一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 13339字 1083

課題曲レッスン

 

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【「黒いワシ」入①】

【「生命をかけて」】

【「愛に生きる」入①】

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課題曲レッスン

【「黒いワシ」入①3905】

 

 何回も聞いていても、日本の歌い方のほうがわかりやすいし、性に合うと思います。どちらがうまいかというと、日本人の歌い手に軍配を上げてしまう人もいるかもしれません。声量からいうとそうかもしれないです。

ただ音楽として聞いたときに、伴奏の絡みも入れると、それをつくってきた人とそれをまねをしている人というのではまったく違います。何が一番違うかというと、創造的であるということです。

 

 バルバラは、正に曲のなかで常に新しいものをいろいろつくることを試みていました。常につくっているから退屈しないわけです。日本人にとってみたら、歌のなかでことを起こすということはとても難しいことです。ただ向こうの人たちからすれば、そこでことを起こしていないものは歌とはいわないわけです。

 

私が日本人で唯一そういう意味で歌として取り上げたのは、美空ひばりです。まだ、ここでことを起こしている人たちの方がそういう意味ではすぐれています。ただ、それが音楽や演奏という分野になると、バックの伴奏から全ての予見が入ってきますので、一概に比べられないところはあります。

日本人の歌は、書かれたとおりに歌っていく場合が多いです。ことを起こすというのは、ことをまとめるのでなく、投げかけるのです。完成させず、変化の可能性を充分に残せることです。

 

 

「いつか 忘れたけど」

 難しいと思いますが、これが楽器の音でありながら音楽として成り立っていながら、そこにことばが聞こえてくることです。人間の声で音楽であるということをやるのが歌なのです。

だから私に限らず、演歌や合唱団の先生でも歌い上げるなということを注意します。それはどういうことかというと、歌い上げる感覚はそのまま線をとっていくという感覚ですから、それでは何も起きないということです。

当人自体が、そこに入り切れないから、個性が出ないのです。 

 

その音をつかむときに体を集中させなければいけません。発声練習や音程練習ではない。そこの感覚は自分で何を起こしているのかを聞いていかないと、取り扱えません。

 半オクターブで2年といっているのに、先の練習ばかりしている人がいるのですが、すると、「いつか 忘れたけど」が5年、10年経とうと実際変わらないことになります。それは当人が気づかないからどうしようもないのです。

 

ステージ実習をやっても同じことを何回もいわれてしまうのは、当人が直そうとしないし、レッスンで気づかずトレーニングしないのです。

やっていることというと「いつかー 忘れたーけどー」、こんなの聞きたくなりますか。 

 

 

自分でよく聞けばいいのです。声を投げ出さないと、音楽にもことばにもならないでしょう。もし認めるとしたら、絵を好きに描いたら世界で通用するといっているのと同じです。だからしっかりとすぐれているもののすぐれているところというのを認めなければいけません。

 この判断はとても難しいのですが、一部の人にとってはそれによってとても強い世界になっているのです。それはその人がつくっているものですから、つくればつくるほど、固定されてしまいます。シャンソンでもグレコやコラボケールと比べたら何か違うような感じがします。 

 

パッと聞いてみて歌がうまいへたというよりも、何が起きているのかをみることです。ポップスの場合それで破れても構わないのです。それを起こそうという意図もなく、体も気も使っていないところには何も起きません。他の人を聞いてみて、それが働きかけるとしたらそれはどうしてなのか、それはその意思をもって自分で何かをつくろうとしているレベルでの違いです。

 

ただ、それが音楽的にまだセンスが悪かったり、体のコントロールが悪くて乱れたりするのはよいのです。トレーニングはデッサンの練習ですからどうなってもよいです。その線を自分で描かないとよくありません。ぬり絵をしていたらよくありません。基本はそういうことです。

 

 

 たとえば「ハイ」といってみる。最初の段階では体で一つで捉えることが必要です。それが「ター」と捉えられてもよい。「ター」とやるのは何のためかというと自分の感覚でとるためです。

 「大きな」これが自分の感覚であとでていねいに置き換わるようにする。「おーおーきなー」とか「おおきなー」とやったりしなくても、音そのものがことばを働きかけてくる。それが歌でさらにことばがついているから、他から音が生じ音楽で一体化する。それゆえ彼女は偉大なわけです。 

 

だからただ、「おおきなー」とやったからといって、何かが出てくるわけではないです。それは投げ出してしまっているだけだからです。発声的にも間違って、メロディとしてもよくありません。

 ただ、段階として体の力で息で吐いてみるような試してみるのは別です。最初からとれるわけではないからです。息がなぜ必要かというと、その声をもとにして展開させなければいけないからです。その展開の一つがメロディであり、リズムであり、あるいはことばなのです。

 

 基本的に皆さんのなかで、一つの演奏のところを勉強しておいて欲しいのは、この「大きな」ということばを条件が整ったときに、自分がどう感じるかというのがなければ「おおきな そらがさけて」というような感じ方がそのまま出てしまいます。結局、ことばの読み込み、音の読み込みの間違いを直さなければどうしようもないということです。音程やリズムが外れるということよりも、イメージそのものが正しく形成されていないと、行き場がないのです。そこに創造作業が必要なのです。要はどう正しく弾くかということです。

 

 

 楽器の条件が整うには、待つしかありません。「おーきな」や「おおきーな」「おおきなー」というのは、単純な組み合わせです。ただそこを長くしただけです。ところが、そこにちょっと長くしてみたり入れてみたり、ちょっと息を混ぜてみるなどすれば、それだけで100パターンにも1000パターンにもなるわけです。

 

 それを複雑にしてしまったら、逆に「おおきな そらが さけて」のように一本調子になります。声を聞くお客さんに対しては、声のよい人であればそれでもつ場合もあります。しかしポップスの場合は、そこのセンスやイメージがあるからこそ、クラシックほど声量がなくてもいい、体をそこまでしっかりとつくらなくても許されるのです。

 

私はポップスの一流とクラシックの一流がどちらが上ということは考えたことはありません。両方ともすごいのはすごい。何を重視するかというのは、その人のなかでの優先順位です。

昔のようにマイクのない世界でしたら、当然、声量がある方がすぐれています。レコードになってくると、マイクで録音するので、声量そのものは関係なくなって、声量もコントロールされていなければ無駄になってしまう。より人間の体としてすごい声を追求していけば、ち密なコントロールが必要になります。ポップスで何を追求するのかから始めましょう。

 

 

もちろん、声量も追求しておいた方がよいのですが、それよりそこの部分をどう作品にするかということです。それにはいろいろなパターンを勉強するしかないわけです。楽器の人も、いろいろなすぐれた人たちのパターンを全部まねて、それで違うものをつくっているのです。

誰もがやったものは、もうやらないようにしないと、誰々風の弾き方というようになってしまいます。そうなってしまうと、自分の世界はなくなって誰も価値を認めなくなってきます。歌い手は、特にそういう部分が強いのです。

 

 

声色や声域が違うということで、安易な感覚のまねでごまかされている部分があります。声が違うことが個性だと簡単にいえてしまうのなら、バイオリンでなくても自分で作ったオンボロ楽器であっても個性だといえてしまうわけです。それも一理ありますがやはり違います。個性は感じ方とその表し方の差です。

 

 いつも大きな歌い方というと1通りでいってしまっている気がします。トレーニングというのはそれを300でも500通りでもやってみて、そのうちの99パーセントが使えないということを、わかってくることです。それがないと先にいけないです。もう一度「大きな」をやりましょう。

 

 

基本は何のためにやるかというと、そこで決めてしまうためにやるのではないのです。なぜ「おおきな」というような歌い方をやらないかというと、それはそれ以上変わりようがないからです。こう歌ってしまったら、次は「そらが さけて」となるに決まってしまいます。だからおもしろくもないし、新しいことが起きない。ところが「ハイ」「大きな」といったら次に何が起きるか、あるいはこの「大きな」という中にいろんな展開ができるわけです。

 

一番応用の効くものをしっかりとやっておくのが基本です。自分のものを録音で聞いて、「おおきな」で終わってしまっていて、どうしようも動きようもないというのなら、だめだということです。将棋でいうと、詰められて負けです。

 

 聞く人もそういう感覚で聞いていくのです。皆さんもいろいろな音楽を聞いていると思うので、そういうものを比較してみてください。自分を突き放して客観的に見たら、もっとできるようになると思います。

体の面のできないのは待ちますが、イメージ面は自分で直していかないと、毎回同じです。そこでできてしまったというようになると、それで卒業です。

 

 

 

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【「生命をかけて」3607】

 

 

 原語で、そのまま入っていきましょう。この一曲に、勉強しないといけない要素は全部入っています。基本的に、2オクターブのなかで音を動かしていく感覚のきっかけとなるでしょう。

なかでは、イヴァ・ザニッキの「心遥かに」の「つめたい」(「ノンソマイ」)などの捉え方と同じです。日本人の「あやまち」「だけはと」というとり方に対し、一つで捉えて展開していくということです。

 

 「ウナボルタ ケウナボルタ」 

2通りのやり方があります。一つにことばでつかんでしまうのと、ふみこんで、浮かすやり方です。つまり、ふみこむだけか、そこから放したところもみせるか、ということですから、呼吸とフレーズの違いということです☆。

 ただ一つにしても、次につながるように考えてください。1フレーズで完結しつつ、それは、全体の部分であるというホロンでフラクタクルでシンロニティなものが音楽だからです。 

 

時間の感覚、これは密度の感覚なのですが、まず呼吸に合わせて「ウナボルタ」のところをよみこみましょう。プロや私がやることを自分で感じて、体という楽器を感覚で調整していきましょう。歌いあげるわけでもなく、ことばをいうわけでもなく、しっかりと集中しつつ委ねます。その感覚を皆さんがやっているなかにもつと、一つの中心があるのです。

 

 

日本語のイメージが邪魔して、音楽的な方向にいきません。ことばでとまってしまわないように。ことばで「ウナボルタ」といった中で動かないとよくありません。そのためには、時間の動きを感じないといけません。いっている分には同じ時間です。ただ、残していくためには、まったく違う時間なのです。

 残そうとしても、そこで体と息が聞こえてこないと、とまらないです。その上で音楽的になってはこないといけないのです。「ウナボルタ ケウナボルタ」と全部おさえていくと、きつくなってきます。基本的には、おさえる方がベースです。声量には上におかれるためにおさえているわけであって、大切なことは、ここで小さくしたり、スケールを小さくしないことです。

 

歌のスケールとしては上にいくほど大きくとりたいものです。基本的には、ここまでのところで1フレーズです。リズムの方からの感覚をもち、上降、下降させないこと。日本人にとってはとても難しいのです。日本人がとると、この半オクターブで、もう上降、下降してしまいます。それ以上におさえていることです。おさえたところで、離していきたい感じが出てきたら、それにのせます。

 

なるべく、つくらないことです。サッカーでボールを蹴ることでたとえると、足の感覚だけを捉えておいて、そこであてればよい、あててまっすぐ振り切ればよいのです。王貞治選手は、「きた球を打つだけ」といっていました。そのときに少しでも考えたり、何かのくせがついたら「あっ、しまった」という感覚が必ず自分に戻ってきます。歌もそれに似たことがあって、そこが何か別のことをやってしまうといけないのです。

 

 

 危ないのが、「ウナボルタ」と浮いているときに体が離れてしまうことです。それでは浅いところで息がまわっているだけになってしまいます。だから「タ」に関して、ふみこんでおくことです。ふみこんだら、次の「ケウナボルタ」の「ケ」のところがしっかりと自分でとれるはずです。それがとれないと流れてしまいます。自分の体と一緒にしていくことです。高いところになるともう少しわかりやすいでしょう。全部2音目のところにふみこみがありますから、比較的やりやすいはずです。 

 

なるべくことばの感覚にして、その上で音の感覚で、どうおとしていくかです。そこはまねしないで自分の感覚でやります。ただ、流れをもっていたら、そこでとまらないわけです。だから上にいく感覚もあれば、ここでおとす、あるいはキヤッチするのです。キャッチしないでふわっと抜けていったらよくありません。

 

「ケ」や「エ」のところは大切です。遅れてしまうとひきずってしまいます。「ウナボルタ」あたりは軽く入ってもかまわないのですが、どこかのところで放して、どこかのところで握っていることです。基本的に半オクターブだからよいフレーズトレーニングになるでしょう。実際は、方向のみを感覚で捉えて、ボールを蹴ることは意識しないところまでトレーニングするしかありません。

 

 

後半が甘いのです。「ボルタ」のふみこみの足りなさで乱れてしまいます。日本語でやってみましょう。「あやまち だけはと」といろんなおき方があると思います。ノンブレスでいくべきですが、自分なりにふくらましてかまいません。これは切った方が楽です。全部16分音符で入っていて、ブレスはないのですが、わざと休符をいれて一つひとつ念をおしている作曲者の構成です。それが続いて次にサビになっていくわけです。

 

「いのちでも あげるわ あなたならば」

 「いのちでも あげるわ」までは、あがってはよくありません。3度のなかでそれだけ盛り上がりをつくらないといけないのです。(実際歌うときには、そこをおさえてかまわないのですが、中間音や音高さのないところでこれだけのメリハリをつけられる力を学んでください。)「あなた」というところと音の早さは同じなのですが、そこにつめられるものが違ってくるわけです。「ニェンテ」のところで2倍~3倍ぐらいつめておかないと難しいです。時間を感じ、粘らないといけないところです。「イン カンビヨ」を伏線にしておいて、「ディニェンテ」ここで一つです。体の使い方が違ってきます。

 

「ペルテ スペンデレィ ラ ミィア ヴィタ イン カンビヨ ディニェンテ」(いのちでも あげるわ あなたならば)

 日本語でもそんなにやりにくいことばではないです。「ち」と「い」のイが入りにくいと少し難しいと思います。感覚として覚えて欲しいことは、立体的にしていく、それは、流れないことです。最初にやった「ウナボルタ ケウナボルタ」という感覚です。これも確かに5つ進んでいるのですが、この5つを一つに、自分で捉えておいてください。結局押したり引いたりという捉え方が全部そうなのですが、5つのなかで歌ってはいけないということです。

 

だから「ペルテ」「スペンデレィ」「ラ ミィア ヴィタ」「イン カンビヨ ディネェンテ」とわかれると表現できないわけです。これは5つのものがさらに3ぐらいずつわかれていって、15コ並べていくだけになるわけです。感覚的にそういう分離させた感覚になるのではなくて、なるべく一つに近づけていく。そうすると横の線というのはみえなくなります。そこで、たての線をどう揺らし、つなげていくかということです。そうしないと歌から表現が破れて飛び出してこないのです。

 

 

 

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【愛に生きる 入① 3611】

 

 

 「歌をしっかりと聞く」ということが、だんだんなくなってきているような気がします。映画でも最近、スジを覚えていないのです。どこかよいところがあればよいというふうに見ているのです。歌もしっかりと聞けないと、結局何をいっているのかということが聞けないのです。いったい何のストーリーを歌っていて、この歌い手は何を歌い上げたかったのかということをです。

 

音楽ですから、そこまでの解釈とかドラマとかストーリーをつかむ必要はないのですが、ただ自分が歌い手となったときには、お客ではないのですから、最初にそれに入った方がよいのです。最初の一回目に聞いたときに、これはこんな歌だと、このために作られて、そのためにこの音を使って、こういうふうにもっていっているという、作詞、作曲の意図です。そういうものは、テキストとかに書いてあったりするのですが、実際にやろうとすると部分にしか目がいかずに全体が見えないのです。なるべく全体を見て考えることです。

 

「ただ一度の」という前には、その前にそこまでのことを全部入れておいて、それをいったときに「ただ一度の」だけで終っていてはよくありません。そこをいっているときはもう次のところを見ていなければいけないのです。そういうものは理屈ではなくて、1000回も歌い込んでいたら絶対そうなっていくのです。1000回をここで何度もやるわけにはいきませんから、なるべくその状態に近いようにしていくことです。そうでないとことばが生きてこなくなります。発声を気にかけても表現ばかりに気をとられてもよくありません。そこが難しいところです。

 

 

「ただ一度のきまぐれな愛と」 

歌というのは、ここで2年くらいつきつめてやっていくと、2年目くらいから難しくなるのです。 

単純にいうと、これをいった中で自分の読み込みのところももっと深めていくことです。これを10回いったとしても狂わなくするのです。音として狂わなくしたら、その人の表情づくりには、それぞれいろいろな方法がありますので、それはこうだとは決められません。

 

だから教えられないのです。教えると早いのです。形をつくると、とても早いのです。でも、それを先にやってしまうとその人のものではなくなるので、それは自分で見つけるしかないのです。だからきついのです。できるようになればなるほど、難しくなってくると思いますが、世界のレベルを考えてみれば、自分ができることというのは一つくらいしかないのです。通用するのは、まずは一つしかないはずです。

 

たとえば歌の録音で20曲入っているものをもってきても一曲の一部分だけで聞かせられるものがあるのが一番有利なのです。でもそれには基準がなければだめなのです。 歌というのは単純に、「ただ一度の」といったあと、音がついたときにその要素を消さないことです。声ができている、できてないということよりも、腰、背骨が支えていて、流れてしまわずに止められていることです。 流れというものと同じく、終止というのも表現のなかで必要なのです。背骨が読み込め、息が読み込めるかということです。それから流れ、躍動感、バネです。よいヴォーカリストというのは、体がはずんでいるのです。 

 

 

読みの練習としては、自分がそれをいいたくなったときに心と体がしぜんと動いていることが理想です。「ハッ」と発声練習をしても、歌うときには使わないのですが、そこだけのことというのは、勉強できないわけです。私が「ただ一度の」といっているところを普通の人は、とれないのです。そういうふうに出そうと作ってみても、全部うそになってしまうのです。

 

こういうのはスポーツだとわかりやすいです。腕立てとか腹筋とかは、バッティングの練習とどう結びついているのかわからないのですが、ただ、そういうことができている人が必ずやっていたとしたら、そのおかげで部分的に強化されていけば、どこかの機能に結びついてくるということです。まずは、そこだけしかできないのです。そこをやりたくてもそこをやるために今ここをやるのです。 

 

何が何にプラスになるのかはわからないから、とりあえずやってみるということです。うまくいけば何でもプラスになっていくわけです。

 読んでいた本や子供のときどういう体験をしたとかというようなところまではあってもなくてもよいのですが。大事なのはそこから出てくるイメージと感覚です。それによってどこまで聞き込めるかということです。 

 

 

マネをしてもしかたないのですが、感覚的にマネするところから入っていってもよいと思います。ことばでいえたとしても、たとえば、ここに外国人がいたとしたら、表情とかしぐさとかで、「そういうことをいっているんだな」というのは伝わると思うのですが、それを音で何かを働きかけられるかということなのです。ピアノや他の楽器とヴォーカルも同じ要素があるわけです。そのベースがある上にことばのメッセージがつくから楽器にできないことができるわけです。そのかわり何オクターブも出したり、何音も一緒に出したりすることはできません。

 

 特に中低音を体でしっかりと出すというところのノウハウというのは、せりふのなかにあります。そこでしっかりしておくことです。そして、せっかくそれがついてきたときに、歌声を作っていかないことです。当然、それは歌っぽくてうまいように思いますが、人は魅きつけられないわけです。人を動かさないのは、その人のものじゃないことをやっているからです。

 

歌ってこういうものだと思って、やっているだけになのです。プロのを聞いてこれをこのまま「ただ一度の」とマネたらうそになります。 

ここで勉強することは伝えるためにそこで使われている息とか呼吸とか、表現が前に出ていることの前提として、あるべき伝わる条件を見て欲しいのです。

 

 

 誰が聞いても「これはアマチュアじゃない。プロだ。」と思うところがあるのです。ところが自分で歌って録音に入れてみると何かアマチュアくさいでしょう。そこを埋めていかなければいけないということです。単純なのですが、やればやるほど見えなくなってしまいます。遠回りはいくらやってもよいのです。どこかにつながっていくために必要です。 

 

楽譜通りに歌うということは誰でもできます。しかし、そのまま歌ってはベターとなっていきます。それは演奏にはならないわけです。そこでどう離してどう踏み込んでいくかというところでやらないといけないのです。そういう部分で聞いていかなくてはいけません。そうすると絶対にダラーと音をとって歌うという方向にはいかないのです。表現である以上そこにスパッと切れているところが必要です。

 

 

「今ではまるで子供のように」をことばでやってみましょう。 

そのことばのところのトレーニングをしっかりとやっていくことです。アナウンスのように口でかためて伝えていくというやり方もあります。しかしヴォーカルの場合は、息が読み込めて、腰が読み込めなかったらよくありません。どんなにアナウンサーがここで歌ってみても、たいしたことはないのは口が先に動いてしまうからです。それではっきりというやり方は声がない分、カバーしているだけということです。の前の基本の体のところをやらないからだめなのです。アナウンスと歌とはメディアとしての役割の違いがあります。

 

「今ではまるで 子供のように あなたの姿 追い求めているばかり」 

こういうものに慣れて、自分のペースというものを考えてくださいせりふのはよかったのですが、フレーズははめちゃめちゃになっていました。ということは、歌の前に負けているということです。それだけの時間を自分でキーピングしなければいけません。そういうところは読みのなかでやっているとわかってきます。本人が入っていないものを他の人が受け取るわけがないわけです。ただやればよいということではないのです。どうやるかということをやっていくのです。

 

そして歌というのはそれを一回壊してしまったあとに生まれてきます。それが歌となるには、音の感覚のところで読み込んで、その感覚だけはつかんでおくのですが、自分なりの音としてとりだしていくわけです。最終的にはピアニストと歌い手が両方で作っていくわけですが、まずは自分の呼吸で自分の世界まで作っていかなくてはいけません。 

 

次は、音をつけてみましょう。「今ではまるで」だけでよいです。

 ここの入る前のところの間があるのです。それを自分でしっかりととっていかなくてはいけません。「今ではまるで」といって終るわけではないのです。そこから次にいくつながりを匂わせていなくてはいけません。それによってことばの置き方が変わってくるのです。

 

「昼も夜も夢までも あなたを 愛してる 苦しくて あなただけ 何も見えない」 

たとえば、この「愛してる 苦しくて」というのは特別に体の深いところが出ているわけではありません。ただ「愛してる 苦しくて」というのは、皆さんにもできるのです。でもなぜそれが歌になったらできないかというと、「歌はなくては」という邪念が入ってしまうからです。そのこと自体の技術ができるのに、その技術が取り出せないというのが歌が難しいところです。歌ってしまうと歌にならないわけです。

 

ですから、体が使えないとそこが切れないのです。メロディが流れてリズムが流れてどうしてもそれに乗っかってしまうのです。それがカラオケのようなものですから、それを切っていかなくてはいけません。そして自分の世界とその感覚を出していかなければいけないのです。それが止めなければいけないことと、出さなければいけないところです。

 

 

「昼も夜も夢までも あなたを」そこまでをことばでよいです。

 そのあとの「何も見えない アモーレ」というサビに向かっていくところは、声の技術とかフレーズがあればできてしまうのですが、難しいのはこういう部分のところで、どう集約していかなくてはいくかということです。でもそこで本人のイメージと表現したいものが一致していない限り、ことばは動いても、体は動かないわけです。 

 

エリック・クラプトンなんてそんなに声の技術がすぐれているわけでもないのに、どうしてあれだけ伝えられるかというと、そこのイマジネーションとそれを相手にわからせる要素をもっているわけです。聞いている方に気持ちが入っていって、それを受け止め、次のところでサビに入っていくわけです。そういう感覚を自分のなかでつかんでいくことです。

 

役者ほど、そのことばには入っていかなくてもよいのです。「昼」とか「夜」とか「あなたを」とかを音に置き換えています。ただ、だからといって「追い求めるばかり」というときはやはり、「追い求めているばかり」というのをフレーズのなかで音として伝えた方がよいでしょう。本人が本当にそこに意味をおいていかないと、ただことばだけいっていても伝わらないわけです。技術がある人ほど、こういうものはできなくなってきます。技術がないうちから、こういう作業を細かくやっていけばよいのです。

 

 

「昼も夜も 夢までも あなたを」をやりましょう。好きなところまででよいです。

 簡単そうに見えて難しいでしょう。やはり空間をつかむことです。それをパッとつかむことというのが、まず難しいわけですが、それはに力をつけないとしかたがありません。そこで何かを起こすわけです。

 

「追い求めるばかり」 

「追い求める」というのはことばでいえても、メロディでそこからどんどん、はずれていってしまうのです。しっかりとこのなかにもリズムの動きと波というものがあります。プロは声があるから、できているのではなく、声の前の音の感覚のところでのフレーズとかの体の動きとかがあって、声はそれについているだけなのです。 

 

それはつかまえていなくてはいけません。こういうものはあとで声がついたからどうなるというものでもないのです。声楽家が歌っているポピュラーを聞いて比べてみるとよくわかると思います。それは学び方が大切だと思います。 

ポップスの人が大切にしなければいけないのは、いろいろな音楽を壊して歌っても、聞いている人が一様に魅きつけられる場所、胸がキュンとなるような要素はいったい何なのかということです。こういう歌でも、好きになれない部分もたくさんあるのに、それでも認めなければいけない部分というのは出てきているのです。 

 

 

今日、いっていることは、ことばの問題のなかでじゃそこで体を使って解決するのはそんなに間違えないということです。それをしっかりとやることです。もう一つ皆さんは今まで歌というものを、今日、私が悪い見本で見せたようなもののように捉えているということです。

 

それが本当にそうかということを自分のなかで確認して欲しいです。そうだと認めても、実際、自分がやるときにはまったく違うことを歌だと思ってやってしまっている人がほとんどなのです。そういう問題で2~3年どころか一生使ってしまいます。 

それをなくしてもらえば、こちらも助かります。そして、素直に声に出てきたものが、そのまま歌になっていくはずなのです。そんなにまわりくどいことをやらなくてもよいのです。 

 

ですから、声をつけるという発声では声がない人がカバーリングしてきた不規則な、不しぜんなやり方みたいなものを同時に捨てるということです。そういうふうにやる方がよほど大変だからもっと、シンプルにしていくということです。とてもシンプルにしていく、シンプルにならないところがおかしいと思えばよいのです。本物のものでシンプルじゃないものなんてありません。それは感覚とかペースのものが違うというわけです。

 体に音楽が入ってて、気持ちが入っていて、リズムも入っていたら、体を開くだけでそれが出てくるというくらいに思っていてよいです。体はどんどん鍛えていって欲しいし、感覚と両方を一緒にやってもらえればありがたいのです。 

 

 

まず、時間と空間をつかんで、自分でそこに何かを置いて伝えていくというようなことから徹底してやっていくべきだと思います。発声というよりは、その前の体が動く糸口をつかんで欲しいのです。 

最初はどうしても頭が働いてしまいます。ああしよう、こうしようとかばかりですが、全部やりつくしたら、体がしぜんに覚えていくものです。そういう部分で感じて欲しいと思います。

 

初めの1年目はこういう教材では、難しく聞こえますし、音程をとるだけでもやっとでしょう。それは体が違う、楽器が違う以上に感覚が違うからです。そこでシュミレーションしないとどうしようもないのです。10年、20年歌を習っている人もつかめないことを2年くらいでつかもうと思ったら、そのくらいのギャップがあるのはあたりまえです。 

 

だからできないことがおかしいのではなくて、本当はできなければいけないのにどうしてできないのかを煮詰めて考えていけばよいと思うのです。 そうすると、そこの感覚とかイマジネーションの問題が何よりも大きいのです。そこに入り込めないというのと、せっかく聞いてその気になっても自分の口でやったときに体が裏切ってしまうのです。自分ではできると思っていたのに、体が裏切ってしまうということがあります。

 

 

 歌の場合はそれがゴマかされてしまいますから、何となくできているように思えるのです。それを伝わっていないからだめだと判断しつつ、一曲のなかでここだけは伝わっているとかとコントロールできているというところを見つけていくのです。それを、積み重ねて、2年で一曲とはいわなくても、一曲の半分でも今のフレーズでも聞かせられたら、あとはオンしていけます。そこがベースです。

 

今のは、半オクターブしか使ってないところです。20秒、30秒くらいしか使ってないのですが、ここの20秒のなかで自分がいろんなことを感じられて、それを身につけていくのが基本です。声は、そう簡単にはできないし、つかめないのです。「冷たい」と体からいえることだけで2年経ってしまっても早いかもしれません。もっとやりたいと思っても、ほとんどの人がそれさえできずに過ぎていってしまうのです。

 

そうしたら何が基準なのかということです。やはりそのベースのところをしっかりやっておくということが大切です。できていかないのは、そこのギャップを見ずに、先をやってしまうからなのです。ですから、今やっていることというのは最後まで大切なところです。

 ほとんどの歌の7割方は、そこの要素でもっています。今はそのことを徹底してやってみてください。