一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 18398字 1047

レッスン感想

 

 

「恋は私の恋は空を染めて燃えたよ」昔よく耳にしたメロディ。いろんな長さで出しましたが、全て満足のいくものにはなりませんでした。まず、フレーズの大きさ。何度か声を出してみてはじめてそれに気づいている。遅すぎる。声量でぐわっともっていくタイプの人ならば聞いた時点で大きさを感じることができるが、ときどき、そういうタイプでない場合聞き取れていません。今陽子さんは最近TVでこの曲も含めてときどき歌っている姿を観ることができ、しっかりと歌える人なんだというイメージを持っていましたが、今回歌ってみてその思いがさらに強くなりました。うまい人というのは思っていたけど、このフレーズがこんなに大変なものだと思いませんでした。3度ほどなのに体感としてはそれ以上の音程差があるようでした。がんばって出したら最初から最後まで同調になってしまう。しかし、押さえると余裕がみえてしまう。今回どちらともやってしまいました。後者の方は指摘を受けました。声量とかの問題ではなく気持ちや緊張・緊迫感みたいなものまでおとしてしまったからなのでしょう。

 

「余裕は必要だけど楽をすることとは違う」ということなのではないか。それと後者のときは息が流れる感じは今思うと薄れていると思うし、出した後のバウンド(メリハリ、強弱)がなくて、一見聞きやすそうだけれど自分のまわりだけで終わってしまうように感じます。何か勢いというか突っ込んでいく感じがありません。早速、録音してみるとリズムがノリが完全にずれているというわけではないのだが、たとえば1拍目の頭からきっちりと入る場合でも、裏で入っているとかそういうわけではないが、1拍を10とすると、2か3のところで入っているように聞こえてしまいます。だから声が出たとしても何かしっくりとこないというふうになっています。

頭だけじゃなく伸ばす音もそういう感じに聞こえてきます。だから、余計に声の出まで悪くなるのか。やはりこれは前に書いた勢いのなさ(スピード感も含めて)で出そうとするからと思います。結局は体と心でグッともっていけずに頭で“入るぞ”という形でやっているからではないのでしょうか。だから、その結果遅れる、といけばいいのに、という感じで、一回とまどいというか探りみたいなものを入れてから入っているのだろう。となると遅れるはずです。いわゆる躊躇している。ポーンと入るのをどこかこわがっているのでしょう。間違うことへの不安が“頭から”ということをつくり上げるんだと思います。他の人のでポーンと入れているのはとても気持ちよく聞けます。これができればもう少し息の流れ、吸うことがスムーズになり、ということは声の出もよくなるだろうし、ノリ出てくるだろうから、今よりはいい意味で音楽に近づくんじゃないのでしょうか。

 

はじめの7分位はまだいいが、半分を越えたあたりから声が少しガサついてきました。イメージとして低音から半音ずつ上がっていっても、無理に力を入れず(実際体は使われていくのだが、それを過剰に意識しないように注意)に出そうとはしているが、知らず知らずのうちに押し出すようなことをしているんだろう。だから、途中からそういう状態になると思います。低いところを中心にトレーニングするというのは、今の私にとっては大切なことではあるが、その出し方にやはり問題があるのだろう。多分、そうなるのは深く低く太くとろうという意識の大きさの影響といえるはずです。中音域あたりまでメニューによっては力の抜けた状態をキープできるが、それも本当にできているんじゃなく“力で”という部分によってのことが大きいです。1つの音でコロッと音色が変化してしまうことがいくつかみられました。

 

ドレミレドの音程で「ゲ」「ガ」「ゴ」「ギ」とレガートでつなぐとき、ことばによって差を感じました。最近、のどが閉まるというのではないが、「オ」音が難しいし、何か細工しているなという感じがしました。声が少し奥に引っ込んでしまい、音色が少し暗くなっているようです。高くなると難しいが、「イ」音の方が声が前に出ていると思いました。出にくいときは力に頼ろうとしているようです。これで大きく出せたとしてものどが疲れるから長く歌うことが困難になると思います。しかしながら、全てがだめということではなく、時間のなかでも理想に近い形で出せている声もあるので、それをいかに再現可能なものにしていくかということになるはずです。

 

個人レッスンの意味、使い方、必要性をもっと考えないといけないと思いました。とても贅沢な時間だというのを最近つくづく感じています。いっまでもこの環境が続くというのを思ってはいけないはずです。今回をやり切るという思いを持つことの大切さ。といいながらも甘さが抜けていません。どこかで、また次が、来月がということを考えているのでしょう。次ある保障などないはずなのに。1ヵ月とにかくやれるだけやってきた、どうだという意気込みをもっていたい。そうすればやり切れたという思いは持てるはずだから。そうすると、先生にもう少し自分の存在を示せると思います。

 

福島先生の声を五ヶ月ぶりくらいに聞いた。前にも増して(それとも前の私には感じ取れなかっただけか)ボリュームというか、空間を飲み込んでしまうインスピレーションを刺激というより爆発させるような(変な比喩ですいません)圧倒的パワーを感じた。福島先生の目には何が写るのだろう。

 

初めてここのヴォイストレーニングに触れたときにも、人の心を開く鍵が隠されているように感じました。本来の場の意味とはそれるけど、まるで世の中と接触したことがなかったふうを醸しだしていた人が、衝撃的ほどではないにしろ、何か開かれているのを見て、音楽のもたらす可能性も感じました。心が閉じているのは、体がちぢこまっているのだということも感じました。自分ができてみないことにはどこをどう組みかえてつなげるのかわからないけれど、音が人の心をひらく可能性、歌以前、もっと原始の声、言葉、自分のなかに確信があればできるはずのこと。心を見失った人たちの輪のなかにあって、眼の前に奇蹟を引き起こせるか。瞬間の感情移入と、直感と、内の静けさと、情熱と、神がかりのエネルギー、言葉をつきぬけた言葉でないコトバを試してみたい。なんかパントマイムのヨネヤマ・ママコさんみたいであやしいですが、いったん自分の体を通してから表現したノウハウはたとえBVが礎(いしずえ)であってもオリジナルと呼べるもの。

 

先日、グループレッスンで、(ある種器用さが用いられる世界)(ピントのずれ)(悪くなるということ)(入っているはずのものも取り出せない)といったようなお話が出て、含みのあるアドバイスというよりは言葉そのまま、ストレートに勧告と取れたし、世の中だと思いました。起こせないまま通り過ぎることの恐さ。うまくならなければよほどピントがずれている、でも人の言葉にいちいち動じない。崖っぷちのリラックスを私はほんとうに知らないのだろうか。今までの人生のなかで何かひとつでもうまくいった(You got it)って経験があれば応用がきくだろうにと思う。

 

ここに入ってから好奇心でいろんなものを聞いてきたけど、それが役に立つのか確信が持てなかったし、観たり、聞いたりすることが逃げのような気がしたし、知識と手持ちのCDが増えるだけじゃん、ばかみたいって思ったけど、フレーズのアイディアも最近やっぱり記憶の集合体なんだってやっとこさ実感できる気がして、何かを取り込もうという前向きな気持ちで聞けるようになった気がする。ただ子供の頃のような背中にエレキが走るような聞き方できているかどうか、音が眼の前を通り過ぎるだけで、音楽未満の聞き方してないか、アル中のウィスキーのように現実逃避になっているだけでないか。パチンコ玉やワンカップやチョコレートに較べて上等な気がするのは勘違い。その人にとってこだわる次元のことであるのなら、いっしょ、いっしょ。もっと感動できる細胞体、無防備な体とこころ。と同時に観客としていくら眼がこえてもしかたない。自身がステージ上の人物として移入できるか。(実際そんなことができるのは一年に一回あるかなしかの壁だが)

 

入り込む、めげずに聞く。レッスンで先生と対話するように対話する。今まで雰囲気と歌詞と華やかさの象徴くらいでしかなかった歌―のようなものでなくて本来の音声としての「歌」は肌に入っているだろうか。(I don't know~)いつもながら、まったく違うメークでまったく違う顔の若い女の子達、まるで線の細いいまどきの男の子と、ミナミの街の華やかさに、さみしさを募らせながら思う、今に見ておれ。

B面では何で今ごろという哀しさと、わからないかもしれないという怖さと、体の片隅に巣食うのたれ死の予感におののく綱渡りといつも隣合わせ。何とかかんとか、その場その場で答えを出していかなくてはいけない。その先に何があるかはわからないけど。

 

ダダーンとかピポーのところはよくわからないところもあった。ここでは日常的に使われている言葉(あくまで感覚を知る手助けとしての)で、くやしいけど感覚としてまだピンときてない(はっきり体感する場面に遭遇してない)のが沢山ある。(握る・離す・フレーズの線・息を聞くetc.)。ピアノに合わせるより、CDを聞いて声を出した方がよい場合があるとか、あたり前のようなことを、改めて活字にされているのを追ってみると、やはり頭のどこかで既存の音楽教育のイメージに縛られていた自分に気づく。音楽をやっているのは特別な人ってイメージがあって、いまだ憧れと疎外感を抱いている。

 

五線譜の歌は英語の方がノリがよくて歌いやすいのも本当なら、イタリア語がフレーズを取りやすいのもあれば、母国語がいちばん不自由がないというのもあると思う。身についてて自由なので、言葉であることを忘れて、イメージを走らせて、言葉を置いてくる(言葉じゃなくなる)ことができる気もする。歌いたい曲と、歌える曲もやっぱり違う、たぶん、カッコイイと感じるのは自分にない感覚のことが多いから、変身願望の現われだから。初めの頃に覚えた新鮮さもよかったけれど、多少実感を持って読み込めるようになったりとか、そのときそのときのレベルで感じることが違うし、ピンとくるところが違うし、精神的にも、ぐらぐらくるのをロープにつかまるために読んでたり、新たに確認、納得したりなんかして、奥が深いというか面白いなあと思う。

 

少し気持ちを新鮮に出きたかもしれない、2年なんて気の遠くなるような年月だと思ってたら、今も3日くらいしかたってない気がする。もうあしたには10年たっているし、首を洗って最後の審判を待っている、きっと。

 

印象に残った言葉~1.いろんな音や他人の声を生でたくさん聞いて、音声の世界と、それが表現になる基準を知る。2.他人を通し、自分の感性やオリジナリティを発見する。3.第三者に音声で問うことを日常とする。・自分に入っていないものを“入れる”、“場”で出てくるものを出す。・何か生まれてくるときのテンションと集中力。・音の世界を身につける。・声を扱う感覚を深める。・キレとはある意味では思いっきりよく前に問いかける姿勢からでてくる覇気。・音のテンションがあがっているのであり、音が高く上がっているようなイメージで考えない。・まずは、音色をリズムでたたみ込んでいく感じ。・楽器づくり―調律―演奏。・音楽を聞くことのできる耳と心(感覚)、声を扱える体。音を心に入れて取り出す。・的は何回も何回も射ていたら定まってくる。・自分の体を、一つの目的に向かって一瞬に凝縮して力を働かせるコツを身を持って知っているかどうか。・体の使い方がどうであって、どこに響いて、どう踏ん張って、何を感じて、次にどう出そうとしたために、どう音をおいたか。・表現とは他人との差違を拡大したもの。・神の降りてくるところを耕しておく。・その人の存在が問えるもの。・自分の音声と表現と舞台の研究をするところ。・音色は、当然その表情や身振りに連動する。

 

今回のレッスンは、頭を打ちました。自分の実力がよくわかりました。選曲されたものは世代的にみても私は全てよく耳にしていたにも関わらず、音取りに気を配らなくていいにも関わらず、殆ど全ての曲に対して何も出すことができませんでした。多くの人のフレーズを約15個ずつ聞けるという賛沢な時間を活かそうと集中して聞いてみると、いろいろなパターンがあって勉強になりました。

忠実に再現しようとする人、まったく別のものにしてしまう人、力でもっていってしまう人、口先でまとめてしまう人、とんできた人とさまざまでした。こういうのになるとどうしても大声でというふうに思ってしまい、主旨を忘れてしまいがちになります。

出しすぎるか、引っ込んでしまうか、いつも極端。声量の問題ではなくイメージの問題だというのを今回特に感じました。出そうとするんじゃなく、出てくるものでないといけないはずです。あふれてこぼれ出たらそれが表現になり、伝わっていたというものでなければならないのに、出すこと・出たこと=満足というところで終わってしまいます。早速録音してみましたが、どう出したらどうなるというものがきっちり判断つけられる力の大切さを感じました。

 

イメージしていないから、していても乏しいから、出した後で伝わっているのかどうかが判断できていない。自分には1つのパターンしかないんだなというのを思い知りました。どの曲でも殆どその形しか出てこない。だから、たまたまそれに対応しやすい曲がきたときはまだいいが、逆のときは何も残せません。どこを歌ってもいいということだったが、結局は出しやすいところに逃げていただけのようでした。まだ何となくですが、しっかりと勝負して、負けることが大切だということの意味はどういうことなのかということに気づいたと思います。そんな思いのなか、今回のグループレッスンとこの特別レッスンではいつもより負けを感じられました。

 

それぞれのヴォーカリストのすごさというのも一緒に学びました。プロはプロであるための理由があるんだというのを十人のなかに感じ、今とは違い、それぞれが本当に個性的で同じタイプの人がいませんでした。人前でできていないということを本当に知り、何とかできるようにしたいという気持ちにならない限りはずっとこのままだと思いました。上のクラスとの違いは自分をどれだけわかっているかという、その度合いの差で、何をしたらマイナスになり、ここでやめた方がいい、これ以上やるとよくないなどがきちんと判断できる力(耳、イメージ)があるということだといわれてしまいました。自分に何ができるのかのサイズを知っていてそこからはみでることはしない。耳をふさぎたくなったり、下を向きたくなったりするというのはじぶんのサイズがわかっていないということになる。自分が出したときは録音でチェックするのと、レッスンではまわりの反応をよく確認しておくことが大切。

 

他の人が声を出したときのまわりの反応と自分の反応も同様のことがいえると思います。何度も何度も耳を強化しなければと書いているけど、結局は中途半端にしかやれていません。聞いてればもっとできるはず。もうかなり限界にきていると思います。今のままだとカラオケのレベル、身内、知り合いでしかもたない、そこだけでどうのこうのとしかいえないレベルから抜け出せないというのを感じました。一流と何が違うのか、このことの徹底追求しかありません。とにかく耳、耳をまずつくっていこう。入っていないものを出すというのは無理なことだと思いました。判断可能な耳の獲得。

 

①ロングブレスSU-SU-②スッ、スッ③SU-SU-④はあーっ(→)⑤はあ<はあ<はあ(クレッシェンド)⑥ああ<ああ<ああ~(クレッシェンド)(かあ~っていいたくなって困った)

オナカの支え、体に入れる、ていねいに息吐く。上あごの奥あける。大きく開けようと思うと、だらんと口あげるときより、唇に力が入ってしまって、それがノドしめるような気がして、なんかいっつもギャップなところ。トレーナーの声は、さりげなくぱっと出しても、声がリラックスしてて、発声じゃなくて、しっかりと声なんだよな。すぐさま音楽つうか。

 

育ちのよい音楽といった感じの気持ちよさとはまた違う力強さがあるみたい。いつもの自由フレーズ、出だし体に入らず、バトミントンの羽を打ち込めずに、ぽとっと落として、坂道にころころころと転がっていってあらあらあらってそれていって、展開の期待なんかまったくできなくて、暗くて、みっともない。とりあえず声のことをいえるラインに立って欲しいと、またしてもトレーニング以前のことをいわれてしまう。

 

理解して歌っているか。

道筋組み立てられているか。

だんだんとテンションが上がっていく歌い方

そういったことは、サークル活動なり、仲間内のカラオケなりででも体験ずみのうえこの場に来ていて欲しい。こういう手合い、いまどきのやりたがる日本のしろうとだ。録音聞いているのか。おかしいところに気づく。ひとつ言葉をもらってそれを守っていてもダメ、その裏に10も20も悟らなくてはいけない。ライブでやるようなことはいつでもどこでも日常的にぱっと取り出せないといけない。

 

声が身につくテンションがなければよくなるどころか、どんどん汚れていく、注意を受けてのち、サビのフレーズ、一番目が持ち直してた、それに連鎖するようにみんなのテンション少しアップ。私はといえば、取りあえず声は今までのなかではラクだった。とにかくガチガチで全部ノドに来て、もちろん音域取れるはずない状態、あまりの不白由さにショックを受け、声出すのがある種恐くなって、カラオケも嫌いになったり(とーぶんキライ)、声が拘束服を着ているみたいなものだった。少し体が落ち着いてきたのか、ふとポジションの実感が持てるようになって、少し声が太くなって、冷凍室からチルド室(0℃)に出られたのは、ごくごく最近のことだ。でも、眼をつぶっていてみた目みっともなかった。みんなの視線が痛いようじゃなんか間違っている。

 

ここのクリスマスライブのオーディションを例に話されていました。歌詞の世界には若すぎて届いてなくても、前に前につんのめりそうになるくらい前に出ようとして、踏ん張って世界を伝えようとしている、純粋さとまじめさの息づいている歌は胸をうつなあと思いました。いつでも、どこでもぱっと出せること、ミクロの時間に状態を整える、非日常でも何でもないこと。その人に身についているもの。その人自身、砕いて内に取り入れているうちに血肉になって体を巡っているもの、イってしまうためにはごくごく生理的な問題で体が熱くなってないとというか、まあせめてあったまってないといけない。気持ちの上昇で一度くらいはすぐに違ってくるだろう。自分は熱しにくいし、冷めにくい。体がやわらかくなるのも時間がかかる。ほんとうは10キロくらいかっとばして、ランニング・ハイの手前までくらいいって初めて、胸のあたり何もささってないこなれた感じ。何事も距離、ギャップがあるということ。自分になるには手順がいる。声と一緒に心も純化してかないといけない、ささった小骨とかよけいなもの除いていく。本質と出会う。習慣とかもいろいろ修正していく、その都度、作品を出すのを楽しみにしながらやってくしかない。

 

帰ってステージ実習のVTRをみたら、まぶたぱちぱちとか、手がうるさいとか、語尾伸ばしすぎ、何音符やねんとか、ホームベースみたいなあごとかいっぱい恐すぎて、夕飯に食べたキムチの汗が噴き出したけど、いちばん不気味だったのは、恐いくらいテンションのなさ、気分悪いのって感じでどこにも何にも伝えてないし、破ってないし、何の必要があるんだろ。へん。よくこんなの見て採点したり、一個一個映像に落としたりの作業ができるよなーと思った。間にプロのを入れて身に沁みること。スポーツとか英語とか、テキトーに楽しんでる自分は想像できるけど、歌で想像できない、封印して、音楽キライを公言するおばちゃんになって、団地妻のカラオケBOXには連れ立って行けない、昔はいちばんバカにして目をそらしていた、かっちょ悪い生き方。でも人生(そんなもの今だかつてなかったからそんなものがあるって考えにいまだ馴染めずにいる)どっかで対面して帳尻合わす羽目になる。海底にゆれるわかめの気分。

 

1フレーズ声にしたが、ものすごく声がうすっぺらかった。しかも硬い。こんな声じゃキョロ×2歩いている人さえ、こちらを気にもとめない気がする。一番悪いと自分で思うのは、声を出し0.3秒くらいで、すぐ「うわぁ、ダメだ」と思っている自分の甘ったれた態度。集中するもしないも、体を使うも何も、表現しよう、伝えようと思えば体が勝手に動くはずだ。グループレッスンの皆のを聞いていても音楽として聞こえなかったのだから、普段、歌っていない私が音楽になるわけないだろ、それにトレーニングとか以前に、心(感情、感覚)があまりに鈍い、いや出てない、大好きな人と一緒にいるときは兄弟にさえ見せたことがないほど「素」で無邪気で明るいのだけど、普段は、小さい頃から「ああはなるまい」とか変に思いすぎたせいか、「クールぶっている」性格がクセになり「素」の私がめったに出なくなってしまった。「COOL」というのは、心の底に熱すぎるものを普段は見せずコントロールしているのことなのだと、私は思うのだけれども、私の場合は明らかに「ぶっている」。「クール」という仮面をかぶり、ただの仮面なのにつけたまま成長して外せなくなってしまった。このままじゃ本当にいけない。

 

いやぁ~このレッスンはとてもよかった。すごくいろいろなことに気づかせてもらった。おいしいいレッスンだったと思う。フレーズがどんどん流れてくる中で自分は何をするのか、何を伝えていくのかを瞬時に反応して飛ばしていかなければダメだった。そのおかげで、頭で考えているうちはダメだなぁ、ということを本当に感じた。フレーズが流れてきたら、その歌い手が音声のなかで何を表現して伝えているのかを、体全体でその音声の流れに一度入り、そして自分と結びつけていく。一瞬でもそこに、頭で考えてフレーズがどう流れているかとかを気にしてとってしまうと、体の感覚が鈍り、フレーズが消えたときに、自分にその感覚が残っていないことに気づいた。ただ流れてきたフレーズを、体で受け止めてどう感じるのか。そしてどう伝えたくなってくるのかを、しっかりと持つことの大切さ。あれこれ頭で考えているうちは、絶対に伝わらないということに気づいた。頭で考えてここはこうして、あそこはこうしてなど考えていると、頭ばかりでフレーズをなぞってしまい、まったくもって感覚や体が働いていないことに気づいた。フレーズが流れてきたら「ああ、伝えなきゃ、表現しなきゃ」とか思っているうちはダメだということに気づいた。そうすることによって結局、頭で考えてしまっているから、フレーズが自分と結びついていなく、形だけになってしまう。伝える、伝えないとか、思い切り表現するとかいう前に、まず体をすべて解放して、自分がその大きな歌の川のような流れのなかで何を感じるのか、そこがないと絶対に真実味が出てこない。レッスンのなかで、いかに落ち着けるのか、それはすごく大切だと思う。しっかりその音楽を体全体で捉えなければいけない。白紙にして捉えないといけない。そしてその状態からその音声のイメージを体全体で感じてきて、そしてその音声がどう展開されているかを、音楽のうねりのなかで自然と感じてくる。そしてそれを感じると、この歌い手の伝えたいことがわかってくる。それも全て自分の体の感覚に任せる。そしてそのイメージのなかで展開される映像の主人公の気持ちがわかってくるようになる。そしてその主人公になると、こういうふうに伝えたいというのがわかってくるようになる。ムリに頭で自分と結び付けていくと、出したときにそれをなぞってしまう恐れがある。だから、ただその音楽を体で受け止め、その主人公になり切ると、伝えよう、伝えようと思わなくても自然にそうなっていく。ここでの注意ポイントは、その大きな感覚が備わり、伝えたくなってきたら、それにすがってはいけないということ。そうなると、一人よがりの世界に入ってしまう。それをしっかり音声のなかにつめて、表現を飛ばそうと思わないとダメ。そうしないと、何をやっても同じになってしまう。

 

人のを聞いてて思うことは「あぁ~この人は、こうやって感情移入しているんだなぁ~。でもあれじゃ人には伝わらない、なぜだろう」と思う。それは自分ときっと切り離してないからだと思う。確かに体で感じて思いっきりその人になって、出すのだろうけれど、それだと音楽の流れに自分が飲み込まれてしまっているのだと思う。確かにそこに入るテンションや感情移入は必要だけれど、それだけに頼ると、音楽にならなくなるし、フレーズにつまらなくなってしまう。それをフレーズのなかにこめて伝えようと思うと、そこに息や体の問題が出てくると思う。大きな声で「痛い」といえばそれなりに伝わるし、わかる。けれどそれは音声で表現を伝えようと思うと、そんなに雑にはできないことに気づいた。そして自分の感情がどこに向っていくかも大切だということに気づいた。感覚が入り、伝えたいという気持ちになって音声として出そうと思ったときに、その自分のなかや後ろで感じているパワーを、しっかり方向性を持って出さないと、目的を持って出さないと、そのパワーや感覚は分散してしまう。それではその前の段階でよくても、パーになってしまう。フレーズが流れてきたら、まずそのヴォーカリストになりきるのが、よい方法だと思う。

 

自分でイメージを作って結び付けて伝えていくという段階を踏んでいくのは大切だけれど、それをやっていては瞬時に反応することが難しい。だから全て感覚と体に預けて、そのヴォーカリストになりきって、その音声のなかに入っていく。そうすると、流れが、見えてきて、どうしてここで強くなるとか、ポーンと放す感じとか、つめる感じとかがわかってくる。それから伴奏の重要性に気づいた。ヴォーカルラインだけを見ていると、どうしても視野が狭くなって一人よがりになるケースが多い。そのフレーズが消えたときに、その伴奏が残っているとテンションなり、感覚なりが出すときにとても自然に入ることができる。そのヴォーカリストになったら完全に入ったら、その感覚をそのまま出していてはダメでそうすると「気持ちはわかるけどそれでは伝わらない、一人よがり、自分のなかで回っている状態」になってしまう。完全に入って感覚がわかったら、一度、離すということがとても大切だということに気づいた。人のを見ていると、そのテンションや感覚、雰囲気はわかるけど、それが自分の表現になってないんだなあということがよくわかる。そうすると、いくらそこで伝えようととか、でかい声とか体を思いっきり使ってもどんどん一人よがりをアピールしてしまう気がした。完全に歌に入りきれたら、まずそのテンションをたもったまま、一度落ち着く。落ち着くというのはテンションを下げるというのでなく、しっかり構えるということ、しっかり構えるのは本当に重要だということに気づいた。

 

空手でも構え一つ見れば、だいたいその人のやってきたことや、強さがわかる、そしてその人からの気迫やオーラが出てなかなかその間に入ることができない。そういった意味で気迫を漲らして、しっかり構えることは重要だ。そしてそこから体を使うあまり、体をよじれさせたりしてはダメで、しっかり相手を見る感覚。というよりも自分をしっかり捉える感覚が大切。しっかり、そして一点を見る。その方向性を見る。そうすると自然といい状態で落ち着つく。それから清水流の表現を見せる。そのテンションや感覚をつかんでおいて「オレだったら、こう伝える、表現する」というのを出していく。それをしっかり音声として表現するという意思が必要。自分の前、自分の空間、空間に詰めていくことが大切、その自分の空間というか、その空間全体で感じておくことが大切。そうしていくと、どうしてもそのフレーズの線を追ってしまう結果になる。

 

人のを聞いていると、その声の厚みのような深さのなかで、すごくきれいに、なおかつパワフルに表現になっている人のを聞くと「この感じはすごくいい」と思うけど、なにか「まさしくこれだ」というものではない。きっとそこには声のコントロールやフレーズの膨らませ方などは上手いけど、本人がきっといないのだと思う。自分だったらこう出すというのが本当に大切だ、と思う。そのヴォーカリストの体を読み込み、感覚を読み込んで、そして一度離し、自分の表現と相談して、しっかりと構え、一点をそえて音声のなかでそれを出そうと思う。しっかり離したところで、それをつくる。そうしないと自分で回ってしまう。「オレだったらこう歌う」というのが本当に大切だと思う。でもシンプルに考えてみれば、図工などで小学生がペットボトルを使って何かを作りましょうといわれたときに、たとえお手本があったとしても、みんな同じになるわけがない。自分の表現を出していく。そういうことに近いのかもしれない。あと今、疑問に感じているのは歌というのはどこまでまとめて、どこまでコントトールして、どこまで任せていいものだのだろうか。また、飛ばすというのは的があって、常にそこに飛ばす感覚なのだろうか。その飛ばす感覚のなかでいろいろ変化をつけていくのだろうか。統一感と的を射るということは、きっと共通ではないかと思う。的を射ようと思うから、そこに統一感が必要になり統一感があるからそこにバラツキがなくなるのだと思う。空手でミット打ちをするときも、そこに的があるからこそ、そこで最大限の力を発揮できるのだと思う。線が描けるし、他にも応用が効いてくるのだと思う。統一感がないと、いくらパワーやインパクトが会っても毎回、形が変わり上達していかない。だからこそきっと言葉を読み込み、そろえるということが大切なのだと思う。そうすることによって最大限の力をそこで使うことができる。だからこそ、リラックスがとても大切になってくる。

 

フレーズが回されてくる中で一曲だけなかなか入ることができなかったフレーズがあった。そのフレーズの歌詞が言葉で聞いていて、とてもわかりやすかったため、頭で考えてしまって処理をしてしまったからだと思う。これで出したらきっと体で押すだけの感覚になってしまうと思った。でも、そういうパターンは今まで多く、ただ体でぶつけてしまうということが多かった。なぜだろうと思うと、まずその曲を完全に感じておらず、なりきってなかった点と、次にそれをしっかり音声としてオレはこうつくる、という部分がなかったからだと思う。そしてその音声を自分の前で作っていくということができてなかった。画家が絵でその世界を表現するのと同じように、ヴォーカリストは歌でその世界を表現していかなければ行けないだなぁ。ということに改めて気づいた。そして何よりも、一番の気づきは自分の感覚を信じて前に出すということ、レッスンをやっていく中で「ああしなきゃ」とか「こうしなきゃ」とかはあるけど、それはトレーニングをやっていく中でやってきたことを信じ、今までやってきたことを信じ、そして自分の将来を信じ、何よりも自分というものを信じて前に出していくしかない。音楽は本当に私を最大限に高めてくれる。私の生き方や人生までを高めてくれる。何よりも将来の自分を信じ、今の自分を信じてやっていこうと思う。その結果は結果として自分に戻し、何が起こっても、どういうことがおきても、うまくいかなくても、そんなことはあってあたりまえだと思い、とにかく、どんな自分も信じていこうと思う。信じるだけではダメで、本当に自分を信じて人生も普段の生活スタイルにしても自分を前に出していこうと思う。感覚と体でやっていくということはとても不安だけど、それでこそ自然体であり、本来の自分であり、真のフレーズができてくるのだと思う。感覚と体に任せ真の自分を知り、前に出していく。そして生きている限り、自分を信じ続けていこうと思う。

 

体の使い方は、とにかく動かしてみないとわからない。極端なことをしてみないと、最もバランスのよいやり方など見えてこないということ。そう思ったこと全て試してみればいいじゃないか。あれこれ考えるより全力で、テンションを上げて、全て試してみるほかないのだ。一つのやり方の拘って、その点を深めて気がつくことのほかに、「これはどうか」とたとえば“どうして自分は下半身を使っていない気になるのだろう”と思えば下半身を入れる練習を一つ一つ試していくとよいと思う。思ったことを全て試すだけの時間は十分ある。そのなかで、自分のメニューを増やしていく。もう一点は、オリジナリティについてだ。

 

先生は、ある偉大なヴォーカルをめざして、並んでみても仕方のないことだという。その意味は、最終目的をそこに置いて、いつしか自分の持っているものや、創造性をも無意識のなかで捨ててしまい、技術だけ身につけても、聞くに値するその人の価値はなくなってしまうことであろう。勿論初心者にとっての指針をそうした人々の方向におくことはおおいに認めてのことだろうが。オリジナリティについては今後自分が最も意識し、探索に苦しむことになるだろうものであると、何だか予感する。そうなって当然なのだが。でも意識しないときの方がオリジナルなものであるのではないか、また、初心者であっても、最初から自分だけのものを引き出そうとすることは何より重要ではないか、などと考えた。

 

先生の話は多岐に渡り、全てが数珠つなぎのようだ。正直、これだけ多くの情報と課題をいわれてもひとつひとつの問題に自分なりの考えをまとめる余裕もない。また、殆ど全ての話のテンションは同じように保たれている。一つの話を提示し、必ずそのなかでポイントとなることを投げかけてくる。しかし、なぜ、我々に大きな項目を一つか二つに絞って語ることはないのか。結局こういうことだろう。初心者といっても、我々のなかのそれぞれの段階は十人十色であり、必要としている要点もそれぞれ違っている。ゆえに個人レッスンというものとの区別も生れている。従って我々は、それらの課題のなかから自分に必要なものを選んで考えていかないといけない。選ぶというより、むしろ、直感的に悩んでいる題材が話のなかに一つや二つはあるはずだ。この場所では、自分の課題は、自分で意識化し、先生のヒントを参考に、それでも自分で解決するしかないのだ、ということはわかってきた。

 

また音をとって音をはずしてしまった。まだ、棒うたい。ポイント絞られていない、ピークどこへもってくるかが、はっきりさせて歌っていない。そこまでの力(余裕)がまだ、ついていない。(その前の所でいっぱい歌っている)もっと言葉をていねいに扱わないといけないと思った。言葉に込める気持ち、ことば、そのものの意味、ことばの音色・響き、しいてはフレーズを、聞いている人に届けなくてはいけないのだから。それから、前後のつながり上、オーバーになってしまった所も注意しないと行けない。普通にいえるようにもっと言葉を練習すること。最近はオーバーな感じ(と、いうよりニュアンスが違っているような)が、よく出てしまうので、特に気をつけること。原曲聞いている際、表現を感じながらポイントを捕まえるのは慣れてきた気がするが、それを自分の所で(自分のものにして)出せるようにはまったくできていない。もっと自分自身が、そのことをいう感覚になっていないといけない。体と感覚は、普段と同じ自然体でいたいと思う。そこに、自分の、集中力とテンションをつけて出せるようにしたい。プラス、自分のキー、息のタイミング、自分の動かし方、自分のテンポが、すぐ取り出せるようになることが必要だ。 

 

リズム、パターンのところを注意してフレーズをつくる。その歌をその歌っぽくではなく、自分で自分が感じたものを出す。普段思うけど、伴奏もリズム打ちもなくアカペラで歌ったりすると、その辺のことがかなりハッキリ出てくるのがわかる。自分の声だけでリズムをフレーズのなかから生み出すのはえらくムズかしい。自分でできたと思っても、他から聞くとまったくリズムがちぐはぐのことも、よくあるだろうから、自分でできてないと感じたら本当にメチャメチャなんだろうと思う。音でいうとリズムはどういうものなのか。ドラムやパーカッションのような破裂音や打撃音がリズムをつくるけど、声での歌となると、また、違ってくるから。やっぱりフレーズに入るタイミング、入った瞬間の強さ、だんだん強くなっていく間の時間、そういったものが、グルーヴをつくっていくのだろう。と考えながら「カントリーロード」を聞いていたら、それらのところがすごくくっきりしているのを感じた。フレーズに入るタイミング、その瞬間の踏みこみ、スピード、でそのフレーズをぐぐっと押している感じ、動かすというのはこのことだろうか。サビに入る前はサビがくる予感がフレーズにあらわれる。サビが手前から引っ張ってきている。そして、フレーズの表情はサビで変わる。はっきりと変わる。そうするためにはその必要を感じなくては出せない。ジャズのララバイでは、横の揺さ振りを意識。これも体で感じていれば出せる。いなければ出せない。黒人やニワトリがやっているようなリズムの取り方は何気にむずかしかった。確かにこういうのはフレーズの線をしっかり見てない気がした。余裕をしっかり持つこと。時間が見えるように聞きこむ。アクセントのくるところのタッチをつかむ。また単語(フレーズ)の間の間も重要。一瞬を待てるか。ここの時間を感じる。

 

トレーナーのレッスンは、本来の歌い方やもっと自然に歌うこと、というのはただ流して歌えというのでなく、歌うときはトレーニングのことや発声など気にするなということ、またトレーニングに集中するあまり忘れてしまうような部分を、ふとまた元に戻してくれる。トレーニングをやることによって、歌をすごいものにしていこうとか、そういうことじゃなくて、自分は歌いたい。大勢の場でこういうことを伝えたい、いいたいということをより、強く、よく伝わるためにやる、補強のようなものだと思う。プロの人がトレーニングするのは試合に、よりいい動きや、技が出せるようにするためであって、決してトレーニングを主としてやっているのではないはずだ。そう考えれば、トレーニングはトレーニングであって、決して試合ではないわけだ。トレーニングを極めたって、試合で使えなければ意味がないわけだ。しかし、トレーニングでできないことは試合ではできるはずがない。そのためにもレッスンは試合だと思って臨む必要がある、そう考えると、そこで発声や体の使い方など気にする選手はいない。トレーニングはあくまでトレーニングにすぎない。より自分を高めるため、判断を厳しくするため、ステージでよりよいものを出すだめにやるものだと思う。

 

レッスン(レッスン)は自分のなかでのバランス感覚を保つのに、とてもいいレッスンだと思う。トレーニングをやればやるほど、それだけしか見てないと、すごい大切なものを落としてしまっていることに気づかない。それを気づかせてくれるのが、このレッスンだ。表現する感情を入れるリズムを感じる、音程を取る、など、いろいろな要素があるけど、そのどれもが 突っ走ってもいい音楽になっていかない。いくら表現があっても、音楽的にならず、ましてや伝えるということにはならない。このレッスンでは本当にまた“0”に自分を戻してくれる。気持ちだけ突っ走っている自分を冷静に見直すための、いいレッスンだと思う。自分のなかでのバランスをしっかり保ちつつ、一人よがりを避け、リスナーにはどう聞こえているのか。そういうことを見直させてくれるレッスンでした。より質の高い“0”に戻れるよう、がんばっていこうと思います。

 

「エンドレス・ラヴ」の課題から、フレーズを線でもっていきつつ、そこに強弱と音色を入れていくこと。主旋律以外に、裏メロを体に流して歌うこと、それを歌いながら引き出さないといけない。リズムを大きくとり、出した音色を大きく投げとばさないといけない。リズムを感じた中で飛ばせるようにする。

 

「カタリ・カタリ」の課題から、声をしっかりコントロール(線で持っていく)させながら、情感を出せるようにする。ポイントのある歌い方をし、均等にならないようにする。フレーズ感とスピード感を出せるようにする。・入りの所から深さが取れていない。一フレーズ息がもたない。息の配分が悪い。曲に入ることは出きたが、音色や動きを意図して出せていない。テンション高くなると、キーも高くとってしまってダメ。ポイントがしっかり置けていない流れを意識した分、強弱が出せなくてダメ。旋律とるのが遅い、甘い。

 

リズムについて、ここ数ヵ月の自分の学びの大きな収穫は、何といっても、リズムについてだと思う。アフタービートということに関して、今までは、そりゃ、日本語が解る人は誰でもわかる、というレベルの理解(農耕民族が、とか、裏拍にアクセントが、とかいう書き出しで始まる類いの)しかなかった。自分がオリジナルにたどり着いた結論としては、日本人がアフタービートとは何かを捕らえるときこは「両手にヌンチャクみたいなブラブラしたものを持って、そのブラブラの先ッポでリズムを刻んでみよう」とすれぱ、自ずからわかってくるもののように思う、というものだ。ちなみにそういう言い方でダウンビートをいうなら両手に持つのは短い割り箸みたいな、ブラブラしないものだろう。ブラブラの先ッポで刻まれるリズムは、手先の1拍目かり出たリズムが2拍目にヌンチャクの先で増幅されて刻まれるというような性質のものだろう。1拍目から2拍目の増幅の加速度、その時間差のバリエーションの差やそれを自由にコントロールしていくところが、1度感覚がやどるとやめられないアフタービートの面白さだと思う。その点、割り箸では拍間に差が生まれないから、どうしてもリズムは単調にならざるを得ないと思う。

アフタービート感覚を持った民族が四肢の先にヌンチャクをつけて生まれてくるわけではない。おそらく彼らのヌンチャク=四肢であり、それを振り回す手=体幹であるのだろう。ちなみにアドバイザーの方のうちの何人かの体幹でリズムを刻んでいる姿が、印象的、またあるアドパイザーの方の円をかくようにリズムをとっていくレッスンも思い出される。四肢をヌンチャクのごとく感じるためには、やはり四肢の脱力が必須。脱力しているから重みが感じられ、重いからそれを向こうに投げ飛ばしたり、向こうで打ちつけたりできる。アフタービート=加速度が肝・円運動、ダウンビート=初速度が肝・直線運動、とまとめることができそう。

ダウンビート感覚の人がアフタービート感覚の人と喧嘩するときは(私は争いは嫌いです)、攻撃攻撃の間に充分間を置き、相手の加速を切りつつこちらの初速で対抗するのが得策かと(笑)。自分のトレーニングはヴォイストレーニングにしては、フィジカルなものが多く(もちろんそれは個人的に付け足しているもので、声に関してもブレスヴォイスで学んだことを、毎日やっている)、ひょっとしたら無駄が多いのかな~とたま~に思っていた(ちなみに正中線以外脱力しよう、そしてなるべくカを抜いてしっかり立とうみたいなことをメインテーマとし)が、これでよかったと今は思っている。自分は今四肢の力を抜き重みを感じる感覚をはっきりと認識でき、そのおかげでアフタービートの感覚を自分なりに定義し植え付けることができた(ちなみに友人にヒップホップがガンガンかかっているクラブに連れていかれて、そー、四肢をブン回す感覚で踊っていたら、他のダンサーの人に「どこで習ったんですか」とか「うちのチームに入りませんか」とかいわれて、複雑な気持ちになった。私は歌をやっています)。今まで義務感みたいにして聞いていた黒人音楽も、今では体に読み込みながら大音量で、いつも手放さない感覚で聞いている、やっぱそこはそうするよな~みたいな感じで。

会報に書いてあったトレーナーの言葉「今やっていることは、将来の白分の一部になります」が思い出される。

 

ここの先生方のレッスンが印象的だったり、ピンとくることが多いのは、自分のなかでの専門領域、得意技であることのレッスンであることもあるでしょうが、(しかし大学の教授や講師のなかには、そうでない人が割と多いと思う)。呼吸の器が大きく、その器のなかでレッスンしているということもあるのではないかと最近思ったりする。