レッスン感想
ーー
レッスン感想
プレBV座
クリスマスライブ
ーー
レッスン感想
ヴォイストレーニング・輝く星に心の夢を祈れば叶うでしょう。
自分のフレーズをつくる上での過程がかなり雑だった。初めから言葉でいうときに大きな声で始めると、イメージがよほど明確じゃないとすごくワザとらしく聞こえてしまう。大げさな下手な芝居か、逆にただの棒読みかのどちらかに偏ってしまう。まず初めにやるべきは、普段の話声くらいで、ベンチに座ってとなりの誰かとおしゃべりしているような感じで、できる限り自然な感じをつかむ。この感覚を覚えておいて、次は教壇に立っている熱血教師になったつもりで生徒達を説き伏せている自分になる。そうやって自分の立っている場所を広くイメージしていく。これを今日、学校の空教室でやってみたら、案外うまくいった。教壇に立って机に手をついて反対側の壁を見ると、何か偉くなった気がしておもしろいと思う。
言葉でうまく表現できたと思ったら次は詞にメロディをつけるが、どちらかといえば言葉に音符が付属している感じで、メロディやリズムをなるべく強調せずにやってみる。言葉でいうときのように声になるポジションがガクガク変わらないことを確かめながら行う。大体の場合、体の使い方を手抜きして息が引っ込んでしまったりするからガクガクなってしまうのだから、普段の会話で使っている体の動きは最低限するようにする。メロディをつけてみたとき「輝く」と「いつか」がいいにくかった。「輝く」は音程がオクターブ上がるので言葉にガーッと集中していると引っかかってしうまう。「いつか」は、その前の「祈れば」を一番盛り上げようと思ったのだが、そこで思いっきり体を使うとすぐ準備しないと「いつか」に間に合わないと感じた。後このフレーズは高低の音域が広いことにあまり注意していなかったことを反省すべきだ。出だしでなるべく大きく感じようと思ってかなり高い音程で入ってしまったので、一番気持ちを強めるべき「祈れば」に声が届かなかった。さらにいけなかったのは、それでもそのまま突っ走ってやり終えればいいのに、途中で切ってしまったことだ。
フレーズが何の音から何の音まで出ているのか、最低その音域と、それを自分に当てはめると何の音から何の音になるかぐらいは、すぐわかるようにしたい。
前回身にしみたつもりにもかかわらず、今日も「とにかく覚えた」状態。比較的わかりやすい構成、メロディー。(自分が覚えやすいということは、聞き手も覚えやすいということ。底を見せないフレース・感情表現で飽きさせないことが必要だということを、後日知る)歌うごとに好きになった。・わすれな草は駅のベンチでファルセットでなぞって覚えようとした。構成とかちょっと難しくはあったが、やはり身体全体で歌わないと肉体が反応しない。肉体と精神が連動して感覚しないと、その歌が自分に刻まれないし、その先の発見がない。
アデューのオリジナルはすごく軽く歌われているイメージ。肉体的に張っていると感じるのは(こころのともしび~アデュー)の1ヶ所のみ。だと思った。キーとしては私も同じだと感じDmajarで歌い出すのだが、どうも必要以上に張ってしまうのに気づいた。(アデュー)の部分の音色は自分はいいと思うので、こういうのもありかな。(それならそれで全体を見つめ、一貫した説得力がないといかん、ということを後日思う―先生のコメント&自分で感じたこと―・歌・音楽が聞きたい。「技術」や「発声」や「ことば」や「音符」でもなくて、“音楽”が聞きたい。すごく感じる。が表せない。・その歌が“音楽”になり得てないということは、技術が足りないということ。気持ちが足りないということ。・歌を支配しようとして方向違い。歌にゆだねる。(制限しないということ)
トレーナーの歌、フレーズはそういえばゆだねているというか、すごく自然に感じる。「自然」に歌うということの難しさを知る。逆らってないな。止めてない。んんん。「自分のフレーズ」で歌を固めてはいけない。歌の命を止めてはいけないのか。・私の歌い癖。言葉。今日はあまり出さないつもりでいたが、かなり聞き手にはハナにつくのか。香水のようなもので、本人だけが慣れてマヒしているかな。習慣で見逃しているところもあるかも。それに乗って、考えない。気づかないのはよくないと思った。今の歌いぐせ(フレーズ感)と言葉を自分では武器だと思うし、面白いと感じているので、息の流れや歌の流れと一致させて“音楽”としての説得力持たせたいと考えている。でも「これしかないんだ」と固まる気持ちはないし、「ちょっと違った」と感じる未来がくるかもしれない。気になることは容赦なく毎回指摘してください。
I am calling you 何かを感じて出さないとただ息を吐いているだけになってしまう。音に対する感覚が鈍すぎる。浅く表面上のものしか聞けてない。もっとよく聞くようにしないといけない。「I am」のところで節回しをまねてしまう、のどで浅く作ってしまうというのは、やってみてわかった。「I am」よりも「calling」のほうが大きくイメージしなければいけないのに小さくなってしまう。もっと大げさなぐらいイメージをもたせなければならない。出だしのA deserd~のところはroadなどで深く入ろうとするとフレーズがブツ切れになってしまった。しかもまったく深くなっていない。イメージを大きく持つことが必要。音に対する感覚がまったく足りない。もっと、音の動きなどを聞くようにしないといけない。握ってはなすという感覚がよくわからない。はなせない、というのは多分握れてないからだと思うので、まずは握るという感覚をつかめるようにしていく。
すごくいいことに気づいた気がする。フレーズが流れてきたときにどうやって聞くと自分が出すときによいのか。私は今までフレーズがもし~~~こうあったとしたらこのなかで起きていることや、そのなかに入ってどう動いているのかを聞くのかと思っていた。しかしそれでは結局、頭でその線をとっているにすぎなく、フレーズがパッと消えたときに、ただなんとなくその感じで体で押してしまう結果になる、それではどうやって聞くのか。普段リスナーの方がどう聞いているのかを考えたら、その人の声を聞いているわけでもないし、それがどう動いているのかを聞いて感動したり、伝わってきたりするのではない、ということ、私達はそれなのに、なぜ伝わってくるのか、感動するのかを考えると、きっとそれは、その音楽がつくり出す空間を感じて感動したりしているのではと思う。だからそのときも、そのヴォーカリストがその空間のなかでどう音楽を動かし、与え、ときには切り、つなぎ、ふくらませているのかなどを聞くとよいと思う。
フレーズが流れてきたら、その音声が空間のなかでどうなっているのかを感じて、そこを聞けばいいような気がする。そうするとその空間のなかに入ることができて、また、そのヴォーカリストに入ることができてくる。そしてテンションを高くとっていないと、今の私では完全に表面の流れだけをとってしまう。モチベーションが高くて、やっと体に入ってくる。空間のなかの音声がわかってくるように思えた。そして、その曲がパッと消えたときに体に漲っていないと絶対に出せないと思った。そして今の私はイメージが追いついてきていないということに気づいた。イメージがしっかりできているけど、いやきっとまだしっかりとはできていないからそうなるのだろうと思うけど、イメージを次々に自分のなかでバンバン回していかないとダメだと思った。イメージが始めの出だしで止まっていたら、その一本調子でフレーズが流れてしまう。イメージをどんどん回して伝えるといいうよりも、、むしろイメージをどんどん作っていくという感じだと思う。でも普通に考えてみて何をやるにしても、初めはゆっくりとやって体にわからせ、コツをつかみ、形を整えていく、だからフレーズにしても、いきなりそのスピード感についていけるはずがないのだと思う。もし、ついていけるとしたら、それは今の段階では感覚が、回っていなく、ただ流れている状態だと思う。
まずは感覚を優先して、しっかりと流れをつかもう。そうしないと、いつまでたっても勢いだけに頼ってしまい中身が薄いものになってしまう。しっかり自分がやったときにどうなったのかをわかるためには何よりも、ものすごく感覚を働かせてそれに忠実にやっていくこと、そうすると自然と体がついてくる。でも体がないから、そう持っていくことができないという結果になる。そして自分を捉えて1点を見据えることの大切さ。そうしないとぶちまけているだけになってしまう。音楽の形をとるためには必ず方向性がたいせつだ、ということをつくづく感じた。でも、もしかしたらフレーズをとることも歌うことも、とてもシンプルなことのような気もしてきた。人の技を盗むときに、たとえばケリ技を盗むときは、そのケリだけを見ていたらダメで、その人全体を見ていないとつかめない。これはきっと、音声の流れだけを見ていてはダメで空間、全体としての音声の働きを見なければいけないのと同じように思える。そして、それを自分でまねてみて、「あぁ~こんな感じか」というイメージをつくり、それを何度も繰り返して自分の形にしていく。フレーズにしてもそうなのかもしれない。でも確実に違うと思うところは自分と一回、切り離すという点だと思う。一つの技にしても他の競技はそのすごいプレーや技を見てある程度、基本が入っていれば自分で体を動かして何度もやり、自然と自分の形になっていく。
ヴォーカルの場合、それを一度、離さないといけない。そのイメージ通りできても、それは他の人をマネているだけになってしまう。そこにその人独特なものが必要なのだと思う。でもこれも、普通に考えてみればそうだと思う。何かでひきつける人は、プレーはすごいのはあたりまえだけど、その人、独自のものを出しているような気がする。だから自分が勝負できるものはどこかというのを知っていなければならないんだなぁと思う。それを知っているから、人を引きつけることができる。だからこそ客観性が必要なのだなあぁと思う。フレーズが流れてきて、その空間のなかでの音声の働きを感じて、入れてそのパワーの漲りを保った上で一度離して自分はこう伝える、というのを作って出していく。そして出していく中でしっかり自分を捉え、的を得て方向性を持って感覚を優先させ展開していく。そこで、ひとつ大事なことはそれになり切って出すのと同時に、しっかりとどこかで自分を見る目が必要だといううこと。これはとても難しすぎる。でも日常でもそうだと思う。
たとえば、すごく怒っている人が「ふざけんな」とかいえば、すごく伝わってくるし、わかる。けれどヴォーカリストはそれをコントロールしたり、何にしろ音楽にしなければいけない。そうした中で自分がそれになりきっているだけだと、そういった面が、他の部分で満杯な分、わかりにくくなってしまう。その人が怒っていたら、第三者がそのことを伝える方が冷静に伝えることができる。しかしパワーはない。だからこそ、どちらも必要なのだと思う。でもそれも当然なのかもしれない。結局、評価するのは自分でもあるが他人なのでる。だから、他人がどう聞こえているかがわからないと修正のしようがない。一人よがりの世界に入っていってしまう。だからこそ、どこかで冷静に見ている自分が必要だ。その冷静に見ている自分をどこかに、こうおくというのでなく、そのフレーズを出したと同時に表れていないと対応することができない。でも、それがいることによって「あぁ~ここが甘い」とか「あぁ~ここは流しているだけ」だとかがわかるようになってくる気がした。他の人のを聞いていて思うことは確かに何かうまいと思うけど、そこにすごさを感じることができなかった。なぜだろうと考えると、テンションやモチベーションなどはあるけど、そういった問題だけでなく、きっと空間を切るというか、裏切るというようなものが、自分も含めて足りないような気がする。フレーズが回ってくる中で「ビクッ」とさせてやろうと思うと、必ず空間を切るようなスパッと切るような感覚が必要だと思った。それは思い切り出すとかでなく、まさしくインパクトのようなものだと思う。それはきっと、相当高いテンションと冷静さがないとできないと思う。「ハイ」にしても、もしかしたら空間を切るような感覚なのかもしれない。空間を切る感覚はとても大切のように思える。本当に音楽を知ろうとすれば、知ろうとするほど、面白くなってくる。ワクワクしてくる。一つ一つのフレーズがいろいろな人と新しく出会っているかのように思える。大きく捉えよう。大きく。そして長い目で捉えよう。長い目で。
リズムから息を吐いて、声に出してみる。ツツツタッツ ツツツタッツ、このリズムを口ずさんで一本の道になるように感じる。そこにHa-a-a-と息を(声を)のせてみる。ただ声を出している間も、ツツツのリズムを意識していること。リズムへの集中力が、まだ足りない気がした。声を出すと、リズムを聞くという作業がおろそかになってしまう。Waは日本語のワではないこと、ゥワという感じ。口をすぼめて、息の流れを止めて、そこから一気に空気を体から出す感じでやってみる。Faveもsixもsevenも同じ感覚でやってみる。なるほど、確かに外国人の発音はそうなっている。こいうこともいわれないと気づかないのかと、今まで英語をいかに関心なく聞いていたかがよくわかった。外国人みたいに、響きある声で発音しようと思っても、あきらかに口先だけで作ってしまう。英語をしゃべるだけで、口のまわりの筋肉が、いつもより疲れてしまうのは、日本語がいかに、口先だけでまとめて話す言語だかがよくわかる。一音でもいいから、胸についた声で表現してみたいとつくづく思った。英語の文を読んで、その声に対する感覚と、英語を話すのに必要な筋肉をきたえるトレーニングをしようと思う。
今日は、カンツォーネから、昭和30年くらいにはやった曲や、宇多田ヒカルまで、演歌も含め、あらゆるジャンルの曲を聞きっぱなしというレッスンだったので、これで終わるのかと思った。確かに声を出すには自分のなかに入っているものがなければ始まらないのだから、声出しの時間に多くの時間を割いてもしかたがない。実際サイレントナイトをアヘリア・ジャクソンが歌ったのを聞いて、自分なりにイメージして、声を出してみても、そのテンションまでもっていけもせず、いつものように声を出しているだけ(他の人も同じ)、というよりも、なぜ彼女がそんな歌い方をするのかすら、わからないのである。プロの歌い手というのは、聞けばわかるがなんでそんなに長く伸ばすのかとか、なんでそんなにタメるのとか、今の自分にはわからない。それだけ、まだ聞きこんでないということもあるから、先生のおっしゃっていたように、2割声出しで残りの8割は聞くことである。
先生が昔流していた曲もあったので1年半くらい前に、レクチャーで聞いた曲も今日聞いた曲のなかにあったのだが、当時の思った感想と、今感じることが異なっている気がした。昔はカンツォーネとか聞かされても、その歌の何がすごくて、何がよいのか実際、今よりももっとわからなかった気がする。
今日聞いていて、すごい深いところで息が流れているなとか、この高さで、これだけの響きのある声を出しているんだとか、ものすごく体を使わないと絶対出なさそうだなぁと、そういう表の部分ではあるけど、明らかに気づくことが多くなったような気がする。それが、もっと気づけるにして、その裏の世界のところまで感じられるようになれたらなぁと思う。
今日は「いかにしてフレーズを動かすか」ということで勉強になりました。世良さんのフレーズをきいてみて、「あんたに」で深く、強く握っておいて「あげ~た」で展開させていくのが、よくわかりました。また「愛の」で握って「日々を」で展開させている。きちんと深く握って、そのはずみで放していくというか、展開させる。ただし、フレーズの終わりを「うかす」ということではない。また、逆に全部を握って歌ってしまうのでは、のっぺりとし単調でつまらなくなる。「握っておくこと」と「展開」を配分する。Time間、密度のバリエーション、フレーズにグラデーションをつけていく。変化させていく。ただし、自分にあった方向で。
失敗しないように、そっとなぞってみよう。そんな感じだったろう。むかつく。なんだその、フレージング用のフレーズ。ちくしょおー。自分の感情で歌えってんだ。おまえならどう思うんだ。おまえならどう歌うんだ。そこだ。オンリー・ワン。おまえだけのおまえであれ。どこにでもいる、ありがちなおまえなど、いらない。「歌が大好き」それだけなら区民合唱団にでも入れ。カラオケで歌ってろ。何が伝えたいんだ。いったい何がやりたくてステージに立つ。「詞をまちがえないで歌えるかな」いつまでも、それを繰り返すつもり。このままじゃ10年通ってもこのままだ。「うれしい」って感じるか。「つらい」って感じるか。「痛い」って感じるか。「くやしい」って感じるか。おまえならどう思うんだ。おまえならどう歌うんだ。全てを楽しむことだよ。時間は永遠ではないんだから。
今日は、にぶかった。(今日も)過去と同じ反省点なので省略。
発声・胸の上を絶対リラックスさせること。細かく鏡でチェックすると瞬間的に息を吐き出す瞬間、胸の上部の筋肉がキュッと内側にしぼむ。ひどいときは肩が後ろへクッと下がるのも目立つ。おそらく長く声を伸ばすときも、この部分で響きを押えつけてしまっているのだろうと思う。ノドにかかるのとは異なる。もう少し下の部分の問題。(発声)怒気に近いもの。声を前に飛ばそうとする執念が必要。ただし、一方で、深い体からの息を100%声にする意識は終始はずさないこと。どうしても声が前に飛ばないときは「バカヤロウ」「オイコラマテ」など日常で使う言葉の感覚を思い浮かべるといい。間違っても上アゴに響きすぎた鼻にかかったような気味悪い発声にならぬよう気をつけること。イメージとしては、こうとらえて、体の使い方としては横隔膜、背筋をあまり意識しすぎないで、ただその部分に声が響いていることを確認する程度でよい。むしろ前腹の使い方に気をつけること。前腹が柔軟に動いているのをさまたげないこと。腹筋を全て使うつもりで息を送り出す。フォームのことをいえば胸をもっと張ることと、左肩が下がってしまうことに注意。声は下半身で完全に捉えること。膝にすごく負担がくるので、軽く曲げてやったりするとよい。声のことをいえば、フレーズの語尾のふるえはクセの部分なので気をつける。息が声になっているんだから、息がなくなったら声もなくならなければおかしい。
1.現在をこわしていく方向で、できないことをやってみる。2.体を使うことだけ考えると、出したものが表現になってこないので、今現在使える神経、息を使い、できるところでやる。
混同しないこと。どちらをやっているか、はっきりさせる。テンポを体でキープするのは神経を使うもの、体、息を使って線を出す。わからなければ、とにかく聞いた通り出してみる。
“表現がある”ということと“声を出す”こととは違う。自分の歌に伴奏をつけてもらうとしたら、どうなるか→“一定の乗り”がなければ伴奏つけるのは無理。どこに、どう入ればいいのか、わからなければダメ、“こういうリズム”と指摘するのは自分、歌いながらリズムを数えていてはダメ。歌っているときは裏拍がとれていなければならない。自分が一所懸命歌ってしまって、自分のなかだけで終わっていては、人に伝わらない。
ゆったりとした音楽が全部飛んでしまう。拍子にあっているかどうかではなく、呼吸で、できているかどうか、である。体を使うのだが、“体から発声”ではない。体で音楽を奏でているかどうかである。何をやっても、同じに聞えるのは“くせ”でやっている。コピーするとき、自分がCD聞いて気持ちよくなっているだけではダメ。
客席に伝える、きちんと音を出す。“音をみる”ことを集中してやってないと、できるようにはならない。はきたいところではけなければ、トレーニングに戻る。
曲が変わったらグルーブをパッと切り替えられるのか。“声が出る”というのは、ピアニストがただ“指が動く”という程度のことと同じ。自分の感覚が入らないのは致命的。“1ヵ月練習すればなんとか”と考えているようでは仕事にならない。パッと出せるようになること。“No”とか“Oh”は感情的な言葉、読んじゃっているではダメ。音色に注意。不自然になってしまうのは、発音の問題と考えがちだが、関係ない。軽い曲は、口先になってしまうから、やりにくい。16ビートは思っているよりゆっくりだし、まして、全部裏に入っている曲は、ゆったり余裕で感じられないと、乗りが出ない。(大きく回ってくると、とれる)英語の曲等、言葉がつまっているから、早く聞えてしまうが、早く感じすぎてしまうからもっとゆっくりとる。死ぬほど聞けば、ゆっくりに聞えてくる。“It's not your situation”→最初の“It's”を飛ばすと、あとからついてくるから、大きく振りまわす。“こういう風に聞こえる”と思うことを楽譜におとしてみるとよい。歌うことは“楽しく気持ちよくやっている”とは違う。海外の歌手は、何かがうずまいていて、それが出る。メトロノームをならし、裏をとって20分間手拍子し続けて、絶対乱れないパルスが必要。
だれもだれも知らない 苦しみと悲しみに中で なぜ歌うのか ほほを涙がつたうとき ふるえながら風になるの私の声が もしも歌うなら やさしさとサイダーデと たぶん愛 風の中で波に向って歌いながら 悲しみをひとつづつ忘れる 果てしない旅路 つばめの悲しみ 失われた友 ああ~うたおう声の限り・体は暖まっていたが、声はまったく走る状態になってなかった。年明けて、あまり声出してなかったが、点検おこたると本当にダメになる。恥ずかしかった。・ファドの演奏、リズム気持ちいい。独特のルーズさ。・身体は毎日適度に動かしているからといって、やはり気持ちをまとめてひっぱらなきゃ動かない。なんか、歌う姿勢ではないな。ファイテングポーズとってないもんな。力んでもしかたないが、どうにか動かそうよ。なんだかしまらないよ。座ってギターかかえれば安心するんだが、どうも手ブラで立つのはやりにくい。ステージ実習とかね。あるい意味、失敗できるうちに失敗して、ポジティブな方向へ変えていかなきゃな。・あせらない。あわてない。堂々と。ゆったりと。見下ろす気構えで。リズム感じて。自分の呼吸で。体裁つくろうより外ヅラ整えるより心の内側の動き。奥底から湧き出るもの。たまらなくそうなっちゃう感じ。半歩前に感じていきたい。先手、先手。
キーが合わなかったのもあるが、メロディーは憶えられなかった 。くやしかった。どうしても思い出せなかったが、48時間経って全フレーズがよみがえってきた。聞くごとに好きになった。歌い手が曲をより面白いものにしている。命が吹きこまれている。集中力、息と声のコントロール、パワー。圧倒された。まったく手も足も出なかった。(たぶん~愛)あれだけねばって、さらに強いパンチが飛んでくる。(向か~って)(忘~れる~)これをやってイヤミにならないことのすごさ。・自分の実力、フィールドのせまさ思い知った。私も曲を作っているとはいえ、あくまで自分の想像範囲内でやりくりするし、それを歌うのはこの歌唱力の範囲内でまとめるしかないわけで、曲数が増えたからといっても、もしかすると一つのことをちょっとづつ角度を変えて見せているだけなんじゃないか。自分の曲ばかり歌っていると、知らぬ間に、また同じポケットに入っている。このポケットのなかにいたら、今日のこの歌は歌えない。あばれ馬のようだもの。あばれ馬にしているのは月田さんか。この人が私の歌うたったらどうなるかな。そうそう最近アフリカ音楽聞いた。8小節ワンコーラスで、その繰り返しだけの単純で、どってことないメロディーなのに、男数人のアカペラによって、これが充分楽しめる音楽になってた。どんなコード展開の変わった曲だとしても、うすっぺらな歌じゃすぐ消耗する。「楽しめる音」だから音楽。楽しくなきゃ雑音。
「花」「乗り」「あたま」「鬼」なるほど。そういう意味だったのか、と気づく。これを自分に当てはめて考えてみた。まず「花」。光を出すのではなく、逆にまわりの光を吸い取っているなァ。真剣になればなるほど、気合を入れれば入れるほど、そうなっている。ちゃんらんぽらんにやっているときはどうも目立っているらしいけど(困ったな)。意識的に切り換えよう。外に向うように。内に内に入ってしまうんですよね。私の場合。
相変わらず何をやったのかわからなかった。講評で残った言葉(ひとの歌ということ)(客席の線とびこえたかどうか)。なんというか、もっと身を任す感覚を持ちたいと思った。フレーズをやりたくなったこと。体が動きたくなったところ、最後のあいさつetc.そのときの空気空気に無防備に身を委ねるべき。委ねるためにはつめてなきゃできない。そこ迄“ぶちっ”と行きたいもんです。最初に入れたか、入れなかったとか、声がどうかとかの反省別にして。ライトまぶしくて顔見えなくて助かっているものの、超あつがり(汗かき)で、じわっと汗が出たものの起こせてない。また、映像見て冷や汗。
西城秀樹の歌はてんで入れなかった。わからない歌は音符でとっていってしまう。心の動きでそうなっているところまで音符で聞こえてしまう。ピアノの音、楽器の音のように声も聞けるようになればよい。気持ちがギュッと聞こえるようになれば。
ミルバの「愛遥かに」は好きだからスッと入れた。この曲をパスする人がいて、私は声を出さないと決めていたけど、これはやらずにはいられなくて自分はやっぱりこういうのは好きなんだなぁと思った。ミルバはわかりやすい。声が音の動きとして楽器と同じくらい聞こえる。言葉は気持ちの通りいえばいいんだ。それは感情移入としてはちょっと違うと思った。
“どんなに”望んでも“どんなに”というとき、私はどういう風にいうかなということだ。“どん な・に”と“ん”のところで気持ちをギュッと詰める。絶対何回やっても変わらない。そういうもの。これに音がつく。ギュッと詰める場所は音楽や言葉が私の心のなかで一緒になって、そこでそうなる。先生が「腹や心で握れっていうのは、ここで全部ためてたら間違わないでしょ」といった。
「心遥かに」の練習をしていて今まで“つめたい”の“たい”をむりやり強くいっていたけど、ここもギュッ詰まる場所だったのだ。“ つめ たい”と何回でも同じようにいえるようになった。言葉でいえないものが歌になるわけがないというのは、こういうことだったのかと思った。感情移入をして私の内側にしかなかったものをこれで外に出せるかもしれない。ここに集中力、テンション、歌の世界、感情、音楽の世界、声ありとあらゆるものを総動員したら伝えられるかもしれない。「愛遥かに」で回されたフレーズは内にこもってしまった。ちょっとやりすぎて流れがなくなってしまった。でもこれをもっと煮詰めて前に出せばよいのではないか。のどの調子は最悪。声出し禁止。息吐きも慎重に。のどに直撃しないように。音をさせないように。もう絶対にあんな練習の仕方はしない。治っても無駄話はしない。声は大事にとっておいて、練習に回す。声をだせないから心おきなくフレーズの練習ができるぞ。
いやぁ〜すごいいいことを聞きました。発想の仕方が変わった。くせで要らない、使う必要のない筋肉を使っていたとは。今まで「ハイ」とかでも、いかに息を送るとか、前に出すとかばかり考えてやっていたけど、それもあるけど、それをよりよくするために最少で最大を出すために、余計な力を抜けばよかったんだ。余分を取っていけば声のしんがそこにあるんだ。だから、ため息にはしんがあるんだ。余計な力が抜けているから、でも、それだけだと歌には使えないから息を送って強くするんだ。強ければ強いほど力を抜くとはそういうことか。口をとがらせた「ウ」でやるとノドの楽な感じがわかる。この感覚をKEEPしないといけないんだ。筋肉が覚えるとは知らなかった。だから一人でやって間違えていると危ないんだ。変なクセがつくだけなんだ。でもこのことを知っていろいろなことが聞けた。呼吸に関しても余計な力を抜いて、自然に強くしていく、声に関してもそう。フレーズなどでもやたら自分が力が入っていたんだ。出そうと思って力が入っていたんだ。余計な力、使う必要のないところが使われていたんだ。フレーズとかでも、余分な力を抜いて自分の自然をパワーアップさせるだけだったんだ。中音域で自分の出しやすいところをより強く正しくするということで、それもヴォーカリストとしてのポリシーの部分につながってくると思った。すごく思った。どこかができないからやるというのはあたりまえだけど、自分の持ち味、自分しか持ってないその本質の部分をより強くしていくということだと思う。ヴォーカルとはこうだとか、フレーズはこうだとかではまったくなく、自分の本質の部分でどう感じるかだと思った。いくら平均してできてもしょうがない。ダメなところを直す、弱点を直すというよりも自分しかない、これがMy styleというか、自分はこうだ、というような部分に徹底的にこだわって、そこを確立して世に出せるレベルにする。そうすることによって弱点が補われていくと思った。
「あぁ~ここが自分のダメなところだなぁ~」とかを普段の生活のなかで感じて、それを強制的にこうしないといけないというふうにやっていたら、つまらなくなるし、続かない。そこをいつのまにかcoverしてしまうようにすればいいんだ。とにかく自分の持ち味を強くしていくことが最も大切だと思った。中音域を強く、正しくし、低音、高音もできるようにしていくのと同じだ。自分の持ち味はなんなのかというのが一番難しいと思うけど、それもヴォイストレーニングにつながって同じことがいえると思った。余計な力を抜いたとき、そしてそれを強く出したときの自分が自分の持ち味のような気がする。子供は余計な力が入っていない自然体であるからこそ、そこに本質があり、その子供独特の持ち味がある。しかし、その持ち味は、まだ世に問えるほど強くない、しかし社会によっていろいろ影響され、作られた変なクセがその子供達にできてしまう。日常の生活のなかで変なクセをつけられていく、それが普通となる。余計な力が入っている。ノドに余計な力がは働いて、使わなくてもいい筋肉が使われている状態だと思う。それが大人だと思う。
大人は本質は子供のときより大きくなっているけれど余計な力が入っている分、子供よりはるかに持ち味がない。そこがポイントだと思った。アーティストとしてやっていく中で一番大切な部分のような気がする。今まで世の中によって変なクセをつけられてきたけど、まずそれを、余計なクセを抜いて本質を見る。そして、それを信じて強くしていく。ある人は「何がなんでもやってやる」と思って誰から見ても一所懸命、努力している。一般的に考えて、それが普通のやり方だとだと思う。でも、その人が、そういうことをしていくしていく人はそういうふうに努力するんだと思ってやっていたらダメなような気がする。本質がなくクセがついていくと思う。続かないと思う。それが今までの私の考え方だった。でもそれでは平均をめざすことになるような気がした。同じ100のことをやるにしても、自分のやり方というか、気持ちの持ち方でやらないとつまらないし、続かない。だから私はこれから、自分の本質として、どういう風にやるのかを素直にやっていきたいと思った。そして、その自分の持ち味を強く高める。その方向でいきたいと思った。それが自分にとっての逃げになったらダメだ。逃げになっていると体が感じたらクセがつかぬよう壊していきたいと思う。
最初に先生が話されたことのいくつかで、ヒットした人のものをまねるのではなく、ヒットした人が何を聞いたのかを見ることが大切。つまり根をとらえること。基本を聞き、自分でそれを応用していく、オリジナリティにつなげていく、ということがすごく心に残った。
正月にやっていたポール・マッカートニーのライブも、プレスリーなどの世代をすごく聞いたり演奏したりして、今でもなおかつ尊敬しているから、あんなにかっこいいステージ、のり、グルーヴになるのか、とすごく感心させられた。そんなに好きじゃなかったポール・マッカトニーなのだが、あんなにすごくいいステージをするのかと思ってほれぼれした。私ももっともっと音楽を掘り下げて聞く必要があると思った。
元歌と日本語歌詞と聞き比べるときに、何が失われてしまったのか、なにを応用して打ち出してきたのか、ということに神経を集中して聞くということも今後の課題だ。自分としてはまだ、フレーズを出されても、何をしていいのか「とりあえずでもどうやって自分を表現するのか」ということさえ、何もできていない。少しでも何か聞いたまま、という感じで出すのではなく、打ち出すものが欲しいと思う。
(だれも~だれぇも~知ら~ない~)3回目。最初力んだがすこしづつ修正することができた。メロディー展開、構成は身体に入った。ここから先をいかに、どこまで追いつめられるかが、一流の人たちと私たちとの差なのだ。たったそれだけのこと。でもはるか遠い距離。難しく考えない。やるか、やらないか。それだけ。「やっときゃよかったよなぁ~」同じ失敗はくりかえすなよ。新しい提案が欲しいところ。もう一歩前に出たい。攻めたい。
フレージング(あるあさ、涙の見せず二人は別れるでしょう だけどだけど好きなのさ~)先月経験した曲。身体が覚えてた。しっかりとしたリズムのなかでいかに自由にはね回るか、といった歌。型通りバリエーション貧しく歌うと飽きられそう。ノリでもってけそうな曲かも。特にじわっと染み込ませたい言葉はない。だからするりと流れて終わっちゃうかも。プロモーションビデオやCMによくある、短いカットを連打してスピードとパンチのある映像のような、あんな感じを伝えることができるハズ。わりと身体が動いて、いい重みと弾力を持ってフレーズを発せたように思う。押さなくても跳ね返ってくる、心地よいとっかかり。私の従来の歌には、こういうブッタ切るようなスリル感、迫力がなかった。(別れるでしょう~)快く、スパッとケサがけ。
「でしょう」という言葉がうまくはまっている。切れる感じするもの。(だけどだけど好きなのさ~)これを3回もくりかえすというのはヘンなことだ。音楽になると聞けてしまうから不思議。単なる繰り返しにならないこと。壊れたレコードみたいにならないこと。最後のアドリブは動かしずらかった。Kさんはオクターブ下とか使ってすごく自由な感じがした。私はどんなメロディーを描こうか、ということに思いめぐらせだが、できる人なら、同じメロディーのなかでも「音」のなかでイメージを描き分けられるんだろうな。「音」のなかでっていうのはそういうことなんだな。そうかそういうことか。ステージ実習なんかで、ちょっとメロディー変えてみたりして「即席オリジナリティ気分」になったりしてたけど、それだけで、満足して「音」のなかはカラッポのままだったってことか。生命が入ってないというのは死んでるってことだ。のっぺりと横たえただけのフレーズ。昨年末のオーディション評もそういうことだったのか。話がそれるかもしれないが、阿久悠氏が著書のなかで「歌がうまい」のと「歌い方がうまい」のは違うんだ、とあった。“その瞬間の魂”で歌う(あるいは叫ぶ)のだから、毎回まったく同じフレーズのハズはない。もっと自由に広がっていきたい。一つの歌い方へ追い詰めていくのはどうなんだろうか。基準、基礎が必要だ。花火を打ち上げるとき、筒から発射させるだろう。その筒を支える基礎をかためるために追い詰めるということか。広げるために集める。しぼる。あぁ、「凝縮する」って先生がいってた。「歌い方を固める」っていう考え方は違うな。ときどきそこへ陥るんだけど。何歌っても同じに聞こえるってのは、そこに問題があるのかもな。歌い込むほどに、もっと自由になるハズなんだ。
2年間の区切りを迎えたころから、なんとなくぼんやりと気の緩みが出たのは確かです。「1年半の輝き」といわれますが、確に2年目以降からは更に意識を持って臨まないと、時間ばかり費やしそうな予感がありました。先生の生きざまや多くの歌と出会えたことで、私の人生はかなり近道をできた、と感じています。本当にありがとうございました。そして、今後ともよろしくお願いいたします。
この水をにごらせまい。冷たく研ぎ澄ませ、熱くたぎらせていよう/常に新しい空気を吹きこみ、常に流していよう/魚を棲まわせ、花を育てよう/この水をにごらせまい
(だれも~だれ~も知ら~ない~)2回目。再戦。リベンジ。何がなんでも何か起こしたい。この時間のなかに何か起こしたい。自分のなかに何か残したい。自分に適したキーをみつけ、幾度か歌って身体に刻みこもうとした。曲の全体が見渡せるようになった。月田さんは決して力んでない。要所要所でグンと踏み込んで、弾んでいる。私はどうもむやみに力を入れてしまう。高音は特に。力で押す。弾んでいかない。ドッタン、バッタンで、バランスをくずす。今日はベストのキーで歌い出せたので、全フレーズを一貫性を持って感じられた。というか「全体のなかのこのフレーズ」としてとらえられたので、自分の持つ力をどれくらい配分したらいいのかがわかった。先が見える。前回に比べ、かなり透明感が増した。自分の体力が効率よく歌にむけられている。カラダが動く。ココロと同じ方向に動く。このよろこび。いいきっかけを感じていた。確かな手応えを感じていた。弾む感覚がよみがえってきた。「歌い方」を固めるべきではない。けど、気がついたことを書き留めておこう。(だれも~だれぇも~)歌い出し大事。歌い出しは120%自分モノにすべき。自分のなかのエンジンに点火するのだ。
「自分のエンジン」が動き出すときは、こぐとか押す感覚がなく、当然のごとく自走する。ラク。うまく着火しないと、重いもの引きずる感じになる。他人の感覚で始まっちゃうと、ずーっと引きずられて終わる。(だれも~だれぇも~)これだけですごく難しい。(難しく考えちゃいけない)呼応というか、遠い視点がぐう~んと近づくというか、眼に光りが入る。どうにかキューッと絞られるハズだ。(知ら~ない~)しら――とフレーズに折り目つかないように「しら」を流れもってうねらせたい。(悲しみと~苦しみの中でなぜ歌う~のか~)歌のリズムの変化。私が歌をつくるときは字数がキッチリはまるように調整するため、こういう色の変化はしたことがない。それは歌いやすく聞きやすい反面聞き流すこともあり、歌い流す恐れがある。(悲しみと~)は覚醒してないとカタチにならないし、ここをしっかり建ちあげないと(なぜ歌う~)と踊れない。(ほほを涙が~)どうしてこのメロディーがここまで自由に飛べるのか。(風になるの~私の声が)しかも加速する。(わた~しのこえが)すごく心地よいブレーキ。(もしも~)すごい引力。何か語っている。(歌うなら~)舞台ならパァーッとポジティブな場面展開するだろうな。(やさしさと)ムズカシイ。サクサクと、かつ流れ失わないように。(たぶん愛)「たぶん」でぐーっと引っ張られて「愛」でバクッと喰われてしまう。「愛」の迫力、すごい。(風の中で波に向かーって)空を飛ぶような自由。(向かーって)がなかったら、当然のごとく何の変化もなく着陸してしまうところ。大きく1回転している。こんな動きを描くことができるのか。(悲しみをひとつづつ)すんなりとコースに着陸しないおもしろさ。わざわざ荒地を選ぶ。事件を起こす。でも流れは失わない。ケガはさせない(忘れーるー)ほんとにコレがイヤミにならないことのすごさ。音楽になっているという事実。(はてしない旅路~)テレポーション。瞬間にまったく別の場所に飛んだよう。別の曲を間違えてかぶせて録音したような展開。リズムを変わり、しかも加速(歌のなかで)(あ~)で一致する。なぜ。(うたおう声も限り)万事OK。どうして。ここ(研究所)で出会わなかったら、ここまでかみしめることはなかった。
先生のコメントで、「ポルトガル語版」「日本語版」それぞれに別のポイント(メロディーで)をもって見事に歌っているとあったが、なるほど納得。歌の「ほんやく」は単に単語をはめこむことではない。日本語には日本語のイントネーションがあり、それをまったく無視したらやっぱりヘン。「違う歌を歌っても同じように聞こえる」ということに関して、その意味はなんとなくわかるが、そうならないためにはどうするべきなのか。たとえば、レパートリーが3曲。歌う。3種類の服を着がえた、そんな感じ。そこで終わるのでなく、たとえばドレス、着物、ジャージそれぞれに合う体格、顔つきになるというとこと。あ、芝居にたとえたらわかりやすすいか。衣装は変えないまま、3つの人格を演じわけることに近い。よくわからない。ナゾは続く。
Some times I wander why I spend ~ 意外と音とりにくいフレーズだった。キーが私に合っていたので(2曲とも)比較的探りやすかった。(some times I)と(wonder ~)の空気の違い。なるほどいわれなければ気にしてなかった。期待を高めていく、あるいは空気をキュ~ッと集めていってパァッと解き放つような感じ。「音のなかで動かす」ということ。場の空気をあやつる。“気”の密度。「Some」「times」「I」均等でない。うまくいえないしなかなかできないんだけど「うん、それだよ」のそれの感覚・リズムってある。人間が共通に、おそらくDNAに書き込まれているような感覚。解放感。「仕事」ではなく「遊び」。(wonder ~)から歌がはじまるか。動き出すか。
This time it's love my foolish heart ~ このフレーズも確かにそれの感覚ある。ぐーんと登っていくメロディーだが、反して気持ちは上から振り下ろていくようイメージした。(love my)のあたりをいかに大きくしっかりと描いておくかで(heart)が生きてくる。なるほど。(This time it's love my)のところは当然均等ではなく、わずかながら減速しているので伸びやかさを出している気がする。背筋がほぐれていく感じがする。(foolish)気持ちいいだろうな、歌ってて。客席眺めてにんまりしている顔がうかぶ。(heart)思うより早めに切り込んでると思った。入り際の声たて「ハ」が強い。「ハァー」なんていうのか、「ハイッ」ができているんだなって感じる。強い。貫いてくる。説得力。存在感。両曲について思ったこと。声が立ってて同時に深いので力入っているイメージを持ってしまうけど、実際は精密なポイントにしか踏み込んでないのがわかる。押してない。グンと踏んで空中を舞っている感じ。気持ちいい。「押しつけがましい」フレーズには問題がある。注意。だれよりも感じ取り、だれよりも放ってやる。楽しむ。
発声・下の音に重心をおいてしまっている。上の音を十分意識しておくこと。ノドが下には開いているが、それでは高い音に対応できない。のどぼとけを下げることによって低い音をとらないこと。等を注意された。音を下に引っ張ってしまうクセは再三注意されているはずなのに、直す方向へと進んでいない。最高音部の音が意外にも体から一番出たような感覚があった。一番出しづらいと思っていた音が一番よく飛んでいた。先生のコメントで「出しやすい音はそれだけ加工しやすい」といっていたのが、ああ成る程な、と感じた。安易に自分の声の出し方を決めてしまってはいけない。声が出しにくいと感じたら、それはそのまま間違っている訳で、修正していかなければいけない。
頭のなかで声の強化と歌がごっちゃになってなっていた。キチンと音に変換していかなければいけないが、意識としては歌に使える声を取り出すという方向で考えないといけない。音を点でとらえているため、「ラーレッ」ととらえられていない。(最初のメロディ)「音をとるとき、無理に自分の許容範囲を作ってしまっている」というようなことを先生がいっていた。自分のクセとして、たとえ低い音でもさらに下から音をとろうとしてしまう傾向があるから、上からポンと軽くおく感じで音をとること。ただし腹筋をまったく使わない声の出し方になってしまわなよう注意。どの音程でも同じだが、無理に首から下の体で全ての音をとろうとしないで、頭の響きにも使えること。ただし偏りすぎないよう注意。今日の場合最高音部のファの音など、もろに頭の響きに頼っていた。固く考えないで柔軟に対応すること。
今日は、昨日のレッスンでいわれたことを、体で、わかるように気をつけてやった。最初は、やっぱり力が入っている。3項目くらいで「アホ面」を思い出し、一声だした瞬間、ぽっと声が下に楽に落ちてきてびっくりした。いかに、自分の口のまわりで声をつくり、力でやっていたか、そしてそれによって体がいかに楽をしていたかがわかった。「アホ面」は大事だ。私が今までやってきたことって、なんてムダが多いんだと気づいた。深い息がまだまだ足りないのは、そういうことに原因があったんだと思った。だから、裏にも書いた準備の段階で、このアホ面をしっかりともっと気をつけて、取り組めばまた何か変わってくるじゃないだろうか。レッスンでは、ものすごい量の「気づく」材料があるけど、それは本人がいる位置によって、落ちてくる言葉がその都度違うんだなと実感した。福島先生の「気づくためのレッスン」という言葉はこんなに奥が深い。会報にのっていたNYからの手紙の人も、1冊の本を何度も読む度に、マーカーだらけになったと書いていることやトレーナーのテキストを読む度に、違うところが浮き出てくるという話と同じ。また、次に東京に来る日までに、気づくための私側の材料を蓄えようと思う。できる、できないよりも、もっと自然なこと。
雰囲気でやってしまう。音の表面のみをなぞってしまう。どうしてそういうことが起こるのか。それは音を奥深くまで聞こうとしていないからで、それは結局、人前で音楽をやることに対する責任感の欠如。その時間に対する自分の姿勢の甘さがでているからだと思う。Aguaを何といっているかという質問に答えられなかったことが、耳の鈍さを象徴している。Keyに対しての感覚。聞いたものに合せようとしていっては、体がついていかない。自分が出すのにBestなところでやっていく。当然のこと。自分のKeyなら最初の音くらいとれるはず。後、声を出すことに神経を使わなくていい分、ほかの要素に神経を向けれられるはず。“Agua De beber”で階段状ではなく、1つの線になることでどういう効果があるか。逆に音程を取りにいってしまうことで、聞いている側の気持ちが離れてしまう。聞き手は大きなフレーズにのって気持ちよくなりたいのに、そこで水をぶっかけられるようなものだろう。そういうところの感覚をもっともっと身につけていかなくてはいけない。今は相当鈍いようだ。後、いろんな音楽、リズムに耳を慣らさなくてはいけないけど、慣れるということは、ある意味ヤバイことで、もっと聞かなくちゃいけないところも抜け落ちてしまう危機がある。慣れるというよりも、もっと自然に入れる。自然にいろんなことが聞えてくるという感じでないといけないと思う。
“じっと胸にためた思いが”、じっと(言葉で)ポツンと出せること。流れてしまわない。じっと~とパッと提示するようにしようとやっていたら、今度は次に続かなくなった。間がもたない。イメージがつながっていない。切れてしまう胸に~声が口先に浮いてしまう。体を使おうとすると押しつけた感じになる。これは家に帰ってテープにとって感じたことだが、レッスンで他の人のフレーズに感じていたことと同じ。つまり自分も同じことをやっていて、その場ではわからなかった。言葉だけのほうがまだまし。それでも何か作った感じもする。歌にすると本当に歌ってしまって不自然になる。今は、じっとの部分だけならできる。これを常にできるようにするがまず1つ。じっとから胸にへの展開。音をつけないで言葉でまず、できるようにする。体の感覚として、「ハイ」で音程ををつけて、ポジションがとれるようにしていく。「ハイ」で力まずにとれれば歌ってしまうということも少しは減るのではないかと思う。結局はクセ。2曲目、日本語がついているからか、どうしてもトランペットを聞いていた感じでは、そんなことはなかった。言葉を点でとらえてしまっている証拠かもしれない。
歌を歌で終わらせない。すごいものにする。歌はメッセージ、伝わらなけりゃ意味がない。あたりまえのことを忘れていた。線を描くようにして、息を流す。そこに声を乗せる。そして、もっと息を送る。心の息を、胸を息を出すのじゃなく、こし、脇、腹あたりの筋肉を無意識に(練習中は意識しながらの方がいと思う)使って出す。そして、どんどん息を流していく。決して声を大きくするのじゃなくて、特に口のあたりがウルサイのじゃなく前へ、遠くへ声の線を押していく感覚。
表現とは何だとか、人の歌を考えて聞いていたときには聞えなかったものが、今日は聞えました。ボーッとしていても何をいっているのかがわかるという、単純なことでした。音量の問題ではないし、メロディがついていないでもない。音程が目立ってしまうのは違う。その人の口調になっていて歌い上げるのではなくて、自然であることが大事だと思いました。声より言葉が聞えるようになりたい。「ハイ」はまず自分の口調を取り出すこと。これがひとつにとらえるということではないか。「ハイ」というときの呼吸のタイミングをつかむことが大事なのではないか、これがスピードではないか。歌おうとする前に自分の言葉をいっている感覚がないといけないのではないか、と思いました。録音したものを比べてみるとこう思った。前と後では言葉の飛んできかた度が違った。ひいきめにみたくなるときはだめなときで、考えなくてよくて言葉がわかるときはいえているとき。歌の歌詞になると、長いし、言葉に慣れていないしで途端に薄まる。「ハイ」といったときのいっている感じを薄めないことだ。
「ハイ」は発声練習だと思っていました。(そうなんだけど)ひとつにとらえないといけないといわれて、そうかと思っていたけど、漠然としていました。今、気づいたことは、これから練習していってまた変わっていくと思うけど、前よりすっきりした。「自然に聞えるというのは、詰めていかないといけないんです。バカみたいにハイハイハイハイ」とトレーナーにいわれて、今更そうか、自分の口調を取り出すというのは「ハイ」と、こういうことかと思いました。今までは「ハイ」とどういう風にいえばいいのかわからなくてどういう声を出すかというところで、やっていて出すたびに違いました。それが自分が「ハイ」という意識を持ってやると、声は小さくなったり浅くなったりしても、同じ感覚で何度もいえるようになりました。音楽を聞いていて自分と何が一番違うかといったら、聞えてくるかこないかということだと思いました。自分がいうところでやらないといけない。言葉が聞えるというのは土台になると思いました。レッスンの内容とは関係ないけど自己管理の大切さ。のどの調子が悪い。1.早寝早起き決行。2.ごはんを規則正しく3食食べる。
声を出すのは集中して一日30分。あとは息でやる。音楽を聞いたりアテンダンスを書いたり、やることはたくさんある。
目に光を入れるコツは、正面より高めを見るとよい。希望の光や、リベンジの光等がある。あごは少し上げる。あごを下げて目に光を入れると、少し不気味。1回動かしたジェスチャーは、必ず止めること。動かさない。強烈な音への反応は、耳が遠ざかり、目は音の方向見る。かすかな音は、耳を近づけ、目は探す目。表現は必ずお客さんの方を向く。後ろの音を聞く表現でも、首を傾け、目を上に向けると、後ろの音を聞いているように見える。何でもかんでも言葉にするのはトークではない。ジェスチャー、目、表情で“何だ”と思わせ、後で説明すると、興味深い話に生まれ変わる。たとえば不気味な人の話(その場の状況)を実況中継するとよい。
ジェスチャーで出した道具の存在は、忘れないこと。体を横に向けて話すときは、顔だけ客席に向ける。“ふり”を沢山入れると、トークが楽になる。ジェスチャー、音楽、表現が先行。“何だ”と思わせておいてあとで説明。話の中身に関係なく、何でもない話が面白くなる。講座が終わって帰るとき、自分が“あがり症”であったことを、すっかり忘れていたことに気づきました。自分を人前で表現することがこんなに楽しく、夢中になれるものであったのに緊張するのは、もちろんあって当然だと思うのですが、私の場合、ガタガタふるえるほどあがってしまうというのは、何か違うことに気をとられているからなのだ、と気づきました。また、本日はしっかりイメージしたものと、よくイメージできてないものが、どれだけ人に伝わったり伝わらなかったりしているか、はっきりわかったことが大きな収穫でした。しっかりイメージできたものが、ここまで具体的に人にも見えるのか、と大変驚き、思わず“ビンゴ”といってしまいました。歌に早くいかせるようになりたいです。
すごくいいことに気づかせてもらったと思う。私はてっきりすごい歌とか、人を感動させるということは、はるか遠くにあるもので、それは何年、何十年と詰めていくことによって、出てくるものだと思っていた。けれど違った。人を感動させるという歌や言葉などは自分と隙間なくぴったりとくっついているところにあったのだ。今まで何とフレーズや歌を上辺だけとっていたのだと思う。まるっきり自分から離れていたところで、ただがんばってきただけだった。フレーズを聞いたときにああして、こうして自分とこうやって結びつけて出すとか考えていたけど、確かにそれもあるけれどそれは作ったものにすぎなかった。だからそこには何も伝わるはずがなかった。いろいろ自分のなかでイメージして考えて作ってみてそれを出していたけれど、自分のなかでしっかり完結しているから、それを出したらどうなるというわけでもなく、まずフレーズや歌のベースの部分をしっかり聞いたら、ある程度の自分の音の流れがわかる。そしたらそれは前に出すことによってしか修正はできないような気がした。確かにポジションを感じて、自分と結びつけてから出すことは大切だけど、まずそういったベースに忠実に出してみて、それを自分がどう感じるかで修正をかけていかないとダメだと思った。まず言葉でベースをつくる、いきなり歌にすると、全部、自分から離れているのがわかる。
「ハイ」のポジションからまず言葉でいう。そのときも作っていたらダメ。人が感動するときに、その間に加工はしてはダメ。小さな子供が一人で買い物に行って大変になるシーンや、ただ犬が死んだ飼い主を見て、それに気づかず吠えているシーンなどを見て人は感動するときがある。それはなぜか。それはその人や動物に直結していて、加工がなくストレートであり、その人自身のものだからだと思う。歌にすると、それは自分のものでないことに気づく。頭で考えた産物にすぎない、だからといって自分が本当にいいたいことを直結させて歌にすれば伝わるというわけでもないと思う。ヴォーカリストはある意味、意図的な感動をさせなければいけないのかもしれない。人を感動させる、ということはとても自分と密接というか、くっついているものだけれど、それを出そうと思って出すことはとても大変だし、技術が必要なのだと思う。だからすごいのだと思う。いやすごい。フレーズが流れてきたら、まずそのベースの部分を取れなければだめだと思う。まず確実にベースの部分を取って言葉にしていってみる。そのときに注意しなければいけないのは「ハイ」のポジションから始めるということと、出ているものが自分のものなのかということだと思う。出たものが自分と離れていたら、そこでいくらがんばっても上には乗っかっていかず、結局、上の部分、上辺を作っただけになってしまう。そういうのは捨てないとダメだ。確実に自分のものであり、その上に乗せていけるものを出さないとダメ。そして言葉にして何度もいってみて出たものを聞いて、自分と離れていないかをチェックして、それが出てきたら、そこにフレーズでノベースの部分を入れつつやると、自然と強まる気持ちや、自分とくっついているものが、濃くなるようになってくる。そういう状態から今度はメロディーを乗せていくと出しているものが自分とくっついていて、作っていないというのを感じる。歌やフレーズは作っていくものだと思う。感情や、その音楽だけにとらわれると、ただ上の部分をとっただけで、その下にはベースがないから人には何も伝わらない。歌は作っていくものだけど自分のなかで完全に作ってからやるものではないと思う。「ハイ」のポジションはスタートには間違いないと思う。それが自分の自然な声であり、理にかなった声であり一番くっついている声だと思う。そこからスタートして言葉を作っていったりする中で、どんどん自分のなかで作られていくものだと思う。そして結果的にメロディーがついて、リズムがあって歌となっているだけだと思う。自分のものでないとダメだし、しっかりとくっついていないと全てどこかで作ったものにしかすぎない。作ったものはダメで作られてきたものが感動を呼ぶ。その出しているものが作られているものか自分のものなのかはなんとなく感覚的にわかるような気もするけど、それを確かめるために「ハイ」があるのだと思う。「ハイ」があるからこそ、スタートできるし、判断がしやすい。だからといって「ハイ」でいえたらそれがいいというわけではないけれど、確実につんでいくためには、それがないと、基準がないとつんでいくことができない。プロでやっていくためには、確実にできなければダメだから、そういったときに判断していく上で「ハイ」はとても重要だ。
I Love youというフレーズをやったときに先生に、普通にI Love youでいうときにどうするのかといわれ、自分が歌っているようには決してしないということに改めて気づかせてもらった。歌にするや伝えるや感情を前に出すなどが先走ってしまって完全に作っていた。歌にするとか、伝えるというのは特別なことでなくて、自分にくっついていて自分のものでないといけないんだ。歌、伝えるというのは特別なことだという考えはここで捨てよう。ただ、自分とくっついている、自分のものが、そういったシンプルなものが強まったりダイレクトであったりしているものだと思う。いや、多分、間違いないような気がする。それが歌という中でいろいろなことがされているため、とても特別に感じてしまっていただけなのだと思う。ただシンプルなものが強まり変化しているだけなのだと思う。I Love youのフレーズのなかでIからLoveにかけて強まり、youのところで保っているようなベースを感じたら、まず言葉でいって、そして、そのベースをつけるときにただ機械的にそうやってしまったら、その時点で作っていることになってしまう。そうなっていかなければいけないのだ。自然と強まっていくのだ。全ての言葉が隣同士でつながっており、役目があるのにいきなりLoveを強めると音楽にならないし、作っている。つながりが大切だ。そして、大きな流れが必要だ。統一感というのは、もしかしたら、全てがしっかり自分の枠というか体というか、そういったものからはみ出していないようなものかもしれない。はみ出しているということは、そこには自分が通っていない結びついていないものが出ていることになってしまう。意図的にやるのはいいのかもしれないけど、やはりその大きな流れの幅に全て入っていないといけないと思う。強めたい部分はその前の流れやつながりもわかっていないと効果的にはならない。そこでその音の向う方向であったり、先生がいわれたタイミングであったりするのが歌にとっても自分にとっても自然な効果を出せると思った。しっかり今までのことを踏まえ、出した瞬間に全て、離れないようにしたら、あとはそこで感情なり、一所懸命であったりするものを全面に前に出していかなければいけないし、伝わらない。そのベースの部分をしっかり踏まえていないと、全部作った上辺だけのがんばりでおわってしまう。全て自分の中身を前に出さないといけない。そう考えていくと、歌は感情が揺さぶられたり、ハイテンションだからとか、ロマンチックとか愛らしいとか、悲しいとか辛いとか、そういった感情によって支配されるのではなく、もっとシンプルで冷静なもののように思えてきた。そう考えると「なんだかなぁ」と思うけど、冷静に自分の感情すらもコントロールしないといけないのだと思う、悲しい気持ちであるからといってその歌が悲しさを伝えられるのでなく、その悲しいという気持ちすらもコントロールできないといけないのだと思う。そんなことも何も考えず感覚と体できるようにするために一回一回をしっかり踏まえて意識から無意識にしていきたい。
フレーズ 音楽(歌)の前にその元の材料をよく聞くこと。なにがポイントなのか。どこが気持ちよくて、楽しくて飛び込むのか。まずは聞いて感じられないものを出すのは難しい。・swing/クリス・コナー その人によって、やりたいジャンルがあると思うが、まずはジャンルに関わらないところを出す。どこ強まって引くとか、感じたところを出さないと間が持たない。伸ばしているところに何も入ってないと、つらい。密度が薄くなり間伸びに。だから出すべきものを感じること。そのためには原曲と同じサイズじゃなくてもよい。飛んでくるものはバラツイていない。また、気持ちと体は相反しがちだ。それを一致させる。うまい、下手ではなく、飛んできて印象に残るかで決まる。そのことを知らなくては、また強めることは、その音をきちんと扱うこと。単に雑にブツけることとは異なる。単にぶつけるフレーズではボテッボテッとしてノレない。強い弱いは密度の違い。また、後ろで音楽が流れていないと音の線が作れない。・フレーズ(日本語) 過ぎたむかしよ。出だしの勢いを聞け。1音でポツンと出す感じをつかむ。自分が「たあー」と開いてしまっていることがわかるか。握れている人は言葉をつかんでいる。また、不自然になってしまうのは、自分の言葉ではないから、正面に向って恥ずかしくない言葉を探すこと。
ブレスと体 1.口のなかのどこもあたらないように「ぐう」と前に落とす感じ。とても軽く。2.「ぐう」―「わ」へ。「ぐう」は力を入れない。滑らかに。「WA」のAに向って止めないように伸ばす。それに従って体を入れていく。3.「あ」―「あい」、「まあ」―「あい」、「み」―「い」とリズムに乗せてやるとやりやすい。直にやるとつまってしまう。体を入れて最後にいい直す感じ。また、入れたら戻るバランスを体でつかむ。ヨーヨーのように飛んだらすぐに口に戻る意識がないと、どこかに飛んでいってしまう。テンポを上げても、その距離感は同じに。ただ速くする。4.以上を胸から出す。全ての力を抜いて「ハイッ」の後に戻ってきてリラックス―ブレス、息を自然に。胸に響いてきたら「ハイッ」に少し体を入れる。声を進めて線を伸ばす。ブレスも直線ではダメ。円を描くこと。戻りが遅いと間延びする。初めはわからなかったが、徐々にブレスについてわかってきた。今まで声を飛ばして、その後に戻ってきていなかった。だからいつもブレスに乱れが生じていた。体は入れたら戻す感覚を持っていたのに、ブレスはなかった。ここでの体と息の不一致、それに気づけてよかった。他には胸の響きを上へ向けることに気づけた。今までは、力を入れて押しつけていた。何とも軽い、心地よい響き。
ナチュナルな発声から、大きい声や小さい声を出す・喉を開くためのメニュー(指を口にくわえて発声する)とても参考になった。適度に喉が開いた状態で、「アイウエオ」の出し方が体で感じやすかった。また、その「アイウエオ」の音色が、少し違うことにも気づいた。レッスン中喉に負担を感じないで声が出せたのは、このやり方が影響していると思った。ナチュラルな発声から弱く出したり、強く出したりできることが大事だということ。フレーズのなか、あるいは一曲のなかでいろいろ変化をつけて表現しなければいけないので、このトレーニングはしっかり行うようにする。ポイントは「息の量を調節して、強弱をつけてゆくこと」を体でおぼえるようにする。話声と歌声を一致させるために、詞を読むことから始まって、さらっと読むだけでなく、気持ちを込めて読んだり、劇団のように読んだり、いろいろな読み方を実際行うことで、言葉を動かす。声を動かすということが体でつかみやすかった。結局は流れるように(メロディアスに)話すことを歌へとつなげやすくなり、それをしないでただ歌ってしまったときとの差はすごくあると感じた。それとやはり何度もいろいろな読み方を試してみることで、いろいろな気持ちの込め方、しっくりいくかいかないか、など発見があると気づいた。そこから自分に合った表現の仕方が生れるということがわかった。一度頭で考えたことだけでは、自分のフレーズを見つけ出すことに時間をかけないといけないと思った。
曲の進行に伴って、フレーズが展開してゆく点をよく捉え、それを音声で出すようにする。Aメロでは導入部であり、曲の感じを示したい。4フレーズが下降しながら同じ様なリズムで進むがここまでで、一まとめにしたいBメロ(死ぬのは 恋しいおまえ)は、次のCメロへのつなぐ部分であり、展開していることをしっかり感じながら歌いつつ、一旦前半を締めくくる。Cメロ(ヴリア帰りたい)からは、小サビであり、ナポリターナ独特の節回しも入り、ぐっと雰囲気を上げてゆきたいところ。Dメロ(もう一度)からは大サビになるので、一番盛り上げたい。詞的には切なさが感じられるので、声は張りつつ、音色は悲しげに出していた方がよいと思った。ここでリズムも変わるので、大きくふくらませて、流れるように歌いたい。そしてラストはCメロに戻るので、しっかり戻ることが大事。そして、しっかりまとめてエンディングへと進めてゆく。詞的にも明暗がはっきりある曲なので歌いやすい曲だと思った。メロディ通り声が出せればある程度盛り上げやすいが、自分の場合サビの高音のところで、上の方に響かせているので、もっと下の支えをつけて声を出せるようにしないといけないのと、全体を通していえるのだが、各フレーズの言葉にもっとポイントを作って出さないと、だらだらした感じをなくせないと感じた。ぱっと言葉を吐き出す様な、言葉のスピード感ももっとつけていきたいと思う。自分の感覚に目を向けていると、自然とこう歌いたいというのが生れてきて、体がそれについてきてくれる気がした。ここを強くいいたいという意志が体をそう動かせる。(息が吐きながら長く出る)ように思った。
呼吸、発声、フレーズチェック、練習のポイント 年の初めのレッスンだったので、トレーナーが練習のポイントを上げてくださった。1.声と息を吐きすぎない。2.力を抜く。3.もっともっとていねいに。(声、歌い方共に)4.自分の声を聞く。また聞けるようにする。(体を含め)5.音楽性を常に感じる。6.柔軟性を持って自然に取り組む。普段から先生が私たちにアドバイスされたことがほとんどだったけど、もう一度自分の置き換えて考えてみる。
1.については息吐きのトレーニングの不統一から少し前までそのようになっていたけど、今は意識してトレーニングはトレーニング、歌は歌と割り切れるようになったので、あまり心配はないけど、これから気をつけるようにする。2.に関してはまだまだだけど、呼吸の段階で気持ちと体をリラックスできれば力も自然と抜けていくことを感じられるようになった。ムラがあるのは心の問題なので大人になっていくしかない。それとヴォリュームをかけるのと力を入れるのは違う。3.は発声のときからそのように意識していくしかない。自分の場合はやりすぎないくらいていねいに扱う。自分にはまるフレーズを研究してコントロールする。4.はテープレコーダーに取って判断しているけどいまいち客観的になれない。自分がこうしたいと思っていることが、悪い方向にいっていたりすることもあるので広い視野を持って聞けるようにする。ここで自分とどれだけ向き合えるかだ。正直かなり甘い。それと体ともっと相談できるようにする。調子が悪いときなどないようにしたい。5.は自分いとって一番の課題かもしれない。結局歌は音楽なのだから、いくら声だけよくなっても、応用の幅が狭まってしまう。ヴォイストレーニングを生かせるようにたくさんの音楽に接し吸収していく。音楽をどう学んでいくかだ。6.はどれだけ自分に余裕があるかだと思う。遊んでいるかのように音楽に取り組んでいるのがベストかもしれない。すべてはどれだけ自然にできるかだ。ポイントを日々気をつけるだけで自分の感覚が大きくなると思う。器を広げるということは、今日の自分を超えることだ。
「ハイ」は、人間万能薬という気がしました。とりあえず今の自分の器では、何をやっても、あまり意味なさそーだと思ったのですが、単純に、「ハイ」でいいんだと思いました。理由がなければできない、というその理由は、自分のハイであることだと思いました。感覚そのものを言葉でいえないので、とりあえず、ハイなんだと。自分の手も足も、体も全部、細胞の1つ1つから、そのまた小さな世界まで、ハイなんだーと。まあ、ある意味で、できないことはない理由だと思います。自分が生きていれば、ハイは必ずくっついていること。ある意味で、自分の指導者っていう感じがしますね。困ったことがあったら、ハイにお願いすればいいんだ。なか宗教っぽくてイヤなんだけど。しかも、ハイというのは、みんなつながっているのでは、と。それがないと生きていないのではと。自分だけど自分じゃナイ。しーっかし、国外のアーティストはスゴイですね。生命力や躍動感、それだけで対処している。日本は歌という観念で、どちらかというと対処しているんだ。対処って変ですが、表現ですよね。外国人が日本の歌を聞いて、わかるわけない。
円を描くということが体で感じられた。あ~いま~いみ~も、こういうことだったのかと、今更だけどわかった。今日は、力で押したり、のどに力が入らないように、本当に自分のなかに流れるものを感じながら、そして、自分の内部から、出てくるナチュラルヴォイスに耳を傾けながら、やった。そしたら今までの自分の声が、とても、不自然で、無理な感じがしてきた。私の本当の声は、まだまだ芯のない弱い声だった。もっと体がつくられきたら、芯ができて、ムリはしなくても楽に、この本当の声が取り出せるようになるだろうと確信している。あとは、準備。自分なりの一番いい、そしてできるだけ、どこでもできる準備メニューを探しあてること。
緊張してしまうのが、どんなにもったいないか本当に理解できているつもりなのに、緊張してしまう。頭のなかでつくり上げたイメージ(先生から教わったことなど)が真っ白になってしまう。しかも自分がどう振る舞ったかさえ覚えていない。意識的に実践しなければならないはずなのに、これではどうしようもない。(=レッスンにならない)他の人で、見るからに緊張してしまっている人もいるが、この輪のなかで最もひどいのは自分のような気がする。リラックスしてやっている人もいるが、とても羨ましい。
「うまくやってやろう」という気はある。背伸びしたい気もある。失敗したらどうしようと気もあるのだろうナァ。結局ごまかして、だましだましやってきたような人生だったからナァ。人前は、やっぱり苦手。あれ、いつからそうなったんだ。ライヴのときとか、ギターやっている頃はヴォーカル押しのけて前に出てたのに。現実直視。・他人の目を見て話す。ひえ~怖い。とずっと思ってきた。いや「怖い」というのよりも、むしろ生理的なものかも。他人に目を見て話しかけられると、厭な気がする。今日もそうだった。だけどだんだん慣れてきたような気もする。なんだかくだらないところで迷っているような気が。ま、でもこういうところからコツコツと。
ビデオカメラを買おうかと思っている。今まで鏡を前にしながらやっていたが、自分の姿を同時に見ながらだと気がそっちに向いてしまい、うまくいかない。頭のなかで、今自分がどう映っているか、と実際に自分がどうしているかのギャップがまだまだとんでもなく大きく、かといって「表現」するときにそれを考えてしまうようではダメなのに、考えつつやっているところもある。せっかくいいものが世にあるんだから使わにゃ損。K先生も、使わにゃ損。私のためになるものなら、何でも使わにゃ損。
次回は声のメリハリと間、とのこととても自分のなかで大きなウエイトを占めている部分。(=欠けている部分)今日のようでなく体調を整えて臨みたいがきっと仕事はその頃ピークなんだろうナァ。でも、抜け出して、絶対行ってやる。行って表現してやる。
脱力、とにかく無駄な力の入ってしまう自分にとって、いかに声を出すこと、歌うことが力ではないというのを体に徹底してわからすことがとても大切だと思います。そのためには前回と今回教わった“脱力”するということが第一です。今回、一番感じたことは、1つのことで同時にいくつものことをやろうとしすぎていた、ということです。声、息、体、表現、リズム、言葉と1つで常に全てをやろうとしている。もちろん最終的に歌ではこれら全てが要求されるのでしょうが、1つ1つのトレーニングの段階では、どれか1つにきちんと的を絞ってやっていかないといけないはずです。個々のメニューにはポイントといものがあり、今回なら、いかに力を抜いた(だらっとした状態)で軽く出せるか、ということになると思います。
しかしながら前回までは体を使って強く大きくはっきりと出そうということを中心にやろうとしていました。これではメニューでやろうとしていること“ねらい”とは違ってきます。
今までは声、声、声、体、体、体とそればっかりに目がいっていたと思います。だから、たとえ数をやったとしても、力一杯やったとしても、今一つ改善されないし、余計なところにどんどん疲労をためていっているだけになってしまいます。仮に一つのメニューを与えられた場合、1人はその“ねらい”をきちんと理解し1年間やる、そしてもう1人はとにかく目一杯1年間やる。結果はどうなるか。多分前者は1ステップ上がり、後者は上がったり下がったりを繰り返し、結局は現状のままか、あるいは、もとよりも力が入っている分、悪くなる可能性が大きい。要は何がいいたいかというと、きちんと目的意識をもって取り組まないと、何年やってもさほど変わりはしないということです。だから素質のあるプロ選手であっても一流になる人と二流になってしまう人が出てくるのでしょう。今回のメニューはおっしゃっていたように、場所をあまり選ばず、どこでもやれるので、習慣づけていきたいと思います。
日本の曲というのは音によって呼吸が左右される。外国の曲は呼吸から音になる。日本は洋物をまねしたがる。気がするけれど、外国人がどのように曲を作っていくか、気にならないのだろうか。友人にアレンジのうまい人がいます。アレンジはうまい。それなりにやってきたというキャリアというか、そういうのが見えるけど、本人もどこか納得していないところがある。私も思うのですが、音で呼吸を動かされているのでは、と思うのです。呼吸から音に変換しないと曲を聞いても甘くなるだけだし、デジタル化が激しくなって余計納得いかないと思うし、何がしたいかをわかるには、ジャンルを見て、当てはめて当てはめようとしてしまうのでは、という気がしました。実際に、デジタル音は冷たいし。音の感じとしては悪くないにしろ、一歩足らないというのは自分の呼吸から取れた音の方向性がわからないからではないかな、と思いました。そうであれば、ベースの一本でもギターの一本でもいい気がすんですが。パットメセニーでも、あれはしゃべっているんでしょうね。と思います。呼吸があるから空気が動いているんだな、と思いました。呼吸のところ、今であるところ。それ以外の感覚を好きな人もいる。全ては呼吸で決まるんですね。
言葉を握ってそれで。これだけをやっていったら、たぶん音楽からそれていく。が、もう少し、今感じている限界を破るまでもう少し粘って詰めてみる。言葉の隙間に気持ちを詰めていけば、確かに棒読みではなくなるけどワンパターンになってしまっているから、それが壊れるところまでやってみる。フレーズになって音楽になれるところまでやってみる。私、ものすごく基本的なことができてない、簡単な曲が取れない。音楽がかたまりで聞こえない。福島先生のレッスンでもトレーナーのレッスンでも、音を取るより言葉と音楽の握りたいところを優先してやっていたから、自分は音を取れないわけじゃないから、そのとき外しても別に気にしてなかった。あ、外しちゃった、言葉をやると音まで取るのって難しいな、くらいにしか思ってなかった。違う、違う、違う、違う、違うんだ。フレーズのかたまりで聞こえてないから、自分のキィにもってこれないから歌えないんだ。どれもこれも詰めが甘い。キィを設定するということも体で声をつかんでいなければならないし、一番それができるのは、どの高さなのかを知っていなけりゃならない。
「Balla」これだけの簡単なところなら取れるけど、取れるところは多分、高校のときに嫌という程やった録音やソルフェージュがかすっているだけだ。声のトレーニングはもちろんすごく大切。言葉の練習も大切。もっともっと大切なことは先生のような耳になることだ。そうじゃないとレッスンにもならない。頭ではわかっている。コードで感じて大切な音は外さないようにして、自分でメロディを作っていくくらいでやればいい。先生のいう「強いアクセント」というのは言葉と音楽の要の音を指しているんだろう。歌い手のクセにのまれてしまっている。もっと単純に。先生が単純にっていうんだから単純に。難しく聞こうとしすぎ。「音楽のルール」それこそ楽譜の世界、2/2拍子、Em、コード進行はこう、という思いっきり土台のところをバーン、バーンと感じていればいいんだよ。その上でどうしたいか、ということをやる。バリンと破るのだ。水面に顔を出すのだ。この単純なことができるようになるには、どうすればいいのだろう。・毎日曲をどれかレッスンのようにしてやる。録音。比べる。やけくそ。差を感じた。差が悔しい。
練習の仕方を変えた。音楽を創るところから始めることにした。今までやってきたことはまったく練習になってなかったことを認めなければならない。音楽を聞くことからして、あさこよ、耳は起きているか。課題曲が流れてきたので、今やっていることに夢中になってしまったが、気づいたときにはレッスンは終わってしまっていて、トレーニングがもろ出しだった。曲を台なしにした。やってしまった。なぜあんな風に出してしまったんだといってみてもやったことしかできないんだから当然だ。簡単にいうとミルバがそっとおいているのに力むな、張り上げるなということだ。今まではものすごく、息を吐くということや、声をつかむということや、言葉を握るということが自分を縛っていて、そこから出てきてはいけないような妙な考えにとらわれていた。曲をやるときも、息はこう吐くべき、言葉はこう握るべき、そうでなければ歌ってはいけないなどと、どこかで思っていたと思う。今思えば練習をしているから安心という逃げでしかなかった、と思う。大変なだけでくそおもしろくもなかった。だから逆にした。そうしたら楽しくなった。一つ一つ確実に詰めていく練習は、とても大事だ。声や言葉をつかむことは下から一つづつ積み上げて登っていくしかない。でもそれは歌えないからやるんだ。歌いたいのに歌えないから、いっこいっこそこばっかり、声は声、息は息、言葉は言葉、リズムはリズムで練習するんだ。練習をしていると、これができないってことはここまで戻らなきゃいけない、とやっていくと音楽を創るところから遠くなってしまう。なってしまってもいいけど、そこでの部分的な完成度だけでは仕方がない。そっとおけないから練習するんだろ。大事なのはおもしろい練習をすることだろ。だんだん曲ができていくのがうれしいってのが練習だろ。自分がやってみると情けないくらいに音楽の入る余地がない。おきたい音がみんな点々になってしまう。音を取ろうとするのはいけない。つくり物になってしまう。ミルバは息でボリューム、メリハリを出せる。
イヤートレーニング、フレーズコピー・世の中にはたくさんの歌がある。そのなかでもよいものには必ず共通した何かが入っている。息は歌の生命線だと思う。最低限としてそれが流れてなくてはいけない。アマリア・ロドリゲスの曲にはうんざりするくらい集中した命の息吹が入っていた。聞けば聞くほど、そのレベルの高さを知り、実感すればする程自分の確かな基準として還元していくことができる。イヤートレーニングの必要性は研究所に来るたびに学ばせてもらっている。声はイメージに反射する物なのだから、自分のイメージは一流を聞いて磨き、大きくしていかないといけない。福島先生の「歌がうまいやつは、別に歌がうまいわけではない。出し方を知っているだけだ」というアドバイスはスコーンと心に刺さった。言葉にしてしまったら、なんて簡単なことなのだろう。このとき言葉はなんて不自由な物だろうと思った。そして結果だけがすべてということも改めて実感した。自分に入っていない物を自分で意図的に入れていくこと。耳から耳に抜けてしまわないように感じていく。そして今の自分の限界を常に出すようにし、それを客観的に評価できるようにする。そして新しい世界へ一歩一歩進んでいく。研究所のシステムがとても自由であり。確実に自分で学び、盗んでいける場所だと改めて気づいた。それがわかったからには後には自分の取り組み方がかかわってくる。自分の最大の敵は自分だということにも気がつく。自分が伸びるも伸びないも自分の気持ち次第だ。そろそろ重い腰を上げて鬼にならなくてはいけない。自分が集中したとき輝く光、それを出していかない限り、自分を変えることなんて死んでもできない。「いつかやってやる」の「いつか」っていつなんだ。今の自分と向き合えなくて何になる。一日が戦場だ。常に生きるための手段を考えていきたい。「すべてを見渡せる広い視野を、生き残るための丈夫な体を、そして生きていくためのギラギラした精神力を」がんばるという言葉でまとめてしまう。
私は、心で感じるより、頭で理論的に考えるタイプらしいことは以前から知っていた。Rのレッスンとかで、たとえば誰かとかが泣いてたりとかしても、私のノートには、声についてのことだとか、フレーズのまとまり方だとか、ステージでの動きだとか弾き語りしている場合なんかは、その技術について多く書いてある。もちろん、それも重要なことだと思うけど、心のおもむくままに没頭できることは少なくて、常に冷静でいるというのが、私という人間の一つの特徴であるようだ。そういえば、本気で怒ったことなんて中学に上がったときくらいから 記憶にない。感動したいな、と思ってレンタル屋でビデオを借りてきても、泣きたいと思って強引に泣いている気がする。自分で、その部分が足りないと知っているから、その部分を感じられる人間になるたがっているようだし、それができる人間が羨ましかったりする。自分の気持ちを押えるくせがついているのかもしれない。おとなしくて控え目、臆病で保守的に10代を生きていたからこそ、ロックにあこがれたのだろう。もともと前に自然に出られるタイプではない。全体が温和であることを考えるような典型的な日本人かもしれない。でも、そういたくなかったからこそアメリカに一人旅したり、自分を変えるようにしてきた。それによって本質も多少変わってきているようだけど、それでも常に冷静だ。トレーナーを見ていると、自分の冷静さがうらめしかったりする。アメリカ人とかもいきなり踊り出したり、大して危なくもないのに車同士で怒鳴りちらしたりして、その感情の起伏の激しさに感心する。それは表現者として一番重要な資質の一つであると思うし、私に足りない最も大きなものの一つだ。(でも声の方がもっとやばい)その辺はトレーナーの「アーティストにはクレイジーさが必要」という言葉や福島先生の「気持ちの素振りがたりない」という言葉にも直接関わってくる部分だ。とりあえず、音楽のなかに入っていけるようにしていきたい。
「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」バウバウでとるのはなかったけど、フレーズ感には欠けている。「good・by」は難しいと思います。「海に差す日に」は単独の場合はまだいいが、「タイム~」から続けて出すと、不安定になり口先に移行してしまいます。これはこのフレーズがイ・ウ音で形成されているからだと思います。「祈りを捧げて」は上のフレーズを続けると、かなりの音域があるために正直、このフレーズは自分の呼吸にまったくなっていませんでした。がなっている状態に近かった。「い」が最高音で、その音に直接いかず、ずり上げになってしまいました。悪い見本のようだ。「空を見上げる」は前のフレーズの影響でノドが上がってしまい、声になりにくくなっている。そして、その音よりも低く感じ、「タ」と同音とは思えませんでした。無理をするとかすれがでたりして、低音が響かなくなります。1オクターブ半はかなりきつかったのか、今回なぜこれだけの音域をやったのか、意図をしっかりと理解すること、正直、今の私にとっては大きい壁のようである。しかし出るとか出ないとかの問題ではなく体で感覚で1オクターブ半はこれだけあるということを知ったので、改めて自分の使える(トレーニングすべき音域)が確認できました。1年くらい前までは範囲を越えたところでやっていたが、やっとこの半年くらいで呼吸からはみ出していたことに気づき、無茶にならない範囲に押えることができるようになってきました。だから今回のフレーズも全体を通すのでなく、部分的にやればそこでやれるはず、あと、ことばでひっかるなら「ラ」などでやってみればいい。
エンドレス・ラブ、イメージ負けして、全部直線になってしまう。何とか自分のものにしようとしたが、単につまらなくなるだけだった。先入観が切れない。感覚が持てず、声を出しながら迷子になっていく感じがあった。ミルバやビルラをやって、動きがとれなくなるときと、似ているようで少し違う。どうしていいのかが最後まで決められなかった。知っている曲であるかどうかは、関係ない。曲はジョルジアらしかった。でもダイアナ・ロスのがあっさりして聞こえることが、いかにすごいことなのかを思った。どうやったって、ヒステリーみたいにしかならないし。
カタリカタリ テンポをキープしようとすることで、いちいちもたつく。動きを体全体で受け止められず、下において押すようになってしまった。くせで離してしまうパターンと、どうしても待てないところと2種類ある。いずれにしても、まだ中心でないところをすべっている。「嘆けども」の手前で戻すことができないので、その先を展開していけない。使い切ってしまわずに、音はおいても意識では、もっと早く戻していかなくてはいけない。でもそれが呼吸のところでできず、つい目一杯にやってしまうところがある。「忘れたまいしや」で集中力が最大になるが、そこに余裕が必要であるということ。なだれ込んでしまうと台ナシ。呼吸と一致することをうまくできなくても、ここは絶対そらせないところだと思った。場面を変えないといけない。フレーズとしては、こうしたらどうなるかっていうのが一杯出てくるようで面白い。言葉の切れ目でどうするか。そこで見ているところによって、次のフレーズが変わってくるのは、不思議なくらいだ。考えなくても、そこに場所が空いているような気がする。緊張していないと、そうならないこと、安易にとびつくと、ウソのように崩れてしまうこと。動かす原動力は間のところ。いろいろやってみて、別に強く出なくても、強まって聞える、というようなことをたくさん知っていきたい。
集中するというのは、追いつめられることではなくて、それによって、確実に次に行く余裕を生みだすこと。柔軟性ということの意味が、ようやく見えつつある。曲の大きさにのまれるのは、視野が狭いだけだ。イメージでいくらでも自分の体に合わせていれてしまうことができるはず。次の「ああ、つれなくても」の方が難しかった。センスが出てしまう。日本人のコーラスのおじさんの歌が(言葉が)気持ち悪かったが、かといって、こっちもはまるところをみつけられなかった。音程ではなく、リズムを感じていないと、しっくり合うところは取れない。「ああ」の置き方も必要以上に意識してしまう。無神経なフレーズは退屈するが、歌い手の意識が見えすぎると、しらけてしまうから難しい。これだから、読み込を手抜きできない。
まだ決めつけて歌ってしまうことを痛感した。どうしても形式以上のところではできていない。こんな感じかな、と思えたときは、いつも表現の方が死んでいる気がしてしょうがない。八方を考えていると、気が散ってよくなかった。もう動けないなずなのに、と思ったが、すぐに反応できるというところでは、こんなもので、結局ワンパターンのままだ。実際、みんなで回していても、節回しだけに回避していくものは、うまくてもあきてくる。そのやり方が生きている部分と、そうでない部分があり、それを立体的に感じとらないといけないのだろう。違うことをやってしまったときに、それがわかってもダメでいいものをいくつか出せて、それのどちらがどうだってことをやらないと。今はダメだと思うのはよかったりしてしまう。自分の声とか出したものを、きちんと見ることができてない。感覚に頼るのは絶対にやめる。そのときに出たものを見る。イタリア語の方がやりやすいことの1つに、リズムが見えることがあって、まだそういうところでつられている。自分でのせていけない。日本の曲の方がいつも練りこみに時間がかかってしまうのも、そのせいではないかと思う。
ーー
プレBV座 感想
プレBV座Vol.19プレ
1曲目は伸びやかな声と曲の感じが合っていて新鮮な印象を受けた。柔らかくのびのびとした歌い方もシャウトするような歌い方もできるから、表現に幅がある。「COME TOGETHER」と「LET IT BE」は、もともと曲に独特の雰囲気があり、オリジナルのコピーだけで歌う本人が気持ちよくなってしまう危険のある曲だが、Nさんは「自分だったらどう歌うか」ということを前面に出していた。事件を歌った日本語の曲は、MCで「言葉では伝えられない何か」についていいかけて、間をとった。そこで、引いてしまうのではなく、無理に言葉を探し説明するのでもなく、間で観客と向かい合い、「何か」を伝えるために歌う。自分だったら、あの間に絶えられるだろうか。
歌でいうべきことがあり、歌でいえるように準備してきて、真っ白になって観客と向かい合いそこに立っているかどうかの差は大きい。マラソンの有森選手が「スタートラインに立つまでに勝負は決まっている」といっていたが、ステージに「立つ」ということが本当にできる人は「立つ」前の準備、日常の過ごし方や考え方が違うのだろう。
2部のステージはMCも含めてより自分のペースにもっていった。40年前の恋人から突然電話がかかってくる、という曲の説明から入り、観客への問いかけでコミュニケーションを取り、自分の無防備な素顔も覗かせる。観客が曲に興味を持ち、個々の体験を思いだしたりしてイマジネーションが湧き、歌い手への親密度も増したところで歌を聞くと、聞こえ方も変わってくる。
1部1曲めの英語の曲と2部のスティービー・ワンダーの3曲は、「うまい」とは思うのだが、聞いていてドキドキワクワクはしなかった。深い声と曲の理解に裏づけられたメリハリのある歌は、安心して聞いていられる。だが、聞き手をハッとさせたり、わざと軽くして遊んだり、アドリブで動かしていく感覚があまりないような気がした。声とか技術がすこし目立ちすぎているような印象。
それに対して、2曲目と3曲目は、声の技術に支えられてはいるのだが、それを忘れさせた。ラテンのバラードはリズム・ノリの楽しさや勢いが前面にでていて、歌い手も楽しそうに見えた。「黒いワシ」は独自の詞の世界と音楽的な展開の緊張感が伝わってきた。しかし最後の歌詞を崩すフレーズは日本語だとやりにくいせいか、集中しきれていないように感じた。
音楽の好き嫌いもあまり激しくなく、どんな曲もそれなりに歌えてしまうから、かえって選曲に悩むのかもしれない。MCも含めて、おとなしくハメをはずさない印象があるので、理性を壊してしまう何かを盛り込めるような選曲が合っているのではないだろうか。2部の最初のMC(ニュースの時間です)は意外性があっておもしろかったが、体調が悪かったというような内容のMCは、観客への働きかけの意図をはっきりさせたほうがよいと思った(コミカルに話して笑いを取るとか、元気になったことを強調して逆にバイタリティーを感じさせるとか)。「大変だったんだなあ。」と思わせるだけでは、ステージとしては弱い。
登場しただけで独自の存在感を生み出しているのは長身や栗色に染めた髪のせいだけではない。煮詰まった内面、ステージに賭ける思い、一言も発しないうちから何かを伝えてしまう。客席を見ながら笑顔でという基本の登場ではないが、それは表現のスタイルであって、観客を無視しているわけではない。ギターのセッティングをしながらも、頬で会場の空気を感じているのがわかる。第一声を発してはじめて笑顔をのぞかせる、その瞬間に人柄がにじみ出る。
1部「紙飛行機」ギターの弾き語りはそれほど慣れていないのだろうが、集中力は歌から離れない。演奏に気がいって歌が薄くなったりしないのは器用だからでなくて、「伝える」という目的への執着によるのだろう。「ACROSS THE UNIVERSE」も、退屈になる危険大のスローテンポで単純な構成の曲をテンションの高さでギリギリもたせた。ただ、言葉を滑らかにつないでメロディーの甘さを生かせたら、この曲の魅力がもっと出せたのでは。一つ一つの言葉をハッキリいいすぎて音楽的な流れが制限されてしまっているように感じた。
2部「人生が二度あれば」は、印象に残る歌詞ではあるが個人的には共感できなかった。「ゆのみ」とか「漬物石」が出てくるせいもあるのか、ひと世代前の日本人的な自己犠牲の精神のようなものを連想してしまった。同じ暗いのでも、「球根」の歌詞のほうが共感できた。光の予感があるから。この歌を歌っているうちにTさんは汗だくになった。汗がライトに光るのがライブらしい熱気を伝える。言葉を自分のものにしていれば人と比べて優劣などはつけられない。その人の歌になっているから。
3部について
やっている当人たちも感じていたのだろうが、三人でやる意図が曖昧だし、MCもかみ合ってなかったし(わざとかみ合わせない演出でもなさそうだった)、選曲の意図もいまいち伝わってこなかった。
意図が曖昧な場合、メッセージ性のある曲は特に弱くなってしまう。だから、スマップの「FLY」のほうが他の2曲よりはよかったけれど、本人たちがいまひとつ楽しそうでないので聞いていてもいまひとつ楽しめなかった。
ーー
Vol.20プレBV座
「GIRLS TALK」遊び心のある歌は特に、表情・しぐさ・その他の演出も曲の魅力を伝えるのに大事なのだと思った。間奏で「女の子のおしゃべりは」とセリフが入ったのも楽しかった。「つばめのように」歌詞よりも飛んでくる音を聞いていた。この曲のイメージのなかに、テンションの高さとともに連れて行かれて、終わったときにボソッと「飛び降り自殺の歌です」といわれて、(今まで自分のなかに漠然とあった自殺のイメージとは違っていたな)と思った。曲の内容を先に説明しないほうが先入観なく聞くことができてよい場合もあるのだろう。
「樫の木の下で」「DIR John」親子が離れ離れになってしまうという状況や、ジョン・レノンへの思いは、自分が直接経験したことではないけど、だからわからないのでなくて人間の感情として同じ部分を持っているので歌いたいというようなMCがあった。時代・国・状況を超えて共感できる「思い」を取り出して伝えようという意志と伝える力は持ち味・強みのひとつだ思った。
私は自分が恵まれた環境で生きてきたことを後ろめたく感じてしまうことがあったが、自分の日常生活のなかで感じることや湧きあがってくる思いを大切にし想像力を使えば、体験のないことでも感じ、伝えられるという思いを新たにした。少女時代に過酷な戦時体験をしたオードリー・ヘップバーンは、「アンネの日記」の映画化への出演を頑なに拒んだそうだ。体験したことだからこそ突き放して表現できない場合もあるのだ。逆に体験していなくても体験者が聞いても感動するような表現をすることも可能だ。
吉永小百合は被爆や空襲を体験した人の作った詞の朗読をライフワークにしていて、広島や海外でも公演を成功させている。体験したことを表現する場合でも、一度突き放し、抽象化し、エッセンスを取り出したり脚色したりする。伝わるときにリアルであればいい。私はそのことを頭ではわかっているつもりでも、まだ形にこだわり肝心の「取りだし伝えること」を忘れてしまいがちだ。「Close TO YOU」他の曲では少し声が硬く聞こえたところもあったが、この曲では声もフレーズも自然で、それでいて強く心に迫る何かがあった。
一番の魅力は笑顔で、ニコッと笑うとこちらも何だかうれしくなり笑ってしまう。すると「何かおかしいですか」なんてとぼけてみせる。
「乙女のワルツ」三拍子のゆらぎの心地よさと、詞を生かしたフレーズに酔った。いきなり「Kワールド」に引きこまれてしまう。でも、2部はもっとすごいことになった。
「庭の千草」というアイルランド民謡では、ピアニカの表現力にまず驚いた。息の強さで強弱がつくのだけれど、そのつけかたが音楽的で詩情があり(つまり、心を揺さぶるような抑揚がある)、小学生の演奏とは比較にならない。単純な楽器ほど音楽的センスの差がわかりやすく出る。続いてのピアノによる弾き語り3曲も素晴らしかった。
歌もよいのだけれどそれ以上に演奏の表現力の高さに圧倒される。こんな演奏を聞いてよいのと思ったほどだった。特に椎名林檎の「時の暴走」は、聞いているほうもアドレナリンが出た。椎名林檎の歌にはミーハー路線では括れない密度を感じるが、オリジナルに負けない迫力だった。ちょっと「パダン・パダン」を連想させるような不気味な緊張感のある曲。演奏が終わったとき、場にはまだ曲の余韻と残像が渦を巻いているようだった。
3部「愛の言葉」「PEACE」はリラックスして楽しく聞けた。いわゆるミーハーな曲の親しみやすさも生かしつつ、必ず自分のフレーズで聞かせどころを作ってしまうのは、いつもながらすごいと思った。また、曲間にピアニストが「ちょっと待った」の合図を目で送った瞬間に、すぐに何事もなかったようにMCに入った反応の速さに、おっとりしているようでいて実はすごい速さで頭が回転しているのを見た。
「悲しくてやりきれない」クリスマスライブで初めて聞いたときにも感動した曲。そのときよりも今回のほうが、聞いている自分の悲しみまで包んで歌ってくれているような感じが強くした。感動して涙が出た。
青森と沖縄の民謡を混ぜ合わせたという歌は、声そのもの魅力とその土地の匂いがするような節回しが楽しかった。民謡のプロが聞いたら、いろいろいうかもしれないが、民謡のプロとしてというスタンスではないのでこのような試みもいいと思う。「ハーホイ」という掛け声には、民謡特有の気持ちよさを感じた。
ーー
クリスマスライヴ感想
三部の人は、素人目で見ても、殆どスキがないし、目の肥えた人が見てもよいヴォーカリストというのが皆だ。そして結局歌は音楽ということだ。音楽的はじゃない人は一人もいなかった。音楽を通して自分の見せ方をよく知っていた。一つのフレーズを聞いただけで、アッ違うという気持いい感覚を与えられる人達だ。歌としての表現ができている。二部にも自分を表現できている人はいたけど歌としてのよい意味でのまとまりを欠いていた。関西の人のパワーはすごかった。
Nさんという人は完全にヴォーカリストだった。フレーズの一つ一つ歌としての全体で、確かな意味を感じる。裏返ったりする声も意図的に感じられる。ヴォーカリストは技術派と情緒派に分れると一時期思っていたけど、その両方をプロとして持つ人だった。あの声の響きは忘れられない。
Fさんは優しい。間奏で会場が手拍子一色に染まってしまった、あの魅力はすごい。言葉の持つパワーをうまくコントロールして、自分をこれでもか、というくらい強く出していた。元気というものを与えられる勇気のあるヴォーカリストだ。自分がそれをやったら上辺だけになってしまう。心と音楽を動かさなくてはいけない。曲のよさ、自分のよさを予想もつかないところで動かし、伝えている。とても気持ちよかった。
Iさん、あれだけ会場が一つになったFさんの後に崩れないであそこまで伝えきれる、というのはすごい。音楽を感じさせる鋭いセンスがある。
Fさん、短い間に尾崎豊以上のものを見せていただいた。
Mさん、マニアックな名曲を自分のものにしていた。その人の人生を感じさせる。
Tさん、魂の声、体から湧き出る感情を歌にしていた。ストレートにぶつけることの格好よさ。Yさん、クリアでいて一つ一つのフレーズに厚みがある。自分をみせる、ということをとても考えている。Sさん、コントロール、フレーズのセンスがいい。入り方が繊細。どうしてここまで素敵にできるか、不思議な魅力がある。ここまで素晴らしさを出せる人達をたくさん観ると、自分の今日したことがとても悔やまれる。そして四部のステージはまたカルチャーショックとなる。
四部の人のはスキがない。三部の人はまだツッコメるところがある人が多かったけど、四部は我が道を行く人ばかりだった。三部と四部の差が一番あって一番難しい課題なのかもしれない。神様のような声が次から次から出てくる。
人間の声の素晴らしさ。ブレスヴォイスの素晴らしさ、同じここの生徒として自分をとても情けなく思う。トレーニングすれば先輩みたくなれるという甘い考えははっきりいって消えた。今のような中途半端なことをしていて、あのような声は出せないと思う。もう一度根本的な精神を叩き直してトレーニングしなくては、いつまでたってもいつまでたってしまう。今日のステージでやっている人の歌がわかるには自分の体でそこまでわかっていくしかない。電気ショックのような刺激を受けないと反応しない自分だが、今日このライヴを見させていただいたことは、とてもありがたく思います。基本あっての応用という言葉が残っている。インパクトを出せるのも地力があるからだ。地力をまずはつけなければいけない。10年スパンでも変われるかわからない。可能性という言葉はすべて自分だ。これから先のことはわからないけど環境をつくるということをもっと考えていかないと自分が自分に潰されてしまう。ショックを受けないと初心に帰れない自分の精神状態に幻滅する。