一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 16881字 1034

 

ステージ実習コメント

新入

 

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【新入ステージ】

 

 音声表現としての線から考えると、とても弱いです。歌い上げた人などもいましたが、それだけです。伝わりません。ここの基準を、歌あるいは表現として覚えてください。誰でも15分くらい語るのであれば、20年以上、生きている人ならよほど話せない人以外は、価値のあるものは出せるはずなのです。それを取り出すトレーニングをしていないだけです。しっかりとした状況の設定、役割の把握、内容の選択決定があったのでしょうか。それを3分間で集約して伝え切るのが歌です。

 

 表現をやっていく以上、スタートラインでも普通の人と同じであってはいけません。そうでない人は、早く同じを超さなくてはいけないということを覚えてください。ここでは「入門科だからよい」という見方はしていません。今まで生きてきたのだからというところでみて、期待しています。だから、「青年の主張」で終わらないでください。歌までいかなくともせめて、一人ずつまわしたときに、舞台表現として一般の人が暮らしていくときに必要な表現力以上は出るように注意してください。習いに来ているといった安易な雰囲気からは脱してください。日々、すべて勝負です。 

 

内容的なことでは、皆さんの考え方がまとまっていて、まとまっているだけで内容を表現するとしたら、もう少し何かひねらないと難しいところがあります。ここでみているのは、音声での表現です。内面に関しては、二次的なものとして受け止めています。しかし、内容を伝える気持ちから声は出るのですから、何でもよいわけではありません。作文力をつけようということより、表現するのに足る内容を知ることです。

 

 

 結局、私が一番不満に思うのは、ここにいる理由が多くの人の場合、感じられないところです。ここを研究所などと思わなくてもよいです。皆さんが研究所を“すごく”思っているとしたら、大きな間違いで、ここをすごいなどとは思わない方がよいと思います。あなたがすごいかどうかだけです。

 

 声の問題、歌の問題も、私からいったら全部表現のことなのにどうしてこうなるの、という感じです。正しいことは皆さんのふしぜんな表現のなかにすでに大半があるのです。しかしまだことば、つまり頭だけの世界に生きていて、それが音の世界になっていないというところと、ことばのなかでの制限が大きくかかっているままに出しているのが問題です。 

 

ここにいる理由というのは、本当のことでいうと、皆さんが自分自身であればよいことなのです。そこから歌の力も伸びます。一つの時間と場を共有するところで気づき、得たものを歌といわなくても表現すればよいということなのです。そこで歌いたければ歌えばよいでしょう。

 

 

 あまり自己啓発的なことを目的にしない方がよいと思います。ことばは区別する働きがあり、限定しがちです。それだけでは何も伝わりません。確かに皆さんの節々には教訓らしいものはあって、私もなるほどと聞きましたが、そのまま受け止めてよいのだろうかというようなものがずいぶん多いのです。すべて、批判的に受け止めるようにとまではいいませんが、自分のなかに取り入れるときに必ず自分のなかで咀嚼して、もう一度、自分のことばで置き換えないとよくないです。まして、他人に発言するのですから、なおさらです。 

 

自分を表現できると歌になり、それで自己啓発になのです。表現できたということは結局、価値がついたということです。誰も認めなければ表現できたとはいいません。そうしたら、認めた人から何らかのお返しがあるのです。そこで何かが返ってきていたら、しぜんとめざすところへいけると思います。 

 

ただ、分けて考えて欲しいこともあります。たとえばタレントさんは頭の回転もよいし舞台で表現する才能もあります。時流にも合っています。それがメリットであるのと共にデメリットです。つまり、認められやすいがゆえに飽きられやすいのです。だから、彼らがストレートに取り出した表現も、裏舞台で努力して頭をひねって体で練り直し、考え抜いて出しているものです。それに比べ、研究所の多くの人に欠けているのは、そこで全力をつくるプロ根性とかプロ精神です。 

 

 

一つのものを与えられたときに、どれだけの責任をもってやるのかをみています。歌うにあたって少しは考えてやってきたのかということです。自分で歌いこなせなければ、日本の最果てでも外国にまでも本当に行って仕上げてくる。そのときにお金や時間という問題ではないのです。それは人前でやるということの最低限の責任感からです。

 そういうふうにして、自分のなかに入れていかないと、いつまでも何も身につきません。

そのことに時間と手間をかけてその結果を得るのは当人なのです。ヴォーカリストはそれが宿るまでどんなに赤字になっても投資していくのです。しっかりやってきた人はやってきたぐらいにできるのです。ステージになるまで本気でやればやるほど得するのです。ここで、やったものが身になるのは皆さんの力によってです。

 

 ここの2年間というのは、皆さんが力をつけるための2年間です。一つひとつの課題のなかで、どこまで気づき、煮つめてやっていけるかということです。これが、あなたの可能性です。たとえ練習で100パーセントできたということが、ここでやってみたら10パーセントも表現できなかったとしたら、いろんなことが明確になってきます。しかし、果たして100パーセントでやれたとしてどのくらい通用したかということです。そういう場として活かしていかないと、何にもなりません。 

 

モノトークの課題は何でもよいのです。私は本当は音声で聞いていたいのですが、音声があまりに聞けないから内容面に入って、内容とかストーリー重視のコメントになってしまうのです。歌っていく以上できたら音の感覚を取り出していくようにしてみてください。

 

 

 結局、ことばのところにある感性を感じる力、それから人に与えたときに、そのイメージを想起させる力が問われます。この働きがなければ、自分がいくら感動したり、いろんな思いを抱いてきても、人に伝えることができません。人に伝わらないものは、プロなら無価値です。

逆に何でもないことであっても、その人を通すととても感動をもたらすこともあるわけです。そこで問われる表現力こそ、実力です。まったく嘘であっても、その人がいったら、本当に心を動かされるというようなリアリティが、芸の世界なのです。同じ話を聞いていつも同じところで笑わされるとか泣かされるいうのと同じです。そうなれば内容でなく芸なのです。

 

 歌というのは同じフレーズが出てきます。曲でも誰もが、内容はわかっているわけです。それでも何度も聞けるし、聞きたいわけです。毎回変えているわけではなく、落とせるところに落とすのです。それを保たせるのが一つの技術であって、その人の感性です。人間のことを知らなければ歌えないとは思いません。ただ、自分のなかでそれを感じていなければ、人に伝わらないと思ってください。

 

 中盤くらいのところで二人ぐらい音声表現らしきものが出ていました。がんばって歌ってくれていた人はいたのですが、結局くせがついたり、へたな抑制がかかったりしていました。自分で計算したものをそのまま見せても、芸にはならないです。ただそれはそれで、今完成品を見たいと思っているわけではないし、2年たっても完成品とも思わない分野ですから、とりあえず評価してもよいと思うのです。

それはここに出て、まったく汗をかかなかった人に対して、汗をかいたことを評価するということで、作品のレベルの問題には入ってはいないのです。ただ汗をかいた時間を過ごすことの方が、こういう場においてはプラスになるという面において評価するということです。

 

 

だから、大きな勘違いも大きな方向性の間違いもありますが、そういうものを除いて、一所懸命やっていることが伝わることは根本です。しかし、音や声として大きいのは、音声表現とはまったく違うのです。そのようにやってはいけないのではなく、そこから1年も2年もたったとき、それなりにまとまってくるところに表現が感じられてきます。声がしっかりとできると、器用に歌えている人にあとから追いつけます。

 

だから、声を大きく出すことをだめだとはいいません。大きく出るのは、それだけうまく出ているともいえるからです。ただ、それを知ってやらないといけないということです。

 そんなところで計算したり、感動させようと考えはじめたら、もっとおかしくなります。くせとか、音に関するセンスとかいったものを、急に変えるというのは無理です。そのことを学んでいかないといけないし、やらないとよくないです。

 

 リラックスして、心のなかにあるものをしぜんに取り出し、一所懸命に伝えようとするだけで充分な表現になるとか人を感動させられるとは思いません。表現として大した価値もないでしょう。皆さんのなかに何もないとはいいません。歌も感動する心もあり、何かいうべきことばもあるでしょう。ただそれを表現として取り出し、表現としてみたときに、価値があるかは別の問題だということです。

 

 どんな人間でも10年、20年生きてきたら、それなりのものはあります。その中から通じるものを自分で選んでこないといけません。いかに他の人と違う人生を歩んだからといって、それが蓄積されるわけではないのです。いろんな体験があったことは有利でも、それが伝わらないと何にもなりません。とり出すには自分を直視することが必要です。 

 

そうでなければ、メディアとしての歌とか声と捉えた方がよいと思います。「歌と音楽」という課題では、どういうふうな結論になるかと思ってみていましたが、やはり日本人の考え方らしいもので、サウンドに合えばよいとかリラックスしたりしぜんにすごくよいものが生まれてくるとかいうお気楽な考え方です。

 

 間違ってはいけないのは、人に対して与えられるものというのは、全てパワーがあるということです。パワーが出るということのためにリラックスするのです。しぜんに弱く出すのも、パワーに支えられた上で完全に構成している場合に、サウンドとなるのです。そういう力のでない人がいくらやっても通じないのはスポーツと同じです。本当に単純な話です。

 

 

 受け取る人は、それほどばかではないということです。もしそうではないと思ったら、すでに世の中で大きなことをやっていった人をみていたらよいです。その人がどれだけの言動と、どれだけの行動力をもち、どのくらいのパワーを若いときに出し続けていたか。ときにそれと似たような作品を一つ二つつくってみて、何かできているような気になっても、まったくの勘違いです。

ミロでもピカソでも、似たものというのは美大生でもあるいは小学生、中学生でも描けます。私でも描けると思うぐらいです。それで似ていると思うのとは、まったく違う次元のことなのです。そこは間違えないことです。

 

 「肉体的なトレーニングをやって、それが歌にどういうふうになるのか」などと聞く人がいます。それは、その人が歌と考えるもののレベルが低いだけでしょう。体力がなく、毎日15分の練習でチャンピオンになれる人がいるなら、そのスポーツのレベルが低いということです。チャンピオンであっても、一流の選手ではないのです。そういったものがポピュラーになることはないでしょう。昔は野球部、今はサッカー部など、運動の一番できるような人たちが行っているところではとてもレベルが高いわけです。 

 

あたりまえのことをやってもできないから、才能や努力が問われてきます。高校生あたりが人前に出しても、みんながお金を払って満足できるようなことができるようになるわけです。それは、その分野のレベルが高いということです。その県で二つぐらいしかその種目をやっている高校しかなくて、一つ勝てばインターハイにいけるというなら、その分野自体が弱いわけです。そこでは感動できるプレーというのは出てこないでしょう。だからメジャーなスポーツになりません。 

 

 

歌は、そうではないのにメジャーになるから困るのです。欧米のように、よほど上のレベルの人たちがやらないと人を感動させることはできないというのは層の違いです。

 音楽に関しても同じです。本来であれば体に声も音も満ちあふれていて、音楽的な表現も、表現したいことも、それを単に切り取ったら歌だというところからヴォーカルが存在します。 

それが最初からできるのは天才的な人以外いません。しかも、日本は層が薄いのです。

 心を開いてさらけだしたら何か出てくるものではないのです。演劇とも違い、音楽的ものというのは、昇華されているものと思っています。 

 

舞台で自分はこんなに醜いといってのどに指をつっこんでゲロを吐いても、感動しないでしょう。「やめてくれっ」といいたくなりますね。だから心を開いてさらけ出せばよいということではないのです。 

ただ、何にもない人が何か表現しようと思ったら、そこのハングリーさと舞台への執念をみせるしかないわけです。力が余っている人がお客さんの前でゆうゆうと出して、それで芸になるならよいのですが、それが少ししかないし、技術も人並みぐらいしかないとしたら、1しかないものをどれだけみせるかということになります。

 

 私はアングラ演劇は好きではないのですが、ああいう雰囲気は嫌いではないのです。理解できないものを理解しようとか、それに対してコメントをしようとは思いません。しかし、そこに力というものが出てきたら認めようという姿勢でやっています。だからおもしろいとか、おもしろくないとかいうことも一つの基準として問われます。 

 

 

表現として直面させられると、たとえば気持ちよいとかおもしろい音楽だけではないわけです。衝撃的なものであったり、気持ち悪くなるようなものでも、働きかけがあれば表現です。刺激ということで、皆さんが何かを気づくとかいうことがあります。ただ内面的に、ゲロのまま出してしまうというのは未消化なのです。その人がそれと格闘している姿をここにみせるものかもしれません。

 

 しかし、力がないときでさえ、本来であればここに出るまでに一つの結果を出してくるべきなのです。本当のことでいうと、消化から昇華させてくるべきです。昇華されたものを聞いて私たちは気持ちよいと思うのです。でも、大変だっただろうというそのプロセスに心を打たれるのも多いわけです。そのへんのことも混同はしないでください。同情をかうのは、評価以前の問題です。

 

モノトークで、皆さんのプライベートなことを知りたいわけではありません。過去といっても後ろ向きのことなど具体的に語らなくてもよいわけです。ただ、自分ではその意味を知っていないといけないでしょう。それがわかっていると、ことばが具体的になります。

それがわからないままやってしまうと、結局ここにきて声やことばを出していたら認められるだろうとか、表現っぽくやっていたらよいのだろうという甘えや、媚びが出てきます。それではまったく伝わらないし、まして感動しません。くせだらけになってしまいます。それは、突き放して表現しないといけないのです。自分の心をさらけ出せばよいというような甘えは不要です。自分さえ突き放すという厳しさが必要です。

 

 

要は、ここで何か人に与えればよいということです。よく歌は楽しければよいという人たちがいます。私はそのことば自体には反発するのですが、本人も客も本当に楽しくないのはどうしようもないでしょう。そうでなければ歌である必要もないでしょう。聞いている人が悲しくなっても楽しくなってもよいわけです。歌がしっかりと昇華されているものなら、どんなに悲しく歌われても、カタルシスとまではいいませんが、希望が出てくるし、元気が与えられるわけです。表現の価値とはそういうことです。

 

 どんなことであっても、よいことも悪いことも、とにかくたくさん起こった方が自分のためになると思ってください。そこに手段と技術があれば、また何か与えられるわけです。基本あっての応用なのです。皆さんがここに立つべき人であれば、聞いている人に対して何かを常にギブするスタンスで生きることです。伝えたいことと伝わることとの間に矛盾が起きてもよいでしょう。それを一致させる努力をしましょう。

 

本を読むことでも、歌でもことばでもよいでしょう。最初はすべてバラバラなのです。その矛盾のまま取り出すのもおもしろいですが、できたらそれを、一つに一致させていくのです。あなた自身の力によってです。一人の人間が全身で一致させたものは気持ちよいものでしょう。ここは、一致させる努力をするところです。それがみえているのもおもしろく聞けます。だから、それがライブだと思ってもらえばよいです。

 

 

 逆に、他の人のエネルギーを吸い取る人というのは最悪です。それではいつまでもお金を払ってやるしかないです。「私の歌を聞いてくれてありがとう、ごめんなさい」といって、みんなにお金を払うしかないです。皆さんはその逆のことをやっていかないといけないでしょう。 

歌とか音楽とかことばといっても、その人のなかで表現したいものを宿して、そのつくった空間に引きずり込んでいけばよいだけなのです。複雑に考えなくてもよいです。力をつけてくださいというのは最終的なことです。

 

だんだん、みんなでがんばれば、何かできるという風潮の世の中になってきているから難しいのですが、結局、自分の体のところはみんなでつくれるものではないのです。これは、自分が一人で生まれて一人で死んでいくというところと共通していることで、そこに個としてつけるべき力なのです。

 

 だから力がついたら、一つにこっとしたら、多くの人が元気になるわけです。そのぐらいの力をつけてください。それがない場合は、技術や人となりや衣装でカバーするなど、いろいろ工夫することです。もちろん、まず正攻法でいくとしたら、体一つでやっていくことだと思うのです。その次の段階で、サービスすることです。 

 

 

いつもにこにことしているのが表現で、皆を幸福にさせるためにするなどと思わなくてもよいです。私なんて大体、冷たいことしかいいませんから、たまに一言優しくいうと、じわっーときたりするらしいです。それでよろしいわけです。それはよいとか悪いではなくて、その役割だからそうやっているだけで、私は肩が凝って仕方ないのです。早く楽にしてくれや。

 

 セリフのなかでもモノトークのなかでも歌のなかでも声をつかみ、その声を出す、それをどう動かすかというところで、この空間や時間を感じる。それが瞬時、みえたところを感じとって、自分もそこで勝負するのだということがわかればよいと思います。 

 

歌でやっていくかどうかというのは、好き好きでしょうが、ただ「歌う理由」とか、「歌と音楽」などといろいろめんどうに考えなくても、結局のところ歌いたければ歌えばよいということだと思います。頭で考えすぎると却ってわからなくなってくると思うのです。しかし、一つひとつを正しく考える習慣をつけていくことは必要です。頭で考えるから間違えるので、命で考えるのです。考えないでやると、伸びないことが多いのです。伸び悩むのは考えるために必要だからと思ってください。

 

 

 表現の価値として音声を切り取っていかないといけません。歌でもことばでもよいのですが、そこでこだわらなければいけないということです。歌うのとことばとはある面で同じです。必要なことというのは、いったときにその人が何を込めて何を伝えようとしているか、徹底して煮つめてくるということです。そうでないと表現になってきません。 

歌い上げたら楽なものです。逆に歌で基本の技術をそのまま、くせやサウンドとかの助けを借りずに、しっかりと出していこうとしたら、かなり大変なものです。そのギャップを自分で自覚し、こういう場で表現して、それを補うようなことをやってみてください。

 

 ここで問うている音声表現というのは、基準としては心と体が声についているということです。それが声から制限されているのを解き放ちます。心を込めて読めるようになること、そこで、もっと声があればそれがよりよくに聞こえるという人は、声に制限されているのです。そうしたら、声をつければよいわけです。

 

 

音楽でもそうです。音程もリズムも完全になっても、パワーが足らないと伝わらないというところからスタートすると、わかりやすいものです。多くの人は、声から制限されているというよりも、思いとか伝えるということに意識を働かせられないのです。そこから出てくる表現はありません。出そうとしていないのですから。それができるために必要なことを知るまでは、発声に入れないし、発声ができても仕方ありません。

 

こういう研究所にいる間に、自分の一番みたくないところをみていくしかのです。それこそが、勉強の本質的なことです。自分をぐーんと伸ばすのに必要なことです。伸ばしていくのはよいところばかりでよいのですが、それを本当に伸ばすのなら必ずウィークポイントがひっかかってきます。 

表現しているときにも、これは「いやだ」と感じる心もあるでしょう。そこでは自分の感情に素直にすればよいというよりも、一つ上を考えなくてはなりません。いやだからよけていてはなりません。獲得すべきことは、声を自由に扱える柔軟性(☆)なのですから。

 

 プロは私がこういう課題を与えたらどうするか、その場でアレンジしてやってしまうでしょう。それを自分のものとして出すということで、チャンスにかえようとするでしょう。 

気分のまま、逃げてはいけないことです。それを逃げて自分の好きな曲を歌っても、その曲が自分のものになっているかどうかというのは、一番わかりにくいからです。自分の曲というのは自分の曲ですから、歌ったらそれでよいわけです。それだけではいやだから、ここにきたはずです。 

ステージ実習では、他の人と同じ曲をやっていくのです。競い合うわけではなく、そこで気づいていくことが大切です。だから、他の人に気づかせてあげるようなものを、それぞれがもってくればよいと思います。

あとは、人間を勉強してください。

 

 

こういう世界のなかでは、世代の違う人たち、特に上の人はパワーあります。この前、宮城大学学長の野田一夫さんに会ったのですが、「天分も必要だ。しかしいろんな天分があるので、それを分野から限定する必要はない」といっていました。

 もちろんそれぞれの分野で知らないといけないことはあります。しかし、私も歌い手とか役者とか声優という分け方はしていないです。要は、その人が来てそこで価値が出せるか出せないかだけです。そのレベルの高さ、表現の深さについてみています。 

 

本当に声優をやっている人なら、歌えといわれたら歌えるでしょう。俳優をやれといわれても、ある程度のことはできます。何をやるかというジャンルでなく、どんな客に対してもアレンジできるというのが実力です。それがその人のなかにすべての価値が入っているということです。 

だから、世の中や客に合わせようなどということから、考えなくてもよいということです。他の人たちの歌がどうであれ、今の日本がどうであれ、自分がやるといったらやればよいということです。

 

 野田さんがいっていました。「昨年はみんな不景気だとか大変だといっていて、日本ではいろいろ悪いといわれた年だけれど、私にとってはよかった。野茂さんにとってもよかっただろう」と。

日本がどうなろうと自分がよければよい、関係ないという話です。日本が悪くなるから自分も悪くなるというような方に影響されるのでなく、自分が日本に影響を与え、よくすればよいのです。世の中や時代に影響され埋もれてしまうのは、所詮それだけのものでしかないということです。アーティストはその逆をやる人です。  

「もうそろそろ年だから、あとは死んでみたい」

「誰も死後の世界をみていないのだから早く死にたいよ」ともいっていました。

そこまで積極的に生きるからこそ、思う通りに人生がいくのではないかと思います。

 

 

 ポジティブになるということも、たかだか既にあるところ、誰かが苦労してつくりあげたライブやCDのプロデュースにのっかることをめざしているようなことではないでしょう。要は、作品とその人しだいなのです。魂、人間の存在のあり方なのです。 

ここ半年みているなかで、今日のは悪くはないです。あとは、自分がやったときに相手に伝わっているのか、伝わっていないのかを感じることです。皆さんの年代では、他の人がどう思うかと考えないで、やりたいことをここでやって、勝手に帰ればよいのです。ただ、そのときに誰かには伝わったのかとか、終わったあとにどのように印象に残ったのかということは、反省しましょう。 

やっているときには何がつかまえられているのか。拍手は早く去れという拍手なのか、感動の拍手なのか。そういうのをつかんでいくことです。 

 

皆さんのやるライブの場よりも、ここの方が相当厳しいはずです。ヴォーカリストとして基準を宿しながらやっていく人たちばかりだからです。 

出るだけでは意味がないのですが、最近それすらしない人が多くなっています。失敗とか成功ということではなく、まず出続けることに意味があると思ってください。その意味をとってください。他の人がどう変わっていくかというのもおもしろいと思います。半年、一年といろんな面での差がつきます。半年ぐらいがんばって、ポシャってしまう人もいれば、1年ぐらいたってからメキメキと上がってくる人もいます。できたら長期的に伸びていく方向にしてください。

 

 最初に人に認められようとがんばりすぎる人というのは、危ないところがあります。半年やったのに、といって挫折していく人もいます。やめたらその半年は何にもならないわけです。それは、歌が半年くらいでできるというくらいにしか、この世界の素晴らしさを読み込めなかったのでしょう。その結果、そこにも達せなかったわけです。やった年月を活かすために、効果がでるまでやるしかないということなのです。自分の可能性を自ら切らないようにしてください。長くいて正しくあったら、誰でも相当の力はつくのです。

 

 

 

 

 

【ステージ実習① 「恋しくて」】

 

 曲は、比較的よい選曲だったのではないかと思います。私は上のクラスだからとか、入門科だからという差はつけないで、一つのステージ一人の人間としてみています。もう少し大きいスケールでの歌を期待していました。誰がよかったとか悪かったとかという見方はしないで、自分が前と比べてどうか、あるいはその人が普段グループレッスンのときより、できているか、以前のステージでできたことに比べて、どのぐらいの完成度かという点でみていますので誤解のないようにしてください。

 

 だからまったくできていないように思えても、前よりできていればそれでよいと思うのです。これは自分のトレーニングの期間での見方です。入門して初めてやったときが最高で、トレーニングをやればやるほど落ちていく人というのは問題があります。歌がへたになっていくのは、構わないです。一時、沈んで、より大きく出られるようにするのが、基本トレーニングです。先の出口に近づいている意味で器をつくっているのならよいのです。

 

 まず、影響を受けすぎています。たとえばサザンオールスターズの「いとしのエリー」をレイ・チャールズが歌っているような感覚を期待しているのです。レイ・チャールズがこの歌を歌うときにはどうするでしょうか。つまり、そのぐらいの置き換えを自分の体の中でしてくることです。このぐらいの曲はこなせるのではないのかと思った人ほど、はずれていました。 

 

 

ここで試みていることは、のど声をはずしてオリジナルの声を出していくことからです。日本のヴォーカリストは、のど声で歌っているか、上にまわしてひびきであてたり、柔らかくして出しているわけです。そうではないものをめざします。体に、身についている声、自分の呼吸と合っている声をストレートに使います。

 入れているところは入れていて、柔らかいところは柔らかくしているのは彼のオリジナルのこなし方です。感情移入も間のとり方も、スケールも大きくとっています。それはそれでよいと思うのです。ただ、それをそのまま受け継いでしまうとよくないのです。受け継いでもよいところと悪いところがあり、少しできている人ほど悪いところを受け継いでしまったような気がします。自分の体をどこに置いてきたのかを問いたいものです。

 

 いつものことですが、声とか体のがんばりがみえている人は、歌とかお客さんへの愛情が欠けている気がします。がんばっていても要領をつかんでいないのです。だから舞台とトレーニングは分けることです。これは同じことの延長上にあるのですが、感覚は違うはずです。トレーニングは中のことを煮詰めないといけないし、舞台というのは外に出さないといけません。見せるのがステージです。そうでないとオリジナリティができてこないし、スケールの大きさがとれないと思います。トレーニングの中で、それがとれるようなトレーニングをやっているはずです。

 

特にみえなかったところは、体、感情移入のフレーズです。もう少しできたはずです。それから、フレーズの処理です。この曲自体をきれいに歌おうという方向で運んだ人がいたとしたら、音感とリズムに関して、かなりの正確さと細かな処理の仕方が必要になるでしょう。練りこんで歌っていく方がブルースに限らず、まだオリジナルにもっていきやすいです。そのへんを間違えないでください。

 

 

 それからすきをなくし詰めること。これは仕方ないですね。まだ、トレーニングでもすきだらけです。結局3回やったら3回とも変わるフレーズというのは、本番では使えないわけです。

 冒険するのは構わないのです。ただ、それがあまりみえみえで何回でも同じでは、かえってへたなのをアピールしてしまうことになります。変えるのはよいです。感覚的に変わるのもよいです。できなくて変わってしまうのが困るのです。すきが出て、詰めが甘くなります。だからそこでとまってしまいます。これはよくないです。

 

 それからことばです。これはことばだけでもっていけない歌だと思います。構成を自分の中でもう一度やらないとよくないです。大体平々坦々と終わってしまった感じがします。ブロックの切れもなかったです。この曲ならこの曲のブロックというのはあるわけです。そこで一つの物語が終わってきれないと次にいけません。歌を次に展開しないといけないのです。それを観客がくみ取るのではなくて、皆さんが意識しないとどうしようもないわけです。ことばからやってもメロディからやっても構いません。

 

 「かわすことば ゆきづまり~」のところでもひきつけられていないわけです。本当のことでいうと他のところよりもそこは高いところにあって、そこまで高まったところで何かが出てくるかというのがみせどころです。逆にいうとこの歌の歌いやすいところです。そこをはずさなければ何とかもつ歌です。そこで熱いものも出てこないし、感情も高まってなければ淡々となってしまうのは、あたりまえです。だから出だしの調子でやってはよくないですし、出だしからもそういうふうにもっていくのをみせるという感覚は必要だと思います。

 

 

 大体、日頃から自分を見せることをまったく意識していないでやっていませんか。レッスンでも、そこは自分の成果をみせにくる場でしょう。ショーエンターテイメントの意識をもつようにすることです。 

 

それからこういう歌ですから、吸い込んで歌っているような人が多かったのですが、基本的に人前に立ったときは、吐き出すしかないのです。それは覚えておいてください。皆さんの若さで吸い込んだり、ひいて歌うやり方を覚えない方がよいでしょう。何曲かあればそういう歌を1曲入れてもよいが、これ1曲で勝負するなら吐き出しまくるぐらいの感覚にしないともたないのです。1曲を選ぶときはそういう曲を選ばないと印象度がなくなってしまいます。

 

 そういうことによって体が揺れてきたり、息を吐いたり吸ったりすることがわかってきます。今のままでは、入れ方も遅く息の動きが小さいです。これは今歌って大きくとれるわけないので、仕方ないのです。ただ、ここを一番みていると思ってください。背骨から歌っているかどうか、必ず息の動きが大きくなってくるはずです。実際に動く必要はなくとも、イメージの中で腰が中心に歌えているというのは、結局そうなってくるのです。声の芯がないのはそういうことができないので、声は芯から展開しないといけないのです。少々うまい人ほど展開の方に頭がいって器用にこなしてしまうのです。展開のコピーをした人は何にも出せなくなっています。するともとの曲の方がよい、もとの歌い手の方がよいということになってしまいますので、やはり自分の芯からつかみ直してこないといけません。

 

 

 芯というのは声の芯だけではなく、精神的なもの、心の問題もあります。それから自分の呼吸をとらないといけません。リズムを刻むのも、なるだけ体に入れることです。自分の呼吸からはずれたところで、息も吸えていないのに、次のリズムに合わせたからといってそこで出しても伝わりません。

今はバックに伴奏をいれていないし、マイクを入れていないでしょう。少々テンポ感がおかしくなっても、これは、自分の呼吸で声がある程度動かせるように、もてるようにしているのです。もっと単純なことでいうと、瞬間的に呼吸が用意できないと、到底これだけのスケールの大きさというのは歌えないのです。

 

 今は感じてもらえたらよいでしょう。もっと早く呼吸が入ればとか、大きな呼吸があればここが歌えるのにというように、そして、その努力をしてもらえばよいのです。そのときに足とか手でリズムをとっていると邪魔になってしまいます。それに限定されてしまいます。体に入れていって欲しいと思います。

 

 それからポイントでの勝負というところをはずさないことです。この曲もいくつかのポイントがあるはずです。それは、そこでとまらないといけないところ、何か伝えないといけないところです。

たとえば「もういちど もういちど」と2回同じようにいうところで、2回とも弱くふわふわといったら何のためにことばを重ねているのかということです。歌詞もメロディも同じように伝えようとしていることが必ず一つはあります。それをくみ取らないとよくないです。頭を使うのではなく、何回も何回もやっていたらわかることです。心でつかんでください。

 

 

 いつもキレをいうのですが、それが前に出ていないといけません。リアリティがなかったような気がします。いいたいことが心と一致していない、他の人の歌を歌っているという程度のものです。そんなに古くなる歌ではないから、もう少し説得力があってもよいのではないかという気はしました。感情移入しやすかった曲の割にいいたいことがはっきりしないまま、歌に流れてしまったような気がします。

 

気持ちの高まりがみられなかったのが困ります。まず気持ちの高まりがあってどう動くかと、いうことです。そこで声が動揺してきます。これはよいことなのです。何も感じず声をスパスパと置いていくよりもよいことです。動揺するから、声をつかんでいなくてはいけないのです。そこに支える技術や呼吸が必要なのです。その3つがともなえばよいのです。

 

 歌に必要ないいたいことがないというのは、致命的な欠陥です。声の動揺ということや、求めたいのは息とか声の動きとか音色のところです。体や心でやっていることを伝えるというレベルのことをやりたいものです。この歌は1オクターブそこそこですから、わくをつくって声をのせていったらそれで歌えます。それだとここでやっているトレーニングとか課題曲の意味がないのです。声にすることとか、声をのせることができていない人は、それをやらないといけないのです。

 

 

そのことよりも、この枠自体をより大きく突き放して歌おうという方に意識を向けて欲しかったのです。どちらかというとまとめる方向に働いたでのはないかという感じがします。型を保つのを求めると、型だけになってしまいます。それを満ちさせることが大切だと思います。だからもっと大きな枠、声をのせることよりも表現を考えることです。声が出ている、出ていない、そんなことを考えないで先に表現を考えることといつもいっています。

 

 それにともなってこないと声が動かない、息も動かないのです。従って体も心も高まっても歌っていたら、本人がしらけていくみたいになります。へたにうまい人ほど薄めてひっぱるくせをつけるのですが、歌は薄めたらいくらでもひっぱれるのです。そこにバンドをつけたらそれで歌えてしまうのですが、そこでとめて自分で濃く表現しないとよくないです。

 

 メロディ、音感で伝えるということも大切です。そういう歌い方もあります。声がきれいに出て、リズム、音感がよくなると、それに頼らなくともあとからの方ができます。息や声が自由になり、器が大きくなったらいくらでもできることです。

 

 

 今、皆さんが本当に正しく歌おうとしたら難しいのです。だから今やって欲しいのは、息とか声を動かしていって欲しいということです。体に関しては無駄な動きが多すぎます。リズムを数えなくてできるように、体の中に入れてくるのです。最少限にして最大に伝えていくのがステージです。余計なものはつけないことです。ふりをつけるのは構わないのですが、それによって声が限定されたり、邪魔されないようにしましょう。

 

 本当のステージは別です。何もわからなければとにかく出さないといけないというところから、いろんなことをやればよいのです。ただ、ここではやはり自分の基準をつけていった方がよいでしょう。 

 

これは曲と詞があっている歌ですが、作詞家、作曲家の意図がみえてこなかったのも、やはり皆さんが一人で勝手に歌っているからのような気がします。作曲者の意図とか、作詞者の意図をまったくみていないような感じがします。もっともっと読み込めるはずです。心の中で対話してきましたか。メロディについて何でそうしたのか、何でここで展開させたのか、何でこういう詞なのか何を歌っているのか、わかってきましたか。

 

 

 一曲の中で気持ち、集中力が離れています。途中で終わったり、また入ったり終わったりしています。3分ぐらいですから一気にもたせないとよくないです。その上で突き放して、一つに捉えないとよくないです。この歌で何を伝えたいのかは、この歌の解釈をしなさいということではないです。この歌を使って皆さんが何を伝えたいのか。その伝えたいものを把握して出すということです。

 

 ただ、はなしてはよくないです。その前にしっかりと抱きしめていないといけません。そのへんが欠けていたり、切れていたり、熱が冷めていたり、足りません。全体的にこういう雰囲気の中でやるとそれを破るのは難しいものです。

 前に飛ばそうという試みはありました。それが歌うということです。まとめようとしない方がよいと思います。何かそこで思いきったことをやれば出てくるもの、それでペースを早くつくってしまって、それにのっていかないと最後までつかめないままになります。よい曲ですが、皆さんの気持ちの方が煮詰まらなかった、入りきれなかったのです。声楽でも二流三流は、頭の中でくるくる声がまわって、結局、声は出ているけれども何を伝えたいか、ことばもわからない、意味も伝わってこないものです。

 

 

 今日は伝わったものがとても少ないです。ことばが伝わる、音のよさ、展開が伝わる、この2つぐらいでよかったのですが、まずことばが全滅です。皆さんの中での練りこめず安易に流れてしまったのではないかと思います。それから心や気持ちの高まりは、練習中はできていたのかも知れないのですが、ここにきてしまうと平坦に終わってしまったような気がします。逆であるべきでしょう。

ステージで生きなくてどうするのですか。そこでの変化こそ面白く、楽しいものです。声がつながれば歌ではないのです。むしろ声なんて殺しても息になっても、そこの気持ちの高まりと体の一致みたいなものが解放されていたら、もう少し密度の濃い部分が出たような気がします。

 

 こういう歌は、どんどん歌っていくとのめりこんでいって、心地よくなって歌いこなしていけるのですが、中に入っても突き放して、パワフルに前にどんどん出していくことを忘れてはいけません。その努力をしたあとによりパワフルにやるか、そこから一歩さがって歌うかというのは、その人のスタンスになってくると思うのです。かえってやりにくい課題だったのでしょう。

 

 歌というのは歌い手が先にいかないとだめなのです。同じ3分間でも普通の時間ではないです。その感覚は何かの歌のときにたぶん、つかめると思いますし、よい歌を聞いたら全部そのもののはずです。その上で淡々とおいていく歌い方もあります。今日はどっちつかずです。煮詰めておいていくという作業があまりみれなかったということです。いろんな試みをやった人もいますが、それがよかったのかは、自分で思い出して、映像でみればわかると思います。