レッスン感想 1077
全身を使うという意志やイメージを大切にして声を出す。1小節で1オクターブの音の開きがある曲でも、体ができていれば同じ歌い方で声を出せるということ。逆にいえば、体ができてないと、上半身や口に処理でまとめてしまいがちであること。日本の歌は一音符一音節の不文律があるが、外国では一音符にone wordまたはone phrase入ってしまうことがあること。それを歌いこなすには、やはり相当の鍛練で体を作っていかねばならないということ。耳で聞いて感じ取ったことは絶対に落してはいけないこと。もっと崩れてもいいから(たとえば音を外してもいいから)臆病にならずに自分を表現すること。
S先生のレッスンは、いつも理解しよう、理解しようと思えば思うほど、遠のいていくというか、手からすり抜けて、未だにつかめていませ。だから、さらに真剣に耳で感じ取ろう、イメージしようと躍起になります。本当は「音楽を聞くことは、声を出すことは、そんなに簡単に理解できてしまうものではない」「だからもっとイメージするよう努力しないさい」ということを教えていただいているのかな、と最近は感じています。そうすれば、わからないと悩む必要はなく、ただただイメージすることに専念できるし、それ自身が音楽のもっとも大切なプロセスになっているのかなと自分なりの解釈をつけています。
「誰も知らない」単に大きく捉えるという、わかりきったことさえ、思うことの10分の1ももたない。「誰も誰も知らない」1回目の「誰も」が、緊張する。失敗したら、離れられてしまう。ストンと入って、投げかける。どうしても、やりすぎてしまう。「知らない」が間伸びしないようにつかんでおく。音を伸ばすって難しいと思った。意志をもっているときは案外すぐ入れるが、ちょっとでも考えてしまうと、もう違ってくる。デリケートなこと。「悲しみと苦しみの中で」ことばの表面、悲しみとか苦しみ、というところに乗っかってしまうこと。
「悲しみと」で、音が上がっていくので、バタバタするが、ここで落ち着かないと、次の「なぜ歌うのか」が死んでしまう。できるだけゆったりとるといいのだが、歌うとなると、それができない。苦しいので、クセをつけたり無意味な間をつくったりして、通りすぎやすい。ことばに対して、むやみに忙しそうに聞こえると台ナシ。落ち着くこと。駆け上がらずに、しっかり置きたい。「なぜ歌うのか」これも、歌うため。「なぜ、」なぜ、は投げかけやすいはず。歌う。
月田さんという人は、感情を伝えるため、きちんとコントロールしている。こういう音の使い方ができないので、しぜんに気がそれてしまう。気持ち的にはディクレッシェンドでなくクレッシェンドであること。その方がフレーズもうまくいく。しかし、私は苦手。乱れる。
「風の中で波に向かって、歌いながら、悲しみを一つずつ忘れる」ここは中では一番やりやすい。比較的、単純にリズムにそっているからだと思う(最初からリズムに振り回された)。「中で」「歌いながら」などは、どうにもできる、おもしろいところ。月田さんの「向かって」は、やはり、うまいなと思った。感覚的に自由がないと、こうは置けない。柔らかい。イメージでも、大差がある。少し波立った海が見えるようだ。“歌いながら悲しみを一つずつ忘れる”というところは、ファドのすべてを表わしているようで、切ない。現実の私が、共感しますなどといってはいけないと思っているが。歌であることが、そういうところを結んでくれる。
ここの「悲しみを一つずつ」は音程差がないせいか、容易に一つに捉えられ、忙しくはならない。ちょっとしたことで、できたりできなかったりする不安定さというのか、ゆるみが許せない。高橋竹山さんが「えふりこぐな」といっていたのを、ふっと思い出した。集中すべき。なのに、いいカッコしようとしてしまう。どうしても。安易に整えようと。手前で急がないから「忘れる」も、少しは落ち着いて出せる。「わすれる」の「す」が、だめだった。声になりそこなう。
「果てしない旅路、ツバメの悲しみ、失われた友、ああ」ぎちしゃくする。「果てしない~」の上に「ツバメの~」が、乗らない。平面的に流れてしまった。問題はリズム。ノリについていけない。ついてくには音があまりに単調にしかならない。揺さぶり、ハネ、そういうものが止まってしまう。せっかくのテンポの微妙な変化も、意識すればするだけ、わざとらしくなった。自分だけ盛り上がっていても、何にもならない。そういうのがよくわかった。ここに来るまでの、もってきかたも悪い。だから、ここだけ唐突になる。いいところなのこ。「あー」もフェルマータも、意味をなさなかった。「歌おう、声の限り」よって、ここで終われない。アマリア・ロドリゲスのも聞いた。月田さんの歌もよかったのと、日本語で、直接コトバが刺さってくることもあり、アマリアのを聞いたときには本当に染みるようだった。歌おう、とか声の限り、なんて言葉がこんなに迫ってきたことはない。どちらかというとアリスなど思い出し、しらけるような言葉だったのに、悲しいというか、美しいというのか、思わず自分の足元をみてしまった。こういうのを歌だというならと思ってしまう。まだ、何もない。
確かに全てのフレーズが1曲分に相当するくらいの感じはあるが、それにしても、全体感もなかなかつかめず、振り回された。要するに、音楽についていけなかった。フレーズとしては、大きく大きく、というのはあたりまえで、今回は細かい部分。静かにおくとか、そーっと伸ばす柔らかく切る、ということが新鮮だった。そのようにするのは、結局、強く大きくするのと同じことだ。それをホントに小さくしてしまうと、表面的になる。強く感じていて初めて。そういう動きもあり得ること。プロの歌を聞いて、すごいなと思うとき、敬意と同時に心のとこかで「ふん。ちくしょう」と思ってしまうけど、たまに、それさえもない完敗があって、今回はそれ。自分のこと、しっかりやらなけれぱ。
一通り曲を覚えることだったので、何回もフレーズを回すことになり、別の意味での神経を使った。使われている言葉自体は、一向に親近感のないものなのに、聞いていると息が詰まるような気がしてくる。ゆったりとしたノリのなかで、緊張感を保つのが難しい。曲に呑まれて、力づくになったり走ったりする。フレーズを大きく取るということは、頭のなかではあたりまえすぎるくらいなのに、それができない。何かが強まって感じるところでは聞き手としては、ぐっとくるけど、歌い手になっているときは、そこで踏みととまれないといけない。そうしないと、結果的には小さくなり、走ったり、トゲトゲしくなるだけ。こういう部分で単に全力を使うというのは、音の使い方として、みっともないというか、雑である。入れるのは瞬間だけ。あとは、全身で、保ってないとだめ。しかし。何度でも陥ってしまう。
待てないってことは呼吸になっていない。そんなことしても、強まって聞こえない、と後で思っても、呑まれている。あまり待ちすぎると時間的には一瞬のことなのに、今度は表現が離れてしまう。また、時間感覚の目盛りが荒いと思った。押しつけにならないのに飛び込んでくるようなフレーズがほしい。バラバラだし、単調だし、何より固すぎる。いろいろ盛り込もうとしすぎるのか、計算高くなってしまっているのか、わからない。自分の感情に耐えられないところもある。うわーっと投げつけずに、最後の最後まで粘って弓を引くようなこと、本当に最後で、パッと離すというか。それには、あちこち固めすぎていることを感じる。まったく自由じゃない。
「ヴリア、帰りたい」は、自分を出しやすいところで、何度か回す中に、いろんなパターンがあった。Kさんには、私がつい勢いで引っかけてしまうところは、逆に置いていくようなところがあって、次には私もやってみたい。
「ヴリア、帰りたい。なつかしいナポリミーア せつない心歌うバイオリン」まです。力が入りきらないようになってしまうが、意外な地点で間がみえたりして、参考になった。一人だと、角度を変えることがなかなかできない。この部分は前半の「なんて暗い~」に比べてイメージしやすいようで、他の人も思いきりがよかったが、その分、判で押したよう=パターンにはまっていくことにもなる。他人との差を出しやすいところのはずで、それは気をつけないと安易になるというのも分かった。正直でいるためにも、他人を聞かなくちゃいけない。自分としては、あまりに何もなくあっさりしすぎだと思うフレーズがあって、でも、そっちの方がずっといいのではないかという気がしてしょうがない。自分ではわからなかった。それをはっきりさせなくてはいけない。
私には、曲に入ることは少しも難しくない。コントロールができない。本当にしたいことより先に、感情がはみ出してしまう。待てること。それと、リズムに注目する。
Nくんの音色。私のように出しっぱなしでなく、ぐっと抑えて、それが凝縮になって情感になっているように感じる。気持ちが動いても雑ではよくない。そのことで崩れてはいけない。
ーーー
合宿感想
何度も何度もいわれていること。その場の空気を感じて投げる。人に伝えることを果たす。テンションのなかでとんでくるもの。自分が与えるしかない。自分を出す、勉強のための勉強ではないetc.。課題の限定から何ができるか。できることしかできないし、本番なんてできることすらできないんだから、その場で板の上で格闘してあっちっちしながら何とかしていくのがステージ。グループでひとつことにあたるとき、全体を見渡して自分のできることや役割を自覚すれば思いがけない力が生まれる。その相乗効果。
通常のレッスンでは音声に集中することが多いのでけっこう不細工な格好で投げてたりするのだが、頭を入れ替え、ステージ実習・ライブ実習その他、それぞれの目的をふまえ、発表は思いっきりステージングを計算する。舞台の上で呼吸する、一朝一夕でできるものではないが、プロを沢山見て動きのイメージをいれるとか(頭のなかにイメージが残ってふと浮かんでくるだけの数をいれること&舞台の上というちょっぴりよそいきの自分が突如茶目っ気を起こしてくれるのを期待する)、伴奏や他の人の音をよく聞くとか、板の上で五感で感じる。ステージ上のB班がいちばんB班のファンでないといけない、空気が回ってて、想いのひとつになっていること。地球上で一番楽しそうな空間であること。それが観客に伝わる。人から人へのバスケットであり、駅伝であり、武道であり、かつ家族でもあり、そんなひとりひとりの役割の自覚の結集が舞台のできなんだろうなって思った。
自己紹介ライブは、いつものメンバーのほかに通信の人が4人いらっしゃったことで、(お客さんが入っている)という感覚が少し取り込めたような気がした。浜省を歌われた男性が、肩に力をいれず、かっこもつけず、楽しんでいらっしゃるのが伝わって楽しめた。課題発表でも楽しいとか、歌が好きって純粋にとんでくる通信の方が見せてステージとして上回っているシーンがまま見受けられた。
課題発表では、全体通してIさんのしなやかさが目立った。自分の役割も分かってて、どう投げるかってツボみたいなのもある程度見えているんだと思う。臨んできた姿勢なり、自信なり負けてしまった。ソロパートはO君が頭にきたのは意外だったけど正解と思った。レッスンでのちりめんフレーズを肯定するのでは決してないが、ここでは言葉が飛んできて、次に続く踏み込みができた。初めて彼を感じられた。IさんのMCはいい方も気が利いていてうっかりすると肯定してしまうが少し違うと感じる。
Fくんのちゃぶ台MCは、ほのぼのして彼が感じられた。心を見つめて、覗いて、臓腑を取り出すと出てくるのものは闇や刃物であると私は思ってしまうけどそうとは限らない、気性やら何やら個々によって違うだろう。Fくんは自分が果たさなきゃいけない役目をぱっとわかって、彼がかけてくれるモティベートに舞台の色も、B班のメンバーも引っ張られたと思う(反応が足りなかったけど)。腹のなかからそのリアリティをとりだして、音声にしないといけない。耳に届いた音にリアリティがあったかということ。すごく傷つく作業である。満身創痍にならなければウソだ。でも自分の大そうじだ。わずかに半日参加しただけのNさんの、O君の後を受けたモノトークも効いていた。全体的にA班の方がB班よりMCのできがよかった(趣旨をはずしてなかった)みたいだ。これからそういったものを何項目ひっぱり出せるかが競争なんだと思う。
映画にもなったブロードウェーミュージカルで“コーラスライン”というのがある。演出家がバックダンサーをオーディションしているさまを描いた話だ。主役を選ぶのでなくて10人のその他大勢を選ぶのだ。彼はダンサーたちの心の闇をだんだんと引き出していく。最終審査がなぜかモノローグで、はじめは自分がかっこつけていることさえ気づかない彼らも、生活かかっているんだし、ダンサー生命かかっているし、追いつめられてだんだん自分の闇に向き合い剥き出しになっていく。外人のレオタード姿かっこいいし、歌もダンスもかっこいいし、モノローグも同性愛なんですうなんてぶっとんでいるから勘違いしてしまうけど、かなりかっちょ悪い物語だ。自分の知らない自分を知るのが役者の醍醐味なんだろう、きっと。あんまり趣味のいい仕事じゃないね。
ーー
関西集中.ライブ感想
今回はメインメニューのひとつにコーラス(二部合唱)があって、班の発表のオープニングとなる。その前の日曜目に予習のレッスンもあったのに、手がかかってS先生のフレーズレッスンの時間も練習に当てられた。O先生とS先生の二人三脚。二人の音楽的特性とか、とがっている感覚の方向、分野がまったく違っているのが興味深い。
音大出身の先生が、ここの空気、いわんとしていることにとまどいながらも神経を研ぎ澄まして、だんだんのびのび自分の感覚を伝えてきていらっしゃるのが分かる。いま振り返ると、誰にでもわかるよな、恥ずかしい注意も受けてたような。トレーナーの気のつきかた&ナイスフォロー、ただ眺めているようでかなりテンション高くないとできない技だ。声を使うより、体を使うよりも神経を使うことが、いちばん疲れる。ここに入ってからコーラスは初めての試みだった。
こんなに裏声を使ったのも久しぶりだ(カラオケが隆盛しだした頃は、どれもこれも高くてキーが合わず、#も♭もわからなかったので、おかしな裏声ばかり使っていた)。綾戸智絵さんが、自分の声というのは前に投げるものだけれども、演奏は、ギターやべースやまわりの音をよくよく聞く、譜面はあまり読めないけれども、まわりの曲をよく聞いて、どんな音を意図しようとしているかとも感じてアドリブでセッションを繰り返すうちだんだん演奏ができてくんだといっていた。綿密に打ち合わせをするタイプではないらしい。人のものを聞く。ハーモニーを感じる。感じる神経、感覚のあること、すぐに反応できること。
ステージ実習やフレーズ練習を応用できず、コーラスになった途端に点でとったり、イメージがない、応用がないということは自分のなかにいかなる感覚も宿っていないということだ。
歌いたい自分。音楽を奏でたい自分がいる。“声”という楽器の音色、ヴォリューム、その他をバージョンアップさせるため、ブレスヴォイストレーニングというひとつの方法論が身近にある。
ブレスヴォイストレーニングは、私のトレーニング方法のひとつであって、表現の要素でもないし、ましてや体現したい音楽のひとつでもないはずだ。 研究所という“場”があることは素敵なことで、このトレーニングの他にもここで学べることは沢山ある。
“所属”はしない。“個”を知覚して“個”を提示する。まだ知覚が足りないからより知覚するために、ここにきている。あとで振り返ったときに、それが生き方だったと思えるように(こんなこというキャラじゃないのよう、さぶ、さぶ、さぶい~)。(この曲こうなってんだよな)ってことが聞けないと取り組みようがなくて、初めのうちは曲に構成があることすらわからないし、世界各地いろんな曲想が転がってて、“音の世界を身につける”とか、“まず聞く”ってことが身に沁みる。