一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 27482字 1033

課題曲レッスン  1033

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心遥かに 

愛は限りなく

ガラスの部屋

ケセラセラ

落ち葉の恋

失われた愛を求めて

ほか

 

心遥かに

 

「ノンソマイペルケ テディ コセプレッシィ」(つめたいことばきいても)

聞いてわかるとおり2、3人それっぽい人がいますが、あとは準備不足というよりバランスがばらばらです。力が入りすぎて頭のネジをギューッとしめてしまって、感覚というよりは力だけでやっているから、こわれてしまっています。最初の一声目からこわれています。

 

私だからまだ理解できますが、ここに他のヴォーカリストがきたら「は」と思いますよね。何をやろうとして何を出そうとしているのかという狙いを伝えていないです。だから力を入れて使ってはだめなのです。ちょっとほぐします。息があるのはよいのですがうまく使わないと何にもなりません。

 

「つめたいことばきいても かなしいおもいをしても」

2年たったら歌が聞こえるようにするために、どうすればよいかを考えてみればよいと思います。ことばで聞かせる歌も1オクターブになってくると、やはり音楽的な処理ができないと歌が聞こえなくなってきます。どうしても最後までもたなくなります。戦いでたとえたら刺し違えているというところまでいかず、勝負になる以前の問題です。一歩出ようとしてつまづいて、ばたっと倒れてという感じです。違う方向に走り出したりしています。

 

 

 だから自分が何をやっているのかということを、まず客観的に把握することです。これがとても難しいです。それがわからない場合は他の人のをしっかりと聞いてください。歌なのか、歌ではないのかを素直に聞けばよいのです。そうしたらその中でこれだけ歌にならなくなるというのがなぜなのか、少しずつわかってきます。歌というのは、わかりやすいものです。今のレベルでいうと、とりあえずもてば歌です。それを自分の課題の中でもやってください。やや難しいのが続きますが、何らかの処理の仕方を考えてみてください。 

 

「あなたに恋をして ばら色にそまった日は」

最初にみんな2行やりましたが、そのあとに同じような形で2行続いて、ここから調も変わってテンポも変わります。ほとんど歌い方は変わっていません。ただ、歌う内容が違ってきます。難しい音ではないのですが、とんでいるので音がとりにくいかもしれないです。

 

 日本語に置き換えた場合は、少し明るい音色を使った方がやりやすいかもしれないです。一つひとつの音をどう置いていくかというのが課題なのです。ただ、ペンギンみたいに、口先からいきなり吐き出そうとするのはやめてください。日本人が聞くとなかなかこういう感覚はわからないのですが、これでとてもやわらかく幸福感をただよわせているような音色になるわけです。強くいっているように聞こえますが、最初の1行目と大分感じが違っています。たらたらとやっては、よくないです。 

 

 

オリジナルのフレーズの勉強というのは、ステージ実習やライブ実習になって一曲になると、また大変なわけです。1曲のものを自分の解釈だけで一人でつくって、それで一人で出してみます。細かく聞けない人にとっては、たまによい人がいて勉強できたり、悪いところが勉強できないととても大雑把なものになります。 

ただ、1フレーズというのもこれだけの時間を与えられているわけです。自分の番が終わったあとも全部聞いていたら、全員が終わったあとに、イメージがあれば決めていけるはずなのです。原曲を聞いてすぐにとれなくても、30名のいろんなパターンを出した中に勉強になるところや、自分で気づきやすいところもあります。そんなに大きく変えられる条件をもっている人が、ここにいるわけではないです。 

 

オリジナルフレーズというのは、声がなくてもできないわけではないのです。ただ、そのかわり音楽ですから、音感とかリズムとか、それから音楽的なもっと基本的なものが入っていないとなかなか出てこないわけです。ことばの世界と少し違います。

 

 ことばで「あなた」といっても、いろんな「あなた」がいます。詩人でもそうです。その「あなた」の中から一つの「あなた」をもってくるわけです。「恋をして」いろんな状況の「恋」がある。ということをことばでつめていく。歌い手の場合はそれだけではないのです。これが1オクターブになってきたり、サビになったり高音域になってくるのですから、どんどんフレーズの音がつくり出していく世界、そちらの方にゆだねる部分が多くなってくるわけです。 

 

 

ことばをつけると誤解されやすいのですが、「あなたにー」となるのか「あ な た に」となるのかは、このときに「あなた」ということを伝えることよりも、その音の流れの中で「あなた」というのを含めたイメージを伝えるということをしないといけないのです。そこに音楽をおろしてこないといけません。それがフレーズの練習です。 

そうすると今までの知識や経験を総動員する必要があります。音感を磨いたり、リズムの勉強をしたり、何回も何回もいろんなものを聞いているのは、音楽家のやることと同じです。

 

作曲家もピアニストもトランペッターもそうやっているわけです。同じ旋律の中で「あなたに恋をして」ということを、その音色とか音のおき方の感覚とか、とぎすませていきます。ヴォーカリストが一番難しいのは、楽器が完全ではないことです。ただ完全な人というのは、いないわけです。あるものを使うしかない。その中で自分のことを知っていくわけです。 

 

できない音域をやるよりも、できなければ何かを変えてやることです。それは途中ですから難しいのですが、やはりその段階でわかっていかないと、いつかわかるものではないと思います。やらないといけないことは、そのフレーズが与えられて、ことばはともかく、その音が与えられたときにそこに音楽を奏でることです。それに使えるような体の状態をキープしないといけないのです。

 

 

フレーズのつけ方は、ある程度は決まってきます。何人かの人がやりましたね。これを退屈させないで「あなたに恋をして バラ色にそまった日は」と聞かせるために、どこを強くしてどこを弱くして、どこを伸ばしてどこを入れたかを、考えたらわかってきます。音楽の場合は高いところもそういう役割をもちます。ただ、伸ばせばよいというものではないのです。それが高いということは強調されているだから強く出していくと単純に組み立てられます。逆に高いところを弱く出すということでも、表現できます。でもそれを統一した感覚の中で処理していかないとよくないです。

そうでないと「あなたに恋をして バラ色にバラバラバラ」となってしまいます。そういう歌になってはいけないということです。そうでないと次にもっていけなくなってしまうわけです。

 

「わたしの胸にだけ いきつづけるの たとえ いろあせても」

このロマンを音におきかえないといけない。それが何かミステリーとか殺人事件のようになってしまうとまったく違う歌になってしまいます。こういうのを受け取ったときに、「わたしの胸にだけ」というのは、ことばで読んだらいろんな読み方になります。しかしことばの世界から音の世界に入って、「わたしの胸にだけ」というのは、どういうフレーズ構成なのかというと限定されてきます。

 

それに対して「いきつづけるの」は、かなり強い意志が出ています。それが出たら「たとえ いろあせても」と当然そういう形でおわります。口先のところではなくて、もっと深いところでよんで、それを音に変えていくということです。「たとえ」のところまでで決まります。「いきつづけるの」で終わってもよいし、「たとえ」のところはもう終わったあとです。

 

 

 フレーズになれていない人は、こういうのを聞いてもわかりにくいでしょう。ここで「わたしの胸にだけ」というのは大切なフレーズです。自分でやってみたらわかることも、聞いたときにはなかなかわからないのです。大きく歌えとか、大きなフレーズをとれといっていますが、「わたしの胸にだけ」というところは大きいフレーズなのです。全身で一つになるということです。 

 

「あなたに恋をして」の方が、少しましだったような感じがします。イメージを浮かべることと操作することというのは、まったく違います。やるときは、まとまったイメージで出すことしかできないのです。だから考えることというのは、全身が動かないのであれば体を使うことをやるということです。ほとんどの人がまた使えなくなっています。

 

 それからつくらないということです。「わーたー」となったときには終わりです。そんなややこしいことをしていたら全部にごります。「わたしの」でよいはずです。そういう生の表現で邪魔させないことです。「わたしの胸にだけ」といっていても、これは吐き出しているだけです。あるいは「わ た し の」も同じです。こういうのは感覚から間違っているわけです。どんなに歌っていても歌になりません。

 

 

それから多くの人が間違っているというより、体が動かないから仕方ないのですが、「わたしの胸にだけ」ここまではできたけれども、そこでブレスができていないのです。「いきつづけるの」も「る」とか「の」のところなんて、音程とれるだけのキープ力も体になくなっているわけです。

 

 だから100%の表現を3分もやっていくのに、1ヶ所でよいからしっかりと出していくということがこのフレーズでの勉強です。「わたしの胸にだけ」がしっかりとできていて、はじめてそこで吐き切れて、それだけ息が準備できます。しかし、そうでないから「いきつづけるの」の線が結局くずれてしまうわけです。

 

 「わたしの胸にだけ」は、本当であればそこからその人がここに戻るのに、これだけ間をあけないと元の状態になれないのです。これは今の体では、仕方ないわけです。本来であったらここですぐに入らないといけないわけですが、力不足のときは、それだけあくのが自然なわけです。あいてそこから「いきつづけるの」と入れるのですが、それが準備が整わないうちにいってしまうから、次のところがしっかりとしたものが出せないのです。だから後半がほとんどくずれてしまっています。本当でいうとこっちの方が2番よりは簡単なはずなのです。ことばでもっていけます。 

 

 

 

「すぎたむかしよ」~ ~「プレンディクェスタマーノ ズィンガラー」(この手をみてジプシー)

 

 日本語でやると難しいです。イタリア語でやっていた方が音らしく聞こえ、処理はしやすいでしょう。一番気になるのは「ズィンガラー」の「ズィ」のところの音の狂いです。それから頭の音です。「この手を」を日本語でやって何でまずくなるのかは、皆さんの感覚の中で演歌とか聞いていると、違和感ないのかもしれませんが、音楽の感覚からいうとずりあがってだらしなくなっています。1拍目ですぐ出られないため、くせが出ています。これは日本人として日本の歌を聞いてきたからつきます。

 

 こういう音楽に対しては、スパッと入らないといけません。どちらに中心をもっていくかによっても違ってきます。「この手を」からおとす場合だったら、この音域の差というのをなるだけ大きくみせた方がよいです。それから「手をみて」の方で中心をもっていくのなら、「を」を伸ばしてみます。「クェスタ」の方にピークをもっていくのなら、ここは差をつけない方がよいです。同じにいえばよいということではなくて、旋律をきれいなものとみせるとよいでしょう。

 

 「あなたに恋を」同じにいうよりは、その音をしっかりとみせて、音の差をはっきりさせた方が、下から上にあがるのだったら、よいでしょう。これも「この手を」の方を強調したいのなら、それをみせた方が旋律の美しさが引き立ちます。旋律を歌う場合とことばを歌う場合と違ってきます。基本的には一つでまとめておいて、置き換えられるなら置き換えていきます。そうでなければまっすぐ出ていくのです。だから解釈の仕方が違ってきます。中途半端にならなければ、よいと思います。

 

 

「ノン ペン サラメ」(いまは ただ)

 まねしてしまうと、外国人っぽい日本語になってしまいます。 

 

「あいのことばさ さよならを」

「さよ ならを」というのは簡単ですが、それでうまくはまっている人と、はまっていない人がいます。それはその人の声質とかフレーズのもっていき方です。その前にどうつくったかにも左右されるので、考えてみればよいと思います。

 

「さよならを」でもよいし、「さよな らを」でもよいです。いろんなのせ方があるのです。

みんな同じことをやるのはあんまり好きではないのですが、あっている人もいます。あわなくなっている人はやはり自分で考えないといけません。

「さよ ならを」の方が何か音楽っぽくてよいと思っているぐらいでは、まったくよくないです。10パターンでも20パターンでもあるわけです。

 

 

「このままいると こわれそうな 2人だから はなれるのさ」

 フレーズ練習のときは、自分でそれをしっかりとつかんで、それを展開させるのです。一つはテンションが必要です。テンションがしっかりと高くなるような設定をすることでしょう。本当は基本ができていたら、ギリギリの高さでやる方がよいのです。体が強くなると同時に高い音域の方がゆらしやすくなってくるからです。半音ぐらい違っても体で支えたら、そのゆれが心地よくなってきます。他のところだとなかなかそれができないから、そのテンションと一致していればよいといえます。

 

 テンションの方が高くて声がついていかない場合は短くするなり、課題をもう少し簡単なものに変えるなりすれば練習になると思います。先につなげるというより、ここのところがサビですから、しっかりとつかんでいて、中心として動かしているという感覚がなければいけません。声というのは流れてしまったらまずいわけです。流れて歌うのなら誰でも歌えるわけです。それは音をあてていけばよいだけです。音から音につないだところの負担を、どのぐらい体で柔軟に引き受けられるかです。

 

 これもまた難しくて、単に引き受ければよいというものではなくて、やわらかくひいてコントロールしている、そのところは表に出てきてよいのですが、それを超えて表現が前に出てこないとだめなのです。ただ、余裕があればそれをもう一つうしろからコントロールしている感覚があります。その両方が必要だと思います。うしろにいてひいて歌ってしまうだけでは、ポップスはよくないです。 

 

 

アヴェマリア さいだんの」

 同じ長さをとらなくてよいです。自分なりに出せるようにした上でまとめてください。声の基本の力も必要になってきます。でも、発声だけでもっていこうとしたら、これだけのフレーズの処理は難しいです。いつも考えていて欲しいのは、声をみせるわけではないから、声量のある人のをコピーするほど自分の中で変えないといけないのです。それから声でもっていくというのは、それなりに完全な声の技術がないと減点になってしまいます。

ここは声が出た、次はどうかというのでは、どこかで絶対行き詰まります。よほど完全に握っていない限りもちません。だからこういうもののとらえ方も「アーヴェーマーリーアー」、これだとおわってしまうわけです。

 

よく横の線とたての線といっていますが、横の線がどんどん伸びてきます。すると、より長いフレーズをつくらないといけません。そうしたらその分だけ、たての線を読み込まないといけないのです。そのフレーズをつけてよいところに全部つけようとしたら、3倍ぐらい体力がいります。プロ並みの体がないと同じことは絶対にできないのです。

 

パヴァロッティライザ・ミネリ比べてみて、単に伸ばすだけならパヴァロッティの方がすごいわけです。音色の輝きもまったく違うわけです。ただ、評価の基準を変えてみれば、ポップスですからマイクを使うとパヴァロッティ以上に表現できる人もいるわけです。 

そのときには表現していないと、表現できないのです。ポップスの場合は声自体があるわけではないわけです。

 

 

「さいだんの」も、その捉え方を「だんのー」、これに「さい」とついているだけなのです。

 そこで入れてよいところを入れていけないところがあって、それがリズムとか音の高さとかいろんな要素で決まってきます。それからその人の持ち味によって決まってきます。

 

「さいだんの」のときにはこのように「だーんの」というようにしなさいとは教えられないのです。これも特殊なフレーズです。「さいだん」をいうのにこんなフレーズつける人は普通はいないのです。それは彼の体にあったオリジナルのフレーズだからよいわけです。そのことでもっていけるということであればです。でも「さーいーだーん」というイメージではないはずです。こんなので勝負したらいくらプロでも減点されてしまいます。

 

 だからたての線でみていくのです。横の線でいくと、聞いている人がこれを追っていきますから、そのうち先にまわって、よまれてしまうわけです。それをなくすためには、強弱をしっかりとつけていくのです。体が強くないとできないのですが、さらに、感覚の部分も大きいです。

 

 

「ソレントの入江をのぞむ古いテラス」

これは「テラス」の「ラ」とか「ス」のおき方以外は、この通りにとってもよいでしょう。それでも「ソレントの入江をのぞむ」のところで、2つぐらいつかんでいるところがあるわけです。早く「ダダダダ」といっているわけではないのです。点で歌うのは、日本人くらいです。「ナー ナー ナナナー」と、そういう形で音は走っているわけです。急がなくてもよいです。

 

 なるべくこういう勉強をしましょう。これはことばが音になっていくところで、それをいろんな形で置き換えられるわけです。それをコントロールするのです。自分の中でいろんな形を自分の呼吸と合わせながら感じ、よく出すのです。その呼吸にあっているから、それをやったときに相手に伝わるのです。そのことは伝わる前に自分で感じないとよくないです。その中でもいろんなパターンが出てくると思います。それを何回も何回もやってみて決めていきます。声自体に関して柔軟になっていくことが大切です。

 

 音の表現に関しても柔軟になると、与えられたものに対してすぐ対応できる。この形でいこうと、ぱっと決められる。決めてもやったときには違ってくると思います。違ってきてよいわけです。やったものでよいものを選べばよいわけです。歌のうまさとは、このレベルをいうのです。 だからそれをフィードバックしてよりよくしていきます。そういうことで、その人のオリジナルのパターンというのは定まってきます。その上で本当はこうやった方が自分はよいけれど、今日は調子が悪いから、ここだけはお客には伝えるのにこのパターンで逃げようといったかけひきも入ってきます。

 

 呼吸のところでも「ふるい テラス」と入るのも、「 ふるい」と入るのも、「ふーるい」と入るのも、それをやった結果、客が退屈してしまうか、へただなと思われてしまうか、そこではずされてより効果的になるのか、はずされてよりだめになるのか。そういうものをやるまえに知る力をつけることです。 

全て全体で決まってきます。同じことを3回もやったら客があきてきます。しかしその3回同じことをやることが心地よくなってくるようにすること、そのへんはまた別の意味で敏感にならないといけません。客が誰かによっても違ってきます。ただ、自分の体からやりたいことが、はなれてはいけないということです。

 

 

「あなたは火の鳥 もやしてもやしてすべてを 私のすべてを アドロ」

 「アドロ」のところのふみこみをみればわかるとおり、グラシエラースサーナの原語の方が音楽的にすぐれています。日本語でも違うことばにしないと難しいでしょう。すきなようにやってみてください。いろんなフレーズがありますので、それをわけられるようにというよりも、どれが自分で一番、今、練習になるかをとることです。はまったとか伝えられたとか、思うものを選んでいきます。それを判断することと、その逆に何でこんな簡単なのにまったくできなかったのだろうとか、空まわりしてしまったのだろうということも省みるのです。

 

こういうレッスンに出るのは、他の人たちができるわりに自分ができないものもみます。それから逆のものも、欠点は欠点で勉強していかないとよくないです。そうすると自分でできないとか、あまりうまくないパターンがどういうものかがわかってきます。

 

 それをマスターしろということではないのです。そういう歌を歌わなければよいわけです。選曲にもってこなければよいわけです。それをわかっていないうちは、よい歌を仕上げるのが基本です。通用する歌を1曲でも2曲でも仕上げればよいわけです。

 

 

これははまったというならば、それを選ばないとだめなのです。自分がどんなに好きでも、人前に立つとひどい歌よりは、きらいでも人前に立ったら人が喜んでくれる歌の方が優先されます。その方が体も息も思う存分使え、気持ち的によくなってくるはずです。だから歌詞やフレーズを変えるとか、似た曲を探してみることです。

 

 一つ確実に歌える歌があるというのはとても強いのです。それと同じような進行なら、すぐ入れます。下の方からだんだん上にあがるのは得意だとか、あるいは最初からサビに入るのでないとだめだとか、そういうことに気づいて自由曲の1曲の選曲にいかしていくのです。

 

 こういうオリジナルのフレーズのときにせっかくよいものがあって、それを絶対に生かして、他のものをこわさないようにしていくのがステージ実習とかライブ実習なのですが、1曲の中で全部、出なくなってしまうわけです。せっかくよいところがあるはずなのに、その1フレーズだけステージ実習の自由曲でやった方がよいくらいです。そこをこわしてはだめだということです。

それをより引き立たせるために課題、あるいは自由曲で何をやってくるということを考えないと、レッスンとうまくかみあっていかないような気がします。

 

 

 聞いてのとおり、いろんなあやをつけたり、音楽的なものをそこに加える場合もありますが、それが本人のオリジナリティと一致しているか、それをどんなに遊んでも許されるぐらい本筋のところがしっかりしているかなのです。何か出ないと本筋のところまでくずれてしまいます。だから本筋のところをくずさない出てくるあやはよいと思うのです。

 

 次に呼吸をとるために「ハ」と吐いてみたり、「ア」となってみたりしてしまうのも悪くありません。そういう自分のスタイルを歌の中でつくっていくのです。表面でまねたらだめなのです。まねるとはずれていきます。なぜやったのだろうというように思われ、形だけになってしまうのです。オリジナルのフレーズというのは、毎日1回はやるようにはしてそれをみつけていってください。

 

その都度、ステージ実習とかライブ実習と同じようにいろんなものを勉強してください。2年間本当にしっかりやって欲しいのは、1曲のことよりもその1曲の中の一瞬、あるいは自分がその後に伸びていくためのきっかけなり、気づきを得ることです。

 

 

 

 

 

Dio (Comp tiamo)>

 

 日本と海外のヴォーカリストの同じ曲を聞いて比較すると、一般的に日本人の方がたいそうになります。大変そうだし、難しそうです。それはよくないということです。 

日本のお客さんに聞かせようとすると、いろいろな飾りをつけてしまいます。飾りがつくのはよいのですが、ほとんどの人が、その飾りの部分をまねしてしまうのです。

 

皆のなかにもそういう人が多いのです。その辺は声ではなく、耳や感覚の問題です。どの歌い方がよいとか悪いではなく、まずはどれがあとに、より発展するか、可能性があるかという問題です。

 

 それぞれ作品として一つのまとまりがあるのがプロですから、よくとも悪くとも皆さんには参考になると思います。しかし、ここでは、日本人のことができたから外国人のことをやろうとしているのではなくて、ストレートに正しいことをやろうとしているのです。 出だしのところで違っているのがわかるでしょうか。日本人はひびかせることしか考えていません。このなかで表現を入れて伝える力で勝負しているのが歌い手です。

 

 

(「ディオコメティアーモ」)

(「雲が (ドドドー)」)

 お互いに聞いていると、よくわかると思います。音楽の感覚に戻してとっていかないとよくありません。楽譜の感覚でとらないでください。本人がそこに入っていなければ何か出せるはずがありません。 

体を使うところで音をにぎっていながら、表現として出すことです。少し長いフレーズで出してみましょう。

 

(「雲が流れる空を

(ドドドー ドドシ♭ドレ♭レ♭レ♭ー)」)

 ライブでは、私はお客さんの方を見ているのですが、皆リズムが入っていないですね。研究所では、リズムや音色を注意して聞くようにいっています。「ネル・チェロ 」のところは「ネ・ル・チェ・ロー」ではないのです。拡大したイメージでいうと「 チェロ 」という感覚です。皆さんはどこをとればよいかという拍の計算が体でできていません。歌を聞いたときに、どこで練り込まれてどこで放しているのかということを感じてください。

 

(「白いハンカチのように

(ドドドー ドドシ♭ドレ♭ーレ♭ー)」)

イメージしたことができない段階と、イメージそのものができない段階とがあります。最初の一年目は、後者の方です。なるだけ単純に捉えて、その動きをどこでおさえるかということで捉えてください。 

ことばから入っていきましょう。ことばでやると日本語の表現も捉えやすいし、やるときも一つになりやすいのです。

 

 

(白いハンカチのように

(ド ド レ♭)」)

 簡単な課題でやっているのは、考えたり感じる時間を増やすためです。本当はレベルの高いのから入る方がよいのですが、難しいフレーズだと音をとることに一所懸命になって、考えなくなってしまうからです。 発声が他の人と一致してしまうということは、何もイメージしていない、考えていないからです。他の人やピアノの音に合わせているだけなのです。自分でつくらなくてはいけません。

 

(「胸にしみる(レ♭ミ♭レ♭ミ♭ドードー)」)

 自分の頭と声の結びつきをまったくつけていないでしょう。自分のなかに何が入っていて、どんな声があって、どんな感情をどう表現したらどのように出るのか、わかっていないのです。それならば、全て取り出してみてください。それだけでも100パターンほどやってみることです。100やっても一つも通用しないとしても、1000やったら一つくらい通用するのに近いものが出るかもしれません。それらを自分の耳できちんと聞いていかなくてはいけません。もっと単純に、自分のなかできちんとつかめたところを動かしていってください。

 

(「愛はよろこび(ドドドドドドドー)」)

 

 

 

ガラスの部屋 (ペピーノ・ガリアルディ)>

 

(「流れていく川よ 何を求めて

(レファーファファファファーレファファー レミファーソファミレ)」)

 

(「それだけをだきしめて はるかな空へきえた

(ソソラ♭シ♭ーラ♭ソファドー シシドレドシレードー)」)

 

(「思い出をしずめて 流ていく川よ 何を求めて生きていくのか 二度とかえらぬ幸せ

(レファーファファファーレファファー レファーファファファーレファファー レミファーソファミレレミファーソファミレー レミファーソファミレーミミレミー)」)

 

 

(「ガラスの部屋のように はかないきらめきよ もろく散りはてた ひとときの夢よ

(レレミファミレファーシ♭ー ドドレミレドミーラ シ♭シ♭ドレドシラソーレー ミミミミーレミファー)」)

 

 ペピーノはピアノや作曲はもちろん歌もそれなりに高いレベルですが、声の使い方はくせがあります。 

こういう歌は全部やろうとしてもバラバラになってしまうので、イメージを目一杯ひろげておいて、そこでどれだけ絞りこむかということでしょう。

全部歌い上げる歌ではないのでしょうが、このテンポでこれだけのフレーズが展開するとそうなってしまうのでしょう。むしろ、ピアノで弾いているような繊細な感覚を大切にすべきだと思います。難しい歌です。

 

 

 

ーー

 

 

 音楽をトータルとして、サウンドとして考えて、レコーディングする場合のアレンジの仕方と、ライブで考える場合と、それからマイク1本でピアノだけで考える場合と、これは違ってきます。その状況において、歌い手の音づくりというのは、私は基本的にはヴォーカリストがいれば、バンドがどんなに大編成であっても、ヴォーカリストが引き立つようにまわりの音をつくっていくということです。

 

こんなこというとヴォーカリストひいきといわれるかもしれないですが、ヴォーカリストでとっていたら、それはあたりまえだと思うのです。オーケストラでもオペラでも歌い手が歌っている場合に、ヴァイオリニストが出てきたり、チェロが出てきたりするということはないわけです。

 

よほどその楽器をメインに聞かせるとか、尺八を聞かせるとかという場合は別です。

シャンソンでも歌い手よりも、アコーディオンの方を聞かせるところもあります。しかしそうなったときに歌い手の呼吸が死ぬようなつくり方をしてはいけないのです。 

 

 

 

「わたしの小さいとき ママに聞きました」(When I was just a little girl~)

初めての人は耳に聞こえるままとれればよいです。③の人はリズムを移し替えてください。

英語の方がやりやすいです。英語の深さをとろうとすると日本語は難しいものです。 

まず、音の捉え方を変えていきます。日本語をつけるとどうしても音程が出て、ことばを単に伸ばしたりしてしまうのです。強弱で聞くということは、どこでつかむかです。つかむところだけつかむ。そういう形に日本語をのせていくのです。

 

 「アエイオウ」とやっているときに、「ア エ イ オ ウ」となる点的なとり方です。

「ド ミ ソ ミ ド」これも点的なとり方です。当然、点というのは表面に出てきますが、その点を支えている裏側の線なり呼吸というのがあって、呼吸が全部声になるわけではないし、体を使っているところが全部声になるわけではありません。それはベースの部分です。

あらわれるところは「タタタタ ター ター ター」で、ここにしかあらわれなくてもよいけれど、これが今みたいに「タ タ タ タ」だったら音として凝縮していかないわけです。リズムも、その線の中でとっていくのです。 

 

線の中でとっていくというのは、難しいのですが、何回も聞いていたら何が違うかわかると思います。とりあえず辺見さんと同じレベルまでのことをやって欲しいし、それを強弱のリズムだけでもっていくという感覚を知ってください。 

 

 

英語でやっても日本語でやってもよいのですが、その音そのものがことばをはずしたところで動いているか、動いていないかを知ってください。次にその動き方がしっかりと一つの方向になっていることです。この中でも変化できます。音程とらなくてもよいし、逆にとらないと難しくなるから、ことばをはずしてもよいです。

 皆さんが聞くと、そのまま平坦に歌っているように聞こえるかもしれないけれど、歌い手に置き換えて歌ってみたら相当、強弱をつけています。やってみたらわかると思います。 

 

伴奏に関係なくしっかりとリズムを刻んでいるわけです。だからきれぎれに歌っているという捉え方はしないでください。その表面的に出ている音がきれぎれというよりキレがあるだけの話です。必要のないところをはなしているからそう聞こえるだけです。しっかりとつながっているわけです。

 

 ドリス・ディのをコピーしていると思うのですが、日本人が捉えないところで早く入っています。皆さんの感覚でこう打つところの前のところで一つ入っています。その感覚というのは難しいのですが、あるレベル以上の音楽はみんなそうなのです。たとえば皆さんのなかで聞いていてキレがあるとか、のっているというのは3人ぐらいいますが、それはそこが打てているわけです。その他の人たちは、はずしているというよりも拍どうり打っているわけです。拍どうりというのは、はっきりいって拍より遅れているのです。ただ、一緒に手をたたいた人はそれで合うと思うのですが、それよりも早いのです。

 

 

ケセラセラ

たとえばこれにもピークがあるわけです。最後にピークになって終わるという音楽もあります。ほとんどの場合はその前に「ケーセラセラ」「ケセーラ セラ」「ケセラ セーラ」のどこかのところでピークをつくるわけです。そのピークをつくることで、動きがさらにわかりやすくなります。 

「ラー」と伸びていたら音楽にならないのです。その中で頭でやっているのではよくないですが、カウントはしています。終わり方も声のコントロールの練習になるというよりも、一番コントロールが問われるところです。

こういうバーンとついているやつは終わりやすいのです。歌だけで終わるという場合は、大変です。だからこういうのも必ず表現されているところには、何か中心があります。その中心をつかむことです。その中心は何も歌のとおりやらなくてもよいです。自分の中でつかんでいればよいです。

 

 使ったのは大体3度から半オクターブぐらいの中です。だから音域とか音の高さとかということの前に1つの音でも、3つぐらいの音でもよいし、5つぐらいの音の中でも徹底して、そこで表現をしておくことです。そこで出せる自分自分の声を知っておくことです。声は変わってきますが、声があっても歌になる人とならない人がいます。

声を出していても歌にならないのは、その声に表現をつけていかなくてはいけないからです。あるいは表現ということを声で伝えないといけないから、声だけがろうろうとしていてもだめなわけです。どこかでひきしめて、どこかでなげうったり、ゆらして動かさないといけません。まともな作品というのはそれを全部やっているわけです。

 

 プロが彼らの声だけで、そういうリズムの感覚、音の感覚、表現というところをぬいたときに、どんな歌い方になるかということです。歌の中ではただ、ひびかせているだけというところもありますが、それ以外のところは全部ふみこんでいるわけです。練習するところはそこです。 

その感覚を課題の中で自分でつかんでいくことです。声の量ではないのです。イメージとそれからそのイメージを忠実に再現する体がないというのはありますが、その2つの結びつきです。それで再現する。ただ、そこに強い意志がないとできないわけです。

 

 

 「とーもーよーきーきーたーまーえー」これが歌の世界だと思ったら、これなのです。どんなに声が出ても、これで誰もへただとはいわないし、マイクつければそれなりに何かいいですねといわれるでしょう。でも、そういう人というのは、せいぜい声がよいですねとか、味がありますねとか、そんな感じで音楽的には聞かれていないでしょう。

 だからそれではだめだということです。むしろそんな声がなくたってよいのです。ただ、息はないとよくないです。

 

呼吸は難しいです。息がないと表現の最後にきたときに、もっていけなくなります。あまったりするのは、自分で自分のピークを計算して出せないからです。だから本当のプロであれば、3題の課題で3つともピークを出せて、その寸法に合わせて3つともそれでやりおわったときにやりおわったという形で使いきれています。長いから息を使うわけではないのです。短くたってそこに表現をこめたら当然、使いますし、それなりに盛り上がっているわけです。

 それを1曲の中で10回どころか20回、50回もやってみて狂わないのです。より盛り上げていく並べ方ができるのがプロです。だから皆さんはとにかく、その1回を確実に出せることを考えることです。

 

 その1回を妨げる要因があれば、それを音感とかリズムのトレーニングとか、発声練習とか「ハイ」や「ララ」とかでしっかりとやっていくことです。2年間いろんな人をみていますが、今日やったこの3つのことが2年たって確実にコントロールできる人、自分の作品になっている人というのはとても少ないのです。

 比較的できているような人は確かにフレーズをまねていたり、それにのっかっている場合です。それはそれでよいのです。それでもできるというのは、大したことです。ただ、課題というのはそこにおりてくるわけですから、それに対してつけていくものがたくさんあると思います。それはわかりにくいところです。自分で舞台で声で表現してみたり、実際に歌ってみたりして、そのときに何かのギャップを感じないと、なかなか自分で聞いていてもそれなりに聞こえてしまいます。 

 

 

最終的にそれを見分けするときに、自分のもよいけれどプロのを聞いてみたらプロはキレ味があって、それで無駄がない。何か密度がとても高くて、よい意味での緊張感が1本しっかりと最後までとおっている。それに比べて自分のが、その要素が欠けているとしたら、それは駄作とみないとよくないです。

 自分の歌はとても判断難しいのです。自分なりにそうやったつもりでやった。ここはこうやったのだし、プロよりもよいところはあるのだとみてしまうのです。だからたるんでいるか、たるんでいないかみたいなことを厳しく判断すればよいです。その上で音楽性が問われるということです。

 

 音楽性までいかなくても今ここでやっていることというのは、トレーニングのことがしっかりと結びついて声として伝わるということです。一番根本的に捉えて欲しいのは、「ハイ」でも呼吸の練習でもよいから、それをやっているのは表面のところではないことです。口のところで表現したり、頭でやっているのではなくて、体の中心が全部動いていて、そこのところで音を動かしていっているのです。そうしたら、大変な作業になるわけです。

 

 10回もやってみたらいろんなことがバラバラ起きてくるわけです。そうしたらその中で自分で判断して、そのことをしっかりとマスターすることです。そのことの繰り返しだと思います。それが耳で、できてそういうのを学べて、自分でやったときに計算しない、息なり体なりが使えて、それでまとまったという感じになるのです。 

 

 

皆さんの体が30とか40でしか使えていない歌よりもよほどできます。その体の部分は当然100をめざしてください。どんなに息が吐けても、それで充分だということは、日本人の場合、絶対ありません。だからそれは鍛えられるところまで鍛えていくことです。それが全部できないと表現できないかといったら、2年やるだけでも普通の日本人よりは、よほど吐けるようになっているわけです。そのことを、今度は表現に変えていかないといけないのです。

 

 ただ、手先で動かすようなやり方というのは、投げることも打つことでも簡単で、それっぽくできるのですが、それを本当のフォームで打とうとしたときに、そのフォームを使いこなす感覚というのは、とても難しいということです。たった1フレーズやるのにすごい練習が必要だし、感覚も必要です。ただ、そこに切り替えていかない限り、要はステージが違うということなのです。切り替えてはじめてトレーニングというのは成り立ってくるし、その人の自分のオリジナルの部分に入れます。

 

 一流のヴォーカリストを見本にするのが一番よいのです。日本人で日本語をしっかりとこなせている人もよいでしょう。今のアーティストからもいろんなものは学べるわけです。ただ、学ぶところを間違ってはいけないということです。みんなそれぞれプロの感覚とか、そういったものがあるからやれているわけです。それは彼らのものであって、皆さんのものにするときには、皆さん自身がそれをにつめないといけないのです。そこで上辺をまねてはいけないということです。 

 

 

日本のポップスでも10年、20年やっている人、それだけ支持されている人というのは、音を動かす感覚とか、音のフレーズの感覚はもっています。同じことばを処理するのに音楽的にどうすればよいのかは、あまり問うていません。それがどんなに口先であったり、のど声であったりしても、その人のパターンだといわれるところまでなると、これはもつわけです。ただ、一番の問題はそういう人たちのそういうくせというのは、最初から1オクターブ半とかで高いところが歌えていて、それでつくってきた場合が多いから、そうではない人がそれをまねてその音色を加工していったら、同じことができないということなのです。

 

 それだったら声楽というのは、テノールの音域まででるようになるわけですから、そういうやり方もあるということです。それも自分の中でやってみてください。音のイメージをしっかりともつことと、自分の音をつくることと、それが与えられたときにどうすれば音楽になるのかを、いろんなパターンを覚えておくことです。

 

 これは特別でやるようなオリジナルのものから他の人のものを盗んでみたり、自分でやってみた中で、この一つだけは声も出たし、何となく自分のものみたいだという感覚で得ていくしかないです。

よんでわかるわけではないのです。コピーしてみるのもよいと思います。そんなところからやってみてください。基本の要素全部が問われるのです。ことばから音楽にする場合、リズムあるいは強弱、音の流れのところから音楽をもってくる場合と両方あってよいと思います。だからとまらないとよくないです。

 

 

「ケ セラセラ」でもとまるといって、体から全部が「ケ」ととまったらだめなのです。それはとめているわけです。そこで操れるのが、結局深い息しかないということです。「ケ セラセラ」もそれだけの体を使うわけです。その分が声になればもっと体を使うし、汗もかかないといけなくなるわけです。だからことばはとまります。こういうのは全部とまっています。ソプラノのへたな人などを聞いてみたら、とまらないで流れているから何いっているかよくわからない。単にひびいているだけで、ああいうのは歌にならないのです。聞く人の心がとまらないですから。

 とめるためにはかすれていようが、のどにきていようが、何であろうが、とにかくそのことばが、ばっと提示されてとまっていたら、それは聞こえてくるわけです。流れていたら聞こえてこないです。ただ、口先だけでとめようとしたら音楽的な音にならないから、それはとても不快なものになってしまうし、そこで音楽もとまってしまいます。 

だから体が動いている、呼吸が動いている、ことばがとまる。感情も伝えるためにとめます。感情を何か表現しようと思ったらのどにくる。そうしたらとまる。のど声になるかもしれない。でもそれ以上に体の方が動いていたら、そうしたらそこでぎりぎり表現としてでるわけです。

 その拮抗というのか、対抗しているぎりぎりひっぱりあっている状態がずっと3分間続かないといけないから、歌い手はしんどいのです。全部解放されて歌っているという人もいます。

 

スーザン・オズボーンとかは、そうなのかもしれません。しかし普通のポップスのヴォーカリストの場合、やはりことばをそこに入れます。抵抗感というのは、そういうものをもったままいっていると思います。それを全部はずして歌っている場合はとても不安になると思います。コントロールできない。それが一つのスタイルになっている人たちもいます。音色がよくないといけないとか、やわらかくないといけないとかいうのも、大体の場合は鋭く芯があって、刃先で声を使っています。そういうイメージを宿してみてください。

 

 

ーー

 

 どこまで、踏み込みや、感覚、音のとり方に敏感になれるかということです。このなかでわかっているのは一人くらいでしょうか。

 

(「夏がすぎさってこの葉がおちる 私の命も終わる

(レレレー ミミレレドー ドドドドレー ドシラー ラシドミーレドレレーララー)」)

 

 まだ歌詞しか見えていないようです。テンポ感と音感があれば、これはメロディとともに進んでいるので、難しくないはずです。もう少し音楽そのものから吸収してください。この音の構成の中に動いているものを素直に捉えてください。一人だけがよいものを出しています。それを学ぶべきです。特に出だしの部分は、もっとシンプルなものです。

 

 これは音域の広い部類に入ります。しかし結局、テンポ感とアクセントの強弱の感覚がまったくないから、とれなくなってしまうのでしょう。「私の 」のところでひっかかる人は多いのですが、リズムを感じながらやればできると思います。リズムは2拍3連でノリやすい曲です。体の準備と、スピード感がないとよくありません。 

「夏が 」から「落ちる」までで、4つの変化、起承転結があります。音よりも、フレーズのイメージで捉える方が強くしてください。

 

 

(「恋よ夏の日の出会い、君と夢を重ね会った 二人の愛の小屋はすでに誰もおとずれないまま、さびしくくちはてた

(ソソソー ファミレミレドラシシー ラララー ソファ♯ミファ♯ミレシド♯ド♯ー ソラシドードレドシドシシドシラー ラシラソソラソファミレミー ラドファミー ラドミレレー)

 

 こういうものに対応すためにどういう能力が必要なのか考えてください。何年やっていても音の世界に入れない人がいます。よい客として聞けないうちは、自分のやっていることがまったくわかっていないので上達するはずもないのです。 

今のようなフレーズは、技術的な条件も必要になります。しかし歌の場合、七割がその他のもので補えたら、もってしまう場合もあるのです。

 

 ほとんどの人が詞の背景だけを一所懸命、読もうとしています。

しかし、体に入れるというのはそういうことではありません。正確に読み、音をとりなさいとは、ここではいっていません。とにかく表現を出しなさい、といっています。力ずくで何かやろうとしているだけでは、まったく音楽的ではありません。 

セリフでできてきたら、フレーズをそれに近づけていくことが表現の基本です。歌というのはイマジネーションを感覚で一致させていくことです。ピアノやバイオリンもそうでしょう。

 

 

 皆は、イメージさえ出ていません。何を出そうとしていて、何を感じているのかがまったくわからないのです。示されていないから伝わらないのです。だから自由曲をやらせてみても、ものまねになってしまいます。自分の感じたことをきちんとつくり出して形にしていかなくてはいけません。フレージングというのは、やりたいことを、どう音楽として構成するのかということです。

 

イメージがないものは直しようがないのです。もう少し気持ちの面でやわらかくしていかないといけません。そうでないうちは、こういう世界に無縁なままだと思います。

 聞いた感覚に対して、自分のイメージをどう動かすかということにしか音楽が成り立たないのです。それは、決して音域や、声量のことではないのです。 

音の進行やことばでフレーズを捉えた人はうまくいっていましたが、頭だけでとると、失敗してしまうのです。 

 

どんな歌でも、歌詞を読んだときに、そのイメージが自分なりにきちんとつかめることが大切です。素人のカラオケがまったくうまくならないのは、歌詞を覚えても、意味をつかまないからです。歌がどういうことを伝えたいのかということをきちんと踏んでいなくてはいけないのです。そのために複雑にしないことが大切です。

 

 

(「あなたの目に星は光り、やさしい手は夢をさぐる

(ミ♭ラ♭ドレ♭レ♭レ♭ードレ♭ドドシ♭シ♭ー ミ♭ラ♭ドレ♭レ♭レ♭ードドシ♭シ♭ラ♭ラ♭ー)

 

 だらだらベタベタしているところは、感覚で変えていくしかありません。ことばでいう棒読みと同じです。音やことばをとるだけになってしまって、それを結びつける勉強がおろそかになっています。コードの進行を読んで自分でつくっていくということをやっていないからです。

 

表現に関する基礎以前に常識というものが入っていないような気がします。これでは当人が一番、楽しくないという気がします。どうすれば歌になっていくのかということを考えてください。自分のものが何か動かないとよくありません。 

 

 

歌には一つも無駄なところがないのです。とても凝縮されているものです。 

音が弾んでいてやりにくい部分もあるかもしれませんが、だいたいの感覚はつかめると思います。音程や、音の長さにだけに捉われず、いろいろな歌い方を試みてください。

 

 その人の心や体から離れたところで、いくら頭で考えてやっても、何も伝わりません。この1行で1年分、練習できるくらいです。集約されていないとダラダラベタベタとなってしまいます。だからことばのイメージを獲得していかなくてはいけません。

 

 

(「想い出をしずめて流れいく川よ 何を求めていくのか、二度とかえらぬ幸せ

(シ♭レ♭ーレ♭レ♭レ♭ーレ♭ドシ♭レ♭レ♭ー シ♭レ♭ーレ♭レ♭レ♭ーレ♭ドシ♭レ♭レ♭ー シ♭ドレ♭ーミ♭レ♭ドシ♭ー シ♭ドレ♭ーミ♭レ♭ドシ♭ー シ♭ドレ♭ーレ♭ミ♭レ♭ミ♭ーレ♭ドシ♭ドー)」)

 

 歌に限らず、音の世界というのは出した音を自分で聞いて確認しないとわからないものです。解釈やイメージそのものの方向がおかしいと、音楽になっていかないでしょう。それは自分の体や呼吸を知らないということです。全体のテンションやレベルがおちて、トレーニングが悪い方向にいっていると思います。 

 

いろいろと考えすぎて感情移入ばかりをしている人に対しては、歌は全てで伝えようとしつつ全部をいえるわけがないということを知ることです。

 この歌が、何をいいたいということから考えてください。作品の中に入りこんでも出せなくては何もならないのです。とり出ささなくてはいけません。

レーニングのときに体の内部を意識するのはよいのですが、歌のときそれをやろうとしても無理なのです。結局自分の力を分散してしまって、何を伝えたいのかわからなくなってしまうのです。

 

 トレーニングだから全てをめざしつつも、今できることを確実にやらなくてはなりません。一つが伝わったら、次の一つを期待されます。そこでさらに期待を超えた一つをおくのです。

 ある意味では、今できないことや感じられないことは十年後にもできないのです。感性や感覚にとりくむ態度の問題でもあるのです。たとえば、これはとても緊張度の高い歌です。しかし歌という形式が邪魔していると、できないと思います。

 

 

 歌の自由度を活かすためには、一人よがりになってはよくありません。やたらと伸ばそうとしたくても、それを聞いたときにどういう気持ちがするのか。伸ばすばかりでは、それによって曲が成り立たなくなってしまうはずです。だからといって切るばかりでもよくないです。 

 

一曲を歌うのは難しい曲でも、部分部分を歌うとそんなに難しくはないと思います。歌い手の計算とは、心と体の感覚の中で自動調整できるようにしていくのです。おのずと自動調整するように入れておくのが基本です。音楽とまではいわないので、表現の次元で感じる工夫をしてください。

 

主体的に感じないと何も変えられないものです。

 では自分の好きなフレーズ、自分に向いているフレーズを回してみましょう。(今までのフレーズを自由に) 

 

 

本人が何も感じず、出そうともせずにあるいは声だけをだそうとか、間違いなく音をとろうとしていては歌になりません。それはやった瞬間にわかるものなのです。出したものをきちんと自分で調整していってください。その人の中の感覚がどう働いているのかということを音楽的な部分に結びつけてください。自分の体と心とがピッタリとしているフレーズを選択していくことです。テンポやリズム、ことば、音、すべての中にそれぞれにいろいろなものが入っているのです。

 

向こうの歌に日本語の歌詞をつけると大切なものが抜けてしまうのですが、この歌は比較的、メロディ、フレーズの感覚と日本語の音の感覚をうまく処理しています。音楽にするときに自由度をうまい方向に使って効果をあげていきます。そういうやり方もあるのか、というものをオリジナルフレーズで聞かせてください。

 これくらいのテンポでできるように練習してきてください。では終わります。

 

テンポと拍は、動かしてはいけません。そのベースを踏まえた上で解釈していくのです。だいたい四つで一つのくぎりになっています。「アモール 泣いてはだめ 幸せがきえたときでも」で一つです。強拍がうしろにきているので注意してください。 

流れが体に入ったら細かく勉強するように考えない方がよいと思います。どこをいいたいのかをハッキリさせていくことです。ポップスは、リズムと音色が重要で、音程は情感のなかに入っていればよいのです。

 

 

 

(「青空に住もう」)

 そこを歌っていながら、そこにいてはいけないし、そこを歌っているときに、もう次の線を出すことです。

(「幸せがさえたときでも

(ドレミミミー ドレミソーファー ソーミー)」)

 

 大きな声が出たからといって、できたということにはなりません。むしろスピードが全てです。今やって欲しいのは、体の中で声をきちんと取り出すことと、その声に動きをつくっていくことです。体を使えば動くというわけではありません。動くべきところにくれば動くという感じです。「ハイ、ララ」というのも直線的に出したら動かないのです。出だしの「アモール 」でも同じです。正しいところで出せば失敗は起きません。 

自分で動きをつくってください。その動きを受けて自分の体が反応して次の動きをつくっていくのです。たとえば

 

「 モンド リジ 」と、どこかで聞かせなくてはいけない。動きがないと、せっかく声があっても、表現としてとんでいかないのです。ビルラの声の表面に出てくるものを勉強するのではありません。どのように握って、おとしこんでいるかをよく聞いてください。

 音は凝縮されたら次に動きが出てきます。その動きと呼吸が合っていれば失敗はしません。必ず自分の感覚や呼吸とつないでいくことです。次のフレーズをやってみましょう。

 

 

(「もし私だけ 

(シドレレーソソソー )」)

 最初に勉強して欲しいことは、自分の体や感覚をどうつなげるかということです。「もし私だけ 」というフレーズをどこも同じ意識や、同じ出しかた、息のスピード、体の使い方でやっていたら、歌は動いていきません。自分が出したことがどういうことなのかを自分で認知しながら学んでいってください。

 

 歌の中できちんとわかっていたら、ヴォイストレーニングをしなくてもヴォイストレーニングと同じことが起きるのです。トレーニングのときに歌の感覚を全部捨ててしまうのは、よくないと思います。

 トレーニングにしろ、歌にしろ、前に出さなくてはいけないのです。それから、やはり集中しなくてはいけません。次の「この葉がおちる」というフレーズですが、全部を均等に歌わないでください。

 

 

(「この葉がおちる

(レレレファーミレドー)」)

 こういう曲を聞いて、自分でことばをつけていくと、歌わなくてもわかると思います。演奏をきちんと、どう動かして出していくかということが大切です。動かし方には正解もありません。音感やリズムではなく、何を伝えるためにどれをどう動かすかということです。お客さんを引きこみ、もたせなくてはいけません。

1フレーズの中で、時間も空間も変わっていけないようでは、それが聞いている人の中に起こることはあり得ません。歌い手が表現したいベースの部分は何なのかということを、考えてください。

 

 この曲がどうすれば自分のものになるのかということを考えてください。今の日本の歌は上っ面なだけで、エコーでひびかせてつないでいるだけで、実のところ等間隔です。曲のスピードに日本人の体がついていかないのです。生理的に離れたところにあるのだと思います。 

 

フォルテシモというのは音を大きく出すことではなく、感情を強く出すことです。そのときに自分のことを知らないと、とんでもない自己流になってしまいます。一回、共通の型をふんだ上で自分流にかえていくことです。

 ここでかけている歌は、その基本を応用したものです。

その応用を基本に戻してから学ぶことです。そうするのとしないのでは、まったく、表現力が違ってきます。そういうものを読み込めるようにしてください。 

 

 

まず、楽器としてのプロの差を縮めていくことです。しかし楽器をつくるのには時間がかかるので、演奏の仕方も今から考えていく方がよいと思います。もっているものを曲の中でどのように自分のものにしていくかということです。

 グループレッスンの中でも、できている人はどこができているのかということを見てください。大抵はテンションの高さ、集中力、それから声のハリくらいでもってしまいますが、そういうものではないのです。もっと内部的に磨かれた感覚です。 

 

やるまでは、よく考え、よく聞くことです。考えながら声を出したり、歌ってもよくありません。今やっているのは最初の一行ですが、ここで声のことがわかれば、一曲くらいは難しくないと思います。

 

 声をコントロールしていないから、くずれるのです。自分の動きの線上に声がフレーズを描いていることが見えていたらよいのです。それが見えなくなると、どこへ行くのかわからなくなります。

集約されなくなると伝わらなくなります。マイクは悪いところを増幅させます。それをきちんと整理していくことを、ヴォイストレーニングでやってください。 どこで握って、どこで放すか、というだけの問題なのです。

 

 

 

ーー

【「失われた愛を求めて」入①】

 

(「君の心は遠く離れて」(ことば)) 

イメージの構築と、それに対応する感覚と体が大切になります。また、それらを意識しなくてもできるようにならなくてはいけません。今は、息に集約することを考えてやってください。 

息が乱れると、声にビリビリとなりやすく、のどを傷つけるし、後で伸びなくなります。いろいろな声を出してよいのですが、その中でもあとで使いやすくなる声を伸ばしてください。それは最初は使いにくい声かもしれません。正しい声というのは何回やっても狂わないもので、体が支えます。

 

それを声の中で集約させていってください。少し気を抜くと安易な方向に流れやすいのが声です。自分が集中して体を使って出している声しか、ものにならないのです。そういうことをくり返しているうちに、解放されていきます。

 音の世界は、目にみえないので、型から読み込んでいくことが大切です。何が足りないのか知っていくことです。

 

(「君の心は遠く離れて 遠く離れて 僕が呼んでも少しもきこえない 」)

 『声優トレーニング』のテキストを徹底してやることです。これはモノトークに関係する部分だけでなく、声の扱い方の基本トレーニングになります。

 

 

アナウンサーではないので、発音やことばの間違いなどはあまり気にしないでください。その分自分の中のフレーズの感覚を、きちんとつかんでから出さないと、聞き手も何をいっているのかわからなくなります。

ことばを正しくいうことよりも、フレーズや息の流れの方が止まってはいけないのです。まず、きちんと出発することと、方向性をきちんと出すことが大切です。

 これにメロディをつけていきます。

 

(「君の心は」

ファーファミファミレー )) 

メロディがつくと、ことばがとんでいます。今とって欲しいのは、体のメカニズムに合っている部分からです。どんなフレーズでも間違いということはありませんが、一つの感覚やバランスの中での正しい、深いということがあります。そのへんの感覚を原点に戻すことに、時間がかかるのです。

 

(「君の心は遠く離れて」

(ファファーファミファミレー ラシドーシドシラー))) 

音をとることで精一杯の人もいるかもしれませんが、全体の流れを重視してください。

「ファミーレー  ドーシーラー」というくらいの感覚を、どこかで入れておくことです。

もっともシンプルに捉えると、「きー  て」(ファー  ラ)というふうになります。こんなところから複雑に歌ってしまったら、大変なことになります。

 

 

(「君の心は遠く離れて」

ファーファミファミレー ラシドーシドシラー))

 今のフレーズでもたせられている人は、誰もいません。次を聞こうというところにもっていけていないのです。セリフやことばとは違う音楽のルールというより、感覚があって、それが入っていないと演奏にならないのです。声が出ることや音がとれるということなどは、その10分の1以下要素にすぎません。このためにも、いろいろなものを聞いて欲しいのです。イメージできないものは、声にも反映しません。

 

 自分でどう捉え、どういう方向にもっていくかということをしっかりと出していくことです。それができれば、歌の場合はもちます。プロできちんとやれている人は、感覚をきちんと出すということに専念しているのです。そういう人が、出だしから音楽を出せているというのはどういうことなのか。それがことばか声が、呼吸か、それとも何なのかを知ることです。

 

 音はとれているし、出せているのです。でもそこに感じるものがないのは、皆のなかで感じていないからです。その状態をつくるのはとても難しいです。曲の好き嫌いによって、気持ちがのったりのらなかったりするようではよくありません。瞬時に、一つの音ものがさないで自分で作っていかないといけません。

 

 

(「君の」(ことば)

「君の」

(ファファファー)) 

こういう短いフレーズのなかで肉声の声の質量のようなものを探っていってください。最初は、イメージして入れていかないと宿らないのですが、そのうち意識しなくても入るようになってきます。

 頭で考えてフレーズを作るのではなく、息でつかまえてから声にしていくのです。体や心を出し惜しんだら、歌も始まりません。

 

(「君の」

(ファファファー) 

息が回るのを待つことも大切です。最初は思いきりやってみるしかありません。体を一つに使っていくやり方を覚えてください。何か通じるということが大切です。それから、集中させていくことが、一番のリラックスのコツです。

 

(「僕が呼んでも少しもきこえない」

(ファファーミファミレー ラシドーシドシラー))

 

 

 次のフレーズにいきましょう。

(「きこえない まるで僕は」

(ラシドシドシラー ソラシ♭ソラシ♭) 

 

ことばや体を出し惜しまないで、きちんと使うことです。歌に逃げてはいけません。本人がそれをわからないと困るのです。歌ってしまうというのが一番ダメな歌です。最初は大振りでもはずれてもよいから、まず体や心が入るようにすることです。 

 

他人の課題だと思ってやらないことです。楽譜から歌ができているわけではなく表現が音の形をとっているのです。それを体と結びつけていくと、しぜんに歌になっていくのです。それを邪魔しているのが思い込みです。あまりに頭だけが働きすぎると、呼吸が小さくなり、心や体が働かなくなります。

 

 

一つの音、一つの声、一つの呼吸をていねいに使うことです。ていねいにしていくと、力が入らなくなるかもしれない。ある程度、力は必要ですが、部分的に入れるのではなく、腰やひざまでおろしてください。踊りと同じで、体にきちんと戻してやらないといけないのです。この一年は、そういう勉強をしていってください。

 

 今は、息に近い単純なところでとって欲しいと思います。一番、大切なのは呼吸の上に歌をのせてコントロールすることです。

 ことばをメロディ処理すると、ことばがくずれてしまう人が多いです。大抵、崩れる一つ前のことばから崩れています。一見簡単で、誰でもできているようにみえるのが基本ですが、そこでの感覚に天地の差があります。応用は基本を踏まえて、それぞれが自分でつくり出していくしかありませんいくら他の人の応用技をとり入れようとしても役に立たないし、基本のところが働かなくなってしまいます。 

 

「君の」とか「こころ」などということばは、基本ができていない人にとっては、とても難しく、音にならないところです。 フレーズをつくるときは、ことばではなく音色から入ってください。

 

 

(「君の」(ことば)

「君の」

(ファファファー)

 

 そのときに、歌わされたり、歌にのっかたりするというのはよくありません。最終的にそうなるのはともかく、トレーニングのプロセスにおいては、それは必要がないのです。今は、呼吸の流れだけで、フレーズ、メロディ、歌のところまでをコントロールすることです。声でコントロールしようとするから、間違えるのです。声はみえているところです。呼吸こそが、そこで、直線的なものではなく回っているものです。 

 

フレーズのつなぎで呼吸が切れてしまってはいけません。本当にうまい人の曲は、一つの流れで聞こえるはずです。音が横に広がらず、拡散せず、集中して吐き出すように歌っています。

 ことばをいい損ねたり、音に出せなかったくらいで、歌が崩れるわけではありません。しかし、息や感覚の流れがなくなったときに、歌は歌でなくなります。まず歌として提示するということです。それができたら、それをキープするということをやらなくてはいけません。 

 

 

感覚の違いというのもあります。「ファファーファミファミレー ラシドーシドシラー」というのは、「 ファミレー ドーシラー 」くらいで捉えればよいのです。突き放し、本質的なものを捉えてから、変化させ、自分に出しやすくするのです。 

シンプルに捉えないと体が大変です。すぐれた人ほど単純に捉え、その中の線をまた置き換えています。音のちらばりやバラつきで左右されないことです。それによって、声が変わったら音楽は生じてきません。

 

(「君の心は遠くはなれて」

(ファファファーミファミレー ラシドーシドシラー))

 

 同じメロディでことばを変えてやってみましょう。

(「僕が呼んでも少しも聞こえない」

(ファファファー ミファミレー ラシドーシドシラー) 

 

 

今は、体を意図的に使っているので、大雑把になってもよいのですが、流れを崩してはいけません。そこからは、音楽性とかセンスの問題です。表現として突き放せるかどうかということになります。そちらの方向にイメージや感覚が動いていることが大切です。

 

(「少しも」

(ラシドー) 

のどを開いて捉えたら、ことばがバラバラに分かれたりしません。今は体や感覚を作っているので、甘いところで捉えて欲しくないのです。ことばではなく、声の動きを優先してください。

 

(「まるで僕は」

(ソラシ♭ソラシ♭ー) 

響きというのは、上だけでも下だけでもよくありません。欧米のヴォーカリストの歌を聞いているとわかると思いますが、彼らは意識的に上とした下の響きを切りかえているわけではありません。体と心を逃がして歌ってしまわないことです。最初は感情と音楽性が矛盾するので、大変だと思いますが、徐々に融合させていってください。

 

 

 

<Yesterday as I was young>

(「丘の上に立ち 腕の中で 息を殺し 見つめるきみ もう住めない 生きていけないと 泣きながら となりの街には 仲間がいる」

(ララララララドーシシ シレードシララー ソソソシラシー ララララソソ ミーミラソラ ラララララドーシシー シシラシシー ラララララドーシシー シレドシララー)