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私が出会った夢をもっている人たちは、みんな、今、自分に何が必要かを知っていて、とどまることなく動き続け、年齢なんて関係なく、そして待つことができる。わかってはいてもなかなか、気は焦るし、もがいてしまう。そのことばかり考えてしまい、動きが止まりそうになったり、機を待たずして行動してしまい、去っていくか。できない自分に腹が立つ。でも本当は、何かしたいことがあるのなら、知り、やって、すべてを高めていける。もちろん、待ってはいるきだが、それは必要なものが身につくのを待っていて、でも自分はもうそのものなのだ(たとえば、ミュージシャンになりたくてやっているのは、もうすでに自分はミュージシャンなのだ)。そういう精神を私は忘れていたと思った。時に、ことばにしてみるものの、本当にそうではなかった。
「まだ勉強中だから、プロとは違うできなくてあたりまえ」そんな気持ちはどこかにあった。それが、ステージ実習などには表われていたことだろう。みんながヴォーカリストで、表現をする場であるのに。ヴォーカリストをめざしていて、やっているのであれば、どんなレベルであれ(レベルをつけるのであれば)、ヴォーカリストなのだ。
サンフランシスコで、目のみえないホームレスが、毎日キーボードを弾いて歌っていた。前にその人が、ワンダフルワールドを歌っていたのを覚えていたので、また歌ってくれるか聞いてみたら、それは今、アレンジを考えている途中だからまだ歌えない、また1、2週間後にいってくれといわれた。また私の甘さをみせられた。私が歌うとき、それはアレンジなんてところまでいかず、曲を覚えて、そのなかで表現しようとする。結局、オリジナルにはかなわないし、また別のよさといったものも出てこない。彼らアメリカ人のストリートパフォーマー達(すべてとはいえないが)は、うまくないにしろ、自分の歌として歌っているんだ(もちろん求めるその気持ちの強さで、プロとアマチュアの差はあるのだが)。自分の好きな、愛すべき曲で、共感し、その表現に圧倒され、歌いたいと思う。そして、自分としての表現をしたいと思う。人それぞれ、同じ表現のはずがないもの。そしたらそれを自分のものにし、自分の歌にしなければ歌えないし、なるはずなのだ(またそれも完成などなく、常に追求していくのだが)。
「表現」についても、少しはわかったかもしれないなんて思っていたものが、また甘かったことをみた。今の時点では、前のものが壊された(常に変えられるとはいえ、そのときは自分の精一杯が壊されるのはガ~ンとくる)。
毎週日曜、ゴスペルチャーチへ行った。いろいろなことを経験し、その感情・想いを知り、それを伝えるのが表現だと思っていた。敬虔は大事、そしてそれを自分の心・体が覚えていて、それを再現するということもあるけれど、その前にもうすでにその前に、気持ちの表われ、感情がしぜんにでてきてしまう。表現しようとするのではなく、出てくるのだ。ステージの上で歌っていた人は、みなそうだった。神父さまも誰にもおとらず、そうだった。これを伝えたいと思えば、声は大きく強くなるし、気持ちを込めれば、小さい声にも強さは凝縮され入っている。体も動く。その人の全身から発せられる。本当に思っているその気持ちが、ひしひしと伝わってくる。大物ヴォーカリストの肩書きや表面だけのものに目を奪われて、またあまりにも彼らが私より先に行ってしまっているから、特別な存在のような気がしてしまいがちだけど、同じ人間だし、彼らの表面をすべてとってしまってみえてくるものがあるのだと。そしてそれを感じることができ、自分でも自分が経験し、感じているものが絶対あって、そういうものの原点は、彼らのそれと同じものだと思う。後々は、その熱くなっている自分、ひたっている自分を一歩ひいたところからみれることが必要なのだと思うが、それはまずはじめに、そういう熱さ、爆発があって、その何もなくなった(少し表現が違うかもしれないが)ところにできあがってくるものが「何か」大切なものではないだろうか。「動」のなか、または末に「静」が生まれるのではないだろうか。 また、たまたまそのチャーチに“Higher & Higher”というミュージカル(ゴスペル)の主演のヴォーカリストがきたことがあった。そのチャーチでステージの上で歌っている人にも圧倒されはしたが、本物というのはそれ以上のものだった。ことばにはできないものがあった。ただ、ただ唖然と彼女の世界をみている(私が、観客が)。ほんの数分なのに、場の雰囲気はそれまでとは変わり、その声は振動していく(彼女の専属のピアニストにも、それと同じものを感じた)。
このチャーチ(Glide church in San Francisco)では、耳の不自由な人にもわかるようにと、手話をする人が同じくステージ上にいる。その黒人の男の人は、ただ手話をし、ことばを伝えるだけではなく、全身で語っていた、伝えていた。想いを伝えていた。それが動作に、表情に、オーラにとあらわれる。だから、彼が休んだときなど、他の人がそれを勤めるのだが、彼との差は歴然としてしまう。彼の存在のすごさを感じた。彼にしかできない表現があるのだと。/私は、すべて自分で経験し、感じ、考えなければ、本当にわかることができない。不器用な分そうしなければ、そしてわかりたいのだから、どんなことをしても、時間がかかってもするしかない。やって、待つしかない。いつでもOKの状態でいれるように。
大きいコンサートホールに行くと、鬼太鼓座のパンフを必ずもらうので気にはなっていた、和太鼓の林英哲さんを聞きに行きました。幕開き、とても新鮮なカタルシスを感じてすっとしました。その昔、Discoでの演出された雰囲気のカタルシスでなくて、オナカの底にずしっとこたえる爽快感。まんまんなかの席だったのでボンボン天然ボディソニック。茶髪のお兄ちゃんが体一杯つまびく三味線。彼らがいつ出会い、どう琴線に触れ、目覚めたか知らないが、伝統は自然と継承されていくようにできている。相手の趣味や、財布の中身を気遣うのが重荷で、諦めて最近ブルーノートもひとりで行ったりしたけれど、これなら彼氏や友達を、下手にメジャーな外タレより安心して誘える。ウトウトしちゃっても途中からでも楽しめるし、予習もいらない。
会報に寄せていたエッセイの“血”というのを痛感、ふだん好んで聞いているつもりの音は、これはイカす、かっこいいんだぞうと、ある種、頭で聞いているが遺伝子の理解力にはかなわない。音に魂を込めることを続けた結果の筋肉隆々ビルダー顔負け、男性は啓発されるかも。専門的なことはわかりませんが、このオナカに応える音は、お年寄りや、子供の心理療法に使えるだろうと直感しました。
ホスピスで2500人の死に立ち会った人の言葉~最後の一ヵ月くらいに恐いくらいそれまでの人生が凝縮して表れるが、中に「ありがとう、私の人生はいい人生でした、満足でした」とまとめられる人がいる。これは、苦労の多い人生だったが、エリートコースだったかという客観的な幸、不幸とは一致しない。主観的にいい人生を生きたとまとめられるかどうかだ。まとめられる人は「統合力」のある人。最後にすごい力を発揮して、しっかりした死にざまを見せてくれる。統合力の弱い人は、不平をいってベタベタした死にざまなる。
一番重要なことは、成長し、成熟すること。いろんな経験をして、それらを受け止める度量を持つこと。一に練習、二に練習、でも技術がすべてとは思わないで欲しい。自分のなかにいうべき中身を持って欲しい学ぶことの多くは、オープンに人と接することでもたらされる。表現できるようになるためには、自分が“受け入れる”ことを恐れてはいけない。そしてどうすれば“感情の出入り”というものを自ら使いこなして歌えるか学んで欲しい(メゾソブラノ・スーザン・グラハム)。
永井一郎著「朗読のヒント」
イメージは「目の前の絵」でなく、「いまいる空間」である。暑さ、冷たさ、匂い、風、湿度、音etc.。五感を総動員して現実感を得る。イメージを立体、環境としてとらえ、そのなかに自分を置いて、五感の気憶や情緒の気憶を総動員する。そして架空の世界を現実化する。このとき初めて、からだがイメージを持ったといえる。“細胞でとらえたイメージ”、“景色が見える”のではなくて“自分がそこにいる”、細胞自体がイメージするまで開発する。
人間はプレッシャーに耐えるために、さまざまな鎧をまとっていますが、その鎧が一挙に崩れ去ると、ものすごい集中と強烈なイメージがやってくる。このイメージは肉体に五感の実感をもたらします。
(ボールを)今まさに打とうとする瞬間、投げようとする瞬間に、ボールの通る道がくっきり見えたという経験があるか。精神的には完全に自由であり、肉体的にはリラックスし、冷静な中で強いイメージを獲得する、リラックスと集中とイメージの強さはカラダのなかに同時に来る。
世の中や人間を観察してください。記憶を探してください。役づくりをしてください。日常の気分を持ち込まないでください。日常の気分に逃げ込まないでください。日常の気分を切り替えてください。必要な一定の気分を保ってください。イメージを広げてください。内容を理解してください。その内容と自分の感動を伝えてください。集中してください。
無限のイメージをそっくりそのまま手に入れるには、からだ全体で丸ごとつかみとるほかない。ことばがからだを通過しなくてはならない。
イメージを明確にしてそれを信じ、的確な行動を続けていくこと、つまり架空の世界で日常のようにやれるということ、それが朗読の技術そのものなのです。字はイメージに置き換えられないといけません。字をからだで受け止め音に変えるのです。そのためには体中の細胞がイメージしていなければなりません。
どんな人間もシアワセを追求します。役の人物が何を幸せにしているのかということを探せれば役づくりはほとんど出きたといえるでしょう。
究極の一行を見つけ、全てをそこに追い込んでいきます。
朗読すること自体に喜びを感じるように自分をもって行きます。自分が喜べないものをだれが喜べるでしょうか。
マルコ(母を訪ねて三千里の)が幸せなのは、マルコがきっちり世の中と向き合えたということです。世の中がよかったとか、出会った人がいい人だったとか、そんなことは問題でありません。マルコは命をかけていました、命をかけたギリギリの状況のなかでは、世の中ときっちり向き合っていなければ生きていけません。ひとりでがんばっているうちに、人間はひとりでは生きていけない、世の中すべてとかかわりあって生きているのだということがわかってきます。
集中することで自分を忘れるしかない。
自由を感じているかどうか。
子供でも驚くような集中を見せるときがあります。面白いときと自分のやっていることの意味がわかっているときです。
間は常に結果でしかありません。いい仕事をしたときにはいい間が生まれてくるはずです。芝居や朗読は結果が大切なのでなくて、「進行の最中」、「まさに今」が大切なのです。行動が正しくできれば、間も正しくなる。~ホント人間って悲しいかな、間違いなくシアワセを求めている。どんなに人生から取り残されようと次の瞬間から無意識、反射的に幸せを求めている。酒飲んでくだまいて、嫁さんぶん殴っている最中も幸せを求めている、今まさに首をつろうとしている瞬間にも求めているのは幸せだ。何を幸せとするかがその人を一番よく表わす。何にお金使えるかもだ。自身を理解するにもだ。世間でいうところの幸せで満足しきれない、個というものを持っている。だからばかみたいに手間ひまかけたりetc.できる。ことの起こるのを見た(体験した)人は、多少言葉が違ってもみんな同じことをいっている。そのときどきにふとふれあう先達の言葉はキラキラして露に濡れている。
最新の本で、また違ったスタンスとか言葉で、同じことを述べられているのを読むと、レッスンや会報のニュアンスとか角度が違って、いくつかのことでは、ああそうかとクリアになった気がした。一つに握ることとか、tume・TAIとか、言葉の5音とか10音とかどれにもなんでのっているのか、なんでやるのかってぼんやりしてたことが納得できた。
現実の人生を、物語の虚構と殆ど同じ振り幅で生きた人のことをどうやって云々して、自分と接点つけたらいいっていうんだろう、せいぜいストーリーに薄っぺらい感傷を寄せるのが関の山なくせして、いったい自分は何が必要だというんだろう。自分、自分って自意識の固まり。いやらしい。そんなもの一切なしで暮らせばいいんだ。何の資格もない。ドラマもない。空腹も戦争も至福も誕生も。生も死も。過去も現在も。つきつめるべきものはというより、そうせずにいられないもの。生の証がない。退屈しなかった、今まで見たなかで一番よかった。期待してたというのもあるけど、何度も鳥肌がたって目頭が熱くなった。哀れな道化師の歌、小柄な体にベタグツで体をゆらしている。キレイな振りとかでなく、本能に身をまかせている感じが狂気を表現している。トウシューズのダンサーやらも出てきて当時のステージ興味深い。
晩年20才年下の夫を得る、子供のように笑う。年齢をこえて、会ったなり人を感動させる無垢が彼女のなかに住んでいる。何度も何度も恋をした、与える、ひたすら与える、なんでそんな懲りずに何度も無防備に人を愛せるのか、与えられるのか。だから歌の世界で息吹をこめることができる、色を添えられる。もろくて強い。声すごく気持ちいい、大好き。(昨今のディーバ達のクリスタルボイスはどんくさい私の耳にはややもするとみんな同じに聞こえるし、胸ぐらをつかまず、自家用飛行機のように頭の上をブーンって通りすぎてしまう)。とてつもなく体強い。胸にバーンってぶつかって全身に響いている。小さな体が吹き飛ぱされそう。絶対に割れない魔法の陶器で出きたシンバルが胸のところに入っている。心地いい。音色の情動のせい。声にも華のあるなしがある。不幸や怨念やもののけも艶に化ける。何だろう。何なんだろう。10何年か前、セルビデオが出回り始めた頃、阪急イングスでとても高かった印象がある。売り場で手に取ってたということは一応名前は知ってたということだ。そういうのに興味あったのかな。もちろん今じゃ廃盤で手に入らない。今持ってれば貴重な財産だったのに。
声が足りないから、たぶん息かなとか、小さい声を出したいから息を流しておこうとか、あくまで予測するだけであって、ほんとうは息を聞くことができないのがすごく悔しい。ノリキで大音量で聞くとき、伴奏とヴォーカルの線というのは見えても、らっぱの形見えてない。あるときふと見えるときくるんだろうか。息の線、声の線、姿を現せ。それかたとえばひばりさんみたいに、一曲って絵を色的に直感でぱっぱととらえて、結果的にフレーズを線でとらえられているということ、情感を色、音で出してみせる感性。歌詞の示す情感に本能的にイメージという色を重ねていく、がれきの山をはこびこむ、荷物を持ち込む、桃太郎でいえばきびだんごの分配がうまいというか、歯磨きするときにはさっと歯ブラシを差し出し、ラーメン食べるときにはさっとコショーが出てくる神経。おそらく尾崎紀代彦さんあたりだと自分でも線を自覚していてF先生がおっしゃっているようなことが説明できるのではないか。NHKを見ていて、森進一でも岩崎宏美でも西田ひかるでも、みんなシンプルにまっすぐ歌ってて、まったくややこしい小細工はしてなかった。まっすぐ出せないのなら力不足なのだから、器をつくるべくトレーニングすべき。なんか紺のワンピースに身をつつんで舞台のまんなかに立っている西田ひかるがやたらまぶしくうつった。
人をふわっと包む何がしかのきらきら。
ジャズシンガーの綾戸千絵さんは抗がん剤の副作用よる筋肉疲労で声帯剥離という不幸に見舞われた。神戸でのライブで突然、息もれがするようなかすかすの声になった。今でも、腹筋と胸筋を使い、胸のところから出してるから出ているのだという。リスナーのなかにはかえって味が出てきたといってくれる人もいるが、やはり従来のような高音部には届かない。で、悟ったことは、音程をうたうのではなく、歌詞を歌うということ、音程は楽器が出していてくれている、自分の分担は歌詞を伝えるということ、♪The sky was blue~ス・カ・イのカの音には届いてないのだけれども、skyという絵が届けばいいのだということを実際にやってみせてくれて(テレビ)、眼の前が開ける気がした。17才で単身渡米、まだドルも高かったろうと思う。17才の女の子が敢行できた強さはなに。17才で自分の欲しいものしっかりと見えてたの。一人息子をかかえて33才帰国。乳ガンとの戦い。40才デビュー、はあ~溜息、感動、嫉妬まじり、大違い、いっかいのミーハーなおばちゃんになる私。歌えないどうこう、落ち込むのへったくれというより、ひとり息子のイサ君をなんとかしなきゃという母は強し、愛情の対象があることでの生きる強さを感じた。トークも大阪のおばちゃんやるウ、クスリやってんちゃうかと見まごうパッションの高さは、幾多の人生乗り越えてきた自信がもたらしているんだよな。あの歌声、その笑顔でたくさん、たくさんの人が勇気づけられた。いっぱい、いっぱいの人に愛されているのだこの人は。両親がジャズやMGMのミュージカルを好み、生まれたときから横文字文化のなかで大きくなったという。小さい頃の環境。へこみっぱなし。今更の付け焼き刃で何をどうする気。でもそういうぶっ細工な人のためにブレスヴォイスはあるのだろうか。(まったくちゃうって)。奥の深さを感じること、世界が広がること、彼(その世界)と寝ること、変化を感じることはエキサイディング。神戸在住の綾戸さんに私も大阪弁でかえそう、おおきに。めっちゃ面白かった。
サリナ・ジョーンズにもう一度挑戦してみた。(大阪ブルーノート)。サリナやディオンヌ・ワーウィックあたりのCDを聞くとき、軽く聞こえてしまって読み込むことできないし、体の差、民族の差のせいにして、やっぱりダメだってその昔、日本人は歌えないという救いがたい極論の持ち主だった。レコーディングのときはライブより軽く歌っているというのもあるかもしれない。予想通り、ほんの少し空席もみられた。ブルーノートも今はスタンダードより、多彩なジャンルで、はやりものをやっている。一流といわれる女性シンガーには、共通して感じられる声質が(陶器的な)東西問わずある。確かにしっかりした声のしん、胸のところにスーパーボールが入っているみたいだ。恐るべし体の自由さ。どこにもいらんカが入っていない、どこにも余計なところに声があたってない。ラクに歌っているが下半身というか、オナカすごく踏ん張っているんだろうな。英語力がなくてギャグが飲み込めずくやしい。ごちゃごちゃ終えて戻り、鏡を見るとすげえやつれたおばはんがベティちゃんのTシャツを着ていた。美輪明宏のシャンソンまでいくと、若いときは美人で売れっ子のキャバクラ嬢で店の外に行列ができたけど、今じゃ、誰も指名してくれない、若いコに煙草の煙をふきかけられるの~みたいな歌ができるけど、もっと凡人のライトな不幸感をスキャットこしたらどんな歌ができるかなと思った。
私は役者をめざしているけど、その理由の一つには、人として生き、それをとことん探り、自己を見つけたいということがあるのだけれど、このままではニセの自分を演じているだけで終わってしまう。演技はある意味、虚構だけれども、演じる者が、心から生きているから虚構にさえ心が宿る。でも私は今、虚構であり、今の私からはただ、心の宿ってない虚しさしか生れない。いいかげんに起きろ。でなきゃ一生寝ていろ。これからは「素」の自分を、そして感情を思い切り出し、素晴らしい存在であるはずの「もう一人の心の私」を引き起こすのが最大の課題だ。・上記に長々と書いてしまったけれどここでのレッスンは、それくらい私の頭を「ガアン」となぐってくれる。なぐられっぱなしでは終わりたくない。研究所を思いっきり「ガアン」といつかやってやる。
今までの人がどうやってきたか、今生きている人がどうやっているのか、をよく見る。・初めの頃、すごく大事にしていたことで今忘れ勝ちになっているのは、声を出しているときに“感じている”ということ。それを放り投げるということ。イメージの世界をつかまえて、それを飛ばすということ。今は声を出すことが特別なことではなくなってきて、いつもやっていることがキカイ的になるようにキカイ的にただ声を出していることが多い。前はもっとイメージをつかむってことにエネルギーを使っていたと思う。ゆっくり深呼吸をしてみたり、しばらく目を閉じたりもして。声や息や体は条件。それをつくることが目的なわけではなくて、経過にすぎない。表現しようとして心を目一杯使ってもそれができないから、いろんな条件を整える。だからあるものを最大限に使うこと。自分と同じ声や体でもっと歌えている人がいると考えればいい。でもそれはあると思う。体もそうなのだけれど、心とか感性の方は更にもっと使えてないし、磨けてないような気がする。
最近、感性や表現力のことについての本を読んだときに研究所と大体同じことが書いてあって、改めて大事なんだな、と思ったのは1.よいものをたくさん聞くこと。2.話すこと。自分のフィルタを通した言葉で、自分感じたことを表現すること。3.書くこと、の3つを習慣にするといい、とあった。・それにしても今までのアテンダンスを読み返したりすると、かなり「書いただけ」のものが多い。たまにしっかりと書けているのもあるけど。書いてよかったと思えるものを書けるようになりたい、と思った。
Charles Aznavour 歌を聞いて
私は悲しい歌は泣くように、心の叫びのように歌えば悲みを表現できるものだと思っていた。なぜなら私の“悲しみ”はいつも(日常生活において)泣き叫ぶような、吐き出すようなものだったらだ。しかし“悲しみ”は、私の経験を振り返っても、残りの20%くらいは、「悲しすぎて声が出ない」、「なぜか悲しくて涙が出る。理由もないのに」、「これは怒りか悲しみか、いったい何なんだ」、「悲しすぎて何もしたくない、呼吸すらしたくない」、「せつない。せつなくて涙が出る」、「幸せすぎて悲しい」etc.。きりがないが、「悲しみ」は1つではないはずだ。彼の歌は悲しみを叫ぶわけでも「悲しい、悲しい」と泣く訳でもない。それなのに、悲しみにあふれていた。彼は私に「悲しみ」は1つではないというあたりまえのことを教えてくれた。これは歌を歌う以前の問題で自分のなかでの精神変化でもあったのだが、「悲しいときはこう歌い、明るいときにはこう歌う」という私の勝手な決めつけがよい意味で壊れた。
日本語と外国語の同じ曲を聞いて「日本語が音楽的ではない」とよく聞いてはいたが、どういうことかわからなかったが、その半分くらいはわかったと思う。要するに“捨ててもいい音符(その方が美しい)を日本語は捨てられない”ということ。何をいまさら、本でも沢山いっているし、録音も渡して聞かせているじゃないか、と先生は思うと思うが、そういう意味ではなく、本当に体で「わかった」と思ったのは今日の歌だ。タイトルは忘れたが、「だけど~だけど~」というような歌で、日本人がヘタだったせいか、日本語だとノリも悪く、まとまりも悪く、間のびがしているようで、ベタベタした感じでうまくはいえないが“音楽的”ではなかった。こういうことだったのか、とビーンと頭で鐘が鳴った。
私はミュージカルをめざしているせいで、よく同じミュージカルCDを、日本語、英語、ドイツ語で聞くが、今まで多少違和感はあったが、それほど日本語がとりたてて音楽的ではないと感じなかった。なぜなら、日本ミュージカルほどではないにしても、ミュージカルの歌い手は音符を捨てたりすることはしていないような気がする。“音楽的美しさ”より“言葉、セリフをいえる”ことを重要視しているようである。今まで聞きくらべて気づかなかったのは、英語でさえ、ミュージカル音楽は“音楽的美しさ”がないのではないか。話はそれたが、美しい処理とは音楽的とはとつっこんで考えると、またわからない。ここのところ、もっと勉強していきたい。
「シュマイエルの不思議な世界」
これがただのお使いじゃない、暗く恐ろしい地下室へ女の子が始めていく物語である。暗い地下室を懐中電灯を照らしながら歩く、地下室は地下室と呼ぶには、あまりにも広く、その広い地下の空間に部屋を持って暮らしている何人もの人間がいた。女の子は恐る恐る部屋を覗くと、何と石炭をベット布団にしているおじさんや、石炭の粉を卵に混ぜて料理をしているおばさんなどがいた。どうやら地下の人間は石炭を使った生活を送っているようだ。(あまりにも現実離れしている)女の子はあっけにとられながら、目的の部屋まで足を進める。女の子は紙に書いてある番号と部屋にある番号を確認し部屋に入る。お使いであるじゃがいもをバスケットケースのなかに一握りずつ入れる。二握り目のじゃがいもを入れようとしたら、最初に入れたじゃがいもがバスケットケースのなかにない。不思議に思いながらも二握り目をバスケットケースに入れて、もう一握りを入れようとすると、またじゃがいもがなくなっている。じゃがいもはなんと、彼女のスキをついて生きもののように逃げ出していたのだ。しかたなく、一握り分だけバスケットケースに入れて急いで部屋から出る。通路にはバケツが暴れていて女の子のお使いを拒んでいるようだ。女の子は地下には、もういられないと思い走って1階へいく階段に向う。黒ネコが女の子を親のかたきの勢いでライオンのように追いかけてくる。やっと階段にたどり着き、あわてた女の子は階段でつまずいてしまう。じゃがいもがバスケットケースから地下室へ、逃げるように落ちていく。黒ネコは静まり、地下室の怪しさもなくなる。空のバスケットケースを抱えて、女の子はまた、地下室に行く。文章を書いていて気づいたのだが、地下室の怪の雰囲気を文章で伝えるのは難しい。それは前の2つと後の4つにもいえることだ。そのあたりは今後の自分の文章力の向上に期待して、今いえる感想は積極的に書きたい。3.はただ怖いという感じではなくて、怪しいという所をうまく表現している。女の子の妙に落ち着いた雰囲気と、たんたんと進む地下室の空気がぴったり合っていて、まことにシュールなのである。お使いというシチュエイションにこれだけの要素を込められるのもすごい。10分弱の短い映像でここまでわかりやすくわかりづらく、人を引き込めるパワーは恐れ入る。4.かくし穴と振り子・振り子のギロチンが時間が経つにつれグワングワンと大きく音を出して男(罪人)に迫っていく瞬間は、ギロチンで死んだことがない人でもゾッとする。(皆そうか)男がギロチンから逃げられてからの行動も、全て手のなかで躍らされていたので、その深い悪魔のような集団はげ現実離れしたシュールだ。最後に登場した魔法使いのような男が、男の人間的行動を見通していたかのような登場の仕方をしている。映像で神を見せている。彼の映像ワールドにはハッピーエンドという言葉は必要ないのか。ストレート勝負な所は本気でストレートである。その自分の真剣さが彼のアーティストとしての味なのか。まったく中身を見せない人間だ。5.男のゲーム・サッカーのサポーターの心理世界を楽しく描いている。その楽しさが一つの映像として伝わるのには音楽(BGM)の力が大きい。彼のカット割りがどんなに生々しくても、得点したときのさわやかなBGMが楽しい気持ちにさせてくれる。人間誰もが、スポーツを見ているときに、熱くなっているときの心の内面をうまく表している。その上手さは冷静にブラウン管を見ている男を一見無駄のように撮っている所にある。あの男の普通の感じが内面での生々しさのギャップの位置にあり、実際にそれが自分達のスポーツ観戦のあたりまえの風景なのである。シュワンクマイエル氏は現実と非現実のコントロールにすぐれている。素人でも苦労人でも楽しめる映像の技術はむしろ、魔法である。そしてタイトルに嘘はない。彼の見せてくれた「男のゲーム」は見る人の脳裏に共通する、決まった何かを巧みについている。開始10秒でその世界に引き込んでしまうエネルギーは見習うことが多すぎる。6.闇、光、闇・人間が足りないものを欲していくエネルギーには恐れ入る。自分に足りないものを知ったとき、昔の自分の心は闇に変わっていった。とにかく壁の厚さを感じ無力な自分を奮い立たせることはできなかった。そして自分で下手くそな理由をつけて、自分で自分の成長を止めていた。自分は言い訳をいうことに関しては天才だと思う。それは今でも変わらないが、昔とは違う。今は壁を知ることによって喜びを感じている。昔の自分が闇に感じたことを少しずつだが、光にしていけるようになっている。光と闇は常に同じ空間にいる。自分でコントロールして進む道を作っていかなければならない。この映像の最後は自分の欲したものをくっつけ過ぎて部屋で身動きできなくなってしまうという結果だったが、自分は得てきたもので、自分が大きくなりすぎたら、小さいマイルームは壊して、新しい部屋を大きく大きくつくり、暮らしたい。愛のない部屋はいらない。7.対話の可能性・永遠の対話。全ての道具がゴチャゴチャに一つに合わさり、合わさった物体がまた別な物体と合わさっていく。それをひたすら繰り返すことによって人間が生まれる。自分達の根本的行動は対話にあることを知れる。自分が生きていく上で必ずものと対話している。たとえ寝ていても、パジャマや布団と対話しているし、全裸で寝ていても、床と対話している。人間は物体には嘘をつけない。それだけ自分が生きていく上で影で支えている、気づきもしなかった皆に感謝したい。人間は絶対に一人では生きていけない。全てのことを愛したい。・情熱的な対話・人間の体がキスをしたら相手と一つになり、互いに求め合う。この映像はとてもシンプルだったが、それだけ自分に与える影響は大きかった。人と接することは熱くなればなるほど、絵になる。これだけ自分の気持ちをストレートにぶつけられるのは気持ちがよい。自然に人のこと、自分のことを考えれば二人はより、真実に近づけると思う。真実、これもまた、よくわからない。恋愛は別に女性だけではない。(自分がホモセクシャルだから、というわけではない)普段何気なく接している皆に、今より少しでもいいから、情熱的に愛を込めたい。・不毛な対話・自分のいいたいことが人に伝わらず、話している相手も何をいっていいのか困っている。言葉という道具は、便利だと思うが、不便に感じるときもある。考えてからしゃべっていると口から出たことが嘘に感じるときもある。もっとスレートに暑苦しいくらいの直球を投げてやりたい。赤ちゃんの泣き声みたいに空間をパッと変えてみたい。想いは募るが、今日もまた、自分は不毛な 対話をしている。情けない、言葉も出てこない。いつも布団で泣いている。人間の親切、愛情の空回りを、いやらしく表現していた。楽しかったです。勉強になりました。とかの言葉が先にくるのだけど、今日は自分の気持ちにストレートに楽しんでしまった。見ている人間の根本をくすぐる彼の映像マジックは必ず人の心を引きこんでしまう。人を巻き込む、大きな世界を作れるように自分も研究したい。今後の自分の活動につながる大きな作品だった。
「ジャズ」というジャンルは「大人の音楽」という勝手な先入観があって「むずかしいんだろうな」と思っていたけど、すごく自由で楽しかった。一番最初の楽器だけのはやっぱ、老若男女の歌手が皆で、マイクをとりあって「どうだ」ってやっている感じというか、楽器がまさに歌っているようだった。ジャズもわかりやすいというか「ノリやすい」ジャンルだったというか、一定のビートがあったんだ。(昔はというのは、ちがうか。今も残っているジャンルなので)マンボがジャズから派生しているとは思わなかった。私がさっぱりわかんないのは、モードとフリーという2つのスタイル。特にフリーなんて、「ドリフか植木等の「コケる」ときの音楽だろ、コレ」ってしか思えない。それをずっと聞いていると頭おかしくなりそうだった。それが、なぜ、音楽として確立しているんだろうか。しかし、一つのジャンルでも、これだけ新しいことが成されて、変わっていくんだ、ということは面白いと思った。ちっぽけなことしか見えなくなっていたけど、そういう音楽の歴史みたいなものも興味ある。しかも、私は「ジャズ好き」かも。あとサラ・ヴォーンが、スキャットしているときの声や音質と、そっくりならっぱ(何ていう楽器の音かわかんないけど、とにかく吹くやつ)の音があって、サラ・ヴォーンってマジですごい楽器だって思った。「枯れ葉」という一曲で、こんなに遊べるんだ。音楽って不思議で面白い。すごくぼんやりしているけど、なんだかちょっと「謎とき」のヒントがあった気がする。
BVクリスマスライブ
大きくて深い川があったとして、でもその川は離れてみると、穏やかな川で、どれくらい深いのかとかはわからない。でも川のなかに入って水面の下にくぐって見ていると、外からは見えなかった、広くて深くてきれいな川底の様子だとか、力強く動く水中の生きものたちを見ることができる。そしてそれは外から見たときの川のイメージとはあまりにも大きな違いがあるので、見た人は「こんな世界があるんだ」ということに、たいそうびっくりする。水面の下にくぐってみるのはむずかしいけど、上手になれば、そういう世界をのぞいてみることができる。そんな川を歌のたとえにすると、今回のライブで、その水面の下を覗き見た瞬間が何回かあって、その一瞬、歌っている人の心の振りがものすごい大きさ、強さで通りすぎいくのを感じた。私の気分が敏感なとき、あるいは聞き方がもっとうまくなれば、その一瞬はもっと長く、その感じを離すことなく吸いついていくだろうと思った。クリスマスプレゼント、ハーモニーも、ちょっとかなりものすごいインパクトでもあり、気持ちよくもあり、よかったです。最近はユニゾンもハーモニーも、の面白さというのを、ときどきすごく感じます。
力を抜いて気楽に歌っているように見えた。声を柔軟に操っている。体の動きも自然でなめらか、軽快、しっかりと地についた声、しゃべっているようだ。共産党員として平和主義を唱えたという、歌い手で政治なんて、めずらしくないような。国際情勢の厳しい中、中止にできたはずのソ連公演にいく。勇気があるねぇ。東西対立の時代、その解決の糸口を歌に求めた。歌う歌を決めたりするために異常なほど慎重だった。振りなども細かく決め、一度決めると守り通す。好きでない歌は歌わない。宣伝が下品な歌はたとえ大金を積まれても歌わない。成功し、大人になってからでも舞台の前はあがっていたという。緊張を表に表さないように努力していた。でも始まりの拍手で安心する。彼の真剣さが客を魅了し、感動させた。仕事熱心で、仕事は遅いがよく働くまったくの職人、リズム感はないが、妥協はしない、天才では決してなかった。「私は私、それが全てだ」こんなセリフ、自分で心の底から納得していってみたいねぇ。
のどの7つの大敵 1.乾燥(濡れていること、うるおいが大事)2.ほこり(細かい粒子が声帯を直接刺激する)3.たばこ(お酒)(のどによいわけがない)4.咳、くしゃみ(声帯の血管が切れることもある)5.疲労、肩こり(声帯は肩のすぐ近くにあるので、もちろん影響を受ける)6.鼻づまり(共鳴の1つが通行止め)7.長話(しゃべりがよいってもんじゃない)
ヒヤ マイ シャンソン
シャンソンという歌の熱き伝統を感じた。フランスの国民性がとにかく強い。サッカーでも自分達の国のプレイスタイルをシャンパンサッカーといったり、ラグビーでもシャンパンラグビーといったり、そのどこから生れてくるのかわからない自己顕示欲の強さには、プライドが高すぎて何か嫌な感じを持っていたけど、シャルル・アズナブールが「英語がいくら世界から入ってこようとシャンソンは守る」この言葉には何の嫌味もなく、その自分の国に対して誇りを持っている気高さには感動して頭が上がらなかった。「いくら英語が入ってこようとも日本語は守る」というヴォーカリストが日本に何人いるだろうか。正直、自分は胸をはってこの言葉はいえない。そこまで日本という国のことを真剣に考えたことがなかったし、自分はまだ修行中の身だというニュートラルな気持ちから、日本国民としての自信は生れてこなかった。すごい歌を歌う人は必ず何か大きなものを背負っていて、それがあるから歌うという自然の摂理のようなものがあることを改めて知ったし、それがない自分は何か理由を作らなければいけないなぁと思った。おっとまずい文章を書いてしまった。“理由をつくる”のではなくて自分にも何か大きな理由があるのだけれど、それをまだ文字として文章として表現できないのである。だから変に、その当たりで気負うことはない。変に作らないで、あくまで自然である。それは歌でもステージでもなんでも一緒だ。
エディット・ピアフのステージは変に作っていなかった。むしろつくる必要もないし、何というかステージに彼女自身それだけが出ていた。衣装も地味な黒一色だし、顔も美人ではないし、外見でステージを持たせられる要素は殆どなかった。唯一上げるとするならば、歌っているときの表情と伝えようとする姿勢くらいだった。そしてステージにあるものは彼女の声だけだった。声一つでステージを確実に持たせられる人間離れした声のパワーがあった。声は決して美しい声でなく、女の人の声とは思えないような、パッと聞いたら悪声なのだけど、とにかくわけのわからないものすごい声がガンガン、ガンガン、自分の耳に入ってきた。ピアフの声を聞くと人間の声の表現の幅の広さの勉強になる。こんなことしていても、伝わるのか、どういう気持ちで彼女が声を出しているのか、気になってしょうがない。人に伝えようとする気持ちがあれば、美声、悪声、音域、そんなものは全てフッ飛んでしまう。そして、その人の真実の言葉が世界中の人の心に3分間の金縛りを与えてしまうのだろう。人様の時間を奪ってしまうヴォーカリストのパワー。恐ろしいと感じています。それは超能力ではなく、目の前で起きている自分にとって一番新しい真実である。自分の歌に本当に足を止めてくれる人、時間をくれる人、巻き込めるだけ本物の人を巻き込みたい。
“ETVカルチャースペシャル「能に秘められた人格、最新技術が解き明かす」”という番組。
ちょうど今私がとても興味を持っていて勉強している内容だったので、格別の興味を持って見た。能演者の、とても有名で一流らしき人(名前は覚えていないが)が能の舞台において悲しみの場面を演ずるとき、どのように悲しみを表現するのか、ということを脳波や呼吸などの面を科学的に分析していた。顔の表情は面で覆われていて、もちろん表現には使えないわけだ。その役者に面をつけずに悲しみの場面を演じてもらう。表情に何の変わりはない、外見的な変化は一つも見当たらない。そこで呼吸を調べてみる。腹と胸に測定装置をつけて測る。その能演者は幼少の頃から能の世界でやってきて、今まで何十年も精進を重ねているのは当然だ。もちろん呼吸は大きく深い、腹のほうが胸よりも大きい、一定のリズムで呼吸している。しかし、悲しみを演じはじめたと同時に呼吸が腹、胸ともに大きく揺れて、一定ではなくなった。つまり彼は悲しみを外見的、表面的なことではなくて、体の内部、奥深く、呼吸で表現しているのだった。視覚的には何ら変化はないのに、なぜ、悲しみの表現が伝わるのか、その秘密は、体全体を使っての、こて先ではない、奥深い呼吸にあったのだ。そして次に脳のどこが働いているのかを調べてみる。普段、普通のときは理性をつかさどるといわれている前頭葉が活発に働いている。が、しかし、悲しみの演技を始めたとたん、前頭葉の動きがぴたっと止まり、感情をつかさどるところ(名前は覚えてない)が活発に動き始めた。彼の記憶を自発的に呼び起こし、その感情が身体の感覚に伝わり体全体が悲しみの状態になり、呼吸の変化をもたらしたというのだ。これと対照的な実験として、女優の樹木希林が同じようにやってみる。彼女は冷静な自分がいてその上で悲しみを表現しているのだという。彼女が悲しみの演技を始めると、表情が“悲しみ”に変わり涙がこぼれはじめた。これを同じように脳を調べてみると彼女は悲しみを演じているときも前頭葉が活発に動き、理性的で、冷静であるということがわかった。能役者は頭で何も考えず、感情、全身、呼吸で悲しみを演じてみせた。一方彼女は、頭で表面的に表現している、ということになるのだろうか。これがF先生のいう、口先でやるな、とか体が動いてないとかいうことなんだろうなぁとも思ってみたりした。この能役者は毎日のトレーニングによって周囲の環境に影響されずさまざまな感情を表現できるようになったのだそうだ。そのトレーニングの柱となっているのが腹式呼吸、丹田呼吸らしい。深い呼吸は精神的安定をもたらし、集中力、思考力の向上にもつながる。もともと日本というのは「肝」の文化だそうだ。たとえば弓道においては、西洋のアーチェリーなんかとは違って的に当てりゃいいってもんじゃなくて、弓道場に入ってから弓を移動し、姿勢を整え、矢を添えて矢を放ち、道場を出るまでの一連のプロセスに大きな意味を持っている。これらの動きは全て呼吸に合わせて行われるという、ボンボンと矢を放って的に当てるのではなくて、つまり精神と肉体・呼吸との一致ということだ。それが弓道において最も重要ではずしてはならない部分だ。もともと東洋はハラの文化だそうだ。インドのヨガの腹式呼吸であったり、中国の気功であったり、確かにいわれてみれば、そんな気もする。そんな中で日本で武家社会のなかの武士道という特殊な時代においてすぐれたハラを身につけていったのだそうだ。昔は能役者や武士だけに限らず、一般の庶民も自然と深い丹田呼吸を身につけていたのだという。それがここ最近、60歳以下ぐらいの人達から段々と失ってきているのだという。そこでこういう実験があった。14歳の少年と60代の男性のハラと胸の呼吸を調べてみたのだ。中学生の少年は胸・ハラとともに60代男性よりも浅い、そしてまったくといっていいほど、腹式呼吸をしていない。深呼吸時にはさらに結果が浮き彫りとなる。60代男性は胸・ハラともに大きくなったのに、少年は胸だけが大きくなり、腹はまったく動いていない。こういった現代における若者の浅い息は、すぐにムカツイたり、キレたりすることにとても関係があるそうだ。そして姿勢の悪さにも関係するらしい。深い呼吸をしていると器の大きい人間になれるという。嫌なことかストレスに出会っても、受け入れられる。しかし浅い呼吸をしている者は、そういったストレスに直面すると器が小さいので溢れ出し、現実を受入れることができず、頭で考えることをやめ、言葉でのコミュニケーションに一切耳を貸さず、暴力的になるという。名前は忘れたが、ある神経回路があって、それがないととても攻撃的になり、狂暴になるそうだ。ネズミの実験で、大きなネズミと小さなネズミを同じケースに入れる。初めは驚き、戸惑うが、後は少しも気にかけずにいる。次に、大きなネズミのその神経回路を手術でとって、同じようにしてみると、大きなネズミは小さなネズミにかみつき、攻撃を止めようとはしなかった。この神経回路というのがそしゃくや深い呼吸によって発達が促進されるというのだ。現代の日本人はかつて持っていたすぐれた身体意識や深い呼吸を失っているのだった。これは本当に大きな損失だと思う。小学校から「呼吸」と授業をやればよいのに。これらの身体意識や深い呼吸、等のことについて、日本人のとてつもない身体意識の退化を訴えている高岡英夫氏や先生の考え方、理論と共通する点が多い。今や“にぶちん”が多いこの世の中、私も早く“にぶちん”から抜け出そう。
歌・言葉・声・呼吸について、トレーニングの考え方で、今までとは少々違った視点も設けられている。今までは、「体を使うんだ」、「一つにするとは」、みたいに、入口から追いかけていく考え方が主流だったが、最近は「とにかくしっかりいえれぱいいんだ。しっかりいえているか」、という出口から追っていく観点も盛り込んでいる(というかずっと前から盛り込んでいたんだろうけど、それが意識されるほど前面に出てきたといおうか)。そして一回一回の声・言葉について、今のは駄目、とか今のはヨシ、駄目なときはなぜ駄目だったか、なぜよかったのかをつきつめる、どの入口において間違っていたのかを徹底的に考えるようにしている。駄目なときとよいときの線引きが自分のなかでかなり明瞭になってきた。フルース・リーが弟子に、「もっと速く蹴るにはどうしたらよいでしょうか」と聞かれたとき「簡単だ。もっと早く蹴れ」と答えたという話を思い出す。
駄目なときの多くは、やはり呼吸が伴っていないときだ。息を体のどこで吐くか(というか吐かれているか)、それがビシッと定まっていないとき、駄目だな~。またその息吐きの中心がいわゆるタンデン近くになってきたことはよいのだが、その中心が変わったときに今までできていたことが一度できなくなることがやはりあって、その瞬間、やっぱりちょっとブルーになってしまう、もうなれたけど。早く呼吸の中心をビシッと定めたい。逆にいうと、呼吸がしっかりできているときの声や歌は自分でもかなりごきげんである。ともかく、呼吸の器を本きくしっかり持つことに全力を傾ける。常にそれを出せるように。
周辺的事項だと思ったが、何にせよいい仕事をしたかったら、呼吸を伴わせることではないかと思う。数人で議論したり話し合ったりするとき、ま~自分はそんなときも頭の少なからずの部分で声や言葉や歌のことを考えているわけなんだけれども、常に自分の呼吸を保ち、発言しているときも自分の呼吸を保つことが(しかし自分の呼吸の器は、常に伴わせるにはまだ小さいらしくちょっと変なしゃべりかたになるときもあるのですが)大切ではないかと思う。呼吸を保っている間は頭も働いているから、どんな不測の質問や、議論の流れになろうとも、そのときの自分の知識、考え方を余すことなく発揮できることに気づいた。