ステージ実習コメント 1084
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【新入ステージ】
【特別ライブ実習】
【ライブ実習③】
【ステージ実習④「昴」】
【ステージ実習④】
【ライブ実習④】
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【新入ステージ】
別にここが変わったことをやっているとは、まったく思わないのです。表現は、お金に換算するわけではないけど、価値を創造します。何か相手に与えて、その結果として価値が心に生じて残されます。先にお金をとってから何かを歌うのが、ライブの形となりましたが、歌ったたら「拍手したいなあ、握手したい、抱きしめたい、財布を開いてもっていってもらいたい」という気持ちにさせるべきだと思っています。
消費社会になってくると、平等な機会や消費者の権利がクローズアップされます。しかし、基本的に人間と人間がやっていくものだから、まず一つは与えるものがおもしろいかどうか、元気にさせるかどうかでしょう。そこで平等なわけがない。そのことを相手にしっかりと伝えるために、パワーとかインパクトが必要です。
ステイタスのある人、もう地位やその知名度があって、有名でどうやっても許されるような人、その人がきただけで、みんなが何か得したという感じになり、おみやげ話になる人は別です。
芸になるというのは、何か与えるということなのです。今までの歌い方が悪いと、いうことではないのですが、今までのだと芸にならないというだけです。プロということは、金をとれるということです。それには、何かを与えられることでしょう。何も高いお金をとっている人がよくて、そうではない人がだめだということではないのです。こういう世界は個人が絶対的なものをもって、それを相手に価値としてどこまで出せるかというところで、最終的に決まります。
白紙になるというのは一番よいのです。そうでないと物事が入ってきません。私もいろんなところと比べ、ここを常に白紙にしておきたいと思いつつやっています。何もないところに力を発揮できるというのは、その人の力です。
だからこんなライトやスタジオがない方が本当はよいのです。ないところで価値が出せなければよくありません。本来一人の人がいて、その力をより効果的に伝えるために、振り付けと同じで、飾りがついてくる。
ところがそのためにあったはずのものとの関係が段々逆転していって、次第に本人がいなくたって成り立つぐらい、あるいは違う人に歌わせても通じるぐらい、その人の存在の必要性が欠けてきます。
本当のことでいうと、そんなところで成り立つアーティストも表現者もいないわけです。どうしても失ってはいけないという部分があって、それが出たときに、表現といっているだけです。あまり表現とかアーティストというのも、それこそ、うさんくさいです。
やりたいことというのは、これはわからないですね。これがやりたいといっている人はまわりを見ないで、それしか見てないからそれしかなくて、それだけやっているような場合も多いのです。それができる時期は、また幸せです。
2つの方向があります。先に、はったりでもよいから、とにかくやりたいといって、でっち上げてでも出ていくような時期と、その時期が過ぎ、今度は自分の力が充満して、そのことをまわりが感じとって、そういうふうにつくられていく時期です。つくっていってくれと、待っていてくれといっても誰かがそうしてくれるわけではないのです。こういう世界というのは、誰も助けてくれないのです。
歌詞が飛んでしまった、わからなくなった。でも助けようないわけです。ステージが大きければ大きいほど他の人は何もできません。その人のステイタスがあって、ポジションがあればあるほど何にもできなくなってしまいます。幼稚園の発表会では、生徒が立ち往生しても先生が出てきて、何とかします。
でも逆にいうと何かがやれていることというのは、誰かが助けてくれて、成り立っている。
ここも私一人でやっているのではなくて、本当にいろんな人が、ここのスタッフだけではなく、あなた方も含め多くの人が助けてくれているわけです。それをやりたいこととどう結びつけるかというのは、いろんな立場にたてばたつほど、一つの立場からだけではないですから、判断が難しいです。
そうなるとどれかを選ばないといけなくなります。全部は選べません。選ぶということは、他のものを捨てることを意味します。
表現とかアートといったらわからなくても、歌でも、音楽でも、そこに絶対的なものが真理か本質的なものとしてあり、あらわれてくる瞬間を人は求めるのです。これは映画の世界でも、絵画でも同じです。まして音楽というのは、振動をともなって直接働きかけてきますから、涙が出たりする。
人間関係で情に打たれたりというものではなく、出てくるというのは、何か記憶があって、そういう遠い昔のものにどこか一つ、大切なものがあって、そのときは自分も純粋になれる。その時間も純粋です。それで日常、全部をとおせない。だから、いとおしい。
そういうことが自分の体のなかに入っていて、そのときを大切だと思うのであれば、日常、その感覚を失ってしまって死んでいるのを直感的に思うでしょう。そうしたら、そういう場を自分が出すか、出している場に接していけるようになることです。だからそういうものを知っていけば知っていくほど、いい加減なものはうさんくさくなってくる。ここでも自分でやっていながら、うさんくさい、何かみんな騙し合いをしているのではないか、宗教みたいだとか、いろんなことを思う人もいるわけです。
別によいのです。そうみえるのは、その人が真剣にやっていないからです。宗教でよいし、信仰でよい。声という神様がいて信じられるのは、何もない人間よりは幸せなわけです。だからいろいろな立場でみて、自分が変わっていくしかないのです。
大体ここに入ってきた人というのは、ここが好きで入ってくるか、自分の心意気で入ってきますから、半年ぐらいから1年くらいはここの熱烈なファンです。ところが2、3年過ぎて、ここのではなく、自分のファンになっている人は何人ぐらいいるのでしょう。そうでないとアイドルのファンと変わらない。200人、300人と接していて、やはり20人、30人も残っていかない。でも残っていかないからだめだということではなくて、それはそれで違うものをみつければよいわけです。
ただ、自分中心に考えて、一つのことをクリアもできていないのに、あれがだめだとか、何やかんやといって出てしまうのでは、どこでも学べないです。こういう人は自分を獲得して、ここでやっている以上のことをやらなくてはいけません。○○さんなんてつまらないというのなら、その人以上のことを同じ場に立って、問うことで出して欲しいものです。
それは仕事でも同じだと思うのです。「あの上司ばか」といっていても、その下で、そのことさえやれていない自分を棚に上げているだけでしょう。そこに彼が存在しているということは何らかの力があって、それは自分の力よりもあるのです。それがキャリアとか年齢だけで定められるという世界はきついのですが、少なくともこういうアーティックの世界の力だけで問うことより、ましでしょう。
確かに入ったばかりと2年目は違うのですが、それは才能の違いというよりも、やはりその人がこういう世界で生きる覚悟をどのへんまで自覚し、そういうものに対して、日々、選択してきたかということが問われます。ここも使える人には使えても、使えない人にはやはり使えきれません。使うためにも力がいります。
その理由をみつけることです。まだまだ、ここはいろいろな形で生かせます。そもそも、あなた方は他のところとは、主意を違えた、ここにやってきているだけのことはあると思うのです。そこでギリギリにもってきたし、ギリギリにいる人を考えた結果、こうなっているのです。
未来に歩もうとしない人を相手にしても、しかたがないわけです。これを私は切ってきています。他人にも自分にも、大切な時間、同じ時間を費やすなら未来ある人とやっていきたいのです。今はだめでも、何とかなるかという目で見ています。
ここの練習にあまり出なくなって、最終的にぐだぐだといっているような人は、少々、力があったのに落ちてしまうのが目に見えてしまいますから誰も相手にしなくなります。何もなくても、ひたすらやっている人の方がどうなるかわからないだけ、可能性という分ではよいからです。シビアな考えかもしれないですが、そういう人たちとやってかないと、こっちも「昔はこうだった」とか、「ああいうことをやれていた」とか、つぶやくだけのじいさんになってしまいます。
皆さんが一番忘れてしまっていることは、私にも未来があるということ、だから過去を語らないのです。それはここにきた人たちの一つの幸福であり、不幸だと思います。
私はまだ落ちついていないし、何やりたいのかは、やっていくことで学んでいくつもりです。ということは60歳で自分のやりたいことは全部やってきたから、あとは後進に目をかけてゆっくり育ててやろうという人たちからみると、そういう能力では劣ると思うのです。
ただ、私はそういうときには人を相手にすることが、もうできないと思います。気力と体力のいる仕事ですから、これを背負って、あと何年できるかという気がします。
優先順位として、皆さんが体をつくるところから入るのと同じです。人に接するというのは体力がいります。これだけ、近くで直で接するのは、そんなに長くはできないと思っています。あとは自分のやったことの作品で残していくしかないです。
劇団の主宰者のようにやがては一人で好きにやるでしょう。それはいろいろと考えていくつもりです。
今は何もないし、当時も何もないということでは変わりありません。ただ、ここに何かあると思ってしまう人が困るのです。たとえば私がこれから対外活動をやって、ここに誰もいなくなったとしても、私自身がいなくなったとしてもだからといって何も変わらないように自立して欲しいのです。
昨日クリスマス会をやったのですが、各人が歌ってもその場が楽しい場にならないと、「一体この人たち何」ということです。3年も5年も一つのことを宿してきたら、そこで楽しませられるからアーティストなのでしょう
私も個別に見ようかと思っています。今まではどちらかというと、ざったこったのなかから残っていった人たちだけしか見てなかったのですが、それぞれの目的が違うなら見方も違ってよいからです。今までは努力型タイプしか残らなかったのです。とにかくしゃかりきにやって自分で考えてやっていける人は、上達しました。ある意味でいうと、それが才能なのです。
なかなかそうではないから、みんな苦労しているわけです。それをもう少し導かないといけないようです。昔とは、入ってきている人の条件も、違ってきています。
これは私がそうしたいわけではないけれど、本がたくさん出て代々木の駅前近くにスタジオがあるとか、スクールらしくみえているわけです。回数は、増え、ノウハウなども本当に何もなかった頃に比べたら今の方が、設備から資料から入ってきている人のレベルに関しても、(昔は違う意味でレベルが高かったのですが)恵まれています。しかし、それと育つということとまた違うのです。
何もないところにくる人、最初にきている人というのは、それなりのセンスがあるわけです。それがだんだん鈍くなってきているのは困るのです。結局、与えられているのに慣れてしまう人が多くなります。かつて一与えて百やった人に対し、今は十を与えているのは、百でなく、千を期待しているのに、十も学べないなら、これは、学び方がわかっていないということです。
そういう人のやりたいことに対しても、もう少しベーシックな部分をやっていくつもりです。音楽的なレッスンは私の方でやっているのですが、もっと基本からやらないことには、自分の声を自分の声としてしっかり把握できないままいってしまうようです。
ペースが早いからことばを慈しんだり、体を開いていくような時間というのは、なかなかとれない。最終的にその人のスタイルとか、オリジナルができてくるときに葛藤していない。10年分の葛藤を2年でできたら、10年分身につくのです。
不思議なことにこういう世界はストレートにいかないのです。その人がステージで出す表情とか、一つのことばにつめこむ思いというのは、やはりどこかの部分でコンプレックスとか、葛藤とか、悩み苦しんだ部分から素直にあらわれるものです。それがなくて朗々と歌えているような人たちはいるのですが、まわりが支える装置をつくっているため、それがはずれるとやれません。最終的に全ては個人の魅力になってくるわけです。
詞とか、歌になったときに、他人ごとのように歌っていてもしかたない。一つひとつのことばを自分で置きかえて、イメージして、聞いている人が、それに共感できようなイマジネーションを引き出せるようにしていかないと、成り立たないです。
だから全部をとりこめる能力があるかどうかだと思うのです。学び方というよりも、学ぶということをどうやって学んでいくかというのは、難しいことです。
あがるというのは、馴れてきます。私もあがることはなくなってしまいました。いろんなところひきずりまわされ、トラックの社長さんの会合などに招かれ、話や歌でなく、人間でないと通じないというようなところで叩かれてくれば、一般のお客の場では何とも思わなくはなるのです。
ただ、特別やステージをやるときというのは、緊張してわがままになっているようです。「あれはやったか、これはやってあるか」とナーバスになって、まわりには迷惑なことなのですが、自分のステージというのは、自分がどきどきできていなければつまらないものです。そのときにどんな自分が出てくるのだろうと、その自分を楽しめるようになってくることがよいのです。それで失敗してもよいわけです。特に研究所のなかでのことというのは、お客さんから料金をとっているわけではないですから、より大きく冒険して、それで信頼がなくなるわけではない。むしろ評価というのは、新しいものを試みているかをどうかということです。
過去に歌いつくしてきたような歌を、ここで朗々と歌われてもつまらないわけです。そういった慣れを許すような雰囲気はよくない。その人が何とか背伸びをして、より大きく出そうとしているところをみんなが認めていかないと、よくありません。それで失敗しても何もやらないよりもその方がよかったのです。そうなるとそんなに落ちついたステージというのはできないでしょう。しない方がよいと思います。
2年間で落ち着くと伸びなくなってしまいます。プロとして入ってきたような人たちも半年ぐらいたつと、ここはこういう感じでやれば何となくしのげるのだと思って、そして嘘、偽りを固めるようになっていくわけです。それは当人がしっかりと自分で伸ばせていっていないということです。
カラオケとかも自分が過去にやったものをそのまま出すというのは、もちません。無難なものなど、やるなということです。そのために破ることは考えないといけないと思うのです。詞の朗読でも同じです。
プロの歌い手は何ヶ所も破っているのです。最初から最後までうまいというのはまったくすごくないのです。たとえばそのなかで1ヶ所でよいから思いっきり体から出している声が欲しい。するとその曲が、ひきたってくるわけです。聞く人の感覚や体を起こしていく、だからそれができるようになるために体づくりや息を吐くことをやっておくわけです。
歌うときに体を使えとか、息を使えということではないのです。体は、調子が悪いときに、体で支えられるとか、どうしてもそこで必要になったときに体が出てきて助けてくれるとか、非常時のためにやるわけです。気持ちとか気とか、前に出ているパワーというのがもっとも大切です。ステージというのはパフォーマンスですから、歌がうまく歌えているとか、歌えていないということよりもそういうものを伴って伝えられます。
とりつかれたみたいにとにかく前に出してやっているような人というのは、へたもうまいも、歌い方も声の使い方も納得せざるを得ないこともあります。そうしたらそれはやはりその人の世界が伝わっているのです。
そのときにそれ以上のことをやっていくためには、正しく体の原理が動いていないといけないのです。息がついていかないと乱れて、伝わる力が弱くなります。そういうことで体というのは大切なことです。
自分のことをまだまだ知っていないのです。
自分の体のことも息のこともなかなかわからない。それはとても深い世界だというのは今だに感じます。それを声や歌を通してのぞき見ていくというのは、こういう世界のおもしろいところだと思うのです。何でもよいと思います。バレエでも、踊りでもよいでしょう。同じことをやっていたら、退屈してこないために何かその人間がそこに価値をつけていきます。
耳とか体をとぎすますということは難しいもので、これは本当に流されてしまうのです。気持ちのよい音楽を聞いていたら、それでよいとなりがちです。
与える人、つくる人と受ける人の違いです。それが正しかったところで、自分に当てはめてみたら正しくないものです。すぐれているものとすぐれていないもの、それからすぐれている人でも、そのなかで最もすぐれているところと、だめなところもあるわけです。
すべてが完璧という人もいないことはないですが、それもまねできない。そういうものに対して、自分をどうおいていくかということを学んでいくことだと思うのです。
レッスンの出席、回数とか一つのレッスンへの取り組み方とかにも、いろんな問題あります。京都には私は3年ぐらい前までは1回しかいっていないです。その前というのは、皆、新幹線できていたのです。
そういうことでいったら、1回のレッスンから次のレッスンまでに当人がそこからどれだけ学んで吸収できるかどうかでしょう。自分のトレーニングが軌道にのっているときは、そこにアイデアとか、インスピレーションが得られ、いろんなメニューができる。そういうことで判断していくとよいでしょう。
与えられたものに対して、そのまま正しいと思うよりも、それは違う、もっとよいやり方があるのだと疑って、自分でメニューを考え、それでやってみることです。
やってみた結果、前のメニューの方が使いやすければそれを使っていく。そうでなければそこから応用したものを使っていく。ここでもいろんな機会に書いてくださいといっています。その基準をしっかりと自分で詰めるためです。詰めてから煮詰める。といって、すぐに煮詰まるものではないから、それ以上の目的があったり、そこで葛藤がないと、問題意識というのは深まっていかないものです。
リピートするというのは、みんなと同じように練習していたら、みんなと同じぐらいになるけど、同じ以上になるわけでないのです。それで人にすぐれてでるわけにはいかないわけです。そうしたらそこにどうやってオンしていくかということです。それは自分で自分なりの練習方法をもっていくしかないわけです。
自分の体を知って、自分の息を知っていく。そのためにまわりの人もみた方がよいだろうし、たった一つのレッスンで気づけるようになるとよいのです。通信でやっている人とか、スクーリングで来る人は年に数回とか、生涯にどれか1回のなかからつかまなくてはいけません。それで定着させるのは大変ですが、それでもつかめる人はつかめるのです。その人がそこまでの意識をもっていて、そこでいかせることができたらということです。時間と量がチャンスを増やしてくれます。
たとえばここがアメリカで、皆さんがどこかのプロダクションから1日だけレッスンにいってきなさいといわれたとして、そのときと同じぐらいの受けとめ方をここの1回のことにしているかどうかで決まってきます。
レッスンで完璧なものはできません。ただ、やっていることは本当に一つです。それはとてもシンプルで、いつでもどこでもすぐできるものだから、それは本物であり、正しいのです。
ことばでいうと、そこでもっと息を入れて全身で語るということ。息を入れるということは、体が入るということです。表現とかスタイルになると、それを音楽的にしたり、表現としてやるから、自分のピークをそこで出てきたときに一番もっていけるようにしないといけません。アマチュアのときは絶対にそういう構えでなくてはいけません。プロみたいに危ういときは流しても通用するというようなことは考える必要はないわけです。そこまでのテンションを高めるとか、モチベートとか、そういうことが必要になってきます。
とにかく表現するというのは、人前に出たときに四方八方から壁が押しつぶしてくるようなもので、それをはねかえしていかないと聞かせられません。結局そこでやっただけで終わりになってしまうのです。それをイマジネーションのなかで役者になった気でやります。
そういった役割を、自分の練習のなかでどのぐらい設定できるかです。
トレーニングは単なるトレーニングです。こんなつまらないところでこんなトレーニングをやっていてと思ってくるのは、あなたが悪いのです。ここをいつもステージにしろといっても、どちらの側にいてトレーニングしているかも、全部あなたのイメージの世界で変わるわけです。だからその気持ちでやることです。本当のものをしっかりと伝える必要性を自分の体とか、自分のことばのなかにどのぐらいもっているかが問われるのです。
舞台や表現はわかってくると、怖くはなってきます。それで楽しめるようになればよいと思うのです。結局、自分の体に入っているものかどうかということです。誰しも具合の悪いときもあります。風邪をひいていたり、熱が出ていたり、寝込んでいたり、そんなときでもその時間がきたら、とにかくモチベートとテンションが高まっていて出ていけるかということです。
練習も確かに合理的ということなら、熱を出しているときは休んで先のことを考えないといけません。しかし、それでも練習に出ていてやれたという自信をもつ。これは、まわりの迷惑になることもあるから勧められないけど、結局どこかで死線を越えてこないといけない部分があります。それをやった人というのは、それなりの自信をもっているわけです。表現一つもそういうところからの差になってきます。
自分のなかでここで出るかどうかとなったときに、出ることが自分の運命であり、必然性だと感じている人と、しんどいとそこで思ってしまう人とは大きく違います。その力は日頃の積み重ねからつけるのです。
レッスン一つ、出るのも同じでしょう。そうではなくてやれている人も中にはいますが、ほとんどの人は、そこでひいてしまってあたりまえの人となります。迷ったときにひいてしまうとあたりまえの人です。それを迷わないということは無理ですから、迷ったときには前に出るということしか許してこなければ、何とかなるのです。
人に会うときもそうです。あいつには会いたくないとか、舞台でスピーチするのもいやだと思っていても、いけばいったで人間だから許せてくるし、人に会うと楽しくなるのです。そうしたらいかないよりはいった方がよいのです。いやなやつだと思っていても、会ったら、人間というのはお互いににこやかになるから、会うことです。
そういうことでいうと、何でも自分がつなぐ努力をしていった方がよいと思います。ただ、つきあいがよいだけというのは困りものです。誘いを断ってでも自分の練習をやらないといけないときがあります。その人が自分の世界があるなら、勝負するのは他人のやるのを見ることでなく、自分でやることでしかないからです。だからステップ、ステップと踏んでいきながらも、そんなことで左右されないところのベースの部分、あがろうがどきどきしようが、歌詞が全部ふっ飛ぼうがそこでもつだけの存在感として出せるものをもてばよいわけです。
それはその人のパワーであり、どうしても歌わないといけない、いや歌いたいと、そこまでの思いを込めてやっているのだとか思わせる力です。そうしたらボロボロになっていようが、音がふっ飛んでいようが説得力はあります。その上でサービス精神をもつのには、技術をしっかりとしないといけません。ただ、全ては心構えからだと思うのです。
特にトレーニング中に全部ができていても、本番ではそれだけかということになってしまうのは、ステージ力不足です。最終的にコミュニケーションにおいて人が価値を与えていくものですから、それを自分のなかでどうつかんでいくかということを考えていけばよいと思います。
ステージの場というのはいろんなことが起こります。トレーニングと別に月に1回、場を踏んで欲しいものです。
ここの客はむっつりしているから、自信がなくなるかもしれません。だからといって、安易にわいたりするのがよいわけではないでしょう。自分で真剣に勉強しようといっているときに、拍手で立ち上がっていては何もできません。そういう甘い雰囲気になるのは、厳しい評価眼がないからです。自分で学ぶ場の役割を果たすためにここは設定しています。そこではいろんなことが起きます。心で受け止めずに体で反応するのは、考えものです。
トレーニングのときにやったことのベストのことはなかなか出ないです。トレーニングというのは毎日できます。歌のステージというのは、ここでは30日のうち、1回です。確率的には無理です。
ところがそこでベストでないに関わらず、ベスト以上のものが出るというのは、これは不思議に人の前でやるときの一番勉強できる要素なのです。
そのときにトレーニングでやった歌とか、過去の歌にひっかからないこと、そのときのそこでの感覚をぱっととるというのは、とても勇気のいることです。ましてや音楽とか、歌の世界になってくると、その不安な部分でやらないといけないところがあります。
私はいつも歌の快感は崖から飛び降りるような感覚だといいますが、それは自分がやっているわけではないようなときに出てきます。自分で押さえられるときというのは、安定するのです。安定するけど普通のステージです。歌や音楽に神様がおりてくるときは、踊り手も、マラソンとか、ダンスとかでも瞬間で起きるのだと思うのですが、それはこわいことなのです。しかし、それを恐れていてもしかたないし、またそういうレベルにいる人たちは、それが快感で舞台をやるわけです。そこは確かに違います。
こんな小さなところでもとりつかれてしまう人もいれば、たまに魂を抜かれてしまうような人もいるのでしょう。いろんなことが起きると思います。それを素直に受け入れていけば、よいのではないかと思います。
ただ、洗脳されたみたいに誰かが歌っているように歌ってしまうのはよくないのです。これは自分で気づいていくしかないです。
ここが厳しいのは何をやれとは、一応いっていますが、一番学べる人と学べない人に焦点を合わせてどうすればよいかという、材料を出すというスタンスだからです。私も、毎月、新しい材料を仕入れています。それを学んだままの感覚で出すのではありません。そういったものというのは、ここで私が出すと今の時代のものとなります。いえ、あなた方を通じて今に生きるものになります。ただ、それは材料にすぎないわけです。
勉強の仕方というのは、一人、放っておかれるところでどれだけ学べるか、盗めるか、です。だから本当に自由にさせるというのは難しいことですが、そこでしか学べないと思うのです。
クラシックか何かかけて、先生はお茶のみにいって、放っておかれてオペラなど聞きたくないといっても、待たされ、そういう形の方が叩き込まれてきます。3年たってみたら何かそれが全て勉強になって、自分の芸を支えている。何もいってくれないから先生の表情とか、ピアノの一つひとつの音をものすごく敏感に聞くようになります。レッスンでも、ことばではないところで伝わることでしか学べません。
今、先生がフレーズを変えたのはこういう意味だというのをいちいち説明していたら、ことばで説明されたことでしか学べないから、頭でっかちになってしまうのです。それでは何も越えられないです。学び方というのはそういうものです。
たとえば古典とかも平家物語をみんなで読みましょう、ここはこういう意味ですよとていねいに説明してくれる。そうしたら次に源氏物語を読むときに、また先生を呼んでこないといけません。いつまでも先生がいないと読めないのでは、勉強できているのではないわけです。そのときに先生から原文だけでもらったら、辞書調べないといけない、いろんな古典にあたらないといけない、本は読まないといけない。そういうめんどうな勉強を乗り越えてきたら、源氏になっても、それをどう捉え、何で調べたらよいかがわかってきます。それが勉強なのです。
結局、応用が効かないような勉強もどきことなら、やらない方がよいわけです。よい先生というのは、やさしく親切に教えてくれるのではなく、その先生がいなくともできる力をつけるために苦労させてくれる人です。それなのに多くの人は、わからないからとすぐに、ことばでの説明を求め、それが個別に与えられないなどと不満をもつようです。
ことばであたえられたら、満足する。いつまでも頭でしか考えられず、何も大切なこと、基本が学べないままになるのは、あなたのことです。それこそブレスヴォイス流に染まっていくなど、そんなのがあるわけがないのに、勝手に造り上げていくのです。力がない人が努力をしない言い訳のために勝手に造り上げ否定しようとしてしまうのです。力がある人は壊す力と得る力があるから、何もいわずに音を効いて体や声でこたえていく。土台、学ぶ深さが違うのです。頭でやっている人は伸びません。体でやれてはじめて表現なのです。
長くいてもこういうふうになってしまうのでは、害でしかありません。できていく人はそういう人やそういうことには構わないのです。そんな暇はありません。 コミュニケーションをとるのは、お互い自分があればよい刺激になることなのに日本人は逆になってしまうのです。勉強するためという目的のために話したり、未来のことを語り合うのではなく、結局、不安だから話して人生の時間を消耗するのです。
もし、しっかりとやりたいのなら、自分をみることです。そのためにどれだけやらないといけないことがあるのかわかっていないわけです。そういう人はそういう人たちでいずれ出ていきます。ただまわりの人が迷惑します。それに誘惑される人も同じです。
みんな入ったときには一所懸命やるわけです。やろうと思って入ってくるからです。しかし、本当に伸びる人は、日本の社会のなかでそういうたまりのなかに入り込まないで一人でやっています。どれだけやらないといけないことがあるのかわかっているからです。
覚えておいて欲しいのはどこでもしっかりと成果を上げた人は必ず一人でやっていたということです。自分の時間を大切にしていて、誰よりも早く帰って、一人で練り込んで、そのことをここに出しにくる。これはあたりまえで、ここのメンバーと関わっていたら、うまくなるわけではないのです。一人で力をつけるしかないわけです。その孤独というか、一人でいる時間をしっかりと使えるかどうかです。 研究所にきても、自立できていなければ何の力にもならないです。トレーニングぐらい、人に頼らず自立させなさい。
歌が宿っていると思える人は、相当なことをやっているわけです。それだけやるためには一人でしっかりと判断してやっていくわけです。だからハイレベルの人ほど、みんなのなかには友人はいません。もっと大きな世界に出ていこうと思うならもっと大きな世界とつきあっていこうとしています。そういう中で交友関係を広めています。過去を語ったり、お互いにやっていることを同じメンバーで同じことを語る必要はないでしょう。
自分で身につけていたらわかるし、わからなかったら自分が勉強すればよいわけです。それを半年や1年先にやっている人たちに聞いてみたところで混乱するだけです。しっかりと自分の体で実現できている人をみてください。
長くいる人の方には、私がいちいちことばを話さなくても伝わるから、教えやすさでグレードのランキングが上になっています。ただ、その人が何とかできていくだろうと信じて上にあげたら、そのことで甘くなってしまうのが現状です。大体グレードぐらいで一喜一憂しているなんておかしなことでしょう。自分が絶対的でなければいけないわけです。ここがグラミー賞を輩出しているわけではないのです。
私の考えとしては、なけなしの金や時間をはたいて先に3倍払ってでもあとで10倍とっていくというのが、こういう世界の学び方だと思うのです。いる期間が本当に短ければ、もし、わずか2年で本当にやろうとしたら2年でここを骨までしゃぶれるぐらいしゃぶっていけばよい。それだけのものをほとんど使わないで終わってしまうのです。どこまで使えるかが、その人の能力です。
ここの厳しいところは、自由なことです。出ても出なくても誰も何もいわない。それを積極的に前向きに利用できる人しか残っていけなくなってきます。それにはやはり当人にやる理由がないと続かないものです。これまでなら、3年もやったら、何か評価されたでしょう。しかし、プロの世界ではでっち小僧にすぎません。
資格試験とか就職というようなものではないから、結局その人がその人の理由でここを見切るようにして、多くは、自分の能力、才能を見切っていくのです。
だからといって私はだめだと思わないし、外の世界に出て「あんなところなんか」というような感じでやってくれるとありがたいのです。でも、ここでさえやれない人が、外の世界でやれるはずもないのです。
もちろん、歌の基準では外にいったら日本は甘いものです。業界からひっぱられても、2年、3年たったら、ここにいたときよりもまったくだめになっていることが多いのです。
それはあたりまえでしょう。自分のなかの厳しさとか、ここでの基準ができないうちにまわりの基準にひっぱられて、できてもいないのにそういうことをやってしまうからです。ただ、そういうことを身に入れる時期も必要だとは思います。私は出れるものとか、チャンスとかは全部生かしていけばよいと思っています。しかし、それは自分が生かさないといけないもので、利用されていたら何の意味もありません。
たとえばここにきているより、そのへんのライブやっていった方が余程感覚も身につくし、キャリアにもなると考えるのもよいでしょう。でもそれでどのレベルでやっているのか考えることです。今、どこにいるというのは問題ではなく、そこへいたるところでどう取り組むかというのが問題です。だからロビーで世間話をしているような人やつるんでいる人は、何年いても伸びません。一人で帰って少しはできなかったことをやっておくことです。
人がいわないといけないということは、いってもしかたがないから、いわないです。注意するのは「他の人たちには迷惑をかけるな。そのためにわざわざ、こなくてもよい。」それだけです。厳しいのでなく、それはどこでもあたりまえなのです。全ての行動は、みられ判断されているのです。
ヴォーカリストの世界が甘いだけで、役者の世界であれ、作曲家とかピアニストといった世界でも、やれる人はそんなことは知っています。だからここまでそんなぬくぬくした甘いところにされたらかないません。私も水面大変になります。そんな人が多くなるとここのレッスンが成り立たなくなってしまいます。 場はとても大切です。将来への意気込みをもち、気力にあふれた人がきているという場が大切なのです。そのなかで調子が悪いときは調子がよくなったり、自信なくしたときにもパワーがわいてくるわけです。
全体にいいたいことは、もっと練り込まないとよくありません。練り込みがまったく足らないです。課題曲に関しては、歌のなかであけすぎているし、伸ばしすぎています。
それから自由曲は、課題曲で精一杯だということだったらよいのですが、せっかくのチャンスですから、できるだけ試みて欲しいのです。完成させるというのは無理なことですが、精一杯取り組んでくることがそれ以上の何かに気づくのに必要です。
課題曲と自由曲をおいているというのは、課題曲だけで精一杯になるのではなく、いろいろ、試みて欲しいからです。課題曲というのは皆に与えているものですから、他の人と比べたりオリジナリティをみるのもよいのです。もう1曲、自由曲があるのは、課題曲はまったくだめだったけれど、自由曲では立ち上がるというチャンスでもあるのです。
でも大体の場合、選曲が自由な自由曲の方だめなのです。自分のことを知らないからです。自分の表現をつくれないから、自由曲は大体が選曲ミスをしてしまうのです。それもよい経験になると思うので、貪欲に使ってください。
課題曲もまったくできないのに自由曲なんてとんでもないと皆さんは思っているのですが、とんでもないことをやっていくしかないわけです。
今やっている自由曲は、3年後ぐらいにレパートリーになればというぐらいに、少しでも先を見ないとよくありません。「ハイ ララ」だけやって、2年たったら何とかなると思わないでください。やはり先のこともやりながら、でも今本当に練習になっているのはここだからと、体や息をつくることです。
それからもたついているだけというのが多いのですが、気力でひっぱっていかないとよくありません。たった3分間ですが、最後までたきつける。ある意味では、慣れていくことです。歌で間違ったり、あがったり、体が使えないとかそんなことがなくとも、結局、歌の世界よりも気が前に出ているかどうかです。相手に働きかけられていることです。そこが見られています。
もっと初歩的な段階にいうと、歌にのまれないこと。歌をリードしていかないとだめなのです。楽譜を自動的に声に置き換えただけでは、歌の世界は出てくるはずがないです。だからその世界に入り切らないといけないです。
入りにくい課題をあえて与えているわけですが、選んでいる曲というのは、大体盛り上がりがあり、力でもっていけるというものです。それからスタンダードで口ずさまれている曲ですから、曲としての完成度は高いです。
音楽として一つの盛り上げがあって、一つのものを語っています。それで終わったら、人が「ああ、よかった」と聞いてくれるような、歌として与えられているわけです。トランペットで弾こうが、ピアノで弾こうが、変な曲という感じではないわけです。そこにあるものをヴォーカリストが邪魔してはいけないということです。こなすのでなく、そこに皆さんが何かをくみとり、何かを加えていかないといけないのです。
最近、表現力とは何かということを学ばせています。要はロビーでごちゃごちゃ話していることをここで話してみても、誰でも退屈してしまうわけです。そういう井戸端会議と、人前に立って何かを伝えることとの違いを知ることです。内容や語り口をプロレベルにしろということです。
これは、歌でいうとカラオケと本当のステージのなかで歌っている歌の違いです。アダモの曲は、50代のファンの人がよく歌っています。それと当人との違いみたいなところを、早く気づいてもらえばよいと思います。
自分との違いはなかなかわからないのですが、皆さんのなかで少しうまいと思える誰かが出てきたら、そこを本物とどう違うのかを考えることです。
まず思いの強さが違うでしょう。技術も違いますが、その歌をどこまでその人の世界にしっかりともっているかということです。
だから課題曲は課題曲で終わらせないことです。課題曲のまま終わってしまうと、他人の曲の紹介ですから、課題であって歌にはならないです。
最初にやって欲しいのは、思いっきり前に出していくといういうことです。これ自体、日本人は苦手です。どうやって歌の表現や手を使って伝えるのかを学ぶことです。それなのに動けていないのです。特別ライブ実習に出ていた人は、それなりに手とか体とかが動いているのが見えたと思います。彼らは自分のなかに練り込んでいますから、表現として一つとなります。自分の体を一つにして歌を伝えるときの感覚があります。
正しい声をとるということ、体から息、それからそれを声にしていくという、その流れを体に結びつけること、これが一番根本的なことです。そのためにわからなくとも、息を吐いて、「あおい」とか「はい」とかやっていくことです。そして、それが前に投げ出せればよいです。そのことがどこかで歌と結びついていきます。今、歌っている歌には結びつかないとしてもほんの一部でもよいし、少しずつでも結びついていくことです。
それが音楽の世界になると、その声を次の音にどう結びつけるかという声のフレーズになります。ここに音楽的な要素なり、ことばの要素がたくさん入ってきます。ことばのリズムとか意味とか、それから音感、リズム感みたいなものが大切です。それがいろんな形で自分のなかに入っていないとよくありません。
単に4拍子を1・2・3・4とやっているような覚え方ではなくて、そのことばが音楽として、音として動いてくるための感覚が必要です。いきなり入ってもどうにもならないわけです。まず体に音の流れみたいなのが入っていて、それを今度は自分の表現をしていくのです。
ここにいる間は、ここの舞台をこなそうとするよりは、思いっきり失敗してもらえばよいと思っています。その方が好感ももてます。要は思いっきりやると課題が明らかになってきます。
ここでは単に発表会ではなく、やって、映像で見て、まったく足らないではないか、体がかちっとなっていて、これでは見る人もつまらないとか、気づき、そこを直していくためにやるわけです。そうして、課題を明らかにすることが目的です。
人を感動させることができればよいのですが、へんにそれっぽくできてしまうよりも、まず、器みたいなものをより広くすることです。広くするためにどうすればよいかというなら思いっきりやればよいわけです。
そうしたら息が足らなかったか、次の歌詞が飛んでしまってついていけなかったとか、体が足らないなとか、ここまでしかできないとわかる。プロをみたらここまでできる。そうしたらこれは明らかな差なわけです。そうしたら息を吐く必要性もわかってくる。何でこんなばかなことをやっているのかと思うことも誰しもやってきたこともわかってくる。基本とはそんなものです。
同じフレーズのなかで、どのぐらい詰められるかということも大切です。「2人の恋は」これもことばで、歌かもしれませんが、何も詰められていない。それでは聞いている人も流れてしまうわけです。そのなかに詰めないといけないです。表現を詰め込んでいかないといけません。詰め込む段階とそれを解放する段階というのは、最初は一致しません。深くしっかりととることと、ぱっと出せること、そのプロセスを今、踏んでいく必要があります。
とにかく詰め込まないといけません。詰め込んで詰め込んで感情を入れすぎて、声も出ないやぐらいになってもよいかもしれません。だから下手といわれるところに、最初にいった方がよいわけです。
「2人の~」と、口先でのやり方を覚えていたら、いつまでたっても下手にできなくなってしまう。それより正しい声をとって、行き詰まった方がよいと思うのです。次にそれを動かすために何が必要かというと、やはり体とか息が動いていないとだめだとわかる。だからそのギャップを常に明らかにするべきだと思うのです。そのために見易い例を見るとよいでしょう。アダモは声が独特ですからまねにくいかもしれないですが、フレーズのとり方の大きさとか、伸ばしたところの感覚みたいなものはあります。
それから同じ3分間をどうやって埋めていくかということと、展開することです。場が動いてこないといけません。単にここにいて歌っているということだったら、棒読みをしているのと同じです。そうではないことを歌でどうやるのかということです。
ことばをもっと込めないとだめだと思います。まったく「2人の恋」ではないし、聞いてみても、結局何の歌だったかわからないというような感じです。ということは皆さんが伝えようとしていないのか、それを展開できていないということです。ことばで展開できていない、音楽的にも展開できていない。それから一つひとつのフレーズをしっかりと終わらすことです。「2人の恋が終わった」ということを伝えないと、次にいかないわけです。だからそのイメージを自分のなかでしっかりと走らせているかということです。
ことばだけ走っていたらだめなのです。全体的に急ぎすぎています。最初慣れないうちはとにかく終わらせないといけないと思って、最後まで間違えてはいけないことに頭がいきます。そこでの時間を自分で楽しんでください。試みたがために間違いも起きるし、失敗もしてしまう。ある意味ではそこは許される。そのかわり表現できていないのが、許されない場になって欲しいのです。
誰でもここで歌えるわけです。誰でも歌えるレベルのことを、やっていたのではしかたがありません。それと違うことをやって欲しいのです。
自動的に歌うなということです。声ですから考えたら出なくなります。出すときは思い切って出さないといけない。考えて出さないといけないのですが、出したなら出した世界です。出しながら考えたり迷ったりしても、インパクトは出ません。その前にもっと練り込んでおくことです。
練習はしてきていると思うのですが、その練習の仕方自体が音程やリズムを間違えないでいえたらよいというなら、いつまでも表現にならないわけです。カラオケで20年ぐらい歌っているおばさんの方が、余程、表現しようとしているわけです。だからそうではないところつかんでいかないといけません。伸ばしたところにリズムとか、音の感覚も必要でしょう。今はつかめなくても、うまく歌っている人と、どう違うのかを自分のなかでしっかりと把握して、その上で味つけしていかないといけないです。
だから1年目というのは、息が吐けるようになって、強い体をつくることが大前提です。それからそういう声が取り出しやすいような体で柔軟な状態で声を出す。歌から、舞台から学ぶことです。本当にそういう状態になって、体が解けて、それで音がストレートに体に入ってくるような状態になることです。
よい映画を見たら、街で枯葉のがさがさという音もいつもより心にしみるでしょう。失恋したら、もっと心に聞こえてくるでしょう。そういう状況が歌の世界で、自分が表現するときに必要なわけです。
体温が伝わらない。心が熱いのも寒いのも伝わっていない。カチカチの体でカチカチの心でここにきてみて、「二人の」では、スタートできないわけです。
心と体を解放するのは、とても難しいことです。ただ、人間である限りロボットのように生きていなければ、それはどこかでやれているはずなわけです。それを素直に認めて、その瞬間を取り出すイメージでつくっていかないといけません。さらに体のなかに音楽がうごめいていない以上、歌にはなっていかないです。歩いていても「サントワマミー」がずっと流れている、電車のなかでも流れている。そういう状態で、自分の歌をどう取り出すかということです。
1人の舞台ですから、1人舞台をやっているようなヴォーカリストや、役者さんを見て、勉強してください。彼らが絶対もっているのは、キレ、迫力です。何をと問うまえにそれを問わせる力です。そういうのがないと伝わらないです。それは必要です。歌のなかでやらないといけないわけです。
「恋は終わったのね」だけでは何にも聞こえてこないです。表現というものに思いが入っていない。読み込みも足りません。男性が女性の気持ちを歌います。歌は性別さえ超えるのです。このストーリーを自分に置き換えたり、こういう話がありましたと示すのでもよいのです。自分のなかでイメージをもって、それを与えようとしないと、お客さんのイマジネーションには働きません。そこは練り込みだと思うのです。
最初は体も動かないと思います。いくら歌おうとしても、無理につけようとしたら、いかにも、とってつけたみたいになります。たった3分間ですから、無駄があってはいけないわけです。手の動きの無駄もいけないわけです。ことばなら、なおさらです。一つのことばの無駄もいけないわけです。
それをつきつめて、しっかりと表現しないといけません。
それを外から考えていてはしかたないわけで、自分の心がそうなって歌がこうなったときにどうやるのかというようなところです。そうしたら自分の息と体が自分の寸法に合ってないといけません。その上で映像を見て、鏡を見てちょっとうるさすぎるとか、もっと単純に何にもやらないで歌った方がこの歌に関してはよいとか、いろんな判断ができてくるわけです。
サビのところは、変化、構成に欠けています。構成というのがあります。それは声が使えるとかどうこうということではなくて、「楽しい夢のようなあの頃」に、そういうふうにおとしていかないといけません。「楽しい」というのに、まったくつまらなそうにやっていては、のど自慢の人よりもよくありません。
「楽しい」に対してさらに「夢のような」ときて、「あのころ」ともってこないといけない。そういうものは音楽だから許されるということではなく、基本的に歌のなかでことばで、音色で、音で表現するのです。それも全部だめだったら、役者さんみたいに振り付けで表現してもよいです。日本ではそれでもってしまうので、いろいろとやってみるのはよいと思います。ただ、中途半端にやっただけではよくありません。
何かつけ加えるとか、何か変えるということは、その絶対的な理由を提示し、それを納得させないとおかしくなります。普通の人が普通で歌っているところに何かやっても、普通でみたらおかしいわけです。そうしたらそれをやらないといけない必然性を、納得させないといけません。そこまでの表現に仕上げます。そうするともっと技術が必要、もっと思いをどう伝えるかという自分なりの切り口が必要でしょう。
リズム、音、ことばというのが動いていないような気がします。歌として何となくまとまっている人は多いのですが、それは、つまらないことです。楽譜の音が置き換えられているだけの小ギレイなのはよくありません。くさい世界に入って、それをくさくなくしっかりと示せればよいと思うのです。
現代ふうに示せとか、アレンジを変えろということではなく、自分をこの歌で置き換えないといけないのです。この歌を男性が歌うときにこんなことには入らなくとも、それを自分のことばにしたらどうなるのか、イメージなり、自分のものを取り出します。そうしたら新しいものが出てくるはずです。それが一つの舞台の力、表現の力だと思うのです。
もっと生身の人間で出ていって欲しい。動きがとれないで歌っているような状況で、自分がどうだったのかわからないでしょうが、他の人たちを見たらこういうステージでは、ステージになるという一線があると思えばよいです。
だからステージで、もっと自由に楽しんで欲しい。その覚悟は必要だと思います。ここに立ったら普通とは違うのだという、ある意味での覚悟です。人に対して何か与えないといけない、放出しないといけない、表現しないといけない。
あの人でもここに出てくるのにバラの花をさしてきたり、金ピカのものをまいてきたりしています。舞台なわけなのですから、少しでも、客に伝えようとする感覚というのは大切です。小道具を使えということではなく、それを歌のなかでたたきつける部分が必要です。たとえばこういう歌なんていうのは、どこかのところで盛り上がり、どこかで地を出さないことには、きれいに歌われて終わってしまうわけです。「サントワマミー」というタイトルの曲だったというぐらいしか残らないです。
そこにあなた自身を登場させないといけません。あなた自身がこの歌への思い入れ、歌への思い入れとか、日頃のうっぷんでも何でもよいです。何か伝えたいということをこの歌を使ってやっていけばよいわけです。常に自分を主体的に考えてください。そうでないと本当にちんたらと、してしまいます。
緊張感、テンション。人前に馴れていないとか、あがってしまうという緊張感ではなくて、「自分がそこに出たら何ができるのだろうな。」「もっと練習と違うことが何か出てくるのではないかな」とか、「おもしろいことできるのではないかな」とそういうことを楽しんで欲しいものです。
それを楽しむときに歌詞が不安だとか、まだ完成してこなかったという思いがあれば、勢いは弱まります。絶対的な自信をもって出ても、抜けてしまったりするわけです。だからそういう意味では経験を積んで欲しい。どんな準備してもそれで充分ということは絶対にないのです。
もう練り込めるまで練り込んで、ここ以上の表現できないというところで、ここでやってみたら、実際は半分も出せなかったとか、あるいはまったく思ったようには出てこなかったけれど、何か違うものが出てきたとかを経験してください。
ここまでが一つの段階で、ここでやっていることが次の段階です。それからやり終わったあとに来月のステージに対して何をやっていくかが大切です。課題曲の古さを楽しんでこなせるぐらいの応用力が欲しいと思います。
「これどう考えても歌にならないな、じゃあどうするか」。頭を使って、体を使って、表現というのをそのときに考えて欲しいのです。そうしたら「私とまったく違うやり方で、あいつすごいことをやったな」と、もう少しお互いが勉強になります。
今日は無難すぎてよくありません。いかにも歌という歌らしすぎているような感じがします。セリフとか役でやらせる分には、もっと大きな声を出してとか、勢いをつけてとか、前に出てとかとやればよいのですが、歌でやるとなると、難しいのです。すぐに表現が引っ込んでしまいます。きれいに歌おうとか、失敗せぬように安全に冒険しないようにしようと働いて守ってしまうのです。守るのはまだまだ早いです。守ってしまったら進歩しません。
あとは自分の表現と、アーティストのしぜんに動く体の違いみたいなものを、勉強してください。表情もつかない人は、ずっとつかないまま、3年ぐらいたってしまいます。発声練習やったらつくというものではありません。だから伝えることを考えなくてはつかないと思います。自分で靴を履いてきたり、おしゃれしてくるのもよいでしょう。そればかりやれということではないのですが、伝えるということを本当に考えたときに、自分の爪先から頭まで考えるでしょう。全部を含めて表現です。
私が見ているのはその人のなかでの伸びです。だからどんなに優秀で入ってきても、出ていくときにそのときと同じだったら、まったく、ここが生かされていないばかりか、生かす力がないということで将来もない。時間もお金も無駄、ややもするとそういう人たちは多いようです。
特にここに来るまでにプロ活動をやってきた人とか、劇団にいてキャリアを積んできた人は注意してください。年齢も経験も違う人の多い、ここで仮に少しはできていると思っても、それは、あたりまえのことです。誰でも入れるということは、どんな人でもいるアマチュア集団であるわけです。それが自由なのです。
だから基準を自分からずらさないでください。去年の自分より伸びているということが最低の条件です。それがすぐに表に出てこなくてもよいのです。たとえばまったく歌えなくなり、どんどん下手になっていっても、耳だけは肥えてきたおかげで体だけは変わってくればよい。本当はそんな一朝一夕に効果が出ることの方が疑わしいのです。そちらの方に目的がいっているだけです。
大切なのは本物になるプロセスの方です。2年間など、あっという間に過ぎてしまうのです。その先に出ていくときに、もし2年で出ていくということであれば、やはり出ていくときに一番、馬力がついていて欲しいものです。半年とか1年ぐらいでピークを迎えて、最初、がんばっているなと思っても、結局ここで要求されるレベルに到達しません。たとえばアテンダンスシートの提出とか、一流アーティストの鑑賞などは強制しても何ともならないわけです。
だめになっていく人というのは、だめになっていくように動いています。「あいつも見ないから、私も見ないや」と結局、他の人のレベルに甘んじ、他人がやらないならやらなくてもよいと思う。今までのあなた方の学校とかでは、それでよかったと思うのです。出さないと先生がよい点数をあげませんよといわれて出す。ここでは、出す人はすごい量を出しています。そういうことをいちいちいってもいわれないとやらない人にはしかたがないから、会報で一部伝えたりしています。
結局、2年間でどうやって学べるかということを学んでもらいたいのです。2年ぐらいのことで声が本当に使えるようになるとか、歌がプロ並みに世界に通用するかとか、そんなことができたら奇跡です。
大切なことというのは、2年のなかで自分がこれから2年たったあとにやらないといけない課題を完全に明確にして、その方法をしっかりと知ることです。このことは私はどこよりもここで与えていると思っています。ところがそれを吸収できるレベルまで、用意ができていないのです。だからその2年のことが3年、4年かかっても、よいと思っています。
いつもいっているのですが、やはり何もないときに、何もないところに価値を自分で見い出して自分でつけていく。それが人間の力、アーティストの本当の力なのです。ここには確かにいろんな材料はあるけれど、それをどう与えられるのかと待っていてもよくありません。自分で今までに他の人が使いこなせなかったぐらいにまで、その材料をどうやって使えばよいのかを徹底して考えるようにしてください。それができた人だけが、そのノウハウをものにできるのです。自分でノウハウをつくっていけるということです。
それは大変なことなのですが、もし10年のことを2年でやりたいとしたら、その10年分のことを引き受けるのはあたりまえのことでしょう。早くいれたければそれだけがんばるということです。
よほどの天才であっても、結局努力することが天才的にできるだけであって、誰でもやれた人はそれだけの理由をもっています。だから成果が出ないとかうまくいかないと考える前に、その理由を自分がもったかどうかを問うてください。
たとえばうちの研究所のなかで一番トレーニングしていると胸を張っていえるのだったら、その結果が2年後に出ないはずがありません。出ないというのは練習していない、あるいは努力なんて口に出す方が、おかしいぐらいしかやっていないということです。よくそういう人は入ってきて2、3ヵ月たつと「効果がまったく出ないのです」というのですが、どこまでやったかということです。
それは最初からいっているとおり、トレーニングをやって効果が出るという方法でやる以上、トレーニングをやらない限り効果が出ないわけです。これを忘れてしまうのです。ここに通って効果が出てくるのは、そのためです。トレーニングというのは最初にいったとおり、やったらやった分だけ効果が出るし変わっていくわけです。そのためにやるのですから。ということは逆にいうとやらなければ何も変わらないどころか、年をとっていくにつれ体が弱くなる、ステージに出たときにパワーがなくなる。そんなところでちんたら歌っていてもだめでしょう。それなら10代の方が元気よいだけ、ましです。そこをしっかりと考えてみてください。
レッスンや教材を使って、自分のメニューを組み立ててください。1回目の発表会は、前に出てライトを浴びてここに馴れてもらうぐらいのこととなってしまうのですが、音声表現を問うています。最初はフリートークです。何でもよいから話すのです。
常に頭に入れておくことは、何か迷ったらとにかく音声を表現してライブをする場だと思ってください。自分がどうすればよいかと迷ったら、そのことに対して評価を与えている場と考えてください。だからいくら作文力がよくて、原稿がはなまるがつくようなものであっても、ここで読んだときに棒読みだったら、まったく評価されないということなのです。
ライブに出ているヴォーカリストでも、そんなことをやらせてみたら大半よくありません。それも含めて音声です。こうやって一つひとつ語りかけることも表現なわけです。声を出せれば歌えるようになると思って、ここに高い音を出しにとか、きれいな声になるようにとか、音がそろうことを学びにきているのかもしれません。しかし、そんなことではないわけです。
それ以上のことをやろうとしたら、3分間のなかにその人の表情や心が一つひとつ歌詞で動くようになるわけです。それだけの魅力的な柔軟な表情を、顔の変化からできるかということなのです。そうではないと音色もつかないわけです。そこに表現など出てこないわけです。カラオケでものっぺりした顔なりにもいろんな表現をつけています。そんなものとはまったく、質が違うわけです。だからそういうことを少しずつでもよいから学んでいくことです。
2回目になると声優用の本から自分の課題を選びます。詩がよいからといって古いものを朗々とそのまま読んでいてもしかたないわけです。それを自分で解釈するのです。自分で置き換えるが、ことばを変えるわけにはいかない。そのことばのなかに今の自分の思いなり、イマジネーションをふくらまして、聞いている人がイマジネーションを起こせるようにする。
要はその人がやっている、生身の人間が伝わる。あるいは表現が生き生きして伝わってくる。おもしろかった、拍手したいな、お金払いたいな、もう一度きたいなとまで思わせることができるかどうかです。問われるのはそういうことです。
音程とかリズムより大切なものがたくさんあるということです。そして、3回目ぐらいから歌が入ってきます。それも表現しようとしていないことでは困ります。どんどんと他の要素が入ってくるに従って、自分がないとごまかされていきます。スタンダード曲になったり、マイクが入ってきたり、ピアニストがついてくると曲は、ピアニストだけでももちます。誰が歌っていてもそうなってしまうとしたらヴォーカリストのやっていることはよい曲の邪魔をしているわけです。
だから考え方としては、自分が一人そこにいて1時間であろうが、90分であろうが場をもたせられる。その上にそれを伝えるために、ことばがあって、さらに音がついていたらもっと純粋度が高まる。そして、抽象し、象徴し、普遍化する。外国人が聞いていてもよいと思うようになり、さらに効果を上げるためにピアノがついたり、バンドがついたりするのです。サウンド志向とかいってもバンドがついて、そのなかで声を機械的に使えばよいということでは、声が死ぬ、つまりヴォーカリスト不在となるのです。
生身の人間で、自分の体もまだまったく使えていない。息も死んでいる。心も開いていない。そこのところからそれを解放していくことです。単に解放しても何もできないから、ぎっしりと詰めてそれを表現していくのですから、本当に大変な仕事です。私が大変なのではなくて、皆さんが大変なわけです。
2年たったらやはりそういう魅力的な表情になって欲しいし、こいつ何かやりそうだなと出てくる前にみんなに思わせるぐらいの気迫とか、切迫感をもっているようになることです。それをやるためには今の表情ではまだまだよくありません。顔がありません。目に力がありません。そこにもっと気力とか、時間と空間を自分が動かしていくのだということで捉えていかないといけないのです。
とにかくたくさん出てみてください。あまり決めつけずに、一つのことからたくさんのことを気づいていくようにしてください。今までの学校とか友達同志でやっていたバンドとか、カルチャー教室、スクールとは根本的に違うと思います。皆さん自身が中心にならないといけません。誰かが与えてくれるのではなくて、あなたが何もないところからとっていくということです。材料の多さに惑わされないでください。
やる目的というのは一つです。「つめたい」といって、そこでフレーズつけた。そのときに自分のがどうだったかよくわからなくとも、他の人のはつまらないと思ったはずです。それがつまらなくならないことをやるのです。そこまでいくのには、2年間でも大変なことです。そんなの簡単にできる、もっとうまく歌えると思って入ってきますが、基本とはそういうものです。その差というのは、本当に歌詞の1フレーズで明らかにわかるわけです。
いろいろなことをやるのですが、結局、自分が覚悟を決めるかどうかなのです。ものになるか、どうかという線でいうのなら、ここで身についた人たちと同じく、時間を何よりも大切にして欲しいということです。お金と時間を自分の能力に投資しないとよくありません。コンサートに行くこともVYRをレンタルして、聞きまくることも借りまくってでも、時間と、それを手に入れるためのお金を投資する。他人の2倍、3倍かけて、10倍とるという世界です。何か一つのことをものにした人たちというのは誰でもそうです。
あなたたちが、時間がない、金がないといって動かないところを、やれた人は頭を使い、体を使い、やりとげたのです。知って欲しいのは、そういう人たちの誰もが最初にお金などもっていたわけではないということです。
そういうところから、気持ちや足が動かなくなって、いくのをやめようかとか迷ってきたら、そのときに踏み出せる勇気をもって欲しいです。ここに入るのは勇気があったと思うのです。そこまでして入ったのだから、そのままの勢いで2年くらいつっ走れないものでしょうか。たかだか3ヵ月、半年ぐらいたって、迷ってきたり、伸びないと思ったりするのは、自分がやっていないからです。
身についた人は必ずそういうのを何度となく跳ね返してきているのです。スムーズに身についた人を、私はまだ知らないのです。身についた人というのは、必ずそれだけの苦労しています。それが表情になったり、歌のなかの音色になったり、ステージの判断を正します。
その人がここに立っただけで何かを思わせる一つの力になっているわけです。間違って無意味な苦労する必要はないのです。だから正す場が必要なのです。そんなに簡単にうまくいくものではありません。それを正しく使えるようになっていくことが大切です。今は、これを読める範囲でよいから読んでおいてください。いつかまた、読んでください。