レッスン感想
発声、フレーズ、トレーナーの声はスタジオの空気を変える。開かれた声で自分達の声を簡単に飲み込んでしまう。「大人と子供の違い」という言葉が一番ぴったりだ。ブレスをするとき、声を出すとき、アドバイスをして下さるとき、全て観察しているけどトレーナーの弱点が見当たらない(あたりまえか)。このレッスンに出る目的の半分、いや、9割はトレーナーの声を聞きにきているようなものだ。自分の目の前で最高の基本を示してくれるわけだから学ばない手はない。声は出している、というより出てしまっている、というような感じを受ける。自分の声は前者の「出してしまっている」だ。「出してしまっている」になってしまうのは、やはり力が入ってしまっているからだ。力が入ってしまうことを前より深くは感じられるようになってきた、と思うのだけれど、もう一歩踏み込んで改善できていない。「若いときはがんばれば声は出るものなんだよ。だけど、そのがんばり方に問題があるといけない。今は通用しても年をとってから苦労するということになる。発声の基本はしかりと身につけた方がいい」とアドバイスしていただいた。
劇団での大声発声の悪い影響のくせがまだ抜けきれていないということだ。いくらトレーナーや先輩方が基本を示してくれても、自分がそれを活かしていかないと上達するわけがない。こうやってアテンダンスを書いていて気づきをまとめると、今まで自分が守ってきたものが、一体なんだったのだ、と過去の自分を疑う。ちっぽけなことにこだわって、ちっぽけな世界でゴチャゴチャやって満足している。自分の置かれている状況を改善しようともしていない。井伏鱒二の「山椒魚」の状態とまったく同じだ。だけど、自分には「なんたる失策であることか」と嘆いた後にも、外の世界に出ていける可能惟がある。それは全て自分次第。そして孤独な山椒魚とも隣り合わせの状態でもある。器を広げるということは日々難しくなってくる。これからも沢山の無駄があるかもしれないけど、無駄があってこその自分だ。ここの寛大さには、一言では言えません。自分がお礼としてできることは、自分がここで学んでいるということを示さなければいけない。沢山の人がこんな自分を支えているのだと思う。ギブアンドテイクなんだな。一方通行はいかん。
自分のなかに入っているもの、足りないもの、ということがいわれるが、このことに対しての考え方が沙し変わった。今まで“入っている”というのは、自分がそのフレーズをイメージできることと考えていた。確かにイメージできなければ意図することもできない。しかし、イメージでできても出せなければ本当の意味で“入っている”ことにはならないのではないか。思うに“入っている”といいうことには段階があって、まずはイメージできること、次に意図的に出せること、そして意図しないでも自然に出るところまでいければ完全に“入っている”ことになるのでは。自分のなかに既に入っているものについては自然に出せるのであるが。意図的に取り込んできた、というよりはトレーニングの過程で(ないしは生きている、ということの遇程で)勝手に入ってきているものである。何が自分に足りなくて、それをどう自分に取り込んでゆくのか。ということに対して、もっと積極的にならなくてはならない。
フレーズコピー、体に入れる。日本人の個牲のムンムンの曲を使うのはレッスンではめずらしかったので、スタジオの雰囲気もいつもと違っていてよかった。吉田拓郎さんは気持ちの向くままに歌っていて、表面的なテンションの高さには驚いた。リズムの線もギリギリのところで基本のラインに乗っていて、その危うさが日本的に面白いのだと思う。でもなぜかチープに感じてしまう。狭い部屋のなかで暴れ回っているお山の大将のような印象か強い。充分に自分の枠のなかで想像して動かしているのにグッとくる手前で止まってしまう。結果として声も問題が出てくる。声をもっと深く扱えればリズムに対する深い踏み込みが生まれてくるので、気持ちのままに動かしているフレーズにも自分らしさが出てくると思った。
自分が挑戦することはチープに感じた作品を自分を通すことで、より大きくするということだ。これはいつもやっていることより、より想像する力を大きく要求される。いつもは自分とは天と地の差があるヴォーカリストの感覚を読み込み、出てきた自分の結果から足りない部分を実感していくということだけど、今日の場合は課題であるヴォーカリストの足りない部分を自分が想像していく訳だから。
吉田拓郎のくせや、表のテンシヨンをそのまま読み込んではいけないし、普段聞いているカンツォーネやシャンソンの深さと広さを自分で持って取り組んでいかなくてはいけない。12月の福島先生のレッスンでやったようなオリジナルフレーズの差の部分が出るのだと思う。果たして自分の結果はどうなるのか。結果として吉田拓郎さんのなかに呑まれてしまった。呑まれてしまったというのは、くせや表のテンションに、でなく。フレーズの大きさの枠を超えることができなかったことだ。この曲のよさは確かに生かすんだ。それを自分のなかに維持できないし、維持できていたとしても、それも怪しい。普段から大曲を聞いて、これが最低ラインだと自分を教育していくしかない。それから声の問題もある。イメージカの不足をもあるけど予定調和のようなフレーズでインパクトがない。いつもと違うような雰囲気だったけど、今後の分に対するトレーニングの課題はいつも同じだ。「大胆でいて繊細」これは一生のテーマだ。自分を繕うことはしたくないけど、一のラインはある。バランスがとても大事だ。自分の存在だけはその場に残すということは常に忘れない。
CONZONE'60 どうして他人事でなくてあんなに音楽にできるんだろう。音楽になっている。音もリズムも何ひとつ外すところはないし、乗っているし、声が生き生きと自分が何をどう入れようとしても、待てよ。本当に入れようとしているか。 いろいろなアプローチが必要だ。で、自分がやると不自然で棒きれみたいになってしまう歌を(どんな歌でもそうなってしまう)不思議だ。声が生きていて自然で音楽になっている。一体何を込めたらあんな声が出るのだろう。
声の豊かさと丸い音色。音楽を感じ、何も考えずにあれをやったら自分から離れまくるのはわかっている。が、言葉でいってみたり、リズムだけ気をつけようと思ってやったり、感情を込めてみたり、表情から入ってみたり、あちこちから取り壊していって、柔らかくしていかなければならない。ここのところ、声そのもののトレーニングの仕方が甘くなっている。(※短時間超集中厳守)
ミーナのような声になりたいということではないけれど、他の歌い手でもいい声だなあと思う人の声は丸くて柔らかい。きつい声はいやだ。丸くてグーンと伸びていく感じ。またカンツォーネの歌い手とシャンソンの歌い手では声(の使い方)が違うと思った。カンツォーネは伸びやかに伸びやかに太陽めいっぱいに浴びてという感じだが、シャンソンは深く深く声を小さな穴から光が射し込むように集中させて語りかけていくという感じがする。自分の声は、どんなふうになるのだろう。
RITA PAVONEは少年のような魅力を持った人だ。出だしのところを丸い声ではなく、ささやくように息の方を多く歌っていたので、どうしても口先だけの甘ったれ声にしか聞こえなかったのだが、よく聞くと、やはりそのなかに生き生きとした彼女の調子、RITA PAVONE調とでもいうべきものを感じた。声ではない息の歌、あれが支え、体で完全にコントールするということだろうか。音を感じて自分でやるときにはもっと体のなかに重みを感じて声にしていく。
息、重さ、歌。歌の大きさを感じようともせず、ミルバと自分の間にどんな壁があるのか、明確に知ろうともせずにきた。歌の重さがかなわない。重みに太刀打ちできない。これが体に入っている、いないということなのかもしれない。いくら上でがなっても、メロディを追っても歌詞を覚えてもこなしても、もっと底の方に本流があり、それに届く努力をしなければ、本当に歌えるようにはならないのだ。
これが私の安易に歌おうとするミロールと、ミルバのミロールとの違いだ。何が違うのか、細かく具体的に示すことはできない。ただ、何かが違うと感じた、それができるようになるために練習という手段があるだけだ。声を出すことにとらわれるのでない、ぐさーっと切り込んでくる。最初もだが、最後のLa…La…La…、La、La、La、のところだ。たぶん歌おうとする感覚、音を追う感覚ではこのようには入れない。鋭さ、柔らかさ、音楽の濃さ、隙のなさ、音と音の間の緊張感、そういうものすべての次元が違う。何も落としてはいけなくて、そういう練習をしなくちゃいけない。
オルネラ・ヴァノーニ、歌詞のないところを声だけでリズム、メロディ、曲の感じが出せること。声のなかの豊かさ、聞くと自由で深い動きを感じるビブラートなどは共通している。歌を歌うというのは普通のテンポ、平常心を保っていてできることではない。高いところで集中力、感動、エネルギー、意識と声が一つにならないといけない。
CATERINA CASSELI、リズムは曲のノリに合わせてなんとなく声が出て気持ちがいいから、というところでやっていても、人の心を動かすものにはならないものだ。頭が自分を制御し、もっと大きな行動に出る前にトレーニングがトレーニングのまま終わってしまうことの、なんと多いことだろう。今はこういう練習をしているんだから、そこからは出ようとしない。そういうときは音楽に戻り、これでよいはずがない思い、また常に人前に出せるかという線で、練習をすることだ。やはり声。この人もだ。声に何が詰まっているんだろう。
PATTI PRAVO、美女。この声は、かれているのかしら。何となく伸ばしているんではない。言い切るのだ。伸びているように聞こえるけれど、感覚のなかでは完全にことばを言い切っていて、その余韻のようなもの。完全に自分の意識内において音を処理する意識の方が、発する声より大きく先にいっていること。カンツォーネもだし、自分が惹かれる歌は骨太で単純。
1.息を太く長く吐く(このとき息は一定に減退しないように)
2.胸を開けながら1を行なう。3.のどの奥を開ける。このとき上あご下あごの両方とも上下いっぱいに開く。そして、ハーーーと声を出してみる(のどの奥がみえるくらいに)。4.それができるようになったら、123をいっせいに行なう。一つになるように。5.また、それがクリアできたら体を使いながらやってみる(声が縦に出るような感じをつかむ)。普段アゴが今日のレッスンほど使ってないし、開けてないのでこんなに開けなくてならないのか、と思った。のどの奥を散々気をつけながら開ける練習をした上で音階でハーという練習をしていたときに、とんでもない、どでかい音が出てきた。今まで聞いたこともないような音だ。もしかして、この音を鍛えればいいのかもと思った。このレッスンは普段にもぜひ取り入れていきたいと思う。
久しぶりに基本の基本。ハイというタイミングをつかむ練習。息を充分に掘ってから、ハイという練習をしたが、これがまったくできなくて驚いた。普段、前よりも息や声が深くなってきた、と感じていたせいか、このように最初から息を吐いて、そのタイミングをつかむことをおろそかにしていた。無駄な力は入っているし、先生のいわれているように充分に息を掘るのを待てずに声に出しているような感じだった。準備運動をしながら、でもこのように原点の練習は必要かなと思う。もっと「はまった」という感じが出るまで続けていきたいと思った。
拍を手でとる。演奏する側として“リズム”“乗り”“ビート”を感じられるようになること、勝手に自分で浸っているだけでは聞いている方に不快なだけ。リズムが安定していてキープできること。ただ拍を数えればいいだけではない。楽器が入ったり抜けたりしても、揺らいではいけない。聞く側はリズムに浸って眠くなったりするが、演奏する方は心地よくなってどんどん出していく方向へ行く。リズムは体のなかで取る。裏拍をまず、取る。リズムが安定して取れているかは、見たらわかってしまうもの。。一乗ってくると、崩れる。すごい集中力がいる。“こうやりたい”は、ギュッと体のなかに入れる。8ビート、4ビート…など、リズムによって波が全部違う。手で叩いてできないことは声では、もっとできない。リズムは点ではなく、まわっていくもの。強拍と弱拍を、もっと区別する。が強拍も弱拍も“うち”に入る。それをできるだけ出す。 確実に腰で感じることを出す。音楽が高まり強まったりしたら、早くなってしまいがち。大きくなっていく。“乗り”を絶対最後まで崩さず、放さない。これに声をつけていく。
まわりの人を釣り込む“乗り”“歌”となると、全部そっちに気が向いてしまい、ピアニストがリズムを取れているのに、歌い手が違うところに気がいっている。。一お客さんには全部ばれてしまう。感じたことを全部手に集める。一一体の動きを大きくしてしまうと、“乗り”がわかりづらくなる。“やらなきゃ、やらなきゃ”よりも、落ち着いて聞く。ゆっくりな曲はゆっくりだからといって、フニャフニャしない。“刻み”をはっきりさせる。盛り上がって解放して出すところは、一歩手前にないと、その感覚が出せない、曲なりに乗せるだけだと乱れる。聞いてそのまま呑まれまいこと。だらしなく下から上へのぼらない。一流の人がやっている手間を省いて“自分は、こう”では無理。体で乗りが出せるようになること。一乗りの違いがわからなかったら、ひたすら聞く。 サンパは2拍子だが、マーチと一緒にならないこと。いつも中心で握り、自分で出す。 JUSTなリズムでなければ使えない。余裕をもって出せるまで、安定してできるまでやる。“何かこんな感じ”で終わらせないこと。
言葉について。まず、何か一つの言葉を自分で発してみる。ごく普通に。どうか。何ともない。何も起こっていない。次に表現することを考える。そもそもそのために歌うのだしこの場に表現能力を磨きにきていると思って過言ではない。声を出し、表現してみる。自分なりに張りをつけ、かなり特定のシチュエイションもいくつか用意して、想定して出してみる。どこかで聞いたような声。自分は最近になって直接的に演劇の舞台を見には行っていないが、どういう訳か劇団俳優になったつもりのような声を出すのである。小学校くらいのとき、何度か学校を訪れた劇団の印象が強かったのだろうか。また、今になって舞台を見れば、その微妙なニュアンス、使い分け、奥行、深さを見ることが少しはできるのかもしれないが、この日の自分がやっていたのは、もう小学生が彼らを表面的にモノマネしたような、浅はかさが恥ずかしかった。
自分の普段の生活のなかでの声でやってみる。不自然さはないが、そんなに表現とは生命力や影響力がないのか。体を思い切り使ってみる。オペラ歌手のような、また上っついたモノマネ感がある。自分のやることは、それくらいしかない。言葉について、その何通りしか選べない。それくらいにしか考えていないという自分も入所以来、半年が経つ。もう半年だ。半年といえば、かなり長い期間だ。季節も変わったし、生活もまた、変わっていく。そのなかで自分はどうか。思ったように変われたか。確かに日々は変わった。芸術というものに鮮烈に出会ったし、自分の大きく欠けた、とこかで未熟で放っておかれたままだった部分、性質に気づいた。トレーニングも次第にしっかりとしたものになりつつあり、毎日汗だくになれるようなった。だが、どうして「大丈夫か、ベストか」と考えてしまうのだろう。もう、この時点で根本は何も変わっていないことを暗示する。
本当にやれるだけやっていれば「もうこれ以上はできないもの」と他の要素を考えさせないはずである。その上、毎回のレッスンがあたりまえになってはいないだろうか。確かに先生たちの前では、音楽的にも、歌に関しても、言葉に関しても、声に関してもあまりに次元の低いのかもしれない。一瞬にしてそのことを暴露されてしまうことだろう。しかし、その前で萎縮し、ただ謙遜しているだけでは何のためにきているのか。人まかせにするために、自分に区切りをつけるためにきていると何ら変わらないではないか。何もわからず、ただの過信ともいえた時代の自分の無邪気さの方が、ややもすると光っていた部分があったのではないか思うと、本当に今の自分がだらしなく、弱くて、胸倉をつかみたくなるなるほどである。
プロが自分と決定的に違うのは、息を流しているということ。息を吐かなければ声を出してはいけないくらいに思って練習をしなければいけない。CDをよく聞くと、こうしている、ああしているというところで自分がやると、声だけ=のどだけで、そうもっていってしまうが、歌っている人はしっかりと息を吐いている。とうして無理なく自然に聞こえるのだろう。歌えるのだろう。自分の声の出し方はまだまったく作っちゃっている。自分でもやっていて音楽に乗れないというか、不自然で1曲通したあとは、下あごからのどにかけて、痛くなってしまうし、何かやっているので、1回聞いたらもう聞きたくない。息のないところで、息が下にあるのに上半分だけに歌にしようとすると、どんどん上半分だけで声にするしかなくなって、声とかことばとか音のとり方とか、1フレーズが呼吸に乗っかっていかなくて聞きづらい、苦しい、自分でやっていてつらいものになってしまうんだろうと思う。
歌い慣れるという初歩的なことを、まずやらなければならないのと、歌を体に入れていく中で、あちこち力が入ってガチガチになっているのを取って、柔らかくしていく。特に力が入ってしまうのは高音のところで、下あごが固まってしまって声がどんどん出なくなる。息が胸に上がってきてしまうのを、できるだけお腹でもってくるようにして上半身はリラックスさせる。息を吐いたときに、みぞおちやわき腹がへこんでしまうのはよくない。胴体の幅はそのまま。息の支えは思ったより下の方にある。背筋とわき腹が膨らむと同時に、へその下が引っ込んではいけない。ここで、息と声がつながっているつもりで声を出す。肋骨を柔らかくするつもりで、胸に力を入れないで解放しておき、意識はいつも、へそ下と骨盤にあるようにする。
レッスン当日感じたことは、自分の力のなさ、村上進の音楽性の高さ、その村上進とMILVAとでも、ずいぶん違うということ。声や体の部分での差は、あまりに歴然としている。この課題を持ち帰って、1週間みっちりやってみた。まずイタリア語でやってMILVAの感覚に食らいついて、安定してきたところで日本語に変換してみた。すると今さらながら、日本語の難しさを痛感した。地の底から聞こえてくる/La forza grande e pura che mi servira、これに一体どう対応するのか。特にグラアーーーンデのところ(アーーーンは、ーーーではなく、ローリングするような感覚)。結局、村上進もそうだが、日本語だとどうしてもダイナミズムに欠ける。点で入れることができないので、呼吸を大きくとると、ともすると入れっぱなし。少なくとも「たましい」ということばを崩すことはできない。イタリア語で3つ入れているところを2つは流して、あるいは浮かせて、一つに絞り込んでやるしかないのだろうか。気持ちとしては、一つも捨てたくない。もちろん、ギリギリとる努力を惜しむつもりもない。だが、そろそろ「くずれてもいいから…」はやめなければ、村上進は越えられない。
トレーナーはスゴイと思う。人の声の状態がわかり、それをまねしてた。そっくりだった。声質は違っても、声の出し方がそのままになってた。人が直されているのを見て、「やっぱり自分じゃわかんないのだなぁ~」と実感。あんなにていねいに、あんなにそっくりにやってくれているのに。しかも、ひびきがまた、スゴイ。前々から思っていたことだが。体中で鳴っているような声だった。間近で聞いてよくわかった。分厚くて密度が高くて、とても今の自分には出せない。出そうとしても薄い声になっている。テープにもし録ったら、その差がもっと明らかになるだろう。さて、今回のレッスンだが、まず音が高くてのどにきてしまう。ポジションのキープがまったくできないので、どんどん体から離れていってしまう。途中で持ち直そうと思っても、また、すぐのどにきてしまう。上のドくらいでもうダメになっている。体に力が入りっぱなしだったし、息を吸って1音目くらいなんとかなっても、そこから先は厳しい。あと呼吸や声のことを優先させていくと、音楽が雑になってしまう。そこのところも注意された。いっぺんに全部できるわけがないので、まず声は「あ、ここで体から離れている」など、もっと自分の状態をチェックしたい。今回は声を出すことに夢中になった気がする。(
以前出た、あの深い声をみんなに、先生にアピールしたかった。ただ準備があまりなかったせいか、あの声は出なかった。立ってやるより前傾の方がまったくいい声が出てた。ポジションのことまで考えてなかったと思う。福島先生のレッスンは、一人ずつ回す回数が少ないので、その分緊張感があったのかも。一回一回を全力で出していくには、やはり落ち着かなければ。先生に習ったことは沢山ある。日本人はひびきを優先し、そのことしか頭にないから動きをつくることができない。音が一つひとつバラバラで、プロの線のフレーズに比べて、日本人は点のフレーズになっている。体もまったく足りていない。
先生の声が今日はすごいよく聞こえた。先生の「ハイ」はどこにもかかってなくて、クリアでまとまっている。楽にポンと投げただけなのに。今まで気づけなかったのが情けない。あの声も共鳴している。本当に注意すれば、まだまだわかることがありそうだ。いつも体はほぐしていこう。いい声が出るには、それなりの調整や準備が不可欠である。まず自分のなかのいい状態というのを探し出し、それを毎回のレッスンの前に持ってこれるようにしよう。声を一つ出すにも、目的を一つ持つこと。ただやみくもにやっててもどうしようもない。
上のクラスの人にも、現状に満足してしまい、先が見えなくなる人が多いという。私が以前ジムで出会った人もそうなのだろう。感覚は進歩していくのだから。目標もどんどん修正をかけ、高いハードルを作っていかなければならない。とりあえず今日のレッスンは集中できた。それがよかったと思う。