鑑賞レポート 1026
クリエイティブなことを生み出すにはイメージの確立が絶対条件だ。ブルースはsecret gardenのピアノ演奏について「もっとふくらませた感じで、自由に」と指示していた。自分の曲のイメージからの必然性に他ならない。曲を通して一つの世界を形作る過程を知ることができ、とても勉強になった。人間や物事に対する深い洞察力と関心、豊かな感性と普遍的な所まで深める心の成熟、そしてそれを外に出そうとするあくなき探求心。音楽的な所よりも、むしろ、そういった人間的な所に大きな差を感じた。
「明日は昼は子供とビデオを見るからダメだ」というセリフから、悲愴感のなさを感じて、本当に音楽活動を楽しんでいるという印象を受けた。
そういえばユーミンと矢沢永吉の対談で「音楽が仕事だと意識では絶対によいものはできない。楽しみでやるんだ」というようなことをいっていたのを思い出した。
それにしてもバンドというのはこういうものか、という感じだった。一人一人のイメージを重ねて一つの世界を共有する。合宿でやった様なことと同じだと思った。皆でやるからこそ個人が大切。自分にとって何が美しく、何がおかしく痛みとなり、なにがリアルか。自分をシンプルにしていく。
「ミュージシャンがリアルに自分を表現しようという状況に反して業界はますますビジネスとしてコントロールされていく。つまりリアリティーとビジネスの闘いなんだ。でも、真に革新的なものは、真の個人尊重からしかうまれないものだ」ダリル・ホールより。
「マドンナ ザ・ヴァージンツアー」
正直いって、マドンナがこんなにすごいとは思わなかった。世界の桧舞台で長い間に渡って活躍していることを考えれば、何を今さらといわれるかもしれないが、映像を観て、言葉を失った。それは感動したとかいうことではなくて、衝撃を受けたという言い方のほうがよいかもしれない。
まず登場する場面からして度肝を抜かれた。とにかく「かっこいい」。すごい。「うわぁ~。うげぇ~」とハッさせられる。勢いを感じる。ただ歌のフリの一部として構えただけなのに。もちろん、演出(照明、美術含む全て)のうまさもあると思う。ショービジネスのトップが揃うアメリカのことだから、大衆を興奮させる技術はあるだろう。しかし、たとえそうだとしても、そのなかにいて、それに埋没せず、ちゃんと「マドンナがいる」と思わせるだけの実力を備えているところがすごい。
歌も踊りも素振りもすべてが当時の『マドンナ』らしく魅きつけられる要素がある。まるでコンサートライブを観ているというより、マンガを観ているようだった。マンガの世界=空想の世界を実際に具体化するとこんな風になるのかなと思った。作り物の映画という言い方にもなるのだろうか。
それにしても、それを具体化できるマドンナの実力がすごい。
映像は初期の頃のものだろうから、彼女は“ライク・ア・ヴァージン”でヒットして、世に名を知られる前にこのライブの基礎となる実力を蓄えることをしていたことになる。歌にしても踊りにしても、その日常の素振り、振る舞いにしても。売れる前から売れたときのための力をつけていた。この頃のインタビューで彼女がこういっていたのを鮮明に憶えている。
「世の男性たちが私のことを見て“セクシー”だというのは(前から)知っていた」。
ぼくは2つのことを学ぶ。そうなる前から、そうなることを知っていた。(たぶんこれは信じていたという、言い方にもなると思う)ということ。もう1つは自分というものが、どんなものかを知っていて、普段からそれに磨きをかける努力を積み重ねていたということ。どちらも下に潜っているときにやっていたこと。
チャンスをつかむには圧倒的なパワー・勢いが要る。そしてつかんだチャンスをぐっと袂に引寄せ、その流れに乗っていくには、乗りこなす実力が要る。『チャンスは誰にでも訪れる』と耳にすることがある。それをつかむこと、そしてその流れに乗っていくこと。マドンナにはそれがあった。
「すごいなあ。こうなる前からこうなることを信じていたんだ」と思いながら観ていた。その姿は、美しく、まぶしく、かっこよかった。そして多くの人たちが興奮していた。あれから時間が経った今でも、多くの人が彼女を見たがる。ずっと努力を続けているのだろう。前歯に抜き間が開いていて間抜けだけどマドンナはすごい。現在の姿になるべくしてなったのだと思えるから。
「ニューオリンズ・ライブ・ゴスペル」
ゴスペルについて語る人たちの話には、必ずより大きな存在(=神)の概念が入っている。その感覚的なもの=feeling、伝える内容は神から来たものだし、その歌声は神に護られ、それを歌う人々は神に全てを捧げながら生きている。以前は神、神と耳にすると、少々うんざりしたりもしたが、最近は歌の原点は、あるいはこういうことのなかにあるのかもしれないなと思ったりもする。元々は歌は人々の心から出た、喜びとか感動とか感謝とか。神(この場合は自然といった方がわかりやすいかもしれない)との一体感とかを素直に表現したものだったのではないかと思うからだ。そこには悲しみや失望や苦悩はなく、ただ愛とか平和とか、プラスイメージの思考や感情があったのではないかと思う。
“音楽は元々楽しいものだ”という自分の願望も入っているかもしれないが。「ゴスペルは神の教え、神の道を言葉で通して伝えるのだ」という言葉が印象に残る。どこからそんな力が湧いてくるのか、というすごい、迫力のある声。年齢からして60を越えているように見える。きっとその場にいれば、体が自然に動き、興奮し、歓喜していたことだろう。「牧師の説教を聞かない子供でもゴスペルは聞く」。この感じ、わかる。でもぼくは騒がしいものより静かな落ち着いた流れが好きだ。
第一印象として、体がすごい。特に下半身、尻、モモ、中でも、ふくらはぎなんて柔らかく、それでいて力強そうで驚いた。華麗に見える、そう見せるために、客にそれ以外のことを意識させないために、基礎の体の力が必要とされる。それはどんな芸事でも同じだ。次に、イメージの確立と、それを外に出すことに対するこだわり。1回転と2回転の違い。胸の位置のちょっとした違い。自分には大した違いに思えなくても、イメージに忠実に表現しようとした場合大きな問題なのだろう。そして何より完璧にコントロールされていなくてはいけない。自分のなかにあるヴァリエーションを使ってクリエイトしていく。感情を体の動きや表情で伝えるというのは、声で伝えるよりももっと難しい気がした。もっと普遍的な所までの解釈が必要とされるような気がする。そして彼は、昔の自分の練習映像を見ながら解説してくれたが、それをする気になるというのはどういうことか。練習の場でも、常にベストを尽くしてきたという証のように思える。
「パブロ・カザルス」
チェロに対して、音楽に対しての彼等の姿勢が、人生の全てに出ていた。とにかく真面目な人だった。子弟に指導するときも彼の純粋な音楽に対しての真面目さから熱い言葉が飛んでいた。「座ってないで動け、ミイラじゃないんだから。音楽は肉体表現なんだ。動け、ピアニシモ、クレシェンド、出来なくても、とにかくやるんだ」そういった後にまた見本の曲を弾いて生徒に一言「分かったかね」レッスンはこの繰り返しのような感じで行われているようんだった。
まさに、この指導の仕方は、ここと同じではないかとハッとした。自分も今ここでまったく同じように、曲を大きく感じる。そして曲を大きく感じたら、感じただけ体を使う。体を曲に入れる。一流の曲をまったく分からなくても、とにかくできるようにやっている状態は、まさに一緒なのである。
そしてカザルスの演奏をがんばってまねをしていた生徒の実力も凄かった。当然カザルスの演奏までにはなっていないのだけど、曲の輪郭みたいな物は捉えられていてカザルスの演奏を自分流の形に演奏していた。その反応のよさには、たくさんの基本練習という確実な土台があるように感じた。
どの世界にも通用する物があり、全てにおいて基本をしっかり身につけていない者に先はない、という鉄則の事実を改めて感じた。福島先生が提示している2年間という自分の見習い期間は、あまりにも短すぎると感じている今日この頃です。2年で果たして基本という物をどれだけ厚く自分の物できるのだろうか。当然やるしかない。今までの自分の人生がそうだったように。
最後にカザルスが鳥の歌を演奏する前のスピーチがどうしても忘れられない。あの思い詰めた表情、姿勢から飛び出したあの声、「空の鳥、宇宙の鳥は平和、平和、平和と歌います」
自分が音楽ができるのも平和があるからだ。そして全ての生き物は平和を望んでいるという、彼の人生の全てを語ったようなスピーチは、悲しそうな声でいて、すべての人類に届く愛の声だった。カザルスが故郷カタロニアを思うように、生きている人間誰もが“望郷”という強い思いを持っている、それは自分の“ふるさと”つまり地球がたまらなく好きだからだ。カザルスの声は彼のチェロ演奏を通して世界に届いたはずだ。「平和、平和、平和」自分の声は世界に届くのだろうか。今のままじゃ何も届かない、伝わらない。人に伝わる声というのは。美声、悪声関係ない。伝えようとする強い強い、とにかく強い気持ちがあれば、届き伝わる。いずれ自分の声は世界に届き伝わる。その日まで、その日まで。
短い時間のなかで、これだけの一流のアーティストを見られたのには感動した。次から出てくる声、声、声、人に伝わる物には何か気のような魂が入っている。・ドアーズのステージ、ジム・モリスンの若者を巻き込むような声と、あのオルガンの音が何ともいえない狂鬼を生み出していた。危険な匂いの続くステージは、ハイヤーのシャウトへと向っていった。
「ハートに火をつけて」ファイヤー(火)をハイヤー(麻薬)とシャウトして大問題になったらしい。日本では考えられない。とにかくかなわない。馬鹿だなあ、ロックしているなあと、ただただ正座をするだけの自分です。でも麻薬なんかやったら駄目、自分に負けてはいけない。とにかく危ないやつらだった。
ステッペンウルフ、「Born to be wild」誰もが知っている曲の生の演奏には、血がたぎるというか、バイクに乗りたいイージーライダーの気持ちになる。時間とお金があったら、でっかいバイクに乗ってこの曲を歌う。・ビーチボーイズ「Good バイブレーション」コーラスが心地よい。低音ヴォーカルとのハーモニーがまさに“よい振動”となっている。ああやって一つの音にしていたのか、と勉強になった。
シュープリームス、ダイアナ・ロスの喜びに溢れた声が印象に残った。ブレスの音、声、表情、そしてステージ、全てが温かかった。3人のバランスは絶品。・アニマルズ、個人個人の演奏の見せ場があって、一人が目立つときには後がとにかく集中している。それがバンドのチームワーク、一つの魂となって届いた。
ローリングストーンズ「Point it black」あまりにも格好よい題名。ミック・ジャガーのステージでの存在感、何ともいえない安心感。自分が、古くから持っていたアメリカンロックンロールのイメージと、やはりピッタシだった。馬の蹄のようなリズムは体を前へ前へとのらせてくれた。
自分が知らないミュージシャンでよい人はこんなにもたくさんいて、その人達が絶え間なく出てくるエド・サリヴァンショーは、大変勉強になりました。
「ウィ アー ザ ワールド」
超一流の交わりに言葉はいらない。そこにあるのは、どれもこれも一級品の歌だけだった。歌は心のテレパシーみたいなものだ。出演した全員の声には一つの共通する芯のような物が感じられたけど、個人個人気持ちをさらけ出した人の心を動かす自分の魂の表現を感じた。話声からパワーに溢れていて、とても魅力的だった。人間という動物は本来あのような声を出すのだなと、自然を観察できた。そして作品への取り組み方なのだけど、気持ちの切り替えがとにかく早いなあと思った。自分のフレーズが回ってきたときのあの真剣な表情。
ライオネル・リッチーの切り替えがわかりやすかった。スティービー・ワンダーに笑いながらなだめられていて、二人で一緒に笑っていて、イントロが流れてきたとき、顔がパッと変わって気というか、オーラみたいな物が見えた。そしてプロの仕事をする体になって歌い始めた。あの役者のような気持ちの切り替わり、自分以外の何かが自分を動かしている。一瞬彼の動きがパッと冷めたように見えたあのときに、彼の体に熱い物が降りたのだと思う。自分の場合は心の準備に少々時間がかかるので、ああ準備しているのだなあ。と思われるだろうけど、リッチーにもその時間があるのだなあと、彼等も同じ人間であることを確認できた。
休み時間、ティナ・ターナー「フィッシュバーガー食べたい。フィッシュバーガー」という場面が合ったのだけど、この映像を見た人はとにかく忘れられないと思う。少なくとも自分は、かなりこれが印象に残った。このときの彼女の声が、とにかく自然なのである。歌声は当然素晴らしいのだけれど、この単純な気持ちをいった彼女の声は、鳥の巣にいるヒナ鳥がお腹を空かしてピーピーいっているような動物的な声なのだ。そんなにフィッシュバーガーが食べたいのかと、大笑いしてしまった。自分にはこれは一つの切り替えと感じられた。休むときはとにかくリラックスする。体の底から休んでいた。この柔軟さはプロのアーティストになるには大事だなあと思った。あれだけ解放感的になればウジウジ考えないと思う。
ブルース・スプリングスティーンが「食べる物がなくて死にそうな子供に時間をくれといわれたらNOとはいえないだろう。それがアーティストとしての使命だ」といっていたが、アーティストとしての自分の生きる世界も難しいなあと思った。できることなら大勢の人の前でスポットライトに当たって自分の歌をたくさんの人に伝えたいと思っていたけど、世界には自分の想像を超えた苦しい生活をしている人達がいて、その人達に何もしてあげられない無力な自分がいる。
マイケル・ジャクソンの服をお金にすればどれだけの人が助かるだろうか、とか考えたけど、現実みんなが笑って暮らすユートピアなどは無理なのだから、この方法が援助される側のプライドも考えているし、アーティストとして歌手としての一番のやり方なのかなあと、しみじみ納得した。