一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

投稿・おすすめアーカイブ 28026字 1058

投稿

 

 

ぼくにとって正にブレスヴォイストレーニングの始まり、それから早いものでもう6年以上の月日が過ぎました。研究所に入った当時はまだバンド活動をしていました。ステージに立つのは楽しかったです。しかし、正直にいって自分の歌、もちろん声においても納得のいくものではありませんでした。そして、トレーニング専念するためにバンドを去りました。もしかすると、そのときぼくは魂まで置き去りにしてしまったのかもしれません。そして、トレーニングをしていくにしたがって、自分の歌に対する自信のなさから、どうしても歌う気になれなくなってきました。むしろ歌うことから逃げていたような気がします。

私が歌を歌いたいと思った動機は、単純に憧れていたからです。それまでは、テレビの歌番組で歌謡曲しか聞いたことがなかった人間がハードロックという激しい音楽を聞いた瞬間に、その音にとても引きつけられました。正に琴線に触れたのです。魂が揺さ振られたのです。ぼくは、基本的に自分を表現するのが苦手な人間です。文章を書くのも、人前で意見をいうのも苦手です。そして、歌うこと自体は嫌いではなかったのですが、人前で歌うのはとても苦手でした。音楽のテストのときなど、とても嫌でしかたがなかったのです。そんな人間がヴォーカリストになりたい、と思ったわけですから、何が何だかわかりません。おそらく、抑圧されていた無意識が、魂が揺さぶられたことによって、少し顔を出したのでしょう。それからです。いかにして、あのような歌が、あのような声が出せるのか思い悩み始めたのは。まあ、勘違いに気づかないでいるときはよかったのです。深くも考えることもなかったので気楽なものでした。

しかし、ここでヴォイストレーニングを始めて、声や体のことを考え、トレーニングをしていくうちに、自分の声というものがわからなくなってきました。正直にいうと、今でも自分というものがよくわかりません。ぼくは、ここにおいて優秀な生徒ではありませんでした。決して怠けていたわけではありません。しかし、うまく活用しようと努力していなかったような気がします。そのことをつくづく実感したのは、去年の10月に京都で行われたステージ実習のVTRを見たときです。その瞬間、とてつもない危機感に襲われました。そこに映っていたぼくは、正に魂の抜け落ちた人間のようでした。ぼくは、このことに気づいていなかったのです。声や体に気を取られて肝心なことを忘れていたのかもしれません。魂のないところに、声や体がついてくるわけがありません。ぼくは、魂を目覚めさせなければならないのです。それには、もう一度原点に帰らなければなりません。しつこいようですが、ぼくにはやはり“ハードロック”なのです。トレーニングをしていくにしたがって、日本人には、あんな声は出ないだろうとあきらめたこともありました。しかし、基本的に頭の悪いぼくは、いまだに勘違いしているのかもしれません。もしかしたらと。でも、ぼくの魂をもう一度揺さ振るためには、それに挑戦するしかないような気がします。

別に研究所をやめる必要はないのでは、と思われるかもしれませんが、今まではただはっきりいって研究所に籍をおいていることで安心していたような気がします。やめずに続けていたら理想に近づくことができるのではと。しかし、自分でやらねばと思った瞬間、今まで止めることのできなかった研究所のことが、眼中から薄れてきました。当然、今の状態で納得しているわけではありません。しかし、いつになったら納得できる声になるのかというと、終わりはないように思います。そして、実際、年齢的なもの経済的なものなど、現実としていろいろ問題はあります。

だからこそ、今までブレスヴォイストレーニングで身につけてきたものを糧に、自分なりに挑戦していきたいと思います。まあ、何ができるかわかりません。何もできないかもしれません。もう一度、魂が揺さ振られるを感じたいだけなのです。ただいえることは、ぼくは本当に“ハードロック”が好きなんだと思います。

福島先生は、ぼくにとっては近づきがたい存在であり、ほとんどお話する機会はありませんでした。しかし、いろいろなお話を聞かせていただき、本当に勉強になりました。本当に長い間、お世話になりました。本当にありがとうございました。

追伸、最近、つくづく思います。ぼくは、本当に歌うことが好きなのだろうかと。もしかしたら、これが本音かもしれません。 

 

自分で考えたこと・これまで何をしてきたのかという気持ちになった。基本をおろそかにしていたのが暴かれてしまった。私はいつも、表面的なかっこよさから離れられなかった。人の評価を気にしていたのかもしれない。まともに聞こえる歌というものを第一に求めたから、意識的、無意識的に小さくまとめていった。声に関して、具体的には、響きでまとめた。これでも入会したときから比べれば、私の「まともに聞こえる声」というのは身についてきたつもりだった。声に関しては何回か気づくこともあったし、理解しているつもりだった。しかし、それでも歌のなかで、発声に気をつけていないと、大きくずれる危険性を常に感じてきたし、調子の悪いときは、まったく、元に戻せなかったりしていた。これから音域が伸びていくとも、あまり思えなかったし、歌のなかでも、何か自由さが少ない気がしていた。テキストのメニューがうまくこなせなくても、それほど突き詰めて考えもしなかった。そう、一つのことを突き詰めて疑っていくということさえしなかった。どういう訳か、自分はうぬぼれ屋で、何もできていなくても、それで自分を守ろうとするところがある。反面、そのせいで、ひどく死にたい気分になることもあるので、それをも避ける傾向にあった。

半年くらい、その理由であまり来なかったので、そのツケがきたのかもしれない。目的は、できるようになることで、練習することではないというのは、普通の人にとってはあたりまえだろうが、自分にとっては正しくそれを理解していなかったと思わざるを得ない。一つのメニューには理由があり、自分が歌うものにも理由があり、そのために声を求めるのにも理由がある。そこをいい加減にして、練習をした気になっていても身につかないし、やっていけるはずがない。何をするために何が必要で、それを手に入れるためには、どうするべきか。そういったところから人間の行動は、始めるべきで、それはあたりまえということは、それだけで、そのことを処理するべきでない。本当に自分にとってのあたりまえになっているかどうかが問題だ。私はいつも、自分の身から出たものではない一般論を、権威のあるもののように振りかざす人達を憎んできたけれど。自分も同じだ。そんな人達のことが気になっていること自体が、自分が、自分がよりどころにしている他の何かが崩れるのを恐れているということの証明だからだ。

よく会報でレッスン生の感想で「基本のないところにいくら積み上げても、すぐに崩れる」みたいなことを書いてあるけれど、まさに人生とはそうだ。私はかっこつけていただけで、一般の人とはちょっと違うところによりどころを求めていたに過ぎない。本当によりどころになるのは、ここでも福島先生でも、あるいは声でも歌でもなく、自分のなかから本当に出てきた「あたりまえのこと」なんだ。もっと自分に責任をもたなければならない。私は自分があたりまえであるべきだと思うものをあたりまえにしたいし、あたりまえにしたいと思うものを自分にとってのあたりまえにしたい。他人は自分にあたりまえのことを提示してくれても、自分にとってあたりまえにすることとは別のものだし、それこそ血のなかから生み出すようなものだ。

人から何かをいわれた、ああなるほど、わかった、わかってない。わかるためにはそれをきっかけにして自分のなかからゼロから生み出さなくてはいかない。私は自分の足で立っていなかったし、立とうとしていなかった。何もかもが自分の選択によって決定してきたし決定していこうということを、きちんと認識する必要がある。呼吸していることに責任をもたければならない。一秒生きることに、責任を持たなければいけない。一声出すときはそれこそ責任を持たなければならない。自分の人生は自分でどうにかしなくちゃいけない。あたりまえにことだけど、あたりまえになってない。

 

リルケの「若き詩人けの手紙」という本のなかで、リルケが若い詩人に対して「あなたがすべきことは外に評価を求めることではなく、自分を深く探ることです。あなたが詩を書かなくては生きていけないかどうかです。もし、書かなくては生きていけないのなら、あなたの人生はこの先、その科白の証明でなくてはいけません」というようなことをいっている。私はそれを読んで感動したし、そうだ、と思ったけど、自分のあたりまえにんっていない。それはリルケにとってのあたりまえで、私にとってのそれではない。こうして考えると、これまで、自分が気づくチャンスに何度も出会いながら、気づこうとしなかったことがわかる。あたりまえのこととして他人がやっていることを自分もやれば、自分のものになるのえはない。自分がどうなりたくて、どういう面から何を求めてどうするか。一秒どう生きるか。自分に根づかせていくことだ。宝石にように輝く、貴重な息吐きをやっていきたいと思う。常に自分を、道を見つめ続け心を呼び起こし続ける。こうして書いたことを自分にとってのあたりまえにすることこそ重要で、これまで自分が今イチ踏み込まなかった部分だ。このチャンスを絶対に生かす。

 

その場に立つ・いつも、何回でも、繰り返し自分にいい聞かせること。そこに立つ。身体も気持ちも、まずはそのばに立つことから始まる。大事なことで難しいこと。難しいというのは、まず、あまり意識しながちになることが一つと、もう一つは意識しても立てないということ。音に関していろんなことをやっていることもあって、自分が声を出すときにも、発声、音程、リズム、音色、ことば、フレーズ、歌のイメージ、いろんなことがいくらか聞けるようになってきていることもあって、その「立つ」という、自分が自分のまんなかから何かを取り出す、みたいな原点のところがおろそかになりがち。そして今回こう気がついて、そうだったと思っても、またすぐ他のことが入ってきてまた忘れてしまうにちがいない。だから、この関係のことは本当に、いつも何回も繰り返し、自分にいい聞かせていかないといけないと思う。固定・トレーニングは10中9は捨てる。ほとんどが無駄なこと1/10くらいの本当に大切なところ、気づいたところ、トレーニングになっているところ。それを覚えていること。1/10のレッスンで何かをつかんだら、それを何十回も何十回も、何年もかけて固定する。それを最低限にする。私がもしトレーニングを始める前にこれを聞いたら、それは極端なんじゃないと思ったかもしれないけど、今では1/10とか1%とかしか身にならないというようなことはあながち誇張でもないのだろうとも思える。もちろん、「この方法ではダメだ」というのがわかる分、まったくの無駄ではないだろうけど。とにかく本当にこれまで無駄なことばかりしてきたし、これからもしまくるであろうことを考えるとおそろしい。1/10やら1%につながる無駄にしなければ。

 

歌いこむ・他のところは何というわけでもないのにあるフレーズのある部分で、その人のなかで何かが動いた感じを感じ取れたときがあった。この“動く”、“動かす”ことにもっと敏感にならないといけないと思った。それは自分が歌った後だった。どうして歌となると、うまくいかないのだろう。1フレーズのときは、まだもう少し思い切りとか気持ちとか、まだいくらかはあると思うのだけれど。発声、音程、リズムに気が行っているということもある。それも大事だけど、そのために、歌の世界を感じることがおろそかにんってはいけない。1つの曲を歌いこんでみるとよい。詞を何回も読んで解釈する。メロディを感じる。フレーズ処理をする。自分のものにしていく。そうすると、1度その歌から離れてまた戻ってきて歌ってみたときに新しい発見が見つかる。こういう体験はあまりないが、きいているだけで楽しそうだと思った。何度も聞くことだが、生を聞くことが大事。これもいつも以上にわかるような気がした。現に今回、他のみんなの歌を聞いただけでも、以前とちがうところが聞けているかも、と思うからだ 。

 

今日、帰ってテレビを見ていてたらプロのタップの先生と練習生をシルエットだけで当てる番組がやっていた。やはりシルエットだけでも、その足で奏でるリズム、強弱がはっきり違いがわかった。そのなかでプロがいっていたアマとの一番の違いは「リズムを体の中心で捉えること。足先はリラックスさせるで、動かせば、体勢もくずれない。」とのこと、どの世界でも、リズムを体の中心でとることは同じだし、使うところをリラックスさせるものなのだ。

 

もう一度なぜ自分がここに入ったのか、そしてなぜこのレッスンに出ているのか、ということを考えさせられました。そう自分は、小さい頃、今もそうですが、数々の素晴らしい素晴らしい曲をきき、歌手の歌に心を動かされ、自分もかくなりたいと思ったのです。しかし、さまざまな要因がありすぎて、つかみづらい自分と彼らとの差、それをもっとクリアーにして少しづつでもつかみ、ものにするために今ここにいるのだということ。そして、今、必要なことは、よいものをよく聞くこと。そして音、声に対しての感覚を磨くこと、そして、その音、声から必要なものを気づく力を得ることなのだということ。そのことをふまえた上でレッスンをしなければ、なぜ自分がこのレッスンをしているのか、なぜ深い息を吐いているのか、その大元にあるものにきづかないし、ただ、その時間を埋めるだけのレッスンになってしまう。そういう準備の段階ができた上で初めて歌、声を学ぶことができるのだ。

 

「歌がうまくなるのは結果だ」と先生がおっしゃった意味が少しわかったような気がします。そう、音の世界の上に立って、そのなかから足りないものに気づいて、つかんで、まずは音楽の世界に立つことから始めなければならない。そのためにはもう一度、なぜヴォーカリストになりたかったのか、どうなりたいのか、将来のことについても深く突き詰めて考えなければならない。そんな大切なことを今までうやぬやにしてしてきたような気がする。ただ歌が歌いたいからだとか、みんなに感動を与えたいとか、そこにさらになぜ、という問いがなかったような気がする。そして、今の己を知る。声もしかり、体もしかり、そこから初めて全てが始まるのだ。そしてよいものを沢山聞いて、感覚を磨いていきたい。

 

心に残った「ひとの言葉」

町田康(作家、俳優)―普段、人間がやっていることは滑稽なので、それをじっくり観察してていねいに書いてみると、それだけでも面白い場合が多い。・松本隆―理想は先に言葉があって、そこに抑揚がついてメロディーとなり、サウンドとして広がっていくこと。小川から急流になって、最後に幅の広い大きな河になる。モノのつくり方にはそうした流れがあると思う。でも最近は商業主義的な考え方が横行していて、流行の音をつくり、それに合うメロディーを載せてから言葉を押し込めてしまう。曲としては売れるかもしれないが、歌そのものの生命力は落ちる。・不明―尺八は吹いたって鳴りません。吐かなくきゃァ。

 

阿久悠―僕は「心に滲みる歌」ではなく、「叩く歌」を意図することがあります。・小池―蜷川(幸雄)さんは「観客を3分以内で引き込まないと舞台はダメだ」とおっしゃる。コミックも似たところがあって、ぼくは7ページまでといっているんです。つまり、そこまでに感感情移入させないと、作品は生きてこない。・神津カンナ―けれども、そのたびに思い出すのは祖父の言葉である。「ほんとうにそう聞えたのか。ほんとうにそう見えたのか。ほんとうにそう感じたのか。」

 

吉田日出子 それらしく見せる、ということにはさほど 興味がなく、そういう演技を生み出す訓練はしてこなかった。それだけが演技ということではないと思うから。無理矢理言葉にするなら「念力」ね。ほとんど自分のなかから湧き出してくる念力のようなものでやっている。「いま私こういう感じなんだけど、わかる」という感じ。そこにある時間であるとか、空気であるとか、そういう感じを大切にしたいの。2.私たちの芝居というのは、私たちが劇場の壁のなかでやっているものを、観たいと思った人達だけが、チケットを買って観る。でも道化たちはサーカスだけではなくて大道で、通りがかりの人や、たまたまそこで待ち合わせた人とかのなかでも演る。彼らが、お客さん、ひとりひとりの心をつかめるというのは、そういう場所でそれだけたくさんの人達に出会ってきたからだと思うのね。

 

恋の歌なのに、なぜ体のなかにたまったものが外にでて、それが“表現”という形にならないのだろうか。今まで恋をしたことがないわけではない。今日の歌の歌詞が難解すぎてわからないわけではない。では、なぜ。なんだか、私の体のまわりにはバリアみたいなものがあって、外に出しているつもりでも、跳ね返ってきてしまい、それを自分の耳で聞くので、できたつもりになってしまうような感じだ。私の場合、音程をとっているにすぎない。歌詞を正しくいっているにすぎないのだ。

 

BV座でトレーナーの歌を聞いたが、「あ、今間違えた」とか「よい声だ」とか「何をいっているのか」よりも、ドーンと先生の心の表現がぶつかってきた。それに3分間ひたった。ミルバがバラを持って悲しい歌を歌っていたが、言葉はわからないのに、悲しさ、せつなさがビビッときた。

 

先生が「今回の曲をエンゲルト・ウンパーティングが歌ったが、おき方などが違うのに、伝わるものは同じだった」といっていたが、結局、プロ、できる人というのは“表現する”ということをしっかりわかっている人なんだろう。

近づきたい。何とかしたい。なぜ私はこんなに一人よがりでまわりをシラけさせることしかできないのか。なぜこそれを“表現している”などと思ってしまうのか。なぜとつきつめると、「悲しい歌なら、まず自分自身がひたって泣けばいい。そうすれば、聞いている人も泣いてくれる」という自分勝手な考えのせいだ。

 

前に私はアテンダンスに「なぜ泣いてはいけないのですか」と書いた。それは、つまらない自費出版の半生を書いた本のように、いやそれ以上につまらなく、他の人に失礼なことだ。たとえば「愛の讃歌」で、「いっ今からうっうっ歌います。あっあなた~のもえるうっうってで~」と泣きながら歌われたりしたら、シラけるどころか、腹が立つ。それより、プロの「あなたの燃える手で」の方が感動する。「あなた」がどんな人かさえ、思い起こさせてしまう。そこがプロとカラオケ名人の差だ。今までの自分の考えが大変に一人よがりで身勝手だったことを、まず反省したい、そこから1歩始めよう。他の人より遅い、出遅れたことになったが、今こうして“表現”という言葉をかりて、自分を押しつけていた自分自身のなさけなさに気づいたのは収穫だと思う。“表現”とは一歩まず自分がひかねばならない。そして自分で自分をみるように外側からも働きかけるものであり、内側ものを吐く(ゲロのように)だけのものではないのだ。

 

 

イヤートレーニング フレーズコピー・イヤートレーニングとして沢山の一流の歌を聞けた。ジプシーキングスというバンドはとてもおもしろいと思った。ドメニコモドォーニョの「ヴォラーレ」を完全に自分達の形として取り込んでいた。アレンジやテンポの違いもあるけど一流の感性の感覚の違いを強く感じた。イーグルスの「ホテル カルフォルニア」も得意のラテンロックの形でものにしていて、曲の新しいよさを気づかせてくれる。「マイ ウエイ」も布施明のようなウザイ音域を感じさせないで、福島先生の曰く上の“ソ”のところまでポジションを変えないで歌っていた。オリジナルの「ジョビジョバ」は特にスピード感を強く感じた。ラテンのリズムだからそう感じるのじゃなくて、言葉のスピードを感じた。切れと高いテンションを学べた。

岸洋子の「ヴォラーレ」は一番が日本語で二番がイタリア語だったけど、日本語のときは入りこんでずらしているみたいな感じで少し強引な個性に感じたけど、伊語のときはフレーズが自然につながって感じ、彼女の感覚の大きさを感じた。一番と二番の間で上質な潤滑油でも使ったかのように滑らかに変わった。グラシェラスサーナの「アドロ」もそうだけど、一番を日本語で二番を原語で歌っている歌は、日本語の音楽的処理の仕方を勉強しやすい。それと一つの曲を違う歌手で聞き比べるのも、歌手の個性と一流の共通するフレーズ感覚を勉強できる。まず、自分が学ばなければいけないのは、個性より一流の共通するフレーズ感覚だ。それを考えていくとやはり基本の大切さを強く感じる。一流の歌は必ず基本がしっかりしている。スポーツでも華やかなファインプレーの裏には、そのファインプレーが起きるだけの確かな基本の土台を持っている。体、声、息、耳、身につけられる基本的なことをここで学べるので、応用という創造のために一つ一つを確認していく。後半は「ヴォラーレ」のフレーズコピーだったのだけれど、福島先生のアドバイスで「三連譜なんて少しゆっくり感じればいい。日本人はポツポツおいてしまう」といわれたので自分の今までの三連譜の曲の感覚を思いだした。

「アデュー」も三連譜がたくさん使われていたけど、そのときいろいろ練習してみたけど、どうもしっっくりいかなくて、結果としてポツポツおいてしまっていたことを福島先生のアドバイスで気づかせていただいた。ゆっくりしゃべるように言葉をおいていけばいいんだ。曲を素直に感じればいいのだ。頭を使い、また頭を使い本能を使うみたいな感じだ。言葉というと自分が普段やっている基本のことだ。やはりここでも基本の厚い壁が自分の前に立ってくる。どれだけ普段から自分と向き合っていたかの勝負になる。レッスンは熱く無情なものだ。それでも福島先生の寛大な心は強く感じる。言葉を自由に使えれば自分のやりたいことができるようになる。アクセントの問題も感じられれば自然と出せるはずだし、わずかな光のようなものの感じを少しつかめた気がした。感覚というものはお金では買えない。だから、皆がお金を払って芸を観に来る。それだけに、芸人として感覚がなくなってしまうことを考えると、恐ろしく青ざめる。だけど調子が悪いとか、スランプとかはあるかもしれないけど、積み重ねてきた基本はそう変わるものじゃないと思う。だからこそ、改めて自分の姿勢を見直す必要がある。流してしまうことは誰にでもできる。誰にでもできないことをしなければいけない。

岸さんの歌では、唱歌風で「ジェンカ」みたいな雰囲気だったのが、原曲では、ジャンニ・モランディ張りの、叫び系ポップス調になっていて、同じ曲でも随分異なる点に驚いた。自分は後者が気に入ったが、日本語で歌うと岸洋子バージョンがおおいかぶさってきた。Aメロ部、後ノリっぽく粘った歌い方が心地よかったので、そう歌ってみたら、平尾昌晃みたいにデレーッとした歌になったようだ。ためて歌うというか、後ノリ的に歌う方法も、とってつけたようではダメで、リズムや言葉がしっかり自分に入っていないと自然に聞えないことがわかった。サビ部は、とにかくポップス調のリズムが気持ちよい曲なので、リズムにジャストではまるよう心掛けた。繰り返しになったら、少し喰うくらいの感じで歌ってみたら、よい感じが少し出せた。ラストの「ザイザイザァイザァーイ」から「ウオッ」のところは、意味はよくわからなかったが(たぶん感嘆詞だろう)悲しい音色を出したいとだけ考えた。「ウォゥオッ」の繰り返しでは、自分の叫びはまだ足りなかった。軽かった。叫ぶ言葉で短いフレーズだか、よく余韻の残るよい曲だと感じた。突然合唱になったけど、後で思うとそういう曲なんだということから、ステージで使えるし、生かさないといけない(曲の特性は)ということがわかった。突然とか意外なことは楽しい。ライヴなノリを出せるように考えてゆきたい。

 

福島先生が「自分のこととして引き受けていない」といっていた。この前新人ステージの2回目に出た。そのときに1回目の人たちの発表を聞いていると、おもしろくない。もう、「早く終わってくれ」とまで思ってしまった。自分で書いた文章ですら、自分のこととして引き受けることができない。

漫画家の小林よしのりさんが『「言葉」は人を殺し「言葉」は己の命取りになる「言葉」に血肉を通わせるべきで「言葉」には覚悟が必要だ』と、いっていた。「言葉」に血肉を通わせるのは難しい。

 

 

 

心に残った「ひとの言葉」を書いときます。(一字一句正確ではないけれど)

 

美空ひばり  ベテラン歌手ともなると、昔の持ち歌をずらしたり、くずして歌う人があるが、最初にその歌と出会ったときの感激を忘れてはいけない。・ビートたけしやすきよの漫才を100メートルとすれば、ツービートの漫才は10メートル、ダウンタウントークはセンチ単位をつきつめて笑いにする。

 

ジョン・レノン ビートルズの歌は僕らの日記だった。

 

岡本太郎 芸術家(アーティスト)の役割は、流れに乗ることではなくて、時代に「ノー」ということだ。・三原康裕(ジュースデザイナー)―僕達の世代は現在をつくるのではなくて、未来を創っていかなきゃいけない。僕はただ待っているだけの未来は必要ないと思う。毎日考えて、何かを創って答えを出していくことで自分の未来を創っていくしかない。だって、そのために自分の腕(技術)や毎日やってきたことがあるわけですから。

 

都築響一 その場が面白くないと思うのは、自分が座って待っているだけだから。自分で面白いことを探そうとしないからです。つまり、“おまえ自身が面白くない”ということです。

 

秋田寛(アートディレクター)デザインという仕事は修行ではないので、楽しく仕事しなきゃいけない。でも、どんな仕事でも「もうこれ以上は出ない」という最後の最後までアイデアを絞り出すことを心がけている。たとえばひとつのマークに対して100枚のラフスケッチを描く。たとえ100枚描けなくても、気持ちの上ではそうあるべき、それぐらいの気力でやることで、さらにその向こう側の世界が見えてくる。

 

仲条正義(アートディレクター)全ての芸術というのは未完成の力強さ、若さゆえの暴力性といった要素を含んでいて、そこから新しいものが生れてきている。デザインも合理的に定着させるばかりでなく、整合性といったものを越えていくことが大事。新しい「ひっかき傷」を残せるような新兵器をいつも考えています。・大場満郎(冒険家)―冒険において、他人に頼ることがいかに危険か、ということを痛感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーー

 

おすすめ

 

アズナブール

歌を聞いて終わったら、拍手したくなってしまったこと。「だけどー だけどー 好きなんだー 」をずっと繰り返していて、何の作業も見えない。、わめいているようにしか聞こえない。ということは、心からわめいてしまう心情はしっかりと見えて、音楽にもなっている。ここ、少し変えているんだなとか思うスキをくれなくて、いいたいだけいって曲が終わった。何がどうすごいのかいろいろあるのだろうが、そのときはただ生命の原点みたいなものだけがとんできて、くどいとか妙な歌だという印象も吹っ飛ばされて、感動的だった。あまりのことに笑いが込み上げてしまった。こうもっていこうと思う時点で、すでに遅れる。その時間差が感じられた。やはり遅れるというのは、決定的に音楽が冷める。自分のテンポといったって、まだまったく、テキトーであいまいなものにすぎなかった。「エリザのひとみ」の方では密度を出さないといけなかったが、「想い出のひとみ」でアズナブールのを聞いたら、さっき自分のやろうとしていたいたこと(いつもやっていること)が、いかにもうすのろな、ドテッとしたものに思えた。やっていることと声の間にすきまがある。余計なところをめぐっている感じで、体や皮膚から直接に発していない。楽器としての問題、それから自分の音楽というものが、どの程度あって、求めているかとうことも。直したり、得ていったりするのと同時に自分だけのものを、もっと確立する。絞りこんで、あらゆる方向へ出して検証することを、毎日詰めることだ。好き嫌いは誰にでもあり、必ず、人には嫌われるのだ。私はアズナブールは嫌いだ。女々しい感じがするからだ。そういう個人的などうしようもないものをつくがえすことくらい、すごいものがあるだろうかという気がした。あれだけのことのなかに生きている音楽の力に打たれる。自分のもの。自分はこうだ、というもの。それが音楽として力を持っていること。自分を知るために、もっと判断する力をつけたい。フレーズの行先を見てしまうのは 野暮ったいことだけれども、それを徹底的にしないと、見なくてもすむようにはなれない。だから今はもっと、深くしつこく見なくてはいけない。私も、何も考えてなくて、「だけどー だけどー 」といって伝えられるようになりたい。ひとつのことしかいっていなくてもシンプルなものは、それだけで、全てを内包してしまう力がある。それと、どんなにがんばっても線が細かったり、うねらないと弱いな、ということも改めて感じた。声を鍛えるというよりも、持てるエネルギーを全部きちんと声に変換できるようにすること。比較でなく、自分の内側のスケールを大きく、目盛りは精密にしていく。狭い世界を自分で作らないように。本当にめちゃくちゃに投げつけているようでいて、それが面白いように自由に広がっていくというのを見て、それは自分のセコさを見せけられることでもあったのだが、歌が素晴らしくて希望がわく。

 

ビル・T・ジョーンズ

人間の肉体の表現。黒人。「アンクル・トム」の舞台。彼の舞台は自分の過去と向き合うこと、何かを信じたいという欲求―信仰からできている。ダンサー達も自分の人生を踊るセリフを自分でつくる。「強い意志、寛容や優しさが暴力に勝ってほしい。私なら子供をそういう風に育てる」カンパニーはごった煮だ。体操出身のプエリトリカン、バレエをやっている混血、両親が軍人だというフィリピン人、フィラデルディアからきた仏教徒、ダンサーになるつもりのなかったダンサーなどなど。10人と4人のゲストで14人。ビル・T・ジョーンズはそれぞれの個性を活かす振り付けを考える。メンバーを選ぶときのポイントは独創性。異なる身体言語を持つ。素早いキレのある働きが得意な人、小柄でも激しい感情表現ができる人。

「舞台は詩だと思えばわかりやすい。あらゆるものを並列することが可能だ」バラバラの動きが気持ちがいい。ごった煮のステージが気持ちがいい。第1幕「小屋」。あの照明と間違えられた太ったおじさんが、妻。軽蔑の言葉だったという「アンクル・トム」。彼にとってはjokeではなかった。彼はN.Y.育ちだが両親は移住労働者だった。差別。農園主が父親と息子を袋に入れて焼き、タバコが欲しいという者に父親のペニスを切って渡したという話。病気に倒れた娘を見舞いに行きたいというのを却下され、こっそり抜けだしたところをムチで打たれたという祖母の話を聞かされて育った。1幕は黒人のダンス。練習風景。ビル・T・ジョーンズの口ずさむ音楽に合わせてステップを踏む。ステージで使うのだ。即興かと思った。即興かな。アンクル・トムをどう思うかという議論。立ち上がらなかったから嫌いだという人、でも信じるものを失ったから支持するという人それぞれ。キーは不調和。肉体にしても。第2幕「氷上のイライザ」川に飛び込んだイライザ。川の向こうには自由。モデルはリジュナーという女性。イライザをこづきまわす犬は“皮肉”の役。一人目のイライザはショーカットの背の高い黒人の女性。女性の強さを表現する振り付けをした。野生の動物の前足を思わせる両手の動き。「16人の子供はみんな売られていった。でも、あたしは女」「ハレルヤ。あたしは強くて美しい」二人目のイライザはさっきの小柄で激しい感情表現をする人。彼女が演じたのはユダヤ人女性。踊りの表現なのにセリフが多い。自身の経験から彼女が決めたセリフだ。信じるものがわからなくなった。「私は信じた」三人目のイライザは顔の小さいスラッとした白人女性。男を征服しながらも不安をぬぐえない女性の役。四人目のイライザは美しい東洋の黒髪の女性。男に翻弄され、もてあそばれる女性の役。犬に持ち上げられて胎内へ消えていく。4人のイライザはリジュナー=女性の4つの人格を表している。体操をもとにしたという犬のダンスが面白かった。画一的な体操に対する皮肉だという。ビル・T・ジョーンズは高校時代に体操と演劇をやっていた。第3幕「晩餐」男性にパンプスをはかせた。「我々のセクシュアリティは男でも女でもない」「皮肉じゃない。血を吐くような思いで作った作品なんだもっと細部まで見てほしい」3幕は母親と信仰について対話した結果だ。ビル「神を信じなかったことは」母「一度もない」信仰とは何か。ビルは友達をエイズで亡くした。「地球上の何十億という人間の中で唯一一人の伴侶だった。僕を愛してくれた人はいたよ。でも二人で一つの大陸を形成していたのに」ダンスのパートナーだった。「やり残したことがたくさんあるという無念のうちに死んだと思う。彼ほど最後まで生きようとした人を知らない」アーニーが発病してから、ビルは生活の全てを彼の看病に捧げた。「死にたかったよ」第4幕「約束の地」作品の破棄を試みる。ヨブの物語へ。そこにはビルをはじめアーニーや多くの人の姿がある。幸せだったと思うと突き落とされる。皮肉はヨブが全てを取り戻したということ。アーニーは生き返らない。信仰とは何か。4幕では全員が裸にならないといけない。

「率直に、人間の裸体は美しい、ということをいいたかった」ダンサー達は自分は一体何者か、ということを考えざるをえない。4幕では公演先の地元のダンサーを2、30人使うのだが、裸になりたくないという人もいる。考えというより気持ちの問題で、裸で舞台に立ったあと知らないうちに涙が出ていたという人。あの太ったおじさんも話が出たときに反射的にOKしてしまったものの、いざやる、となったら抵抗があったという。「デブだということを認めろ。この作品で大切なのは“違い”だ」ビルの敬愛するキング牧師の「私には、ある、夢が」と裸になった人達が叫ぶところがある。共同体なんて、死後の世界にしかないのかもしれない。でも地球の上で、怒鳴りあいでもなく、殺し合いでもなく共同体に。そして静けさ。「我々は同じ信念を共有する。自分もあそこに入れるだろうかと、それくらい彼や彼女を信じられるかと、自問してみてほしい」この作品は寛容や優しさがテーマ。人を受け入れる。信じられるもの。血を吐くような思いで完成させた舞台。

 

キング・クリムゾン

「エピタフ」という曲を、ある人からすすめられ聞いてみました。キング・クリムゾンは初めて聞いたのですが、詞の内容がすごく芸術的でぶっとんでいる感じがしました。ヴォーカルとバックのサウンドは物悲しい感じでドラマチックに展開していく。ヴォーカルはすごくシンプルで、あまりくせがなく、聞きやすい。どちらかというと硬派な感じで、男の悲しさ、むなしさ、孤独、死、みたいなものが感じられる。

このエピタフが入っているアルバムは、何かコンセプトアルバムっぽく、曲数が少なく、一曲が長くて全てで一つの物を長くしている感じで、どの歌詞もただのラヴソングじゃなくて芸術的で、大変勉強になるアルバムです。じっくり聞いていきたいと思います。

 

 

マリーナショウ

タックアンドパティー・マリーナショウ、舌がべったりと下に張りついていて、そこから大きな声が深い息と共にユラユラと動いていた。ジャズの演奏に合せて声を楽器のように使っていたのはとても素晴らしかった。自分がやったら、おそらく喉が閉まるしムチャクチャになるわ、でついていけないだろう。感情をそのまま自然と声にだしているのには、とてもうらやましく思えた。自分は考えすぎなのかもしれない。日本のジャズヴォーカリストはまとめているみたいな印象を持っていたけど、向こうのジャズのヴォーカリストはとにかく自由である。技術を見せているようないやらしさはなく、とにかく自然にステージを自由に動かしている。

「言葉の意味が伝わらなくても伝わるものがある」ということも。たくさんの海外のヴォーカリストを見てきて段々わかりかけてきたけど(わかったと書くとあんまりなので)その国のリスナーは、言葉もわかり表現もわかるのだから羨ましいと思った。自分達は日本人である以上ネイティブじゃないので、言葉の意味みたいなものを一生わかることはできない。(ぶっちゃけると)それがわかれば、歌に対してもっと素直に入れると思うけど、どうしようもない。だけど表現の部分は読み取ることができると思う。歌は世界共通なのである。そして言葉の問題も自分が欲していけば、改善できると思う。日本で得てきた自分達の使える感覚を大事に、海外のヴォーカリストにちきしょうと思わせる日本不動のものを出せればいいのになあと思いました。何か必ずあると思う。だから自分は生きている。

タックアンドパティー・とにかくでかい女だった。一声聞いて、そのガタイは無駄じゃないことがわかった。

とにかく息がすごい。相撲取りのようなため息声でユラユラ、体の動きに合わせて気が動いていた。彼女は目をつむったままなのに、その声は自分の体の奥までしっかりと伝わってきた。温泉にでも入ったような気分だった。気持ちが温かいものに包まれたような感じだった。ヴォーカリストのパワーはものすごい。そしてギターの音と声のバランスが絶妙で素晴らしかった。遠い国の名も知らない人を一声で感動させてしまう声の魅力は、とても不思議に感じる。よぉ~く考えてみた結果、素直に伝えているからないかなあと思った。(普通の答えですいません)単純なものである。よい物、悪い物。それだけはっきりしているのだから素晴らしい。厳しい基準が何にしても大切に感じた。

 

 

一竹辻が花

すごい手間がかかる。完成に一年間。まず下絵。使うのは青花という水草の一種で、洗うと消える。紺色。次に下絵に沿って糸入れ。切れないように丈夫なビニールの糸を使う。絞り、色挿し。とても細かい。布一面全部に少しづつつまんで、糸でしばっていく。温めて色の移りを防ぐ、地染めの前に、色挿しの部分をビニールでくるむ防染。地染め。色止めのために蒸す。水元、余分な染料を落とす。伸子張り、絵羽合せ。最後の絞りをほどく。裏からアイロンをかけて伸ばす。柄合わせ、バラバラにできあがった布を着物の形にする。絵羽縫い。泣いてしまいました。しぼりから生れる光と影。そのひとつひとつが手仕事。「大変なものです。時間ばかりかかってしょうがない」なんていっていた。何十回も染めては洗い。水は地下水。水は大事だからと小平に工房をつくり地下水を汲む。「やはり一年の計は元旦にあり、終わりは大晦日にあると思うんです」一年の終わり、正月の準備をして、汚れを落とし口で筆先をそろえる。一年間ありがとうございました。と筆にお礼をいう。古くなり痛んだからといって捨てない。痛んだから筆入れに立てて大切にとっておく。富士山。中に燃える赤。白い雲。狐と竜。樹海。目をみはる、美しい色。すごくすごくきれいな色。言葉ではいえない。とにかく、ちりめんで立体的できれい。1931年、14歳で友禅のもとへ弟子入り、19歳で独立。20歳のとき、勉強のためにと訪れた上野の博物館で辻が花と運命の出会い。27歳のときに戦争。終戦後、捕虜となりシベリアへ。寒さや病気で死んでいく仲間を埋める穴を掘り続ける日々。「シベリアで見た真っ赤な太陽、大きくて、日本で見るのとはまったく違うんです。」やっと復員できたのは昭和26年34歳。生きて帰れたんだから、これからは辻が花を染めよう。友禅で貯めたお金を元に研究に専念し始めたのは40歳を過ぎてから。が、染めても染めても博物館で見たのとは何かが違う。はっと気がついた。模様のまわりにある薄茶色の影は何だ。これは絞りじゃないぞ。布が買えないので一枚の布を真っ黒になるまで染めた。ある日、染めた布を見てみると出ていた地染めのこげ茶の花の模様、そのまわりに薄茶の影。うれしくて夜中に叫びながら家のなかを駆け回り、家族は気がふれたと思った。一竹辻が花、第一作「幻」。60歳のデビュー。その後の作品は次々と売れていったが、この第一作だけは手放さなかった。1995年、ワシントン、スミソニアン博物館で一竹さんの辻が花の展示会が開かれた。生きている人の作品展は博物館史上初めて。一枚の作品がはしっこにおかれているのが気にいらない。それは忘れられないシベリアの太陽。この作品のために、ひとつスペースをつくる。30枚の連作「光響」。季節の移ろいを染めた。秋15枚。秋の金色は金とう糸。冬の銀は銀とう糸。ひとつ作ったら続きがつくりたくなった。そうしたらまた、ひとつつくりたくなった。いつのまにか30連作になっていた。これに春、夏、天、土、水を加えて80(だっけ)連作で完成の予定。100歳までがんばる。自分が無理でも弟子達が完成させてくれるだろう、と。31作目はもう完成している。雪に覆われた山の奥深く似、ほんのりと春の気配の薄桃色。「美しいものは技術があれば誰にでもつくることができる。自分は心があって、布が語りかけてくるようなものをつくりたい。それはこれからです」創作能「辻が花」シテ、梅若猶彦さん。一竹さんの辻が花がシテの肌に触れ、心にスッと入って舞いを舞わせる。桃山時代から350年。途中、江戸時代に友禅におされて消えてしまった辻が花。「これがどんな風合いになるか見てみたい。だから私化物になって3百5、6十年生きてみたいと思うわけです」河口湖畔に一竹さんが自分で建てた辻が花の記念館がある。お金がなくて何度も工事を中断させながら完成させた。見に行きたいと思います。

 

 

声楽家を心指す人へ

マリオメラーニ氏がこまかくていねいに声楽家のための身体訓練を指導してくれた。自然の呼吸は腹式呼吸、意識してトレーニングしていくと声に丸みが出てくる。体を固くしてしまうことはよくない。特に肩を上げてしまうと発声器官が固くなってしまうので力を入れなようにする。顎も肩と同じく固くしてないけない部分なので、あくびの訓練で少しづつ解放していくようにする。言葉でいってしまえば横隔膜発声とあくびの柔らかさを結びつけるようにする。朝に歌を歌ってはいけないというが、これは安全を考えた嘘で、体操をして体を温めれば問題はない。体を変えていく身体訓練というのを実際に体験した。(狭いスタジオのなかでO君と真面目に画面を見ながら体を動かした。)すべてのメニューで呼吸を動かし体の動きを感じる。レッスン1、ラジオ体操のエンディングの動きを呼吸しながら行う。ゆっくりと音階の上下を意識しながら行う。大事なことはリラックスだ。終わった後には手をプルプルプルと力を抜いて回転させて力を抜く。やる前とやった後の体の変化を気づく。レッスン2、両腕をだらんとリラックスさせて両サイドにぶらんぶらんと腕を振り回す。脇腹を柔軟にするメニューなので意識する。呼吸は常に動かしている。レッスン3、手のひらを上に向けて、つま先立ちをしながら両手を上に持ち上げていく。他のもそうだけど、これは役者になるための柔軟な体をつくるといっていた。レッスン4、両足を揃えて閉じて、両手を腰において、体を左右に動かす。体が伸びることを感じる。レッスン5、両足を肩幅に開いて、胸を上に開くように意識して両手で足首をさわっていく。無理なく体を動かし、間にジャンプを入れたりする。特上のだるいジャンプ。レッスン6、膝を揃えて両手を前に突き出して膝をまげていく。重心を下げているように意識する。レッスン7、寝ている状態から、両手を上に上げて、上体起こしの運動をして、さらに体を前に倒していく。大きな体の動きなので、ダイナミックかつゆったり行う。レッスン8、寝ている状態でお腹に重い本をおいてそれを動かす。今度はうつ伏せになって腰に本をおき、それを動かす。呼吸器官を柔軟にするのでしなやかにコントロールできるようになる。腹式は赤ちゃんを産むのにも重要だそうです。レッスン9、いすを逆向きに座る。手をいすの背もたれに預けて脇腹だけで呼吸するようにする。脇腹の動きを感じる。レッスン10、吸った息を全て吐き出すようにする。呼吸をおもいっきりよくコントロールすることが目的。レッスン11、いすの前の方に座ってボートをこぐように地面をさわっていく。柔軟に円運動をしていく。レッスン12、呼吸のオートコントロールのメニュー、いすに座って両膝をかかえて背もたれによりかからないように呼吸をコントロールする。もう一つは同じようにいすに座り、背もたれによりかからないで自転車をこぐ動作をしたり、足(股)を交互に上げたりする、自分に甘くならないで厳しく取り組む。レッスン13、総合、いすの前方に腰かけて、両手をだらんとして体を前に預ける。そうしたら横隔膜の動きだけで体を上に起こしていく。呼吸を何回かに分けて体を起こしていく。段々その数を増やすようにする。マリオメラーニ氏は40回に分けて行うことができる。私はやってみたら5、6回しかできなった。恐ろしいオッサンだ。ラスト最後のリラックス、体をダラーといすに預けて顎を胸につける。これを10分ぐらい続けてその後、眼を開けて、両手を合わせ上に伸びをする。言葉にするとわかりづらいが、そんなに難しいことではなくて、誰にでもできる訓練だった。ながい時間をかけて、自分をコントロールできる力を身につけたい。大切なのは呼吸とリラックスだ。皆さんご存知の結論だ。

 

ブルース・スプリングストーン

アメリカを歌う男」「隣に住んでいるスーパースター」彼にはいろんなキャッチフレーズがある。私が考えたのは「映画」に出てくる完成されたジャイアンだ。ドラえもんの映画に出てくるジャイアンはテレビに比べて、とても頼もしく優しい。ブルースは音楽に頼もしく語れば優しく自分の強さともとれる弱さを見せる。だけどジャイアンのように歌は下手くそではない。だから「完成されたジャイアン」なのだ。少々無理なこじつけかもしれないけど自分も「映画出てくる完成されたジャイアン」をめざしているので、なんとしてでも結びつけたかった。ブルーススプリングティーンはもしかしたら自分の延長線上の目標にいた人なのかもしれない。ボスというあだ名も、とてもとてもはまっていた。常に自分とその時代を考えた作品づくりはとても熱くエネルギッシュだった。一市民として自分をおいているスタンスはとても共感を得やすい。「Born in the USA」と握り拳を上げて叫ぶブルース。私はただ聞いていたが、この曲はアメリカにとっても世界にとっても大きかったベトナム戦争を元に生れたと聞いて、その重さと大きさに自分を恥じた。この曲は二人の男の物語らしい。「俺は戦場で生き抜いて戻ってきた」という男と「俺は、まだ生きている」という男が作品のなかにいる。これを知るとブルースの歌声の意味も強く強く感じた。自分の内面を正直に語る彼は格好よかった。印象に残った彼のセリフが多い。「自分の生き方を曲にすることで客とのつながりをつくりたかった。」「有名になってから自分が何者か考え出した」「自分が作った歌の人物像と一生付き合っていくんだろう」「アメリカには暴力的空気が流れている。ヨーロッパにはそれがない。暴力の種類が違う。身の回りでなくメディアからそれが流れている。ただそれが悲しかった」「若い頃に逃げたしっぺ返しが今になって返ってくる。俺はどうしようもなかった」「俺は責任を逃れたくてミュージシャンになった。だが、その自分とは逆の自分もいた。そのときが人生の転換だった」「イエスマンばかりじゃ自由の履き違えだ。命取りになる」そして最後に語った曲を書き伝える、ということをいったセリフ「物を書くとはどういうことか、人には理由なく覚えていることがたくさんある。それがたまに純粋に蘇ることがある。その一瞬に意味があり自分が何者か教えてくれる。自分の経験と回りの出来事から瞬間を拾い、想像力を使ってまとめ、つくり上げ、それを聞き手に伝える。リスナーは歌の記憶に触れ、眠っていた感覚を思い出す。そして人生やもモラルについて考える。そしてリスナーは家に帰ってもそのエネルギーに浸り、自分を見つめる。全ては人と人とのつながりだ。俺はそれでお金をもらっている」これを言葉にするまで何十年の月日を得たのだろう。私は答えのようなものを漠然と聞いてしまった。だけど自分の答えは自分で見つけていくしかない。そういう世界だとボスに改めて教えられた。これからも自分のなかでたくさんの言葉を出して日々、自分について考えていきたい。「完成されたジャイアン」になるために。

 

 

キャロル・キング

客もすごく楽しんでいた。彼女から学ぶものは大きい。素直でかざならい心の豊かな、かわいらしい女性、という人間像がそのまま感じられた。本当にこんなに素直な人がいるのだろうか、というくらいの人だった。観客全員男も女も関係なく、その間彼女に恋をしているのではないか、というくらいの幸せさと温かさに溢れたショウで、私自身も、何度も知らない内に顔がほころんでいるのに気づいた。「HOLD OUT FOR LOVE」での見事というより、本当に魅力的ですがすがしいMC。思わず会場にいる気分になってしまう。自分の感じたことを一点のくもりなく、曲、歌、さらにはステージにおろしている。感情をのせるということ、少しも飾らないとはどういうことか。歌うときに100%感情だけを伝える、いや伝えるというのではなく、極めてオープンで自然。客が入りこめる余地を、両手を広げて待っていてくれるような、そんな、一人の女性の素直な繊細な感性がそこに存在してしている、という感じだった。皆が持っている、守りたいと願う、心の温かなともしびを、そのまま人間にしたような人だ。私の歌に対するスタンスは、それに比べてなんと利己的なことか。自己顕示欲のカタマリのようだ。客の立場に立つということ。自分が欲しいと思うもの、気持ちいいと思うものを、あたかも第三者から提供されているかのようなスタンスで歌いたい。それでなくては人を楽しませるところに行けない。それは、自分が受け皿になるということではなくて、自分の奥底の感情を歪ませないで純粋なままで取り出すということだ。そしてそれを客も耳に捨拾の自由を与えた状態で、ただ提供する、というのが彼女のスタイルに感じられた。そして見事なのは、ミュージシャン達の姿勢、演奏が見事なまでにそのスタンスに統一されていることだ。シンガー/ソング・ライターという形が本当に魅力的に思えた。彼女の感性のなかに会場がすっぽり入ったと思った。「Beautiful」という曲名。感じ方がすぐれているんだうと思った。歌詞の内容は知らないけど、確実に私は気分がよかった。弾き語りできるのも素晴らしいことだ。一人でどこへ行こうとも人を楽しませる。

 

レイ・チャールズ

こういう一流の人の映像を見て、いつも思うのは、音の表現に対して本当にこだわりが強い。グレードが上の人の歌や声や話を聞いても、それは感じる。レイ・チャールズも、この映像のなかでバンド仲間が「音楽に関しては将軍だ」といっている通り、自分のイメージの具体化を自分はもちろん、仲間のプレイに強く要求したらしい。その完璧主義者ぶりはサックスプレーヤーに「彼の頭の上にサックスを落としてやろうかと思った」とか、「彼のバンドでドラムは絶対にやりたくない。間違いは許されないんだ」というコメントからも推察することができる。でもだからこそ、人々もついていったということができると思う。毎日のトレーニングも、そういう自分の表現への強い欲求がないと続けられないと思う。一語へのこだわりや、全体のまとまりぶり、タイミングの取り方だとか、全ては自己表現の徹底のための必要性から生れるもので、必要性のないものは身につかないし、第一身につけようとしない。結局唯一必要な資質はそれだな、と思ってしまう。もし、そこから身につけないといけないとすると、人格の方向転換が必要になる。生活から考え方全て、方向転換しなければいけない。芸術家の一番すぐれている点は、自分を他人にわかってもらいたいというモチベーションの高さかもしれない。自分で自分をそう思うように押し上げていくことは果たしてできるのだろうか。その点についてはよくわからない。本当にその人間の本質に関わる部分だから。でも歌いたいと思ったのは、自分に表現の欲求があったからだ。でも欲求の度合いにもいろいろあるしなあ。こんな風に考えてしまうのはただの自分に対する言い訳かもしれない。やれていない自分への言い訳。自分の本質を見つけるためには、とりあえず「もしかしたら言い訳かもしれない」という可能性がなくなるところまで行って、振り返ってみればいい。表現が本当に深く根づいているか。音楽的にはいろんなジャンルを混合して自分のスタイルをつくりあげた人だったらしい。それも、あの独特の歌い回しも、自分をそのまま出す自然な形だったんだろう。だから、そんなことは気にとめられないほど音楽だけが聞えてくる。それもこれも自己表現の必要性からの必然の形。

 

 

高橋竹山

名演奏・高橋竹山の演奏を聞けてよかった。「岩木」が一番好きだ。曲の初めに竹山がベベンと鳴らしたとき、うわぁ、すごい音だと思ったのが、調弦だった。張り詰めていて、澄んでいて深くて厳しい音だと思った。竹山の人生があの音のような人生だったのだろうと思う。竹山は明治43年青森県津軽地方平内町小秦生れ。3才のときにはしかにかかり、ほとんど目が見えなくなった。15才で戸田重次郎のもとへ弟子入りをして三味線と唄を習う。当時は皆12、3才でいろいろなところへ弟子入りしていった。竹山は、目が見えないから三味線をやるほかなかった。お米をもらうために始めたのだ。三味線は好きだったけれども汚い格好をして門づけして歩くのは恥ずかしくて嫌だった。17才で独立。師匠のもとを離れて一人で北海道、東北地方を三味線を弾いて歩く。「つらいもんですよ」雨の日は三味線の皮がはげてしまい弾くことができない。だから尺八も覚えた。尺八は雨にも強い。「下手でも吹いていれば音が出てきた」尺八の演奏「津軽山唄」の音はヒィーという、何か聞いていたくないような痛い音だ。3日も4日も同じところにいれば家賃がかさむ。昔の人はあったかくて、少し弾くとうまいじゃないか、かわいそうだからといって一銭でもくれた。戦争中は、なんで戦なのに喜んで三味線なんか弾いているんだといわれた。「津軽中じょんがら節」はそういう辛い想い出とともにあるものだ。「ねていたって弾ける」門つけの旅は満州にまで及んだ。昭和16年から始まった太平洋戦争。昭和20年8月6日広島に原爆投下。9日に長崎に8月15日、終戦を知らせる玉音放送。この時代、竹山は34才。戦争で三味線を続けられなくなり、新しい人生を始めようと盲学校へ入学。鍼灸師の資格を取るためだった。この頃は日本各地で、日本の伝統である民謡を保存していこうという運動が高まっていた。その運動の東北地方代表の一人であり津軽民謡の大御所である成田雲竹に、ぜひ弾いてくださいと声をかけられ再び三味線を演奏するようになった。竹山は成田雲竹野伴奏者として演奏旅行を共にする。それまで三味線のなかった津軽民謡に三味線を手づけていった。竹山の人生で、もう一つ大切な出会いは、まだ大学を卒業したばかりのキングレコードの新人ディレクター斉藤幸二に見出されたことだ。彼は一人前のディレクターになるためには、よいものを聞きわけられる耳を持たなければならないということでいろいろなレコードを聞いていた。それで成田雲竹のレコードを聞いたとき、成田雲竹の唄う唄ではなく、伴奏の三味線に魅かれたのだ。斉藤幸二は小さいときから義太夫の三味線を聞く耳は肥えていた。「成田雲竹はすごいんだけれども、あまり感激しなかった。後ろで弾いている三味線がやたら感じるんですよね。他の民謡の三味線を聞いても伝統だけで感じない。竹山の三味線はモダンジャズに通じるような奔放さがある。どうしてもこの人のレコードをつくらなきゃいかん」斉藤幸二は青森まで高橋竹山を訪ねていく。住所のあたりは一面雪で覆われて真っ白なリンゴ畑。地元の人に尋ねて、すぐそこだよといわれても、どこに家があるのかわからない。ふとリンゴ畑のなかに小屋があるのに気づいた。まさかここではないだろうと思いながら行ってみると、そこが竹山の家だった。まんなかにいろり、隙間風なんていうものではなく、部屋のなか、目の前を雪がビューと飛んでいくような家だった。そこで聞いた竹山の三味線はすさまじいものだった。「何時間くらいでしょう、とにかく一日中その家のなかで竹山の三味線を聞きました。すさまじいとしかいいようがないと思います。意欲的な方ですから、こんなのは、こんなのは、といろいろ聞かせてくれました。息をのむいうのはああいうことだと」竹山は斉藤幸二の熱意に負けて、独奏会を開くことを承諾する。そして昭和38年、津軽三味線独奏レコードの発売。それまでは民謡の三味線だけのレコードなんてなかった。このレコードで一気に有名になり。それまで民謡を聞いたこともなかった人達が竹山の演奏に耳を傾けた。渋谷のジャンジャンには大勢の若者達が集まった。最初はジャンジャンなんかで演奏するのは嫌いだった。「若い人達の前でピンカラピンカラやったってさ」若い人には津軽民謡はわからない、という気持ちがあった。ところがまるでロックかジャズのライブのような熱気がジャンジャンにあふれた。公演は日本だけにとどまらずN.Y.やパリにも三味線を弾きに行った。「津軽じょんがら節」「津軽よされ節」「津軽小原節」は合せて「三つものがたり」と呼ばれている。師匠だった戸田重次郎から教わった。心に残った「岩木」は竹山自身がふるさとの自然や人生を思って作った曲だ。ぼんやりと見えていた視界も暗くなり始めた50才のころだ。そして、その後完全に視力を失ってしまう。「目ェ見えなくっても気持ちでわかる。心でわかる」竹山は少年の頃から夜越山で一人ときを過ごすのが好きだった。山のなかで耳を澄ませていると、山の心理がわかる。夜明け前の3時頃、木々の間から聞えるガサガサいう音は鳥が目を覚ました音。川でパタパタパタパタいうのは鳥が水浴びしている音。「だまって鳥の声を聞く。日暮れや夜が明けかかんとする山の雰囲気はいいもんだ」竹山は演奏会の最後を必ずこの曲でしめくくる。「にぎやかな曲、歌謡曲はそれはそれでいいけれも、津軽の百姓の匂い、この響きはなくしてはいかんという、誰が何というても竹山一人でも、日本中こうして津軽弾いて歩いてんだ、俺は」「何も上手でやっているわけでねェ。その人がそういう気持ちだから、三味線そういうふうに鳴るんだ」 

 

セリーヌ・ディオン

みんなへの心配り、愛を送ることを忘れず、人をほめてほめてほめまくる。ものすごい半端じゃない意志の強さ。恐れをのりこえてゆく、強い生命力。ものすごい心の開き方。体の開き具合。すごいなあ、優しいなあ。この人は優しいなあ、と。コーラスの人達もみんないい顔をしている。なんて美しい人間の顔をしているんだろう。お客さんが総立ちし、歌手にキスを送るとはどういうことか。みんなセリーヌにほれている。バンドのメンバーみんなが、彼女を想っている。子供からお年寄りまでをも巻き込んで、Let's talk about Loveと歌わせてしまう。ひれふす。私の願い。アンドレ・ボッチェリも腹と呼吸気管だけの生き物のようだった。大きい、でかいなあ。人間が。体、体力のまったく足りなさ。

 

狂言師 野村寓斎

エイスケそしてニューヨーク~狂言などを観るのは始めてだったのだが、「演ずること」がどういうことが、少しわかった気がした。狂言はかなり大げさな例になってしまうが、ある意味「仮面をつける」ということだ。(「ガラスの仮面」の“仮面”とは意味が違う)うれしいとき、狂言では「うわっはっはっはー」と笑っていた。実際あんな笑い方はしない。ところが何の違和感もなく喜びを表現していることがわかる。もちろん、私は“心からわきあがってきて、それで笑っているんだ”ということを否定しているのではない。表現、相手に伝えるということは、オモテの仮面と、内面からわきでるウチの表情が一緒になって初めて伝わるんじゃないだろうか。うれしくもないのに「うわっはっはっはー」といってもダメだし、自分がうれしいから「はっはっはっ」と笑いころげても何も伝わらない。私が前、先生に「 なぜ悲しい歌のときに、泣きながら歌ってはいけないのですか」とアテンダンスで質問したが、それでは自分のウチの表情を“さらし”ているにすぎず、悲しみの仮面などない生身の状態である。プロが泣きながら歌っていて感動するのは、涙も悲しみの仮面として流しているにずぎないからである。ウチの表情とオモテの仮面が1つになって初めて、人に伝わるんだと思う。プロはたくみに仮面をつけ、はずし、うまく利用して、それがいかにも自然な感じにできあがっている。だからミルバがあんなにも歌っているときと、歌い終わった後で顔が違うんだと思う。少しではあるが、“演じるとは表現とは”わかった気がする。せっかく独特の芸術の多い国、日本に生れたのだから、歌舞伎や能、文楽などを生で観てみたい。

 

「稽古の言葉」大野一雄 

朝日新聞に「大野一雄の世界」という記事が出ていたのをみて、興味を持った。現役の舞踏家。23歳のときにスペイン舞踏のラ・アルヘンチーナ来日公演を見て舞踏を始める。「三階席からだが、一目見た瞬間、衝撃的な感動を受けたんです。魅了され、悩殺され、涙が出た。私の一生を決めた出会いです。」長年教師をしていて、定年後も学校が好きだからと用務員として働いていたが、73歳で世界にデビュー、海外公演が多くなったので用務員をやめたという。そんな変わった経歴にも驚いたが、アルヘンチーナの舞踏への感動をもとに舞踏の道を貫いていること、生と死を対極にとらえず魂とか宇宙への独自の思想を持っていることなどが、特に印象に残った。 

その後、「天道地道」という公演を見に行った。公演はセリフもストーリーらしいものもなく、正直いってよくわからなかった。(一緒に行った友人は眠ってしまった。)でも何か懐かしいようなものを感じた。うぶな命が生まれ、震え、戸惑い、孤独を感じ、人を愛し、悲しみ、苦しみ、最後には一筋の光のなかを喜びに満たされながら進んでいく。いくつかの場面で季節は感じたが時代、場所、人物の年齢、性別などは設定されていず、抽象化されることにより返って人間の魂としてはリアルに感じた。懐かしいような気がしたのは、幼少の頃を思い出したのだと思う。1日の時間が学校や仕事に区切られていないで、ゆるやかに流れていた頃の感覚だ。そこでの時間の流れは、風の動きとか、心の動きによって変則的に動いていく。ステージでは次の瞬間に何が起こるのかわからない。突飛なことが仕掛けとして起こるのではなく、舞踏家の内面にそって時間が即興的にすすんでいく。変化が次々に起こるのではなく、感情が波のように何度も繰り返しながら高まっていくという感じで、激しい動きはないけれど、立っているだけでも少し動くだけでも何かを感じさせた。 

その公演の帰りに買ったのが「稽古の言葉」という本だ。その頃の私は悩んでいた。表現って何だろう。頭で考えてもわからない。私の歌は表現になっていない。声に縛られ、音程や歌詞をなぞり、自分のなかで消化もしていない思い入れをぶつけて、空回りしている。あせるけど、わからない。そんなとき、本のなかのこんな言葉に出会った。「ほんの一粒の砂のような微細なものでもいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるのに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでも入りこんでいったほうがいい。今からでも遅くない。」 

「それならできるかもしれない」という言葉を自分自身に問いかける。今まで私は、伝える内容は、価値があると誰もが認めているものだと勘違いしていたのではないか。結果として「愛」とか「平和」など似通ったテーマが浮かび上がってくるとしても、それは観念的なものではなく、アーチストの個々の体験や思想から生まれたもの。自分の体験や思想も大切にしないで、人の言葉を借りたら、どんなに立派な言葉でも表現にはならない。逆に、自分が心を動かされ伝えたいと思ったら、どんなに小さく他の人が気にとめないようなことでも伝える価値があるのだ。私は、それを見ようとしていないのではないか。 

「いくらテクニックでやったって、自分の内部にないものはいくらやったって、響いてくることはないですよ。間違いないです。自分の心にある内的状態っていうのは、全部見ている人にはわかるわけでしょう。隠したってわかるんです。魂って何だろうか。魂の願いって何なのか。霊は何を伝えようとしておるのか。切実な問題ですよ。日常生活のなかにおいて、どうしても伝えたいことが熟してきてね。伝えたいんだから、徹底してそれを取り出して、見てください、とこうやって、引き裂いて見せなければ伝わらないわけですよ。」 

いつもレッスンでいわれていることだが、あらためて別の人がいったことを文字として読んで、何度も反芻していると、この言葉の意味が自分の問題として重さを増してくる。「どうしても伝えたいこと」が熟してくるような日常生活を送っているのか。「徹底してそれを取り出して」という過程を経ているか、今この瞬間に全力で取り出そうとしているか。「見てください、とこうやって、引き裂いて見せ」る覚悟があるのか。「引き裂いて」という言葉は強烈だ。私の歌が伝わらないときは、「何となく伝えたいことがもやもやと自分のなかにあって、曖昧なままそれを断片的につなぎ合わせて、よかったら見てください、とためらいながら見せている」という状態で、伝わらなくて当然なわけだ。 

「祭りは型にはまったものではなくして、むしろ型からはずれたところに祭りの意義がある。音に合わせるよりも、音からはずれていくところに音が生かされる。音からはずれて、ひょっとして私はバランスを失って倒れるかもしれない。そんなぎりぎりのところで音からはずれて、型からはずれて。」 他にもたくさんの言葉があり、意味がよくわからないものもあるけれど、はっとさせられる言葉とたくさん出会った。レッスンでいわれていることと同じような意味の言葉も多くあり驚いた。表現は自由でありながら、何か本質のようなものがあり、表現者の稽古にインスピレーションを与える言葉にも共通の要素があるのかもしれない。それらの言葉を身体でわかるまでやらないと稽古にはならないけれど。

 

 

「愛の貧乏脱出計画」

テレビ東京の番組がある。貧乏な自営業の店主が毎回、その業種の第一人者に弟子入りして店を、家計を立て直す、という内容だ。これを見ていると、成功する人と、そうでない人の違いや原因がよくわかる。成功しない人は、やたら言い訳が目立つ。(自分にも他人にも)。自分に対して責任や原因の意識があまりない。それに比べて達人が達人である理由はよくわかる。何より一番感じるのは、客に喜んでもらうことを、異常なほどつきつめて考えている。あいさつから始まり、見栄え、味、その他「心」という言葉を、どの達人もよく使う。客のみならず、素材、人、場、いろいろなものに対して感謝の念も強いようだ。私は自己顕示欲ばかりだったかもしれない。