一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン 54178字 1033

 

 

レッスン  1033

 

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レッスン1   学び方

レッスン2 音感トレーニン

レッスン3   QA

レッスン4  フレーズレッスン基本 京都

特別レッスン

 

 

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レッスン1  学び方

 

 昔の会報をみていると、三年前とあまり進歩していないという気がします。巻頭言を見ても、今述べていることとあまり変わりないです。研究所もあまり進歩がないことに少し危機感を感じます。大切なことは同じことなのですが、同じまま繰り返しても、深まらないといけません。そうでなくては、器が大きくなっても、何もならないです。

 

研究所のあり方などについて話していこうと思っています。能力として、コピー能力は大切です。音楽としての言語能力や造語能力にすぐれることも必要です。造語の能力というのは大切なものです。ことばというのは、定義したときから古くなります。研究所に関しても、スタジオができたり本がたくさん出ると、そういうものに振り回されてしまうような人もいるのです。

 

 皆さんの質問やメッセージの方から、先に片づけましょう。 

まず、心と体が一致していないということですが、歌と表現が 生きることに一致していない以上、無理なことです。私もできているわけではなく、たまたまそういう状態を普通の人よりもやれる状態であるというだけです。これは、永遠の課題ではないでしょうか。心と体は歌を歌ったとき少しでも違和感がないくらいに、一致させていかなければならないと思います。

 

 

 たとえば、決意を秘めたときに歌を歌うのと、だらだら歌うのとではまったく違うわけです。そこに自ら、どれだけドラマをつくれるかということです。 

活動に関してはできる範囲で対処し、自発的な働きかけを望みます。ここは、共済みたいに考えてもらうとよいと思います。いろんな人たちが払ってきた会費で成り立っているのに恥じぬよう、ここをより充実させる場にしたいと考えています。

 

 回数のことは、結局、使いこなせるかということなので、あなた方次第です。ただ、こういう場というものがいつも必要だと思っています。そこに行けば自分の中に質が高まるというか、そこから帰るときに、少し自分が上等になったような気がすると思えるような場が必要です。それを自ら、自分をけがすような場にしたらよくありません。 

私はそれに抵抗しているのですが、ここは休むのではなく、闘う場です。外に対してより内に対して闘わなければならないのは、めんどうです。ここで本気になってやれば、どれだけ残っていくでしょう。多くの人は、この場所を放棄してしまうでしょう。ダラダラやってもいけないと思います。助走は2年間です。

 

 

 「なぜ歌わずにいられるのか」

という質問ですが、生きているということは、歌っているということです。へたな歌でも人まえで歌えばよいということなら、それは歌ではないし、歌いたくないときに歌わないということも歌を大切にするということだと思っています。 

こうしなくてはいけないとか、ああしなくてはいけないということではなく、そのときそのときの自分の感覚で決めていくことです。

 

 やれる力はもっていなくてはいけませんが、ここにいると、体力や気力は衰えないです。また、これだけの皆さんの声という騒音を聞いて、自分をキープするということは大変なことです。こんな仕事をやってみたいという人もいますが、やってみれば、きっと身も声帯も消耗します。 

場は、何もかも整っているからよいわけではないです。こちらがたきつけるのではなく、皆さんがたきつけてなければ困ります。自分で燃えているということが必要です。他からいつもたきつけれていてはよくありません。

 

 ここを出てからへたになるというのは、ここにいても同じです。ここにいたときうまかったわけではなくて、その状態が場の力で取り出されていただけなのです。それが場とともにふっとんでしまうのなら、本当の意味で自分の力になっていないのです。場が与えられると案外とできてしまうものと、本当の力というのは違います。本当の実力とは一人になったときに出せるものです。ここを出たからへたになるのというのではなく、へたなまま出ていくから、へたなだけです。学べている人は学べていると思います。

 

 

 「わかりやすいことばで、レッスンして欲しい」

ということですが、ことばをわかりやすくすれば、わかりやすくするほどわからなくなるものです。だから、自分でわかった上でことばをつくり出すしかないのです。そうでなければ、自分でそのことばの意味や定義を変えていくことです。ことばがわからないという段階で、格闘していても仕方ないです。

 

「トレーニングから歌声になる時期は」

という質問ですが、トレーニングは可能性を拡大していくことで、歌は凝縮して焦点を絞っていくことですから感覚的にまったく違うことです。声を使いわけるということではなくて、必要になったとき体が要求していて、そう出すというしぜんな感覚が目標点です。

 

 どの時期から移るとか、声ができたら歌いなさいということはいえないのです。それは自分の中に充満してきて、出したいときです。自分の内なる声に心を傾けるしかないです。自分をより知るということです。

 表現や歌というものは、体や呼吸に戻っていくものと思います。歌が歌でなくなっているのは、そうなるものでないからと思います。

 

 

「未来の研究所のあり方」

変わりないでしょう。変える人が来るか来ないかというだけです。今までの流れとしては、強烈な人が強烈にやりたいことに応じてきたつもりです。現場優先でやっています。 

レーニングに関しては、研究活動を今後共続けていきますが、一人ひとりが練りあげていかないと、嘘になってしまうわけです。来る人たちも、時代も変わってきますから、いつまでも同じではないし、同じことが通用しなくなるのもあたりまえです。 日本の音楽業界の層は薄いところが問題です。支えている層も薄いので、大きな問題です。

 

結局ヴォイストレーニングに、音楽的なレッスンが必要です。 

ここのトレーニングは、舞台で生かせることから気づきました。 

自分たちでやっているなかでの舞台では教育的なものは入ってきますが、長くやっている人がだめになっているのでは生きていないのです。 

発声のベースが、最初は「ハッ」だったのですが「ハイ」や「ララ」に変わっていたのは、ことばから取っていこうとしたからです。

 

 「日本人としてのクセを反省しなければならないか」

こういうことは日本の文化をよりわかるために、海外の文化を学ぶことと同じことです。向こうのものを勉強することで国際化に対応できるというものではないのです。違う時代の違う国のものをそのまま学んですぐれることはできません。 

日本人のクセがあって、それが悪いから上達できないという考えではありません。より日本人であることを捉えていくために向こうのものを勉強するのです。それにのっとられないようにすることです。自分を知るために他人を知るのです。

 

 

 ここのトレーニングというのが目的や目標にもなっていないようにしているのは、そのためです。皆さん一人ひとりが自分になるべきなのです。

 他の人のことばで捉えるのをやめるということです。別に決まったメニューがあるわけでもない、やれている人ががやれることをやってくれたらいい、人を納得させられるものがあれば、それを素直にやってくれたらそれでよいわけです。先生も生徒もありません。私も研究生です。

 

 ただ、日本の教育を受けてくると、教わる方にとってはこういう考えは大変なことのようです。自分の中で、その時期自分を位置づけていかなくてはならないからです。でも、そのくらいのところから学んで欲しいと思います。こちらで基準をつくって、あの歌をうまいことにしようか、この声をよいとしようとか、こういうトレーニング方法は認めないようにしようということになると、いずれ間違いを犯すことになってしまいます。だから“場”が成り立つかどうかでみるのです。

 

 研究所に合っている人、合っていない人もいると思います。まえはハードなイメージが強かったのですが、私から伝わらないことが他のトレーナーから伝わることもあるし、彼らの伝え方を見て、私が学んでいる部分もあります。

 何事でも一時期、とことんのめり込むのはよいと思います。自分であることが必要です。たくさん選べることが環境としての豊かさだと思うので、そこで自分なりに切りかえてください。 

 

 

トレーナーに対してもこういうメニューをやるようにということは細かくはいっていません。気づくのを待つことが一番、難しいと思います。待たないで教えたら育たないのです。待てた人が育っていくわけです。与えられなくとも、そこで気づいていければよいのです。

 いつも同じレッスンをしています。取れるのはその人の力です。取れるということが、ある意味で才能でしょう。 

あまり先のことを心配する必要はないのです。これから、いろいろなことに気づいていけるでしょう。声や歌ということで本気で取り組むだけで、一生終ってしまうほどのものです。私の指導力などというのはあまりない方がよいと思っています。 

あるレベルを越せないというのは、甘えが出てしまうからですから、それに気づかせることが大切です。 

何か一つでもスポーツをやっていたら、声のことなどが一年や二年で身につくとは思わないでしょう。試行錯誤を繰り返しが必要で、できたものをとれるものではありません。

 

 決めつけていくのが一番よくないことです。ことばの定義の中から抜け出せないことを恐れるべきです。自分に気持ちよくなく、聞いている人も気持ちよくない、そういう時期はあってもよいのですが、道筋を見ていかなければよくないです。学べる人というのは、自分をブランク、つまり白紙にして取り組めるのです。

 ただ、自由にやらせてみるにも、やはり型がないと何が自由かさえわかりません。型のないところに自由はないのです。型というものが決まってくれば、それがスタンスとなり、スタイルになってきます。そこで、自分なりの型と志(ポリシー)を見つめて欲しいと思います。 

志がないと、歌というものにはなってきません。それがあれば、のど声であってももちます。ただ、くせだけでは自分の寸法までいけないから、基本の基本に戻らなければいけないのです。 

 

 

日本はアメリカを追いかけて、耳ができていない人ばかりになりました。大きな道筋が見えなくなりました。そういうときにここを役立ててもらえばよいと思います。日本も民族の色とか出てくるかどうか、わからないですが、何かしら出てくると思います。十年くらいまえにも、これからはアコースティックになってくるという予測はあったのですが、外れました。 

近代化された設備を生かすことも大切に思っています。テレビを動かせれば世界を動かせるという時代も、パソコンに移りつつあるわけです。 

しかし、パソコンでやっている人はまだパソコンの中にいるだけです。

 

 VTRの貸し出しなども、デジタルの再現力に慣れてしまうのは、恐ろしいことです。ライブで見るのとVTRで見るのとは、まったく違うのです。自ら身につけるには、自分の足やお金を投じて得ることです。そして得たものではまったく違うからです。

 

肉声というのは、音の波です。我々の人生も一回きりのアナログです。そこでは、何度も再現できるものというのは、必ずしも価値があるものではないのです。

 歌に親しんでいける場をつくっていこうと思っています。歌が好きだといってもそう思っているだけで、それと人前に出続けていく生活を選ぶこととは、まったく違います。他に好きなものがないということかもしれないです。それなら歌が嫌いでも、歌わなければいけないという人の方がよいのかもしれません。

 

 

 音感、音程については、コピー力があって歌いこなすことを慣れてきた人であれば、ポピュラーでの問題はあまり起きないはずです。できても、それはできない人よりそのことで先んじているためで、歌や表現とはまったく違います。それなのに、ここではそのことさえできない人も多いのです。タレントやアイドルをバカにする人もいますが、音の感覚などはとれている人が多いのです。その上で本当の歌になるということはどういうことなのかを、味わって欲しいと思います。歌にならないで、声だけ出ていても仕方ないのです。 

 

表現については、模索していくことです。そのための講座もおいています。三年くらいいるとようやく耳や表現についてわかってくるようです。

 伸びる人は限度をみて放して、伸びたくない人もあげなくてはいけないと思っています。出さなければいけない理由が研究所にもあります。表現や練習法を見せあう場にできなければ、長くいても何にもなりません。キャリアの差もありますが、伸びた人は目的とか目標の高さが違います。そういった基準をしっかりともっていると、まわりがそのレベルになり、仲間ができたときによい形になると思います。もともとその場なのですから。 

先生、生徒でわかれてしまったりするのがおかしいのです。“研究所”ということにこだわりたいものです。 

 

才能があってすぐにできる人よりも、努力した人が残っていく世界です。 

勝田先生は、NHKの大河ドラマなどで、オーディションでとった素人を多くのベテラン俳優さんのなかで通じる演出表現術を教えてこられました。これも大変な力が必要なわけです。また、人を見る目も必要です。できるだけ受けてください。歌も、その周辺にある表現としてパフォーマンスの力は大きいです。 

ブレスヴォイス座については、ホームグランドになって、そこに出ているのが、胸を張っていえる作品を残していける場であって欲しいと思います。

 

 

 歌の才能がある人も中にはいますが、日本の中では本当に限られているので、まずは、自分のオリジナルの声をしっかりと取り出すことを先行させてもよいでしょう。 

オリジナルを徹底的につきつめている中で、出てくるものを吸い上げていこうと思っています。そのときには、その人が一番よい顔をしているわけですから、人に受け入れられないわけがないでしょう。そうでないものが出てきたら、人に嫌だなあと思われるわけです。

 ウソで固めたヴォーカリストではどうしようもないです。本人がそれがよいと思ってやっているから、ダメということではないです。ただ、研究所にいても仕方ないでしょう。価値観が違うこういった人たちにも、しっかりと対応できればよいとは思っています。 

 

キャリアは年月ではありません。ステージごとにしっかりとレベルをわけていった方がよいと思います。

 ここに誰がいるとか、そういうことはどうでもよいのです。上のクラスにあがったからすごい、と思った人からダメになってしまうのです。考え方などがわかるまでクラスをあげることをやめておく方が、本人のためによいこともあります。そういうこともハッキリさせて、刺激し続けていかないといけないと思います。どのクラスもマンネリ化しがちです。 

 

表現の形態ということでいうと、ここも一つの実験だと思っています。日本の社会に対する一つのアプローチの仕方を研究所で学べると思います。

 一つのことをしっかりとやっていけば、それを材料にいろんなことに気づいていけるのです。ところが普通はだんだんと気づいていけなくなってしまいます。そういう意味では、ある時期、人を教えるということも大切だと思います。皆さんが教えあうということではなくても、ここにきていたらイメージの中でそれができる場となっているはずです。 

 

 

絶対的に信頼できる一人の人間をもつということは難しいということです。

 トレーニングの中にいると、楽しくて無我夢中でやるということになります。そのとき、どこで自分に気づくかということです。自分の状態を最高に整えて、表現に応じていくというのが大切です。どこかの時点で、そこに達するようにしていくことが必要だと思います。

 私の立場からあれこれ細かくいうのは、皆さんにとってよくないのです。皆さんが教えられたことしかできなくなります。先生がいなければ何もわからないという状況をつくり出してしまいます。誰でも叩き込んだときは二年です。その二年で見れるようになっていくかです。ただ、その二年前に何年かが必要です。 

声だけでなく自分の表現を凝縮していくための準備が必要なのです。もっと大変なのは、それを維持していくことです。

 

 可能性をつめていく間というのは、一番おもしろいと思います。たくさんいろいろなことに気づいてもまったくできないというのは、学び方としては最高に豊かなことなのです。それだけどこかに学べているわけです。難しいのは、選びとり出すことです。 

早く力をつけて、20~30人のまえでは何かできるくらいになって欲しいと思います。力がつかないのにライブをやっていても仕方がないです。

 人まえに立つのには、高いテンションとポジティブさが必要です。人のいるところへ行くという勇気をもち続けること。ガツンとやられることに感謝すること。それが嫌になったときは、それ以上の活動はできないと思います。 

 

週五日もここにきたら、ここが世の中になってしまいます。時代は動いていますから、基本が体に入ったあとはそれを世に出していく、世の中や他人の呼吸に合わせていくということが大切だと思います。 

自分で自分の学び方がわかっている人は、別にここにいてもいなくても同じなのです。 

ここをやめたとか、ここにきていないとかいうことはどうでもよくなるのです。 

しかし、大半の人はそこまでいかずに、だいたい、「まあいいや」ということになってしまうのです。それを越えるために絶対的な基準をもち、しかも高めつつ維持することは難しいものです。 

 

 

何が欠けているのかわかっているうちは大丈夫です。だから、二年いればそのくらいのところまで伸びます。そこでとんでもないことに、ここで求められている八割くらいはできたと思って出てしまう人が多いのですが、まったく関係ないことです。

 勉強しにくい世の中になっています。たとえば、若いうちに話題になれば勝ちという意味合いがとても強くなっているようです。もっと、基本のことをやって体が考えられるようになってから出していけば、勝ちなのです。それから競争相手というものも、なかなかいない時代です。ライバルがいなくても自分を高めることを楽しめればよいわけです。が、とても難しいから、ここを大切にして欲しいのです。 

 

そのためにも基準が必要です。ここでも基準を伝えるためにいろいろと与えています。しかし、わかるまでに時間がかかります。わかればわかるほど、わからないことがみえていく、深くて遠い世界です。こんなに遠いのかとわかったときに、ようやく一つ上の次元に立てるようなものです。

 自分が大変に思えるような一瞬を歌の中で出してください。相手のためということは二の次でよいと思います。自分に何もないのに、それを相手に押しつけていたら、どうしようもないでしょう。 

 

私は日本のライブにはあまり行かなくなりましたが、個人の芸を見に行くということは、よくあります。そういうものを見たとき、疲れたと思うか、勇気や生きる力を与えられるかですが、やはり後者でなくてはならないでしょう。日本では、そういうことが音声においてできる人が、他の国よりずっと少ないのでしょう。こういう人が今後は多くなってくるとよいのですが。 

 

 

数が多いとか少ないとかいうこともありますね。

 人数が多いことが正しいことではないのです。問題は質です。そこに誰が何を出しているかということです。数が多いことがダメだということではないのですが、それだけにごまかされないことです。 

本当に学びたい人が関心をもって集まり、満足してもらうとよいわけです。聞きにくる方の態度も大切になってきます。 

組織というのは、守りに入ってはいけないので、難しいです。組織が壊れていくのは、人数が急に増えるときです。そこで立て直せばそれでよいと思っていますが、少人数制で本当にそこを必要としていて、取り組める人たちを大切にしなければいけないと思います。

 

 日本全体が間違った意味での平等主義に害されているような気がします。義務は果たさず権利は拡大して求めるから、だめになります。ストレートにフェアにやってみると、落ちこぼれてしまう人もいるのがあたりまえです。そういう人のためにもしっかりと実力でわけていこうと思います。まず、自分が支えられるようになること、他人のために力をもっている人は、いるだけで他人のためになるわけです。

 合宿でやったモノトークが表現になっていたので、毎月、入ってくる人にやらせるようにしました。 

 

ここを出ていくとき、本当に惜しまれ胸を張って出ていける人は少ないものです。それは、時間のたつうちに何となく自分の中で、研究所をダメにしてしまっていることが多いからです。やってみて、ヴォーカルに向いていないことがわかればよいわけです。昔の会報を読んでみると初心に戻るという人もいます。

 ここを多く利用している人にさらに利用しやすくしていこうと思います。いらない人に対しては、こちらがいらないといっていかないと、ここをもっと必要にする人たちによくないでしょう。しかし、私が研究所の方向性を決めてしまうのはおかしなことと思います。

 

 

判断力を養って欲しいです。裏の裏というものを見るのは、時間がかかります。人にレッテルを張ってみないことです。

うまくいく人というのは、一見才能がない人なのです。才能があったら、そう簡単にうまくいかないからです。 

そして、守りに入ったらよくありません。常に挑戦を続けていくことです。 

九割もうまくいかないときは、九割、挑戦しているからです。自分の力以上のことをやれば、跳ねかえされるのは当然です。歌そのものの中でいうと、歌というのはその判断がつきにくいから、うまくいっていない人の方がよいです。そこに学ぶべきものがたくさんあるわけですから。

 本当に歌いたいときに歌うのが歌です。 

 

音楽市場においては、今よりも時代を越えてグローバルに通用していることの方が大切な気がしています。空間を越えることも大切ですが、結局、芸術というものは時代を越えて通用するものです。成功というものをどう捉えるかは難しいですが、場があることも一つの条件ですね。自分の店をもち、環境とともに客もつくった人もいます。継続してくる客をつくるのが日本の場合、難しいのですから。 

時代がずれていて取り込めないというのは、ヴォーカリストの責任もあります。人々に必要とされるものというのは、残っていくものだからです。 

 

カツ丼も、電柱一本だって、誰かが必要としたから残っているわけです。

 私は、昔は食事やグルメの世界が好きではなかったのですが、たった一食に一回しか食べられない食事というものもまたアナログであり、そこに文化があるわけです。 

そういう意味でいうと、歌の世界ではなく、人間に限りがあるということは大きなことです。 

歌を聞いている人に元気を与えていくということでは、サービスも大切です。 

不器用でもよいのです。その自分を知ることです。そこを見たくなくとも、目をそらさないことです。自分の全てを見て、自分の一番見たくない部分を見るということです。

 

 

 「いつ歌を出していくのか」

ということは、出たくなったときに出していけばよいと思います。まとめて出そうとしてもよくありません。まとまらないようにしていて、まとまってきたときに世に出れるわけです。 

歌と接していると、そういう時期が何回かくると思います。でも、なかなかその感覚をキープできないのです。そして、まえのよい感覚が戻らなくなってきたりするのです。 

 

学び方を学んでください。ここでメニューを学ぶのではなく、ここを題材に学び方を学んでいくのです。だから、得たトレーニング、得たメニューは全てその人のオリジナルです。そういうことを、ここではやりなさいといっています。いわれたときにはわかった気になっているのに、やらない人が多いのです。

 基本的なことがすべてです。自分は違うと思っていながら、同じ穴のムジナになっている人が日本に多いものです。こういう人たちの傾向は群れたがることです。一人でやっていたら力がついていかない気がして安心できないからです。しかし、本当に力がつく人というのは一人でやっているわけです。力をつけた人というのは、ここに友だちがいないでしょう。 

自分の芸がまだ完成していないし、歌もできていないということは、ここにいる他の人と同じことしかできていないのではないかと思ってください。 

 

それから、圧力ということについても述べておきます。自分自身で学ぶ環境を確保しなければよくありません。私が守ってあげるというのはおかしい、ここは材料を出して、そこで何かを気づく場だということが本当にわかっていれば、それを妨げることを許すわけはないと思います。

 やって欲しいのは、自分の力をつけてくれることだけです。 

 

 

ここは、発表する場である限りにおいて、自分の名前でやっていってください。 

ユニセフの募金のことでもそうですが、私が紹介しても、押しつけたみたいになってしまいます。皆がやっているから自分も、というふうに流されないでください。 

強制していくシステムに便乗するかしないかといううわべの問題で、他人や自分を判断しないでください。 

辞めろといわれて辞めるくらいならやる必要もないです。やる理由があるなら、それをやり続ければよいのです。誰が何のためにやったのかということでないと意味はありません。 

 

そのことが正しいと思えば戦うべきです。そこに理由やポリシーが見えないからダメなのです。

 体を使い切る感覚というのは、スポーツのように死の直前までいくようになります。それくらいの厳しさです。 

自分の学ぶ環境の維持のためには、いろいろな人に迷惑をかけているでしょう。迷惑をかけている以上、やらないわけにはいかなくなる、自分が求めてきたものをここに見つけるのではなく自分の中に見つけ、それを育てていくことです。 

人が認めようが認めまいが、ひたすらやるべき自分があると思ってください。 

 

成果はあとでついてきます。そのプロセスがおもしろいわけです。

 ためなければいけない時期というのもあるのです。ためればためるほどそのエネルギーは強くなってきます。 

歌というのには人間性が出ます。また、今まで見ないできたことが出てきます。のらないときは、今まで見なかったことがネックになっている場合が多いです。それができる時期というのは、プロでなければ、こういう場で強制されているときしかないのです。たとえば、自分に合わない課題こそ正面から受け止めて欲しいのです。タフな対応力こそが、核なのです。

 

 

 自分の好きな音楽を聞いて好きなことばかりやっていると、その好きということさえよくわからなくなりがちです。徹底的に嫌いなことをやってみたとき、そこに好きなものが見つかれば、その方がよいのです。 

オリジナルが歌になるというところで、メジャーなものが必要です。オリジナルのものというのは自分のルールのようなものです。才能があれば克服していくのに必要なのは吸収力です。

 

 心地よく聞けるということは、自分の遺伝子とかポリシーとかいう深いものが共鳴しているわけです。そういうものを音の世界でどう振動させて出すかということです。

 多くの人の評価を気にするよりも、本当によい客がいるかということです。 

三年以上いる人というのは、他人の歌にも厳しいことを書いています。入ったばかりの人というのは「すごい」と思ってしまうだけです。 

 

そのとき、あなたの歌は聞きたくないという人を友人にしなければよくありません。悪い刺激は当人を伸ばします。そういった意味で、気にくわない友だちをここでつくるのはよいことです。

 歌をやると、決めたときに何か越えるものが出せなければよくありません。そうしないと、歌という大きな世界に飲み込まれて、そこから出られなくなってしまうのです。 

 

 

存在を伝えて欲しいというのが、最終的なものです。CDでもテレビでも消費されてしまいます。でも、その人がそういうことをそこでやったということが、人の心に受けつがれるから、そのときには、圧倒的に絶対的に“個”であることが大切なのです。 

あとは、よいものを全部とりこんでから、新作にしていくということです。

 

 古典落語のようなものがおもしろいと思えれば、そこで新しくなっているわけです。もちろん、出せるのはさらに難しいのですが、そのように取り込めるようになればもっとおもしろくなると思います。 

ここのレッスンで、感覚も体も今の時代を越えたものになればよいと思います。いろいろなものが、そこから出てくればよいと思います。

 

 逃げ道をつくらないことです。歌がこれくらい歌えたらよいなどと思わないで、最高をめざすことです。 

人の心に働きかけるには、強くないと仕方がないのです。 

あとに形が磨かれてくるということはありますが、命ををかけてやっている人というのは原点が違います。 

二十一世紀にかけて、“悪しき仲間たち”ができればよいと思っています。世の中がどうなっても、ここ自体は変わらないでしょう。 

自分にとってよいことを続けていってください。

 

 

 

 

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レッスン2 音感トレーニン

 

 

 

 グレードをわけない特別レッスンというのは、そういう意味では実験の場ということで使っています。

上達する人は少しでもキャリアのある人とやりたいから、入ったばかりでも、出てきます。

通常のレッスンの中で間違いのないことをやって、こういう特別というのは、トレーナーの試みとともに、将来的に必要なことを前探りする場として、いろいろとおちてくるようなものです。

だから実際の曲をとりあげて、それを歌うことやオールディーズ、ゴスペルといった特集であったり、ファルセット、裏声、ハイトーンだけとか、無茶なレッスンも、ずい分やっています。

 

 それは通常のレッスンの中での冒険は限りがあるからです。レッスンというのは正しくやらないといけないのです。そうしたらその状態ができていない人たちに対して扱えないわけです。

特別レッスンは、グレードを越えた人たちの声をきけるチャンスです。同じ課題に対していろんな人たちがいます。そういう分だと人数が多くてもよいのです。

ただ、一つのものをしぼりこんでやる分には、少ない方がよいので、そのへんは使いわけています。

 

今の位置づけでは、きた人をみて、それで何パターンかある中で進行もみながらその場その場で変えていくということです。なるべく妥協しないようにしているのですが、全部が通用しなかったり、わからなくとも仕方がないので、わかりやすくしたために内容が薄くなっているという気もします。

しっかりとできる人が中にいたら、その人をみるだけで勉強になるから、いわゆるアーティストの場ということの一つの実践の場です。だから私があまり話さないレッスンが一番よいのです。

 

 

 オリジナルフレーズのレッスンというのはそこに1人すごいやつがいたら、私が放ったらかしにしてもできていくレッスンです。つまり、私に代わりステージの力を出してもらう機会として与えています。同じ場で、同じ空間の中でどのぐらい価値が出せるかということを問うたり、みたりすることができます。

 私自身、あらゆる場で仕事をこなし、自分の価値やその出し方に気づいてきました。

昨日も新入から④のステージ実習まで行いました。何が違うのかというと、空気が違うのです。こわいほど違う。結局、そこに出る人のプロ意識があるのか、ないのかというようなものです。

 

だから私もレッスンをやるときにいつもその空気というのは敏感に受けています。それが音の世界を導くものでなくてはいけません。とても正直なものです。そこから何かが生まれ出るような場に設定することが大切なのです。

 ところが最近いろんな人が入ってくると、気分で歌うのだとか、楽しく歌えばいいとか、のたまう。

これはもう昔から私は、基準を定めているのです。

本当の歌を歌おうとかしっかりと歌おうと思ってやり始めると、最初は、楽しくなど歌えっこないのです。 

 

 歌を歌うということは、芸術家の仕事だと思っています。芸術家というのは苦しみを自分が引き受けて、他の人たちに安らぎとか楽しみを与えるものです。自分が楽しく歌うのなら一人で歌っていればよいのです。

そのへんのことというのは、本当はこの道に入ろうとする前で片付いてくる問題ですが、今だに、研究所の中にあるようです。

 

 

 舞台というのは、日常とは、違うのです。ここも劇場だから普通の日常の生活レベルでは絶対ないわけです。

そこで出されるものというのは全部虚構です。虚構の中でリアリティを与えるのです。

だから、美しく華があり、それが人々の心に働きかけることで問われるものであって、そのことが事実であるとか、正しいとか正しくないとかということではないのです。小説とか映画の世界は、それを刑法や倫理で裁かれていたら成り立たないです。

 

 何で全部ドキュメンタリーにしないかというと、事実より伝わる真実を求めるためです。いいたいテーマに対してそのことを組み立てるのが役者です。あの人は豪邸に住んでいて、こんな生活をしているというのは、そこでの価値とはまったく関係ないです。その中でその人物が出ればよいわけです。そうでなければ男が、女を演じたり、女の歌を歌ってみたりしても気色悪いだけです。

 

 そんなことが何でわからないのか、いろいろと問題になるのか、というのは多分、テレビのせいだとも思うのです。テレビという虚構のメディアが出てきて、混乱しているのでしょう。

そういう質問をもらったので返答しようと思います。

テレビというのは、カメラが入った時点で、違う場になるわけです。たとえば、ここにテレビカメラが入った瞬間にここは劇場になってしまうのです。ここは取材も見学者も許していないというのは、それで外部のものが入ると、共同作業の場となります。ここは生活であり舞台の場で生活の場なのです。嘘は許されません。

 

 

 たとえ、アマチュアの人が多くいても、今のマスコミや音楽業界みたいな中途半端なプロ、精神もポリシーもなく、形だけでやっている人との共同作業などやれないのです。ステージ実習、ライブ実習というのは、まさにそういう現実の場で、それは映画の中の世界とは違うのです。それはその中の制作者なりスタッフのみぞ知る真実であって、その画面の向こうに送られたところでは、そこでの事実とか生活とかそんなものは一切関係ないわけです。

 だから、番組で作意があったといっても、テレビでとるということ自体がそういうものなのです。意図もをたないで流していたら視聴者が混乱する。こういう場でとって流した。皆さんの表現を誰かが切りとる。そこのところで「退屈そうにしていた」と誰かがコメントすると、そうみえ、「熱気にあふれてやっていた」というとそうみえます。それだけ操作性の高いものだから、そういうところに真実と考えても仕方ないのです。 

 

多分マスコミが悪いと思うのです。スターはスターでスターの役割をやっていればよい。それを身近に引き下げ、同じ人間などというようなことは最初からわかっているわけです。人間ではないやつがやっているわけではないのです。ただ、そこで出されたものは、人間を超えるものをやっているから通用するわけです。 

それを何か自分も一緒になりたいみたいな感じで同じレベルにひきずりおとす。自分が努力することをしないで、そういうふうな言動をとるのは、まさに日本人的です。何を暴露してもその人のやったことの価値とまったく違うわけです。 

ここは音声で表現する場だといっています。そうしたらここで学ぶことは、音声で表現することを学んでいく。

ここの価値は、音声の中でみていく。ところがその音声の中で生活しアートしないままに終わってしまう人がほとんどなのは残念です。

 

 今回のテーマは呼吸です。呼吸というのは空気の流れみたいなものです。それから音感というのは耳での聞き方ということよりも音の流れを感じ、つくり出す能力です。それを声でやってみます。 

みんな音楽に一つの正解があると思っている、いや、一つの正解しかないと思っている。間違いはあるけど、正解もたくさんあるからおもしろいのです。 

 

 

(ドミソ)というと(ドミソ)しかないのだと思っている。その(ドミソ)の中にいろんなものがある。いろんなものが(ドミソ)になっているということがわからないわけです。それは音が正解にとれてずらせるのです。前に美輪明宏さんがテレビで、(ド)と(ミ)とここに「かなしい」というときに(ド)と(ミ)で正しくとっていてはだめで、(ミ)のところにフラットがかかるといっていました。そうしたら楽譜から変わるわけです。楽譜などにその音は書けない正解ということでいうと、ポップスの場合は伝わる方が正解なのです。

 

 半音狂っても本当にその人が伝えられていたら、どうでもよいのです。結局、声量も声域というのも、歌には関係ないとわかると思います。その人の、のどの状態くらいでその人が出せる世界が左右されるものではないこともわかるはずです。それがわかって、それを超えたものを出すために、そういう基本もマスターしておくのです。 

要はその人が音の中に住んでいて、その音のことをしっかりと取り出せるかというだけの世界です。その世界に住んでいる人にとって、あたりまえのことが、そうではない世界の人にとってみたらそこへの橋わたしをしないといけないのです。

 

 私の呼吸は、歌や音楽の世界に住んでいる人間の呼吸ですから、歌ってみせなくとも、そこにいる人にはわかるのです。体の問題も今の音楽の世界もまさに基本的には感覚です。みたものに対して音をつけているということをずっとやっているわけです。

原始の状態に戻ったらそこに、這いつくばって、夜になると何から情報を得て動くかというと音で動くわけです。敵がきた、あるいはおいしいものがあるというのも、においや音で動いているわけです。それがどんどん目の世界に頼るようになって、音の世界がきれているから、それをもう一回入れないといけません。

 やりはじめる前にそういうものが入っているべきなのです。

 

 

後半のものというのは、私が10代の頃に入っていた曲です。

そういうものを聞いていたということは、音の世界が少しわかっていたのかとも思います。

 それはどちらがよいとか悪いとかということではなくて、自分の体を使っていくときに、特に今の音楽は向こうのものですから、こういうものが繰り出していく世界の中の価値をどう感じるかということでしょう。小さい頃から徹底して聞いているものの上に成り立つものだから、それを後から入れようとすると、相当そういうことがどっぷりと入った世界に入っていかなければいけません。いつもドアを開けてその中に入る、ドアを開けて入る。そのうちそこにおりているという形にならないとなかなか難しいと思います。

 

 私が自分のことについてよりも他のものを判断する耳が本当についたのは、ヨーロッパをまわったからです。西欧ではなく東欧で民主化されるときにまわっていたときにロックというのが入っていて、そこで無名のすぐれたアーティストとの出逢いからです。すでに民主化されるなというのはわかっていました。革命が起きたあとにも、もう一回見にいっていましたが、そういうことでいうと10年前から活躍している人はあまり変わらない。そういう人は根っこがあって、音の世界にいて、いろいろな試みがあるのです。全部が音をつけて同じようにパターンに入れていくのが音楽とは思いません。

 

 ヴォーカリストをやりたい初心者であったら、ヴォーカリストの教本や映像でわからないことを楽器の教本や映像をみれば、音の世界に入りやすくなるはずです。ベースであれギターであれ、音を総合させて自分の音を聞いているわけです。ヴォーカリストも本来そうであるし、バンドのヴォーカリストなら尚さらそういうのものです。その中でリズムも音の感覚も出すのです。 

確かにそれをリードする楽器はあります。ギターやピアノがリードをとるだからといってベースの一つの音がはずれたり、遅く出したものを気づかないわけがないでしょう。絶対そこで違和感をもつ。そういう中でやれないといけません。

 

 

 日本のヴォーカリストというのは、そこに住んでいないからとても違和感があります。まわりでプロデューサーが全部音づくりをしておいて、ヴォーカリストがそこにはまるという形では、セッションが成り立たないわけです。そこからはみ出るのがヴォーカリストでしょう。

 そういうことでいうとコードそのものを捉えても仕方ないです。そこで何で音がそういうふうになっているかとかということを感じて勉強するのです。本当の音楽から聞いていけばよいのです。目にみえない世界があるということを知って、それを目でみえないけれど音で伝えるということをやらないといけないのです。それを目にみせて、これが私の歌だというのはよくないでしょう。 

照明や音響が効果としてあらわれるのはよいのですが、「赤とんぼ」を歌っていたら後ろに照明で山があってぐらいならよいのですが、実際の赤とんぼをとばしていたら、これは舞台でも何でもないわけです。そういうことがあまりにわからない人が多すぎます。

 

 何でも伝わればよいのなら、現実の生活をしていればよいでしょう。舞台はそれを昇華して象徴化しないといけないわけです。音はその中に入れるがために、その抽象度が高いがために一般化されるわけです。

「私のことを聞いてくれよ、私がどこで生まれ、どこで生活して、それでこんなことがあって今日はこんなに悲しいのだ」ということを具体的にいえばいうほど、隣の友人は理解しても世界の向こうにいる人は理解してくれません。ところが音で抽象化されます。小説で映画ではテーマをもって統一される。そうしたらそのことが普遍的なテーマになって伝わるのです。中国の人はこういう映画をつくったがこれは私たちはこう捉えると、置き換えをするわけです。人間という普遍的なテーマを取り出すために映像や小説は具体化する、音は抽象化するのです。 

 

むこうの音楽の方が日本よりもある意味ではすぐれているのは、そこに作意を加えないということです。日本はわかりやすくしよう、理解をしやすくしようというから、そこに殺陣廻ししてみたり着物をいちいち着替えてみたりします。それはお客さんへのサービス精神です。だからだめということではないです。歌舞伎などでも見せは大切です。しかし、それは見る世界です。

 

 

 ここの舞台でも自分の衣服もコンセプトとして統一してもらう方が確かによいでしょう。ただ、本当の歌い手であればジーパンであれ、あるいはシャツ1枚であれ、その中でその音の世界で巻き込めるはずです。これはどっちが正解ということではないです。それはその人によって正解が違うということです。そういうことを何もないよりは試みた方がよいし、努力した方がよいが、ここの価値観というよりも世界でいうヴォーカリストとか、あるいは、ミュージシャンといわれる人は、音でつくり出した世界で評価されるのであって、その他のものはあくまでその効果を高めたり、おとしめないためのポリシーやサービスとしてあるものです。だからここでは、そこへの配点はとても少ないのです。そういうことが全部できた上に、さらにお客さんにサービスするために考えることでしょう。 

 

だから濃いファン相手に自分勝手なステージをやって、自分勝手にぽっと帰っていく人も字幕スーパーで歌詞の内容までしっかりと伝えるサービスをする人もいます。それはその人たちのスタンスの違いとともに客層の違いです。

 今、日本でベコーを聞こうという人は、ベコーのことがわかっている人しか行かない。ミルバは知り合いに連れられてとか一般の人もくる。それに対してサービスの形が違ってくるのは、あたりまえです。

音で聞きたい人は目をつぶっていたらよいわけです。字幕は別にみなくてもよいでしょう。それでどっちのステージの方が力が入っているとか判断することも間違いです。それぞれのスタンスがあってそれぞれのお客さんの対し方がある。同じ客がいてもわかるやつにわかればよいというのも一つのスタンスです。全員にわかってほしいというのも一つのスタンスです。

 

 日本人みたいに声のもつ音や歌の力がないから照明やいろんな演出をステージに借りるということのは、これも立つ以上は仕方ないのです。力がないのだからカバーしてやるのが、正しいのです。ただ、基本の力をつけるところいうのは、そうであってはいけないのです。そこを間違えないで欲しいのです。

 ここで完全なステージをめざすのであれば、やる前の体制も違います。正しく間違いなく歌えるように、お客さんに対して失礼のないように教えます。ステージ実習、ライブ実習に出ろというのは、そこでの格闘をまず自分の中でやる時間が必要だし、人に決められてはいけないからです。自分で考えるという時間が必要なのです。

 

 

 自分がなければプロデューサーのいうとおりにやるしかないし、プロデューサーもそうやるしかないのです。それはプロデューサーが悪いのではなくて、プロデューサーが価値を出そうと思ったら、プロデューサーのところにあるプロとして使えるものでやらないといけないからです。素材自体に価値がないとそうなります。演出と音響でカバーしてもらうわけです。

 アーティストにもよくいうのですが、最初からプロデューサーが客を用意するからだめなので、自分自身で500席用意する。50席でもよいから絶対にくる人を50人でも用意すれば、それだけ発言権が増えるわけです。それを5万人用意するというのは、個人ではある意味では無理な世界です。メディアも変わります。

 

 伝えるキャパシティというのがあるのです。100人が200人になったときに200のうちに本当の客は何割かは欠けて300人になったときに、また欠けていくということで、そこからは増えなくなってくるのです。こういうところも空間というのがあり、それを工夫しないと増えません。そうしないといけない場合もありますが、逆にいうとその人数でしかできないこともあるのです。歌の世界はこのぐらいの人数、基本的にいうとマイクがあるなしに関わらずベースとしてはそんなものでしょう。1000人からスタートということとは違うはずです。

 

 目のみえない世界なだけに、それを自分の感覚の中でとりいれないといけません。具体的にいうと耳ですが、耳というよりはそこでならされているところのものです。そうすると楽器の世界にひたっていた人とか、小さいときにピアノをやったとか、その頃は何にもわからなくとも、そこから何かを聞いたときに心を動かされたということの経験の積み重ねというのは、大きなキャリアになります。

 

 

 ピアニストになれないというのはピアノの技術がないのではなく、その経験がないのです。音を一つにつかむ。それで心を動かされるとか、感動するというのは誰でもあるわけです。そこのことを常に考えておかないといけません。思い入れをする、心をこめるのもよい。そういったものというのは、ある種の精神性です。スターが演じているものを現実にひきおろして、大衆化させていくというのは、それはここをカラオケの場にしてしまうのと同じなのです。 

それは人と人とか仲よくなるとかいうことではないわけです。そのへんが、どんどん狂ってきているのではないかという気がします。その人が出したもの、あるいは音の世界で判断していくべきだと思います。

 

 説得力のある楽器を使おうと思ったら、それだけ強さが必要です。楽器に負けるということがいわれます。より大きな声というよりはしっかりした体を使いこなさないといけない。それは肉体的な強さだけではなく、精神的な強さとか感覚、精神力そのものが問われます。

 そういう人は入ってくるだけで場が変わるのです。ただいるだけで変わらないのは、普通の人たちです。その人たちでもこれから10分後に自分の演奏をやろうというときには完全に変わり、別人になっていないとそこに出ていけないのです。そのような形で自分の体という楽器を考えないといけません。だから発声でもトレーニングの前提以前の問題ということがいわれるのです。

 

 トレーニングの前提というのは何かの物事を習う前提です。ある場所にいったらプロになる人は、その差というのはわかっているわけです。発声というと発声のことをやろうと思うのです。呼吸法でやろうとすると呼吸のことをやろうとするわけです。だからそのレベルでは、それは出すだけ出せばよいわけです。

 そこにしっかりとした答えがないうちは、トレーナーもあまり答えない方がいいのも、そこで答えてしまうとそこの次元で終わってしまうからです。それでは何の解決にもなりません。

表で不安を消すより、問題を奥深いところで自分で発見しなくてはいけません。何であれ彼らの世界ができているのは、呼吸と音だけです。そこのところに音程が入ってきたり、呼吸法が入ってきたり、発声法が入ってくるというのではないのです。練習のプロセスにもないのが理想と思います。

 

 

 それをやらないといけないというのは、あくまで早く効果をあげるためにやるということなのです。やることによって効果がまったく上がらなくなってきたり、やらなくても済むのならやらなくてもがよいわけです。声を出そうと思ってもだめなのです。どういう音を出すかと考えます。のどなんてしまっていきますから、出そう出そうと思ったら出ないのです。そうしたら今の自分ならどういう音だったら出るのかと考えたら、全部、出ないということはないでしょう。それがここのトレーニングの考え方なのです。

 だから別に音域もとらないし、音程とかリズムがくずれてもいいという中でも、自分がその音色に対して気づいていかないといけません。皆さんは、難しく考えすぎてしまうのです。出ない音を出そうと思ってもそれは出ないから出そうと思うわけです。出る音なら普通に話しているときでも、その音を出そうなんて思わないでしょう。そうしたら逆に考えればよいわけです。

 

 「どういう音なら今の私で出るのだろうか。」その中でできるだけのことをやってみたら、どこまで歌はできるのだろうかと考えます。それで足らない部分は時間を待たないと仕方がないのです。 

すぐれたミュージシャンというのは、建築家と同じくらい計画性と緻密なる構成力をもっています。こういう演奏でもクイーンでもツェッペリンでも思いっきり声を出していたら伝わるというのではないのです。最初から繊細な感覚や優しい感覚というものではないわけです。とても論理的でかつパワフル構成力です。

 

 これは特に東欧をまわっていたときに、若者のバンドがそういうもどきでやるわけです。そこでうけているバンドというのはとてもシャープな構成をもつのです。それで質と品がよいのです。声が高いとか低いとかそんなことではないわけです。音楽的になっている、楽器として声を使っている。それを聞いている人たちは理解しているから、ものすごい拍手がくるのです。彼らは小さいときからロックを聞いたりしているわけでもないのに、それでもすぐにそういう世界に入っていけるのは、ロックだからということでしょう。本当にいいたいことをロックにしているのです。

 

 

 音の世界をしっかりとつくっていくとともに、それがお客さんのイメージの中で受けとめられているという感覚はとても大切です。一体になるということです。コンサートでも、ばらばらで終わるコンサートと一体になっているコンサートがあります。よいステージより、そこで一糸乱せないような統制力があります。そこでやるからみんな自分自身になっていくし、自分で思いがけないことが出てきます。もちろんプレッシャーで失敗してしまうこともあるわけです。そういうのが力をつけていく場なのです。

 

 本当は入ったばかりの人たちにステージもみてもらう方がよいのですが、それをみてもらうのにお客さんへのサービスが必要になってしまい、わがままなステージができないので、今まであまりやらないできたということです。それができるのがこの特別の場だと思います。クラシックあたりになると、お客さんはせき払い一つしてもまわりが嫌だと思うような沈黙の中で行われているから音を聞くことでは豊かなものです。ポップスの場合は、そこがごまかされているので育つのが難しい。だからこそ自分の存在そのものを問えばよいと思うのです。

 

 指揮者というのは呼吸を一つにするわけです。オーケストラのメンバーはみんなプロだから別に指揮者がいなくても合わせてできるのです。でもそれを体の中で表現してみて一つにするためにやっているのは呼吸です。全員がプロだから全員は失敗しないわけです。それを一人の人間がやっているように、同時に客も一つにするのが、指揮者です。 

だから指揮は音を体でみんなのみえる形にします。音を形として思いを伝達しないといけないからです。

 たとえばヴァイオリンでなくとも、木の本来の音をこんこんと叩いたら感動する人もいるわけです。

 

 

エレキギターシンセサイザーを考えてみたらアコースティックならよいわけではないのはいうまでもありません。あくまで楽器というツールはそれをどう使いこなすかということです。ツールそのものによって音楽の価値が決まるのではないのです。それは同じピアノであればよいピアノの方がよいかもしれないけれど、そんなもので左右されません。楽器は文明ですが文化は人なのです。

 しぜんそのものの音がよいというなら、デジタルの音楽の世界は成り立たなくなります。だからカラオケもデジタルの分野の一つでしょうが、そこからも本当にすぐれているような歌が出ることもあるでしょう。 

それからみるとピアノというのは意図的な楽器です。完全に人工的な平均律でできています。聞くに耐えない音のルールが、要は移調や演奏の多様性を出すために定着して、それで人間が慣れて聞くようになった。シンセサイザーはいろんな音が出せるのに、ピアノを基準にして出さざるを得ないという限定になっていくのです。世界中が平均律の中で統一されてしまったのです。

 

それだけ強い一つのルールですから、声もそれからはずれてしまうと音がはずれたととってしまうのですが、それはおかしな話です。そうではない音楽はたくさんあるわけです。ところが我々はそれに馴らされてしまうのです。すぐれた演奏家というのは、それに馴らされていないということでやっています。だから音の世界はそういう意味でいうととても複雑です。その中で平均律などといわれたものではない自分の法則をつくらないといけないのです。どんな音でもよいということではない。また、どんな音のつなぎでもよいということでもないわけです。

 

 本当に音感の高いレベルのレッスンをやろうとしていたら、そういうことになると思います。クラシックピアノをやっている人たちには、残響一つによって演奏の仕方も違ってきます。バンドとかもチューニングが違ってきます。クラシック歌手は、ホールの残響音があるかないかによって、発音とひびきとどちらを重視するかさえ違うといいます。残響音が多すぎるところは少し発音をきざむとか、リズムを強く出すとか変えるのです。

 これは皆さんも経験していくでしょう。歌もピアニストが変わるとまったく変わるのです。ピアノのうまい人は効果的にいろいろなちゃちゃを入れ流暢に弾くのです。演奏を出されると、歌い手が聞くのはベース音かリズムです。馴れないうちはリズムで聞いていますから、リズムで刻んでもらうとやりやすいわけです。いろんなピアニストつけていますが、馴れていくとよいトレーニングだと思うのです。その上で相性の合う伴奏者とやっていくのがよいと思います。

 

 

 声楽家でもピアニストの指定というのはうるさいです。自分をひきだせる相手というのは、誰に対しても正解があるわけではないのです。一番うまくピアニストと組めばよいというものでもないです。相性の中で生まれてくるものです。

 本当に音感を磨くのなら昔からヴァイオリンがよいといわれています。自分で調律できる方がよいのでしょう。音があたっているとかあたっていないという勉強をするよりは、音の世界で勉強していった方がよいような気がします。最終的には伝えたいものが何かということです。それを音に昇華するということを常に考えないといけません。

 

 ヴォーカリストがヒットさせてきた曲というのは、少なくとも欧米のヴォーカリストであれば、曲がよかったという前にヴォーカリストの歌い方で認められてきているわけです。違う人が歌ってみたらまったく違うようになり、もっとよい味が出る場合もあります。 日本の歌も向こうの人たちが歌っています。レイ・チャールズとかのレベルになってきたらすごいものです。楽譜に書かれているものを音の世界にもっていけるという人たちです。

 これは音の感覚というものをもって、それが人に対してどう動かせるのかということです。流れでフレーズを大きくつくっていくとよい。これは共鳴していく音楽の流れです。これが流れてしまったらよくないです。

 

 これをしっかりとやっている人というのは、この後ろに音の感覚の大きさをもっているわけです。その音の感覚の大きさのところで体が動いているわけです。だからことばのところで動くような単純なものではないわけです。自分で歌い終わっても、それから後に体がおりてくるときもあるわけです。それは音の世界の方で捉えているからです。

それをもっとコントロールしようと思ったらその支えが必要です。これが体とか息とかで息の支えも、声の芯というのもそこの分を一つの線でしっかりと握っているわけです。だからことばをはっきりといえるのです。一つでいえるということと、音楽性というのは違うのですが、音のなかではこれが動き出してくる。それまで待たないといけません。その2つの線の中のギリギリのところで音色というのは出てくるわけです。本当はこれを問わないといけないです。

 

 

 同じ音の中でいろんな音色がある。音楽の場合一音でとるのは無理ですから、それを2音あるいは一つのフレーズの中で、それを伝えるために最適の音色をチョイスして出していくというようなことを学んでいくのです。楽器そのものが人によって違いますから、それの入れ替えをしないといけないのです。

 だからヴォイオリンとかも楽器によってまったく違ってくるということはいえるにしてもプロが弾くものはすべて違うヴァイオリンになって、それはすごい音を出します。それも相性みたいなものになってきます。

 歌い手の場合は体との相性になってきます。自分の気質とか体とどこかで折り合いつけていかないと、いけません。

 

声楽でも高く出る人がテノールで次がバリトンで低く出る人がバスみたいに考えられていますが、そうではなくてテノールテノールの求められる音質があるのです。バリトンに求められる音色の人はバリトンです。決めるのは音色なのです。

ただテノールの音色で高いところは出ないとなったら、やっていけないわけです。音色による役割で役をみていったらわかります。主役のテノールはどこでも同じだと思います。

 

日本人の場合は高く出すこと自体が大変なので、どうしてもあなたは声が高いからテノールで、低いからバスにしなさいと、そんな決め方です。ただ、高く出るということは高いところに対して質がよいからテノールが多くなるということです。他の人よりも低く出るということは、やはり低く出るところでより迫力のある声が多いからバスと、どうしてもそうなるのです。本当は音域によって決めるということではないのです。テノールとしてふさわしい声をめざすわけです。そのへんは、日本のポップスと似ています。

 

 

 最初は、音を大きくして聞くのは人間には聞こえない音も入っていてそれも含めての音、つまり振動の世界だからです。観客が聞いていて感動するのは聞こえない世界も入っているわけです。 

バイブレーションが大切です。ドラムなんていうのはまさに聞こえない音が下からずんとくるわけです。それは耳で聞いているというよりも肌で体感している。これはヴォーカリストが出す声のときも同じだと思います。

 エレキなどは自分のところで聞いているというよりは、スピーカーのところから発します。だからモニターの置き方も大切です。ヴォーカリストもバンドでやるときはそうなります。

 

マイクを通してしまうと自分の生の声と別の感覚でスピーカーから出ます。外に出る音とモニターとそれから自分の声の感覚の3つが調和を保っていないと難しいのです。それは自分の体で覚えておくということです。マイクがどうであれ自分の体が正常に働いているのならそれは狂っていないわけです。そうでないとモニターの音が小さかったりすると、大きく出そうとして失敗します。こういうのはバンドでの難しいところです。

 客の方に聞こえているものと違うのです。リハのときガラガラですごく聞こえると思っても観客が入ると音が吸収されます。感覚が違ってしまうわけです。ここでも個人レッスンのときのスタジオと人がいっぱいいるときとは違ってきます。ただ、肉体でも聞こえるところですから、自分の耳をもつということができます。これが一番大切です。

 

 それから目とか頭であまり判断しないことです。音の世界でやっていくことです。だからことばを超えないといけないのです。ことばで説明するのは限度があるから、こうして話しているよりは音楽をかけていた方がよいのです。その音楽をどこでつかんでどこではなすかは、最初は誰かが翻訳しないとわかりにくいところがあります。わかっている音楽は自分で聞いていると思うのです。 

こういう発声もコンピューターで伝達はできるようになっています。特に補聴器の開発事業などから、しっかりとしたものがつくられ、音もビジュアル化できるわけです。ただ、音楽そのものの効果は1/fのゆらぎなどでは計れない。そよかぜなどを心地よく感じる感覚と、オーケストラの曲とヒットラーの演説と一致するが、ロックは一致しないから体に悪いというわけでしょう。ロックというのは興奮時の心臓のリズムにあわせています。ジェットコースターの感覚です。

 

 

 あと右脳と左脳というのも日本人の脳と西洋人の脳の違いというのを研究している人がいますが、日本ではあまり認められていないようで残念です。音楽も東洋や日本のことをもっと考えないといけないと思います。ピアノとか五線譜が出てきて、日本人の音楽教育が今だに向こうからきているところから間違っていると思うのです。それを小さいときから聞いてきたらそうなります。音の世界でいうとアジアとかアフリカもものすごく豊かです。日本はちょっと困りものです。

 

 音の世界はどういうふうにビジュアル化したり、頭の中で捉えるのかというとスポーツと同じでしょう。感覚というものとしては体におとすしかないのです。楽譜も脳裏に焼き付けるとか、ビジュアル化するという人が多いです。演奏家は楽譜をみているようでいて本当はみていないわけです。 楽譜の中にいろんな世界があって、覚えるときに楽譜にいろんなものを書き込むわけです。そういうものが体の中、頭の中に入っているのです。ヴォーカリストもあります。私も昔、書き込んだ楽譜をみるとそのことを思い出します。記憶だけだと無理です。本当は感覚が一番よいのですが、感覚で入れておくと、ヴォーカリストの場合、体も変わるので感覚が変わってしまうのです。だから、ずっと学びつづけることに一番厳しいのかもしれません。

 

 デビューのころの方がよい演奏とか気持ちの盛り上がりとかがあります。それを何かで受けとめられたら大きなヒントになります。

 ライブと録音とどちらを主眼にやっていくかということも、ライブというのはここでやっているのと同じで、時間で瞬間に消えていくものです。そのときの演奏スタイルとレコーディング、録音していくのは違うし、日本では耳とかはライブにいらなくなってしまったのです。これはプロデューサーとかディレクターの音の調整の力量に負うようになってきたからです。本当はライブの方が即戦力であって、録音というのはプロデューサーが本当によい耳をもっていたらできます。本人ができなければそこで録るのではなく、練習を3ヶ月、半年やらせないと本当はだめなのです。昨日はだめだったけれど今日はできたなんてことが行われるのはおかしなことなのです。

 

 

 ライブで勉強になることは、やはり一音一音の世界とか歌そのものの世界ではなくフレーズの感覚なのです。一音一音細かく切りとっても仕方がなくて、その動きそのものを感じるのです。天性のヴォーカリストはお客さんとかお客さんの呼吸をよんでいくのでしょう。ステージ実習とかライブ実習のお客は動きません。お客に合わせると自分も動きをとめるしかないから勝手にやって、そのエネルギーでつかめさせていくのです。

 どちらがよいかはともかく、だからといって何でも、のりやすい人たちばかりここで連れてきて肩ゆすったり、みんなが踊っていたら歌いやすいかというと、それはもっと歌いにくいでしょうし。皆さんの選曲にも絶対のれないようなものや、個人志向的なものがあってもよいのです。

 

 そのへんはいろんなやり方があると思います。ビブラートをさせ、耳には聞こえないくらいに空気が振動させて地の声のように声の厚みをつくった上に声を出させるのはそういう効用があります。他の声を聞いているわけではなくて、体で振動としてそう捉えているのです。そうしたら自分の細胞がそんな感覚に対して動きやすくなる。声を出そうなど考えず、それが心にしっかりとおちていればよいのです。そのときに適量の声がのどにひっかかったりしないで、気づいてみたら高い方も出ているし、声量も出ている。これが本当は一番よい勉強というのか、唯一の取得の仕方だと思うのです。

 

 高い音をめざそうとか、それを大きく出そうと思った時点で体が裏切ります。なるべくそういう感覚を出していく。本当に素振りを何回もやって、スポーツでくたくたのところになっていたら、それは形としては一番力が入れるべきところへ入るようになっていく。要はバランスです。バランスだけが働くところよって動くのが一番理想的な素振りやフォームになる。外目でみていたら、くたくたのようでも、そこから統一した感覚にしていくということです。その人の意志がノウハウを超えるときにつかめるのです。

 

 

 最初はレッスンとかここにくること自体が緊張します。家ではもっとリラックスできることも体が動かなくなってしまう場合もあります。よく誤解されるのは体は確かに高いところとか大きな音を出すときに使います。しかしたとえばピアノで大きな音を出すというのは、強い力で弾くのではなく速さなのです。大きく力を入れれば入れるほど、つまった音になってしまってひびかなくなってしまうのです。ぎりぎりの兼ね合いというのがあって、大きな声を出すほど全部力を抜かないといけないのです。このことが最初は至難の技です。特に節々の脱力です。だから呼吸法の感覚も、勉強になるのかもしれないと思います。体一つ呼吸でコントロールするというのもとても難しいのです。そういうのは剣道など一ケ所に全部精神と呼吸を集めるようなことをやっていくとよいと思います。

 

 パヴァロッティなどは超能力者というか、気功師いうか、気をしっかりと使っていると思います。ドミンゴとかカレーラスとかは人間味があって、超人的な努力が伝わります。パヴァロッティなどをみると、努力していたというよりも天才的にこれた人でしょう。

 音の中に何か感じる力というのは必要です。その中に何か崇高さを感じる。私はロックを向こうで聞いて、ロックヴォーカリストがどんな生活しているとかといったことと関係なく出てきている音に対して、向こうの音というのはとても崇高だと感じました。敬虔だな、宗教ではないかなというぐらい、オーケストラと同じぐらいにです。ロックに関してそういうのを感じたのが最初です。それからいうと日本のは何て外国人らしいというか、日常らしいのだろうというような感じで残らないのです。違う意味では残ってくると思いますが、それは同じ時代を生きたということでの、リバイバルしてヒットしていることでも感じます。

 

 別に今の音楽が悪いとかではなくて、団塊の世代がたくさん退屈していて聞くものがなくなったから、プロデューサーもそういう世代だからどんどん出てきているだけです。昔がすぐれているということではないと思います。本当に音としての力で残ってきているものではない。ただ、たまたま同じところで生まれて、同じ時代に生まれて同じ体験をして、そのことによってその作品を聞いたりすると心というのは動きます。それを超えられないと芸術にはならないといっても歌を歌うことを芸術にすることは考えなくてもよいのです。

 

 

 残ってきたもので、今聞いてもまったく古くないとしたら、そういうところがあると思います。時代性もつかない。ヒットするものというのは、たとえば私の本にも「いとしのエリー」とかが載っていて、ああいう曲というのは古くならないだろうといわれていたのに、今は少し古くなってきました。だからといって別に再録できるのがないのです。この曲ははやっているから載せると、その年代が特定されてしまい、その本は古い本だといわれて売れなくなってしまう。そういう意味ではスタンダードがとれないのです。日本人は新しがりやだからでしょう。 

 

外国人のすぐれているところというのは、よい曲はスタンダードにしていく。いろいろなすぐれた人たちが、昔のものをよりすぐれたように歌っていくことで基準を守っています。日本では、しっかりと歌えていた人も、今は歌えない人が歌っているだけのリバイバルなのです。それではまったく、新しいものは出てこないのです。

 結局、音も呼吸もあわせてみたら命に結びついてくるものだと思います。そういったものを音楽で表現する人がミュージシャンといっています。だからその立点をみつめればよいと思うのです。いろんなものをみても、自分の中をみるしかないし、自分の中をみるためにいろんなものを取り入れて、観客がどうであれ、ばかにされようが、無視されようが、ここで自分のものを思いっきり取り出し、そこに価値をみつけていく。

 

 本当のオリジナリティというのはわかりにくいものです。「君はオリジナリティあるよ、すごいよ」なんていわれたら、それはオリジナリティでも何でもないのです。外見です。みつけた人がすごい人なら別です。そうでなければ別に大したことではありません。問題なのはそのオリジナリティで、自分の表現で、それを形としてしまうことです。

 

 

 特に音楽の場合は音に出すのにとても難しいです。今の作曲家とか作詞家と同じぐらいの違った意味での才能が問われると思います。陶芸家とかの世界と同じです。自分でつくったものを気にいらないかわこわす、そんなによいのに何でよくないですかとまわりは思っている。その高い基準をどこかの場でもっていないといけないと思うのです。それは信念みたいなものです。

 

 それがどこで形をとるかというのもずっとプロセスです。レコードを出すというのは、そのプロセスを切りとっていくわけです。それが作品になったり、完成品だったらそこで終わりです。自分が先を歩んでいないとよくないです。だからある時期、無我夢中になりますから、歌はどんどんへたになります。無我夢中でやっていけばやっていくほど、描くほどへたになる時期というのはあります。それは習作の時期です。そんなものを出すのは恥ずかしいというような人は、気をつけないといけません。

 

 ここのものは記録はしていますが、著作権は出した人にあります。

自分の舞台は、ダビングして渡します。

同期の人も大したことないと思ってしまったら大したことないわけです。誰かがたいしたこと、本当は自分だったら一番よいのですが、その中でたいしたことのないようなことからどう出るかを強く思っていかないと、自分たちで自分たちの場をだめにしてしまいます。

 

 

 そういうことに関しては、一人ひとり尊重して扱っていかないといけないと思います。日本のヴォーカリストは私からいわせたらタレントです。タレント的な要素が多目に必要です。ミュージシャンというようなことでいうのであれば、感性を音にするということをやらないとよくないです。 

クラッシックもコンクールに受かればよいとかいったことが目的になっているわけです。それはおかしな話です。本来そんなのはプロセスとしてあればよいし、賞が受けられていたらそれはそれだけです。ただ、日本の場合はどうしても内輪で認められないといけないし、内輪の人が認めるのは、新しい表現よりは、その人の経歴です。

 

 大切なことというのは、上があるとかそこに登るとか思わないで、自分は自分なのだということです。他人が上にいるというのがおかしなことなのです。自分で目の前のことをそれだけをしっかりと磨いていけばよいわけです。あらゆる状況は自分でひきうけていくことです。それを飛び越えようとか、そうではないところで勝負しようと思うから何も出てこない。芸人というのは芸を磨くのが専業ですから。職人が職を磨くのと同じです。

 

それとタレントさんみたいに大衆の娯楽というか、みんなを笑わせてなんぼというようなことは違います。だから吉本みたいなやり方もあってもよいと思います。どんなことをやっても笑わせたら勝ちだ、どんなことをやっても視聴率とれない勝ちだ。そんな考えもあってよいでしょう。しかし、だからこそそうではないところに入っていかないと、感性が音になるということは曇らされてしまいます。

 

 

 一番困るのが頭がでかくなって体を忘れてしまうことです。どんどんと分析力だけが大きくなっていくのです。 ヴォイオリストとかピアニストでも、メカニックに訓練されたような体をもっている人たちもいます。スポーツというのはまさにそういうことをやっていた方が結果が出る世界です。あとの世界というのはそれがともなっていないといけないというものであって、それはあくまでツールなり手段です。呼吸法というのもその人の世界観だと思うのです。

 

 スポーツは間違っていても量をやっていて矯正されていく。音楽とかの世界は自分の感覚でそれを矯正し判断していかないと、正しくならないから難しいのです。まず、みえないということ。ビジュアルでみるとプロの人たちと違うと思うところが出るのですが、音の世界とか自分のつくっていく世界というのはこうやろうといったら、みえなくなります。自分がやりたければ、いきつくところまでやればよいわけです。そのことよりも次の年によりよいものを出すようにしていくことです。そのときに客観的にみる目というのが必要になってきます。何でまわりが理解してくれないのだろうと思っても出ないことには仕方ないのです。

 

 よくよく聞いてみたらレベルが低いことが少なくありません。音の世界は慣性がありますから、それしかないと思って聞いていたら自分の方のレベルがおちて、自分の作品がすごいと思う。一曲聞いてみたらだめだけど、この1フレーズぐらいなら世界で通用するのではないかとか、いろいろ思い上がってくるのです。1ヶ月ぐらいあけて聞く分にはこんなにへただったのかと思うはずです。10回ぐらい聞いてくると、そのへんのレベルかと思って、100回聞いてみると何かすごいと思ってくるのです。その中に入ってしまうわけです。そのときは上達できないのです。

そういうときは誰かに聞いてみましょう。しっかりした基準をもっている人を友達にもつことです。よいと思ってもきついことをいってくれるような人をもつ方が、ちきしょうと思って目標にできます。日本ではとても難しいことです。口と心中は反対ですし、それとことばをもっていません。 

 

 

呼吸に戻ると、目にみえないものの方が大きいということです。自分の体の中より外にあるようなものが大きくて、それを音でも息でもよいのですが、それをふまえてコントロールすることです。呼吸まで考えないといけないのかと思っても、声楽家など神をみたとかといってますが、呼吸で人間に息吹きを入れたのでしょう。やはり自分の体が自分の体でなくなったとき、一体になっているときはよい歌になりますが、バンドや観客との呼吸というのも全部が一体になっているところの場の至高体験をめざすことです。一回は音で捉えて、もう一回は呼吸だということで捉えて、そのときはでない音も、限界もなくなるのです。 

 

だから歌の世界の中に共感していくような作用は意図的にできません。感動することと同じです。感動しようと思って聞いたらよくないです。結果として感動したものがあったらそのことから学ぶのです。ステージでもうけるためとか感動させるためというのは、お客さんへのサービス精神かもしれませんが、本当でいうと、そうしてこびることで形式的かつ不純になってしまい、芝居がみえてしまいます。

 

 たとえば合宿に連れていくと、役者などは、ぽしゃるのです。他の人たちが素人だから自分たちがしっかりやろうと、邪なことが入るのです。そこのところで意図が入ってしまうから、それが演技にしかみえなくなって、普通の人たちが何気なく表現しているものさえまったくできなくなってしまう。生じ、やっている、知っているがために無になれないのです。無にかえるというのがとても難しいです。自分のキャリアとか肩書き、知名度とかも全部忘れていて、出せる音だけを常にみつめていくことです。日本はほとんど肩書きを出し、それをみにくる世界ですから、音などどこにもないようですが、感じることです。

 

 

 いろんなピアニストやヴァイオリニストの演奏を聞いたら、自分が気にいっているアーティストは誰で、それはどうしてかを音の世界で判断できるようになると思うのです。そういう勉強をしてください。エレキギターでもピアノでも、それを自分でまねしてみて少しでも近づけばよいと思うのです。ステージというのはにこにこ笑っていて、楽しんでいるようにはみえます。極限の状態で、自分の本質が出てくることほど、楽しいことはないでしょう。そこまで追い込まないとそれは出てきません。練習も同じだと思います。

 

 声というのは一つの正しい声をオリジナルの声としてぽんととる。それからそれを次にうつすのです。その中で一つの音で息を切って、それで一つの音で息を吐く。そういうエネルギーを音の力から得ていく。

 R鑑賞というのはまさしくそのことを知るためです。そこから呼吸を学ぶ。そのエネルギーの循環というのをアーティストがもっていて、自由に動かせるから聞く人が大きなものを得られる。 

 

本当は無意識で入るのがよいのですが、学ぶということは意図的になりがちです。だから狭くならないで自分の体のところで学ぶのです。演奏家は自分の体が音ともに心も広まっていくのです。それが発揮されるという一体感のあるときはよい演奏です。聴衆がいるいないに限らず、体から抜け出していく魂みたいなものでしょう。だからへとへとになります。スポーツでもマラソンハイとかで体験されますが、もっと徹底しているのです。音というのはとても多彩なものがあるので、それを自分の小さな頭で限定させないことです。

 

 

 呼吸でいうと息つぎとかノイズが発生するとか、うまく声にならないとか、そういうこともある面では大きく捉えて、なる分だけ声になればよいぐらいの考え方も必要だと思います。全部を声にしないといけない考えというのは、クラシック、特に日本の考えです。美空ひばりは完全に音にしてそれで作品をつくっています。それは一つの美意識だと思うのです。ただ伝わるところはノイズのところです。ロックでは必ずしもそうではない人たちもたくさんいます。

 音楽の世界の中では、違う意味でみえない世界をみていかないといけないと思うのです。だからどうしても宗教的になってしまったり、心ということがいわれたりするのですが、もっと現実的だと思います。音ということで現に示されているわけです。魂と魂がどうこうならないと歌にならないとかそんなことではないのです。音という物理的な振動を起こし、それをあびてくるとたまらなくなってくるというようなところの発信源として人間の体という一つのツールがあるわけです。

 

 楽器とヴォーカリストはまた違うかもしれませんが、ヴォーカリストの一番のベースの声ということでいうと、それをどういう世界にもっていくかというのは、一区切りでヴォーカリストとかミュージシャンなどとくくれないほど多彩性があると思います。その人なりの捉え方があるのです。

 いろいろな学び方があって耳で入る人がいてもよいし、理屈で入る人がいてもよい。そういうのをイラストにしたりする方がわかりやすければ、そんな試みをしてもよいでしょう。

 

 

その人の得意、不得意とあるわけです。仏教の悟りかたとかと同じで、頭で考える人は頭で考えればよい。

座った人がよい人は座った方がよい。いろんなやり方があってどれがすぐれている、すぐれていないというのではない。その人の生まれつきもっているものもあります。今までいろんなことを振り返ってみたら、自分はこういう学ぶ方ではあまりうまくできないけれど、こういうやり方の方が効果があったとかいうなら、そのこともふまえて、総合力の勝負です。

 

 耳というのは生活のなかでは、目に付随しているみたいに思われますが、音楽家の世界でいったら目というのが耳に付随しているわけです。音の世界の上で字幕があったり、その人のビジュアルがあるのです。今日いっているのは音の世界ですから、ステージというのはまた少し違ってきます。ステージによっては目に耳がともなっています。特に今の日本の現状はそうですから、タレント、アイドル系やビジュアル系になるのも仕方ありません。

 

 音感トレーニングはどちらかというとロックぽいものにしましょう。よく聞くことが大切なのですが、声というのはいくら聞いていて、今のが「ドミソ」だとわかっても出したときに体が裏切るものです。音痴というのがその一つです。まずよく聞いていないということがあります。体を飼い馴らしていないから狂うのです。聞いたことを自分の声で出してフィードバックすることを、他の人よりやっていない人がほとんどだからです。

 

 

 音感の勉強というのは楽譜読んだりすることでなく、自分の好きなアーティストの演奏を聞いて、歌いたいといってそれをコピーするところから入ります。それは難しいならもう少し簡単なものにおとします。少なくとも曲にはの一つの流れというのがあって、それに対してぱっと聞いてぱっととっていくわけです。ジャズをやっていないからアドリブができないということではなく、聞いたときに聞いて1秒ぐらいたってから、その音が出ないといったら鈍いわけです。それを自分の中ですぐに調整するトレーニングをします。

 

 音が入ったらそれをすぐに出す。こう弾いてみて「ファ」を出しなさいということではなく、瞬間に音をとっていく訓練と思ってください。たとえばW検でもできたからといって、それで1年後に試験をやると次は落ちます。慣れというのがあって、そういうことを続けていかないと定着しないのです。声楽の人は、そのことを何回もどこを出題されてもよいようにやっているから、身につくのです。リズムとか音感というのはそのときにできたと思っても、本当に身についているのではなくて一夜漬けの勉強みたいなものです。その感覚になったという場合が多いのです。それは気をつけて判断していってください。

 

 コード進行の中に、自分で曲をつけていくことです。一つはことばを自分でつくることです。コードにメロディをつけて歌っている間に盛り上がっていきます。でもやっているうちに今度は盛り下がってくるような感じになってしまうのです。そこで基本的なコード進行にのせて自分でつくっていく。いくつかの音楽が入っていたらことばをつけてもよいし、つけなくてもよいし、自由にやっていく方が本当は発声練習上もよいのです。

 カラオケとかで知らない曲、特に欧米のものを流してそれを歌にしていくとよいでしょう。歌詞とかつけずにやるのもよいでしょう。そういう感覚に近いかもしれないです。そこで自分ではずしたとかうまくはまったとか、そういう感覚で会話しながらやっていくのです。 

 

 

いろいろなコード進行があって、速さがあって、その表情というのがあります。自分で感じてみましょう。人によって違うと思います。今日の気持ちによっても違うでしょうし。自分が発する方であれば、作曲家ではなくとも、その感覚の中で表現するということです。ことばでいって通じないものをこの音で通用させていくのです。

 こういう世界が好きか嫌いかです。自分で好きに思いっきり出して、ヴォイスジムみたいに考えてください。どこで音をとってもよいでしょう。コードの進行でつなげるのであれば、メロディをとっていくとよいのです。

 

基本の基本とは、プリミティブ、原始であることです。ここ2年での合宿の課題でした。基本に戻れない人は、さよならです。よい意味でも悪い意味でも、卒業です。本物、一流は誰よりも基本にこだわり、基本をやった人、いや、やっている人が必要です。学び続けられる人以外はいてもらっては困るのです。学べる努力、学ぶ努力を求めます。

 

ここには華がないとは、華のない人によくいわれてきたことですが、華はなくてよいのです。華となる可能性をみていくのです。そういう人は、「あなたは完全な人ではないから結婚しません」というのと同じです。不完全でありつづけるから人間であることがわからない人です。私は人間には、完全を期待しないから、芸に完全を求めるのです。華は出していくものです。姿勢がないと華は枯れます。

 私が欧米でなく日本でやるということは、そのときの華とは、やらないことですから、タレントやアイドルとやらず、安易に顔を売らないようにしているのです。実のあることをやる人生でありたいからです。(華=花)

 

 

 

 

 

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レッスン3    QA

 

 

 質問に答えていきましょう。

 

絶対音感というのは必要ありません。

相対的な音感があればポップスの場合、問題ないです。私の場合、絶対音感が邪魔になることはあってもそれで助かることはありません。楽譜を書くときくらいでしょうか。 

 

高音域に関しての質問ですが、高音を長く伸ばせたら上達したというわけではありません。平均してどこまで出せばよいのかということもありません。そういうものをめざしていません。アカペラの舞台を基本にすると高音にエフェクトをかけごまかしたりはできないのです。

日本人の出す「高音」というのは、生では聞くに耐えないものも多いのですが、あてているだけで使えないから、音響でカバーします。だから力がつかないのです。使いたい音域は、曲と表現によって変わってくるものです。今は、そこに音響の加工効果まで含めなくてはなりません。

 

 楽譜があって歌が生まれているというわけではありません。自分の心が高まって相手にそう伝えたくなった結果の一つとして、音が高くなるのです。役者のセリフも一オクターブくらい使っていますが、この音で出しなさいという指示はないはずです。伝わることを優先すべきであって、その音に対してとっていくのは、バンドの都合です。コピーをやっている人は特にそうでしょう。他のものに合わせて、自分がないもののどこがアートでしょうか。

 

 

 本当はどの音域に関してもいろいろな音色がなくてはいけないはずです。自分で表現したい音色を自在にとり扱える音域であってはじめて音域といえるのです。低音・中音・高音などとわけているのは日本人くらいです。

 私はポピュラーでもクラシックでも一声区という考えかたをとっています。つかんだり放したりという感覚の違いがあって、その感覚の違いから声は扱われるべきです。高い音を練習したから歌えるようになるというようなことではありません。

 

 グループレッスン中心ですから、有名なヴォーカリストというのは、出てないと思います。

海外で認められた日本のヴォーカリストは稀有であったことからもわかるように、日本で声による創造的な活動を世界の高いレベルでやっている人は、残念なことにほとんどいません。 

研究生も、ライブの中でときどきよいものを出す人がいますが、それをコンスタントに出せるというわけではないようです。歌は、声や技術がすぐれていたというのではなく、その人の作品と完全に一致してオリジナルなものが出ているということだからです。また、業界自体がヴォーカリストの価値基準をそういうところにおいていないと、実力がある人も出ていけないのではないかと思います。

 

 初心者の人も、目標のヴォーカリストがいるのはよいのですが、学ぶところを間違えないことです。一人のヴォーカリストをまねしていくと、あこがれているほど本人の体の原理や感覚からは反してきます。リズムや音の捉え方、読み込み方では参考になることはたくさんあると思います。しかし、雰囲気、情感といった音での個性の部分は絶対にまねしないことです。

 

 

 楽器は先生と同じことができたら先生になれますが、ヴォーカリストは、先生と同じことができても、先生以下にしかなれません。これを忘れてはいけません。一人ひとり楽器が違うし、表現したい気持ちも違うからです。いろいろなヴォーカリストを聞いて、誰にもよらない自分をつくらないとよくありません。だから先生の歌い方をまねないように気をつけなくてはなりません。声の出し方についても参考にとどめるくらいにしましょう。少しでも、元の歌い手の曲に似てしまったらその曲を歌う意味がまったくないからです。

 

 一方、どんなに嫌いな歌い手でも、すぐれている部分は認めて、大いに学ぶことです。誰が好きだとか、どの作品がよいのかということも大切ですが、まずは、音の世界で何が起きているか、それを起こすためにどう自分に働きかけているのか考えてみてください。声の基準や、耳をもつことが優先されてきます。

 基準があるところまではその人は伸びます。勉強ができていると、基準もあがっていきます。見本にとるとわかりやすく役に立つのは60~70年代までのもの(昭和40年代くらいまで)です。それ以降は日本ではヴォーカリストの資質がおちています。形ばかりまねして声から学ぶことが少なくなったからです。世界ではヴォーカリストの傾向が変わっているだけで、実力はおちていません。 

 

勉強するなら、生で聞くのが一番よいのです。特に小さなライブなどでヴォーカリストがマイクを離したときの声はとても参考なります。最近のCDになると、音楽の加工が入ってくるので体で読みとりにくくなります。体の強さや、息のとりかたがよくわからなくなっています。そのヴォーカリストの限界が見えないからです。 

ヴォイストレーニングでは、一流のヴォーカリストを聞きとれる耳と、読み込める体を鍛えていくことが前提です。呼吸法や発声法が決まりきった形であるなどと考えない方がよいと思います。いろいろな息を吐いているでしょう。

 

 

 一分間くらい息が吐けるという人はまったく違う深いところから息を吐いています。しかし、長く吐くことが大切なのではなく、息を完全にコントロールすることです。深い息についてよくわからないと思いますが、向こうの人はポップスの人でも声楽の人でもそういう息をもっています。また、言語と環境の影響で、一般の人でも深い息をもっています。

 

 日本のヴォイストレーニングが難しいのはゼロからというより、マイナスからはじめなくてはいけないからです。これは日本のレベルが低いというより、方向が違っているのです。

 外国人はプライベートな会話がそのまま、大勢のまえでしゃべる対話と一致します。一方、日本人の普段の声というのは、表現にならない声です。逆にいうと、日本の中に音声で表現する舞台はなかったというくらいに思っておけばよいと思います。

 

 向こうでは音声教育があり、発声の注意まで受けるわけです。日本でいうと、演劇教室のようなことが、初等教育で全ての人になされています。一方、日本の学校の授業などでは、読み書き中心で、漢字を間違えなければよいというくらいのものです。音声として耳で聞いて習得したプロセスというのが、本当に喃語の頃以降我々には少ないのです。音の世界が乏しいのです。

 

 

 日本では映画の吹き替えや、音声をつかわなくてはいけないメディアの人の声もおかしいでしょう。これも欧米をあこがれ、もちあげる日本人の気質や文化の問題でしょう。

 アナウンサーの声は伝達する声で、表現する声ではありません。特に日本では音声で表現されることを嫌います。表現するということは、ことを起こす以上、ことを納めたがる人には反感を伴うのですから。

 

 プロでやってきた人のほとんどは、今までの自分のやり方が制限になっていると思います。スタイルや型というものは常に破っていかなくてはいけません。本業なら、体からとり出された声の延長上にその声が変化して音楽になったりするのですが、日本人はまったく違うやり方で加工したり、ビブラートをつけて飾ったりゆらしたりしています。それもトレーニングから見ると真の上達を妨げている要素です。

 

 オリジナルな声も大切ですが、こと、ヴォーカリストに関してもっと大切なのは、オリジナルな節回しです。日本のヴォーカリストでもやれている人は自分の節回しをもっているのです。歌い手の場合はそれをもっていればよいといえます。

 しかし、それに世界に通じる高いレベルでさまざまなものがつめこめたり、すごい表現としてできるためには、オリジナルな声をもたないといけません。日本のヴォーカリストのしゃべり声はどれも同じようなものですが、向こうのヴォーカリストは声を聞いただけで誰かわかる独自の声をもっています。それがオリジナルな声です。

 

 

音声が人の心を動かすということが歌のベースです。表現から考えていかないと、いつまでも答えのわからない世界です。クラシックは巨匠に近づくほど上達していると思われるという意味では、条件は定まっています。しかしポップスというのは何でもありの世界です。いや、これまでなかったものをつくり出していくのです。

 今の日本は、リズムもフレーズも歌も似通っています。極端な高音志向の結果、くせ声で間違ったクラシックのように声をとることが課題となっているのです。それよりは戦後の日本の方が同じまねでもいろいろなものが豊かにありました。

 

入っているものにしか出てこないということを覚えておいてください。音に対する感覚などがそうです。 

日本が声楽家から歌謡界に入っていったのは、日本語が全部ひびかせることばであったことにもあると思います。それが日本の歌の特徴に現われています。日本の歌がメロディと音程で成り立っているのに対し、向こうの歌は、リズムと音色で成り立っています。

 

 ポップスはクラシックと違ってメッセージを伝えるのが目的です。それを音声で出していきます。本当に伝えたいことは日本語でも英語でも、ことばを超えて伝わりるものです。 

しかし日本の場合、俳句なども音として、打たれたところしかみません。楽譜に書かれたままの点の世界になってしまっているのです。

 

 

 向こうの歌はすべて線でもっていっています。声はかすれたり、とぎれたりすることより、深い息が通っていないことで表現においては可能性をせばめているのです。

 ひびきというのは完全に凝縮して使わなければ、ただ拡散してしまうだけです。単にひびいているだけで伝える力が弱くなってしまうのです。ヴォイストレーニングについても大切なのは、このように一つに捉えることです。

 

私の声は、しゃべっている声でどんなに小さくしても遠くまで聞こえます。より小さくするところ、低く使うところほど、より体を使って支えています。そうでないと緊張感がなくなり、表現が保てなくなります。

体を使って一つに捉えて歌うことが大切です。

空手をやるのも荷物を持つのも、人間の力が最大に働くときは全て腰を中心に使います。

私もしゃべるときは腰が中心です。 

 

歌とことばはそんなに違いません。メロディがなければ歌にならないというこでとはありません。

 

 

 

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レッスン4    フレーズレッスン 基本 京都

 

(息(ドレミレドレミレドレミレド)で2オクターブ)

 入ったばかりの人にはキツイでしょうが、これの2~3倍やってきても平気なくらいでないといけません。そして、体を鍛えることは基本です。

 次に、その体をよい状態に保つことが大切です。体の状態が少々悪くても声はコントロールできるようにらなくてはなりません。 

レーニングの時間はできるだけ集中できる時間にとることで、ダラダラやると悪いトレーニングにしかなりません。全身全霊を込めてやってください。少なくとも、トレーニングするときには、一心不乱になることです。

 

 ほとんどの人を見ていると、音声で表現するというまえに、人前にたったときに自分の体と心をコントロールできていないのです。まず人前にリラックスして立てるようになってください。その上で音声の技術をつけていくことです。いつも誰かがみているという気持ちで、普段の練習もやっていってください。 

声を出せる状態をつくることがヴォイストレーニングです。そのためには、人によって何をすればよいのかが決まってきます。それがすべてのノウハウになります。メニューをつくるというのは、自分が一番やりやすいものをつくるということです。

 最初は、体も心もバラバラでやっているわけですが、それがやっていく間にきちんと集約されていかないとなりません。

 

 ヴォーカリストというのは、メニューづくりから、たった1フレーズまで自分でつくっていく力が必要です。自分が何を考え、伝えたいのかを常に考えなくてはいけないから、発想と創造力の勝負なのです。こういうグループレッスンの場を利用して、自分の表現がひとりよがりになっていないかを、確かめて欲しいと思います。

 

 

(ララララーラララー

(シドレミーミファミー)」)

 歌詞も音も、自分のイメージにおきかえてください。「シドレ 」と聞こえてこないようにすることです。ことばを一つに捉えるとメリハリが出てきます。

 勉強するためには、歌い手のフレーズを拡大して読み込むことです。部分的にやるなら、その部分で最大にイメージして体や心をきちんと使うことです。それには耳も体も必要です。

 

(「ラララー(シドレー)」) 

どこかにアクセントをつけると、動かしやすくなります。

(「ララララー(シドレミー)」)

 目が動いていたら声が統一できるはずがないのです。目をつぶっているのはよくありません。伝えるときには、集中するといろいろなものが邪魔をしているのがわかります。それをとりつつ、また新たな課題をやると状態が悪くなります。それをそのたびにほぐしながらやってください。

 感覚は体の中で動いています。そして、動きにはいるまえに体は見かけ上、ピタリととまります。とまっているから動けるのです。

 

(「ララララー

(シドレミー)」)

 体から息を深く出そうと思ってやっていると、ふしぜんになります。今はまだ、体が弱いためにそうなってしまうのは仕方ないことです。しかし部分的につくってしまうゆえに、ふしぜんになってしまうところは頭においておき、あとで直していかなくてはいけません。それさえわかっていれば、どんな試みをしてもよいのです。自由にいろいろなことが試せるために基本トレーニングが必要なのです。

 

 

 今から、何事も全身で受け止めることです。当初の目的としては体と結びついた声にしたいのです。たった一つでよいから、体との結びつきを確実につかんだフレーズとして出すことです。

 のどに負担をかけないことと、体から声が出ていることが大切です。調整できなくても、方向を間違わないことです。

 日本人は音程が上がった部分をひびきだけのフレーズにしていきますが、ことばで一つに捉えてから音にしてみてください。日本語の「い」や「う」を出そうとすると、声が出なくなってしまいます。

 

「あいの (シドレ )」ときちんといおうとすると、体からはなれてしまいます。声がとれているところで音を変化させることです。声がとれないところでやるとバラバラになってしまいます。

(「あいの(ことば)」)

 これが音楽になると、体で一つに捉えるだけでなく、音の流れと一致点を見つけていかなくてはいけません。支えるために体は必要ですが、それを全面に出したら限界がきます。本当は力を入れないで出せるのが一番よいのです。腰からしぜんに働くように普段から心掛けておくとよいでしょう。声を出すよりも、伝えることの努力をして欲しいと思います。 

 

意識しなければ、自分の動きがどうなっているかなどは気になりません。

 正しく動くこと、正しく声が出ていることは一致するものです。すぐれた歌い手は、全身が表現に対して一致しています。 

そのためには、まず体を解放することです。

「あいの」のフレーズは「い」でつかまえるのは難しいので、「あ」にアクセントをつけておくとよいでしょう。

(「あいの(ことば) あいの(シドレ)」)

 姿勢としては、あごを引いて胸を心持ちあげてください。あごが前に出ていると、他の部分が鳴りやすいからです。 

 

 

日本人は声をにぎれないので、さまざまなつくりを入れます。「つめたい」ということばさえいえません。「つ」や「め」は、はみだす音なので、「たい」のところできちんとにぎることです。「ハイ」という感じで「たい」にくっつくようなイメージです。

 一点に集中させているとフレーズが、きちんと伝わるのです。 

 

「つめたい」を練習してみましょう。

(「つめたい(ことば) つめたい(レミファミ…)」)

 これがすぐにできるのなら、心配ありません。できない人は何が違うのかと考え、自分の基準をつけていってください。できないものは練習で使っても仕方ないのです。

「つめたい」というフレーズに関しては、「ハイ」でできていたら、「アイ」でもできるし、「タイ」でできるようになります。タ行やサ行などは、出しにくい音で音楽をつけるときはより体を使わないとよくありません。ことばを精一杯いって、それ以上の力でやるのです。

 

(「たい(ことば) たい(ファミ)」) 

語尾の音を伸ばすと、もっと難しくなります。伸ばす必要はありません。それから、「た」の音のときに、すでに音も一致しません。呼吸と声を一致させていくことです。これを声立てといいます。これも、歌のレベルでは何年かはかかることです。

 

 

「アエイオウ」という音があると思わないで、すべてを一つに捉えた上で、それが変化していると捉えてください。☆今の一番よい声、よいことばにのせるようにしてください。

 音楽は時間の中で動いていく世界ですが、その中で一瞬がとまったように感じることがあります。そういう感覚をもつことと、それに常に対応できる体が必要です。普段のトレーニングもそういう意識をもってやってください。では終わりましょう。

 

人に伝えようとするときに、心や体の状態はまったく違ってきます。体の中心で一つに捉え、それを展開させていくようになります。そういう体にパッとなれることが一つのノウハウの結果です。それがわかってくると、体調が悪いときでも、イメージや体の力でそれをとりだせるようになるのです。

 

 人間が集中できる時間というのは三分くらいです。音や声を出すというまえに、そういう姿勢を集中してつくり出せることが大切です。テンションの高い状態をつくることもキープすることも日本人には大変なことです。姿勢を保つのにも五分ともちません。そのためには日頃から体力をつけ、腰や脚の力をつけておくことです。

 

 

(「ララララー(シドレミ)」)

(「ララララー(シドレミー)」)

 

 最初は体と息とを結びつけるための意図がふしぜんに現われてしまうのは仕方ないと思います。しかし、その動きと関係のない邪魔な動きが入ってくると、おかしくなってしまいます。感覚がないうちはそうなるのです。自分を客観的に評価できなくなってくると、危険です。そういうときはグループレッスンなどで正しつつ、自分の課題を見つけていくことです。

 フレーズをつくるときは、一つひとつの音にあてていかないようにしてください。一フレーズを一つに捉え、その中で一つひとつの音をどう動かしていくかということが大切です。

 

(「ララララーラララー(シドレミーミファミー)」)

 研究所では、直接きれいな声や響きを求めているわけではありません。日本人は深く長い息を吐けないし、息に声をのせられない場合が多いからです。長く息を延ばすことが重要なのではなく、その質が求められます。どれだけコントロールされた息を使えるかということが大切です。その上で、しっかりと美しく響くのが理想です。

 

 

外国人と比較すると、身体機能や音声表現欲(必要性)などは、三段階くらいの差があります。

 研究所では教えるというより場を設けておいて、いろいろな材料をもちよって、個々人が自ら主体的にやっていこうという活動を中心にしています。学校とは違い、研究所は材料は提供しますが、メニューや歌い方は自分で考えさせています。歌に対しての基準を学ばせることはしますが、歌い方そのものを手とり足とり教えることはありません。

 

 歌というものは、音声表現の中の高度なジャンルの一つです。プロとして音声を使っていく人に共通のやり方をここではとっています。

 研究するとか、トレーニングするということは、やはり何かの目的がないとできません。そのためには自分の問題として歌をひき受けていくことです。 

 

ヴォーカリストとして人を集めてやれる人はそれだけでよいわけです。それを声としての評価にもってこようというのは邪道なやり方です。研究所では世間と違って、音声で表現されないと評価されません。これを重視にしないと、今の日本ではスタイル、ルックス、ダンサブルといったビジュアル面ですぐれている人の方がステージでは有利になります。音楽として考えるならば振付けに関しても、それが音としてはねかえってこないと意味がないのです。音を邪魔するような振付けだったらやめた方がよいということで逆の結果となります。 

 

 

表現するということは相手を動かすということです。何でも歌えばよいということではありません。それなら、有名人やタレントがやった方がおもしろいでしょう。どんなに心地よくても何の働きかけもないなら意味がありません。凝縮した空間において何かがとんでいかなくてはいけないのです。 

パワーとインパクトというのは第一条件です。それだけのものがないと、人は聞いてくれません。最初の段階でうまさを求めるということはないのです。 

 

それから歌というのはライブですから、失敗は許されません。そのように音声で表現する舞台に対してトレーニングをつんでいくのです。自分が今どこにいて、何が足りないのかがわかっていてこそ、はじめて次にどこにいくのかがわかるのです。トレーニングというのはそのギャップを埋めるためのものです。

 

 歌というのは誰でも歌えるし、中にはうまい人もいます。その中で何ができて何ができていないのかということをハッキリさせない以上、トレーニングも成り立たないのです。スポーツなら、相手に負けたとかタイムが落ちたということでわかるわけですが、歌の場合、よほど聞く耳があって自分に正しくフィードバックできないと難しいのです。自分の声は、自分の耳では確実に聞くことは至難の技ですし、録音に入れても違うのです。だから第三者としてのトレーナーが必要になります。

 

 

本来なら、音を聞いて、そこで自分の心が動いたという感覚をもつことから、それをどう声の世界でつくるかがわかり、それに対応できる体があれば理想的です。その体をきちんとつくっていくのが、楽器づくりです。その上でベースとして、演奏となる世界を知っているということです。

 

ヴォーカリストの場合、自分が要求するイメージや作品に、体がまったく対応していないということがあります。どこをプロとしてもたせるのかというと、歌の場合、体(楽器)の部分です。プロの楽器をもつことです。

 外国人は二十歳までにかなりの部分その条件ができています。

 

皆がそのような楽器としての体をもっている中で、すぐれた演奏能力をもった人だけがヴォーカリストになっていくのです。研究所では外国人が20歳までに身につけることを2年以上かけてやっています。 

向こうの人たちは音声をたくさんしっかりと聞いて生きているのですが、これはとても大切なことです。音の世界の中にいないと、音の世界のものは取り出せないのです。

 

 

 ここでは美しい声よりも、何回出しても確実に繰り返せる声を求めています。高音の出し方を教えてもらえたらすぐに歌えると思っている人もいますが、表現したときに高音の発声がついてくると考えた方がよいと思います。日本人の発声は、ほとんど、のど声です。 日本で歌っている人たちの声は、歌声として、歌のためにつくられた声なのです。一方、外国のものを聞いてみると、日常の声とさしたる区別はありません。

 

外国人のヴォーカリストはプロになるまでに、特にトレーニングをしなくとも、日常の声がすでに音楽的であるからです。そして、同様に日常の会話も、オフィシャルな場に対応できるでレベルにあります。日常の生活の中で音の世界にいることと、声を使ってきていることが基本トレーニングになっています。その年月が日本のヴォーカリストとの差を生んでいます。つまり、ヴォーカリストは日常の音声表現の延長にあり、それゆえ特別なトレーニングを必要としないという点で、他の楽器とは異なるのです。

 

 外国人は、日常生活で音声で表現することもやっているから舞台を考えるくらいでよいのです。しかも、舞台のトレーニングの半分はやっています。私たち日本人はこの3つともやらなくてはなりません。

 日本語は声帯を傷つけるという人もいます。私の日本語はすべて体から出しているので、のどを傷めることはありません。体は疲れても、声自体が出なくならないのです。

 

 

 

 

 ステージ実習、ライブ実習というのは一つの歌で音のフレーズを3分間やるのですが、そうではなくて20個なり、30個なりの歌の勉強になるフレーズをやります。

一つずつのフレーズはせいぜい5秒や10秒ですが、全部あわせて一人で3分から5分になるでしょう。その中で気づいて欲しいということです。 

本当は人数を限ってやった方がよいと思うのですが、もうしばらくは、この形でやりつつ、テーマを限定していこうと思うのです。やはり多くの人のを聞いて欲しいというのが第一段階、力がつけば次に選りすぐった人のなかでやるのがよいのです。

 

他のクラスの人を聞いて、いろんな声というのがあることを知ってください。それを聞いていかないとわからないことがあります。

 他人の作品から自分ならどうやるかを決めていくのです。他人のを直す必要ない。自分でどう表現するかを考えるのが大切なのです。ですから、ここに先生生徒はいらないといっているのです。このオリジナルフレーズは、ステージ実習、天地の声と並ぶのエッセンスです。

 

 オリジナルの声というのをしっかりと使えている人と使えていない人との違いを、こういう場で感覚から覚えていくのです。その人の歌がうまいとかへたということではなく、表現として本質を宿しているか、本物かどうかということです。体から出ている声で、何かのインパクトを与える声であることが、今後、伸びていく可能性のある声です。それを聞き分ける耳ができてきます。 

オリジナルのフレーズというのはとても大切です。自分のフレーズ、節回しが自分の寸法としっかりと合っているということ、これには体の条件だけではなくて、その瞬間にコントロールする集中力とか気力とかも問われます。感覚もあっていて、こういうのを100発100中できる人というのは、プロの中でも少ないのです。そういうものをつかんでいって欲しいということです。

 

 

 初めてやる人には、こういうルールでやっています。わからなくとも何かやってもらえばよい。一人のところで何秒も止まってしまうと、時間的にもったいないことになります。だからとにかく一人あたり5秒ぐらいと考えて次々まわしていってください。まったくわからないとか、自分にはちょっと無理だと、あるいは理解できなかったとか、あるいは前にやった人があまりにひどくて乱され、作品が出せなくなったという場合はパスしてよいです。 

だから損したと思わないで、その分聞くことだと思います。

 

 今日は特に私はあまり口をはさみません。カンツォーネから日本の歌や演歌までやってみましょう。基本に戻ってみます。ここでベーシックに欠けているようなものからやりたいと思います。音楽を聞いてみて、このへんが課題になるとわかってきたら、私と同じぐらいのメニューをつくる感覚ができてきたと思ってください。 

ことばは何でもよいでしょう。聞いたとおりに原語をとってもよいし、「ラ」にしても「ア」にしてもよいでしょう。適当に自分で変えても日本語とイタリア語、ごっちゃにしてもよいです。

 

 オリジナルのフレーズということは、それが音色として通じればよいということで、ことばは問いません。ただ、「ア」「パ」、ラ」とかだけでやるよりは、ことばをつけたり、母音とかに変えた方が、実際は声が出やすい人の方が多いです。 

毎年、同じような課題が出ていると思いますが、それに対してどういうふうに変わってきたかをみるのです。よりうまく出せるようになったのもあれば、出せなくなったのもあると思います。

 

 

 研究所では、他の人とうまいへたを比較する必要はありません。

 自分の実力を知り、底からでも伸びていけばよいのです。伸び率が問題です。一流の人やプロの人は徹底して考えています。百回素振りをやったら、練習したという気になる人は多いでしょう。しかし一球一球イマジネーションを働かせて素振りをしていたら、すごい集中力と体力がいります。プロの練習というのは後者のほうで、プロの練習をやれるようにならなければ通用しません。歌にも同じことがいえます。

 条件を整えるというのは楽器づくり、状態を整えるというのは調律のことです。両方を集約させて、はじめて演奏にうつれる条件が整うのです。まず集中すること、そいう意識をもつことです。 

 

では、ことばから入っていきましょう。お腹を使おうと思わないでしぜんに出してみてください。この中でもかなりの差があるので、他の人の声もきちんと聞いてください。

 

(「ハイ(ことば)」)

 急いでやる必要はありません。口の中だけでやってはいけません。体の下の部分とつながっていないときは、その条件を与えてやることも大切です。ただ声を出すだけではよくありません。腰が入っていないといけません。順番が回っている間に、きちんと準備できるようになことが大切です。

 

 自分の体をコントロールするものが、どこか自分のうしろにあるというイメージです。プロは自分の中で客観的な評価をもっています。そのための基準を得ていくことが練習です。グループのレッスンの中でも、他人の声の欠点がそのまま自分の課題におちてくることが多いと思います。 

なるだけ体から声を出してください。表情に関してもリラックスしておく方がよいでしょう。声の表情をつくるためには、体や顔の表情をつくらなくてはいけません。一つの「ハイ」をいうときにもそこに何かを込めようとか、伝えようとしていくことです。 

声はひびかなくてもよいですから、どこかで邪魔されないことが大切です。

 

 

(「ハイ(ことば)」) 

他の人たちがどうしてそういう声をだすのかというのは、彼らの体の中に原因があるのです。感覚がないのか正されていないかなのです。

 

 体をまげて息を吐いてみてください。そしてその息を体でひき受けてください。自分の横腹やうしろの方から力がかかるようにしてください。大切なのは、自分の呼吸のペースでやることです。

 次の段階では、使えると深い息が吐けてきているのに声に結びつかないということでの問題です。それは、声にうまく転換できていないからです。深く吐くことが単に強く吐いているなら、それは、勢いだけで、まだコントロールできていません。強振しつつ、コントロールできるまで待たなくてはなりません。

強くてやわらかく芯のある声のポジションを探してください。これがことばや音に使えると広がっていくのです。

 吐いた息を声にしていきます。体を曲げたまま息を吐き、そのあとに「ハイ」といってください。体の上の方をひびかせないくらいのイメージでやってみてください。「イ」は「ハ」にくっつけて出してください。

 

(「ハイ(ことば)」)

 聞いていると、半分くらいの人がよくなっているのがわかりますか。あとの人はポジションが抜けてしまったり、胸のところだけで押さえたりしています。どちらも、のどをアタックしてしまいます。それでも息を声にかえられるようになったのは、使っている筋肉が変わってきたからです。こういうものを条件と呼びます。続けていくと、どんどんと有利になっていくし、感覚も変わってきます。

 腰から声を出そうとしても声にならないでしょう。でも体と息の結びつきはできるはずです。息も深くなり、体の動きと一致してきます。それを完全に声にしていくのです。

 

 

(「ハイ(ことば)」)

 体が起きてきたのでしょう。トレーニングに来るまえに30分から1時間くらい体をあたためてくると、そういう状態になりやすいのです。

 これにメロディや音程をつけていきますが、外側の条件を変えるのではなく、自分の感覚だけでコントロールすることです。半音上がるにつれて体の使い方を強くしていかなくてはいけません。

 

「ハイ ララー」のトレーニングでは、「ララ」のところでポジションが抜けてしまうことがあります。そういうときは「ハイ ララ(ドド シシ)」としてみると楽になります。「ハイ」より「ララ」のほうが難しいでしょう。

 

練習では、一番正しいことより確実にしていかないといけません。問題を自分が半分の力でもできるところで、確実に解決していくことです。ことば、音の高さ、音を伸ばすこと、どこからアプローチしていってもよいのですが、急にすべてを同時にやろうとしないことです。それは統合されてこないとできません。「ハイ タイ」でやってみましょう。まず「ハイ」を確実にいうこと、その勢いで「タイ」ができればよいというくらいに考えてください。

 

 

(「ハイ タイ(ことば)」)

 まだ楽器としての完成度と、コントロールする力がないのです。楽器や武器は、強力なものほど、最初に扱えるまでの力がいります。その人に力がないと動かせないのです。しかし軽いものでやるより、重いものの方があとで力がつきます。これに音をつけてみましょう。

 

(ハイ ハイ(ド レ♭)」)

 自分のやりやすい姿勢でやってください。出ている自分の声が一番よいと思える姿勢をとってください。動きが固まってしまわないことです。動けないと、声も柔軟に出なくなります。

 高い音になると胸のポジションが抜けてきますが、できれば半オクターブくらいは同じポジションでとってみてください。外国人はそれを1オクターブから1オクターブ半くらいもっています。そうしておくと、小さく出すときや細く出すときにもコントロールできます。ピアノでも弱いところというのは強いところと同じくらいに体を使っているのです。

 

(「ハイ ハイ(ド レ♭)」)

 応用になるとまったくできなくなるのは基本が固まっていないからです。そこで自由になるために基本のことをしているのです。だから、戻ります。

(「ターターター(ドーレ♭ーレー)」)

 「ターターター」の中で違うことを起こさないでください。全体でコントロールしてください。邪魔になるものをつけないことです。芯をとってそれだけを動かすのです。

 

 

呼吸が流れていて、その中に「ターター 」と声が入っているイメージです。声を出そうとか歌をつくろうと考えるのではなく、体が動いたところに声や歌ができていくというイメージです。こういうことを感覚として経験して欲しいのです。要は力で出すのではありません。スポーツのファインプレーをしたときと似ていると思います。それは考えてやるのでなく、気づいたらできているのです。

 

 息の中で声が流れているというイメージでやってみてください。体の原理を純粋にとり出してください。すると、体が動いたら声になるのです。一つの正しい感覚をもっておいて、そこから判断してください。今は呼吸の戻りが遅いので、16ビートのような速い曲を歌うことはできないでしょう。常にワンクッションおいて出すという感覚を忘れないようにしてください。

 

 

(「ハイ(ことば)」)

 ふしぜんな動きを鏡を見てみつけてください。変な癖がついたら、あとで直す必要があります。そのことが制限になってしまいます。これらの音をフレーズにしていくのが応用です。より集中力と体力が必要になり、体の状態を保つことも大変となります。では終ましょう。

 

(「ラーラーラー(ドーレ♭ーレー)」)

 フレーズからとるのは間違いです。レガートをやるというのは、線を描くことです。音程に対し、体の状態を変えないことが大切なのです。体だけでもっていくのです。

 

(「ハイ(ことば)」)

 よく「体で読み込め」いいますが、そういうことは瞬時にこの場で現れます。他の人が声をどこに集めているのか、音だけを聞いてそれがわかることも大切です。 ヴォイストレーニングとヴォーカルを分けてみると、ヴォイストレーニングは、自分の意図する音色をパッとつかむ。ヴォーカルも同じです。

 

 

ただ、ヴォーカルは声をかすれさせても、音楽を優先します。イメージしたものをパッととりだすということにおいては声よりも伝えることを目的とします。

 体と一致した深い息のところでしぜんと声が宿るところがあります。それを掘り出さずつくってしまうとうまく宿らなくなります。

 

(ハイ ハイ(ド レ♭)」) 

「タラー(ドレ♭ー)」の中で「ハイ ハイ」とおきかえるだけです。

 

(「ハイ ハイ(ド レ♭)」)

 そこで息や体の支えが見えるようにしていくとともに、負担をなるだけのどにかけないことです。わざと体に負担をかけるのはトレーニングになるのですが、あまり意図的にやりすぎるとのどに負担がかかります。

 

 

声の動きをつかんでください。声は芯をつかむと動き出してきます。それが高くなったり低くなったり、大きくなったりといろいろな変化を起こすのです。そこに音楽性があれば音楽が宿ると考えた方がよいと思います。 

ことばも同じです。固定させると何も宿りません。

 

 声を大切にすると感情が宿らないし、感情をこめようとすると声がでにくくなるものです。しかしそのギリギリで接点がつくところがあります。それを求めていくことです。本当に一流の歌い手は、音の動きだけですべてを表現しています。日本の歌い手は歌にいろいろなものを入れるのですが、表現を形からつくるから、押しつけてしまうのです。音をひびかせることによって聞き手のイマジネーションを自由にしてやるのが、本当にすぐれた歌です。そこで世界を共有するためには、それ以上のものを入れてはいけないのです。基本だけをきちんと出していくことが必要です。

 

ピアフもミルバも、たとえばフレーズの終りなどで体を抜いてしまったりはしません。基本に忠実でその線しか出さないところで聞き手を感じさせるから、飽きないのです。その出しかたにパワーや迫力があるから、納得してしまうわけです。トランペットが呼吸だけで音をコントロールするの同じです。日本語というのはそれを邪魔することばなので難しいのです。

 人間の気持ちが高揚することと、音が上がることも一致しています。このフレーズでは声の中にその動きができているということを感じてください。

 

 

(「ラーラーラー(ドーレ♭ーレー)」)

 ひびきでもっていこうとしている人は、間違った部分が鳴っているし、レガートを意識している人は音が流れています。呼吸が回っていたら、それぞれが切れていながら一つのまとまりになっています。次の音に移る前の語尾が体からはずれていると、次の音にきちんと入れません。そこは基本に戻さないとよくありません。音が上がって条件が変わってしまうのは、体でキープする力や、感覚がないからです。一つの線からはみだしてはいけません。日本語は語尾などがはみだすことばなので難しいとは思います。

 

(「ハイ ハイ ハイ ララララー(ドレ♭レ レミファ ファー)」)

 「ラララ 」のところがわかれているとは考えないことです。最初の音をきちんととらないと、フレーズの中にも生じません。高い音からおりるときは気持ちの中でおりてもいいな、と思うところまで保ってからおりることです。そうなれば自分の好きなところでおりてよいのです。

 

(「ララララーララ(レミファソーファファ)」)

 結果として出ている声を自分の体で動かせる感覚をつかんでおくことです。そうでないと、音を叩くだけになってしまいます。要するに、自由度を獲得すればよいのです。余計なものがついてしまうと、何かやろうとしてもできなくなってしまいます。音色も音の大きさも変えられなくなります。

 条件がまだ整わないのはよいですが、感覚が不足しているのなら、補っていかないとよくありません。口の中でいろいろなことが起こりすぎています。線の中でいろいろなことが起きるのはよいですが、浅いポジションで無駄なことを起こしてはいけません。自分の体でコントロールできない方向にもっていかないことです。

 

 

 次に「生きがい」ということばを入れたいと思います。日本語の「い」ではなく「が」の中にできる「い」のイメージでやってください。日本の歌はたいてい語尾を引きますから、演歌などにはちょうどよいのですが、ここではポジションを動かしたくないのです。それから「なの」でひらきすぎないでください。

 

(「生きがいなの(レミファソーファファー)」)) 

ことばで一つに捉えてどこかで展開させてください。「なの」の前のところで何かできるでしょう。

(「生きがいなの(レミファソーファファー)」)

 上のひびきと下のひびきを、分けて考えない方がよいと思います。「なの」のところなど、下のひびきでも上のひびきでもとれるところをもっていて選べるようにしていくとよいと思います。「なの」のところで歌ってしまったり操作を加えないことです。

 

(「なの(ことば) なの(ファファー)」)

 声立てがきちんとできることが大切です。この場合、ことばでいうのが基本で、フレーズにするのが応用です。基本のときに、応用で自由になるように声をもっていることがポイントです。

 一つのフレーズをきちんと終わらせながら次に続けていくことは、日本人には難しいのですが、大切なことです。「な」と「の」で一つひとつ完成されていながらも、続けたところでも完成しているということが大切です。歌一曲になるとよくわからないことも、こういう部分で練習するとわかりやすいと思います。

 自分が何をやっているのかをわかっていないと上達しません。まわりの人を反面教師にしてトレーニングしてください。とても雑だし、集中していないからできないところが多いです。自分の出している音に集中してやってください。

 

 

 

 

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<特別レッスン>

 

特別レッスンは、グレードが違う人がたくさん集まるとおもしろいのですが、今日は初めての人が多いのでそれに合わせようと思います。

 音というものは正しくとればよいというものではありません。音程というより、音感というイメージのもとで感覚が出ていないといけません。

 

リズムというのも、ただ三拍子ならタンタンタンと打てばよいというものではありません。それも自分なりのものが出ないといけないのです。体や呼吸という楽器の部分から出していくことです。それらがあとで歌が乗ってくるような、ベースの部分です。そしてそこで表現がきちんと出てくることが大切です。それを放したままつくってしまっても価値はでません。

 

 自分のものを、自分の楽器を使ってきちんと出していくというのは大変なことです。楽器を一つ弾きこなせるのと同じように、歌のこともきちんと勉強していかないといけません。 

自分に表現をつかんだら、それを声にどう変えていくかということです。そしてその声が、音楽へと変化をとげていくのです。音楽らしく聞こえる音楽ではなく、結果として音楽になっていることが大切です。歌も声やことばも同じですが、そこが芸ごとの難しさです。

 

 

 トレーニングは集中して、ある部分に力を働かせないと、トレーニングになりません。素振りにしても、何も考えないでやっても上達しません。部分的にチェックをしながら正していかなければ、それ以上はもたないで間違っていくのです。そのときに部分的な意識が抜け、統一されていくと本番に使えるものに近づいていきます。 

マチュアのうちは、やればやるほど力が入ってしまいます。一時、体も心も固まってしまったりします。だからこそこういう歌も、自分であたためて、カラを溶かしそのなかに入っていかなくてはいけないのです。

 

 冬は寒いので、体をほぐすのも大変かもしれません。夏は体ができているので、試合に応用し大きな差がつかないのです。夏の成績につなげるためには冬が大切なのです。スポーツの選手が一番地力をつけるのが冬場です。室内で体調を維持し、そこでプラスのことができたら、相当よい条件で次にスタートできます。若いうちは特に、体の状態がすぐかわります。

 

 今は、体を使って声をやっと押し出したというくらいでよいのです。しかし、それ以上体で出そうとすると、のどがやられます。そこで、のどを守るために合理的な使い方を学んでいかなくてはいけません。それがことばとしてのひびきであったり、歌としての音楽性として表れやすくなったりします。要するに、声のひずみをなくしていくのです。 

 

 

自分のやりたいイメージが第一前提です。1~2年は自分の理想に近づけていくことに専念してもよいと思いますが、高音域をいきなりとるとか、大音量でやると、声を痛めますから、ある時期がくるまでできないことは待ちましょう。

 自分のイメージと実際とがずれてくることがありますが、それを調整します。ずれにもよしあしがあり、悪い方にずらすのは自分と音楽を知らないからです。

他の人を見て「いいなぁ」と思って、それに近づけようとするだけだからダメなのです。誰もまねできないものを発見し、自分と合うかでやっていればよいのです。あとは程度の問題です。ひとりよがりではなく、自分で考えて感覚をもっと確かめ、自分のものをつくっていってください。そのときには、100のうちの99は惜しみなく捨てていくことです。 

 

それには、さまざまな歌い手の曲を聞いて判断していくことです。それができなければ、自分の音楽の世界もわかりません。どう直せばよいのか、というところにアイディアや発想力が必要とされます。 

音の世界は生の世界です。たった一フレーズをはさんでそのまえと一転します。5秒前と空気がガラッとかわるのがあたりまえのことです。そこで核をとらえておくことです。 

 

着ているもの一つによってもお客さんの層によっても違ってしまう。それくらいあやふやな空気のようなもののなかでやっていくわけだから、自分がどのように何を示したいのか、ということをつかまないといつまでもものになりません。楽譜にも翻弄されます。

 今は、短いフレーズの完成度を高めていってください。それがある程度のものになれば、一コーラス、一曲をつくっていってください。では終りましょう。