことを踏まえた上で、感覚がフィードバックしてくるのです。そうでなければいけません。声がでるようになったら歌えるようになる、あるいは、音程、音階がついたら、歌になるということはありません。まったく別ものです。伝えなければ伝わりません。
ドシシラ#を「ラ」で、でにくいようなら「ア」でも構いません。
音楽にしていきます。そのときに、音楽が聞えるか聞こえないかを、表現から問うのです。
10年経っても歌っていこうという人は、10年後に問われる課題がそれだけだと思ってください。ドシシラ#この4つの音です。これが4つの点のままでは音楽になりません。たとえば中学生や小学生のバンドを見たときに、バシャバシャバシャバシャとドラムが鳴っていて、ベースがドタバタドタバタと鳴っていて、それが全部混ざり合ってぐちゃぐちゃになっているのは音楽になっていないとわかると思います。それぞれはがんばってやっています。
楽譜を見てもあっています。あっているけれども、サウンドとしては聞えてきません。そこの点のところだけを打っているからです。それは、その人のなかで音楽が動いていないし、合わせる心が動いていないので音楽になりっこないのです。打てばよいということではないのです。
バシャバシャバシャのどこをつかまなければいけないかということです。裏をつかめ、あるいは、バーンと鳴ったところの後の感覚をつかめなどといいますが、結局、叩くことが音楽ではなく、叩いたときの反応があって、そこにまたどう入れていくかというものがあり、リズムを1つのテンポ感のなかでやっていても重なっていくのです。
ドシシラ#をどうとるかということです。音楽をたくさん聞いている人が強いというのは、たくさんのパターン、ネタがあるからです。あの曲にもこのフレーズは使われていた、ああいう歌い方をしているヴォーカルもいるというネタがあればあるほど、どこを音楽にすればよいかがわかるのです。
少なくとも「タ・タ~タ・タ~」とはなりません。これを1つにとります。それでも音楽にならないから、その1つをどう動かすか、あるいは、2つにとる、3つにとると、いろいろなやり方があり、そこから判断してみつけていくのです。
音程の練習もまわりと合わせないことです。これはコーラスのレッスンとは違います。急いでやる中でも、自分の時間に余裕を感じてやってください。だいたいのペースだけ決めてやっていきます。自分の1番出せるキーを定めてください。音でいえば、たかだか2音です。レドドドくらいです。
これをもっとも適切なキーでやったときに、そこで声量がでない、音域が足らないというわけではありません。そういう条件にしたときに、どこまでできるかと考えてください。
聞いている人は、その人の何が聞えてくるかを聞いてください。その人の息が聞えるか、感情が聞えるか、人が聞えなくても音楽が聞えていればよいのです。もっと単純にいえば、それを聞いていて心地よいかどうかということです。その人に構成がちゃんとできていれば、やった後に次が聞きたくなります。
そこで終わりではなく、次に展開していきます。こういう音楽が何回聞いていても飽きないのは、そのフレーズにさまざまな可能性があるからです。行きづまった形でなく、変化の余地のある基本がおさえられているからです。
皆さんがつくりださなければいけないことは、曲という作品ではありません。たまたまCDはそういう切り取られ方があるだけです。ここでも1部こうやって切り取って提示するわけです。
その切り取ったものが作品であり、同時にプロセスでなくてはいけません。音楽がどこかで作品になるのではなく、作品を音楽にします。
聞いてよいと思うものは、心地よいことと共に、その先に展開があることが予期できる場合です。抽象的にいってもわからないでしょうから、やってみてください。ドシシラ#を入れて、1回全部忘れてから、表現してみるということです。
できないことがだめなのではなく、できていないことに気づき補うことが勉強なのです。目的と基準がないということは、そういうことがものになっていかないのです。いつまでも初心者の感覚で、練習やレッスンをしていたら、2年どころか、10年経っても初心者から何も変わりません。
初心者の感覚しかないため、初心者のレベルでのトレーニングしかできない人が初心者でありアマチュアなのです。
たとえば、技術を極めていこうとか、発声を手に入れようとしたときに、1番確実なことは、それをやってみて、足らないことがそこにでてくることです。それは補わなければいけません。
では、足らないことを出すためにどうするかというときに、基準のとり方を間違うのです。
あるところの音程が狂っているとしたら、その歌はそこの音程を直せば、音程は正せます。しかし、皆それだけをやってしまうからだめなのです。目的はそういうことが起きないようにすることです。本質をつかまなければいけません。本質というのは表現です。
劇団に入っていて、2年間待って初めての役が与えられたとします。たった一言の台詞しかありません。そのときに、どんな体と声を使うかということです。口先ではやらないはずです。それを切り取ってだすのです。
慣れている人が1回でできることを、初心者が10回やってもまだのってこないというのは、しかたがありません。そこで差をつかむのです。そして埋めていくためにトレーニングをするのです。
日本で育ち、こういう場におかれてパッとすごい音楽がでたら、それはすごいことです。逆にいえば、他の国でしたら、皆さんのものでは「何しに来たの。帰りなさい」です。表現を考えなさいということは、そういうことです。そうでないと課題が明確になりません。伸びようがありません。
音程やリズムを譜面でチェックして「音程が悪いから音程を直しなさい」ということは教えやすいのですが、表面的なチェックです。問題は、音程がどうのこうのという問題ではないのです。何も表現できていないから、それがたまたま目立って、注意しやすいし直しやすいということです。
そんなところで音程を直しても、この音ではとれるけれども、違う音だと、また狂ってしまうと、どちらにしろ表現を正しくしようとしない限り、そのレベルのことをいくらやっていても、そこで音程を直しても何もならないのです。だから、これらは自分の耳でわからない人がチェックしてもらい、そのことを一人で知ることができるようになるためにすべきことです。
まず、自分のキーやテンポを含めて自分を知ることです。今日の自分の状態やこの曲であればどうセットすればもっともよいのかをわかることです。どこのキーでとればよいのか、この4つの音の間隔だったら、どこにもち込めば、作品になるのか、そういうことを日頃から考えていないと、そういうことが課題として歌のなかにあることさえ、最初はわかりません。そのことに取り込めません。
わかっていても、やってみたらまったく違うところにいったということなら方向を修正すればよいだけです。しかし、目的がないままに、何をやればよいのか、いったい何の課題なのか、ただ出せばよいというレベルで捉えていたら、演劇にも歌にもなりません。一流の人達から学ぶのは、そういうパターンなり、そういうときに彼等は何をしているのかということです。
ピアニストでいえば、ピアノを勉強しようとして、ミスタッチで間違えた音を出してしまったとします。この音を直しても何も出てきません。それを起こした感覚のところを直さないといけないのです。もちろん指さえうまく動かないうちは、基本の指トレーニングをやります。歌も似ています。
慣れもあるでしょうから、少し時間を設けます。人を気持ちよくさせられなくとも、自分が表現したということを、この音のなかで語るために、どういうキーとどういうフレーズをつくればよいのかを考えてみてください。それができる条件を突き詰めていくのです。それが何だということを見つけるのに、2年以上かかるものです。
歌でも、ことばでも、役者のせりふでもよいですが、聞く人が関心のあるなしに関わらず、ことばが飛び込んでくるか、飛び込んでこないかです。音が聞えてくるのではありません。ことばが飛び込んでくれば、それは生きているのです。伝えているということなのです。歌でも同じです。
言葉をはっきりいわなければいけないということではなく、音として伝えるということにことばが入っていて、日本人でない相手に伝わればよいのです。伝わるという条件があっても口先でいったら伝わりませんから、その人が体をしっかりと使って、そこから取り出しているというプロセスを踏んでいなければいけません。
声を出すとき、やるときには考えてはいけません。考えるのは課題を出されたときです。あとは、やるしかないのです。
よく、考えながら声を出している人がいますが、出したときには方向性を決めていて、放り投げるしかないのです。その思いきりのよさというのが日常の生活にない、日本人に欠けています。
出したら失敗しようがのどが枯れようが、何であろうがとにかく前に出すしかないのです。出し終わってから、どう失敗したのかと考えればよいのです。はっきりいえば、迷った時点で失敗なのです。それだったら何も考えないでやった方がよいのです。
ーー
フレーズ
ことばを変えます。2番目のところです。
「ニンナ ナンナ」ということばでは、先ほどよりも上の方に響きがいきやすくなります。ハミングとのちょうどあいだにあります。「ニー」だけでよいです。「ニー」(全体で)そして「ニー」までいったら、「ニーンナ、ナ」で開いてください。「ニーンナ」このままです。それぞれで練習した方がよいでしょう。
いきなり回すと大変です。「ニーンナ」(それぞれ)。それで、「ニーンナ」のあとで、「ナンナ」をつけます。「ナンナ ナンナ」。ことばでいうと「ニーンナ ナンナ」、音でいうと、「ニーンナ ナンナ」「ドーシララ」ここまでです。「ニーンナ ナンナ」は、声を特に上の方に少し太めをもってくるのです。
少し練習してみてください。
「ニーンナ ナンナ」(全体で)あせると、後半がもたなくなるので、休んでください。
「ニーンナ ナンナ」のまえに「あなたに」をつけて、「あなたニーンナ」。「あなた」が「あなたニ」とバラバラにならないことと、「ニーンナ」で終わったあとで、ここでブツっと切れてしまいますが、「ナンナ」で聞こえるくらいにしっかりと収拾するということです。
それでは、どうぞ。
「あなたニーンナ」「あなた」のことばに対して「あなたニー」のところがクレシェンドするところです。「あなたニーンナ」、このところで、吐き切ってクレシェンドかけていくのです。
「あなた」がついたらそこで、「あなた」自体のところを「ニン」と同じところに、もっていかないといけないでしょう。「ニ」とか「ナ」というのは、上の響きにもっていくとき、あるいは、無理に音色をつけるときには練習しやすい部分です。ナニヌネノをよく使います。「マミムメモ」を使う人もいます。
ただ、それもコントロールできなければ、「ニ」のところでバラバラになったり、つぶれたり、うまくいかなくなっていきます。だから、基本的に「ニーン」のなかに「あなたに」が入って「ナ」が入っているというのです。
日本人のものを聞いて、それよりもより深くやるのです。桑田佳祐さんの「いとしのエリー」をレイチャールズがやった曲です。それをそのままコピーをするのではなくて、アレンジして、構わないのです。自分のことばのなかでアレンジして、音を変えて、音色を変えてもよいという形でやっていきましょう。
曲を聞いたこともない人は、それっぽくやったら、構わないのです。
正しく歌うということではなく、あくまでこのなかにどうひびくかという音声のことをやります。
ただ、一つのイメージとして入れておくということです。少し、薄く歌っているのを厚く歌ってください。
『踊りつかれた』を覚えてください。こういう入りかたではなくて、声の勉強ですので、これを外国語的感覚で処理してみましょう。「踊りつかれた」です。ことばから入りましょう。いつものように「踊りつかれた」、それを一致させるというところです。
地声のところでどうぞ。なるべくことばで大きくいって、それより大きく歌ってこなしてみるということが基本です。いつも通り入りましょう。
「踊りつかれた」
「踊りつかれたっ」となってしまわないで、気持ちは次の「た→ディスコ」のところまでもたせてください。「踊りつかれた」に加え、ブルースとかジャズのベースにある感覚をこのあとにもってこなければいけないので、こまかくやります。ただこまかくしていくのとは意味が違います。
「おどり」の「ど」のところにアクセントをつけ、次の「り」の処理は任せます。「り」がいえない人が多いようです。「おどり」をどこでもよいからいってみましょう。そこまでで勝負するつもりであげます。いろいろな歌い方がありますが、「ど」にアクセントをつけ、踏み込むというのもよいでしょう。2つくらいのアプローチがあった方がやりやすいのかもしれません。
「おどり つかれた」の「おどり」だけでよいと思います。もう一つは音楽的になるということです。いつもやらせていることは、「踊り、おどり」という形です。それをフレーズとしてしっかりと踏まえておいていくということです。それで、「り」の位置は難しいです。ここは、上げる人もいれば、押し込む人もいます。
「踊り」のなかで、今やっていることは、あとあと大変になってくると思います。体も声も一つに捉えて、そこで体を使うということです。
体と結びついたところの声、これを完全にコントロールするというところです。体から外れたところにもっていかないことです。歌の場合は外れてもいいですが、「踊り」まではメロディ処理のところの練習です。「おどり」この「ど」の後ろの裏拍があると思ってください。「おどり」を極端にやるとこうなります。
感覚的にはこうして、とんでくる声が歌っている感じでよいと思うのです。その前のところで、「せつなくなるだけ」でバラバラになっています。日本人が歌っているときは、ことばが必ずリズムにくっついてしまうので、そうではなく、そのリズムの前のフレーズをしっかりと、もったうえでリズムに乗せるか、そうでなければ1回、体を通してやるというところの部分からやることです。
「せつなくなるだけ」
そこだけでよいのです。
「大阪で 生まれた 女やさかい→せつなくなるだけ」 こういうところに基本的に学べる要素が全部あるわけです。これを声の深いところでもう少ししっかりと次のフレーズに結びつけ、その上でこの感覚のリズムで取っていけばよいと思います。
「せつなくなるだけ」をはずれても、自分なりにつくり直してください。少しいいにくいことばですが、がんばりましょう。
「せつなく」に関しては、いろいろ文句をいいたいところもありますが、とりあえず今日はフレーズの勉強なので、「なる」の部分がいいにくければ「なーるー」とします。
特に母音が無声化してしまいます。「く」とか「つ」とか、「せつなく」は、母音がつかないからです。そうするとフレーズがもちにくいので、外国人の感覚でそこに母音をつけていくのです。「なーるだけ」という感覚で、一つの音にしてしまうことです。
一番難しいのは「だけ」でこの、「だ」→「け」にいくときにどうするかです。「だけ」というのが一番簡単ですが、「だーけー」のところでしっかりとクレシェンドさせることです。このスピードが早ければ早いほど盛り上がります。長くやるのであれば、ゆっくりとクレシェンドをかけていけばいいわけです。どちらにしても、「け」のところで握ってないと「けー」がバラバラになってしまうと、次に「Hold Me」に入れないわけです。
日本人が弱いのは、「け」と抜いていくうちに、「ホ」というところでシャウトできるところのポジションを離してしまうわけです。そうするとそこで、間に合わないわけです。「ホーミー」と響きだけになってしまうのです。もし、実際のステージで歌う歌の前の練習ということであれば、なるだけ「ホー」までのポジションを確保することです。今わかりやすく入りましたが、「なるだけ」のところでやってみます。あるいは、「だけ」のところだけでもよいのです。本当は音色を少し変えた方がよいでしょう。
「だけ」でやるとあまりにつまらないので「だぁーけぇ」。「なるだけ」あるいは「だけ」だけで、なるべくフレーズをとってください。クレシェンドをかけていくというのを忘れないでください。メリハリということです。音楽の勉強としてことばの勉強より少し上のことをやっています。「なるだけ」で自分で、「けーホ」っていえるかどうか確認してみてください。
「なるだけ」 発声の問題でいうと、「だ」は出やすいのです。カ行、タ行での問題ですが、「だ」を深く捉えないと「け」を深く捉えることはけっこう難しいのです。だから「だ」も表側に出てしまうとどうしようもなくなります。それが「た」のところで、踏み込めるかどうかです。
「け」で体を使ったら、もつわけです。音さえ狂わないならよいとなると、体を使わなくなります。次の音のところをとる場合、ある程度セーブしてやった人がいましたが、その場合は必ず「なるだけ」の音を「だけ」のところで自分のなかで少なくともリズムを感じて、変化させないとよくないです。これでもビブラートがついていますが、これだけではよくないのです。
「だけ」の音を上になれば上になるほど、変えていくことです。この辺はレッスンでいろいろとやっているので触れません。「せつなくなるだけーhold me tight」 「け」の練習を、この辺でやっておくとよいと思います。やって、そのまま覚えてください。
「あんたに あげた 愛の日々を 今さら 返せとは いわないわ」
この辺になってくると、オリジナリティの問題ですから、「あげた」のあたりをどうこなそうと指定できません。ただ、基本的に大きく踏み込んだあとに、体の流れにのってその上にことばを置いていったら、基本的によいフレーズが出てくるわけです。そこで少し弱くなったかと思うと次のフレーズで、「愛の」で踏み込めば、また勢いでひっぱっていけます。
「あんたにあげた」だけでやってみましょう。直接入ってください。コピーしなくてもよいから、自分なりに「あんたにあげた」とやります。
「あん」がどうも入らないみたいです。「あんたにあげた」が2つにわかれてしまっています。「あんたにあげた」これをくっつけておくことです。「あん」と「あげ」だけでやりましょうか。
「あん」、「た」にこれらをバラバラにしてしまうから「あんたに」「あんたにあげた愛の日々をー」「いの日々」でもよいです。「あんたにあげた愛の日々を今さら返せとはいわないわー」「い」→「い」でここまで引っ張って、大きくできるかくらいためしてみてください。
「いわないわ」でも、「今さら返せとは」から入ってもよい、そのどちらかにしましょう。「今さら返せとはいわないわ」 強弱を捉えて、「今さら」のところで、どこにつけるのか、「今さら」になのか、「返せ」ここにつけるのか「とは」「いわ」ここにつけるのか「ない」ここにつけるのか「わ」につけるのかを決めていきましょう。 これらは強弱で全部捉えてフレーズ入れしていくという練習だと思ってください。
単純に考えてみて、ことばでいえるところ、シャウトできるところ、簡単にいうと「今さら」というのは誰でももいえるわけです。少なくとも、出ている人はほとんどいえています。そうしたら、そこの部分とフレーズにする部分、そのインパクトを与えるところ、シャウトできるところの部分、ことばで処理する部分をやりましょう。
そのあと「今さら」と、ここのところでいえたら、「返せ」で歌は決まるわけです。皆さんの場合どちらかですが、「今さら返せとはいわない」といっているのだから、これを自分のなかでまぜていってください。うまく動かしていくことがフレーズです。
世良さんの歌い方は、そこの部分を強調しています。「あんたに」と、ここでシャウトして「あげた」を自分の動きに合わせて開放しているわけです。ですから基本的にわかりやすいところです。その音楽性がどうこうということよりも、パワーでもたせています。声がある人で音楽性がある人は少ないので、日本ではまねすればよいというものではありません。しかし、今単純に音楽に2つの要素を入れるとしたら、そんなものです。
「今さら」といって「返せ」というところで、どう先ほどまでやっていたものを見せていくかということです。どちらかからそれをミックスさせなければいけないのです。「今さら返せとはいわないわ」
「返せ」のところで、「返せとは」という押し方は絶対にしないでしょう。「返せとは」のところで置いてはいけないわけです。どこでクレシェンドしていってもいいですが、それをなるべく均等にやっていくとすると技量がいります。
「返せとは」とやると逆に技量がいります。「返せ」から最後のところで「返せ」を一本でやっていくと、要は見えないわけですから、そこの部分を作っていくことはそんなに難しくないはずです。感覚の問題です。声では、声で読めていたらできます。ここまでのところがだいたいメロディ処理のレベルです。「あんたにあげた愛の日々を、今さら返せとはいわないわ」
世良さんの歌い方では、「返せ」と、ここまで浮かしておいて「いわないわ」のところで、引き締めているのです。その引き締めというのと、いわゆる声のバックにある環境です。それを見せなくてはいけないのです。「返せとは」で入ってもよいのです。しかしどちらかはっきりさせないと、それが「ターっ」とこうなってしまうわけです。これでは、棒読みと同じになってしまいます。
では次に音色と音声の方に入ります。
なるべく英語は使わないようにして進めてみます。
この順番でやって、皆さんのやり方を見てから歌のフレーズを使いましょう。
「ま」でも「あ」でもよいです。
「I am see your lips the summer kisses」(くれゆく夏の日よ)
「枯れ葉」の曲を知らない人います。英語やフランス語、あるいは日本語の詞がわからないということではなくて、メロディのラインのことです。すごく簡単にとっているのですが、これだけでちょうど1オクターブあります。日本語はつけにくし、英語も発音の練習になってしまうので、「ダ」か「バ」でよいです。
そういう音の方がよいです。
「ドゥ」、「ドゥバ」など使い馴れているものでよいです。
「ドゥドゥドゥ」とか「ダァダァダァ」あとは、「バ」とか「ボ」です。「ラ」とか「マ」は、さけたいです。
「ダァダァダァー」で、メロディにのせた音をどう出すかというのは、レガートかスタッカートの応用です。
ピアノでもビブラートがかかっています。安易なビブラートですが、こうかかっているわけです。それをやろうがやるまいが「タタタタ タタタターーーーーーーー」とは捉えないでください。
「タタタタ タタタタ」で、一つか二つくらいにして、それぞれで練習してみてください。音も決めてください。単純に声を楽器に使って、トランペットやサックス、フルートや尺八みたいにやるという感じです。(一人ずつ)
これも基本的に、練習の段階ではその「ダァダァダァ」のところを「ダァダァダァ」となるべく同じ息のところで、同じポジションのところで捉えることです。練り込んで、その上にすぐに歌の雰囲気を出そうと思うと、どうしても浮いてしまいます。音声的な処理を確実にして待つとよいと思います。
「バホバビ」でも、「ベボババ」でも構いません。バ行とかになってくると、唇が働き出すので、少しやりにくいかもしれません。「ダ」とか「ヤ」とか「ガ」とかの方が入りやすいと思います。音色も変化させなくてはいけないから、とても難しいのですが、「ダァダァ」をここを「ダァダァ」(平面的に)としてしまうと伝わりません。
なるべく大きく捉えていくことです。口ずさむくらいに捉えて「ダダダ」をしっかりと体に入れていかないと平面的になってしまいます。頭ではなくて、体で計算しないと難しいです。
「ハイ」でやってみましょう。「ハイハイハイハイ」「トランペットの音とサックスの音」 これをまねさせようと思ったのですが、難しいようです。聞きながら、1曲ちょっと休憩しましょう。
「モナリザ」
響きをやるわけではないのですが、ことばの表現として簡単なものでやります。「モナリザ」だけです。「モナリザ」といって、「モナリザ」と置くだけです。ナタリーコールのままで、ことばでいって、それをただ浮かせるくらいで考えてください。
「ター」でとってください。「タタタ」完全に体から離さないようにです。気をつけてやってみてください。ことばでいうと、「モナリザ」ですが、「ター」(体に入れて)でとっておいて、タタタタ。一回体で読み込んで、フレーズの線を作って、音を4つ置いておくのです。この線のつながりが見えないといけません。口でつくらないで、大きめに出して構いません。実際の歌とはまた違います。やっている課題を、ことばで「モナリザ」としてみてください。
「モナリザ」ここに曲を流して、この置くところの4つ全部変えたら、かなり難しいと思います。2つくらいはビブラートして、歌のところで他のところに変えてください。ただそれだけです。ただ、それを計算でやらないことです。体の計算でやることです。どうぞ。 「モナリザ」伸ばすのは特に気をつけてください。
こういう歌の場合ということではないですが、たとえば、「モ」で、「モォ ナ リ ザ」は、ポピュラーの場合、何とかなるのです。ところがこれを伸ばしてしまうと、「モォーナ」で、くずれてしまうのです。「モー」で伸ばしてしまうと、少なくとも次の「ナ」のところで、「モォナ」のところで変えないと難しいからです。結局フレーズがつかないわけです。
「モーナ」という歌い方であれば、それでフレーズがつくのですが、これをもし全部をしっかりと置いて音楽的にやろうとすると、難しくなるのです。 普通の感覚としては、「モォ」で入れたり、「モォ」となってしまったら、「モォナ」でまとめるか、「ナ」で変えます。
「リ」よりも、「モナ」でつけてしまうのなら、あまり伸ばさないで「モナリ」のようになります。この辺は感覚の問題です。「ザ」で生声になって、無神経に出しているようなのはやめた方がよいと思います。では、どうぞ。「モナリザ」
こういうものに関しては、たぶん1時間くらいかけると少しずつ近づくことができます。こういう課題は自分で作れると思います。「モ」と「ナ」をどうするとかいうのは、日本語で考えなくても構わないのです。それぞれの響きを生かし、フレーズを快くするのです。
ポピュラーは、簡単に移調します。たとえば、イ短長だったらこんな感覚になるとか、ハ短調にしたらこういうふうに変わるとか、そういうふうに微妙なように、ことばも「モ」と「ナ」と「リ」と「ザ」がどういう順番になるとか、「モ」から「ナ」にどうつなげるかとか、いろいろな可能性があるのです。
だから、体から出したところで判断してみるのです。最初は計算していろいろやってみてもよいと思います。いくつかよいものがあります。
あまり説明しないですむものを、先にかたずけてしまいます。