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ことば、ことば、ことばとは、考えさせられたライブだった。彼がこの活動を25年も続けていたことにも驚いた。最近、トレーナーの特別レッスンを受けたばかりだったので、この詩を読む作業は一体どうやって消化すればいいのかと思った。しかし詩とはメッセージであり、福島さんはそれを、自分の短歌とそのときにあった曲をつけ、表現しているだけだった。何の違和感もなかった。彼は彼のいいたいことを自分の一番合った方法で表現しているだけだった。ただ、その詩の音が、何かときどき駆り立てれるものがあり、そのテンションの高さにこちらも引き摺られていくような感じだった。
友人の立松和平さんもいっていたように、彼の表現を聞いていると、日本語の美しさ、深さ、響きのよさを感じる。今まで日本語は音としての表現にあまり向いていないと、勝手に思い込んでいたので、新しい感動があった。言葉、言霊というように、彼のようにもっともっと大事にして、心の奥底に響くような音を発していきたい。どんなことでも訴えていきたい、伝えていきたい、という強い意志があれば(彼は死んでいく人に対してあり続けるという)、表現は可能であることを学んだと思う。
「Time to say good bye」
歌がうまいと、こういうのを歌いたくなるんだろうと思う。島田歌穂ともう一人、同じような、囁くような歌い方をしていた。そういうやり方を選んだっていうのも分かる。まわりが歌をいじったのか、本人がいいと思って歌っているのかはわからないが、プロとして、ボロを出さないということと。マトモに勝負(声で)はできないので、こういうふうに、もっていったのだろう。でも、本当の意味でのよさが出ているとはいえないと思う。オドロキだったのは息の音が不自然で、耳障りだったこと。息といえども、キンキン響くんだと知った。歌に使える息ではない。そのアタック音で、歌を聞くところじゃなかった。歌はうまいと思った。こういうのを、原曲と比較してもしょうがない。
井上陽水「最後のニュース」。世相の闇とか時事問題の詩が8分の6拍子に乗せて、寿下無寿下無(じゅげむ・じゅげむ)の早口ことばみたいに続いていく。テーマは<声の深さとリズム>。これだけことばが並んでいれば、口先ではおいつかない。底のリズムを感じて、声を深いところでつかんでいれば口先をせわしくパクパク動かさないですむ。~闇に沈む月の裏の顔をあばき、青い砂や石をどこに運び去ったの。忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れみんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの~リズムを体のなかに入れ(3拍子と8分の6の違い)、波の大きさを感じて読む。(闇に)で深く入り(つかみ)離す。所見の歌詞のイメージがすぐ入れるよう、訓練を積む。3千人の大劇場で語っているつもりで。
I君が一つの線につかんで放り投げていて、メロディが聞こえそうだった。声を出さないでしばらく歌詞を眺めて再度フレーズ回し。違う曲想の歌詞が回ってきても切り替えてパッと入る。ウォーミング・アップからだんだんテンションが上がるのでなくて、渡されたらすぐさまそのテンションを出す。リズムを底で捉えて、早く読んでみたり、遅く読んでみたりする。小さい声でもことばが一つに握れていたら、表現がもつ。人前に立つ者の前提は、せめてクリアする。自分が引っ込んだところで出しても、何も感じられないし、積み重ねにならない。歌詞は暗記せねばというよりむしろ、自分の経験、感性のなかから同じ色のイメージを引っ張り出して結びつけること。
イメージを結びつけるということについて、同じ井上陽水の「娘がねじれるとき」で考えてみようと思います。「『真夜中の街角にキラリと光る 野良猫の瞳ではまさかあるまい 家出する娘には行く当てもない おちついて考えることができない』『公園のベンチよりホテルの部屋で 恋人の唇が好きと動いた 勇気なら持ちなさい 得になるから リンゴなら食べなさい 中の中まで』『その時夜空がゆがむ 悲しい娘もゆがむ 心と体と愛がねじれる』『娘には父親が5人もいたが 父親の会社には守衛もいない 情熱と生産は反比例をし 社長には8人も愛人がいた』『母親はいつまでも娘を探し 街中の札付きとネンゴロになる 父親はこれまでと闇に目をやり 野良猫の瞳から愛を感じる』」
娘と父親と母親の3人の話が出てくる。でも共通なテンションがあるということ(段落ごとのリズムは3つとも同じに正確に刻まないとリアリティが生まれない)。もし実際のシーンをドラマを見るようにいちいちイメージしないといけないとしたら、次から次に新しい曲をもってこられたらおっつかないだろうが、それぞれの話を赤―グレー―セピアというように色(イメージ)とで分類することもできる。また「心」「体」「リンゴ」etc.その語自体がもつ音色もある。どちらでもいいけど、ここでの“リンゴ”は比喩的表現。アダムとイブの“禁断の実”みたいなものだが、何が自分にとって禁断の実であるかは、人それぞれ、年齢、性別、個性によってまちまちなので、独自のイメージで色を込めて、空気を吐き出す。
“心と体と愛”がねじれるのか、“心と体”と“愛”がねじれるのかフレーズ、でもことばのもつ色を感じて、それが自分の感覚にフィットしているか、出してて気持ち悪くないか。“こころ からだ あい”別の国のことばではヒットすると、“あか あお き”というかもしれない。(こころ)(あか)どちらもひとつにして発する。(あ・か)ではなんのこっちゃ意味が通らない。
【野村監督】
どの世界でもそうと思いますが、結果で人は育たない、プロセスで人は育つんだ、ということが言われています。
名監督はいずれも、野球の指導よりも人間的な指導に比重を置いていたような気がする。川上さんも「無心無欲」といって、心を中心とした人間教育、実際に永平寺に行って座禅の世界に入り、それを選手に見せてました。
「なんでお前らは練習するのか、なんでこういうミーティングをやるのか」。見通しを明るくし、自信を育てたいからです。
一流と二流とではどこが違うかということですが、決定的なのは、一流と言われている人はヒットを打つことにしても、簡単に見せることができるわけです。それに対して、「野球って難しそうだな」というように見せてしまうのが二流の選手です。
「吉川英治全集」の中に「難しい、やさしい、どっちも本当だ」というくだりがあるんですが、それを読んだ時に「ああ、自分が目指すところはこれだ」と思ったんです。つまり、何をやっても、難しいという立場でもできる。しかし、本物になるためには、この難しい道も、もう一つ苦悩したうえで初めてやさしくなるということなんです。だからそういう難しいということも踏み越えずに、苦悩ということも経験せずに、やさしくやろうとするから、結局、見ているほうに難しく見せちゃうし、見られちゃうということだろうと思うんです。
ある専門家によれば、現代の若者には三つの大きな欠点があるんですね。その一つは自己中心的であるということ。もう一つは観念的、それからもう一つは依存的ということ。
どの世界も同じだろうと思いますが、変化への対応ですから、変化を見なければよくないと思うんですよ。変化を見るものはデータであり、経験であり、その人の持つセンスだと思うんです。
成功した人の共通点として、一つは動じない雰囲気をもってる。
何よりも彼自信が、親善試合でも何でも、とにかく野球選手は損得を考えながら仕事をするものじゃないということを身を持って示してくれています。また、練習にしても、いい加減な練習というのは絶対、やらないんです。バットを一本持って、全力でやっているわけで、あの集中力や真剣身を帯びたスイングの仕方一つをとっても、凄いなと思います。
(イチロー選手について)才能というのは、自分を信ずることだと私は思うんですね。だから自分が信じられないうちは、才能が開花するわけはない。
横着な野球解説者になると、手ぶらで球場入りする人も中にはいる。せいぜい大学ノートを持っているのが関の山。ところが野村さんはスコアブックを持参し、それに自分で丹念に記入する。驚いたことに、そのスコアブックには、各打者ごとに一球一球、球種やコースまで細かく書き込まれていた。
「大事なのは無知を自覚すること。無知だからこそ新しい発見がある」
「一流ほど努力するのに二流はしない。努力は興味からくるものだ。集中力の元も興味だ」
【衣笠祥雄】
最近、同世代の自殺が目立つでしょう。血の通わない冷たい世の中になっているんだと思います。我々の世代は自己破産して裸一貫もう一度がんばりますということにはどうも耐えられない。簡単にカードの自己破産なんかできる強さは若い人たちの方にある。僕らにはそれをためらう、ある種の正義感というか美学みたいなものがあるような気もしますね。これは上の世代の影響を受けている点じゃあないかな。
高校受験の時、中学の担任が「目標を持って勉強する」ことを教えてくれたのが心に残ってますね。高校野球部の監督からは「自分で考える」ことをたたきこまれた。プロに入って2年は自分を見失っていました。お金を使って、お酒を飲んで、跳ねっ返りの時期だった。野球を失いかけていた時に当時のヘッドコーチの根本さんと出会った。「今お前、廊下で毛布一枚で寝られるだろう」というんです。20歳ですから寝られますよね。「じゃ60になったときに毛布一枚で寝ている自分を想像してごらん」とくる。怖い言葉でしたね。今だけ楽しんでいたんじゃ、そうなるよと。頑張る場所があるうちに頑張らなけりゃダメだよと。
子供たちの世界にいろんな問題が起きている。背景を考えると、やっぱり少子化の影響が大きいんじゃないですかね。僕らの時はたくさんいたので、右見て、左見てふっと見たらみんな前に行っているというそういう時代だった。ただ、前に行っているけれども友達同士が決して見捨てていない。そこが違うんじゃないかな。今は子供がいろんなことでつまずいたときに、仲間外れになるのをものすごく怖がる。同じレベルから一段落ちたときの恐怖感というのは深刻らしいですね。僕らは落ちるといっても一人で落ちているじゃない。なんとなく横向いたら、同じようなやつが何人もいてね、おい、ここじゃまずいよ頑張るかというね。僕は小学校の時、勉強で目立ったことはないですが、運動会でそれを取り戻せるという優越感があった。そういう仲間がいた気がしますね。
年上の子が下の子を連れて遊ぶこともよくあった。最近はないようですね。上の子は下の子をケガさせてはいけない。危ないとこに行かせてはいけないと気をつかって、責任感を身につけた。下の子はそれを見て、信頼というものを覚えたんじゃないですかね。中学生がナイフを持って問題になってますが、僕らのころだって持っている者は持っていました。ただけんかになると素手で戦う。正々堂々という言葉が生きていた。ひきょう者と言われるのがものすごい屈辱でした。
今は正々堂々という言葉を本当に聞かなくなった。どうしてですかね。結局、モノに走った大人の世代がどっかで一番大事な物を見落としたんでしょうね。会社も勝てば官軍の世界へ走ってしまった。過当競争の中で、わが社は、私は、正々堂々と仕事をさせていただいていますと言える大人が少なくなった。最高学府を出たような人の事件がこんなに起きると、子供は何を信じていいか分からないと思うんですね。大人はこんなに悪いことしているじゃないか、と子供の世界からメッセージを突きつけられて、そんな人間ばかりじゃないんだと大人が面と向かって言えるか問われている。敬うという気持ちをどこで子供に感じさせてやれるかですよ。
「Q.同じ勝負でもプロとアマには違いがありますか。」
yお金をもらっているからプロ、もらっていないからアマという区別はおかしいと私は思っています。「Q.となると、どんな区別ができますか。」
y最近、新聞でも「二枚腰」とか「筋金が入っている」という表現が少なくなってきましたが、本来はこんな「技」を表現する言葉が似合ってこそプロやないか、と感じます。
kサッカーでも、夕方まで仕事をしてから練習する人と、一日中、練習しているプロが同じレベルなら、プロとは言えない、と。朝から晩までサッカーやってて、人と違うものが出せないようでは、プロとは何ぞや、と言われても仕方がない。
yそれが原点ですね。プロとは勝負以外に何かを見せることが必要なんです。技でお客さんをうならせるプレーも少なくなってきましたね。
y野球でもサッカーでも本当のプロらしいプレーというのは、すぐ「ワーッ」と反応があるんじゃなく、一瞬の間を置いた後、どよめきが起こるようなプレーこそ本物やと思います。
k「一体、何が起こったんだ」と思わせてこそ、プロのすごさですよ。「Q.勝負師を育てるためのコツというのはありますか。」
y昔、「目で見て覚えろ」と何度も言われました。目で見てどうするかで、工夫につながる。でも最近は「耳で聞いて」というタイプが増えてます。
k「聞く」ということも少なくなってきた印象があります。私らのころは先輩の話をしょ中聞かされていた。金がないから目当ては先輩の財布の中身。食事をおごってもらったり、映画のチケットをもらったりと飲んだり、遊んだりしながら勝負の話を聞いたものです。でも今じゃ、みんなお金を持っているから、先輩と付き合わなくても遊べるんですね。いわゆる「指示待ち世代」というのはスポーツ界に限らず、増えてます。
k指示しただけのことしかできない。自分のものをつくるために、誰もいないときに練習することはまれですね。僕は人よりたくさん蹴ったから、狙ったところに蹴れるようになった。誰に教わるんじゃなく、自分でやって基本をマスターして、シンに当たらない人はどうやったら当たるかやらないと進歩はない。なのに「コーチが教えてくれないから」なんて言うのがいる。
y勉強でもスポーツでも天才なんておらんのです。できる人はやっぱり隠れたところでやっとるんです。王監督も一番よくバットを振った選手じゃないですか、バットに神経が届くくらい。
t特別のコーチを受けたことなんかあったんですか。
s特になかったですね。僕らの時代は「盗め」というか、手取り足取りというのはなかったんです。○我々の若いころもコーチなんか受けたことない。盗んだものですよ。
s今はもうゴルフでも野球でも、ああせい、こうせいでしょう。それがいいのかどうか、分かりませんけど。個性がなくなるというか、昔はいろんな格好で凄いバッターがいましたし、それが楽しかった。まあ、教えてもらってまでという気持ちはなかったし、意地もありましたから。勝負事の原点、プロの原点というのは、やはりハングリー精神ということになるんでしょうか。
tプロになる人は誰でもハングリーやないとだめや。ないヤツは入ってから下手になりよる。
sやはり、ハングリーを経験してきた者とただ教育されてきた者とでは、経験してきた者が強い。勝負にいっても我慢もできるしね。
s巧くいかないんだから打たなくてはしようがない。ぼくなんか、打って打ってね。そう言っても一日千発も打ったことはないですよ。とにかく体に覚えさせる。理屈じゃない。打って、打って。僕のスイングは作ったのではなく、でき上がった。左腕が曲がってるとかね。これは左へ引っかけたくないからこうなった、今から考えれば。やれば誰でも巧くなる。ただ五年かかって巧くなるか、十五年かかるのか違いはあるが、アマチュアの人もやれば巧くなるということを頭に置いてやらんとね。自分はだめだと思ってしまえば、それで終わりですよ。
【語録】
入団当初はノーコンといわれ、一人前になるためにどうしてもコントロールをつけたい、と思うようになり、まずは下半身を鍛えるために走り込みをかかさず、キャッチボールを始める時からコントロールを意識して球を握りました。十球投げて三球しかストライクが入らないピッチャーでも、コントロールをつけるために毎日、考えながら正しい練習を重ねれば、四、五、六球と入るようになるはずなんです。ピッチングの基本はキャッチボールで、キャッチボールは決して肩をつくるためにやるものではありません。コントロールが定まらず、フォームの悪いピッチャーは、まずは考えながらキャッチボールをすることです。(西本 聖)
日本は小中高校の各段階で勝つために、あらゆることを教えるから、球種も増える。米国流の韓国などは高校で甲子園のような大舞台がないこともあって、長期的に選手の素質を伸ばす。高校で投げる変化球は、直球と同じ腕の振りのチェンジアップぐらい。だから故障も少なく、基本の直球も威力を増す。ぼくも高校でスライダー、フォークを投げていたが、今後、日本の投手は球種を増やすこと以上に直球へのこだわりが必要になってくるだろう。(日本生命杉浦正則投手)
「バッティングというのは、まず足が始動し、ヒザが動き、腰が回転し、腕からバットが振られて、最後にバットのヘッドが鋭く振り抜かれる。この動きが自然の流れでできれば、シメタもの。若松も掛布もイチローもみんなそうなっとる。簡単なこと。けど、やれるかどうかは別や」(中西太)
「肩の力を抜けといったら、肩だけグルグル回す連中が多い。そうじゃない、ヒザから上にグラグラゆすり上げることで肩の力が抜けるんだ」(張本勲)
「話をして、笑いながらバットを300回、500回と振っても集中力が落ちて駄目。自分は目いっぱい、息を抜かないスイングをしていたので、夜にだれもいない所で1日150回しか振れなかった」(門田 博満)
「音楽を聴くことで呼吸をする。呼吸に合わせて筋肉が動く。そうすることで楽に踊れるし、見ている方も楽に見ることができる、と音楽を聴くことの大切さを教わりました。(バレリーナ 神戸里奈)
「日本らしさを全面に出して勝負する、と言うが、この“らしさ”というのが怪しい。確かに、日本人ならではの器用さ、すばしっこさは、世界に対して大きな武器となる。だが、逆に“らしさ”故に負けてきたこともある」
「外国人がチームに入るとよく日本らしさがない、と指摘されるけど、日本らしかったから負けていた、と言うべきなんですよ。彼らを巻き込みながら、繊細さという日本の強みをいかに出せるか、が重要なことじゃないかな。新しい日本らしさ、本当の日本らしさというものを作ったらいいと思う。W杯はいい意味で新しいスタートだと思いますね。こういう体制でやったのも初めてだし、外国人の問題もそうだし。新しいスタイルで臨んで、そこに可能性があるかどうか、見極めるのが重要じゃないかと思います。W杯がもし、うまくいったら、うまくやった平尾誠二をぼくは否定しますわ、絶対に。
ぼくが唯一評価されるのは、過去の日本ラクビーの収穫を全部断ち切ったというところだと思う。もし、いい結果が出たら、このやり方がひな型になってくるんですよ。でも否定するやつが絶対に出てこないといかん。うまくいったことに対して、否定できるのは本人だけですよ。そういう役回りだと自覚して、新しいものを作っていきたい」(平尾誠二)
『自分主義』とは、自己中心に物事を考えたり、行動するのではなく、書いて字のごとく「みずからを分ける」と書く。すなわち自分自身の生き方を大切にできるという事は、他人にも夢や希望、そして勇気を分け与えることができるのである。しかし山口先生は『自分主義』をすでに超え『恋愛主義』である。『恋愛主義』とは人を好きになり、自分よりも相手を優先し愛情を注ぐことである。先生はどんな時でも自分のことは後回しにし、出会った人たちを大切にしている。(ラグビー大八木淳史)
「役を演(や)ることで、自分という人間が少しでも、高められたりすると思ったら大間違いだ。僕が人間として鍛えられるのは、飽くまで実生活のなかでだ」(役者 滝沢修)
【松本幸四郎】
「最近、思うんですよね。現代人って、自分を愛し、物を愛することはするけれど、自分の仕事を愛さなくなってるんじゃないかって。学校の問題がクローズアップされるようになったのも、教師という職業をやっているだけで、それを愛していない人間が増えたからじゃないかって」
彼は舞台をやるうえで最も大切なのは、セリフではなく“間”だと言っていた。セリフとセリフの間でどのような時間を取るかが、役者にとって最も難しいものであり、間は、すなわち魔なのだ、と。おそらく、彼が言いたかったのは間を取るのに失敗した場合、ヘタな役者だというネガティブな評価が降りかかってくるということを言いたかったのだろう。だが、うまくいった時、魔が襲いかかるのは役者ではなく観客の側になるのではないかと一瞬空いた間に、私はふとそんなことを思った。
「歌もそう。踊りもそう。スポーツもそうかも知れない。最高のものっていうのは、観た人に歌ってみよう、踊ってみよう、あの選手のあのプレーをまねしてみようって思わせるものだと思うんです。どんなに上手くてもきれいでも、観た人が“自分もやってみよう”って感じないようだったら、それは最高のものじゃない。芝居だったら、それは“あ、このセリフかっこいいな。俺も言ってみようかな”と思わせるようなものでないと。歌舞伎の世界で言えば、周囲から保護される環境にあぐらを組むのではなく、面白かったと思っていただこうとして芸を磨いていける人間がどれだけいるか」
「芝居って、稽古で1日手を抜けば相手にわかる、2日さぼれば客にわかるっていうぐらい、1日1日の積み重ねが大事なものなんですよ。もちろん楽なことじゃない。でも、歌舞伎に携わる者すべてがそういう姿勢を持っていないと、お客さんを熱狂させるような“大歌舞伎”はいつまでたってもできない」
【松尾スズキ】
「技術的な問題、例えば正面きってワーと声張らないとか、後ろ向いててもしっかりと言葉は伝わるとか、そういうある種のルールみたいなものは宮沢章夫さんや岩松了さんと交流することによって身につけていった部分はありますね。やっぱり彼らの表現はカッコいいですもん。本質的な部分で絶対恥ずかしい真似はしないっていうのが信頼できる。いかに恥ずかしくなく表現するかっていうのポイントだから、俺の場合。そういう意味でふたりに学んだ点は多いと思う」
「努力は目の前でしてくれるなってのはありますね。そんな努力している自分を人に見せるお前の時間は何なんだっていうのがありますから。それを見てなきゃいけない俺の時間が無駄じゃねえかってのがありますからね。家帰ってやってくれって」
「柄本明さんとか、ベンガルさんとか、声の出し方に美学を感じるんですよ。あと舞台の立ち姿にも。そういうものに美学を持った上で、その美学を捨てた潔さみたいなものを感じる。本当に普通に喋ってるとしか思えないあの声の出し方はなんだろうって思いません?舞台に立った時にね、普通の役者さんはやっぱり舞台なんですよ。日常から切り離された声出してね。リアリティがないんです。だからその声を聞いた時点で冷める。そんなにお前の約束事を見せていいの?みたいな。だって柄本さんがもし本当に普段の声出してるだけなら聞こえませんよ客席まで。
それと対局に位置するのは野田秀樹さん。初めから作りもんですよっていうのを強制するような。あれはあれでカッコいい。あそこまでできたら逆にすごい。作り物のリアリティって事ですからね。そういう事を中途半端に処理してる人があまりにも多い。舞台の声っていうのはこうゆうものでございますって教えられて、ただ疑いもなく出してるだけって感じでね」
【真田広之】
「ひとつの役にハマると、そのイメージで確実に何年かは食えるんですけど、出し尽くしてしまうと10年ははい上がれないだろうなって思いがあるんですよね。そうでなくても役者ってレッテルを張られやすいじゃないですか、オファーが来ても、あの時あの役のイメージでお願いしますって感じでね。求められているんだから、それに応えるのは当然だし、商売としても必要なことではあるんだけど、はっきり言えばお金以外に生み出すものが感じられない。クリエイティブな薫りがしないっていうのかなあ。だから、そういうオファーほどつまらないものはないし、自分がときめかないものをお客さんに見せていいのかなってすごく思うんですよ」
「役者をやってると、ホントにごく稀に、役が降りてきたっていうのかなあ、自分が完全にその役になりきって、劇場の空気を完全にコントロールできるって感じられる瞬間があるんですよ。あの時のあの快感は何物にも代えがたいし、もう誰もうらやましくない。時々、俺っていつまでこんな受験生みたいな人生を送っていくんだろう、いつまで不安を抱えながら、生きていかなきゃならないんだろうって思うことがあるんですけど、役が降りてくる快感が味わえたら、もう何もいらない。僕が役者を続けているのは、あの瞬間が忘れられないからだし、マゾヒスティックって言われるぐらい自分をいじめるのは、一度でも努力を怠ったら、二度と降りてきてくれないんじゃないかって怖さがあるからなんです」
「映像には映像の、舞台には舞台の素晴らしさってのがあるんです、同時に、映画しか知らない、舞台しか知らないってことになると、どこか歪んだところが出てきちゃうと思うようになったんですよ。昔は“自分は映画出身者だ”って思いが強かったけど、いまは映画に行ったら映画、舞台に行ったら舞台のいいところを学んできて、他の世界に行った時に活かせていけたらなあって。ま、根無し草のいいトコですよね」
「あそこにたどりつけば何とかなる、あそこがゴールなんだって信じ込んでたところに到着してみると、実はほんの始めの一歩だったって気づかされたことが何度もありましたからね。近づいたと思ったら、また違う景色が見えてくる。たぶん、自分の中にある“本物”への距離は、どんどん遠くなっていくんじゃないかな」
「この世界で成功するタイプって、ふたつあると思うんですよ。ひとつは嫌な奴だけど腕がある奴。もうひとつは、腕はないけど人柄のいい奴。でも、理想を言えば腕があって人柄のいい奴が最高なわけですよ。できることなら、僕はその両方を身につけたいんです」
【桂文枝】
「芸は道でも、全然先の見えんもんですね。何となし道はついてるんですけどね、この道行ったらああなって、というのがない。目的地があって、というんではないんです。」
「お客さんによっても、また息の違いとか、間の持ち方とか、その時によってコロコロ変わるもんで。そういうとこが魅力やないでしょうか」
「古典落語にひかれるのは何百年とやってきて、いまだに残ってるでしょ。しかも、そんなに時代を感じんと聞けるのは、すごいと思う」
「落語にとって一番大切なのは、噺の間ですね。間を生かして、それによって出てくる人物を描写していくということです。しかし、その「間」も、決して正解があるわけではない。私なんか若い時分のしゃべりと、最近と全然変わってきていますからね。若いころというのはテンポがあります、その息があって心地よく聞けるんです。年を取ると、だんだんテンポがなくなってくる。すると今度は、落ち着きというか、だんだん噺のふくらみが出てくるです」
【桂枝雀】
(落語作家 小佐田 定雄)
枝雀さんには「緊緩の法則」という理論がある「緊張が緩和されたときに笑いがおこる」というのだ。
「師匠は笑いを生むにはまず四つの方法があると分類していました。それをさらに細分化して13の笑いがあると言っていました」
その四つの笑い(落語ではオチあるいはサゲ)とは。まず第一に「ドンデン」である。「こっちかいな」と思っていたら「あっちやった」というやつだ。二番目は「謎とき」。客が不思議だなと思っていることを意外な解答でといてやる。三番目は「変」。本当にあるような話をして、最後に変なことが起こって、常識のワクを踏み越えた時、話全体がウソになって終わる。最後は「合わせ」。これは趣向でもセリフでも人為的に合わせてサゲに使う。ダジャレなどもこの範疇に入る。「師匠は笑いの構造というのを常に考えていましてね、ずいぶん学ばせてもらいました。しかし、笑いというのは受け手の体質が左右することが多いんです。受け手に余裕がないと、どんな技術を使っても笑わせられません。われわれ作者は三者をだます。まず自分をだます。演者をだます。そして客をだます」
【立川志の輔】
「笑いというのは人がバナナの皮ですべって転ぶのを笑うのから、政治の風刺、政治体制の批判までいろんな種類がありますよね。それら全部をひっくるめて人間のおかしさを笑い、聞いている客がそれを笑い、実は笑われているのは、僕を含めてすべての人間なんだ、という笑いが僕は好きですね。その代表が落語なんだと思います」
「古典というのは長い時間をかけて、足したり引いたりしながら作り上げてきたものですね。その完成度とシャープさはすばらしいものですよ。古典落語に対する軽視は常にいましめています。ただその伝統ある落語を、どれだけ新鮮に演じられるかが問題なんです。僕らは一つの噺を40回も50回もやることがある。その一回一回にどれだけ新鮮さを出せるか。理想的には伝統を受け継いで修錬した笑いをアドリブで表現できればいいんですけどね」
「落語はもはや非日常的なものですが、それを逆手にとって、エッ落語ってこんなにオッシャレなものなのという空間づくり。次に時間。短時間でつかまなければついてこない客もいれば、じっくりと聞きたい客もある。そして年齢層や地域差。それらの条件の中で、今日はどんな演目をどう演じるか。しかし僕は江戸も明治も平成も、人間の笑いの本質は変わらないと思っている」
【イッセー尾形】
「向こうの人って、面白いと思ったら納得いくまで笑ってるんですよ。僕の芝居はどこの国に行っても、自分の人生に勝ってると思ってる人はつまらない。負けている人が面白がってくれるね」
「イッセー尾形の舞台はコメディーではなくシアターだ」(インディペンデント紙)
「彼のユーモアは日本という国の『まじめな』イメージを覆すものである」(タイムズ紙)
「たとえば道端にいたカラスを車でひいちゃった男が、カラスを放置しておけず車にのせたとする。こう思いついたら、その後の彼を、微に入り細をうがち“生きて”みるんですよ。そしたらそこに生身の人間が出てくる。抽象的な概念じゃなく具体をどう見つけるか、です。その具体が現代の“何か”につき当たってくれればと思うんです」/「この人の人生ってどんなんだろうとか、お客さんの中にいろんな思いがプツプツと育ってきたら、そのネタは大きくなる。大きくなるかどうかのポイントは、実は僕ではなくお客さんの側にあるんです」
「ドイツに行く前は、例えば失業した演歌歌手とか、結婚相談所にきた中年男とか、果たしてこんな芝居がドイツ人に分かるかどうか心配していたんですが、笑わないと思っていたドイツ人が実によく笑う。とすると、笑いというのは、言葉とか芝居の内容ではないんじゃないと考えた。それではイッセーの演技力なのか。たしかに彼はうまくなっていますが、それだけでもない。ドイツという異文化の国で芝居に挑戦している男の姿がついつい笑いを誘うのではないか。つまり身分不相応な人間が不相応な場所へ出て、懸命に演じている姿がほほ笑ましくて、それが笑いを誘うのではないかと考えはじめましたね」
「われわれがやってきたことは、おもしろくするという演技を極力排してきたことです。彼が、これはおもしろいだろうとやった演技に客が笑ったときは、すぐにその演技はカットさせました。共通の記号があれば観客は簡単に笑うんです。そんな手垢のついた笑いをとってもしようがない。笑いには愛想笑いから、いままで生きていてよかったという笑いまでいろいろあります。笑いの純度を高めなければ、やっている意味がありませんからね」