一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ライブ実習コメント 33612字 1084

 

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【特別ライブ実習36】

 

 出演された方、見にいらした方、お疲れさまでした。今、各評があがってきていますが、それぞれにいろんな人のいろんなところから、学んでいるみたいです。好みもそれぞれ違って誰の曲がよかったとかいうのも参考になります。 

しかし、客観的に見て、集中力が3分間、厳しい目で見たらもっていません。最後まで集中力をもたせた曲は2曲ありました。それ以外は歌の見せ方とか、その人なりのスタイルがあるから、それにはまっているのはそれなりに見られますが、すきのなさというか、横から突かれてしまうと飛んでしまうくらい弱いという感じがします。

 

 これは日本人の感覚としてではなくて、ステージでの最低条件です。歌っているときに竹刀で突いたら、飛んでいきそうだとか、まだまだ、すきがあって入り込めるというのが見えています。だからもっと表現を凝縮して前に出さないといけません。それはリラックスしているとか、がんばって歌っているとか、そういうことではなく、当然リラックスしていても、にっこりしていても、振りつけて音楽のなかで表現していても、やはり絶対もっていないといけないことが、存在という表現です。

 

 1コーラスはもっても2コーラス、まして2曲になると難しいと思いました。1曲では、もたせられるというレベルでしたが、次の曲に興味をつなぐ力がない。割り当てた曲数で充分というのでは心もとない。1曲目は自分のソロコンサートのプレゼンテータ-でなくてはならないはずです。しかし、1コーラスのよいところだけをとれば、少しは見られるというところは出ました。ただ、2コーラスになってしまうと、この舞台だけで見た結果では、気が前に出ていない。やはり全体的にいうと弱いと思います。それ以外に曲がよかったり、その曲そのものをうまく表現したというところの評価というのはあるとは、思います。それは私が感じたほかにもいろんな人たちがそれぞれ書いてきているので、一度まとめてみようと思います。

 

 

 「昴」から、このままいけるかと思ったのですが、やはり見えてしまうもので、「きっと楽屋で少したるんだな」と。その人がステージに出るところにテンションがどのぐらい高まっているかというので、そこにすきがないとわかる。みんな一所懸命やっていたでしょう。なめて出てきたとか、慢心して出てきた人という人は1人もいなかったでしょう。しかし、本当に集約されていたのかということでいうと「もっと、やれた」と思う。そう思わせる何かがあるのがよくないのです。

 

 今までもそういったことでの集中力とか、あるいはテンションを高めることが足らない人、それから技術とか声があっても、それがステージになったときに目減りしてしまう人がたくさんいました。たとえば、今かけたクリスマスの曲、クイーンも、とことん前に出ています。すごい集中力で前に出て、そこに一分のすきがないのでしょう。それをどうすればよいのかが課題です。

 

 これらはヴォイストレーニングとか、歌のなかだけでかたづけることが、難しいことです。その人のもっと精神的なバックボーンに通じるからです。だから歌に命をかけ、神がかり的に歌っているような人というのは、なんやかんや技術を超えて納得させてしまうのです。それがよいか悪いか、好き嫌いは別としても、思い入れが必要です。そういうふうに体が働く、そういうふうに声が出たら最後までもたせてしまうテンションは、人間の力であって、そうではないですから、3分どころか30分ぐらいもってしまうところがあります。 

 

 

どこかで掘り下げて出すことをメインにした方がよいような気がします。

 歌の表現をメインにしようとか、歌のなかで何か伝えようとかということは、今までよりもつきつめて考えていたのでしょう。しかし、それなりのテンションでできたたけで、何か決定的なものが足らないのです。出ないものを出せといっているのではなくて、もっと出しようがあったという気がします。それが単に経験不足であれば、ああいうステージをこういう違う雰囲気のなかで重ねていけばよいのですが、歌人としての業が薄まってはならないでしょう。

 

 今回、私は口をはさまなかったのですが、選曲も無難に終わり、こういう結果でよかったのかというのは、あとで考えて、プログラムをもう一回みて、そこに書いてあることと合わせてみてみると、わからないのです。とりつかれているみたいに歌っていたら、それはひきつけます。その状態というのが必要です。そこから本当は解放された状態というのは必要です。表現の域では、有無もいわさずたたきつけるというようなところです。

 

 ステージは楽しんでもらったらよいのですが、爆弾を落とすみたいなことも、これから、一つの世界をつくるのなら、こいつは危ないという予感が欲しいのです。何とか今はギリギリでハンドルを切ってまっすぐいっているのだろうけれど、野放しにしておくと、また時速を落としてマイペースでやってしまうような気がします。

マイペースのテンションなり、集中力がハイレベルなところの表現そのものが中途半端です。それがあたりまえにできるところから、欠けてしまうと、こういう場以外でまわりが状況を整えてくれたときには、何となくできているような形になるので勘違いをしてしまいます。

1人になったり、ちょっと間があいたりすると、すぐに普通の人と変わらなくなってしまうのです。それをどうやってパワーアップさせ続ければよいのかということです。

 

 

ここで見ていると1年半とか2年ぐらいのときはよいでしょう。可能性も匂う。しかし、そのあとにどうしてそれが組み込まれて、もっと確実に出せるようになっていかないのでしょうか。自己満足と自己容認、つまりは志がないからです。

 みんなそういう時期はあるのです。練習もたくさんきていて、そういう感覚になって、それを出せば少しは歌が聞こえてくるときが。そして、それはそれ以外何にも出せないよというときだからよいのです。ところがそこから少しいろんなことを覚えはじめると、選曲から何かおかしくなってくる。1つしか勝負できないものがあったら、その延長上に2つ、3つとつくっていけばよいのに、そこと違うところにもっていくような気がします。

 

 自分で雰囲気の違うところになるように、照明に頼らず、音響に頼らず、歌い手の生のところで伝えるという機会として、ここに常にオンしていくことです。何となく歌を消費して今度は歌に追いかけられて、こなすだけで精一杯になってしまうようなら、つまらないでしょう。月に2回もやらせてみたら、また馴れ合いになってくるような雰囲気もあります。楽しんでやるのは本当によいし、そうやって欲しいと思います。プレッシャーと圧迫感のなかでやるよりは、自分の世界をそこに展開して欲しいのですが、ただ、やはり根本的なものが欠けている気がするのです。ここからの広がり、ここで何を見ているのかというビジョン、星が見えません。

 

 それが欠けていない曲は2曲ありました。あとの曲に関しては、しっかりとまとまっていたし、失敗したとか失敗していないは別に、そんなことを感じさせなかったのでよいわけです。というより何か失敗したものの方がよかった。それも感じさせない力があったところが、開き直ったのでしょうが。テンションが高まって失敗してしまった方がもってしまって、無難に最後までいえているときに表現としてもたなくなるという矛盾が今はあると思うのです。そういう失敗は失敗ではないのです。ここの場でいうのであれば、無難に歌えた方が失敗なわけです。成功した曲というのは何か失敗しているような曲の方が多いです。最後に一番テンションが高くなって終わり切れた曲は少ししかありません。

 

 

 その他のものというのは、1コーラス目がまとまって、2コーラス目で流れています。本当は逆でないといけません。両方高く、安定していないといけないのですが、1つ目を土台に、2つ目のところでしめくくらないとよくありません。そういうことでいうと、まだ力がない。技術とか歌ではなく、力です。

 自分の引き受けた歌に対して舞台になったときに決めることです。たとえばボーリングは10フレーム目で、決まるわけです。最後で30点入れられます。10フレームになったときに20点をとりにいくのでは、甘いのです。30をとりにいって、20が最低です。

 

 1から10までそのテンションを保つことです。力を入れたらよくありませんが、集中力でもつ。ここまできたからなと思ったら、絶対にはずれるわけです。作品とステージへの畏敬が足りません。息を殺していくような形で、つめていかないといけません。それで力を入れてはいけないというような均等のバランスのなかで10フレーム、1つも落とさないということです。

 

 だからといってそう考えて歌っても、どうにもならないでしょうから覚えさせてきた体を全開する。何か超自然的な力が働くとか、雷をうけて歌うとか、滝にうたれて歌ってくるとか、これは研究所のなかでの問題を越えています。そこまでの問題なら勝田先生やヨガの先生を入れて何とか解決をはかりますが、本当のステージは他人の教えでどうこうなることではない。もっと内的なモチベートが3分間のなかで、いつも沸騰し、燃えたぎっていないといけません。時間の感覚とか動き方が、1分目で10だったら、次の2分目で20ぐらいになって、3分目で30入ってまだ気力とか、体があるぞというようなところが、観客としては見たいわけです。自分の曲ですから歌えるのはあたりまえのことです。そういう点から、課題がまだまだあるような気がします。 

 

 

おもしろかったことは、今後もやってみればよいと思います。私がいなくてもできたということは、今後も私がいなくてもできるでしょうから、構成をかわるがわるたててもよいでしょう。ただ、そのときにその基準を甘くしてしまうならやらない方がましです。半年に1回とか、年に1回というとがんばってくるのですが、それは1ヵ月に1回どころか、1週間に1回、1日に1回やると、それにテンションが耐えられないから、ここではやれないわけです。残念なことです。

 ただ、テンションを落ちたのは飛ばして、テンションのある人でもつのだったら、それをどんどん経験させたいと思います。そういう経験の場になるのであれば、いろいろやってもらってよいと思います。それが身を結ぶ場合もあります。

 

 観客は耳があってないみたいなところがあるので、芸は育っても芸術にならない。友達だからとか、あの人は好感もてるけど、あいつは嫌いだとか、そんなところで見ていると、育たない。歌とかトレーニングを考えたときに、私がこなくてもその場がどんなに落ちたって、人前に出して恥ずかしくないものにするには、全てを自分が引き受けることです。

 納得させるのがあたりまえです。納得できたからすごいということではないわけです。半分は技術とか声のことがあるにしろ、もっと違う部分だと思います。出た人よりも、技術とか声がなくても、もっとステージで大きく見せている人たち、テンションが高いだけで見せている人たちはいるわけです。

 

テンションや心構えまで才能とはいいたくありません。そこは出せないと損なことだと思います。それがないとなかなか人前で続かないのです。へたの横好きで人にあきれられても、10年でものになる人もいます。ステージの立ち振る舞いとかいう問題ではなく、何か出せる方法はないかと思っています。

 早くうまくいった人は逆に1年たつ間に、そのテンションが落ちるのです。ここを出ていってやっている人たちも、何か違ってくるのです。それはお客に恵まれていないからです。だからそれを自分で、判断する力を宿さないといけません。

 

 

 プロとアマチュアの違いというのは、プロはプロの基準をもっているということです。客がどんなに受けていても、どんなにうまいといっても、自分ではまったくだめだったといえる基準をもっているわけです。自分の基準に対して、満足いくステージをやっていくのがプロです。客と張り合っているのではないのです。客は自分たちの理解を超えたものに心を捉えられ、次にも足を運ぶのです。それは他の人がどうこうというのではなくて、自分のなかでもっていることです。

 

 衣服だけでなく身を剥いでいくことです。人柄はよいとか、あの人は親切にしてくれたとか、おごってくれたとか、だからよいというのでは、好々じいです。全部抜いて、あいつは親の敵だ、このまえ私の家に火をつけやがった。でも歌はすごい、その姿勢には頭が下がる。そういうところで問うていったら、もう少しクリアになってくるような気がするのです。 

 

だからすごいのは、人間的に嫌いだし、その歌い方ゆるせないし、この声の出し方も気にいらないけれど、全て納得させられてしまう。それは歌がうまいとかどうこうではなく、その人の力が勝ってしまうのです。客をのんでしまう。これでもかこれでもかとこられるから、快感なのです。

そのために音楽があるのだし、リズムや音がついているわけだからです。人は、強いものにひかれます。自分を伸ばしたければ、好き嫌いで判断しないことです。 

だからそこにのって、いける人は、伸びていくと思うのです。その一体感みたいなものをドラムやベースがついたりすると、出てくる場合もあります。しかし、本当はピアノ一つぐらいで出して欲しいような気がします。

 

 

 

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【ライブ実習③3611】

 

 

 ライブ実習をこの形にして、もう3年くらいになります。だいたいいうことも似通っています。レッスンで時間がとれなくていえなかったことなどは、特別レッスンなどでやります。この前は、特別で「表現」や「語り」もやりました。立川談志藤山寛美などを例に、歌い手がそこまでやらなければいけないというところで上映しました。

 

東京で暮らしていると、体と本能的なものが壊れていきやすいです。

ベーシックなものを習得していなければ、その感覚が出せないのです。

歌い手というのは、つくりあげの上につくりあげている場合が多いので、そういうものを直すのに2年はかかるような気がします。昔はもっと単純なことだと思っていましたが、そんなに単純に直るものでもないと考えています。正しい感覚が入らないと直らないのです。

 

 ③のクラスは、そんなにのんびりしてもいられません。いつまでも「これからです」とばかりはいっていられないのです。何でだめなのかを気づくのに、時間がかかりすぎているような気がします。

 やったことでの間違いはよいと思うのですが、イメージの時点での間違えというのは正しておけなければいけません。そこは自分で自由にできるわけですから、どんなに声が出ようが、体が使えようが、最初から間違えてはなりません。

 

 

 私なりの基準で今までも見てきて、いつも自問自答しています。その点もその場に応じて、いろいろと考えなければいけないと思います。 

でも、その基準を壊してしまったら、だめでしょう。カラオケ大会でもうまい人はいくらでもいますが、おもしろいとは思わないでしょう。そこの差を、しっかりとつかんでおかないといけないような気がします。

 欠けているものをいっておきます。まず、バネ、リズム次に、躍動感です。それから野生味。あまり人工的に整合されたものというのは、体を作っている状態では、やらなくてもよいと思います。 

 

それから新鮮味。全員がだめだということではありません。うまくできた人もいます。あとは、キレ。これは何度もいっているので、意識的に出している人もいますが、意識的に出すのと、違う意味でのキレが必要です。

 もう一つは気持ちの問題です。やさしさ、コクみたいなものです。歌はそれを残していく作業が歌のようなものなのです。歌い出したら終わりというのではしかたないです。 

 

それからこれは一番難しいのですが、瞬間を取り出すということです。そのために止めるという感覚が必要だと思います。大人の歌として歌う必要があることと、甘えの追放です。

 

 

ここができてからは、いつもライブでもつかどうかということで見てます。プロセスということで、これは甘えかもしれないですが、あとでよくなればよいだろうというのも見ています。 

ただ、体よりもその前に気力がないといけません。ことばや音の残し方への意識やイメージが足りないような気がします。 

 

「目をとじて」のところで1時間どころか5時間くらいレッスンができそうです。それをやらないのは5時間もやったからといって、できるようではないからです。そこのところはレッスンでも限度があると思います。

 今日は今日なりにおもしろいところもありました。しかし、ライブにしてみたら、ちっともおもしろくないし、気持ちよくない、楽しくない、本来は、うまいけどすごくないというくらいになるとよいのですが。 

そういう意味で好感がもてないのです。客観的な目をなくしてはいけないと思います。

 

 ただ、好感はもてないけど、嫌気がさすことはないということで、それが唯一ここが続いている理由です。嫌気がしないというのは、難しいことです。私は日本のライブハウスのどこへ行っても嫌気がします。業界がらみのところの宴会レベルになると、歌は何の力もない人が何とか60分もたせて集金と集客を行うだけのものとして使われています。

 

 

 そういうものとは分けていかなくてはとよくありません。嫌気がしないのを、歌というよりも表現ということにおいては、嫌気をさせてくれてもよいのです。本当は歌をやるということですが、最近は表現ということをいってます。好感はもたれなくても、そこまでの何らかの表現を問うていたら、結果が出てくるのです。 

その答えというのは誰かが出すのではなく、そういう客がいればよいことです。何も出ないよりはよいわけです。ただ、出てはいけない嫌気というのもあります。カラオケはうまい分、一曲でもう聞けないのです。最初から見えてしまうのです。「こいつ発声法を習っているな」とか。

 

 「歌の先生について勉強している」とかわかって、そこばかりが目立って見えてくるのです。その人たちというのは本職があって、あくまで歌は余技でやっているというのです。どんなに歌で一所懸命にやっていても、目つきとか平和そうな顔でわかってしまうのです。歌い手が全て、歌にかけろとは思わないのですが、何かステージで役割を分担しているようなところがあって、歌と一つになっていません。何が逃げ道となっているのか、MCに言い訳が見えてしまいます。

 

 人間、誰でも長年やっていると、そういう体つきや顔つきになってくるものです。それはそれでよいのですが、何となくあとを追って急いでいるはずなのに、もう年をとって、昔のものを追っているという感じがします。そして、まだ人のものを追っている。

 北島三郎さんのように歌ってどこまで近づけるかというようなことをしても、到底なれっこないのです。その点、ここを、肯定的に考えれば、ステージもっているのは、まだ始まっていないからという感じがするのです。可能性ではなくまったくの未知数としてあるようです。ただ、もしかしたらずっと始まらないかもしれないという気もします。それはこことか研究所とかではなく、皆さんがということです。もっと深刻な問題です。

 

 

 ただの人に見えるというのは、よいことなのです。それをオリジナルに戻ってきていることです。業界は、皆、同じ声で、同じ歌い方です。それからはずすだけでも、1年はめいっぱいかかります。それだけでは体が使えなくなってきます。別の可能性が出てきて、それでいける人はよいのです。いける人をマネする人がだめになっていくのです。そのヴォーカリストの感覚部分を見ていくのです。

 

 ただの人というのは、今の皆さんにすぎないのです。これから何になるのか別にしても、生身の人間であり、そこから出てくる声がある程度、肉声になっている人はここからスタートできるという気がします。

 ここが良心的なところはあれこれ手を入れないということです。それに不平、不満をもつ人はいると思いますが、相手が考えないうちは口を出しません。 

 

でも、それはその個人がいつか気がつくだろうと時間をかけて、尊重していかなくてはいけないと思っています。ただ、その結果わからないままに終ってしまう場合もあって、そのときに迷うかもしれないのですが、よく考えてみればいじれないということは才能だと思うのです。いくらこちらがこうしたいと思っていても、その人が断固としてそうやっているという部分がありますので、それが出てきたらいじってもよいと思います。

 

 

今、私が手を入れていきますと、自分の好みに合わせてしまいます。歌の先生方は、それで失敗しました。すると、本当に1年くらいですぐにうまくはなります。いかにもそれっぽくにはなります。その人じゃなくて、その劇団とかオペラとかのなかだったらよいわけです。

そのなかでやるという役割があれば、その舞台が準備されていきますから、1人でその舞台を作ろうとなると、その部分というのは弱さになってきます。そこでよほど名前が通っていたら別です。

だから、ここでの基準というのは、繰り返しになりますが、体の底が見えていること、背骨が見えていること、声に肉声が息づいているということです。そしてよい歌い手の条件だと思います。

 

 そこの腰の部分でやらない限りはだめだと思います。案外と、強くバーンと出しているときにはできている人もいます。強さということでいうと、ハリがあります。難しいのは引いたときに前に出るということです。歌の表現ですからそこから小さく落として、まとめます。すると、そのときにことばがもたないのです。 

サビとか最後に出てくる長いフレーズはできるのですが、ことばの出だしのところなどは背骨とか息の底が見えなくなってしまうのです。それでは歌がバラバラになってあたふたしてしまいます。そこは心地よくないわけです。

 

それから止める点のこともいっています。歌ですから、グルーブがあって、動きもあります。ピアノの伴奏があって、リズムも、音の波を起こします。それにそっていないとベターッと歌っていても歌にはならないのです。それにどうぶつけていくかというところでその上の次元のことをやらなければいけません。

そうでなければ語りをやっていた方がよいわけです。どういうふうにそこに違う線をぶつけていくかという、セッションというのが、とれていないということです。

 

 

 できるだけレッスンで聞かせるようにしているのですが、それにも感覚がないと無理です。歌は絶対にピアノ通りに歌うことはないのです。それでは小学生の合唱団と一緒です。ただ、日本ではそれを歌だと思っている人ばかりで、動かせなければ価値は出てこないことがわからないのです。

 

 動かすためには、どこかで止めなければいけません。伴奏もリズムも音の感覚も流れています。それにのって全部流れてしまっては、歌にはならないわけです。ですからベタベタしている歌というのはよくありません。音楽をやる上では、楽器でも同じだと思います。話でもベターとしていてはだめでしょう。人に聞かせようとしたらどこかで切れているのです。そこで間をあけるのです。

 

それから音楽の世界だから純粋な音の世界はつないで欲しいものです。声のなかでハスキーになるのは声の表情ですからよいのですが、その人のなかでにごってしまってはよくありません。だから発声のトレーニングが必要なのです。☆

 

 

 押しつけてのどを使ってしまうとベターッとなります。それの方が何とか音程もとろうとするととりやすいし、強くも出せます。しかし、結局、お客さんのことを考えてないということになります。観客不在のトレーニングも段階ですから、まず、始めは思いっきり自分のものを出すんだというのもよいでしょう。何も出ないよりは出した方がよいからです。ただ、人間の体も呼吸も出したら引く、出したら引くみたいなところで動いています。その動きを出すために、濁らないことが大切なのです。☆

 

 最近、人生や生き方のことなどいろんなことに広げて書いているのは、結局オリジナルを確立していくために必要なことがそこから出てくるからです。いろいろな歌い方とか、いろんな曲とかがあると思ってはいますが、どの選曲をみても絶対集約されたものをとってきていないという気がします。歌いたいものと歌えるものというのは、違うしはずです。

 

 ここの2年間、自分の好きな曲を好きなように歌ってよいのですが、ただ、それがこなせないのであれば、やはり自分のなかでそれを知っておく必要があります。その上で選んできたのであればよいのです。全世界ということから、ハイレベルで考えたら、歌にしろ曲にしろ歌い方にしろ勝負できるところというのは1つくらいです。あとのことでは勝負できないのです。勝負できるところだけで勝負する方向にもっていかないと絞れません。何もかもできそうな人ほど何にもできません。その見分けが必要な気がします。

 

 

 いつもいっていますが、歌い手としてのベースをつかむことです。それは語り手とかしゃべりとはまた違います。歌い出しのはじめの一音目からはずれていたりするのですが、何が起ころうとすぐにペースをつかむことです。

 

 よくスポーツにたとえて話しますが、よいゲームはこっちのペースと相手のペースがいったりきたりします。試合のなかで「今は自分のペース」とわかるわけです。それが何か一つのきっかけで変わったりします。それをはやく捉えてというより、出てくるときから捉えておきます。3分間、ステージは出ている間中、もたせなくてはいけません。そしてしゃべることや表現から音楽のなかでペースをつかむということがどういうことなのかを知ることです。

 

相手に働いているという実感の上でそういうバランスをしっかりと整えるのは難しいことです。必しも自分がよい状態のときがよいものができているわけでもないし、しかし客が媚びるようにやってもだめだということです。 

自分でつかんでいて、半分相手に与えているような感覚の部分のペースを音の世界でやるとなると難しいものです。自分に入っていくだけではよくありません。

 

 

 簡単なのは突き放しておくことです。バーンと投げてしまって好きに料理してくれという感じでよいと思います。甘ったるくとか、べたついた感じというのを出さないことです。それでは、うまくいっても1曲でもう充分ということになってしまいます。やはり、作品のなかで完結していて、一つの作品として提示されているものが、本人からある意味では離れていることが大事だと思います。その前にそれを抱きしめあたためておかなければいけません。

 

 考えなくてはいけないのは、どうやったらこういうステージに爪痕を残せるのかということです。命をかけてやれとまではいわないですが、命を削ってやることです。この時間も私たちは死に近づいているわけです。今月も、ここに入ってくる人もやめる人もいます。そのときをどう味わうかということです。いつも次のステージがあると思ったらよくありません。そういう心とか気持ちのもちようが、とても大切だと思います。

 

 それは人に押しつけることではないのですが、そうなると一つのことばの捉え方や音の捉え方が変わってくるのです。シビアなものです。やることをやってないと、やはり結果として、人が集まらなくなってくるわけです。 

歌のことが好きという部分も一つ必要でしょう。そして、もう一つは、お客のことです。人に対して歌があるということです。

 

 

 もしプロということであれば、そこにきてくれている人のことを考えなくてはいけないということです。難しいのは、日本の場合、お客さんの要求というのが表面的に揃い過ぎているのです。「歌やステージというのはこういうことだ」みたいなことが作られています。でも、新しくないのは、アーティスティックなものではないのです。

 

 歌は肩書きとかレベルとか関係ないのです。音とかことばとかの気持ちを捉えてそれを出せればよいということです。そうしたら当人も気持ちよいでしょうし、当人が本当に気持ちよく出したものであれば、ある意味では受け取った方も伝わるでしょう。その1曲や2曲でおもしろくないとか、つまらないとかは思わないわけです。そういう意味でなく、ステージをもたせるために、音の世界があって、それに気持ちを込めているのです。

 

私が昔、ある有名な歌手のカンツォーネを聞いたとき、発声だけでやっていると思っていました。しかし、音を超えたところに気持ちがあって、それが日本人の気持ちと違うのでわからなかったのです。全ては、音楽的な構成に後打ちされているのです。だから当人の顔は悲しいとはなってはいないのに、その声を通じたところにそれを聞いた人間がそれを悲しいと感じて、ああこれが悲しいのだと伝わるのです。少しずつ、そういう聞き方ができるようになってきました。「甘い」というのでも、日本人がただ甘くと出すのとは違って、音のところの息のまぜ方とか何かのところで構成的に聞こえるのです。

 

 

 いつも二次元、三次元とかいっていますが、やはり次元を越える部分をもった感覚を出してこなければいけないわけです。奥行きの深さがプロの器です。 

 

スポーツをやっていた人は、始めて1年目のときの感覚が、わずか1、2年でも、そのときとの感覚とはまったく違うところで捉えているようになっていることを思い出してください。それは音楽や歌のなかでも同じくいえることです。感情は捉えなければいけないのですが、もっと音だから抽象化してよいと思うのです。

 

 私は、あまり役者っぽいとか芝居くさいのは好きではありません。

それが芸になっている人というのは、やはりジャンルを越えて、しぜんです。わざとらしさを感じないのです。その人の動きに芸が集約されているのです。それを音のなかに集約していかなければいけないと思います。ですから構成についてはもっと考えないとインターナショナルなレベルにはならないような気がします。

 

 

 もっと具体的にいうと、引いたとき、小さく歌ったとき、出だしのとき、それからサビのあとにきたときにも、その音をしっかりと腰で捉えられているかどうかです。これは難しいことです。腰がすわっていることです。 

そういう歌を聞くと口先で歌っていたり、そこで音色を作って歌っているのは、もう泳いでいるようにしか聞こえなくなります。一流といわれる人というのは、そういう条件を全部満たしています。もっともっと耳で聞いて体に落としていく必要があります。

 

 ことばの残し方、音の残し方は、とても難しいと思います。マニュアル通りにその音を踏んでいって、そこをことばでいえばよいのではなく、そこでいろんなものが生じてきて、その生じたものが全て正解になるように、歌い手がある点で捉えていなければならないからです。そこまで練り込んでおくとどう放しても歌になるのです。

 

ということは、歌い手のなかにリズムも音感も入っていて、体の動き、呼吸の動きが、もうそのリズムと音感を出しているところで捉えなければいけないのです。そのときに音をとろうとか、リズムを合わせようとしてしまうと、そこで遅れてしまうのです。それはスポーツと同じことです。

 

 

 3分間全部をもたせられなくとも、どこか、10秒、15秒のところのなかにもっともっと詰めていくことです。ただ、どこかで放しておかないとどんどんはまっていって、そこからぬけられなくなります。その辺は難しいところです。

 ですから、ある時期は芝居がかった感じになるのもしかたないと思います。できるだけ早く純粋に象徴化されたもので、しっかりと世界を作っていった方がよいでしょう。

それは、体の感覚、息の感覚、耳の感覚のところで捉えていたらできることだと思います。そこまでみて、初めてここのトレーニングの意味があるのではないかと思います。そうでないと歌にならない方向にどんどんといってしまうような気がします。

 

 カラオケの人はうまいです。でもそれまででしょう。その人を呼んでみて、10曲も歌うとなるとお客さんは集まらないでしょう。1、2曲聞いたらまあいいかという感じになると思います。ですから、それと違うところの要素を何でつけていくかということでしょう。2曲というのは一つの段階ですが、対比させられたら構成はもちます。6曲となるとまたいろいろと難しくなります。

 

 加えていうこともないのですが、もう気持ちの問題までいきました。何事も気持ちを込めるわけですが、作品となると、それをつっぱねて出したところに気持ちがこもっているかどうかです。 

それは気持ちを込めようとか考えるというより、より忠実にその音に対して気持ちを込めていたら歌ってそれが出るのです。

 

 

 

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【ステージ実習④「昴」3611】

 

 皆さんが自分の作品を含めて、このライブをどう感じたかということが全てです。表現や体や声の方に重きをおいていくと、どんどん音楽的な要素がなくなってしまいがちです。本当はなくなってはいけないのですが、見えなくなりつつあります。それをこういう場のなかで出てみて、どう判断すればよいのかということです。 

 

それは一人ひとり、違います。また、ライブになってくると声から判断するというのも意味がないことです。そういう意味でいうとライブステージという表現としての作品を質で判断することになります。それはどういう客がいるのかということも関係するだけに、一言ではいえないものです。

 

 もっと音楽的な語りが出ていればよかったのではないかと思います。音楽でいう語りというのは、声が出ていて、それが音を通して語りのスタイルをとるのです。音楽の世界になってきますから、ことばというよりは線です。そのつながりが生きているということになります。そのつながりを殺してしまうと表現をいかせなくなるというのは、音楽の宿命みたいなものです。 

 

 

表現ということでアプローチした人は、その表現がどれだけ前に出ていたかということで問えばよいと思います。中途半端にやってしまうとただ、大声を出してワイワイ騒いだということになります。これはどこかでキープしバランスをとらなくてはいけないのです。それをキープできないとどうしても不しぜんになってしまいます。とても難しいです。 

 

3分間あれば表現を超えられるところが欲しいのです。表現というのは超えないとよくないと思います。「え、そこまでやるの」というところまで、やること、そのときにお客さんが気づいてそのプロセスをみられてしまうと苦しくなってしまいます。

 

 女優のイザベル・アジャーニは、瞬発的な表現力ということでいうと、音楽的ではないのですが、声だけ聞いていてもすごいのです。よくこんなに声がでるなというくらいに体から、めいっぱい出しています。一息もつかないでシャウトしています。そこまでいかないと世界的なレベルにはいかないのでしょう。その表現のプロセスが見えてしまうと、お客は、どんどんとひいていきます。ひいていっても戻ってこさせることができる要素があればよいのですが。 

 

 

表現に意識をとられて、声をとるために構えたテンポになりすぎているような気がします。もっと音楽的な表現のためのテンポがあって、それが呼吸とか声のなさが補うものです。そちら側に気をとられるために、最初からなぜ、こんな入り方をするのかとか、なぜそこまでしか出さないのかなどということになるのです。

 

本来、表現というのは、人を魅きつけなければいけませんから、パンチがなければいけないのです。それがスローのパンチになっています。それに意味があるのかというと、疑問です。ただスローなだけというだけならば、ダラダラとなってしまうのは、あたりまえです。

 

 聞かせつけるのはよいのですが、聞いているお客さんがひいていくようであれば、おかしいと思わなければいけません。歌を歌うときに何かを吸収する、吸収したらそれを自分で加工して、うしろにおいていくのは二流です。そうではなく前に出さなければいけません。前に出すと、そこでインされているとわかるのです。プロセスが見えぬように、この曲はこういう曲なんだと示すことです。うしろにおいては、その作品が見えないわけです。

 作品が前に出ていて、本人がいて、そこにその理由もあるべきです。インしているところは見えなくてよいわけです。そこが見えるとよくないです。発声が見えるとか、リズムや音感が見えるというのも同じことです。

 

 

 歌のなかでことばが見えるのはよいのですが、表現というのには、いろんな部分があります。どこかをプロの部分にしようと思うと日本の場合は、ひいていきます。全てを卒なくならすのでなく自分のなかで選んだものを強く出さなければいけません。声のオーソドックスな部分と同じように音楽のオーソドックスな部分があって、それをはずすとよくありません。そうかといって、音楽のオーソドックスな部分に当てはめると、声を全部はずしてしまう場合になります。

 

 今、そのなかでせめぎあっているはずだと思うのですが、どちらつかずになっているように見えます。それなら、思いっきり声をはずして、音楽的に感じられるように仕上げてもらった方が、よいのかもしれません。 伝えるためのラインというのは、シンプルにあるわけです。そのラインは絶対にはずしたらいけないわけです。そこに飾りつけがつくわけです。でも飾りつけをこうやった方が、よりひきたつというふうにやってしまうと、その間のつなぎの部分がなくなってしまうのです。でも、それでも表現らしきものとしてはもたせられるから困るのです。

 

 問題はどちらをとるかではなく、その線が流れているかどうかです。その上で、どれくらいそれを際立たせられるか、またはシンプルでつまらなくならない飾りを入れるかということです。今の日本のプロというのは、技術に負っていないから、メジャーになれているとさえいえるのです。 

見せ方だとか伝え方がうまければ、声の技術も歌の技術もなくても日本ではステージとして成り立ちます。

 

 

 日本の歌の場合は、ほとんどが詩としてのことばです。それが音の技術まで消化されて純粋に音として取り出されていません。欧米の場合はプロというのは、表現を支える技術の応用レベルで示すのです。もちろん、それだけではありませんが、伝えるものとしても、ことばよりも音という感覚が必要だと思います。 

言語も音に抽象化されている部分は多いものです。

 

 今日は、どうやって聞けばよいのかというのを、混乱したまま聞きました。そのフィーリングとかビブラートとか飾りの部分は、ついていてもよいのでしょうが、つける前にそのシンプルなラインが消えないようにすることです。それがベースの部分です。 それが自分の歌を伝えるためのベースで、それを自分の体なり、息なりに合っているところで出せているかというのが基本の部分です。それを音にしていくと、表現の差というのは、日本と外国を比べ雲泥の違いになるのです。いろいろと見てください。

 

 日本のなかでは息や声はなくても表現できる力になるということです。それをこうだと根本で教えるのは難しいものです。そこを教えるというのが、他人のフリや飾りだけつけて、舞台の衣装決めみたいになってしまいがちです。それは自分の体から反してきます。

 ステージで結果として、体が解放されていないということは、たぶん気分もあまり解放されてないと思うのです。練習しているときはできたのに、ここではできなかったという、いいわけもしていられません。大きく歌おうとすることというより、むしろ大きく語ったり、伝えようとしたときにもたなければいけない音感やリズムを宿すことです。声、体がまだ一致していないような気がします。

 

 

 トレーナーのライブはマイク使っているから少しは違いますが、体をベースとしてもっていて、そこで解放されています。彼女は自分の武器を知っているのです。彼女のいっていたことの一つは男のまねしてもよくないということです。それはパワフルな歌い方やそういう声を欲しても無理だということではありません。それは男と女を分けるのではなく、個人として考えてみれば、そのときに武器になるものはそんなにはないということです。

 皆さんのなかでも、息や体とか音感、リズムがあっても、ごっちゃになっていて、まだ歌のなかで一致させて出せていないようです。自分の表現ベースが固まってきている人は、固まってしまうことが、それはそれで心配です。作品をうしろにおいてしまって、思い込んでいるなかで、それてきているような気もします。

 

 だいたい、1年半目のビギナーラックというか②③の頃に自分の寸法と一致したものが出ているようです。その先になったときに体とか気力とかが衰えるわけでもないのですが、もう1ステップいくのは相当、難しいような気がします。 

声楽に模範をとっていけば、もう一つ上にいけるのでしょうが、ポップスの場合だと選択肢が多くいちがいにいえないのです。どこが前の方がよくて、どこが今ので、くずれていたかというのは、自分にはとてもわかりにくいのです。

 

 自分が表現したいことと、ことばと曲がバラバラだったら、自己矛盾を起こしてしまいます。調和して一致して出せなくても、自分のなかに入っていて、出てきているという統一バランスが見えないと、先に進めません。整理されていないと聞いていてもごちゃごちゃになります。そこで発声や音程を見られてしまうのです。 

もっと単純に価値ということで考えると、すごいというのは最終的なことで、しばらくは何もいわせないようにさせるということです。

 

 

 何を価値で出すのかを当人がわかっていない気がします。歌のことは、こういうことを伝えたいというのを予め書いてもらっていますからわかります。ステージがおもしろいのか、楽しいのか、気持ちよいのか、元気が出るのか、存在感で出すのかということです。そこでステージでのベースを自分で作っていくことです。

 それは、毎回、変えられるものではなく、その人のオリジナリティにそったものになるはずです。それに何をオンしていくかということが、次のフレーズ、次の曲です。リピートした上にリピートオンしていくということです。結局、一所懸命とか努力というだけでは、歌にはなりません。そのなかにも歌に対する愛着心とか見にきた人へのやさしさや人間味がサービス精神みたいなものとして出ないとお客さんは次にいけないです。

 

 たとえば、ミュージカルや劇団員などのように形だけを覚えて歌っている人がここに来ると、決してそうではないということが違いとしてみせられるでしょう。そのところの要素です。ソロのヴォーカルとしてやるには、それでは伝わらないということです。

 その人がミュージカルのなかでは、やれていても、ここで一人でやるときにはまったく足らないという要素をどこまで出せるかということです。 

 

勉強するためにここでは、一流のものを使っています。一流のものを使って、先輩たちのものを日本人の脚本ものでやっているわけですから、本当に勉強ができていたら、差ができてくるわけです。少なくとも判断力はできてくると思います。その判断の差を知ったあとにその差を自分で詰め、宿さなくてはいけません。

 

 

 いまだに、基本のアエイオウ、その基本の「ハイ、ララ」などもやっていかなくてはいけないということです。こういう基準をもっと厳しくしていかなければいけないと思います。 歌を「ラ」とか「ア」で歌って、音の調整をしていかなくてはいけないと思います。思い切ったことをしたら戻れないといけません。戻ることを考えなくても、前に出している分、体にしっかりと戻っていればよいのです。声と体は砲弾と大砲の砲台の関係です。

 冒険して乱れるのもよいと思っています。

 

しかし、もっと統一していってもよいでしょう。表現で前に出すというのは、音量や体でもなく、気力だけでもないのです。それをトータルとして一番、表現できるような形にもっていくということなのです。自分の感覚とまた、表現されたというところの感覚とは違います。ある意味では、その世界から抜け出して突き出すということもあります。やはり、歌の勉強をやらなくてはいけないような気がします。感じたままの表現だとできてしまう人も10代にもいるわけです。歌はうまくなくてもステージはもってしまうということもあります。

 

 やや、似通ってきているような気がします。いろんなやり方があってよいのです。声楽家とか合唱団みたいなやり方もあってもよいのですが、ブレスヴォイスみたいなやり方はあってはいけないのです。本当のことでいうと、それは一回壊さないといけないと思います。決して声楽ではない形でやるために、声楽を学ぶことも必要です。 

あとは自分のを見て、考えてください。価値を出すということはどういうことかというのを考えてください。とても難しいですけれど、原点に戻って考えると単純なことだと思います。

 

 

 ここでうまくなったらどうするんですか、という質問もきたりします。 

表現できるということは、他人に対してできるわけですから、他人が価値をつけるわけです。そういう人たちに価値がもたらされるわけで、そこで出ていけないのはおかしいわけです。 本当に歌がうまいということは、まわりの人が聞きたくなり、一回聞いたら、また、聞きたくなって、また聞きに来るのです。とても単純なことなのです。

 もとに戻すと、それが妨げられている要素というのがあるわけですから、それを除いていかなくてはいけません。そうでなくとも人は集まるでしょう。

 

音楽として成り立たないということはないのです。でも人が何度も来るというのは、たいへんなことなのです。その要素というのを考えなければいけないわけです。 歌というものは一種の娯楽で、何か社会的なものに対し中途半端に出していくものでもないでしょう。こういうことに時間をかけているのであれば、絶対にアマチュアとかいうようないいわけはしないで、やる以上は、そこまでの価値を出してください。そしてはじめて、使えるわけです。プロセスだけでは意味がないわけです。

 

 毎日ヴォイストレーニングしていたとか、一所懸命やっていたとかいっても、他の人には何の価値もないわけです。歌を価値ばかりにとらわれてみたくはないのですが、当人がよければよいとするなら不毛です。当人がよいと思って伝えたいと活動するのがモチベートであれば、表現として他の人に何を与えているのかということから考えなければいけないと思います。今の研究所でもそういうことはまだ欠けていると思います。声のこととか、息のこととかをやるがために他のことがおろそかになっている気がします。

 

 

 

 

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【ステージ実習④3605】

 

 久々にマイクなしでやってみました。(注:この時期④は毎月ライブ実習だった)1年前に比べたら人間力とパワーはついていますから、その分、歌の力がついているといいたいところですが、それだけの慣れやマンネリが出てくるから、それを差し引いたところでみたらどうなるかというのは難しいところです。全ては歌やステージの要素ですからトータルで捉えたらよいでしょう。

 

 課題曲に関しては「冬のリヴィエラ」も「舟歌」も難しい歌だと思います。どちらも難しく、すぐさま消化できるような歌ではないのですが、このような課題を出しているのは何か大胆に試んで、それで成功しようが失敗しようが、気づけばよいということです。自分では決して取り上げない歌ですから、何に気づくかは別にして、その気づきがあったら自分たちの歌もプラスになってくるでしょう。ましてどう変えられたかで自分の力や可能性をみるのです。八代亜紀さんのこの歌は、日本の曲の勉強ということであれば、センスがないともちません。(センスのない歌やつまらないと思った部分ほど、どういうふうに変えるかということがわかっているかということです。)

 

やはり未消化です。課題で終っています。何人かはいろいろ試みてきましたが、一体化になっている部分がとても少ない気がします。古い歌やセンスのない歌、自分がだめだとか合わないと思っているような歌を蘇らせるようなことは、トレーニングとしておもしろいものと思います。そこで何か自分でみつけてこないと、人前に出せるものはありません。それができないから課題、カリキュラムのなかの一つに終わります。

 

 

 それなら、自由曲が課題曲に比べてよかったかということになると、どっこいどっこいです。そうすると自由曲の意味がないわけです。これに伴奏やマイクがつくと、音響効果でもう少しはきれいに聞こえるでしょう。他のグレードでは声そのものがないし、日本の音楽や歌い方に影響を受けていますので、そのくせが本人のものになっていないところに問題があるのです。皆さんは、それなりにまとまっているのですが、そこから出てくるものが、いつも大体1人、2人ぐらいです。ある時期伝わるときがあるのですが、今日の場合は鈍いような感じです。

 

 キレというのもあたったところは切れているし、それなりに切ろうとしているとおりに切れているのですが、もう少し勢いを出して歌っていたり、それ以外のところがもう少し先にさっと切れるようなところがないのかという感じのままです。それはどこからくるのかわからないのですが、感覚のところが声や歌のところにあるからだと思うのです。

 

 課題というのは、いつも個人レッスンやグループのなかでやっていますが、そこからのとり出し方に関しては、まだ冒険が足らないような気がします。自由曲に関してもやっている人はやっているのが伝わるのですが、中途半端にやるところでのうそはみえてしまうのです。つくっている部分のうそではなくて、やっていない部分のうそというようなものはやってクリアしないといけません。 

 

 

表現というのはだまっていたら四方から壁が押し寄せてきて、声もその人の存在自体を消してしまうようなものです。常に何かそこで働きかけていないといけないのです。やっていて失敗しているのは悪くないのです。やらないで失敗するというのがまずいことです。

 全力でやって失敗したら、それはその人の魅力になり、人間味になります。しゃあしゃあと成功する人よりもそこが味になったりします。そういうところというのは、そんなに気にならないのです。出している部分は、あまり気にならないのですが、ひいている部分と抜いている部分は、よくありません。吐き続けている部分とかポジティブにやっている部分はみえるのですが、それは2、3分、自分の曲の間はもたないとよくありません。人は可能性にしかひかれません。 

 

この前ミュージック・フェアで棒のパフォーマンスみたいなのをやっていました。あれが棒術になったり、芸術になっていくのでしょう。ああいうことで世界をまわっている人たちは、ああいう練習をしていて何か現実に肌に感じている。それを何回も何回も練習していくと、やはり決まって形になって新しいものが出てくるわけです。新しいものは出てきても、それは古いものであって、人間の根底にあるような何らかの感じを呼び起こすものです。だから心を揺さぶるのです。その時間、客の目を釘付けにすることはできるのです。

 

 「ワインレッドの心」は、日本の枠のなかで歌っている代表的な曲です。ああいう歌い方が出てくるほど、ここの運営が難しくなるのは確かなのです。あの人はよいのです。あの人のまねをして、それが歌だと思ってやりだす人たちの感覚をこわさないといけないから、そこがめんどうなだけです。

 それからみせる部分にそろそろ入ってください。舞台のことは、いろいろ考えていますが、一所懸命の部分は、あたりまえのことで、プロというのはそれをどうみせるかということです。皆さんが重ねていく年齢分、去年から1年たって、その分がキャリアになって、どこかに出ていればよいと思うのです。他の人と比べてとか、ここでどうだということより、自分に対してプラスになっていればよいわけです。

 

 

 練習のなかではもっと大きくつくって欲しい気がします。歌ということよりも声を出すだけ、体を使うだけ。そこからの力がみえないのです。それを経てからもう一度、戻って歌っていくというのが、理想です。

 そういうふうな練習をやってきていると思いますが、やはり歌のなかで練習して歌をみせているというのを感じます。スポーツでいうとわかりやすのですが、人を超えるような部分を歌のなかで感じてくることです。これを課題曲や歌のなかで感じるということではなく、日常の練習のなかでやっておくということです。人を超えるというと超人的な感じがしますが、自分を超える部分から、そこで捉えたものから元に戻していくような感覚みたいなものが欲しいです。

 

 課題曲も自由曲も合わせて、課題としてあります。それが、今日の歌として歌われるのではなく、芸になるときというのは練習のなかにあるはずなのです。一回きりですから、必ずしもここで取り出されないから、舞台は難しいのです。調子よいと思ってもできるわけでもないし、そうかといって調子悪いときにできないわけでもないのです。ただその前に、ある程度こうやったら芸になるのだという部分を感じてくれば、一つぐらい出てくると思うのです。

 そのことに焦点をしぼりこんでみるとよいと思います。一回、体に宿してくる。これは息を吐くことでも、声を出すことでも、歌を歌いあげることでも宿ります。なるべく大きくつくろうとしたら体が動いてきます。そこで、あとは心が伝わるかどうかです。

 

 体だけ使っていくと、心はどんどん離れていきます。人間の体は使えるところまでしかなくて、この使える前のところを鍛えていなければ簡単にまとまってしまいます。最初からただ歌っておわりです。それを歌から離れてもよいからパワーとして出していく、それからバランスをとっていくことです。

 人間の体は、誰でもパヴァロッティみたいに息や声を吐けるわけではないですから、どこかで限界がきてまとまります。そのまとまってくるまで、本当は待たないといけないのです。ここの2年、4年、6年という時間は、それをやらないといけません。ただ歌というのはどこかでまとめないといけないから、それをどこかで感じていないといけません。だんだんよい意味での余裕が出てくるべきです。

 

 

 歌のなかとか技術のなかの余裕からほど遠いのでは、しかたがないでしょう。 

歌うこと自体も過剰になっていっているか。その人のなかで過剰になってあふれ出てくる。それは飢餓感で取り出しているようなところがあってもよいのです。出せるものが人と一つしかないとき、20歳ぐらいならそれでよいと思うのです。何もないのは、あたりまえですから、ないものでもとにかく取り出していく。そして、学んで何年もたったら、今度は過剰になったものから選択精選していく、それが頭でなく体と心のところでできるようになったことをセンス(☆)とよぶのです。

 

 いくつか基準になるものがあるのです。何か自分が芸になったと思うことが、レッスンや自分の練習のなかからつかめてきます。発声や体だけにこだわっても、3年ぐらい必死にやっていくと最初のペースで体の力がついてくるわけではなくなるのです。人並みからの脱出は地球の軌道をはずれるようなエネルギーがいります。

 人にもよりますが、人並みにも走れなかった、そのぐらいの体力もなかったという人は、まだまだ伸びます。最初から相当体力がある人でも、3年やったくらいでは、声でもっと体が鍛えられるが、発声と同じ以上に歌を考えること、そして歌と同じ以上に表現を考えるのです。

 

表現を考える以上に違うジャンルをつくってやろうというくらい大きくやろうと考えましょう。なぜなら、そうすると大体その前のものというのは、身についていくからです。一つのジャンルをつくろうと思ったら歌ぐらいに歌えます。本当に歌を歌おうと思ったら発声ぐらいできてきます。そこでどのぐらい思うかということになってくると思います。(☆)

 

 

 表現ということで考えると、要は、伝え方と伝える内容です。歌は相手をみてからしぼりこむ必要はないのですが、歌によっては伝えあえる相手とか内容がここのターゲットにあわない場合があります。そのときにここにあわせる必要はないから、その分、パワーを出すことです。ここの観客は全部無視しても、その世界に対してこの人が歌っているというのがみえないと、バランスを欠いたものになってしまいます。中途半端にしなくてもよいと思うのです。というか中途半端にできないと思うのです。

 

 ここでも何となくこびをうって、うけるように通用するようにと考えるよりも、ここに合わない歌の場合は、徹底してここを無視しても構わないけれど、そのかわりどこに伝えているかというのを明示しないといけないのです。そうでないと、中途半端に出されてここの場に埋もれてしまいます。そういうのを何曲かに感じました。ターゲットが違うからやってはいけないということではないのです。むしろどんどんやってください。ただその人のなかで伝える相手とその内容をしっかりと想定してしぼりこむことをやらないと、いくらその歌を覚えても、伝わるものは出てこないと思います。

 

 ここの力の方が強いほど、自分のお客さんをみておくこと、メディアということでも、その先のところをイマジネーションしておかないといけないです。 表現されたものに感動する要素というのは、いろいろとあります。この人は体があるとか声があるとか、そういうものでも1、2曲なら感心くらいするわけです。そこで人と違うところをみせる。あるいは人と違うことをするということは前提においてください。

 

 

 このへんは日頃の態度から出てきます。他の人と合わせようとしないことです。自分なりに歌おうとしたら、それはそれなりによいでしょう。原点にあるものはあなた方がもっている思いとか、こだわりとかいいたいことでよいわけです。そんなものなくてもよいという人もいるのですが、ないとなかなか続かないものだからいっているのです。それがメディアとしてことばになっていたり、音楽になっていたり、歌になっていたりします。そして、歌に時間と空間が集約されるのです。

 

 歌はしっかりやろうとすればやるほど苦しくなりますが、それから一つ離れたところ、消化されたあとに出てくる違う力を働かせてその動きを感じながら、ここで歌うことです。だからそこまで昇華してこないとよくありません。

 声の問題や発声の問題を解決するのは、そのプロセスとしては技術ですが、創造するところは表現です。それは本人が決めていかないと、黙っていて出てくるものではないのです。そういう意味で課題曲をもっと大きな曲で歌いやすいにしつつ、そろそろ皆さんのグレードだと世界と共に日本ということを考えないといけないし、そういうことの入るものというので定めていきます。

 

そういう中で音の感覚とか、音程とか歌自体が流れているところが気になります。悪い意味で、流れているところがぴたっととまっていないところがあります。課題曲で気になったのはそこです。

 

 

 歌は学び方を学ぶしかないのです。歌は2年間で学べないわけです。外に出た方が時間が有効に使える、お金も有効に使えるという人は外に出てやっていけばよいのです。外にステージがあればそのことが活動というわけではありません。なかでも外でも、自分のものを示し、説得できるここでまだやる課題とか解決したいことがあるということであればそうやればよいです。研究所というのはそういう意味で、トレーナーに頼るのではありません。ただ、研究できる場は必要です。もともと共済組合みたいなつもりでつくってきたのです。

 

 皆さんで少しずつ出し合えば、ライブの場もいろんな材料や設備が手に入るのです。発信場まで確保しても、そこに価値があるわけではなくて内容です。私はここに価値を感じているということです。日本のなかで音楽の本来の仕事をしたり、そういうところで歌ったりするよりも、最初はそれがよいと思うのです。ヴォーカリストは劇団とか声優さんみたいにどこかの事務所で属さないとできないとか、露出度によって優先順がついてしまうというようなところではないのです。

 

 いくら長くやっていても、つまらなく退屈な場になっていくというなら、つぶれるでしょう。だから皆さん自身がそう感じてくれたらよいのです。自分が主人公と思って、ここでいろんなものを出して成長してください。皆さんにとってよい舞台とは、成長のきっかけとなるステージです。☆

 

 

 後ろ向きで戻ってくる人には、ここがホームタウンになってもよいと思います。しかし、それはあくまで基本的なことを初心に戻ってやり、パワーアップするためにやるべきです。外にいって練習もしなくて歌もいいかげんになって、それでここなら仲間がいるといって戻りたい人を許すと、力のない人がくつろぐ場になってしまいます。何年も一緒にやっている人たちがいるからくつろげるかもしれないけれど、それではここでしっかりとやっている人、新しく来る人に迷惑なわけです。それで組織はだめになってしまうのです。

 

 受け入れる条件というのは、一年外に出ていたら、その一年分ここにいるメンバーよりは力をつけている、あるいは同等には力をつけているということです。そういう人は少ないものです。だから研究所をつくったのに、それさえわからないのですから一所懸命やっていたあなただから、皆、認めていたのであり、そうでなくなった人に誰がひきつけられるでしょう。別にどこにいるから偉いという話ではないです。力がついていたらいくらでも後で一緒にやっていけます。

 

 力がついている人というのは、近くにいなくとも、その人がその人として、他のところでやっていることで、こちらのためにもなり、いつか大きくなった円として交われます。何かをやれるときに一緒にやれるわけです。同じところでやったら力が半分しかでません。力のある人とは、私はそういう形を好んでいます。

 

 

 日本の場合はそのへんでステージを毎日やっていたら、消費されることが多く、クリエイティブになれる人は少ないものです。歌うことそのものは、クリエイティブでも、何でもないのです。現にしっかりとやっている人というのは、日本の場合は、自分の時間をもったり、充電期間をとらないといけないようで、ステージ自体は作品ではないといいながら、ステージをやっている人もいます。おかしなことです。そういう環境がアーティスト自身が思っているほど、あるわけですから、自分が拠点をどこにおくかということだと思います。

 

 私はここがおもしろいかぎりここにいます。おもしろくしてきました。自分が次に何をやるか、何を話すか、そのことがおもしろければ、それでよい自分に退屈にならなければよいと思います。 

おもしろいことではありませんか。皆さんが最初にレクチャーに来るときは、ただのお客さんです。それが2年たって本当にアーティストになったら、こんなアーティックなライブな舞台というのはないでしょう。客を感動して返すより、感動させられる人にする。

 

 皆さん自身もいろいろと歌とか決めていかないといけないのです。いつも雑多にいろんな人たちが入ってくるのは、楽しいものです。ここも変わるのです。頼る心があるからいけないのです。共済というのは共に戦うところで成立します。

 私がこわさないといけないのは、すぐれた歌い手がいながら、日本では認められないから、よりすぐれないです。いまの音楽業界のヴォーカリストへの考え方、価値観をこわさない限り、ここの活動の発展も難しいでしょう。日本人の感覚に戻って、どこまでのことをどうやるかというのは、混乱している時期です。

だからおもしろいのです。

 

 

 皆さんが覚えておけばよいのは、ここの練習であれ、ここのステージであれ、絶対的なことをやればよいというだけです。だからこそ悪い意味のユートピアになってはいけないのです。理由もなくいるというのでなく、今度はこうやろうという課題があって、その課題のためにここにきているべきです。何となく人前で歌えるようになったではしかたがないでしょう。お客さんも育てなくてはいけないと思っています。その結果は、10年、20年たたないとわからないと思うのです。私にもわからないし、皆さんにもわからない。ただの習い事は脱したいと思います。その人が生きていたら、生きているほど歌なり、表現なり、そういったものがしっかりと還元されて誰かに伝わるようになるべきです。

 

 よく海外とは違うといわれますが、向こうで天才といわれた人でも100年もトレーニングした人はいないし、200年もトレーニングした化け物もいないのです。同じ人間です。一つの世界をつくったら、死んでしまうわけです。

 100人の前で100回、毎回違う人たちの前でやることがどのぐらいの意味があるのでしょう。一人の前で一曲歌うようなことを10年、20年やることと、どちらが大切でしょう。

 

こういうところから、メディアをどうしていくかということになります。ただメディアというのは利用しないと利用されるだけですから、使うのなら考え方を定めて使うべきでしょう。絶対的な力、まわりの人がほっておかないような力をつけて出ていくというのが筋だと思うのです。自分でいいぞと思っていても、誰も相手にされないときに、誰かの力でCDを出してもらってもどうなのでしょうか。

 

 

 最近、歌以外に人生や自分の性格などいろんな質問が出ていますが、人生と歌うこととは関係ないのです。おもしろい人生だからといって、そういう人生を歩んできた人が歌うのなら、歌の意味もないでしょう。確実に歌を表現として使うための技術は必要ですから、そのことをやっていきたいわけです。

 しかし、本当の人生は、本当の歌と同じです。歌うことで人生がおもしろくなればよいと思うのです。その歌がどんどんおもしろくなっていくのが、あなたの成長です。 

 

だから私も、歌がどんどんおもしろくなっています。皆さんは、まだ苦しくてしかたないわけです。完成を求めようとしながら、減点するからマイナスでしか評価できません。たまにうまくできたら、できないことがもっと苦しくなります。何であれができなくなったのかと、なります。といって、いつも簡単にできると慣れて飽きがきます。どちらにしても、楽しくてといえないのは、本当の力でクリエイティブなものをつくってないわけです。

 今は、一歩はなれて「歌がしぜんに聞ける」という感覚になってきています。

 

まだ私はこのコメントの役割があるから、しぜんに聞いていませんが、ただ、しぜんに聞いているときが多くなってきたのです。

 私はヴォーカリストというのは、絶対的な武器として声や歌で自分を守るもの、あるいは戦うものとして位置づけてきました。これは表現の原点です。その敵は外ばかりでなく、自らの内にもいます。

 

 

音を声に置き換えたり、純粋に心地よく音を出していったら音楽の世界や歌の世界だという人がいますが、実際にそれをつくっている人たちがどれだけ格闘しているのかを知れば、そんな音楽などはどこにもないのだとわかるでしょう。鼻歌から中・高校生がつくっているような音楽はありますが、日本でもプロとして、そういう音をしっかりとつくっている人は、想像もつかないぐらいの集中力と作品をつくるときのプロセスで戦って、音を獲得しているわけです。神業に近いのです。

 

 生まれたままの声でしぜんに歌ってみたら、皆が感動したみたいな、そういう人は、深まらなければ、自分が飽きてくると思うのです。自分のやっていることに対し、意味がみえ、やっていることから教えられる。すべてわかったら、自分の歌も続かないし、続けたいなら深めていけばよいし、そうでなければそれなりに満足していたら、それはそれでよい。ただ、そうしてしまうとカラオケで歌っているおじさんやおばさんに負けてしまいます。

 

 BV座は別において、ノミネートするにしても、何か出口は必要だと思います。やはり舞台をみせて、その舞台と同じいや、それ以上のことをやりたいと思う人を集めていくのがよいと思います。時間かける必要があります。皆さんが2、3年でできるぐらいと思い、2、3年で得られるものというのは、せいぜい2、3年ぐらいしかもたないです。皆さんが5年、10年かけたものというのは、人が追いつくのにそれだけかかりますから、やれません。2、3年のものというのは、要領のよい人にとってみたら半年くらいでできるのです。

日本もたくさん人がいます。5年、10年かけたものというのは、要領よい人ではできないわけです。だから続けることです。そこまでの差をつくって初めてプロといえます。

 

 

 

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【ライブ実習④3607】

 

 私が聞くのは音だけですから、皆さんの表情がみえているわけではないですが、それでも表情、心、体がみえるし、やる以上それらをしっかりとおいてもらいたい。難しいことはおいて、少なくとも前に出ている部分のものは、わかると思うのです。どういう表情をしているか、そこから何のために歌っているのだろうかということは、聞く人に感じさせないわけです。内なる理由と、外なる理由がある。

 

 そこの部分をプロデュースとしてみると、一つの芸になっていないということより、人前に出たところの表現として、通じるものになっているかなのです。これはアイドル歌手でもタレントでも、一つのものを終えて引っ込んでいくところで何をおとしているか、というのが問われます。それがないと一回はできるでしょうが、次から当然ひきつけられないわけです。

 

 日本で、活動しているヴォーカリストだと一回聞くと、しばらく聞きにいこうとしなくなりますね。日本のお客さんの判断基準というのは偏っています。それを入れるほど他の要素が問われます。パフォーマンス、タレント性でやりたくないなら、それをしのぐ何かが必要です。

 

 

 日本のお客さんは技術を見にくるわけではなく、声を聞きにくるわけでもない。コミュニケーション、あるいは元気に前向きに生きているところを見せるだけで、つまりテンションの空売りです。それを人はもらいにくるわけです。歌というなら、最終的に歌が出ていないといけないというより、当然、出ているべきなのです。 

パワー、インパクトのない表現など、意味がないでしょう。形でみても、実がなければあきるのが当然です。

 

 歌かメロディが詞かことばかキャラクターか、何か一つでも残していくというのは、根本的な課題だと思います。伝えることというのは、そこに何かをおいていかないといけない。歌とか声というよりは、思いや心をおいていかないといけない。その思いや心をのせているのが歌、声、体、そして人間です。心を置き忘れるようなステージをやってはよくありません。

 

 新入ステージあたりでもそれなりに歌える人が来るのですが、最初に問われるのは、その人の素がみえるということです。これはそれなりに魅力的です。それからその人がその時点で歌と思っている形がみえるということです。うまい人、へたな人といるのですが、計算と演技は、基本の力がついている人にとっては、しぜんになっているということです。ここはとても難しく、これがしぜんでないから、少々うまいほど、このおじさんとかおばさんと思われてしまいます。

 

 

 この前は歳を感じたといいましたが、それからいうと少し若返ってもらった気はします。年輪が2、3本で、木には、なれないのです。もちろん実年齢ではないのです。しかし、年齢に応じて得ないといけないところもあるとは思うのです。精神年齢というより、ヴォーカリストのキャリアの年齢でおいていけば、どうしても歌になれていないまま、上達するには無理があります。 

 

ここにきて初めて始めた人たちというのは、その型が抜けていないのです。何年も自分で疑問をかかえつつ歌ってきた人は、全体に捉えられています。そういうのは、映像でみるとわかると思います。

 だからといって一概に固いのが悪いとか、全身使えていないのが悪いのかといったら、それはそれで新鮮さがあるくらいの時期もあってよいと思うのです。ただ、声の流れとか音楽の流れからいうと、やはり体が動かないと、そこでとまります。呼吸が小さくなってしまいます。場でいろんなハプニングが起きても、そういったものに対応できません。

 

 これがまじめ一本でやっている人に一番欠けているのではないかと思います。ヴォーカル志願も、他のところの人たちというのは、どちらかというと出たがりで、人前でやることばかり考えています。だから失敗も失敗と思わせないでやるような形というので、できていきます。なまじ技術を声にまでおろしてくると、その技術のなかで調整ができないと、どうしようもなくなってくるところがあるのです。

 

 

 その時期はそれでよいとも思うのですが、大きなステージになるほど自由にやっていかないと、きついと思います。50あるものを100にみせるためにやって、それが70とか80になる人というのは比較的みていきやすいのです。逆に100の技術をもっているのが、表現を考えず体や技術の方にいってしまいますと、チグハグさが出て、だめになってしまいます。こういうときは単に声の完成度が問われてきます。その技術に関して、歌というよりも歌を出すのに得ている形に関して、しっかりと出てこないと声で比べられます。音大生のへたな理由の一つが声依存症です。だから特に日本人相手のライブ相手に関しては、かなり不利な戦いを強いられると思います。

 

 結果的に人が聞いているのは、歌を介してその人の思いが聞こえてきたかどうかということで、それが全身で表現できているとスーっと入ってくるということなのです。一体になって、動かせてこそ歌なのです。もちろん話もセリフも似ています。歌ほどごまかしが入らないから、わかりやすいはずです。今日はそういう意味でいうと2曲ぐらい、歌は聞こえてきました。部分的に聞こえた歌もあったので、ヴォーカリストの表現という部分で勉強になるようなものは出ていたと思います。

 

 表現は悪いですが、力でねじ伏せられるところ、力というのは強い力とか大きな声ということではなく、センスや感覚も入れて絶対的にかなわないというようなところで出せないものでしょうか。完全に自分の心とかテンションが一致している状態、これは実力とまた別のものですが、実力がその人のなかで消化できてよい状態でなっているときに、そういう感覚で歌というのは飛んできます。

 

 

 こういう状態をつくりだすのはとても難しいわけです。それを感じられたら、その状態は大切にしていって欲しいと思うのです。これは素人の人では、起こりません。年に何回も自分を超えたような表現ができるのが、プロです。ただ、技術が足らなかったり、それだけのものを練りこんでいないと、それ以上のものは出ないのです。皆さんは、100とはいわなくても80なら80できます。できるけれど、いつも50とか60におちてきてしまうので、それをギリギリとして、常に100からアップして出すのがステージなのです。

 

 単純によいものを聞くとマイクをとりたくなるし、前に出たくなります。自分に歌う経験があったとしたら、わかるでしょう。だから私にそのあとにマイクをとらせたくなるような歌が聞こえるのがよい歌です。すごい歌なら、感動で沈黙を強いられます。 今日でも少し感じるところはあったのですが、まあ2曲もつくらいで、そのあともう2曲やったらボロが出そうでしたが、それでよいわけです。2曲あれば充分です。まず1曲できたら2曲、そのピークを感じていく感覚を他の人も勉強してみればよいでしょう。

 

 みればわかるように、その人の歌とか声とかだけではなく、全身から出てくるものがあって、それに歌がのっている。技術も若干のっている。その集中力と場を牛耳る力をもつことこそが、難しいのです。声を出すのではなく、声にのっかるという感覚です。

 

 

 あとの半分ぐらいの人は、ここでもうひと踏ん張りすれば、ひきつけられるというところではずしてしまう。全力でやって自分の体がきかないとか、呼吸がきかない場合は、もつのです。そこで心が負けていたり、精神的な集中力が負けていたら、いかに声や技術があっても通じません。 

そこに音色の問題と、それからフレーズの大きさの問題が出てきます。イメージとフレージングです。それができなくて勝手な勉強をしていくと、どうしても古っぽい歌い方になったり、どこかで聞いた歌い方となってくるのです。自分の寸法にぴったり合わせるというのは一番大変なのです。

 

 スタンダードな曲とか、ゴスペルあたりになると、どうしても嘘臭さとインチキが出てしまうのです。こういった大きな曲は、心地よい曲のはずだけれど、その心地よさの前に背負っているもっと大きなものがあって、それがその人と一致していないと、「洗脳されたみたい」にその人でないものが出てしまうのです。これは信仰心をもてということではなく、音楽的に考えればよいのです。

 

 ただ、安らぎとか静けさとかを出すには、このプレスリーとかのラブソングと同じで、その前に何か激しいものをやっておかないと、「お若いのに」という感じになりかねないのです。未知の可能性を訴えかけること、だから上のレベルにいけばいくほど、いろんなプレッシャーをそこにつめこんでいかないといけません。ただ解放していくだけでは歌の方がもたついてきます。その曲をコピーしていることが出てしまうと、絶望的です。

 

 

それでも曲がよかったりすると、何となく気分よく歌えるし、まわりにもそうみえますが、そこでの勘違いが一番こわいのです。スタンダードナンバーやよい曲をやるときは、曲の力でもっていて、当人の力ではないのに、当人が曲のよさを邪魔している場合の方が多いものです。そうではないためにやはり自分を出していかないといけません。

 

 最近、日本の歌をオリジナリティということで研究しています。この前も石原裕次郎さんをみて、歌が何でもつのかと、この前初めてじっくりとみてみました。イマジネーションがものすごく豊かです。だから声が声として聞こえない、歌としても聞こえない。その人を通じての潮の香りとか、銀座の風景とかそういうのがみえる。それは最高の才能、そして人間性でしょう。そういう歌もあると思います。

 

 皆さんも歌のキャリアの年代に応じて、固いからだめだとか、柔らかくしたらよいとか、そんなことではないと思います。 

その柔らかさを出すための一つの感覚というのは、粘りみたいなものです。「水色の雨」でいうと、たとえば「だいて」という一つの歌詞がある。それをすんなりいってしまう人と、そこにインパクトを入れる人と、柔らかく何かを込める人と、全部違ってくるわけです。計算が出てしまうとだめなので、それを感覚のなかで調整していく。感覚の再調整というのは、一番難しいのです。

 

 

 力のなかで打ち破っていくとか、声が出ないから体の効果でみせていくというのはよいですが、感覚で入れなかったときにその感覚を一曲のなかで改めて取り出すのは難しい。だから技術に頼っていると、大体そこの感覚で失敗してしまいます。技術が完璧にならないと、その感覚が戻せなくなる。こんなはずではなかったといいながら、技術とか体の力とか息を吐く力で負ってやっていくので、歌が最後までみえなくなってしまうのです。そうすると結局自分の心がはなれているわけですから、歌を通じて人に伝わるわけがないのです。だから力ずくで歌うよりは、いとおしんで呼吸のなかでまわしていくような感じが必要だと思います。

 

 後半の歌い方のなかでみていくと、「水色の雨」を男性が歌うなら、構成を出す方をとると思います。歌にも文法というのがあって、その文法をとらないと難しい歌です。なりきって歌おうとか、どうこうなどと小細工すると失敗する。構成でつめた形としてつき放してやるべきでしょう。どこか違うところ「愛のかたち」という前にブレイクぐらいに入れてもよいでしょう。

 

 呼吸と、その皮膚のすきまみたいなのがあかないということです。呼吸と皮膚がぴたっと合っているという感覚が出せていたら、歌というのはもちます。ブレスヴォイストレーニングを形でみていると、どうしても歌を通じて体をみたり、呼吸をみるというくせがつくようですが、それは感じて出すものです。海外で普通のお客さんが聞いているのはこの感覚だと思うのです。だからそれをみえるようにしてやるというのも、一つのサービスでしょう。

 

 

 BV座にそなえ、歌の舞台を増やします。要は1曲、2曲といっているから、固いまま終わってしまう。6曲ぐらいやったら、1曲といわれたときに力が入らないだろうというぐらいです。荒療法ですが、ステージは、1、2曲でなく、やはり、1単位20~30分、4~6曲です。6曲のうち2曲を失敗しても2曲が出せる。そういう形のなかでやればよいのではないかと思います。精神集中力が必要です。

 

 今日2曲うまくのっていた人の場合に、あと4曲どうやればもつかと考えてもらえばよいと思います。スタイルはそれぞれわかってきているみたいなのですが、テープでかけたナタリーコールのように、パワー、インパクトが、人間の強さ明るさとか、前に出てくる気持ちで本当に歌を楽しんでいるとか、好きで好きでたまらなくてやっている気持ちとして伝わります。それは、やはり強いです。ないといけないものだと思います。

 

 緊張するので歌いたくないといっても、ここに出たら思わずにこっーとして、ほっぺたがたるんできて、うれしくてうれしくてというのが伝われば半分もちます。一コーラスぐらいはもちます。それさえないと最初の一曲目を盛り上げていったり、切り開くというのは難しいです。だから初心に帰って、テキストに書いてある顔のトレーニングとか、ほおのトレーニングなどを心の動きと結びつけてやっていきましょう。6曲を目安に、10曲ぐらいレパートリーは、もっておいてください。