課題曲レッスン
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【「愛はるかに」】
【明日月の上で】
【「アディオ」】
【ムーランルージュの唄】
【「ギターよ静かに」】
【「悲しき片想い」】
【「サントワマミー」
「愛の真実」】
【「男と女」】
【「王将」】
【マリエ】
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【「愛はるかに」】
勉強しなければいけないことは、基本的なところの声をしっかり出すことと、それが音楽という一つの表現形態とるところに何があるかです。まず、イメージを正しく持つことです。
やってはいけないことは、その歌い手の個性なり、雰囲気なり、歌い方のなかの表向きに出たところをコピーするところです。皆がこれをヒントにイメージを膨らますのはよいのですが、それを落とし込むときに、利用すべきルールというものがあります。ボールにバットが当たればよいという話ではありません。
そう聞かせたいとか、雰囲気的にこうやりたいとかいうのも、雰囲気に飲まれて間違えてしまうと、どんなに練習しても通じないです。そういう多くの歌を聞いてわかるようになってください。
工夫や努力したことは見えても、根本からは外れているからです。どんなにそれを煮詰めてみたところで、歌には落ちてこない。音楽には落ちてこないのです。
音程が狂うことも、リズムが狂うことも、一つの要因にしか過ぎないわけです。音程、リズムは、教えるほうが指摘しやすいので、一つ基準になりますが、それ以外のものが決め手としてあるのです。そこを膨らますのは、歌ではありません。一番基本の部分があって、素直に応用できるようにもっていかなければいません。つくりすぎないことです。これが一番の基本です。
要は、基本のものがきちんと通っていない、体の原理がしっかりと働いていない。声もきちんと出ていないところにいくらつくっていっても、その場しのぎにしかならないのです。
ここの舞台でやっても通じません。もちろん他の舞台のときには通じるようにみえるときがあるかもしれませんが、基本の勉強をやっているときにそればかりやってしまうと、結果オーライにもならないと思います。
歌の場合はその判断がとても難しいです。
たとえば、バッターでしたら、出したところに当たってしまったとか、ヒットになってしまったとか、いろいろなことが結果としては起きると思うのですが、あくまで偶然なものとわかります。手ごたえのない偶然な結果に頼ってはいけません。つきにだけ頼ると見放されます。つきを呼び込むために基本があるのです。
自分がやった結果そういうものが出て音と新たに出会うことはよいのです。そのためには、ある程度狙いと方向性とイメージの持ち方を定めなくてはいけません。その人の体のものはきちんと出ること、呼吸が出ることがメロディに落ちていくことです。メロディをとること、リズムをとることは、当然やっておいてください。
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ポイントというものがあります。「うつろなときをきざむ」のは、どこを捉えなければいけないのか。そこがきちんとしまっていかないと、他で遊びができません。
こう歌おうと考え感覚だけでやる人は、全部遊ぼうと思ってしまいます。そうすると歌にならず、だらだらとなってしまいます。芯がないとしまりません。まず、ことばの方から、ポイントをつかんでみましょう。
「うつろなときをきざむのはこわれたとけいだけじゃない」
自分で好きに読んで全部やってみましょう。
次の人は、次の2行です。女性の歌詞ですから、男性としては抵抗があるかもしれませんが、歌の世界に性別はありません。
「うつろなときをきざむのはこわれたとけいばかりじゃない
わたしのむねのときめきは
むなしいおもいであなたがうばいさったゆめは
あめにぬれたバラのようにいつのまにかわたしのこころにあざやかによみがえるの
どんなにのぞんでも かなえられないこい
ちいさなかけらをひろいあつめても
にどともどらないまばゆいこいときのながればかりが
くるしみをわたしにおしえてくれる」
ばたばたしてしまっては使いものになりません。単純に飛んでこなけれぱいけません。飛んでくるということは、一本の線が見えてこなければいけません。その線が方向性を持っていて、音楽を奏でていくわけです。その線は、基本的にはその人の体の線や呼吸の線、あるいは、肉声といっていますが、そういうものと一致しなければいけません。一致しないところでやっていくと発声は乱れます。
いろいろなところが響いたり、共鳴がいったりしてばらばらになっていくと、ことばも音もリズムも扱えなくなってきます。それは、一本なのです。ことばというのは、何回も何回もいっていたら一本になってきます。
「うつろなうつろなうつろな」といっていたら、そのうち一つになってきます。それをより大きく高低をつけるということと、同時にできたら、強弱のなかに入れていって欲しいのです。
「ときをきざむのは」と、きてもメロディをつくまえのところに強弱があって、きちんとそれを伝えようと思ったら、強弱形をとるようになってくると思うのです。
「うつろなときをきざむのは」は、どこかにアクセントがついて、それで流れやすくなります。そのポイントをどこでつかむのかということに関しては、歌の場合はたった一つに決まっていないために示せません。しかし、こういう出だしに関して、その人がどう捉えるのかは、いろいろとあってよいと思います。
しかも日本語がついてくるとまた、違ってきます。セリフの場合は、否応なしに二つ、三つに絞られてきますが、歌の場合はそれをずらしても構わないわけです。「うつろなときをの」の「を」についても、「きざむのは」の「は」についてもおかしくはないのです。ただ、「きざむのは」とかになるとおかしいのです。それを歌のなかで起こしてはいけません。
もう少しやってみましょう。「うつろな」といったなかに、「うつろな」と歌ってみてください。キーも高くしない、音も長く伸ばさないで、呼吸の使い方は、より体を使うのはよいのですが、まだ抜かないことです。なるべく「うつろな」と四つのことばで一つのことばのなかのイメージ、ひとつの音の線のイメージでやってみてください。
自分できちんとおさえていくことです。
「タタタター」から「ター」という形にするのです。歌い上げるものに関しては、「ターターターター」とつないでいくのですが、ポップスの場合は、つなぐことをひびきでやる必要はありません。☆
むしろ息でつなぐことです。そのなかの呼吸が大切です。その呼吸がコントロールできなければ、歌のなかでコントロールできません。息で読んだほうがよいかもしれません。こういうことは家でやることなのですが、やれていないようなのでやりましょう。
息でやると体を使うでしょう。体と息は、まだ一致しやすいのです。声というのは、変換効率がありますし、いろいろなところでごまかせてしまいます。音がとどけばよしみたいな感じになりがちですが、そうではありません。息と体の用意をしたときに、「うつろなー」のようには出ないはずです。こうなってしまうとばらばらになってしまいます。
「うつろなときを」までいきましょう。
しゃべりでも、呼吸があって、間があります。自分のなかでどこかにポイントを持って、どこかでしめていかなければいけません。そうでないとだらだらとして、緊張しなくなってしまいます。テレビを見ていても、タレントにしてもプロですから、素人と比べてみると違いがわかるでしょう。
歌に関しても同じで、自分のなかで息でいったままではのっかりません。自分で動きを起こしていくのです。自分でその動きを感じて、声でやるとできないということになってしまうから、トレーニングするのです。
息は共通です。本当のことをいうと、ただの息ではできません。息で伝わらないから、音声をつけるのです。基本の動きや感覚が外れたところでやってしまうと、雑になってきます。
歌唱にしたときが楽なのは、抜くからです。声の動きを伴いますから、そこまで体を締めつける必要もありません。もう少し流していけばよいと思います。次の「あなたがうばいさったゆめは」もそうです。その上で、少し音を意識すればよいのです。
どこで切るのかということも、メロディとフレーズ。ヒントを両方を与えています。そのなかで、ことを起こそうとしないとよくないです。
「あなたがうばいさったゆめはー」では、何にも置きません。セリフでいっても、間なり、動きなりの何か変化があります。逆に音楽では、メロディから離れて、伸ばすだけ伸ばしてもよいというわけにもいきません。そういう意味だと、もっと繊細に置いていかなければいけません。ある意味では自由ですが、与えられた場合は、自由度が狭まります。
ことばで「あなたがうばいさったゆめは」には、限定がありませんから、いろいろな読み方ができます。全部やっておいてから、メロディのなかに接点を見つけていかなければいけません。
タタタターを通して、あなたがを伝えなければいけません。タタタターがあなたに歌に聞こえてくるところまで自分のイメージやイマジネーションを読み込まないうちに、置き換えてしまうと何も出できません。
「うばいさった」も同じです。それで正しいのですが、何もつくられていません。組合せがいろいろ与えられてきたり、音が与えられてくればくるほど、制限はできてきて、身動きができなくなるでしょう。
けれども、その制限が出てきたことによって、「あなた」のなかでしか表現できなかったのが、「あなたが」の次に「うばいさった」の組合せによっていろいろと広がっていくのです。それを自分のなかで決めていかなければいけません。メロディを流しておくというよりも、表現にメロディを併せるのです。 ☆
「あなたが」に対して、どういうポイント、重心を持っていくのか。「うばいさった」も「あめにぬれたバラのように」の「あめに」をどのように捉えて、「ぬれた」というのをどう自分でどうイメージするのか、バラはどうなのか。
これをどんなにイメージしてみても、音楽的な線が走っていないと歌にはなりません。その辺がおもしろいところで、難しいところです。
小さな声でもよいですから、体で読み込んでフレーズをつけることをやってください。この歌を最初から歌えるとは思いません。与えられた楽譜を見ながら、楽譜の読み込みをやります。
ミファミファミレドドシ。慣れていると、歌詞に音をつけられます。外国語で聞くと、二段階で考えなくてはいけないのですが、それでもこれは、タタタタタではいっていって、クターで下がって、クターで上がるという流れくらいはわかるのです。
長く息を吐いて、そのなかに「わたしの」をのせているのもありますが、タッのなかにのせているのもあります。こういうものは、日本人は大変です。彼らはそうやって習得してきています。そういう踏みこむところが、子音になるのです。そうすると否応なしに一つにまとまってきます。その動きのなかに、タッに「わ」がついて、「し」もついてきます。その音がつながって、いえてしまうのです。音のなかで理解して、音のなかで鍛えられてきた、彼らの音声への反射神経や感覚です。それを学ぶことです。
日本人は、目で見て、それを正確に読むということばかり勉強してきた国民です。音としてないところに聞いて言い換えるのはとても苦手なのです。ですから歌詞を書いています。間違ってもよいですし、そう聞こえなくてもよいですから、とにかく音のリズムや息の大きさのところでまかせていくようなことをやってください。
「わたしのむねのときめきは」のどこにアクセントをおくかということです。
これらは、レクチャーなどで話すことと同じです。そういうメリハリに気をつけるというよりも、伝えると思えばどこかにつきます。それは歌になったときにも同じです。どこかでつめない限り、同じテンポで曲は流れています。入り方にしても、入り方の鋭さ、瞬発力です。これに声がついていかないから問題なのです。声が出る出ないの前に、その感覚がなければだめでしょう。
同じくらいのテンポのなかでもいろいろなことができるのです。それは、自分で動かそうと意識しなければいけませんし、それを伝えようとしたら体がいります。口先のなかでは、絶対に動きません。集中力もテンションもそうです。彼らくらいの集中力やテンションをあたりまえにしないと、そこでパッといい出せません。劇団の勉強も一つのセオリがあるのです。
自分のなかで、音程の差をなくして、強弱で引き受けていってください。高低の感覚ではなく、強弱の強に力をいれてください。高いところに力を入れてしまって、伸ばして、さらに高くしてしまうのでは、バラバラになります。
体が同じに近づいてくると、わかりやすくなってくるのですが、逆にいうと体は時間がかかりますし、まして、声をコントロールするというのは、わかりにくいでしょう。
できるだけイメージのなかでも、1オクターブがとれている感覚をつかみ、プロの人たちがどういう感覚で読み込んでいるのかということで、音楽を聞いてください。
ピアノにしても別に、この音と、この音の弾き方がそんなに違うわけではありません。基本的に体の働く原理は同じで、その応用上にあると、間違いありません。それを一つひとつ全部勉強していたら、いくつあっても足りません。そうでなくて、元になる、後で一番いろいろな変化がとれるようなところを勉強してください。
勉強の仕方は最初にいった通り、聞き方からです。どういう感覚で捉えるかということと、出し方。それをどう体で反映させるか。その結びつきです。この二つしかありません。
そういうものを、こういうものでやってみるときは、どこの箇所を切り取っても、そのなかで動きをつくるか、はなすか、つかむか、ほうりなげるか。何らかの動きが全部出ていますから、棒読みにならない。表現が死なないのです。そこ箇所を一ヶ所でも、二ヶ所でも完全にわかっていくことです。
声の考え方も同じです。たった一音でよいから、100をつかんだら、それを応用していけばよいのです。音楽も同じです。たった一つの音でも出会えたり、あるいは、それをつくりだせたら、それを応用していけばよいのです。他のものが、いかにレベルが低いのかを、自分のなかで比較してみればよいのです。そうしたら、他のものをそのレベルまで、引き上げられますし、引き上げていくのです。
そんなに、何百曲も、何千曲もやることではありません。たった一曲。一曲でかなわなければ、いくつかのフレーズのなかから、そのことに気づけばよいのです。その気づくのに、何百曲も聞かなければいけなかったり、何十曲も歌わなければいけないということはあります。一つの曲だけ聞いて、生まれてはじめて聞いた曲で全てわかったということはないでしょう。
見本に使うには、よくできていると思うものを使った方がよいわけです。そうでないものを使うとかえって迷います。自分の体や、感覚が迷ってしまうので、それはよくありません。まったくできないものをつかっていてよいわけです。わかりやすいレッスンがよいのでしょうけれども、わからないものが、わからないままはいってきて、わからないまま出ていて成り立っているような世界です。
理解できるというものは、所詮そんな程度のものでしかないのです。何かわからないけれども、そこに本当のことがありそうだというものを、そのまま素朴に受け止めていく経験が一番下地になってくるのです。そういうものに対してチャレンジすることです。
好きな曲ばかりではありません。ただ、そういうものを取り上げて、何かしら自分が教えていないところで受け取れたらそれが一番正しいと思います。所詮、本に書かれていることばから出てくる程度に簡単にわかってしまうものなんて武器になりません。
そういう表面に出てくるものは、その下にあるいろいろなものを勉強するために必要なのであって、それを勉強してもしかたないのです。こういう歌も自分なりにでよいですから、いろいろなものを聞いて、これよいなと思うことから自分でメニューをつくらなければいけません。それがちょっと大変ですが、そのときに妥協しないことです。
そういう感覚で進めてみてください。材料は何でもよいのです。自分がそこで何ができたのかということを、自分で確認してみる。最初は、距離があるのです。自分が何をやっているのかわかりません。それは、客観的に聞くか、あるいは、ステージ実習のような場で出してみて、問うていくということも大切です。そんなことを基本の勉強とうまく結びつけていってください。
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【明日月の上で】
オーディションがあります。皆は入ったばかりですが、年月と関係ないので、挑戦してほしいものです。
皆の考え方からいうと声のことをやり、それから音楽の基礎のことを固めよう、そのあとで歌そのものを知ろうということでしょう。
私はステージの方から考えています。そのところの条件、たとえば態度、別に真面目だとかどうこうというのではなく、あなた自体が働きかけてくるようなかたちになっているのかという部分を重視します。それを支えるものとして音声を用いるのだからです。歌、あるいは台詞の部分で表現が成される。この音声が心地よく聞こえたり、その人の世界をきちんと出していくということのために他の条件があります。
発声をいくらやっても音程がどんなに確かであっても、それは千分の一、一万分の一の条件にしかすぎない。表現のためにそれは必要ですが、それだけをどんなに追求していってもこれにはならないということを忘れてしまう。するとどんなに4年間やってみても音大の4年生にかないっこないです。ただ音大生もポップスは大して歌えないわけです。でも、そのことがわからない人が多いのです。
それがどういうことなのか。結局それ以上のものが何もないからです。
こういうものを勉強するときにどのようにするか。
たとえば今やってみたことはひとつのフレーズですね。でもこの一フレーズというのは時間的にも音域としていってもプロのやっているところの一部分です。一フレーズが4秒間だとしたらプロは一曲を3分間、そのうちの1分×2コーラスくらいを歌っている。
だから、一フレーズの地点できちんとチェックするというのは一番現実的なやり方です。この上にステージがのっかっていると見ればよいのです。
そこで基準をもっていることが大事です。この基準はまねから入るしかない場合もあります。
基本的には自分を中心に考えてもらわないと困ります。今の自分が何ができるのか、それからどういうふうに選択するのか。単純にいうと、自分の材料を全て知っているということです。そこのなかから歌は多様に引き出せる、引き出すときに選択できることです。その選択の基準が大切なわけです。
無意識にやっても音程が取れる人と取れていない人がいます。それは音の高さの組み合わせの選択です。それからリズムも声やピッチに関しても同じです。
練習であればいろいろなことをやってよいわけです。レッスンの場合は、そのなかで一番最高のことをやる。どうしてかというと最高のところでなければそれ以上のものは気づけないからです。たとえば皆がある力を持っていたとしたらできるだけここのところでやる。このときの基準の取り方が狂ってしまうとよくないわけです。
1フレーズのなかで一番楽にしようとか単に一番高いところの声でやろうとか、聞いた通りの音のキーでやろうとか、これは全部基準が外なのです。自分の基準ではない。自分の基準を考えたら、今のフレーズは半オクターブです。そうしたら自分が持っているこのオクターブのなかで考えてみたら原調でやる必要はない。ただその方がコピーはしやすい。
だからぱっと与えられたときにキーが会わないと難しい。でもそれは自分の応用力がないということです。そこでそのパターンを入れておかないといけない。同じようにリズムパターンもあります。
ポップスはそんなに複雑なわけではありません。そのときにどれだけのものから持ってこれるかというのがひとつの力です。
これはクラシックをたくさん聞いておけということでははなくて、それだけの材料を入れておかなければいけないということです。歌や音楽でも楽器でもよいと思います。なるだけたくさん多様にあった方がよいと思います。大切なのはそこから質の方に入っていかないと、下のレベルのことはできてもこのレベルのことはできないわけです。
大切なことは音楽をきちんと聞く耳を持つことです。これを磨いていく勉強をすること。三味線やサックスに合わせて吹いたりというレッスンも出てきます。今は人間の声でやっていますが、却って近すぎるがためにわかりにくいところもあります。純粋に音の流れとしてみたら、楽器の場合は言葉が消えます。そうすると音の流れや音のなかに何を表現しているかというのはもう少し見やすくなります。
音程リズムも同じような意味でこれだけができても仕方がありません。今の上級者はどちらかというと正確に打てるだけの人です。正確さに甘んじているがために、他のものが全部死んでしまうこともあります。そこに表現をしようと思ったら、ポップスは音程や正確さはそれだけでは計れないから、メロディコピーをいうやり方で計るしかないのです。
聞いたものからまずその音楽のなかの精一杯のものを取り出す。その持つ要素を全部否定してしまえば何の意味もない。ここより上にいかない。
個人レッスンで30分やるとして、そのうちのほんの30秒くらいのところで最高のところを出せるかどうか、そこのところで次に何に気づくか。そして、ここでのギャップを埋めていくのが大切なのです。でもここの状態になることに年に何回かしかない。なぜ体を鍛えたり柔軟をしたりしなければいけないかというと、ここの状態がすぐに取り出せるためです。初心者の人ほど準備の時間が必要になってくる。
ほとんどの人がここの状態が出てこないのに、先をやってしまう。先での量はあまり意味がないのです。少しでも早くステップアップさせていかなければいけません。
これがアップしているのかしていないのかわかるためには、自分自身で基準を知らなければいけない。そのために他の人をよく見る。自分の基準は、声そのものは聞けないのでわかりにくい。
自分に心地よいというのは確かにひとつの条件ではありますが、それが必ずしも相手に心地よいわけではない。それから自分でたくさん声が出ていると感じていることが相手にたくさん伝わっていることでもありません。
ところが他の人を見れば、他の人とお客さんがいれば両方を見ることができます。当然のことながらすぐれたヴォーカリストや芸人はこの両方を見なければいけない。客に媚びる必要はありませんが、ここでなされたものが確実にこちらに伝わっているかどうかという判断をしなければいけません。
声も自分のなかで一番大きく聞こえる初心者の声は、ほとんど間違いです。それは喉や内にたくさんひびくがために内耳を通ってこちら側にたくさん聞こえてくる。だから録音を使ってみたりいろいろなものを聞くことで浸透させていくしかない。今まで随分聞いてきているとは思いますが、それを真剣に聞くということです。このレベルの耳で聞くということです。
たとえば日本人は高低にこだわりすぎメロディアクセントをとりすぎる。それに対して向こうの人は大体そういうものは最初からとってもいない。強弱だけで考えてリズムがついている。そうしたらそこの切り換えができていないということです。そういうところで勉強してきた人は、そちらの方に全部もっていってしまう。より正しく出さなければいけないというところになって、結局自分から離れてしまうのです。
そこの部分は2年で離れるのも大変です、1オクターブで2年たって揃えられる人は3割もいません。だから1年で半オクターブもできれば上出来だといっているのです。でもその意味がほとんどの人はわからない。まったくできていないわけです。できていないからそういうギャップが生じてしまう。そういう体を読み込んでいく前にそういう感覚で曲を捉えて、是正していかなければいけないのです。
自分で出し、録音で聞いて、それが本当によいと思うならそれはそれでよいのですが、そのよいと思う感覚がどこにあるかということです。
それは、こういう人達のなかに入れて聞いてみないと、正しいチェックはできない。それでよいのなら、その人の目的としてはそこまででよいのです。
ただ何か足りないと思うのなら、それは相当いろいろなものが足りないわけです。それが何かというのではまだ練習にならないから、ここでは細かくしています。
でもだからといって声だけ出しなさいとかリズムだけ合わせなさいということを練習していても、やはり結果としてはあまり関係ない。結果として出た声です。
④のクラスというのは2曲をやってしまいます。ほとんどイタリア語でも日本語で1曲やるのと変わらないくらいです。それだけ慣れているのです。
それは、皆より才能があるということより、まず慣れの部分です。その部分で今まで皆は日本人で、音といったら高くなったとかゆっくりなったとか、その程度でしか捉えられていない。もっと複雑なことが捉えられているから何か1フレーズになったときに音の構成が出てきます。
そこでは声が聞こえないでしょう。歌っているとか声だけ出しているとかは聞こえない。そんなものが聞こえたら音楽ではないのです。
ピアノでもそうです。音だけがボンボンと響いてくるということはないわけです。何か響いてくるものが音によって動かされているわけです。そういうことは演奏から考えてみると基本的なことなのです。
だからそこの歌で演奏するということがどういうことなのかということです。きちんと入れていくこととレッスンを受けて徐々にその感覚を切り換えていくこと、これは他のレッスンでも同じコンセプトでやっているはずです。
誰のやり方がよいうというわけではなく、基本的に感覚を変える。そのためにいろいろな方法やアプローチや優先順位があって、どれが正しいということはない。あなた方が選んでいく。
まず聞くことです。簡単そうに歌っているのは、どれだけ体が合理的に使われていて、その人間が集中してそれを扱っているかということだからです。それをうまくみせるのがステージというところになります。自分がやったステージをきちんと観ればよいです。
最初の1年目ぐらいに注意することは声や歌のことばかりではないです。ステージのときの映りを観ると、声を聞かなくてもこの人は素人だとわかるわけです。それだけ歌を抱き締めて、握ってきて出していないわけです。そんなものは通用するわけがない。ということはどういうことなのか、でしょう。何をやればよいのか。振り付けをやればよいわけではないですね。音や声のなかに何かを入れなければいけないわけです。
何かを入れようとしたときに音しか取れていない。それはすぐれた曲にはならない。ではここに何を入れるのかという感覚が必要なのです。それを声に結びつける。ヴォーカルの場合はいつからでもできるのですから、今までいろいろ得たものを全部総動員しなければ到底間に合わない。
逆にそういうやり方をすれば、呼吸と関係なく歌としては仕上がる。だけどそれが自分の呼吸や鍛えられた技術によって支えられているかというと、そこの部分で時間がかかります。
ヴォイストレーニングは可能性を広げるためにやるわけですから、何でもやっておいた方がよいのです。ただ歌というのはそのなかで何を使わなければいけないのかが、材料をパッと与えられたときにわからなければよくありません。自分が格好よいところだけをきちんと凝縮して1分間にまとめればよいわけで、格好悪いところや難しいところは全部切り捨ててしまえばよいのです。下手なところを見せる必要がないのです。
ところが皆の場合でも何でこんなところをアピールするのだろう、もっと楽に歌えばよいのにというところがたくさんあります。正直すぎるのです。それは自分で自分のことをわかっていない。自分が何をすれば下手だと思われ何をすれば少しは下手に見えないのかということをわかっていないまま出してしまうのです。そういうことは知っていかなければいけません。
そのためにテンポも自分のキーも知らなければいけない。そのことを知るために2年です。姿勢をピアニストに注意されているくらいでは困ります。自分がこう歌いたいというのがあるのなら、ヴォーカルが知っていなければいけない。そういう勉強をすることです。
今までは、これが正しいとかこうやってはいけないといわれてきたでしょう。ここは全部あなた方が正しい。あなた達が思うとおりに歌えばよい。そのかわり思うとおりにしか出てこないからそこで勉強しなければいけない。ないものを中に入れていかなければいけない。ピアニストに、私はこのキーでテンポなのだということを納得させられることをやらなければいけません。
音楽を知っている人はそれなりに20年くらいやってきていますから、そんなに間違わないはずです。そういうことを念頭に置いてそれぞれのレッスンに出ると共に、私たちが思っていることは先に出てしまわなければダメということです。
ストリートのライブでもよいから、そこで足りないということをきちんと感じないと練習にならないということです。今の人の考え方は逆なのです。声を身につけて、次に音感、音程とかになって、それで歌をレパートリーに入れてみたら何かできるだろう。そんなものでは絶対に20年たっても何もできません。
カラオケのおばさんでも、年配の人はいくらでもいる。演歌もカラオケも指導するのは、自分の体を一回無にして、本当によく聞く。そのときに自分の体に起きている反応をきちんとやればコピーできるわけです。本当はコピーなどで通用するわけないのですが、普通の日本人達はコピーがうまいものだと思っている。だからごまかせるのです。そんなところを参考にいろいろなレッスンを組み入れてください。
たくさんのレッスンに出ていて頭が混乱しても変えていくのは感覚だからよいのです。毎日のトレーニングで変えられることは体と心両方やっていくことです。その日にできたかどうかは、できない方がよいレッスンだったと思えばよいのです。できてしまったらそれは来なくてもできたわけです。そう考えてやってみてください。できなくてもめげる必要はない、そこの部分がわかってよかった、それをどう埋めるのかをその後に考えないと変わらない。何年たっても同じです。
注意したことは、基本的に中高音域を固めたところで音域の1オクターブ半上の音は、どういう音が出てくるのかを自分で発見していきなさい、発声練習の声からとっていくのではなく、それがひびくのかシャウトになるのか、試してみることです。
松本隆さんぐらいの作詞家が横にいたらそのぐらいのベタな歌い方だと、きっと気分を悪くされると思う。メロディをつくる人も詞をつくる人も、一つひとついい出した言葉を大切にしています。ストーリーを思い出すところまでとはいいませんが、そういうふうにならないように歌によって妨げられてしまうのであれば、詞のままの方がよほどよいわけです。そういう意味でどういうふうにメロディに溶かし込めばよいのかをやってください。
感覚で展開させなければいけません。言葉でぶつぶつ切っていったらどんどんバラバラになっていきます。一本通しておきながらボチェッリを使ったついでにもうひとつ使いましょう。
こういう歌を聞くと声で張り合おうとする人が多いのですが、そういう練習は一時期やってもよいと思います。誰もがそこで遠回りをするのですが、無駄ではありません。気持の盛り上がりで体がある人や声のある人は声に表れるわけです。こういう歌でも、たった一ヶ所でよいからその気持の盛り上がりや高まりの部分をまずきちんと音にして一つ伝えるというのが歌でした。歌がどう変わろうと基本の練習はそういうものだと思っています。その気持の高まりの部分をどう表すかということです。
だから高まっていないものに対しては支持できません。少なくとも歌を聞いたらそういう気持ちになっていくものなのですが、普通の人以上にならない歌い手志願者もいるようです。長くそういう世界に入っていたとしたら、逆に汚れていっているということです。きっぱり足を洗ってもう一度歌を聞いた方がよい。そういう場合もあります。近くにいながら一番遠いところにいってしまう。だからといって遠く離れればよいというわけではなく、それだけのものを入れておかなければよくありません。
声の大きさでやるのではなく、そこにどれだけの気持が入っているのかということです。まず感じることが大切だと思います。
体や声量、音のとり方が違うから、そのままのスケールでコピーしても無理です。
どう移しかえなければいけないかということを自分の範囲で知っていて欲しいものです。テンポやキーを決めなければいけないのと同じです。同じようにはできない。村上進さんのように反らしたようなメロディから言葉にするようなやり方をそのままとっても余計に他人事になります。
本当のことでいえば、そのなかで処理する。「音楽、胸、月」、言葉でいうとそういうものをどう生かすかということです。安全なところでチャラチャラやっている。その姿勢の問題が大きいと思います。
命をかけて芸事をやっている人をもう少し間近に見る体験が必要だと思います。そうしないとトレーニングのことが10回で修正すればよいとか家に帰ってやればよいとか、そうなってしまいます。常にワンチャンスしかありません。何かに出てその一言で次の出演が決まるとかお客さんが来るかどうかが決まるとか、それが練習の場だからよいというのではありません。
音を取り込むこととそこで置き換えて自分の世界を出すことに関しては最高のテンションを維持していないとそれはできないはずです。それが入ったときと変わらなければそれ以上のものはそこにのっかってこないから伸びないのです。そういうものをもう少し入れていった方がよいと思います。
これをそのままそっくりうつそうと思ったら難しい。でも単に表現することを考えたら、今までのなかでそういうシーンや映画などでもイマジネーションでもってくることです。それをパッと放り込むこと、まず言葉で受けて、それから言葉を音にするところです。メロディも音のなかに言葉を溶け込ませると考えればよいのですがなかなか難しい。そこのところでどうつなぐかというところで9割集中してほしいのです。
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【「アディオアディオ」】
1音のなか、あるいは1フレーズのなかで、なにも感じていないし、動かそうとしてもいない人が、1曲歌ってみたら、どこかにすごいものがでてくるということはまずありえません。自分のなかでよく考えてみてください。慣れてきたら、前後を全部ふまえたうえで、どうおいていけばいいかということです。自分のキィもテンポも、どういうふうに終始していくかということも定まります。
ただ皆さんの場合は、与えられた箇所だけでもきちんと理解するということが必要です。分析したり、頭でどうしようと考えたりすると何もできなくなってしまいます。できないものは入れておくしかないです。昔を外したのなら、音の練習をたくさんしておくことですし、フレーズの盛り上げ方がわからないというのであれば、そういう曲をたくさん聞いておくことです。
のどに引っかかるというのであれば、のどに引っかからない人のをたくさん聞くことです。そういうものをたくさん入れて、正されていくのを待つしかありません。
意図的に自分が表現しようと前に出したことで統合されていく場合があります。だから皆さんのなかで、ある程度声が落ち着いている人は落ち着いているなりに、よりできてない人をみてみたときに、「いーつーまーでーも」と、「あいつは5つにわけているな」とわかるわけです。でも自分もより上の人からみたら、自分のも5つにわけてないと思ってても、5つにわけてしまっているんじゃないかとか、3つにわかれて聞こえてしまうのではないかとか、そういうふうにもみることができるのです。
自分ができないことをやっている人がいたら、その人は1年後、2年後の自分だなと思ってもよいでしょう。でもこういうところはできてないなと思えるところが、全部自分の間題点になっていきます。基本というのはそういうことで、全員にある程度共通することです。
ただ、フレーズを応用してますから、そのなかでくせのついた歌い方などは、あまり注意しないようにしています。それはどうなるかわからないからです。
基本の力がついてきたら、そのくせが徐々に解決されてしまうこともあります。ただ、くせでやってしまったらいけないことは、そこで固まってしまうからです。固まってしまったら、それ以上どうしようもないからです。体が変わろうが、感覚が変わろうが、くせで限定してしまうからです。だからそこを戻すことが一番難しいのです。
「なぜおしまいなの こんなに激しく愛しているのに」
なれない人にとっては、役者の世界にきたみたいでしょうけれど、歌い手も役者なわけです。そこでなにが起こせるかということを考えてください。まず自分が知らないと演技することで終わってしまいます。そういうものでは通用しないわけです。それで通用するのは日本の演劇界だけです。
皆さんにやって欲しいことは、それを音に吸い上げるところの前の部分の世界です。でも形を先につくってはよくないです。その前に実感が形をとるところまで自分で考えなければいけません。
芝居っぽくやればいいということではよくないです。役者の養成所にいっている人がよく合宿にきたりしますが、一番だめなのです。「こうすればいいや」ということが頭にあるから、それを感じるプロセスを省いてしまうからです。ヴォーカルの場合はプロセスを略してもだめではありません。
ことばのプロセスも、それを読み込まなくても、メロディーのなかでそれをだせばよいわけです。ただ、声のコントロールのことで、自分のことをよく知るために、音楽のなかでやりにくいのであれば、言葉のなかでもっとやれるということです。
入門レベルの練習であれば、まず、「なぜ」のところで相手に伝わるかどうかです。すべては動きを出さなくてはいけないわけです。動きを出すためにはそこで止めなくてはいけません。
音楽でも、リズムでもそうです。しっかりとその呼吸があって、それから、はいるわけです。それに他が全部のっかっていくのです。
舞台の練習としてやって欲しいのは、人前で「なぜ」とだしたときに、そこで何かが変わる、止まる、動き出す、次に期待させる、というようなことを起こしていくことです。その連続が音楽です。セリフでもそうだと思います。
でも、それを自分が感じなければ、「なぜおしまいなの」といってみただけになってしまいます。本当に「なぜ」と感じていたら、そうはならないはずです。それを自分の心と体で感じることです。
歌の世界では、男性詞も女性詞もありません。もっとすごいことをいろいろと歌っているわけです。
日本語に訳するときれいごとになってしまいます。ただ、与えられた言葉のなかでは、時代を越せない場合もありますが、それを飛び越えて音の世界でやってみてください。
「恋は終わった渇ききった」
いろんな歌い方はありますが、ずっと同じ感覚で進めないことです。ビルラは、もう10年くらい聞いていますが、やはり一流といわれる人が違うのは、「アディオ」を4回いうのでも、4回とも全部使いわけています。しかも1回の「アディオ」の「ア」のなかでも、4つくらい使いわけているのです。
それだけ変化をつけているわけです。表向きにはそういうふうに聞こえませんが、べースの部分で変化をつけています。
「こーいーはー」とやってしまっては、全部そこに引きずられますから、そこで表現を引き離してしまいます。
何かを起こすというのは、ひとつずつのところで、言葉でつかむというよりは、ビルラがとっているような「間」に敏感になることです。
ことばの読みの練習で、「恋は終わった」というのさえ、ここにどれくらい間をあけるかということに、敏感になるはずです。ところが歌になると、リズムとメロディでもってしまうと思うせいですしょうか、さらになおざりになります。少なくとも気持ちは切り替えていかないと、歌としてそこになにもでてきません。
「渇ききった」のところで、早く入っても、強く入ってもいいのですが、それはその前のところで、ゆっくりと置いていることに関連させて、次に変化させていくことです。
ここも起承転結のような部分です。歌で流れてしまうというのは、そこの感覚がなくなってしまうことです。同じ休符をただ休符で、音符は音符で全部そのとおりにとってしまうと流れてしまいます。そうならないように自分で解釈してください。
「こいは」といったら、次にどうなるのかということを自分のなかでもっていなくてはいけません。少なくとも、「こいは」に対して、「おわった」というところに落差をもっていなければ、歌にはなりません。いつもそこに問いかけをもつようにいっています。
ビルラは、「イ・ル・ノ・ス・タ・モー・レー」と、このなかで、2回も引っかかりをつくっています。そこで止めているのです。きちんとレガートで「イルノスタモーレ」と歌える人が、なぜ、そこで2回も引っかかりをつくっているのかを考えてみてください。
この音の流れどおりに取れというわけではないです。ビルラはかなり音楽的に引っ張る傾向が強いのに、この歌は引っかかりがあります。だから、皆さんがやる場合、ぶつんと切れてしまうくらいの間があいていてもよいくらいだと考えることです。声で聞かせるのは、ビルラの特徴でもありますから、そこを殺してまで歌わなければいけなかったことがあると考えればいいでしょう。
「こいはおわった」
点を取っているようにみえますが、点ではなくておくだけです。ことばとしてきちんと組み立てるということです。よくいろんなヴォーカルが使っています。ビルラは、声があるので目立ちませんが、全部を当てていくというような歌い方で、テヌートのような記号がついていることがあります。
カンツォーネのなかには、そういう箇所がたくさんあります。日本人にありがちの声が出なくて止まるのではなく、ニュアンスだけでとっていくような歌い方です。ただ、体で支える力はいります。
「唇は色槌せて言葉も消えた」
「色槌せて」にくらべて、「唇」の「く」と「ち」が、入りにくいです。そういうときは「くち」とつめてもよいのですが、「口」の間と、「色」の間を合せて、後半を急いで入るというのであれば、そういう形で統一したほうがよいでしょう。今のでうまくもっていっていたと思います。
「なぜ終しまいなのこんなに激しく愛しているのに」
「ペルケーノイロサピアーノ ケチボリアーモベーネ ケチボリアーモベーネ」
やはり日本語だとかなり難しいです。イタリア語なら母音自体が深いですから、音色が動いたり、つけかえたりするのは、基本的に自分の声の流れの上でできます。日本語できちんといおうとすると、口先だけになってしまいます。深いところでいおうとすると、今度は動きが伴わなくなります。
「なぜーおしまいなのー」といってしまうと、何の意味もなくなります。動きを出すために、止めなけれぱならないのです。言葉でいうとすると、役者だったら「なぜ」で止まるはずです。「なぜ」で間を置いて「おしまいなの」と入ってくると思います。ですから、歌のなかでもそれはどこかで意識していなくてはいけません。そこと、「ペルケ」というところでの、音を粘ってつなげていく音の動きです。その音が変わっていかなければいけないです。それは自分でつくっていくべきです。
「こんなに激しく 愛しているのに いつまでも」
「ケチボリアーモベーネ レチラシャーモ」
フレーズが走っていたら、音が表面的に表れてこなくてもいいのですが、そこで止まらなければ、お客さんも止まりません。だから、こういう歌の場合、流れてしまうと何をやったのかがわからなくなりますから、とても難しいです。
「レチラシャーモ アディオ アディオ アディオ」
「ノーネベーロー ペルケートゥースタイ ピアンジェンド」
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合宿の前後のレッスンというのは、行く人のためというより行かない人のためもあって、同じような課題をおいています。合宿は3日間で50名の人が行って課題をやるのです。
こういう中で同じようなタイプの人はいるわけですから、その結果をふんでレッスンの方におとしています。
関西は、いつも東京でのレッスンのダイジェストでもエッセンスをそういう感じでしています。
まず力の差を何で知っていくかということです。それがみえるようにしていくのが、私は研究所にくる第一の理由であるべきだと思います。やり方がわかったから、時間ももったいないからひとりでやるという人もいますが、私自身は人についたあとも研究所をもって人のところで学んでいると思っています。
ですから、そういうことでいうと比較の基準がないのに自分だけの世界で秀でるというのはよほどの天才以外は無理です。幼児の頃からの環境にそれだけ天才的環境があったなど、どこかで入っているだけで、山のなかで練習してもいいのですが、それはきちんと基準を知ってから練習しなければ難しいわけです。
皆さんのなかの基準というのは、私と比べなくても、まわりと比べてもらえばいいし、あるいはみんなのなかでできる人と比べてもらえばよいです。世界と比べてどうこうということではなく、またこの歌が好きとか嫌いということではなくて、力の差を客観的にみていくのです。
そのためには、できている人達は、どこでできているのかということを知ることです。
基本の深さというのはわかりにくいものです。「ハイ」というのは、誰でもいえるわけです。でも、そこに差があるのです。
今度の合宿でも1つの曲を与えたときに、リズムがとれているのとリズムをつくり出しているのはまったく違うのです。ここでできる人はそういう面においてはとてもすぐれていますから、どう認識して、どういうズレを作っているのかをみてください。リズムに乗っているとか心地いいとは聞こえても、どう作っているかというのは普通みえないわけです。
スポーツなどと同じです。フェイントを2回かけたようにしかみえなくても、プロはそのとき6回くらいかけていたりするのです。それは素人の目にはみえません。それをどうみていくかということです。それができないと、自分の体がそういうイメージでフェイントをかけられるわけがないのです。
たとえばイタリア語を書かなくても、すぐれている人たちの耳が引っ張ってくれると、1時間で1曲終わってしまいます。他の人も何回かかけた中で把握できるわけです。
それは器用だ不器用だということではなくて、言葉も音楽も1つの決まりみたいなものがあるからです。ここでこうなるのはおかしいなという感覚が皆さんが聞いていてもあると思います。次にはこうなるな、という必ず次を予感させるようなものを歌い手は作っているし、そのとおりにおとしてみたり、そこで裏切って違うことをやったりするわけです。だからそのポイントだけをチェックすれば、あとは予想できるのです。
全ての曲がすべて違うわけではないのです。たくさんの曲を聞いてみても、それが自分のなかで予測できなかったり、1回やったフレーズを固定できないということは、自分のなかに引っかけられる枝とか引き出しみたいなものがないということです。
たとえば日本のアーティストでも、自分で自作自演している人がここに来てやったら、1分もかからないで自分なりに歌として仕上げます。彼らもプロですから、声がよいとか悪いとか、発声が正しい正しくないとかいう問題ではないのです。絶対にリズムは狂わないし、音もはずさないのはあたりまえの話で目標にはならないのです。それはどんなにヴォーカルであっても最低の条件です。
ですから、もっと単純に考えてみれば、自分がやったことに対し他のミュージシャンが来て、そのなかで自分よりすぐれる人がいないかどうか考えてみればよいのです。何年もトレーニングしていって、そのトレーニングの結果がそこで計れてしまうものでは困ります。1曲全部といっても誰でも歌えるわけです。
プロとアマチュアとをわけるつもりはないのですが、何かをやって習得したということは、それはどこか一ヶ所において差がきちんと明示できるということです。音声の世界だと音声で明示できなければいけません。形として前に出せるということです。
みんなのなかではいろんな進行状態があって、いろんなものが入ってきているのでしょうが、やはり入っているものを出してみていくということをやらなくてはいけません。そして、足らないものを補うのです。
最初から少しでもわかってやっていくのと、2年経ってそんなものがあったのかと気づくのでは違います。そこで、もう2年経ってちょっとは作れるのと、そこから、さらに2年かけて作らなければいけないのは、無駄ではないですが、気づきの差からだと思います。
この曲を歌い手と同じように歌うのは大変です。ただ基本的にはスタンダードな歌で、曲としても完成されているものです。ここではこうなるというところはきちんとふんでいます。音の飛躍も3和音とオクターブで飛んでいますから、こういうもので音がはずれるということは、音の感覚がまだまったく入っていないということです。複雑な音ならともかく、たとえばこの音できちんと取れないということになると、基本がまったくできていないということになります。そういうふうにチェックしていけばいいと思います。
英語が読めるということはそれぞれの単語や文法がわかっているということと、たぶんそういうことをいっているのだろうという予測がたつこと、それを前後から読んでいってつなげることです。そういうことを一曲のなかでやらなければいけないわけです。研究所の場合は、それを分担しつつ総合力を問うています。
確かに歌い手というのは、自分の好きな曲だけをうまく歌えたらよいのですが、音の世界で体と感覚の世界で成り立たせることですから、それができている人というのは他のものにも応用できるし、対応できるのです。
いろんな人をみてきて、これくらい応用できるということだと、うまくなっているのだという見方で間違えません、逆にこの程度の応用ができないのであれば、基本の歌も歌えていないし、自分の歌も作れていないということでみていけば、わかりやすいと思います。
「ハイ」がいえて、次に「ララ」をやったときにそれが狂わなければ「ハイ」がいえているということだし、「ララ」がまったく狂っているということは、「ハイ」もいえていないということです。練習というのは、できることしかできません。ここでビルラが張りあげているところだけをやると、今度はみんな声のことだけ、あるいは音に届かせることだけのレッスンになってしまいます。
そうしたら、声の勉強や、音程のことを別にやるべきです。
ですから、トレーニングをして大切なことは、トレーニングのなかで何を補強しなければいけないかということをきちんとみていくことです。単純にそのなかにあるものが全部統合されていかなければいけないのです。
今回のロックのリズムを刻むのは、そのリズムの感覚がある人にとってみればそれほど難しくはないと思います。ただそこに英語が入ってきたり、音程が入ってくるので、その辺があやふやな人はついていくだけで精一杯になります。ただ、やることは表現することです。
皆さんのなかに、ことばやこういう曲を与えてみても、その歌の世界が入っていないなら、それを入れていかないとよくないです。ビルラはずっと張り上げているところばかりではないのです。高いところばかりではなく、低いところでも歌っています。最後のところもです。そこをどうとるかということが感覚なのです。
その感覚ができていて、声が妨げになっているときは安心して待っているのですが、その感覚が何年経っても、宿らないということになると難しいです。どうして朗々と声を出せる人がこれだけ歪ませているのかと考えればいいわけです。歪ませるのでは歪んでしまうのです。この部分がこのくらいの声量だといっていくらまねてみても同じようにはならないわけです。
「いつまでも」という言葉のイメージでなくてもよいのですが、ここは主張するところじゃない、ここは主張の処理をしているところだというのが、イメージとしてきちんと入っていなければいけないのです。それを「タタタター」と音でとってみても、それは音楽として宿らない。ヒントは声の感覚もあるし、メロディもあるし、言葉だけでも「いつまでも」ということをいわなければいけないわけです。
そのなかで自分の感覚があり、その感覚が音に結びついているか、その音が出るためには体が必要であるという、あたりまえのことなのです。そこが難しいのですが、いろんな人をよくみてください。まねするのではないです。まねをしたら間違います。
自分のなかの「いつまでも」ということが、どういうことなのかというのを感じて、そこに音が入ってなければいけません。音を歌ってはよくないです。声があるかどうかではないのです。みんなに一番欠けているところは、音と結びつけるところに出てくるべき感覚です。
絵を描こうと思ったときに、少なくともそこに何かを予期します。線がそこにみえるというのはたぶんないと思うのですが、実際は線を引いてみたら、こんな線が自分の心のなかにあったのだなということになると思うのです。イメージしたことが、描くときにくっきりみえる人もいるでしょう。
いろんなタイプがいると思います。だからこういう場合も、そこの感覚のことをきちんと表現で出していかなければいけません。その心が宿ってないし、それを思いとして伝えようとするものがないところには何も宿ってはきません。だからあなたが何をやりたいかです。
はじめの部分の「ほほえみは消えてしまった」の「ほ」を出したときに、自分で鈍いなと、間違いだともう気づいていなければいけません。そうしたら、どうするかです。それは、音程が狂ったとか、声が足らないとか、音が届かないとか、そういうことではないのです。そこが直っても歌にはならないのです。
みんなが悪いということではありません。そういう実験を地道に繰り返している人もいます。それは待つしかないです。一番困るのは、それがいつまでもわからなくて、同じレベルで何年もやっていく人です。カラオケのおじさんとかおばさんがそうでしょう。気分が出たから今日は調子がよかったなどということはまったく関係ないことなのです。その出だしのイメージづくりで失敗しているのでなく、そういうものがあるということさえわからないと、そこに入っていけないわけです。
美空ひばりの歌の移し替えはできても、彼女の心のなかのものに対して、自分の感覚をどう対置させるかという置き換えをしなければ、それに変わるだけのものをきちんと作っていけないのです。
ビルラも途中かすれさせたりしていますが、まったく気にしていません。後半にもとに戻せるということ、逆に全部をきれいに歌いすぎたら、今度は味がなくなるということも知っています。
クラシックでものど声が中に入っていますが、それは基本があって戻せるところでの応用できるところですから、そののど声をまねるということは悪い練習の方法です。ただ、そののど声になるところの彼の感覚で、それだけ体ができていて声も張り上げられるのに、どうしてそこで声をおとして、そこでゆったりとした形でとるのかということを感じてみましょう。
理屈で考えてもわからないのですが、でもそれで1曲聞いてみたら成り立つということです。わーっと歌っているだけでなくて、引いてみたり、前に出してみたり、揺さぶってみたり、あらゆることをやっているわけです。だからレベルの高いところでやっている人達には、何かあるとみていもらえばよいと思います。
本当に「いつまでも」の声のフレーズだけでも1年、徹底してやって欲しいということです。そこがつかめないのは、音の世界のなかの感覚の問題なのです。それが「いつまでも」という伝える気持ちがなければ伝わらないでしょう。だからもっと自分の体に正直になることと、心をきちんと宿すことです。それは毎回いっています。
トレーニングばかりやっているとおかしくなってしまうことがありますが、それはトレーニングの目的がおかしいからです。結果が出てくるまでやることです。走ったりするのと同じで、毎日走っていると、あたりまえになってくるので辛くなくなります。しかし、1日でも休んでしまうときつくなってしまいます。
だからそれが休んだことでなくならないというところまで、定着させなければいけません。習慣づくりが基本です。どの世界でも同じです。そういうものをもっと入れていくことです。
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毎年、私は新入ステージから同じ課題でずっと多くの人をみています。するといろんな生徒の層とか、個性とか、レベルとか、あるいは欠けているところを比べていくのはわかりやすいわけです。また、合宿は私とスタッフ5~6名で、3日間を通じて1つの経験を積めるということで年間を通じて1、2回だけの大イベントです。そこで基準がはっきりとしてきます。
同じような条件でいろいろと課題を変えながらやっていきますが、今回も比較的原点に戻った課題になったと思います。リズムについて英語を読むだけで終わりかねないので、若干その前後を補強してみたり、音のなかでつくるということを考えていくつもりです。
ほとんどの人がたとえばビルラのを聞いて、高いところが出ないとか、あんなふうに伸ばせないとかいうことを問題にするのですが、そうではないのです。そうではない部分で、すでにすごい差がついているのです。むしろ、そうである部分での差、誰が聞いてもわかる部分での差というのはつきません。
だから逆にこのような声でないと歌えないという人は、それ以外には何もないわけです。
ここにプロのアーティストがきて、これをやってといったら3回くらい聞いてもうやってしまうでしょう。それなりにおもしろいものになると思います。彼らの勝負できる音楽が彼らのなかに入っていて、たとえ何が与えられたにしろ、自分なりに応用してやれる、相手への聞かせどころというところもわかっていて、その結果ひどい歌になるときもあっても、それを何ヶ所か、何パターンかやっているうちに、これだというものに決められるものがあるのです。ファンじゃない人にとってみても、普通の人とは違うというのがわかるはずです。だからプロなのです。
足らないのは声のことと思っているのですが、大切なことというのは、その声の前のイメージ、その世界を線で出せること、それを形にするところでの結びつきです。発声でも同じです。どんなに息を深く出すというのでも、声を深くとるというのでも、結局そのイメージとの結びつきがつかないのであれば、そういう声はまったく意味がないわけです。
こういう場にくるのは、トレーニングをしにくるのではありません。トレーニングは一人でやるものですから、自分でやるのが正しいのです。ここでは何がわからないのかということを知ること、それは結局比べることで基準がきちんとわかるかようにすることです。音楽に関しても、声に関しても、音の動かし方に関しても厳しく学ぶのです。それは一人ではなかなかやれません。
それ以上やっている人が世の中にいたら、そこを押さえるというのは芸事の本質的な要素です。それを押さえても10年ごとにすごいヴォーカルが出てくるかというと、必ずしもそうでないのがその辺は芸事の難しいところです。 よくプロで音楽をつくるのにこもっているという人がいますが、そういう人は、もうすでに基準をもっているのです。感覚をもっていて、ただそれを作品にするためにそこにこもっているだけです。
基準や感覚とは、音の世界がどうみえているのかということからです。表面をコピーするのではなく、自分のものとして消化して出すことです。
始めに2~3回聞いただけで、イメージが進んでいかないといけません。言葉やメロディというのは、こういうきちんとできている曲に関しては、構成のなかでここはこうなるとか、ここではこうおちるべきだというものがあります。このくらいの間をあけたなら、次もこのくらいあけるだろうとか、そういう感覚が一通り聞いたときになければいけません。
自分が勉強になるところというのは、こういくはずなのに、なぜ、この人はあるいうは、この曲は、こうやっているんだとか、ここでおちなくてどうしてそう上がるんだと違和感をもつところです。この曲を聞いてみて意外に取られるところは3、4点だけです。だからその3、4点だけを間違えないように覚えてしまえば、後は全部覚えられるわけです。
そういう音楽が入っていない人というのは、歌詞と同じで、「ほほえみは消えてしまった」と1字ずつ覚えなくてはいけません。だから音の世界が入っていない人というのは、どうしても同じミスが起きてしまいます。たとえばこの歌詞を小さい子供に覚えさせると、意味もわからずに丸暗記します。でも意味がわかる人だったら、それを一つの世界で捉えて、自分の言葉でいって、違ったところだけを修正できます。変えてもかまわないのです。
音楽のなかでそれができているかできていないかなのです。音楽というところまでいかなくても、歌のなかでもよいです。
そういうポイントを押さえながら聞いていかないと、全部を一つずつ覚えよう思っていたら、これをやるのに3ヵ月くらいかかってしまいます。ちまたの音楽教室は一曲を覚えるのに3、4ヵ月かけてやります。そんなのでは到底人様の前ではこなせないのです。
差というのを考えればわかりやすいと思います。単特はいろんなクラスの人が出ていますが、簡単なことでいうと、ここに一般の人を入れたときに、絶対そういう人と違うものを何が出せるかということです。結局そういう分野でしょう。
ところが、ほとんどその辺で器用な人達が簡単にできてしまうことさえ気づかず、そういう音楽の世界もみずにやってしまっている場合も多いのです。それは、トレーニングの一つの弊害です。それを場で出すということをよほど意識してないと、トレーニングというのは内省的になります。
レッスンでは外へ出して問うて欲しいのです。結局ステージなんて、勢いとパワーのところですから、まずそれが前提としてあったうえで、音楽ができているかできてないかでみられるわけです。そうでないものは、その人が一所懸命やったとか一所懸命やってなかったととられるだけでどちらにしてもだめなわけです。
伝えるということをきちんと考えたときに、どういうイメージをつくるのかということです。この曲は大曲ですが、そんなに心配してやらなくてもいいです。難しいところはやりませんから、簡単なところがどれだけ難しいかというのを知ることです。
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「ほほえみは消えてしまった 二人は何も言わずに」
一番大切なことは、これだけである程度その人のなかの音の感覚とか、言葉に対する感受性とかが全部出てしまうことです。結果をここに求めているわけではありませんが、ここで自分が何ができているのかをきちんと捉えていかないといけません。誰もがパッときてできるようなことに、お金と時間を費やしてもしかたないでしょう。
できることしかできないのですが、ここにわざわざくるということは、そこでいろんなことに気づいたり、変えたりするためにやっているわけです。だからそこに判断の基準をもたなくてはいけません。
「ほほえみは」と出したときに、お客さんに解釈して、くみとってもらうのでは成り立たないということです。少なくとも、言語がわかるわからないは別にして、何かが起きたと、大きく働きかけなければいけないのです。
「歩き続ける どこまでも」
すぐに入れるというのは難しいかもしれないですが、それが応用力です。そこに応用してみたときにそれぞれのレベルでいろんな問題がでてきます。確かに声が飛んでくる人もいます。ある程度わかっている人もいますが、ほとんどの人が自分が今何をやっているかがわかってないと思います。絵を描いたが、どんな絵を描いたのかがわからない、写真を撮ってみても何が写っているのかわかっていないのです。
それを自分できちんとみていかなくてはいけません。こういうところで気づいたことを、家で自分でやるときにフィードバックしてみるのです。歌に関しても、せりふに関しても、短いところ、わずかなフレーズのなかでやっているのは、そのなかの深い部分をみて欲しいからです。
そのなかで一流のプロの人というのは、もっと深いものをみて、もっと繊細にいろいろな音の動かし方をしています。音を音符の数だけしか理解できないのであれば、それはこの「あるきつづける」の言葉の7つの音しか理解できないことになります。それでは声ができてきても7つしか出せません。
ここは「あ」から「る」に対して、7つ以上のフェイントがかかっています。その前後もふまえてみて、いろんな動きを取ろうとしているわけです。それを形で出すと、結果として通用する、通用しないという差になってきます。皆さんのなかでも相当な差があります。一番みえないのは自分です。他の人の判断はできると思います。ここはそこから、自分をつかんでいく場です。
「どこまでも」
自分がイメージしたとおりに、感覚した通りに声は出ようとします。それを知ってこなすことです。こういう課題だと、単に合わせてやっていくのは誰でもできることです。要はそれをきちんと自分におとして、何を創り上げるかが問題です。
ーー
【「ムーランルージュの唄」】
表現を表面だけまねてみてもそれは歌にはなりません。なるだけ入り込んだのちに距離をとることです。演ずる自分をどこから観ているかということです。腹で歌えとかいわれるのは、その距離があるほど、歌を自由に動かせるからです。音や、リズムの感覚には敏感になってください。
三拍子は呼吸としてはとりやすいのですが、日本人は二拍でとるクセがあるので難しいかもしれません。向こうの四拍は三拍をベースにした四拍ともいえます。それをはずさないでとってください。
音楽は二年間でわからなくてもよいですからことばの読みをきちんとやってください。本人の感覚がそのことばのなかで動いていないと、表現としてなげかけるのは難しくなります。 リズムが体に流れていて、そこにことばが統制されていくという感覚です。ことばにとらわれると、リズムからそれてきます。リズムを踏まえてください。
それから、キィが高くて無理があるなら、自分で調整してください。
ことばや音を捉えて自分で動かしたらよいのです。それがこの曲の作詞家や作曲家が意図したこととはずれていないことが大切です。新しくつくるまえにすでに成り立っているものを全部ふむことです。レッスンでは消化するのが精一杯だと思うのですが、創造できるようにしていってください。
できるだけよいものをパッととって自分でやってみてください。音楽にはルールがあります。それはよりよく聞かせるための、拍やリズム、音の進行などです。そのなかで自分のイマジネーションを結びつけていくのです。
甘い歌い方をしていますね。気持ちの問題です。だいたい1オクターブの歌です。なかなか1オクターブはそろわないのですが向こうの人たちはそれが普通ですね。楽に歌えるためにそういう条件が必要なのです。ここは日本人のプロでも難しい部分です。歌から発声を覚えていくのが理想ですが、そのときに歌のとるところを間違えてはいけません。これを一回、音楽やことばに戻して捉えてください。そして自分のフレーズをつくってください。
(「あなただーけがー
(ミーミーミーミーファミー)」)
これはテーマの部分なのでそのまま歌った方がよいでしょう。
(「それがわたーしのー
(レーレーレーレーミレー)」)
切れはよいけれど、とても大きなフレーズをつくっています。 歌い手のコピーをするのもよいのですが、コピーをする部分が違うのです。内部の感覚や、声の方向性を勉強しなくてはいけないのに耳で聞こえるところだけをなぞっています。結果としてそうなったものを自分のトレーニングに取り込んでみても意味はないのです。
本当の勉強はそのいろいろなパターンを知ることではなく、自分のなかでパターンができてくることです。こういうものは単純なフレーズですから基本的なところができているかいないかということがわかりやすい思います。それには、それをこなすだけのテンションがないとできないです。日頃の練習でそのレベルでやっていないのに、本番だけできるわけがありません。
声よりも集中して方向性を出すことをやってください。自分で歌を引き受けていないとよくないです。今のは耳で聞いたものを声で出してみて終りという感じでした。 向こうの感覚で「が」などの鼻濁音もストレートにそのまま出しているようです。おもしろくない歌い方のようですが基本がここにあります。
(「あなただけが 今もすべてよ それが私の定めなの
(ミーミーミーミーファーミー ミーミーミーミミーレシー レーレーレーレーミレー ミーシーシドシラー)」)
ーー
【「ギターよ静かに」】
ギターをならしながら歌っているのでしょうか。あやのつけ方では、ニコラディ・バリは有名な曲をもう1曲残していて、その歌はこういう歌い方はしていません。(「虹の日々」)この歌に関しては、こういうつけ方をしているようです。
最後のところの「レイ」の部分などは、理屈で考えても仕方がないのですが、たとえば、「ソルタント レイ」のところでは「レイ」のところでアクセントをつけます。次の「ディベ」に入るまえのところで、この3拍目をシンコペーションぎみに前の拍につけています。2拍目の裏に近いところです。普通は、「ソウタント」で1つ、次に「レイディベ」と入りますが、そうではなく「ソウタントレイ」となります。ですから、少し早目にして、そこでまとめています。最後までこういった進行です。
次の「レイソルラ」にしてみても同じです。次の「ディベ」は「ディ」では切れませんから、「ディ」で終わらず、「ディベ」まで入れています。「ディ」の感覚としては、そのまえの「ラ」についているという感じです。あとは、置いていくという形です。
つかむところ、つかまないところということであれば、3拍目の頭が皆さんの感覚よりは、若干早めで、頭打ちで入っています。皆さんが2拍目の裏くらいで考えているところを、裏の裏くらいの感覚、2拍目の裏のもう少しあとくらいのところを3拍目の頭を入れてしまってまとめています。こういう言語は日本語ではありませんので、こういう歌い手は日本では評価されにくく、音楽性もわかりにくいでしょうが、プロとして楽器をやっていた人などは、そのあたりを完全にやっているのでわかるでしょう。ですから、不自然さが聞こえてきません。
ものまねのようでもよいし、どうしても口がまわりにくい人は日本語でも構いません。その感覚をとってみましょう。サザンオールスターズの桑田さんのように日本語を音楽的にもたれさせたり、切り詰めたりするような置き方をしていくことも1つの方法だと思います。ただ、それを感覚のみでやってしまいがちなので、今度は体がついていかないでしょう。そのまえに体をつけておかないといけません。
日本語にすると難しいというところはあります。どちらにしても日本語というものは、頭を打っていきますので、その打つ感覚をなくさない限り、難しいでしょう。頭を打っていくというのは、1拍ずつ打っていくからだめなのです。ビートのところで捉えていくような感じにしていかないと難しくなるのです。
ある意味では、この人の声自体、かなりハスキーですが、ロックに使われる声というものは、こういう声が多く、そこに、息を混ぜて、そのかわり鋭くしっかりと出さなければいけません。 声楽と違い、息を吐き切ってしまってよいのです。英語ということばは、そういうことばです。
イタリア語の場合は、もう少しきれいにひびかせて出す人が多いのですが、ロックやこういった歌になってくると、息を出さなければひけませんし、落ちてきません。切り口をかなり鋭くつけていかないと、たるみが出てしまい、動いていかなくなります。まさに、ことばをいっているときに、音がついているという感覚です。
要は、歌っているところがでてしまったり、フレーズがフレーズらしく出てしまうのはマズイのです。歌った結果、そのフレーズがとれているという感じでなくてはいけません。
より鋭くしていってください。役者でいう読みの勉強のようですが、読みの勉強でことばで行なう場合は、別の面で、踏み込み方や間がゆっくりになってしまったなど、結果からの自由度があります。
音楽の場合は、そこに音程とリズムが入ってきますので、踏むところは踏まなければいけませんし、その形式を外してしまってはよくないです。そうかといって、その形式にのっとってしまうと表現が引っ込んでしまいます。
急には、できないでしょうが、こういったことを何回も何回もやっていく中で読み込んでいってください。そのあたりで、1番高いところにいるのが、エディット・ピアフやミルバだと思います。読み込みながら自分の体に流していくのです。
サビのところに戻ります。日本語でいうと「時は流れ行く~」のところです。その次の「いま」の「い」が入りにくかったり、「ま」や「とこしえ」も難しいでしょう。イタリア語でも「時は流れ行く」のところは、そんなに問題ないでしょう。「ローラ」も、「とこしえの別れを告げる」のところも、できると思います。
最後の「告げる」を「ツコーレー」にして、伸ばせるところだけをイタリア語に変えてみてください。その方が収まりがよくなります。
日本語では、「る」になり、やりにくいと思います。ただ、「さよならは愛の言葉」のように重なってくると、ほとんどついていけなくなります。自分自身はついていっているようで、日本語でいうと、もたつくでしょう。どちらかの選択は個々にまかせます。
フレーズの練習をしたいので、やりにくい場合は「ローラ」くらいをまねておいて、あとは「あ」や「ら」など何でも構いません。ただ、「あああ」や「ららら」は、ことばではありませんので、これもそれなりに難しくなるのです。「あえお」など、ことばをつけた方が入りやすいでしょう。ただ、1つひとつのことばで切ってしまうとひらがなと同じようになりますので、気をつけてください。要は、自分の体の寸法で流れの線を出せればよいのです。
その前のところから入れると、1オクターブの課題です。今、皆さんがやったところから「ローラ」のところまでは、半オクターブの課題です。音域の設定のことよりも、目立つのは、リズムの遅れです。今のでは、普通の形の伴奏に合わせたとしても、出だしから繋ぎの部分も全部、遅れます。繋ぎのことばは、4の裏で出ていますが、感覚的なことではなく、実際のテンポでカウントしてみても4の裏では出ていません。
練習の場合は、体を使うために遅れるということであれば、仕方がないといえなくもありませんが、何のために体を使うかといったら、今の感覚でとれないくらいに早く出るために使うのです。大振りして体がついていかず、当たらないが、当たればでかいという段階で、プロセスはプロセスでしかたないのですが、イメージや意識の方でそれがないといけません。
イメージや意識は先にあるのに、体が動かないから遅れているということであれば待てますが、イメージや意識が遅れていて体がそれに甘んじているだけであれば、よくないです。この曲はそんなに早いテンポではありません。ゆっくりだから保たなければいけないし、体を使い切って、それで遅れるということなら見えるのです。しかし、体を使い切らないところで遅れているとしたら、イメージのところでも完全に狂っているというのが大半です。さらに、まったく、息も吸えていません。
最初の「いま」のところの「い」を聞けば、フレーズができていないことがわかります。なまじ見本が、それだけの体をもっているだけに、差が大きくつくのですが、つかんで前に出していかないといけません。リズムと音の感覚が入っていないから、その声が取り出せません。その必要性を体がまだ、感じていないということです。確かに、これだけ強い体をもとうとしたら大変なのですが、それに近づけるように課題を組んでいかないといけないのです。
2回目のサビ「ローラ」の前「ファーレ~」からやりましょう。楽譜もピアノも鍵盤も表面に現われた点でしかなくて、歌い手の意識が、その点を折れ線グラフのようにたどっていても音楽にならないのです。たとえば、皆さんが役者でセリフの練習をしたというときに「お・か・あ・さ・ん・は・か・い・も・の・に・い・っ・た」と、こんな形では絶対に読まないでしょう。それで伝わるとも思わないでしょう。
「おかあさ~ん」という感覚は1つなのです。ですから、その1つで捉えることが、1点。さらに、音楽ですから、それを捕まえたところに動きを出さなければいけません。そうしたら、止まっている体や心でその動きが出てくるわけがないのです。
その前に息がしっかりと入り込んでいて、流れていて、その動いている音がのっていかないといけません。それと共に、つかむところと離すところが音楽の場合は難しいです。耳で聞いて、それを体に入れるしかなく、体に入れたものは、体に返せばよいという世界なのです。そのつかむところと、実際、歌うところの距離、奥行きといっていますが、それを自分で見つけていくのです。
たとえば、口先だけで「ローラ」というところと、体を使って「ローラ」というところがあって、それをどこか1つでつかんでいることです。せいぜい1小節で1つか、2小節で1つ2つあるかないくらいです。そこでの点の置き方や結び方を体が意識してやるのならよいのですが、楽譜やことばが変わるごとに動いてしまってはだめなのです。線で捉えるというのは、そういうことです。
少なくとも単語1つを1つの線くらいで捉えていかないといけません。本当は、3つ、4つともう少し長いのですが、ポピュラーですから、リズムでの切り替えしや踏み込みなどのいろいろなものがそこに入ってきます。その方向をすべて同じにする必要はありません。方向をずらすところの点というものを自分で意識していかないといけません。表面を歌ってみても仕方がないのです。固定されてしまうと、動けなくなってしまいます。そういう練習は、最初にやっていることとまったく同じです。
「とこしえの別れを告げる」とことばでいったときには、せいぜい1つか2つに捉えているでしょう。ポピュラーの歌の場合でも、最低そのくらいに捉えなければよくないです。
「ファーレ」のところから「ローラ」までです。発声の練習と同じです。皆さんがやったものは、音符にして見たらわかるのですが短いのです。だからといってただ長くしてもだめなのです。
単純なことをいえば、練習でもたとえば「ファーレ」のところで、それだけの体を使っているというところで4フレーズ、8フレーズやらなければいけません。1曲にしてみてもそうです。今のフレーズでさえも集中できていない、声がコントロールできていないというのに、どこもできるわけがないのです。できないことは構いませんが、何ができないのかから自分で煮つめていくのです。
できない理由の大半は準備です。入るところの気持ちのピークと体のピークが合っていないのです。それがバラバラなのです。「ファーレーエーエー」で盛り上げておいて、次の線を作っておかないと役割が果たせないのです。最後に2つ音があるのは、単にダラダラとさせるためではないのです。ここのところで次のサビを、より明確に出していくためです。
役割を考えなくてもよいから、受け止めた通りにやってください。それだけ長くは伸ばせないし、体もついていない、声もないということで、寸法を縮めるのだったら縮めるでよいのですが、そうしたら、縮めた中で動きを作っていかないといけません。動かないと声になっていても音楽になりません。本当の意味でいうと声にもなっていないでしょう。
「ハイ」「ララ」のトレーニングではありません。いつもいっている通り、1つの音をしっかりと捉えるということと、1つの音をしっかりと動かすということです。その上にいろいろな音色が出てきたり、声がハスキーになるなど表面が破られることはあっても、ポピュラーの場合は方向が一貫していたら許されます。それを考えてください。
集中力と、体を使って声を出すことは本当に大変なことですが、それを1フレーズでも2フレーズでもやっていかないと、間違ってしまうものです。感覚だけで歌う歌い方というものはありますが、それは逆に難しい部分があります。その感覚というものは流行に左右されたりする程度の感覚が多いからです。本当の深いところの感覚でしたら、そういう歌い方はあります。
いつも1回、2回でパッパッといってしまいますが、こういう曲はなるべく踏み込んでおいてください。この曲のサビのところが4フレーズくらいもてば、ほとんどの曲が歌えるはずです。そんなに難しい曲ではありませんが、何が難しいかといったら、組み方が難しいのです。音を見ても、ここで盛り上がり、さらに盛り上がるような曲で、とてもわかりやすいのです。それだけのエネルギーが声に対して出せるか、出せないかです。そこをやっておかないと、前半の部分は、ほとんどもたなくなってしまします。
もたないのに、前半だけは歌になっているのは、なぜかというと、踏み込みがしっかりとあるということと、体を一致させているからです。これは、与えられてすぐにできるものではありません。何の課題でもよいですから、読み込んでいって、声の動きを体に覚えさせておくことです。身体感覚でやっていかなければいけません。
最終的に、発声は呼吸だといわれていますが、息を吐くこと、殺すこと、生かすこと、息を抜いたり止めるというところだけで調整すべきです。たぶんピアニストなども、弾くという感覚があるときはだめで、結局、呼吸だけになったときに腕が動いているという感覚までもっていかないといけないのでしょう。
声についても、今つかまえなければいけないことは、どんな声でもよいし、どんなところの音でもよいのです。「ハイ」や「ララ」でもよいですから、それをなるべく表面の「ハイ」を出しているとか、「ララ」で歌っているとか、ドやソの音をとっているとかいうことを抜いていくことです。日本人は、まじめですから、そのことから抜けられない人が多いようです。
音楽基礎などはそこで評価されますが、その評価というものは、できた人がその音が合っているという評価に過ぎなくて、いくら合っても、そのことは歌とは違います。だからといって、合っていなくてよいわけではないから、それを踏み入れておかなければいけません。そこからそれ以上のものをつくり出すことが必要です。そうすると当然、音今度はやリズムが狂ってきます。しかし、その人の体に根づいているもので、規範をしっかりと踏んであれば、間違いには聞えません。いつもいっていますが、聞いている人の集中が保てないほど、他のものが伝わっていなかったり、緊迫感がなかったりするのです。そんなに長いフレーズをダラダラとやる必要はないと思います。
どこが踏み込みの部分かは、人によって違うでしょうが、入るところは入るはずです。たとえば「ハイ」に近いところで入れる部分があると思います。その形で「ローラ」といって「ハイ」といえているように、のどが開いていて体が使えていなければ、違うことをやっているわけです。そこで粘ることです。そこだけを1年くらいやっても充分だと思います。
というより、歌にそれ以外の課題は、あまりありません。ここでやっていることは1つです。その1つのことに苦労しているのは、メディアの問題もあります。日本人はこういう歌い方を高く評価しません。私はこういう歌い手を高く評価しています。どこの国でもそうですが、民族歌手という人たちはだいたいこういった歌い方です。ところが、アメリカではわかりやすくショーアップしているのです。だからといって、通用しないということとは、まったく違います。そこがベースはベースです。
それがある人がいろいろとやることは、いろいろとできてよいのです。そこがない人たちが半オクターブ、しっかりと声でもつということによって、1オクターブの音楽的な展開ができるようにすることです。
大きな課題は、3音のなかや、半オクターブでどのくらいのボリューム感をつけられるか、どこまで盛り上げられるか、そこから落とせるかです。何も1オクターブなくてもよいのです。同じところでどれだけの音色と構成を自分の感覚でとれるかです。偉大なヴォーカリストといわれる人たちは、中間音で盛り上げられます。ピアフなどは低音でも盛り上げられます。ことばのなかでの感覚が、歌に結びついているのです。
今さらと思うかもしれませんが「ファレー ローラ」のところだけでも、特に「レーエーエー」のところですが、全部ひびきにとる必要はありません。しかし、息のなかでそれをコントロールしていなければいけません。「ローラ」と次に入るときに、それだけ体が準備できていないといけませんし、意識も準備できていないといけません。また、「ハイ」といえているときと同じだけの声がとれていないといけません。「ハイ」「ローラ」あるいは「ファーレ」の「ファ」がいいにくければ「ア」や「エ」に変えて練習してみてください。1つのベースにつけておけばよいと思います。
楽器でも同じ音色で揃えた上で演じ分けることは、あたりまえのことです。日本のヴォーカルの場合は、その前提がないのです。やるか、やらないかということだけだから、ここは人間なら誰でもできるところだと思っています。同じ音色をもったときに、それをどう展開させるかという点が難しいところです。
こういうものを聞き込んでいって、自分の体の寸法を計っていくしかありません。この曲のように、イタリアで評価されているような人の2オクターブと同じようにものを考える必要はありません。1オクターブ自分の体に合ったものをしっかりと使いこなせればよいのです。そこの部分では、この歌は表現できなくても、自分の歌は表現できるでしょう。
ポップスの場合は、全部の歌を全部うまく、一流のレベルに歌うことは、至難です。そうでなければ自分に色をつけて、その色に合う旋律や歌詞や進行のものを選んでいくことです。そういう選曲をしていく目を自分でつけていくしかありません。勝負できる曲が5曲~8曲あればよいわけです。もっとはっきりいうと1曲あればよいのです。全部をこういう歌でやる必要はありません。
こういう歌を使うときには、課題になるところを、前半部分でしたらことばの読みを徹底してやるなど、自分なりに見つけてやってみてください。もっとことばを体で動かすことです。そのあたりがおろそかになってきている気がします。役者の勉強など、まさにそこの部分です。それをやっていく中で声も宿ってくるのです。
ロックに関して、特にポップスに関しては、世界で使われている声が、むしろ、こういう声です。ロックのヴォーカルの声を聞くと、その声だったら何をやっても歌になると考えられますしかし、。自分の声を聞いてみたら、何をやっても半オクターブくらいで音質が違ってくるのでどう考えても歌にならないのです。だから、音楽の方に行くよりも先に声にいく必要があるのです。
外国のヴォーカリストで、音をどう外しても音楽になってしまうという人がいますが、体のなかに音楽が入っているのです。1つのフレーズ、半オクターブ、あるいは3音でも構いません。そこが音楽になるということがどういうことなのかを、徹底して煮つめていかないといけません。そうしないと体や息が動かなくなります。基本的な条件として、日本人ということで劣っている部分が、息をしっかりと入れる早さ、吐く鋭さ、用意の早さです。
向こうでは、日常生活で大きな声を強く速く使って話していますから、ここのトレーニングくらいは、すでに終わってしまっています。そこの部分はそんなに難しいことではなく、彼らの日常をもち込めば、日本人として処理ができるでしょう。ただ、音楽に生かそうとすると1オクターブいりますので、難しくなってくるのです。
「ハイ」でできることが、音一つ、ついてしまうとできなくなってしまうのです。そうしたら、そのときにどちらをやるのが正しいかを考えてください。普通の人は音(音程)にいくのですが、体、心の方に戻って、その音を半オクターブ使えるところまで粘ることです。
楽譜を渡したのもそういう意味です。楽譜通り歌ってみても歌になりません。こういう楽譜を与えられたときに、こういう音楽を作れる力とは何かを勉強してみるとよいと思います。子音がたくさんついている方が、声にしやすいということはあるかもしれません。母音の方が伸ばしやすいと思っても、子音の方が踏み込むときに息を吐きますので、声にしないぶんだけ体を使います。そういった面から楽譜通りにやってみるとよいでしょう。
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【「悲しき片想い」】
(「誰かが私に話かけても少しもうれしくないの こんな気持ちが
(♭ミー♭ミ♭ミ♭ミーシ♭ミ♭ソファ ファファ♭レ♭シ♭レファ♭ミー ♭ミー♭ミ♭ミーシ♭ミ♭ソファ ファファ♭レ♭シ♭レファミー ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミー ♭ミ♭ミ♭ミ♭ミ♭ソ♭ラ♭シー ♭シー♭ソ♭ミ♭ミ♭ソ♭ミシー)」
(「こんな気持ちがいつまで続くのかしら、誰かあの人だけに教えてきてほしいの
(♭シー♭ソ♭ミ♭ミ♭ソ♭ミシー ♭ラ♭ラシ♭シー シ♭レ♭ミー♭レ♭ミシ♭ラー ♭レ♭ミミー♭ミミ♭レ♭シー♭ミミ♭ソー♭ミ♭ソ♭ミ♭ミシー♭レ♭ミミー♭シ♭レシー)」)
この2つをつないでやってみましょう。
(「誰かが私に話かけても少しもうれしくないのこんな気持ちがいつまで続くのかしら誰かあの人だけに教えて来てほしいの。」
このくらいの長さになれば、きちんとできないのがあたりまえです。
弘田三枝子のバージョンは、まず頭のところでとっぴな入り方をしています。日本の歌にはめずらしいです。前に出すのは基本ですが、体が休まるときがないようです。動かせる余裕を作った方がよいかもしれません
好きなフレーズをコピーしてみて下さい。
(「こんな気持ちがどんなにさびしいものか あの人だけにもっとわかってほしいの(ソーミレドミドラ ファラドシードレミーレミドラーレミファーミファレシ ミファソーミソミドー ラファミミレー)」)
フレーズの展開や、進行においては大きなつくりになっています。日本語の処理も勉強になります。歌ってしまったり、流したりするともたないので、この曲に入っているものをきちんときいてください。
フレーズが動くということは、どこかが止まっているからです。「こんな気持ち」のところは止まってきこえます。止まっているからこそ次に自由に動かせるのです。そこにすきまができているから、いろいろなものをつめこめます。流れているものをそのまま歌っていくと、歌は流れてしまいます。弘田さんは体でこれだけもっていけているのです。
楽器の奏者の話で、白人は止まったときに打ち、黒人は止まったものが動き出したときにそっとそえるそうです。言葉では理解できない動きを体のなかに叩き込んでいる人は自由に動かせるのでしょう。こういう言い方をするなら、日本人は止まっているのに気づかず、打てず、音の流れに声を流しているというところでしょうか。日本ではアマチュアはたれ流しの歌が多く、プロは口先で止めたり離したりしている歌ばかりです。だから、プロの歌の方がおもしろくないことも多いのでしょう。
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【「サントワマミー」】
オーディションが終わって結果が届いています。今、コメントをまとめているところですが、一番問題なのは、そこからいかに学ぶかということなのです。
ここでは、声楽もロックも扱っています。アメリカの学校では、日本人がきたときに教えるやり方があり、それで日本人は勉強できているつもりになるようですが、それではどうしても感覚の差が埋まらないのです。
まったくやり方が違う。あたりまえのことですが、日本人なら英語の発音クリニックから始め、まったく音楽に入っていけない。アティテュードの問題や発音のことで終わってしまいます。一見、効果的にみえるのですが、歌としては成果があがっていないのが現状です。何が違うのかというと、日本人の場合、道が見えていないのです。道が見えていないので同じところをぐるぐるまわっています。
音の扱い方としては、楽器の世界の方が歌よりわかりやすいでしょう。全部、音のなかで行なわれていることなので、最初はわからなくても、少しずつプロの感覚に入って読めるようになることが大切です。
ヴォイストレーナーの仕事は、相手の体の感覚のなかに入って声を正すことですが、これはまさにヴォーカリストが他のヴォーカリストから勉強するときに必要なことと同じです。
トレーナーは、相手の声を原理的に正せばよいのですが、ヴォーカリストはそれをふまえた上で自分の作品をつくらなくてはいけないのです。歌に関しても9割は創造的な行為になります。基本をやるのは、その応用できる可能性を高くしていくためです。応用するのは、先がみえないと、基本が何かということもみえないからです。一流のプレーをみると二流、三流がもたついただらしないプレーにみえます。そこの違いとは何なのかを知ることです。
ノウハウを教えている人と、ノウハウを超えたものを教えている人がいます。皆がノウハウの方を求めていると学べません。その人の状態や時期というものにも左右されるのでしょうが、教えられることと、そうでないことがあるのです。教えられないことの方が大切です。楽器としての体について、あまりそれに細かくとらわれすぎないことです。そのために基本はピタッと定めていかなくてはなりません。フレーズにはたくさんのパターンがあります。それを知ってください。
ステージでは、切迫感がないと、体も心も開きません。このまえのオーディションでも、自分の力一杯を出せた人は数えるくらいです。そこには技術や音楽的基本ではなく、その人の生き方や覚悟のようなものが出てくるからです。一流といわれる人々は大きな失敗もするのですが、それはチャレンジするからです。舞台で戦って勝っていくには、勝負強さが決めてです。どんなに調子が悪くても、崩れても、それでも通用するレベルが必要とされるのです。まず、他人に対してそれを見ていかない限り、自分に対しても正しくは見ていけません。
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(「サントワマミー」)
「サントワマミー 夢のような」と同じフレーズでくり返していくほどに、表現として成り立たなくなるから、そのなかの何か一つを変える必要を感じて動かしてみることが創るということです。 大きく表現したら大きく伝わるのではありません。小さな動きでなるだけ大きく伝えることです。そのために、大きなイメージが必要なのです。
それとともに、かけひきが必要です。自分で流れを作って、それにのっていかないと、全部つくらなくてはならなくなります。その流れを崩さないことです。フレーズのつくりを雑にしたために、何が必要かを知ることも大切です。
その上で細かい神経をもって、呼吸を変えないといけません。皆の場合は、長くするのと短くするのくらいしかないでしょう。長短、強弱、息のミックス、過速度から音色の軽重と本来は何百、何千パターンとあるのです。そのなかから自分の表現を何回もくり返すなかで選んでいきます。まずは、1フレーズの練習をどれくらいの深さでできるかということが、私は学び方の基本だと思います。何かが自分のなかで生じてはじめて、クリアできるのです。ここで体を使って声を出すためにがんばるのはよいのですが、それは歌の勉強ではありません。
あとは、きちんとした耳をもっている人たちが歌をどう評価しているのかという部分を読み取っていくことです。ポップスには、歌の声にきちんと批評できる人はなかなかいませんが、クラシックなどはきちんとしているので、そこから自分の感じと比べてみるのもよいでしょう。まだ他人のノウハウばかりに捉われて、その奥にあるものが生きていないように感じます。
ヴォイスジムなどで、ただむやみに大声を出している人がいます。スポーツの筋肉づくりならともかく、声帯を使うことでは、自分の声をきちんときかないとよくありません。
最初は迷いながらやっているのは仕方がないのですが、無意識の状態になったときに正しく導いてくれるようなものを入れておくことが大切です。案外と、そういう根本的なものが入っていないものです。アタマの固い人はそれを感じたり見たりすることができません。
今までいろいろなところで勉強したときにどれくらい創ることに時間をさいていたでしょうか。ほとんど他人のお手本に合わせることにしか時間をさいてこなかったのではないでしょうか。 ここでかけるヴォーカリストは、本質のところがみえやすい人たちです。型というものが、よくわかるはずです。 認められる人たちには何があるのか、逆に認められない人たちには何があるのかということも、見極めてください。
あなたが音とどこで、どのように出会ったかということを書いてみてください。外で活動していたときより、ここに来て本当に音と出会ったという人の方が多いようです。
バンドでやるときは、残念なことに、音の部分がとんでいることが多いのです。本来はとんでしまってはいけないのですが、みせることに終始してしまうわけですね。その方が客が受けるからです。
声、歌、音楽を使って何をやるのかということが決まらないと、進んでいけません。感覚的には正されたところの表現がないものには誰も感動しません。その手前で迷っているのはもったいないと思います。
舞台に立つというプレッシャーを感じながら、自分の道を切り拓いていくのが、最低限のことです。しかし、歌っていながらその覚悟が決まらないと、お客さんから出られなくなってしまいます。
型というのは音楽の場合、流れやすいものです。本当の意味で身についていないと流れます。流されてやる方が楽だから、自分でもそれに気づかないようにそうなってしまいます。ステージ慣れすると、変にうまくさばくコツを覚えてしまうわけです。そうしないと客にはわからないし、日本の客は、とくにわかりたがっているからです。
とてつもないものや理解できないことをされると、客の方がとんでしまうため、ブレーキがかかるのです。身近で、自分がもうちょっと努力したらできそうなものの方を好むのは、おかしなものです。プロは絶対的でないと先につながらないのに、です。
本当に全身で心を一つにして出してください。それがうまくいったら、まわりにものすごく伝わるはずです。それで一曲やれるだけの力はないということと、そこでできたこと、できないことがわかればよいのです。練習になるからです。
安易に口のなかで加工したり、マイクに頼ったりすると、問題点がわからなくなってきます。一見、クリアしたようにみえるのですが、そうではないのです。中身をきちんと捉えないと伝えることを疎かにすることになり、クリアしたとしても何も残らなくなります。自分がうまいのかへたなのかもわからなくなります。
学ぶときには、常に基準をもつことです。他のヴォーカリストの状態を瞬時に自分におきかえてつくるトレーニングは有効です。 世界中のヴォーカリストは、いろいろなパターンをもっていて、自分の強いところをもっていれば、遊びの部分ももっています。それに代わる自分の一番強い部分は何なのかを知ることです。
今は④のクラスもあまりうまくないというレベルです。以前はあるフレーズのなかで一瞬、90点に近いようなものを出せた人たちでした。それが固定できると一流になる。その努力をするかしないかで、そのあとが決まります。
毎回、60点なら、何をやってもあまり意味がないのです。それは、技術よりパワーや勢いの問題です。
そこを間違えると、技術にもてあそばれてしまいます。
いろいろな先生がいろいろなことをいうことも参考に、やはり自分の直感と感性を磨いていくしかないのです。
自分の体でおきかえながら聞いていくことが大切です。毎回、いろいろな曲を使いますが、それに対して体がどれくらい反応するようになったかという問題から始まると思ってください。
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<愛の真実>
研究所には、外国人のトレーナーにもきてもらっていましたが、勘違いする人もいてやめました。自分がない人は、すぐそういうものにのっかってしまうようです。日本人で向こうで5~10年勉強した人というのもいますが、そこの合唱団の末端を担うぐらいのことができたら相当の出世です。
サッカーのようにいきません。黒人と白人の違いのように文化、民族性が奥深く潜んでいるからです。
ここでもゴスペルの合唱団をおいたり、有能な人に教えてもらったこともあるのですが、本来、研究生が中心でなくてはいけないことがいつのまにか逆転してしまうのがよくありません。
力のある人に与えられるべきチャンスも、本人の思い込みを固めることになり、ものの見方、音の聞き方がわからないところには上達はありません。音楽をつくり出すのでなく、他人のものに参加して、やった気になる、触れた気になっているだけです。それで幸せになれるなら、カルチャー教室の方がよいでしょう。
自分を表現したいのか、そういう虚構の世界のエキストラとして参加したいのかをはっきりすべきです。困ったことにそうなっていく人がいます。いや日本人であれば大人になるということはそうして村に入ることだから、それが正しいのでしょう。ここでもそういうことが多いので、気をつけていましょう。
世界をみてもらうとよいと思います。世界は変わってきていますが、音楽に関してはきちんとしています。日本は、バンドも、作曲、アレンジもよくなりましたが、ヴォーカルに関しては今だに最低、今一つです。
音楽をつくれる優秀な人たちは、海外に出ていきます。向こうは個人の表現に対して、どう作っていくかということを前提に考えるので、やりやすいのでしょう。日本の場合は、枠組みが先にできてしまっているので、やりにくいのです。
最初に曲を聞かないでレッスンに入りましょう。ことばの意味、ストーリーを考え、それを自分のなかにひき受けて出してください。すると、ことばのフレーズができてきます。役者さんのように、ことばのなかでことばを動かせるようにします。このトレーニングから声の動かし方を知りましょう。そこで、音にするきっかけを与えるために、メロディを入れていくのです。
ことばをいうときには、あまり一つの音に対する発音の明瞭さを気にしなくてもよいでしょう。そこに体がついて、最低限、前に声が出て人に伝わることが大切です。結果として明瞭になってきます。
(「たとえ この愛が」(ことば))
その声が意味をもって前に届くようにしなくてはいけません。それから、自分がやったことがわかることです。人数が多いときは、他人の声をたくさん聞くことができます。
役者さんやアナウンサーに必要な、アクセントの部分に関しては、注意はしていません。まず、ことばのなかにきちんと肉がつくことが大切です。肉声を出すことです。
そのなかに自分を入れ、その意味をつかまえて、感情を入れようとするほど、実際はことばがとばなくなり、うまく回らなくなります。逆に体を使って大きく出そうとすれば、自分が入れたい感情や、感覚が入らなくなってしまいます。それを合わせていくのが、勉強の仕方です。どれもが矛盾し許されないからこそ、真実の条件が定まってくるのです。
今は体からきちんと声をとり出せることが大切です。少々荒れていても、雑でもそこにパワーが伴って出ていることが器です。その器を大きくしつつ、ていねいに繊細にしていくのです。早く上辺の結果を求めると、後で伸びなくなります。体を思いきり使って、たまにすごい声になる、というくらいのおおざっぱなものでもよいでしょう。
なるだけ大きく作って、3~4年後にそこにのせていくのです。そこにのる音楽、歌、ことばを持つことの方が大切です。細かい演出力のようなものをつけることによって、器が小さくなるくらいなら、限度が来ます。
(「たとえ この愛がいつか終わるとも」(ことば))
どれも差障りなくて、とんでこないと思いませんか。どこか一つでも息として輝いている部分とか、体に入ったとか、当人がまず感じなくてはいけません。今、自分が何をしたのかをきちんと見ていかなくてはいけません。人のを見たときにも、どれがすぐれていて、どれがダメかということを細かく見られない限り、上達していきません。
常に人と違うことを試みることです。アーティストという人たちは、それをやっているわけです。
(「今はあなたに」(ことば))
(「この命、消えるまで」(ことば))
好きなように何度もやってみましょう。どこが死んでいて、どこが生きているのかという判断を直観的につけていってください。
(「たとえ」(ことば)「たとえ」(ミミミ)))
「たとえ」とことばでいったものが、「たーとーえー」(ミーミーミー))とならないようにしてください。「たとえ」(ミー)と一つにまとめてください。
「たとえ」ときちんといえるところまでが音域として使えるのです。これは、一番基本の部分です。日本人は2、3音くらいしかもっていませんが、これで1オクターブくらいは欲しいものですね。自分が出やすい音を深めることによって、他の音を巻き込めるようにしていくことです。
同じ時間のなかで、どれだけ深いものをフレーズのなかに読み込めるかということが大切になってきます。それは、トレーニングのなかでやっておくべきことです。自分の精神やテンションを高めることです。これはカラオケのように勢いで盛り上がるのとは違います。客観視しなくてはいけません。
それでもよくわからないときは、とにかく体を使って汗をかけばよいというくらいに考えればよいと思います。
自分のイメージに合わせて体を動かすのですが、そのイメージに関しては、たくさん勉強しなくてはいけません。そのイメージに体を対応させるためには、息を吐いたりしてトレーニングしていくのです。
(「たとえこの」
(ミミミミファー))
最初の出だしのところで、すでに先が全て読めてしまうフレーズばかりです。フレーズをだらだらさせないためには、同じパターンに決めつけていかないことです。音楽は、一つひとつ揺らして動かさないといけません。ノウハウなどはありません。たとえば声量を上げたり下げたりしてみるだけでも違います。わからない人は、何でもやってみることでしょう。
イメージがあること自体に気づかないで歌っている人が多いのですが、役者だったらそんなことはありえないでしょう。意図なくしては表現にならないからです。
一番見て欲しいのは、出だしのところです。プロは、そこですでに何かをつくり出しています。プロの実力があるということは、自分の力を知っているということです。だから、作品も、自分に合わないものはそのままには歌いません。自分のものをもっていればよいのです。
ヒントは、ヴォーカルのバックのアレンジ、演奏の仕方、間のおき方、強さなどです。音の強い弱いということは、かなり慣れてこないと本当の意味では聞きとれません。意識的に聞いてみましょう。音が高くなったり、大きくなるのは、感情が高まっているからです。楽譜から歌がつくられるわけではありません。ここで一昔前の歌を使うのは、その方が基本が伝えやすいからです。
イメージをふくらませ感覚を出そうとすると、声を殺していても、それだけ心も体も使います。心や体を使うから伝わるのです。
イメージや感覚がないのに、声だけ大きくなっても何の意味もありません。声量も、声域もなくても、今の時代は、マイクも機材もあるので、歌として仕上げることはできるのです。
演奏のことを勉強しないと、声ができてからでは遅いし、声ももったいないのです。とにかく表現することをしてください。自分のなかで、出したという感覚や、まわりに伝わったという感覚が持てたら、そこからです。
(「たとえこの愛が」
(ミミミミファーミドラ))
パッと与えられたときに、何かを出せるというのは、どこをつかみどこを捨てるかという感覚に基づきます。そのためには、こういうフレーズに入るまえに音楽が始まっていないといけないのです。どのようにことばを動かしてもよいのですが、流れを動かすということが大切です。
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【「男と女」】
日本で歌というものの最低のラインをきちんと示せているところは、今やスクールにも業界にもないです。今回のライブはここでの最低ラインだと思いますし、そこから上がプロの世界だと思うと、わかりやすいでしょう。
あのメンバーのうち3分の1くらいは、これまでにたいしたことをやってきているのです。
ここに3、4年以上いて、2曲はないけれど1曲は、あるいは、その半分か3分の1くらいは通用するような歌い方をしたのです。今回も一人くらい、そういうレベルのが出てくればよかったのですが、無難に終わってしまいました。残念です。
追い詰められて、そこで何かを出さない限り生き延びられない、という切迫感がないと、こういうものはすぐ甘くなってしまうと思います。日本人の感覚を変えるのは難しいです。スマイルではなく怒りしかないのかもしれません。
大体、研究生で最大8フレーズくらいしか持たないのを向こうは3分、日常で日本人が20秒も全力で話すと疲れるのを向こうは3分、話し続けて20分を向こうは3時間平気、この差は簡単には埋まりません。
そのなかで音を聞いていかないと入ってこない。入らないと出ていきません。そこまで聞くというのは難しいです。サッカーや柔道、体操などで埋められたのは、そこに基準とシステムと層を作ったからです。
基準ということは重要です。発声にしても、いろいろなレッスンに出て、これだと声が出ることがわかりやすいと思ったら、それを基準にしていくことです。声が変わるのは2年単位くらいですが、録音にとっておくと、どのくらいのものができてきたのか、よくわかります。
フレーズに入ります。思い切りやってください。一つのフレーズを切るときは、次のフレーズに入るために切るということを考えてください。
(「恋は私の恋は空を染めて燃えたよ 死ぬまで私を
(ソーソソーソソラーシ♭ーラーララー ララーラ♭ソーソソーソラ♭シラー レファレファレドドレ)」)
(「男と女のひめやかな胸に
(シ♭ーシ♭シ♭シ♭ーレドララー ドーシシ♭ララ♭ー ドーシ♭ーラ♭ー)」)
少し惜しかった人が二人で、あとは皆、はずれています。構成をわかっているかどうかということが大切です。表現したら休みたくなるし、休んだらまた表現したくなるというところからリズムも音でも生まれているのです。音楽をきちんと勉強できている人は、頭でなく体がどうしてこうなっているのかということがわかるのです。
歌がうまいへたというより、そのなかに何がつまっていて、どういう理由でそうなっているのかを体で受けとめられているかどうかということです。その世界自体がみえていないと、直してはいけないところまで自分流に勝手に変えてしまいがちです。
変えてよいところとよくないところが必ずあります。変えてよいところは、必ずそれによってよくならないといけません。ただ誰かのフレーズをまねしてもよくなりません。試みるのはよいのですがやった結果、それがよいのかいけないのかを瞬間的に判断していかないといけません。そのためにはいろいろなパターンの音楽を入れておかないといけないのです。自分の感覚で出したときに、第三者の耳で聞いて判断していくことです。
自分でわからないときには、あの人だったらこう聞くのではないかとか、こう歌いかえるのではないかというふうに、より、すぐれた別の基準をもってくるとわかりやすいと思います。 もっと全体的に受けとめなくてはいけません。声のほんの先だけを聞くのではなく、その音の厚みを聞いてください。
全身で捉え、全身で出してくるというところを参考にしてみてください。
覚悟をして、崖っぷちに立ったつもりでやると、余計な力が抜けて、体も動くものです。そうでないと、五感も生命力も怠けてしまいます。ステージでそう簡単に切りかえられるものではないと思います。普段からさぼらないようにしてください。
3~4年たっても伸びていないときには、トレーニングばかりしてもしかたないのです。むしろ、トレーニングというものの位置づけをもう一度しっかりとしなくてはいけないのかもしれません。そのときに、よき指導者がいるというくらいでしょう。他の人の基準を借りて詰め直してみないと、どんどんと自分で固まってしまいます。それで1曲くらいは歌える歌があるとは思います。あるいは3~4曲歌えるかもしれません。でも、それで1ステージやるのは苦しいと思います。
研究所で勉強になることは、嫌いなものを聞かなくてはいけないということです。自分に合わなくても、すごいと認めるものがあったり、心に残って口ずさんでしまうものがある。それは一体、何なのか。そこから随分と学べるものです。
今日のフレーズは、テンポ感がなくリズムの狂っているのがほとんどです。リズムは動いていないといけないのです。体で入れていくことです。わからなければ頭で方法を考え、また試していくということです。
退屈だと思えるような歌を徹底的に聞くのもよい勉強です。そこから他の音楽のよしあしも読めるようになってきます。
ーー
【「王将」】
ここで勉強になるのは、「そういうやり方は気づかなかった」というのを、生の場で聞き、耳をリアルタイムで磨いていくことができることです。どう聞こえるかが大切です。すると音楽を聞いてみても、いろいろと可能性をもって、聞こえてくるはずです。
言葉としては、そのまま「ふけば」というのを、ひとつのなかに入れて、それを出したところで、「ふーけーばー」とつくるのではありません。ただこのなかでそれをオクターブで長くもしなくてはいけないから、もっと大きなところの動きのなかで入れておく。だから、つくっていかないことがポイントです。つまり、あとに歌が残っていくような形で、つくられていくようにしていくことです。
「吹けぱ飛ぶような将棋のこまに」
この課題に関しては女性はぜんぜんできていないですね。それをわかってもらえばいいです。男性は比較的まっとうにつながってます。ここは基本です。本当に基本です。
オーディションの課題にしても、他のところにいったらもっと長い課題にしなくてはいけないでしょうが、私はここだけみて、その人の力、声だけでやっているのか、音に声を置き換えているだけなのか、中の感覚である程度結びつけていく能力があるのかというのはわかります。男性の方が音域的にやりやすいのかもしれないですが、そんなに音の差はないです。
「月も知ってる、おいらの意気地」
音程の問題もありますが、みて欲しいところは、男性の前半部でよかったです。女性の大半は、みていればわかりますが、「つーきーもーしーってーる」という歌い方と変わらないわけです。そうしたら何の意味もないです。確かに、美空ひばりも同じように聞こえるかもしれないですが、ここからは、変化をいろんな意味で出しているのです。
たとえば「も」のなかのあとの音に対して、「し」をきちんと置いている。方向を全部変えているかいうと、そうではない。やってきた世界だと慣れがちですが、そのべースとして体が支えてないといけません。同じように変わったのでも、体や呼吸がなくてそれで足らなくて変わったのなら、これは変えたことになりません。
そういうのが効果がある場合は、その前にもっとインパクトのある表現をしたときです。その人の体の反応で弱まったところで音色が変化して、それが語りかけることもあるのです。
基本的にこんなに短いところのフレーズであれば、ここからここまでのなかでは、要は一つひとつに変化を出さなくてはいけないということです。おかしくなってしまわないためには結局、声が教えているところで離さなくてはいけません。だから、頭から考えてすぐ口で出している人は、ほんとうによくないです。みんなのなかで比べてもらえばよくわかると思います。
よく、こういう説明の仕方するのですが、結局ここのなかできちんと引きうけたところのことばがいくつかでもあれば、それが変化していくわけです。☆
そのなかの、これで分けたら3つですが、この3つの音がメロディとしてあるわけではないのです。歌の場合は線ですから、ピアノみたいに打ちません。でもピアノも、ここにイメージする音色があって、うまい人ほどこの点を打たないわけです。流れのなかにこれを置いていくのです。
要は核として音があって、この核というのは、実際の音符からはずれているわけですが、それが正しいとか、正しくないと物理的に決められないわけです。
それは、自分の呼吸のなかであっているところの変化です。こんなのは書きようがないのですが、かといってめちゃめちゃな方向にいくのではないわけです。
ここでのこの変化は許せても、この変化は許せないという場合もあります。なんらかの大きな流れに従っていくうえでのずれというのかです。そういうことで、ことばの方もずれてきます。
正確に覚えてしまう人がなかなか歌えないのは、これをカウントしてしまうからです。手を叩きながらやっていたら、歌えません。自分の表現をつくるということは、感覚からやったものが結果的に楽譜になるのです。ミルバでも、ぜんぜん楽譜と違うように歌っているようで、楽譜にぴったりあっているし、正確に歌っています。
楽譜を正確に歌うのがよいのではなくて、彼女が歌ったものが楽譜になっているのです。作曲者がつくったときに、そこの核のところは一致しているわけです。だからそうやって音が決まってきます。リズムもメロディも、そのずれとか、自分のつくっているリズムやメロディが、何でできているのかというと、自分の声、呼吸です。
その呼吸からはずれているところはよくないです。はずれそうになるとか、そこで戻したとか、そういう働きは構わないのです。そうでないと、ポップスの場合のミックスヴォイスなどは、ぜんぜん理解できなくなります。シャウトでもそうです。かすれたから、だめだというなら、しっかりとしたヴォーカルが1人もいなくなります。でもそれがかすれなかったら、つまらなくなってしまうわけです。
かすれないのを聞くと、なぜその方が働きかけるのかと思います。これは、より呼吸を伝えているし、体のなかのものがあらわに出ているからです。ところが、声が出ていることで、それがごまかされることが多いわけです。
女性の方が音域的に不利かもしれないので、低いところでやってみましょう。そこでこぶしをまわすかどうかは好き嫌いの問題です。
ここでカンツォーネとかクラシックでは、こぶしがまわっています。プロの歌い手をみて、プロの人はなぜあんなにのどがぶるぶるぶるって動いているのだとか、こういうところであんなものができてしまうのかと思って、若いころはできないものが、やがてやれるようになってきます。しかし、それがすごいこととは思いません。
つくるつくらないは別にして、要は、自分の揺らしとか呼吸の上に、それが自然だったらよいわけです。最近の演歌歌手みたいに予測して形でとると、おかしくなってしまいます。男性はもっと音程を上げたほうがいいです。演歌の練習ではないのですから、自分で変えてやってください。
同じフレーズをまわす
理想とするフレーズはシンプルで単純ということですが、無神経ということではないのです。この歌はこんなに短いわけですから、全部のことを詰め込まないといけません。「影を慕いて」とおなじで、ひとつも無駄にしてはいけません。そんなことは他の歌でも全部そうですが。
「おいらの」で何か起きるし、「いーきーじ」でもきちんとそれを捉えたら、少なくとも「い」の部分に対して「き一じ」、何かそこに入ってしかるべきでしょう。
速さの問題ではなくて神経の問題です。ひとつの音に対して集中します。だからそれが技術的に扱えないとか、声がうまくいかないとか、音域がないとかで扱えないのは許せますが、先のフレーズの方がよほど難しいわけです。これができるとは思わなかったし、問題にもならないかと思ったら、男性の何人かはかなりできていました。それから比べたら、これの理解とか範囲は「あ、これ簡単だ」とそんな感じです。それではよくないです。
これで終わってしまうのだから、歌は。演歌っぽくやるなといったからわからなくなったのかもしれないですけど、要は、その下に動いているものがあるわけです。(は一っと息を吐く)最近弱ってますからこれぐらいしかもたないのです。
これは、このうえに出てくるもので、ここでとっていくわけではないのです。よくいうのですが、「ラ」と声がでているようで、実際はいろんなところでも、揺れというのは、まわりにもそういうものがあって刺激されます。1人でやるときには自分のなかにそれがもう動いていて、そこの上に飛んでくるだけでしょう。
ここだけの表面のところだけでやってしまうのではないわけです。こんなものでも、感覚的なものが、物理的にもそうなのかもしれません。動かす力というのは、声が出てようが出てまいが働いているわけです。それは呼吸です。しっかりと「らのい」のところにピークをつくっているでしょう。声は大きく出してません。
美空ひばりさんとかが他の外国のヴォーカリストと比べられるのは、表面的に出てきているものは若干違うのだけど、その握るところで握っていて、普通の人がここで握ったら、次にここまでしか握れないのを、ここで握ったあとに、ここでもう1度握って、ここでまだ握るとか、そういうことをほんとに細かく入れているのです。どうこうするというものではないと思うのです。それは感覚の問題だからです。
とにかくそこに表現をよりぎしっと詰めるためにこうやった方がいいということを、それは思いっきりやったり、息を吐いてやっているわけじゃないし、声をだしてやっているわけじゃないから、みえにくいのです。結果的に、彼女のものは全部生かされているという形になっている。
ミルバとかピアフとかもよくわからなくとも、やっぱりおなじようなことをやっています。普通の人間が4つでカウントするところを、16でとっていくのが普通になるとよくわからないですが、なぜここのところに、こう入れられるんだというものを、どんどん作っています。でもそれがないと聞き手は退屈してしまいます。あたりまえのことながら、簡単に先が読めてしまいますから。だから常につくるというのはそういうことです。
それをどこにつくるかということは、あなた方が決めてもよいということです。ここでは、演歌教室ではありません。でも、美空ひばりとかを使うと、その辺を誤解して皆そっくりにまねていきます。でもまねていったおばさん達の歌い方と、彼女自身の歌い方をみていれば、そのポイントできちんと定まるところでの差があります。核がないと歌が複雑になってしまいます。
美空ひばりの歌を歌っている人のを聞いてみると、全部が拡散されてしまっている。しかも、自分自身の全体の流れとまったく別にまねだけでどこかでひとつぐらい入れてみたり、最後だけ伸ばして、ちょっと曲げてみたりするから、全部がみえみえになってしまうわけです。だからみえないように裏地をきちんとやっておくわけです。
演歌とか日本の歌でも、きちんともっているものというのは、全部裏でやっていることが支えています。ただのアフタービートではないのです。次の動きというのを確実にその前でうって、捉えて準備して出しているわけです。演歌の場合は上でまとめてしまうから、なかなかストレートに聞こえなかったり、いかにもとってつけでやっている歌い手も多いですから、そうみられがちです。すぐれているのは似ているのではないかという感じはします。
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【マリエ】
「マリエ」だけでも、「はだしで」だけでもよいのですが、1フレーズで構成が見えないというのは、技術がないのではなく構成をしていないから見えないのでしょう。自分の呼吸がわかっていないということは、自分の呼吸から外れたところで音をつくってみたり動かすからです。リズムや音程が外れるのではなく、元もとその線が描かれていないのです。
今、回しても、ちょっと線があるだけの人が歌えているように思えてしまうくらいに、「マリエ」というところの線の行き方も、「きのうゆめみ はだしで かみを みだした きみは」 このくらいの線しか考えていないのではないかと声を聞いて思います。ぱっと聞いて、ぱっととるのは、確かに難しいかもしれないのですが、こういう経験は特に日本語ですから発音に捉らわれたりすることも特にないと思うのです。若干置き換えている人さえ少ないくらいにとても雑獏としているような感じがします。
考えすぎることもよくありません。「マリエ」でも「はだしで」のところでもよいのですが、そこのところは、覚悟を決めて飛び出さないといけません。「はだしで」くらいのところでガタガタになっていたら、よくありません。
この歌い方は、好きではありませんが、この歌い方をヒントにもっと自分の持ち味を読み込めると思います。もっと変えることができると思います。自分でつまらなく感じて、つまらなく歌っているから、まったく生きてきません。それから、フレーズも見えません。
いやらしいような、日本語的なフレーズ感でもフレーズ感を持っているわけです。これをコピーして欲しいわけではありません。コピーしたら、すぐにわかります。
体の力がないことと、きちんと握っていないことと、音などをおさえていないから生ずるのです。イメージとしては、こういうふうに歌おうと思ってこう歌っているのですから、これはこれでよいと思うのですが、それをよりすぐれたレベルで出して欲しいです。しっかりと歌っていますが、表現ということでいうと、これを最低レベルのところにもってこないと意味がありません。
こういうものを聞いていると何かがまんならないと思ってきませんか。足りないと思いませんか。それをつけてつなぐとよいだけなのです。これを見本にすごい先生だなと思って歌っているような気がします。これで練習するともっと狂いそうですから、歌詞は2番目の方でやりましょう。
要はフレーズが歌として聞こえてくるかどうかです。それで聞こえてこないのは、音程が悪い、リズムが悪い、あるいは呼吸が悪いのでしょうか。同じパターンなら、同じパターンの展開で聞こえるはずですし、そこのなかのスピード感、盛り上げとか、フレーズがありますから、こうやった後にこうはいるとか、あるいはこれの先のところにここからこうはいるとか、これで切っておいて、こちらからはいるとかは説明のしようがありませんが、何かその人自身のものがあります。呼吸と一致していればよいのですが、音が前に出ていない。一点に集中していないという感じがします。
体のことと、呼吸のこと、声のことと、表現のことが普通は一つに集まっていくでしょう。そのなかでいろいろな揺れが出てきます。それがばらばらになって、体から呼吸は出てきていても、声はまったく違うところでとろうとしていたり、感覚的にこちらでとろうとしていたりしているのです。出していくなかで、自分で実感がないのではないのだろうかと思います。
日本のものをやるときに、一緒にテンションがかからなくならないでください。日本のものを使いたいのは、時間の短縮のためと外国語になると読みなれるまで大変だからです。日本語の歌はメロディがとりやすいから、これを受けて、それをパワーアップさせていく練習をしてください。それを手本にするのではなく、読み込んでいって欲しいのです。生かせるところは生かせると思います。
日本人の場合は、低音部と太い音色があまりありません。こういうものを聞いてみると、どこに力を入れているのか、どこを伸ばしているのか、少なくとも伸ばしている、切っているはわかると思います。ここではいるべきところも、こちらで早くはいっているというのもわかりやすいでしょう。
どうやって音楽をつくっているのかを、もう少し聞けるようにしてください。これを表面でまねてはいけません。表面でまねて、動かしてはいけません。その下の感覚のところで、こういうパターンもあるということです。 このくらいのフレーズになってくると少し練習をして、自分が、何をやったのかをみることです。カメラマンがいくら写真をとっても、撮った写真がどうなのかを見て、次にどう撮るのかを考えなければ上達しないでしょう。
何も読み込まずに自分のパターンにもっていってしまいます。もっていくことはよいのですが、もっていく前に音楽のパターンがあります。ここでつかむ方がよいとか、ここははなした方がよいとか、これはこういう位置づけとそれぞれに役割があります。ただ、役割の与え方は自分で変えられますから、変えたらまったく違う解釈になります。
「わたしは」に対して「ただ」。「あなたを」に対して「めを」をどうするのか。ことばで、つかみたくないのですが、ことばでもこういうふうに分けられます。ことばで何回かフレーズをいってみても出てくる思います。
自分のパターンにそれをもっていってもよいのですが、それで合う、合わないということも考えなくてはいけません。
ではどうすればよいのか。音楽的な進行をとる一つのパターンがありますから、本当はそのなかで自分と接点をつけて両方がピタッと合うと呼吸も合います。その前にどちらも合っていない場合もあります。自分の頭だけで考えてしまって、走ってしまっているときとかあって、そういう場合はある意味では全部が雑に聞えてしまいますし、落ちるところに落ちなくなってしまいます。
どこを自分がつくっているのかです。どこを握っているのか。どこを放しているのかということと、その人の呼吸が合っているかです。 かなりの集中力がいります。1曲全部をやらずに、フレーズの練習をしているのは、そこでことを起こして欲しいからです。ことを起こしたら、そのバウンドがきますから、それをうまく押さえられるのか、押さえられないのかが結局、練習すべき課題であって、ことを起こせるか起こせないかのレベルは、そろそろクリアして欲しいものです。
自分が伝えようと思ったら、ことは起きるわけです。それを、たとえば、「めを」のときに、はいりそこねたり、ここの音がうまくとれなかったとか、声がかすれたとかいうのは、しかたありません。慣れてくれば、パターンとしてのうまい外らし方がいろいろとわかってきます。ただ、全部を単にいっていればよいという段階は、そろそろ卒業しなければいけません。歌の練習のなかに入れられると思います。
見本とタイプが違ったりするとやりにくい場合がありますが、逆にあまり似てない方がよいかもしれません。
たとえば、「かなし」の「か」は、先に出しています。そういうところで何かを感じて、自分だったらどうするのか。出さなくてもよいのですが、次にも出せるところが何箇所かくるでしょう。
でも、この人はそこを出していない。それはどうしてなのか。理屈で考えたらそういう世界ですが、それが自分の感覚のなかにはいっていると、ここで前に出した。そろそろここで前に出すはず、出さなかった。すると、そういう掛け合いがうまく行われているかどうかだと思うのです。
あるレベル以上の歌い手になってくると、絶対に最良の選択で動かしています。それがないと、何も見えない真っ暗なところで進んで思い切り飛ばして、ガンガンとぶつかりながら前に進んでいるようになってしまうでしょう。それには、のれないでしょう。聞いている人ものれません。ことを起こすのは、だまっていたら暴走します。暴力の吐け口にプロレスと同じように音楽というルールを与えるのは表現のためです。
歌のなかでていねいにやって欲しいということです。自分とそのなかにあるものをもっと凝縮していって、一つの体の原理みたいなものの上にのせていきます。一つに全部を凝縮して捉えようとしたら、かなり高いテンションと呼吸が働かなければよくないです。これが狂ってしまい気力が入らなかったりすると体が怠けていたり、息が上がらなかったりします。
いろいろな変化を自分で試して、コピーでもやってみたときに何が起きるのかを自分で知っておいてください。中がきちんと動いていたら、いろいろなものが起きてもよいのです。
波でいうと、波がきちんとブワーッと来るところときちんと引くところだけ見えていたら、歌詞が少し間違ったとか、音が少しとんでしまったとか、まったく気になりません。レコーディングとして歌うわけでもなく、ここで思い切りやっているのですから、ステージでは気になりません。その動きを出していかなければいけないのですが、それがバラバラになっていると伝わり方が弱くなります。どれか一つだけになっていてもだめでしょう。結局、こういう中でやっていて統合するのです。
あまり音楽的に考えたり、リズムをとったり、カウントしたりしなくても、飛んでくればそれでよいわけです。フレーズに関してはそうです。歌全体になってくると、もっと押さえた方がよいとか、後でもっと引くために、重く歌うとか、いろいろな感覚的なものがはいってきます。今は、起こすことをやっていくことと、おさめることです。その起こし方がセンスとオリジナリティです。