ステージ実習コメント 1074
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【新入ステージ実習】
ステージ実習①
ステージ実習③
ステージ実習④
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【新入ステージ実習】
まずは、慣れていってください。基準は個別にも皆さんの方に示しているので、よく読んでください。それはここのコメントではなく、普通の人が普通に見たら思うようなレベルの感想も入っています。1、2年の間にはすごいことができるなどとは期待はしていません。ですから続けることがまず一つです。
芸事は5、6年やってはじめて結果が出る世界です。ここは2年で自分でできるところまで、やっていこうということです。ただ最初のレベルが落ちてきていますので、本気でやっていくのなら厳しい基準をもたないと難しいでしょう。
文化は一所で続けていくことで得られてくるものです。一所で基準がわかってくるから深まってくるものなのです。それを一つの現実として、ここが世の中と考えてください。ここがわかりやすいのは、できたものはしっかりと評価する、できないものはあたりまえのようにできていないというということです。昔はそれが世の中だったのです。今はそういうことをしっかりと反応して返してくれる人がいないので、どこでもとても甘いのです。逆にいうと無責任なのです。
ここでさえ通用しないものは世の中では通用することはないと思ってください。そうではないものの通用のさせ方はありますが、そうなってくると別の意味の能力が必要になってきます。そのことをここでは問いたいとは思わないです。ですから早いところ、ここのものをしっかりと使い切っていくような体制に入っていってください。
新入ステージに出ている2ヵ月くらいの間は、何が本当にここで学べるのかがわからないで接している人もいると思います。たとえば今月の合宿の上映会を見るのもよいでしょう。ここで4、5年いる人から初めて入った人まで、35人くらい出ています。そういうものをみるのは、一つのヒントです。
映像で見ることは、今回の件でいうのであればよりよいものがあまりよく見えなく、相当ひどいものが救われて映っている。映像はマイクが入りますから、ぼかされてしまうところがあり、現場に行かなければわからないことがたくさんあります。それを知らないと危険ですが、現実の結果を垣間見ることはできると思います。
あとは観劇も案内しておきましたが、ここはあまり案内することはないので、勧めたものは、時間が許す限り勉強して欲しいです。
10月にオーディションをします。過去の会報を読めばわかると思いますが、グレードを問うてみないでの12月ライブ選考会です。今回はオーディションのみもOKにしました。オーディションでも8名のトレーナーがそれぞれ個人評を書いて、それを返すという形にしています。外のオーディションよりも基準がはっきりしています。同じことを書かれると思います。そうしたらそれは一つの客観的基準としてあると思ってください。
私は基準づくりについて自分の気分とか感情とか、その日の機嫌まで調整してきたし、こういう研究所にいると独りよがりはさけられます。何年も一緒にやっている人もまわりにいますから、そこで間違った基準でも出した日には何をいわれるかわからない。そういうところで自分の基準を定めることが大切だという気がします。
皆さんのいっていた内容にあまり踏み込んでもしかたないので、話の関連するところくらいにとどめますが、やらなければいけないのは、今あるものをもっと正しく使うことです。
今あるものがまず見えていない。自分の身体や感覚、自分のなかに入っているものがまったく見ていない。それをすぐに深めることはできませんが、それを深める以外に上達する方法はないのです。そのことをまず自覚して欲しいのです。自分自身を知りなさいということです。
それは自分に何もないのではなく、歌というのはいろいろなものが入っているし、歌ったことがない人にも歌の材料になるものはたくさん入っているのです。それをしっかりと見つめ、深めなければいけないということです。
研究所のレッスンやマニュアルには、なぜこんなことをしなければいけないのだろう、なぜこんなことを書かなければいけないのだろうと思うこともあるでしょう。でもできなければやればよいのです。そういうアプローチの仕方もあるのです。別にそれをやったからすごくなるとはいいません。でもすごくなった人はそれ以上のことをたくさんやっているのだから、そうしたら一つでも二つでもそういう方法を使ってみればよいということです。そこで正せないのに、曲などは到底無理です。そのことをしっかりとわかって欲しいということです。
最初の1年目の人にいっているのは、早く本気になって一流の舞台や音声、表現を見て欲しいということです。入っていないのだから見て欲しいのです。今まで劇場に行ったり聞いたりしたのかもしれないが、自分が引き受けてそうなってわけではないでしょう。明日その主役と変われといわれるという気持ちで見たことも、あまりないでしょう。その気になるのが本気になるということです。
合宿などは3日間で演じなければいけないのだから、動かざるをえなくなります。しかし、その状況を押しつけられる前に自分でつくり出さなければいけない。次の日に5曲を覚えなければいけないとか、そういうものをくぐっていっていくのです。
それとともに自分のことを客観的に見てください。皆さんの場合は自分のVTRをとにかく見て欲しい。見ないと変わらない。見たくないかも知れないけれど、それが自分だと、自分のステージなのだということです。それでよいと思ったら研究所をやめればよいのです。しかし、どこでも通用しません。
まず、しっかりと見ること。それしか正す方法がないのです。それを課題だからとか、自分のとは違う作品だとかこの歌だから私は合っていないなどと言い訳していたら、いつまでたっても何も変わりません。舞台は自分の力がなければ、恥ずかしいことをどんどん拡大するだけになってしまうのです。そこにマイクを入れてもごまかせません。
音楽ではごまかせるところがあって、今は垂れ流しのようになっています。しかし、本当の力をつけるのなら本質的なものを見て欲しい。
あなた方が今やっていることは、武道の世界に入りたいとか世界一強くなりたいとかいって、きてみて子供同士でとっくみ合いのけんかをしているようなものです。相手がどうかかってきて、自分がどんな武器を使ったのか、一体何をやったのかがまったくわからないままやっている。そうしたら、それで向上することはないのです。たまたま勝てたり負けたりというけんかはあるかもしれない。 しかし、こういう舞台は一つの基準があります。それはお客さんを感動させたり魅了させたり、お金を払ってもよかったと思わせることです。当然子供のけんかはそんなものにはならないわけです。
恥ずかしいのはよいのです。ここにきて、それを恥ずかしくさえ感じてくれない人の方が問題です。自分の程度をしっかりと知ることです。そうでなければそういうことをつくってみせないし、もっと違うましなことをやるはずです。
そういう意味での考え方や頭の使い方ができていない人が半分以上です。今日の舞台でもそれがみえるのです。そこを変えないとずっと間違っていきます。そこを変えるのに2年くらいかかってもよいのです。
頭が悪いわけではないが、頭の使い方が間違っている。一音1フレーズで通用することをしっかりと見て欲しいのも、そういうことです。
今日歌を聞いていればわかりますね。声量の問題や音域や発声の問題ではないでしょう。そもそもそんなものがあったからといって、その感覚のままで歌ったら、どうやっても歌にならないのは見えますよね。ということも、たぶん当人が一番わからないと思います。
そういうものを比べていくのに、今度のオーディションでは、実際トレーナーがしっかりと点数をつけたもので並べ変えていきます。それで皆さんに認められているのは、同じ場でどういうことができてしまうのかというようなことを見るとよいと思います。
発声やヴォイストレーニングを勉強するのはよいのですが、その感覚の鈍いところに正しいものは宿らないです。それをしっかりと見ていって欲しい。今の皆さんの歌ったものに、声量をぽんとのせたら、もっとひどくなりますよ。それは今のにマイクをつけて大音響で聞けというようなものです。
カラオケはエコーでカバーされて、ごまかしのチャンピオンみたいなものですから別です。皆さんの歌はカラオケなのです。はっきり覚えておいて欲しいのは、ここはカラオケで通じたというくらいの歌は認めません。カラオケみたいに聞こえるものは100%よくないと思ってください。絶対に通用しない。そのように聞こえるというのは、すでに何もないということです。あの人カラオケをやっているな、そうしたらそれは舞台ではないのです。
今日知って欲しいのは、皆さんがめざしているのが発声や声域というのなら、それらは何てささいな問題かということ。それに対し、感覚や基準をしっかりと知ることがどんなに大きな問題なのかということです。
たとえば今日の人に、声量や声域を与えたらよくなるとかいうものはまったく感じないでしょう。私でなくても感じないと思います。せいぜいカラオケのなかでのごまかしを助長するようなことの指導の方法はあっても、一人でアカペラであるいはマイク1本で舞台をやることに対して、直す手段がありません。それは今日やったことを早く忘れるということではなくて、自分をしっかりと見て欲しい。
映像で見てください。見てもらわないと、いくらこれを1年も2年もいっても変わらない。皆さんは上達したくてきて、こちらは上達させようとしているのです。無理にでも映像を何回も何十回も見て、その感覚や鈍さは何なのかを知ってください。
すると鋭い人、鈍い人はどうやっている、というのがわかってきます。どこのレンタルビデオ屋に行っても一流の作品は借りられるのです。そこを勝負していかないといけない。そうしないとこれでよいのかなという考えになってきてしまう。入ってきたからにはもっとこだわって、よいものをその人がもっと出せるのだから、自分で自分を制限して、この程度で通じると思い、その程度でしかやってこなくて、そんなつまらないことで一生かけたいのならかけてもよいのですか。歌や声の世界になると、神や人間や呼吸やいろいろなものを感じられる世界なのだから、そこまでの勝負を挑んでいけば、そんなに間違わない世界です。
歌の評価は簡単です。その人は歌いたいように歌っている。その人の感覚からしか出ないわけですから、その感覚のところでそう歌うのは感覚がそういうふうになっている。通用しないのは鋭い人から見たら、鈍いのですし、間違っているのです。その自分を自分で正す感覚が得られないかぎり、先生がいくら直しても他人ごとになっていきます。
足元をしっかりと見なければいけません。どこにもそんな世界はないのです。こんなことをいわれてよくわからないからといって、どこかの親切なトレーナーについて、いうとおりに直してみても、やっぱり通用しないのです。それは最初は早いかもしれないけれど、2割くらいのアップしたら頭打ちで挫折してしまいます。限界がすぐきます。
自分で自分のことを放り出しているのを感じます。やってきたのはわかるし、一所懸命なのもわかる、だから私も一所懸命いっているのですが、結局どこに自分があるのということになってしまいます。足元を見なければダメです。今あるものが何で、ないものが何か。合宿でも星の王子様や青い鳥の話をしています。自分の映像を1500円でも売れるのかということです。感覚としては、こんな適当、こんなこなし方でよいのですか。それを歌や音に慣れていない、声を出すのに慣れていないということでカバーしていますが、その言い訳を使ったら10年経っても絶対に上達しません。
歌なんて簡単で誰だって歌っているし、サラリーマンでもっとうまい人がいるのに、なぜ私はできないのか、そこから入らなければダメでしょう。人生何年あると思っているのでしょうか。
あなた方の独自の個性や才能を見たいのです。それは音楽や歌になるかはわからないけれど、少なくとも声や表現のなかにあるはずです。あなた方にしかないものが出ていたら、それがかなりひどくても、他の誰もできないとかそこに何かできそうだということで、先は見たいと思わせるでしょう。
でも全部今日やったのは嘘っぱちでしょう。その辺のカラオケのおじさんがやった方が楽しめるようなことしかやっていないでしょう。あなたしかないものを出さなければいけないところで、あなた方が全部捨ててしまったらどうなります。
絵でも文章でも、歌で自分を伝えられなくともいろいろ表現方法がありますが、最終的に音声にもっていきたいとは思います。表現と価値について考えてください。あなたが自分という人間を引き受けて生きるというところから表現や歌とかを考えていかなければいけません。今日は1、2回目でやったばかりの発声練習で歌えるわけではないから、過去のものをもってきているのでしょうが、そこに逃げていたらダメです。歌えなくてもよいから、しっかりとしたものを一回一回創り出しましょう。
自分の個性や才能は見えないうちは、必死につかもうとやることです。今日皆さんがしたことは左にあるのを右に移しただけです。だから皆さん退屈している。舞台の経験としては積めたかもしれないけれど、表現や歌からいうと、何もなされていないということです。それにかけた日々は無駄だったということを早くレッスンやトレーニングは何なのかに気づいてください。それらによって問題がクリアになることが大切です。
できなくてもよいのです。できないから問題が出てきます。要は出てきた問題にしっかりと取り組まなければいけない。ステージ実習の問題は正にそうです。うまく歌いこなす、それでできてしまったら、外でお客さんの前でやってもらえばいいわけです。しっかりと取り組むと絶対にうまくいかないです。それがうまくいく人がプロです。今は、その問題がクリアになればよいのです。こいつはもう上に3音あったらすごいものとなるのにとか、あと声の力が20パーセント増したらと、どこかで勝負していたらこちらがそう思うはずでしょう。どこか助けられる。その伝わるところをまったく意図していなくては、修正もできません。
自分で自分を正す感覚が得られないかぎり、先生がいくら直しても他人ごとになっていきます。足元をしっかりと見なければ、どこにもそんな世界はないのです。だから創り出すのでしょう。
感覚にそぐうように柔軟性をもっていく。それに対し、まだ固いから失敗したとかチェンジがいかなかったとか、そういうことに結果が表れます。
でも、そういうものを目的にトレーニングや歌に取り組んでいるのでなければ、研究所にきて、やっていた意味がない。いきなり1オクターブの歌に対してここで取り組んだことがすぐには出てこないですが、それを結びつけていかないと永遠に離れたままです。自分なりに考えて小細工やうまく見せるように気分よく歌おうと考えるのは、悪くはないのですが、考えるところを間違えてはだめです。誰にもできるようなことに即興でつけても、合宿でここの人が踊るのと同じで、まったく踊れない人に通用するだけです。世の中広いわけです。そういうことを10、20年もやっている人がいますから、見苦しいだけです。使えないものはとらなければダメです。
それほどここの基準が甘いわけではないと思います。その基準をOKにしてしまえば、歌の基準はつきません。型にとらわれ過ぎないようにと思います。話し方でも飾りでも、どこかで聞いたものをそのまま移し変えてくるから、その人の味も呼吸も出ていない。間もとれていない。それを自分がもっと引き受けたらよいのに、何かにのってしまう。逃がします。自分の力が足りないから他の人にのりたいのをやめなければダメです。やめると下手になります。ド下手になります。それを真直ぐ出すことで勝負していかないと、本当に身にはつきません。
たった1フレーズ、一瞬でもよいから、何かを感じさせたらよいのですが、そこを全部塞いでしまって何かにのっかってやってしまったら、自分で自分がわからなくなる。そうしたら2年くらいすぐ経って、結局、何もできなくなってしまう。そういうものを結びつけるのは難しいことなのです。
今日の課題でも1回目の人は次に参考にすればよいと思います。そうすると予めわかっている話、わかっている歌としてあるものなのに聞かれるのが芸です。他の人の歌を歌うのなら、歌っている人より自分が出なければダメですね。わかっているのものを聞かせるためにどうするかです。どう聞かせようというところで時間を割いたり神経を使ってきたかということです。
覚えるのも、ここで再現するのも大変だったでしょう。そういう努力は実になると思うのですが、所詮、最低限のものです。
ここの課題で般若心経のようなものがあります。そんなことをやってもしかたないと思ってもそれをやれるということは、会社の余興だったらちょっとは舞台で差をつけられる。本当はそういうものに頼ってはいけない、それは会社の人でも一週間あったら誰でも覚えられるからです。たかだか一週間の差でしかすぎないということです。でも、それさえやらない人が多い。
研究所はそこの勝負ではないはずです。人間、本気になったら誰でも相当なことはできるのです。そんなレベルで勝負ではない。一所懸命やるのも同じで誰でも一所懸命です。明日やらなければ殺されるといえば、やります。そういう状況に追い込むのは自分であり、そこにプラスアルファのものを見ていなければいけない、それを出そうということを追求しなければいけないと思います。
合宿も上演が終わってその後でフレーズを班で回す。そのなかで気に入った台詞をやる、そうすると、それまでになかったリアリティがそこに醸し出す。としたら、今までのことは何だったのか、「エビータ」のなかでのリアリティは何だったのか。私たちはうまくできなかった、だから「歌えバカ者よ、大間違いだ」で皆グッとくる。「貧しき者たちよ」、研究所来る人は決して豊かではない。そうしたらリアリティもある、別に脚本のなかでなくても、生活のまわりにいっぱいあるのに、なぜ、それを本番までに取り出さないかということです。
自分にすでにあるものだからイマジネーションも何もいらない、そういうことをまったく感じないのでしょう。それが日本で育って歌ってきたり、音楽をやってきた人の根本的な過ちです。
型から入ったとしても退屈を感じたら実がやどってくるのです。だから今日やったものでも、人様のものを人様と同じようにやっても何の意味もない。それを選んだ自分の感性は何なのか、感動した、おもしろかった、だったらそれを出さないとだめでしょう。これがよいと思った、ここがよいと思った、そうしたらそれを拡大して出さなければダメでしょう。そういうことができないのはよいです。そんなものができるくらい甘いところではない。でも、それに取り組んでいないのは困る。取り組んでいたら、いずれそういうことができてくることがあります。
記憶力の勉強をやっているのではない。初心表明も、覚えたものをそのままやる、それは誰でもできる。誰もできないことは、結局今まで生きてきた自分というものに根ざすものでしょう。それは他の誰でももっていない。一人の人間の生ですから、そこに見えないものがたくさんある。そういうものを音や歌の世界に投げかけていかないと遅すぎます。
5歳や8歳からやるのなら別ですが、20歳や30歳まで生きたらそれだけのものがたくさん入っている。それを取り出すわけでしょう。だからいきなりニコッと笑えたり泣き出したりできるわけでしょう。
新しいものを勉強するのもよいのですが、それはより内側に深くあるものを呼び起こすためです。新しいものをとって左から右に並びかえても、それは誰でもできることです。
「エビータ」でも、マドンナがやりたがったのはその心や感覚のところに何かの真実があるのです。そういうものが上映され、何か受け継がれたもののなかに人の心を動かしていく何かがあって残されていくのです。
課題でも、そういうものは感じてくれたとは思いますが、そこも感じるのは誰でも感じるのです。皆さんの大切なことはそこからどう自分が取り組んでいくか、そこに自分の世界を出していくかなのに、その作業がまったく成されていません。
舞台に立つことを考えたら、どこで勝負できるかということでやらなければいけません。レッスンでも同じで、同じ舞台での差をしっかりと見てもらうと、入り口と出口があります。その間は自分でトレーニングするのです。
今日の練習でもこれに100時間かけた人もいれば30分でやってきた人もいると思います。それはどっちがいいかということではない。2、3年経ったときにどういう違いが出てくるかで初めていえるわけです。半年くらいだけ一所懸命やってそれでプツンと切れてやっぱりダメでしたという人もいるのです。そんな短い目で見ていません。なるべく研究所でそこに至るまで何をやるか、それが終わってから何をするかということを学んでください。
そういうことでやったことというのは、私の求めている2、3割のことを9、10割に高めていく世界です。世の中で音楽をつくったり劇団をやったりしている人達の活動の成立する基準をもつことです。
もちろん、3日間でできるわけがない。やっているのはその3日間で何かをつかめということです。リスタートしたときにどういう人生を送りたいかということで、感動する人生の方がよければ一所懸命やればよい。研究所にきて音楽をやれるかどうかなどを決めなくてよいではないでしょうか。
声は一生使っていくものです。悪いよりよい方がよいのだし、服や香水よりも身体から離せないものです。
大切なのは、そこでそういう思いをもったり気づいたことを、投げ出さないこと。だから結局、不器用でも長くやっていた人が勝ってしまう。続けるということしかモノになりません。才能のある人が続けてやれているかというと、そうではない。才能があるということは、そのことを誰よりも続け、誰よりも基本のことをやったから才能が出てきたわけです。
せっかく気づいたことを大切にすべきだと思います。ここに出てきたときに、もし自分で練習ができるようになり、活動をしていくのなら、何でもよいから、「こいつの先が見てみたいとか、こいつの人生はどうなっていくのか、助けてやりたい」と思わせたら最高です。そうやってしか人は動いていきません。人を動かせない人間が何かを一人でなしていくことは絶対にないのです。自分が力をつけようとか有名になろうとしても、まわりの人間が認めていくわけです。
どんなに一人でやったつもりでいても、相当、いろいろな人に助けられているのです。それは助けてくれといって助けられたのではなく、向こうが助けたくなるものでないと続きません。世の中は努力しないものに冷たいです。向こうにメリットもないからです。
だから、やっぱり心でしょう。そういうことを当人が一所懸命やらないと、まわりも動かしていかない。ステージも正にそうで、いろいろなものを見ていたら、できない人が影響力をもっていくのはよくないことだからです。影響力をもちたいといろいろなことをやっていくのはよいのですが、そんなに世の中の迷惑なことはないですね。
だから一所懸命やっていないとかできない人は影響力をもたないでよいのです。その方が世の中のためになる。そこは目的でも何でもなくて、自分の力が有り余って、それだけ人生をそのことにかけたら、まわりの人は紹介したいと思うし、そのことを残していきたいと思うでしょう。その人のよさもそこに表れます。
ミルバもピアフも淡谷のり子も皆さんとはまったく関係のない人でしょう。でもその人が死んだということでそれだけ世界のなかで何かを残したという人も、もう一度聞きたいと思う人もいるわけです。そういうものを受けて私も聞いたりするわけです。そうやって残っていく人は残っていく。
人間の関係もそうです。また会いたいと思わなければ続かないでしょう。皆さんのレッスンも、研究所にきたいと思わなければやめていくのです。一人で空回りしているように思えても、それをつづけるしかありません。
歌がうまくなったら何かできるなど思わない方がよいですよ。歌がうまくても人に何かを与えられるのではないし、下手でも何かを与えられる人に人はつくのです。人がつくかどうかです。そういうことからいっても自分のものを出さなければよくないと思います。
要はあなたの主張や考えです。どこかで聞いたようなことをここでのたまって、皆さんよりこの世界で20年くらい長く生きているわけですから、全部見えてしまうのです。
最初はよいのです。でも、2年経ったらそうではないことができるようにここを使ってください。入ったままの状態で出ていってほしくないのです。
研究所に関してもここのやり方に関しても、やりもしないのに批判する人もいます。疑えばよいのです。徹底して疑って、その代わり徹底して使ってみろ、全部に出てみろ、それで大したこともできていないし、全部嘘っぱちじゃないかと、そうしたらそれはそれで一つの形式としてわかるだろう。そこから何がすごいのか、何が違うのかということを見ていく。
それには素直さということは必要ですが、自分がいわれたとおりに受けたり、右に書かれたものをそのまま写して左に置き換えてできたつもりになるのではなくて、自分がそこで疑い、疑う以上あるいは自分が主張する以上、身をもってそれを確かめなければダメでしょう。自分の身でつかみながら示すことでしょう。
違うものが出てきたらそれはそれで大したものだと思います。ここは一人よがりにならないように、私もいろいろなやり方をとっています。
研究所の方法などは、ないでしょう。関係などはその人がここにきたときに初めて成り立つわけです。その関係において本当のものであればよいのであって、本物の声を出す人とか本物のアーティストなどは誰かがいうものではない。最終的に誰もできないことがどうやれるかということでしょう。それがおもしろいかすごいかということです。
それに自分の基準をもっていなければ、まわりに動かされてしまうということです。今一所懸命取り組んでいる人を批判するつもりはありません。その取り組みをステップアップしていってください。自分でやった分だけが、本当にやった人の力としてつくのです。やらなかった人はそういう機会を逃したということです。もったいないことです。同じお金を払って、やった人は苦労したかもしれないが、その分は自分の力につく。それは今すぐ開花するかはわからないほど、仕込んでおくのです。
いずれそういうものでしか、差のつかない世界になります。あるレベルになったら皆さんやった人ばかりです。そこで「私は才能がある」とか「たくさんやってきた」とかいうのは、無意味です。いつ消えるかわからない研究所と争うのではなく研究所を活かしなさい。そうしたら結局その人しかできないものは一体何なのか。そこを見てきたのか、よそ様の作品を移し変えだけに努力して、時間を過ごしてしまったのか、しっかりとみるのです。
考え方というのは、人生を左右します。だから気をつけるようにいっています。そんなものはまわりから左右されない正しいものがある。それはあなた方があなた方をしっかりと出していくことです。そういうものを勉強してもらえば、自分にそんなにたくさんの歌い方があるともいえない。そんなにたくさんの曲があるということもないと思います。たった1曲のたった1フレーズのなかに、もっと格闘してやらなければいけないことがあって、そのことからいったら声量も声域もいらないし声のコントロールさえいらないかもしれない。そういう感覚をしっかりと取り出すということ。ただ、そうやって息とか感覚とかを整えていくのです。
いっているとよくわからなくなってしまうので、こういうところに出てみて、文句いわれるのは覚悟で月に1回やりたいようにやればよいのです。大切なことは私のコメントではなくて、映像で自分のやったことをしっかりと見ることです。それが一番大切です。そのことに対してどうやればよいのかを考え、その考えたことに対してどういうトレーニングやメニューをつくろうかと設定します。面倒ですね。
でもやれた人は皆さんそういうことをやっているのです。やれなかった人は結局先生がいうとおりに息だけ吐けばよいと、時計見て30分、今日やったなと思って寝ているわけです。
あるレベル以上からはそういう鈍いトレーニングでは成り立たないです。最初の1年くらいはそれでも力がつくのでよいです。でも息や声がすごくても、そうなればなったほど、基準や感覚をもっていなければとんでもないものになってしまいます。
カラオケでも声のまったく出ない女の子でもそれなりにうまく歌いますね。自分の限界を知っている、力がないから早くわかるのです。そこでマイクの使い方やエコーのかけ方などを工夫します。そういうものを身体から変えて、もっといろいろな可能性を自分の力としてつけていく。潜在能力をつけていく。よいものを入れていくのです。そのために、感覚がもっと鋭くないとなりません。仮に声量や声域があっても曲や歌としてまとめる力がなければバラバラになります。
合宿の映像を見るとよい勉強になると思います。一番いいたかったことも、全部が終わった後に出てくるようなものだったら、なぜ本番のときに出さないのだ、それがあなたの生活、リアリティ、あなたの考えてきたことではないかということです。それを「エビータ」として演じ、人様のものをやっているようなつもりで出してみてもしかたないということです。
自分一人で学べることは限度があります。より早くたくさん学びたければ人から深く学ぶことです。まわりの多くの人からも学べる。合宿に行けなくとも3日間行ったメンバーがいたり、そういう資料をもったら、行った人より学べなくとも、いやそういうことがわかっていたら行った人よりも学べることもあるのです。うまくならなかった人と大差はありません。それはその人の学び方や感覚です。そういうものをここのなかで最初に学んで欲しいと思います。
2年上達しなくてもそのことがわかれば、確実に次の2年に生かせます。2年間くらいはどんなやり方をやってもちょっとくらいはうまくなるのです。ちょっとうまくなった自分がもっとすごくなるためにどうすればよいかと知っていくことです。
そうなった人達はいろいろな材料をもっています。苦労したければ苦労した人の学び方を勉強すればよいし、苦労したくなければ楽々それができたといっている人の学び方を勉強すればよいでしょう。ただ感覚や量に違いなくなれば楽しくやればよいでしょう。
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<ステージ実習①>
映像をもち帰って、立ち居振る舞いをよく見てください。トレーニング中だからということをいっていると、5年も10年もかかっても解決しないのですから、どこかで区切りをつけなければいけないでしょう。どうしてもトレーニングばかりでは、不しぜんなものになってしまいます。歌は試合と同じです。レッスンも、感覚を全開にしていろいろなことに気づいて欲しいということで、場数を踏んでもらっています。
ステージ実習は毎回オーディションで、そこで何かの基準に対してクリアしようとか優勝しようとかいうことよりも、ひとりの練習と違った場が成り立って、そこで何を働きかけるのか、あるいはそこからどういうものを受けて取り込んでいくのかが問われます。
それは音だけではないと思います。空気や温度湿度、さらにまわりのいろいろなものを含めてやれるだけのことをやってみます。それが悪かったら自分で状況を変えていかなければいけません。
ステージ実習にはピアニストもバンドもいません。自分が全部感じられるところの場です。
レッスンに出ていると自分の作品がよくならないうちにも、聞く耳ができてきます。たくさん出る人や強い意志のある人しか残らなくなって、2年以降は3分の1くらいに減ります。そういう場のなかでの自分の反応力はとても大切です。皆さんの反応と上のクラスの反応はこういうことをしゃべっているときにも空気として違います。それを受けながら私も自分を曲げるわけではないですが、調整していくわけです。人間関係とは別に、舞台のなかでそういうことを感じていくには、10人から20人くらいが一番よいです。100人だと何となく、わからなくなります。自分の声がどう届いているかもモニターでは違ってきます。
ここのスタジオはソロでアカペラで歌うときにもっともよい設計をしています。自分の声の返りを聞きやすいはずです。そういう形で空気や共鳴や踏み込みを感じて、使ってください。
もう一度慣れてきたところで研究所のシステムを見ることです。いろいろな無駄なことを皆さんがやるとその手間は全部こちらにきて、それが皆さんにいきます。ひとりが一行書いても、私にとってみれば100人100行を多く読まなければいけません。それでも、ここに残す意味はどういうことなのかと考えてください。聞かせどころも考えるべきだと思います。
確かに音の世界がわかっている人になれば、歌で聞いてくれといえます。結局そういう手続きを踏めないうちにあるいは踏んだと思っていながら実際の作品を見て、そこに表れていなければ、自分で分析し、次にどこからどこに上がるためにはこういうステップが必要だということからやっていかないと直らないと思います。直せる人は聞いて直していけばよい。音をよく聞いてみてとってみたら音程はよくなるし、踊りに行っていたらリズムもよくなるかもしれません。
でもほとんどの人はそんな形でうまく入るわけではない。それが20年かかるとしたら、そのことを少しでも早く5年でも3年でも早くやろうと思って、そういうふうに基準や型をつくって、そのなかでクリアしていくのです。階段のように1段2段というようにはいきませんから難しいのです。そういうことは習慣になっていないと難しいものです。
合宿に行ったら、4、5年もここで音のことを徹底的にいわれている人が、ちょっと踊ってみたりリズムをつけてみるだけで、音の世界やイメージが吹っ飛んでしまいます。そこまで人間はいい加減で気分で左右されやすいということを知った上でやることです。
ましてステージやお客さんに伝えるために表情をつくろうとか欲が出てきます。そうなったときに一番根本のことが崩れてはいけないから基本をやるわけです。これはスポーツと同じです。基本は何かというとしっかりと声をつくることです。つかもうとしてつかむのではなく、つかんでいる状態を導き出すことです。それからそれを前に出すこと、それで展開することです。その2つができていたら、絶対にカラオケのような雰囲気にならないはずです。
カラオケというのは声がつかめない人、それから前に出ない人にとって有利に働くようになっています。プロの人達が歌いにくいからエコーを消すのは、芯がぼかされるからです。体力がなくてバテバテで、声がまったく出ないというときに、違う意味ですが、うまい使い方ができます。
本当は、音楽を感じて融合させていくのが歌です。人間ができることはそこのベースのことをしっかりと示すところまでですから、後はいろいろなものが落ちてくる空間や感覚を開いておいたほうがよいのです。
トレーニングはその逆のことをやりますから、部分的に意識して意図づけてやっていきます。だから両方のことをやらなければいけません。まじめばかりではダメで、それを投げ出してみたり壊してみたり、思い切って前に問うていくということがないと、どうしても狭く、内側だけの感覚になってしまいます。外側に出したものが届かないから内側をみていくという学び方をすべきでしょう。
ここでも1ヵ月目から発表の舞台があります。歌えるわけでも舞台ができるわけでもなくてもまず、踏めというのは、そこで何ができるかということを試せばよいからです。結局、トレーニングをやっていようがいなかろうが、よいものが出ていたらよいわけです。
ただ、それを長期的にしっかりと積み重ねるというところで毎日の勉強が必要です。書くことも一つの勉強だと思います。書くことは基準となるのです。
結局、今年もこの感覚、来年もこの感覚、その感覚はずれているのか落ちているのか、上がっているのかが全てです。皆さんトレーニングしたり勉強したりすると、必ず上達すると思っていますが、こういう世界はほとんどの人はトレーニングしたから、そういうことに気をとられてどんどんとわからなくなっていってしまうものです。自分でわかったつもりでいて本当のことが見えなくなってしまう。鈍くなってしまう人の方が多いくらいです。
そうでない人は10、20年もそのペースで続けていたらすごくなるはずです。それは自分なりに頭で解釈したり理屈をつけてしまったり、逃げをおくのです。どんどん難しくなり、大変になり、よい作品が出なくなるというのが、こういう世界です。その人の基準さえ上がっていたら、あたりまえにそうなることだと思います。どんどん苦労していくから、喜びも大きいのでしょう。
音楽の感覚の線を出そうと思ったり整理しようとして、それをまとめたり決めつけたりしていくことは感心しません。もちろん、舞台ですからそれなりに自分の感覚でまとめてしまわないともたないというところは、あります。しかし、それを見たときに、そこでの間のとり方、呼吸のとり方、踏み込み方と、要は人の心がそういうものを聞いたときに形として出てきていたものであればあるほど、その形がちょっと崩れたりちょっと早めに入ったり、もう一呼吸置いたところで人は反応するものです。
それがないと日本のプロによくある歌のようにきれいすぎるがために何も働きかけなくなります。クラシックはそれを徹底して純化するのですが、ポップスはそうでなくそこの不純物が個性や魅力となります。アコーディオンでもうまい演奏を聞いてみたら、まったく淀みがないのでなく変な淀みが味になる。人間の声の場合、もっと自由にできるわけです。
だからといってそれを狙ってやると全部外します。その段階で頭を使って、形だけまねてやる人が多いのですが、それは使い方の間違いです。あくまで中心が走っているところに綾として出てきたり、ふわっと投げ掛けられたからもう少し離してやろうぐらいなもので、最初からここをふわっと離したら上に飛ぶからそれを取ってやろうと欲目に考えてやると、ちまちましたことやりやがってということになってしまいます。
作るのはよいのです。1フレーズやったらつくって、それを何回も直していくからです。最終的にゆだねていくところの感覚はもっていなければいけません。そうでないと偏ってきてしまいます。それが表情に出てきたり顔の表情が歪んできたりして、身体のどこかがうまく動けなくなってきます。
人間は不思議なもので、機能美と力が働くときは結ばれています。空手でも体操でも、陸上などでさえすぐれて人間を超えて働くときにはとても美しく見えるものです。歌い手も同じです。
それを顔や身体から入れるかというとなかなか難しいのです。そういうのは舞台で何度も失敗したり足りなかったと思いながらやっていくしかありません。うまくいくときはあまりないのですが、そういうときにどう切り換えていくかということを勉強していくのです。
だからあまりちまちま、せこせことは考えない方がよいと思います。トレーニングやレッスンをやるときは、とことん考えたりイメージを巡らせたりします。終わった後にもそういうことは必要だと思います。しかし、やっているときはそれが全部自分を妨げてしまいます。なるだけ大きなものを感じていくことです。
世界には、いろいろな楽器があり、それらは誰でもできるようになっていくものです。そのなかで「伝説の」とか「巨匠」とかいろいろな意味でいわれた人達は、一回聞いたら皆さんがぽろぽろ泣くくらいのことをどこかでやってきているわけです。そうでなければたかだか楽器が人の心を動かすこともなく、またその楽器も滅びていたと思います。
そういうものを聞いてみてください。自分の感覚を変えてみればそこで聞こえてくるものがあります。それを大切にしていけばよい。それを自分がやったときは邪魔してしまうわけです。ライブ実習が入る前に伴奏者がつく場合があります。そうなってくると今度はピアニストの一つの演奏のなかに溶け込ませていかなければいけません。それはそれで、また大変なことです。
そんなことを考えながら、研究所のシーズンシーズン、ここは何年も同じことを同じように繰り返し、同じスケジュールでやっています。別に月々ステージ実習でしめなくてもよいし、半年に一回ライブでしめなくてもよいのですが、でもどこかに節目を入れていかないと人間はいい加減なものですから。それをどのくらいできるかです。
最初の1、2年は皆さんできるのですから、先を見て欲しいと思います。4、5年後にも自分がそれだけ自由に声が使えたり身体が強くなったりしたときでも、それに耐えうる感覚というものをつけてください。できている人は厳しくしているのです。彼ら達が自分に対して訂正したり不満に思ったりしたことを克服していきます。皆さんが今10くらい中から1個を出してくるのと、千個も一万個もある人達が最初に10個出してくるのとは、その10個がもう違うわけです。
そこでどういうふうに選んでいる、その10個はどう出している、その10個はどうしてそうしたら、いろいろなときにどうカバーしているということを見てください。自分ができるようにするためには必要なことだと思います。
楽器の人達はそれをよくわかってくるのに、歌い手はなかなかそれが、自分の声は違うとか歌いたいことが違うとかいう言い訳になります。歌が違うから違うとかジャンルの違いでもなく、心のなかにあるのは同じものなので、早くそこに到達したらシンプルに、どうやってもよくないとなったらどうやるかというのは何通りもないはずです。そこで勝負ししたらよいと思います。
まだカラオケぽかったり癖で歌っていたり、形からとっている感じがあります。それを放り出す勇気をもつことです。そうすると前に歩めると思います。少しずつですが、3つくらいの音で4フレーズからのスタートかもしれませんが、その方が確実にスタートできます。我慢できないから、すぐに2オクターブにいってしまったり、自分がついてもいけないような声量やスピードにしたりするのです。それはそれで経験として感覚の勉強としてはよいと思いますが、緻密に自分が感じられるところで運転しないと、事故るだけではなく、感覚が歪んできます。それを正すことをやってみてください。
この自分の映像をいくらで買うかという問題ですね。これが5000円だったら買わないでしょう。でも本当は月に1回、ライブで、そういうものを出すことを目的にしなければお客さんはもっと買わないでしょう。
必修で24回全部ステージに出たとしたら、自分を24回客観的に見れるわけです。そこで見て、その都度変えていったら、24回上達するはずです。音は捉えられないから、写真や絵と違い瞬間にそれを直さなければいけませんから。結局そのときにどこまで見れるかということでしょう。そこで見たものはすぐには直らなくても、その人の問題意識があればやがて直るのです。そして、レッスンでは少なくとも直る方向にいくわけです。だから、徹底して見て欲しいというのです。もう1年くらいいると、かなりいろいろなものを見る経験を積むことになります。いろいろなイベントや合宿に参加すると、よりそういうものがわかってくるでしょう。
結局、そこでの失敗から学ぶしかないわけです。研究所ですからなにも完成したものも大したものでない完成に甘んずるよりは失敗したらよいのです。成功と失敗というのも厳しく見たら何でも失敗になってしまう。甘く見たら何でも成功になるわけです。
たとえば歌詞を忘れないように最後まで歌えたらということになると歌詞が合っていたらそれで大成功です。上がらないようにということなら上がらなければ成功です。でも研究所の場合は、それを作品として売り物にするのではなくて、それを踏まえて次の1ヵ月あるいは残りの期間を勉強していくためにとるためにあるということです。
失敗した方がよいというより、失敗している部分がどこなのかということをしっかりと見ていかなければいけません。嫌な作品は見たくないから、皆さんうまくいったようなものを見たがる。それはそれで自分のいい状態をそのことで戻すという、よいイメージトレーニングにはなります。しかし、そうでないものもみることです。
それがそれほど差がついていない。あなたが思うほどついていないことを知ってください。素人を考えていればわかります。音や歌詞を間違えなかったから成功、この作品が一番よいと録音を送ってくるのです。そこに表現という働きかけの基準がないわけです。
プロとの違いは何かというと、プロは自分で何回も失敗し作品のなかでも失敗するのに、お客さんがそれに気づかない。プロからいわせるとあんな程度でよいのかというくらいになって初めてステージは成り立つようになってくるのです。成り立つのに、それ以上のものを求めるから、ポリシーが出てくるのです。
ですから、失敗することや舞台を恐れることはないし、歌のなかでいろいろなことがおきることも楽しめばよい。それを映像で見たところで受け止めておいてやり直す。本当は映像では遅いのです。そのステージのなかで受け止め、その瞬間に変えることです。それができなくても、そのことは、どこかにインプットされていて次の曲で変えてみる。それは自分の一つのルールで予知できないと難しい。
それからお客さんの問題もあります。このくらいの客は一番やりにくいステージですが、逆にいうと一番肌で感じられる。これが何百人にもなったら、肌で感じるのもなにも自分の声さえわからなくなる。モニターで聞いているのとお客さんに伝わっているのとは、まったく違ってきます。そこにもタイムラグがあります。拍手も一瞬遅くきて、それもモワーっとした感じになりかねない。それはそういう場で成り立っているのですが、もっと自分の感覚に正直になるのであれば、その声を出した瞬間どういうふうに伝わるか、それから皆さんがどう受け止めているかという感覚で、捉えられるスペースで経験をつむことです。そこから勉強して欲しい。
映像の場合、現場と違って聞こえてしまうこともあります。視界も違います。どこにマイクをおくかということで、とんでくる音質も違います。それは現場にいた人にしかわからないことです。
私は客観的に見ているからわかります。自分のを見たときに、それはその場でおきたリアルなものではないが、ある程度ヒントにはなります。歌でも自分のだけ見ていると本当はわからない。隣の人のを見て自分のを見たときに比較できます。そのために上映のときに見ることです。音響はそのときによって変わります。たとえばビジュアル面、表情や目線、動き方や全体的な不しぜんさ、それから音楽と合っていないところなどは自分を客観視しやすいはずです。そういうところから正していくことです。
それに気をつけ、わかっていたら、変えられることと思います。歌うということも普通に考えたらおかしいことをやってしまっているのに、それをするだけの理由がそこにあるのかというと、大体気づかずにやっていることが多いわけです。声と同じでそれは慣れていくしかない。
歌が聞こえてこないというのはトータル的な感想です。合宿でも10月17日のオーディションでも果たして何フレーズ聞こえてきたかということです。それだけ歌の世界が厳しいからそれはそれでいいのですが、歌の場合、特に今日の「Love me tender」のようになると、ある程度意志の強さをもって前に出していかないと、ふわふわしてしまいます。プレスリーもしっかりと歌っているわけです。声のよさのなかにぐにゃぐにゃと入れているわけではないです。
一言一言ていねいにというのはよいのですが、1フレーズだということ。まして歌なのだからフレージングのところが壊れてしまったら一つひとつをどんなにていねいに歌ってみてもぶつ切れになるのです。その一つひとつのところに流れがない、たとえば一番目のものを1の大きさ、次のものをいきなり3にしてしまうと、何かの意図があれば別ですが、そこで違和感を覚える。次のところは1、2、そうすると次が0.8、このくらいのところだと許せるけれど何の理由もなくそこで3になって次にまた1になったりするのは、頭のなかだけで考えた世界です。内側に入れようとか外に出そうとかいうことばのことがそのままに出てしまうから、音楽のなかの線とはまったく違うところにいってしまうわけです。
それを完全にやろうとすると身体とか呼吸といった支えがしっかりとできていないからどうしても声量的に小さくなってしまいます。小さい中でのコントロールはカラオケにマイクつけるのと同じである程度できるかもしれませんが、そうすると今度は覇気が出てこない、声が前に出てこない。だから伝わらなくなりトーンが暗くなってしまいます。
こういうものは実際の舞台として、どんなに心を入れてフレーズの流れを出しても、人前で表現するにたる条件からみて番外ということになってしまいます。それは役者でも同じで、喉声であろうがガラガラであろうが、音が外れていようが、ともかく飛んでこないことにはそのことさえわからない。客に小さな声でいっていることを聞いてくれというのはお門違い。そういうヴォーカリストが多いようです。
知名度がでてくると、どんどん声を出さなくなっています。それで感覚を伝えられるという自信と完全な音感があってその世界を出しているならよいのですが、自分の詞や曲だからもっているみたいなところがあります。昔みたいにシンプルに歌っていた頃の方が声の表現力ということでは伝わる。それ以外は特殊な人しかやってはいけないような気がします。
まず覇気がない、暗く聞こえるということで絶望的です。その人個人の世界、今日でも半分くらいの人がひとりの世界にクローズしているという例が多かったです。そこでいくら明るくやっていても飾りつけをやっているような明るさでは伝わらないし、光が出てこない。
伝えることを考えろというと今度は伝えることばかり熱心に考える。そうなるとまた難しい。伝えることと伝わることは違ってくる。だから伝えようというのはそこで頭から入るから形として違う。こういうものは全部形にならず形をとる、自分でその形を想定してやろうとするとそこで失敗するから、練習やトレーニングを繰り返してみて、その形がいやらしくないところまで練り込んでいけなければいけません。
多くの人が、役者や声優のトレーニングを受けてしまうと、その形を整え、つくることがトレーニングだと思うのですが、そうではない。 それはしぜんにやっていて、本当に日常の一場面のようにやっていたものが、無駄なことが全部取れていて、形がとれていて自然に伝わるものがあります。歌のなかでそこまでやるのはとても難しいです。
だから今日のような歌は若干脚色してよいと思います。これは舞台だから演じているんだというところがあってもよいと思いますが、言えるのはやっぱり内から開いて欲しいということです。先に伝えようと思ったら、内に何を入れようというのではなく、内でそういう気持ちになってそれがオープンになったら前に出ていく。要は自分のなかで道を見ていなければ気持なんて外に出ていかない。まず自分のなかをしっかりと満たしてくるということが前提だと思います。
発声でがんばったりそういうチェックをここでやっている人もいましたが、そこから入るのでなく気持ちから入るべきです。その気持ちが声をとる。 声や音がとれなくて、リズムがとれなくたって、気持ちはとりあえず伝わると、後はマイナス点が見えてくるから勉強にはなると思います。「アルディラ」の「ラ」、これは「ラ」という場所に対する一つの強い意識で、感じたとおりに歌えばよい。「Love me tender」も「Love」も「me」も「tender」も同じに聞こえます。そうしたら全部単語で「I」だけとか「Love」だけでよいではないかということです。意味はわかっているはずです。
それを当て字のように使うのはよくない。音として読み込んで欲しい。そのなかの変化を読み取って欲しい。その単語が生まれたことには、「ママ」や「パパ」と同じで、語感とか気持が込められるから残って、そうでないものは滅んでいるわけです。
何か感じるものがあるのに対して歌い手は敏感にならなければいけない。それは強い意志を持ちながら繊細に歌っている人達をよく聞いて勉強してください。
それから音楽はいろいろと変化していかなければいけないのですが、それが頭で解釈していると適当に見えてしまうから深まらない。そうするとその人の好みでそういう雰囲気で出したいのだと、伝わることもありますが、それはタレントさんでないともたないと思います。そこにその人のものや深みがなく、誰でもできてしまうくらいの変化としてある。これを明るい歌だとか喜びの歌だとか捉えてしまうと中学生や小学生と同じです。
自分のなかで本当に聞かせどころを知っていてそれを聞かせたいということが焦点として絞られていたら、エントリー票の聞かせどころを書かなくてもよいのです。でもこれは一言でいって明るいとか喜びの歌とか恋の歌とかそんなものではない。だから合宿でも一晩かかってあれだけストーリーを書かせるわけです。本当はそんなことをやらないで進めたのにそれ以上のことをやっていない。それにもかかわらず人間はやらないものです。だからいつまでも基本が身につかない。
すぐれていく人達はそこの作業をしっかりとやっている。それも1年や2年ではなくて5年も10年もやっている。私も自分がやった上で、人様のを100枚読んでいるわけです。そういうものを感じるつもりがなくなったら、こんな世界はやっていけないということです。そういうことに興味関心をもち、深みをつかもうということが、表現活動の原点にあるから、本質的なものを手近なところからやっていく。
そうでないと聞き手が大切なものに気づいたり何かを思い出させたりというようなステージにならないでしょう。そうすると歌はしょせん歌で回ってしまって、こうやってしゃべっていた方がよいわけです。
命、あなた方は今生きているのだからそれが輝いていなかったら、こちらに感じられないのでは、ロボットみたいになってしまう。それはダメです。息をしていて声が獲得できていてそれが今なのだから、昔の歌であっても昔が匂わないことが必要だと思います。プレスリーばりに歌う人がいなかったのはよいことですが、それをあなた方に移し変えて歌うことです。
それから心についても難しい間は演じわけるしかない、ここにきたら切り換える。演じて通用すればよい。本当のことでいうと、最高の心をもつ取り組みはしなければよくないと思います。人格的にどうこうではなくて、そこにある歌や心に対して自分が素直になってその状況をつくっていくというような試みです。役者ではあたりまえのことが、歌い手のなかではすぐれた歌い手でないと難しい。それも音楽やバンドとかいうもの中心の傾向の歌になってくると、問われないときもあります。
ところがアカペラで歌おうとしたら、どうしてもそこに何かがないともたない。
それから、身体の動きが助けている反面、邪魔しているのではないかという気がします。動き自体が消化されていない。その人のなかのリズムや動きが上っ張りの方で出ている感じがするから、そのためにぶつ切れになってしまったり、そのために一つのフレーズ感が細かく違う方向を向いていたりして、統一性が歌のなかで出てこない。
一つのことをやればよい。一つのピークにもっていって落ちればよいというだけの単純な歌がどこがどうなってというのが見えにくくなってしまう。その気持ちに入れなくなってしまう。それは動きを押さえろということではありません。
この前「ためしてガッテン」で、リズムを叩きながら「32+31=63」とやったら計算ができなかったり、計算をやっていたらリズムが狂うとかありました。運動の神経は小脳が、頭のことは大脳がやっています。結局、身体のなかにリズムが入っていて表面的にいろいろやっても取れていなくてはいけない。
ただ、最初は、プロセスだから全部ダメとはいえない。それを今回はやってみたとします。でもそれは続けるものではない。そういう動きのないところで、テンポ感やリズムは刻めなければいけない。ただ、リズムを相手に伝える一つの方法ではあります。
口でいうよりもお客さんにその感じが伝わる。では伝わる武器としてそれがビジュアル的に訴えかけるような形で演出された動きがよいのかというとそうではない。自分がテンポを外さないためのものだから、そこで限定されてしまうのならもったいない。
実際、歌の場合はドラムやピアニストがついてくれますから、もう少しある面では楽になる。その代わり自分でそのことを身体でなく内面的なところで刻めていなければ、それはピアニストの感覚にはついていけない。身体の動きより音の感覚の方がずっと早い。身体でついていけないとはいいません。人間の生理的なもので、たとえば誰よりも速く弾けるピアニストがいたとしたときに、それがどのくらい共感を得るでしょうか。確かに一流のプロはバイオリニストでもすごい速さで弾けるのですが、そういう感覚があるからこそ、それを普通の速さで弾いたときにたった一つの音から音のなかにいろいろなものを入れる余裕があるのでしょう。
サラ・ボーンを聞いて、そんな感覚で声を扱って、声を追っていくくらいの感覚は身につけましょう。拍をとっていって歌っていくと、これで限定されてしまう。そこに音は合うけれどそこから微妙にずらしてみたりそのずらしたところを汲んで次に入ることができない。 要は1、2、3、4と歌うのは、歌ではないです。皆さんのとっているリズムは1、2、3、4で、そうやっていて1、1、1、1と考えながら4フレーズの16のなかの一番最初の1に対して次の16フレーズの1を感じながらその32をまとめてみて次にいくというブロック的な全部を感じていかなければいけない。
だから音楽は単純に同じところにリピートがくるし、聞き手の方もそろそろリピートがくると予期をしている。それは歌い手が変えて構わないのですが、その前にまず踏まえなければいけない。その上で変化することはよいのですが、裏切ってばかりだったら、バラバラとなってしまう。その駆け引きというのが必要です。そのときに一本で捉えていないとどうしようもない。ことばごととか1フレーズごとに捉えるとかやっていたら歌は膨大なピースになります。たかだか4本くらいの線なのです。
発声のチェックや歌を正しくということは舞台でやってはいけません。
今までやったことがない人はそういう表情になりがちです。しっかりと声が出ているのかなどは一人でやって映像をとってみた方がよいと思います。気にかかったのはフレーズ感が内側に入ってしまう人です。できたとしても外に出てきません。逆に、外に出そうと思って切っている人の場合はそれがぶつ切れになっている。
結局、ピースばかり出ていてどこがヤマだったのか、わからないのです。ヤマが2つだったらそうすればよいし、1つなら1つ出せばよいのに、小さなヤマが8つか16かあって何なのかよくわかりません。あるいは前半にヤマがあったのに後半にそれに対応するヤマもなくてぶつ切れになっているから、一体どこで終わるのかわからない。構成がまったくできていないということです。ブロックという捉え方もありません。
それは理屈でやることではない。短い期間で訳のわからないままやってしまったでは2、3割のできです。これから残りの7割を詰めていかなければいけない。
こういうものをしっかりと詰めておいてください。これで30分のステージです。一人のヴォーカルが続けて歌う最小単位です。そんなことを考えてください。
歌にはそれを助けてくれることがついています。伴奏やアレンジがついて、1曲はしっかりと終わる。次の曲に入っても歌い手は何もいわなくても、お客さんはこれは歌だからさっきと違うことが起きてもあたりまえだと見てくれます。だから合宿でやったことよりもずいぶん簡単なはずです。
よく見て100ポイントくらい書き出せばよいのです。それを24本やって2400ポイント直せばもう少しは早く直ると思います。早くいい加減に上達しない方がよいと思っていますから、あまり急いでやれとはいいませんが、皆さんは早く上達したいでしょう。そうしたらそうやるベきだと思います。10年で100ポイント直る人よりも1ヵ月で100ポイント直る人の方が上達が早いわけです。そう簡単にできないところもありますが、見えるところもたくさんあります。
そこで直す、そこでしか私も見ていません。あなた方の内面に何があってどういう生活をしているというところは見ていない、ここで出るものだけを見ています。そういう意味では同じ条件で見ているのです。よく反省しておいてください。
ーー
<ステージ実習③>
上映も見たほうがよい。他の人のも見れますから、現場で実際に聞いたものとの差がわかります。自分の映像だけ見ているとどう変わって入っているのかわからないものです。VTRはわかります。歌の場合はマイクが入り、それで大きく変わる場合もあります。アカペラでやっているものにマイクを入れると実際のステージに近くなる場合もあるし、離れる場合もある。
入門や1に関しては人前に出てやれる習慣をつけなくてはいけない。何も起こせず終わってしまう作品以前のものがほとんどです。自分のVTRをいらないというぐらいのものしかできていないでしょう。そうしたら何やっているのかということです。五千円でも一万円でも欲しいとかならないと嘘ですね。いつまでも先になったらよくなって、最初が悪いということではない。伝わるもののある人が作品をものにしていくのです。
3に上がったばかりの人はこれからどうなるかわからないですが、長くいる人は3クラスも力の差があります。今の4クラスでは、10倍くらいの差があります。3までは、音程さえとれれば上のクラスに上げています。違うメンバーとやっていくということはいろいろとよい経験になると思います。
個人コメントや合宿、オーディションの結果もしっかりと伝えているのですから、そこに同じことを書かれていたら考えなければいけません。VTRを24本見たら24くらいはステップアップして欲しいと思います。1本のなかで100個気づけたら、1本で1個気づけたVTRを100本見ているようなものです。
そこまでに年月や量など必要条件はありますが、そこでどうとっていくかということが本当で、1ヵ月で一つしかとれない人、1年で一つしかとれない人、わずか1時間で100個とる人がいるわけです。
研究所の場合は会報などに手間ひまかけています。皆さんのなかでもいろいろなタイプがいますから、いろいろな形で学べるだろうということです。だからそれに対してもう少し執着してください。
それから4のクラスも一度お互いに書かせ、相互評価させてみたのですが、そのなかで集中的に同じことをいわれている人は誰が見てもそうなのでしょう。あなた方もお互いに書いていたらよいのではと思います。なるべく会報に載せていきます。
もっと単純には、映像を家族に見せることです。文章でも中学生に読ませてみてわかるかわからないかでしょう。私の本も高校生が読んでみてわかるかどうかで判断されてしまうから、確かによいところも削るのですが、よく考えてみたら高校生が読めないからといってすごいことが書いてあるわけでもない。そこの感覚をもたなければいけない。
普通の高校生が見たらそこがおかしいといわれたり私だったらこう歌うよといわれてしまうところが随分あります。それはここで最初に正すこととしてあってよいと思います。
カラオケに行って、友達に何でそんなに身体を使って歌うのと聞かれて、トレーニング中だからというのは自慢にも何にもならないでしょう。どこかで真っ当な感覚をもっておいて欲しい。トレーニングで言い訳をつくってしまってはおかしいと思います。そういうトレーニングは永遠に光をみません。
この前の合宿でもある程度やっている人達に、一体何がやりたいのか、そのぐらいは見えないとこちらも眠くなってしまうのだから、そういうステージはお互いのためによくないといいました。だらだらやると感覚が鈍くなってしまうと思います。研究所はそうならないように気をつけているのですが、多勢がそういう方にいってしまうと一人で抵抗していても難しいですね。
歌は声ではなく音の感覚の表出なのです。それを楽器でなくて声で出すということです。そういう一番根本になければいけないものがどこかで抜けていると思います。トレーニングもそのためにやるはずなのに、そういうものを全部無視するようになってくると、遊びとしてはおもしろいかもしれませんが、ギャンブルです。実質のことを問わなければ、ステップアップはしません。
「筋肉番付」のチャンピオンになったからといってプロとしてのスポーツができるわけではない。それは目的が違うからです。ただ、チャンピオンになれる人は集中力があるし、ああいう競技がオリンピックにきたらもしかしたら才能が出るかもしれない。そういう競技を自らつくるのがアートです。
自分を客観的にみることです。昔は映像もなかったのだから、それから考えたら楽なはずです。自分の感覚で知らなければいけないのに、今だに自分のキーやテンポの設定さえできない。
12個のキーを使う設定なんてないのだから、せいぜい3パターンくらいやった中で選べばよいのです。今だにピアニストがこのキーでは無理だというところでやるという意図がわからない。こちらも一体何がやりたいのかと思ってしまう。伝わるところを知っていかなければいけない。
発声やトレーニングをやりにきた人も、ステージに出るわけですから音声で表現する舞台を目的にしているわけです。たとえば声のよさを伝えたいというのも気持ちを伝えたいというのもあるでしょう。自分の音色や使い方を伝えたいというのも、自分のリズムは独特でそのリズムの出し方を伝えたいという人もいる。何でもよいと思います。ここは実験の場ですから、今回はこんなこと次回はこんなことのように、意図があるのであれば、こちらももう少し、今はこういうことに力を入れているのかともう少し幅を広げて見れます。だから「今日の歌のみせどころ」の意図を開いているのです。
ここはお客さんからギャラをとっているステージではない分、自由です。ただその自由がうまく使い切れていません。声一つでいっても音は共鳴現象で、音そのものが震えて、響いてきて人間に感化を与える。それが単に振動としてではなくコントロールされて届く、音という世界で届いて感じる部分として、その上で歌はつくられている。そういう部分は生かしていかなければいけません。呼吸や身体をうるさくいうのもそのために全部プラスに働かせるために汲み上げていくものだからです。
発声を正せとも届くようにしろともいわないのですが、歌だけのところで救ってしまうとうまくいかないということを知って、根本に返ってください。
だから応用をやっては基本トレーニングをするということです。目的が今見えることや、音声で表現する舞台に対することではないように感じる。どこのくらい、声を伸ばせるかとか大きな声が出せるかとか、大きな声を出し続けたらどこまで歌えるかとか、そういうことを問うのではないのです。
音声で表現する舞台となっていないのは、自分でやっては映像を入れて見ればよいのです。ひとりよがりの世界をつくって、そこでやってしまうのは音の感覚ではまったくない。
そうでなければ、なぜあんなにべたつくのかとか一本調子とかたるむとか、切れがないのでしょう。舞台で求められるあたりまえの感覚をなくしてしまったら人前ではできない。そういうものを映像のなかから勉強して欲しい。スタジオのなかで音やよい声が聞こえてきてもその人の気持ちが聞こえてきても、こちらは目が覚めるのですが、それがずっと眠気のなかで若干2ヶ所くらいしか起こらない。それではダメです。一人ひとりが歌のなかで最低1個、できたら3個くらいは起こしてください。
まだ出なくてはいけないから出ているとか、続けていたら何かになりそうだとかいうところで、この検定が位置づけられているのではないのでしょうか。
3や4になったら検定はお祭りです。必死にトレーニングしたから1日くらいはめを外してやってみるつもりでやればよい。映像を見ていても自分の悪い表情があったら声もよくならないと思います。ただ、それが専門学校のレベルであっては困るのです。
トレーニングの期間だからはめ外したら何かいわれると思って真面目に歌ってしまう。歌とはこういうものと思い込んでいる気がします。歌だからこう歌わなければいけない、「Love me tender」は、こう歌ったら評価されるけれど、こんな崩し方はよくないと思ってしまう。崩せばよいということではありません。崩したらそれなりの理由を求めるし、それが心地よくないと何のために課題曲だというところで型はあります。しかし、やってみて判断してきたかということです。
そうではないということをやっていくのがポピュラー音楽の世界です。
歌はこういうものだと思っている人に、そうでないのだということを表わすのが、アートです。そのために歌を学ぶのでしょう。それを音や声や歌を使ってどうやるかと考えた方がいいと思います。
とにかくお客さんをはっとさせなければいけない。それは何も声や音量がなくてもできる。大音量でわーっというのも、10秒で鈍くなるでしょう。だから音量を出すなということではないが、音量が聞こえてしまうというのはコントロールされていないのです。それが作品になっていたらどんなに大音量になっていても、それはとても気持のよいことのはずです。
音量の問題をいっているのではありません。それをコントロールする感覚や感性の問題です。
だからといって扱えるところの声量でやれということも今はいわない。それは自分で考えて改めてこなければいけないことです。
それから声の使い方を考えないといけません。1曲全部、全力でやって力が働く世界ではありません。力でもっていこうとすると全部、失敗します。しっかりと失敗をしてそれを映像で見てそれを学んでいけばよいと思います。
私も自分のレクチャーの録音を聞いては反省しています。4時間半休憩もなしにやると本当に力はばれます。感覚の裏まで聞いていると見えてしまうのです。
あなた方の感覚が鈍いとかではなくて、今日のような作品の場合にそこまで出てしまう。あなた方のもっと鋭い感覚やよいフレーズや声があるのにもかかわらず自分で整理してしっかりと出すという洗練さがないからもったいないことです。
問題なのはいろいろなものがあるのにそれをしっかりと自分で整理していないことです。今日でもちょっといいところあるなと思っても、それの3倍くらい悪いところを次に出してします。1曲目よかったと思ったら2曲目でとんでもないことをやってしまう。それはここでやってもよいのですが、評価を求めるのなら損なことです。自分の格好よいところと伝わるところと一番よいところだけをパッと見せることで勝ちにいく世界でしょう。
3年以上いて、今だにアデンダンスで内容のないことを50枚も書かれたらこちらも情けなくなります。一言パッとすごいことを書かれた方がよい。歌も同じ、長くやって気持ちよいのか本人だけなら不快なものです。無駄な量を出す勝負の世界ではありません。ただその一言を出すために自分のなかで相手には見せないが、コツコツしたことをやっておかなければいけないのでやるのです。一言だけ書けばよいということではない。
このエントリー票の聞かせどころの欄でも、後で読んでみてああこういうことだったのかと思う人は全員を通しても1人か2人しかいないです。自分のなかで書いたことを音声でやるためにどうすればよいのかという距離が見えていないです。
すごいことができるとかチャンピオンになりたいとか書くのはよいのですが、本当のことをいったら今は1メートルくらいしか飛べなければ2メートルくらいで書かないと10メートルなどと書いてしまったら目的自体が意味のないものになってしまう。
まじめに取り組むのはよいのですが、まじめさが出てステージは失敗です。すごいかおもしろいかどちらかです。すごいことができないうちはおもしろいこと、ただそのおもしろさというのも品や格があって、客に笑われておもしろいというのではしかたないわけです。
この前合宿のB班にいったのは、あなた方のは失望と情けなさの世界だけで客が20分見せられてどうするの、どんなに悲しい曲でも希望の気持ちや明るい音色があったりするから人々はそれに感情移入できる。劇団や映画は、不条理なことをやって問うとか哲学的な狙いもあります。歌の場合もそういう歌い手もいますが、ただ、ここのなかであまり決めつけていくと自分が楽しめなくなって見ている方はもっと苦しくなる。
私もこんな調子でいくと12月になると去年と同じように動機めいたことをやらなければいけない。私が出ていかなければいけないというのは、ステージが成り立っていないわけです。コメントもそうです。今年正月の頭みたいに漫談を2時間くらいしゃべれなければいけないとなります。私はこの場では裏役に徹したいわけです。あなた方がその役割を道化や客にサービスとか考えなくても、自分のなかでしっかりと整理し果たすことです。
まだ使えない材料を100個くらいもっている気がします。99個捨てる努力をしなければダメです。その大半は個人コメントや映像を見たらわかるはずです。それを自分が大事にしているがために伸び悩みます。深めていったり洗練していかなければ自分の思い込みだけで空回りしていると自分の世界を自ら制限していくことになってしまうのです。
99を捨ててその1個を拾う。正月の話もスキーに1回行った、その話を2時間に拡大して話しているわけです。自分の経験や思いがそこに入るから何となくもつ。その上で相手がここの研究生だからトレーニングの方法もそのなかに入れなければいけないと絞られてくるわけです。
人を楽しませるために歌を使うとまで考えなくてもよいのですが、あまりに自分の世界で閉じ過ぎています。だから出たときにこの人は何をするんだろうと客が見たくなるくらいの表情はして欲しい。一声がとんできたときに次はどこにいくのだろうというくらいのことはして欲しい。そこは幼稚園の子や中学生が出てきてももつところです。大人になるに従ってそういうものをなくしてしまいますが、無理にでも自分でアファメ-ションしていかなければよくないと思います。
今日の3のようなことでは、脱いでも踊ってもどうしようもない。場が動かない方に固めていった。中に音楽的なものが少しあったけれど、前後に押されてそれが満ちていない。そこが問題だと思います。
まだ歌のことを解釈でやっているということです。創造しなければダメです。そのために1フレーズのレッスンばかりやっているのです。上にいくに従って進行が早くなり、感覚したものをパッと出すということで気づいていくことをやります。出てきやすいものに自分の貧しさやしみったれや暗さとか気持の落ち込みなどいろいろなものがありますが、それは舞台にもち込んではよくないと思います。どんなに疲れていてもそこで疲れの色が見えたら、あの人疲れているな、もう終わりだなという世界です。けなげさやひたむきさもそのままでは通用しないのです。それ以上にそれを振り払って消化して乗り越えてきたところのものを、はったりでもよいからその気持ちとテンションで出してこなければダメです。
なかなか上達しない人に最近そのずれのことをいっているのです。やりたいことをやるのはよいのですが、もし人前に出ていく舞台であれば、そこの感性として、共感できるところで何かバランス感覚をもっていなければいけない。毒舌でも同じで好き勝手なことをいっているようでも、もつ人はセーブして皆さんに気を使っています。そういう感覚がなければひとりぼっちになってしまいます。
うまくいかない人は頭で考えることが90くらいで身体に入れることを10くらいやっている。でもステージはそこでできなかったら準備することを考えるべきです。そこでやることを前提に考えたら身体から出すことが10です。それを修正することが90です。頭で考えることは考えなければいけないのですが、それはできないかったときに考えるべきです。合宿でも、うまくできない班は頭で考えることが90身体に入れることが10、それで練習時間が足りなくなる。できる班は最初に身体で出していく、材料出しがその瞬間にできているわけです。後は修正することに9割、時間を使っているでしょう。
だから「エビータ」がこういう場面でどういうことを考えたとかそんなことを頭で考えてもしかたない。客はいうことを何も関係ない。そこで出てきたものにエビータをもし知っていたら、そういう心情の移入を客はするわけで、それを知らなかったとしてもまったく問題ない。自分達が生きているわけだからエビータとまったく違う生涯であっても悲しいことは悲しいし、うれしいことはうれしい。その気持ちが死んで、人様のものをとってそこでエビータになれるわけではない。だからあるものをしっかりと使わなければいけない。
それで悲しみのエチュードや喜びのエチュードをやっているわけです。つかんですぐに投げ出していく、それを音の世界で修正しなければいけないから難しいわけです。その前提をしっかりとつくっていくことです。
伝わったかいないかが問われるわけですから、そこの伝わったところを方向を間違えないでおく。
いろいろなものを勉強したり書くのも、それが目的ではない。自分がチェックできなくなったときに前のを見たら、前もこんなことで失敗していたということになります。人間の記憶は当てになりませんし、感覚や気分で随分、変わります。そういう一つの基準として、感覚を捨て、それに頼れというのでなく感覚がある上にそれをもっていたらより強いということです。それだけのことだと思います。せっかくよいところやよい声があったり、聞かせられるフレーズがどこかにあり、それでしっかりとつないでいけばよいのです。それが出たことさえ自分でわからないのか他にやりたいことがあるのか、余計なことばかりやっていてその結果作品を壊している。
あなた方の個性ややりたいことを否定するのではなくて、あなた方がやりたいことをより深めたところでやらなければいけないのをよりいい加減なところでとってつけてやっているからダメになる。声を出したいのはあなたの気持ちかもしれませんが、こちらは聞きたくないのです。感覚の鋭さや気持ちよさを感じたいわけです。こちらの気分にも少しはなってもらわないと困るし、そういう中で調整していく。トレーニングもそうでしょう。
ピアノでこれの2倍あるから、鍵盤のいっぱいあるからといって優秀なピアノというわけではない。一つの音がどれだけきれいに響くかというようなところでの価格差だと思います。そういう意味で整理して洗練させていくべきです。自分のなかにあるものをしっかりと出すことをやること。ないものはそれに加えていけばよいのであって、ないもので身につかなかったらそんなものは捨てたところで自分の世界をつくればよいのです。
自分は何で他の人に差をつけられるかです。確かに他の人はやらないなというようなことをやった人はいますが、そのことをうらやましがったりまいったというようなやり方ではないです。「そんなものは私はやりたくない」「どこかあっちにいってやっていてくれ」というようなものが多い。それは鈍さだと思う。
映像で見て、自分でわからなければ、それが染みついてきているのだから、突き放さなければダメです。それは本当のあなた方の才能や素質や能力ではないからです。
エド・サリバンショーの出演者は、世界に名を通した人ですから鋭いです。研究所でも馬鹿にしたものではなくて、そういう瞬間というのはたくさん出ている。一瞬は出せるのにつなぐ努力をしない。どこかで気をゆるめてしまう。そんなに甘い世界ではないということです。
そういう面で映像を見て欲しいです。勉強する環境は本当に恵まれています。昔はTVに出ても自分のステージを繰り返して見れなかった。今はそういうものからも得てください。そういう感覚を感じて欲しいし、そういう中でやっていく。
一番嫌なのは鈍い感覚のなかでやっていると鈍くなってしまうこと。だからああいうものを想定し、レッスンをやるときも必ずその前に何かを大きくかけておくわけです。ちょっとでもそういう感覚の影響をうけてそういうもののレベルのところでやる。
今日もいろいろな人がいましたから一概に全部ダメということではないです。3に入ったばかりの人がそのまま駆け抜けていけばよいし、足踏みしている人は特に音程の問題がありますが、もう一度そのずれを計らなければよくないと思います。それは研究所がずれているのではありません。我々もずれないように努力をしているのですから、少しは信用してもらってよいと思います。お疲れさまでした。
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<ライブ実習④>
ライブ実習です。一昨日から連続して100人ほど見てきました。前のクラスよりも長くいる方がほとんどですから、当然評価の基準を違うように取らなければいけないと思います。昨日エド・サリバンショーの映像が手に入りまして、かなり前に日本のテレビから録画しましたが、画質が悪くて見られなかったのですが、今回、10巻発売になりました。一日一本見ようと思ったら、もう全部見てしまいました。まだその余韻があります。全ての答えが入っています。ちょうど皆さんと同じくらいの年齢の歌い手でよい演奏をしています。
合宿が終わりましたが、そのなかでも音楽的に聞こえてくるのが年々少なくなり、今回は2フレーズくらい、表現のフレーズとして聞こえてきたのが6フレーズから10フレーズくらいあったでしょうか。個人差がありますが大切なのは2、3年くらいはベースのことをやってからですが、どう学んでいくかというところでしか本当は力の差はついていかないと思います。
布施明さんと中島啓江さんのデュエットを見ました。プロは違うところがわかります。成長する人もいますね。今になるとうまい。声で勝負しなくなったのです。ほとんど声を出さなくなったからです。昔は声だけを出していたのです。
そういうことはトレーニングの段階でも違うし、その人の世界の移り変わりによっても違いますから、研究所のなかでどこの段階をやれというのは難しいと思います。今日は個人票でいうよりも全体的に同じようなイメージを受けました。
本当は「アルディラ」は「アル」「ディ」「ラ」ですから「ラ」に重きを置かなければいけないのですが、それは解釈や裏を知っている人のことで、女の子の名前でも星の名前でもよいわけです。そこに自分の情感が込められたかどうかです。
全体的に全部歌い過ぎているという気がします。昨日の2、3はあまりにもひどかったので、昨日はエド・サリバンショーを見た後だったので社交界から家畜小屋に入ったみたいなものでした。何が何だかわからない状況があって、今日はトレーナーから始まりました。今日のレベルで入門とか1ぐらいだと随分希望に満ちあふれてやっていけるのではないかと思います。
今、アナウンサーやタレントも含め、しゃべり方も歌も落語から漫才から全てにおいて変なくせがついてきています。それは私が不快なのですが、業界です。10年前くらいから特に女性がひどいのですが、舌ったらずのしゃべり方をする人が多くなって、今はその方が普通になってきています。山瀬まみのようになっています。あれは身体もいらないし、声の通りもよくない。キャラクターで売っていく人はよいのでしょうが、2オクターブを3分で完全にコントロールしなければいけないという世界にとっては耳ざわりな、それゆえに成長もしにくい。一般の人の歌い方がそうなってカラオケのレベルも下がった、というよりカラオケに適用したような声の出し方になってきたということです。
入門に入ってくる若い人達もかなりその影響を受けている。研究所として全部を正すということでもないし、この前の合宿を見ていても、声の癖がいけないのかということで考えてみたら、C班はまったくダメと思っていたら、もっていました。何らかの新鮮さなりその人のキャラクターに合うものがあればとんでくるのです。その先が難しいです。でもそこはしっかりと認めていった方がよいと思います。逆に4あたりになってくると、それなりにやってきたというプライドが出てきます。これが下に対して働かないように、よい意味で下の人間が憧れてたり尊敬したらよいのであって、あなたがそこから下を見る必要はないのです。
むしろ初心者や10代の子が多くなっていますから、そんなところで驚かれたりびっくりされたりしてもあたりまえの話だと思います。それこそエド・サリバンを見て、いかに差があるのかということをもう一度入れてください。
一番の違いというのは1曲が全体的な視野に入っているのが4なのかと思います。3はまだ部分的です。それからぶつぶつ切れている。皆さんの場合の切れているところがありますが、全体を見た上で切れています。
ただポイントやきめをしっかりと決めることが大前提です。そのためには、あいまいなところがあってもよいし、いい加減なところがあってもよいというふうに考えた方がよいと思います。
そのポイントをしっかりと定められているかということになると、一言一言が全部ポイントのようになってしまう。トレーニングはそれでよいと思いますが、歌になったときには逆にそういう歌い方が肝心なポイントや音楽の世界や歌として、次元を一つ上げるために抽象化させるわけです。そのときに邪魔してしまうことがあるのです。感じてきたりつくろうと思ってきたポイントに対し、そこでしっかりと勝負をかけていく。それ以外のところはあいまいにしたりいい加減にしてよいということではないのですが、全部ぼかされているようです。
ちょうど合宿のEにその傾向が後半にありました。定まっていてそこまで時間をもたせるわけではない。そこで高まっていたらそこでやめるのか、そこで高まったらそこで降りていくのか、方向性があるわけで、それがどこまでも続いていくということで時間がきたから、この歌は5分間だからということでそこの台詞までいったからやめましょうというものではないと思います。
歌というのはその人の感覚を見せることですから、それを音や声で取り出すことです。やっぱり音楽ということをどこかで前提においているのでしょうが、舞台や表現のことに気が行き過ぎているのではないかと思います。Gスタにミュージックバーやドラムがありますが、結局それがガーンと響くだけでも伝わるでしょう。皆さんも身体に一声聞いてもそれなりに伝わるものを身につけてきています。それがより生かされるために使われているのかというと疑問です。
もしかすると「ハイ」だけをいったりマイクでしゃべってもらうほうが、その人のよさや声がしっかりと伝わるのではないかと思います。そうすると音楽にもっていくというところにいろいろな課題があると思います。音が音楽になるところです。舞台も表現の大切で2年くらいはそれを徹底してやって欲しいのです。
新鮮味が感じられない。すごいことやおもしろいものしか舞台ではもたないのですが、それがどうしても今生きている命から輝いてくるようなものとして伝わってくるものが少ない。逆に1、2クラスからマイクがなくてもそんなものがとんでくることがあります。
それがなくて歌にしてよいのかというと、それはダメでしょう。シャンソンでもオールディーズであっても何でもよいのですが、それが昔生きていた命では困るのです。皆さんは今生きているわけです。そういうことではもっとより多くのものを、少ないところからつけ加えたり学んだりする必要がある気がします。
何人かにまだいえることは寸法です。タイム間、これをピアニストとかリズムとか自分の足に合わせようとかしているから追いつかないです。追いつく方法は一つだけ、自分が創ることです。自分が創らないことには追いつかないです。ピアニストやリズムを打ったものを合わせていこうとするのでは必ず遅れます、というよりそれに合っていて聞いている方にとってみたら、より鋭い人が創って出していますから、そういうものに比べると鈍く聞こえてしまいます。だから乗っからないことです。先に進んだ失敗というのは音が少しシャープしたくらいなものでフラットするよりはましです。重ならなければいい、当然一つ遅れて出ることがあってもよいし、意図的に間隔をずらしていけばよいわけです。それからしっかりとキャッチしたものを伸ばすところです。
日本の歌の場合は必ずしもそうでないと思いますが、スタンドマイクでその距離があったとしたら、それが左から右に動いていく。そのまま歌っている人がいます。上下というやり方もあるしマイクを動かすわけでも自分が動くわけでもないですが、日本人が苦手な演技ですが、距離を3m先に置いてみたり10cm近くにしてみたり、感覚的なものでそんな練習をすればよいというものではないのでしょうが、遠く離れて歌うということは自分達のなかでやっていますから、人様の顔の2cm前くらいで歌ってみるとか、そういう感覚のなかでの遠近感が音の動かし方のなかにもう少し表れてきてよいのではと思います。
私がいっていることと反するようですが、「ハイ」でまとめる、ダラダラしないでまとめてパッと切りなさいということを教えています。メロディ処理も同じですね、メロディや音程が聞こえないようにことばでバッとまとめてしまえとしている。フレージングもそこで変に伸びるよりはことばでたたみかけていく、そのまとめることが目的ではなくて、それは、動きを出すために止めろということと同じように、その開放するためにどこかでまとめておいて、まとめておいたとか踏み込んだということで、伸ばしたり開放していくしかその距離がとれない。だからそういっているわけです。一方、目的になってしまうとメロディ処理の連続のような歌になってしまう。そういう歌のなかもありますが、皆さんが選んだような歌はむしろもう少し開放していかないと、苦しくなっていくと思います。
皆さんのなかでも相互に比べてください。ほんのちょっとの感覚の違いが4のレベルになると随分と大きく拡大されて出てきます。 これは話でも歌のなかでも、そこでちょっと何かをするしないが大きな差になるのです。それを頭でするのでなくて、起きたことをちょっと保ってやるとか、先に切ってやるとかしています。私も昔は覚えたとおりにレクチャーをやっていたのですが、一方的に話していただけで、うまく伝わったとは、今は思っていません。もちろん、その場に投げ出したときに全てが伝わるということはない。私は4時間半しゃべり続けています。伝えたいことは10個くらいに整理して、お笑いではありませんから15分くらいで一つのところに落とし込もうとしています。そしてそれ以外のものに関してはあまりしっかりと説明しないようにしています。
よりレベルの高い人がきてくれたときにそういうことを理解してもらいたいといっても、サッサッといってしまわないと、高校生には、訳がわからなくなってしまいます。まず、幹はポイントとしてしっかりと示していかなければいけないし、そのために手を変え品を変え、黒板を使ったり動きを入れてみたりします。人の注意をどうやって自分のもっていきたいところに落とし込むかということでは歌のなかでも同じだと思います。
何でもやればよいということではなく、歌のなかで何かをいいたいから、本当は1つですが、その前後に10個くらいを並べる。そうしたらその10個くらいの何かを入れておくのです。歌のなかではその何かというのは感覚です。音での感覚を伝えるということに神経をもっていった方が、同じ力であっても随分と違ってくると思います。
声をしっかり出そうとしているときは無理ですが、それが宿ってくるとそうなってきます。そうでないと本当に声だけしか聞こえてこないヴォーカルという最低の評価になっていきます。
結局、見たいのは、そこの一つひとつのフレーズ、それにかけたこだわりです。それが50フレーズとして聞こえてくるのではなくて、聞こえてくるのは一つか二つでよいのです。そのなかでしっかりと一つのフレーズから次のフレーズへあるいは大きな流れやブロックに入って高まることが必要です。そして、それが常に新鮮で斬新であることです。
そういうパワーやインパクトであり、力づくの勝負ではないと思います。随分と一本調子、まっすぐ押しているだけ、その押すという力を入れるところで成り立たせているから、それは音楽が捉えるところの感覚とは違ってくると思います。そういう歌は古く一本調子に聞こえ、声だけが目立ってきます。
声で聞かせる方法もありますが、それで何曲もつのかということになると1曲で一人、そういう人が出てきたというところまでです。派手なものを着ていたという印象とそんなに変わらないのではないかと思います。
4ではそういう基準で見ないと、何でもこなしてしまうが残らないということになりかねない。全体が視野に入るといいましたが、やはりまだ部分を歌っている人が多いとは思います。部分ばかりを歌っているとこちら側に丸見えになります。見え過ぎてしまう。こちらが見たいのは頭で考えませんが、その人がどんなイマジネーションがあって、工夫をしてアイディアを出してその一つひとつのフレーズを聞かせてくれるかです。
頭でやるとそれが全部見えてしまいます。出したというように見えてしまいます。
受験勉強でいうと全教科を平均値でとっていこうという歌い方が多いのではないかと思います。まずトップをとれるところで大きく取ってください。後が0点でも20点でもそんなところはもちます。だからといって絶対に引かないで全部を前に出していってもダメです。その前提があった上で少し引いてやるというのが大切な気がします。
全世界に歴史的に名前を刻んだ人達と比べるのは酷かもしれませんが、皆さんのよいところがあっても手の平までくらいで、ほとんどの場合は身体まで響いていないが、彼らのを聞いていたら指先一本まで自覚できます。
大体の歌で親指から小指まで自覚できる。もっとすごい歌になってくると足先の親指から小指まで全部そこに響いてくるというより、向こうが全身でやっているその神経の細やかさがこちらの指先や、その指先のさらに10ミリとか20ミリ先に置いていかれていくような感じです。これはたとえですが、こういうものは感覚のなかの相違で、そういう差を知ることを課題としてめざしてもらってよいのではないかと思います。
その結果が聞いて、一所懸命やって隙もなくテンションも高いのにこちらがあまり幸せにも元気にもならない。一仕事終わったなということでコメントに出ていかければいけない、さあ帰りましょうでよかったとはいえない。そのところを詰めていかないとダメじゃないかと思います。
歌にはいろいろあります。明るくとか元気に歌うとかをやっても聞いている人はそうなりません。聞く人に何かを気づかせるということでもよい。自分の勝負できるところ、歌詞でもメロディでもよいし、スト-リー性でも声でも、昔を思い出させるようなことでもよいのですが、何かを導くことです。それを今の時代の気持ちとか人々の気持ちのなかでもう一度歌を捉えていかなければいけないのではないかという気がします。
カンツォーネだからその当時の時代で歌えばよいという考えは悪くはないがそれはもう誰にも通用しない。今の日本人は鈍感で、私にさえ通用しないものが普通の人に通用するとは思えません。だからといって客に媚びる必要はないし、認められようなんてしなくてもよい。結局ステージのなかで充分に自分が感じて、それをどう与えるかということだと思います。充分に感じていたらきっと身体から何かが出てくるでしょう。それをいきなり声や歌にもっていくよりももう少しためなければいけない部分、皆さんの場合はためや構えや呼吸から、理解できないものを超えて伝えるしかないと思います。
後は中途半端な技術は、ここでは使ってもよいのです。6曲くらいになったら必ず2、3曲には使わないともたないでしょう。ただ自分で知っておいて欲しいのは、それはあくまで歌をこなしたり、欠点をカバーするにはよい。それから完成らしいものを出すにはよいが、らしいもの、もどきみたいなもので、同時に自分にともかく限界をもってきているということを忘れないこと。
逃げの歌だったら早めにすごい人が隣にきたら到底もたないです。それでやってみるのもよいのですが、それで勝負していくことは難しいと思います。
まだまだ声や音のせいでまわりくどくなっているような気がします。もっとシンプルにストレートに出せるのではないかと思います。別に気取っているとか見せがあるとかいうように形につくっているわけではないのでしょうが、ひとりよがりな感じで音や声がまだ音楽にならないのです。キャッチはしているのでしょうが、成っているところはそういうところがないところです。失敗したり少し乗り損ねたりするところの方で、素人で間違えたところに一番人間らしさを感じたりこちら側が感情移入してしまうのと同じで、そういうものから若干外れた呼吸のところにその人の思い入れやこだわり、歌の大切さが出てきているというのは、あまりよいことではない。
テンションに関しては何名かを除いたらまだまだ低いと思います。それから変な意味で冷めている。下手でももっと熱い人がいますから、それをクールにやっていくのは反対です。もっと爆発していなければおかしい。
内側から突き上げる衝動に身をまかせて、歌を選んできたり、そういう歌い手を聞いて選んできたりしているはずなのに練習のときはそうだったのかもしれませんが、それが変に整理されているような気がします。身体や心からそういう声を伴って出てきているところで音楽になっているのではなく、その前の部分がカットされていて声から先に歌にしようとしている気がします。
音大を出たり発声を勉強している人にも多いのですが、声から先の歌はあまりおもしろくないですね。私は悪い見本でよくやりますが、三流のクラシックの歌い手の歌い方みたいなものです。だから心を入れろとか身体を使えるということではなく、衝動的なものなのだから、その衝動をここの場で再現できなくてはいけないのです。そうするとそんなに声のことを考えなくてもよいはずです。声のないときは考えなければいけないのですが、できてきたら考えてはいけないわけです。それを忘れない限りのど自慢になってしまいます。そんなものも編集して見せるとわかりやすいのでしょうがよいものを見てください。
中島啓江さんは息や表情とか、声はまったく計算していないと思います。だからものすごく伝わる。ああいうふうに育つ人もいるのですね。
人がどこかで感動をするようなところは結局その人の心であって、衝動などでもおもしろい部分もありますが、やっぱり身体や声ではないという気はします。だからといって人間性を見られるとはいいませんが、伝わるレベルで判断することが必要でそれがなかなか見えなくなってしまうことは誰でも経験があります。
声が出るとうれしくて、その声で右にも左にももっていけるからそれでみせてやろう、でもそれは初心者だましで通用しない。初めてここにきた人がお客さんで、こんなに声が出るとか声がよいとかいっても、それは歌や音楽ではないということです。そんなことで驚かせることを反応として受け取っていたらそれは大声大会の優勝者を競っていくようなものです。
プロのピッチャーが筋肉番付で一番になるのはよいのですが、筋肉番付で一番になったからプロのピッチャーになれるわけではありません。どちらをやりたいのかという話だと思います。だから音楽でも歌でも熱くなっていかないのはよくないのです。
ステージ実習は規定演技でよいと思います。ライブ実習の場合はピアニストもいますから、それに対しては自由演技的に見ています。プレブレに近いような狂乱の姿を見せて、そこのなかでもう一度つかみ直していかないといけません。あなた方が冷めていてこちらが熱くなれるわけはないのです。 そういうステージになると今日みたいになる。全員が全員そうではありませんが、一所懸命やってご苦労さん、熱心なところもわかるけれど肝心なところがすべて自分の思い込みの声で押してもっていっているだけということになりかねない。だからまたお互いに総合評価でも出してみればよいと思います。
会報に載せるのも迷うときがあります。下のクラスがろくでもない歌にもいい加減に書いてくる。でもそのときにその人が思ったことは一理あるということです。どちらにせよ褒めてはいけないのを褒めているのが多いわけです。合宿の感想でも同じです。作品というレベルがわかっていません。ただそれに私が編集の手を入れるととても意図的になり私の好みで評価が決まってしまうようになりますから、全部オープンに見て皆さんが書きやすいように匿名にするというようにしています。
誰でも、話でもわかるようなことを5本から10本組んで後の難しいことやややこしいことに関しては邪魔させないということ、歌を通してどういうふうに表すかです。まじめなのも暗いのも、それを突き破ってくるものが音に乗っていなければいけないのであって、まだそこの段階でダメなのではないかと思います。
だから感覚と声を共存させるのは、歌では本当に難しいのです。感覚があって声がない人はいます。少なくともプロでやれている人は感覚があるわけです。逆にトレーニングをやっているときには、どうしても感覚より声のことに優先していきます。
感覚の不足と声の不足というのは両方とも問題です。一番よいのは感覚の満ちているところと声の満ちているところをしっかりと結びつけて出すわけです。それが歌になったときにややもすると、声も感覚も不足しているまま結びつけて出してしまう場合もある。そうなると二重に意味がなくなってしまう。
もっと厳しいことをいうとどまんなかの声ではない。そのためにまだまだ表現が固くてひっかかっています。それは感覚で直していくしかない。基本的に一番調子がよいときはスポーツと同じで、ソフトに柔軟力に富んでいる。だから音と溶け合っていくということです。
ピアノが打楽器のままだと打楽器の元と溶け合っていくのでしょうが、旋律的には弾けないと思います。いろいろな溶け合いさせ方があると思います。声を伸ばして溶けさすこともあれば震わせたり息とミックスさせたり、広げて溶け合うこともある。マニュアルみたいに何パターンありますというような練習はできませんが、それはやっぱり歌のなかで感じていってそれを一番大切にもってこないといけません。
覚えてきたものを歌うというレベルは少なくとも過ぎていると思う。その割にはまだ頭で決めつけて、心や身体を逆に麻痺させているところが多い。
考え過ぎたら今度はいやらしくなってきます。声の力があるからといってこんなことができるというようなものは誰も見たくない。それはあくまでもその部分、心や衝動の部分を示せた上でやってくれば数倍に効いてくるわけです。そこだけでやってくると中心がまったくありませんから、すぐれた人は示した上でまた戻します。
だからひとりで歌って終わってしまう歌とひとりで歌い終わった後に人々がそれを受け止めていったり残していこうとしたくなる歌の違いがあるのです。やるのは難しい。だからレッスンの伝え方からもう少し考えるとよいでしょう。
確かに皆さんにとってはレベルが低かったり音程がとれない人が入ってきますが、基本的にそこで伝わるかどうかでしょう。グループや合宿でもやっていることはそのことです。それはその場のなかの感覚のなかで直していくことです。それで自分では表現できたといっていてもしかたがなく、そこにいる人が一瞬動きを止め、何かを受け止められるかです。そういうものが実際にレッスンで何も出ていない。そうしたら1曲やって出てくるのは難しい。
昔はそういうものが出ていた。今も声のよさや強さといった熟練さは出ていますが、それは誰でも3、4年やればできることです。 研究所としてはそれでよいのです。誰でもできることを確実に3、4年かける、ほとんどの人は途中でやめてしまうがためにできないのです。ただあなた個人としては、必要とする歌とか表現を、特になるべく音楽を歌でとるということでみるのなら、一人の客として純粋に聞いてみたときにまたきたいとか思わせるものが必要です。
表情とかではなくて、エド・サリバンショーでも出て1曲くらいしか歌わないのですが、何か抱きしめてやりたいとか、一晩でもこいつのを何回でも聞きたいとか画面を見なくてもそうなる何か。そこの違いは何なのかというのは、場のなかで磨かれていった方が正せると思います。
だから声が出るとか音程がとれるとか他の人よりも早く作品にできるのではなく、作品というなら、その作品が働きかけられるかどうかということをレッスンでもステージ実習の場であろうが問うことです。これは、一人のなかではわからないことです。
今一番やって欲しいことは一人で一所懸命練習して、お客さんを想定してやってみる。それで実際にここにきたときにどう変えるか、どう変わるかをみるということです。
今日のステージからいうと、もっと弱くならなければいけないところで強くしたがために失敗したものが多い。それは観客の呼吸を読んで、感じ方を計算していないで自分の身体の快感のなかでやっている。自分の快感と音楽の快感は違うと思います。
トレーニングで一番多いのは汗をかいたらトレーニングと思う人、こんなものは皆さんからいうと笑い者だと思いますが、そこに入っている人にはそうとしか思えない。同じようなことが起きているのです。汗をかくのも疲れるのも、わずか1分間に誰よりも高いテンションで集中するからです。そのときに身体をどう動かすとかこういうふうに歌うとかいうのは見栄っ張りの部分です。ものまねショーをやるのなら別ですが、そんなもので通用するわけではありません。
それ以上のものをできない人にはいいませんが、皆さんの場合は使い方次第で大きな可能性があるので、もったいないと思います。やった後に映像を見てステージでできたこと以外の8割を詰めてください。それを見逃して次の課題にいっても同じです。10年やっても2割のままだということにならないように、そこをしっかりと詰めていくことです。
それをやって半年後や一年後にそこで学んだことを出るようにしていく。そうしないとワンパターンに陥ってきます。3あたりに長くいる人は皆さんが見てみたら、毎回同じじゃないか、トレーナーも同じコメントを書いている、直そうとしているのに直らないのは、本人がそこに気づいていくしかないからです。
そういう基準で自分のことをしっかりとやるとともに、今の時期くらいからよい作品を見ていると距離がわかるし、そこで何をやっているかもわかる。たった一つのフレーズのなかでどれだけ自在に柔らかく感覚を使っているかというのはわかるはずです。残念なことながらここでもわかるようになってから見なくなったり、そこから学ぼうとしない人が多いわけです。それはうねぼれです。そういう人に何をいってもその時期はしかたないから、放っておきます。気づいたら、また一からやる。その繰り返しです。せっかく学べるようになったのですから学んでください。今まで学んだことはよりよく学ぶためのベースのことを学んできたわけです。