課題曲レッスン1
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「コメプリマ」
「アルディラ」
「枯葉」
「幸せがいっぱい」
「去りゆく今」
「ケセラセラ」
「兵隊が戦争へいくとき」
「この愛に生きて」
「つた」
「イエスタデイ」
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「コメプリマ」
シャウト・フレージングの声は、ブルースの声の出し方などと違って、決まったものがあるわけではないのですが、感覚的には基本があると思います。ジャズではビブラートをかけないというので違うようですが、こうして原理から考えたら同じです。
「コメプリマ」それだけでよいです。少し合わせて、「コメプリマ」(ピアノ全員で)。こういうものもステージ実習でやると全部くすんでしまうのですが、「コメプリマ」といって、そこで魅きつけるところを、声そのもので出していきたいものです。
「コメプリ」のところにアクセントをつけていったのであれば、バランスが高めのところを使うような形でやるのです。逆の方からもやりますが、「コメプリマ」に関してはことばの方がやりやすいと思います。「コメプリマ」の「プリマ」のところで入れて、声でつないでいくという感じです。
中間音から少し高めのところでやってください。「コメプリマ」「コメプリ」の「リ」がにごってしまいます。「コメ プリ マ」、上のフレーズをつけたところで「コメプリマ」とします。どうしても深いフレーズのところで捉えてしまうと「コメプリマ」と、こういうふうに押してしまうわけです。
下の線と同時に上の線を出します。中間音の方がよいといいましたが、その方が逆に上に逃げられるからです。はっきりと音楽にしていかないと、音がくすんでしまうというか、わかりにくくなるのです。くすむ音が入ってもよいでしょう。ただ、「コ」といったところからそういう入り方をすると、とても切れが悪くなってしまいます。
ここでいつもことばで「ハイ」とやっているのは、「コメ プリマ」がはっきりいえるかどうかで基本の力があるかを確認するためです。これが「コメ プリ」というふうにならないことです。だから、下の線に押しつけないことです。体の練習としてはよいのですが、表現の練習のときにそれをやってしまうと、体でのどを固めてしまいかねません。「リ」の位置は難しいですが、ハイの「イ」の位置だと思ってください。
「コメ ハイマ」、くらいのところでやれると「マ」のところも置けるわけです。「コメプリマ」になるときつくなってしまいます。「プリーマ」、「コメプリーマ」とつけていきます。そうしたら一音でひき込めるように「コメプリーマ」となります。この辺を覚えておきましょう。家で録音し、チェックしてください。
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「アルディラ」
最後の「アルディラ」というところだけ上げていきましょう。
「アルディラ」も「アルディラ」と声を置いているだけにしています。それをもう少し生き返らせてください。「アルディラ」というのを単に細くやらなくてよいです。「アルディラ」というふうにします。「アルディラ」ことばがついてくるといろいろと、ややこしいことが出てきます。
そうしたら、「ラ」にしましょう。「ララララ」を短くはしますが、必ず体で握ってください。だから最初に「ラ」をしっかりと捉えなければよくないです。これを「ラ」(広がる)と、探ってしまうからダメなのです。「ラララ」とそれをその上で展開していくと3つの音です。「ラララ」でエンディングができたという形までやってみてください。それをいつものようにやります。
「ラララ」 説明のしかたが悪かったのでしょうか、「ラララ」と、なるのではなくて、フレーズとしてはこうなるのですが、「ラ ラ ラ」という切れは必要です。「ララ」の大きさを変えるのです。
だから切れは入れた方がよいと思います。それでは続けてみてください。
音楽で常に考えて欲しいのは、「インパクト」といっている部分、これは、シャウトしますからあまり動かないわけです。点なのです。だから、そこから解放されたところが、自由に動くわけです。先ほどの世良さんのも、動いて外れたりしていますが、動いている線だから許されるわけです。
だから今の「ラ」でも全部が「ラー」と動いてしまったらよくないです。特にこの頭の部分は、動いてはいけない部分です。そのあとは動いてもいいわけです。「ラー」となると、きついのです。その辺は、プロの歌い手も放してはいません。感覚的にそれを必ず入れてその上で自由にしているのです。
次の課題になるともう少しわかると思います。「ラ ラ ラ」いつもいっていることは、体なら体でもよいのですが、いろいろな音があります。そのなかで一点を深めて掘り下げなくてはいけません。響きなら響きで一点、この一点をしっかりと取っていくのが上達の秘訣です。それは動かさないというわけではありません。今みたいにバラバラになってしまうと、いろいろな音が出てきてしまうわけです。
そうではなくて、その人がその芯をもっているところ、声の芯でも、響きの芯と捉えてもいいのですが、そこでコントロールしている線が一つあって、その上で多彩な展開が許されるということです。それがなくて、薄まったり、それたりしてしまうと、とてもだらしがなく聞こえてしまうわけです。
だから点で深く取るのが一番、簡単です。点というのは、「ハイ」という一点のところです。歌は音楽ですから、無限の点で線にするのです。だから難しいのです。
それを次の曲のジャズでまねするのですが、自分の好きな声でやってよいでしょう。一見、離しているように思えますが、ひびいているところも、もつべきところはしっかりともっています。基本的な条件は兼ね備えています。音のつけ方は自由だと思ってください。音を長く高く捉え、そのなかで変化を一つか二つつけるくらいでよいでしょう。まかせますので、これにあまりイメージを拘束されなくてよいです。「ア」でも「ナ」でも何でもよいです。
揺らすところはあまり自分で計算してつけない方がよいです。ここでも響きが上に上がるまで待つのです。というのもひびいてくればビブラートというのは、上になればなるほど、それはしぜんについてくるからできます。だから基本の条件としておいて欲しいのは、上にひびいてきても、ある程度離さないことです。押しつけないことです。
ですから3つぐらいでやると、先ほどの「ラ ラ ラ」みたいなところで、もう少し簡単にできると思います。こういうものをあまり聞いていないから、ここまでやろうとは思わないだけだと思います。
ファッツ・ドミノも向こうの典型的な歌い方です。
「 come on to still」のところだけ、ドゥでもダンでも何でもいいですから、やってみましょう。胸のところで完全にもっているし、上の響きでもかなりマイクに近づけているためで、ポジショニングの変化をあまりしていません。
これはもう知っていると思いますが「ミスティ」です。頭からのミスティのところだけをコピーします。「misty」 「I can see cleary now」ことばがわからなかったら、ラでもマでもよいです。こういう出だしなので少し高めにして、響きの「ナウ」のところで次のポイントがくるという感じでやってください。
総括してみて、今日比較的うまくできたのは、最初の「ラ」のところです。それから、モナリザのあとの「ラ」を単に伸ばしたところです。これも比較的悪くはないです。このまま少し展開して、1分もてばしっかりとできるでしょう。ホリーコールで出だしの歌詞がタイトルになっています。慣れた人のなかで一緒に声を出していたら、比較的声がひっぱられて、出やすいというところもあると思います。そういう中で、自分の課題をもう一度確認してください。
あと、やっていないところは、ハミングのところと、低音部分のところです。それからシャウトの部分もあまりやりすぎると難しいので、今日のなかでの応用として考えてください。
ハミングのところは、最初の「ラーラーラ」のところで「ん」をつければいいだけです。
少しやってみましょう。「ん」だけでよいです。「んーんー」を音を変えてやっていけばよいのです。まず上のハミングよりも、「んーんーん」と胸声の方からです。「んー」と出せばよいわけです。どちらも基本的には同じです。だいたいハミングでとれるところまでが本当の音域と思ってもよいです。
「ア」とか「イ」とかであけると上の方まで楽になりますが、ハミングだときつくなってきます。のどを締めるからです。本当はのどを締めなくてできるハミングでそこまでとれるとよいのです。
あとは、「んーラゥ」とか「ラー」とか、上の方に響かせるために、声楽の方ではこういう練習があります。声を響かすのではなく集めてひびくようにするのです。
「んーラ」、「んーマ」とか「マママママ」とします。ただ体がついていないと、そこだけで逃した響きやのど声になってしまいます。人によって入れない場合もあります。
それから、低音部分というのは日本人に一番難しいのですが、ことばを一音下げればやりやすいと思います。何でもよいのです。
「メロディ」を「ディディ」とすると、どんどんと深くなってきます。そこのところで使えるかどうかです。ものすごく体を使います。「ハイ」という声とは違うのです。息をどれだけ混ぜて声にするかで「ハイハイハイ」(低くしていく)というところです。
単にモナリザといっているのは、口で加工しているのです。これを全部、外して、「モナリザ、モナリザ、アアアア」と全部開放して、「アアア、アアモナリザ」というところです。
人によっては、「コメプリマ」とか「アルディラ」とかを「ララララ ララララ」とやる方が入りやすいでしょう。そして下に行けばいくほど、のどというのは外れやすくなって、のど側に入っていきますから、そこのところで、「モナリザ」の上になったときものどを使わないでやります。
実際の歌というのはマイクがありますから、ポピュラーだとどうしても響きを使った方が有利なのですが、それはここのところでやっているのです。「モナリザ モナリザ」と、こちらの方にそのままもっていくわけです。そこに息を混ぜればいいのですが、よほど息が吐けないと大変です。
「メロディ」あたりで「メロディ メロディ アアアア、ハハハハ」というところで体を使います。息が吐けて、息を半分くらい捨てなければならないというところです。「ハハハ ハハハハ」はしんどいところです。
シャウトというのは、それをしめるのです。そして完全に開放すると、このようなやわらかい声になるのです。ただ、日本人にナット・キングコールやビングクロスビーのようなやわらかい声はなかなか出ないのではないかと思います。彼らはものすごく太い芯の声があるからです。やれるとしたら低音部の深い音から入ることでしょう。
「モナリザ」といって、深い音でとる、「モナリザ」とならないように「モナリザ、モナリザ」とやって、これを少しずつ、「モナリザ、モナリザ」とやっておいて、そのまま高く、「モナリザ」、というところでトレーニングしていくしかないです。すぐに上にひびいてしまいます。一般の人は響きをあいまいにしてしまうからです。「メロディ、メロディ、メロディ」となってしまうのです。それは抑えがないからもちません。彼らの表情を見ていてもすごく繊細に扱っています。
「ディ」を声にしようとしていると、うさんくさくなってしまうので、その辺での調整の練習が必要に思います。「ララララ、ハハハハ」こういうところの息です。そして声のあるところなので声にするところは意識せずに、体で息を流して、音感だけで捉えていくような形になるでしょう。
日本人の日常の生活にそういう声はないのです。先ほどの、ファッツ・ドミノがそういうところを響かせていましたが、「ララララ」というところです。こういう歌い方はかえって楽なのです。響きに逃げられるし、マイクにばっと入れば入ります。ゴスペルの歌い方に共通します。低音のところの息と声をかなり深いところでミックスさせているのが基本だと思います。
それをつけるのも、ハミングを低いところで「んーんーんーん」と、あまり頭側に響かせないでやります。ただ、下に入ってきたら、上に上がっていくというのも確かです。
皆さんにかけているのは、先ほどのように、「ドゥドゥドゥ、ダダダ、バババ」とか、得意な人もいますが、それを体のところでやっていくことです。
体がよほど動いていないとよくないです。それから息が入るのがかなり速くないと、難しくなると思います。今日やった中で、それぞれ得意なところがあったり、うまくいかないところがありましたが、得意なところだけをうまく取り込んでいけば、それっぽくはなるのです。
「マック ザ ナイフ」とか「セイリング」とかでやっていけば、わかりやすいと思います。日本人の曲は自分たちなりにアレンジして、もう一つ大きくイメージして深く体で捉えることとをやってください。表現がしっかりとできているところで処理できるようになるでしょう。
それを10の声で1の表現しかできないと、対抗できないわけです。そうしたらやはり、10の声を出したときに、10の表現とはどういうことかということを一つずつかみくだいていけばよいと思います。体の方にあるいは、自分の心の方にまかせて、なるべく作らないことです。つづいてもう一つ、やっていきましょう。
「アルディラかがやく星」というところを「ラララ ラララ」でやってみましょう。「ラララ ラララ」を今日やった中で好きなようにやってみてください。「アルディラ」をつけた方がよければ、「アルディラ」、他のことばでもよいです。「ララララララ」これを音楽的に一つのフレーズにしてみるのです。シャウトの方にもっていっても、響きの方にもっていってもよいです。
「ラララララララ」
フレージングの問題というのは、ハミングにしろ、シャウトにしろ、低音にしろ、その音をどう生かすかということです。フレーズのなかでどう動かしていくと音がより生きるかということです。歌のレッスンになってくるとだんだんそういうのが多くなってきます。
たとえば、ララララ、この2音が与えられたとき、そのなかでどう音が生きるかということです。だから一つの音をしっかりとつかむということと、これをどう感じて、どう表現するかということです。最後に5音でやっておきましょう。
一番簡単なのにします。「ダダダダダ」これをアでもマでもバでも何でもいいです。これがフレーズのところにおかれた音の動き、そして、大きくは一つのフレーズの基本となるのです。
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【枯葉】
私のレッスンでイタリア語やフランス語を入れているのは、音的な要素をつかむためです。言語そのものの修得も、音楽性の修得に間接的に結びつきやすいのです。 もう一つの理由は、日本語は使い慣れているがために、チェックがおろそかになるからです。今の日本の音楽は、向こうのリズムに合わせて日本語をつけています。そのままにしているためおかしな日本語になっているのです。
ヨーロッパの言語は日本語よりも深いため、声を捉えやすいのです。英語はそのあいだくらいですから、やや難しいのです。リズムやスピード感はありますが、イタリア語ほど簡単ではありません。いったん日本人をやめるつもりで、向こうの言語を使うとその感覚がわかりやすいと思います。
歌い手は他の人より聴覚が発達していますから、ルビをふっただけで、いろいろな言語の曲を歌いこなせてしまいます。音楽が苦手な人ほど、向こうの言語を学んだ方がよいと思います。ヒアリング能力を鍛えるのと同時に、耳を通し声や体の柔軟性ができてくるからです。単純に耳で聞いて歌える力というのは、つけておいた方がよいと思います。
最初は嫌なものも含め、自分では絶対やらないようなものにたくさん接してください。わからないレッスンにも、わからないまま対応していくようにしたらよいと思います。要は慣れだと思います。
フランス語で何回か歌ったことのある人にとっては、レッスンでフランス語の曲を与えられてもパッと入れるのです。でも一回もフランス語の曲を歌ったことのない人たちにとっては、プロであってもやりにくいと思います。そのあたりは柔軟にできる方向で対応した方がよいと思います。
日本のポップスをやりたくてここに来ると、違和感を感じるでしょう。しかし、Jポップをやっている人のところに習いに行っても、やれている人とやれていない人はまったく違うということです。そこはつきつけられないとわからない部分です。
基本の部分に真面目に向きあっていく時間がどこかで必要で、その結果何を選ぶかということです。今、ここには音楽を仕事にしたくてきている人ばかりでもなく、特にプロ志向といった集団ではありません。
しかし、何かつきつけられてくるものに対応していくということは、社会人になって自立することと同じ問いだと思ってよいと思います。そのなかで、自分が勝負できる才能とはいったい何なのかを探していくことです。
自分がやりたいことは何かということと、もう一つは他人がその価値を決めるわけだから、自分しか 出せない価値を見極めていくことです。自分がやりたいことと、世間から求められているニーズがずれる人もいると思います。そのときにどっちをとっていくかということでしょう。
アマチュアは自分の好きなものを好きにやろうとしかしないため、いつまでも好きなことができません。プロの場合は、カンツォーネを歌ってくださいといわれたらカンツォーネを勉強して歌うと思います。嫌いなこともやって力がつくから好きなことができるようになります。
アマチュアは自分の時間を自分が好きに使えるという自由度がありますが、プロはお客さんの時間を盛り上げエキサイトさせます。お客さんを通じて自分を高め、人に与えることでのフィードバックで自分の生きがいにつなげます。
日本のように歌だけで食べていくのが難しい国では、バンドも一生続けてやれるのは二十組くらいだと思います。それでやっていける人はそれでいいのですが、そうでなくても、自分の人生と歌との接点はいくらでもあるのです。自分のなかで、どう生きていくのかという上での位置づけをしていくことです。
歌はことばと同じくらい、いろいろな使い方があります。その人の力次第でもっと広がってくると思います。カラオケのように自分勝手に歌って楽しむというあり方が一通り終わってしまうと、他の人にないものをもっている人たちの場というのは、もっと出てくると思います。
ステージは一つの結果にすぎませんが、歌や音楽に限らず、そういうものを一つもっていくということが、これからは大切だと思います。
ここにきて迷うのはわかります。現実の問題を逃げてここにくる人もいますが、しかしそれではこの場がくずれてしまいます。ここの場こそが現実です。自分だけでは何もできないことを知ることです。
そのためには歌や音楽だけでなく、自分の価値観を探っておくことです。自分にしかやれないことをどう絞りこむかということと、それを長い目で見ていくことです。
時間しか助けてくれません。自分のなかでハードルを決めて、それに対して努力していくことです。
一人で歌っているとひとりよがりになっていくものです。人前に出続けることから逃げない人しか、やっていけない世界なのです。これからは、サラリーマンもそうなってくるでしょう。
こういう世界では、歌なんかどうでもいいのだけど、ただしかたなく続けているという人が多いですね。歌が本当に好きだったら、神様みたいな人が歌っているのを聞く方がよいでしょう。歌が好きだということと、やることとは違うと思います。一番好きなことをやると大抵、失敗します。
私も強制的に歌や音楽を身近にしていたときもあります。それがなくなると後悔するのでしょうが、ずっと不自由だったのです。声が思い通りにならないことよりもストレスでした。
しかし、今も年に何回かやってよかったと思える瞬間があるから続いているのでしょう。アマチュアの人たちの方が、真面目に歌に取り組んでいるような気もします。プロになるといろいろなことを考えなくてはいけません。
発声よりも表現、表現よりもステージが大切になります。アーティストにもっと本質的なことを考えさせるようなマネージャが、日本にも出てくればよいのですが。
要は、何であれ好きなことがあれば、それを続けていければよいと思います。それが出てくるまでは、音楽でもとりあえず一つのことをしっかりとやっておけば、そのことが生きると思います。それがなくなったときに自分が何をどうやっていけるかというのはその人の力ですね。まして声は一生使うものでしょう。
ステージで人を集められる人というのは、歌のうまさや、歌が好きだからという理由からではく、人が好きであることや、それがその人にとってのなくてはない生きがいになっているとか、そういうもっと大きなものからでしょう。
向こうの歌い手は競争社会のなかでファンサービスをし続けながら自分の世界を確立していきます。日本にもそのように生きていく人が増えていくと思います。結局、自分に頼るしかないからです。
勉強というのは、一曲よりも前に一フレーズで何がおきているのかを捉えることからです。そのなかで、音、そしてことばをきちんと捉えることが前提です。ことば、音の高さそしてメロディ処理という順番です。 「あ・れ・は・と・お・い」という感覚で歌っていてはダメですね。「あ と 」くらいに考えてください。
体をつけようとして、息で思い切り読んでいるだけでは歌に入る余地がないので、分けて、練習することです。メロディを入れておくことも大切です。ことばのところで七割くらいしっかりとつかんでおかないといけません。結果として歌詞が聞こえてくればよいのです。そのためには歌があなたのなかに流れていなければなりません。
フランス語は速く入っていくように聞こえますが、そのままの感覚で入るとおかしくなります。よく聞いてもう少しゆとりをもって入ってください。
(イヴ・モンタン「枯葉」)
感覚を同じにして、三度で出してください。「あれは」のところだけでも変なものが出ているのは、体の力だけで出そうとするからうまくいかないのです。体を使ってはいても、音楽はどこへいってしまったのかという歌が多いようです。
ことばも音楽も表現としての扱い方は、そんなに変わるものではありません。発声とは、自分の感覚通りに声を使えるようにするためのものです。歌を雑にしてしまうのなら、発声やヴォイストレーニングはやらない方がよいといえます。邪魔なところがすべて荒っぽく見えてしまうからです。最初のところの1フレーズにその人の解釈の仕方や、力量が全て出てしまうのです。
こういう曲をやると、皆、サビのところを練習したがるのですが、大切なのは、「あれは」の「あ」のところできちんとコントロールすることです。音やことばの表面だけで捉えてはいけないのです。
自分の納得できる分野にもっていかなくてはいけません。その人のもつ動きの大半は、最初のところに出てしまうのです。そこで魅きつけるか、見放されるかでしょう。
まず、ことばから入ってみましょう。今は、十の力で十の歌にします。十のことばの力を歌にきちんと生かすことが大切です。それを三、三、三に配分してはいけません。部分的なところから完成させていないといけないのです。
基本がきちんとしていて、そこに微妙な変化が入るのと、きちんと弾けていないのに気持ちだけでもっていくのでは大違いです。ピアノでさえそうなのですから、歌になると、もっと顕著になります。
(「あれは(ことば)
あれは
(ラシド)」)
どこかでイメージをもっていないと、「あ・れ・はー」というようにバラバラになってしまいます。
「あれは、遠い思い出」といおうとしてやらないと、ことばとしてまとまらなくなるし、意味も違ってきます。
音声をきちんと捉えて欲しいのです。
「ハイ」や「ライ」と同じで「あれは」も一つで捉えることです。そこからそらしてはいけません。同じところで捉えてください。
型というのは、思い込みで固めた発声をやることではなく、自由かつ柔軟にできる発声の準備を整えるために使うのです。それが本当にできたら、型のなかで自由に動いて、型を破ってきます。動きを出す感覚はリズムや音感はもとより、声そのもののなかで捉えていって欲しいと思います。イメージの問題だと思ってください。
(「くれゆく
(ラシドファー)」)
型のなかで何が動いているのかを知っていくことです。全部を型で固めてしまうと、そこから音楽は出てきません。すべてに力を入れて歌っても何も生まれないのです。
分配すると「ハイハイハイ(ラシド)」ですが「、ハイー(ラシド)」のなかに1つの線の動きを感じることです。
基本の練習でことばに音をつけるときは、速くやらないと間に合いません。
でもあまり早くやろうとすると、体がつかないから難しいのです。適当な速さをみつけることです。そこで必要以上に伸ばす必要はないのです。 できないのはラシドという三つの音を意識しているからです。まとまりで感じるということができないからです。
(「あーなーただーけがー
(ミーミーミーミーファミー)」)
体を鍛えるとともにプロのステージを観て、何がどうすごいのかということを理解してください。 歌の出だしの部分だけで、三年分くらいの課題です。そこを百発百中コントロールできないのに他の部分ができるはずありません。先に進むのはよいのですが、できなくなったら基本に戻ることです。
出だしのところに、ほとんどの問題が現れているのに、気づくことからしか正されません。体や力を使えば歌が出るということではありません。コントロールできない状態の体をつくっても、何の意味もありません。
フォームで打っていくということです。自分のことはわからなくても他の人の違いはわかると思います。そこでの少しの違いが、とても大きなものです。レッスンを利用して学んでください。
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「幸せがいっぱい」
そんなに難しいイタリア語ではないと思うので覚えてください。
(「アイヴェリーフィニーティクァンドトゥー
(ラ♭ードーミ♭ーファソーラ♭ーソーファーソー)」)
文字はあくまで参考です。フレーズの一番、基本的な構成や音楽の線の出し方ということがわかりやすいと思うのです。拍をしっかりととることです。
(「アイ・ヴェリーフィニーティクアンドトゥー
(ラ♭ードーミ♭ーファソーラ♭ーソーファーソー)」)
シャンソンでことばのフレーズをやり、カンツォーネで音楽的な線の動きを学ぶのはとてもよいやり方です。フレーズのなかの時間の差をきちんと感じて欲しいことと、その時間の合間に何をおいていくかということを学んでください。イメージのなかでそれをやることです。
(「セルジィチノメ クェストソピュートフィオラロー
(ソラ♭ソシ♭ーラ♭ーソー ラ♭ーシ♭ードシ♭ーラ♭ソーファソー)」)
イタリア語を正しくいうことよりも、そのなかに音楽を入れていくことが大切です。今はきちんと踏み込んで、その反動で放すということをやっていれば、ある程度成り立ちます。フレーズのなかにいろいろなものがつまっているように聞こえる人は、あまり計算していません。自分の体に計算をまかせるのです。こういう曲は、踏み込みの強さとその反動でできる流れを大切にしていたら、そんなに難しくないと思います。
音楽をどうつくるかということを自分で考えなくてはいけません。大ざっぱすぎると思います。トレーニングというのは、細やかな表現を自在に取り入れるためにやるものです。声を浮かせても、すぐにもとのポジションに戻れるところをもっていることです。すると安定度、安心感が違ってきます。
スピード感や余裕をもっているかいないかということは歌に現れてきます。そういうことが総合として現れて歌が快いか、そうでないかが決まってきます。
プロは計算高いし、いろいろなところを加減しています。しかし、自分の強いところをもっていて、必ずそこに戻しています。歌のなかで三回くらい素っ裸になって踏み込んだというところを見せれば、他の乱れは気にならないのです。その乱れが気になるような歌い方をしてしまうのは、他に何のとりえもないということで、よくないと思います。最終的にはしぜんにしなくてはいけないのです。頭で歌いすぎないようにしてください。
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「去りゆく今」
音楽はイメージに伴っていないといけません。「しっているさ」ということばのなかにいろいろな可能性があります。その1つの可能性で、メロディー、音の間隔、リズムがついて音楽になっていくということです。西洋の平均律は、ある条件下に定められた音楽であり、別の表現も当然あるのです。ただ、ハーモニー的にやっていった方が、それがやりやすいということです。
「しっているさ」をしっかりといったときに、伝わっていたら「何をしっているの。」というようなリアクションが返ってくるはずです。「しっているさ」というところでの声がよいだけでは、何も伝わりません。声だけが聞えるだけでしょう。
ことばが飛び込んでいないと表現が死にます。声は生きていないといけません。音楽の場合はそれがもっと緻密に、繊細に問われます。役者さんの舞台は、表現も表情も動きもあります。音楽の世界は真っ暗にして聞こえてくる世界ですから、そこにはすごい集中力がいります。
ことばという1つのまとまりがあって、音楽も1つのまとまりです。そのまとまりが、単にドテッと落ちているのではなく、それがはずんでいる状態にあり、そのなかでとるのです。
皆さんが考えているところは、声を出しているところだけです。そうではなくて、イメージが流れていて、体が動いて、呼吸が動いて、そこの1番ポイントのところを「ハイ」や「ラ」と捉えるのです。それが1番難しいのです。その感覚を自分のなかで呼び起こしていかないといけません。急に音楽に入れないときは、ことばでいってからでも構いません。
日本人の1番悪いところは、皆、同じテンポの同じペース、ひどい場合には、同じキーになります。ここにいる人が皆プロなら、自分のものが確立されているのですから、他と同じように合わせることが練習になります。そうではないのなら、表現できずにそこに合ってしまうというのは、だめになっていると思ってください。
トレーニングの場というものはそういうものです。マンネリを自分で破らないといけません。だらだらとしたテンションで回ってきたものを、そのテンションでいったときに、自分が死んでしまった、表現を殺してしまったと思わなければいけません。
当然皆さんは声のことを考えていますが、全部考えたときに表現を優先しなければいけません。何のためにという目的を考えてください。ことばがいえていたときは、もっと違う意味でストレートに伝わっていたとしたら、そこのニュアンスはすべて残しておくのです。
その上で、ドレミというところがあり、ド~ミというところがあります。その間隔をより生かして、そのことばを伝えるのが、歌の世界です。
音楽が入ったために、表現力が死んでしまうのだったら、音楽を使わない方がよいのです。ことばでいっても表現できる、それをさらに効果的に、自分のオリジナルをだしてみたり、対応性をもたせるために音をつけていくのです。
同じフレーズですが、「しっているさ」の後に、「ひとつのあいは」とつけましょう。これも何も考えないと「しっているさ」と同じようになってしまいます。何をいっているのかがわからなくなります。
ピアノや他人に合わせて練習するのではありません。そこを気をつけてください。まわりと合わなくても自分が生きている方が大切です。
声を考えろ、リズムを、間を考えろ、音程を考えろ、歌で表現しろ、しかもことばになっていないといけないなどといわれると、全部1度にやらないといけないと思うのかもしれませんが、トレーニングは別々にそしてフレーズや歌では全部を1度にやらなければいけないのです。先述したドラムの世界などと同じです。
「ギターを弾きながら歌うと、歌がおろそかになり、歌に気を入れればギターを間違ってしまう」というようなものがありますが、両方できていないのに、同時にやろうとしてもどうしようもないわけです。両方が無意識でできるレベルにならない限り、1つに捉えらません。
自分が音程、音感などにいつもひっかかっているようなら、そのことを中心にやらなければいけません。しかし表現をやってみなければわかりません。10代であれば音程、リズムを中心にコールユーブンゲンなどで、音大に入るための勉強をしておくとよいでしょう。しかし、20代でそれだけを追っかけても間にあいません。
自分なりに歌えばよいといっても、勘違いをしてはよくないです。他の人が皆「そうではないほうがよいのに」と思っているのに、どんどんそういう世界をつくっていく人もいます。それを、私はだめとは思いません。そこから何が出てくるかはわかりませんし、その分の遠回りが何かになる場合もあります。行けるところまで行かせようと最初は思っています。
ただ、人にいわれないとわからないということは、最後まで人にいわれないと作品ができないということですから、自分で見つけていくことです。自分で見つければ、直せます。そのために他の人の作品をよく聞くことです。
常に問われるのは、自分が何をやりたいのかを、自分で問わなければいけないということです。
反応できるようにならなければよくないです。外国人は1つの音を与えるだけで目の色が変わり、表情も変わります。その世界に入りこんでいたら、そうなるでしょう。音に変化しない人が音に変化を与えることはできません。
レッスンのなかで、彼等は意思表示します。歌にも舞台にもブーイングしたり、スタンディングしたりもします。そう教え込まれているというよりも、体がそう動いてしまうのです。音やそういう世界に対して、レスポンスすることです。
それを積極的に皆さんがやっていかなければいけません。私がポーカーフェイスなのは、反応を読み取られないためです。顔色をみてレッスンが左右されては困ります。皆さんの場合は、表情を豊かにしないといけません。逆に、私達のレッスンが死んでいても、皆さんが息吹を吹き込んでください。それを起こすことが、練習のようなものです。
「しっているさ 1つのあいは いつまでも つづかないと」
(ドレミソファ ミレレドレミ)
「つづかない」ということばも、難しいことばです。この後に、「でもなぜか」と続きます。 「で~も~なぜか~」と歌ってしまうと、歌にならないのです。「でもなぜか」というフレーズを与えられたときにも、いろいろなフレーズの可能性があります。その人が、その人のなかから取りだしていたら、正解になるのです。
そのときの感覚がどう動いているのか、いろいろなタッチが世の中にはあるということを勉強するのがよいのです。それをまねてみようというのはよいのですが、そのままでは自分のものにはなりません。偽物になります。
自分のなかでフィットする表現、感覚も、体つきや肉のつき方、声の伸び方、声の音色によっても人それぞれに違います。ただ、それだけ動かさなくてはいけません。100個でも200個でも、いくつでも動かせます。その100個、200個のなかでどれが1番よいのか、どれがピタッとくるのか選んで、それを確実に出せるようにするのです。
その上でも、構成や前後のフレーズによっていろいろ動いてきます。変わってくるのです。あるいは、歌い始めたときと、何10回、何100回も歌ったときと、フレーズが違うようになってくるのです。そうやって完成させようとしてとりくんでいかないとわかってこないのです。それと同じことができるために、基本の力をつけるのです。
「しっているさ」が、ストレートに向こうに伝わるかということです。自分のなかで迷ったりだれてしまったりすると、おかしくなってしまいます。まずそれで1つにして、与えるということです。それに慣れていくことです。
「しっているさ」が表現になっているということは、動いているということです。どんなに口が早く回っても、それだけでは表現にはなりません。次に繋がるためのバネがないからです。そこでの意識が、感性、センスです。
体の動きや息の動きが入っていません。それが入っているところで、感覚的に音やリズムが入っていたりするものが歌であって、歌にはならない方向への変化もいろいろとあるのです。その1つのやり方として、ドレミのメロディがあるのです。下から上にいく音を使えばより強く、あるいは、何かの情緒を伴なって表現できるために、歌なり音楽になっていくのです。そういう方向性で捉えてみて、練習してみてください。
まず、ことばでいってみましょう。ことばよりも強く伝わる必要はありません。ただ、音楽がついたときに大きく伝えてください。少しやってみてから、自分のキーを定めてください。
ことばからでもメロディーからでも構いません。やりやすい方向でやってみてください。
練習ということであれば、そのフレーズを大きく伸ばして「しっているさー」とやってもよいのですが、作品や音楽ということになると、同じ力をどう最小限に活用して、最大に見せるかということが問われます。必ずしも全部を出せばよいということではなく、ポイントは揺らし方や動かし方になってきます。
もっと単純にいうと、聞いている人が、リスポンスして次に引き込まれるのか、聞いて「あー、がんばっているなー」で、「まぁいいや」になってしまうかです。こういう箇所は、本当はさりげなく終われるのが1番よいのですが、それでも何か残していくことです。
もう少しつけましょう。「しっているさ ひとつのあいは」これもそのままとらず、ことばで考えてください。要は、最終的に1つの作品として終わらせるのに、どうフレーズを使ったほうがよいのかということです。そこでも自分を知っていかないといけません。やってみたらあっちの方がよかったと思えば、それはそれで勉強になると思います。長くやればよい、たくさんやればよいということではありません。最小にして、最大に効果をあげることをめざすのです。
同じことが伝わるのでしたら、ちょっとやって伝わったほうがよいわけです。その分、他に余力が使えるからです。しかし、ノリというものがありますので、こんな短かいフレーズでは、気持ちものっていかないという場合は、すこし長くやるのもよいでしょう。イマジネーションで、それがカバーできればよいのです。
このなかで音程を動かしていくのではなく、強弱も1つにして、自分が握っているところ、与えているところ、そして、与えたら戻すところの感覚を動かしていくのです。止まってはいけません。口で止まろうが、音で止まろうが、よいのですが、そこが体のなかで止まってしまうと、音楽が止まってしまいます。それから、止まるようなフレーズをつくらないことです。そのために厳しい感覚が必要になります。
バンドなどがよい場合は、それにのっかると、なんとなく入っていけるという場合もあります。伴奏者によっては、とても入りやすい入りにくいときもあるでしょう。それを一人で出せるようにすることです。
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「私が小さいときママに聞きました 美しい娘になれるでしょうか ケセラ~」(ケセラセラ)
ここのケセラまでは正解なのですが、そのあとがくずれています。伴奏の人達が何を狙っているかはよくわかるのですが、このアレンジは、ヴォーカルがいないところで考えたアレンジです。本物を聞いている人には耐えられません。
ドリス・デイ「ケセラセラ」のところは、少しつくっている声です。こういう少し媚びた、かわいいコケティッシュな歌い方をしているわけです。こういう色のつけ方というものは、先に考えないことです。まずベースをとった上で考えてください。歌のなかではいろいろなことができることを、覚えておいてください。
歌が動いていることはわかると思います。その動き方のコースに、伴奏が予期してついてきます。これがぶつかってしまうと、どちらがよいとか悪いではなく、もちません。今の課題からいうと、こういう歌い方になったら、どう間を開けようが、どうチャチャを入れようが、どんな音色をつけようが、全部正解で、しっかりと収まるようになるのです。
それは、歌のまえから、歌のうしろで動いているものがすぐれているからです。それが動いていたら、相当おかしくなっていても大丈夫です。その動き方が、動ききれないときに、事故というか、音楽からそれてしまいます。即死です。
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「いつまでも つづかないと」と次に続いて、これで半オクターブになります。ことばが面倒なので、次をやりましょう。「でもなぜか」を今度は、ことばから動かしていきます。ヴォーカル自体は、いろいろな表現を動かせます。声量を使わなくても、高音域ではっていなくても、ポップスで伝える部分というものは、ことばをどういうふうに音に置き換えて、音楽的にして、ことばとして伝えるかが最終的な課題です。単に声が大きくでていても伝わりません。
伝わる表現をめざしたときに、何が違ってくるかといったら、自分の体を知っていることと、その体からどう取り出すかです。何かを与えられたとき、すぐに100、200のパターンから選べるようにします。やってみてだめなようだったら、次のパターンでやってみるのです。そういうもののタッチなどを、参考で例をみせることはよいのですが、力がないうちは与えられません。
たとえばサザンオールスターズの桑田さんが「俺のように歌ってみろ」といって教えてみても、皆さんがだめになるだけでしょう。彼にとっての正解が、皆さんにとって正解にならないことと同じです。
皆さんが自分で気づいて「私のこの表現は、絶対に売り物になる」というところを拡大させて、「ここはかったるいからカット」ということを、厳しくギリギリまで選んでこないとよくないです。
それをこの場だけですぐにできるとは思いませんから、ここでは、与えられたことにどのくらい今は対応できるかみるところとしています。来年、さ来年はどこまで対応できるようにどうしていくのかをイメージするのです。
本質的に、よい音楽を聞いて、自分の体と心を動かしていたら、伝わった、伝わっていないということはわかるようになってきます。私のレッスンやレクチャーでも話して疲れただけ、話しすぎてよくないものというものと、反応がしっかりと受け止められて、リスポンスがとれていたものとがあります。たくさんやればよい、強くやればよいということではありません。
伝えるという意思があって、伝えるというものがあって、それを最大に与えるときにどうするのかという組み立て、練習して、歌のなかでは徹底してやらなければいけません。お客の空気にも敏感にならざるを得ません。音がついたときにも、動き出したり変わったりします。伴奏者が違っただけで動き方が変わってくるのです。
それに、すぐに柔軟に対応できなければいけません。「家でやってきたらできるのに」というのは、甘えです。実際ライブになったら、音が入ります。そこでは、雰囲気からなにから練習とは違うように音が入ります。その音に敏感にすぐに反応してすぐに出さないと、ヴォーカルだけ、おいてきぼりになってしまいます。
バンドのメンバーは当り前のようにやっています。そういうことがおもしろいと思って弾いているのです。そうでなければ、1回練習した曲を何回練習してもおもしろいわけがありません。そういう意味で、プロセスということをしっかりととっていくことです。
合わせてやっていくと、皆おなじようになっていきます。合ってしまうということは、結局、表向きの共通のものをとってしまっているのです。コーラスやクラシックと違って、こういう世界でやらなければいけないことは、人と同じものを使ったときに、同じことをやらないということです。考えるよりも、先に体が動いていなければいけません。その感覚を、自分のなかから取り出して、つくらなければいけません。そういう練習を徹底してやるのです。
ことばでいってからでも、直接入っても構いません。高くても、低くても、張っても、張らなくてもよいです。
声だけが元気にいってしまうのと、感情だけが1人で回ってしまうものと音楽との接点をとらなければいけないから、歌は難しいのです。外国人はのどが開いていますから、そこで感情を入れてのどを閉めてみたり、変に響きをつけても、全部持ち味になります。皆さんの場合は、感情を伝えようとか、計算しようとか、考え出したら体が全部止まってしまいます。普通の日本人の場合はそうなるのです。
彼等は、言語のなかで声の深さによってそれをやっているのです。皆さんの場合は、言語でそれを全部止めていて、歌うときだけ動かそうとしているのですから、普通、動かないのがあたりまえです。それは、外国人のように、言語の感覚で動かすことを考えて、宿らせることが1番早いのです。そうなることに時間がかかるので、今の力なりにどう取り出すかになってきます。その接点というものは、あるはずです。
「声だけが出てしまう、これではだめだ、しかし感情はそれだけが回り、声や体が伴わない」から難しいのです。感情を入れて何かを表現しようと思ったら、のどがつぶれたり、歪みがきたりします。それを、技術で跳ね返して、そのぎりぎりのところで出すのです。それは、自分のなかでとっていくしかありません。
ポップスですから、声そのものよりも、流れ、動きの重視です。それをどういうふうに選ぶかがセンスで、そういうセンスをどうつけるかです。
頭で計算したままだと、絶対にうまくいきません。計算した後に、1度潜らせておいて、もう1回起こしていくようなことをやっていかないといけません。そのときに、どこが表現できていて、どこがだめだったのかをみます。そのために最初に体を動かさないといけないし、声のポジションをしっかりととらないといけないのです。
音感、音程をもっときっちりと保てるようなことをやらないといけなくなってくるのです。
目的意識を自分でもって、その目的のために利用してください。自分の目的、自分の見本として使えるように使ってください。結局、声のレベルで問われることは、音程を意識して音程にあてるのではなく、正しくしっかりととれていくようにしていくことです。
音程がいくらあっていても、それだけでは実際の場で使えないのです。そこまで声が出なかったり、体ができていないときは、音感や音程だけでも先にやっておいて、後で声やそういうものが使えるようになったら、そのことに敏感になっていくようにしてください。
ピアノの音でも、聞いていると叩いた音とひびいている音とは違います。1つの音でも余韻のなかで化けてきます。最初の音と最後の音が違うのです。ピアノは平均律です。本当はソのフラットと、ファのシャープは違います。ドレミと、ミレドでいくのでは、違ってくるのです。だから正確にやるということではありません。それを心地よくヴォーカルがずらしている分には、半音近くまで狂ってもよいのです。
その心地よさ、自分の体からはみ出ていない心地よさ、その間隔がどこからくるのかといったら、音の場合は優れた楽器演奏、やっぱり音楽の世界から入れておくしかないでしょう。最終的に音の世界に出さなければいけないのです。その点、楽器というものはわかりやすいものです。
ヴォーカルのときに、気をつけなければいけないことは、オリジナリティーの部分やその人の個性の部分にどうしても影響を受けてしまいますが、自分を取ってしまわないということです。その下を支えている共通の基盤をどこでにぎり、どこではなすのだというものを体で捉えて、後で声の質やあやのつけ方のようなことを自分で考えればよいのです。
考えるというよりも、自分で出てくるところで見つけなければいけません。そこは分けておいてください。ラップでも日本人のラップとはまったく違います。勉強することはよいのですが、まねるところを間違えてはいけません。できないところ、やったら返ってだめになるところをまねてしまうと早くできあがりますが、正しく学べなくなってしまいます。
日本人は、歌になるとどうしてもごまかしてしまうようです。台詞だけでもしっかりと2年間やっていたら、そんなに間違わないはずです。日本人は1オクターブも歌わないで、半オクターブだけ歌うという期間があればよいと思うのです。
もちろん歌の場合は、高揚感や上昇感、構成のようなものがあると、半オクターブでは厳しいものがあります。しかし、半オクターブで下も完成、上も半オクターブで完成としたら、歌うときにはその1オクターブをくっつけて、違和感なくすように徹底して練習すればよいのです。
音域を拡げることよりも、まず音楽的な感性を宿らせて、それをピアニストだったらどう弾くのかのような感じで、自分だったらどう歌うのか、どうやったら自分の音楽になるのか、みたいなことを自分で試みフィードバックして理解していくことです。声を動かすことを知ることができるかどうかが最大のポイントです。
総じていうと、自分にとって快感でないといけません。疲れるだけではだめだということです。トレーニングをやっていると、ややもすると汗を流すためのトレーニングになってしまいます。その目的を、1つ高いところにおかないといけません。自分のなかの曲などを分析したらよいと思います。ホリーコールなどを聞いてみましょう。向こうのものは、まねするところさえ間違えなければ、全部よい勉強になります。
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「兵隊が戦争へいくとき」
音の感覚がどのくらい違うのか聞いてみてください。楽譜で捉えないことです。
音の伸ばし方のシャンソン特有のちりめんビブラートは、まねしない方がよいと思います。
(「えりにはなごりの花
(シミミミシミミミシソー)」)
この切れとスピード感についていくのは大変だと思います。フレーズにしたときには「えり」の「り」、なごりの「ご」にアクセントをおく感じで構成してください。 フランス語を聞いていると音が厚くなるところがありますね。そこを自分で感じて楽器的に音をつけてください。音だけでやってみましょう。
(「ララララ
(シミミミシミミミシソー)」)
声というのは自分であまり意識していないときに、よく出ているものです。内部の感覚は動いていなくてはいけませんが、体の神経だけでもっていけるようにしてください。できないのはコントロール力がないというより体の条件がないためですから、まず筋力をつけ心肺機能を高めることです。
声をすべて出し切って、自分のなかにある声をすべてつかんで、どれが一番よいのかを見ていきましょう。どれが一番よいのかというのは、最終的に声から決めるのではなくて表現から決めればよいのです。たいていは、面倒で、集中力が必要とされる声の方が正しいのです。型から入る方法は同じことの繰り返しで、集中力を高めることにあります。集中力なくしてコントロールはできません。
レッスンにこなくてはいけないのは、自分でやっていると甘くなっていくからです。それを引きしめにくるのです。
(「えりにはなごりの花 口にはいくさの歌
(シミミミシミミミシソー シミミミシミミミシファ♯ー)」)
これで半オクターブです。この半オクターブがきちんとできれば1オクターブ半の歌は歌えるのです。
最初はリズムから入っていくことです。日本人はメロディとことばのコピーから入って、それで歌だと思っているので、声そのものを線として動かしていくのがどういうことかがわからないのです。自分がやった中でどれが一番よいのかというのがわかっていないと思います。こういうグループレッスンでは、人に対しての基準をつくることができてきます。
今は原理原則をきちんと取りだせるように型のなかに入ってください。それから、オリジナルのフレーズという次のステップに進みます。
イヴ・モンタンは「枯葉」などについては、やわらかく歌っていますが、この歌では1オクターブを同じポジションで鋭くとっています。向こうの歌い手を評価するときに、ギリギリで歌っているのではないという部分に着目してください。ギリギリで歌っている歌から学ぶことが基本です。
即興というのは音楽芸術の基本です。自分がイメージしたり、感覚した通りに体が動けるように柔軟性をつけておく、と考えておいてください。そのためにどのレッスンも役立つと思います。きちんと取り出せるように体に入れることをしておいてください。そして一流のヴォーカリストとの差を埋めていってください。では終りましょう。
勉強とは基本から自分のルーツをさぐることです。その発生のプロセスのなかで何が入ってきたのかを勉強していくと、今の自分、そして今の音楽の成り立ちを学ぶにはよいでしょう。そこまで手が回らなくとも、自分の歴史から、自分の分野を突き詰め補っていくとよいと思います。 この曲には音楽的な処理が多く成されています。
「ごらん」とか「遠く」とか、そこに一つおくだけで音楽的意味合いが変わってくるところがポイントです。 ピアノは音の構成がわかりやすいから、音を自由に変える実験がしやすいでしょう。何か新しいことをやって自分に気づいていくというのが一番の勉強になります。 シンプルにできるほど、課題が増えていきます。スタンダードは歌い手が自由なものをたくさん詰め込むことができるから飽きずに愛されてきたのです。
シャンソンのよさは、日本の戦後と同じで、あらゆるリズムやメロディ、そして楽器に工夫がされている点です。モータウンもそうですね。ただアメリカの場合、派手ですけどね。
うまいということと、世に出るということは違うということです。世に出たい人は、日本に限らず、歌がうまくなっただけではしかたないです。世に出てからうまくなる方がよいかもしれません。だから自分の才能はどういうところにあるのかということに頭を使った方がよいと思います。特にポップスの世界はそうでしょう。
実力派の歌手でも目立たないと、場も与えられないようです。
では歌に入っていきましょう。音をとろうとするまえに、それを充分味わって、イメージをふくらませることです。楽譜で勉強するまえにやらなくてはいけないことがあるのです。本当は歌い手を入れないでピアノで聞いてみるとよいのです。初心者のうちは歌い手がどういうものなのかわかるためにもインストルメンタルを聞いた方がよいと思います。それからにいろいろな歌い手のものを聞くことです。
「えりには名残りの花、口にはいくさの歌 たいこをとどろかせて戦地に向かう兵士」で一つ。
「出かけるその胸には、希望が一杯だけど、帰りのはいのうには汚れた下着ばかり。」で一つ、
サビのところにいくと、「ごらん若者がいくさに出かけていく、かわいい恋人に心残して「ごらん夏の日の青空が見つめている。」「遠く、地の果てた死にに行く若者を。」
フランス語をうまく利用して、音のノリに合わせていきます。ことばもイメージがふくらむようにつけられています。 反戦歌はほとんど意味をかくして歌われることが多いのです。最後は「これが人の世の悲しい定めか、恋のちかいなどはかないものさ、戦地に向かう兵士、名残の花もあせて、死なずに帰れたならそいつは幸せもの、ただそれだけ幸せもの。」となります。メッセージの強い歌ですね。
向こうは悲しいからといって悲しく歌ったり、嬉しいからといって、楽しそうに歌ったりはしません。そういう表現は慣れてくるとわかるようになってきます。絶対に形でこびないのです。
高い音を出すときなどは楽器ができていなかったり、うまく使いこなせないときには難しいものです。ただ、そのまえにイメージがないのは困ります。少しでも表現からそらしたくないのです。
このあいだ、新しく入れるピアニストの面接をしたのですが、音大の人にポップスを弾かせてみても、グルーヴ感というものがまったくない。しかもそれに気づかずそれで弾けていると思っているのです。このようにどこでも同じ間違いをしていることが多いのです。
難しいことを要求しているかもしれませんが、こういう歌が残っていくというのは、その底に共通したものがあるのです。歌も詩も小説も、一つのものに象徴させていくから普遍的になっていくのです。
その当時になり切って歌うのは簡単ですが、それではオペラと同じになってしまいます。イメージに対して体が動いていかないというのならよいのですが、表現と別のことをしてはいけません。先に本質的なところをつかんでいくことが大切です。一流といわれる人たちはそこに何かを感じさせるように楽器を使っているのです。自分にそれができていないときは待つことです。
この歌い手がフランスで強く支持されているヴォーカルである理由を考えてみたらよいと思います。 今はどこで歌えるのかということを自分できちんと把握しておくことです。できる部分ができない部分を巻き込んでいけばよいのです。その逆をやるから間違うのです。基本は、できるところでしっかりと伝えることです。その基準を一ヶ所でも正しくもっている人は他のものに対しても基準ができてきます。
(「ごらん夏の日の青空が見つめてる
(ミミファー ファーファファ♯ファ♯ーファーファファミ♭ー)」
今のところは基本から応用に移る部分です。そこにスキがあってはいけません。テンションが高く保たれていて、凝縮されていなくてはいけないのです。一見、自由そうに見えているのですが、そこが原点であれば、そこに戻さなければ思いを重ねて伝えられないのです。
(「地の果てに死ににいく若者を
(シシシシレ♭ー レ♭レ♭レ♭レ♭ミ♭ーミ♭ミ♭ミ♭ミ♭レ♭ー)」)
(「夏の日の青空が見つめている
(ミミミミファー ファファファファミーミミミミレー)」)
自分で聞いたらわかるようになっていってください。深いところで呼吸をコントロールできていないので、フレーズが切れ切れになっています。フレーズを歌らしくもっていこうとしたらひびきに全部頼ってしまったり、芯がなくなってしまったりするのです。両方のよいところをきちんと組み合わせて欲しいと思います。
「夏の日」は「タタタタター」ではなく「ターアー」です。
このなかにことばを入れていくのです。イメージを体に対応させてやってください。日本語の処理の仕方のままでやると、音楽的でなくなってしまいます。リズムに関しても、体のなかで、大きな動きをつくっておくことです。歌も同じなのです。
歌っていないところまで支えなくてはいけなくなるので、体がより強くなくてはいけないのです。歌っているところだけしか支えていなければ、歌にならないのはあたりまえです。
表現に関してはできるところをどれだけ動かせるかということをはやく気づいてください。全部できない人は楽器を使って試してみるのもよいと思います。プロとの距離が見えてくればよいと思います。
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「この愛に生きて」
「このあい いまこそ ささげよう きみだけに」
自分の呼吸を知っていくことです。急いでいう必要はありません。スピードというのは、入るときのスピードです。気持ちのスピードではありません。気持ちは常にゆっくりです。ですから、早いパッセージの練習もしておくとよいです。早くいえると、かなり余裕も生まれます。相対的な感覚を利用します。
「このあいいまこそささげようきみだけに」を一つのフレーズにしてください。「このあい」「いまこそ」「ささげよう」「きみだけに」は4つの感覚です。4つに分けている感覚です。
「このあいいまこそささげようきみだけに」を1回自分で1つにいれます。1つでは、つらいなと思ったら、「このあい」「いまこそささげよう」「きみだけに」と3つにするとか、あるいは、ことばの場合は当てはまりませんが、歌の場合は「この」「あいいまこそ」「ささげ」「ようきみだけに」とか、もっと自由になってきます。
自分でイメージしたら、自分の体がそう働いてそう動くようなことをしましょう。できるだけ最初の半年くらいは、ことばのなかで感情表現や声の表現の問題を片づけて欲しいものです。
「このあい」と歌がついたときもなるべく、それをもってくることです。確かに歌になると違う要素が入ります。「タタタタ~タタタ~」とか、いろいろなイメージを入れ、いろいろな膨らませ方ができます。しかし皆さんにやって欲しいのは、「このあい」なら「このあい~」とか、できるだけそれを生かすことです。すると、体が固まってきたり、うまくいかないところ、自然にできるところとできないところが自分でわかってきます。
声で表現を出すということは、なかなか難しいのですが、そういうことからやってみましょう。この歌をモチーフとしてかけておきましょう。 踏み留まるところがありません。要は、線は出ているけれども、その線が全部流れているのです。これではよくないです。
歌の場合は、それをどこかで握って、握った分をどこかで放して、というような感覚で捉えなくてはいけません。ことばでやるのも「こ・の・あ・い」「このあ・い」とはいっていません。どこかで入れたり放したりしています。 ところが楽譜がついて、保たなければいけなくなってしまうと、特に伸ばす場合には全部「こーのーあーいー」と棒伸ばしにしてしまいます。
そこに自分の感覚を入れ、動かそうとしない限り、「この愛」は消えてしまいます。アクセントをつけるだけでも違ってきます。ことばのなかから、音、メロディのなかに入っていきます。
「このあい」に「この愛」と感じることです。一番簡単なことは、どこかにアクセントをつけることです。「あ」が一番つけやすいでしょう。「ノンゴアルダーミー」ですが、これはアクセントが「ダ」についています。これを「このあい」の3つ目につけて、膨らませてみてください。
少し動きました。しかし、それが動いたがために前後がぼけてしまってはよくないです。次は、「このあい」に対して「いまこそ」をおくのです。音楽には、慣性の法則が働いて、1 2 3 4だと、決まって1にアクセントがついたり、2にアクセントがついたりします。そういう動きがあります。変化は後でやってみます。
単純にいうと「このあい」で3つ目に入ったら、「いまこそ」でも3つ目に入ります。低い音でアクセントをつけることは大変ですが、ソソソソファミレドだとしたら、アクセントのつく位置はソ ソ ファ レドです。頭で考えるとわかりにくいのですがソソソソの3つ目のソにつけて、ファミレドの3つ目のレにつけるのです。レードーと長く伸ばすのではなく、レを強く打つだけです。日本人は、強く打つと切れずに長くしてしまうので、難しいかもしれません。アクセントを2ヶ所つけてやってみましょう。
次に全体の構成をみていきます。自分の呼吸とリズムを合わせます。最初は自分の呼吸がなかなかわからないでしょう。音楽の呼吸というものもあります。それと合わせていかなければいけません。
バンドやピアニストと合わせたりするときには、自分の呼吸はこうだと示します。だいたい伴奏がヴォーカルに合わせますが、呼吸のないヴォーカルなどはとても合わせにくいわけです。
どういう形でそれを伝えるかということです。ことばとよく似ています。
アクセントは、最後から2つにつけていったらよいでしょう。「ささげよう」「よう」です。アクセントは「あい」「こそ」「よう」になります。
今やっている練習は、きちんと伝えるところ、欧米系のロックのように、発音も強アクセントがついているところは、踏み込んで、強く出します。それ以外のところはそれに巻き込ませて、かなりあいまいにします。日本語だと、頭の音をきちんととっていかないと何をいっているのかわからなくなります。
しかし、向こうのことばだと「あい」「こそ」「よう」のアクセント部分が中心で、他のものは巻き込んでいきます。「あ」「こ」「よ」と聞こえたら、何となく意味は伝わってしまうのです。そこを強く打たないで「このあいいまこそささげよう」といっても何をいっているのかわからないのです。
常にリズムを入れていくことです。この辺は、音楽の勉強と、言語の勉強と同じです。日本人の場合は、意図的に入れていかなければいけません。そのうち、それが動き出してきたら入ってきます。
「このあいいまこそ」です。音は、ソソソソ ファミレド ドレミレドです。これがしっかりできてきたら、フレーズを自分のなかでテンポを早めてください。 声そのもののまえに演奏ということを勉強しておかなければいけません。そのなかで声として何をとっているのかです。
原曲を聞くと「このあい」で感覚が変わることがわかるでしょう。そういうところを自分のなかに入れていくのです。そのなかで何を感じて、感じたものを出していくのかです。ただ声を出していくのではありません。
もう少し動かしてみましょう。少しテンポをつけて、やってください。「このあい いまこそ ささげよう きみだけに」です。歌の出だしに思ってください。こういうところは、自分の呼吸で、アカペラではいってよいところです。
いろいろな歌い方がありますが、自分で1つにしていく。もともと1つにあるものを、展開させたわけですから、展開させて気持ちが離れたり、声が離れたりしては、その後に入りきれるわけがないでしょう。
「このあい」と伝えていることで「このあいいまこそ」を伝えなければいけません。「ささげようきみだけに」そこに自分が入れていかないと、口先だけで「このあい」1、2、3、「いまこそ」1、2、3「ささげよう」のようになってしまいます。そのフレーズは自分で動かして構いません。
「このあい」の後、待てなければ「このあいいまこそ」でもよいのです。そこに何か入れない限り、歌からは離れていきます。気持ちと体を一つにすることは、最初は難しいです。音を正しくとる。リズムを正しくとる。メロディを正しくとるということを踏まえて、「このあい」といったときに、いろいろなところで入れていく。結果としてとれていればよいという考え方をしていってください。
後は伴奏を聞いて、音楽的にどうもよくないというところも多いのですから、基本の方に戻って、もう一度「このあい」をどういうふうに出せばよいのかを考えましょう。そこで惹きつけないとよくないです。
次に入れるための感覚が必要です。その感覚を殺してまで声にする必要はないのです。とても難しいところですが、歌が入って、音楽が入ってくると、ことばの感覚が若干違ってきます。今、皆さんにそこまでを求めているのではなく、「このあい」といったときに、きちんと「このあい」が示せることです。本人は、その気持ちになるというよりも、その状況をきちんと引き受けないと口先だけになってしまいます。
しっかりとまとめてみましょう。 2年間のうちは、発声もしっかりと固めて欲しいということが目的にありますから、最初の「クァンド」や「アルベリー」ときちんといえることをやっておいて欲しいです。2年、3年過ぎたらどんどんと無限に声が強くなってくるわけではありません。今あるものは今あるものとして、どのように音楽的に使っていくかというフレーズ感を大切にして欲しいと思います。
そのためには自分のイメージがなければよくないです。どこで入れるか。どこでもよいのですが、要は、そこで押して引いて、波の様な動きをつかむのです。ここで伝えて、ここで間をあけて、皆の聞いている会話と同じです。そういう動きを自分で出していかないといけません。
この前半だけでもよいですが、後半も加えると、この曲をどう捉えてそう歌おうとしているのがはっきりとわかります。そのイメージを勉強していくということが、演奏の勉強です。楽器もつくらなければいけませんが、演奏の勉強をしなければいけません。
ヴォイストレーニングは、体を使って声を出すためにやるのではなく、それはあくまで一つの条件として伸ばしていけばよいのです。自分のイメージする通りに汚れないというと語弊がありますが、ハスキーになろうが、ミックスボイスになろうが、のどにかかってもよいのですが、動きが作りにくくなるのはよくありません。複雑にするとそうなるのです。
何をいっているのか聞こえなくなり、飛び込んできません。言葉は聞こえなくてもよいのですが、音が欲しいのです。体をつかって一致させて欲しいのです。自分の呼吸を大きくして、体も強くしてください。すでにやっていることのなかでいえていても、のどに引っかけていては何の意味もありません。引っかからないために、音に対して、基本に戻るのです。
いろいろな「タァ」がある中で、何だったら伝えられるのか。この動きのなかでは「タゥアー」がよいのか、「トゥー」がよいのか。どれが正解とはいえませんが、自分の体が邪魔しているのはまずいです。きちんとしたフォームで打っているのはよいのですが、乱れて打っているのはいけません。それと同じことがのどでおきてはだめなのです。
録音で聞いてみたら、何かやぼったいとか、抜けていないとか、邪魔しているとか、感じませんか。出したときに感じませんか。バッターでいうとひじから手先だけで打ってはいけません。ストレートでなければいけません。映像なら自分の動きがおかしいのがわかるはずです。
人間は、機能的にもきれいに見えるとき、よい表情をしているときが、一番うまく原理が働きます。イタリア語に慣れていないことは構いません。カタカナで覚えてもよいです。アルベリーです。インフィニティーは言い替えています。強くFで突っ込んでいます。
先ほどのソッフのところと、ソッフィートのところもです。Fで深くとるというのは、日本人には難しいです。イタリア語が面倒くさいというときには、「トゥー」と「セイ」だけで勉強します。そこでどれだけできるかです。男性はキーを少し上げたほうがよいでしょう。
発声を体を使ってやることはよいのですが、こうやって無用な力を入れていたら、いくら素振りの勉強をしていても、無理がきます。力を抜いてみてフォームで打たなければいけません。響きの練習と一緒です。響かせても声は縦につながっています。どこかで止めていません。あくまで動かしていって、そのなかで「ハイ」「ララ」でも深いポジションからひびくようにするのです。よりきちんとした点でとっていくというのでしょうか。感覚的には体でコントロールするのです。
いろいろなレベルで取り組んでいくと、それぞれ参考になると思います。上のレッスンになってくると、そこに何を感じて、どういう方向にもっていくか。その方向がわからないと、声が出ているだけで何も伝わらなくなってきます。自分のイメージをどうつくるか、どう伝えるかです。
1曲全部歌うという練習よりも、そこができないところから、どうするかです。たとえば、今のフレーズのところにほとんどの課題が詰まっているのです。そこで自分で感じて「トゥー」「セイ」をいろいろな形で動かすことを覚えないと、どこかが動くということはありません。
音楽の一つのルールにそって「トゥーセイ」の「セイ」で入れていきます。
ミーナの場合は、そう入れています。「ビチノヮメ」の「チ」「メ」でも入れていく体力があれば、どんどん次に踏み込んでいってもよいのです。声がなければバランスも考えなければいけません。
その辺はヴォーカリストの力量になってきます。ただ、いろいろな試みをそこでやって欲しいのです。
イメージをつくるということと、それを音に出すということは、何回もやっても尽きません。自分が一体何を出したくて、どう伝えたいのか。それを勉強しなければいけません。楽器の人は音がとれても、そこから何回も同じところを弾いて、ちょっと変えてみたりしているでしょう。感覚を出せなくては、OKにしません。感覚とは自分の音のことです。
そういうことで、自分でより煮つまった表現にしていくのが練習です。部分だけやっていてはよくないです。前後に全部ヒントがあります。他のところをどう歌ったかということも関係してきます。ですから、両方やっていかなければいけません。だんだん長いフレーズになっていくのです。
歌い手の呼吸を読み込む、音楽のルールも読み込み、出すときには自分の呼吸に変えるのです。自分の感覚で、どこにつけたくて、どこに放したいかです。
なるべく単純に捉えてください。強拍とアクセントで捉えるのが一番よいでしょう。実際には歌わなくてもイメージのなかでいろいろと動かしていくとよいと思います。
クウェストでも、ソフィトでも、ヨーラなのかビヨーラなのかビーオラなのか。ノもそうです。ノーなのかノンなのか。日本語は、カタカナで書くと横にしか並んでいきません。彼等は、上下の揺さぶりをかけることで入れます。とても早いスピードで展開します。ピック イット アップとしないと認識できないのを、彼等はピッキタップといえます。認識できないから、いえないのです。そこまで音の処理についてのスピード感と発音に関しての差があるのです。
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「つた」
歌詞のままの状況を思い浮かべて、歌わなくてもよいのです。しかし、入り込む必要があります。皆さんのはそのままです。この音、ことばの世界もあくまで表層のものであって、それを自分のなかで読み込んでいって、そこに一番深いものを出します。自分がやっている一番好きな音楽からでも、何か感じられるものを結びつけるのです。このフレーズに何を感じたのかが、まったく現れていないのです。音符が並んでいるだけは、フレーズになりません。
皆さんのなかでお互いに聞き合うとわかると思います。ポジションの深さを確認するために体を使っているというのならよいのですが、それを体で出そうとしているのなら、他の要素が入りにくいからです。
これを歌として捉えてやっているつもりであれば、もっとやわらかくないといけないのです。感じるところでの問題と、それを出したところに何が出せるかという2つの問題があります。
感じられなくても出せたら勝ちという世界ですが、練習のプロセスや、人の歌を歌うときは、感じられないときついです。「ここにいてほしいの」と伝わらなくても、そこにある感覚を伝えようとして、それに対し、自分が反応できるかというプロセスを経ていくことです。統一性というのはそういうことです。
(「ここにいて(ミ♭ミ♭-ミ♭ミ♭ミ♭)」)
音楽は線なので、点にして捉えてはよくないです。皆さんがやっていることは、モ-ルス信号みたいにタタンタタタ、と打っているのです。統一というのは、心が集中していないとできません。音色で変えるという前に、一つにつかむことです。音をとっているだけではよくないです。
距離を測って出してはよくないです。たとえば、伴奏しているピアニストの意識は楽譜の上にあるのではないのです。結果としてそれをおいていますが、「ターー」という感じで一つにもっています。表面上の練習をしてもよくないです。ことばから変えないでメロディ処理をやってみましょう。
(「ここにいて(ことば)、ここにいて(ミ♭ミ♭ーミ♭ミ♭ミ♭)」)
ことばをいうときには、スタッカ-トにはなりません。他人に伝えるには、体を使って気を集中させます。これも「ハイ ララ」の応用です。それがしっかりできないと、できないことです。感情を表現しなくてもそこに、グルーヴや強拍を頭で考えないでつけるため何回も流していたら、何らかの感じが入ります。それを自分の呼吸のなかで合わせていきましょう。単に力まかせにやるのは、音楽と逆行する方向です。
どこにアクセントをつけるかということで、だいたい済んでしまうところです。要するに、歌い上げてはいけないということです。リズムや、音程の狂いが目立ってしまうだけだからです。
統一感というのは、それを一つに捉えている中で、どういう動きをつくるかということに理(きまり)をもっているということです。その動きになったときに、そこに身を任せ、裏切るようなことをしないことです。自分のなかで「ここにいて」といって心を込めたら、音が動き出してきます。そこからもう少し意図的にやってみます。フレーズによって、自分のなかの感覚や密度が全部違ってきます。
日常の会話などでもそうでしょう。主張したい部分は音も高強くより速くなります。そうなったとき、音楽としてより洗練されるわけです。感情移入だけをしていたら表現できる世界ではありません。音に秩序と論理を与えることです。そのために一旦感情を抜いたり、余計なものを殺さなければいけない場合もあります。
伸びなくなるのは、基本をさらに徹底してやらないからです。「ハイ」や「ララ」が同じレベル以上にならないときに、そこに何かが乗ってくるということはありません。そこで声を傷めたりすることが起きるのです。今は、ことばや音、いろいろなものから読み込むことです。名曲といわれているものほどその流れが一致しています。歌い手が結びつけていくのです。
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(つた「ここにいてほしいの
(ミ♭ミ♭ーミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭)」)
皆さんがピアノを自由に弾けるとしたら、こういうふうに弾くでしょうか。声そのものの扱い方や条件には時間がかかります。そこの部分はさておき、それ以前の部分に声やことばに対しての音声イメージをしっかりと持つことです。それから、この世界を表現するのであれば、そこに一回入らないといけないのです。入って、それを取り出さなくてはいけないのです。これは声のあるなしではなく、感覚の問題です。
音楽の世界へ入る方法は、リズム、音、ことばなどいろいろな手立てがあります。音楽的に優れている人ほど、音なりリズムなり、自分のなかに流れている感覚で安易に決めつけフレーズに結びつけてしまうのです。それが、プラスの場合、何をやってもその人の音楽になってしまう代わりに、その人のものにしかならないという制限がかかってしまうのです。音楽になれば、よいわけですがもっと学びたければ、その結びつきを毎日はずし、気づいてつくることです。
歌わないというのは、まずつかむということです。ことば、音、リズムの下にあるものを捉えます。それは人間にとって共通のものです。ことばから入ると限定されて、なかなか音の世界にいけないのですが、ある部分では必ず結びついています。 でも、それだとピアノは弾けないのです。なりきって弾くほど、ピアノやトランペットの音はおかしくなります。大切なことは、そのままを出さないことです。表面だけを捉えて出していると、動き出しません。
歌うということは、体や心、統一の感覚、結びつきができるということから出てくるために、シンプルで決して、難しいことではないです。それを一曲に2オクターブでコントロールしようとするから難しいだけなのです。 このフレーズは、メロディの変化はありません。
ここをしっかりとスタートラインにしないと音域が広がった他のところになると、そこに声がのっからなくなります。人間の体での表現は、その原理からはずれたところではできていきません。基本をしっかりとやらないで、歌ってしまってはよくないです。
皆さんの評価と私の見解が食い違うのも、皆さんの世代なりに音楽を聞いて、好き嫌いがあるのはよいのですが、音の世界で聞いていないのが問題です。たとえば、紅白歌合戦は、生ですからわかりやすいでしょう。いいか悪いかなんて誰でもわかるのです。そこでさえ曇らされてしまうようではよくないです。
価値観や好みというのは当然出てきますが、それ以前の感覚がズレています。やはり一流のものをもっとしっかりと聞かないといけません。三流のもののなかからどれが優れているかどうか決めてみても、自分には跳ね返ってきません。それをまねるほど難しくなります。とてもシンプルなものを皆さんの歌は複雑にしているわけです。
「今やったことをまったく10回、同じようにしてください」といっても、対応できないはずです。自分から何が出るか、まだわかっていないのです。それはやってみて気づくのです。練習のなかでしっかりとやっておき、ここに来たとき、これだったらこうだ、というふうに体がわかっていて、歌わないのに出てしまった、という形にしていかないといけません。
時間はかかるのはある程度みますから、その下に動いているものを捉えてください。つまり、歌より歌を支える条件をしっかりと作っておき、歌がしみ出してくるようにするということです。
本当のことをいうと、2年くらいはあまり音域をつけないで、ことばの読みをやる方がよいのです。それよりも息や声を強くすることです。そこから勝負が始まるのに、声が自由にならないと楽にはなりません。
意図的に方向づけてやってみましょう。この通りにやると、「こ こーに い て」となり、おかしくなります。歌詞のイタリア語でもそういうやり方はとっていません。1音聞いたところに「ここに」とそのまま入れてください。ことばでしっかりと表現しようとしたら、切れ切れにはならないはずです。どこかに入って、ためてどこかから抜けていきます。音楽も同じで、全部歌っているわけではないのです。
この前の舞台でも、多くの人は1番の半分くらいまでしか集中力がもたないのです。ひどい場合は1フレーズももっていません。少しでも表現しようとしたら、体、心、表情、すべて、その世界へ入っていきます。体全体で捉えないと、却って難しくなります。聞いているあいだに動かなければよくないです。息、体、声の結びつきをしっかりとチェックすることです。そうでないと、歌ではいくらでも逃げられます。それでよいのですか。
(「ここに いてほしいの わたしの そばに(ことば)」)
ここは応用をやるところです。まず、自分が何ができるのかを知ることです。それは毎日練習しないとわかりません。そのときに、これではまったとか失敗したとか、気づいてくるはずです。何もやらずにここへきて、やってもよくないです。読み込み不足、声の基本のところの練習不足が出てきます。これに音がつくと、ごまかせなくなります。
日本語は強拍のない機関銃のように断続したことばです。それを裏切っていかないと動き出しません。歌やせりふの場合は、まず一つで捉えてそこから変化が出るというくらいに考えます。
なるべく大きくとった方が、イメージも呼吸もうまく流れます。当然のことながら、構成、展開がイメージにあれば統一していくことに結びつきをつけていかなければならなくなります。
皆さんは、声のポジションが、浅いので、そこに踏み止どまれないのです。ポジションが、深いほど、たくさんを一つにまとめていけます。音の変化は高低ではなく、強弱の変化で深さをつけることです。
皆さんの歌には、天地がないのです。歌は地上から天に上がって、それから降りるのですが、うまい人は1フレーズのなかでもしっかりと天地を作っています。
人の声は、伝えたいフレーズがあったら強くなり、強くなったら高くなります。その心の動きが生じていない限り、一体になるのは無理です。楽譜から歌い分けるようなマニュアル的な覚えかたはしないことです。
音のなかに動きがあるでしょう。ピアノでも全部押しつけて弾く人はいないです。音をつけてやってみてください。
(「ここにいてほしいの
(ミ♭ミ♭ーミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭)」)
結局、ことばと違うところは、ことばの意味のわからない外国人が聞いているところで歌ったときに、これをどう作品にするかということです。そこではメロディ、リズムと音色しか残らないのです。 音楽は本来、気持ちのよいものです。歌が気持ちよくないのは、その人が解放されていないし自由になっていないからです。天地を構成する冒険よりも、問題を恐れ逃げ場を防いでしまっているのです。
基本のトレーニングの時期には、声を統一するということと、結びつきをつけるということと、息を大きく吐くということや体を使うということは一時矛盾します。息を吐こうと思っただけで、体が固くなります。だからできるところでしか表現できないわけです。そのためにも息や声を使うことです。
それは声をより緻密にコントロールしたり、統一して出すためで、声を大きく出すためではないのです。歌は最小で最大の効果を上げていかなければならないのです。ただある時期、トレーニングで最大で最大の効果を挙げることを求める時期もあり、それは、あとで伸びるように。器を大きくするためです。
今の最大で限界をつくりまとめて終わってしまうのでなく器を10、20、30と増やしていき、次に10で10、20で20、30で30できるようにするのです。100で100できるようになったら、10で100出せるようにしていくのです。
間違った練習というのは、逆に10を10のまま使って、3しか出ないようにすることです。それは練習ではなくて間違いです。大声を出して息も使っているのに、声になっていないというのもよくないです。のどを痛めるだけのマイナスのことになってしまうのです。
だから大きな声での練習というのは、なかなか正しくはできません。
状態がよかったり、たまにはそれができるときは、うまく脱力していて共鳴しているのです。そのときを覚えなさい。そして、その状態で、客に伝わるものがあるのかを見ます。
声楽の世界は、役割も限定され、そこで成り立ちます。客に働きかけようが働きかけまいが、ある意味ではそこで完結していたら客が聞いてくれるのです。それは当然あるレベル以上の人たちであっても、さらに一流の人は違います。
まず、普通にできるようになるために、それを効率化させないといけません。
声楽のやり方は、かなり小さな声からやり、5くらいにして、5で10出せることを覚えるのです。つまり結びつきから入るのです。そのため時間がかかります。本当のコントロール力は、よい作品を聞いたところから自分の感覚でつけていくしかないのです。あまり小さくまとめてしまうと、歌一曲が大きくて手に負えなくなってしまいます。もう少し整理してみましょう。
「ここにいて」は、「ハイ ハイ ハイ」これだけです。歌い手が捉えているところの感覚というのは、全部体に入れて、その呼吸に入れて出すのです。表情をつけたり、加工しなくてもよいのです。ベースのところで発しているか、いないかということです。基本の基本とは、そういうことです。
皆さんの歌は出だしから違っています。音楽的にも声としても耐えません。声をおくためには、その前にためが必要です。フレーズをいう前には、そのイメージが感覚的に働いていないといけないのです。もっと集中力とテンションが高くないとよくないです。それと無神経に大声を出すこととは、まったく違います。
声立てをやってみましょう。「ハイ」とおいて、それをひろって、「ここに」とやってみてください。
(「ハイ ここに(ミ♭ミ♭ミ♭)」)
歌おうとすると、ここまで大きく歌わないと歌えません。向こうの人たちは、ここまでのものをつくっておいて、これを半分くらいの力で歌えてしまうのです。ここまで出さなくても、同じ内容以上のものが表現できてしまうのです。
皆さんが一音やると、あんなに大きな表現になってしまうのと同じで、ベースの力の違いです。感覚や感性の違いだけではありません。それが同じであったとしても、声と体の結びつきの違いが出てきます。
日本語を使っているところで、ごまかせないところもあります。1オクターブを3音くらいの感覚でとらないといけません。歌い上げてしまうとよくありません。歌い上げられる人が、歌い上げないからよい歌になるのです。
アマチュアのレベルで1音でおきていることが、プロの世界では、1~半オクターブでおきているのです。もっと、しっかりと声を獲得すればそれだけ歌が楽になり、しゃべっているように歌えるようになります。基本はいつになっても大切なことなので、今の時期から体をつくっていってください。音楽をやる人は、音の世界ともっと対話してくることです。
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「イエスタディ」
外国人が歌うと、日本人の歌より大きな歌にはなりません。歌い過ぎてはいけないということです。
(「イエスタディ)
統一するときは、ひびきを一定にしなくてもよいのです。勝手に響いていればよいのです、響くところも感覚も違うのです。声そのものが動きたがっているところをしっかりと感じて、解放しないといけません。線でとっていくわけです。
(「Yesterday(レドドー)」)
それを一つころがしてみたらパッと何かが開いてきたという程度で終わっているとよいのです。そこに意識して、体を使っている段階で終わってしまっては動きが出てきません。集中力の問題ですが、ここでグイッと入れておかないから、次のフレーズが見えてしまうのです。
声を出したときに、声自体を扱えていないと集中していけません。練習のなかで、よほどテンションの高い練習をやらなくては、このようにはできないと思います。
一つの手法としてうまく聞こえるように、というやり方はいろいろあります。うまいと聞こえるのは、何かがまだ足らないのです。本当の歌は、歌っていないのです。歌として伝わるのです。
皆さんは歌おうとするわけですが、彼らはことばをおいていくこと、響かせること、呼吸をしっかりと入れてコントロールしようとするくらいの感覚で表現をします。日本語はどうしても歌ってしまいがちですから、それを自分で切っていかないとカラオケのようになってしまいます。気をつけてください。少しでも神経をゆるめると、日本の歌は流れにのっかってしまいます。
そういうことで、部分の完成度を見て、全体の流れに乗せてやっていくということをやってみてください。ナポリターナやカンツオーネの方が、くせのあるヴォーカルよりわかりやすいと思います。
(高橋真利子「Yesterday」)
これが一つということです。「イエースターディー」ということにはならないでしょう。この1~2行まで向こうの感覚で、3行目から日本の感覚に移しています。「静か」の「か」あたりからです。最初からここまでは天地の差をつけるような歌ではないですが、メリハリを目一杯、使っています。これがないと先に進んでいかないのです。ダラダラしてしまいます。高橋真利子さんは歌っていません。こういう間というのは、なかなかとれません。ここで間をあけることによって、次の落差をつくっています。
皆さんの場合、後半がまったくもたなくなります。後半までしっかりと歌うというのは難しいものです。まず先が見えていなくてはなりません。フレーズは覚えると簡単なのですが、覚えると限定された歌い方になってしまいます。身を守るにはよいのですが、改めるには覚えて決めつけない方がよいです。