レクチャー 1072
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【歌い始め】
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今日は、制度の説明を受けて、理解するのに少々かかると思います。
そこで迷ったらどう考えればよいかをお話します。
もともとは当初は私が一人でやっていてピアニストだけ使っていました。その頃は今やっている検定やライブみたいなものは一切なかったのです。個人のレッスンをやっていたのです。最初は声のことだけをやればよいという人達ばかりだったからです。
日本人の実力はついてきているように思うかもしれませんが、むしろ技術が発達して、問われる力が違ってきました。バンドや音楽やアレンジ、楽器の奏者のレベルもかなり上がりました。プロの世界は、昔から0.0何%の人たちの世界ですが、その基準で見たときにどうかというと必ずしも上がっていない。
今は専門学校や音大とか、スクールに行っても身につくようなことも入れているということです。
声のことだけをここで2年やってみても音大の試験は落ちるし楽譜は読めないのでは困ります。
2年間、声をやったとしても2年で相手が納得するくらいになるかというと個人差も大きい。10代の人もいます。
そこでヴォーカルの基礎力として音楽の力をつけることも入れていきました。
一番聞かれるのは「どれに出なければいけないのか」ということですが、そんなものはないのです。それぞれの人の利用形態は違います。そういうところで混乱されると思いますが、基本的には1年から2年目にかけてはできるだけのレッスンを、そのときに理解できるできないは関係なしに出て欲しいです。
昔は家でやってそれよりもテンションが下がるようなら研究所に来いといっていましたが、今はそのプロの生活環境や練習の習慣や内容に関してひとりでできるという人がほとんどいなくなりました。
誰にも指導を受けていないところで、とことんやり続けた経験がなくなってきている。
昔なら演歌歌手になるのなら作曲家の先生に5年も10年もついて、あるレベルにいかないと外で歌わせないということになっていました。そういうのがないなら、ここを利用してくださいということです。
ここにはいろいろなものがあります。スタジオを中心に動いています。
月々のカリキュラムでいうと200から300コマくらいあって、皆が出るものを数えても100前後はあると思います。
それに合宿や特別レッスンなどがあります。自分の必要度と時間の兼ね合いで選んでいってください。
とりあえず実際に出てみて現実を見たところ、こういうことがやりたかったのだが、というところで再調整をしていきましょう。中には皆が出ていないレッスンで、特定の人のために置いてあるものもありますし、考え方のところで好みよりすぐれていくためのこと優先すべきだということもあります。
研究所が与えられることは基準です。これを示しているところは日本にないでしょう。どうしてかというと音声ということに限定しないからです。その人の歌の全体像を見てみたり服装やスタイルや踊りを見てそれがよいとか、ビジュアル面を見ていっていたら好き嫌いになってしまってどうしようもない。
音声にも好き嫌いはありますが、そこだけでいうとはっきりしている。
そういうものを覚えていってほしいです。
それを知るために、いろいろなものに積極的に出てもらえばよいのです。
入ったばかりだと遠慮する人が多いのですが、参加OKとなっているものは参加することもできます。
たとえば10月にオーディションがあって、12月23日にライブをやっています。それから6月にあるライブとの2つが一番大きなライブです。月々も新入ステージは2回終わった後にステージ実習とついています。アカペラの発表です。その次にライブ実習というのが3ヵ月に1回、②クラスになると入ってきます。
月に1回はきちんとしめていきましょう。個人評も出ます。
材料として、いろいろな人達を見ることができます。
最初は入門科の狭い中ですが、①クラスになると5、60人くらいの人が入り交じってきます。
そういう人達に対してどういう評価が下されているかとか、そういう人の作品に対してどういうコメントがつくかとかを見てください。そういうことは、なるだけ記録に残しています。
表向きの設備や事務、広告宣伝費ではなく、内容や教材、会報に手間をかけています。
その他にイベントをやったら、それも全て結果ということで、ぶ厚いものを出しています。
何かのイベントに出ようかというときには、会報のバックナンバ-で予習できます。
何がどういう評価がつけられ、出ていた人達がどういう感想を抱いたかというのをみることができるのです。
ここには、プロの人いるし、皆、アーティストという考え方を尊重しているので、映像記録は、本人にしか渡しません。映像は、自分で見ないとうまくならないわけです。
他の人のや皆でやったものもほしいといわれますが、それはしない。
まして試行錯誤の過去のものをひっぱり出して、こうだったというのが公になるのも嫌でしょう。
そういう意味では、ここはトレーニングの研究所ですから、実際のライブとは違います。
プロセスを中にいる人達が共有していく分には、ある程度、出しています。
いろいろと書いたものを投稿したものが会報にのってもそれは恥ずかしいことではなく、それで他の人達に何かを与える機会が持てます。何百枚のなかから数枚しか載らない。そういうものも勉強の糧にしてください。
今までの学校と違ってこういうところが難しいのは、範囲のないことと自由であることです。
一切こちらから強制することはしません。
それはアートであるかぎり本人のモチベーションでなされていくべきだし、そのときの事情があるでしょうからこちらから押しつけてもしかたない。
それゆえに自分がたるんでしまったりしまうとガタガタとなりかねません。
そこは初心を最低2年は貫いてほしい。とはいえ、これも大変なことです。
心がけて欲しいことを述べます。まず前に出ることです。今までやってきたことがどうであれ、この場では前に出てスポットを浴びて、そこで何が出るかというところで問われる世界です。年齢や性別、今までどんなことをやってきたかも関係ない。そこで音声にもってくるものしか問われない、である以上、前に出していく姿勢をもってもらわないと存在しない。自分を探していく世界で隠れないことです。
日本人の場合、人前に出ていろいろなことをやるのには抵抗があります。そこから抜けられなかったら、何もわからずあっという間に過ぎてしまいます。何を伝えるか、残すかです。
レッスンのなかでも、今日のような場でも同じです。
いつかはやれる、そんなことをいっていたら、いつかはやめてしまうわけです。
今でもやる、やれる、でも、足らない、それで学ぶのです。
そのときの気持ちを思い出して前に出る。迷えるのなら、出るべきです、まずは、そこです。
普通の人は、1年か2年しか続かない。
ここでも2年制にしないなら来る人は、今の4、5倍はいるわけです。その代わり3ヵ月もたたないうちに、半分の人数になってしまう。そういうことをやっていると手間だけが大変です。そういう手間を省いたところにせっかくこられたわけです。それに対して責任を持ちたいのですが、出ないことには、身につきません。呼び出してレッスンをしているようでは、何も身につかない。主体性です。
レッスンで出るということは基本的にそこで気づくためです。その気づいたことを身につけるためには自分でトレーニングをしなければいけない。ここでもいろいろなレッスンに出て、半日でも過ごそうと思えば過ごせます。が、それでも足りないのです。
自分が静かに一人でそういうことを感じたり、何かをつくったりすることが必要です。
だからこの時間を大切に、ここでトレーニングしに来るというより、ここでのレッスンが欠かせないです。
レッスンとは何かというと、たとえばヴォイストレーニングのレッスンでも、他の学校に行った人はわかると思いまますが、5、6回もやっていたら、このやり方は自分一人でできる、もう行くのも面倒だと思ってしまいますね。それは、初心者として見えるところしか見えていないからです。
本当は基準が上がっていくわけですから、その人が厳しい基準を持っていたら、そんなはずがないわけです。
だからこそ、それがクリアされたらいろいろなやりたいことができるわけです。それを全部一回剥いでしまわなければいけない。そこでレッスンの意味があるのです。
次にいいたいことが、まねするなということ。個性的に歌いたいとか、自分だけにしかできないような世界をつくりたいとかいいながら、最初に直さなければいけないことは、いかに左から右に移したような作品が多いかということです。
だから通用しない。だから後で上達していかない。それは小手先でごまかそうとかしのごうとしているからだけど、そのことさえ気づかない人の意見を受け売りしているだけです。そんなところは誰も見ていません。
研究所で完全な作品であることは期待していない。研究所を出た後に、何か人を惹きつけられるものになっていたり、その声だけですごいとか心に染みてくるようになる断片が出ればそれで充分すぎるくらいです。
それを一つでも、つかむことです。
この2年間のうちにそういう感覚の深みをどのくらいとれるかということです。
それはせっかくとったり気づいても、きちんと取り出せるようにしないと何もならない。1年半から3年くらいが研究所のベースでいうと、折り返し地点くらいです。皆1年経つと半分終わっているように思うのですが、いる期間と身につくことはまったく関係ない。2年で100%できるという世界でもない。その辺も誤解が多いです。
3番目は、悪い意味で群れるなということです。自分よりも厳しい人や自分が理解できないことをできてしまうような人とは、いろいろな意味で刺激をうけてもらえばよいと思います。
声に専念していたら、たとえばロビーでもしゃべっていただけも、喉をロスするわけです。
今までの生活やトレーニングに、さらにレッスンまでをとっていたら、普通に喉が疲れていくわけです。それだけ自分の神経を使わないければいけないし、自分のことを知っていかなかればいけない。そのためにまわりに振り回されないでほしい。
レッスンに、他の人が出ないから自分も出ないのでなく、逆と思ってください。
自分のオリジナルを出していくことも個性を出していくことも、他の人とちょっと違って感じたことをどれだけこだわって拡大して示せるかということです。
そんなところで他の人が右にいくから自分も右にいくとかではなく、逆に考えればよいのです。
他の人が出ないから出るとよい。グループレッスンにもたまに少数のレッスンもあります。そうしたらそれが一番得なわけでしょう。そういうものに出なくなり、人の集まっているレッスンがよいと思う。それはレッスンのよし悪しではありません。イベントでも同じです。そういう固定観念や先入観をできるだけ切ってほしい。
むしろ他の人が知らないこととか出なかったり見なかったものから、どれだけのものが学べるか、その方が得です。だから、ここは人が聞いていないような曲、昔のものや他の国のもの、違うリズムのものをたくさん使います。それは今の歌がどういうということより、そんなものでさえ包括してしまうような根本的なところで与えています。
プロの感覚とか体を作っていくことをしたいからです。
今、聞くJ-POPやJ-RAPなどを聞いて勉強したところで、彼らと同じところまでいけたらよい方です。あなた方が聞いてみても、そこにはまだ足りないものがあると思うなら、どうしてその後追いをするのでしょう。もう間にあいません。それはもっと根底にあるリズムの感覚や呼吸の感覚なのです。表向きを勉強するのではなく、もっと深い根本を勉強するのが、基本を勉強するということです。
あなた方にはとっつきにくいものが、多いです。しっかりした声で歌われている歌には、音程でもまったくとりかたが違います。だから無理なのではなく、だからこそ取り組む。そこで感覚が変わるし他の人が勉強しているところとまったく違う意味の勉強ができます。
その分、即効的に効果が表れない。ここでは2年で歌がうまくならなくてもよいから、そのあとにうまくなるためのものを入れなさい。表面だけまねたら、こういうものは1年ほどで、どこでもうまくなるものです。
でも、そこまでしかうまくなれない、それはどうしてかというと後の学び方をまったく知らないからです。
音程とれてリズムをとれて、にこやかに歌えるようになった、それで上達だと思っている。そんな人は、高校のクラスにでも、4、5人いるでしょう。それが上達というものではない。
ところが自分でそうやっているうちに、それしかできなくなってしまうから、自分の声や世界はそれだと思ってしまう。もっと、ひとりの人間の可能性は大きいのです。
「エド・サリバンショー」の映像が届いたので持ってきました。海外のコレクションにも投資しています。要は私自身が学んでいきたいということをここで皆の方にも還元していく。同じ時代に同じところで生きてそこで手に入るものが増え、とても恵まれてきています。そういうものをストレートに学んでいけばよいと思います。
研究所で、ある程度伸びた人達がどういうプロセスを研究所で体験して何をどう気づいたとかいうことも学べるようにしてあります。
あなた方がどう学べるかということが、あなた方の能力なのです。こういう話でも、これがどう使えるかというのは、今までのあなた自身の経験やそれをどう使っていくかということです。
日本のなかで唯一こんな実験をやっているところだと思います。
皆の目的自体は声や歌のことであってよいのですが、私自身はもう少し冷めた考えをしています。
声がどんなによくても、お客さんにとってはどうでもよい、要は、そこでやっていけるかいけないかの方が大切だということです。
ここは、やっていけるためのものを与えたい。そのやっていけるものを声や音楽、歌で表現できることならよいのですが、声のことだけで一生かかっていても何もならない。とはいえ、開き直れば、歌をやらなくても声のことをやっていたら日常のなかでも一生のなかでも、その方がたくさん使うわけです。日常生活でも学ぶことはたくさん出てきます。
人の前に出ることもそうだと思います。こんなところで歌がうまい下手とかちょっとしたことの差などはまったく考えていない。それよりその人がどうやったら輝いていくかどうやれば魅力的に見えるか、どうやればもう一度その人に会いたいとか近づきたいとか思うのか、その力が根本なはずです。
確かに音楽的にすぐれているというのもそのうちのひとつの条件です。声や歌もそれをよりきちんと届けるために、どんなにその人が一所懸命やっていてもそれがきちんとしたもので支えられていなければ、それはひとりよがりの世界で伝わりません。トレーニングで終わってもオンしていきません。
ここを通じて、私もトレーナーも、いろいろな人がいろいろなものを出しています。
会報を読んで、映画や絵など芸術も政治も経済も全部含めてみても、そういうものから人間を理解してほしい。
いろいろな人と接しているうちに、歌をよくしたいとかよい声を伸ばしたいということより、その人しかできない役割を知ることにいくはずなのです。
その人の才能は、劇団でも何でも格好のよい人ばかりをとっているわけではない。脇役みたいに見られるかもしれませんが、その人にしかできないことがあります。それを得た人が残っていくのです。
音楽の世界でも同じはずです。それを自ら自分を見ずして、人まねをして、どこかでやっているような人に同化していって、結局、それで一生終わって自分で何だったのという形にならないようにしたいものです。カラオケの世界は本当にそうなっています。
やっていける力をつけていってほしいと思います。
ここはプロデュースしたりデビューさせたりするところではありません。基本の力をつけるところなのでそういうところで一番学んでもらえばよいと思います。ここにあるレッスン、トレーナーも話も会報も、全部材料だと思ってください。
今はそのハードル、昔ならそこにいくのに、これだけの力が必要という基準があってそれがクリアしたら出ていけるというものがありました。今はどこにもなくなりつつあります。学校に行ってみても、ちょっと歌えたらほめられるだけです。ちょっとできたことにも関わらず、そういうことでは、そのうちそれが本当にほめられたのかわからなくなってしまう。本人がわからないのが一番困ります。
本人が本当にわかり、お客さんが本当にわかり、我々が見ていても、この人はやっていけるなというのは音楽の世界でもあります。
研究所をあまり部分的に捉えずに、あなた方がこの混迷している世の中が捉えにくければ、ここをひとつの世の中だと思ってみてください。
ここにいろいろな人間関係も持ち込まれてきますし、いろいろなトレーナーもいれば、レッスンもあります。それを利用の仕方が決めていくのです。
曜日が違ったり、上達度が違ってくれば、この面子で会うこともなくなってくると思います。とにかく伸びてほしいというのが大前提です。まわりに比べる必要はないです。
初心者でこれからやれるかと思ってドキドキしているし、大変そうだとかいうのも、それを言い訳にしないことです。入門だからとかまだ3ヵ月だからとか、そんなことではない。最初から飛ばしていってほしい。
ただまだ高校生であったり社会人のなかで何かやったことさえもないのであれば、それはゆっくりといろいろなものを見て体験していけばよい。すぐれている人もいますし、まったくできない人もいます。でも、皆が思いほど差はありません。ジュニアリーグでトップであろうと補欠であろうと、ワールドカップでは、どちらも邪魔にしかならないのと同じです。
コートの外側からでなく自分で実際に入ってみてボールを蹴ってみるとか、一回でもそこに立ってみてスポットを浴びてみるとか、そういう体験を重ねていくことです。いつも外側でみて、年齢や経験を理由にしていたらすぐに2年経ってしまいます。
他のものに関しても、機会があれば、できるだけ開放していきたいと思っています。たかだか2年ということで考えたらすぐに経ってしまいます。だから惜しまずに2年を自分に投資して、得られるものだけを全部得てください。
2年経ってからでも3分の1くらいの人は、次の課題を残して研究所にいます。それはあなた方が選べばよいのです。急ぐ必要はないです。こういう世界は2年経ってみたところからスタートのような世界です。
伸び率も差があります。去年の自分よりよければよいのです。それで3、4年くらいいくのです。ところが5年くらい経つと去年の自分よりよくなるのは難しくなってくる。体もできてきてそれ以上どんどん鍛えられるわけでもない。音域でも声量でも人間は限界がある。
そこまでいくと、今度は、使いこなすことコントロールすることだけに専念できる。
それを今の状態で皆がヴォイストレーニングを受けていて、あまり細かいところを気にしてしまうと今の弱い体で使いこなすことだけで専念してしまう。むしろ、それで歌うのは簡単です。アイドルでも考えるまでもなくその音と声量でしか出せないのだから、そういうやり方しかない。そうしたらそこから出れなくなってしまう。そういう学び方はとらせたくない。
皆が半年、1年2年とまったく違う楽器になっていくと皆さん自体は歌にとってやりにくくなったり、声に関して、よいときとか悪いときとかの波が出てきたり、問題をもっと抱えてきます。
そういうときは会報を読んでください。すっきりしたとか全部わかったとか書いているのは、だいたい嘘っぱちです。
伸びていく人は自分に対して厳しいです。かなりよいステージができても徹底的に自己反省しています。自虐的になる必要はないのですが、客観視しなくてはいけません。自分の目標や基準が高かったら絶対にそうなってしまう。そういうところは他の人の生きた材料があります。そういうふうに考えて、その人なりの対処の仕方でやっていってもらえばよいと思います。
皆の日頃の生活まで指導できません。しかし、舞台に立って出てきたものに対してはできるだけ高い基準で、とにかく2年でなく5年経ったら、そこから何か出てくるなというところは長所として認めつつ、絶対に通用しない鈍い感覚や構成には感じたままにいいます。
そういうなかで自分で変わっていってもらえばよい。
よいものをたくさん見るのが一番の勉強になると思います。そこからだと思います。
本当はここのようなところがたくさんあって、そうすれば他のところにもいってお互いに学びあったりできるのです。しかし、世界や歴史や人間にきちんと窓を開けているところがなくなっています。
それは劇団でも音楽分野でもそうです。音大でも、今は音大出たといっても何の意味もないくらいです。
わからないところは皆の方から主体的にトレーナーに聞いてください。皆が何でわからないのかがわからないときもあります。それを仲間内で聞くと情報がどんどん歪んでいくことがあります。直接、私らの方に聞いてください。
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【歌い始め】
※注:歌い初めでの4つのクラスでのコメント。
対象クラスと時間の関係によって内容が異なっています。
(1)
本当は基本的なことをしっかりとやる場ですが、徐々にどうやって続けさせるかというのを考えなくてはいけなくなってきました。皆さんは初日に出ましたが、その気持ちを結局、何年もてるかということの勝負なのです。
だからどうしても精神的なものが9割方、必要になってきています。
昔はそんなものは何もなくて、声だけでした。あとは歌をよく聞くようにといってきました。
両方とも必要なのですが、本当の勉強をするところは勉強することに専念したら、他のことはおのずとついてくるものです。
その準備が自分一人で片づかず、全部をごちゃまぜに抱えて研究所にきているから、もったいないのです。本当は、本や映画、歌をはじめ文化や芸術は、それを救うためにあるのに、接しても学べていないからです。芸事はそのためにやるのですし、そのことで吹っ切れます。
昔と違って、わずかな時間でも強制されて動くことに反発を感じるような時代背景になってきているため、自分のためになることに、忍耐できないのです。本当の意味で基本というのは、声や歌ということよりも、やれている人は何が違うのかということです。そこから、いろいろな意味で学んでもらいたいと思います。
人間の勉強、他の人達の勉強をするというのは、ここのなかでも中心のこととなってきました。学校も、学問なら個人の家庭教師の方がよいのに、人間関係を学びにいくわけでしょう。
ことに歌は人前で自分をさらしていく仕事なのに、それに抵抗をもっていては始まりません。勝田先生の演出レッスンも始まりますが、何回も出ている人たちのことを学べば、わかりやすくなると思います。
いろいろなものが崩壊してきていますが、崩壊するものは、しょせん本来必要だったものがルール化され形になって、今度はそれだけを守っていこうとしたがために、実がなくなってきているということです。形しかないのだから、当然のことながら内部は崩壊していくわけです。
だからといって企業やビジネス、政治の考え方の全てが間違っているのかといったら、そうでなく、それはそれで必要なものがそこにあったし、今もあるのです。
人間と人間との関係ということは、どんなに表向きの形が変わろうが、変わりません。中ではしっかりと動いていること、あるいはそういうことをしっかりと踏まえていることで、これからますます差のつく世の中になってくると思います。
昔と違って、やった人がやった分だけ報われていく世の中になるのです。多くの人が考え違いをしているのは、そのやったということがどのレベルかということです。他の人が何年かやれば誰でもできてしまうことは、やったことに入らないわけです。受験勉強も皆やっているし、学校での勉強もやっている。それは、この社会では前提にすぎません。
本来は絶対的なものを求めて追求し、自分に勝っていくのが芸事、芸術の分野なのですが、その基準がわからず他人と比べたり、相対的に優劣を競ったりしている。売り上げや知名度を競うようなシステムに翻弄されています。しかし、それも壊れていくでしょう。
紅白なんかもほとんど形だけになってきました。観光客用の見世物と同じです。だからといってそこに出ている歌い手が全部ダメなのかといったら、そこにはプロもいます。
紅白も50周年ですが、いろいろな意味でこの100年を振り返ってみると、いろいろなことが勉強できると思います。この100年どれだけいろいろなことが大きく変わってきたのか、ということを1000年前からみると、これからの30年の方が、この100年より大きく変わる、そういうこともわかるはずです。
そういう中で音楽や歌を捉える、というよりも、それだけに振り回されてしまうと、何もできないということです。人は何かに寄りかからなくては生きられない弱いものなのですが、今は家族に寄りかかるわけにも、会社に寄りかかるわけにもいかない。そのときに自分が信じられるものは、自分のやってきたことしかない。
だから歌でも声でも何でもよいのですが、それをしっかりと今からでも10年、人様の前に出せるとか、ものになるならないとか、そんなことではなくて、たった少しでも今、興味がもてるものだったのなら、全力でやっていくことです。それ以上に自分にとって大きなものが現れなければ、そこで創り続ければよいわけです。
中途半端にやってしまうからダメなのです。自らの灯を照らす信仰にならないのです。文化は一つのところに長く根を下ろしていないと出てこないものです。逆にいうと、一人の人間が一つのところに根を下ろしていたら、何かがそこから生まれてきます。
ポッポや(鉄道員)で、人が感動するのは、そこでしょう。たくさんの人たちがいつも右に行ったり左に行ったりしながらも、それはそれなりに次の時代の方向へ動いています。その中心をみることです。
研究所をどうやっていくかは、私にとっては一つの課題です。皆さんが求めるものになるよう対応していこうと思っています。最近の歌い手のなかでも感覚的にすぐれた歌い手もいます。そういう人たちのもつ要素を研究所のなかで、もう一つ深く取り入れられるのではないかと思っています。そのレベルのレッスンは安易に妥協してしまうと、余計におかしくなってしまうところがあります。それを通じて基本を学べばよいのですが、形でしのいでしまうと、もったいないことになってしまいます。しかし、ようやく、ここでも声よりも感覚での基準が確立していきそうです。
年末にスポーツ100年史の番組を見ていて、松坂投手が「一所懸命にがんばることと最後まであきらめないことを甲子園で学んだ」といっていました。実績のある彼がいうとなるほどと思うのです。一所懸命、がんばることと最後まであきらめないことを、本当に骨身に染みて学べる場が必要なのだと思います。
甲子園はそれだけやった人しかいけません。わずか一瞬の油断が全てをパーにすることを嫌というほど叩きこまれてきた人たちのチームしか出られません。自分の油断がチーム全体に迷惑をかけるから、さらに厳しくなるでしょう。それでもプロではないのです。甲子園にいってもプロに入るのは、5、6名ですね。相撲は朝の5時から起きて稽古をしているわけです。
甲子園に行っている人たちも正月なしでやっています。私たちは、そこまでのことをやっているのでしょうか。そこまでのことをやっていたら、いつか歌1曲くらいは歌えるようになるのではないかということです。やれないのでなく、やっていないだけなのです。ここの2年間を時間や経済的制限はあるとしても、どこかでそれをつかんでもらえるならば、そのことは何よりも大きな財産になると思っています。
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(2)
ここ2、3年、大きな変動が起きて、それは過去30年くらいのものに値するでしょう。年末に20世紀の映像とか音楽やスポーツ史の特集がありました。100歳の人でいうと、一世代のなかでそれだけ大きなことが起きた。空も飛べなかったのが、月まで行くのに70年ぐらいでできた。
時代がどうなろうと変わらないものと変わるものがあって、それを見極めていくことが今年にあたってのテーマのような気がします。
一番難しいのは、今の日本で育って、教育を受けてきて、それでアーティックなものをやりたいといっても、結局目が見えていない、耳が聞こえていない、そういう五感のなかで何かを創り上げることを求められているからでしょう。安易につくったものはその年を潤す程度のものにはなるかもしれませんが、時間や空間を超えて働きかけるものになるかといったら、今のアニメやゲームがやっているだけのものにさえ、なかなかならないでしょう。
音楽のなかでもいろいろな変動があって、特に去年は随分と目先が変わったのではないでしょうか。プロデューサーも10年ごとにガラッと変わります。また若返りしたのですが、それでも考えていることがあまりに浅はかです。くだらないことをやらないと売れないというところに、豊かな時代の幼児性があります。いくところまでいかなければ、皆まともにならないのかもしれません。
いつも豊かなところにいたら、気づかなくなるのでしょう。食べるものに飢えなくなったことが、精神的にも飢えなくなったと勘違いしてしまうのでしょうか。おかしな話です。自分が食えていたら人が食えているかと心配できるはずです。そういうところに感覚が働かない。ということは自分が食えていないときに、人から心配してもらったという経験がないからです。だからそういう中で何ができるかはとても難しいのです。一人の力、自分のために出る力など、ささいなものだからです。
だからといって、他人へ与えることを体験しろといっても、最初からちっぽけな幸せのなかで満足して生きているのに、奉仕でさえも優越感にしかならないし、今の生活を、壊す必要もまったくない。価値観の多様化になるべきことが、自分さえよければだけの画一化になっているのです。
今の若い人たちには、もし自分の世界を創っていきたいのなら、自分が正しいということは根本から疑っていかなければよくないよといいたい。自分の頭のなかで考えた正しさはちっぽけな正しさにすぎません。
私は関西に行く予定をしていましたが、4日に皆さんがきたときに何か起こっていたら現場で対処できないとまずいと思い行きませんでした。何も起らなかったのはよかったのですが、考えてみれば新年があろうとなかろうと、その日、お日さまが上がることは変わらないわけです。それは絶対に正しいわけです。人間のつくったちっぽけな暦ではなく、もっと大きな意味での科学だからです。
そういうものを見ていけば、そんなに狂わないのに、そのちっぽけなものにコンピュータを合わせたりするから狂うのです。大きな原理に従えば自分が思うように生きていけるのです。ところが、その基準のとり方で間違ってしまうのだと思います。
歌はまさにそうでしょう。元旦に歌って大晦日に歌うまでに365日あるのですから、そこでしっかりとオンしていけばよいわけです。ところがオンできないどころか、逆にマイナスしてしまう人が多くなっています。オンするために研究所があるわけなのに自分でマイナスの入力をするのです。大きくマイナスして、それを大化けさせるつもりならよいでしょう。
そのための何かの材料になればよいのですが、そのまま訳がわからなくなっていくのなら、何もならないでしょう。それは結局、何も起っていない、何も見えていないということです。なぜかというと、正しい基準があるのに、それを見据えていないからです。
歌のなかでもいろいろなことが起きています。それがもっと見えたり聞こえたりするように、こういうことをやっていくわけです。でもその判断は、その人の一番本質的なところにあるものです。親のしつけや先祖代々の血などもあるのでしょう。
だから世の中の物事の見方というのは、全部反対に見てみて、それで考えてみればよいわけです。ところが見ないところで正されないで、政治や経済が全部動いているのが問題です。本来は将来の子孫のために考えなければいけないことを、今の年寄りのために考えたりしている。年寄りなんて早く死ねばよい。そういうのだから、私は年寄りになってはいけないし、社会に貢献できなければ死ななければいけないという覚悟が必要でしょう。
どちらがよいかを大きな意味で考えてみることです。結局、思想なくして人生においてしっかりとしたことはできないのではないかという気がします。今の気分で動き、将来の大きな動きのために自分を律することができないならです。少々、器用で歌がうまくとも社会の人々との接点がなければ続かないのです。
歌も芸事も、昔は誰でもわかるものだったらやらない、誰もわからないものだからやるから、その人のものとなったのです。だから自分でわかるというのもおかしいわけです。わかったらうまくなれるというものでもないのです。
私も年をとるにつれ、とても単純なことばに惹かれるようになってきました。松坂投手が甲子園で何を得たかという質問があったときに、一所懸命がんばることと最後まであきらめないことだといっていました。彼がいうからすごいのですが、でも一所懸命がんばることを何度いわれても、最後まであきらめないことを大切だと知っていながらも、ほとんどの人ができないのは、骨身に染み込んでいないからです。
彼には甲子園という場があった。そこでのレベルの高さ、彼ほど野球においてすぐれた人間が思い上がらずに、最後まであきらめてはいけないとか一所懸命やらなければということを学んだ。それだけ謙虚になれるほど大きなものがその甲子園のなかにチームのなかにあったのです。
私は野球はやっていませんし、甲子園にも行ったことがないから、羨ましいと思うわけです。今の教育はその逆でしょう。甲子園も体を壊したり、エラー一つによって人生を狂わせたこともあるでしょうが、ただ逆にいうと、それがあるのとないのを考えた場合、あるということで一つの役割を果たしているわけです。
紅白は若手ががんばっていたと思います。ゴダイゴ、現役でやっていくことが日本では甘く抜けてしまうということでしょう。楽に聞ける歌の定義が違うのでしょうね。
紅白は審査員がその年を象徴していておもしろいのと、歌い手はNHKの好みです。どちらが勝つかも、25勝24敗なのだから、帳尻を合わせようという日本人らしい心情だけで支配されているような番組で、それはそれでよいと思います。あそこで自分の仕事ができるというのはすぐれた歌い手です。
美空ひばりのように、昔のプロ歌手がプロってああなのだということを知らしめさせるような歌い手がいなくなったことが、この難しい時代を表しているのかもしれません。
希望を与えるために研究所を作ったのですから、いつも絶望を与えていてもしかたがないので、そういうことでいうと、何とかつなげていきたいと思うのですが、その人の感じることは一つの個性ですし、感性で人格です。感性や性格を変えろというのは、無茶な話ですから、日々の意識と行動を変えろとしかいえません。人をまねすることもいわれた通りにする必要もないけれど、自分でそうあった方が自分にとって素敵だと思うように動くべきだと思います。しかし、人はそれがなかなかできないのです。
イベントでもいろいろ考え始めるとなかなか動かないわけです。結局頭で考えている人は、考えた結果悪くなっていて、頭で考えなかった結果、よくなっているというのに、体に入っていないから動かなくなってしまうと思うのです。
12月23日のライブでも平均年齢や在籍数を見たら、長くいたからああいうことができるとはいいませんが、やはり多くのものを他の人よりもずっと長い時間かけて得ている人は多くのものを与えられるのでしょう。
どこかにしっかりと根をはやすこと、それが研究所でなくてもよいのですが、大切なことだと思います。文化というのは一ヶ所にしっかりと根を張っていなければいけないわけです。
あの日も3部のコメントでY君の例を出しましたが、彼の歌のよしあしでなく、関西にできたときからずっといる、関西で接した人は皆、Y君を知っている。そうしたらそのことが一つの信用になる。彼が何を着ているとか何をやったということではない。年ごとに場所を変えて人脈広げているつもりのような馬鹿がいますが、誰にもよいイメージでは覚えられていないでしょう。ここでも1年くらいでやめてしまったら、誰も知らないですね。すぐ忘れられてしまいます。
人間の関係は、企業や家庭で崩壊しつつあるといいますが、根本のものは変わらないのです。自分の人生で必要な人とか、生きていて本当に関わった人というのはわずかでしょう。そのときの自分を大切にしなくてはいけないし、人に働きかけるチャンスを活かさなくてはいけません。そういうことから文化や表現とは何たるかを捉えていけばよいでしょう。
一生の短い時間では大したことはできない、というところからの考え方も必要です。大したことができない中でたった一つの歌が歌えることや、一つのステージができることはどれほどすごいことなのか、その上でそれを選ぶか選ばないかということでしょう。しかし、考えようによっては、一日どころかたった一曲、たった一フレーズも、一生すべての輝きをつめこめるほど、長いのです。
自営業でもこんな不況のなかでも、もくもくと仕事をやっている人がいます。やっている人に不況はないのです。情報化社会になっていますが、どんなに情報が動いても、結局人間は衣食住、何かを食ってどこかに住んで生きるものということには変わらないのです。そこに根っこを生やしていたら、問題であろうが、街にミサイルが飛んできて体が吹っ飛ばない限り、そんなに変わらないのではと思います。
だから常に自分が正しいということを疑っていかないと学ぶということはできないのです。正しいところもそうでないところもあり、どちらが正しくてそうでないのか、わからないままいってしまうものです。それに対しても努力することが大切です。
クリスマスライブ評でもいいましたが、3部と4部との違いを、自分でしっかりと評をつけてみて、その少しにみえる差はどのくらい大きな差か、その深さというのはどれだけのものかを考えてみてください。でも、4部はいつも、やれてあたりまえのレベルでとどまっているのは、4回戦ボーイといえなくもない。
確かにテレビに出ている人も含めてやれている人は立派です。ただメディアに出ないで知られていない天才やああいうものに出てこない人間のなかですぐれた人がどれだけ日本にいるのかということです。そういうこともなんらか知っていけば、そんなに間違えることではないと思います。
紅白で審査員に選ばれた乙武さんも立派なのですが、普通、五体不満足になっていたら容態はどんどん悪くなるのです。彼の場合、逆でどんどんよくなるでしょう。そうしたらそんな幸せなことはない。大体、人間は悪くなるでしょう。私だって老化していく。彼の今は昔からみるとどんどんよくなって、これからもっとよくなる。
それはメジャーになったからというのではなく、体や気分の状態がよくなるということです。
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もちろん、現実に上がってきた問題は対処していかなければいけないと思います。皆さんの方からも何かあれば提案して、どんどん変えていっていただければありがたく思います。
(3)
3年前までは1月4日に2時ころに集まって歌い初めをやって、それから明治神宮に御参りに行きたい人は行くというようにしていましたが、最近は省いております。今日は4班に分けました。MCも含めて5分くらい使ってください。歌に専念したい人はそれでも構いません。時間が余った場合は、録音にとったものを聞きます。
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考えてみれば、日本人にはあまり関係がない。ミレニアムといってみたらキリスト教の世界でのことです。
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考えてみればお日さまは沈んでも昇ります。そういうところでいうと何も変わらないわけで、それを人間が勝手に区切っているだけの話ですので、何ら左右されることはないのです。逆にいうとそういうことで変わらないような、人間の勝手にならないようなものをしっかりと踏まえていくことが本当に大切な世の中になってくると思います。
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別に次の世代のためにがんばろうなどと思いませんが、ただ自分一人でやれることは何もありません。何をするにもどこかで人に助けられるでしょう。そうしたらまず、人を助けようとするのは、あたりまえでしょう。
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レッスンも同じようなことで、自分が正しいというのは前提としてあってよいのですが、それを疑わない限りそこですぐれていくとか、他の人に対して何かの価値を与えていくことはできません。たとえばこうやって生きていて、何も起きていないと思うこと自体がとても鈍いことなのだということ、それから全部見えていると思うことが、いかに表面の一部だけで、その後ろにいろいろなことがあることを知らないのかということです。それが見えていないのを知らないでやるのは、盲目で絵を描こうとするようなものです。若い頃は見えないのが、特権ですが、今、大人が見えなくなっているので困ります。
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現実は現実としてあって、理想もあってよいのですが、そのギャップを見ていかなければいけません。
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話でも同じです。実際、他者に対して働きかけることを念頭に生きていないから仲間うちから出られない自分になってしまいます。そこでなら誰も批判しないし通用してしまいます。それでよしとするのは、本当の意味で通用しているわけではない。
テレビも含め、第三者に与えていく世界というのはそこで何かをやらない限り、次の仕事は当然来ません。そこまでのことを念頭に置いて生きていなければ、そういう世界に手も届かないのです。ここはそういう世界に行って、売れることは目的としていません。皆さんの目的に合わせて使えばよいのです。
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音の高さや音程は、基準として、もっともわかりやすいものです。インターバルは周波数でも決まっています。だから、それをたとえにしていますが、同じことは歌のなかでも、ステージのなかでもMCひとつのなかでも起こり得ることです。
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だいたい人が休んでいるときにやらなければいけない仕事でしょう。いつも人と違う方向をとるため、人が帰る時間に出かけていって、人が出る時間に戻ってというような毎日でした。私は学生の頃に宿直のバイトをしていましたから、大学も夕方、皆が帰る頃に登校して、いつのまにかそのままの人生でここまできたように思います。
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三波春夫さんで北島三郎さんでしょう。そういう人たちはビシッと先が決まっていたらしいし、その後も決まっているらしいから、私も決めなければいけないと考えつつ、結局1年過ぎて、まだ決まっていないのです。研究所のことは研究所のこととして、今年は具体的に私はどこでどう道を間違ったのか、それを徹底して検証していこうと考えています。いろいろなものを整理してまとめなくてはいけないだけの過去をもってしまったのです。何が悪いのか、どう直すかというのを、自分でやってみようと思います。
バッティングでは、今までは、きた球を全部打っていたとしたら、これからはしっかりと勝負球を決めて、確実にホームランをめざすことにしました。そうすると打てるものです。去年までの自分のバッティングにかける方針は間違っていたと、そういうふうに物事ひとつ、考え方を変えるだけで、違ってきます。結果的にそれで試みて、たくさん打てればよいわけです。勝負はたくさん振ることではないし、全部の球を叩くことでもないからです。
今日いいたいこともだいたい同じです。去年はスキーにたとえましたが、結局話は全部同じところにいくのです。年末から20世紀の映像史やスポーツ史などよい番組がありました。
坂本龍一さんの「LIFE」は、ハハハでともかく、それ以外、見て感じたのは、自分が成人になってからあとも、いろいろな事件が世界で起きていて、相当知っているつもりだったのですが、まだ随分知らなかったのだということです。改めて思い知らされました。そのことが起きたことさえ、知らなかったり、あるいは表面で伝えられたことしか見ていなかった。
記録されないところにもっと奥のところにも悲劇惨劇を含めて、起きていたわけです。皆さんを見ていて豊かだからとか飢えていないからとかいっても、私も日本の高度成長でもっと恵まれてきた世代なのかもしれないわけです。その辺から考えないと感覚が鈍ってくると思います。
武術家の高岡さんという方から「ゆる入門」という、胃と肝臓にはいかんぞうというようなシャレだけでできあがっているビデオをもらい見ました。体をゆるめるというのは、そういう笑いやダジャレみたいなことから精神的に開放していきなさいということでしょう。こういうビデオを発刊させ、それを許してしまう度量の大きさはあるのかなと思います。出演者までが笑っているのが許せないのですが。
この前、お笑いのお弟子さんと声のことをやりましたが、頭の悪い弟子ばかりでよくないということなのでしょう。新春のTV番組で、のりおさんが出ていて、完全にとんでいました。お笑いの世界は厳しいですね。そこのなかのタイミングや客が苦笑いしているのか引いているのか、それがわからないと成り立たない世界です。
歌は伴奏の上にのっていれば、とりあえず一方的に最後まで聞けという強制が働きます。そういうことでいうのなら、日本は甘いし、それを許さなければもっと練習を緻密にできるのではないかと思います。スポーツではもっと厳しいですね。
松坂投手が、甲子園で何を学んだかということで、一所懸命がんばることと最後まであきらめないことを学んだといっていました。それを頭で考えてやっている人と、骨の随から、1球間違ったらそれで負けてダメになるということで身にも心にも染み込ませて覚えてきた人とはまったく違うという気がします。
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古い歌は古い歌で大切ですし、演歌も紅白に出ている演歌歌手も一人を除いて自分が倒れたら演歌がダメになるというような使命を背負って、それで貫禄がついてきました。単に美人だったのが、貫禄となり説得感が出てくる。それが、感性のとる姿、人に伝える歌の力です。
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だから、この100年で起きたことが次の30年くらいに起きるわけです。そういう意味で見ていったらいろいろなことがわかってくるし、自分の身に必要なものがついていくのではないかと思います。
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だからといって、基本はどこにいってもまったく変わらないのも確かです。自分が動くことを必要とされているのだろうというところに限って動かしてきたのは、会報を見ているとよくわかります。いっていることややっていることは変わらないのですが、結局それが一般的になってきているため、個人にストンとおちていかないのでしょう。希望を与えようとしてやっているような場が最近は絶望ばかりを突きつけている感じがします。それは私の責任ではないのですが、どうしたものでしょう。
私はなるべく鏡であろうとしています。絶望が跳ね返ってくるのは、皆さんが絶望を投げかけているからです。希望を出そうとしてもそんなにうまくいきませんから、自分に厳しければ、絶望となって戻ってきます。心絶壁でも、歌は希望を伝えてください。自分に甘ければ、絶望を出していても希望のように見える。その時期が歌だけでいうなら一番楽しいのです。1年も2年もいてちょっとでも学んでいると、いろいろなことがわかったつもりになってきます。でも、仕事はするよりも、もらう方がずっと力がいることを知らないのは、子供と同じです。
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そのためには少々、勇気と年月が必要です。それからいろいろな意味で、自分でしかやっていけないものは、最初の時点ではよいのですが、過去に誰がどういうことをやったのかを知っていかないと正せません。自分で思い込んでいる自分のところは、自分には正しいところなのですが、それは外に対して届く正しさではありません。歌もそうでしょう。そこを統合させていかなければいけないのです。
ここでも内輪の会話をしていてもしかたないのです。これからは世界を時代を語ってください。第三者がきたときに通用するレベル、第一人者がきても、出せる価値、そこに焦点を合わせ生きていなければいけません。
そうでなければもっと大人数でやっている発表会に出かけた方が心地よいでしょう。だから、日本人は群れるのです。デパート、ブランド、新商品、イメチェン、大好きなのです。そういう幻想下で錯覚ばかりでやっていては身は伴わないと思います。声だけよくても、歌だけうまくても、何一つやれない人をたくさん見てきました。それは、やはり、自分本意でしか動いていないからです。
いろいろなところで考えながらも、皆さんはそれを発表する手段として音や歌や声をつきつめ、さらにもっと上から、もっと先から、前提にあるものさえも疑って考えなければいけないのです。
時代やメディアとともに、すべては変わっていきます。そのなかで変わらないものをもっていなければ変われないのに、それを知り、宿そうとしない人が多くなりました。自分の武器はもっておかなければいけないといっても、それは磨いていただけでは使えません。どう出すかは相手あってのものです。
関西で3日間の集中セミナーをやろうと思います。東京は3、4ヵ月に1回、小合宿形式で、テーマ別にやっていこうと思っています。イベントで盛り上げるのはよいことではないのですが、それによって大きく変わったり気づいたりする人もいます。
関西の一部、東京も少しもち直してきている部分がありますので、そういう部分でできるだけメニューを絞り込んでみようと思っています。