一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン とりくみカンセリ25544字 1093

レッスン

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【とりくみ入.1】

【とりくみ 入】

【カウンセリング1】

【カウンセリング2】

【カウンセリング3】

 

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【とりくみ入.①】

 

Q.声を出すときに、腰に力を入れるようにしているのですが、

力を入れる場所や、どのくらい力をいれてよいのかよくわかりません。

 

A.似たような質問が多いです。ことばで答えることが難しいのですが、前提として考えてほしいことは、ここに来るまで、それほどやってきていない人の場合は、ここにきて、ここのメニューに集中しなければいけないというときと似ています。 

 

ジムのメニューは、劇団でやっていることとそんなに変わりはありません。ですから、ここにきて特殊なことというのは、それほどなく、特に皆さんのレベルで特殊なことをやらせるということもそれほどありません。 

 

要は、何が違うのかというと、今までの日常生活で声を少々使ってから寝ていたことが、日常生活をやって、さらに、ここで声を数倍使っているとしたら、きっと日常生活の5倍から10倍を使うから、声が出なくなったり、かすれることもあるということです。

それを支えるのはテンションしかないのに、それもないからどうしようもないのです。 

 

 

レーニングをやるのだったら、その分どこかのロスを減らさないと、トレーニングはできないかもしれません。日常的に2時間大声で話していた人がトレーニングで10分やって、だいたい対応するくらいではないでしょうか。 

 

喉が強い、弱いということもありますが、特に日本人の場合はしゃべること自体、喉にロスしています。それなのに、ロビーで大声でしゃべっている人の気はしれません。カラオケも、歌でなくおしゃべりと飲食で喉を痛めるのです。 

声楽家、特にテノールの人は、演奏だったら一言もしゃべらないで演奏させてくれ。しゃべるのだったら、演奏はしない。そこまで、はっきりと分けている人もいます。それは、おかしいことではなく、むしろ立派な考え方です。

要は喉をロスするという考え方です。でも、演奏を聞くだけでも喉はロスしています。筋肉を疲れさせないで使い続けることはできません。そういう意味ですと、鍛えていくことは大切です。

 

 いろいろな所に痛みがあるということも難しい問題です。たとえばリラックスしなければいけないという状態になったときに、まず、痛みを感じます。特に自分の弱いところから痛くなってきます。体の状態が一番よくなってもそうです。一番よくなると、一番凝っている部分に意識がいったり、そこが痛みだします。それが、リラックスできたということであればよいのかもしれません。似たもので、自立訓練法やヨガがあります。初心者は、額が痛くなったり、肩が痛くなったりすることはあります。

 

 

 ここでそんなにリラックスできているとは思えませんから、むしろ緊張していて動かし方が悪かったり、癖がついたりして筋肉疲労を起こすこともあります。程度問題なのですが、あまり体に関しては気にしないほうがよいでしょう。

というのは、そう思うとそうなっていくからです。

 

喉の場合は壊れてしまう場合があります。たとえば、スポーツをやっていてもスポーツが楽しいから集中して声を出していることを忘れてしまうのです。それを強化トレーニングのようにやったら痛くなるはずです。

 

 ここは、楽な方ですが、無理にマニュアルに合わせようとして続けていくと、たぶん痛くなります。たとえば、声楽の姿勢をとって、きちんと立つということでも、普通の人は長くもたないでしょう。5分その姿勢を保つことは難しいです。

もし、できるとしたら、バレリーナ、ヨガの修行をやってきた人、武道、体操など、きちんと自分の姿勢を完全にコントロールできることを覚えてきた人です。ヴォイストレーニングの姿勢一つでも正しく行うには、そういうことが求められます。

 

 

 ここの場合、そこまで徹底させていないのは、そのことよりも、実際面を重視するからです。深い息、深い声がまず入らないことには、外側から整えても、時間がかかるわりに成果に結びつけられないからです。

 

そのやり方は、10代のうちには、まだ歌えないけれども、基本的な身体の動きや発声、その考え方を身につけるようなものです。そのために型から入るのです。その方が結果として確実です。

ただ、ここは、20代以降の人が多いですから、そういうやり方は、あまりとっていません。

 

それをここで2年やってみても、声楽家は毎日練習しています。22才、23歳の人で5年もやっていることになります。そういう人達にかなわないのです。

そういう人達がすぐれているのだったら、そのやり方をとるのですが、そういう人達がポップスをまるで歌えません。正しく音がとれ、よい発声でもあるのですが、歌にならないのです。その欠けていることこそ、ポピュラーでは、重要なのです。

 

 

この間、音大を卒業した人などに歌ってもらいましたが、ここのトレーナーとまではいかなくても、少なくとも生徒に対し悪い見本、素人の声だったら、紹介できません。

そういうことでいうと、それと同じような過ちは、どこでも犯しているものです。

 

センスのよい人、勘のよい人は、学べます。そういう人は、自分の道を行きます。必要なメンバーを集め、自分の道を行きます。

クラシックをいい加減にやって、ものにならなかった人は、ポップスを教えようとするわけです。

私は両方同じと思っていますが、なぜか、そういう人は、ポピュラーを見下すから、自分も落ちるのです。ここは、基本的にそうならないように気をつけています。 

 

とはいっても、声楽は、重要なものとしておいています。形を変える、変えないということも、こういう基準を勉強することで大切なことです。

その感覚と実技とは一体何なのだろうということです。

 

 

たとえば、姿勢が正しい、声が正しいとは、どういうことなのだろう。あるいは、発声ができている。呼吸法が正しい。できている、できていないとは、一体、何なのだろう。

皆さんが息を吐いてみて、この呼吸法は正しいですかと聞かれても答えようがありません。

生きていたら正しいのです。しぜんではないものは、おかしいのです。

 

 それ以外のところで呼吸が行われていて、それが正しいのか、正しくないのかということは、私たちの場合でしたら、舞台、役者としての舞台、歌い手としての舞台になったときに、対応できるかできないかで見るしかありません。

そのときに基本となる呼吸法だったら正しいのです。

そうでなければ、生きていくために病院にいって、補助器でも使っているでしょう。

生きていく以上のことを必要としているのです。

 

 それを考えたときに、そこ何でどう判断するのか。ここがポイントです。

私たちの場合は、月に1回舞台をやっていますから、舞台を見てみたときに、何ができていないのか。呼吸法や発声法、腹式呼吸ということばをあまり使わないのは、全部、あいまいにくくってしまうからです。 

 

 

「あなたは、腹式呼吸ができていない」という言葉のなかに、いろいろな原因があるのです。腹式ができていないといっているのは、必ずしも腹式ができていないとか、胸が動いているということではありません。

人間の体は同じなのです。ただ、そういう言葉でしか語彙がないから、表わせないのです。

 

 寝ころんでみて腹式をやればよいのかといっても、そんなことでは直りません。いろいろな理由があるのです。もっとわかりやすくいうと、ここでライブをやったメンバーと、入門や①クラスの人がライブに出てきてやったときに、何が違うのかといったら、呼吸から違います。たぶん心肺機能の能力も違います。

 

それが歌のパワーやメリハリになります。

こうした心肺機能の強さが何から表れるのかというと、感覚からです。

歌い手というのは、どれほどの息を必要とされていて、どれほどそれに対して体でコントロールできていなくてはいけないかということです。それが前提にあって初めて、できない場合に呼吸から鍛えてみようとかするのです。それは、トレーニングとしては、基礎でありますが、部分的なものです。

 

 

 以前にも話しましたが、試合と歌と、トレーニングとファームを分けてやることです。トレーニングでやることは、目的がそれにかなっていたら何でもよいのです。たとえば、歌い手になりたいからと腕立て伏せをするのもよいのです。腕の力も弱いよりは強い方がよいのです。背筋のトレーニングにもなります。それが、結果として背筋のトレーニングであったり、精神集中するトレーニングということであればよいのです。 

 

ただ、間違っていけないことは、何百回できても、何千回できてもそれが歌になるわけではありません。トレーニングとは全てそうです。部分的なもので、ある意味強化していくものです。 

ここの一番違うところは、そこでしょう。普通のヴォイストレーニングの場合は、調整トレーニングしか考えられていません。リラックスできればそれでよいから、寝転がせて、息がはーっと吐けて、立って、その呼吸で響きが出れば歌えます。そんなわけがないのです。

 

それなら誰でもプロになれます。正しい正しくないということよりも、結局、そういうプロセスを経て変わった体と変わっていない体の差なのです。

 

 

「呼吸法のチェックをいつも聞かれる」ということも、結局やっていることは何かというと、私は、「こんなふうに横腹がこれだけ動く。後ろもこれだけ動きます」と体を触らせます。こういう体をつくるためにやっていたわけではありませんが、結果としてそうなってしまったのです。こうやって話していてもわかると思います。うちの②クラスくらいだと、このくらいです。この瞬間に整っていなければいけません。これが歌のなかで何十回も出てきます。 

 

いろいろな勉強の方法がありますが、本当に上達したいのかどうかというところで違うのです。本質を見ないとしかたありません。呼吸法を5年も、10年もやっている人も、クラシックで20年もやっている人もここにきて、私のレクチャーで10年もそういう先生についているけれども、今だに歌えないといいますが、その人は呼吸法をやろうとしていて、歌を歌おうとは思わなかったのだと私は思います。考え方としては逆なのです。

 

 マナーのために柔道をやりたいという人と、相手を倒すために柔道をやりたいという人とどちらが身につけられるのかというと、相手を倒すためにマナーを守らなければ相手を倒せられません。心を落ち着けて、姿勢を乱さないようにしなければいけません。戦うことを目的とするならば、こちらを考えた方が早いと思います。それが、だんだんと応用できることで基本が身に落ちてきます。 

 

新しくリズムトレーニングの本を出しました。こういうものを聞いてぱっとはいれる人は、そんなにいないはずです。ただ、歌って舞台に出ている人は、こんなものを聞いたら、できてしまうと思います。もしかすると、笑ってしまうかもしれません。レベルが相当、低いからです。入門用です。

こういうものは、部分として使うことはよいのですが、それができたからといって、リズム感がとれるということではありません。 

 

英語の語学と英語と歌うのでは、違います。私たちからいわせてみたら、語学というのは、英語で話せること自体音楽ですし、日本語は少し違いますが、音楽と区別しているわけではありません。これは、これで、教材としてならよいと思います。

こういうものも、まだ早いような気がしてしまいます。こういうものを使ってはいけないということではありません。こういう教材をいろいろとつくろうとは考えているのですが、きちんと目的を踏まえてつくっていないと、あるいは、目的を踏まえて使わないと、おかしくなってしまいます。 

 

ここのレッスンでも同じです。この間、④クラスで、少し難しめなものをやりました。

要は、調子の悪いときにも、自分の調子のよいときをきちんと出せることです。

それと共に、そんなことで影響されるともたなくなってしまいます。それは、自分のなかのトレーニングにきちんと入れていかなければいけません。

 

 

 まず、自分のなかにどんな音色があるのかを知っていくことです。声の感覚を勉強する。他の人から勉強して、次に自分のなかのものを勉強する。

曲でも、何でもよいのですが、まねる必要はないのですが、いろいろなものをやってみて、こういう声がある。こんな声もあると知る。でも、この声は気に入らない。これはおかしいのではないかとみたいなことです。

 

何もないというくらいになってくれば、何か自分でつくりだしてくるでしょう。面倒臭いプロセスですが、そこのことをやらないところに、その先はありません。それは、基本中の基本のことです。

 常に、自分がイメージしていることを、どう出せるのか。そのヒントとして、一流の人ものをいろいろと入れておけばよいと思います。

 

ていねいに教えれば教えるほど間違ってしまうというか、実感からそれたところでやっている。それは、あまりよいことではありません。むしろ、教え方のところで、先生が間違っているのではありません。教え方が間違っているのではないのに、その通りにやったら、間違うことが多いのです。 

 

難しいのですが、だからといって、それに反してやったらよいというわけではありません。結局、歌は、感覚をどう取り出していくかということです。それを声で取り出す。音楽はそうです。

ドラムだったら、リズム感覚が手に伝わって、スティックを伝わって、ドラムで音が拡大されているのでしょう。手の力がどうとか、ドラムがよいとか悪いとかではなく、その人のなかの感覚がよいか悪いかでしょう。

 

自分がそれをきちんと認知してコントロールしていて、手を感じず手が動いていなければいけません。だからといって腕立て伏せをしたり、スポーツ選手のように、走ったりして鍛えられるものではない。技術とはそういうもので、認識しないで動くような状態にしておくわけです。

 

当然のことながら、起きてすぐにドラムを叩こうということは、ありません。体操をして、筋肉もほぐして、音楽も聞いて、テンションも上げてからはいらないとはいれないわけです。歌い手でも同じでしょう。そういうものは、イメージコントロールではありませんが、浅い息のときは、体が何もないのです。

 

 

 トレーニングというのは、それに対して部分的にやります。今は、おなかのことをやっているのだとか、手のことをやっているとかです。それはよいのです。そのこと自体が不しぜんで、基本から本当は逸れていることなのです。逸れていることなのですが、そうしないと、早くできません。

早くできてしまうということは、不しぜんでおかしなことなのです。一生かけて死ぬ頃にできるかどうかということが、人間です。完成にまで、間に合うのか、それくらいの覚悟でなければできません。そのことをわかって、その位置づけの上でトレーニングをやっているのなら、何をやっていても間違いはありません。その目的の上に、そのプロセスを行っているわけです。

 

 腕立てして、すぐにピッチャーマウンドに行って投げるピッチャーはいません。下積みのファームのところと実際、試合に出ることは違うのです。

難しいのは、バンドをやりながら歌っている人です。バンドで喉の状態を悪くして、その上でヴォイストレーニングで使うだけの声の余裕などありませんなん。

だいたい、そういう人達の場合は、トレーニングのために声を休めないといけないのです。

 

人のためにやりたがりなら、上達しません。柔道や空手で、基本を何もやらないで試合ばかりやろうとする人と同じです。本当に強い人には、基本をやらなくても強い人もいるかもしれません。

ただ、普通の人は、基本ができていないということをきちんと認識したほうがよいでしょう。やり方で身につけようとしたときには、基本からやったほうがよいということですどんなスポーツや武道、芸事でも同じだと思います。

 

 

 最初は、思うままで、ボールを蹴っていたのに、何かすごい人が出てきて、その人が天才的だといわれる、その人が監督やコーチになったとしたら、「皆をどうやったら自分のようにできるのか。自分は、こうやってきたな。こういうときには、こう考えた。

こういうメニューをつくってあげよう。」と考えて、やらせるでしょう。そのうち、多くのメニューはできないということで、精選されていく。今では小学生がプロとだいたい似たようなメニューを形としては使っています。

 

そういう意味では、人によっても変わってきます。国によっても、人種によっても、体つきによっても、作戦の立て方によっても本当のことをいえば変わってきます。 

ヴォーカルの場合で難しいのは、スポーツのように結果がきちんと見えません。本当は見えているのですが、すぐれているすぐれていないの判断が、好みのようになってわかりにくいのです。

 ただ、体の件については、私たちが説明するときには、できるだけそのように考えています。

 

声を深く出すということが目的だったら、それでもよい。でも、喉が痛むということではおかしい。痛むということは、どこかをロスしているわけです。

ただ、トレーニングも腕立てしたり、腹筋したりしたら痛むことは痛みます。その痛み方の問題で、体が壊れていく方に痛むという場合は、よくないのです。

腕に力をつけるのだといって腕が折れたら、どうしようもないのです。

 

 

人間にも限界というものがあります。大きな声を出して、練習をする。ものすごく大きな声を長く出していたら、誰だって喉がつぶれます。

そのことを、長い目で見たときにプラスになっていくという実感が持てるでしょうか。

これ以上はマイナスになるから、やめようというところを、自分できちんと判断しなければいけません。その判断の基準は、できるだけ本当のものを体のなかにいれていて、行うのです。

 

自分では判断できないが、サラ・ボーンだったらきっとこう考えたなとか。

彼女だったら、自分の年のときに、こういうことをやっていたのではないかなとか、頭で考えるわけではありませんが、実感的なものです。

「何かつながっている」、「全然、切り放されている。」どちらに感じるでしょうか。

本に書いていることを「あああああー」とやらせないのもそういう理由です。

 

 自分が納得して実感できるものでしか伸びるわけがないでしょう。素振りでもそうです。ただ、実感するのにも時間がかかるということはあります。最初は、姿勢からこれでどうやって声を出すのということろから始まっても、実感できるまでに半年や1年かかるかもしれません。

そういうときは、我慢するしかしかたありません。答えがないというわけではありませんが、それは自分のなかにしか本当にはありません。それを自分が決めるだけの自信がないということは、それだけできていないということですから、それだけのことをやらなければいけません。 

 

 

多くのものというのは、自己流にやるのではなく、自分より少しでもすぐれている人、あるいは、ものすごくすぐれている人から学べるのであれば、そういうものを手本にとっていくのです。ここでも、ややこしいものはあまり使いたくありません。そのことをやることで、できた気持ちになることがまずいのです。 

ここもいろいろと学ぶためのフォローシステムがありますが、きていたらできるわけではありません。ただきているなかで、自分は何を繰り返して、何をオンしていけるのか。他の人がオンしていけないものを丹念にオンしていった人だけがそれ以上のものを手に入れられるのです。 

 

自分でやってきたことよりも、ここで皆と同じ条件下できて、同じような曲を使ったときに、伸びた人と伸びていない人がどう捉えていったのかをみてきました。アテンダンスシートなどを見ていると、この人は、伸びるなとか、時間がかかるなとか思います。

でも、時間がかかるから早く教えてやろうとはいえません。でも、伝えているはずです。ていねいに会報にまで載せて、渡しているようなところはたぶんないでしょう。ここを使いきる能力が皆のなかにあって欲しいのです。そのためには、なるべく高く目標を持ってください。 

 

所詮、半年や1年で勝負できる世界ではないのだと思い、気にならなくなってきます。そういうところで勝負していきたい人は、そういうやり方を、それはそれで業界の収集したり、オーディション情報を収集したり、今のはやりのバンドの勉強をしたりすることだと思います。

そういうものを勉強しないで、声だけ探求しようといっても、音楽とは何かとなったときに、時代や今の人間を知らなければ何もやれません。

 

 

 自分の思ったままに、やればよいのです。ただ、いろいろなことを試してみて、自分なりに結論を出していくプロセスだと思ってください。皆が最初に引っかかることは、基本的な問題で息のことや発声のこととか体のことです。

でも、これは、一番最後まで残る問題です。呼吸法や、発声は、歌よりもよほど難しいです。息が2、3ヵ月で解決したら、次は発声にいって、次に歌にいくと考えない方がよいです。

 

 一流のプロになればなるほど、自分に対する基準が厳しくなってきます。王さんや長島さんほど素振りした人はいないということと同じです。

それをやらないとそれだけの成績が残せませんし、普通の人は基本の数で負けているのです。当然、素質や才能もあったのでしょう。

 

だからといって、彼等が練習を普通の人の3分の1や10分の1でなれたわけではありません。普通の人の何倍もやっています。その辺はおもしろいです。多くの人は長島さんは天才型の人で王さんは努力型の人だと思っています。が、長島さんがいうには「ワンちゃんはものすごく素振りをして練習をしていた。ただ、日本でもう一人それよりも素振りをしていた人がいる。それが私です。」そんなことをいえる人もいえる人なのですが、結局そういう世界だと思います。

 

 

 こういうことも、自分ほどそのことに関して、やっている人はいないと思ったときには、先生が違うといっても、自分がこう感じているというので、正しいことがあります。ただ、それは、自分一人の見方ではなく、いろいろなすぐれたアーティストはいくらでもいるわけですから、そういう人達のものを背負って判断していくことです。

 

 私たちもそういうものを自分のなかに背負っているから、人に対してある程度のきちんとした判断を出せるつもりでいます。自分だけの力でできるとは思っていません。どんなものでも、そんなものでしょう。わからなければ、わからないほど、映像やステージを見ていることです。

 

昨日のステージでもあなた方がそれを見て、おもしろいな、おかしいと思っても、自分の歌のときにそれだけのアクションをとって、声がきちんとキープできるのかということです。そういう見方をしていかないといけません。

 

 

 息を完全にコントロールするには、腹筋力が強くなければ歌なんて飛んでしまいます。欧米のアーティストは皆、そんな歌い方をしていますが、全身を使っています。そんなことをしていたら、歌うどころではなくなってしまいます。でも、それは、歌により表現を入れたり、音色を入れるために全身が動いているのです。

 

プロが全身でやっていることをアマチュアが口先でやっていて、かなうわけがありません。プロが全身でやっていることなら、アマチュアは全身のその10倍位使ってやることでしょう。そうすると押しつけたような歌い方になったり、重い歌になるかもしれません。

それはトレーニングの時期ですからしかたありません。より重いものを背負って走ることと同じです。離したときには、軽くなります。いろいろ考えてみるとものごとは似ています。 

 

まわりの人からもっともっと勉強して欲しいということです。もっともっと学べると思います。もっと自信をもってください。自信持てないというのは、やっていないからです。入ったばかりですから、それはしかたありません。1年経ったときに同じことをいわれないように、まして2年経ったときにいわれないことです。2年間と私はいっていますが、私はそれを7年半やったと思います。

 

 

もう一度生まれ変わったり、どんな天才であっても、世界の誰であっても、そこまで打ち込めなかったという時間を過ごすべきです。仕事しなければいけないとか、親の面倒を見なければいけないとか事情は、それぞれにあると思います。

 

しかし、時間が短くなったから、だめだということではありませんから、与えられた状況のなか、条件のなかで最大限それを優先してやってきたか、やってきていないかというだけです。

それを離したときには、お客さんもばかではありませんから、ステージに出て通用しなくなります。しぜんにこういうものを感じて解決していくことが本当に一番よいのです。

 

 懇切ていねいに教えてくれるような学校や先生もいるとは思いますが、私は、やはり感覚を伝えなければいけないと思っています。感覚とは、感じることです。こう感じなさい。ここで感動しなさいという教え方はにできません。一所懸命やると感受性は鋭くなってきます。

そんな感覚になって、練習したな、とそこからいろいろと広がったときに、こういうものがわかるときが来ます。また、離したりするのですが、また、捕まえていく。そのうち、絶対離さないようにしていったときに、歌えるようになるでしょう。そのプロセスを楽しんでください。 

 

 

あまり、考えないでやることです。そこができなかったら次に行ってはだめということではなく、姿勢は今のところここまで、声は今のところはここまで、次はこっちと、また、先をやって、ステージをやってみたら、やはり基本が足らない。それでよいのです。それしかありませんから、そのときになるべくきづくことです。 

 

私も、よくいろいろな先生から、よくそういうことにきづきますね。きづく力が違いますねといわれますが、考えてみたらきづかなければ自分を変えられないのですから、何か物事をやれた人で、きづかなかった人が世の中にいるのかということです。何かをやれた人は、いろいろなことにきづいていたからやれたのです。

 

トレーナーも1時間のレッスンのなかで、50も60も、自分が調子のよいときには発声練習をしていて、10分間に30~40も新しいメニューがひらめくものです。トレーニングばかのようなところも歌のなかでも同じなのです。1曲のなかでどれだけ感じられて、きづくかということでしょう。

それがなければ自分のものに変えられないでしょう。歌のなかで伝えるところもつくれません。単に楽譜を声に置き換えることだけしかできない。そういう意味でいうと、トレーニングもライブも同じだと思っています。

 

 

 いろいろな人のいろいろなアドバイスのなかから、他の人はきづかなくても、自分はきづくものを自分のものにしていってください。そういうものを書き留めていけばよい財産になると思います。2年目、3年目はそれ以上に勉強するためにです。

1年目は、だいたい2年、3年後に勉強できるようになるための勉強をするようなもので、あまり、あせらなくてよいのです。ただ、しっかりやっておかなくてはいけません。楽しんでやってください。 

今皆が書いていることや、きづいたことは、誰もが気づくことです。こういうレッスンで、私にこういうことをいわれて、こうきづきました。それが、そのうち会報に書いてあるような、自分だけがこうきづいたというきづき方ができたら表現することも、だいぶしぜんになってきます。いろいろと試して、自分が好きなように表現すればよい世界です。自由にやってください。

 

 

 

 

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【とりくみ 入】

 

 いつも考えて欲しいのは、1フレーズで聞かせられない限り、次のフレーズはこないということです。私のレッスンでは、1回か2回フレーズをまわして終わりです。しかし歌い手というのは、1曲のためにステージにいくのです。 

 

自ら24時間用意していれば、それでよいという感じです。まわりに合わせないでください。このなかの7割は、さ来年はいなくなります。まわりと同じことをやっていたらダメです。実際にここで、あいつとはやっていきたくないとならないでください。

 

 皆さんも自分が育つためにやってきているのでしょう。ここのやり方というのは、表面をまねることでなく、本質的なものがしっかりと捉えられるようにしていくことと、それを出せるようにしていくことです。

今、学ばなければいけないことは、仕込みの方法です。ここで曲の前奏を聞いてコードの理論はわからなくても、コード進行、音の進行、ベースに使われる音、全部出てきます。テンポも決まっています。それを自分に移し替えなくてはいけません。 

 

 

まず、やるのは感覚の移し替えです。自分の声が出やすいところに合わせていくのです。これから自分の歌を映像などで見ていくと思いますが、自分が思った通りにしか出てないことを知ってください。入っていないものは出てこないということです。うまくないということは、そのことが感じられてないということです。それなのにすごいことができるということはありません。

 

 次の段階では、感じられるのに、やってみたら体と声が裏切ってしまうことです。高いところのイメージは強烈にあっても、のどとか体がそれについていけないという場合があります。一つの音のなかをどう表現していくかということが難しいのです。

まず自分の体を感覚のレベルで扱うということです。今、皆さんが捉えていかなければいけないのは、こういう歌の基本的なことからその呼吸とか声の動きみたいなものを読みとっていくことです。

 

これはギターでもピアノでも同じことだと思います。伸びようと思ったら、ずっと指先を見ていたり、あっているかどうかを目だけでみてもしかたないのです。いくら指を合わせる勉強をやっていてもピアニストにはなれないということです。

ですから、まず、自分と音の原理をしっかりと知っていくことです。材料は何でもよいです。トレーナーが使っているのでも同じです。 

そのなかで一つでもよいから自分の呼吸で出すということです。それが、どれくらいの条件が必要なのかということを知っていくことです。それで足らないと思ったなら、補うしかありません。

 

 

 レッスンというのは気づく場でよいのです。そこで出せなかったら、それは補っていくしかありません。歌える人というのは、一回聞いただけでその場で対応できてしまうのです。それはそうなってきたからです。コードの理論とか音程とかリズムとかの練習をしたからというわけではないのですが、どこかでそういうものは、補強しているのです。つまり、総合力の問題です。 

皆さんの場合は何ができてて、何ができてないのかということを気づいていくことです。たとえば10代と20代では勝負のしかたが違うと思います。10代の人は感じるというより思い切って出すことです。

 

「セピアンジ アモーレ」「たとえ いまは」 

これで半オクターブあります。自分が主体的ででない状態をつくらないことです。感覚のなかで音を扱っていくことで、どこで歌っているかということを自分で感じてみればよいのです。そこから耳をつくるということです。

 

 まず、ことばでやってみましょう。さきほどよりも声が飛んできました。ことばで伝わる以上に伝えようとすることはかなり難しいのです。音がつくと抽象化されますから、そのなかで捉えるイメージがないと難しいのです。

 

 

いろいろな表現が自由になってきますから、もっと難しいです。それだけ自分が決めていかなくてはいけないことが多くなっていくのです。より自分が勝負できるところ、確実に出せるところをもとにしていかないと、何でもできているようで、どれも通用しないということになってしまいます。

 

もっとことばの読み込みをしっかりやることです。テキストを渡しているのは、そのなかでどれだけいろんな方面からみていくことができるかを学ぶためです。

「たとえいまは、だからあなたの」をことばでいってみましょう。 

 

こういうふうに音に合わせていくような練習をしていると、どんどんと感覚がマヒしていく人がいます。そこで自分がしっかりと感じて、何かをつくり出すことです。ピアニストをつけてやるときにはピアニストが感じていることを踏まえ、自分の感じていることに合わせていかなくてはいけません。そのとき自分が感じていなければ音にひっぱられのせられるだけになります。 

 

 

今の皆さんにとっては、機械的な操作になってくるかもしれませんが、それではだめです。ピアノに合わせても、まわりに合わせてもだめです。だから自分がなくなってしまうのです。早いテンポでも自分で感じて出していかなければいけないし、それを音として取り出すということを磨いていかなければいけません。

 

 一番勉強しなければいけないことは、先ず、自分のなかに何が入っているのかということを知ることです。レッスンというものも全て創造的な作業を行うのです。芸事というのはそういうものの上に成り立つのです。皆さんが自分の頭のなかで正しいと思っていることと、皆さんの知らないもっと深いところの正しさとは違うのです。それがあっていたら歌でも通用するわけです。今のひとことでも同じです。 

 

より自分がやれることをやってないから、だめなわけです。だめなものはだめといわないとその人が伸びていきません。でも、その人がだめなわけではなくて、その人がしっかりと取り出そう、それを出そうというプロセスを経ていないからだめなのです。 

 

 

たとえば「たとえいまは」ということに対しても、どれだけの感覚をことばやメロディから、あるいは楽器の演奏や言語の感覚から自分がどう取り組むかということが問われます。自分がどう選んでどう出してくるかということです。

 

 たった3つの音ですが、すべて歌の基調が入っているわけです。それを一回やって、すぐにとり出すということはとても難しいのです。10回くらい歌ってからやるとパッとやりやすいかもしれません。その用意をしておかなくてはいけません。それは家でやるしかないと思います。

 

何回も何回もやって自分のなかに何が入っているのかということを確かめていくのです。自分が決めて出した声は、どう働きかけているのかいうことをつかまないと、一人よがりの歌になってきます。自分がそこにどれくらい思い込みを入れるかということです。思い込みすぎてもいろんな問題が出てきますが、今は、全部を入れ拡大して出してみてください。 

 

 

本来、表現というのは、本人のなかで過剰にならないと出てきません。今の人たちは身体を過剰に使って生きてきたわけではありません。そこで、思いっきり体を使うというようなきっかけを何かで得て欲しいものです。自分でいろんなことを感じていくことです。自分で深く感じて、自分がわからなければ、もっとそれが奥深いものがあるんだろうと思ってください。学ぶということはそういうことです。

 

 たった一つのよいところから10でも100でも学べるのです。悪いところは反面教師にすればよいのです。レッスンで1曲、2曲と進めていかないのは、さきほどセリフで読んだことをしっかりと自分でコントロールしてやることが先だからです。外国人ならば20才までに皆さんやっていることです。人前で話すときにどのくらいの間をおいて話せばよいかを、表情とかボディランゲージも含めたところまで勉強しています。学校の勉強でなく日常でのなかでの勉強で得ているのです。 

 

そういうことからやってみることです。そして次にそれを音に抽象化していくということです。まず、全部やってみてからでないと何を切ってよいのかわかりません。セリフにしても100を準備して、そのうち99を切っていくというやり方です。その基準がわからなかったら残しておけばいいのです。でも絶対に通じないものは捨てなければいけません。 

 

 

歌も同じです。へたな人というのは、そう歌ってはいけないという部分を歌うのです。その方が気持ちがよいからです。だから、声についても間違えます。うまい人というのは逆に全部自分で作っていくのです。これは人のフレーズだと思ったら切るし、自分のものではないと思うものは捨てていくのです。

 

だから歌の世界も芸術の世界と同じで、その人の色が出てないものは価値がないわけです。それをわかるようにするために、邪魔なものは切っていくしかないのです。

それを後生大事にもっているから、歌い方がわからないとか、声はどれがよいでしょうということになってしまいます。 

 

厳しい基準にたち、整理しなければだめです。ただ、今はまず、あるものを出してみましょう。体も変わっていくし、声も大きくなっていきます。そして、今まで歌っていたものとは違ってきます。そのとき新しく出てきたものを認めることです。きっと、使えることもあるだろうというくらいに思っていてよいです。

 

 

 今度ライブがあり、それで70名ぐらい歌いますが、それを聞いて、何かを感じられたかまとめてみましょう。同じ条件に立ったときに自分と違うところはどこなのかということです。 

感じるということは絶対大切にしなければいけません。ただ、それを妥協しないことです。感動することも同じです。こんなもので少し感じたからこれでいいやと思うと自分の作品もだめになってきます。 

 

ですから「まわりに対しても徹底的に厳しく評価しろ」といっています。そうでないと自分の作品にも甘くなるのです。スポーツほど結果が厳しく突き詰められませんから、自分で突き詰めていくしかないのです。大切なことはそれが表現を起こせるかどうかということです。

 

 単に歌おうと思えば簡単に歌えてしまうわけです。たった1フレーズが与えられても、そのなかに問題を感じられることです。とにかく早く創造的なレッスン、自分の発想とかアイデアとかどんどん出てくるようなレッスンに入ってください。そうならないと伸びないからです。 

 

 

自分で考えるままにやればよいと思います。いくら無駄なように思っても無駄もとことんやってきたら、本質的なものしか残りません。でも、よいものを聞かなければいけません。

基本というものは、なぜ一人でやりにくいかというと、自分一人でやっていくとどうしても、基準が甘くなっていくからです。基本をやるということはとても面倒なことです。

何よりも自分の学び方をみつけていくことが大切です。感性を鈍くするような練習をしないように気をつけてください。

 

 

 

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【カウンセリング1】 

 

みんな上達のプロセスが一致するわけではないのですが、すべて知らないよりは少しでも知っていた方がよいでしょう。でも知っていたからそれでやっていこうとしてもできないのです。それを忘れたときぐらいに、身につくものです。 

教えられるという立場になってしまうと、そういうものが伝授されるようになってしまいます。結局そういうものを一つ獲得したとか、舌をこうやればうまくいくと思うでしょう。でもそれをやったからといって歌えるわけがないのです。

 

逆にいうと、歌えている人がそうなっているかということです。

α波と同じで、高僧が悟っているときにはα波が出るということになると、「じゃあα波を出すようにしたら同じように悟りが開ける」といったら、そんなわけがない。でも素人にとってみたら、がちがちで座禅するよりは、そういうものをきっかけに、こういう状態がよいのか、と自分の体を感じたり(普通であれば、心を感じたり、体を感じたりするのはあたりまえのことなんですけど、そのあたりまえのことができないから)、意図的に(舞台でも同じなんですが)やるのです。

 

 ほんとに悲しければ泣くのに、「じゃあ泣け、涙だせ」というのはできないから、そういうふうに心や体を扱う練習をやるのです。それはあくまで舞台とかステージとかでは限られた時間で、限られた場所でそれをやらなくてはいけないという、限定がある中での芸術だからです。 

その限定に対応できる状態をつくるわけです。

それは多くの人には日常的なものではなく、非日常です。悲しくもないのに泣かなくちゃいけない、その気持にならなくちゃいけない、つくるものといったらつくりものだけど、それがあるところを超えて伝わることでリアリティなものとなるのです。 

そういうことで、自分の呼吸とか、体のことという確かなことからやっていく方がよいと思うのです。

 

 

 急ぎすぎるからうまくいかないのです。体力づくりと腹式呼吸を意識下におき、1音出して、そして音読とやっていけばよいのです。すると、たった一つのものからどれだけ感じられるようにしていくかということの重要性がわかると思います。本も、一つの指標となるというぐらいで、それを覚えたからといって何かなるわけではありません。

 

ヨガとか、瞑想の先生も尋ねてこられますが一見、違うことをやっていても、その人が一つ深くやっていったら、本当に理解している人だったら、見ただけで、そのことばの限外のものを、しっかりと読みとっていくでしょう。そういう人はよく勉強するから、同じことになると思うのです。中にあるものをどう外に出すかというだけです。そのためには中になければだめでしょう。誰も声とか歌とかいう形を聞いていないのです。中を勉強するのは、初めはやりにくいから、外から勉強する。深い世界です。 

 

基本的には、学ぶスタンスをもっていくようにしましょう。1ヵ月目でこういう形で出していき、このペースで2年たったら、何をやっていたかを考えられるようであればよいと思います。

 いろいろな講座を受けるのはよいのですが、結果的に自分が何を出すかというところで、初めて問われるわけです。ここにも学び方のうまい人はいます。学び方がうまいということは結果を出せて初めてうまいといえるのです。その辺が知識と違うところです。

 

 

でも、知識も、それが現実に活用できて初めてすぐれているといわれるわけです。覚えるだけなら、コンピュータのほうがよほどすぐれているのです。しかし、頭に入っていないと、とっさに動けないから入れておくわけです。 

だから、悪いところは悪いところとして、本当に悪いのなら、見なくてはいけないのです。しかし、それはやはり、もっと自分の体とか呼吸とかが整って、有利な条件になってからでないとできません。そこで解決されてなければ、やっぱり悪いとみればよいし、気づかないうちに解決されているんだったら、理想的に思います。 

 

半年以内で本読みは徹底してやっておいて欲しいし、トレーニングの基本は、できたらせりふからやることです。せりふには表現において大切なもののいろいろなものが入っています。声優のトレーニングのテキストを徹底的にやってできるようになったら、次に入った方がよいと思います。 

ブレスというと確かにわかりにくいですね。

 

呼吸の達人といってもわかるようなわかんないようなものですが、せりふになれば、録音にとって、「ここは心が入っている」とか、「伝わっている」とかわかります。息もわからなくはないのですが、心のなかと同じで、判断するのが大変です。

 

 

 

 

【カウンセリング2】

 

Q.お腹が引っ込むほうがいいのか、出るのがいいのか。

レッスンによって違うので、よくわからない。

 

A.トレーニングと実際の歌というのは違います。では、実際に歌っているときにお腹って出るのか、引っ込むのかというと、それは出るときもあれば引っ込むときもあるでしょう。そんなことは一切気にしないことです。 

 

レーニングというのは、本番のときに体を自在に使うためにやるためのものだから、基本的にはお腹やその後ろが動いたりするという、ある程度、基本的な動きというのが入っています。それを強化するトレーニングの場合には、お腹が出たから歌が歌うとか、息を吐くのか、吸うのかということではないのです。それだけ自在に体が動くようにしておきなさいということです。

 

 

 たとえば、リズムのトレーニングも、拍子に合わせて手で打ったとします。でも歌うときに手をそう動かすのではないでしょう。トレーニングは腕だけを動かせるのではなく、腕を動かすことで体自体にリズムが入ってくるためにやるのです。そうしたら歌のときによりうまくいくかもしれないからやるのです。うまくいかないで変わるかもしれません。でも体をぜんぜん動かさないで練習してきた人よりは、いろんな意味で可能性が大きくなっていくでしょう。 

 

だから呼吸法のことでいうと、実際には、普通の状態から何か話したり、歌ったりするときには一瞬、広がるように入ります。当然、お腹の周囲は拡大します。そして呼気圧の差によって、息が外へ出ていきます。

 

 個人差もあります。前の方が7、後ろが体ができているひとで3、横が4ぐらい動くとします。これはもう感覚ですが、やれていない人だと、前が3ぐらいしか動かなくて、横や後ろはまったくうごきません。前の方というのは誰でも動かせます。だからトレーニングをするのは横とか後ろを中心にした方がよいということです。 

 

 

レーニングはいろんな考え方と、優先順位と、目的があって、どこでも個々のトレーナーの思い込みでばらばらに教えています。私が一番気をつけていることは、それを一つに決めつけて教えないように、学び方もやり方も人によっていろいろあるということを認めることです。自分だけに合う学び方もあります。ここにきてて、どのトレーナーが一番よいのかというのは、ばらばらなわけです。一番学びやすいトレーナーも人によって違うでしょう。ということは、それぞれの個性で教えても、それに合っている人から得られたらよいということです。

 

 だから最初はいろんなトレーナーのレッスンに出て、2年くらいたったら自分の目的に対し学びやすいトレーナーから学んでいくのです。あるいは学びにくい先生から学ぶのも一つのやり方です。日本の教育みたいに、上の人たちのやってきたことを盲目的に押しつけることだけが正しいわけではありません。これは、私が一人で全てをやらない理由の一つです。 

 

私のやってきたのは、私の性格とか、気性に合っていたやり方かもしれません。考え方や気質に合っていたのかもしれません。人の10倍やったから、2倍くらい身についたので、他によいやり方もあったかもしれないし、ある量以上をやれば誰でもそうなるのかもしれません。そうではない人も世の中たくさんいるわけだから、何か一つでも成し得た人から得られることはとても大きいと思います。

 

 

 そんなことでいうと、たぶん一人ひとり、トレーナーはことばの使い方も違うでしょう。教えている人のことは理解しなくてはいけないから、音大にいった人は、こういう考え方でこういうふうに教わってきて、こういうことを一つの価値としてもっているとか、そういうことは私の頭のなかにあるのです。

 

それをそのまままねてくれというのではなく、何事もそれで育った人もいるし、それで育たなかった人もいるわけですから、それを正しくみなくてはいけないのです。育った人だけみていくと、間違ったやり方でも通用するし、根性だけで育ってしまったりする場合もあります。そんなレベルが高くない分野だとそういう誤りがおきます。日本の場合は歌の分野もそんなにレベルが高くないから、気をつけなくてはなりません。

 

 そういうことでいうと、最終的に中の感覚ということになります。その感覚はいろんなものを聞いたり、いろんなことをやったときに、それぞれの人の個性として、出てくるので、これがいいこれは悪いとはいえません。ただ「とてもいいな」と思うようなものを周辺に並べてから、自分で取り組んでいきましょう。自分で組み合わせ、自分でつくりなさい。そういうことを用意しておくのです。 

 

だから、音程やリズムをとることに気をとられて、発声の方に注意がいかないということは、発声することよりも音程やリズムをとることに注意が必要で、それだけ全部がぜんぜん、できてないということです。全部が全然できてないときには、音程だけの練習、リズムだけの練習、発声だけの練習を分けてやっておくのです。それがいつか結びついていきます。考えなくてもそうなるようになります。本当はそこからがスタートです。 

 

より中心のことをやるために部分的なことをやっておくということがトレーニングです。サッカーをやるときに、今日は足先が動くかなど考えないのと一緒です。そう考える日は不調でしょう。それは日頃、足の筋肉を鍛えるトレーニングや柔軟をやっておくのです。

 

 研究所は、音楽基礎の試験があるのですが、そのときは、音程、リズムのチェックをします。そこでは発声が変わってしまいます。それは歌っているときの発声ではなく、音程や、リズムに対応した発声になります。だからプロの体ではないということです。プロの人だとそれを同じにとるわけです。

 

 

最初からは無理でしたら、音程や読譜となるとそれを正しくとりにいかざるを得ないでしょう。そのことが体に入ってて、シンコペーションくらい遊んでるようにできてしまうという感覚にならない限り無理です。

 

それはピアニストでいうと、間違いなく弾けるというレベルです。それで演奏になるわけがありません。でもほとんどの人がそれが歌になると思っています。

 発声について注意を払わなくては、歌がうまくできないというレベルは、ピアノでは正しく弾くレッスンのレベルです。だからそのレベルでは分けてトレーニングしないと強化トレーニングとは一緒にはできないのです。音程やリズムを正しくやりながら、発声としても表現を伴わせることができれば、かなりのレベルです。

 

それは今の時点ではあまり気にかけなくてもよいと思います。W検はそのためにおいているのです。もともと、声だけしっかりとやっておけば、音程やリズムは聞いていたらできるだろうということが中心でした。今は若い人たちもそこからやり始めるのです。

 

 

それは、あなたができてなくて、できている人がすごいというわけではなくて、誰もがそれをやってきたわけです。昔はそれを自分でやってきたあとにここに入っていたけれど今はここでやろうとして入ってくるから、そのときに声がどんなに出ても、音程やリズムをとれないと歌にならないから、へたになるのです。

 

 しかし、その時期にはこういうものをたくさん入れておいた方が、声よりも早いだけに効果的だと思います。読譜も楽典とかも、頭で勉強できます。声というのは、体にしっかりとおりてこないとなかなかできないし、本当のことでいうと、リズムも音感もとても厳しいのです。それが心地よく聞こえるところまでやらなければいけないからです。

 

 音をとれたというのなら、単にピアノで音程とリズムとるだけなら、ピアノほど簡単な楽器はないわけです。音程なんてミスタッチさえしなければ、狂いません。だからといって音感とかリズムとかに基づく音色が出せているかというと、それは出せない。それは、とても感覚に結びついたもので、指を意識しないで動かせるようにならないと弾けません。 

 

 

だから今はそういうふうに考えて、各トレーナーがそれぞれのねらいでやることを受けてください。わからなかったら聞いてください。それはその各トレーナーが、今日はこのためにこれをやるとか、何か考えてやっているのでしょう。

 

いらないものもあるようでも、なにがどこに結びついていくのかというのはわからないのです。これとこれとこれをやると一番早く身につくという方法はどんな人がどんなトレーニングをやったからといっても、確かではありません。私生活も含め、全ての経験から何を学び得ていったのかはわかりません。

感覚はそういうものです。小さいときの環境から、これまでの全ての音声との経験とは取り出せません。

 

 研究所で、自分の特殊性とか、他の人と違って何をやってきたかとか、そういうことから何を得てたかとか、そういうことはようやくあとからわかってきます。

でもわかってもそれがどのくらい正しかったのかどうかというのはわからないのです。それから自分がそのトレーニングを受けたからできたのか、それとも違うトレーニングだったらもっと早かったのか、そのことも二度と人生でやり直し比べられません。だから結局は人よりたくさんやったから身についたという結論にどんな人もなるわけです。

 

 

 ただ教える場合にはそれではいけないから、筋道を立てて、きっと、これとこれが、自分で実感した中では、役立つのではないかと仮設を立ててやります。スポーツも、科学的に筋肉の仕組みや鍛え方とかいろんなものが解明され、トレーニングの方法がどんどん変わってきています。

 

昔はみんな経験だけで、私はこうやってうまくなったから、おまえらもやれと、うさぎ跳びをやらせていたのも間違った方法と、今になってわかってきています。 

 

だからそういう面から、教え方にはかなり間違いもあるし、必ずしも正しいものといえません。それは本人が自分の責任で取り組んでいくしかないと思います。それがもっと進歩していればよいのですが、この分野は本当に科学的には遅れているし、科学でわかるものでもないとは思うのです。

 

 

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【カウンセリング3】

 

Q.作曲とは、自分のなかで感性としてでてくるものなのでしょうか。その人のどういったところからでてくるものなのでしょうか。作ろうとしたときに、何もないところから出てくるのではなく、やっぱり中に入っているものから出てくるものなのでしょうか。

 

A.最終的には、こういう人たちは感性とかフィーリングということでやっています。それを取り出し、編集しなくてはいけません。1曲のなかで何か不思議なものが出たら、それが価値があるのかないのかというのを、自分で感じるのとともに、少なくとも自分を突き放して、一人の人間としてそういう感覚に対してどう働きかけるのかというのを正しく判断しないとできません。 

 

だから名曲というのは、私たちが楽譜を見て、いくらピアノで弾いてみても、全然よいとは思わないのに、歌い手が歌ってみたらすごいよい曲とか、あるピアニストが弾いてみたら、感動するのです。作曲家はそこまでわかっているわけです。わかるからそれを選べるのです。

 

 誰でも詞も、曲も作れますが、それができなくては、ものにできないでしょう。まだことばの方が、完結しているかしてないかが、自分の経験としてあるから、曲よりもわかりやすいでしょう。そういうことでいうと、私が書いていることばでも、それなりに練られていなくては通じません。 

 

ピカソは25回くらい重ね塗りをしているのです。15回目くらいで見てたら全部つぶしているようにして、さらに重ねていくのですが、彼のなかでは直感のなかでも論理だてていたり、計算していたり、あるいは先がわからなくても絶対にこうすることが必要という確信があるわけです。そして26回目は必要ないわけです。

私が見てたら、4回目でもすごいのにと思うのですが、重ねることでさらに確実にすごくしていくのです。これは本質を見る力の違いであって、でもだからといって30回も40回も重ねないということは、ここまでだというところもあるわけです。それが絶対に動かせない。一つの到達点です。 

 

小説とか短歌でも、すぐれた人たちのは、これは一字も動かせないとなります。この形で完結しているからです。でも素人がやったら、これはこういうふうにことばを変えた方がいいですよと、すぐによりよく直されてしまうわけです。 

曲の世界も、感性といっても、それを論理的に取り出されない限り、秩序として、一つの形にならない限り音楽にはならないのです。 

 

 

「楽譜を見たらしっかりときれいに音符が並んでいる、楽譜にかけないような音は出てない」と、そういう音を入れた曲もあるし、正確にはそうではないのですが、結局、世界では7つ、昔の日本では5つの音階でほとんど作られているわけです。そうすると人間の知覚のなかにそういうものを、何か知らないけど遺伝子のなかに心地いいと感じたり、落ち着くとか、安らぎを感じるものがあって、それに対して、音が配列されていくわけです。黒板をキイーとやったときの音は、人間の天敵の音らしいのですが、原始の時代から嫌になる反射を起こすわけです。

 

 そういうずっと受け継いでいて、変わらないものを知るためにすぐれたものには接することです。そういうものに対して、理解しなくても自分のレベルを人間のレベルのものというところで決めていくしかありません。 

 

だから自分が気持よいからこう歌えばよいというのは、前提にすぎず、全然通用しないなら、それは本当の自分のものではないのです。自分の奥深くにもっと人間というもの、生物というものに結びついている自分があって、そこから湧いてくるようなまだ見えない自分を取り出さない限り通じません。偽物をもし自分のものだというのなら自分でクローズして終ってしまうでしょう。誰も認めないし、「あんたの好きでやってんでしょ、勝手にやってなさい」となるわけです。

 

 

 作曲も同じだと思います。ただそれを音の世界で構成するということになると、世界中の一流のものとかすぐれたものを全部入れていくことです。ピアニストが勉強するときに、いろいろなパターンを入れていったり、いろいろな人の弾き方をまねしていくのと同じです。そういう勉強をします。そして、他の人ではない自分のものというのを、そこで自分の音というのを見つけなくてはだめです。だから難しいのです。

 

 芸術家だったらみんなそうでしょう。壷とか絵だったら、ぱっと見て、これはだれだれの壷とか、誰の絵だとわかるわけです。そこまで自分のものとしてはじめてアートといえるわけです。

 わかるということは、その人が自分で何かしらわかっていてその色を出し、そういう形を作っているのです。

 

当然気の向くままに作ってみたらすごいのができたという人もいるでしょう。しかしそれを持続して活動するのなら、やはり自分で判断してない限り、それ一曲で終ってしまうのです。そういう作曲家も、そういう小説家もいます。全部をまとめていれて一作で終ってしまったという人もいます。それはそれですごいことです。 

 

 

感性というのは本当に難しい問題ですが、私が思うのは、高校生とか、主婦のおばさんとかの感性は、あくまで誰かが、それが認められるレベルの人が判断し、商売にしたり、世の中に広げているのであって、そちらの機能の方が大切なのです。練り上がられて論理化されています。日本での音楽プロデューサーがプロの歌手が素人というのもこの関係でしょう。

 

 料理がおいしいかまずいかがわかっても「おいしいおいしい」とそれだけいっている人が感性があるのではない。それは評論家にもなれない、料理も作れない。なぜかといったら、それを自分のなかで秩序だてて出せないからです。

 

ことばをもつとか、「こういう音ですね」とか、「これはこういう絵なんですよ」と何か示せなければだめでしょう。その人が感じているものだから間違いはないかもしれなくとも、それは誰かが認められる形にしてはじめて感性といえるわけです。そこを好き嫌いでやっている人は誤解しているのですがある。歌も同じです。表現も同じです。誰かが認めた結果、結局他人の評価によるものなのです。 

 

 

自分がどんなに偉いといってもしょうがないでしょう。誰かが認めて偉いというから、偉い人になるわけです。だからといって誰かの評価に委ねろとか媚びろとということではありません。自分の思い込んでる程度の自分ではなくて、もっと他の人たちが引き付けられたり、応援したくなるような、より深い自分を出せということです。

 

 そのことに関しては私も、「おまえこういう人間だ」といえないわけです。こんなところに2、3年いるだけで判断できません。それは自分で見つめていかないといけません。だから自分で妥協してしまったらおしまいです。

「私ってこんなやつなんだ」とそう決めたら、そういうふうに生きるしかないでしょう。「私の作品ってこうだ」とか、「私の歌ってこうなんだ」と決めてしまったらそれで終わりです。

 

その前にやることが感性を磨くことです。それは一人ではできないから、客や同志など場でもまれて、成長させるのです。いろいろ辛く、嫌でも、そういうところに出続けて、そこから自分を見続けない限り、それ以上のものは出てこないのです。それがそんな簡単に出てくるんだったら誰でもみんな歌えるわけです。

 

 

 だから作曲も、そういう人物に会ったり、作曲家の伝記とか生涯みたいなものを読めば何かヒントを得られると思います。曲をつくった人がどういう生活をしてたり、どういうものを読んだり、そういうことは知るだけ知っておくことだと思います。

 

よりすぐれた人たちがどういう学び方をしていたのかというのは、自分がすぐれていても、そうではない場合もやはり唯一の方法です。すぐれた人たちでもそうやって学んでいたのですから。日本で一番ギターですぐれている人は、世界で一番すぐれている人を見たからすぐれたわけです。部屋とか山にこもってやっていたわけではないでしょう。 

 

基準ができるまでは、一人でやるというよりは場でもまれていった方がよいと思います。ただ同じレベルでもまれてもしかたないです。そういうものを本でも映像でもいろんなもので入れることができます。しかし、入れたもののなかからどう出てくるかというところまで見ていないのです。それはすぐには決められないと思います。

 

 

 それからあなたが今の年で勝負するのか、5年後に勝負するのか、10年経って勝負するのかといったことでも全然違ってきます。そういうこともここでやりながら考えてみてください。 

いろいろとぶつかってくることです。

そのことをぶつかって、超えて、自分なりに解決していかないと、音楽の力もついていかないでしょう。全て起こることを前向きに受け止めていけばよいと思います。 

 

いろいろな人もいるでしょう。知識や決まったものを覚えて反復することよりは、創造的なもの、発想、イマジネーションが問われる分野は、その人間一人の頭のなかが本当にどうなっているのかわからないようなところでやっていかないといけないから不安は絶えず消えないものでしょう。

それは引き受けないとしかたありません。やっていくのでしたら、いろいろとおもしろい人や作品を見て楽しんでください。よい人生勉強になればよいと思います。 

 

世の中こんな大したことないやつらがやっているなあくらいに思っておけばよいと思います。そのちょっとした差をつけるのにどのくらい大変かということをしっかりと見ていくことです。