一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー 51388字 1042

レクチャー  1042

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オリエンテーション

【とりくみ☆ 京都】

 [基本②]

 [入門]

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オリエンテーション

 

「学び方」の本を出します。誰よりも早くうまくなった人たちは何を、どう学んだのか、

効果が出ない人はどこで何をして行き詰まっているのかということを明らかにしていこうと思っています。 

 

何かを身につけていくことにおいて、二年というのは最低の期間です。

本当は、その後に、そのことにオンしていくことが大切なのです。

そのために研究所をどう使うかというのがあるべきです。

でも、それは皆さんの自由です。

 

 ここでできることは声のこと、ヴォイストレーニングのことと、オリジナルのフレーズ、節回しです。

最初は、トレーニングと舞台が一致しないでしょう。

これを一気に一致させようとすると無理があります。

しばらくは、どんどんと、これまでのレベルより落ちます。

だからこそ、舞台に立つ、そこから出発するのです。

 

 

最初の二年間は、少しでも時間を惜しんで、たくさんの一流のものを入れていって欲しいと思います。

それで勉強するきっかけがつかめると思います。

ここは研究する場です。

他の人の声を生で捉えて、その原理を感覚で読みとって活かしていくことです。

 

 年輩のかたは、今まで何かやったことから得られたことを最大限に活かして欲しいと思います。

それらの経験を総動員してください。心は白紙にしなくてはいけませんが、

スポーツや芸事などはとても歌と共通点が多いものです。 

 

歌の世界ではその人の個性がどこまで音の世界に反映してくるかということが問われます。

ここではカリキュラムや進め方などを細かく決まっていません。

少しずつで見えていくことが理想です。その見えたところまでたどりつくのに時間がかかるということです。

 

 

 学べる人というのはいくつかの共通ポイントをふまえていると思います。

日本人は、学校というのは入ったら教えてもらえるところだと思っていますが、受け身であってはいけません。 

伸びた人とは二年間のなかで、自他ともに認めるすごいと思える一瞬を出せた人のことです。

それが確実にやれるようになるには、もっと体や気など条件が必要になります。

その条件をつくっていくのがトレーニングです。

 

 リズムや、譜読みや音程のトレーニングと違って、

声のことは順を追って学んでいくというものではありません。

プロの条件が感覚にわかってくればこそ身についていくものです。

 

入っているものしか出てきませんから、入れていくということは、とても大切です。

入れても出てこないうちは待つしかないのです。

無理に出そうとすると、間違った体の使い方をしてしまいます。

どうやって入れていくのか、いえ、のり移ってくるのです。 ☆

 

 

ヴォーカルは、人間としての総合的な出力が問われるような気がします。

研究所では、ここにいる人がすべて学ぶための材料となります。

アドバイスはしますが、その材料を使い切るのは、皆さんの度量にかかっているのです。

使い切れないうちは多く使うとよいと思います。

 

 音声で働きかけなくてはいけないものである以上、まえに出さないとしかたないのです。日本人はなかなかそれができないのです。

ヴォーカルも、舞台では役者と同じです。

ヴォーカルとはステージでその人の一番、魅力的な声と表情で歌える人のことです。

ステージで一番生き生きしていないといけません。

ここに出て一曲歌ったときに、皆を納得させてしまう、何らかの見えない力を受け取って欲しいと思います。

 

 声をすぐに学ぼうとしても、無理なのは、まねしても間違ってしまうからです。

本質的なものを捉えなくてはいけません。プロには人まえで何かやっていけるための、要素は必ずあります。

それはここ以外でもいろいろなステージから学べることです。 

 

 

今日からは常に自分の立場をステージの側にもっていってください。そうでないと勉強にはなりません。自分をさらしていく仕事ですから、心理的な抵抗にも少しずつ慣れていってください。

 それから、まねしないことです。特にオリジナルの声というのは、自分のなかで働いている原理をきちんと取り出さなくてはいけません。そのために一時期、音域や声量がなくなるかもしれません。

しかし、その声できちんとリピートができることが大切なのです。 

 

レーニングというと、できないことをやろうとします。できないことは、できないのです。できないということは何かが邪魔しているのです。それにはいろいろな要因があるのです。トレーニングはできていることを繰り返すことによって、できないことをできるようにしていくのです。

 

 スポーツでも一つの形をやらせたら、初心者か上級者かすぐにわかります。

音楽の場合そこから表現として伝わっているかどうかという基準も見ていかなくてはいけません。

こういうことを勉強するのにグループレッスンは有効です。

最初は、自分のことが一番わかりにくいし、自分の二、三年後の声は見当がつかないはずです。そのときにいろいろな人のいろいろな状態を見ていくことでわかってくることがあります。

 

 

 ウソっぽいものはよくないのです。一人のアーティストから学ぶということはよい方向でもありますが、その人の悪いところを取りやすいものです。よほど、しっかりとした学び方をしなければ、その人の個性や、雰囲気や、飾りの部分を学んでしまうからです。それで、それしか出せなくなってしまったら、当人が歌う意味がないのです。だから自分のものをつくっていかなくてはいけないのです。

 

 最後に群れないようにしてください。声のことをやっていくのは集団では無理です。

個人でやって、個人のノウハウとしてもつしかありません。その成果も個人のものです。

研究所は、皆で何かやりましょうというのでなく、あくまで個人でそういう作業を深めるための場です。

 

伸びる人は、一人で静かに深く煮詰めていきます。そして力がつけばしぜんに人が集まってきます。

群れて悪くならないようにしてください。

自分のいいたいことは、レッスンや歌で示すことです。

ここでは、月に一回以上、歌える場があります。そこで示してください。

 

 

質問はトレーナーに直接、聞くことです。きちんと答えが返ってこない質問や疑問が大切です。

最初からこうしなさい、ああしなさいということはいわないのは、まず、ことばや歌、音声の世界とはどうなっているのかということを見ないといけないからです。そこに気づいてコツコツやっていけば必ず伸びていきます。

人と比べる、卑下する必要はありません。

最初にから、なんとなく、うまくできる人ほど気をつけた方がよいと思います。

 

 ここは自己投資の場です。新しくできたレッスンやクラスもすべて皆さんの方で選べるようにしています。

それから曜日や時間帯も自分で決められます。遠くからくる人のためにも、原則一回完結制のレッスンにしています。 

音声で表現する舞台ということをここではキィワードにしています。このことを支えるために裏になくてはいけない本質をきちんと見てください。それから自分が何を武器にして世の中に示していくのかということを知ることでです。本人がわかっていなくては、まわりの人にわかりようがありません。

 

 他の人に認められないとか、けむたがられるという人も歓迎します。

そういう人でないと生き残っていけないかもしれません。思い切りやってください。

その人のみる目が確かで、パワーがあれば、まわりに人間がついてこれなくてあたりまえだと思ってください。

研究所での優等生でいてもしかたありません。

研究所を使い切って、どこに出ても世の中に対してやれるようになってください。 

 

 

何を間違ってか、研究所に逃げこんでくる人もいますが、かまいません。

ただし、ここにいるだけで何かできているような勘違いをしてはいけません。

ここも含めて、意識は外に問うていくことです。

皆に力がついて、出ていくことが、皆のためであるのです。

 

 本物の声は、研究所にではなく、あなたのなかにあります。

いろいろなやり方がありますが、それも皆さんに任せています。

まず、自分の体、気性、表現を知っていくことです。 

 

できるだけ早くお客さんとか生徒から抜け出し、一人の表現者としてここを利用してください。

テンションと集中力がないと、声を高いレベルで扱うことはできません。会報なども読んで勉強してください。 

この場は皆さんに応じて柔軟に変わっていきます。

一人ひとりが革命を起こすくらいの存在になってくれたらありがたいと思います。

 

 

 

 

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【とりくみ☆ 京都】

 

(「ラララララー」(ミレドレミー

「ララララー」(ドド♯レレ♯ー)

「ラララー」(ドレミ))

 グループレッスンでも、個人対応と考え、それぞれの個々の目的に利用してください。常に自分で考えていくことです。同じ場が与えられたところで、同じようにやっていてもしかたありません。そこで、どのくらい頭と体が動くかということが大切です。ベースのトレーニングで足りない分を何かで補うようにしてください。

 

軽井沢で合宿があります。関西も合わせて、40~50人でやっています。

今までは、グループにわけて一つの作品をつくるということをやっていました。

今年は、強行なスケジュールにしないで、練習のプラスαの部分でやるつもりです。 

 

私やトレーナーが、特別講座として、日頃のレッスンでできないようなことをやっています。

「声優入門のトレーニング」というのを出しました。新しい題材が欲しい人は挑戦してください。 

声優というのは、ヴォーカルと違う意味で、声のことが重要になっています。

たとえば、Change of pace(話し方の速度を変えること)などはよいトレーニングでしょう。

歌についても、日本の詩など、練習課題にふさわしいものをかなりの量で入れています。 

 

 

東京では、最初、モノトークといって、2分間ほど語る舞台をします。2ヵ月目には朗読をするということになっています。その題材としてこのなかから選びます。 

それらを読んで伝えるには、読みさえすればよいのではなく、自分の感性にあったものを選び、その作品を通して自分を伝えるということが必要です。 

 

作品自体はよいに決まっています。ずっと残っていくものですから、その文意やストーリーが伝わってもしかたないのです。

歌と同じで、その人を通すことによって、より魅力的になって伝わらなければならないのです。作品のもち味がその人流で生きることです。それが壊れてしまうようであれば、目で読んでもらった方がよいのです。

そういう意味で、音声の世界というのは難しいです。

 

さらに歌になってくると、リズムやメロディがついてきますから、その制限のなかで出そうとしたときは、自分の力がさらに必要になるわけです。フリートークというのは難しいのですが、それが形式がつくにしたがって(形式というのは、それがつくためにその表現が受け入れやすかったり、感動させやすかったりするものです)、もっと難しくなります。

 

 

歌をやるには、その形式から疑ってみて、最終的にその形式を選んで、あるいはつくって使うのです。

その人に何かのスタイルができてくると、そういう形式ができてきます。しかし、それは乗ることで感じたこと、伝えたいことがストレートに伝わる部分は失ってはなりません。

 

 表現に対して、どうしたら人の心が一番心が働くかということです。レッスンや映画や演劇はおよそ60分から90分というふうに決まっています。人が集中できて表現しやすいものが、一般的になるのです。客の体力もいるが、客のテンションをあげるのもアーティストの役割です。

 

私は、この時間が短く感じるようにレクチャーしています。これは音声の力なくして成り立ちません。 

なぜできあがってきたかということを、自分で原点に戻って考えてみるということをやらなくてはいけないのです。そうではないということに思いあたったら、それをつきつめて、自分なりの形で出していくというのが、歌に限らず、表現の世界です。 

 

 

ある歌い手が好きだったら、そのファンになればよいのです。大切なのは、それでは許せない何か、自分では満足できないものが出てこないと、表現の動機になりません。誰かの歌の全部がすぐれていて、全部感動するのなら、一生それを聞いていればよいのです。そのこだわりや、自分の感性を見い出すことを毎日毎日やっていかないと勉強にはなっていきません。

 

質問にも答えていきます。

 「声の体操についての練習方法を教えてください」 

「ヴォイスチェンジのバランスについて教えてください」 

チェンジについては、その前の声域を充分練り込んでおくことです。

 「自分の声(「ハイ」など)を録音にとっているがよくありません」 

「練習のときに、めいっぱい声を使うとのどに響いていってしまって、やわらかくやると、しっかりと声にならなくなります。その辺のバランスについて」 

「歌うときには割と声量が出るのですが、うまくできません」

 

ここはクラスという考え方で分けていますが、人は固定していません。そのときによってレッスンが変わっています。声楽でやっていることの一部は、その感覚がないことには始まらないと思うところがあって、感覚がない人にとっての補充する手段として与えています。

 

 

私は、一声区という考え方です。裏声、ファルセットは、別です。

ポップスのなかで、二声区、三声区という考え方でやってもしょうがないのです。

クラシックではソプラノ、そしてテノールで上のハイCまでの広い音域で、特に高くとることを考えているから特殊です。ポップスではそんな高音を使いませんでした。

最近、日本のなかで使っている人がいますが、ほとんどはあてているだけで、音響でコントロールしています。

声のコントロールの応用での音響的なコントロールです。それは発声としてあるのですが、元より自分で捉える基本の声は、話声のところです。

 

それは、万人に共通ではありません。個人の技術とくせとが、作品から問うて紙一重なのです。

表現ができているか、できていないか、というのが一番大きいのです。その人のなかに音の世界が入っていることと、入っている音楽を取り出せる技量が最低限あるということです。

 

 プロのヴォーカリストよりうまくなくてもよいのですが、彼らが絶対にできない何かがあるかどうかです。それがその人のオリジナリティであり、存在意味になってきます。プロといっても、その人にその人でなく、その人の歌が好きだというファンがついていて、やっていけたらよいだけのことです。 

 

 

ただ、音程、リズムなどといった守るべきルールはあります。

ここでの2年間での目的というのは、半オクターブで声を完全に使えるようにしていくことです。

しゃべっている感覚で半オクターブに渡って、音楽になって、音楽になる感覚でしゃべれるということです。

それが歌の基本です。

 

 本当の歌というのは語るように歌っています。本当の役者は歌っているようにしゃべります。

その境界線というのは、声の場合、ありそうで、ないのです。

ピアノやヴァイオリンになると少し違ってくるのです。

 

ヴォイスチェンジのバランスに声楽的なやり方を取り入れているのは、感覚を取り出す音の世界だからです。

声楽というのは、日本人の感覚を忘れさせてくれます。音のなかで純粋にとり出された音を聞いていくと、体の働きが正されていきます。音だけがつながっていて、そのつながり方が、どうなるべきかがわかります。

 

 

 もう一つは、西洋の音楽の特徴で。コーラス、ハーモニーということです。空間軸の把握です。☆

向こうのコーラスは、ビブラートや声の美しさよりも、その音の構成、形式美です。倍音や和音といったものが音楽の基本になっています。

ポップスでも、日本人はなかなかこういう世界に入れません。そのため、こうして音の世界を自分で感覚していくことが大切です。

 

 楽典というのは、理屈をつけて、そういうことを覚える手段です。形から入っていくわけです。何度も自分の耳で聞いてみて、どういう音なのかを知ることを勉強するのに、声楽というのはわかりやすく有効です。そういう意味で入れているのです。

 

声と歌の世界のなかで、一方的に声楽的だけやることが正しいとは思っていません。しかし声を完全にコントロールすることやレガートとして一つの声で2音以上を調和させていくとか、その変化のところで発声が変わったりのどが狭くなったりしないといった、ベースのことは、しっかりと入れています。

それだけのことであって、そのなかで終わってしまったら、どうしようもないです。

ポピュラーであればこそ、全ての前提を疑い、どうつくるかです。 

 

 

何よりも音大に入学するまでには、ここの2年間以上のことをやって、音大に入ったあと毎日、何時間のレッスンを受けるのです。そういう人たちと同じ土俵で勝負しても、そこではかないません。

 だからこそ、ポップスを歌える人が、声楽の勉強をやると、とても勉強になります。

 

耳ができていないなら、楽譜を読み、楽器の世界を知る、

声に対しても、はっきりした考え方があった方がよいと思ったので加えています。

音を何回も聞いて勉強するのが、もっとも正しい練習方法です。

 

ことばが入ってしまうのは、誤解を生むからよいことではないのです。

しかし、ことばで話し、黒板に書いて目に見えるようにせざるを得ないのです。

これは学習のために仕方なくやっているのですが、わかりやすくするためにレベルが落ちるわけです。

 

 

 「ハイ」の固定と、のどを閉める問題と、目一杯声を出すことと、整えることについては、同じ問題です。外国人というのは日常のなかでたくさん、しかも強くしゃべっています。これが歌うところのベースになります。彼らは話で1オクターブくらい出します。それがないうちに声を出すと、のどが疲れます。 

 

筋肉でも同じです。毎日、練習すればするほど、声が出なくなるのはあたりまえです。疲れて無理がくるのです。声楽のように長い目でみるとゆっくりやっていくことができます。

ここも、確実に効果を出すために、ゆっくりやっていきたいのです。

しかし、そうすると成果というのは、フィードバックできにくくなるという欠点が出てきます。

 

ハードなトレーニングをしていて、ふしぜんになってしまうことは、身に受けないとしかたないことです。

一時的な必要悪にとどめることで、その後の悪いくせにしてはいけません。 

 

 

一流の人は、プロのトレーニングをやっています。それに対し皆さんは、プロのトレーニングができるところまで、無理をしてやらなければいけないのです。

ですから、10個やっている中の9つは、間違い、いや足らないことです。でも、その1つが生きるために、9つの余分なことも引き受けるのです。あとでその1つのことができたときに、残りの9つのことを取り除いていかなければならない、その繰り返しです。

 

 トレーニングが正しいかどうかを聞かれるのですが、それはやってみて、聞いてみて、感心するようなトレーニングでなければ違うのです。トレーニングと歌というのは、そんなにかけ離れているわけではないのです。 

歌というのは、客がいますから、よほどの人以外は、計算して演出しなければいけないのです。

レーニングでやれたベストのものというのは、必ずしも舞台では出ません。そいういう意味で、トレーニングをプロにしていかなくてはいけないのです。

 

 大きく出したら、必ず体のバランスが悪くなり、使えなくなり、のどが疲れます。大きく出そうという意識がいるなら、大きくは出せないのです。それでも、やらなければいけないときはやるし、やってはいけないときはやらないという判断が難しいのです。 

何も考えず、ばかみたいに大声を出すのは、何のトレーニングにもならないのです。何が悪いかというと、何も考えていないからです。だから、のどを傷めるのです。

 本当に真剣にやっているとき、人はそれゆえ、自分の体を傷つけないものです。☆

ラグビーでもボクシングでも同じです。本能的に危険を回避します。傷つけた痛みで実感するのは、逃げであり、甘えです。 

 

 

歌も真剣にやれば、そのことが自分の体でわかってくるはずなのです。まだやれるとか、もう少しやりたいけど今日は寝なければとか、頭で考えていると何もできなくなります。 

レーニングはすればするほど、その間、声の状態は悪くなるものです。

声を出していることがトレーニングだとは考えないことです。ヴォイストレーニングは、声を出せる状態にすることが大切です。体をリラックスさせ、しっかりと集中すること、声を整えることです。

 

声を出すということ自体が本番だと思えばいいのです。練習はあり得ないのです。リハーサルもないのです。それらは他の人に対してであって、自分のなかでは声を出したら本番です。 

本番までは、絶対、むやみに声を使わないものです。声楽家ならなおさらです。 

 

レーニングというのは、声を取り出すことをやるのです。トレーニングが声を出すことだと考えること自体が甘いのです。その時間は、とても大切に使わなければいけないのです。

 そのときにいろいろな試みをやってみて、その結果つぶしたり、傷めたりすることはプロでも同じです。

感情を込めようと思ったら、のども閉まってくるのです。そこから基本ができていたら何かしら生じてくるのです。そういうことは、体で覚えなければならないのです。そういうテンションで練習ができているかいないか、ということの方が大切です。

 

 

 トレーニングで歌うときの声量の方がつくというのは、あたりまえです。高い音というのは抜けやすくなりますし、高周波数になると、他の音に妨げられず聞こえやすいからです。女性の声の方が、男性の声より聞きやすく思えるのは、そういうことです。歌うときにも使いやすいのです。 

私たちが日本語をしゃべるときは、あまり理想的な発声になっていません。外国人の場合、歌っているときと、しゃべっているときのポジションは根は変わりません。CDなどで聞くとわかりやすいでしょう。

 

 一般的には歌うときの声が全部変わってから、しゃべるときの声が変わります。私は、人前でしゃべるときの声を20年前からとっていますが、やはり随分と変わりました。しゃべる声の方があとから変わります。そしてベテランになると、歌っているのも、しゃべっているのも、変わらなくなるわけです。 

 

レーニングというのは、トレーニングの目的のためにやっているのであって、トレーニングのためのトレーニングではないことを、覚えておいてください。トレーニング自体が楽しいというのは、別です。トレーニングというのは、いつも必要なものです。それで心地よいならそれはクールダウンのようなものです。そのイメージと意志が確立されていないから、普通の人はトレーニングだけで終わってしまうのです。

 

 

 トレーニングしかみないと、やっているときにも本当に使える音声、声量、音域がわからないという問題が出てきます。でも、本当に歌えている人は作品から考えています。そう歌いたいから、そういう声が身につくのです。☆ 

 

日本の声楽家は、まだ声を出せるようになることが目的で、コンクールに通ることが目標です。声を出すための正しい発声しか出てこないのは、当然です。技術はあるのですが、それが本当におもしろいものか、深いものなのか、素直に聞いてもらえればわかるでしょう。 

ポップスの世界というのは、芸術的なことよりも、音声の世界のなかに自分の表現する世界をどう作っていくかということを考えなくてはいけません。これまた難しいことです。

 

ここの場合は、体一つでマイクも使わないでやっていますから、声楽に近いものになるかもしれません。

声の美しさとか鍛えられた声を聞かせるのが目的ではないということです。

それだけでは、ソロのヴォーカルにはなれません。日本の場合のコーラスのメンバーになら、なれます。コーラスでも、外国の場合、個性が問われます。

 

 

声の解放というのは、一番難しいことですが、少しやってみましょう。いつもは、声につめ込むことをやっていますが、本当は声は体や心の解放から始まります。リラックスして、声にならなくてもよいくらいの感じで、息を吐いてください。それに声をつけていきます。

力を入れたり、声にしようと思ったりしないで、自分の出しやすい声で出してください。息の流れを意識してください。ピアノ(ピアニシモ)のコントロールです。

 

 どこに響かせているかということより、息が均等に出ているかどうかを気にしてください。これは声帯そのもののチェックをするときにも使います。しっかりとできれば、声帯には異常はなくて、発声上の誤りがあることが多いです。過労でのどに負担がきていることもあります。 

 

そこで深いためいきということから始めるのです。ためいきに声をつけないで出してみましょう。特に女性などで胸声をつかむのにやりにくいときにはよいでしょう。声になるか、声にならないかのギリギリのところです。息の循環を破るから、くせがついてしまうのです。

 (ハー)といっている中で、「ハイ」というのです。円のなかから出さない。呼吸を大きくしていくのです。「ハイ」の「イ」で切ると、直線的になってしまいます。すると、体が使えなくなってしまいます。力を抜いて、フォームで出すことです。腰に感覚がきて、腰が動いている状態で出すことです。踊りでも、スポーツでもそうです。

 

 

「知っているさ」ということばを自分でイメージしてください。

 音楽の線を体で一つにつかんで、そこに入れ込んで、そこから解放していくという流れのなかでやるのです。私が悪い手本をやるときには集中力や、気を抜いてやります。すると、声もそう働きます。伝えるという目的に対して、体が特化されて動いていないのです。のどを使ったりすることもそうです。正しくやるためには、それだけ「気」を入れ、コントロールしなくてはいけないのです。入れるポイントやコツをにぎって、それをやるのです。

 

 できない人は、それを捉えることが練習です。自分のなかで考えなければいけません。このグループのなかで、伝わる人というのはどういう表現をしているのかをみましょう。

 

グループでやるのは、そういった感覚を磨くためです。他の人の歌やフレーズを的確に判断できるようになれば、声の扱い方や歌のレベルというのは上がっていきます。その感覚がないからできないのです。そのままトレーニングにすると、誤ったトレーニングから出られなくなってしまいます。

こういうことばをやったとき、相手に伝わるのが最低限の要素です。普通に考えておかしいと思える表現の上には、何も乗ってきません。ですから、ことばを一つで捉えなさいといっています。

 

 

 レクチャーでいったことでも、年に2、3人それ以上のことをできる人がいるだけで、やるべきことはそれだけです。それだけのことをやるのに、2年以上かかるわけです。それができないと、音が出たとき、それをキープすることができないので、音楽も乗せられないのです。ただ、歌というのはごまかしがきくのでわかりにくいのです。

 

 「知っているさ」ということばが、「ハイ」、「ララ」ということばのなかにしっかりと入ることです。ことばは、ポップスの場合、直接歌に関わってきます。「知っているさ」というアクセントにリズムがついてきたら、そこで音楽になります。ここで握れていないと音楽になりません。

役者は、音程やリズムがついたとき、崩れてしまうことが多いようです。音楽の世界をつかんでいないからです。ヴォーカルの場合はリズムや音がついたら、より声を生かせなければいけないのです。 

 

音楽を線で捉え展開させなければいけないと思ったら、高低アクセントで捉えないはずです。声ではなく、線での展開が必要です。

 

 

 「知っているさ」(ドドレミミミ)を、(ドミ)くらいの感覚で捉えてください。このなかに音楽、ことばを宿すということがどういうことなのか、伝えるということはどういうことなのか、自分の感じたことを音に置き換えてみるのです。あたりまえのことですが、練習するときに何も考えないとよくないです。

プロの人はそれを感じてやっているのです。そのときできないと悔しいから、基本トレーニングで技術を徹底してやるのです。そういう関連ができていないと、何年間やっても何もなりません。日々の努力ができていない人は、育つ必然がないわけです。 

 

音楽の世界を理解することと、表現する世界をしっかりと理解する意志をもち、常に声に込めるということをして欲しいものです。同じ年数でも、日々のレッスンでどれだけ気づいていったかということです。レッスンは創造しなくてはいけないのです。

 

 「知っているさ」ということばを与えられたとき、自分のなかでいろいろな発見が起きて、自分のなかで、「こうしたい」という冒険がなされていなければ、トレーニングにはなりません。声のことや呼吸のことしか考えていないのは、人前に出たくないという裏返しなのです。そうしたら、出られないのも歌がうまくならないのもあたりまえです。 

 

 

ここでやっていることは、必要性のある人には、必要度に応じて身につくことです。そういうことだけに限定しています。 

ですから、声区のチェンジなどについてはあまり教えていません。それは器用にできる人、できない人に分かれてしまい、何の値打ちもないからです。先が見えている人にとっては、ここでやっていることは、できていくことなのです。

 

 先を見ていくことを、一つひとつのレッスンのなかでやらなければなりません。ピアニストなら、一つのフレーズを聞いて、そこから何千パターンもの曲をつかんで一つに選んでこなければいけないのです。音大のやり方は、わかりやすいからそれで覚えていく人がいます。しかし、マニュアルはそこで止まっては使えません。

 

彼らも相当なことをやっていて、そういう人は、日本に何万人といます。彼らを超せないのなら、何も出てこないのです。そうではない何かをつくらない限り、表現になっていかないのです。声楽のすぐれているところは、勉強して欲しいし、学ぶところはたくさんあると思います。 

 

 

(ドドレミミミー)というフレーズをどう捉えるかからです。日本人は(ド ド レ ミ ミ ミー)と高低感覚でしか捉えないのです。ポップスであれば、ミの音が一番高い音ですから、そこで表現する意図が強まっていると捉えるのです。(ミ)のところで、体に入ってくるわけです。

 

 意志があれば、体が動こうとして、ついてきます。どんどん集約されて、コントロールできるようになってきます。一つの作品になるために、音楽の世界は、しっかりと引きつけて出していかなければならないのです。皆さんは、まだ外から見ているだけのように思います。感覚とスピードと全身を使うことができていないのです。楽々とやっているように見えるかもしれませんが、中に入ってみたら跳ね飛ばされてしまいます。その違いというのは、何なのかを知ることです。

 

 そして最終的に「つめたい」といえるようになることです。2年後に、たとえそれがいえなくてもその世界がそこに入っていっていたら、私はよいと思っています。それで半オクターブできたら、歌は自分のものになります。その意味では、声で表す自分の世界の方が必要になります。ポップスでは、半オクターブ声にできれば基本としては通用します。これはそんなに難しくないと思うかもしれませんが、その人のなかに表わす世界がなければよくないです。

 自分が一番、心が動くものを集中してやってください。そしてそこからそれないこと、それを間違わないようにいろいろなものを勉強して、自分の思い込みだけにならないようにします。 

 

 

「ハイ」といえても、歌になるとそれが使えないとしても、最初はそれでよいのです。使いたいと思って、3年、5年がんばらないと使えるようになりません。皆さん、その声を使えるようになるまでやらないで、1年くらいで止まってしまうのです。そうしたら、残りの4年間はそのレベルのままです。

 

ハイ ララ(ドドドー)で上昇下降。基本的なことをやりましょう。

自分で考える時間や、ゆっくりする時間をとりたいと思います。また、場を変えるということは割と大切なので、合宿などに行ってみてください。 

 

フレーズにする練習をやってみましょう。ことばで「知っているさ」と、大きくということより、表現の強さを考えてやってください。急ぎすぎないことです。詰め込む時間が必要です。声を出すわけではないのです。

 

 

皆さんのはあまりに直線的です。間違いではないのですが、何も伝えていないのです。頭だけで考えてやると、何も飛んでこないのです。自分で回している中で、何かを捉え取り出さなければいけません。体と息を使うというのは、最低限のことです。

 

それから、表現する意志をもつこと、イメージをもつこと、自分なりのやり方を考え、詰め込むことです。そしてやった瞬間に出すことです。それに声が伴わないとき、多くの課題が出てきます。 すぐに伴わなくてもよいのです。より多く、強くやろうと思えば、伴わなくなるものです。こういう場で、なり切ることが必要です。なり切って突き放すことを、同時に覚えていってください。

 

 もう一度やります。最初、「ハイ」や「ララ」とやってみます。そして出したときに展開するのです。役者のセリフだと思えばよいです。メリハリをつけ、ふくらまし、時間をどうかえるか、どうつかまえるかです。時を一回止め、それから、自分の呼吸で流さなければいけないのです。 

 

 

一つの表現が出たあと、間を埋めるものが、何かを伝えているかどうかです。この動きが出てこなければ、聞き手は感じないのです。一つに捉えるというのは、そのために必要です。体で語尾を切れば、そのあとに何かが飛んでいくのです。人によって飛ばし方は違ってきます。

 

「レ」が難しいです。息を使う「レ」の感覚で、やってください。(「しい」(ド♯ド))

(知っているさ(ドードで上下)

 「ているさ」の語尾をあまり伸ばさないことです。外国語なら、だいたい第二アクセントが日本語の場合は、第一アクセントが多いのです。今は、歌につなげていきますから、日本語を音楽的日本語にもっていきます。「ている」が難しいです。2つくらいで捉えてみてください。2つあると、いろいろな展開ができます。 

 

どうしても「っ」のところで邪魔しているようです。

(ハイ しっているさ(ドードード)3つを均等な音声で捉えてください。 

3つになると、もっと展開が出てきます。音の強さ、音の感覚、高さなどが使えます。リズムや強さは相対的な感覚であって、自由なものです。今度は、「知っているさ」に音楽をつけます。

音がつくと、先ほどまでの要素が全部消えてしまうことになりかねないので、自分のなかで「ドレミミミー」をイメージしなければいけないのです。 いろいろな考え方があります。

 

 

「ドドレミミミ」のなかに「知っているさ」ということばをおくやり方、「知っているさ」を「ドドレミミミ」という音にあてはめるというやり方、その間をとるやり方などです。条件は「ドドレミミミ」という音を使うということです。作曲家なるつもりでやりましょう。 

 

音から考えて、ドよりミの方が高いのですから、テンションが高まっているということです。あとの方が、強くなるということがわかります。上にいくほど、同じところをキープしようと思ったら、体を使わなければならないので、日本語からは、はみ出ていきます。リズムや音が合わなくなります。

 

 外国では、そういうことはおきません。「ている」という大きなものに対して「しっ」がくっついているという感覚でおいています。「っているさ」という感じになります。いわなくてもよいところが出てきます。子音は、ほとんど表に出していません。それから、いわなくてもよいことばを次のことばに結びつけていきます(リエゾン)。日本語は、子音のとなりに母音がついているので、そういうことが起きないのです。欧米のことばは、アクセントが1つか2つですが、日本語は「しっているさ」は5つにわかれます。

 

 

 リズムやことばも、常に強弱で捉えていけばよいのです。「知っているさ」ということばを2つにわけて、高い方のフレーズでまとめていくのです。それは、色の濃淡のように考えればよいのです。濃いところには、いろいろなものが入っているのです。

 

(「知っているさ」(ドドレミミミ)) 

ことばでいってから、フレーズを作ってみてください。 

表現と声量の差、メリハリなどの違いが、この辺から出てきます。中で動かすには、適当な負担を体で引き受けけなければならないのです。

 

 「さー」と伸ばすより「さ」で切った方がよい場合もあります。自分の感覚のなかで動かすことです。次は、「ひとつのあいは」というところをやります。先ほどの「しっ」のなかに「ひとつの」が入ります。先ほどよりは、簡単になると思います。「あい」で踏み込めばよいからです。

 

 

(「ひとつのあいは」(ドドレミミミ))

 「あい」が中心ですから、そこが濃くなっていないといけないのです。そこを強調するために「の」を殺す場合もあります。「いつまでも」(ドレミソファ)でやります。(「いつまでも」で上下)自分で組み換えてやってみてください。「でーもー」とやらないで、「でも」とひとつで捉えます。

 

 ここでやる課題は、このように半オクターブのフレーズを完璧にすることです。そうすれば、1オクターブ半の歌が歌えるようになります。「いつまでも」の「でも」のところに、濃さをつけなければなりません。同じ感覚でやると、終わりの方が弱くなります。このフレーズをしっかりと止めていかなければならないのです。次の「続かないと」(ミレレドレミ)音程だけでやってしまうのです。「いつまでも」を続けてやってみましょう。このなかでも起承転結はあります。展開する前に声と体を整えておかなければなりません。

 

(「いつまでも続かないと」)

 単調なフレーズしか作れない人は声がないというより、イメージがないのです。だから体も動いてこないのです。一つで捉えていることが大切です。よいものはシンプルです。それが危なかったり、揺れていたりしても伝わります。その人のなかに音楽が流れていればそのフレーズの次を聞きたくなるでしょう。あければよいとか、続ければよいという問題ではなくて、その呼吸をとっているかどうかが問題です。

 

 

 呼吸を大きくとろうとしたらバラバラになります。より早く高くやろうとすると動きにくくなります。今考えたいのは、このフレーズで音の面、ことばの面の両面から考えていくことです。 

これらの矛盾するものを結びつけない限り、ポップスは表れてきません。ポップスは声の美しさよりも、想いの方を伝えていかなければいけません。このフレーズ全部で、一つの呼吸なのです。しっかりと引きつけてから出すことも大切です。それを中途半端にやっていると入っていきません。どこかで音やことばが与えられたら、自分で残りの99%を補うことをやらなければいけないのです。

 

 こういうフレーズを与えられたときに、いくつ発明できるかの勝負です。発明するため、そして、それに対応するために声をしっかりと整えておくのです。フレーズは簡単でよいのです。しかし、しっかりとした声でもっていかなければいけないのです。これができないということは、出だしができないということです。日本人の場合、それができないから、作ってしまう傾向にあるようです。最後に一回流してみましょう。どこでもよいのですが、2フレーズくらいやってみてください。

 

 何が足りないかというと、部分でやっているからです。歌というのは、もっと単純に体で捉えないと前に出ていかないのです。出したものが伝わるということは、それが一つにまとまっているということです。そこを失うと命が入らなくなります。日本人はことばと音程で捉えることに慣れてしまっていますが、音色とフレーズの展開を聞くことが重要です。線で聞き、そして、線をどう動かすかを体でやるのが基本のトレーニングです。

ステージではどうにでもごまかせます。大切なのは、一つを出すこと、その一つを歌いたいがために3分間やるということです。バラバラのフレーズになったり、いくつもいいたいことがあったら、何も伝わらなくなります。音色が出ている人は、より音楽的に伝えられるようにするにはどうすればよいかを考えてください。このことがベースになります。

 

 

 

 

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【基本②】

 

 私は水泳やバスケットをしていたのですが、そういうときに獲得できた能力というのは、ヴォイストレーニングに役に立っています。スポーツというのはすべて感覚を体に戻して、やることなのです。たとえば、スタートのときには、0コンマ何秒かの感覚がないとフライングするか出遅れます。バスケットも最後の一秒で決まることもあります。3秒ルールから30秒ルールまで、時間にうるさいスポーツです。1分間もあればいろいろなことができます。空間の感覚に加え、時間の感覚がないとできないのです。 

 

人前に出てあがるというのも、スタート台に立ってドキドキしていたら、やっていけないでしょう。 

体を死ぬほど使ったことがない人や、同じことを何千回もくり返してどういうことができるのか、できないのかもやったことのない人には、こういう感覚はわからないかもしれません。しかし、当時はまったく考えて練習をしなかったことが、今になってわかります。勝とうとはしたけれど、うまくなるためにどうするか考えなかったのでうまくならなかったのです。

 

 声のことはとてもわかりにくいです。息を吐いたら、それが必ずしも声になるわけではありません。息をロスして歌っているのは、勘違いです。やたら大きな声を出したり、息ばかり吐いている人がいます。それは、意味があることなのか、そうでないのかはわかりません。しかし、必要に応じて身についてくるとこは確かなので、害がなければやらせています。 

 

 

私は職業柄、息が身を守っているし、声を守っていることを知っています。息を使うこと、リズムや感覚で人に伝えるということを、体が知って覚えているのだと思います。結局、感覚レベル下の意識の問題だと思います。 

声のことを気にしているうちは、声は出ません。声よりも大切なものがあって、声はそれの媒体にすぎないからです。

 

 呼吸のことは、あらゆるスポーツなどで共通するものと思います。達人というのは、どの分野でも息が深くて、乱れないようにしています。心と体をコントロールするためです。ヴォーカリストは、吐く息での声で作品を作っていくわけですから、もっとストレートにつながりがあるのです。しかしそれを知るために声に専心するのです。 

 

私は歌よりも、ヴォーカリストが何をつかんで出しているかを評価しています。海外の人と同じ体をもつことは大変です。 

トレーナーを置いているのも、それが最低限の基準だからです。そこをクリアしないと、プロの世界には通用しません。私ができるのはそのラインを示すことです。

 

 

 歌では、モチーフを持つことです。あるヴォーカリストの声や歌をコピーするだけで満足できるような歌い手、歌や声づくりをめざす歌い手はよくありません。それでは、表現からはかけ離れてしまうからです。画家は、風景をそのまま紙に写すようなことはしません。 

 

音声で表現するということに入っていくには、いろいろなアプローチがあります。いわゆる日本人のなかにある感性のようなものを表現する音楽をよく聞くようにします。それに対して、外国のヴォーカリストを聞くと、音での作り方がもっと明確になってくるでしょう。

 音声の世界を読み込むことと、その体をもつことで、条件というものはできるのですが、大切なことは、それで何を表現するかということです。どんなバンドでもアーティストでも、長くやっていける人は、表現するモチーフがハッキリしています。そういう人たちに対して、声がないとか音楽性がないとかいっても、しかたありません。表現があれば、それに伴う音楽も歌も声も認められるのです。

 

 音声の世界と、ビジュアルの世界がごっちゃになっている日本ではしかたないのですが、音の世界での声の扱いが雑すぎます。日本の歌を育てるお客さんがビジュアル的なもので図っていることでしょう。昔のように心に働きかける大スターも出てきそうにありません。

 

 

 自分の考えを表現しないと自分たちの生活がおびやかされるというような環境におかれると、本当の表現がわかってくると思います。本当の表現というのは、お金があって平和で文化的なときにできるものではありません。そういったものがないときほど、文化のベースのようなものができてくるのです。時代のせいにはしたくありませんが、そのような危機的な状況を自分のなかに起こせるかどうかということがカギでしょう。それはイマジネーションです。体を使い切るということは、すべてにおいてあてはまります。息を吐けるということは一つの条件にすぎません。

 

特に、息がわかりやすいもの、体の強さが見えやすいものを聞きましょう。音を体に下げてこないと、スピードのあるものは表向きの処理はできても、きちんと歌えないと思います。スティービー・ワンダーも、のど声を浮かせて歌っているように聞こえるかもしれませんが、とても深い声で歌っています。

 

ヴォイストレーニングをやっているつもりで、やれていない人が九割以上です。「ハイ」一つでも2年間やったら普通の人が出せない「ハイ」になるでしょう。習得できる人は練習量からして、他の人とはまったく違います。一日も欠かさず3時間の自主トレーニングをして当然、そういう積み重ねだと思います。人に伝えるだけの力のある人は、それだけのことを必ずやっているというだけのことです。そういうことはあとでわかることなのです。わからなくてもよいことです。示すのは作品でプロセスではありません。

 

 

 体のトレーニングや息のことに関しては、やれるだけやっておいた方がよいと思います。よい音楽を聞いて深い感覚を養い、それに対応できる体を作っていくことです。研究所では、その結びつきをレッスンのなかで確認していきます。

 

高いキィが出ないという人は、その条件が宿ってくるまで待つべきです。その人が納得して変えていけるくらいの感性が働くまでは、いろいろな曲を聞いて、体に入れていってください。皆がやっているようにやると、うまくいきません。皆が絶対やらないような方向にやっていく方がまだましです。それは、絶対的な自信があるから、新たな世界となるのです。その自信を支えるものは量と質しかないと思います。誰よりもやったら、誰よりもできるようになってくると思います。もちろん、その先が見えていなくてはなりません。

 

 体を解放するというのは、大変なことです。自分をさらさなくてはいけないし、なりふり構わずやらなくてはいけません。そのことに耐えられる人というのは少ないと思います。最終的には客が満足してくれるのが楽しいと思えることです。そのために、力を惜しまないでいるというスタンスができないと、一人ゲームになりかねないと思います。 これでもか、これでもかと連続して前に出すことが大切なのです。

 

 

 

 

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【入門 】

 

 頭に入らない人は、メモをとっても構いません。しっかりと吸収することも勉強です。なるべくたくさん自分のなかにおとしていくようにしてください。書いている量というのは、人によってまったく、違います。書けるということは、入れることにおいて学べているということです。いつも、去年と同じレベルのことを書いているようでは、学べていないわけです。しかし、書かなかったら、それさえわからないのです。 

 

最初にいっているのは、ここほど、個人の取り組みによって、学べる量や質が違ってくるところはないということです。たくさん学べる人もいれば、まったく学べないでいるだけの人もいます。私からいえば、半分の人は、いるだけというようなところはあります。しかし、それも潜伏期として待っています。しっかりと伸びていく人たちは、普通の人たちからいうと、すごいことをやっています。人が10年かけることを、2年でやりたいといったら、その5倍以上やらなくてはいけないわけです。

 

 中には、学び方を学んで2年たってしまう人もいます。それはそれでいいと思います。高校生もいます。そういう人が急いでも、プロの人と同じことはできません。 

だから、ヴォーカルであれば音楽のこと、俳優さんや役者さんなど、声に関してやっていく人は声のことを中心に、学び方を確立するのに、2年くらいかかります。声や音楽は皆さんがヴォイストレーニングをしてからここにトレーニングにくれば、勉強になると思いますが、ここでの基本というのは、声の出てくる状態をつくる、音楽を奏でられる状態をつくるというように考えてください。 

 

 

そのためになにをするのかというと、体、息、声をつくることと結びつけることをやります。これはそれぞれにやらなくてはいけないのです。体と息と声を結びつけることは、簡単なことではありません。 

学校ならば知識の学び方というのは、正解が決まっていますから、いくらでも先生にいわれたことをたくさん正確に覚えたらよいし、それと同じことが自分で思い出せればよいのです。ところが、こういう世界では、自分のスタイルで自分のものをしっかりと出していかなければいけません。私の本の内容をいえても、声が使えなくては何の力にもなっていないのです。

 

 だから、声ならばオリジナルな声、音楽でいえばオリジナルなフレーズということになります。これは、語りものや、役者さんでも同じだと思います。オリジナルなフレーズがわかりにくければ、節回しということです。 

皆さんが思っているような音域や声量は、表現を出すために必要なので、これに伴ってついてきます。これを出すために必要になってきます。体を使うということも同じです。だから、最終的に目的としておいて欲しいのは、音声を表現する部分です。

 

 まず、やらなくてはいけないのは、体と心の問題です。心と体のことというのは、結局、最終的に解放されていなくてはならないのです。体や心で歌っているつもりでいても、体も心も閉じていることが多いものです。それでは解放された状態になっていないわけです。 このように50人もいる前なら、一番楽しんで歌えるかというと、そのこと自体に慣れていないわけです。だから、ステージということも必要です。ただ、トレーニングからいうと、一番変わるところは、体と感覚です。 

 

 

今まで息を吐くこと、声を出すこと、体のことも少しは、やってきていると思います。ところが息を吐くことも、最初はハッハッハッとしか吐けない人が、少なくとも2年たったらかなり吐けるようになるわけです。だから、今まで、体を3しか使わないで歌を1ぐらいしか歌ってこなかったという人は、歌の1を5とか10にするというのは、難しいのです。1.2や1.5にしかならないのです。ところが、3しかなかった体は、本来10の体をもっているとしたら、そこを追求することで可能性が大きくなります。

 

 もし、皆さんがサッカーやバスケットなどを小さい頃からやっていて、トレーニングに対して体が8とか10とか使えるとしても、歌に関してはほとんど1しか使えていません。歌のときに体や息が結びついていないというのがほとんどなのです。だからこれは、皆さんがもっているもの自体をしっかりと使うということだけでも、10ぐらいになります。まして、半年や1年たって鍛えていくとこれが、20とか50とか100になってくるわけです。だから、ベースを体においておくのがトレーニングです。

 

 もっと単純にいうと、2年くらいで声も身につかなくても、歌も歌えなくてもよいのです。それだけ体が強くなって、息が強くなるということは、そこをやると絶対にそうなります。そうしたら、最悪のケースで、2年たって何もできなくても、それだけの息と体があれば、他の人にできない何かをやる可能性はできます。普通の人と違ってきます。それが楽器づくりのよさということです。

 

 

 ですから、ヴォイストレーニングが一番難しいのは、「ラララララララー」といくらやっても、それは、声の出る状態にはならないことです。心でも体を使っているのでもないからです。せいぜい1の力が、1.5ぐらいになるくらいで、何にもならないのです。1、2年くらいで仕上げ固めると、その後5年、10年たっても、変わらないです。ベースのところにきていませんから伸びないのです。だから一番大切なのは、プロセスをしっかりと自分でふまえていくことです。

 

 たとえば、「つめたい」「ハイ」といったり、「ハイッ」ということをやれば、これを100回くらいやってみます「ハ」というのは、比較的のどが開きやすいですから、100回やってみたとき、体から1回ぐらい思い切りいえたとか、100回のなかでもよしあしに順番がつきます。 最初、皆さんはまだ音の世界に入ってきませんから、音の世界に入らなくてはいけません。声も目をつぶると、形というのは、だんだんとわかってきます。

 

 まわりの人のを聞いていて、そのなかで1番というのはどういうことかわかってきます。そのうち取り出せるようになります。そしたら、この1番の声だけあるいはその1フレーズを100回やるわけです。そのなかで声は常に変わります。深まっていきます。この深さの方が必要なのです。音楽も同じです。一つのフレーズ、なんでもいいです。

「セ シ ボン」というのを「セ シボン」、「セーシーボン」いろいろなフレーズがあります。それを100回やると、そのなかのこれがいいと、体も声も一致していきます。そこに心も宿っています。 

 

 

聞いている人が心を動かされるというのは、100回のなかに、1つなり2つなりは出てきます。その一つを出したとき、自分でわかるということです。それから、それを確実に定着させて、計算というより体が働くことによって無意識の状態でできるようになるということです。

 だから形というのは、最初はトレーニングです。トレーニングはある意味でいうと、とてもふしぜんですから、矯正していきます。理想でいうと、生まれたときから楽に歌っていて、20、30年たっていけば、一番よいわけです。 

こういうことでいうと、ある時期深みをつけなくてはいけなくて、その期間が基本トレーニングだということです。意識してやることばかりでは、結局、一流のことはできないのです。

 

意識しないでできる、要は何も考えないときに体がしぜんに動いていて声が出ているとか、歌を歌えているという状態をつくること、一番難しいのです。しかしそれをやらないかぎり、歌を歌ってしまったら、歌になってしまっているだけで、本当は、歌えていないわけです。 

そのへんをいろいろな形で覚えてください。 

 

まず一つが、先ほどいったとおり、ここでは材料といっていますが、トレーナーの声やCDや他の人の声のサンプルです。他の人が一番わかりやすいからです。皆さんの横にいる人たちの多くは何にも表現できていないでしょう。退屈だ、息と体が一致していない、5回やったら5回違う、そういう中で半年~1年たったり、あるいは、たまに優秀な人がいたりしたら、あの人はできているじゃないかと違いがわかってきます。

 

 

 最初は何でもできているように見えます。これは皆さんが、今まで育った環境が、そんなによい環境にないからです。もっと簡単なことでいうと初めて、学生の絵画展などにいったら、どの絵も全部すごいと思うのと同じです。自分よりはすごいからです。ところが、一流の絵画展ばかり見ている人が見たら、1000枚くらい見ても、まともなのは、一つあるかどうかでしょう。そんな感じです。 だから、それは勉強しなくては、私たちがいくらいってもわからないのです。自分のなかで、音楽を宿していかなくてはいけないのです。最終的に先ほどいった通り、音を宿していくというのが必要です。

 

 声優、役者さん志望の人に、なぜ音楽をやらなくてはいけないかというと、やはり声を使うということは、音楽だからなのです。ちょっと誤解がありますが、声自体はこれでも、「ハイ ラオララ」「ハイ ラオ ララ」これをどう置いていくかというのは、音の世界です。 

 

「ド」を出して、「ドミ ソーシー」っていうのが和音になっていくところもそうです。だから、語り回しとか、そういったものも音の世界です。声楽というのは、一般教養のなかで、役者とか声優の講座に入っています。ポピュラーなものもやった方がよいと思います。なぜポピュラーをやった方がいいかというと、ポピュラーの場合は正解がないということと、オリジナリティが問われるということと、それからことばの上に乗っているということです。 

 

 

英語も4ビートもリズムで音楽的にやろうとしたら、「タータタタ ダーラララ ダーラララ~~」が単にことばに変わるだけです。そういうときにすぐれた楽器があるとよいから、自分の楽器づくりからやるわけです。楽器をつくる。そのときに楽器を調律するには、それなりの状態がないとよくないです。風邪をひいていようが、寝不足であろうが、そのときに自分でパッパッと調律したら、サッと出せる楽器になっているというところが必要です。ここから音が出てきます。簡単にいうと、これは音楽の世界です。

 

 「セ シ ボン だ き し め てる」というのは、ことばの世界です。皆さんが今まで歌として聞いているのは、ことばに音を当てはめてきた日本の歌が多いのです。☆ 

「セ シ ボン だーきしめてるー」と、こんな歌ばかり聞いているからおかしくなるのです。音の世界でいうと「ターララ ターーー」これだけの世界です。これにことばをどうおくかということです。 

 

トランペットでもそうです。オリジナルの声自体が「タララ」「ターー」とをどう回転させるかで、もうそこで歌になっているわけです。プラスことばがつくから、歌というのは、もっと大きなものを伝えられるわけです。逆に考えてはよくないです。そうでないとこの前に音が置いていて、こう置き換えていることになります。 

この2つは、まったく違うわけです。要は、自分の体と感覚がこのことをのまなくてはいけないのです。だから、正しいものほど感覚です。声も感覚がとても高次に問われます。

 

 

 トレーニングでやっていくことの一つは強化です。自分の体を求められることに必要なだけ鍛えていかなくてはいけないのです。トレーニングというのは、いままで使っていないところをしっかりと使うということとともに、さらに鍛えていくのです。その発声では声がまったく出ない。もちろんまったく出ないことはないのですが、よほど感覚的にすぐれていないと音楽にならないのです。

そうしたら、やはり誰よりも声が大きく出た方がよいし、最初に大きく強く太くといっていますが、このことによって、小さくも使えます。強くできることによって、弱くもできます。太くできることで細くもできます。 

 

ピアニストでも、同じです。小指で弱く弾くには、強くできるから弱く弾けるわけです。私たちも弱く弾けますが、結局、鍛えられていないから、強くも弱くも自在にできないから、表現にならないわけです。だから、最初から正確さだけをめざしてはよくないです。 

 

歌は、ちまちま歌う人がいてもよいと思うのですが、トレーニングというのは、結局、器を大きくつくって、そのなかでやっていかなくてはいけないのです。なるべく大きく声量も声域もとっていくのです。なんでもあった方がいいのです。最初、裏声やファルセットからやることはありませんが、最終的に何でも使えるようにしておくとよいのです。ヴォーカリストにとっては、不用なものは使わなければよいわけです。

 

 

自分で自分をわかってきたら、なんでもやって、声を見せるみたいな舞台にはなりません。一番勝負できるところでしか、勝負していけないわけですから、つくるしかないわけです。それ+αなにか特技があって、すごい声を出せるとか、へんな声を出せるとかあったら、1、2曲ぐらいなら使えるかもしれないです。そういうことにも可能性は開いていけばよいでしょう。しかし、やることは本当に一つのベースです。 

 

それからトレーニングというのは、やっている中でたくさん気づいていかなければいけないのです。腕立てでも、ランニングでも、バスケのシュートでも、最初は、強化するまで力でやっています。早く抜くことに気づいた人が勝ちですが、気づくにも先に力がいるのです。それは、何のためにやるかというと、結局そこから気づいて、コツとかバランスとかを得ていくためです。 

そのときに弱いところからやって、全体のバランスをとるというのはとても難しいです。体を思い切り使ってみるとか、息を思い切り吐いてみるとか、大きな声を出してみるといったら、できないところがわかります。簡単にいうと、そういうことです。

 

 だから「ハイ」でも「ラ」でもよいのですが、発声練習でいうと「ラー」これが100%確実だと出せるようになること、そしたら次にたくさんこれを、たとえば2倍にしてみます。そうしたらもう70%ぐらいの力不足になるわけです。そうしたら、これをまた100%にしていけばよいわけです。ここで出たものの余力をそのまま声域、声量へ使うというのはクラシックの世界です。だから最初はどんどん体を使っていき、体を強化していきます。ところが、強化することや体を使って歌うのが目的ではないわけです。あくまで、楽に歌えるために、それだけの器をつくる、それだけ、楽器をより完成させるために使うわけです。そこを間違えてはよくないです。

 

 

 息だけ吐いて体が痛くなったら、それが練習だと思っている人がいますが、あくまでもそれは部分強化をする一つの手段です。 間違えてはいけないのは、トレーニングは部分ということです。それぞれの目的があって、その目的のためにやります。息だけ吐いて疲れても、息を吐くことがその機能を高めることであればよいわけでしょう。腕立てして、バッターボックスに入っても絶対に打てるわけないです。そんなことをしたら却って打てなくなるだけです。ダッシュを何本もやってから陸上競技で走ることもないですね。それはどこかの筋肉の部分を鍛えているものだったらよいからです。 

 

歌に関しての評価は全体になります。だから、早く歌いたいとすると、何が一番優先されるかというと、どうしてもこのバランスとコツと全体の方を最初にとらなくてはいけなくなります。どうしても、聞いている人はそうですから、音程が外れたり、リズムがはずれたらだめだと減点法で聞きます。だから小さく弱くマイクに頼ってそれで歌っていくわけです。それがほとんどのスクールや、自分の練習での歌い方、バンドでやっていることです。

 ここはその逆をやります。それが基本なのです。 

 

普通の声で普通の人と同じ歌の感覚で入っている音楽も変わらないのに違うことを出そうと考えても、それは無理です。 

試合なら、サッカーでも野球でも誰でもできるでしょう。バレエでも一週間くらい勉強したら、振り付け、踊れます。ただ、プロとまったく違うのは、基本の力です。 

一番面倒なのは基本の力をつけることです。1、2、3 1、2、3を何回繰り返したか、そこから何を気づいて何を結びつけてきたかというプロセスがないと、10、20年やっても絶対にプロに結びつかないということです。ここの考え方はとてもあたりまえのことだと思っています。 

しかし、そこまでなかなか待てないのです。本当に急がないでください。それが、一番です。結果が出ないとかその結果が何なのかを踏まえていけば、結果を出すとか出さないとかよりも、それだけ入れてないものは出てこない、と考えればよいわけです。

 

 

ここで使う材料は古いものが多いし、日本から離れた国のものが多いです。ポピュラーでないものもあります。これに関しても、自分はそんな歌を歌っていないのに関係ないとか、今の日本だから関係ないといういうより、何年も時間を越えてきたものというのは、基本が詰まっているものだと思ってください。

 30年前から聞かれ受け継がれているという歌です。ポピュラーは100年ぐらいの歴史のなかで大きく発展してきたものです。そこで。30、40年、2、3世代もっているというのは、何か超越する力があるのです。

 

 それともう一つは、空間です。遠い国の誰も知らないヴォーカルなのに日本で聞いている人がいるということです。逆に日本の音楽は、これができていないわけです。とても偏ったところで、同じような声で出しています。声自体というのは、今ヒットしているような男の子の声にみんなが合わせているだけで、自分の声ではない声を出しています。みんな、今はやりの方の音楽の歌い方、表だけのコピーをやっています。ヴォーカルが本来やらなくてはいけないのとは、逆の方にいってしまうわけです。全部が邪魔してしまうわけです。

 

 自分の体を使って、音楽的な感性を表現することです。ここでやることというのは、そういうことです。自分一人でやると、やれないことをやってきます。自分一人でできることは、自分でやりなさいということです。教科書を読んでわかるところは、教えてもらわなくとも自分で全部やることです。そうでないと、意味がないです。 

レンタルで借りられるようなCDやVTRなどは、ここではあまり使いません。だから、勉強しなくてもいいのではなくて、自分でやりなさいということです。その上でここでしかできないようなたくさんの財産があります。それを利用してください。 

 

 

全部を頼らないことです。ここのものを使い切るだけでも大変だと思います。

 プロの人も素人で1からやる人もいますが、これまでのキャリアは白紙に戻してとりくんで欲しいです。同じ立場になって、今まで聞いてきた音楽はこういう音楽で、自分はこうやろうと思っていたというのも、原点のところからもっとさかのぼってみて、そこから歌うことがあって欲しいということです。

 

 何年も音楽を聞いていたとしても、世界中にはいろいろな歌い手がいて、それを一回でも全て聞いたことがあるのかです。最初はわからなくてよいのです。わからないけれど、一流といわれて、世の中の空間時間を通じて出てきたものには何かの本質的な要素があるということです。できたらこの本質的なものを、学んでいって欲しいのです。そうでないと、自分のことも次第に捉えれられなくなってきます。声のこと、音楽のこと、ここに来ると自由に放り込まれますが、まわりと合わせていかないでください。

 

 私がいいたいのは、2つです。初心者がまわりに合わせてすぐれているということになるのだったら、一般的に6年はかかります。たぶん10年ぐらいかかるのではないかと思います。まったくついていけないという人はまわりに合わせることから学び、脱してください。もし自分が同じぐらいできると思っていたら、それで安心しないでください。

 

 

入ったばかりのクラスでは、やる気はあるのがあたりまえです。少しがんばっていても、半年1年たっていくうちに、ここに来ていても、いわれるだけのことしかやらない人が多くなります。いわれるだけのことしかやらない人というのは、今までの義務教育と同じで、絶対に出ていけません。だから、まわりに合わせないということです。人の後ろに隠れないようにしてください。自ら、人の何倍もやって出ていかなくてはいけない世界です。

 

 ヴォーカルでも、声優でも役者さんでも、少なくとも一人で出て人前で何かやりなさいといったら90分もたせなくてはいけない、そういう世界に生きていこうという人です。それが後ろに隠れていたらよくないです。失敗してもおかしくないから、どんなことをやってもゆるされるのが、こういうトレーニングの期間なのです。そのときになるべくはみ出し、まわりの人の基準に合わせないようにしてください。もし合わせるなら、トレーナーとか、私の基準に合わせてください。 

 

まわりを見ていて育っていくものではないです。それよりは、一流の分野となるべく接することです。そこで、会話をしたり対話をしたり、別に音楽に限らなくてもよいです。本を読むのも映画や絵を見るのもよいことです。 

早くここで、1つ与えられたことに対して、10個を気づける頭になってください。たとえば、「タララ タラララララ」でも、「あーこれはメニューだな」と捉えます。 

 

 

だから本当に勉強できる人は、1時間のなかで私が示した5、10個のメニューから、自分なりのメニューを50個とか100個とかつくれます。1時間のなかに、あれはこういう意味なのではないかとか、これならこういう練習方法が自分に合っているなとか、それだけ頭と体を精一杯働かせてください。

すると指標ができてきます。ここで出すのはメニューというより材料です。だからこれをくみ取って自分にあてはめて、自分に調律しなくてはいけないのです。

 

 芸事のノウハウというのは、皆さんと一緒に生活しているわけではないので、各人で24時間の自分のなかで考えていかなくてはいけないです。このことを繰り返し実践的に、いろいろなメニューを使ってみて、皆に表現していくということです。これで2年間終わります。そこで、他の人と比べなくてもよいのです。まわりとでなく去年の自分と比べて欲しいということです。先月の自分と比べてどうなのかということです。 

 

大体、トレーニングというのは、一回もぐっていくのです。ここに来る前は軽く歌えていたのに、一流の人を知ってみて、同じ体の使い方や息の出し方をやっても、歌い手として歌えるのかといったら、歌えないわけです。それを前の方がよかったと考えるのは、結局表面でしかわかっていないからなのです。 

そのプロセスを経るから、壁に当たり、次のところに行けるわけです。順調にいくと考える方がおかしいわけです。

 

 

 なるべくたくさん、10年分の壁に当たって、早く乗り越えて欲しいです。そうしたら、先に行けるわけです。だから他の人と比べる必要はないです。他の人は声が出るのに自分だけ出ないと思っています。それは自分の基準でとっているからです。 

ここで見ていることは伸び率です。どんなにプロですぐれていても、2年たってからまったく変わらないのなら、当人が学べる力がなかったということです。 

まったくまったくわからないままきた人は、何もやっていないから伸びますが、20、30点になってもしかたないので、その後どうすべきかを知ることです。99、100点をめざさなくてはいけません。ともかく、自分に対して比べるということです。 

 

それから、伸び率です。うまいけど半年たってもまったく変わっていないよりも、へただったが少しでもうまくなったら、その方がよいということです。長期的にそれが続けば追いつけます。研究所ではそこを間違えないでください。 

発表の場として2年間あるのも、あくまで自分を知って、自分が条件を整えるためです。プロ野球の二軍と同じです。高校野球の選手を入れてみても、すぐにデビューさせないのと一緒です。天才的な人以外は、そこで鍛えるわけです。鍛えて、体を使って、そこで対応できるだけの音の能力、そういうものを全部つめこむわけです。それをどう使うかは、自分で考えていかなくてはいけません。しかし、それも今からわかっていたらよいのです。やはりこういう中で、いろいろなヴォーカルを知っていく中で啓発されていくことだと思います。

 

 だから今、これから2年間、誰よりもやろうと思っている気持ちを忘れないようにしてください。2年で形のつく世界ではありません。2年で1つでも2つでもつかめて、それが次の2年で、結びつくのであれば、それでよいと思っています。いろいろな人がいますので、当然いろいろな個人差もあります。 

 

 

カリキュラムは、元は単純で、個人的にレッスンを月に2~4回ぐらいにして、そのメンバーを集めて、週に1回グル-プをやっていました。人が育ってきたので、手伝ってもらっています。人数も少しずつ増えて時間割りが複雑になってきています。

以前、京都には月に1回行っていました。私が行き始めてから、40人以上になって、月に3回になったのです。ここでも実際、仙台や新潟から来ている人は月1回、来るのです。そういう人にも対応しています。

 研究所を中心に生活帯を考え始める人が出てきました。専門学校とか音大に行かないで来るという人もいます。代々木で毎日練習するために、生活の中心にしているのでしょう。

昔はそんなことはなかったのです。自分たちがバンドをやって、いろいろな活動をして、それ+αで、この場を生かしてもらっていたのです。 

そういうことで、ここで求められる役割もずいぶん変わってきました。それがどんどん積み重なって、対応できるようにカリキュラムなどを制定しています。

 

私のやり方は、基本的にまったく変わりません。ここに場と材料をおいておくことです。スタジオはいつでも使えるように、何かのレッスンをやっているようにしています。自分で利用したいものを利用できるだけ、利用してください。自分で選んで、そこから見つけてください。月に1回利用する人もいれば、月に30日利用する人もいます。 

人によってここに来る目的も違うし、伸びる時期も個人差があります。知識の習得ではないからです。半年行っている人は、初めて入る人より半年分先に進んでいて、1年後の人はさらに先に進んでいるということではないわけです。来るときの条件でもまったく違います。どこかがとてもすぐれていて、どこかがとても落ちている、そういう人たちもいます。 

 

ここの考え方は、できないところはできないということです。そんなところをトレーニングしてもしかたないから、できるところをより確実にしていくのです。皆さんのなかでいうと、悪いところはたくさんあるだろうということです。「イ」もいえなければ、高いところもいえないかもしれないのです。ただ、勝負できるところが一ヶ所でもあれば、そこから徹底して完成させていくのです。私はそういう考え方です。

 プロというのも、全部がプロであるのはむりです。どこか一ヶ所プロであればいいと思います。リズムのセンスだけがプロでも、他のものを平均以上に伸ばせれば、それで通用するわけです。 ところが多くの人たちは、平均的にやって、結局はとりえがないままなのです。そうしたらアーティストにもヴォーカルにもなれないです。

 

 

 コネクションでもあれば、使ってもらえるかもしれないです。でも、使ってもらっても結局その人がいなかったら、かわりの人にとりかえられる、そんな世界ではしかたないわけです。No.1でなくとも、その人じゃないといけないというオンリー1の世界です。だから、他人を追っても仕方がないのです。自分がそれが何かを考えていかなくてはいけません。そのときに研究所のやり方と天才的な人のやり方は違っています。研究所は、努力で確実にやっていく人に向いています。身についた人のやり方をしっかりと得ていくということです。

 

アテンダンスでも、最初の1ヵ月くらい、しっかり出しますが、1年ぐらいになると半分ぐらいになったり、2年ぐらいたつと出さなくなる人がいます。私は何もいいません。ただ、出した方がいいということはいいます。10人に1人ぐらいは、半年たったら2倍、3倍と書けるようになります。1年たったら書き切れないほど、書いている人もいるわけです。どちらが得かというのは、ないです。やったことは自分にはねかえってきます。 

 

課題を1つ設定されると、器用な人は、10回くらい歌って覚えてここで歌えるわけです。ところが、不器用な人は1000回も2000回もやらないと覚えられないわけです。ただ、結局、歌のなかに心やいろいろなものが宿ってくるというのは、それを1000回2000回やっていくからでしょう。そこではじめて自分がわかるし、そこに執着する理由も出てくるし、それをどうやって表現すればよいかもわかるわけです。

 その辺をあまり効率とか頭で考えていかないことです。やらなくてすむことが得だったという分野もあります。仕事のなかでも、同じ給料をもらうなら楽な方がいいわけです。

 

 

 ところが、こういう芸事の場合は、ともかく1つのことをきっかけに、10個やった方がよいのです。あるいは、100個やった方がよい世界です。まず、量をやらないと質が何だということもわからないし、質になっていかないわけです。だから、そういうことに身や頭を使うことを出し惜しまないことです。

 まわりに合わせて、まわりがこのくらいなら私もこうしようと思ったところで、もう競争は終わりです。ここにいたら何かできるわけではないのです。はっきりいうとここで、No.1の練習量を積んでいくしかないです。才能や個性の伸ばしている人は、1割くらいでしょう。たかだかそんなものです。

 

そうしたら、まわりの9割と同じことをやっていてもだめだということです。それは、ここがすぐれていないではなく、どんな外国のすぐれた養成機関でも同じということです。入った人が、100%育っているところは1つもありません。育つ人はどこにいっても育ちます。

 ただ、日本の場合は、ここでしかできないことが多いというのは残念なことです。それはそれでよいわけです。 

 

説明を聞いていると複雑でたまらないでしょう。これを何とかシンプルにしていきます。要はここにいる人たち、来る人たちから最大限、学んでいってください。つまらないと思ったらつまらないことですが、そのつまらないことが仮に自分がやってみてできないと思ったら学ぶことがたくさんあると思ってください。 

CDをかけて、この歌い手は嫌いだ、あまり自分が目標にしたくないと思っても、その人の名はしっかりと世界に売れてCDが売られているのです。それに対して自分が録音に吹き込んで見ると、何かだらだらして作品としてはもう一つピンとこないとすると、その差がとても大きいのです。

 

 

 では、それが何なのかということをつきつめて、それをうめていくのがトレーニングです。最初はどうやってうめたらよいのか、わからないかもしれませんが、本当に一所懸命やっていたら、できなくてもやり方とか埋め方は見えてきます。そうしたらここを出て自分でやってもよいし、ここに居て、それを深めてもよいです。ともかく多くの人を見、仲間のよいところをと学び合ってください。 

 

勝田氏の特別レッスンは途中からでも入れます。そういうものを貪欲に吸収してもらいたいということです。いろいろと出てください。レッスンのなかでついていけないとか、できないとかはあたりまえでいいのです。できるようになればよいことです。本当にできているのであれば、そのレッスンは出なくてもよいわけです。リズムとか音感、声もできたと思っているだけで、まったくできていないのです。そういうのを積み重ねて、活用してできるだけたくさん、時間の許す限り出て欲しいのです。

 

 こういうのは、時間をかけるしかないのです。プロの学び方というのは、お金もかけてもとをとるということです。とにかく他人との差をつくっていくことです。お金がないというなら、今度は時間をかければよいのです。時間もないというなら、集中力で取り組むのです。つまり自分が努力するしかないのです。 

 

 

たとえばアデンダンスでも、ここにいる間に存在をアピールしてNo.1になりなさいといっています。誰よりもアテンダンスを書いたとか、誰よりも準備時間を長くとっているとか、誰よりも目立ったとか、何でもよいです。これだけの人数いる中で先生方に覚えられるとか、仲間のなかに働きかけられるということであれば、それは一つの売りものです。それが何もなくて、いなくなってしまうよりましです。

 

 日本人の場合、遠慮して皆で学ぶ場をだめにしているわけです。遠慮する必要はまったくないのです。やってみてだめであれば、そこで力がつくわけですから、だめじゃないまま、問わないまま終わってしまうことが一番恐れるべきことです。パッと当てられたら、何かそこで表現しなくてはいけないのですから、大変です。でもそこで、恥をかいて、自分は何もできていないんだ、へたくそだというところまでたどりついて、伸びていけばよいのです。 

 

最初に、自分でも、歌えるとか、バンドやっていたから、とか他の人たちは、まったく音楽を知らないじゃないかというのでは入ってくる意味がないわけです。充分にできていない以上必ず学べるものはあると思います。それをどうやって取り入れていくかが大切だと思います。 

 

 

毎日やることに関してはそんなにたくさんのことはできないから課題を1ヵ月ずつ、しっかりとつくってください。1ヵ月目は課題がていねいに与えられているのです。2ヵ月目からは何もいわれません。やめてしまう人と課題を多く自分で問いをつくってやっていける人とは、そこで差がつくのです。

 

自分でメニューは考えるということです。1ヵ月目につくったメニューを2年間にわたって直している自分のは、こういうふうに体がなってきた自分には「あおい」じゃなく「あかい」にした方がいい、そういう単純なことでいいのです。それを考えて、常に問うて直していく人はメニューとともに育っていきます。

 

 やはり耳の世界、音の世界は、最初はわかりませんから、何でこんなにたくさん書かなくてはいけないのか、というほど毎回毎回書くとよいのです。書いたことというのは、自分の頭の中身です。漠然と何かを聞いて、あるいは見て、感動したと自分で思っていても、1年たってもきちんと捉えられていないから、大したものは出てこないわけです。それをしっかりと書くことによって、1年前はこのぐらいしか聞き取れなかったことが、2年たったらこういうことが学べているとわかってきます。

 

 

他の人のアテンダンスで同じレッスンや同じ作品を見た人が、会報を見たら、こんなことを学んでいるのかとか、そういうことで自分を知っていくことです。自分というのは、どういうのを学べているかを知ることです。2、3年出て学べている人は1つのレッスンをもっと生かしているはずです。

 

 それとともに結果として対応力がついてきます。最初は1行くらいのことばのレッスンしかできないのに2曲くらいのものが1時間のなかでレッスンとして成り立つようになってきます。そういうものも音楽は吸収できて、音の世界ができて、それをどう出せばよいのかがわかって、できる楽器と調整能力と、それからそれを舞台ということで出せるのです。だからとにかく、よい刺激にひきずられるのはよいことと思います。

 

 皆さんの仲間同士で一緒にやっていくようには考えないでください。そこから抜き出なくてはよくないです。抜き出てあたりまえです。ただ、年齢差や経験差はありますから、それは先ほどいった通り、まわりと比べる必要はないです。去年の自分と比べていけばよいということです。 ともかく自分の表現は何かというときに、徹底して考えなくてはいけないし、徹底して表現しなくてはいけないのです。皆さんにとっては、今の課題はわからないと思います。たぶん何で歌いたいのかも、歌が好きだからだとしかもわからないと思います。

 

 

 結局、あるレベル以上を超えた人ややった人は、その発言集を見てもわかりますが、必ず根本に深い理由もあるのです。やり始めてからついてきた理由もあれば、ポリシーも出てきます。それがなくては、歌など歌わなくても日常生活に何も困らないわけです。そうしたら、日常生活で歌がなくては生きていられない人、それが中心に回っている人、命になっている人、命を削ってやっている人にかなうはずがないです。そういうことに自分で問うていかなくてはいけないのです。

 ある意味でいうと、そういうことを徹底してやったあとに、自分にとって、歌は必要じゃない、絵の方がよい、あるいは、音楽より他のものの方が才能があることがわかってきてもよいわけです。要は煮詰めればいいのです。 

 

今は好きでやりたいと思っているとしても、まわりにそういう人たちばかりになったときには、今度はそれがあたりまえになります。まわりはもっと練習しています。そうしたら練習していることは何らえらいわけではないのです。どんどんステージアップしていきます。最初は、難しくても時間をかけたらそうなってくるということです。

 

息吐きもアデンダンスもばかみたいなことですが、これを3年、5年ここに自分で1日も休まないできた人がどれだけいるでしょうか。5年もたったら、まわりからもいなくなるでしょう。そうしたら否応なしに自分の番がやってきます。だから他の人の上にいるということではないのです。研究所で問うところはそこまでです。そこまでの条件が整ったときに、神様が音楽を与えてくれていたら、その人は才能があるということになります。そうでなければその得たものだけでも、少なくとも今の日本は、ヴォーカルの世界でそれだけやっている人はいないですから、やっていけます。

 

 

 踊りやダンスの世界には十年、二十年選手はいくらでもいます。楽器の世界でもいます。ピアニスト、ギタリストには、今から皆さんがやってもかなわないということがわかります。ヴォーカルも本当はそういう世界なのですが、やれるところまでやれるということと、自分のオリジナルで勝負していけるということです。プロのヴォーカルとして才能のある人と、自分をしっかりと煮詰めて本当の自分を取り出すことで表現になっていてやっていける人と、2パターンいると思います。どちらでもよいと思います。 

 

根本的にどっしりと構えて1年間見てください。伸びないからやめようかと思う時期をどのように越せるかです。才能のある人はすぐにさっさとできないのです。才能があるから伸び悩むわけです。ここにきたというのも一つの才能だと思います。

 それを活かせるかというのは、また別の問題です。やはり1割くらいの人しかわかってもらえないと思っています。だからよい人を見本にしてください。悪い人は目のなかに入れる必要がないです。本当に時間は大切です。学ぶべきことはたくさんあって、今からしばらくのあいだ学んでいくことは、何をどう学べばいいかということです。半年でも1年でもいいです。私の方は待ちます。 

 

皆さんの体はまだ解放されていないし、心も解放されていません。それが息を吐くことや柔軟によって、半年1年たったらもっと声が出やすい状態になります。少なくとも今0点、30点の人が50点、60点にはなるはずです。確実にその力がつきます。今、プロのフレーズと同じことをやろうとしても、皆さんの息が続かないし、体からそれが出せないのです。息と体とがそれだけ結びついていないので、しょうがないです。 

 

 

それは私たちが待ちます。半年、1年待ち、2年でも待ちます。そういう状態になるようにつくってもらえばよいのです。それは表向き見えないです。1ヵ月やったから2ヵ月息吐いたから、「ハイ」の練習したからといって、歌がどのくらいうまくなったといったら、じょうずになるわけではないです。目的が違うからです。素振りをやっているみたいなものです。素振りは1年2年やったらはじめて勝負になるわけです。 

 

その素振りを入ってきたときにおもしろいと思う人、トレーニングを好きになれということではないのですが、何かやるためにトレーニングはやらなくてはいけないのです。何かやることが好きだから、そのトレーニングも好きになる、我慢するのでもよいでしょう。

 

 トレーニングだけ好きになったら、出られません。そうしたら一人でトレーニングをやっていけばいいわけです。どこか狭いところで体を使って、体が痛いなーとか、と冗談のようですが、そういう人もいるのです。トレーニングばかというのはそれで幸せだと思うのですが、やはり何かが身についてきたら、それを人に還元して、またそこから得て欲しいものです。それが表現の世界です。 

 

 

何か申し込みたいものがあれば、何でも申し込んでください。ここで、単発のレッスンはいくつかあります。特別講師のレッスンとか、特別講座です。ここで2、3年やっている人も来ます。いつものレッスンの内容とはかけ離れたことをやります。たとえば、いきなり長いフレーズであったり、ハイトーンをやってみたり、あるいは、まったく違う演出力とか表現力とかをやってみたりします。

 

 自分が出たら迷惑になるかなとかは、考えなくていいです。そういうレッスンはクラス制限を設定します。対象が書いてなければ、許されるのだということですので、堂々としてください。最初に出て、難しくて入れなかったものがあっても、簡単なときもあります。こちらも相手の顔を見ながらレベル設定します。そういう制度もよいものです。プロも素人もまったく同じところでできるというところであったし、出たいところだけ出れるというものでした。自分の積極さと実質があれば、好きなように利用できる方がいいわけです。

 

 最近はカリキュラムを定めて、1年間でこれだけのものは出さなくてはいけないし、これだけのものはやれという方が親切かとも思います。しかし、学び方が学べるまで教えています。1ヵ月目はこんなことをやったと。そのことを2ヵ月目から自分でつくっていくのです。つくる力が学ぶ力です。 

それは今まで皆さんが義務教育では、教わってきていないことです。貪欲になってください。自分たちが自分の力をつけるためにやるわけです。そのことがここにとってもありがたいことになります。皆さんが一所懸命やって表現をつくってきてくれる。表現をしっかりやってきて、ここで出してくれるということです。

 

 

 こういうメンバーがいて、いろいろな人がいるということです。音がとれない人や、予習もまったくしていない人がいるのもよいのですが、そのままではよくないです。皆さんが一所懸命やって、あの人すごい表現するというクラスでやれば、もっと勉強になるわけです。そういうことで、最初はいろいろなレベルのクラスがあってもいいです。

自分がまわりの人に、ここにきたらあの人がいて、このレッスンに出てよかったと思われるような人になれば、もうステージでやれるということです。とても単純です。歌も表現も人に価値を与えるものです。

 

自分がここにきたことでみんなが暗くなって、みんなからいやだなと思われるよりは、逆の方がよいわけです。そうしたら、それだけのことをやらなくてはいけないということです。

 それができたら、堂々とここを出ていってください。それができない人が多いのです。出ていったときに、いろいろとなまけていたから、せっかく2年もあって勉強もできたのに、結局できなかったということになってしまえば、代々木に来るのもいやになるでしょう。外にでてもここを誇りとして、他の人たちからも注目され、めざされるようなことをここにいるときに残していってください。 

 

芽が出る人はどこにいっても芽が出るわけです。芽が出なくても、きっとあの人はあれだけ努力しているから絶対に何かにはなるだろうと思わせる力がなくてはいけません。そうしたら、まわりも応援してくれます。それだけです。全員がそうなってくれるとよいと思っています。

 

 

 

 

 

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[基本フレーズ]

 

 実際フレーズのトレーニングに関しては、自分で言葉を変えてもよいですし、音符を変えても、音程を変えてもよいのです。私たちも判断が難しいところですが、皆さんの場合はそれが、とれていて変えているのではなく、とれなくて自分から何が出るのかわからないままやっています。それはよくありません。 

 

ミルバの場合は、楽譜通り歌うという定評のある歌い手です。今の歌を聞いても楽譜とまったく同じです。シャープの記号が一つあるだけで、ほとんどC調ですから、難しくはありません。

 

「こわれたとけいだけじゃないわ」のところは複雑になってきますが、ここまでのところは、「ときをきざむのは」までは、「きざむ」の「む」が半音上がるだけで、後は基本のスケールのなかだけです。コードもAm、E7です。 歌い手が力量があって、音程を聞かせるような歌い方はしていません。言葉のなかにいれてしまっています。それが耳で聞こえないと、自分で反応できません。そこは、補っていかないといけないと思います。

 

 

 今、音楽基礎のレッスンに力をいれています。ピアニストとレッスンをやらせようと思っています。いくつか理由を挙げると、一般の人が随分多くなったということです。

高校生位の人が多く入ってきたことで、いきなり私のレッスンでは、そんなに難しいことはやっていないと思うし、学び方にもいろいろとあるのですが、少し難しいのかとも思ったからです。

 

私は一流のものの本質に接して学ぶしか正しい学び方はないと思っています。3流のものをいくらみていても、迷ったり、複雑になってくるだけです。 

問題なのは、上達しているかどうかです。上達したい人には上達できるような手段を与え上達するのに必要なことを示します。それをこちらから強いていくというのは、苦難なことでしょう。

 

 前提として、ここは上達しに来る人がはいってくるということですが、昔の④クラスは年に3~4人が辞めて、そのかわり、新しく2~3人はいってくるという形でした。最近は辞める人が少なくなってきたのに増えません。

いろいろな意味で、トレーニング不足です。毎日息を出すようなことをしなくなってきたからです。

考えてみたら、2年前と変わっていません。一番下のラインでほぼ1、2年誰も出ていません。

これは、いままでなかったことです。③クラスでたまっていることもありますが、基準が高くなったわけではないというのも問題です。最初の1年の基準が低くなっているということもあります。

たとえば、今日やったことというのは、ほとんど入門科の課題と同じです。入門科でもできる人がいます。

 

 

すると皆さんのほうが入門科よりも低いのです。1年や2年は自分でやらない限り、キャリアになりません。

私たちが、単純に変わったなと思うことは、自分たち以上に勉強している人があまりいないような雰囲気が顔で見えてしまうことです。ステージでも見ることができます。

 

 昔はそんなことはありませんでした。やっていたということは自分よりもやっている人がいないと思えることです。私はいろいろな仕事を抱え、やることが押し寄せてきますから、自分のことも人のこともやらなければいけないので、時間の問題でそのうち追い付かれると思っていました。そういう緊迫感をもっていたのですが、皆さんを見ていたら、私の今の日常でも、あなた方を引き離すだけのいろいろなものを聞いていろいろなものが入っているように思います。

 

 それは、私の生活が、それだけ音楽に専念できるようになったのではなく、きっとあなた方が、家でほとんどのことをやらなくなって、フィードバックできなくなっているから、あるいは、最初からそういうスタンスできているからだと思います。レッスンにでることはよいのですが、出たものをどう吸収していくかということです。 

 

 

実際に出たものが結果です。結果としてたとえば、最初昔程がまったく取れなくてもようやく今日のところまで取れたという人はよいのです。ところが、2年前も3年前も、あるいは、音楽に接していなくてもこのくらいはできていてた、それが今日のままという人は、何も学べていないということです。コールユーブンゲンをどんなにやっていても、どんなに進めていても、プロの感覚としての耳がない、あるいは、耳で聞けても表現できる体がなければできません。

 

 この間も1年半くらいいる人で、基本とは一体何ですかと聞かれたのですが、呼吸法や腹式呼吸も基本は基本なのですが、実際、それがプロレベルできるからといっても、それは条件にしかすぎません。できている人がそれを全部持っているということであって、腹式呼吸や姿勢だけがプロレベルでできても、そういうものに反応できて、自分の世界が表わせない限り、何の価値もありません。大切なことは、結果に結びついているところの基本であるのです。

 

皆、お互い群れて、ここで学園生活をやっているような感じです。最初にいったはずなのですが、人前に出ること、まねないこと。群れないこと。ミルバを見ていても、とにかく勉強、勉強で、勉強あるのみ。芸術家はいろいろなものを犠牲にして努力して、一人前にならなければいけないのです。観客は、アーティストの華やかな面しか見ませんが、その一方には努力あるのみです。こういう毎日を、高々2年間歩んでいるのかなと疑問に思います。

 

 

 ステージやレッスンに関しては、皆が毎日やっていることがとても正直に出てきます。毎日何を話して、何を得て、何を感じて生きているかということは、ごまかせません。そうでなければ、ステージはできません。

 

この間、野球の落合さんもいっていましたが、まわりの人たちは練習していないというけれども、自分ほど練習している奴はいない。ただ、人にいわれた通りにやるのではなく、自分は自分で考えてやる。人にいわれた通りにやらなくても、もっとよいやり方を知っている。その代わり、なぜ皆は人にいわれた通りにやるのかというと、人にいわれた通りにやったのに成果がでなかったと言い訳ができるからそうする。自分は、言い訳は出さない。自分勝手にやっているといわれるのだから、結果で出す。結果が勝負だろう。結果でよいのですが、その結果はステージでもあり、こういうところのレッスン場でもあり、皆が一人でやっていることも結果です。グループでやっているというのは、そういうことがわかるためにやっているのです。

 

 タレントさんでも、アイドルも、他の世界もそうなのですが、顔に緊張感の感覚的に研ぎ澄まされたものが雰囲気としてそこにあります。ここでやっていることは、そんなレベルの高いことはやっていません。

レベルの高いことを求めてきますが、先生方がそれをやったら、皆がそれについてこれないでしょう。昔は、もしそれに食いつけなければ、一週間死に物狂いの努力をして、自分たちでCDを買ったり、いろいろなことで勉強をして備えていました。今は、できなかったとか、もっとやれるようになろうとか、そういう悔しさをまったく感じていないでしょう。 

 

 

これは、一概に全員に対していっては失礼な人もいるとは思うのです。それはやはり結果で出していくしかないでしょう。たとえば、これを高校生のクラスでやったとしたら、同じくらいの人がいるのではないでしょうか。

 今、きちんととれた人は二人くらいです。ほとんどの人は、まったく聞いていない、あるいは、自分で頭だけで決めてしまったのでしょうか。

 

来年から何でも一つ、楽器をやらせようかなと思っています。今出てきた音は、ミファミファミレドドシラシミの6つの音です。この5つの連関がわからないのです。1オクターブは、12音あるのですが、考えてみるとスケールは7音です。基本のスケールは白鍵ですから、オクターブあっても8音です。それに、シャープや、フラットが1つか、2つついていても、この8音や9音の並び方は、毎回変わるのではなく、メジャーとマイナーのコードのなかで決まっているのです。こういうものも、コードで、音楽的な感覚でとれていたら、歌の支えになります。本当は、歌い手になる条件の最低のところでとれなければいけない課題です。

 

 ここで始めても構いませんから、慣れていけばよいのです。

そのことを埋めることをどこかでやらないと、いつまでたっても解決しません。私たちがこういうことをやらせるのは、できた、できないを自分で判断して、できていないことを当然自分たちで埋めていくためです。これが足りません。たとえ、24単位とっていて、ここに40時間やっていたとしてもです。どこからどこまでが練習というのは、とても難しいのですが、40時間など、1週間でやれるものです。入れていかなければいけないその時期に、皆はなぜか、余裕があるのです。それが結びついていればよいのですが、トレーニングが、リピートしていて、オンしていかない。オンしていかないというのは、どこかでつかんでいる部分がない。

 

 

 できた人というのは、聞いてみても話さないでしょうが、皆やっているのです。研究所というのは、2年間に関しては、最低限、先輩たち以上の毎日を送っていなければいけないと思います。そうでなければ追い付きようがありません。音楽の世界で生きていく人は、いろいろなものを聞いていますし、自分でも歌っていますし、それを聞いてみて弱点を見つけています。まず、その評価眼というのか、基準を持たないといけません。

 

 うまくなった人は、その基準がどこかのときに磨かれていて、あるいは、もっと正直に自分の心に当ててみれば、人前でそういうことをやっていけるために、どの程度のことが要求されるかということが、鋭い人だったら、1回ステージをやってみればわかると思います。ステージができないとわかって、何をやるかが問題です。できない。また来月がきてしまうでは困るわけです。

 

 ギャップを埋めることをやらない2年間は、1ヵ月の意味もないのです。上達するということは、上達しなければだめなのであって、そこで自分を許してしまうと上達しません。首根っこをつかまえてやっていける世界ではありませんから、イメージも自分で持たなければいけません。音楽も自分で動かさなければいけない。全部自分で決めていかなければいけないのです。 

 

 

こうやって、ニコニコしながらやらなければいけないのですが、本当に意味がないと思います。追うことに関しても、全神経を入れてアマチュアであればあるほど力がいります。プロほど簡単にとれないからです。

 今も、プレスヴォイス座メンバーを選ぼうと思っているのですが、適任者がいません。どうしてかといったら、音楽を勉強できていません。

勉強できていない人間が、人前でお金をとって見せるのですか。 

 

たまに、実験的にいれてみたりしますが、「ステージわかっていないんだな。」というところがすぐ見えてしまいます。それは、何も10年も20年もかかることではないと思います。本当にわかる人だったら、やっていける人だったら、10代でもデビューしている人だったら、一つか二つのステージのなかから、全て学んでいるのです。ここもできるだけ、そういった学び方をしたいから、2年という期間を置いていますが、どこかの一瞬なのです。その一瞬ができるためには、それだけの心構えが必要です。

 

 それは経験からいうと、本当に死に物狂いです。それを音楽に対してもっていっているのか。今のタレントさんでも、バンドをやっている人たちでも本当にない時間を捻出して、とにかく頭のなかに音楽が全部まわっていて、体もそれに対応しているということを誰でもやっています。それがあたりまえです。それですぐれる人、すぐれない人が出てくるのに、その条件がないところに、何かでてくるということはありません。

 

 

 まして、上達していきたいのだったら、教習所で習っても、F1のレーサーとなることはできません。教習所のことは運転の基本としては大切ですが、ただ、それをやってみて、うまくいったうまくいかなかった。と2年も5年も10年もやっていてもしかたないでしょう。うまくいかなかった、最初はそれでよいのです。

 

うまくいかなかったところを直せばよいのです。次には、10個うまくいかなかったのが、2個くらいうまくいかなくなる。そのことを厳しくいったら、2個がうまくいかなかったら、相当悔しがって、これではだめだと思って、そこをクリアしないと、次のステージにはいかないでしょう。そういう意味で、ここは映像を見せたり、いろいろな学び方を勉強してきているのですが、学び方の勉強方法がいくらわかっても、自分がそれを学んでいなければだめでしょう。

 

 いくら落合さんを見ても、自分が彼と同じくらいの素振りをしない限り、わからないでしょう。大切なことは、それがステージに出てくることなのです。もつ、もたないというのは、結局、その人の後ろにそれだけやったというものが見えてくるかどうかです。だから、失敗しないのです。

ギターのチューニングが狂っているとか、音を外したとか、おかしなところはありますが、でもおもしろい。おもしろいというのは、その人間がそこまでそのことにかけてきて、自分も楽しみながらつくってきている。そのプロセスがあるから、もってしまうわけです。そうでないと、逆にトレーニングとか、上達していこうと思いながらやるだけのことをやらないものは、間違ったものになってきてしまいます。

 

 

 ここは、受験やオーディションなどが目標ではありませんから、期限もありません。それぞれの人の事情もあるからということでずいぶんと自由にしています。いろいろと、よいものがあっても、自分でこうやろうと思っていたものをずっと見つめて、そこにオンする努力をしていかなければ、ものになりません。もったいない話です。 

研究所にいたためにその人の可能性がなくなっていくのは避けたいものです。しかし、全てをこちらが与えることはできません。

 気づくのには、時間を与えています。

気づけよと思っても、よほどでない限り、いいません。

もしオンしていかなければ自分でおかしいと思わなければいけないからです。

 

 入門科だからこのくらいしかできなくてもよいとか、②だから③クラスだから、まだよいと思っている人には、先がありません。入ってみてステージをやれているような人たち、あるいは、出ていってステージをやっているような人たちを聞いてみればよいのです。自分が伸びるために、徹底して使ってください。年月だけではキャリアになりません。

 

 皆さんより、たくさん曲を聞いている人、たくさん歌っている人は、世の中にたくさんいるのです。それは、一つの前提であって、その前提の上で何を勉強していくかが、唯一、差をつけられる部分です。音の感覚と、それを声にすること、声にするのも、日本人にない声で声にできます。そういうものが見えてきたら、きちんと自分を調律できてくるし、そういう意味でいうと、ここでやっていることは、音大や外国に行ったら通用しないということはなく、本当にどこでも通用するから基本なのです。

 

 

 基本が皆に入っていないから私が基本をやらせていましたといっても、研究所では基本ができていないということになってしまうと、お互いによくありません。本当に、気をつけて欲しいことは、表現能力がある人たちも本当でいうと、そこの5倍くらいになってきたところから、ようやくスタートラインなのです。10倍から100倍量としてもやっていきます。知識としても入れていきます。その期間をどこで蓄えるのかといったら、やはり、こうやって練習している期間しかないはずです。

 

 ここに入ってから、始めた人は相当プレッシャーをかけて、やってよいはずです。たとえば、高校のときでも中学のときでも、1ヵ月100曲覚えることをノルマにして、勉強しているような人たちはいくらでもいるのです。日本は狭いところですが、どこの世界でもやる人はやっているのです。こんなにやっているのは自分しかいないと思っていながら、やっている人は本当によくやっているのです。

 

 そこから、年月で遅れているのです。年令で遅れているのはよいのです。皆よりも長く生きているのなら、その分身につくでしょう。だからといってそれがいつまでも続いてもよいわけではありません。一人の歌い手をアマチュアの人は全部を聞かないとわかりません。私たちは、1曲のなかで、その人の歌の本質的なことをわかっていると思いますが、そういう学び方をしていけば同じなのです。

 

 

 映画館に行って、全ての映画を観なければいけないという話ではありません。自分でつくっている人達の方が時間がかかります。私たちも観る時間もほとんどありません。普通の本を読む時間もまったくありません。まったくありませんが、それでも読んで、自分のなかに入れ、出すもののきっかけにしていきます。

 それは、どこかの時点でインプットからアウトプットに変えていかなければいけないのです。インプットばかりしていたら、アウトプットはできるという考え方はやめたほうがよいです。

 

ここにいても、いろいろなところに習いにいく人がいますが、本質が見えないと、あるいは、そういう感覚や感性がなければ、鋭くならなければどこにいってもだめなのです。その人がやるべきことは自分の足元を見ること、切迫感をもってください。

 

 ある意味では自然でよいのですが、自然であってハングリーであることです。育ちとかもありますが、後は、何かをやっていく人たちと同じことです。集中力がどのくらいあるのか。そのことにどのくらいこだわってやっているのか。そういうことは、私がいわないまでも、いろいろな先生や、本、映像、テレビでもいわれています。自分の生活のなかにどう生かしていくかどうかです。

 

 

 上達したいのなら、自分で自分の時間を大切にしないといけません。サークル活動をやりたいのなら、好きにやればよいのです。 お金も時間も、きちんと埋めていかなければいけません。この問題をここでできなかったら、2年間でこの問題にあたっておくことです。上のクラスに行ったら、テンポももっと早くなります。この曲は1時間で終わらせてしまいます。そんなところで直せないでしょう。

 

音程が狂っていることなど、誰も注意してくれません。そこにぶち当たったときに、絶対に何が何でも解決しておかなければいけないことなのです。できなければ、次の日、だめなら1週間、もっとできなくても1ヵ月。それで1年、努力してできなかったというのならよいのです。そうではなく、放り出しているといつまでもできません。

 

 自分で歌えるのなら、もう歌えるのです。そこで何が欠けているのかというのが、わからないというのは、よりすぐれているものと、自分をきちんと対峙しておけないということなのです。それがおけないと、ギャップが埋まりません。いつもレクチャーや本でいっていることを、聞いて、それで得したと終わってしまう人ばかりです。

 

 

今もいろいろな本を読んでいる人がいますが、昔の人は、基本講座1冊か、それもないときにそういうことをやっていたのです。本はヒントにはなりますし、環境もいろいろにあっていても、その人が自分の体にたたき込んでいがないとよくないです。

 

他のトレーナーのレッスンでも、よりたたき込んでいけば彼らのやっていたところまではいくはずなのです。ギャップがつまってこないということは、結局、レッスンのお客さんで終わっているのです。見てやってみたというだけで終わってしまっているのです。

 

 アプローチの仕方は私たちもわからないところはあります。しかし、音というのは、組合せにしか過ぎないのです。その組合せを自分のなかで、流れの感覚のなかで、きちんと捉えていくことと、なかなか自分にフィットしなかったり、自分にイメージ曲も多いかもしれませんが、学び方としては、そういうところの新鮮さこそが一番発見できる部分なのです。好きな曲を聞いていて、好きな曲を歌えるのだったら、そのやり方が一番よいのですが、好きな曲が好きなように歌えないから、より、そういう部分を鍛えていくのです。

 

 

 先日、「呼吸法は、もうできたのですか」とか、「私の呼吸法は正しいのですか」と聞かれて困ったとトレーナーがいっていました。 

完全に間違っていることに関しては、間違っているといえます。でも、それもトレーニングによっては、独創的なものかもしれません。その人が後でものになったときに、それは正しかったといえるわけです。そういう面では、こちらが限定したくありません。

 

 表現にしても同じです。今、皆の表現を一概にだめといったら、何もなくなってしまうでしょう。何もないところから始めることもよいのですが、とりあえず肯定してみる。それがどのように表現という形をとるのかというところは、1回追ってみる。自分で1回とことん突き詰めないといけません。

そのままでは通用しません。私の体でも、呼吸で腹まわりが3センチくらい動きます。こういうところがこう動いたり、こういう曲で息がこうなって、すぐに全部がこのようにできる。ふつうの人だったら、これを60回やったら、体がしんどくなってしまうでしょう。

 

 それは、そういう鍛え方で鍛えたわけではありません。いろいろなやり方を通してみたら、そういう体になっていたのです。ですから、いろいろな方法、いろいろな教え方があってよいと思います。ただ、現実問題、皆がそのようになってきているのかどうかです。そういうプロの体にです。プロレスラーの筋肉もいろいろなつき方をしています。

 

 

 それは、素振りと同じで自分でやり方も考えて、何回も何百回もやってみるのです。どんなに考えても、普通の人がやっている練習量の半分しかやらなかったらやれるようになるのは無理でしょう。 

歌の場合で難しいのは、選ぶ基準の場がないからです。野球などの場合は、選ばれてくるのです。プロに入った人は全員才能があるのです。ですから、才能があるとか、ないとか考えてみてもしかたないのです。

 

要は、それを磨いたかどうかの勝負になるのです。ヴォーカルの場合は、才能があるのかどうなのかもよくわからない。でも、歌って誰でも歌えるものだと考えてみたら、スポーツ選手でも100メートル走るのは世界一流レベルでは才能でしょう。マラソンは、少し努力がものをいうかもしれません。ただ、スポーソは、肉体的に衰えていったら、負けていくのです。それから考えていったら、芸術は、気力が増すことで違う面で有利になっていく部分もあるのです。 

 

考えて欲しいことは、いまのあなた方の課題は、ここなんだよということです。「うつろなときを」ができないということにもっとこだわらないと、「ミファミファミレド ダトロポテンポうつろなときを」これだけです。

 この表現ということがどうなのか。聞いてみてミルバが弱めているからと、自分なりに弱々しくやっても、通じるわけがないでしょう。それしかやれないということは、それしか考えていないということです。通用しないものを考えてもしかたないでしょう。

 

 

それは、順番が回るためにやるだけで、ただの逃げです。そのために何をしなけれぱいけないのかを考えて欲しいのです。前に出さない限り、誰も聞きません。それで、何となくクラスが成り立ってしまっているとしたら、よくありません。そういうものを壊すような表現をしてください。

 

音声のなかで壊すことは、難しいのです。ぐちゃぐちゃなステージをやっても体で音を取れる、表現を込められるという他の部分の基本がきちんとできていたら、もつのです。普通の人がやったのでは舞台では単にはったりをやっただけで終わってしまいます。それはそれで、試みてみるということが大切なわけですからよいとしても、その試みを自分のなかで考えていかなければいけません。方向性を持たないと、本当によくないです。

 

 教習所に何年もいたらすごいレースができるみたいな勘違い、それはありえません。

昔は平均をやっていてくれたらよかったです。平均のレベルが高かったからです。皆、汗だくの顔で練習に入ってきました。今ではまわりの人間がおかしく思うほどやって、それでも足らなくらいかもしれません。それだけやっている人が少ないのだと思います。本当に結果に出るのです。

 

 

 やったことは、絶対に自分を裏切らない。やったことが結果に出ないとしたら、やれた人よりもやっていないだけです。ここでは才能、素質によって歌えるステージは問うていません。10代でそういう人もいます。そういうタイプはそれでよいと思うのですが、そうでなくやっていくのであれば、それ以上のレベルをやっていくとすれば考えなくてはいけません。だいたいいい加減にやっていて、器用だけでやれてしまう世界というのは全体的に層が低いのです。今の日本も舞台全般にいえることです。

 

 ただ、そういう人たちでも、プロ意識で相当なことはやっています。それを抜いていこう、それ以上のことをやっていこうという人達が、そのくらいの練習量で満足していたら、それは何も出てこないと思います。ここで今、すごい理由をきちんとつくっているのかなというのが、本当に気になります。その期間は他にないはずですから、ここを出てからがんばろうでは遅すぎます。

 

 ここにがんばって出て、それを見せてもらうというのだったらよいと思います。いろいろなことをやることはよいのですが、ここを足元として、とりあえず自分のなかにある足元のものをきちんと固めなければいけません。どんなにいろいろなところに行って、いろいろなステージみてもやっても、人のネットワークをつくっても5年も10年も経ったら、自分の力がなければなくなってしまいます。

 そうでないものは何なのか。絶対になくならないものは何なのかということです。 

 

 

最近よく、パソコンで編曲などの勉強をした方がよいのかと聞かれます。10年経ったら、今、勉強しているようなことが家電並みにできるようになってしまうのです。そんなものは何にもなりません。それでやるのなら、3年の勝負です。一流の人は必死にやるのでその分野が体に感覚として入って超えることで残ります。

 そういう人達は、新しいものに対してアプローチしているからです。そういう人達がつくりあげたもののなかでぐたぐたやっていても感性を磨かれないし、体は磨かれない。舞台の活動などできません。

 

特に音や声の世界はアナログなものです。デジタルはデジタルでよいのですが、声のことをやるのにグランドピアノではないのかという人がいますが、そんなことをいったら、ヴァイオリンより木を叩くほうがよいではないかという話になってしまいます。あんな風に加工して、人間がニスを塗ってやることないでしょう。そういう意味では、コンピュータでもエレキでも何でも同じなのです。ただ、それを使う人間が使える感覚をもっていて、それに対応できる力が楽器にあるかどうかということです。

 

 リズム、音感が手を通したり、顔の共鳴を通して出てくる。これだって道具です。足らなかったらスティックを持って拡大し、さらにバスドラで拡大していく。さらにマイクで拡大する。全部拡大する機能にしか過ぎません。もともとのものがなければしかたありません。

 声もそうです。声がどんなにいろいろと出るといっても、そのなかにそういう感覚がなければしかたありません。そこを勉強して欲しいのです。 

 

 

ここで何が起きているのか。ここでやりたいことは、日本人のプロはそれなりにすごく歌える。でもミルバとは桁外れにギャップがあります。そこは一体何なのか。まだ、自分でできなくてよいのです。そのことがものわかったら、何年か後に、きちんとやっていたらできるようになります。それをめざせという話ではありません。とりあえず、方向性をもう少しつけなければだめなことです。力がないと本当にだめで、その力は皆でつけていくものではありません。自分の可能性を引き出すために誰かとやるというのは、力のない人達、所詮5年10年経ったらやっていけない人達です。

 

 バンドでもやっていけたバンドには、必ず一人、人材がいます。二人いたらすごいです。その一人、二人がいない。劇団でも一人主宰者がいれば、旗揚げしてやっていけます。その一人がいません。まして、力のある役者がもう一人いて、二人になればもう、メジャーになってしまいます。逆に、それにのってしか動けない人は、もったいないです。自分を見なかっただけの話で、自分を見れば皆、そうなれるのです。特にソロのヴォーカルの場合は、それがなければ本当にやれません。一番やれないパートで、しかも力をつけにくいのです。 

 

劇団でしたら、力のない人が10人くらいいても何かできるかもしれませんし、みようみまねでやっているうちに力もつきます。一言からの出演がここのオリジナルフレーズです。

 ヴォーカルの分野になってきたら、問われるのは一人です。ステージでやることに何もいえません。ラグビーやサッカーと似ています。監督は関係ないから野球などとは違います。だからこそ、力をつけることがものすごく必要だと思います。 

 

 

今、めざして欲しいことは、レクチャーのときのレベル、あそこで私は、「ながいあいだ」とか「つめたい」とかやりましたが、あのレベルのことくらいは、2年間、毎日やっていたらできるようになります。あれができたからって大したことはありませんが、あれができないのにこういう表現がこなせるということもありません。

 2年経ったら、それに近づいているのか。1年経ったら半分くらいできるようになって、「つめたい」の「たい」くらいはできるようになって、2年経ったら「つめ」がつくようになるのか。そういうことをきちんと自分のなかで確認していかないとよくないです。 

 

自分の人生を賭事にしてはいけません。可能性を高めていくために勉強するわけです。もう一度最初にいったようなことを思い出してください。私は結果を出していない人間は入門科の人より下になると思います。入門科でいった話をここに1年いたから聞かなくてもよいではなく、むしろ、「1年も経ってしまった。2年も経ってしまった。」それで、聞かなければいけないと思います。そうしたら、遅くないと思います。

 

基本に戻るということです。

 新しいことをやっているのではなく、素振りをやっているのです。ただ、その素振りが私たちの素振りとはまったく違うプロなのです。一つひとつ、全部考えてやっています。考えられるために時間がかかるけど、体全体で考えるから一瞬なのです。頭だけで考えることは面倒臭いことでつまらないことです。 

 

 

何を勉強するかは人それぞれですし、何から勉強していっても全ては結びついてくると思います。そういう面でも、音楽や歌はおもしろいと思っています。今、遠回りしていたり、いろいろな事情があってそれに専念できない人もいるとは思いますが、どこかでそれはそれでよいのです。24時間こういう練習ができる環境が与えられたからと誰でもできるわけではありません。

 

 稼いだり食べたり、10時間違うことをやっていて、学校行ったり、仕事をしなければいけなかったとしても、ヴァイオリンやピアノとは違って、ヴォーカルというのは、残りの2時間3時間で充分できることです。ただ、その2、3時間のなかで何をするかということをきちん積み重ねないとよくないです。 

 

自分のステージがおもしろいということが前提だと思います。そうでなければ、ほかの人のステージに行った方がおもしろいでしょう。それがどこかで見極められるか、どうかということと、そこでやるべきことは何なのか。

 芸術家はいろいろなものを犠牲にして努力して、一人前にならなければいけないのです。では、犠牲って何なんだ。私はそれだけだと思いますし、それしかものをいわないと思います。同じ人生を与えられて、同じ時間を与えられて、その時間に対して、どこまで真摯にその時間を過ごしたかというだけの結果です。

 

 

それがステージに全部でてしまいますから、逆にいうと、別に話は聞かない。結果を見たら、その人のなかにそれだけのものがあるのだなと伝わってきます。それに対して、やはり感動します。勇気づけられます。私も年老いてきますから、勇気づけてくれなければ困ります。先生方が勇気づけて、皆が否応なしにやらなければいけないというのでは、逆です。

 

 体力や集中力が弱くなったら声はコントロールできません。他のことでも、仕事でもレベル以上のことをやろうとしたときに、きっと失敗します。あるレベル以上の人を見てみればわかります。テレビでも見てみればよいです。目がきょろきょろしていたり、だらだらしていたりしません。

それは、形ができているのではなく、そうでなければそういう人達もそこにはいなかったのです。そうでなければ消えていっています。 

ここでもそういう意味で、全部が全部よいレッスンになっているとは思いませんが、皆がよいレッスンにしていってください。

 

 この1フレーズが、2年でできれば、自分の歌になっていくということです。それができなければ、何百曲歌っていたり、何百時間レッスンに出ていても、まだまだ不足だということです。皆よりも機会があって、時間がある人で、いろいろなところに行きまくっている人がいますが、だからすごいことが身についているとは思いません。

それだけのことをやったなと本人が自己満足で終わらないで、そこから吸収するものが、そのあとにきちんと落ちていたら、それは正解になってくると思います。

いろいろな先生に付いて、やっている人はいくらでもいます。大切なことは、そこで本質的なことを見抜いて得ていくことです。

 

 

 1フレーズでよいから、違いの出るものを、確かにあなたが2年やったのだという卒業作品を出してください。1曲とはいいません。1フレーズできない人が9割だと思います。

そのことができれば少しずつがわかってきます。その1フレーズに対して、他のものがどんなにいい加減で中途半端かわかったら、その1フレーズに近づけようという努力もするし、その1フレーズから、世界の一流の人達がどんな感覚で、どう出しているのか全てわかってきます。

ただ、それは意識的にだけやっていたら、わからないのです。なりふりかまわずにやって、これ以上できないとなったときに、なぜか知りませんが、そんな状態になることできっかけがつかめるのです。

 

 カラオケのカラオケハイなどと同じです。何でも歌えて、声は好きなだけ出るという感じです。カラオケでは勘違いばかりですが、歌や踊りのなかでは、そういうときが人間にはあるのです。

それをいかに捉えるかです。それにはそれだけ準備しないとだめなのです。その準備の毎日を送っているのかどうなのかを問うてください。

まわりを相手にしていたらよくないです。少なくても、ここのBV座に出ているような人を最低のラインだと思ってやらないといけません。

 

 結果は出るはずです。やっている人は出ています。皆それを才能とかいうのですが、どのくらい苦労しているのかを私は見てきています。

それと同じだけの年月を過ごしたかどうかということです。長さではありません。

入門したばかりとしても遅い話ではありません。体に落とすことをやらなければいけません。