フレーズレッスン 1083
ーー
【基本フレーズ 呼吸】
【カウンセリング1】
【カウンセリング2】
【特別フレーズ②】
ーー
【基本フレーズ 呼吸 3706】
私は水泳とバスケットもやっていたので、一般の人よりは背筋も強く呼吸も調整できるのですが、それでもなかなか身につかないというのは、よくわかるのです。
スポーツに問われる初期条件というのは、歌の基本に入ります。
それ以上のことができている人は、それだけの呼吸がともなっているわけです。
お互いにみていればわかると思います。息の吐き方で初心者だとわかるのです。
ただ、日本ではプロのヴォーカリストでも息を吐けていない人も多いので、同じになってしまうかもしれません。
プロも基本において、ほとんど差がないということは、日本においては、器用さもまたプロの大きな条件であるというレベルだからです。音楽的な感情伝達とかフレージングのよしあしというようなこととは、まったく、別のところで、そこでこなせる人が歌がうまいと思われているかrです。
深い息というのは、オリジナルな声のために必要であり、自分の体の一番深いところから声を取り出すために必要なのです。それをどこかで「ラララララ」と歌ってやっていけるのであれば、そこまでのことも必要がないわけです。その最高峰にあるものが、クラシックだと思ってもらえればよいでしょう。
いくらクラウディオ・ビルラとかミルバとかがすごい声だといっても、パヴァロッティやドミンゴ、カレーラスの息の深さやコントロール力、声の輝きでみれば、クラシックの方が徹底しています。
狙いが違うわけです。
人間の体を完全な楽器にして取り出している場合と、その人の個性というところでの曖昧さ、日常性をいかしている場合とあります。そこが芸術と芸能の差のようなものです。
ただ、日本人の声楽家では、ビルラの歌唱にも相当な差があります。
それだけの心身の条件を備えるのに、相当にかかるということになると思います。
深い息の感覚というところから入っていきます。
これは感覚ですから、トレーニングを続けて半年、1年、2年ぐらいたてば、どんなに息を吐いていっても形がくずれなくなります。するとフォームらしいものになってきます。
今は息を吐くことが目的です。本当は、息を吐いていることよりも、それを統合している感覚が必要なのです。コントロールするには息自体が充分に吐けないといけません。
少しずつ微妙に1/10、1/100ずつ増していったり、減らしていったりしていくのです。
ただ、練習のなかでそういうことをあまり特別にやるべきではないのです。
練習はそのフレーズのなかでやっていけばよいのです。
息自体に執着しすぎることは、体のバランスをくずしてしまうからです。
息を吐く、声を出すということは、心身の機能が全部統合されて行われることです。それを自分で計算して配分するというようにします。これも、ある程度のことで、あまりにいろんなことをした場合、配分はできても、もっと大切な流れや呼吸を失う場合が多いのです。
歌の場合は、こんなところでブレスしてはいけないというので配分を考えます。しかし、トレーニングにおいては自分のリズムというか、身体感覚を大切にすることです。
その感覚というのも、最初はわからないと思います。しかし、徐々にそうでないといけないというのが自分のなかではっきりしてくるでしょう。
単純にいうと素人とプロとの差というのは、音程とかリズムとかを超えたところの感覚で統合するレベルにおいてのことなのです。カラオケを聞いて、心地悪いのは、音程もリズムも狂っていないかもしれないが、楽譜にあっているくらいで、流れをつくっていないからです。
こういう感覚もレベルの違いです。プロが1曲演奏したら、いくつか間違っているのを自分ではわかっているのです。練習のときの方がベストで出ていますから、わかっている、けれどお客さんが気づかないだけです。お客さんの耳には、そういうセンサーがないからです。みえないところを感じてつくるから、みえないものが現れでているからプロなのです。とはいえ、わからなくとも、判断できるお客さんもいるのです。
そのレベル以上で判断していかないといけません。それはすぐにステージのなかでできるわけないから、練習のなかでやっていくのです。
その基準を高くしていくために必要なのがこういう場です。これは教えられて、身につくものではなくて、自分のなかで身につけていくしかないわけです。
間違ってつくってしまうときもあります。そのときはしかたないと思うのです。
それがわかって、迷い道から戻ってくればよいことです。
うぬぼれ、おごりは盲信につながります。それを厳しく正される場が必要です。
深い息の感覚というのは、難しいので、教え方というのなら、体を曲げて息を吐くところからやります。最初の状態では肩が動いて顔がこわばって、少なくとも息が吐ける状態ではないわけです。これはすぐに直るのではなく、慣れていくしかないのです。2、3年たってようやく形がついてくるということです。
ほとんどの人は半年ぐらい一所懸命やっても、やり続けないから、あとは形しか残らなくなってしまうのです。そこから差がつくのです。本当に1年から1年半ぐらいに練り込んだことを、そのあとも続けられるかどうかなのです。
そんなに早く効果が出るのだったら誰でもやれるようになります。どれだけの人がやれていないのかをみてみれば、どのぐらいやらないといけないのかがわかると思います。
体をまっすぐにしても曲げてでもよいでしょう。息を自分なりに深く「ハー」と吐いてみてください。あごが前にでないこと、肩に力が入らないことに注意してください。
どうしても何かをやろうとすると力が入ります。
次に体を曲げてやってみましょう。そこで息で「ハイ」といってみてください。それを少し声にしてみてください。しぜんに声になればよいです。
息で少し声を出してみましょう。息で「ハイ」、声で「ハイ」と重ねます。
とにかく「ハイ」を息の力で相当強くしていきましょう。
どんなに強くても声になれば強すぎて困ることはありません。
実際の歌というのはそんなに力が必要ないものです。気力の勝負です。音域も2オクターブあれば充分ですからまったく同じ音色でとれるのは、1オクターブ少々あればよいわけです。
日本人はそれが2音とか3音も扱えないから大変なわけです。
とても単純に息を「ハイ」と出し、その動きのなかで「ハイ」と、まったく変えないで出してみます。基本的に体が変わらないと息が変わらないので、初期条件が変わらないということです。それではできていきません。
人によってはそのために時間がかかります。あるレベルまでは早くいきます。普通の役者レベルのところまでは、半年ぐらいでいく人もいます。今までやったことのないのをやりますから、当然効果は出るわけです。
ただ、そこからあとの効果が、他人にできないこととして身になるところです。
そこでは、どんどんと上達とはいきませんので、一緒に他のことも覚えていき、多面的に伸ばしていきます。狭い穴だと深く掘れなくなってくるからもう一度広げてやるのです。このときに深くすべきことと目的をとり違えないことです。できてきてからが大変なのです。
声がなければ、歌は声で限定されるから、形をつくるのは楽なのです。
声楽もやればやるほど、10年たってからの1年というと、そんなに目にみえる進歩ではありません。進歩はないようにみえてもそこで少しでも進歩している部分が、プロの基準のところでの進歩なのです。プロにしかみえない技術なのです。
アマチュアのレベルを早く抜け出したいなら、抜け出すのに一番わかりやすいところというのは、体の部分です。感覚の部分は難しいのですが、どこかで入れていかないといけません。クラシックやジャズなどの勉強をして、体系的になるまで学びましょう。何年もたってからでないとわからないこともあります。
ここの場合は、できなくてもそういう世界があり、そういう考えとか感覚があるということを学びます。そのなかで意識して自分で取り入れていくと早く高まっていくはずです。
「カ」「サ」「タ」に関しては「ハ」と同じです。「ハイ」といっている中で「ハイ」「サイ」とそろえます。
苦手なものはあまりやらせないというのは、私の方針です。そこは、あまり練習しない方がよいのです。
得意なものがより得意になったときに苦手なものが解決されていくからです。
だからできないときはやれないので、やる必要がないのです。できることをさらに確実にしていきましょう。
声については、最初は、できるときとできないときとの差があります。うまくいくときとうまくいかないときを使いわけましょう。
うまくいくときは、案外と「アカサタナ」ぐらいいえるのです。うまくいかないときには「サ」や「タ」と一言さえ、うまくいえなくなってしまうでしょう。
できるときに練習のポイントをつかんでおく。できるときの状態を取り出せるようになると、徐々に進歩していくわけです。
プロになったらどんな状態からでも出せるようにしないといけないのです。そういう状態のなかで声をつかんでいけばよいのです。同じように息のなかで捉えていくということでやっていきましょう。
「サ」「タ」「カ」が難しいのは、全部、口先の方で働いてしまうからです。後半の「ハマヤラワ」の方を先にやった方がよいでしょう。「ふたり」などということばは、あとあとまで引っかかります。
「ラ」や「ア」だったら歌えるのに、ことばがつくとやりにくいというのは、ひびき重視で音をあてにいっているからです。
それに対して2つの方法があります。1つは完全にことばから入るやり方です。「ハイ」というところでやってみてそこで何でもよいのですが、違うことばのどれか1つぐらいでとってみましょう。
「アカイ」なら「カ」の練習となります。「アエイオウ」ができたら「サセシソス」「タテチトツ」も同じです。上に子音がつくだけです。
「ライ」も同じです。「ラ」がついても「アイ」だけいえていたらよいわけです。「アイ」の上にS、T、Kがついていれば「サイ」「タイ」「カイ」となるのです。
日本語がばらばらになっているとうまくいきません。「カ ァ イ」になっていると引っかかってしまうわけです。
「カイ」「ハイ」ということでの差をなくしていきましょう。なるべく「ハイ」で太く1つの声でとっていくことです。ことばからやっていくような役者さんのやり方、それから3つのことばを1つに捉えてやっていくやり方、声楽みたいに出る声でレガートで歌って、そこにことばをのせていくやり方などいろんなアプローチがあります。
声楽家は先にイタリア語でやっています。
私がいっている「音楽的日本語」というのと同じで、正確には母音を日本語のところでとっていないのです。とても深いところでとっています。歌うところは深いところでとるわけです。そうでないと歌はもっていけません。
これはテノールでも同じです。低い1オクターブに関しては深い音でとり、上のHigh C までいきます。ドミンゴとかパヴァロッティでも、高く聞こえるのは、High Cのところを出しているからで、皆さんが苦労しているような1オクターブ下のドのところは、太くしっかりした音色で出しているわけです。低いと聞こえるぐらいです。これは深さの違いです。共鳴の使い方も違います。ビルラあたりではその下のラぐらいから軽い音に変わります。
「ハイ ハイ ハイ」「ハイ タイ カイ サイ」や「テイ」「ケイ」「ヘイ」でやってみましょう。
どういう方法でもよいのです。いろんなやり方があって、声をしっかりとつくることをオリジナルの声をもってやれるようにもっていきます。それがない場合は、どうしても「カ」とか「タ」とかを口先で発音してしまうのです。
私の考え方は声域もことばの処理も一声区です。歌声というものを声がないからとつくってしまうから声が宿ってこないのです。
こうやって話しているところでも「カ」とか「タ」を使おうと思って使うわけではないし、そんなトレーニングもやりません。
母音が基本ですから、これをそろえることを徹底してやると、「カ」とか「タ」に関してはそんなに苦労すべき音ではないのです。「イ」ができてくると他の母音や子音は、たいした問題ではなくなってくるわけです。「イ」「ウ」は深いからです。ドイツ語などのも、とても深い母音があります。
どちらでとるかということです。声を深めてそのなかでしぜんに発されるようにするのか、声のないところで「カキクケコ」「タチツテト」というように饒舌とか早口ことばで徹底してつくっていくのかということです。
このパブリックなことばの処理の問題、つまり声という基本を固めず、発音をとるという考えが、そのまま、歌のなかでも安易な解決法として取り入れらえているのです。
日本のアナウンサーなどでも私と同じぐらいの深いポジションで発している人は少ないでしょう。ほとんどは先に音をつくってしまっています。元より彼らは、そこまでの声の深さは必要ないわけです。
日本語の早さとか明瞭さということでは、彼らの方が分があると思います。しかし、声は、その音色で、正確な発音よりも情緒を伝えたり感情を伝えるのです。これは目的が違うのです。
声楽や日本の唱歌などを歌う場合は、口をしっかりと開いてやるはっきりと発音するイメージがあります。日本の合唱団は、みんな同じように口をぱくぱくと開けてロボットのようになっています。
それを間違ってはいけないのです。
力まずに声をマイクにのせるというのも同じです。
しかし、理想は、息の深さができて、そのなかで音やことばをとっていくのです。
間違ってはいけないのに、声を作ろうと思うと「ハイ」「ラオ」「ララ」とやっても、力んでしまいます。「声を出す」と考えると余計な力が入ってしまいますので、無意識な状態でやらなければいけないわけです。スポーツと同じように繰り返して、体が合理的に動くまで直感的に覚えていくしかないわけです。
声を単に前に出すことは応援団みたいにやっていけば、いろんな出し方になりますが、同時にのどをしめてしまいます。発声はスポーツと違って、使う筋肉を直接には鍛えられません。
肺も横隔膜もどうしようもないので、まわりの筋肉で操作するしかないわけです。
そこに力がないと力まずにやるということは無理です。
今の声のなかでポイントを前に集めてやっていくというやり方もあります。それも素人芸で終わりかねないことが多いので、必ずブレストレーニングをしっかりとやっておきましょう。楽器から変えるのがよいでしょう。
体という楽器がよりよく変わった人をみると、基本をしっかりとやっています。意識しなくても声は前に出てくるように神様はつくっています。それを邪魔してしまうのは、思い込みです。特に、へたにトレーニングすると全部くせがついて、わざとらしいからすぐわかるのです。
声楽家のなかにも鈍感だからわからない人がたくさんいます。ここのトレーナーは、それを習得している人たちです。いろんな声楽家が音楽教室などで教えていますが、表面的なレッスン1が多いのです。それは目的が声域を出すことで終っているからです。
目的を表現することにもってこそ、声が正されていくのです。ただ、声を出すことに目的がいくと、体を使って声を出さずに、大きくひびくように思える声をよいと思うのです。それが、自分のなかでは一番大きく聞こえるからです。ということは一番よくないわけです。
自分のなかで大きく聞こえるということは、外に大きく聞こえないわけです。ここが声の難しいところです。
トレーナーにつくのは、声を客観的に正しく聞く外部の感覚を内部にもつためです。そこで私は、レッスンは、修正、やり方を直すとしているわけです。
クラシックの共鳴とロックの違いも、表向きはスタイルの違いです。私の感覚からいうと、よい声を音楽的に遠くひびかせようととっていくのか、マイクにメッセージを吐きつけることをとっていくのかということです。体の条件が違うわけではないのです。
ポップスのリズム感や音色、たとえば、ジャズ、シャンソン、サンバ、ボサノバなどの感覚をもたない人は、声楽的に歌ってしまうでしょう。そういう面でいうと、声楽の方が教えるのがわかりやすく、習いやすいし、歌いやすいといえます。正解が1つとはいいませんが、ほぼ1つの線上にあり、判断がつきやすいからです。
その人に特定のある言語感覚や、あるリズムが入っていた場合、伸ばすことから、はずれてしまう場合がある。日本語の場合はうまくできないのは、話しているところで音声の文化がなりたっていないからです。
外国人の場合、話している中に音声の文化があり、それをそのまま同じような感じで音にのせるとメロディがつきます。メロディを歌うのでなくメロディがつくのです。
シャウトも吐き出すという感覚があるだけで、そんな唱法があるのではないのです。基本的にラップのような言語でつくっていけばよいでしょう。その感覚が入らないと難しいわけです。
レガートから先にやりましょう。
「ラーラーラー」(ミレド)は、次の音につなげるということです。これがレガートです。
最初は「ラー ラーラー」となってしまいます。これは「ラーラーラー」と間をみせてはいけないのです。実際には「ラー」といっているのと同じです。
そのとき、3つにいいかえるくらいです。これが呼吸のリズムの上でなされるのです。体の力がなく、声のポジションがそれる人は、体を使うことによって調整します。しかし、この段階では歌唱芸術にはならないわけです。
このときに大切なことは、声で作っているわけではないということです。それは感覚の違いで、でてきているものを単に内部の音の感覚でとるという形にならないと、本当は声楽のなかにも入っていけないのです。
自分の体でフレージングをつけていくことをやっていかないと、どんどん上がっていて下がっていってと終わってしまいます。最初は、それを完全に結んでいきます。
のどを開けた状態で体の息だけでコントロールしていくところが、まずベースにあると思ってください。吐き出すのに、のどをしめるということは危険です。のどが完全にあいていることが必要です。あいていてそこで音色を出すときに使うことはあります。
「ハイ」「ハイ」ととれるのがこれがあいている状態です。はっきりいうのであれば、それが完全に体で「ハイ」ととれるようになったときに、そのあとに「ハイ」はこれをより深く使う感じになります。
外国人のロックの発声はそれに支えられています。ひびかせる方でもビートルズとかスティーヴィー・ワンダーとかのやわらかそうにみえる声でも、よく聞いたらかなりシャウトしています。
表現をはっきり出すと、のど声ではなくてハスキーな声になっています。あれができるのは、結局、深いところでとって、のどを加工しているからできるわけです。
「We are men」も基本的に変わらないのです。日本人が聞くとハスキーなわけです。これ以上やると皆さんの場合のどを痛めますが、もっとかすれさせたければ、より体を使っていけばよいわけです。基本的には感覚のなかでは同じです。
「ララ ララ」というところと「We are men」というところとの違いは、少しのどをしめているところです。ただ、痛めるということはないという、わかりにくいところだと思います。
日本人のシャウトは、のどの強さで、のどを使っています。だからクリアな音にはならないのです。外国人の音は、クリアです。日本人では、カルメン・マキさんなどがわかりやすい例ではないでしょうか。
シャウトしている人の体の強さというのを自分の体に感じましょう。ただそれを、より高く音域をとっていく人もいれば、そこのところでよりふんばって太くとる人もいて、そういう求める音色がスタイルになってくるわけです。
声楽はそこまでをやりません。やらないのは、こういうことでひずませると、ひびきが遠くに聞こえなくなってしまうからです。ひびかせていかなければならない芸術であり、要求される音色が違います。どちらにせよ体の強さが必要になってくるのです。
ーー
【カウンセリング1 3611】
Q.Fレッスンのレベルが高いと感じて、ついていけない。
第一段階としての、一言をいうにしても、すぐには出ない。
A.これは慣れていかないとしょうがないでしょう。
私のレッスンについては、何もできなくてもよいと思ってください。
2年間「ハイ」だけでもよいし、「ララ」でもきたら、とてもすごいと思ってください。
一流のものを見たら、その人が本当に芸ごとに対して素直になれる状態ができます。そしたら、声は出るし、歌も歌えるはずなのです。
ところが、ほとんどの人が「ハイ」どころか、歌一曲、最初からできたつもりで、そこからレベルがアップしていかないということは、本当の意味でまだ、見えていないし、聞こえていないのです。ですから、聞き方と見方を最初に勉強するということが大切です。
英語を勉強する場合でもカタカナを全てにふってやっていたら、一見、勉強しているような感じになります。しかし最初にやらなくてはいけないことは、わけがわからなくても、その言語が話されているところに身を置いてみて聞くこと、そして、まねしてみることです。
学び方にもいろいろとあるのですが、一回難物にあたることです。「これには対抗できない」というものの存在を知る方が本当の意味がわかりやすいのです。
「ハイ」ができたら、おわりではありません。ややもすると声が出たら歌が歌えると思われてしまうのですが、私のレッスンは、たとえばどんなに声の出る人がきてもできないのです。そうではないところの音の感覚とか、そこをどうリズムにしていくかというところが問題だからです。
一見、研究所のノウハウというのは、声のように思われていますが、大切なのは、できた声がもう表現できているという舞台での判断下の声です。それのベースをできるだけ早く入れることです。だから、音楽を聞ける耳をもつことです。それがとても大切です。
皆さんが一人で勉強していてつまずきやすい点というのは、一人でやっていると、歌の問題とか声の問題とかがわからなくなることです。わかっていたらよいのです。できていないということが本当にわかっていたら伸びます。だからその部分をなるべく早く入れていかなければいけないと思います。そこは妥協してはいけません。
特にヴォーカルの場合の表現においては、逃げやすいのです。よくボサノバとかサンバ、あるいはピアフとかミルバとかまで読み込めなくてもよいという人がいます。そこまで読み込めてしまったら、日本のレベルのリズムはとても簡単だし、音感の取り方もとてもワンパターンにみることができるのです。
トレーニングでやるべきことは、わけのわからないこともあるということを知っていくことです。歌を安易に考えていて、もう歌えてしまうんだと思うと、そこから抜け出せません。自分のついていけない感覚を見ることが一番大切だと思います。
スポーツと同じで、ノーマークでいくらパスとかシュートを打っていても、試合というものを知らなければ、それを使えないし、動けないのです。大切なのは、全体の感覚がいったい、どうであって、そこに立たされたときにどんな感覚になるのかというのを体験しておくことです。普通の人ではないのですから、少しでも一段上のレベルで捉えておく感覚が必要です。
練習をリピートできる人はいるのですが、それをオンできる人がとても少ないのです。毎日ここにきている人もいますが、だからといって歌がうまくなっているわけでもないでしょう。本来であれば、ここの効果があろうがなかろうが、本人がやっていれば歌はよくならなければおかしいわけです。
皆さんは声のことが9割だと思って、歌や音楽のことは勉強していないのではありませんか。声のことは1割、歌のことは9割です。歌の勉強というのは本当にわからなくて難しいわけです。だからわからなければレッスンに出ることです。やらないと進歩はありません。日本のレベルでは、それほどでもないですが、難しいことができていたら、簡単なことはやれてしまいます。
だから、声が一致しないというのは、すぐには一致しないのでよいと思います。しっかりやれたと思っていても通用しない表現にしかならないような声というのは使えないということだから難しいわけです。一番恐ろしいのは本人がそうではないのに歌えたと思うことです。常にチャレンジしていく気持ちでやってみてください。
ーー
【カウンセリング2】
歌の練習もヴォイストレーニングも、最終的にそれだけをやってました、で終えて欲しくありません。他人に対して出せない限り、パンを作ったり、募金をやったりしていた方がよほど人の役に立つのです。「自分は何かやるから待っててくれよ」といって、こういうところに来るのでしょう。逆にいうと、こんなに人様の役に立ってないことをやっている以上は、何か意味をなさないと本当に無駄になってしまいます。そうだったら、はじめからやらない方がよいと思います。
トレーニングをやっているがために歌が嫌いになったり、歌えなくなったりとかで落ち込むのはそんなにも悠長なことをいっていられる“ぜいたく”な環境にいることを示しているだけです。それも必要です。
他のことよりもこのことをやっているのだったら、そのことは絶対に成り立たせなければならないと思います。ですから、私はアマチュアでよいからということばは嫌いです。アマチュアの人にも失礼です。
仕事を一所懸命やって、ストレス発散をするためにカラオケやるのならよいでしょう。しかし、研究所のように音楽というものに価値をおいて、それをどうにかしようとやっている人たちは、中途半端にやってはいけないと思います。アマチュアもプロのやり方も別々のものでもないのです。
いろいろな問題が、一所懸命やればやるほど出てきます。年齢とか年月とか考える必要はないと思います。一生で何が得られるかです。声を手に入れても、歌は難しいものです。本当にうまく歌おうと思ったら何年もかけて練習しないと無理ですし、高い基準ができているほど難しいのです。
毎日1時間くらい練習して、3ヵ月で10曲やってもそのうちの2曲くらいどうにかなるかという程度でしょう。そのなかで絶対的にすごいことは、やはり天才でない限り起こせないのです。何か条件が全て一致したときでないと無理だからです。声も出て、体もできて、かぜをひいたりしてもどうにかうまく出せるようになったからといって、そういうことは難しいです。
2オクターブを30分くらいの曲でフルに使おうとすると、その体力をマラソンか何かで使っていったら、相当のことが起きるかもしれません。2分間にしっかりとつめ、つめたものが期待された通りに出てくるのはベースに過ぎません。
本当でいうと、はじめてから1年~2年は楽しいと思います。いろいろと小さな奇跡が起きることもあります。歌えない状態だったのに歌えてしまったということがあったりします。私も声が出なかったときの方がこわかったのにやりがいがありました。自分の気持ちのピークと一番歌えるときというのは、ズレていくものです。そういうこともわかっていくと思います。
たかだか2年くらいのことなのですが、それで期限を切っているわけではないのですから、きた以上徹底して利用してもらうことを望みます。自由にやらせているところでは、自分の主体的にとらなくては、何も得られません。学生は立派な図書館があってもほとんど利用しないものですが、ここではそんなことにならないようにしてください。
結局、普通の人なりにやっていると、普通の人並みで終ってしまいます。
ここで与えられたものをキッカケにどこまでそれを膨らませていけるかということです。一番声が出るとか、技術があるということは、その人が一番そこのノウハウを作ったということなのです。
その結果、声と技術が身についていたのです。それは研究所が何かをやったわけでなく、その人が全部やったのです。それに対し、ここが邪魔せずにいたことが最大のサポートです。
気づくことはたくさんあったとは思います。基本講座を誰よりも読んでくれた人は、それだけの結果を出しています。でも、だからといって、アーティストとして表現者としての実力や評価がそれに伴うかというと、必ずしもそういうことではないのです。芸事、職人の世界だからです。
技術や声がなくてもやれてしまう人もいます。しかし、ここのトレーニングで地獄を見てもらうのが、一番よいと思います。最近、あまり地獄の鬼を見なくなってきています。だから、他の仕事で地獄を見ている人の方が案外歌えてしまったりするものです。本当に迫力が違ってきます。それを世の中に対してやればよいわけです。
自分の基準のなかでなく声に特化して、その声には絶対妥協しないという厳しさでやっていったら、そういうものは宿るのです。問題はそこからなのに、大多数がそこに至らないのです。
スポーツでも何でもナンバーワンの人はとてもよい顔をしています。その顔は作ったわけでも演劇のためでもなく、一つのことを誰よりもやっていて、そこで少しずつ勝ったことの自信がつくり上げていくものです。そういうものが1つでもあって、そこにこだわりをもっていれば、世の中は楽しくやっていけると思います。この先どうなるかわからないのですが、その一線はくずしてはいけないわけです。
ここにもいろんな話がきますが、そういうものも自分の基準でやり、相手のレベルに妥協しない。媚びないことです。そんな甘いことでやっていたら、それがなくなったときにやれなくなってしまいます。自分の力で人を集めて、そこで歌でも何でもよいですが、やって生きていければよいでしょう。
ここは、わからなくなってくることの繰り返しですが、やる人には、おもしろくなっていく場所だと思っています。皆さんがおもしろくしてくれればよいと思います。つまらなくなるのはわかったからではなくやらないからです。
とにかく、ここももっと柔軟にしていこうと思います。ここは研究する場としてだけでなく、何かを発信していく場としてつくりました。発信しなければ意味がわかってこないからです。しかし、そこで応用を示すのでなく、基本を知るための応用にとどめ、あとは個人の活動へゆだねたく存じます。
こういうところでは、毎日一分のとりくみの違いが差をつけていきます。ロビーに置いてある録音を聞いたりとか、ここでかける曲を買ってみたり、会報のバックナンバーを読んでみたりとかしている人は、仮に3年もそれがつづけば違ってくるでしょう。一つひとつのことから得られるものは大したことでなくても、そういう心掛けや姿勢がプラスに動きます。
そこでの努力やとりくみ態度が生き様として判断の基準にまで影響してくることの方が大きいのです。多くの人はマイナスばかり積み重ねているのです。しかし、無駄なことのように思うようなところ、それゆえ人はよけてしまうところでしか、差はつかないのです。人がふみこまないところに、どれだけふみこめるかということです。 合宿とかも、3年目になって、ようやく半分くらいの内容が把握できるようになったりします。先にどうやればよいのか詰めてきます。それが力がつくということです。
日本の教育のせいであっても、与えられたものをしっかりとやっていくということしかできないのは問題です。日本の音楽教育は楽譜を読むところから始まりますが、向こうは全て即興からです。遊びながらのようになんとなくやれていくのが理想です。楽しみたければ時間と手間を充分にかけることです。
ーー
【特別フレーズ② 3611】
「アモール モナムール マイラブ」
フレーズを伸ばさずに、もっと集約して凝縮しなくてはいけません。
「アブラチァミ フォルテ フォルテ フォルテ」
基本的に線を出していけばよいのです。計算してやってしまうと見えてしまいます。
「アモーレ チェルカミ」
ひかないことです。音色や音をとるのもよいですが、ひいたら伝わらなくなります。
「アモーレ スクーザミ」
自分の寸法に合わせていかないと、小さくなっていきます。
「私はLittle Miss lonely」
「夢で会いましょう 夢で会いましょう」
何が難しいのかよくわからないのですが、まさか音程を間違えるとは思いませんでした。
「その小さな手つぶらな瞳」
梓みちよさんという、かなり歌える人がどうして、この歌い方を選んだのかを考えてみましょう。
音でもっていくのとことばでもっていくのと、ぎりぎりのところだと思います。
音で全部を聞かせるのは難しい曲です。
「そして今は」
「思い出すよ あのころを あのころを はじめての」
この辺にくると「シャウト、ひびき、フレージング、メリハリ」の全ての要素が入ってます。
「モンデュ」
「恋は楽しいうれしいものね でもあなたの笑顔がなおうれしい」
こういうフレーズを何回もやってみると、その声を身につけようと思った時点でのあやまちに気づかず間違っていきます。歌の表現力が減じてしまいます。
ある程度、声ができ、感覚がわかって、表現を出ないとできないと思います。
表現のことをていねいにやっていくと、その技術は身につくものです。一番怖いのは、この曲や「ペイパームーン」のように、その歌い手がその音とたわむれているのを楽しんでいる感覚が鈍いトレーニングによって失われていくことです。