レッスン 1073
ーー
【入① とりくみ、音の世界】
【とりくみ 兵隊 今宵私が】
【「ジョリー・シャポー」】
ーー
【入① とりくみ、音の世界】
体の問題はすぐに解決する問題ではないですから、トレーニングは部分的なことでやります。なぜ歌で勉強しないのかというと、試合ばかりしないことと同じです。いろいろな要素があって、応用が歌として、基本がトレーニングです。歌のステップを一つ上げるために、底辺をやります。
トレーニングのことでいろいろなことが起きてくること自体は、悪いことではありません。目的にあっているのか、あっていないのかという判断が必要です。たとえば、腕立て伏せで腕がどんなに強くなっても、あるレベル以上では、試合に強くなることとは、関係ありません。
まして歌ならなおさらです。腕が強くなることと歌とどのくらい関係するのかということになれば、そういう運動を通して、背筋や、腹筋、体力、集中力、瞬発力などがつきます。精神的なものも必要です。人間の場合、精神的なものは、体に支えられています。そういう意味で体を鍛えるというのは、基本です。
こういうものに限らず、画家や小説家でも本当は、体を鍛えなくてはいけないのではないかと思いますが、特に、歌はライブという人前の場で、決めた時間にそのことができなくてはいけないという、厳しい条件があります。そういう面で、半分スポーツに近いといっています。
トレーニングにおいては、できることはすでにその人のトレーニングではありませんので、できなくてあたりまえなのです。できることをどこまで確実にするかを一番、考えなくてはいけません。トレーニングにも、いろいろなトレーニングがあります。たとえば、準備体操は、体の調整のトレーニングです。強化トレーニングは、ある目的に対して特化して鍛えていくものです。ここでやっている発声トレーニングも、それに近いかもしれません。それをもう一度調整して出していく段階があります。強化していくときは、同時に調整できるわけではありません。
たとえば、声をつくるということも、息を強くするということと、それを完全に声にすることを調整しないとできません。ここでは、あくまで器を大きくして、力をつけていくということに、音域や音量を広げることも含めています。このこと自体はあまり意味がありません。音域をいくら広くしても、音量を競うわけでもありません。結局、それを完全に使いこなせるという、コントロールというところにこなければいけません。
この辺の問題は、医学的な問題も含めて、一概にその人をその場で見ただけではいえない問題も多いのです。音楽も表現になると、自分のことを考えなくてはいけなくなるので、トレーニングに責任をもつことです。たとえば、二十歳を過ぎて、そこまで普通に生きていて、ヴォイストレーニングをまったくやらなかったら、歌えなかったかというと、歌えていたかもしれません。ヴォイストレーニングをやったおかげで風邪を引いたということにもなるかもしれません。確かに、悪い空気を吸ったり、風邪をうつされやすいということもあるでしょう。
体の問題も同じで、たとえば、他の運動をやって起きてくることと、ヴォイストレーニングで起きてくることは、厳密には区別できません。できれば、ほかの分野の方がわかりやすいのです。
ヴォイストレーニングの場合は、最終的に声や歌で判断しますからもっとわかりにくくなってしまうのです。他のものだったら、たとえば、体重だったら体重計で計れますし、筋力も計れます。あるいは、腕立ての回数も数えられるでしょう。
それがどんどんついてくるということと、それに伴うものを選別する必要があります。たとえば、リラックスした状態でつくることとは別問題です。リラックスすると人間はだいたい、どこか弱いところが痛くなります。普通の状態は気が張って生きています。寝転んで完全にリラックスしたら、痛みを感じるかもしれません。それは力を入れるような悪いことをしたかといったらそうではありません。それを一回感じてから直していかないといけないのです。
難しいのは、トレーニングをやっていて、調和というのか、何かをやるというのは、どのトレーニングでも、歌でも、それを見ている自分のところにもう一つ感覚がある状態が必要です。上達をしない人を見ていると、わかるのですが、自分で思い込んでそれがトレーニングだと思って、どんどんとやっているのです。それはどこかで正さなければいけません。最初は、ここでも第三者が正して、そのうちに自分で自分がわかっていくのです。素振りだといって、思い切り振っていたらよいのは、何にもやっていない人に少しはトレーニングになるかもしれないからです。だからといって、打つためのトレーニングにはならないはずです。打つことを知らないとそのトレーニングは成立しません。
ここでも、1ヵ月目からステージをやらせているのは、現場を知らないとトレーニングが正されていかないからなのです。何も起きないほうが望ましいことは望ましいです。しかし、何も起きないようにしようとしたらトレーニングは成り立ちません。
たとえば、よく歌をやると声が出なくなるという人がいます。ヴォイストレーニングをやると声が出るのに歌は声をまとめるからです。
声を使う限り、声は消耗品ですから、普通の人には、ヴォイストレーニングもステージも声が出なくなる最大の要因です。
その辺は、ある量を越さないと、わからないことだと思うのです。ある量というのはものすごい量なのです。たとえば、皆が20キロ走ったとします。その日はもう動けないでしょう。もしかすると、1週間足が痛むかもしれません。でも、マラソン競技に出る人は、毎日そのくらい走っています。そういう人にとっての10キロは、肩慣らしで、むしろ、調整する方法なのです。
スポーツと同じとは一概にはいえないのですが、自分のところで正されていくような感覚がないと、最終的には意味がありません。体力づくりといって、ジョギングをやるにも、10キロ走るということは、そのレベルに体力がきちんと蓄えられていない人にとっては、体力を消耗しているだけです。お年寄りがそんなことをしたら死んでしまうかもしれません。しかし、中学生や、高校生がそういうことをすると、体を鍛えることになります。何で体を鍛えることになるのかというと、準備の状態ができているからです。
毎日やっているし、自分を知っている、もしくはコーチが知っています。素人がやると、いきなり思いっきりやります。ヴォイストレーニングも似たものです。トレーニングや歌の練習をがんばってやったがために声がめちゃめちゃになる。
プロとしてやれるようなレベルのものをいきなり素人がやるとのどを壊してしまいます。こういうことは、初心者の人に多いのですが、3年目、4年目の人にも起きてきます。基本の部分ができていないところで無理してしまっているからです。
だからといって、無理をしないところで人よりも早くできるかといったらできません。時間をかけるしかありませんし、量をかけるしかありません。それをどういうふうに効率的に組み上げるかで、体は総合的に対応していくのです。なぜ声が育たないかというと、しっかりとやらないからです。週に一回くらいきて、育つのだったら、育った人に申し訳がないくらいです。やっている人は、ものすごくやっています。
一番よいのは、あまり気にしないことです。気にすることによって、部分的に溜まってしまいます。もっとよいことは、できるだけ自分が何かやれたときの状態、気持ち的にも、体的にもそういう状態に体が黙ってコントロールできるようにしてあげることです。のどが痛いということはよいことではありません。何かを警告しているわけです。それは、避けていかなげればいけません。
中途半端にやるとあまりよくないというのです。腕でも足でも、思い切りやっても折れてしまうことはないでしょう。自分でやっている分には、そこまで力が働きません。ここは避けなければいけないということで正されてきます。その感のよさや悪さというのは、生まれつきのものではなく、その後に、どのように生きて学んできたかということでしょう。
何をやっても堪がよい人もいますし、何かのことをやらせればものすごく堪が働く人もいます。どちらでもよいと思います。ヴォーカルは、歌うことに堪が働いていればよいのです。これ以上やってよい、これ以上やってはいけない、ここは、もっとこうやったほうがよい、ここは、もうやめたほうがよい、違うメニューに切り替えたほうがよい、全部、堪でやっていくのです。
私は、レッスンでも、あまり、こまかくはいいません。それは自分の堪で気づかないと、結局、自分のものにならないからです。そこで堪を磨くことを怠ってしまうと、うまくなれません。ここで終わってしまうのです。こういう問題も、後々まで残っていく問題です。
ただ、レベルの高いレッスンでは、集中力がないと成り立ちません。10キロ走れない人がステージなんてできないと思っています。そういう毎日を積み重ねていないでしょう。そういう日常をしっかりと積み重ねない限り、何もでてきません。その辺は、意識の問題だと思います。
果たしてヴォイストレーニングがどのくらいできているのかは、ウェイトリフティングやエアロビクスで踊っている人たちくらいのことをやって、きつくなったりするのなら、ヴォーカルやヴォイストレーニングの問題ではなく、体の問題です。日常的に生きるのには大丈夫でも、俳優業や、ヴォーカル業をやるには、そこまで達していないということです。だから、よくないということではありません。
こういった問題はそういうところで解決した方が楽です。ハードなスポーツをやっていると、音楽で教えるのに、なぜ体のことを徹底的していうのかわかりませんでした。もっとハードな時間のなかで生きていたからです。教える立場になってみて、そういうことがあたりまえのように対応できている人というのは、一人か二人しかいません。普通の人の場合は、そこからやらなければいけません。ロックのヴォーカリストは、あれだけの時間、体を支え、走り回って、息を切らさないで歌うのです。どのくらい体力がいるのか見えないのです。それがなければできないということではありませんが、あるのに超したことは、ありません。
息を声にするとか、体を曲げてやるとかその辺のことは、強化トレーニングになります。体をしっかりと調整していくことの方が大切です。ステージを見る機会には評価されるとか、されないというのが、そのときの集中力も関わっているとみてください。たとえば、1分間、歌で集中できる人は、トップクラスで2、3回やって、1人か2人です。そのことが大切なことは、知っています。そうしようとしているのです。でも、そこがものすごく難しいのです。
私も、人前で話していますが、本当に集中できているのは多くありません。それだけ大変なことです。それをやれる人は、走っています。走ることも一つのやり方だということです。生理的な状態も同じです。のどが乾くと、よく飲料をとりたいといいますが、あまりにカラカラのとき以外は、飲まない方がよいのでしょう。
トレーニングのときには、間に休みを入れて、なるべく自分自身の機能を高めるようにした方がよいと思います。昔はスポーツでも、水は飲んではいけないといっていましたが、今ではいろいろなものを吸収しています。しかし、あまり、頼りすぎてしまうのも問題でしょう。ウーロン茶を飲むと、のどのネバネバがなくなるというレベルで左右されるのではどうしようもないと思います。アルコールを飲んだら声によくないとか、いうことはクラシック歌手などで、より最高のものを声として求める人は声帯の状態としてあるでしょう。ポップスの場合はそこでもっているわけではありません。
自分の状態が、ある程度そういう状態でもやれるようにしておくということで、トレーニングの期間にはハードにしておいた方がよいと考えています。どうやったらベストなのかということを、自分で試みないといけません。ある時期、食べ物や飲料、健康管理に、ものすごく神経質にならざるをえないです。声が安定していないときの方が、なれると思います。
そういう面で、声が最初から強かったり、ここでも他の人を圧倒するくらいの息を出している人は、あまり伸びた試しがありません。それでできてしまうので、歌がもつと思ってしまうから雑になってしまいます。声の出ない人やのどの弱い人は、自分で合理的に鍛えてくしかありませんから、とても神経質になります。少し歌っただけでものどが痛むなど大変な面もあります。時間をかけて、自分のことを知るのです。
トレーニングに素質とかは考えません。むしろ、ハンディのある人ほど先にいろいろなことが気づけます。体が強い人でも、車にぶつかると死んでしまいます。自分の体に自信をもっているより、体が弱いなと思っていると、あるいは実際に弱いと、他の人よりも早く、空気が悪い。ここは避けたほうがよいとか、胃が痛くなったからもう休まなければいけないと思って、結局は長生きをするのです。その辺は考え方しだいです。自分の条件をしっかりと知るということです。自分はどこに対してよりすぐれているけれども、どこに対しては補わなければいけないのかというのが、トレーニングのスタートです。
結果から見ていくほうがよいです。1年目、2年目とはいわず、4年くらいトレーニングのことをじっくり考えて、これ以上考えられないくらいやります。世界中の文献を読みあさり、これ以上のものは手に入らないというくらいに徹底してやればよいのです。頭で理解しないと動けないようなタイプであっても、実際は、結果で出していく。その結果に対してトレーニングがどうなっているのかというようことで見ていったほうがよいのです。
よくレクチャーの質問で「お腹が硬くなってはいけないのですか」、「横が動かなければいけないのですか」と聞かれますが、そんなことではないでしょう。歌えたらよいのであって、歌えなければよくないでしょう。歌える人たちが皆、その条件をもっているのだったら、その条件は獲得していけばよいのです。その条件をとるためにトレーニングするのではなく、歌を歌えるようにしていったら、それだけ息が吐けるようになっていたし、体もできていたということが本筋なのです。
技術ややり方、メニューをたくさん出していますが、それ自体をうんぬんしてもしかたないのです。サッカーでも何でも天才的なプレーヤーが出てその人に近づこうとして、その差を技術と名づけるのです。分析してみるのは、天才的な人に近づくための一つの方法です。そのなかで、よりすぐれた人たちが指導者になっていきますから、そういう人たちが何かわからないけれどもこれは効果があるとか、自分がこうなれたのはこのおかげだとか、そういう内部的な感覚で実感して、それが残されていくのです。
昔はスポーツも足腰を鍛えるのにうさぎ飛びとかやっていましたが、今はやりません。精神的なものだけでやっていくのはよくないです。当然効果的なものは体の理に基づきます。ただ、歌の世界は、残念なことながら、スポーツほど科学が入っていません。これから、どんどん解明されていくでしょう。しかし、今よりも昔のほうが、科学もレッスン方法も進歩していなかったのによい歌手が出ているのです、俳優とか他の分野でも同じです。それは、その人の素質というより、一つの覚悟と時代の状況がその人にそういう役割を与えていたということにあります。その辺を、自分で感じることと奥を見る勉強をしていかないとよくないなのです。
1年目、2年目に関しては私の役割もあなた方が2年経ってから伸びるということを考えていくということです。今日の息の吐き方がどうだ、体の使い方がどうこうというよりも、勘を磨いといていくための材料を出します。会報も同じです。それが一番大切なのです。
教室やトレーニングで、なぜ皆、伸びないのかといったら、表面ばかりをとるからです。たとえば、習いたくても習えない人は、勘がすぐれてきます。将棋でもお金を払って習いにきている人はプロになれず、お茶しか出さない弟子は師匠に初めてさしてもらうのはプロになった後とかいうように習わずに師匠を凌ぐことができるようになってしまうというのは、一理あるのです。つまり、勘が磨かれるのです。鈍い人は一人もいません。それは、人間のなかで磨くしかありませんから、家でやっていてもしかたないのです。いろいろな人と接して、そういうことで自分の感覚を鋭くしていく。本を読み、映画を見るのも同じことです。何を見ても、自分のそういったものがしっかりと成長してくれば正されていきます。
メニューをたくさんやると歌が歌えるようになると考えると、歌が歌えるようになるかもしれませんが通用しませんから、そんなことはいいません。そのためには、誰かと出会ったとか、この歌と出会ったとかいうことがきっかけです。精神的な部分も多いです。 それに近づこうとしているときに、こうしてはいけない。こうやったほうがよいと、あまりいわれるままにやらないほうがよいというのはそういうことです。自分のなかの心が働きかけてくるように相手から取れるものは、全部取っていくのです。
ここも入ってきたら、とことん疑え、私を信用するなといっていますが、とことん疑うということでしか、とことん信用することは、できないからです。自ら疑問を感じてやらなくては本質もみえません。その逆が、信じて入ってきて、信じてやってきたのに裏切られたとやめる多くの人です。☆自分に対して信じただけでは何も出てきません、そういうことをどこかで意識して、正されるということが一番正しい覚え方だと思います。
他の人はそこまでやらないというくらいまでやると、絶対に間違えてきます。私も今、考えてみたら、どこが間違いで、どこが合っていたかわかりません。それがわかっているレベルのうちは、人前に立てないと思うのです。わかっていることだけでやっているのは、人から全部見えてしまうからです。
そこで正している感覚というのは本能的なもので、こういう歌い方をしたらよいが、ここまでやったらいけないという一つの基準みたいなものが正すからです。それをやったら体を壊すとか、それをやったら死んでしまうというような本能的なものとして働きかけてきます。歌でそれを感じることは難しいと思いますが、たぶん一流の歌い手は皆、それを感じていたと思います。
練習も他の人に比べてどれだけやったということは基準ではありません。もし基準があるとしたら、その3倍や5倍、10倍はやっていないと基準にのらないという最低限の基準でしょう。自分の身の回りではその程度しかやっていないが、世界にはもっとやっている人がいくらでもいます。それをやるためにどうすればよいのかというのが基準になるのです。歌の世界はわかりにくいのです。そういうレベルになってくると、年に1人、2人、そういうことを話して、やる人がいるか、いないかということなのです。
表現から考えるということは、実際に歌からやっていくということです。そういうことを少しやってみましょう。息から声に変えるということは、「はい」という一つの音から知っていけばよいと思います。歌は何でもよいのです。「卒業写真」の出だしの「かなしい」でやってみましょう。「かなしいことが」「あると」です。これが歌のはしりというか、一番凝縮されたところです。そこで何かを起こさないと次にお客さんを引き寄せられません。本当はこれで終わってしまっているのです。
常に考えて欲しいのは、結果から考えるとしたらそこで何が起きているのかということです。何ができているのか、何が足らないのかということを判断していかなくてはいけません。素人の人は、20年経ってもこの判断ができません。本当にできないのかといったら、自分に対して甘いだけであって、他の人のものを聞いてみたら、それでよい歌だとは思わないはずです。すると今ここで問われた「かなしい」に対して、この時間までになにを用意してくればよいのかというだけのことです。
歌というのは1オクターブはありますし、1分以上ありますから、それだけではしかたないのですが、そこもできなければその先をやってもしかたがないということです。ここでグループでやらしているのも、自分のことを判断するのは難しいから、とりあえず人に対してここがおかしいとか、少しはよいとか、そこは表現になっているということをしっかりと基準をつけなさいということです。
マイクやバンドを入れたりするともっとわかりにくいからアカベラでやります。同じ条件でやってみたら、ある人の一つだけを聞いてわからないこともわかりやすいからです。個人レッスンは先生の声しか聞きませんから、自分がやってみてどんなにおかしくなっても間の基準ができません。自分で見えるところしかとれません。
だいたい自分に入っていないわけですし、その条件もないわけですから、見えるところをとってみてもまねのまねにしかなりません。だから間に人がいたほうがよいのです。しかもグループで、1人や2人よりも10人くらいいたら、わかりやすい人と、まったくわかりにくい人もいるでしょう。声が何を引き起こしているのかというのがわかります。
いろいろな人たちとレッスンをやってください。今の皆さんの顔や体、感覚では絶対に歌にはなりません。声の問題ではありません。それだけの集中力をある一瞬に出せる態勢をしっかりと整えなければいけません。それはアマチュアである方が厳しいのです。
プロの人はごまかせます。私でも自分のその日の体の状態や、自分のことを知っています。調子の悪いときは悪いなりにどうやればよいのかというやり方を知っています。ここでは、私が見ている限り、そのごまかしは許してはおりません。ステージになったらそれでよいわけです。客のレベルとあとはその人のポリシーです。
そこで何が欠けているのか。それを歌としてと、考えなくてもよいですから、聞こえてくる音として、何でそれは歌にならないのか。他の人に対して厳しくなることからです。この前の会報に全部戴せましたが、基準をしっかりとわかっている人は3分の1くらいです。私と同じくらいの耳があれば、私よりもはるかによい演奏ができるはずです。その耳があるということは最低限の条件です。ここには20人くらいしかいないというのは、20人くらいしかその耳がないからです。それも鍛えていかなければいけません。
どうやって鍛えていくかというと、こうやって聞いていって声をつかんでいく努力をしていくしかありません。それは、日本のなかで一番欠けている環境です。人の生の声を、自分の心のなかでしっかりと聞くこと。ところがその生の声を、相手に何かを伝えようと意図して出している人がこの国ほど少ない国はありませんから、とても悪い環境に置かれています。
皆さんは声のニュアンスから、他人を読み取るということは、よほど親しい人ならすぐわかることが、第三者とやっていく世界でわかっていません。表情や顔つきで判断しているでしょう。
もう一度やってみましょう。キーは自分の出しやすいところに変えてください。音程やリズムの問題を抜きに考えてみてください。2つの条件が必要です。1つは、声をしっかりとコントロールできるということです。自分で失敗したと思ったら、素振りと同じでこんなふうに振るつもりはなかったと思ったら正してください。大体は量がまったく、足りないということと、自分でしっかりとチェックをしていないということです。
100回やってみて、今のは入り損ねたとか、振り方が悪かったとか逆に、今のはよかったと思ったら、それにしっかりと揃えることをやっていかない限り、声はコントロールできません。確かに体の条件がついてきて、状態を自分で出せるようになってきたら楽にはなります。だからといって、5年後、10年後の問題ではなく、少なくとも3つくらいの音のなかでコントロールすることは、3年のなかでやっておかないとなりません。歌はもっと複雑になります。1オクターブ、1分をもたせるということはできません。
いつまでも時間があるわけではありません。ただ、そういうことをしっかりとやっていくと有利になってきます。もう一つ、まったく歌に聞こえてこないのは、音楽にまったくのっていないからです。ここのなかでどういう音の感覚を使えばよいのかというのが入っていません。音楽はいろいろと聞いてきたとしても、自分が使うための武器になっていません。そういう意図でそういうものを比べ、自分の耳に入れてきていません。そこに音色や音の感じが音楽にどのように働きかけているかをみるのです。
たとえば、いまの「かなしい」を聞いてみて、声だけでも何か知らないけど、そこに何かが起きている。何かの形が表れてくるというのは、音楽の一つの条件です。
デッサンであっても、ものまねであっても何であってもよいのです。しかし、ここは、ものまねを許していませんからとても難しいのです。たとえば、タレントさんで歌っている人を連れてきても、それっぽいものは出してくるでしょう。それっぽいものはよくないといってしまうと、結局、自分のものを出すしかありません。自分の音楽がない人は歌になりません。
その2つの要素を同時にやっていかないといけないから、難しいです。ですから、音楽を使わないで、ことばでやる場合が多いのです。
ことばでやってみましょう。「かなしい」をことばでやってみてください。1年目、2年目はそこにこだわって欲しいと思います。芝居の人は、最初ちょい役で、一言しか台詞をもらいません。それを1ヵ月も2ヵ月も練習して、よい舞台だったら、何回もやらせてもらえますから、体と心に入ってきます。それだけのために1日用意していると覚悟も定まってきます。自分のなかでそれがしっかりとコントロールできるということが大切です。自分がそれを心に感じていて、それを音声で表現する準備ができるということ、それが大切なのです。
皆さんの今の「かなしい」の扱いは、神経も入っていなければ、気持ちも入っていません。心を込めたらよいということではないのです。声に関するすごい無感覚さが出ているというだけです。それで音楽は処理できないのです。
自分のなかでしっかりと感じて、「伝えたな」と音の世界、ことばの世界でやれることです。役者でも、たった一つのことばで全部を決めています。、その一つのことばを決めるために、何時間も費やすのです。よい映画を見れば無駄なものは一切ありません。全部編集でカットされています。一つのシーンを出すためにそれだけやっているのです。そういう扱いをするのは、歌というのも同じです。そこにいろいろな要素が入ってきます。
ヴォイストレーニングをやるというのは、声を自分の心のまま、感覚のままに出したいのに心や感覚が鈍っていたらうまくいきません。その必要がないわけです。必要がないことは身につきません。完全にコントロールするということは、そういうことでしょう。そこに気持ちを表したり、伝えるためのことを目的としたときに、そこに邪魔が入らないために求めるべきものです。それが結果として歌になったときに何だかわからなくなったりしている場合もありますが、体の原理からいうと正されていないからおかしくなるのです。そのことに対して、もっと気を使わなければいけません。気をつけなければいけません。書道と同じで、一つのミスタッチで作品を全てだめにしてしまいます。それをしないように練習していかなければいけません。
まず、「かなしい」といったときに、「何かやったな。何かを伝えたな。」と自分で実感しないところでやらないことです。そこで、ことばや声を安易に使い始めてからこういう分野はおかしくなったのです。実感する。実感したものを相手にわかって欲しいからそういう表情をする。それでも足らないから、声が出る。それでも足りないから、ことばになる。しっかりとそのプロセスを踏んでいくわけです。
役者でも伝える必要があったのです。今は逆に3分間なんとかやらなければいけないから、歌をもってきて無理やり盛り上げてごまかしているわけです。古い時代のことをやりなさいといっているわけではなく、より自分を確実に伸ばしたいと思ったら、必要性に基づいてやることです。それで体や心とかが間違いなく育っていきます。そうでないと自分に厳しくなれません。
もともとは、一言では足らないから、10言も20言もいうことで歌になったり、私たちもヴォイストレーニングのほうが難しいというのは、今の歌はいろいろなごまかし方があるし、そのパターンもたくさん覚えてしまえばよいからです。もちろんパターンも覚えていかないといけません。すぐれた人たちのパターンをいくつも覚えておくのです。
一流になった人たちというのは皆、ある時期一流の人たちの徹底したコピーや研究をしています。落語でも、どこの世界でもそうでしょう。そのため、それだけ詳しく量的にもすごいだけのものが入っているのです。
外国の歌い手もそうです。ビートルズを歌うだけではなく、何でこの単語をもってきたのか、なぜ、このような活かし方にしたかとか、彼らを神様のようにして徹底的に勉強するのです。それをまねるのではありません。そこまでのことをしなければ、それだけのものはできてこないということです。そうでなくてもできてしまう人もいますが、できていない人はそういう勉強しかないわけです。
できている人がそういう勉強をしないでできているとしたら、日常のなかでやっています。学校でやることを、日常でやるのは難しいと思います。学校のなかで学ぶより、世の中で勉強したほうがよほどできるのですから、仮にこういうことを学校でやるとしたら、学び方を知るために来るのです。自分で学ぶということでは、一人で学ぼうが、どこに行こうが同じことです。学校に行っているから学んでいるとは限りません。学校は、学び方を知るために来るのです。一流のものだけ見ていてもわからない人に、もう少し噛み砕いて与えているところです。だから、噛み砕いているところが甘くなってはだめです。噛み砕くことで厳しくしていかなければいけません。
表情や体や心が動く状態にすることが基本です。そういうことを感じないトレーニング、歯を磨いているようなトレーニングは、やめなさいといいます。歯も、心を込めればもっとうまく磨けると思うのですが、子供が磨くようになぜこんなことをしなければいけないのだろうと思いながら立ってやっているなら、虫歯になります。
今、起きている問題はあたりまえのことです。こんなことが起きるからやり方が間違っているのではありません。やり方がどうであれ、問題は起きてきます。ただ、そのことが何が原因なのかを見て、そこに関しては自分で取り除いていくのです。日常生活もあります。フラフラしてしまうのもそうでしょう。私がどれだけ寝ていないといっても、皆は寝ていなければ声なんてモノにならないでしょう。
今度はことばからメロディにしましょう。「かなしい」とことばでいってみてから、メロディをつけてください。あまり、長く伸ばしたり、歌おうとしなくてもよいです。歌は、立体的で生命力がなければいけないとか、前に出なければいけないとかいいましたが、単純にいうと、そこで歌ってしまってはいけません。本当にうまい人のものを聞くと、歌っていないのだけれども、その歌が聞こえてくる。歌や声を聞かせるのではなく、それに乗っかっているものを、その気特ちや心を聞かせるのです。
こういう練習もある時期、声だけ大きく出そうとか、いろいろな目的があってよいと思うのですが、結果を出すためにやっていくのですから結果を知らないと、得られません。何が求められるかプロセスがわかりません。
今やっていることの結果に関しては、2年経って、「かなしい」だけ、一言、いったら素人はついてこれないというレベルであるとわかってもらえたら、その間のトレーニングはうまくできると思います。2年で何百曲も歌えるようになる人はいくらでもいますが、たった一言、一フレーズ、「かなしい」をプロのように出せる人は、何万人いても一人もいません。やるべきことはそういうことです。数ではありません。しかし、数をやらないとそれもわからないでしょう。
ことばのほうは、だいぶ準備が整ってきました。音声で場とか、空間が動くということがわかりますか。相互に聞いていたらわかりやすいでしょう。先ほどと違うことが空間のなかに起きてきています。時間が止まってみたり、動き出してみたりしてきます。歌になったら間が抜けていますが、ことばでいう分には、何かが起きてきています。それは皆が、伝えようと感じ始め、音をもっとていねいに処理しようとしたからです。頭でなく、体で感じはじめたからです。それが基本の基本であり、最終的な到達点でもあるわけです。
なぜ、歌ってはいけないのかというと、自分で歌や声を見せようとか、かっこうつけてみようとそういう思い上がりをしたら、全部、表現は死んでしまうのです。カラオケのチャンピオンの歌には、そんな歌が多いでしょう。それはそれで、人柄が出ていてよいのですが、ブロの歌はそういうところが見えないでしょう。そのままで、しぜんです。
日本のプロの歌は、ずいぶんと独りよがりでふしぜんな歌が多いのですが、少なくとも、歌はお客さんものですから、お客さんが感情移入したり、浸れるように、当人がいて、いないものです。とても自然な形になっています。でも、それはその当人しか出せないのです。謙虚な気持ちでしぜんにやらなければいけないという部分と、ステージみたいに「私ほどうまいやつはいない。聞かせてやる」くらいのつもりでやらなければいけないことが、交錯してまます。
バランスの取りにくい、難しい世界ですが、トレーニングに関しては無心でやっていかなければだめです。それは、皆が好きな歌い手でも、歌そのものに対してでも、体に対してでも、謙虚になり、しっかりと敬意を表することです。場と時間は大切ですが、メニューはそんなに大切だとは思っていません。ただ、皆が自分を生かしていきたいと思ったら、そういうものをもって、自分たちのなかでしっかりと使い切っていくことです。場も使い切っていくときに、利用してやろうとか、金儲けをしてやろうとか考えていると、体はしぜんに動きません。自分がうまく生きていくのと、本当に生きていくというところでは、変にいろいろなものが働いて邪魔をします。それが一致している状態は、今の日本の若い人には難しいと思います。
目標を高くもつということが、一番よいと思います。志があれば、1曲歌えたからといって、そんなにうぬぼれないでしょう。大切なことは、そのなかで何ができたかということです。
入門科や①のレッスンでは、なかなかわかってもらえないかもしれませんが、たくさんのことをやることではありません。たった一瞬のなかにどれだけ大切なことがはいっているかをしっかりと知って、1時間のレッスンのなかの一言くらいのなかで自分に起きたことをしっかりと自分の30分のレッスンとして広げていくことです。そのことが大切なのです。その状態を作るために30のことがわかってよいのです。発声の練習だと思っても、そんなところからいきなり切りかわれるわけがないのです。そういうことにもしっかりと敬意を払ってください。
時間が長ければよいということではありません。しかし、最初はわからないでしょうから、とにかく時間をかげながら体に教えていくということも必要です。感覚を変えることしかないのですから、瞬時に今のは自分の心が入ったとか、今のものが自分の音なんだとか、今のものはちょっとそれている。自分はこんな表現がしたいのではないとかいう掛け合いをやっていきます。それなしに自分の世界や個性、オリジナリティが出てくるわけがないのです。
それは生きている分には誰でもあります。しかし、そこから音声を扱う分野です。そういうなかでは、「これが自分なんだ。これは違うんだ」ということがわかってこない限り、観客に知ってくれというのは、無理でしょう。
2年間で本当に望んでいることは、わずか一瞬でもよいから伝えることです。1曲なんていらないのです。そこで全部伝え切れたのなら、本当に1フレーズでよいのです。それがわかれば、だいぶ形がはっきりします。そういう練習をしてください。
高校生ではないのですから、監督がいったり、トレーナーがいった通りにやっていれば何とかなるなんて考えないほうがよいです。自分でつくらなくてはだめです。自分で手間をかけて、「自分でこんなものが出てきた。こんなふうになってしまった。これをこうしなければよくない」とかいう掛け合いをどのくらいやっていくかということです。一つひとつのフレーズが全てです。
この歌でも、「かなしいことがあると」を出すのには、ここでやった3倍くらい時間がかかるかもしれません。次のフレーズにも関わってきます。1曲にするには、かなりかかるでしょう。私はそこがその人の才能だと思います。
100回練習して歌えてしまったのなら、その人が100回で歌えることくらいしか感じなかったのです。自分のことの100回歌えば全部出てしまう底の浅い人だから全部が100回でできてしまうのです。もっと自分が感じることがでたり、よりすぐれようと思ったら、1000回やっても足らない。10000回やっても、まったく歌えていないとわかるはずです。そういう人は伸びていきます。
プロとアマチュアの差はリピートだけではないのです。量だけこなすのではだめで、その量が質になってくることです。質とは、そこでしっかりとオンしていることです。オンがなかなかできないのです。1000回練習することは誰にでもできます。100回やったことを元に考えて、次の100回をやって、それを考えてさらに100回やるということは、よほど高い基準がないとできません。その高い基準は、本を読みなさいとか、音大に行って勉強しなさいということではありません。感じられる力が大切です。
だから、気づきや勘がよいということは大切なのです。それを磨かないとだめです。だから、映画や絵を観なさいというのです。できるだけ最初は、音楽を聞くことがよいのです。しかし、まだ音楽も極めていないでしょうから、音楽も当然聞いてないといけないのです。音楽だけでは見えない人に映画もよいでしょう。映画は一つのドラマのなかに音楽を入れわかりやすくしています。自分の人生経験も膨らむでしょう。ミュージカルを観てもよいでしょう。
私がピアニストになれないのは、ピアノの腕はともかくとして、ピアノの演奏にピアニストほど感動していないからです。お金と時間があるのなら歌や劇団のほうに行っていました。そこの差なのです。
音声が自分の心に訴えかけるとか、それで笑う、それで泣くとかそういうことをもっと感じて味わうことです。劇場に行っても、日常の生活にそれを糧にしてください。
日本の制度のなかでもそういう人がたくさんいました。
「あの人の声を聞くのがやだ」とか、「あの声を聞いたらほっとする」とかそういうなかから、ことばも歌も、愛も出てきているのです。それをきちんと見ることです。一見、遠回りのようですが、上達していくと最終的にいろいろな迷いが出てきます。そのときの決め手になるのは自分しかないのです。その自分のなかに何が入っているのかをみて、今は、入れていく時期だと思います。
上達はあまり気にしなくてよいと思います。やるだけのことしかできないのです。やるだけやったら、それ以上のことはできないのです。そこで悔いないようにしてください。やるだけやって、それ以上できないというところまでやったら、悔いなんて残りません。
有名ではない選手はいくらでもいますが、「私はあそこまでしかできなかった」というところまでやることが大切なのです。「もっとやれたのに」という悔いは残してはいけません。それは言い訳です。「もっとやっていたらああなれた。」では惨めです。そういうことでがんばってみてください。
今いっていることは、2年後に問うことです。2年経ってみたときに、そこだけで勝負できるためにどういうことをやればよいのでしょうか。量をもこなして欲しいですし、その量のなかで敏感になっていくために勘も気づきも必要なのです。体力も必要です。集中力も必要です。
本一冊書くのに寝転びながらできますが、ヴォイストレーニングは本当に大変です。自分の体調や、感覚とか神経、状態を知らないとできません。人の評価をするときはもっとそうです。今日の自分は、どういう体調でそのように音が聞こえてくるのかという基準をもたないと、プロの評価ができません。彼らも同じだけのことをやってきている人です。おかしなことをいえば、ぼけてきたのではといわれてしまいます。
自分の基準をどこにおくかということも、自分で見ていかないといけません。「今日はこう聞こえてしまう」というのも、人間はそれだけ気分的なものに影響されるのです。それに左右されないようになれば、仕事としてできると思います。体調の悪いときにもよく聞こえる歌はよいものです。体調のよいときは、がんばって聞いてしまいます。悪い歌を聞いたら死んでしまうし、よい歌を聞けば命が助かるのです。そこで聞くとわかります。
音の世界はおもしろい世界です。もっと親しんでみてください。声優の入門テキストなど、自分がこれはやりたいと思う題材を徹底してやることです。量も必要ですから、自分でおもしろくしていけばよいのです。心に入るということはそういうことからです。
ーー
【とりくみ 兵隊が 今宵私が】
ここで問われているオリジナルというものは、問題をはっきりさせていくということです。これが、なかなか難しいのです。難しいというよりも、こういうふうに歌えなかったら、歌など歌わないほうがよいという基準をもつとか、絶対にこの声がでるまでは表現とはいえないなど、昔の人は、だいたいそういうところから入っています。オリジナルな声、オリジナルなフレーズとは別に捉えるのであれば、途中で距離がわかってきます。近づいていけばいくほど、見えてきます。
一流の歌い手のなかでもわからなくなっている人もいます。どう考えても、そういう感覚では、それがどうなるのかからみておかしいのです。表現から考えて、ベースのことをしっかりやって、その状況でどう対応するかということで磨くしかありません。その状況に合わせてみてもだめです。それは表現していく人達の一般的な問題です。
ここで問われている表現は何だ、よい作品とはいったい何なのだ、なんで私の歌はだめなのかということよりも、最初にいろいろな問いがでてくることが大切です。そこで極めて、自分が一体何を表現したいのか、では、どう歌えばよいのかということが問題になるのではないかと思います。
そこからみたら、体のことや、息のことなどは些細な問題です。たとえば「オリンピックに行きたい」「日本で1番のチームの選手になりたい」ところが、他の国にはどんな選手がいて、どんなプレーをするのかがまったく見えない。他の選手、今の日本のタイムがいくつだとか、どんな人達がいるのかということが一切見えないのでは、伸びようがありません。逆にそういう人達がいれば、そこが1つの基準になります。それ以上の人達が当然、出てくるのです。
1つの状況というものがあって、このなかにいるとします。このなかでまわっていることはトレーニングです。それに対して、他の状況に対して働きかける、これは1つの表現です。表現されたということは、これで他のものが動けばよいのです。他の人の心が動くということでも、考えが変わるということでも、感動するということでも、お金を払いたくなるということでもよいです。何かが動くこと、そして、その繰り返しなわけです。
そうすると、誰でもそうしているではないかと思うのですが、ほとんどの場合はそれができていないのです。ほとんどの人は、状況からこちら側をみて、こちら側をなんやかんやいっているだけなのです。
もちろん、オリジナルというものは、ここのなかに宿ってきます。だから、自分の状況を捉えなければいけません。ところが、ひどい場合には自分の状況のなかに自分がいません。ここでモノトークをやるのは、とにかく自分の状況のなかにいることを自分を自覚するためです。自分の体の身長を変えたり、喉の声帯を取り変えたりはできないのです。その上で、肉声として音声を使っていくものなのです。
外国語が話せなくとも、勉強すれば、ネイティブに近づくことはできます。これが条件を整えていくということです。自分のなかにしっかりとはいっていくということです。
歌や舞台ということになると、この働きかけがない以上、その人のなかでいくら完結していてもだめなのです。研究所という状況もまた、その状況を深めていかないと意味がありません。
だからといって、「ここに誰も入ってくるな」「誰にも見せない」とやっていてもしかたがないです。このなかで精選して、1番よいエッセンスみたいなものを出していくことです。そこのメディアが歪んでいると、しっかりとしたものは出ません。自分で基本踏んで考えていかないといけません。本当のことをいうと、状況を伝えるメディアというものは、大きな要素です。これを、何で伝えるかということです。
具体的にいうと、ポピュラーの場合はマイクがあります。それで始めて可能になったのです。昔でしたら、声量がなければ、歌い手になれなかったのです。このなかから声を取りだすのであり、そこに作ってみてもしかたがないのです。
日本の外に行って、違う声を求めてみてもしかたがない、そうしたら、結局、自分をより知っていくことと共に、それを使える形にしていくしかないのです。声だとわからないから、ことばやメロディをつけるのです。歌というものもメディアの1つです。歌でなくても、詩でもよいです。あるいは、声を出していて、声そのものがメディアになる場合もあります。そういうことを武器にして、体にもつということです。たとえピアニストであろうが、武器になっているのはその人の体からです。ピアノ自体が弾いてくれるわけではありません。そこをしっかりと見分けてください。
がんばっているから、よいということにしてしまったら、空間、時間を超えて残りません。しかし、当人がそれでよければ、それでよいわけです。どんな苦労をして一所懸命やっても、状況の見えないところでやるということは、却ってきついのです。
いろいろなものを聞いて、それを取り入れること、それから出すことを考えればよいのです。ここのレッスンも何を取り入れるかということは、その人の力から決まってくるのです。出したものに対しては、ある意味では評価を与えていきますが、だからといって、全て評価できるということではありません。4、5年くらい経たないと、他人の評価、他人の作品の評価などはできません。いや、こちら側が評価できない、訳がわからないものほど、よいものであるのです。
人間の生き方というものと同じで、状況のなかでそれをしっかりとできることと、状況を変えていくこと、この2つしかありません。状況を変える力がなければ、その状況のなかでしっかりとやるしかありません。だからといって、どちらかがすぐれているというわけではありません。ただ、一般的にアーティストといわれたり、表現者といわれている人達は、状況を変えていきます。
ところが、ほとんどの人の考え方というものは、自分の外に状況があって、それを見ていて、そこに取り組まれようという考えで動いています。
研究所を活かすには、使い切ることといっているのに勝手に一方的に信用し洗脳されて、取り込まれては、何にもなりません。私は、エセ信仰やエセ宗教などを作るつもりはありませんから、それははっきりいっておきます。
ここにいる人の表情が輝いていて、そういう人達がいたら、何かが起きるという可能性があることがベースです。人間1人の力はそれだけ大きいのです。人間一人の力を知ることです。
その力がないときは、時間を力に変えていくしかありません。最初は同じ、0からのスタートです。どんな天才もそうでした。若くてできるということは、小さな頃からやっているのです。それは特殊な環境だったわけですから、同じ環境を手に入れようとしたら、それだけのことをやらないとわかりません。
どこでスタートした方がよいかというと、年齢でいったら、小さいときからスタートした方がよいのです。年齢のいった人達は、そこでの状況を勝手につくります。ですから、皆さんは皆さんでよりよい状況をつくらなければいけません。
それは、ここの基本的な考え方です。問題をはっきりさせればよいのです。私が最初に考えたのは、日本の歌を聞いて「この状況は耐えられない」「これは歌ではない」ということです。しかし、今考えると、それが歌であっても、音楽ではなかったということです。
私が欲していたことは音楽ですから、音楽をやるためには、声として国際性をもたなければ武器として使えないわけです。3オクターブしかないピアノと88鍵あるピアノでは、やっぱり88鍵の方が有利でしょう。確かに3オクターブでもよい曲は弾けますし、その人なりのやり方で、たとえば日本風になどということは出せると思うのですが、土台勝負ということでいうと、全身使っているものと、中途半端に体を使っているものとでは勝負になりません。
表現ということで一番大切なことは、自分の耳、つまり感覚を磨いて、何かが好きだったり、何かがよいということであったら、そこからとり入れてスタートすることです。好きなアーティストを応援してあげることはよいのですが、応援団を作るためにやっているわけではありません。自分が立たなければしかたありません。それぞれに力があって、ネットを組むのは悪くはありません。いろいろなことをやることは、ネットワークすると1人でできないこともできますので、これはよいことです。ところが、力のない人間が1000人、10000人組んだって、こういう世界では1人にかなわないのです。だから、自分の力をつけることです。単純にそういうことです。
要は人前で、1時間と、人前に出るのに、お金をたくさん払わないと出してもらえない人と、お金をたくさんもらって待たれる人が世の中にはいるのです。それには、価値をつけるしかありません。それを話題性や知名度だけでつけたくないということであれば、その人のなかに芸として宿らせなければいけません。
しかし、それは会うだけ、顔を見るだけでわかります。そういうところで通じる顔を、体をつくっていかなければいけません。やっていれば勝てるのです。日本の場合は、本当にやっている人が、あまりにいないということと、続ける人がいないからです。評価がとても甘いからです。感動しなくてもよいことに感動して、そんなもので楽しんで、一生を過ごそうとしています。やはり生まれたからには贅沢に生きたいでしょう。贅沢という意味は、お金があるとか、おいしいものを食べたいということではありません。一番よいものに接して、さらによいものを求め、そのなかに囲まれて生きることです。それが他にあってはいけません。
私も毎月、買い出しに行って、いろいろなものを買ってきますが、外にもっていてはだめで、自分にもたなければいけません。そこが違います。どんなに外によい状況を作って、よい状況の人達に接していても、自分がそれをもたない限り意味がありません。 ファンでいること、たとえば、美空ひばりさんを支えて、それをエネルギーに生きるということであるのなら、生活の場をその状況にしていかないといけません。歌うこと自体が食べることとして、栄養が入ってくるわけではないからです。しかし、精神的な栄養は入ってきます。そこが芸や芸術の素晴らしいところです。
ここでやる人達のものも、平等に「皆よかった。うまかった」といってあげたいのです。しかし、評価できるものと、できないものがあり、その基準をしっかりとつけていかないといけません。その基準をあなた自身がしっかりともてばよいのです。
世の中に対して、全てが満足できるのなら何もしなくてもよいのです。それを受け入れていればよいのです。それは芸術関係だけに限りません。政治などもそうです。そういう歌を歌う人もいますが、詩を見て、こんな考えの浅さでは政治なんて動くわけがないと思うくらいではだめです。そもそも政治が日本を変えてくれたり、よくしてくれるわけがないのです。それは、政治がよくないというのではなく、自分がよいのかということです。誰でも自分の状況のなかで動いているのです。彼等がよいことをやっても、その分誰かが食うことに困り、そのまわりの人が困るのです。
ですから自分が努力すればよいのです。政治がよくならなくても、日本がよくならなくても、自分がよいためにどうすればよいのかを考えたら、力をつけるしかないのです。そのことを続けていけば、そんなに認められない世の中ではないと思います。
皆が皆、他に頼ってしまうのです。ここは政治とまったく関わりがありません。政治がどうなろうが、日本が不景気になろうが、ここは楽しいし、おもしろいというところでやっていこうと思います。全部を引き受けるわけにはいきません。まず、自分が仕事をしているときは、専念することです。代議士にでもなってまんなかに入っていくならともかく、外から見ていて、つべこべいっていてもだめです。アーティストということは、行動することです。
表現するものがないということは、ぶつかっていないからです。まわりにあるものを見て「この音楽、気持ちがよい。すごい」と思うのだったら、自分の生活をしっかりさせて、それを聞いて一生を送ることがよいのです。それでは許せない、そんなことではよくないという自分なりの基準があったら、表現したいことだらけになるはずです。日本の場合は、外に出て、その状況を作って表現活動をすると、最初は、誰も相手にしないでしょうが、そのうち力をもつといろいろな障害が出てきます。そうすると、いろいろと理論構築したり、よい実績を出さないといけないとなってきます。そういうことがお互い働いていけばよいのです。
ですから、ここには、習いにくるというより、ここに自分の状況をもってこなければいけません。そして他の人の状況も高めていくのです。そうしないと、なにも出てこなくなります。多くの人がやっていることを私が見て、ある意味ではつまらないのは、それは、状況が飽和していないからです。その入り口のところで、うろちょろしていて、「何かすごいな」「外国人や昔の人は、えらかった」「この歌はよい歌です」と、他人事なのです。自分の状況を自分で引き受けて動いている人が少ないのです。引き受けた人に限って、今度は出すことを怠ってしまうのです。
状況を引き受けなくても、出す力があれば状況は導かれてきます。何で状況を引き受けなければいけないかというと、たまにそこから奇跡的なことがでてきたり、あるときそういうことができる変化があるのです。それこそ一種の才能かもしれませんが、ただ、そのことを確実に繰り返す、そのことを最低にして基本のことを組み立てることができないと続かないからです。
ですから、基本をやらなければいけません。声でも同じです。皆さんが100回やってみて、その100回のうちの1回、1番よいものが自分で判断できる。その状況を設定します。次の日に、その1回を取り出せて、その1回を100回できる、さらに、その100回のうちのよいもの1回を判断できる。それを繰り返していったら、1ヵ月経てば、世界的なアーティストです。
しかし、そのことができるために、体、息、感覚、あるいはテンション、意識なりがすべてのことが、そこまで至っていないと、わからなくなるのです。「100回ともよいのではないか」と思ってしまったら、そこまでなのです。最初の時点では、100回同じにできるということが難しいのです。ところが、基準がなければ、ここにきていなければ「ハイ」を100回いってごらんといわれて、誰でもそこでできたということで終わってしまいます。だからベースになりません。
誰でもバットは100回振れるのです。要は振り方の問題です。そこを私は、出し惜しみなく、全て出して、みせているのですが、昔の芸人の世界のように、隠して、盗ませるというのではなのですが、こればかりは、とっていってもらうしかありません。それも、同じ取り方というものはないのです。
ですから、ここのレッスンのなかで、声や音楽の本質をつかむのです。それにはいくつかのキーポイントがあるのです。いろいろなアーティストを聞いてください。必ず「このアーティストに会わなかったら」「この人のここのところを聞かなかったら」などというきっかけがでてきます。モティベートが必要で、ことばもそのヒントにしか過ぎません。無駄な時間のようでいて、勉強になるのは、聞かされている曲です。徹底して入ってくると、それが1つの基準になるのです。あとで考えたらわかることが、当時はわかりません。ノウハウは「これで、はい、いくら」と渡せないところにあるのです。そこをなるべくとれるような体や精神状態にして待つのです。
そのためには、2つのことを、自分でしっかりとおさえておいてください。一つは1人でトレーニングする時間が大切です。
もう1つは、プロの場として問う時間です。ここの新入ステージもステージ実習も遊びのようでも、雰囲気は乱さないようにしています。ガチャガチャしていてやりにくいようなことは、なくしています。そこでは必要以上に誰かが助けてくれるようなことは、していません。「皆で集まって、楽しく練習しましょう」などという雰囲気を求める人は、少なくないのですが、そこはプロとして、日頃、やることをしっかりやっているシビアな人のなかでのみ成り立つことです。そうでないと、練習ではなく、集まることが目的になります。まわりの人を気遣うより、まず、自分の力をつけなければいけません。
スーパースターは何もしなくても「会えてよかった」と、皆、思うのです。ファンではなくアーティストになっていくなら、そんなところで自分の安売りをする間に、力をつけてちょっと動けば、皆、喜んでくれるようになってください。その価値をつけることのほうが先決です。
皆さんは、時間があってここに払えるお金があるわけですから、そうしたら芸としてしっかりと身につけて、何年後かにお返しをしなければいけません。中途半端にやって遊んで終わってしまうのなら、募金運動やボランティアをしていたほうがよいでしょう。その冒険だけ時間の感覚をいろいろなものを発進する方に向けて欲しいものです。それが許されている時間だと思えばよいのです。 その心がなくなったときには、こんなにややこしく、悩まなければいけないシビアな世界にいなくてもよいでしょう。プロの楽しみ方はアマチュアと違うのです。プロの世界に入ってしまうと、一時、音楽など楽しめなくなることもあります。それは音楽や歌を純粋に楽しむのでなく、さまざまな状況で本当のことをつかみ掘り出し、伝えることをやっているからです。
日本でも一時代前の人は、体や音の感覚があります。ただ、音楽的にいうと、歌のところまでで音楽に入っていけていません。その違いをやりましょう。こういう感覚を変えることが、難しいと思います。
レッスンは、何度も何度も同じ曲や同じことを聞いた方が得です。「これは前に聞いた曲だからわかっている」とは、思わないでください。自分が求められていることをできない限り、意味がありません。
日本語の部分と外国語の感覚の部分とをやります。聞いて欲しいことは、オリジナルの声をもっていて、オリジナルのフレーズもそれなりにもっているということです。ツェッペリンでもローリングストーンズのなかにもある芸術品や音楽として残っていくものとの差です。立体的に出ているということからです。それがしっかりと動いているということ、それでピタッと止まっているようなことを感じて出してください。絵でいえば本物を見たときはこうなんだ、陶器はこうなんだといえても、音楽は見ることができないから難しいのです。そこを音の世界にそれを感じて「これはいい。これはよくない」という条件をみてください。
今はわからなくても構いません。ただ、こういう中の条件というものは、ここで1年目、2年目と通ってくるうちに同じくらいのレベルにもてるようになります。これと、音楽的にそういうものを全部体に入れているものとは、どう違うのかが問題です。
音楽的にそういうものが入っているのは、ステージ実習の課題曲です。それもちょっと難しすぎるので、基準を下げることはしたくないのですが、いきなりシャンソンというものも大変だろうということで、L検で慣れさせます。ただ、少しでもレベルの高い本当のものを聞いたほうがよいということです。本当のものというものは音の世界にあるものです。
この曲は、上のクラスの課題曲で、とてもシンプルです。日本人が聞いたら、やかましいという感じでしょう。音楽でも何でも、評価されているもの、伝わるものというものは、同じ条件があるのです。これは、声優さんでも役者さんでも同じです。その人が状況をしっかりとつくれていること、その状況が飛び出してきていることです。状況をつくれるために、そこまでの集中力やテンションの高さを保つことはまったく、レベルが違うのです。
これは「バラバラ」という曲です。サビは、また機会があったらやります。これは、ミルバです。日本のものとは感覚が違うことがわかります。アレンジャーも、伴奏の入れ方も違います。全部が一体になって、1つになっていきます。日本のようにバンドだけが盛り上がって、ヴォーカルだけがおいていかれたり、ヴォーカルを助けるということはありません。男性のものも聞いてみましょう。 結局、ここのノウハウというものは、どこでも教えられていないものです。それは日本という状況のなかで、日本しか見ないで考えて、日本のお客さんに対して伝えるということであれば、ここまでの表現力はいらないからでしょう。
口をもっとしっかりと開閉するとか、それを柔らかく伝えるとかで通じるからです。今の映画の吹き替えがそうです。皆ベテランの人達です。しかし、向こうの現場の生のものと音声だけを比較してみたら、迫力が違う。それは価値観が違うからです。たとえば、御茶の間で聞いていたときに、こういうものがガンガン聞えてきたら、うるさいでしょう。ロマンスものなどになってくると、日本人が捉えたフランス、アメリカというムードがあって、それに合わせているのです。これは、役者が悪いのではなく、客ニーズに合わせているのでしょう。ただ、そういうことがあるから、我々の耳や歌がどうしても高い目的にいかないのです。それを考えてください。
日本の大御所の人の歌い方です。同じ曲で比べてみましょう。たとえばイタリアの女王、ミルバがピアフを歌ってみたとします。それと比べたときに、ピアフはピアフたるすごいところがあっても、ミルバはミルバとして勝負できる、何を歌っても私はミルバである、というところが、わかってきます。
皆さんがそれぞれに受け止めればよいのです。それをどう受け止めたかをレッスンで語ったほうが、わかりやすいだろうということで勉強の方法を学んでいくのです。一流と一流を比べて、そのなかで基準を磨いてきたら、自分がわかるのです。
ただ、息と声を結びつけるなどは、接点をつけていかないといけない部分はあります。それはレッスンのなかでやるしかありません。しかし、感覚がないとできません。
たとえば、日本人の歌い手の感覚はこういう感覚です。これはうまい歌ですが、まだ音楽ではありません。私は、研究所をもって、初めてこの人がすぐれているということがわかったのです。昔、こういう曲、こういう歌い方をまどろっこしく退屈に思い否定していた時期があります。それは、今も私の基準です。こうすると歌が大きくなってしまいます。
この人がコピーしようと思っていた原盤は、こういうものです。日本人がどう歌を聞き伝えてきたかがわかります。美空ひばりさんのジャズあたりまでは、国際的にいくのではなく、日本人の方を選んだから、日本にもっと伝わるようなやり方、歌い方を身につけたのです。ですから、途中まで見れば向こうの歌い手と同じだけの感覚をもっています。
別に編曲しているわけではありません。ただ、日本人が歌っているものは広がって聞え、いろいろと複雑に聞えます。向こうの人が歌ったものの方が、楽そうに簡単に聞えます。そうしたらシンプルの方が正しいのです。
その人のなかにすべてが入っていたら、物事というものはシンプルになるのです。それがないと、無理をしていろいろと作らないといけなくなってしまいます。見せをつけたり、フレーズをつけたりして、歌がもたなくなるのです。歌はそんなに日常から離れたものではありません。普通に話しているときよりも、歌っているときは、少なくともより集中しているし、より体を使っているし、より息を使っているのです。だからこそ、同じ以上に伝えることができるのです。それは同時に無駄がない、隙がないということです。
そういった本物の条件を得ていけば、それがわかる人は本物になっていきます。それが、なかなか難しいのです。皆さんが聞いているロックも本物です。少し上のほうに響かせようとか、皆にやわらかく聞かせようとか計算するのでなく、心がそう働いて音となっているのです。
ビートルズも大音響で聞いたら、シャウトしています。そういうものを小さく聞くとわからないのです。日本人は自分の都合のよいように聞いてしまいますから、自分でやってみたときにまったくうまくいかなくなります。そこで、人種が違う、ことばが違うなどと理由をつけるのです。そんなことはないでしょう。
それは基本の条件が違うのです。状況が違うのです。ですから、自分がその状況に接すればよいのです。今まで使ってきた声よりも、正しく体からの声を使えば変わるということです。彼等は、こういう音楽をずっと小さな頃から聞いてきていて、「歌や声というものはどういうものなのか」が入ってきているのです。
日本人は違います。「歌い上げるものが歌だ、そんなに強く表現しないで、柔らかく響かせるものが歌」として入っているのです。ところが、本当に柔らかく響かせて、完全にコントロールしている向こうのアーティストは、シャウトしても同じようなことができるのにそれを使っていないというだけです。そこのベースを勉強しなければいけません。皆さんにかけている曲は、時代が違っても、勉強しやすいはずです。
ー
「兵隊が戦争に行くとき」
えりには なごりのはな くちには いくさのうたたいこをとどろかせて せんちにむかうへいし
ごらんわかものが いくさにでてゆくかわいこいびとに こころのこして
表現としての言語について、徹底して訓練されていない皆さんの耳が問題です。外国に行けばわかると思いますが、彼等は強弱で聞きます。英語でも、強のアクセントをつけなければ通じません。発音がめちゃめちゃでも強アクセントをつけるとそれっぽく伝わるのです。歌も同じです。要は伝えなくてはいけないのです。
ということは、そういう耳で流されているのです。
こういうものを聞くときも「えりには なごりのはな」で半オクターブあります。ここでいうと、2年間の課題です。半オクターブきちんとできれば、1オクターブ半歌える、2年なら早いといっています。
音程練習をしている日本人の耳には単音に聞えます。しかし、向こうの人の耳にはコードとフレーズとして一緒に聞えてきます。これにリズムがついています。さらに、言語になると、もっと難しくなります。ところが正しく音程を捉えようとしたら、シミミミ シミミミシソで全部が同じに、その分、同じ息の使い方をしますから、ミのほうが上がって柔らかくなって、響くのです。それでどんどん、それていくのです。
本当は違います。それだけ体を使わなければいけません。言語がそうなっているのですから、そうなります。それにさらに強めてリズムがついて音楽になっているのです。
そういう聞き方をしてください。英語の歌を歌っても、なかなか英語らしくならないというのは、結局そういう耳がないからです。その耳と歌、音楽というものはつながっているのです。
「えりには なごりのはな」をことばで大きくいってみましょう。
何でものにならないかというと、結局、そこの感覚が変わらないからものにならないのです。素人の感覚でプロの体をもつのは無理ですし、プロの体をもとうとすると素人の感覚のままではもてないのです。必要性があって、初めて身についてくるものです。
今、皆さんにやって欲しいことは、「ハイ」「ララ」をやって「ハイ ラララララ」でも「ハイハイ」でもよいからこの半オクターブをやるところです。こういうところができないと、当然できません。母音を変えてみても、自分のことばの練習帳を使ってみて「これはいいやすい」「これは体に、はいりやすい」というのだったら、そればかり集めてください。難しいなら、それに変わることばで練習してみてください。
自分のなかに感覚があって、それと一致して動きをつくるのです。皆さんが欠けていることは、体を鍛えることです。腹筋や息、それが使いたいときにぱっと出てくるようにならなければいけません。それを1時間のなかで直すは無理ですから、私は待っているのです。体のことをやって、息がそれだけ吐けていて、そのポジションをとってこないとできません。ここでは、やってきたことに対してできるか、できないかのチェックしかできません。
1回目これを教えて、2回目にはこれを教えてということは土台無理なのです。1年間経っていて、少し強くなっていたら、ちょっと違うことができるという感じです。最初にこういう感覚のことをいうのは、皆さんができないのではなく、感覚が違っているためにやれないことが多いからです。人は自分が感覚を得た通りにしかいえないのです。「YES」を「イエス」と聞いたら「イエス」としかいえないというようなことが、声にも起きているのです。声が出るなら、1オクターブ、2オクターブは無理でも、1音、2音のなかでは、もっといえるはずです。
たとえば「ハイ」といえるとします。ところが、「ごらん」といったときに「はい」といったときのようにはならないとしたら、これは、感覚が間違っているのです。そんなに難しいことではありません。そういうところから直していくことです。
できることを、よりできることにしていく、それしかありません。後は、感覚が宿ることを待つしかありません。たくさん聞いて、感覚が変わるしかありません。体もそれだけ使ってみるしか変えるすべはありません。そして、そこに表現をいれていくのです。
「かわいいこいびとに」というところも、別に、作らなくてもよいのです。それをどういう音声に、どの音量にする、どのくらいのメリハリをつける、全部この情景、伝えたいことのイメージがあって、初めて決まってくるのです。そのときに、その表情なり、そういう体の動きになれば、そういう声が出るようにできているのです。
それを体をカチカチにしてみて、変な発声を覚えてしまうと、普通で話していることすら表現できなくなってしまいます。日本の歌は、声をつくっているからです。普通で話した方が伝わるものを、歌い上げてもっと伝わらなくしていくからだめなので出してす。歌はより伝わらなければいけません。そうしたら、より体を使わなければいけませんし、より息を使わなければいけません。あたりまえの話です。
話せば30分以上かかることを、3分で伝えるのです。3分どころか1フレーズで伝えるのです。その1フレーズに対して、どんな音色があるのか、自分のことをもっと突き詰めてみればよいと思います。
ですから、すぐに、決めつけたくないのです。後で、伸びる人ほど、最初はいろいろなものを吸収していった方がよいです。決めつけないでください。世界にはいろいろな人がいます。ただ、まだ日本人しか見てなくて、これが人間とか歌と思っていた、そうでもない、日本人はかなり片寄っているのです。そういうことで軌道修正をしていくのです。
その材料は、たくさんあります。学ぶ方のスタンスしだいだと思います。この曲でなくてもよいですから、自分なりにそういう感じでメニューを作って、やってみてください。また違う曲が出てきたときに、違う形で応用できなければいけません。この曲を歌っていくわけではなく、この曲で何かを学んでいくのです。
そうやって、向こうの人達の音楽の聞き方をもっと正確に、向こうの人だったらどう聞くのかとかを考えてください。皆さんが聞いても、英語は聞き取れないし、まねできないというのは、それは勉強していないからでなく、耳や体がそうなっていないからです。声の発声器官がそうなっていないのです。
だから、フランス語ができる人は、スペイン語ができ、スペイン語ができる人は、すぐに英語が学べたりするのです。日本人は基本的に耳の力がないから、英語教育が身につかないのです。耳がよくないといけません。ヴォーカルは耳がよくないといけないのですから、あたりまえです。音声でやっていく人達にはとても大切なことです。
ーー
【「ジョリー・シャポー」】
「心に歌を なげかけ歩く 私は町の しあわせうりよ」
芝居の世界でいうとほとんど棒読みか、ことばをたどっているだけです。
リズムとフレーズと体と3つ入れましょう。リズムが1人、フレーズが1人、体が1人というところです。だからその3人の要素を一つにするのです。
「歩くごとに かるくほおを なでてとおる こいの風が 春も夏も」
シャンソンなので洋楽の感覚がはっきりと出ています。多分、日本人がこの歌を与えられても歌えないでしょう。というより、こういう表現をとらないでしょう。
ただ、この感覚のところで歌を捉えておいて、勉強して欲しいのです。最初はあまり厳しくいいませんが、音程・音感の弱い人は、しっかりと直しておかないと、直らないままでは、声がのってこなくなるのでしょう。
自信がないと出せないし、このレベルのものだと曲を聞かなくても、初見でよめるようになってください。他の学校でも、1~2年やっていたらできないとおかしいのですから、相当遅れていると思ってください。
本当でいうと初見よみぐらいできないといけないのですが、それをうちは音を聞いてとることを優先順としているのです。声の質、体から歌い方が違うから、耳で聞けない場合が多いのです。とても単純です。コードをみてもこれ以上ないほど単純なのです。そこではずれるというのは、致命的だと思ってください。
普通のカラオケ歌っている人よりも、5年分足らないぐらいに思ってください。そういう人に限ってやらないのです。間違うことは恥ずかしいことではないし、やれるところまでやればよいけれど、そのまま何回もただ繰り返すことがよくないです。今日のレッスンで直らなくてもよいのですが、半年後には直っているようにしましょう。こういうのは直さないと直らないです。
日本人にはなじみのない歌い方もしれないのですが、基本的にはこういうのはベースなのです。これをどのぐらいのやわらかさで出すかというのは別にして、体のノリと声とブレスとをしっかりと合わせていくということです。要は媚びないところの歌い方です。アーティックな表現というのはみんなそうです。突き放すようなところがあって、日本人はとても入りにくいのかもしれないのです。
しかし、歌い手は特に基本的なことをやるには基本演技をやること。歌は応用演技みたいなものです。基本演技はおもしろくもないわけです。しかし、しっかりとそれを声として歌い上げていくというところを勉強しないとだめです。それは基本のステップと同じです。あるいは規定と同じです。
それとともにJ-POPであれ、今の日本のは、完全に欧米の流れの上にのっています。演歌とか民謡でなければ、こういう感覚は必要です。
楽器と同じ考え方で、旋律なりその音を純粋に取り出して音楽をつくる。皆さんには聞こえないと思いますが、そのなかのフレーズなり、リズムのおき方のなかで、これはとてもやわらかい音を出しているし、それからのり方も変えています。特に構成がここで、がらっと変わりますから、そういう音を聞いていってください。向こうの人たちはそこを聞いて、この歌のよさを理解していくのです。
それに対し、日本人は最後まで同じに歌っているという感覚です。旋律は感情を出すということとともに、あとはその音色の置きかた、強さです。音を動かしていくということです。本当は感情表現をその場でやるような歌というのは、2束3文の値打ちしかなく、スパーンと歌っていけば一番よいのです。
感情を出さなくて感じさせるのが一流の歌い手なのです。感じる人は感じるわけです。落語とかも怖いように演じている人というのは、そのときは怖いけれど後はまったく怖くないわけで慣れてくるわけです。そのときはたんたんと聞いていて、帰り道になったら怖くなるというのが名人といわれるのです。体とフレーズとリズムだけを、しっかりと出していきます。変化したように変化させてやる。
「春も夏も 秋冬も 歩くときは いつも」
楽譜読みというよりは、感覚のところで1拍目と3拍目で強アクセントとっていたら狂わないはずです。
「空ははれて 海あおく あまいこいのくちづけ」
同じヴォリューム感を同じフレーズのなかで出すのは難しいのですが、楽譜読みの練習にしかなっていません。線を自分のなかで大きく捉えておいた上でいく。やっているところというのは、一呼吸のなかでやっていく。ブレスは入っても構わないのですが、その線を展開させないとだめです。
「春も夏も~こいのくちづけ」
一番問いたいのは、声そのものの入り方とスピード、それからプレスの早さです。そういうことが最後の「こいのくちづけ」まで、コントロールできない原因になっているわけです。皆さんは2行ですが、この歌というのはこのまま2番まで歌わないといけないのですから到底無理だとわかります。これで1オクターブです。一つの目安になると思います。それとともに音色を動かすというより、感覚的につめてもかまいませんから、そこでこの歌を表現しないといけないです。何も「空がはれて」とかいう感じで出てこなくてもその感覚をとりだすことです。
日本人と欧米人の感覚は違いますが、それを楽器に置き換えたときには、このままでは通用しないと思うのです。通用しなくてもよいから、まず置き換えたところで統一させて出せるようにするところまでは必要だと思います。
日本人が通用しないというより、日本人の感性にこれがどのぐらい働きかけるかというと疑問ですが、ただ完成されている形であるわけです。面白味も何にもないのですが、今皆さんにもって欲しい技術です。
へんなところで飾りを入れるよりも、その線をしっかりと出して、回転させるだけで曲がよければ、そこに何かが伝わってくれるという部分をしっかりと自分で見極めていくのです。
その絶対に強い1本の線が必要です。技術とはそこに宿るものです。それができるために自分の体の状態が開いていて、瞬間に入れないといけません。それを3分間、最高の形にまで構成するから歌の世界は難しいのです。
まず、今は1フレーズもよいから、その感覚でヴォリューム感とか、元気のよさとか、切り口の鮮やかさとして、プロに負けない声づくりです。
オリジナルな声というのをもっと磨いて、その展開というのをまた別の要素として、磨くことです。両方やらないとだめです。
シャンソンはある意味でくせのある歌い方ですが、深いポジションとか、体から声が出ることとかを学ぶにはこういうのがよいのではないかと思います。これは「シャンソンの友」というグループが歌っています。