一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

「スランプと中だるみ」3629字 1091

「スランプと中だるみ」1091

 

 

「最近、スランプで」

 大体、世に一つとして何も示せていない人が、スランプなどということばを使ってはいけない。それは、実力を認められた人が、他人からいわれることばである。

「調子が悪い」といっても、必死にトレーニングをしているときに調子のよいなどということは、それほどあるまい。

まして舞台に対しては、最善の準備をするようにしても、最悪の状態も少なからずある。

 

 たとえば、私も3回に2回は不調である。

最低の状態において、一人前にやれなくては、どこにも通用しようがないのである。

それゆえ、長く第一線にいる人とは、大して力の差がないと思えても、思いのほか、差が大きいことを知ることだ。

 

 うまくいかない人のおよその要因は、ただの中だるみである。

それは、まったく力のないときよりも、やや力をまわりから認められはじめた頃に多くなる。

 

 見分け方は簡単である。最初の1年の心づもりよりも、志が大きくなり、可能性が大きくなったかどうか、それによってわかる、大変なレッスンをしているかどうかである。

 

中だるみは、具体的には、ここでは次のようなことで現れる。

1.レッスンやイベントに出なくなる

2.アテンダンスシートを出さない、内容が薄まる

3.ステージに新鮮さが感じられない

 

 つまり、単に他の人より、長くやっただけの勘違いのキャリアで、知らずとおごっているのである。誰も認めてもいないのに、自ら、芸道を卒業、もしくは放棄してしまう。

 

 

 道というのは、上達するに従い厳しくなり、さらに努力を要する。

力とは、より過酷な条件において問われるようになってくるから、日頃よりそういう毎日に備えなくてはやっていけるはずがない。

そのステップをあがらないように自ら、そのようにしてしまうのは、その方が楽だからだろう。

 

自分よりもやれる人よりも、やれない人のなかで評価を得て安心していては、外に認められるわけがない。たかが養成所などでは、段突に抜きん出ていて当然でなくては困る。

 

 自分の初心、初年度のことばを裏切り、へ理屈と思い込みで、いつ知れず、そのほか大勢のギャラリー、つまり学べない人となる。

それなのに心のなかでは、「私は成長したし、自分が正しく、思ったようにやれている」と思っているから、悲しい。こうして、また新たな才能や個性がそこで命運を絶たれてしまう。

つまり、精神的な自殺である。

やがて本人の作品がそれを裏切っているのにさえ、気づけなくなる。

 

 そういう人をみるにつけ、「へたでも一所懸命やっていた、それゆえ悩み苦しんでいた。あなたの方がずっと魅力的だったし、好きだったよ」といいたくなるが、そうなってからいってもしかたあるまい。

 

「子供は皆、天才、20歳過ぎればただの大人」といわれるのは、近づくほどに、昇るほどにいろんな知識や情報が入り、それにまどわされるからだ。

本質を求め続けるのが大変なことだからだ。

 

最初のレッスンは、先生がセットする。

世の中を広く知り、たくさんのすぐれたものも入れていくにつれ、自己が確立していかないと、それを何にも使えなくなっていく。

 ただ退屈をまぎらわすためにすぎなかった表現ゆえに、その希求が乏しくなるにつれ、何の必然性も、それを現わす才能もないことに気づいていく。

やがて、大切なのは、実生活であり、舞台ではないと、あたりまえのことがわかる。

そして、表現が退屈になる。

 

そういう人は、

1.やれていたのが、いかにその場や他人のおかげなのかをわかっていない

2.自分本位のマニアックな追求の限界を知らない

 

 結局、ものごとの本質追求よりも、まわりの見方や思惑の方が大切であり、形や甘い情に流される方が好きなのである。

そうでないようになるために、ここにきたのではなかったか。

「ここに入ったときのあなたのモノトークに勝てるか」と聞きたい。

 

そのときよりも、突き詰めようとしていないことを許しているのは、いったい何なのだろう。

誰なのだろう。

 

 

 他人のことばを自分のものとして、そのままに使い、そのことがわからない。

そんなもので通じていると思い、やれているから、始末が悪い。

「そんなことなら、あなたでなくてもいえるし、やれるじゃない」と、その事実をつきつけることから始めなくてはいけない。

にせの宝の地図を大事に持っているから、どうしたらいいものか。

早く、へたに気づき、何もないという現実からスタートしなくては、きっとこれまでと同じになるはずだ。

 

 今までそんなことで、ごまかせるほど甘いところで過ごしてきた(あるいは、そういう生き方に誰も関与せずにこられたほど、他に表現してこなかった)のだから、本当に自分を白紙にする努力をしないと、ここでも同じ轍(わだち)を踏む。

 

 自分でもこの程度でよいのと思うレベルで生きて、そのレベルの作品をつくりたいなら、そういう退屈に耐えうる仲間を求めるしかない。

つまり、消費行為にすぎないカラオケの世界である。

 

だから、そういう人々は、すぐに若くなくなり、活動も続かない。

頭ばかりがでかくなり、何一つ人前に示せない。

まわりは自分のポリシーでなく他人の思惑で動き、それにさえ気づかぬ鈍さに閉口しているのに、少しも変えようとしない。

 

 それを心地よく思わぬアーティストは、

すぐれたアーティストたちのなかでさえ孤独なものなのである。

 

 

 

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【基準と規律】

 

 ここにいること 

研究所での在籍の条件や価値観は、明確にしているつもりである。

それは、音声で表現する舞台で必要なことを、基本として徹底して学ぶための場である。 

 

社会的に関わるには、ルールが必要であり、それはおたがいを尊重し合えばこそ、破ってはならない。

  1. ここで学ぶべき目的とそぐわないとき
  2. すべてをかけて客に問うべき段階にあるとき、
  3. 必要ないとき、 

あなたがその人を必要でも、その人にあなたが必要ないことはいくらでもある。

よいとか悪いとかでなく、時期やタイミングが悪いこともある。

そこで相手を慮るのがマナーである。

 

 あなたが、「それは違う」という権利があるのと同様、相手もそういうあなたのいうことを違うという権利を認めなくてはいけない。それができないのは、幼い子供と同じである。 

 

どこでも人と人が関わる場には、みえないルールがあり、それに配慮する義務がある。それさえ怠る人に、自分とか自由とかを主張する権利はない。

人と人とが、きちんと向き合うというのは、不躾に自分の感情や考えを認めない人、拒む人に、押しつけるのを許すことではない。 

 

相手の何かを否定する必要などない。それ以上のものをつくればよい。そういう人は、わざわざ相手を否定する必要もないから関わらない。職場でも怒られたからとやめる人も多いそうだが、それで、うさを晴らす根性はさもしく、やはり子供である。「くやしい」と思ったら、実績をもって、相手をしのぐことである。

 

 私は、あなたたちの生き方も作品も考え方も、何ら否定していない。自由であってよい。

ただ、できる限りの準備したとか、これ以上できないほどがんばったのに、なぜ自分やその仲間をほめないのか認めないのかといわれたら、ここは私が自分のポリシーにおいて死守すべき場だからというしかない。

そして、何よりもそのことを仕事、立場、役割として、あなた方に求められたはずだからである。

それができなくなれば、私はここにいられないし、いる必要もない。

 

 確かに、ほめるのも、もちあげるのも、勇気づけるのも、こうして小言をいうよりもたやすい。そうして、できた人間と認められる方が心地よいかどうかはともかく、いらぬ気を遣わずに済む。 

しかし、どこの世界に一所懸命やったとか、必死に準備したとかいうことをもって、やれる人、認められるということがあるのだろう。それは、何かをなすのには当然のことであり、問われるのは作品のレベルである。

 

 私がもっとも孤独と闘いを強いられるのは、ここである。私の訪れる他の世界には、自らやっていて作品をつくれる人しかいない。

しかし、そんなことを考えずに生きている人と近所づきあいを楽しめる日本においては、向上心や成功を求むよりも、そういう人を自分のレベルにまでおとしめて、自分をもいやしめることになりやすい。

 

 

Q.宇多田ヒカルのため口について、どう思うか。

 

A.答えるまでもなく、相手が不快に思うことは、そういう目的あるいは効果をねらうのでなければ、さければよい。それがいやなら、インタビューやトーク番組などには出なければよい。

審査員に悪態をつくバンドの連中も同じで、他人の土俵には自分の作品で勝負できなければ黙って引き下がり、よりすばらしい作品をつくり出せばよい。それが、ため口であろうとなかろうと、私は作品でしかみないので、何とも思いません。

感情のままの歌が、これほど評価されてしまうことが、この社会の幼児化を象徴しているように思う。作詞作曲での才能は、認めざるをえないでしょうが。