レクチャー
【「体と声のレッスン」体のトレーニング 3704】
1)歩く
2)はねる、ステッピング
3)リズム 重心移動
4)躍動感
5)上昇感と下降
6)スピード
7)圧力
8)統一性
○しぜん体であること
このマイクをもつのに、力いっぱい入れてみて、5kgぐらいのものをもつほどに筋肉を使っているとしたら、それはおかしなことです。しぜんではありません。
私たちは日常的には、一つひとつの動作について、その状態をしぜんに行っているわけです。日常レベルに使って働いているから意識しないだけです。
病み上がりに同じものを持ち上げようとしたら、こんなに重かったのかと思います。それは、しぜんに動いていないわけです。しぜんであるということは、体の能力を発揮させるのにとても大切なことです。このへんは音楽とか歌にも関係してきます。
最小限で最大の効果をあげるというのは、歌でも同じなのですが、それは体ではとてもわかりやすいです。より力を入れていこうと考えるのではなくて、無駄な力を抜いていこうという方に動くはずです。
ところが、ここがトレーニングの初期の段階で、ヴォーカリストが間違えやすいところです。力を入れて大きな声を出すのではなくて、力を抜いて同じ声をキープすることが大切なのです。その余力の分をより強く出したり、高く出したりするところにまわしていくという形をとって、可能性を大きくしていきます。力を入れてやることができたと思うから、その次ももっと力を入れてやろうとするのだと思います。これでは無理と限界が早く来ます。
前の音を確実にするというのは、力の段階でできたということではなく、しぜんな状態でできていないといけないのです。しぜんに力が抜けてできていて、それで次にいけるわけです。
だからといって一歩一歩というわけにもいきません。無理してやって先の方ができていないというのをチェックするわけです。このへんは体づくりです。
歌だとわかりにくかったり、間違ったりすることを声づくりの段階でしぜんに行っているわけです。
○無意識で感覚する息
呼吸のトレーニングも同じです。普通は機械的に「ハッハッハッハッ」と繰り返していきます。最初はそれしかできないわけです。
もう一方では意識して1つずつ「ハッ」「ハッ」と、今のは、どうだったのかと気にして行うことです。しかし、その場合もやり終って変えるのはよいのですが、やりながら考え直すのはあまりよいことではのです。
体から入るしかないのです。呼吸はたくさん量を出せばよいということではなくて、呼吸が結果として深まっていくようになっていることが必要です。呼吸が深まってくると感覚が変わります。飽きずに変えていけばよいです。その変化を自分で感じることがトレーニングです。
リラックスしたら歌が歌えるようになるといっても、それは今の状態として歌えるようになるだけです。今の状態でこわばるよりは、リラックスした方が歌えるのはあたりまえなのです。
ところが上達していくということは、確実なリピートだけではなくて、そこでオンしていかないといけないのです。そのために変えるということが絶対的な前提なわけです。
その変化というのを自分で感じ、気づかない限り、わからないわけです。できたときには、変化というのはもう消化され、それがあたりまえのことになります。感覚でいうのならば、常に感じた変化に対して体をつけて待つしかありません。無理をしぜんにしていくのです。新しいことをそこで感覚にして、変えるわけです。
○感覚を変え、間違いを容認する
スポーツのトレーニングは随分と科学的見地を踏まえて、合理的になりました。精神的に鍛えていけばプレーがよくなるというのとは違います。
歌はアーティックなものですが、一流のプレーはそういう段階をへて、最終的にはそういう感覚になっていきます。
同じパスワークの練習をやっていても一流になる人は一流のレベルで何か感じて、変えていくのです。感覚のところでプレーをしているわけです。その変化を感じるということは、新しい体験です。その体験がどうレッスンで起きるかが、とても大切です。
30分のレッスン、1時間のレッスンのなかで10ぐらいメニューがひらめくような新しい体験をそこで起こしていくことです。その変化をゆっくりと味わうのです。楽しんで味わっていくことです。
といっても、人並みになるには機械的に覚えていかないといけないとか、量をこなさないといけない段階もあります。なかには、「ハッハッハッハッ」と自分の呼吸と関係なくやるような段階もあってもよいと思うのです。
理想的にはできてきたら1回やって1回とまって、何ができているかを確認するべきです。自分が楽しんだり、味わったりするのと同じように気づくということです。
伸びた人とかをみていると、そのときは没頭して休みもないのです。もう少し休んだらどうかとか、息が浅くなっているから、もう少し間をあけてやった方がよいとかいってもあまりきかないのです。ひたすら、やっている時期があることがわかり、そこでは何もことを問わず、待つことにしました。
つまり、少々すぐれていくつもりなら、トレーニングは、その人のベターな状態をリピートできればよいのですが、一流になるなら、その人のレベル、つまり、人間の思っているレベルを超えなくてはいけません。
ということは、その人にできそうもないこと、つまり、すぐれた間違いが起こらなくてはいけないのです。そのときに自分のものではないそのことに気づき、取り入れられるかが才能というものであり、そのために、日々の厳しいトレーニングがあるのです。そういうふうな形で体にしみこませるのが、本当でしょう。
これはどのレベルでどうなのか、その人のタイプとか性格とかそういったものにもよるかもしれません。ただ、個人の自発的な動機にうながされているのですから、その動機がなく、人がそうやれといったからやるというのでは、何もなりません。自分のペースでやればよいのではないでしょうか。そのペースをどう考えるかということです。
○腰を中心にする(統一性)
少し体を動かすようなことをやってみましょう。
最初は遊びです。ただ歩くだけです。テンポ80です。こういうところからリズム、メロディを感じ、楽曲もおこしていけばよいのです。
重心だけの移動から、ステッピングしてリズムと流れを感じていきましょう。自分でどこに入れても構わないです。
日本人というのは大体左右しか動けない。前に出ることと跳躍することを覚え、そこのところでリズム感を、重心=腹で考えることです。それから腰を中心に全部を結びつけていくのです。要は体が腰だけになればよいわけです。腰だけがあがったりさがったりしているような感覚です。
そして自分の感覚をもう一度つかみ直します。それが手先とか指先とか足の先まで全部に行き渡り統合されていることです。そこから跳躍感みたいなものが感覚として出てくると、たての感覚にゆれてきます。(日本人の場合は横しかゆれない人が多いのです。)そこから上昇感を感じていくことが、歌でもとても大切なことです。
踏み込み、そこで跳躍します。上昇感と同時に下降感がそこに出てくるわけです。あとはそこでのなかの速さです。速度感というのがあり、動きに変化が伴ってきます。これでテンポ100、これでテンポ40です。歌のなかでいうと1つの圧迫感、そういったものと開放感みたいな気持ちで落ちついてきます。
しぜんに手がぶつかりあうととても痛いわけです。それが武道の極意です。力を入れて相手にぶつけたときは痛くない。力を抜くと腰が中心になって働くからです。それで頭をあげてものにぶつかると、ものすごく痛いわけです。それは、腰と一つになっているからです。
日常のなかで体が統一できているから、すごい力がそこで働いている。歌うときにはそれを声の動きのなかに利用するわけです。出しながらも、そのもとには統一性をもっているということです。
動きは中心と結びつき、放射します。
トレーニングはその自由を獲得して成立するのです。とにかく最初は、何をやっても、待つようにしています。楽しくして、盗みやすくしているのです。実のところ、教えてもらいにくる人は、何も学んでいないわけです。自由=リラックス、出発点に立つこととは、自分と自分の体が動ける準備ができていることです。
○動きを声に表す
もともとことばと音の動きいうのがあって、それがオペラとか民謡とかいろんなものに変わってきたのです。詞というのは韻をふんで、韻のリズムが動いていくものでした。ことばも同じです。それが音として捉えられたわけです。
ことばと体の動きと音を3つにわけるのは便宜上のことで、1つのものに捉えていけばよいでしょう。発生をみても衝動の結果が動きなのです。音も動きです。
何かをみて「あっ」というときに体も動き、ことばも出ています。そして動きも伴っているわけです。歌は頭で考えるのではなく、その衝動を表すというところでやっていくことです。
歌には基本となる発声練習や詞を心を込めて読む勉強があります。歌は音楽で心を学ぶことがもっと必要です。そして、そのまえに楽器としての体の動きを捉えておくのです。
基本的にいうと、一つの衝動の結果が動きだというような捉え方をしていくことです。そうでないと肉体である体と情動と精神的なものが、ばらばらになっていて、一つになっていきません。
たとえば、寒いと身震いするわけです。これは体に置き換えられています。そのときに、暗い気持ちになってくるということが起き、これは情動=心に表れます。そして「寒い」ということばになるわけです。
そこでは他人を想定しているのです。「寒いですねえ」と口に出せば、メッセージ性をもつのです。
その逆のことも動きから、起こります。跳ねていても単に跳ねているのかそこで何かを感じて跳ねさせられているのかは、トレーニングとしてまったく違ってきます。跳ねているうちにうれしくなってくると、うれしくて跳ねているのと同じレベルで、結びついてくるわけです。
楽しい歌をことばや音で歌っているのに、その表現とか動きが伴わないと、伝わる力は弱いものとなります。
役者は、このどれかを消してみて一つで表すようなことをトレーニングします。さらに「アイウエオ」のことばで怒ってみるとか、「アイウエオ」のことばで泣いてみるとか、そんなことも含めて訓練としてやります。
パントマイムは、体を各部のパーツに分けて動かします。表情トレーニングも同じように、段階をふんでいきましょう。喜ぶ。次に跳びあがって喜ぶ。その跳びの感覚を覚えておく。それを声に出したところに歌をつけていく、メロディをつけていきます。全部、もとからたどっていけば、体のことはわかりやすいと思います。
動きというのは基本的に中心で捉えることです。腰が中心ですから、そこからきているものは力が大きく働くわけです。声にしろ、手にしろ、そういったものは腰からいうと周辺についているわけです。その距離が一体になるということは、自分のなかにそれが全部入っているということです。
こういうわけでトレーニングというのはトレーニングになるまでが難しいのです。その一体の感覚になったところからはじめてトレーニングに入れるのです。そこまではその統合感を自分の感覚で捉えることです。
これはステージではなくても、楽しいことをしているときでも体験していることなのです。
思いっきり生きている人は、ある意味では自由です。それが自分で歌っているときにできることです。
トレーニングというのは束縛されたり、型どおりというようなイメージがあるのですが、むしろトレーニングで自由を獲得しないと心は動かないでしょう。本当の自由を獲得すると、ひらめきがものすごくわいてきます。他の人から、よくそんなにひらめくのといわれるような状態になるのです。そこで自分の心が伴います。
○レッスンでの気づき
こういったことを指導するというのは難しく、できているということで信頼しています。信頼するということは許すということだから細かくいわないわけです。間違っていても当人が間違っているところで気づかなければ、それだけと思っているから、一所懸命やっている人に対しては待つしかないわけです。
よくわからないことも最初に決めつけてしまうといろんなことがいえますが、本当にその人のためにはなるとは思えません。今までみてきて、全て教えてくれると思って待っている人はもたないし、たいしたところまでいかないのです。いつも、こちらが待っているのですから。
何か教えにもらいにきているというスタンスでは、何も学べない感じがするのです。いろんなアテンダンスシートをみて、よく教えていただいていると書いてある人は、やがてもう教えられていないと思うようになると終わります。多くは一通り話を聞いたというところで飽きたり、自分でできると思ってやめます。
本当のことを教えてもらっていたら、相手と同じレベルになるか超えるまではやめられないはずですから、それは、違うのです。師へ教えるのがレッスンです。自分でみつけ、アピールしていかないと、教えてもらうということは、ただのショッピングで少しもクリエイティブなことでは、ありません。
生徒が伸びないなどというのも、弁解になります。それは、先生が成長せずに、テストでも成績を上げさせる能力がないと吐露しているようなものです。いくら先生がよくても教えること自体の限界はすぐにきて、そこを超えられないということが問題です。
半年から1年ぐらいの内容で終わってしまうのでなく、自分でみつけていかないとだめなのです。2年までではなく、そのあと一生かけてどう学ぶのかを知るのがレッスンです。
それは自分のなかで成長させていく。たとえ先生がいようがいまいが、ピアノがかかっていようがいまいが、自分でそこでやるからよいレッスンができるわけです。そういう時間が必要だと思います。
そこにくる人たちの感覚とかモチベートをどう高めるかが、課題では困るのです。がんばっているうちはよいのですが、なれると慢心します。その人にまかせるとその場が滅びてしまうから、プロではないのです。プロ意識をもつというのはどこでもやっていけることです。
○リラックスと精神集中
人が増えることよりも、各自の意識があいまいになりかねないということを、心配しています。遊びついでにきているような人もいてもよいが、何が遊びで何がレッスンかというのも難しいことです。人の邪魔をしないというのは大前提です。音楽を聞いてそこで体を動かすには、どう感覚を使うかということです。
トレーニングのなかで自由になって、リラックスするのは、とても難しいわけです。歌い手がリラックスするというのは崖から飛び降りるみたいなもので、風呂場に入って「いい湯だった」といっているような、リラックスとは違うのです。八方に集中している状態が自在であることが必要です。
1つのことに集中して何もみえないのでは全然集中できていないのです。集中はしていないようにみえても八方が全部感じられて音がどこから来ようがわかるのは、自分の気が自分の体中から四方八方へ充満しているというような感じです。そこが出発点です。これは武道でもスポーツでも同じでしょう。
それはボールが後ろから飛んできてもわかるような集中力でしょう。
ボールに気合いを込めて投げると同時に「エイ」といってみましょう。そのときの動きをそういう状態を整えて、意図的に出すことからしぜんにしていくのです。自分とその自分の体が動ける準備ができているということが難しいのです。ヴォイストレーニングで難しいのは、声を出す状態をつくることです。
○気持ちの解放
体の移動については、直立不動していてまったく動かないという歌もあります。気持ちがあれば下から上にいく、重いところから軽いところにいくという流れがあります。踊りでも上から下にくるとか軽い方から重いところにいくというのはなく、まず腰に入ります。
ブレスヴォイストレーニングでいうと「ハイ」というところの踏み込みの部分です。リズムでいうと、強拍で入り、落ちていきます。そして脱力して落ちてしめます。踏ん張るとそこから浮いてきて、アフタービートのところとして、下から上にいきます。いわば浮遊感になっていくのです。
方向としては、重い方から軽い方にやっていくのです。一時、声がこもったり、胸の方にいって響きが逃げたりしても、そういう段階であまり気にしすぎないことです。歌になったら前に出します。前に出すことで整っていくのを最初から音にあてて、響かせ全部を浅く歌っているとなかなか深まっていかないのです。
○瞬間力と感覚
次に速さの感覚というのがあります。これは体と音楽のなかで共に感じられるものです。反射的な動きも必要です。何かぶつけられそうになったときパッとよけるというのも反射的な動きです。それに伴い反射的に声が出るということから考えましょう。
歌の場合は1・2・3・4とカウントに入るのですが、感覚として、自分の体に覚えさせておかないとだめです。日本人の場合、大体声が出ないのは、動けない人が多いからです。
最後に「やめて」と叫ぶピアフの曲「アコーディオン弾き」で、瞬時に出れるか出れないかをやらせたことがあります。声だけで瞬時に出せないのです。気持ちをそこまで高め、準備をして、はじめて叫びとなります。待っていたらだめなのです。その瞬間に最大のピークテンションにしておかないといけないという計算が、自分の体で働いていないと遅れます。
「よーい どん スタート」というようなことは、スポーツの選手はできていますね。瞬間的に声と一緒に力をいれて打ち返すテニスのプレイヤーのサーブをイメージしてみてください。力ではなくてリラックスされた状態でできていることが大切です。自分に気合い入れる意味もあるのでしょうが、声を出した方が力が働くのです。
声で動きを結びつけていくのです。ジャズダンスでも声を出しながらやって反射的な動きに対して感覚が磨かれていくのに対して、日本人の場合は遅れます。しかも、のど声で無理に大きく出そうとして、ひずませてしまいます。
もっとしぜんにしましょう。体をしぜんに動かすことでやっているのなら、声もしぜんに出ていなければいけないのです。それから動きそのものを捉えるために、動かして考えるのですが、リズムでも体でも定点があるから、動きがあります。歌いたくなったら、全部歌い切ってみるのです。
音楽に飽きてきたようなら、全部を切ってみましょう。完全に静寂のなかにいると何かが聞こえてきます。
大きな物事が成り立つには、静寂が必要です。創造的なものができるのは、静けさが必要で、それを突き破るとき何かが生まれるのです。
これを体に置き換えましょう。体で何かをとらえるとしたらまず静止するのです。止まった方が全ての感覚に動きに出ます。完全に静止するのが必要なのですが、なかなかそういう時間がとれません。
レッスンのなかでは慌ただしく次から次にいくからです。自分のなかでそういう時空間が必要だと思ったときには、どこかで静止して、はなれて自分の心をみつめるということでしょう。
体の動きも1回止まらないとどこが動いているのか、動いていることもわかりにくいものです。しぜんにできていることは自分では自覚できないのです。そうするとそこまでで、その先のことができないことになります。
○本当の強さとインパクト
声については、よく声量、つまり大きな声を出したいというのですが、大きさではなくてインパクトなのです。動きが衝撃となり受け手に強く伝わるということが大切なわけです。技でいうとしなやかになればこそ強く決まるのです。手が机の角にぶつかって痛いというのと同じで、しぜんな状態で働いていて体の力と直結しているのです。
だから中心がしっかりと見えることで、バランスがとれずに、力が周辺にいってしまうとだめです。エネルギーは最小で最大に働いているという形にしていかないといけません。そのために何が必要かというと、声を大きく出すのではなくて、集約し、コントロールすることなのです。
確かに外国人の声は大きいのですが、そこで一番追いついていないのは集中度です。聞いている人に対して、その人の集中度が強さを感じさせるのです。
これは3分間のステージをやってみたらわかります。3分間のなかで集中を完全に保つということは、大変なことです。それが刺激のベースになるわけです。大きくすると無理してしまい拡散してしまいます。集中とは別の方向にいくわけです。体の動き方も全部中心の静止点から始まるのです。
体のなかに一つに入れて、集中して完全につかむのです。そこで完全につかみきって放さないと相手には伝わりません。役者さんでも大きくとれる人がいますが、単に間があるだけではだめなのです。その前にぎゅーと押し込んでおくから、それがふわーっと放たれるため、間がとても長くとれるのです。普通の時間の感覚とはまったく違うものだと思います。
○声のよりどころ
心と体とことばを一体にしていくのでなく、もともと一体のものだと考えましょう。ことばのもととしての発声は「わーっ」とか「ぎゃー」とかいうもので、体の内部にその理由、よりどころをもつわけです。歌でポリシーがないもの、要は何で歌いたくて何を歌っているのかわからないものは、認めようがありません。
もちろん楽しいなら楽しいでよいのです。時代あだ花のような歌はいつも出てきます。とことん楽しむ歌でないのであれば、その理由が明示されていなくても、そのよりどころで歌っていることです。
それは、ことばというもの自体が体に声を介してよりどころをもっているからです。すると、ことばで表したときにそれが伝わるはずです。伝わらない方がおかしいのです。
だからすぐれた声は体の内部までよめるのです。向こうのヴォーカリストは、体の肉や骨が見えてくるでしょう。そこで伝わる上に感覚で自由に動かせるのですから、アートなのです。
日本のヴォーカリストの多くはそこを絶っているから、それが物足りないのです。繰り返し聞けないのです。1回、聞く分にはおもしろくても、3回も聞いたら飽きてきます。
そうではないものでは、たとえ、わからなくともその人の内部のものが出ているのです。つまり、同じ曲を何十回聞けるかが芸のレベルの高さといえます。
○極端にやる
そして、体の感覚をつかむということが大切です。極端なことをやるのは、自分がどのへんにいるという位置をつかむために、とても勉強になります。感情面でいうと極端に怒ってみるとか、泣き叫んでみるというところから歌に戻したときに、そこまでの表現をやっていたら、普通に表現しようと考えて、自分の頭で考えてやるものよりは、もっとしぜんにはみだせるわけです。
伝わるものが、半分でも総量は大きくなるのです。結局、バランスをとるとか平衡をとるという感覚は難しいようですが、それはいきつくまでいきついたら、ここまででもう先がないとか、ここから崖っぷちだとか、そんなことがわかってきます。そのギリギリと、それを超えたところがすごさです。そして人に伝わるのかがわかります。
極端にやるためには冒険心と勇気がいります。人からこう歌えといわれたのものを、そうではなくするわけです。そして、どうしても効果が出てくると盲信してしまうのです。それは、自分の小さな井戸のなかでやっているからです。
○本当の上達とは何か
体のトレーニングでも、こういうところでのアドバイスで、何か一言いわれたことがきっかけになるのはよいのですが、そこに答えも一緒にあると思うから、身につかないのです。
そのときにはそのことはたまたまあてはまるかもしれないとしても、それがレッスンのメニューとして本当に正しいのか、本当に表現とか舞台に立つことに対して、どのぐらい意味のあるものなのかというのは、よくよく自分で確かめることです。
自分でみつけたものは、そんなに間違えないのです。苦労してたどりついて、誰もそれがよいとは思わなくとも、自分で、これがよいと思うのは、何か自分の体とか生理的なものからくるものがあるからです。それがオリジナリティの元となります。
人にいわれたものというのは、なまじ早く効果が出てしまいます。効果を出すことを目的としているからです。
ここで「ハイ」といって、「これか」と思ってしまうと危ないです。そのまま盲信してしまい、基準の方が甘くなるのです。
すぐできることが必ずしもよいことではなくて、そこでできたことをふまえていかないといけないのです。
自分の体を感じること、現代の生活では、このことさえ難しいものです。
簡単なのは、体の一部を冷やしてみるとか熱くすることです。そういうことをすると、体を感じるはずです。
春先に泳ぐと重い水で固い体を知ることになります。25m泳いでそこであがって青くなるか、もう1回できるかで温度も体調もわかるようになるです。14、5度とか6度までわかります。そういうことを自分のなかで体験としてもっていると、少しは学びやすくなるでしょう。
皆さんのなかにもいろんな経験があるのに、それが総合され、統括されていないと、新たな体験となってレッスンに臨んだことを統合できないのです。これはできたあとから気づくことです。
そのときに、そこまで気づいているわけではないのです。でもそういうことに気づけば、それだけ早く結びついてきます。
できる人は、ことばにならなくとも、気づいているのです。でも、ことばは認識を助けるキーワードになる、文章を書かせるのも、そのためです。
自分の器が大きくなれば細部のことがそこに入ってきます。特に人に伝えようとするときに出てくるのです。
○応用する
いままで体験してきたことを考えてみたらよいでしょう。
スポーツなどで、あのときはこうだったというふうに思い出してそこから入った方が、まったく0で、全然できないと思ってやるよりも上達が早いのです。あらゆるものが応用できると思います。
呼吸をするときは、ころげるところからやります。笑い転げてみましょう。
寝ころぶというのは、赤ん坊になることです。はいはいから泣き声、喃語と習得していくのです。
○姿勢
立っているというのは、無理な姿勢だから難しいわけです。声を出すときにすわったり、四つんばいになるとと、それだけ安定してお腹が動きやすくなり、胸が動きにくくなります。
人間が無理をしてきたところを元に戻してやるのです。すると一番楽な形というのは当然のことながら寝ころぶことです。
重力に対して自分の体を均等に支えるということができるでしょう。足2本で支えるよりも4本の方がよいし、横になって地べたにくっつくほど安定するわけです。そのときに自分のどこが動くかみたいなところから始めてみればよいのです。
地べたに、はいつくのを「水になる」などといっている人もいます。水というのは重心の低い方に流れます。それは自由自在です。
自分を支える力というのを感じてみましょう。腹這いになればお腹に感じるでしょうし、座ったらお尻に感じ、立ったら足に感じます。
自分の鼓動から、リズム、ビートなどの速さや強さを感じましょう。
自分の胸のなかでリズムがどう動いているとかを感覚します。脈がどう動いているかを感じ、そこに全身を意識で、一体にしていくのです。
立ったときには、背骨が一番大切になってきます。人間は背骨をまっすぐにしているというとても無理なことをやって生きているわけです。最初に息を吐かせたり、体を曲げさせたりするときにその背骨をみるとそれがしぜん体になる人は、感覚も柔らかいのです。
慣れるとわかります。歌でも、最初は慣れないから、こわばって足に力が入って動かなくなります。上半身に力が入ると重心があがってしまいます。これは気持ちで負けているわけです。相撲であれ、バスケットであれ重心は低くすべきなのにプロでも注意されるほど難しいわけです。
体を曲げるときも、下に曲げるときは頭から曲げた方がよいし、上に向かうときは腰から起こしてください。そういうふうに人間はつくられているのです。
野口体操のように、地球の重力にさからわないのが一番しぜんな形です。地球にぶらさがっているという感じです。
西野式の呼吸法は、足の裏からの呼吸を足芯呼吸といいます。足を通じて地球にくっついているような感覚を自分のなかに体得していきます。
何となくわかりにくい世界でもやってみるとそういう感覚になっていくのは、確かです。
○体をほぐす
体をほぐすやり方にもいろいろとあります。力を入れ、ストレッチでほぐすとか、柔軟でほぐすというのも、やってみてください。次に、重力に身をまかせ、自分の体重で崩れ落ちるという下降の動きをとりましょう。そういうところから、声や顔の表情だけではなく、体の姿勢も合わせて表現だということをつかんでください。演劇では、手の使い方一つで若い人と年老いた人、男と女と子供、全て表現できるわけです。
あごが前に出ているとか、ひいているとかいうのは、こういうことにも表れるわけです。役者のトレーニングは、それを徹底しているわけです。
体の動きというのは共通してあるわけです。ボディランゲージは体の動きに意味を伴わせるものです。
体が不しぜんであると、歌よりもそこに目がいってしまいます。不しぜんなところの表現の方にいってしまいます。
体というとよくわからないとしても、実際に鍛えて、動かしているのが、筋肉です。だから筋肉を整えておかなければいけないということになります。
合気道など武道も一つの呼吸法習得術です。こちらの気を受けて受けた方が転げます。空手、柔道、剣道も、攻めている方が打ち込んでいるみたいにみえるのですが、呼吸のやりとりなのです。どちらかが呼吸を乱したときにやられるのは、相手を吸い寄せてしまうからです。それは一つの感覚です。
気が乱れたときにばっと気を送ったら、それで、ばさっと倒れてしまうわけです。それはその統一感が破れてしまうからです。そのときには、一人であって一人でないわけです。だから相手が打ち込むのではなく、打ち込まれるところのすきをつくってしまうからやられるわけです。
水泳でも、息を吸うという動作はなく、水のなかで吐いているだけです。吸う動作が伴うようではうまくいきません。口を水面で横にすると、この横にしたときというのは水面よりも下なのですが、その動きによってそこに空間ができて、水面下に空気がひきよせられるわけです。そこからしぜんに体のなかに入ってくるわけです。泳いでいるときに吐いて、その状態が外と一体になっていると、しぜんとうまくいきます。
へたな人は、大きく上の方に顔を上げ、口を開けるから水を飲んだりするわけです。そこで直しても無理です。思い当たる人は、コーチに習うことです。
感覚がそういう部分で一体になっているということが大切です。
○骨盤のスイング
野口体操を簡単にいうと、重力によってしぜんに体が落下します。頭でも肩でも落下するということです。しかし、腰があるからどこかで止まるわけです。それは上から下へという流れです。おじぎするのも同じで、それが縦の動きです。
これ自体がまず上昇感と下降感のところのリズムです。そこで止まったら、今度はそこで横揺れが始まるのです。これがスイングになっていくわけです。
無理に解釈すると、これは直線の世界です。やっている人にとってみたら、それでも曲線だというでしょうが、縦の世界です。それが揺れだすと曲線の世界になって、これがつながって円になってくるわけです。そのときの中心をつかむ感覚が、人間の場合、腰にあたるのです。
時計の振り子みたいに考えてみるとよいです。その腰を中心に動いているところが、リズムと考えてもよいし、律動でもよいでしょう。一つの統一感をもって動いていると、スイングになるのです。このときというのはここにあるのではなくて、この中心に全部あるわけです。ちょうど糸につけた5円玉をまわすみたいなもので、スイング感があるわけです。それを自分のイメージというか感覚のなかで統御するわけです。
これをたとえば自分で動かそうと思ったら中心が狂うわけです。弾力性があって、とてもしぜんであると実際に重みと感じたものが軽くなってきます。この動きのときに吐くわけです。
下にいったときに吐き、上にあげたとき吸うわけです。
吸うというよりもそのときに入ってくるわけです。体がそうなっているからです。
細胞が無意識のなかで統御され、そのことで筋肉が弛緩してくるのです。それが逆になってはいけません。そのことをやることによって固まっていったら、中心の感覚がもてなくなってきます。
もう一つ大切なことは、直線的な動きから横になるときにいったん止まるということです。これは何事でも同じです。感覚で動かすというのは、どういうことでしょうか。5円玉を指先から糸でつって、これに自分でイメージしたらその通りに揺れてきます。
結局、指先のところでイメージ通り指がほんの少し動くのです。縦に動くと思ったら縦に動くわけです。それをいきなり横に動けといっても動かないでしょう。初心者の場合はそれを一回止めるしかないのです。
止まると思うと止まります。また左右に動けといったら動くわけです。まわれといったらしっかりと自分の思う方向にまわります。これは誰でもできます。
ただし、そこで違うことを考えていたらできないわけです。精神統一した段階でイメージの動きと、筋肉の動きを一致させることです。そのときに直接的な動きから円に動けるようにしてやることです。方向を変えるときにいったん停止することです。
それが体に入ってくると何ごとも骨盤が中心になってきます。歌や踊りも同じでしょう。姿勢を整えるときには、骨盤を前に出すのですが、お尻の穴をしめてみるのも、足の内側に力を入れるのも、中心に連動した動きです。外国人みたいに踊れるのであれば、彼らの骨盤の動きを参考にしましょう。
○シンプルがベスト
トレーニングというのはいつも部分的なものです。強化するために部分的に複雑になるから、量をやって精選し、シンプルにしなくてはいけません。そこから出てくるものというのは単純です。質が高いから単純になるのです。だから、どんなイメージにも即座に対応できる柔軟性が得られるのです。
声や歌でも同じです。そこでつかんだシンプルな統合感覚がもっとも大切です。自分でそれを統合していくのです。複雑で難しいまま、出してしまうと、まとまらないので、集中を欠きます。シンプルとは無駄がないということです。
だから、トレーニングというのは無駄だらけなのです。それゆえレッスンではこのトレーニングが質的によくなることをめざすのです。それがわからないうちは、ばらばらで使いようがないのです。
ただ、それを感覚として一つに統一していこうとやっている人と、ばらばらのままで動いている人とは全然違うと思うのです。
10のメニューがあってもヴォイストレーニングで、なぜそれをしないといけないのか、最初は全然わからないものでしょう。自分のなかで統合されてきたら、「これは全部同じなのだ」というのがわかってくるのです。
できるのなら、早くわかった方がよいです。だからといって、どのメニューでやるということではないのです。もっとも早く気づくやり方を見つければよいのです。
骨盤をそのまま連ねていくと足までつながっていきますから、そこから次の段階です。演劇やモデルの人は歩き方を徹底してやります。やれている人は一目でわかります。特に体に関しては自分にあるものをことばとして伝えるために必要です。結局、体のなかにあるものを体のなかにとどまらせないということです。
トレーニングで間違うのは、トレーニングのなかでトレーニングをやってしまうことです。よく神様を宿らせて歌わせるとか、自分の声は自分が歌っているのではなくて、神が歌わせているとか、別に神ということではなくてもよいのですが、自分より深いものを迎え入れて出すために、自分のなかの環境を整えるのです。そこで邪魔してしまうと一人よがりの音楽にしかならないからすぐに限界がきます。伝わる範囲が狭くなり、くせがついたものになってしまいます。
体は統合できていないといろんなものを邪魔します。新しいことをやろうとしたら絶対に邪魔します。それをトレーニングによってそぎ落としてやることです。単純にしてやることです。
声とか音程とかリズムとか、いろんなことを考えなくても済むように全部入れておいてそれを取り出すのです。そこに宿ってくるものに対し、歌いたいという衝動が、体を超えるために必要です。そこには表現という強い意識をもっていないと難しいと思います。つまり、外に開くことが必要です。
結局、外に出すわけです。伝達していなければ自分のなかで完全に閉じてしまいます。ピアノなら、手先のところで弾くのではなくて、それを統合している感覚があり、そこに宿して指に解き放ちます。
自分が演じていてもそれをどこかでセーブしている感覚があるものです。すぐれた歌い手の場合も、そこで奥行きをもっています。自分を第三者ということでみて動かしていくから、演技なのです。
それは、人に働きかけるところの基本のことです。自分と一体化してしまうだけでは飽きられてしまいます。そのため一回やったら済むことは2度とやらないのです。一体化しているときの状態というのが、心地よい距離をもっていることが大切です。
○動くためのリラックス
座ったついでに体の内部の動きを感じるように、あるいはイメージを結びつけるようにしましょう。入ったまま出せなくなるとまずいのですが、内観法や自立訓練法といった類いのものも一度ぐらい体験してみるとよいと思います。あまりこういうのを好きになってしまうと、精神世界に入って抜けられなくなってしまう人が多いので、気をつけないといけません。しかし好きにやって、他の人の邪魔をしなければ構いません。
リラックスというのはリラックスしていない人がやると、最初は疲れが出てきます。体の緊張がほぐれてくるにしたがって、弱いところから痛くなってきたり、痛みを感じたり疲れてきたりします。その段階が終ってから本当に気持ちよくなる場合もあります。
スーザン・オズボーンのCDで、こういう感覚の、こういう世界もあるということを聞いてください。
ただし、悟ったり体がリラックスできる状態があることは、次に動きを出すために、その状態になることが必要なのです。それが終止点ではありません。それだけを求めていくと最終的には死の賛美になってしまいます。だから脱しなくてはいけません。
動くときにはしっかりと目的をもたないのだったら、リラックスして天国に近づくわけです。現世での表現活動は現実にある場と現に生きている人間に働きかけるのです。
○あなたのなかの真実
トレーニングは上達をめざすといっても、いつも「今、ここで」、なのです。すぐれた人に近づくのではなくて、自分が今の自分にすぐれるためにやるのです。
自分のなかにあるよいものをひき出し、無駄なものを取り出さないようにするのです。そのプロセスで他人を手本にしてよいのですが、自分より上にそれをおく必要はないわけです。
他人は自分の横におくことです。あなたが誰かになるのではありません。ヴォーカリストでもヴォーカリストになるのではなく、それは人がそう呼ぶだけです。あなたであるかどうかが問題なのです
そのある状態というのは体でいうと、今の体であり、しかも間違わないということです。それをよりよく使えていないというのは、思ったよりも難しい問題なのです。
合宿でも3日目になると一人では決してできなかったことができるのは、そこにそのことで統一していくことがそこで仕組まれているからです。一つのシンプルなことを作品としてやるときに、それ以外まったく何も見えなくなって、その世界のなかに入るわけです。それはなるのではなくてそこにあるのです。そうすると思いがけない声が出てみたり、本物らしいものができてきたりします。
生きていること、息を吐くことなどはすべて、本物でしょう。それが自分の力だけではなくて、すぐれたコーラスのように、自分のすぐれたものが精選され、まわりからひきだされるからです。そのなかで一つの個体としての自分と、個体をはずれていく自分をどうおくかが難しいのです。
ピアノに合わせて練習するとします。そんなところでトレーニングがどうこういうよりも、そのピアノと一体になって、ピアノで出ている感覚に声として自分の感覚がならなければいけません。声は結果として出ているわけです。
○無駄をとる感覚
理屈みたいに思うかもしれないですが、頭では入れません。発声というのは体の邪魔している部分をとっていきます。強化していくというのは、それをとるがためにより働かないといけない部分があるというよりも、邪魔している部分があるからそこから守るのです。自分でない部分、嘘っぱちな部分を流していかないといけないわけです。いろんなものが本当の核のまわりについています。
声がよくない、かすれているとかいうことも、そこから判断すべきで、声そのもので決まるものではありません。極力、「歌い手にむいていない」とか、「人前に立つなんてとんでもない」とか、「もうやめろ」とか、そういうことをいわれ、自分のなかでそう思い込んできたものを捨てることが、準備として大切です。
ランキングなどなくとも、自分が自分で出ているところの基準が必要です。ランクは相対的につくものではないからです。自分のなかでしっかりとしたものを出していけばよいのです。それが時代に合うか、合わないかというのは次の問題です。
余計なものをおとしていったら、楽に歌えるようになります。何もないところから歌おうとか、声を出したいというところのモチベートを自分のところのもっとも深い原点で感じることです。
ヴォーカリストというのは、それを単に出すのではなくて、人に伝える役割ですから、これは本当のことでいうと少し違うのです。気分しだいにカラオケ好きで歌っている人たちは音楽を楽しんでいます。
ヴォーカリストというのは、音と空間で限定されます。何月何日どこかの場所で歌うというような形での制限がかかってきます。自由な中で見えているものをしっかりとつかんで、どこであろうとそれを感覚でみていくということです。あまりこうすべきだとか考えることではありません。
○理屈とノウハウ
本を読むのは、大切だと思います。だからこそ全部読めばよいと思います。そして全部疑い、確かめて、全部捨てていけばよいと思います。余計なものをここにきてまで固めないことです。
トレーニングで必要以上にまとってしまう人が多いと思うのです。
複雑にしていくことは、一時そうなるのはしかたなくとも、極力、避けることです。問題は何かに使うために体をシンプルにするわけです。複雑なノウハウは消化しない限り使えません。ノウハウを身につけようと考えるからだめなのです。むしろ今ある余計なもの、くせを落としていかないといけません。ノウハウをおとすためにトレーニングがあるわけです。
発声法は、結局そうやって伝えられているところで、疑うことです。ここに入ってみたら、いかに本と実際が違うかわかるでしょう。いっていることと実際やっていることが違ってもそんなに間違っているわけではないのです。それはそのときにことばを使ったり、考え方をわかりやすくいうがために、そこにどうしても余計なものがまじってしまうからです。
だから、体験して、実体の伴わないほとんどのことばを取り除かないといけないのです。一見、即効的な助言をたくさんする人につくほど、トレーニングの害になります。それを自ら取り除く力が育たなければあとで上達しません。
舞台で、エネルギッシュに伝えたいという目的のためにやりにきたはずなのに、いつの間にかこの音をもっときれいにひびかせるためにとか、声がしっかりと長く伸びるためにはといったことが目標になってしまうわけです。これではまったく違う方向にいくのですからスクールでは上達しないのです。
本当の目標は絶対にずらしては、だめなのです。そのなかでの一つの手段として、そのアドバイスを活かせるのであればよいのですが、活かせないうちに発声らしくなっていくのであれば、それはどんどん複雑にしているわけです。つまり、先生に頼り任せ、自分の働きを疎かにしていくことを覚えてしまっているのです。
レッスンというのはシンプルになっていかないとだめです。
○他に入って学ぶ
もちろん最初は複雑です。100回やってみたら100回とも違う声になってしまう状況でしょう。コントロールも不能です。
ところがレッスンでそのうち10が統一できるようになると、一つ、ステップアップします。意識と呼吸が合わせて体のなかに入ってくるわけです。その感覚をなるべく一流のものと一体化させます。他に入って学ぶのです。
ハイレベルでプレーしている人のなかに入り込んで、そこから読みとって気づいていきます。自分でその歌を歌うのであれば、それをどう組み替えていくかというようなことを試みます。まったく違うように形を組み替えてもだめなのです。自分のなかの思いこみだけでは上達しません。
○ゼロ
根底には共通の一つの感覚というのがあるわけです。人間としての感覚もあれば、音楽のなかの感覚もあります。それを満たすには、1回ゼロにすることです。これがとても難しいのです。
体というのは好きなように動いています。だから、動きに無駄もあります。その動かし方に表面的に振り付けをして、それで舞台だと思ってはいけません。
それは全部そぎおとしていくために必要なのです。伝えるために余計な動きを全部とっていくわけです。だからほとんど動かないで伝えられる人ほど表現力があり一流であるわけです。
かけずりまわって伝えようという人たちもいますが、体の効率からいったら、なるべく動かないようにして、たくさんのものが伝われば、その方がよいわけです。
そういうものはわかったとか、得られたということで到達するのではなくて、スタートするのです。そこでいつもゼロだからスタートラインです。
そのために自分に対して謙虚にならないといけないし、全然できていないという事実に素直になることが、上達の秘訣です。結果として出ているものがどういうふうになっていくかということをみるのです。
○シンプルにするために型をやる
だから単純だと思います。体がやることは特に単純です。プレーを何かのやり方を覚えるときに、それは一つ複雑にしたことになります。本来、単純にしないといけないものを複雑にしたわけです。3つに複雑にしたらそのことで5つを単純にしていく形でまとめていかないと収集がつかなくなってきます。
そのために型があります。型というのは、その単純な形を元に、あらゆるものを一つに飲み込もうとすることです。それを使う方が、深く感じ、深く出すことがわかりやすいわけです。
新体道というのは青木先生がつくりました。勝負して、負けたら降参します。それが上に手をあげているスタイルになるわけです。「アエイオウ」を体の動きとして、ことばを叫ぶ。大体「ア」が多いらしいのです。「アー」というようなことが最高の自己表現だというのです。それは天に対して神様に降参するということだからです。
相手に与えるときには両手を前に出します。たとえば両手の指をいっぱいに開き、舌を出し、目を見開く。こういう状態の呼吸が大笑いのときの呼吸で気持ちの表現の基本です。全てがそこからはじまって、次に瞑想がくる。棒を使ったり、体の姿勢でリラックスする。
こういう分野ではたくさんの方法が研究されているのですが、それは共通して誰にでも宿っているものをとり出すためなのです。すると、自分のものではない他のものが自分に入って、声になっていく生理状態になります。演奏家も自分が歌っているのではない、歌わされているということをよくいいます。
これは両手を神に降参して負けきったところに神が宿ってくるというようなことでしょう。武術では、上から下におろしてくるときに人間の体が働くのを一の太刀とか、まことの真剣とかいうそうです。棒をもっていたら上から下におろす、前に手をやることが愛の表現です。
剣道をやった人はそういう感覚とか呼吸とかがわかる。ロックというのは全身で表現していたわけですが、だんだんおとなしくなって全身が動かなくなってきています。体の動き、衝動と一緒に出てくる声を捉えます。天の声を感じつつ、自分は地上にしっかりと足をつけて捉えていくということが大切です。それは平穏を破るということです。
のどが痛くなったからだめだとということではなく、そこに本質的なものが宿っているかどうかを感じるかどうかです。浅い声がだめなのはそれが感じられないからです。底が浅く全部がみえてしまうからです。それで声をきれいに響かすことはできます。しかし、深い息や体でないと、完全に支配することは、できないのです。
○日常と社会
全部を通していいたいことは、結局、人間の社会のなかでステージをやらないといけないということです。そして、それは難しいことではなく、すでに人間として生きている限りやっていることだということに気づくことです。
ただ、その前にしっかりと自分自身で自由と解放を獲得していないと気づけないということです。役者であれば何でも演じられるという自由があるが、人間の社会のなかでは一つの役割をやっていくわけです。しかし、役者も一つの役割を自分で選べることはありません。
そう考えたら、サラリーマンでも会社で役者をやっているのです。表現をやりたいというのは、人間だからです。自分の他人のために状況を自ら打破していく意志があるからです。動物だと自分に合わないところにいったら死んでしまいます。人間の場合は弱いから、知恵で状況に対応する力をつけてきたのです。それだけいろんな可能性があるわけです。そういう観点でもう一度、声とかいうものを捉え直してみましょう。
教わるということも話を聞いているところまではゼロです。アテンダンスシートは相手がいるから、ノートよりもずっとよいのです。そこで書いて、もう一度声に出して確認していくことです。そこまでは必ずやっていかないといけないのにそのまえで大体、終ってしまうのです。そこから、どういうメニューでどのようにやるのかが問われます。
最初の段階で学ぶべきことは、材料を仕入れ方です。加工するところがわからないとうまくできません。加工がうまくいかなければ、次の行動に移れないから、自分勝手に消化してしまう方にいってしまうのです。そこで詰められる力がないから学ぶ必要があるのです。
結果としてやっていることです。何もなかろうがやっているということでしか変わっていかない。それをしっかりと結びつけてやっていくことが大切です。
本物とは、シンプルなものです。考えなくてはわからないのは余計なものがついているからです。まず、伝わってそれから、考えさせるものであるべきです。
精神性も文化性もはいで、裸でいるのが一番美しいとします。服で飾りたてようというような心は、文化、精神的なものです。過度に飾り立ててしまうとまた、否定して、機能的なものを追求します。着込んでいる方が出しにくいでしょう。ネクタイしめてタキシード着て歌うのは大変です。
あるままの状態のところで、余計に背負ってきているものをしっかりと捨てていくということ。これが段々できなくなっています。レッスンもいったんそれを捨てるためにやるのです。何かを起こすところへはなかなか行きたがらないし、続かなくなる人も多いのですが、地震でも起きたら現実もそうなるわけです。それを自分で求めて次の日には状態を戻さないといけません。
あるがままの状態というのは、強いわけです。自分の体がしぜんに働いているときには、空手をやらなくてもかわらが割れてしまうぐらいパワフルです。日本人は日常の生活での感情表現はとても弱いのです。ことばの強さというのは、日常からはなれているものではないはずです。
それを放してきているから、日本の場合は複雑になってきているのです。
もっと日常でいうべきこと、あなたの怒り、悲しみをためておくことです。
○トレーニングの本質は必要悪
トレーニングに関しては十中六、七は無駄だと思っていたらよいのです。無駄をとるために無駄をやっていくわけですから、これもある意味では遠回りです。直感的にそれをぱっと捉えてぱっと歌えたら一番よいわけです。でもそれでは大多数の人は無理だからトレーニングをやるのです。
しぜんな動きということが正しいというなら、役者でも酔っぱらいのまねといったら、お酒飲んで酔ったら一番よいわけです。泥酔したら一番しぜんな形になります。何も食べないでふらふらの状態になってくると、力が抜けた状態になります。
抜けるというより力が入らないわけです。だからといってそこで何か創造的なものができてくるというわけではないのです。つまり、パワーがないからです。もちろん、仮にその状態になれないのであれば、飲んで自分の様態を確認するのもよいでしょう。しかし、その切り替えをしないとその何分かあとにまったく違う状態を演じられません。
一番リラックスできたような感覚、自分の力が一番取り出しやすくなっているときがいつも正しいのです。それがどんな課題に対しても通じるレベルまでトレーニングしますから、トレーニングは永遠です。
トレーニングの一番悪いところは意識するからです。意識するとバラバラになります。しかし、意識しないとチェックもできないし、トレーニングも成立しないから必要悪です。
体が転がっているときは意識していないです。私に対して恥ずかしいなんて思っていたら、そんなことできないからです。こっちも意識しないです。動物と思っています。そういう感覚でよいと思うのです。無理にやらせているうちは、何もできていないのです。声を出すトレーニングはかっこよいものではありません。かっこよく見えるようにやろうという意識があるからおかしくなってしまうのです。
しぜんというのは統一感がないといけないから、意識のなかでも統一していないといけないのです。しかし、それを意識すること自体がバラバラになってしまいます。体でいえることは腰が充分に入っているのかということです。力を抜かないと腰に直結しないわけです。どんな仕事も、こうしたこつを覚えていないと、要領が悪く、労多くしてうまくできないのです。腰や腕に力が入ったりするとできません。部分的に腕や上体に力が入るからです。声ではのどに力が入ることが多いようです。
日本人の場合は、胸の位置を上げます。上げることで上体の力が入るわけです。胸の位置を上げるにも何も変わらなくて、歩くにも胸の位置をやや上げたときの状態がしぜんにできるだけの筋肉は待たないとできないのです。そのことによって何かをつかめるということよりも、それをやることで体を変えるのです。そして体から感覚を変えるということです。
一本やって休むのでなく、できなくなっても気持ちを切らずに今とんでいるという気持ちを持ち続けるのです。
インディアンは、胸の方を前に出して、平地を1日何十kmも歩きます。彼らは胸の感覚が中心で、腰をひいて前にずずっとせまってくるわけです。確かに合理的な使い方です。この姿勢をとるだけで、ずい分とつかれます。でもクラシック歌手とダンサーもこういう姿勢をとっているということは、そこに原理が正しく働いているのです。
わからなくなったらしぜんに聞けということです。よく山にいって瞑想する人がいます。そこで地球とか宇宙とかに聞くのです。しかし、人間の脳のなかにある宇宙を自分で感知できれば同じです。何かよくないと自分の体が壊れるから、しぜんのなかに入るわけです。
しぜんのなかで体につながった動きをしっかりと感じて出します。このしぜんということばには2つかけています。しぜんにできるということと、実際のしぜんな状態、そこでの最高の動きをつかむのです。
最高の動きをもつ歌い手の感覚を、そのまま、感覚で受け入れるような勉強するのが一番よいと思います。ここにいるといろんなことがきっかけとして与えられます。一流のアーティストを見ることで、ヴォイスジムのように感覚を得て一体になったときにできてしまう、みたいなことが繰り返されれば理想的です。
ことばで教えることは必要悪で、多くのことを邪魔します。1、2年はそれでうまくなった気になりますが、5、10年みて何かものになった人は教えられたことで上達しているのと、全然違うところで上達しているのです。だからといって、体での気づきを得られないうちは、教わることがそのきっかけとなります。
意味があるのは、生の声から感覚を直接聞けるようになることです。大きく聞くことです。そこで合わせて歌うにはあまりにレベルが違うことを知ることからです。体と息と声、自分と音楽としぜん。それを一体にするには、生涯を要するでしょう。
腹筋や胸筋のトレーニングをしましょう。トレーニングですから、そこが強くなります。そこが強くなるということは、やらなかったときよりもバランスがくずれるわけです。力をつけることで統合した感覚をもてなくなります。力がつくのは、それがしぜんに働く状態になってからです。ですからよい作品がすぐに出ると考える方が、おかしいわけです。
水泳で右手の方が強く左手が弱いと右に曲がっていくわけです。そうしたら右手を弱くするのでなく左手を強くしていくのです。筋肉が同じについても、使いこなし方とか、腰からののりという技術が覚えられなかったら、もっと悪くなり、タイムが下がるわけです。
それはその先にイメージでいくしかないわけです。そうでなく戻してまとめた方がごまかせるというように、歌は表現する手段であるのに歌を選ぶことが自分を放棄することになってしまうのはとてもおかしなことです。日本の歌の世界は教えられてきたのです。そして驚くことにそれが日本人には通じてしまうのです。
だから、戻ってしまう人が多いのです。先のわからない指導者は戻すことをトレーニングでさせます。いきつかせないうちに戻すことが正しいと思ってしまうのです。戻したのを進めたと勘違いするのです。声を抑えて歌わせるようにするのは、一般の人を適当にへたではなく聞かせられるようにする方法です。日本の大半の教えかたです。その結果、感覚どころか頭も表情も個の表現からかけはなれ、救われなくなっていくのです。
何のためにやっていくかということをもっとロングスタンスで見ていかないとだめです。複雑になっていくというからです。体全体をより強く集約的に一つにつかまえるがために、部分的に複雑なことをやったり、強くしたりするのは、統一性のためです。
音声も統一音声という考え方です。日本人の好きな声区は複雑なことです。
いろんな考え方はあってもよいと思うのですが、心と体でより統一するということです。体の動きはつかみやすいのですが、ただ、腕立ても腹筋もそれを力んで鍛えて強くするのとは違います。それをどんどんやっていたらどこかで力を抜けます。最終的にはゴム毬みたいな体。赤ん坊のようにやわらかい状態。落ちても怪我しないようになるということです。
合気道などはどこかに力が入っていたらそこがすきになって、そのままやられてしまうのです。気持ちを解放するといっても体の状態というのは気分によります。それで心も体も左右される。心が左右されるから声も左右されてしまうわけです。それが一番難しいと思います。
音楽で体が解放できるといっても、それは聞く立場であり、やるときにどうなのかということです。お寺でもいって瞑想でもやればよいのです。普通の人はやるとどんどん固くなります。その体を解放しようと思ってやっている無理がたたると、心の解放もできなくなります。
目的は心を解放することですから、そこで意識が切り替えないといけません。体が楽になりたければ意識の方があいまいになってはいけないのです。意識が一つの点に定まって、その意識と体が一体になることです。声も一点に集まって出ます。
自分の呼吸が浅くなったり、上体がくずれたところで続けるというのはよくないことです。体力がない、集中力ないということに関しては番外です。体力と集中力で連続して声を扱い、体に覚えさせていくのです。早く吐きすぎるといっても本当にやる人は、気持ちの方が強いから無理してやってしまうのです。それがだめなのではなくて、無理が重なっても、その都度強くなってくると、いずれできていくということです。
そうでなくてできるのであればヴォイストレーニングに関わらず、皆、長くやっていたらプロになれるでしょう。そうはなりません。みんなが納得することをみんながやっているようにやるのはあたりまえです。みんながやっている程度にはできるようになっても、それ以上にはならないでしょう。常に一つ深く踏み込むことです。
うまくいかない原因をトレーニングで除くのです。レッスンは、もっと別の意味で大きく変えるために必要です。そういうのを獲得した人の伝記を読むとどこかで気づき、そういったものを得てきて、それを体あるいは声で実行するものとして活かしてきたことがわかります。
○クールダウン
最後に基本的なことを少しやりましょう。息を使ってやります。体の解放が目的ですから、声は出さなくても構わないです。体でできる感覚がつかめればよいです。
息からいきましょう。「ハ」でも「ハー」でもよいです。
次に「ナ」を使いましょう。鼻の方に響かせてもよいし、響かさなくてもどちらでもよいです。3つに切っても、1つに捉えてもよいです。これまでいったことをふまえて、少しずつヴォリュームアップし、結びつきを強くキープして、膨らませていきましょう。